Justice desire. 正義欲求論メモ(ツイッター規格) @andil_dimerk ******************************************************************************************************************************************** 0 前置き:この文章は科学的統計的などなどの実証を持たない仮説、ですらないものです。これが絶対的に正しいとは思えませんが、しかしこう考えた方が私なりに納得できるためにこのように考えている、というものです。でも文章にするのは正義の欲望に突き動かされてなにやってるんだかなぁ私、と。 ・1 「正義感は一種の欲望である」という考え方、『正義欲求論』。単純に言えば人の持つ正義感は”人類のみが持つ特別な能力・性質”などでは無く”社会性を持った動物全てに備わっている本能的な性質”である。それこそ三大欲求、食欲・睡眠欲・性欲に次ぐ『正義欲』が存在しているという考え方だ。 2 もし「正義は欲望だ」という言葉に「そんなことは無い!」と思って何か反論しようとするならば、それはまさしく『正義という欲望に突き動かされている』のだ。ただ勿論私がこの考え方を話す行為もまた私の中の"正義の欲求"から来るものだと言える。下品に言えばムラムラして一発発散したいのだ。 3 『正義欲』は”本能的・動物的な性質”である。動物が「正しい(と思う)ことをする」という傾向を持つことで社会集団を形成・保持しているものと考える。正義欲は単純な自身の利益だけではなく集団の利益も求めることがある重要な本能であり、人間なら究極的に自己犠牲による集団の保護をもする。 4 そのため正義感そのものは”人類だけが持つ特別な能力”といったものではない。社会を形成するために元々備わっている本能であり、言ってしまえば種を繁栄させるために存在する性欲と同じようなものである。個体の生存に対して性欲は不可欠ではなく、正義欲もまた個体の生存に不可欠ではない。 5 正義欲から言えば「人間はみな正しいことをしたいと願っている」と言える。だが人間社会では犯罪やら悪と言われるものが多く存在し、間違っているといわれることをする人間や集団を乱すような振る舞いをする人物が少なからず存在する。それはなぜかといえば”それが正しいと思っているから”だ。 6 ”人間は正しいと思うことをしたい。だがそれが道徳的社会的法律的にも正しいとは限らない”。つまり”例え反社会的なことでもそれを正しいと思っている人間は喜んでそれをする”のだ。正義欲求論は性善説ではなく、むしろ社会的に正しいことを教育で覚えさせなければならない性悪説に近い。 7 ”正義感の暴走による非人道的行為”は数多くある。現代でもいわゆるテロリスト・テロ組織は正しく”反社会的な正義を掲げるモノ”であり、歴史を見れば一般市民たちが虐殺をした例や国家規模ならナチスによる特定人種の虐殺もある。全てに共通するのは「当人は正しいと思っていた」という点だ。 8 極端な例に限らずあらゆる差別は”正しいと思うから差別する”ものであるし、あらゆるいじめと呼ばれる行為も”正しいと思うからいじめている”ものだとも言える。例えそれがどれだけ凶悪卑劣であったとしても、当人たちが本当に正しいと思っているならそれは正当な行為だと言って憚らないだろう。 9 繰り返すが”正義”という感覚は人類の叡智などではなく本能的な、ともすれば野蛮な性質に他ならない。「間違っていると思うものを攻撃することは正しい」という感覚、その感覚による反射的で短絡的な行動は政治的集団から一般人まで広くみられる。正義の感覚は決して崇高なものではない。 * ・10 正義欲は性欲によく似ている。それ自体は集団・種の保存に必要だと言えるが、それを無分別に行うことは社会集団を乱す行為に他ならない。正義の押しつけは正しく心理的な凌辱、心のレイプだと言うこともできるだろう。だが性欲と異なり現代においても”正義”そのものへ批判的な思想は少ない。 11 ”正義感”そのものへの批判的な思想が少ないのは、そもそもその批判を行う行為もまた正義感によって行われるからに他ならない。”