ファイル掲載日:2025年09月16日(第一版)
ファイル更新日:2025年10月03日(第二版:表語文字→表語文字)
散文「言語について」 Andil.Dimerk
※いつもの免責:筆者はいずれの専門家でもありません
※免責:筆者はいずれの専門家ではないため、
厳密な精確性においては各自の調査確認を必要とする。
※免責:繰り返すが、詳細な精確性は全く保証しない。
基本として「素人の与太話」として、話半分とすること。
※補足:"口語"という表現を使うが、
ここにおいては「話し言葉・口に出す言語」の意である。
※補足:"文語"という表現を使うが、
ここにおいては「書き言葉・文書で使う言語」の意である。
※「適宜(てき-ぎ)」:適当の意。
「適当」だとテキトーな様子になるため「適宜」としている。
※補足:漢字は現代の分類として「表語文字」と呼称される。
「表"意"文字」は「意味だけを持っている文字」の分類とされる。
(本編はツイート用書式でまとめている)
★「要点」(長くなりすぎたので。要点だけでも長いが。) (ここだけ書式が異なる) ・現代日本語は、母国語としては日常会話から地続きに、 明瞭な表音文字から便利な表語文字を段階的に学習できる言語体系を持つ。 ・それは日本が歴史的に「口語を文字にする」という文化を、 古くから持ち続けていたことで、培われていったと説明できる。 ・また実務においては便利な"漢字"も活用し続けてきたことで、 元の口語と漢字を併合的に併用していくことができた。 ・そうした経緯から、「口語体」をベースとして文語との統一性を進めることができ、 現代日本語が形成された。 ・日常語の表記においても「表音文字」と「表語文字」の併用する言語体系となった。 ・口語が基盤となっているため、言語において感覚性の強い性質を残している。 ・現代の教育面においては、段階的な教育を可能としている。 ・「文字数が多い」という難しさはあるが、直感的な「表音文字」から、 徐々に「表語文字」の漢字を学んでいくため、学習上のつまづきは少ない。 ・「表語文字」でも場面に応じて、 フリガナとして「表音文字」で読みの補記できるため、 教育や学習において全く読めない状況も少ない。 ・こうした背景から非常に多くの人が「単純な文章なら書ける」ようになっていく。 ・なお言葉の基盤が、 古くから漢字の導入、近代化でも外来語の導入をしてきた歴史から、 言語体系として新しい言葉を受け入れやすいように整えられている。 ・使用する文字種が非常に多いため、 それによって様々な概念・語彙を自然と取り込める。 ・ただし使用する文字種が非常に多いため、学習上の負担はある。 ・蛇足として。現代の欧米系言語は、日本とは全く異なる歴史的背景を持つ。 ・詳細な話は本編の補足や蛇足に書くため割愛する。 ・近代では「記録された文語体」の影響力が強く、 その上で発展、派生、教育をしていった言語群である。 ・地域によって、歴史的な"文語と口語の距離感"は異なるものの、 「文語体を規範」として、口語との関係に歪さが見られる。 ・日本語の表音文字からすれば信じられない性質も見られる。 ・典型的な問題として。「音と字の不一致」、 つまり字から音にすることや、音から字にすることにおいて、 統一性の無い例がよくある。(表音文字とは…?) ・「文字種が少ない」と言っても、結局【単語ごとに字と発音を覚える】必要が多い。 ・一部の欧米系言語は「比較的素直な発音」などと評価される場合もある。 ・ただしそれでも「音から字が判別できない」ことは多い。 (日本語の表音文字からすれば不完全性が目立つ。) ・こうした問題は、口語と文語の融和的な整理を 十分にできなかった歴史の流れに由来すると説明できる。 ・なお「英語」は、その問題が強い傾向を持つ。 ・英語は世界で使われるため、使えた方が便利ではあるが。 ・言語はどうしても難しくなるものである。 簡単な言葉だけで、全てを端的に分類し言い表し切れるほど、世界は単純な形をしていない。"表音文字"の言語は、人類が発せられる言葉を基準にかんたんな文字を作って構成されているが、それによって世界を言い表すには、結局相当の積み重ねを必要とする。 ・言語はどうしても難しくなるものである。 世界の複雑な形に対して、意味で分類した"表語文字"を大量に作ってしまえば、端的に対応できる概念は大きく広がる。だが"人間としての使いやすさ"では難解となってしまいがちで、日常用には手間がかかりすぎ、また習得自体にも使う文字の分だけ苦労する。
散文『言語について1:"日本語"の言語的背景のこと』
*主要世界と比較 散文『"物語の文化"について』で語ったが、例えば欧州と日本とで、「書籍・本の一般化」が当時、技術の最先端であったはずの欧州と、東の最果てである日本との差は、長めに見積もっても200年程度、あるいは本以外を含む「文化的な知識の一般化」する社会体制には大きな時代差は無いとも言える。 それは欧州中心では特に、いわゆる中世において書物の扱いが事実上「ごく一部の人々にしか許されない特権」のように管理され、また主要書物に至っては日常言語とは異なる「特殊な言語」で編纂されるといった、「文字・知識の強固な専有体制」を形成していたような歴史を見ることができる。 英語など欧州系言語で、学術など高度な知識における語彙ばかりが明確に「ラテン語由来である」と言われながら、現代の日常的な言語がラテン語とはやや異なる体系を持っているというズレが見られるのは、そういった言語的に大変かつ面倒な歴史を辿ってきた背景の影響も説明しなければならない。 あえて説明しておくと、歴史的に「中世欧州では日常言語体系で学術的知識を整理する」という段階がほぼ欠如しており、語彙の開発も十分には行われず空白なまま日常言語として使われ続け、近世近代に入ってから語彙の空白領域に学術言語(ラテン語など)から語彙を借用する形となったと説明できる。 (これには欧州でも地域ごとの日常言語体系にズレが大きい(今で言う英語/仏語/独語/伊語に細かい強烈な方言もあった)ため、日常言語は他地域との互換性が非常に悪かった。そのため"既に整理されていて、遺産になっていた言語(ラテン語)"を国際的な権威的言語として扱われてきた経緯がある。) (英語の学術用語を学ぶ際は「ラテン語/ギリシア語由来の"漢字"的な領域」についてを体系的に理解することで効率的に学ぶことができると言われたりする。英語における日常語彙の範囲とは大きく異なる語彙群を求められるため、単に英語から学んでいるだけでは効率が悪いと言えるのだ。) (なお日本も"漢字"を輸入して使っているが、日本語において"漢字"は日常的な範囲おいても重要な要素として一般的に使われている。日常的な言語範囲と、高度な言語範囲とでは、必要となる語彙においては差があるとは言えるものの、基礎的な言語範囲の上に、高度な知識も整理されていると言える。) (比較として。日本語の場合は学術用語でも"常用漢字"、一般的な漢字を使っていることが多く、基本的な語からある程度想像しやすい語の体系となっている。例外はあるものの、例えば"耳鼻咽喉科"は耳/鼻/(のど)の範囲と分かるが、英語では"ギリシア語由来"の語で英語語彙からでは理解ができない。) 現代文明人にはやや分かりづらいことかもしれないが、言語の歴史を見ると、古くは「日常の口語・話し言葉」と「知識的な文章・書き言葉」が乖離していることは多かった。日本を含め、おおよそ「書の日常化・一般化」をするまでは乖離の大きい傾向が目立ち、また現代でもその名残は珍しくない。 日常的に使われる言葉はやや単純で、かつ"変質もしやすい"という傾向を持つため、地域的な変化も多く、より詳細な情報の記録や共有には全く不向きである。そのため文字・文書は「権威的な体系化」をすることで統一性を守り、詳細な情報を記録し共有できるようにしていった面が多かったと説明できる。 欧州系言語は、特に文字の権威的な性格が強固で、さらに中世から近世近代の性急な時代の流れで、「文字の分かりやすい整理」をしきらぬままに印FF刷の一般化から文字の一般化という時代に至って、現代に続く、"表音文字なのに発音との関係性が1:1に定まらない"というややこしい性質が非常に多く残る。 欧州含め他もかなり単純化して説明していくが。他にも中華地域では広く共有するために表音的な利便性を度外視し「統一的な表語表現」を求めた結果、こちらも知識の権威的傾向が強く、日常での利便性・互換性はやや損なわれている傾向が見え、また"やや凝り固まって"、発展的な使い方も難しくした。 あるいはインド地域の例では、多様性が著しく、細かい地域ごとの日常言語体系にバラバラさが残り、さらに"知識的言語・文字"と"日常的文字"さえ意識的に分離させた文字文化体系を持っていると言える。明快な表音性を持つ体系だが、一方で「日常口語」との乖離もあるらしいという難しさが見られる。 なお世界の細かい言語を探していけば様々な性質の言語・文化が見られ、様々な特異性をもった言語や特別な地域を探すことなども可能だと言える。挙げた例は、おおよそ「世界上位規模の社会を持った地域の言語」において、どのような歴史~現代の形態を持っているかのついての概要である。
*日本と文字の歴史 一方で日本は独特の言語文化・文字文化を発展させていく。日本も古くは輸入された「漢字」を中心的な文書の文字として扱っていったが、あくまでも日本の文化に合わせた受容が行われていった。まず漢文を主に「日本の言葉によって読み下す」という手法、「漢文訓読」でこれを扱ったとされる。 (別地域の文語記述を「そのまま自国の言語体系の中に飲み込み、自国の口語として読み下せるようにしてしまう技法」は言語の作法としてはかなり特殊な例と言える。それも単語・文字を口語語彙に置き換えるだけでなく、読む順序の適宜入れ替えや語も差し込み「自国の言葉の体系」で読むのだ。) さらに日本に元々あった名前などの表記には、同じ音の読みを持つ適当な漢字を使って表記する"借字"の手法で整理していく。借字(俗に言う万葉仮名)で日本の口語のあらゆる音を表現する初歩的手法が形成されたと言えるが、ただし"漢字そのもの"だったため表記として煩雑で、応用は限定的だったらしい。 やがて借字(仮名)による表記法が単純化・省略化されて書き方が砕けていき、それが現在の仮名文字(カタカナ/ひらがな)へと繋がっていく。あるいは元々「漢字そのものではないことを分かりやすくするため単純に書く」という表現方法だったのかもしれないが、元の字から分岐していったわけである。 ようするに、「漢字」を日本の言語(口語)文化で使いやすくするようにしていって、その中で漢字を元としてより"日本語的に"使いやすい文字が開発整理され、それら「表語文字の漢字」と「表音文字の仮名文字」を適宜使い分け・複合的に使える文字文化の体系ができ、それが"現代日本語の原型"となる。
*文字の使われ方 また日本の文字文化は、主にいわゆる支配階級の貴族と、大陸からの教典を多く持つ寺を中心として扱われていたが、後に台頭する武士もまた文字文化を学ぶことができた。歴史的には"上位階級のみの特権"の傾向は早々に消えたのか弱く、身分そのものより教養の格差が主な文字の分断であったと説明しうる。 (特に中世欧州の聖職者層・知識層による独占的状況とは異なり、寺の僧侶たちは知識の伝道者・継承者であり、人々の教育者となり、また特に有力者へ文字も教える立場であったと説明できる。細かくは色々な立場もあるが、僧侶たちはおおむね主に"人々の活動を助ける"社会的立場にあったと言える。) (なお"教養の格差"に由来して言語的な使える語彙にも、そこには大きな隔絶があったと表現できるところである。特に文化的な濃縮度の高い貴族階級と、地方一般庶民とではその口語は、語彙・文法・作法など全く別ものだっただろうと考えるべきである。当初、言語的なズレは大きく存在しただろう。) 出自などを含め文化的・社会的・経済的な背景から、学ぶ余裕の無いほとんどの庶民にとっては中々触れられないものだったと言えるが、学ぶ余裕のある立場であれば寺などにおいて知識教養を学ぶことはできたようである。詳細はなんとも分からないため想像するしかないが、方々で学ばれていたようだ。 というのも。いわゆる中世の時代、武家・武士といった立場で文書の扱いが増えてくると、そこに「形式的な文書を書く役職」の存在が広く見られるそうで、その役職につく人間には外の知者(僧侶)だけでなく「家臣」、"従者の立場の人間"に任されていた場合もよくあったようで、学びの広さが想像される。 (ちなみに。13世紀、鎌倉時代ごろ、武士向けの法令がまとめられた関係において、難しい漢字の教養の広まりは限定的であったものの、仮名文字の読みはそこそこの武士ができていたといったような証言の記録が残っているらしい。仮名文字は当時においても、やさしい文字であったことがうかがえる。) (貴族でも武士でもない、いわゆる商人~経済力がある人々の証文が古い時代からも見られるらしい。あるいは外国からの来訪者が、(おそらく都市部において)身分に関係ない読み書きを見受けた記録をしたらしいなど。誰でもと言えるほど多くの記録は無いが、"厳格に情報封鎖した"様子は見られない。) そうした経緯から、貴族階級が扱っていた文字は多くの知識層や有力者層へ共有され、またそうした有力者によって各地へと広まったわけである。特に貴族階級文化において記録された様々な文書(和歌/文学/文通文章など)が、教養という形で、中核的な「文字と言葉」が広く渡っていったと言える。 もちろん日本の江戸時代以前のごく一般の庶民では、必要となる場面や使える場面はあまりにも少なかったために学ぶ必要性や動機も薄く、余裕もないために学ぶ例は稀であったと言える。しかし江戸時代が進むと必要となる場面・使える場面が増えていき、多くの庶民からも学ばれるようになっていった。 なお文語を扱えることは人々にとって「教養の証」であったため、日本の文字文化でも権威的な印象自体はあっただろうとは考えられるものの、「文書を書く役職」という観念から、それは「社会体制上の権威」といえるようなものとは異なり、「能力を持った立場としての権威」だと説明できる。 (中世欧州では「上位言語の所有者」として、支配層が優位に立っていたと言える。一方で日本だと「文字の扱いは"実務能力"の一つ」でしかなく、いわゆる武士の立場でも"家臣に任せてしまっていい"ようなもので、つまり"文字の所有そのもの"は、立場を保障するものでもなかったと言える。)
*使い方の実用性と使いやすさ 日本語の歴史として平安時代ごろ「仮名文字」が整理されると、文字による表現が非常に使いやすくなったことから、上流階級では「気軽な文書(手紙)のやりとりをする」という習慣が発生し、それは文化的な振舞いとして共有されていった。使いやすい文字が文化交流の幅を広げたと言える。 文字を使える場面が劇的に拡大し、形式に固まりすぎず実用されていくことで、長い歴史の中で、文字文化は更なる言葉・表現の創造や、より効果的な文法などの模索なども進んでいくこととなる。当時の「高尚な表現方法」などは存在しつつも、柔軟に文字表現・文字文化を発展させ続けてきたと言える。 繰り返し説明していく所だが。日本語の歴史上に存在する言語の表記体系は主に「漢字/仮名それぞれの使用頻度」「語順」「作法」などから大別されていると言える程度のもので、その根幹部分は「日本の言葉」というほぼ一つの軸を持っていて、その上に様々な書き方をしていたのだと説明する。 歴史において実用を伴って長い試行錯誤をし続けていったため、その表記体系は時代によってかなり変化していったと言えるが、文字の習得のしやすさや伝播のしやすさは大きなスパンにおいて地道に向上していっただろうと言える。ただし口語との乖離はさらに特殊化が進んでしまったとも言われる。 特に実務的な場面においては、実用的な観点から「形式的な文語」が強く形成され、主な書類の書き言葉は長らくそれによって運用され続けてきたと説明するべきではある。こうした流れから「書き言葉と話し言葉には決定的な乖離があった」と説明されることも、表記上それほど間違いではない。 しかし文化的に、元々として日本語文字の原点部分は、古くは貴族階級が「うまく読めるようにする・うまく使えるようにする」という活動によって整備していった形式であり、また貴族階級にとっては"日常の言葉も記せる"ような体系も整備してきた背景から、"共有性の高い基盤"があったと言える。 日本語文字はその初期において「音の感覚と、表音文字のイメージの感覚」を併せるような整備を行い、「なるべく直感的に口語と文語の感覚が繋がりやすい」ような形に近づける整理が行われていた。それによって(教養は不可欠なものの)「感覚的には使いやすい文字言語」になっていったと考えられる。 それは単なる仮名文字(ひらがな/カタカナ)の導入だけではなく、漢字の読み方にも強く"日本の言語的な感覚"を求めながら整理していったというもので、おおよそ必要な「語彙」と「作法」を理解していけば「"日本の言葉"として読み取ること」ができるようにはなっていた、と説明できるわけである。 特に江戸時代以前において上流階級から武士関係などにも広く用いられていただけでなく、江戸時代に入ってからは庶民に至るまで広く使えるようになっていったことには、それが特に初等教育でも(普及しやすい程度には)「使いやすい文字言語」だったという点を示している、と論じれるだろう。
/補足:「使いやすい文字言語」と「使いやすいとは言い難い」文字言語 (※なお歴史的に。"漢字の廃止"や"日本文字の廃止"という論の存在自体は確認することができる。近代で、先進的な国々からの技術的な後れを憂い、"日本文字は不便ではないか"としていたわけであるが、積み上げてきた庶民教育の歴史などの文化地盤が十分であったため、全く現実的ではなかった。) (※現実的な「教育の効率性・合理性」という点で、表音文字の"かな文字"は"多くの欧州系言語よりも表音性に優れる"とさえ評しうるもので、それを土台に表語文字の"漢字"を段階的に学んでいくことができる。また文書において漢字の併用することで表記の合理性・読解の効率性を高めることができた。) (主な欧州系言語、特に英語の難しさとして。「表音文字」とされているものの"表音文字と読みが1:1ではない"。特に"発音が単語ごとに変化する"仕様、つまり"発音からも文字が確定しない"という様式で、例えば英語の母音Aも[act/ace/all]では異なるAの発音を取る。アクト=A、エース=A、オール=Aだ。) (つまり「アルファベットなら覚える必要のある文字が少なくなる」というのは、現代の言語でもはや欺瞞だとさえ言える。実用として「覚える最小単位」は"文字の組み合わせ"ごと習得されるものであり、また言語では"単語ごとの字の組み合わせ"での習得も必要で、覚える量は全く効率化されない。) (例えば日本語の[た]や[つ]をアルファベット表記にしようとすると、【"た"は[ta]となるが[タ/テイ/タォ]のいずれか分からない】ため、ひらがなより"著しく可読性が落ちる"。また【"つ"は、[tu]だと[タ/トォ]となるため[tsu]でなければならない】など、表記と音の統一性・直感性を著しく欠く。) (この音の変化の問題は「日本語の"漢字の読みが変化する"」のとは全く事情が違う。現代日本語は"表音文字"の仮名文字と音の統一性・直感性は高く、"音を字にすること"も"字を音にすること"も、(子細はともかく)最低限は可能で、学習はその1音1字の最小単位から"漢字の読み"を覚えられる。) (英語などにはそうした「発音と表記の乖離」が(現代であっても)非常に多く存在するために、書けるようになるには【全ての単語で「発音と"単語表記"をセット」で覚える必要性がある】という言語形体を持つ。日本語であれば「おと を ぜんぶ ひらがな で かく」ということが可能である。) (なお。「発音と表記の乖離」では、(世界で一番使われているはずの)英語がかなり深刻なほどのズレがある。一応、他の欧州系言語ではマシになる例もあるものの、音の変化を「単語ごとに覚える」必要性がある言語は多い。特にマシなスペイン語であっても、一部子音で「音と字の不確定性」が生じる。) (しかも欧州系言語は、実際の口語、会話となった場合「混ざる音・潰れる音」が頻出する。語の流れによって発声が強烈に接続すること、特に単語の末尾が子音である場合、ほぼ確実に混ざるため「語の判別」はさらに難しい。あるいは音が弱すぎて潰れ、聞き取りが難しくなったりする音もよくある。) (日本語の口語では、通常「"1音=1音節"の時間・幅」のテンポを大きくは変化させずに発声される。そのため「音が潰れる・極端に混ざる」事象はだいぶ発生しにくい。ただし、微妙なテンポの変化で識別される"長音"や"促音"の聞き取り、またその発声も若干のハードルとなる部分にはなっている。)