それ自体を悪いものと見なしたら自分自身もまた悪いものだと言っているようなもの”だからだ。それに正義感そのものは決して人類に対して悪性なものとは言えない。 12 ”間違っているものを正す”という行為自体はそれが正当であれば社会にとって有益である。一定のルールを決めてそれに違反する犯罪・不正を取り締まる事は社会を安定させるために必要であり、また危険なものを取り除くことは社会を守るために不可欠だ。だがそれが正義感と一致するとは限らない。 13 例えばいわゆるテロリスト、テロ組織の性根は正しく「社会が間違っているのだから社会を正さなければならない」という考えである。社会によって人々が弾圧され非人道的な扱いを受けているのだとすれば、それは改めさせてしかるべきではあるが人々が安定して暮らしているのなら実力行使は過剰だ。 * ・14 そもそも言葉としての”正義”は具体性を持たない抽象的な概念で、みんながみんな好き勝手な正義感を自分勝手に振り回してしまうと社会は不安定になってしまう。そのため社会には一応の”社会的な正義”という概念が存在する。それは「多数の人々や有力者によって定められた正当さ」だ。 15 ”社会的な正義”とは「人々が相互に意思疎通をし合意することで形成される妥当性を持った正義」である。”社会にとっての正義”とは信念だとか善良な心だとか神の声だとかではなく、ただただ「人々にとって妥当なモノ」のことだ。決して『一方的な感情が社会的な正義となってはいけない』。 16 創作においてはよく「悪があり正義があり」という分かりやすい勧善懲悪が扱われるが、現実には絶対的な悪というものは存在しないし絶対的な正義というものも存在しない。創作の勧善懲悪はあくまでもある種の宗教的な意味合いを持った”正義感を満たすための娯楽”であり一種の方便だ。 17 創作の悪の組織は悪を自称するが、そもそも”悪”とは本来”他の存在によって定義されるもの”である。テロ組織は社会にとっての悪と言えるが、テロ組織にとっての悪・敵とは現行の社会体制である。「正義の反対は別の正義」とも言うように悪とは”対立する側からの呼び方”でしかないのだ。 18 一般的に悪と呼ばれるものもあくまで”社会的な悪”。相対的な悪でしかなく”絶対的な悪”なんてものはそもそも存在しえないと言える。反対に言えばどれだけ正しいことだと思っていても、それが本当に”社会的な正義”としての妥当性を持つかどうかは別問題であり時として”悪”とも言われる。 19 しかし、悪として扱われた時に「自分が正しいと思うのだからそれは貫くべきだ」と考えるのは危険を伴う。それが将来的に社会的な正義を持つ可能性は否定できないかもしれないが、ナチスによる虐殺のような・危険宗教による無差別殺戮のような、社会として絶対認められないものの可能性もある。 20 故に『人間は正義感に振り回されてはいけない』のである。正義感を暴走させることは将来的に自分自身すら後悔するような事態を招く危険がある。欲望に流されれば身を亡ぼす、それは正義の欲求でも変わらない。だから”社会的な正義”は平静な話し合いによって妥協点を探ることで作られるのだ。 * ・21 正義は欲望である。それを行うことで動物的な快感・精神的な充足を得ることができ、反対に言えば正義の感覚が満たされなければ正義への飢餓の状態に陥る。”正しいことをできていない”と感じている人間は短気になる。”正しいことをするために少しでも正しくないものを探して攻撃する”のだ。 22 多くの”いじめ”をする側の認識はまさにそれだ。何か悪そうな弱い相手を攻撃することで「正しいことをしているつもり」なのである。正義の欲望を自覚しているとは限らないが行動の理由はただただ「正しいことをしたい」ためだ。だが「正しいこと」が分からない人は社会的な悪をも起こす。 23 「いじめは正義感の暴走である」と言う原理における最大の問題は例え咎められたとしても”当人は正当な行為している”と認識していることである。根本的にその認識が間違っているのだと改めさせなければ、その人は「不当に責められている」としか感じないしむしろより強く不満を抱きかねない。 24 正義感は理性から発するものではなく本能が反射的に生み出す衝動だ。”