*文字言語の一貫性 しかもその近世江戸の時代にあって、「(庶民を含む)初等教育で習う文字言語」と「高等教育・高度な分野で使う文字言語体系」との乖離は、別物とも表現できるものの、厳密に別言語だと言えるほど極端に大きくはないと説明しうる。詳細な語彙や文法作法の違いから高度な学習は当然不可欠ではあるが。 それは日本の文語文化が「高度な分野の言語から、分かりやすい表現を拡張していった」という流れによって初歩的な文字言語が整備されていった形式を持つためと言える。初等教育はほぼ地続きに、連続的に高度な知識を学んでいくための大事な基盤となる言語文化・体系を成立させていたと説明できる。 そのため江戸時代当時の日本においても初等・高等の言語は、それぞれが全く異なる言語体系と説明するより、一つの言語からの「表記体系の違い」と説明する方が、より精確な表現だろうと考えられるほどである。現代人の感覚では「別物じゃん」とも言われるが、「中国語を学ぶよりは簡単」だろう。 そうした「初等教育で使う言語体系」と「高等教育・高度な分野で使う言語体系」が、"ほぼ同一言語"軸上にあると言える状態は、当時世界の主要国家においてはかなり珍しいと評することもできるらしい。高度な知識や語彙を得るための文化的・経済的な障壁はあったものの、言語的には連続的であった。 (当時の欧州系言語は言語的な分断があった歴史からまだ学術的言語と日常言語は別物であった。中国大陸においてはそもそも文字を学ぶこと自体が高等教育であり、一般庶民にまで広まるのは遅かった。インド地域は現代においても学術言語・日常文語・日常口語が分離したまま併存している。) とはいえ、江戸時代の読み書きの普及に併せて広まり一般化したと言える「本」も、多くの庶民にとっては主に日常的な実用書や娯楽の本を楽しむことだっただろうと言えるが、もし当人が興味を持ち、また経済的・文化的な環境が許せば、高度な学問を学ぶことも(言語的に)挑みやすかったと言えるだろう。 (なおこの時期でも、日常的な口語と文語文にはまだ大きなズレは見られる。江戸時代の本に口語文を扱う例も稀で、確認されている所としては江戸時代後期において一部作者で"セリフ"が見られるといった程度らしい。しかし一般においても言葉の文化として"繋がり始めている"段階だとも評せる。)
*日本の文字の使い方 繰り返しの説明となるが。日本における昔の「高度な分野の表記体系」というものは「実務上の合理性」や「表現上の芸術性・格式」を主目的として用いられていたと考えられる。それは"意図的な言語の独占"でなく、「その方が使いやすい」とか「その方が綺麗だから」だったのだろうと言える。 例えば大陸から輸入した文書様式「漢文」も、日本でも見かけの美しさや文字の圧縮効率などの利点から使われていたと説明でき、さらに「日本の言葉で読み下す方法(漢文訓読)」までも作られた。また「日本の言葉で読める」のだから、日本の漢文は「日本の言葉の表記法の一つ」に位置付けられる。 (あるいは、それほど昔から「言葉を補完する技法や意識」、そうした文化があったことを垣間見れるとも言える。言葉や文字は、ただ綺麗にあるいは単純に揃えればいいものとはされず、文字表現においても、口語表現においても、「心地良い・丁度良い」ものが大昔から求められていたのだ。) また「実用」「高等芸術」などを含む言語系を、「日常での文語の使いやすさ」へと拡張した結果が、「仮名文字」の開発・整理や、様々な言語表現の整理だった説明でき、そのように形成されたものが「初等教育で習う言語体系」だと位置付けることで、日本語文化を一貫的に説明することができる。 よって。日本の昔から現代まで使われてる主要な文字言語は、「"日本の言葉"を、"どのように表記するのか"という違いでしかなかった」のだと説明してしまえるわけである。もちろん細かい文法の違いに、高度な領域では相応に難解な漢字や語彙が増えやすいため、相応の学習は必要となるわけだが。 (また日常の口語ともズレは大きく存在したと言える。ただし口語は元々地域性が強いもので、標準語が整備された現代でも地域性が非常に広く確認できるため、このズレは時代として当然のズレであるとも言える。むしろ「"日本語"という共通言語」が、文字文化によって広まっていったとも評せる。) 日本は大陸から"漢字"という非常に便利な表語言語ツールを手に入れつつも、そこに歴史的権威や絶対性や神聖さなどのような固定観念は持たず、うまく「日本の言葉の使い方」へと飲み込んでしまい、独自の文字表現も作成して整理していったわけである。主要言語において最も柔軟に"文字言語"を扱った。 (世界の主要な言語の多くは"文字の権威性・正統性"が非常に強く働いた・働いている歴史を持っているために、"文字の扱いを便利にする"方向性がどうにも鈍い様子を見てとれる。主な欧州系言語の「表音なのに文字表記と発音のズレ」、中国大陸漢字の「表意性は優れるが日常用には大変すぎる」など。)
*補足:他言語の導入例 他の導入例としては、"アラビア数字"は近代に西洋からの技術知識導入の流れでその利便性から日本でも漢数字の代替表現としても自然と定着していった。「漢数字の代替表現」のため適宜漢字との併用も自然と行い、間に万・億・兆などの「数の桁数を表す語彙文字」との併用も表記の一種としている。 また小数、整数1より細かい数を扱う場合、古くは小数用の"数の桁数を表す語彙"である「分(ぶ)/厘(りん)/毛(もう)」などが使われ現代でも限定的にその語彙も使われるが、例えば「0.54」は現代口語なら「れい/てん/ごー/よん」または「コンマ/ごー/よん」と読む。一応"5分4厘"でも限定的には通じる。 (ちなみに。旧来の小数の読み方で最も馴染み深い野球の打率などにおいては「.333」を「3割3分3厘」と読むが、これは「3.33割」(3割と.33)を言い表すもので、データの「.333」をそのまま言い表しているわけではない。0.333自体を言い表すなら「3分3厘3毛」になるわけだが"割"の単位からはズレる。) (蛇足として。アラビア数字の表記は桁がそのまま表記されるため、例えば「し-ご-じゅっ-かい」を工夫無しにアラビア数字にすると「450回」と、"よんひゃくごじゅっかい"の表記になってしまう。会話の書き字では「四、五十回」、文語体としては「40~50回」などと表記する方が直感的である。) なおその他の外来語などは、読みの分かりやすい単純なローマ字略語(PCやIT)などでもなければ、カタカナや当て字や漢字の熟語化を施して、日本語表記にしがちである。これは輸入元の言語の文字規則の把握は大変で面倒なため、広く読みやすいように、読みやすい字・読み方で扱える形にしている。 ちなみに「外来語彙の漢字の熟語化」が盛んだったのは新しい概念が一気に入ってきた時期、仏教伝来や明治の近代化の頃で、それ以外や現代では(どうにも"カッコいい"印象を与えるためにか)カタカナ表記が多い。ただし、より大切な語彙においては熟語による説明も用いられている。(例:持続可能性) また「音」ではない部分において、現代日本の文語体では"積極的に記号字も用いる"ように整理されている。昔から記号字は少々用いられていたが、(*括弧*)の表記などはおおよそ技術の輸入、活版印刷などから導入され普及していったと言えるものであり、さらに拡張的な表現を発展的に増やしていった。 (数学表記でもない通常の文語体において、これほどまでに多様な"記号字"が用いられる言語は、珍しいと言われる。他の言語でも多少の記号字は存在しているものの、いずれもわずかな種類が使わている程度と、積極的な表現法としての発展は乏しかったようで、日本は先駆的な立場だと評せる。) (ちなみに「*かぎ括弧*」は、もともと存在した庵点(緩い"「"の形)をベースとして、(*括弧*)表記にならって閉じ鉤括弧"」"も作られたのではないかとも言われている。こうした「文語体へ積極的に記号を使う」様式は、文字ではない「単なる記号」さえ文字の一種として許容し、表現の幅も格段に広げた。) さらに現代的になってくると、限定的な分野で、カタカナ表記ではなく「"ローマ字表記"による外国語彙の借用」も普及していくこととなる。顕著なのは音楽、歌詞において簡単な外国語語彙を使って表現する方法が広まり、やがて英文歌詞などを導入していく例も増えていくこととなる。 現代近くから音楽分野は特に外国からの輸入が盛んで、外国語を"音として親しむ"文化は根付いていた。そこから「異なる音・異なる意味」を持つ語を借りて、「新しい語彙を使うことで、新しい表現ができる」ようになり、またそれによってさらに"直感的な歌"の幅を広げていったわけである。 長い外国語の内容、意味をすぐ理解できる日本人が多いとは言い難いものの、歌の分野ではより直接的に「日本語・外国語の併存」という状態が発生しているわけである。"1つの歌詞の中に全く異なる2言語を併用すること"の珍しくない、それが大衆に親しまれている文化は世界的に見て限定的である。 外国語を元からカタカナ語として借用する習慣があり、また"詳しく知りたいなら各自で調べる"という習慣が文化的に根付いていることによって、幅広い表現が許容され、歌詞あるいは詩的表現、芸術、デザイン、名称などにおいて、ローマ字表記による外国語の借用が広く親しまれていると言える。
*日本と欧州の「本の一般化」について 日本では、社会が十分安定して発展もしていた江戸時代中期ごろから、木版印刷の技術や生産力が極めて高まり、その技術時点で既に多様な出版物の大量生産が実施され、「本の一般化」を実現してみせたとされる。それはおおよそ17世紀後半辺りからとされ、多くの庶民にとって日常の一部となっていった。 一方で、例えば欧州においてそうした「本の一般化」、多くの民衆が本を親しめるようになったのは印刷技術の中でも劇的だった活版印刷が発明された15世紀半ばごろ…、から"さらにもう少し後の時代"でおおよそ17~18世紀以降が中心だと説明される。日本との時代差は、意外と小さいのである。 主に都市部の文化の比較となるが。日本では「貸本」の業態が17世紀前半辺りに誕生~18世紀始め頃には貸本中心の行商も生まれ、18世紀半ばには庶民にも貸本が身近だったとされる。欧州では知識層向けの貸本形態が18世紀ごろに登場、庶民向けの貸本形態は19世紀以降とも言われている。 ようするに。実のところ、欧州は日本と比べてそれほど大昔から一般にまで本が普及していたわけではないと言えるのである。欧州はそれまで多くの庶民にとって文字文化は縁遠い存在であったために庶民への普及に時間がかかった分、その時代差は案外小さく、考え方によっては逆転もしうるのだ。
*言語的併合の追及 "日本語"は、言語の世界史においても「話し言葉と書き言葉の言語的併合」を先進的に進めた言語であると考えられる。もちろん日本語でも「"日常の口語・話し言葉"と、"文書で使う文語・書き言葉"には明らかな違いが確認できる」と説明でき、また一般的な併合には近代化以降まで待つ必要はある。 しかし限られた範囲ではあるが、上流階級において(女性文化を中心に)「文書に"おそらく当時の話し言葉に近い表現"を用いる」という文化があり、11世紀ごろの作品がいまでも見られる。またそこで使われる言語の基本的な構造や主要な語彙にも、"日本語"としての共通性を見ることができると言える。 現代日本の話し言葉・書き言葉であっても、その使い方はかなり異なるとは言えるが、言語的な内容の乖離は小さく、おおよそ細かい「作法の違い」程度で、同じ「日本語」において成立しており、"現代"の時代から文章でも話し言葉を用いることがごく自然な表現方法の一種として定着している。 また、日本の昔の文語なども"言語系統の違い"と言うより、「日本の言葉の表現方法の形式や歴史的な違い」だと説明できる。いわゆる古文の読解には、慣れない書き字・語彙・文法といったズレで素直には読めないが、おおよそ字の認識さえできれば、全く読めないとなるほどの極端な隔絶性は小さい。 それは文語において優秀な「漢字:表語文字」と、言葉の音を拾い口語を文字に表せる「ひらがなカタカナ:表語文字」を、適宜(やや強引に)併用することで、文書における高い合理性や可読性を両立させるという、多層的な構造を併合的に構築・整理し、それが言語の中心軸となっているためと説明する。 歴史上の「書き言葉の話し言葉への影響」を詳細に推し量ることは難しいが、文語文と日常口語とが相互的に関係を深めながら、文字を口語向けに拡張していったり、口語を文書から応用して拡張していったり、そうして現代の「日本語」が形成されたのだと言える。この経緯は、世界的に稀とされる。 (欧州系言語は文語体をベースとして整理されている。文語の権威性が強かったために、それを中心として言葉と合わせるように整備されていった。中国言語も多数の方言があったがそれらも"文字を基盤として"言語の整理をしている。インド地域は言葉の多様性を残しているために、言文一致自体が弱い。)
*日本の社会と言語の歴史 歴史の話として、日本地域では古くから支配層・知識層が、基本言語を文字も含めて"共有する"ことによって、発展や安定を目指していたとも評せる。各有力者にも、同じような文字を使うように求める形をとり、上流階級に限らず「立場のある人間なら大切な教養」と言えるような社会情勢が形成されていく。 それは日本地域では言語の歴史的蓄積が浅く・文字の基本も大陸からの輸入品という事情もあって、中世欧州の流れとは違い、かなり昔から支配層が文字の学習などに対して"統制・制限"をしていた状況はおおよそ見られず、基本、身分に関わらず学ぶ機会さえ得られれば習得が許されてきた、と言える。 もちろんすぐに誰もが学べるようになったわけではなく、文化的経済的格差から自然と学習格差も生じていたため、教養の格差も自然と生まれていたと言えるが、豊かな家ならば大切な教養として学習させていたと言われる。中世日本の有力者は文書のやりとりが必要となり、さらに重要だったとされる。 (中世欧州で例えるなら、「まるで聖職者がラテン語を軸として言語を整理し、その言語を各地域の貴族だけでなく庶民の代表などへ"基本教養"として身につけさせるように求めて広め、共通言語として根付かせていくようなことをしていった」ような状態だと言える。現実の欧州はそうならなかった。) 日本の文字文化は江戸時代より前からその状態で、やがて江戸時代・天下泰平の世になってからはさらに多くの庶民にも「読み書きそろばん」が求められる社会環境となっていき、学べる環境も相応に増えていくことで、実際に多くの庶民たちも初歩的な読み書きをできるようになっていくこととなる。 その江戸時代の"いわゆる寺子屋"など教育施設の充実には、江戸時代以前からの文化、僧侶・武士・地域の有力者など各地の知識層の地盤があったからこそ、長大な時間をかけずとも広く教育が行き渡り、さらに多くの庶民の文化的な底上げを実現できたのだろう、と歴史的な流れを見渡すことができる。 その教育の文化が脈々と受け継がれ、時代に応じて拡大していくことで、広く民衆に至るまで文明的な基盤を形成、共有されていく。そして後の時代「近代化」でも、文化的経済的に豊かな都市部を中心として、すさまじい早さで、"文化的な後退の混乱"もほぼ引き起こすこともなく、順応してみせた。 特に近代化の流れで出来た"国民皆教育"の制度も、それまでの教育の文化の延長であり、順当な発展的整理として、自然と整備することができた。それらは何よりも、日本がいかに古くから広い地域において教育の素地が受け継がれ、いかに教育が大切とされてきたかを示すものだと言えるだろう。 ついでにそうした江戸時代~近代化の庶民への教育の流れによって、上流階級が実用と整理を行い、社会的な立場のある人々へ広く共有され実用されながら発展していった「日本語」がより直接的に庶民へと行き渡り、実質的にも日本における統一的な言語として扱えるようになっていったと説明できる。
*補足:近代化・現代的整理の流れ なお日本語の文語と口語が現代的な統一性を持つのは19世紀後半、近代化に伴い"いわゆる言文一致運動"が強く行われることで整備されたものだと説明するべきである。ただ「言語の整理」という本来極めて困難な文化改革を、酷い混乱はなく実現してみせたと言えるのは、「元々近かったから」だと言える。 日本の"言文一致"の作業は極端な「別言語の翻訳」のようなものではなく、おおよそ「校正・書き換え」だっただろうとさえ考えられる。書き換えるべき文書の量や、細かい語彙の解釈や語彙の選択などに相応の手間はかかっただろうが、やったことは「読みやすくした」だけだとさえ表現しうる。 そしてそれは日本が、貴族階級が整理した文字と言語を"基本の言語"とし、その言語体系を各地域の有力者にも使わせることで広い地域へ行きわたらせ、地域内の「共通言語化」を推し進め続けていた基盤があったからこそ、江戸~近代での広い教育も可能とし、"口語体での整理"を可能としたと言える。 (なお補足として、日本地域内でも、ごく地方的な「方言」では解読を必要とするほどの言語的な違いがあることもそこそこあったが、近代以降では積極的に(やや強引に)"標準語"が整備され、基本的な言語の地域差は限定的になっている。ただし地域ローカルな表現は、今でも見ることができる。)
*補足の蛇足:近代化・現代的整理での「表記法の発展」 ちなみに日本語の文章書式自体に現代的な整理が行われたのも、近代化の流れの中であると言われる。つまり文章において、積極的に句読点などを用いたり、適宜「括弧」を用いたり、といった記法が導入され普及していったのは、近代化の流れで「読みやすさの整理」も行われたためだと説明される。 そのような経緯を経て"現代日本語"と表現できる「日本語」が整備されていったわけである。ちなみに「!(ビックリマーク)」や「?(はてなマーク)」も近代化の流れで輸入された記号文字であり、これらは文芸分野へも感情表現の手段として広まり、表現法の一つとして定着していくこととなる。 (記録文章中に状況を表すための「(*状況*)」の括弧の表記法が開発・普及していったのも、おおよそ近代化の最中のことである。現代的には括弧は(ルビを振れない時の)フリガナ用の枠であったり、補足説明枠であったり、文芸では心のセリフや小声を表す枠であったりと、適宜広く応用されている。) 世界的に見て、基本的な文書においても多種の(括弧)などを頻繁に使う文字文化の例は限定的である。こうした表記は日本が近代化の流れで「いかに文章の可読性を改善するか」へ真摯に向き合って、旧来の文語体系を"伝統的で正しい"・"読めるだろう"などと固執せず、「もっと読みやすく」したのだ。
*口語の感覚 そのように発展してきた経緯として、日本語はとても広い場面で「口語の感覚を重視する」という文化形態を持つ。「言葉を口に出してみた時の心地良さ・丁度良さ」が、語彙の残りやすさ・伝播のしやすさに大きく関わる傾向があり、つまり「感覚性に強く根差している言語」であることを示せる。 歴史資料として最も古くは、奈良時代・8世紀末期において成立したとされる『万葉集』という「和歌」をまとめた書物の存在が確認されている。(借字、いわゆる"万葉仮名"を含めて書かれている。)7世紀前半から8世紀半ばまでの和歌が収録されているとされ、古の文化を垣間見ることができる。 (歌のみをまとめた書物でなければ、さらに古い、日本の書における最古の範囲と言える記録においても、和歌の原型といえる"言葉の表現"の文字記録を確認できる。記録において確認できるものが(文字記録を広く扱えるようになった)その範囲からというだけで、さらに古い歴史だと考えられている。) 「和歌」は基本「5音」と「7音」の組み合わせを軸として構成され、"口に出して詠む"ことを前提とした正しく「歌」である。これが非常に古くから文字としても記録されて読み継がれ、現代においても同様の形式で読まれる文化が現存している。また現代的な歌においてもその影響が度々見られる。 現代日本でも親しまれている「短歌(5-7-5-7-7)」、「俳句(5-7-5:原則季語を含む)」、「川柳(5-7-5)」は和歌の文化の流れから生まれたものだと説明でき、なお現代では1首(短歌)・1句(俳句/川柳)ごとに扱うが、昔は「連歌」という複数人が連続して歌をつなげていく高度な文化的遊びがあった。 (ちなみに現代日本の国歌『君が代』は、10世紀初頭編纂の『古今和歌集』に記されている詠み人知らず(作者不明)の短歌が引用されたものに伴奏をつけたもの。なおこの歌は極めて広い範囲で使われている"祝賀の歌"で、また詠み方は後年変化し、国歌で使われる歌は変化した側の後の内容である。) 重要なのは「音声の文化を幅広く知識層が自らが用いている文字によって記録して継承し、またそれが教養として広まっていった」という点である。「和歌」の形式は教養文化の一端として脈々と受け継がれ使われ続け、「口語と文字を融和させる」という"日本の言葉の感覚"を支え続けたと表現できる。 推測として、もしかしたらどれだけ高度な漢字で高度な知識を組み立てることができたとしても、それを口語において「心地良い・丁度良い」ように表現できなければ、それは知識はあっても「品が無い」とさえ感じられていたかもしれないと考えられるほど、広く"声に出し、文字にする文化"を持っていた。 (またあるいは、細かい語の変化が非常に広いのは、和歌のスタイルである5音/7音に合わせやすくするといった影響の可能性も大きく考えられる。古くからの調整語が残る、あるいは新しい調整語が生まれるといった所に、和歌のスタイルによる創造性が働いたのではないかという想像ができる。) (歴史上、欧州系言語でも歌や詩などの表現は古くから存在していたものの、現代に続く範囲においては記録性の高い「文語体」をベースとしたものばかりが残っていると言える状態である。口語体・口語文化は、ほぼ口承によって時代を経て変質しながら継承されてきたため、古い口語の記録は乏しい。) (一応"歌・詩"であれば、古くから崩した"口語調"を駆使して音やリズムを整える技術も使われており、音のために"正規の形式"からズラすことが全く許容されないわけではなかった。ただし古くから"記録に残っているもの"は文語の流れが強く、当時の"口語文化"とは別物だったと考えられる。) (また欧州系言語における主な現代口語も、あくまでも"規範的な文語"をベースとして整理・統制されており、制約は根強く、それを前提として、日常的な砕けた"口語"が使われるという状態にある。"歌・詩"でも同様で、音のために多少のズラしは可能であるものの、全く自由とは言い難い。)
*感覚性と論理性 言語基盤において感覚性が強く重視されることで、日本語は「オノマトペ的表現」の文化が豊かであり、また現代では「オノマトペ的な文字表現」も非常に広く許容されている。オノマトペには「擬音語・擬声語:音をまねる言葉」と「擬態語:雰囲気を表す言葉」があるが、日本語ではどちらも多く見られる。 また現代日本のオノマトペ的表現は伝統的な語彙の引用だけではなく「必要に応じて、思いつく」ように現れることもあり、そうした性質からも日本語の文化がいかに「感覚性に深く根差している言語」であるかを示せる。あるいは、その感覚は"やや原始的な文明"などと近しいとさえ言えてしまうだろう。 だが現代日本語が、文字言語・言語体系としての先進的な文明性、「論理的な強度:精確性や伝達性」に乏しいかと言えば、むしろ高い強度があると言える。それは言語文化の歴史において、芸術性一辺倒でもなく、併せて実務的な実用面でも広く使われ続け、そうして発展・整理してきたからだと説明する。 現代日本語なら、必要性があれば論理性において、文法的な明瞭さとして助詞・格助詞や読点で関係性を明示でき、またその配置の確実さに加えて様々な述語・修飾語を細かく使うことも可能で、また語彙も漢字を背景として豊富にあり、また発展的に新たな語彙を受け入れる・生み出すことも容易である。 (なお、論理性が疑われる場合もあるが、近代化から現代に至るまでの日本が、国内で日本語を中心としたまま様々な技術知識を扱いながら、世界的に"技術的な後れ"どころか、十分比肩できるという実態を踏まえれば、「日本語は必要十分な機能性を持っていた」と評さなければ辻褄が合わない。) それほどまでに「"論理性を確保できる文字言語体系"と、高度な社会文化を持っている」にも関わらず、「原始的とも言えるオノマトペの種類も非常に豊富である」ことが、単一の文化において複合しているのは世界的にも珍しいらしい。言語が整理されるほど、感覚性・オノマトペは制限されがちなのだ。 (欧州系言語・中国語においても、単純な"擬音語"はそれなりの数は見られるが、擬態語においてはほとんど通常語彙へと整理されているのか限定的なようで、一般的な会話・文章において使われる場面も限定的だと言える。日本語は擬音語も擬態語も多く、また発展的な語を作ることも容易である。) 「日本語は非常に複雑な言語である」といった評価は存在するものの、文字としては「音に繋がる仮名文字」と「意味をイメージさせる漢字」の複合と整理によって文字文章の認識性・可読性は優秀だと説明でき、またその性質から文字や語彙の学習性が、わりと合理的な流れを持っている。 日本語は「日本の言葉」というほぼ一つの言語範囲で、長い歴史の中で外の優秀な文化を取り入れつつも地域性を強固に守り、芸術文化面でも技術実務面でも、様々な場面で発展的に使われ続けることによって機能性を強化・洗練させていき、同時に広く共有されることでさらに拡張をしていった。 そうして現代日本語は「効果的な機能性を複合的・多層的に持つ言語」として成立したと説明できるわけである。感覚性が強く日常において非常に簡略的・省略的な表現の側面を持ちながらも、知識的な場面では適宜"解釈の幅の狭い理路整然とした運用"もでき、それらがとても密接に繋がっている。
*日本における発展性 元々、漢字のほとんどは中国大陸から漢文での知識教養と共に輸入されたものだが、日本地域に合わせて受容されていく中で、仮名文字が開発整理されたり、さらに必要に応じて新しい漢字(国字)も開発されたりと、非常に発展的な運用をしてきた。「みんなで使えた方が良い便利な道具」だったのだ。 近代に入っては欧米の知識が積極的に輸入される中で、新しい概念に対して新たな熟語も開発することで日本語として定着させている。開発された漢字の熟語によっては、中国大陸と強く関わった時期において便利な知識として中国大陸側でも導入されるという、"逆輸入"の状態も発生した。 それらは日本の文字が"正当性の証"だとか"権威の背景"などのために頑固に守られてきたものではなく、あくまでも「意思疎通・情報伝達の手段として効果的に使うべきもの」という、言語の持つ本質を求めてきた歴史を持ち、そのようにして多くの形式を一つの言語へ集約することを成立してみせた。 (少し補足しておくのならば、「文化的な高度さ」の心理的根拠を文字の習得自体に依存するようなことはせず、「文字を巧みに扱えること」こそ"文化的な高尚さ"を示す基準として、活きた文化として受け継がれてきた、という表現をできる。文化人であるならば、"読めること"など大前提なのだ。) (古の日本の文化人にとって「高度な文献の文章を引用すること」とは、知識の披露として機能はしたものの、それを「適切な場面において扱えること」こそが雅で高貴な振舞いとなる。特に和歌を披露する場面では創作性も求められ、できなければ品格に欠けるとさえ思われかねなかっただろう。) 現代的日本文化でも、新たな技術からさらなる「言語手法」を創出することもある。例えば「携帯電話」の庶民のメール文化用に、子細な印象を端的に表現するための通常の文字ではない「絵文字」の形式が先進的に導入されて、実用としても庶民はうまく受容し、とてもカジュアルに親しまれていった。 そしてその「絵文字」の形式は、やがて「emoji」として世界的にも整備され、「主要なフォント(文字)データの一種」として標準的なものとなっていった。「デジタル上の日常言語の劇的な表現拡張」だったと説明しうる。(なお外国ではemojiが、日本の"絵文字"由来であると知らない人も多いらしい。) 「emoji」の普及とは、「新しい単語が輸入される」ような断片的な言語の影響ではない。デジタル上とはいえ「世界各地の言語様式に新しい形態が導入される」というとてつもない事象である。とはいえ、デジタル地域ごとに地域的な使い方がされているが、それは「日本における漢字」と同じだと言える。
*文字の感覚と文化 また日本語の感覚性は、文字に慣れ親しんだ文化人たちにおいては「文字表現」にも強く影響している。「表語文字」である漢字の存在によって「文字の持つイメージを認識する」習慣があるために、表現したい印象に応じて「文字の表現を変える」といった表現文化が生まれてくるようになる。 「書体を調整する」という文化自体は、高度な文字文化を持つ多くの言語で見ることはできるが、日本語においては「文芸における言葉選び・文字選び」の幅が広くあり、言葉は「音の響き」だけに依存して選ぶわけではなく、「文字の意味・印象」を考えて選ぶということが行われてきた。 それは日本で古くから残っている形式的な文書の多くで、仮名文字が作られた後も「漢字」が中心として使われていたことには、漢字の持つ格式の印象が好まれてそれを中心として扱ったと考えられる。「ひらがな」は柔らかい見た目であるため、古くは"女性的な文字"の印象も持たされた。 近代においては、公式文書の仮名文字では固い印象の"カタカナ"が選ばれ、漢字・カタカナで書かれていた様子がうかがえる。現代日本語においては「複数の漢字/ひらがな/カタカナ/(稀にローマ字)」などといった多種の文字を、場合や表現に応じていずれかを使い分けるという方式となっている。 なお「名詞の漢字選び」においては特に面白く、「漢字本来の読みとは異なる字を当てている」と言う例がそれなりに多く確認できる。主に人名や地名で、言葉遊びのように漢字から直接的に読みを取ることはできない例もあり、覚えていなければ直感的ではないものの、覚えてしまえば直感的に読める。 あるいは、"印象のために漢字を使う"という「当て字」の文化もある。これは漢字の持つ格式の印象を引用するために、あえて難しい漢字を使うといった形で、おそらくもっとも有名な例は「夜露死苦(よろしく)」という当て字で、内容は非常に穏当温和だが、文字で厳つく見せかけるわけである。
*蛇足:文化的な表現や漢字にまつわる習慣 蛇足として。歴史的に「難しい漢字を読みやすくする」という目的を持って「漢字に補記する」という手法は非常に古くから見られるが、「音の読み方」を横へ直接的に補記する「フリガナ」の慣例が広く根付いたのは江戸時代の本が普及した時期とされる。"知らない漢字はある"という人々が増えたのだ。 江戸時代においては単に「読み方を記す」だけでなく、難解な単語では「(読みのフリガナの反対側に)意味を記す」という応用も見られたそうである。やがて時代が進み、活版印刷でもフリガナをつける慣例は継承されるが、当時は「全ての漢字において可能な限りフリガナをつける」方式だったらしい。 やがて品格や美的観点などからフリガナの扱いは大きく削減したりまた追加したりと調整が行われていき、「用途に応じて適宜フリガナを使っていく」という形に落ち着いたという経緯である。現在では漢字の難しさや、想定される読者に合わせるなどの観点で、適宜フリガナが使われている。 (なお人名ではさらにフリガナが重要となっている。人名に使える漢字は使用可能な文字が規定されているものの、その読み方に規定がなくブレ幅が非常に大きいため、相手を声で精確に呼べるようにするためにも、書類において名前を書かせる際には名前のフリガナも併記させるようにされている。) 扱いに慣れてくると、このフリガナ記法は単なる「漢字の補足」としてだけではなく、文芸において「一つの単語範囲に"二重の文字を入れ込む"手法」として応用されていく。例えば「そのときに」という言葉に、口語の要素を保ちつつ"一瞬"だと示すために「その瞬間(とき)に」と記すなどである。 他にも、例えば登場人物など対象を示す際に、"*名前*(コイツ)"などと書くことで、"何を示しているのか"を明示しつつ、登場人物の口調も保たせるという表現に用いたり、それの主文字とフリガナの関係を逆転させ"土座衛門(死体)"などのように、フリガナ部分に意味を書いてしまうという表現もある。 さらにマンガ的・カジュアルな小説表現においては、より明確に「二重の表現」とするような応用も行われる。名詞において「漢字の主文字(フリガナ:カッコいい名前)」などと言った形式で、1単語の範囲で、意味合いやニュアンスを主文字とフリガナの両方へと、多重に入れ込むことが広まったのだ。
*蛇足の蛇足:"フリガナ"の社会的価値 (フリガナのような文字に対する補助記法は、元々「漢字の難しさに対応する」ために必要に応じて整備された表記のため、特に欧州系言語にとってはほぼ馴染みのない記法である。特に日本における発展的な活用、"1回の言葉に2重の表記が存在する"ような表現法は、非常に前衛的だとさえ評せる。) (あるいは欧州系言語の感覚からすれば、「"1語に対して1度に読みきれない"文字表記なんて文字の法則に反する!」とさえ思われそうだが、むしろ現代の欧州系言語の歴史として「意味を文書で記せるべき」としてきたのだから、文書の表記法として発展的に活用できた可能性は大きいとも考えられる。) (つまり欧州系言語は、なおさら"二重表記の情報圧縮性"も素直に求めるべきだったとすら言える。学術言語なども、例えば「Otolaryngology (Ear, Nose, Throat Medical) 」などを、フリガナのように上部補記すれば、横長にしない読解の補助記法として活用もできただろう。だが発展しなかった。) (もしくは。主な欧州系言語では、字と音の乖離が大きいことが珍しくないために、日本語と似たように「音表記を併記する」という手法として、(教育以外の)一般的な場面でも効果的に使いうる可能性も十分に考えられるだろう。※ただでさえ細かい文字に、さらに細かい文字が追加される形になるが。) (ようするに例えば「フリガナなんて幼稚な補助が必要な日本語は不合理な言語だ」みたいな視点について、「フリガナのような補助的な記法を使わない言語だと、文章が長大化しやすい傾向があり、一部語彙も難解になりやすい問題を抱えている」し、そうした言語でその問題は未だ解決されていない。) (日本においてフリガナは、主に子供向け・漢字を読めない人向けという"未熟"な領域であるため、フリガナそのものが"幼稚で未熟なものである"ような印象を抱いてしまうことも不思議ではないが、「あらゆる言語で避けられない諸問題を緩和するための先進的な手法」として根付いているとも評せる。)
*蛇足:反対に「口語で文字を例える」 日本語には現代のフリガナと対をなす文化として、(おそらく古くから)「口語で文字を示す」という文化がある。日本語では文字を示さなければ意味を伝えきれないことも多いために、「使っている単語の文字にした場合の漢字を、より平易かつ分かりやすい表現でどの漢字であるかを示す」わけである。 例えば「シコウする」と言う場合、文脈が分からない状況や、もしくは特殊な語彙を使っていた場合、なんの"シコウ"であるかが伝わらない。そこで「"試す"の試行」「"考える"の思考」「"方向が向く"指向」「"志"の志向」など説明を適宜つけくわえることで、語の意味を精確に伝えられるわけである。 この技法は特に「名前の漢字表記を口頭(口語)で伝えなければならない」といった際にとても大切な伝達手段として文化的に根付いていると言える。なお文字種によっては、文字の詳細についての説明を必要とする場合もある。「ヤマと、サキの左が石のヤマザキ(山碕)、石編に大きいに可能の可」など。 (あるいは現代的な人名の"名付け"において、それが地味に面白い社会的意味を持っているとも言える。つまり、(名義の変更が無ければ)その人が「どのような気持ちを与えられて育ってきたのか」の一端を、"自ら説明する"機会があるのだ。日本人は、そうした「意味」を背負って生きている。) (なお。多くの欧州系言語では(発音から文字表記が確定しない問題があるために度々口語で説明しなければならないこともあり)、口語で言葉の文字を示す場合、それはおおよそ"口語体"ではなく"文字を列挙する"方式で済む。単語を繋げて作った長い用語でも、おおよそ単語の列挙で済ませられる。)
*閑話:「学習の一般性:さんすう編」 閑話。文字自体の話からはやや離れるが、(江戸時代~明治において)学習の一般化に際し基礎教養として「よみかきそろばん」がひとまとめに語られる。文字を読めること・言葉を書けること、これに並んで"そろばん"、つまり「算術(算術道具の扱い)」が基礎教養の一部として扱われていた。 現代でそろばんではなく「さんすう・数学」となり、実務においてはそろばんの使用は珍しくなったが、民間では"そろばん教室"としてそろばんの扱い方を学べる場所があり、主に子供向けに「効率的に"数の扱い"に慣れて、数の感覚を養い深めることができる方法」として現代でも一部実用されている。 多くの現代日本人にとって「さんすう」は非常に初歩的な教養であり、簡単な数式なら「暗算」によって楽に計算をできる。これは主にさんすう教育で培われているが、非常に学習性を考えたさんすうの教育体制を持つと言える。他の国でも数字に強い地域はあるが、日本では広い庶民が得意とする。 現代日本における日常的な光景として、「買い物の際に、おつりにかかる硬貨の枚数を減らす」という簡単な算術が、庶民においてとても広く見られる。例えば「560円に対して、600円ならおつり10円4枚、610円ならおつり50円1枚」といった硬貨の算術を、長考もせずに行い支払いを済ませるのである。 日本においてそうした"釣銭の調整"は、(特別さんすうを苦手とする人たちや考えたくない時を除いて)常識的な習慣の一種だとさえ表現できる。そのため主要各国の庶民層ではそうした簡単な暗算の感覚でさえ特殊技能だと思われていることに、驚きを持つこともしばしばある。庶民教育の深さが垣間見える。 (ちなみに。日本の貨幣の扱いは、そろばんの影響が大きいと評せる。外国の主要な貨幣の額面には「2:20:200(欧州圏)」や「25(米国)」などもあるが、日本では2000円札が根付いたのは外国の影響が強い1地域のみであった。これは一般的なそろばんの「1:5」単位に親しみ過ぎていた事が考えられる。) (補足しておくと。日本以外の国でも道具の"そろばん"に慣れ親しんでいる庶民層では、基礎的なさんすう能力が非常に高くなる傾向が見られる。これはおおよそ「数字に触覚的な学習も併せることで、強く脳内のイメージに落とし込み、脳の中で数字を総体的に扱えるようになる」と推定されている。)