より注意深く考えることを正しいと思っている人”以外は大抵”短絡的に善悪を判断して行動してしまう”もので、その上”考え直す事も時には正しい”と本能で理解していない場合は短絡的な判断をそのまま貫こうとしてしまう。 25 考え方を並べることができてあたかも思慮深い人のように見えても”考え方があって判断がある”とは限らず、”判断が先にあってそのための考え方を取り繕う”ということは珍しくない。実際”よく考えてからの人”というのはそれほど多くなく、また少なくない人が”短絡的な判断を貫こうとする”。 26 だが人々が共有しうる”社会的な正義”とはあくまでも”妥協点”である。個人ないし一部集団の一方的な正義感が社会的な正義となってはならないし狭量な正義を絶対だと言う人間は社会的な悪とすら言える。正義感自体に論理性など存在せずそれはただただ”気持ちがいいから”に過ぎない。 * 27 正義欲求論において『宗教』とは”正義感を制御するための教育装置”である。高い知性を持った人間たちが話し合って考え”社会的な正義”を制定しそれを神秘性でもって心理的に広めることにより、知性の低い人々にも社会的な正義を教育し社会を安定させようとしたものだと考えられる。 28 人類でも原始的な状態では正義や悪といった定義は存在せず、仲間か敵かその他程度の認識だ。だが集団が大きくなればなるほど仲間内全体での認識の共有が難しくなり”正しいこと”のズレや分裂が起きやすくなり瓦解する。そこで集団の長が”正しいこと”を制定したのが始まりではないかと考える。 29 宗教に限らず”信頼している何かに正しいことをしていると保証してもらうこと”は人間にとって非常に心地よいものであり”正しいことをしていると信じられること”はより活発な行動を促す効果がある。その性質を社会的に使えば生産性を高め、経済を活発にし、社会を安定させより豊かにもできる。 30 だが反社会的に使えば恐ろしいことにもなる。現実として”反社会的な組織が反社会的な行動を正当なものだと信じさせて犯罪を起こさせている”。人は非人道的なことであろうとも正義の名のもとに喜んで行いうる。しかし問題の本質は『宗教』ではなく”正義の欲望を利用されている”ことにある。 31 正義の実感はもはや麻薬のようなものとも言える。ダイレクトに正義の感覚へと働きかけるような宗教ではその傾向が顕著に表れ、まるで薬物中毒者のように”その宗教に尽くす事・その宗教の話をする事・その宗教を讃える事”によって正義の実感を摂取し続けなければいけない状態に陥ることもある。 32 ただ実際に脳内麻薬が分泌されているのかといった科学的な実証はまだ無い。それに正義と言うものを扱うため実験も簡単ではなく、また倫理的に”ヒトの正義を貶めかねない”という難しい問題もある。陰謀論的になるがそれが証明されたり、証明されても広く認められることは簡単ではないだろう。 33 なお現代では司法によってルールの制定が行われており”宗教に頼らない社会的な正義の制定”やその教育がある程度行われている。そのため例え”無宗教・無神論者”であったとしてもルール無用の無法者のような思想であるとは限らない。実際ルールは神ではなくヒト社会が決めているのだから。 34 『宗教』と正義の話をするならば「もし宗教や教育による正義感の制御を行えなかったら」。その場合集団が一定以上の大きさになる度に分裂・対立による争いが発生し、人類は大規模な社会を形成することができず現代のような数十億という人口に達することはまずありえないだろうと考えられる。 35 それこそ人類は”自身の正義感の制御に成功できる唯一の社会制の動物”とも考えられるかもしれない。つまり「正義感によって社会を守る」だけではなく「正義の欲望をも抑制することで社会をより広く柔軟に形成していくことができた」のだと。だが狭量に正義感を振り回すだけの人は獣と大差無い。 36 自身の正義感を制御できる人間はごく限られており、そうした”知性に優れた人間”の中から『宗教』などによって自身の制御が困難な人間を制御する人々が現れ、人間社会はこれほどまでに発達したのではないだろうか、とも考えられる。だから宗教は人類の発展に不可欠だったのだと考える。 * 37 ”正義を行うことは気持ちいい”もので”正義の感覚に反するものを見ると不快に想う”ものである。もし自分自身が自身の正義の感覚に反していたとしたらそれなりの不快感、”罪悪感”を抱く。そしてその感覚は人それぞれ異なり、その感覚が論理的に正しいとも限らず反社会的な場合もある。 38 正義感・正義の欲望と言っても”正しいことをしたい”というだけで必ずしも社会や集団に資するようなこととは限らない。もちろん社会へ奉仕することを求める正義感を持つ場合もあるが、反対に狭量な独善的・利己的な正義感を持つ場合も珍しくなくある。それが最善だと本能が囁いているのである。 39 人によって正義の感覚は異なり、人によって細かい反応も大きく異なる。正義の感覚に反するものを見て不快感を抱いても攻撃的に反応をしないよう抑えることもあるし、例えば”罪悪感”を抱いたときの反応もまた反省するとは限らずより強い反感を示して自身の正当性を守ろうとすることもありえる。 40 そしてその正義の感覚やそれによる反応はある程度の遺伝の傾向と生存環境へ適応するように形成されていくもの。しかしそれは”教えたからそう育つ”ではなく、あくまで”その環境に対して適応して身につけていく”ものである。正しいと言われてもそれを本能的に正しいと覚えるとは限らない。 41 ”正しくないと言われていても正しいこととして行う”ことの代表例は「いじめ」だろう。日常的に問題視されながらしかしそれを行ってしまうのは、「悪そうに見える他者を攻撃することが正しい」と覚えてしまうような環境に育った人が悪いと言われていても正しいと感じて行ってしまうのである。 42 また同じような状況でもわずかな違い・相手の違いでも反応は変化させる。代表的な例を挙げるなら『トロッコ問題』とその派生問題だろう。例え”論理的な数値”が同じでも”状況が異なるなら判断が均一にならない”。いじめなんかも強い相手には手を出さず弱い相手に手を出すことが常だ。 43 ちなみにいわゆる”不良”と呼ばれる子供は大抵”大人の言う正しいことを信じられない子供”だと考えられる。本能的な感性、非文明的な振る舞いによって”正しいと思うことをしている・正しいと思えることを探している”という状態にある。故に大人になれば社会の正しさにも適応しやすい。 44 繰り返すが”正義感は理性的なものではなく本能から生み出される衝動である”。軽率で知識も教養も、あげく常識も無い人間が正義感を振り回せば周囲は大抵迷惑する。現代での分かりやすい例をあげるならインターネットのSNSにおける短絡的な発言。ツイッターで言えば”クソリプ”がそれだ。 45 正義感に振り回されている人間は酷いことに”当人はごく真っ当な、正当な、正しいことをしているつもり”である。当人からすれば120%善意のつもりかもしれない、当人からすれば400%正義のつもりかもしれない。だが『思慮』に欠けるのであればそれが例え社会的に正当であっても危険だ。 46 ”社会的な正義”とはそうした千差万別の正義感から共通点や傾向を話し合い考えることで生み出された”妥協点”である。より砕いて言うなら”話し合って決めたこと”だ。少なくとも”個人や集団が一方的に決めた正義”は”社会的な正義”とはまた別の正義であり社会的な正当性を持つべきでない。 47 ただそれは”社会的な損失を生む”という大きな話ばかりではない。個人としても”一方的な正義”は他の正義とは相容れないことが多く闇雲に敵を増やしてしまう。また短絡的な正義は例え味方が現れてもそれは利益が同じ時にしか動かず、窮地に陥っても助けるより切り捨てた方が効率的な扱いだ。 48 つまり短絡的で一方的な正義は”短期的には良い思いをできるかもしれない”が、困ったときに助けてもらいにくくなり”将来的には自身を困窮させる”のである。むしろ短期的にも”周囲に敵しかいない”という状況に陥って心理的に苦痛な状態に陥ることもある。個人としてもあまり幸せになれない。 49 例えば「何もかも思い通りにならない!」と言うように嘆く人というのは余程不幸な人間以外はそうした”短絡的で一方的な正義感”に溺れているせいだとも考えられる。誰も味方にならず周囲に敵ばかり、と言うのは大抵その人自身が周囲を敵に回しているだけだ。