*発展的な言語上でのオノマトペ性の基本的傾向 日本ではオノマトペ的な表現が豊富であるが、言語規模としては特殊な例とも説明される。「オノマトペの表現」は通常、おおよそ詳細な語彙に乏しい・より原始的な言語圏での表現手段という傾向が強いと考えられ、言語の整理された地域ほどオノマトペは縮小、制限されがちになると見られている。 それは詳細な「単語」が増えるほど"オノマトペの役割が縮小していく"とも分析されやすいが、もっと根本的にオノマトペと"音"の衝突が発生して"オノマトペの領域が削られていく"面も大きい考えられる。「オノマトペを使わないで済む」からはなく「オノマトペが使えなくなる」のだと説明しうる。 特に人が"楽に出せる発音"の種類は、あらゆるものを短く表現・伝達するために十分な数ではない。細かく見れば非常に膨大な音を出すことはできるものの、実際に語彙の混同の回避や発声のしやすさから言葉に使える音の組み合わせはごく一部であり、だが必要となる語の種類はそれよりはるかに多い。 地域によっては慣れた話者にしか判別できないような微妙な違いを「別の音」と判別して使える音が増やされたりもしている場合もあるものの、特に「使いやすい音」ほど"単語"が割り当てられやすく、多くの言語で「同じ音の語に複数の解釈・ニュアンスがある」という状態は珍しくなく見られる。 (典型的な傾向が、中国大陸の漢字圏である。多くの漢字を扱うためほとんどの音が割り当てられてしまい"音が意味になってしまう"。そのため中国漢字言語圏の文語では、ごく限定的な種類、漢字へと内包された伝統的なオノマトペが残っているくらいで、オノマトペの創出は困難だと説明できる。) つまり単に「語が増えるとオノマトペの必要性が減る」だけではなく、「形式的な語が増えるとオノマトペに使える語が減る」ため、言語の整理された地域ほどオノマトペが制限され縮小しやすい傾向があると説明しうるのだ。特に子細な音の表現があるほど、オノマトペはノイズになりがちだと考えられる。
*日本語におけるオノマトペ的な語の許容 そう説明しうるのだが…高度な体系を持つ言語かつ漢字を使う地域かつオノマトペ的表現にも親しむ日本語文化は、例外的な言語の代表例となる。日本語にも"詳細な語彙"自体は非常に多く存在しており、微妙なニュアンスを伝えるための手段そのものは存在する。しかし日本語は、言葉を非常に柔軟に使う。 現代日本語にあっても、オノマトペ的表現がいかに許容されているのかについて、最大の理由は「1語に音を多数使う」という言語形式だと考えられる。比較として、例えば英語の[use/used/using]は約2音に収まるが、日本語は[しよう/つかう/もちいる/しようする/つかった/つかわわれた]と3音以上を使う。 つまり普段から多数の音を並べられることで、オノマトペ的表現が音の構成として衝突する状況がかなり限定され、「音であるか語であるか」の区別が(比較的)しやすい言語体系になっていると説明しうる。もちろん全く衝突しないわけではないため制限される部分は存在するが、比較的自由度が高い。 もう一つの要素として。口語的な許容力だけでなく、(他言語でも珍しくはないものの)高度な"漢字"などの領域では「同じ音に全く別系用途の語」が併存するという難解性があり、これを"口語基盤の上"に乗せるように受容してきた歴史がある。つまり別系統で整備されていた語彙を広く受容しているのだ。 そうした漢字の影響により「同音異義語」が非常に多いため、"何を言っているのか"を推測する必要性が多い。つまり「言葉の意味に、推測の必要性を当然とする」という言語形式によって、音に対する意味の解釈の広い切り替えを、自然と受け入れる言語性が自然と備わっていくとも考察できる。 「文脈・状況などから、その"音"がどういう意図・どういう意味であるのか」を常に広く読み取る言語文化を持つことで、「同じ音に多数の意味が備わっていても、端的な処理もしやすい」わけである。それも(中国大陸と違い)あくまで地元の言語を基盤とした経緯から、原始的な「"音"の語」も広く残された。 日本語は歴史的に(漢字を文語の中核として使いながらも)"口語と文語の相互性"が深く、「旧来の地域口語をベースとして文語文化を受容し、さらに文語表現も口語表現へ広げていく、口語表現も文語表現から引用する」という経緯から、口語の持つ「言語の音の感覚」が非常に根深い文化背景がある。 日本語では「オノマトペ的な"熟語"や"漢字表記語"」も多く見ることができ、"厳密なオノマトペ"以外のオノマトペ的な語の数ではさらに多く数えられると言える。それは何より"音による語の区別"よりも、「音の繊細な運用による表現力」の言語の感覚性をいかに大切にしてきたかを読み取ることができる。 特に日本語では"オノマトペ的変形の文法"と言える細かい表現体系が存在し、伝統的なオノマトペはその文法を活用して、同じ音から細かい表現の調整を可能としている。それは非常に音象徴に適った使い方をしており、通常語彙さえも"オノマトペ的な語"として使ってしまっていると説明できてしまう。 "オノマトペ文化"の豊かさ、語彙だけではない発展性・創造性が、日本語がいかに「"口語からの音の表現"を深めてきた言語であるか」をよく示していると言える。また「発声が崩れても、よく伝わる」という性質があり、主要な言語の中で「声の表現・芝居」が最も自由なのは日本語であろうとさえ評しうる。
/蛇足:文語由来と口語基盤の言葉の併存 (例えば「現代文章で漢字熟語の表現の用例は実態として多数確認されると説明できる→今の書き物において、真名(まな)の並びと読みの言葉をつかった言い表し方はとてもよく見られると言える。(※真名:仮名に対する漢字のこと)」このように後によって音読み/訓読みを使い分けることができる。) (補足として。音読みは"漢字の元々の読み方"であり、熟語の多くは漢字と一緒に伝わってきたものであったり、あるいは音読みを使って新しい熟語・名詞などが作られてきた。訓読みは"日本の言葉へ漢字を当てた書き方"であり、書き字において言葉の可読性を高めるために適宜使うようになっていった。) ("熟語"は教養を必要とするものであるが、現代では簡単な熟語・親しまれている熟語が多く、日常語の範囲であってもよく使われ、一般的な感じ方においてそれらの区別はかなりあいまいだろうと考えられる。注意しておくが"漢字のみ"であっても、訓読みのであることは珍しくも無い。) (先ほどの例文は、より整理した表現をするならば、「現代の文章では熟語を使うことはとてもよく見られる」とシンプルに言い表せる。口語体をベースとしつつも、より端的かつ的確な表現の熟語を用いることによって、表現を短縮し、また非常に効率的な可読性を持たせることができるわけである。)
*オノマトペ的な語彙を許容する独特の経緯、また歴史のおさらい。 その日本語の特殊性を生み出した背景の一つとして「"文字"そのものの権威性が薄い」という文化背景を見つけられる。世界の主要言語の多くが「あたかも"高度な文字とその言葉によって世界の全てを表現できるはず"と思い込んでいる」ような傾向で、おおよそ「文章の言語が有意になりがち」に見える。 つまり(特に英語や中国語など)「文章を書く際には合理的である言語」を"可能な限りそのまま口語においても使う"ような言語の傾向が見られ、「文語文を元に口語を教育する」ようなパワーバランスだと見受けられる。そうなっていない言語地域は、そもそも口語と文語が分離したままなことが多いと見える。 そのようにして「文語文」が言語の軸となった場合、「口でのみ表現してきた言葉・文語に存在しない語彙」は"言葉としては存在しない"ような状態となり、(口承が途切れる前に)文字として書き留められていた"使いやすい"口語表現を除いて自然と消滅していくこととなると説明することができる。 また、主に使われている口語語彙なら文字へ残されやすいと考えられるが、「主要な文語の言葉と被る("音"の範囲が衝突する)ような口語表現」は当然、まぎらわしいために口語側の意味を制限・封印させなければならなくなる。当然「分かりやすい(幼稚に使われやすい)音」ほど制限にかかりやすい。 日本語は「文字を口語に合わせて拡張する・口語も文語を一部参考にする」くらいの強い相互性を持って使われ続けた歴史があり、口語的な感覚性を維持しながら、並行的に文語的な機能性も整備され、江戸時代辺りから融和がさらに進み、近代以降で"口語体"をベースに統合したのが現代日本語である。 それらは日本の文字文化が、知識層の"正当性の証"だとか"権威の背景"などのために頑固に守られてきたものではなく、あくまでも「意思疎通・情報伝達の手段として効果的に使うべきもの」という、言語の持つ本質を求めてきた結果。それにより口語文語の感覚と機能を両立したまま統合してみせた。
*閑話:発声の歴史的変異とその考察 (ただし使われている自然言語において細かい変化は避けられず、日本語でも口語表現・文語表現は強い影響を受け合いながら長い時代の経過を経て、「"発音"が変化しているのではないか」と言われる例、また「発音が消失する」「新しい発音が受容される」といった言葉の変化は見られるとされる。) (近代~現代的な例として、近代から輸入された外来語の中の「ファ/フィ/フェ/フォ」「ヴァ/ヴィ/ヴ/ヴェ/ヴォ」「ディ/ティ」などはやや現代的な発音領域と説明でき、当初は「ハヒヘホ」「バビブベボ」「ヂ/チ」と単純化した音の表記と発音だったようで、今でも慣れない人には単純に発音される。) (なお"言語の形成"として、世界中多くの言語で細密な音の分類が見られる中、日本語が音の識別においてかなり単純であることはかなり不可解である。ほぼ全ての音に「母音」が存在し、例外的な鼻音/促音も"1音"で扱われる。また「明瞭な1音節」を基本としていることも、かなり独特だと評せる。) (その状態は「文語と口語の相互性」の影響が大きく考えられる。つまり、「漢字を自国の言語体系で受容する」ことで生まれた"仮名文字"は、「単純化された表記」である可能性を考えられてしまう。つまり"近似する複数の発音系を1字にまとめる"ような作業が行われたのではないかという疑問である。) (1音1字にまとめられていくことで、「子細な変化が消失、または潜在化した」のではないかという想像である。英語で例えるなら「cの発音帯がkとsに振り分けてcが失われるような状態」だ。現代の日本語でも鼻音「ん」は潜在的に、発音上「m閉口/n舌前/n舌奥」の3種の変化を確認できる。) (日本人は「L」「R」の区別をしないとされており日本語の「ら行」は、"L寄り"のようでLではない発音をする。しかしそこにも「微妙な発声の変化」が潜在しており、短音などL寄りだが、語に混じると"R寄り"の発声になってる場合もあり、しかしそれらを区別せず「ら行」にまとめている。) (おそらく仮名文字の整理の際に「厳密な区別より、分かりやすい区別」が進められた結果、ひとまず"いろは"の文字数に落ち着いたのだろうと考えられる。それからその状態で時代が進んでいくと、さらに発音の変化が生じていき、やがて現代的な文字数・文字の割り当てに整理されていったのだろう。) ("1音節の明瞭化"は、"和歌"の文化の流れから「綺麗に5音/7音(≒5字/7字)にまとめる」という美的感覚が先鋭化していった影響が強いだろうと想像しやすい。日本の言語は太古から「音は1音ずつ分割して発声できる」という基本認識、言語感覚を強固にしていったのではないかと考えやすい。) (これはおおよそ「全ての音においてほぼ同量の"大声で発すること"をしやすい」と説明でき、それは古来の和歌の源流やその他文化の影響から、「少し距離があっても互いに精確な語として認識しやすい」ように"整頓されていた・整頓されていった"のではないか、といった想像もできる。) (仮名文字に「長母音」自体を持つ字が無い点も、おおよそそうした"和歌"など古典芸能の文化に影響されているだろうと考えられる。例えば英語のAは1字で「ァ」もしくは「ァォ(1音節)」「エィ(1音節)」の母音を取れるが、筆記した通り日本語の表音文字では繋ぐ音の字を置いて長音を表現する。) (なお言語的に"発声の細かい種類"が失われると「使える音の種類が減る」わけで、それによって「語の重複が発生しやすくなる」という甚大な問題が生じる。しかし日本語は「口語体系」とは別に「高度な文字(漢字)による分類」も併用することで、音分類の減少の不便を克服できる言語体系とした。) (日本語は、文語における形式的な機能性も確保しながらも、文語と口語の融和的な「字と音の単純化」、近似の個別化を増やし過ぎず、発音の区分も分かりやすい"おおよそ明瞭な分類"を実現したのだろうと説明できる。この区別の単純化は"方言による子細なブレ"も一律ひとまとめの整理を容易とした。)
*オノマトペ的表現の拡張「効果音の描写」 そのようにして「言語における音の感覚性」を大きく残す方向性で発展してきた日本語では、古くから「オノマトペの文字化」もあり、オノマトペ的表現の伝統を続けてきた。そうして"文字化"は長らくされてきたが、"文字表現"として劇的に拡張されたのは現代の「マンガ」での"効果音の描写"だと言える。 おおよそマンガ体験に臨場感を持たせる手法として導入された「文字で効果音を描く」手法は、現在では"基本的かつ極めて重要な表現"として発達していった。「マンガ」の紙面上には"音"自体は存在しないが、"音のイメージ"を描くすることで、子細な雰囲気や衝撃の強さをより効果的に表現されている。 特にマンガ上の効果音は「文字の絵的表現」としても非常に大胆である。表現に応じて"ひらがな"・"カタカナ"、その他の文字も適宜使い分け、また書き方としても文字として非常に大きな変形や修飾・装飾表現もしやすく、音を表しつつ「どのような音であるか」がとても細かく表現されることもある。 「絵に効果音の文字をつける」表現自体は新しいものではなく"コミカル"な表現法として他地域でも見られるが、"感覚的に文字そのものが音と深くつながっている"日本語圏では、"効果音描写"の表現の豊富さだけでなく、感覚的にもより効果的な表現として成立しているのだろうとさえ考えられる。 またほぼ"日本独特"で、特に"効果音の描写"を豊かにしている点として、"文字"に「ー(伸ばし棒:前の音を長音にする記号)」があり、これを伸ばすことによって長い音を表現することが許され、またそれを"揺らぎ線~"にすることで、音のブレやその勢いを【直感的に】描写することまで可能としている。 現代の日本のマンガは多数の作品が翻訳されて外国へと展開され、各地で人気を博している作品も見られるものの、その「絵における効果音の表現」は多くの他言語へ十分な翻訳が困難なもので、そもそも言語的な感覚上、本来"描かれている感覚"を十分に理解できているか疑わしいと言わざるを得ない。 翻訳を含め。他の国における「コミカルな絵の効果音の文字」は、おおよそ"伝統的なオノマトペ"か、それが無い場合は"状況・状態を言い表す単語"が代用されがちであり、"音のイメージ"と言う面で不自由している様子がよく見られる。(なお例外的に。韓国語は"日本よりもオノマトペは豊か"らしい。)
*伝統的語彙のオノマトペ的な語 日本語の「サンサン(燦々)とした日差し」「コウコウ(煌々)と照らされる」「非難ゴウゴウ(囂々)」「ゴウゴウ(轟々)と燃えさかる」「目をランラン(爛々)とさせる」「ヒョウヒョウ(飄々)とした人」これらの語彙は、一応漢字はあるものの字の想像は難しい、実質的には「オノマトペ的な語」である。 それらの語彙は(日本語話者なら)たとえ漢字を知らずとも、音を聞いた・音を読んだ際におおよそ似たようなイメージを持つことをしうる語彙だと言える。ちなみにこうした"漢字を持つオノマトペ的な語"はほぼほぼ「中国大陸から輸入された漢語の引用語彙」だと考えられ、元が日本生まれとは限らない。 つまりオノマトペ"的"な語彙でも「漢字由来(先に読みがあってオノマトペ的な語彙として受容される)」という場合があったり、またそれ以外にも「他の言葉由来」であったりすることも珍しくない。それらは基準によって、"厳密には(狭義の)オノマトペではない"と位置づけられてしまう場合もある。 しかしながら「音が感覚的に通じる」のであれば、それは「オノマトペ的な語彙」と位置付けることはできる。なんなら「オノマトペではない」と言われる語彙でも、"その語彙の存在をよく知らないままに、創出的に発せられたオノマトペ"の存在の可能性も考えるなら、その区別の厳密性も疑わしくなる。 深堀していくと「しんしん(-と)」は、古くは漢語の「深深(奥深く静かな様子)」と「森森」から、やや混同されながら"静寂を意味する意"で用いられていたが、現代においては主に「静かに雪の降る様子」に使われる表現である。古い伝統的語彙が、より「"オノマトペ的"に再解釈されている」と言える。 そして現代日本語では短縮した「しん(-とする)」で「(おおよそ音のある状態から)静かになった様子」が言い表され、さらにマンガの効果音文字から広まった「しーん(-…)」が「(ひどく)静かな様子」を表現する語となっている。これは"音の丁度良さ"から、広く応用されていると考えられる。 あるいは。漢語由来のオノマトペ的な語の中には、反対に「漢語から輸入されてはいたが、日本に馴染まず、日本では使われず消えた語彙」もおそらく少なからず存在したであろうと考えられる。それを考えると「古くから残っている"オノマトペ的な語"のオノマトペ性」は、かなり高いだろうと想像できる。
*その他のオノマトペっぽさを持つ語彙 口語と文語が深く相互に関わってきた日本語では、語の「音象徴」の傾向が多いと説明でき、より広く「オノマトペ的な語・オノマトペっぽい言葉」が多数ある。例えば「餅(もち)」という名詞があるが、つきたての餅のような感触を表現するオノマトペ的な語として「もちもち」という語が使われる。 あるいは"オノマトペ"とも認識されつつ「言葉を由来とする表現」も多く、「のんびり」「ゆっくり」のような語彙は「のびのび(伸びる)」「ゆくゆく(行く)」からの「○×○り」変形を由来とするとも説明でき、一方「にっこり/にこにこ」「ぎっしり/ぎしぎし」はおそらく純粋な擬態語/擬音語である。 ようするに「通常の語彙が、"(音象徴を誘導する)オノマトペの文法"と同じ変形をして使われる」というパターンも多いわけである。「冷(ひ)やし/ひんやり/ひやひや」「密(ひそ)か/ひっそり/ひそひそ」や、あるいは「すっきり→近似語:すき(隙)」などのような一部の変形からも連想できる語がある。 "2回繰り返す文法(畳語)"の活用は漢語由来で使われているものも多くあるが、漢字に「訓読み/日本での読み」として割り当てられている語を用いて同じような表記をしている語もある。例えば「軽々(かるがる)と」「痛々(いたいた)しい」など、(音表現というより)"小気味よい言葉"の語彙と言える。 だいぶ特殊な例として。「みずみずしい(漢字表記:瑞々しい)」という語は(水そのもの以外で)水分を感じる様子で受け取られる。漢字の「瑞」をこのような形・このような意味として使うのはかなり飛躍しており、音として完全に「水々しい」の字のイメージで使われ、聞き取られているだろうと説明できる。 このように日本語は「オノマトペの文法」を体系的に活用し、それを通常の語彙にも応用している場合もあるために、厳密な区別をすると「"純粋なオノマトペ"と"疑似的なオノマトペ"が分かりづらく混在している」とも説明できる。この形態は歴史的に"口語表現を大切にしてきたからこそ"だと言える。 (積極的な予想をすると、もしかしたら「元から"訓読みに割り当てる音が先にオノマトペとして生じていたもの"、つまり"オノマトペの語彙へ意の一致する漢字を当てはめた"ものも一部あるのではないか?」という可能性を考えられてしまう。語によるオノマトペの分類も根拠に欠けると言えてしまう。) (それはこれまで説明してきた「文語を使う知識層も発声語彙を大切にしてきた文化がある(和歌など)」「文字と口語の接近的・融和的な歴史の流れを持つと説明しうる(仮名文字や一部古典文学など)」「近代の言文一致でも口語をベースに文語文を近づけた」などから、そうした語の可能性は否定しえない。)
*日本文化と外国語彙 現代日本では教育文化が広く文字を扱える人も多いために、「創作文化」に親しむ人々が非常に多い。それは「知識的に知っている」だけではなく、"新しい創作を生み出す"という人々も多く、それによって様々な表現の創作作品が日夜生み出され続け、その中からヒット作品が度々生まれている。 欧米などと比べて特徴的とされる点として。日本の創作作品は「個人の作家」を軸としていることも非常に多い。もちろん他国でも文芸作家、アーティストなどが個人の作家であることは多いと考えられるものの、小規模を含めた"個人創作者"の規模は、"日本:世界全体"と比較できそうとさえ思えてしまう。 重要なのは、日本でも大規模な「商業的に考えながら作られた作品」もあるものの、小規模なものを含めれば「表現したいものとして作られた作品」もまた非常に多いと言える点である。そこにおいては非常に自由に(あるいは無規範に)、様々な表現も深く模索、探究され、新しい表現が創出されている。 そうした中で。「受け手に広く理解されるかどうか」は最低限の配慮にとどめて、表現性を優先して"理解できる人が理解できればいい・知りたい人は調べればいい"くらいの表現をしてしまうことも広く許容されていることで、作品に「外国語彙」も好きに使ってしまうことができているのだと評せる。 また日本の作家、特にファンタジー系の作家にとって「外国語」は非常に便利な「特別な響き」を与える表現法としてよく使われている。典型的な非常に単純な表現法の慣例として、「Isekai(異世界もの)における、作中異世界の登場人物は"外国的な名前"・リアル世界人は"ニホンジン"が標準」である。 日本語では、そうした"別世界"的な区別を"視覚的≒直感的"な印象として表現することができる。当然、反対に「日本人的な名前」であれば、当然"現実世界に近い世界観"を連想させやすく、意識的にあるいは無意識的によく使い分けられている。絶対の法則というわけではないが、便利な表現となっている。 その他にも、特殊な名付けなどにおいてその他の外国語から引用して使うことも多く、表現の幅を広げている。日本語にとっては、なじみの薄い外国語彙さえも「日本語の作品に流用可能な語彙の宝庫」として広く扱いやすいわけである。その語の現地人からするとだいぶ特殊な名前であることも珍しくないが。 あるいは「外国語由来の響き」そのものが、日本の創作文化にとって一つの良い刺激であり、そこから新たな創作が生み出されていくこともある。それも「カタカナ語で書ける・ローマ字で書いてもいい」。それ以外でもカタカナ語やローマ字を並べれば「異邦」な様子を明瞭に表しやすいなど表現性が広い。
*蛇足:"日本語の論理性"について(読み飛ばし可) 時折「日本語は論理性に欠ける」という評がある。しかしそれは非常に狭い認識・浅い知識による誤解や浅慮による評だと言える。日本語には「日常的な機能面」も非常に豊かすぎるくらいではあるが、日本語が培ってきた表現性は「形式的な機能面」への応用も可能であることを、現在の日本が示している。
/仮定の明確化 もし「言語的に論理性が欠ける」かどうかを考える場合、"言語的な機能性の評価"は簡単ではないために「言語の表層的な要素」から論じるより、まず「それによってどのような状態が生じると考えられるか」を想定し、「実際の状態が、特に他言語と比べでどのように評価できるか」も論じるべきだろう。 もし「言語的に論理性が欠ける」とする場合、最も顕著な影響を引き起こすと想定されるのは「"最も論理性を必要とする"だろうと説明できる科学分野」などにおける問題である。つまり"論理性に欠ける"場合、科学分野において様々な齟齬の頻出と、それによる研究の停滞が生じているはずだと想定できる。
/仮定の誤謬 だが、現実として「日本の科学技術は、世界的に見て決定的に"劣る"と言えるものではない」と言えるはずである。日本人の科学的活動において世界的な評価される部分は多く、おおよそ世界的な水準の科学を持つと言える。だが日本の科学分野は、基礎的な学習から大部分において日本語で行われている。 (一つ注意しておくが。一部の非英語圏の国では「学術分野は第二言語の英語する方が合理的である」として、それらの領域を全て英語で進めてしまうケースもあるらしい。それらは主に、おおよそ最新の科学情報を翻訳しきれる社会規模ではない・国内研究のみでは立場が弱いと言った事情であるが。) しかし日本は近代化以降も「日本語への翻訳を行い、国内においては基本的に日本語をベースとして学術研究を行う」ということが一般的であると言える。「最近では英語ベースに~」といった話は"これまでの日本の歴史"を説明していない。歴史的に、日本語を基本として研究を進めてきた流れを持つ。 もちろん、外国の最新研究情報の入手や、外国への発表という際には英語他外国語を使えなければならないために、国際的な場面においてはそれらも当然使われてきたと言える。しかし、国内的な研究の場において、あるいは国内における教育・学習の場においては、ほぼほぼ日本語が基本であったと言える。 そして科学とは論理性の構築が絶対的に重要であり、論理性の能力が不十分であってしまっては科学技術の進歩は全くほど遠いと説明されるはずである。だが、現実の日本は「科学分野でも日本語を基礎として基本的な教育・学習を始められ、適宜他言語を使う程度」で、今の日本の地位に到達している。 それはつまり、もし[日本語は論理性が欠ける]という仮定が真であった場合、その「日本語をベースとして教育学習また多くの研究を進めてきた日本が、現代の科学分野において世界に比肩するほどの進展を見せている」ことについての妥当な説明を構築することは、困難だと言わざるを得ない。 ようするに、「日本語を基礎とした社会環境によって、世界に比肩する科学的進展を見せている」という状況なのだから、[日本語が、論理的機能性において、科学技術を扱えるだけの機能を十分に有している]と評価する方が、論理的な一貫性を整理しやすく、その方が妥当な説明になると言える。
/比較の誤謬 欧米言語に比べて~という観点については、そもそも「言語体系が全く別物である」ことを理解するべきであり、また欧米言語においても言語的な欠陥性を少なからず抱えていることも珍しくはなく、"どちらかが優位である"という解釈はむしろ言語的な知識に全く欠けていると評することもできる。 言語的なものではなく、「文化的な面において"慣れ・不慣れ"が生じやすい」という観点くらいであれば、まだ現実性のある論理に収まると言えるが、人間の生物的な能力の機能として、どの地域どの言語であっても高度な学術的活動のためには相当の教育と学習と、それによる習熟が不可欠である。 欧米言語話者であっても、高度な学術的活動に親しんでいない場合に、そうした水準の論理的説明を当然として構築しうるのかといえば、全く期待できないと言える。これはあらゆる地域において"学力的な差・知力的な差"は生じている実態を確認できることから、これを否定することは難しい。 日本人として、もし外国の文献を見ていて「多くで論理性が高い」とするのならば、それは"文献に触れている"のだから論理性が高いのは当然である。また日本において、非論理的な文章ばかりが見えるならば、それは「母国語だから様々な性質の文章を見れるだけ」という情報の不均衡が想定できる。 もう少し踏み込んで表現するのならば、日本社会は特に「"非知識層を含めた極めて広い人々"が文章を書ける文化性を持っている」と説明できる。これにより、日本では社会に存在する文章の多くが「日常的な表現」や「芸術的な表現」ばかりであると考えることができ、不均衡性はさらに強いと想定できる。 しかも日本において、日常的な範囲で「高度な形式的文書」を熟読する機会は中々ない。多少形式的な雰囲気のある文書でも、日常の範囲ではおおよそ「(日常向け)一般人向けに編集された表現の文書」が多く見られ、厳密性の高い文書は中々見られない。そのため「よく知らない」ことも珍しくはない。 ようするに。そうした比較はまるで「日常語」と「公文書」の精巧さを比較してしまっているような状態になってしまいやすいという話である。どの言語であっても、日常語において精確性に欠く部分が多くなるのはごく当然の話であるし、公文書や法的文書などの場面において厳格さが強いのも当然である。 (なお。「意図的に"拡大解釈"もしくは"曲解"をする」という可能性については、あらゆる言語において生じうるものであると言うべきである。それこそ公文書・法的文書などと同等か以上に"冗長なほどの厳密な表現法"を取ったとしても、どの言語でも"曲解"の余地の全てを完璧に防ぐことは至難である。)
/補足:厳密性の誤謬 また「英語は文法の形式が固定的であり、それによって論述における精確性が高い」といった点を比して、「日本語は"同じ文字列"でも意味が定まらない場合があるため論述における精確性に欠ける」といった観点もあるが、「精巧な文書のために、おおよそ一意な読み方の文章構成をできる」機能性はある。 それに。欠点の話をしてしまえば、英語は文法的な固さがあるために"語の配置・位置づけを間違えると、その時点で状況や意味が大きく変化してしまいやすい"という欠点を抱えている。それは文章を書く際においてだけではなく、読む際も「1文全体の構成を毎回読み取り、理解する」手順が要求されやすい。 (そのため英語でも"模範的な英文"と"正しく伝えるための英文"には、実のところズレが見られる。文章が分かりにくい場合に、語順や表現などを調整して分かりやすくするといったことはどの言語においても大切な作法であり、またその作法を身につけるためにはどの言語でも相応の習熟は必要である。) 日本語は、近代化の際に「(難解さのある)日本語の文語を使いやすくする・読みやすくする」という目的から多く整備が行われ、その中で"様々な文章記号"の導入によって、文章の可読性を改善できるようにしている。また「読みにくい文章が悪文である」ことは、日本語のみに限った話ではない。
/補足:視点の誤謬 なお「日本語には"あいまいな語"が多い」などという評も、それらの語はその言葉の使用が妥当である場合において使われるべき語彙だと位置づけられる。それに「あいまいな≒確定的な情報を持たない語彙」でも、状況によって「確証がない・確約できないことを断言する」よりは"誠実"だと言える。 蛇足だが。言語上の「あいまいな表現」そのものは、おおよそあらゆる言語において"不可欠"だと説明できる語彙であり、実際多くの言語では少なからず確認することができる。人間にとって、「確証のある・確約できること」ばかりではないために、特に日常言語において存在しないことは考えられない。 「より多くの人々が関わる社会体制であるからこそ、言語的な機能として調整的な機能性が拡張されてきた」という可能性を説明することはできるが、それによって"「言語の論理的な機能性」が根本的に損なわれる"という理屈は、あまりに飛躍しすぎている。別カテゴリの領域を混同しているだけだ。 また、もしその傾向が、日本語の機能自体に強い影響を及ぼすのだとしたら、日本の言語を元として成り立っている多くの技術があいまいで不安定な傾向を抱えていなければならないはずではないかさえ考えられる。だが実際の所、日本の技術力はむしろ高い安定性の評価を受けている例が多いと言える。 言語的に"あいまいな語"を多く含んた状態でも、現実的な実態として世界に対して極端に遅れた状態ではない。そこから仮定するなら、むしろ、"あいまいな語"を含みながら十分な結果を出しているのだから、「論理性において、そうした語の機能もまた必要な機能ではないか?」という可能性を疑いうる。 例えば。もし"あいまいな語をあらゆる場面で使える"と仮定した場合でも、研究において、「確度の低い場合に"確度が低い"ことをあらゆる場面において言い表しうる」という機能性があり、むしろ論理的整合性を補う・保つように使うこともできる。"要調査"を端的に示し、より"誠実に論理的"だと言える。 (あいまいな語を不適切に使うことは論外だが。説明において"情報の確実性の評価"を適切にできない場合、論理的に大きな不具合が生じてしまうことになる。特に「不確定なものの断定」は科学の論理性において禁忌と言うべき誤謬であり、「不確定であると断言する」方が、はるかに論理的である。)
/評価の誤謬・理想化の誤謬 もし日本語が「論理的機能においてとても劣っている」のだとすれば、日本の現状から考えてその不十分さを克服するために多大な苦労や余計な労力を払っているはずであると説明でき、にもかかわらず世界的に遅れてもいないことを説明するには、世界が"ひどいなまけものだ"みたいな理屈が必要だ。 しかし実際に、他国が"ひどいなまけものだ"と不均衡に評価することは現実的ではない。もしくは、「日本語は論理的機能において不十分である」という評価基準と、現実世界での実態との整合性を自然な論理において合わせるには、「他言語も論理的機能において不十分である」と評価する必要性が生じる。 現実の国際社会において、日本の技術力が決定的に劣っていると評することが実態に則さないと言える以上、そうした現実社会での実態をふまえて、「日本語が"相対的にとても劣っている"という理屈を成立させることは全く非現実的」であり、認識不足による過小評価だと説明づけることができる。 日本語は「欧州系言語とは大きく異なる」と評せるが、それが直接的に"日本語の機能的不足"を示す根拠にはなりえない。基本として、言語的また文化的な基盤が大きく異なり、その基本的手法に違いが存在すると評される。しかし結果を残しているのであれば、それが機能不全を示す証拠にはなりえない。 それこそ。論理的機能というものは、あらゆる言語において何かしらの欠陥性を論うことができるものであり、現実的に人類は"完璧な言語"というものを持ち合わせているわけではない。そのため「最も妥当な方法・言語を扱うこと」が現実的な手段である。ただ悲観的な理屈を並べることは作家の役割だ。
/インテリ層の誤謬 あるいは。どうしても"日本語は劣る"という視点を崩せない場合、「知識層はみな英語を使っていて、研究はみんな英語で、そこで日本語は使われていない」などといった視点を提供してくれるだろう。もちろん高度な研究ほど「英語が避けられない場面」は、少なくないとは十分に考えられる。 しかし日本における、"英語を十分得意とする・英語によって日常的に高度な情報交換が可能な人"というものが、日本の研究現場を覆いつくすほど多く存在しうるかがまず疑わしい。日本の学校での英語教育は不十分だと言われ続けて久しく、"英語を得意な人"はそれほど大量に育てられてはいない。 それに「日本の現代的な技術発展」は数十年前から、近代的な発展はおよそ明治期、100年以上前から始まっていたものであり、特に長い昭和にかけて劇的な成長と技術的な発展を見せているという歴史があり、その頃から「知識層全員が英語に堪能であった」と仮定することは、全く非現実的な視点である。 その昔から知識層で広く英語が使いこなされていたのだとしたら、高度成長期の頃から英語教育環境はもっと合理的に整備されていたであろうと考えたいものであり、しかし実際の現代日本では英語の基本的な教育期間は遅く短く、「日本人の多くが英語に苦労している」という社会のままである。 また日本では多くの学術的知識が「母国語に翻訳されて整備されている」という学習環境を持っており、実際、日本語の学術的な学習の基礎は、多くの分野においてまず母国語の教材を持ちて始められていくもので、分野によって範囲はまちまちだが母国語のまま進められる範囲はわりと広いと考えられる。 よって、むしろ「国内での学術研究を含め、多くの場合で"英語の常用"を必須としない状況であったからこそ、日本における"基本的な英語教育の必要性"が重大な社会課題にならず、万全な教育整備が遅々として進まない」と考えてしまう方が、現実との一貫性を持った説明を可能とすると考えられる。 実際、「各国の論文の比較調査」の分析で、近年日本では論文の多くが英語で発表されているという実態を確認できるが、日本語論文も件数としてかなりの量が確認されている。「日本語なんて使われていない」という仮定は、「日本語論文 割合」の分析(日本公機関の発表)の情報によって否定できる。
/日本語の学習性の誤謬 なお日本語が「世界的な言語にはなれない」という点で、それは「日本語に非論理的な性質が多いから」などとあげつらうこともできるかもしれないが、日本語の難しさは主に"日常口語的な領域において、過大な困難を伴う"という難しさであり、習熟者による機能面の欠陥を直接的に示せるものではない。 日本語は感覚性が強く、ネイティブでなければ中々その力を十分使えないという極めてローカル性の強い言語であるために、それが世界的になることは確かに難しいものである。だが大前提として言語は大なり小なり感覚性の側面があるもので、日本語は口語領域においてそれが特別に顕著なだけである。 また日本語は世界的には稀な「"口語体"をベースとして文語体を調整する方式によって言文一致を成立させた」という経緯から、現代日本語では文語においても口語体の作法が用いられるために、ネイティブでなく、その口語の感覚に慣れていない場合、文語の理解も難しいという事情も存在する。 ついでに。国外で日本語自体が影響力を持てない・持ちにくい実情については、「言語としては国際的な存在感は薄いので重要とされにくい」という現実的な事情も大きくかかわるもので、日本語の機能性自体をその根拠にすることは不適切である。「英語は広く使われているからさらに使われる」のだ。