素の立ち回りが悪いだけなのだ。 50 他者の正義に配慮し”社会的な正義”を考慮しながらであれば、相手が味方になってもらいやすくまた”その人を助けることが正義”だと思ってもらいやすい。他者への配慮、マナーやルールの遵守は”社会の利益”だけではなく敵を増やさず味方を増やす”個人の利益”にもなる。それが社会の道理だ。 51 ただ”過去の”と”現在の”と”将来の”社会的な正義は決して変わらずにあるとは限らない。また地域・場所によってもその形態は一定とは限らない。なぜならそれらはあくまでも”その時に生きている人々の合意によって成立する正義”であり、常に考え続けなければならないことだからだ。 * ・52 人を幸福にする、人に利益をもたらすのは”規範と秩序”ではない。規範と秩序はあくまでも”不当な損失を避けるためのモノ”でありそれ自体が利益をもたらすのではない。だが”正義の欲望”はそれ自体が人に心理的な利益をもたらす。秩序を守る、正しいことをしている感覚は個人を幸福にする。 53 ”正義の欲望”そのものはあくまでも個人の幸福でしかない。繰り返している通り、無思慮に濫用するべきではなく、それこそ節度や秩序を持たなければならない。配慮もせず「正しいことをしているのだから」という考えは容易に人を不幸にする。無思慮な欲望の暴走はそれこそ”社会的な悪”だ。 * ・54 ”正義”と表現してはいるが実際に”正義の欲望”を満たす行為は必ずしも、現実的に秩序を守ったり人助けをしたりあるいは敵を攻撃したりといった必要はない。正義の感覚に合わせたそうした行為が正義の欲望を満たすことも確かだが、実は精神的肉体的な快感や達成感でもその欲望を満たせる。 55 実際に重要なのは正義という名目ではなく”正しいと思うことをできるかどうか”。それこそ前向きな趣味娯楽といったものでも正義の欲望は満たすことができる。もちろん楽しめなければ趣味でも効果は薄く”怒るほどでは逆効果”だが、そうした”平和的な嗜好”を持っていることはとても効果的。 56 現実的に人助けや秩序を守ったり敵を攻撃といったことは非常に大変である。いつも困っている人がいるとは限らずまた円滑に助けられるとは限らない。守る攻撃する場合は敵対する相手がいるためこれもまた守れなかったり反撃を受けたりすることもある。”安定して欲望を満たせない”のである。 57 だからこそ趣味、特にスポーツやゲームもしくは個人的な研究や制作など能動的な娯楽で”平和的かつ安定して正義欲を満たす”ことは正義欲のコントロール、正義欲の飢餓による暴走を回避するためにとても重要である。毎日仕事だけで仕事から欲望を満たせるという人もいるが失職すると危険な例だ。 58 また趣味といっても”受動的な娯楽”は正義の欲望へあまり良い効果は無い。むしろ自身が関わらない分達成感が弱くプラスがやや少ないのに思い通りにならなかった際のマイナスは特段少ないわけでもないため正義の感覚に反する状態に陥りやすい。分かりやすい例を挙げるなら「フーリガン」だろう。 59 そのように”日常的な正義欲の行為”が良い方向に向かうとは限らない。”正しいと思うこと”は人それぞれであり反社会的な行動や破滅的な行動を日常的にとってしまうこともありえる。自傷行為も一種の正義欲の補填と言えるし、社会的な倫理感がなければ窃盗や恐喝で欲望を満たすこともある。 60 また特に”身体的な快楽”は正義の感覚と混ざってしまいやすい。社会的には不適当な不貞を働きながら自分は悪くないと正当化しようとしたり、違法な薬物に溺れて薬物を正当化しようとしたり、特に性欲や薬物は例え社会的な悪だと認識していても本能を塗りつぶす危険性が高いと考えられる。 61 他に挙げるなら”依存症”は正義の感覚の偏重にあるとも考えられる。正義の感覚はあくまでも”環境によって本能的に覚えるもの”であり、自分の意思では制御しきれないもの。論理的に理性的にいくら分かっていたとしても、根本的に変えることができなければ本能的に渇望してしまうのだ、と。 62 ちょっと変わった例を挙げるなら虚言・嘘をつくことも”正しいと思うことをしたい”ために発生すると考えられる。もちろん嘘をつくこと自体ではなく”嘘でもそれによって得られる結果が正しいことだと思っている”ために嘘をつくのだ。