/英語の学習性の誤謬 強烈な思想がある場合には「英語は世界中で使われているため、習得は容易なはずであり、日本語話者にとって習得が難しいのは日本語が"劣る"からだ」などという観念を持ってしまうような可能性も想像できてしまうところだが、「英語が広く使われているのは、広く使われているから」だと言える。 一応その前段階として、英語を使う英米辺りにおいて、その人材規模・経済規模を背景として先進的な技術研究などを牽引する状況が近代から現代において発生し、最新の研究情報を得る・最新の環境を使うためには"英語の学習が必要になる"というパワーバランスが発生し、英語の重要性が非常に高まった。 英語圏がそうした牽引的な立場になった結果「英語が広く使われることでさらに多くの情報が自然と英語へと集積されていき、英語を学ぶことがさらに重要となり、国際的な共通言語として機能するようになっていった」という流れでしかなく、それが"英語の学習性が優秀である"という根拠にはならない。 むしろ英語もまた、その学習性において難点を大きく抱えていると揶揄されるべきである。代表的な部分として「発音と文字表記の乖離」や「多くの単語の多義性」という問題は、学習や使用において「母国語話者」ですら乗り越えるための努力が求められる、学習上の大きな段差になっているとも評せる。 ("十分な学習の機会を得られた人間が十分に使えるかどうか"という点は、その問題からは若干外れる。執拗なまでに「音と単語とその用例」を頭に叩き込む必要があり、もし(特に幼少期~初期Schoolで)機会が不十分だった場合、簡単な文章の筆記すらも困難を極める恐れが大きいと評せる。) (また英語は「文法上の配置によって関係性を読み取る」という形態をとっているため、【文章上に、関係性の直接的な明記が行われない文語体である】と評することもできる。つまり"文語の作法を理解しなければ読解そのものが困難になる"という難点を持つ。"文章から推測して"、理解する必要がある。) また英語は、特に欧州系言語の話者であれば、地理的・言語的な近さによって、第二言語として比較的習得をしやすい立場にあることもあって、特に先進的な欧州各国では英語がさらに使われやすいと言える。その他にも、一部の小国においては学術領域を全て第二言語の英語で取り扱うといった場合もある。 一方で日本は、地理的に欧州圏から東の最果てに位置する国であり、言語的にも英語とは大きく異なる言語体系を持っている。また発音体系として使いやすさのために単純化した語を持つために、子細な発音体系に馴染むのが難しく、そもそもとして"直感に反する言語体系"自体が、純粋に覚えにくい。 日本語話者にとって英語の学習が難しいのは「言語的な体系の大きな違いがある」からであって、そうした「互換性の難しさ」自体は、「日本語自体が持つ"日本語における機能性"の欠如」の根拠として論えるものではない。言語的な拡張性で言えば、むしろ英語語彙を日本語語彙に落とし込む拡張性は高い。
/現代のアルファベットの誤謬 欧州系言語の有用性として「アルファベットという30字に満たない文字の組み合わせで、あらゆる音を表せる合理的な文字」などと吹聴されている場合もあるが、現代社会での、特に英語の実際の言語的な運用としては全くの欺瞞と表現しなければならない、"正しい実態"を直視していない評価である。 現代英語の母音の主な字は[a/e/i/o/u]と日本語同様の5種…だが実態は【現代の発音では各文字に複数の読み/音の変化がある】ため、実際は【文字の組み合わせごとに発音を覚える≒単語ごとに発音を覚える】という手間が不可欠である。現代の発音規則として、全く単純明快ではないのが実情である。 例えば[cat/car/case/call]は[カト/カル/カセ/カルル]なんて単純な読みではなく、カタカナ表記なら「キャット/カー/ケィス/コール」と全く異なるaの発音となる。つまり「アルファベットの文字」だけを覚えても、現在は"音と字の統一性が不完全"であるため、実際はろくに使えないわけである。 実際に英語の音を使うためには【単語ごとに音を覚える】という手間が不可欠で、さらに「現在の文字表記が音を完璧に表してはいない」という実態から、語と音の繋がりの直感性は決して素直と言えるような分かりやすい言語ではない。母国語話者の基礎教育でも、その習得には大きく労力を割く。 特に直感性という面で[aにア/エイの分岐があり一部オーの音も紛れる][eにエ/イーの分岐があり一部ア/ウの音も紛れる][iにイ/アイの分岐があり一部イー音になる][oにオーだけでなくア/アウ/ウーの音も紛れる][uにウー/ユーだけでなくア音もある]など、単語に対して直感的な理解が全くできない。 もしかしたら(あるいは、おそらくそうでなければ全く不合理である)という話として、原始的な古代のアルファベット発音では文字と発音について今よりもっと統一性を持った読み方をしていたのかもしれないが。現代、"現在の英語"での、字と音の統一性・直感性は著しく低いと評されるべきである。 (ちなみに補足しておくと。「英語」と言っても実際は各地域で変化した、"地域性"が強くある。イギリス英語(大本)・アメリカ英語(有名)・カナダ英語・オーストラリア/ニュージーランド英語・その他地域性英語などなどが見られ、単語文字列(スペル)・語彙・発音・文法など、結構な違いが見られる。) ((もし日本を英語化させた場合、恐ろしい独自性を持った「日本英語」が形成されていた可能性は極めて想像しやすい。LとRの発音の区別をしないなど初歩的な所で、ほぼカタカナ語として明瞭すぎる単純化された声で会話していただろうし、また文法においても魔改造された可能性は著しく高い。)) (おおよそ中世以降、別言語となった言語におけるアルファベットで、その性質が最大限生かされたのは【活版印刷など機械化の効率性】である。文字種が少ないことで、活版印刷やタイプライターをとても効率的に運用でき、出版量を著しく高めたと評せる。例えば漢字圏では困難を伴った。) (そうした【機械化の効率性】という長所から近代化~コンピューター発展前までの間では、アルファベットを使う国々が情報の拡散性や流通速度においてはるかに優位な立場となっていたと評せる。日本でもその時期において、文字の簡略化やローマ字化が少し論じられるといった時期もあった。) (なお。時代が進むと「電子機械・コンピューターの発展」によって、日本語の文字の種類における"情報技術的な不便さ"はかなり緩和されていく。"技術的不利"という面は強く意識されていたため、"日本語のワードプロセッサ"が実現されるや数年で普及していき、さらにパソコンの時代へと繋がる。) (ちなみに。欧州系言語の中でも、「字と音の乖離」という傾向として英語はかなり著しいと言える側の言語である。他の欧州系言語ではもっと乖離の少ない場合もある(※ただし少ない例でも一部ある)のだが、世界的に広まったのは"社会的に世界で一番強い影響力を持った"英国の言葉である。)
/国際化の誤謬 「日本の国際化」が限定的である点は、「日本語が劣っている」などという観点で説明しうるものではなく、日本地域が社会として十二分な経済規模、社会規模、文化規模を持っており、特に一般庶民において国際性が不可欠となりにくい社会情勢となっていることから説明することが妥当である。 日本は、"多くの人々が積極的に国際性を持たなければ立ち行かないような社会"ではなく、「 できる人々ができる範囲で国際的なことをする」だけで十分に成り立つ社会なのである。歴史的な蓄積と発展があるため、"他国の文化を礼賛しその全てを導入することが必要となるような未熟な社会"でもない。
/補足:数学 補足として。「"論理性に近い技術"を不可欠とする」と言える"数学"の範囲において、国際的な(学生の)"数学能力の調査"において、日本は他国との比較において上位に属する成績を残している。その能力は"日本語そのものではない"が、その教育に使われている言語はほぼ全体的に"日本語"である。 ただしもちろん。その国際的調査が示しているのは「社会として教育が十分に機能しているかどうか」程度のものであり、それによって日本語の機能が普通以上に優れていること直接的に示せるわけではない。しかし「おおよそ必要な教育をするための、妥当な機能を持っている」という評価は可能である。
/まとめ ここまで長々と整理してきたが、ようするに、もし「言語に論理性が欠ける」のだとしたら、それはただ不勉強なだけである。不勉強な場合に論理性に欠ける、また論理性に欠けるように見えるなどの状況は、それはしかたない話ではある。人類は言語を未熟な段階から、未熟なまま使えてしまうのだから。 注釈しておくが。「"言語に論理性が欠ける"という意見が不勉強」なだけではない。「不勉強であれば"言語に論理性が欠ける"のは当然」という話で、また「不勉強では論理的な言語に対して十分な読解をする能力を獲得できない」という話でもある。"理解できないのは言語のせい"というすりかえだ。 (そもそも"あらゆる言語"とまで言い難いが、おおよそ社会的な集団生活が可能な機能をもつ言語ならば、"説明機能"があると考えられ、その「説明の深い積み重ね」をすれば、"論理"を組み立てること自体は多くの言語において可能であろうと考えられる。もちろん"違い"は少なからずあるだろうが。) (社会的な機能を持っている多くの言語で"論理"は可能だろうと考えられるが、その言語における語彙の多さや、語の意味についての対応の問題から、"どれだけ積み重ねる必要があるのか"において、ある程度の得意・不得意は生じるだろう。語彙の多さと明瞭さによって、説明は端的にしやすくなる。)
/補足:言語の成長性 ちなみに。人類は言語において、"どうしても必要なものがある"と考えた場合、"言語を拡張する"ことによって発展をしてきた。例えば現代欧州系言語もまた学術用語が必要となった際に、大規模にラテン語やギリシア語の語彙を導入した。日本語もまた、歴史的に言語を拡張し続けてきたと説明できる。 言語とは、使われている限り、ただ硬直しているものではない。特に日常言語として使われているのであれば、使われている限り、言語として前進していけるものだと言える。あるいは日本語が、近代化に際して英語の言語体系の導入をしなかったことも、日本語に不可欠ではなかったからだと説明しうる。 (あるいは。日本語は近代~現代における、現代日本語への整備の段階で、"外国の文法"からの影響を受けている・参考にしている可能性も想像できる。古い形式的な文語体では助詞の挿入を最小限とされていたが、それが大きく緩和されたのは、言文一致の流れだけではないとも考えられる。) (なお現代的な段階においても。例えば外国語の学術的用語に対して、日本語は機能上「そのまま」表記することが容易である。可読性を良くするなら強引にでもカタカナ語にしてしまう手もある。日本語でも先行的な領域の新規の語彙を即応的に使っていくことも問題なく可能としている。) たとえ日本語であったとしても、文章を扱う状況・立場に比して、内容が十分整理されているとは判断できない文章である場合、「悪文」の一種と言われる。日本語であっても、必要に応じて、十分な意思疎通・情報共有のために、必要な情報を整理して書き記すべき場合は、ごく当然としてあるのだ。 ちなみに「言語を用いる芸術分野」では、傑出した発展を遂げている言語だとさえ表現でき、他の言語への翻訳では"その印象を十分に表すことができない"ほどにまで豊かである。そこに根差して作られている「マンガ」は世界でも各地で人気を博しているが、翻訳には言語の差の苦労を強いられている。
/補足:日本語における学習環境の広さ「噛み砕いて説明する」 日本にいると"当然の技法"なため意識されない点として、「噛み砕いて説明する」という手法が存在する。それを嚙み砕いて説明すると「わかりやすい ことばで おしえる」という教育的手法で、子供向け・初心者向け、あるいは"未知の概念の概要を説明する"ときなどに、考え方を切り替えて使われる。 どうにも。日本人が配慮としてやっている、「平易な表現を中心として説明することで相手が理解しやすいように工夫する」という文化が、どうやら日本においては比較的豊かな傾向だと言われるらしい。他の国においても同じような手法は存在すると考えられるが、日本においてはその規模が"やや分厚い"。 日本は国民皆教育によって、初歩的な文字を読むことができる人が極めて多い(※現代の識字率の詳細な調査情報が無いためその話は度外視)。これにより"興味を持った分野について調べる・趣味の範囲で専門的な知識を求める人"が経済的に十分な規模を持ち、市場規模として"入門書"は非常に多く存在する。 しかも。"入門書"でも、想定レベルを初等教育まで引き下げた"子供向けの学習書"だけではなく、ある程度の教育を済ませている読者を想定した"大人向けの入門書"の範囲も相当に広く存在する。あるいは子供向けでも単純すぎず、大人にも読み応えのある本であったりと、試行錯誤や工夫が見られる。 それ以外においても「専門家がほぼ素人向けに説明する」という活動は盛んであり、興味を持った人々がより深く調べて知っていくことで、専門的な道を目指す新たな人も現れる、という社会環境が形成されている。よって日本では「専門的な知識でも専門家だけの専有物ではない」とする文化がやや強い。 "噛み砕いた説明"では相手の学習状態・教養なども想定し、子供向けでは簡単な単語を使って時には物語風な表現によって「相手に概念のイメージをさせる」ことを重視して説明したり、あるいは教育を十分受けていそうであれば相応に、高度な語彙も交えながらより正確に説明したりと、表現を切り替える。 特に日本語では"簡単な言葉でも説明のできる範囲が広い"と言える性質があり、場合によってはオノマトペ的な語も挟みつつ、まず"基本的なイメージ"から共有するわけである。より詳細な情報が必要になったならば、その都度より詳細な説明をすることで、そのイメージを具体化させていく流れである。 他の国においても、特に子供への教育には必要となるはずであり、当然として"噛み砕いた説明"をする状況はあるだろうとは思う。ただ日本は、例えば「近代化において外国の技術を国内へ導入する際、徹底的な日本語翻訳を推し進めて国内への共有性を高める」といった知識共有への追及の歴史も見られる。 また日本は「子供への教育」においても長く広い歴史を持っており、社会的に「教えるのが上手」であることが重要な技能として機能し続けていた・機能し続けていると言える。日本において、「噛み砕いて説明すること」や「噛み砕いて説明された基礎的な入門書」が特別豊かだとしても、不思議ではない。
*例えば欧州系言語の「文脈性」と「表現力」(読み飛ばし可) 現代の英語などの欧州系言語は、それぞれ整理された際に「文語体」の性質が強く影響している。あらゆる言語は口語が源流であり、それを"文語体にして整備する"という経緯を取るものだが、その際に"口語の情報"が軽視あるいは欠落する場合もあり、またその後の世代では"教育"からその傾向が強まる。 特に歴史的な変遷として。欧州地域は機械化による情報革命と産業革命によって、「近世~近代において急務として庶民教育を推し進めた」背景から、"効率的な教育"や"言語の均整化"のために文語の表現が優位に働いたと説明しうる。口語語彙は、いわば「方言」として、抑圧された可能性も考えやすい。 文語体は形式的な実務や表現において非常に整理されやすく、実務面では大きな利点を持っていたであろうと考えられるものの、「余裕の乏しい密度の高い語群」「文法に縛られがちな傾向」「文字表現の限界」などなどの影響から、文化面において、口語性が大きく損なわれたのではないかと疑える。 日本語で例えるなら「日本の漢文筆記を基盤にした言語の使い方を整備して、それをそのまま基本教育に転用して統一化をするような」、歴史の流れを持つと表現できる。(現実の日本は文語体と口語体はあまりにも違い過ぎたためか、それぞれ"同時に"扱い続けて、その口語を基盤として併合した。) (なお。英語は欧州系言語の中でもことさらに面倒な経緯をたどっており、口語と文語の関係性が中途半端な距離感であったためか、現代英語の文語(また基本教育語)は"文語的な性格"が強いというか形式性が強く、しかもさらに文字と口語との関係性はもはや"表音文字レベルの状態"となっている。)
/表現力 「文字文章の表現力」という面において、やや極端な部分を論うと。日本語の比較としてだいたいの場合「欧州系→日本語翻訳では"多数の表現レベルから選ぶ"状態にできる」のに対して、「日本語→欧州系翻訳では"子細の表現に多数の表現を重ねる"状態になりやすい」という、言語的な不均衡が生じる。 それは日本語の「書かれていない情報」などという部分の話ではなく、【日本語の表現において、"日本語として明瞭に読み取れる情報"だけでも、余すことなく翻訳しようとすると、欧州系言語では語の量を増やさなければならない状況が多い】という点の話である。子細な部分に込められた情報が多い。 ("辞典的な意味"において、単純に読み取れる範囲にでは1語1意に限定し還元してしまうことは可能であるが、いずれの言語であっても言葉は"直訳的な意味のみ"を持つとは限らず、特に非学術的語彙では"慣用句"のように特殊な意味を持つことも多い。"ニュアンス"を欠落させることは"精確"ではない。) しかも。文章を欧州系言語にする場合、その多くの部分で「いかにしてその言語と文法に"収める"か」という観点から文章を構築しなければならない。そして「自然な言葉にする」という条件を付けてしまうと、たいていの場合、子細な部分の情報は拾わない、概要的な翻訳をすることになりやすいと言える。 文章を日本語にする場合は「"どのような表現を選ぶか"だけでなく、"どのような順序で書くこと"がより良く読めるようになるのか」と考えることもできる。それは「文章的な長さ」としては、元の文章より長くなってしまうこともしばしばあるが、"日本語の自然な長さ"の範囲に収まりやすいと言える。 文学的あるいは芸術的な表現範囲において、欧州系言語でも多少の「表現への優先性」や「音への優先性」を持って、"基本的な文法"から外れた表現をしうるとは言える。しかし日本語では"基本的な文法"の中において様々な表現をすることが可能であり、またその自由度の中に豊かな語彙が存在する。 (なお。あらゆる言語において【高度な情報を持つ文章において、その読解にはその言語の高度な文章に対する読解力が不可欠である】という点は前提で、つまりあらゆる言語において【習熟していなければ高度な文章の理解が難しいのは自然なこと】である。不十分な文章は、どの言語でも"悪文"である。)
/蛇足:「作品の題名」 (蛇足となるが。先ほど挙げた日英訳/英日訳の傾向については「文章において」の話である。極端な省略的、あるいは文学的表現を試みられる「作品の題名」では、事情がかなり変わってくる。※ただし「翻訳」については、宣伝営業のための変更もあるために、色んな要素が関わってくるところである。) (一般向け・大衆向けが意識された作品における「題名の傾向」という点で、特にアメリカ系の作品は「なるべく単純な語彙によるシンプルな題名」が主となる。もちろん冗長なタイトルも存在するがおおよそ珍しいと言える。日本の作品において「平易な語彙の題名」はジャンルによっては珍しい。) (この辺りは言語的な制約から生じる「市場的な事情」が大きいと考えられる。映画関係では商業的な性格が非常に強く働くために顕著となるが、「"題名として"記憶されやすい題名」でなければ、市場競争的として不利になるという事情があり、日本の翻訳では度々大きな調整もあったりするわけである。) (一方で、主な英題の傾向として"平易で短い"のは「記憶できる文字数」の事情が大きいと考えられる。英語は言語的な性質(字と音の不一致や単語の冗長さ)から、「題名の"文字列"を覚えてもらうこと」への負担が大きくなるために、"分かりやすく・短い題にせざるを得ない"のだと説明できてしまう。) (つまりマーティング上「覚えてもらいやすい」ように、英題は「平易で短い語」次点で「特殊だが短い語」や「平易な語による長い語」の傾向が生じるのだと考えられる。日本語では「覚えられる量が多い&略語も作りやすい」ために、多少長くなっても"より分かりやすい題名"が望まれるわけである。) (ちなみに。日本の作品でも"短い題名"そのものはジャンルによってはとてもありふれている。ただ「平易で短い語」までは珍しいが、それも音楽作品であればそれなりに探すことができると言える。「長いタイトル」が多いジャンルについては主に"競争的な事情"から、そうなりがちになるだけである。)