そのためバレたら見苦しく言い訳し取り繕おうとする。 63 こうした厄介さから言えば”正義感の強い人”ほど注意が必要だと言える。他者にとっても好ましい方向だけに向いていれば問題ないが、場合によっては過敏に正しさを求めそれに反する相手を使命感で過剰に攻撃し悪びれないような面倒な人間になりうる。当人は正しいと思っているからなお厄介だ。 64 また繰り返すが人類が現代文明まで発展できた大きな要因は”正義感のコントロール”だと考える。正義感を制御し無益な争いを起こさず無駄な損害を出さない・過剰な対応によって不要な労力を費やさない。もっと言えば多様性を持って対応力を持ちつつ適切な規律によって社会を保全する。 65 正義感だけで行動する人間の行動はもはや獣の生き方と大差ない。むしろ人語を解し人的な権利を持つ分、獣よりも遥かに厄介だ。だが正義感だけの人間はそのことをよく理解していない。もはや”正しいことをしているのだから正しい”としか認識しておらず、それこそ人間的な意思疎通すら怪しい。 66 なお他の欲望が満たされない状態では正義の欲望が特に渇望を示しやすい。食事が不足している・栄養が不足している場合や寝不足、あるいは性的な欲求不満などの状態で”最も安易に発現しやすい欲望”が正義の欲望である。と言ってもそうした状態では頭もよく回らず面倒な方向性になりがちだが。 * ・67 正義の欲望は確かに”社会を安定させるために必要なもの”である。だがそれは性悪説的なものであり”社会的な正義に適うものでなければ社会を不安定にするもの”でもある。”正しいと思うことをする”のは正義の欲望を満たす。それはつまり”人助けやルールを守ることも己の欲望のため”だ。 68 正義のルールを守り他人に守らせるのは”社会を安定させるという建前”で”正しいと思うことをすることによって自分の欲望を満たしている”のである。ともすれば『偽善』と揶揄されることもあるが、現実として”実益もなく良いことをするのは自分が気持ち良いから”に過ぎないのも確かだろう。 69 つまり正義の欲望そのものは利己的なものだ。自分の欲望のために正しいことを求め正しいと思うことをする。しかし社会をより安定させるためにその欲望が必要だ。単純な実益ではなく、自己完結の心理的な利益を求めて人を助けることができる。対価を払えない人も助けてもらうことができる。 70 人を助ける、人を幸せにするための正義感であればそれはとても望ましい欲望なのだ。良心的な親が子供に対して愛情を注ぐこと、少し汚く言えば”根拠のない未来への期待に対する投資”を行えること、行うことへの幸福感は正義の欲望があってこそだ。それは咎められるようなことではない。 71 ただ何度でも言うがこの性質そのものは扱いに注意しなければならない。正義欲に飢えている人間が正しいことを思いこまされてしまえばいくらでも非人道的なことに手を染めてしまえる。不安な人間が目の前に正しいことをぶら下げられれば、その足元が地獄への落とし穴でも必死になって飛びつく。 72 そして反社会的な正義を持つ人間でも巧妙な人間は”あたかもそれが本当に正しいことのように思いこませてしまう”のである。人が道を誤るのは”悪いことをしよう”と思うからではなく、”正しいことをしよう”とした時に何かを間違えて道を誤ってしまう。”短絡的な正義は危険”なのだ。 * ・73 そもそも一般に『正義』という言葉はやや神聖化されている表現だ。”絶対的に正しい”という扱いであり直接的に『現代における神』の役割を担っているとも言える。”正義とは欲望である”といった考え方は多くの人が考えつけそうなものだが”正義を貶める言説”が主流になることは無い。 ・74 それに現実として人類はそれほど利口な人間ばかりではなく、まして正義の欲望を自覚していることは滅多にない。例え”正義の欲望”という概念が広まったとしても、『偽善』という言葉と同じようにその考え方すらも個人的な正義感のための方便として濫用する人間が出てくることだろう。 75 決して少なくない人間、もしくは多くの人間がほとんど深い思慮をすることなくあるいは深く思慮することができず、”動物的な学習と反応”によって暮らしている。例え”理性的な振る舞い”に見える行動でもそれ自体が経験からの単純な反応だという場合もある。人間はそれほど”考えて”いない。 76 むしろ”深い思慮”が癖になっている人は反応が遅くなりがちで社会へ適応しづらく、”動物的な人間”は反社会的でさえなければ適応力が高くむしろ社会では好意的に見られやすい。だが表面上の賢くやさしいように見える人でも、親密になると本当は大して賢くも優しくもないなんてこともありえる。 77 もちろん”動物的な人間”でも育った環境次第ではそれこそ徹頭徹尾やさしく振舞おうとする場合もあるし、遺伝的にも頭脳が天才的に良ければ動物的な反応だけでも豊富な知識を効率的に運用できる。それ自体は決して劣等的なものではなくむしろ反応の良さから少し頭が悪くとも社会的には有利だ。 78 しかし動物的な人間であれ深い思慮を試みている人であれ、自己否定や科学的な意識が無ければ”自己肯定”に徹する傾向がある。正義感から”自分が間違っていると思いたくない・自分が正しいと思った方が心地良い”ため自身を変革させるようなことを本能的に避け、他を無暗に否定する傾向もある。 79 そうした”安易に他者を攻撃したがる人間”が都合の良い言葉であたかも「 自分は正しい人間なんだ」と短絡的に他者を貶めるのである。『偽善』と言う言葉もしかり、『正義の欲望』という考えが広まったところで同じような扱いをされるのだろうと容易に考えられてしまうのだ。 80 社会は”正義感によって正しく動いている”のではない。”利口な人間がそうでない人間たちをどうにかコントロールすることで良い方向へとなんとか導いている”のが実情であり、”利口だが独善的な人間”に唆されれば人々は容易に地獄への道にも入り込んでしまえる。 81 だかからこそ。理想の話をすれば人類はもっと『正義の欲望』に対して向き合いよく考えるべきだと思うのだが、現実の話としてそれができる人間は決して多くは無いのだろうと思ってしまう。人類の多くがもっと賢いのであれば”神の概念”や”神聖化された正義”など必要ないはずなのだから。 * * * ******************************************************************************************************************************************** ・z1 私が『正義は欲望である』と考えるようになったのはいつごろか分からない。だが少なくとも17歳になるころには「神は方便でしかなく、人々は己の心のために生きている」と考えていた。どんな理由をどれだけ言い繕っても、その人個人の生き方はその人自身の心に従っているものでしかないと。 z2 「人はその心の為に生きている」という考えは覆しようがない。神や他のモノを信奉していたとしても結局は”その人がそうした方がいいと思っているから”でしかないと。そして究極的に”自分の心が納得できるように生きるべきだ”としている。もちろん他人もそれぞれの心の為に生きている。 z3 ”他人もその心の為に生きている”ため他の心に背くと反発を生む。つまり”他人に迷惑をかければそれだけ他人が敵に回って生きづらく、自分自身も納得しづらい状態に陥る”ともしている。反対に人を助ければそれだけ人に助けてもらいやすくなるなど、独善的な生き方自体は否定的でもある。 z4 それに加えて”善悪”の感覚も結局は”人が決めているにすぎない”と考えるようになった。「正義」という言葉も一つの立場を言い表す言葉に過ぎず、”善悪”はそれこそ”左右”と同じような、相対的なものでしかないと。「人が正しいと言う時、それは正しくありたいだけ」とも書いていたのだ。 z5 もっと言えば私は人類に対して諦観や憐憫の感情を抱いている。実のところ正義欲求論を考えている時に”この哲学によって人類をより進歩させよう”といった前向きな使命感はあまり無い。なぜなら語っているように”人類の多くは決して賢くない”と思っているからだ。人類の多くはただの動物だと。 z6 ”賢くない人類が多い中でも人間社会は紆余曲折を経て地道に発展することができた”という事実。動物のような人間がごく自然に人間社会の中で暮らしているという事実。