/言語的な違い 欧州系言語はその不自由さから、子細な表現においてかなり苦労を強いられることとなりやすい。特に通常「文語体」は文語の合理性の観点から"(使える組み合わせが限られるため)同じ意味に多数の語彙を用意するべきではない"と整備されやすく、その地盤を規範または基盤としたからと考えられる。 一応、おおよそ現代に続く欧州系言語としての整備がされてから、口語との兼ね合いによる調整や変化を受けながら、また改めて「子細な表現・繊細な表現」を求めて、拡張していった側面もあるだろうと言える。探究された表現、その後の基本の文法・表現の一種になっていくわけである。 日常においても形式的な場面においても、実用されながら、語として拡張されていっているだろうと表現できる。しかし、言語の基本構造は「形式的な文語」であり、また語彙の扱い自体がその基礎構造に依存するような性質をもっており、拡張や発展において"規範性"に縛られ苦労していると考えられる。 (ちなみに。欧州系言語でも、当然のように口語などでは「砕けた表現」も存在する。通常の文法から外れるのは"不良的な"口語とも言えるかもしれないが、そうした言語層もある。ただし、あまりに崩れてしまうのは無作法とも言えてしまうために、一般の口語における形式性は根強いと評せる。) 日本語はその歴史において、近代~現代だけの話でなく、古来の「口語」が基盤として使われ続けて現代に至っている、と言える経緯を持つ。"形式的な文語体"も使っていたが、約11世紀頃から"(推定)口語形式の文字化"をしてきた記録を明確に確認することができ、現代日本語との強い近似性を確認できる。 また日本語は、昔から現在「和歌」と呼ばれる口語の感覚を含む「言葉の芸術的表現」の文化と記録を積み重ね続け、古典だけではなく長く多く生み出し続けた歴史を持ち、「和歌」の手法は現代でも親しまれている。そうした"歌"の記録は日本最古の範囲の記録書物においても確認することができる。 日本においては、極端な文語体であった"漢文"さえも"日本の言葉"に近づけて読み下せるようにもしていたとされる。そのように日本では古くから(文語体も使いつつ)口語を基盤として、口語の記録もしながら、また文語と口語の相互的な影響がありつつ、その表現力の探究を積み重ねていったのだと言える。 文語表現も有効活用され、(現代)日本語では「漢字表現」と「口語的表現」が併存している。例えば"あめふり"と"降雨"は、意味においてほとんど同じ表現だが併存している。これは「平易な口語では"あめふり"が分かりやすい」「文字では"降雨"が端的」などの、語彙の使い分けがあるためだと説明できる。 (また。語に存在する"明瞭な情報"として、そこに「やさしい/やわらかい表現」と「固い/形式的な表現」という"印象の情報"が確実に備わっている。これを英語表現での分かりやすい区別は困難だと言わざるを得ない。[rain]が標準的な表現で、形式的な表現を求めると過剰に難解な語を必要とする。)
/欧州系言語の中の"不安定さ" 短絡的で極端な意見として、欧州系言語は「言葉において必ず明瞭な説明をする」などと評している例も見られるが、では「Trick or Treat」には、その意味・ニュアンスに対して十分な言葉が尽くされていると言えるだろうか。それも"Trick"という語も"Treat"も、当てはめられるニュアンスは非常に多い。 欧州系言語は特に、1単語に持たされている意味が広いことは珍しくない。実用においては「文脈から"言葉の意味"を選ぶ」という状況が頻出しているとさえ表現できる。これを読解するためには、「語の実用例を参考にして、類推して判断する」ということが求められる。たとえ欧州系言語であっても、だ。 例えば、「bank」(バンク)という単語。今ではまず「銀行」を表す単語として扱われているが、(別の語源を持つが)同時に「水辺の自然な斜面」や、さらに転じて「そのように膨らませた形」などを表す単語となっている。しかも、そこからさらに転じた意味、言い回しが派生している。 地形の説明に出てくる"bank"は土手、街中の説明にでてくる"bank"は銀行、物の形の説明に出てくる"bank"では傾斜させた場所など、読み分ける必要がある。他にも、「bank of *複数形s*」と言えば列・並びを表し、「bank on *対象*」では"対象に頼りにする(あてにする)"ような語彙となる。 (日本語においては書いた通り。地形では土手、施設・組織は銀行、あるいは傾斜させた地点は傾斜区間だとか単に"バンク"とも呼び、物の列・並びについては「並んでいる~」などと表現でき、頼りにするのは見込む・頼りにする・あてにするなどの多数の語彙が用意されて、字であれば広義性は狭い。) 話者たちなどにとっては「おおよそ子細な説明をするから理解しやすいはずだ」と思っている・思われているわけだが、その実態としては「言語的に子細な説明をしなければ、語の意味が定まりにくいために言葉を費やす必要性があるために費やしている」部分も多いのではないかとさえ考えられる。 つまり、その文章の詳細性は「欧州系言語が論理性において"機能的"である」ことの証左ではなく、単語に込められているニュアンスが広いために、形式性を重視しなければ意思疎通において齟齬が生じやすいための必然だと位置づけられ、その様子は「明示した文脈からの解釈を必要としている」と評せる。 そして、「欧州系言語で"論理性"を構築するためには、通常より語をさらに費やして、その多義性の整理を踏まえつつ、論理性を追加で構築する手順を必要とする」という形だという解釈・説明も可能だ。日本語では"使える記号"までも積極的に増やしているのに、欧州系言語は旧来の記法を使い倒している。 (ちなみに。現代日本語でも、より形式的な文章においては<この文章において、「○○」は××の意味である>と固定する手順は普通に使われる。かなり細かい、専門的な領域の文章でなければ遭遇しにくい表記法であるため、見慣れないという人もも珍しくはないが、日本語にも存在する手法である。) (なお欧州系言語でも、非常にカジュアルな砕けた表現では、簡便に省略することもごく普通にある。「雰囲気として伝われば、相手にも意図まで伝わる」という状態はコミュニケーションにおいて自然と発生するものであり、特にローカルな場面ならば、形式性は必ずしも強固ではない。)
/欧州系言語の"複雑さ" また日常言語として使われている限り"慣用句"などの表現は自然発生する。より細分化するのなら"連語"、"熟語"などとも表現されるが、ようするに「字面のみによって解釈することが不可能な表現」は世界的にそう珍しいものではない。なんなら欧州系言語は、むしろ"多い"とさえ感じられる場合もある。 日本語の場合、漢文からの借用含め既に整理された熟語が非常に多彩で、「コンパクトにパッケージされた熟語だと分かりやすい漢字熟語」も多い。漢字熟語ではないものも多く、全てが分かりやすいとは言わないが、「"慣用句的な語彙"と分かりづらいのに、意味も分かりづらい」という語彙は稀と言える。 しかし欧州系言語では、"漢字"は存在せず、おおよそほぼ全てが文中に平たく並べられているため、よく使われる語彙であっても"慣用句であるかどうかの判別"が必要となりやすく、"知らないと分かりづらい"と言える"イディオム"も見られる。典型的な例では、突然バケツを蹴っても何が何やらである。 そもそも"bank"の用例のように、"単語の意味"自体でもおおよそ"慣用句"のような経緯によって新しく追加されているような様子も多い。ようするに、欧州系言語、特に世界で最も使われていると言える"英語"だとしても、「その全てが明瞭であるか?」と言えば実態に即していないと言うべきである。 また特に「日常的な口語」の範囲では、"形式的な文法"から崩れた表現も大して珍しくもない。言語そのものの性質として「日常的に使われる言葉は自然と変質していく」と言えるもので、文化の文脈に応じた様々な言い回しなどが使われ、その中から"bank"のような形に新しい意味が根付くと言える。 より深い領域に踏み込むための「言語的な理解の難しさ」をあげつらってしまうならば、日本語はよく難しいと言われがちで実際難しいと言える要素が多く見られることは間違いないが、だがしかし欧州系言語においても全てにおいて容易であるかといえば、そうとは言い切れない性質を多く抱えている。 (例えば近年の用語として。「"Cloud"だけで"いわゆるクラウドサービス形態(ネット上の仮想データ空間)"を意味しうる」ようになり、あるいは「"Stream"だけで、"ネット配信(連続的送信携帯)"を意味しうる」。日本語で例えるなら、「雲」や「小川」の語にそうした意味が上乗せされているのだ。) (つまり。英語などへの深い学習では「○○は英語で××」だけでは語の理解は不足しがちになる。可能であれば「英語で××、"近年の"例文は~~、○○以外の意味は~~、イディオムの例は~~」と揃えることが理想的だと言え、そして、そんな深い学習は非常に多大な手間がかかる。)
/蛇足:欧州系言語の口語の単語での判別不能性 日本語には"同音だが異なる語(同音異義語)"が多く、音で判別することの難しいことが多いと言われることもある。実際多く存在するものの、文字にした場合は異なる語ではだいたい異なる漢字が使われるため判別できる他、発音においては混合しそうなら説明したり別の語で回避するという手段もある。 繰り返しになるが。しかし欧州系言語、特に英語では"同語だが異なる意味"になる単語は珍しいものではない。しかも"同じ語"では文字列も一緒のため、"単語単体での確実な識別は不可能"と言える状態である。英語であっても、"文脈から類推して"どの意味であるかを判別する必要性があると言えるのだ。 またさらに面倒なことに、「全く同音だが異なる語」というものも稀に存在する。英語は特に文字と発音のズレの大きい傾向があるため、近い文字列(スペル)の語同士では稀に、発音が全く同じ音を使ってしまっている場合がある。それ以外でも会話では近い語が「ほぼ同じに聞こえる」状態も発生する。 (そうした事情から"文脈"が重要となるため、「基本的な文法として、必要な語を揃え、適切な語順で、筆記・発声しなければならない」ように努めさせているのだろう、と考えられるわけである。つまり話者も全部を聞き取れているのではなく、少なからず雰囲気・流れから認識してるのだろうと疑える。) (言語の実用においては、結局のところ「脳が類推によって意味を補完して認識している」と言える現象そのものは、日本語でも英語でも発生していると説明できるものであり、あるいはおそらくほぼ全て言語において発生しうる事象であろうと考えられる。実の所「語の類推は自然な現象」なのである。)
/欧州系言語の"接頭辞/接尾辞" 英語などでは「接頭辞/接尾辞を付け加えることで、単語の方向性を設定できる」という機能がある。「re」をつければ"再度/戻る"といった意味をつけた単語になるから分かりやすい!というのは若干非現実的な視点で、細かく見ると「必ずしもそうではない」という例も多いというややこしさが存在する。 滑稽な例えをしてしまうと──例えば「再-d」とはなんだ?これは[red]を[re-d]に分解した例だ。その他にも[再st]?[再al]?なんだそれは。あるいは[ing]は[している]とする接尾辞だが、[sしている]とは一体なんだろう?待ってくれ、[s-している-している]だって?──と字面だけでは奇怪な事になる。 それ以外にも[rした]?[bした]?[shした?]など。語には「前後が"接頭辞/接尾辞"ではない語」もまぎれている。些末な部分を強調した揶揄ではあるが、そのように"表音文字において発生しやすい欠陥"が見られる。「便利な機能」のようで、無理矢理"1単語"収めてしまうと、そんな不都合が起きてしまう。 単純な文字列だけではなく、"単語の変化"のように見えても[search:調べる+re-→resarch:研究]のように"再度/戻る"とはやや異なる場合もある。[cord:紐+re-→record:記録]と大きく異なる意味に転じている場合さえある。あるいは[building]も、"ing:している"だが[建物自体]を示す場合もある。 実際のところは「覚えれば混同しない」のは当然の話としても、そうした"同じ条件の文字列であるにもかかわらず、その意味が一意ではなく例外が頻出する"という実態を見ると、「直感性が特別に良いとは言い難い」。現実的に実用されてはいるが、便利だろう!と言えるほど万能な表現方法ではない。 (なお日本語の場合、「意味の語」に言葉をつなげて状態を指定する形式で、(変化は多いが)情報伝達において問題ない機能がある。なんなら繋げる言葉を調整できて、細かい状態を端的に言い表すこともしやすい。また文字であればさらに明瞭で、整理すればおかしな混同は容易に防ぐことができる。)
/欧州系言語の"学習ハードル" さらに現代の欧州系言語の文字はカテゴライズ上「表音文字」とは言われるが、表音文字と発音の関係性について完全な明瞭さがあるとは言い難く、実質的に"単語ごとの字と発音を覚える"必要がある。例えば日本語の表音文字(かな)は原則1字ごとに1つの発音が規定され、その変化も明確な法則で生じる。 あるいは欧州系言語、特に英語が覚えやすい言語か?という点で、文書上の形式的な明瞭さがあるとは言われるものの、第一言語であっても幼少期などの初期教育の範囲において、"音と文字の繋がり"の学習に困難が生じているのでは?と疑える。単語の文字も発音も、単語ごとに教わって覚える必要がある。 (それらはおおよそ、欧州系言語が歴史的な流れとして「文語体を大事にし過ぎて、"人間"に合わせきらなかった」ことで、特に"日常的な妥当性"、あるいは"人間的な妥当性"、"直観的な妥当性"といったものを文語体に反映しきれなかったからだと説明してしまえる。そうした明瞭な"難点"が見られる。) しかも「文章的な流れ・文法によって、"適宜"、単語が変化する」という場合があり、また「文法によって、"適宜"、語自体を変更する」ことも当たり前にしなければならない。それも「単語を変える際には、性質が変わると付け加える語も変化する」という、時に全体の見直しも要求されてしまったりする。 (もちろん。欧州系言語の中でも、言語ごとに程度は異なってくる。「欧州言語の比較」において、比較的素直であると言った評価をされている言語もある。しかしマシな方であっても、おおよそ「音からの表音文字の確定性」で不十分な場合が多く存在する。マシではない方は非常に難解である。)
/補足:主要な欧州系言語における「文法の形式性」の難点 英語などの評価として「文法上"語順によって関係性が決定される"ため、形式に則って文章の意味が明瞭になっている」と言われる。確かに「だらしない文章では直接的に文章の破綻を生じさせるために、文章を形式的に整えさせることで悪文になる可能性を回避しやすい」といった評価もしうる。 しかしその反面、「文章において"関係性を明示する語が存在しない"ため、文章の規則を理解しなければ≒"1文の構造を理解しなければ"、文章の構成・読解が困難である」という性質を持つ。文法のフレームさえ分かれば非常に有効に働くが、フレームが把握しにくい文章などでは理解が難しくなる。 (主な欧州系言語の中でもその傾向の強弱の差はみられるものの、英語は特に"文法のフレーム"の理解が不可欠な言語である。英語は、あえて言えば「言外の・明記されていない、"語の関係性"」を文章から1文ずつ、"文法のフレームを推定して"読み取り、適切に読解しなければならないとさえ言える。)
/欧州系言語の"学習性によるフィルター" そうした学習上のハードルを乗り越えられない人間は、例え母国語話者でも欧州系言語の文字を使うこと自体から難しい。それこそ「その書くために必要な能力の水準がフィルターとなって、外側からも観測できる欧州系言語文章の多くが、整然としているものばかりになっているのでは?」とさえ疑える。 なぜならば「たとえ母国語話者で、"字"を覚えても、"単語ごとの文字列・スペル"を覚えていなければ、その単語を書くことすらままならない」、さらに「文章においては決まった文法があり、それを逸脱すると十分に伝わりにくい」という制約さえある。特に、"子供にはまったくやさしくない"と言える。 長い文章となるとさらに文法上の制約が存在することで、「文章を書くためには、相当の教育を予め受けていなければ、ろくにすることができない」という状態に陥るという可能性をとても自然と考えることができる。それは「文書の多くが整然としている」と見える状況の大きな一因として仮定できる。 ようするに。「英語の話者が世界的に見て非常に多い」としても、「母国語話者でも、単純な文章すら書けない場合もありえる」と評せるわけである。それは「現代日本語の話者」にとって理解しにくい状態だが、それは日本語が特別に初期教育の段階において"やさしい"性質を持つ言語のためだ。
/学習性の比較 比較として、現代日本語は、"明瞭で単純な表音文字"のみで筆記することも可能な言語体系であり、教育の初期段階であっても"こえを どのもじでかけばいいか わからなくてかけない"となる状況が最小限になる。もちろん漢字も大切でそのハードルは高いもの、初等教育上の入りやすさは非常に親切である。 また"明瞭で単純な表音文字"によって、母国語話者であれば、あらゆる語の基本の音をほぼ覚えることができ、また分かる文字が書かれてさえいれば、最低限の発音をすることができる。"発音のブレ"の許容度としても、音が明瞭でさえあれば多少不自然でも聞き取ることはしやすく、"子供にやさしい"。 (厳密なことを言えば、発音のアクセントは普通の文章には書かれていないため、その点は他人の発音を聞き取って覚えるか、音の表記の付いた辞書を調べる必要がある。しかし語の発音で個別に覚えなければいけない点は音の高低くらいで、それにズレがあっても(音が明瞭なら)類推での補正はしやすい。) その発音の分かりやすさによって、言葉の習得も効率的な流れがあり、日常会話の音から地続きに文字へ、文字も段階的に進ませていくことができる。しかも現代の日本語は文語に広い柔軟性、機能的な弾力を持ち、多少拙い表現をしていても言葉通りに書けば、不正確になること、破綻する恐れが小さい。 (なお。日本語のアクセントでも「方言性」がかなり存在する。アクセントでの複数語の判別などが「別の地域において異なる・入れ替わる」といった場合もありうるため、アクセントの厳密性は「"合ってた方が伝わりやすい"くらい」とも言える。そのアクセントの違いを飲み込む力が日本語にはある。) 非常に分かりやすい柔軟性として。日本語文は「単語を同じ意味の外国語に置き換えしても、単語を理解すれば読解できる」。「Wordをsame meaningのFreign languageにreplacementしても、Wordをunderstandingば reading, possible。」という状態は、欧州系言語では短文など限定的にしか成立しない。 (日本語の場合(原則、単語に依存しない)"意図"に応じた「汎用的・総合的・統一的な"助詞・格助詞"など」が揃っているため、おおよそ、どんな単語に入れ替えようとも文章構造自体は問題なく成立すると言える。欧州系言語では語の種類が細かい文法へ影響するため、語が変化すると調整が必要になる。) よって日本語においては「意思疎通のための文章を書けるようになるのが"非常に早い"」と評せる。もちろんより高度な文章を扱うためには相応の学習を積み重ねる必要性はあるものの、 使いやすさから「日常言語の延長・一部として文語が広く活用されている」という社会環境がある、と説明しうる。 つまり「非常に多くの人間が言語・文語を扱える社会環境」だと説明できるわけであり、日本で見られる多く文章が非常に煩雑であったり簡素であったり、"無秩序さ"や"不明瞭さ"を感じさせるのだとしたら、それは言語自体の機能的性質ではなく、【"豊かな社会環境"から生じている状況】だと評せる。