それらはつまり”人間の社会性とは理性などによってではなく、本能によって形成されているものではないか”と。 z7 そしてインターネットにおいて度々目にしていた”動物的な反応を示す人間”や”自身の考え方を曲げられない人間”を見て思い立ったのである。”正しいことをしようとするのは理性ではない感情、あるいは本能によるものだ”と。そう考えると様々な事柄、人々の言動の理由が説明できると納得した。 z8 『正しいことをすることが理性ではなく本能からであるならば、非論理的な言動による正義の主張や冷静に考えれば危険な行為の強行、あるいはボランティアや募金の動機に説明がつく』のである。さらにそれが本能だとすれば”人間ほどの知性を持たない動物の持つ社会性”にすら説明がつけられる。 z9 そうして「人間は誰しもが正しいことをしたいと願っている」のだと考えられるようになった。人は”悪意を抱く”のではなく”間違えてしまう”だけだと。問題は”人々が正しいことをしないのはなぜだ!”ではなく”人々が勝手に正しいと思ってることをやらかしている!”のである。 z10 『正義欲求論』は劇薬だ。宗教的には神の陳腐化、倫理的には正義の神聖化への否定。『偽善』のような侮辱としての濫用あるいは”欲望は正義”などという暴走した曲解もありえる。全人類に正しく使われると思うほど私は人類の賢さに希望を抱いてはいない。そこまで賢いなら論自体が不要だ。 z11 そもそも私自身が正義の欲望をコントロールできているとは言い難い。この文章自体が正義の欲望に突き動かされて書いているのだ。そうでなければ精神的にも肉体的にも辛いばかりで無駄に時間や体力を浪費するような行為を馬鹿みたいに続けたりはしないだろう。私もあくまで”気づいた”だけだ。 z12 正義欲求論自体は単なる”哲学”の話ではない。実の所「正義は欲求である」という考え自体は”人類の行動に関する性質の仮説”だ。それは証明されているわけではないが人類の行動を観察しているとそうではないかと十二分に考えられる”仮説”だ。それを元として、少しだけ哲学の話をしている。 z13 これは私の想像でしかない。想像でしかないがさらに妄想の話をさせてもらうなら、将来的に”正義の感覚と脳内物質の関連性”はきっと発見されるかもしくはすでに発見されているかもしれない。だが人類は”正義が動物的な性質である”とは認めたがらないだろう。それが”人類の正義の感覚”だ。 z14 妄想でしかないが例え発見されたとしても”正義”という概念とは切り離そうとするかもしれない。何か適当な言葉をつけてそれらしく誤魔化してしまうかもしれない。少なくとも全人類が”正義が欲望である”という考えを素直に受け入れてどうこうといったことにはなりえないだろう。 z15 人類の正義は「例え人類を司る上位の存在・人間の神がいたとしてその神が非人道的な行為を推奨しても従う人々ばかりではない」と言えるようなものだ。それこそその神自体を殺しに行こうとする人間もいるだろう。人間にとって正義の感覚とは例え絶対的な物が相手でも歯向かいうるのだ。 * y1 私には「ブッダよりネコ」という考え方がある。つまり優れた知性を持って人々を導けるような”ありがたい人”よりも”猫”の方が良いという考え。特にどうしようもないような状態の人でもなければ、そんなありがたい言葉よりも可愛い小動物を眺めている方が幸せになれるだろう、と。 y2 もっと言えば知性を高めることは必ずしも”幸せ”に繋がるわけではないという事でもある。物事はいくら考えたところでどうしようもないことも少なくない。考えてもしょうがないことも多く、頭を使うことはそれ自体が幸せでもなければ徒労を重ねるばかり。その先には永遠に幸せは見えてこない。 y3 だから「ブッダよりネコ」。可愛いものを愛でて、楽しいものを楽しんで、緩やかに心安らかにいる方がずっと幸せだ。何かに怒るときだって沢山の言葉を並べるよりも「ふぎゃー!」で終わらせてしまう方がずっと楽だ。危険なものには注意しないといけないけど、特別責任がなければその方が良い。 y4 そしてその幸せな姿は、人も幸せにできる。それこそ正義欲求論の理想の体現の一つでもある。 先日、26歳になりました