/含意 (ようするに。こうした論において論われやすい"日本語文章の劣悪さ"というものの正体とは、【日本社会と日本語の"学習性"と"活用性"における優秀さ】の証左となっている1部分だとも評しうる。こうした"人間性"において、欧州系言語は"開かれている"とは言い難いとさえあげつらえるだろう。) (繰り返すが。欧州系言語は「文章を扱うためには"文字"習得だけでは致命的に不十分」「"文字"を覚えても単語のスペル・文法などの学習機会が無ければ簡単な文章を書くことすら不可能」そして「単語のスペル・文法の習得は、相当の学習が必要」であるため、文書を作れるための学習量の水準が高い。) (欧州系言語が「"社会的には"とても広く使われている」といっても、学ぶ機会を得られない困窮層や非社会的な立場的弱者には、文書を作れるようになるまでのハードルがとても高いため、社会的に"そうした声"を残しにくく・気づきにくく、「暗に"立場的格差"を生み出しやすい」とも評せるのだと。) (日本語は(欧州系言語に比べ)初期教育の学習性・段階性が合理的だと言える言語で、また日本社会はやや昔から現代において教育を広げてきた歴史を持ち、基本的人権として語られる"義務教育"を基本的な社会制度として成立させ、現代ではほとんどの日本人が、文字を最低限以上は扱うことができる。) (欧州系言語の国々(の人々)は、母国語が抱える"初期教育における学習の難解さ"を打開するため、ことさらに頑張って勉強をしなければならないし、またそのために社会はことさらに教育の整備・普及を不断の努力によって推し進めなければならないわけである。だが言語的な決定的格差は珍しくない。) (つまり。「欧州系言語の文章において整然とした文章が多い傾向にある」という現象は、【欧州系言語の持っている性質から生じる難点を、間接的に示している】可能性を疑えるというわけである。「整然とした文章が多い」のは、「煩雑とした日常的な文章があまりにも少ない」可能性もあるのだ。) (様々な時代・色々な地域で、「古臭くて頭の固い人々」が"言葉の乱れ"を嘆いている例は度々見られる。ハッキリ言えば「【言語の自然な現象】として"言語の整頓性・形式性"というものは、非知識領域では自然と崩れるもの」である。「非知識人が使うと言葉の正しさが乱される」と言われるのだ。) (実際。(特に映画ではない、より生の)"日常的な会話"においては、欧州系言語もかなり砕けた表現は珍しくもない。つまり例えば「日本の公文書」と「英語の日常語」を比較した場合、それは当然として"公文書"の方が精緻で精確だと評されやすく、"日常語"は不確かで非論理的と評されやすいだろう。)
/蛇足:会話における"負荷" 「日本語はより多くの語彙を使うために、会話の負荷が大きい」という解釈も可能だが、「1度に思考・認識しなければならない量」の点では日本語はそれほど重くないとも言える。日本語は「少しずつ話す・1要素ずつ話す」ということをしやすい言語であり、また聞き手も1要素ずつ認識すると言える。 これは「日本人は相槌が多い」という習慣の存在が、その証拠となりうる。これは一応「会話に対して要素ごとに聞きとったこと・理解していることを示せる表現」であり、それを頻繁に発声できることは、実際に"文章の分割可能性が高い"ことによって、成立しているのだと考えられる。 また日本語は「発話上のミス」が致命的になりにくい。「言い直し」もしやすく、1パーツごとに分割できるため、1パーツ間違えた場合そのパーツ部分を言い直しても問題が小さい。言い淀みや、そこからの言い直しが出ても、言い直しがでても文法を崩壊させるわけではなく、おおよそ意味が通りやすい。 さらに大きな"やさしさ"として、発声のブレを受け入れやすい「音の単純さ」を持つ。これによって特殊な方言性、発声の癖があっても、誤認しやすい部分のみを都度"警戒"もしながら聞き取りをすることができる。こうした構造上、会話にかかる"負荷"を分散させながら、意思疎通をすることができる。 英語では「文法のフレームを前提として会話しなければならない」という負荷が存在する。特にちょっとでも長い話になると、会話においても"1文"1まとまりで認識しなければ話を理解することが難しい。文法のフレームが重要であるため、発話上のミスが、話の理解に致命的な影響を与えてしまいやすい。 主要英語圏における"相槌の少なさ"は、通常「1文1まとまり」まで聞きとらなければ話を理解しがたいために、「相槌をする暇がない」とも説明しうる。もちろん、話し方によっては「少しずつ要素を聞かせる」といった手法を取ることもできないわけではないが、通常とは異なる特殊な表現法である。 さらに英語は「発話上のミス」の影響が大きい。文法に"余計な語を入れてはならない"ため、個別の言い直しがしづらく、精確性を期すなら、おおよそ1文の言い直しを必要とする。また言い淀みなども文法へ致命的なダメージが及びやすく、「1文を考えた上で精確に発話する」ことの必要性が強い。 そして発声のブレが別の語の認識へすげ変わりやすい「"発声の精度"が求められる」性質をも抱えている。単純ではない量の会話の際は、互いに「正しく話す・正しく聞きとる」という意識が必要になりやすく、"意識を使いながら・神経を使いながら"会話をしなければならないとさえ説明できる。 (英語圏で"ハッキリと言う"ことが求められるというのも、そした言語的な性質によって、それに対処するための事情を抱えている部分の影響の可能性も大きく考えることができる。ようするに、"発話と聞きとり"自体で手一杯になりがちで、他に気を回す余裕があまり無いのでは?という話である。)
/(ちなみに…) (日本語において近代化の最中、おおよそ"機械化の難しさ"などが主要因となって「漢字を捨てるべきでは」という論もにわかに生じたが、漢字の実用性から非現実的な話であった。また「基礎教育で漢字を使わなくなると、積み上げられてきた高度な知識領域への接続を妨げる」という話もあったとか。) (また戦後にも、外国指導者に「こんな複雑な文字体系では教育もままならないだろう」などと難癖をつけられ"ローマ字化をするべきだ"との圧力もあったらしいが、実際は初期的な教育の学習性は非常に良い成績結果が出て(なぜならば英語ほど直感性に失っていないから!)、その議論は一蹴された。) (それ以外でも日本語の"ローマ字化"については古くから考えられていたものの、日本語の1字1音の明瞭さからすれば、[た]を[ta]と書かれたら[タ]か[テイ]か[トォ]か分からない、[つ]を表すために[tsu]と余計な字をつける必要のある不統一性などは、国字には使いづすぎる"不合理な表記法"であった。) (そのため。結局、日本語において、漢字は実用面において維持され続け、日本語のローマ字表記は基本的に"外国人向けの表記"、あるいは"名前の印象を調整するデザインの一種"として扱われるに留まっている。また"コンピューターの時代"では、ローマ字化の整備は機械入力へと応用されて使われた。) (現代では、コンピューターの発展で「仮名からの漢字変換」という日本語にとって非常に効率的合理的効果的なシステムが組まれ、あるいは"漢字の使用頻度"自体は劇的に増加しているだろう。筆記できなくとも、言葉として使えて字を読めるのであれば、多くの漢字を使える時代になっているのだ。) (現代的な環境では、"機械的な入力補助システムの存在が極めて合理的・効率的に機能する"と言える状態で、日本語における"漢字"の負荷は「多くの字において筆記の必要性が不可欠では無くなった」分、大きく低減されており、極めて低いハードルから効率的に言語を扱えるようになっている。)
/結論 表層的な「言語の一面」だけを切り取って、言語そのものを相対性も無視して総体的に評価をすることは、全くもって視野狭窄的で、十分な観察がなされていない軽薄な理屈であると批難されるべきである。そこにおいて扱えているのは、言語ではなく「文化的な活動のごく一面」でしかないと言える。 最も注意したい点として。"言語が大きく文化を形作る"ように思われがちだが、そこに相互性はあれども【文化から言語が形作られ、言語を伴って生まれる文化が人を育て、その文化が言語をさらに生み出す】と説明できるものであり、言語のみによって文化性の全てを論じることは飛躍的な拡大解釈である。
/余談 (※ちなみに。今回の一連の散文において"XXコンテクスト"という表現を意図的に取り除いている。言語と"XXコンテクスト"はどうにも混同して語られがちだが、元々"XXコンテクスト"の考え方の意図する要点とは「文化的な違い」、言語の使い方の違いであって、「言語機能上の違い」ではない。) (※それが意味するところは「文化的な言語の使い方の違い」を見つめるというものであって、言語そのものを厳密に見つめていたわけではない。それこそ英語だろうが、状況に応じて省略的な≒ハイコンテクストな表現になったり、不安定な表現になってしまったりすることも自然と発生するものである。) (※それこそ。より広義的な、「文章上の"類推の必要性"」という点で論ってしまうなら、欧州系言語の子細な文は「文章の流れから単語の意味の類推をする。"明文化した文脈への依存性"が見られる」"類推の量が多い"様式であり、一方日本語でも子細な文にすればむしろ語の"類推の量は狭く"しうる。)
*蛇足:言葉における"音の量"と"音の意味"(読み飛ばし可) /"音の量" 文章として、日本語は特に漢字での情報圧縮率が高く、特に「欧州系言語より少ない文字数によって物事を表現できる:欧州系言語に翻訳すると簡易な直訳でも文字数が増大する」という傾向がある。ただし「音」という観点で観察するならば、それほど極端な違いはなく、あるいは日本語の方が"量"は多い。 日本語は1音節がおおよそ明瞭で、音の種類が言語としてかなりシンプルにまとまっている。母音5種x子音(約13+2)種+複合音x母音で、100種と少しでしか音を区別しない。そんなシンプルな音だけでどのように言語の機能性を保っているのかと言えば、「音をより大量に並べる」という手法を当然としている。 分かりやすい例として。「Building」の8文字は日本カタカナ語では「ビルディング(6文字5音節)」だが、英語の音節では「bil-din(2音節-細分でも4音)」に収まる。そのため「文字数や語数は増大しがちだが、1単語の音は少ないため音は差し引きで差は意外と小さい」と言えるわけである。 (英語の場合、単純計算として母音+子音の組み合わせだけで300~400種以上の音があり、さらに細かい組み合わせでは、理論上数万種類とも概算されるほど音に種類がある。実用されるのはその内のごく一部程度ではあるものの、それでも日本語の1音節100種少しと比べれば、段違いの差があると評せる。) (なお。日本人には[bil][din]のように、1音節に複数の音を流れるように入れることが当たり前ではないため、その音の多さから"早口のように"聞きとられる。しかし日本語では1音節を非常に短く早いテンポ発音するため、英語圏からは"日本語の方が早口になりがち"なようにも聞きとられる。)
/「一息」の長さ 面白く表現してしまうなら「会話における音の発声量」自体は、日本語でも欧州系言語でもそう極端に違うわけではない、とも説明しうるわけである。もちろん常に近似するわけではなく、文化地域差も多く、また翻訳などをする場合は意味やニュアンスと言った都合でブレ幅は大きくなる。 それに「カジュアルな日常会話」と「フォーマルな・堅苦しい会話」では、またその音・語の量は変わってくる。しかしながら、日本語では少し丁寧になるだけで「丁寧にするためだけの言葉」を用いる。さらに丁寧にしていくと冗長なくらい形式的な言葉を連ねることで、態度を示す文化が根付いている。 この点の面白い所は「人間として、自然に会話をするために使える音の総量」という点は、異なる言語であっても「口語ではある程度、収束する傾向がある」と考えられるところだ。特に日常語、自然な会話でも"時間"は有限のリソースであり、これをいかに使うかが、言語に影響を与えうると考えられる。 そういった観点で考えた場合。特に「英語において、口語でも多少細かい説明をする・できる」のは、音の種類が豊富でそれを駆使して短い言葉に収めることができるという性質を持つからだとも考察でき。日本語は、音の種類が限られるために冗長となり、省略が多くなりやすいという考察もできる。
/英語の重複的"表語性" だが一方で、英語などは「単純な"音"や簡単な組み合わせを語にする」ということをしてしまい、そして「まともな"音"の余剰がろくにない」という状態を引き起こし、かといって補助的な言葉の整理も汎用性に欠け、近い意味を持つ「同じ"音"に新しい意味を重ねる」ということを頻出させている。 つまり英語も結局は実質的に「多くの"音"に意味が乗ってる」という状態、「表語文字的な語と同様の使い方」をしているとも評せるわけで、"一単語の音"自体の意味の識別だけでなく、「近い音との判別」という問題もあるために、結局「語を積み重ねて意味を狭める」必要性が生じている。 (しかも、"表語文字における同音"とは違い、表記上は原則的に同じままであるために、文章においてもその識別性は良いとは言えない。※表記ブレについてはどちらかというと、元々は異なる発音で、時代を経て発音が変化した後でも同じ表記を使い続けているために、表記との齟齬が広がっている。) もちろん、英語含む、欧州系言語そのものは「時代に応じた"妥当な"発展をしてきた言語である」と言える。時代に合わせた"妥当な発展"をしてきてしまったがために、"言語"というもの自体の性質から「"自然に"不自然な状態が形成されてしまう」問題を抱えてしまいやすいと言えてしまうだけである。 ("はるか昔の人類"が、「"言葉"を記録しよう」と組み始めた記号表記の子孫で、その言語基盤は表音文字として"非常に画期的だが初歩的"と評せる単純なパーツの組み合わせであり、そんな「古典的な土台」の上に、そのまま長い人類の発展の歴史を積み上げた結果、柔軟な更新が困難になっていった。) (古代の人々にとっては、「これだけの文字があれば人の世界は全てを表現しうるだろう」とさえ思っていただろう。実際「母音字+子音字の方式」は非常に少ない文字種で多彩な音を表現できる、とても合理的な方式である。※問題は、時代に応じた発展や調整が簡単ではなく整理が乏しかった点である。) (欧州系言語の中でも、一部は利便性を考えた調整を行い、一部記号を使って発音の形を記載するといった応用をした言語もある。ただし最も普及した英語においては、補助もろくに定着せず最も簡素な"アルファベット表記"のままを基本としており、調整もろくにされず問題が内在化するままとなった。)
/日本語の安定性と柔軟性 日本語でも「1音での意味を持てる音」も一応多く存在するが、"1音に新しい意味を増やす"ということは原則的にしない。日常語の範囲において、略語・俗語として、1音に別の意図を込める表現が生じることはあるものの、1音1語の意味として定着することは"空いている音"でもなければまず無い。 また1音以外でも「"一般的な既存の語彙"に全く新しい意味が加わる」ことは(皆無ではないが)珍しい。新しい概念には新しい語も使われやすく、既存語の安定性は高めだと評せる。もちろん自然に使われていく中で語の意味が変化していく場合もあるが、"重要・主要な語彙"ではあまり発生・許容されない。 (日本語でも、スラング的・詩的に既存語が応用されるといった表現自体は珍しいことではない。しかしそれが"一般的に普及する"には、元の意味から遠すぎると共有されにくく、広く定着するまでに至らない。また一般的な語彙である場合は、認知上の衝突を起こすため、新しい意味の定着はしにくい。) (もちろん日本語でも"同音異義語"は非常に多いものの、漢字を含めた単語に対して「どの意味の?」となってしまうような語は珍しい。英語の「この書かれてる"bank"は銀行?地形?」みたいなことは原則、回避されている。もちろん自然な変化での、時代差によるズレが生じる場合はあるが。) 一方で、日本語は基盤として、単語同士を繋いだり・言葉の意味やニュアンスをかけたりする「補助的な言葉」が"体系的かつ総合的"に整備されているため、「新しい語の受け入れ」が非常にしやすい。(日本語話者には分かりづらいが、新語は性格定義がないと文章へ使いにくい言語もある。) これはおそらく、はるか昔、"言語"として若い段階で「日本の言葉の中へ漢字を受け入れる」という歴史的な経緯を経ているために、そうしたその"受容をする"必要性があったことで、"語の性質・基盤"として「新たな言葉も受け入れやすい」ように整備されたのだろうと想像することができる。 また、それは(言語として"音の複雑さ"が増える前に)「単純な音ばかりの状態」で整理されることで、その不自由さから「音を連ねること」を当然とする受け入れることができたとも考えられる。そのため言語的に「多数の音を連ねる」という音の冗長さは生じてしまったものの、音の明快さは随一と評せる。 そのようにして、「新しい言葉も積極的に受け入れ、語の中に導入する」という柔軟性が非常に深く、深すぎるために独自の使い方に発展することも多いほど「広く自然と受け入れられる」性質が形成できたわけだと考えることができる。(文字種の多さは分類のためには非常に合理的な手段である。)
/現実的な問題 言語はどうしても難しくなるものである。簡単な言葉だけで、全てを端的に分類し言い表し切れるほど、世界は単純な形をしていない。"表音文字"の言語は、人類が発せられる言葉を基準にかんたんな文字を作って構成されているが、それによって世界を言い表すには、結局相当の積み重ねを必要とする。 言語はどうしても難しくなるものである。世界の複雑な形に対して、意味で分類した"表語文字"を大量に作ってしまえば、端的に対応できる概念は大きく広がる。だが"人間としての使いやすさ"では難解となってしまいがちで、日常用には手間がかかりすぎ、また習得自体にも使う文字の分だけ苦労する。 (※辛辣な評価をしてしまえば、現在の英語はこれらの悪い部分[語の単純さゆえの衝突とそれを補うための冗長さ][一部表記で識別している単語(音と表記の不一致)の習得の複雑さ]を、どちらも抱えてしまっているとすら評せる。"使われているから使われている"ような言語である。) (※一方で、日本語は"表音文字"と"表語文字"を複合することで、普段使いに困りにくい簡単さと、高度な表現を可能とする機能性を複合的に持つことを可能としていると言える。ただし、母国語話者は感覚的かつ段階的な習得で難解さは低いが、短期的な習得には著しい難しさも抱えることとなった。)
/蛇足:「音の細分化」の現実的限界 日本語以外の主要な言語では、多くの場合「発音の細分化」をすることで、語の幅を広げて、言語的な機能を拡張してきたと言える。実際「限定的な地域・限定的な環境」であれば、子細な発音表現は有効に働きうるものではあった。だが現実的に、現代的な規模において合理的であるかどうかは疑わしい。 というのも「細分化された音の判別」を精確に継承するためには、子供などへ長期的に教育を施すことで継承しうるもので、教育が十全でなければ個人個人の「癖」が生じてしまいやすいものである。そのため「標準地域」から離れるほど、また時代を経るごとに「地域差」が確実に広がってしまいやすい。 しかも発音の「微妙な違い」ともなれば、いわゆる"伝言ゲーム"のような様子で、非常に変質しやすい。「音を精確に伝えるほどの努力をしない("聞き取れる程度の発音で良い"といった)"日常水準の教育"」では不十分で、明瞭な記録が無ければ"同じ地域であっても崩れていく"ことが当然として生じる。 現代であれば、テレビなどの普及によって「標準地域」の範囲を広げやすいものの、それでも「地域差」は生じてしまうものである。それは言語教育の基盤は「日常会話」から育まれるものであり、つまり接している人間から学習していくため、細かい発声の地域差はどうしても生じてしまいやすい。 その問題が最も顕著なのは"英語"で、地域性が非常に大きい。しかも元々、近代以降の英語は基盤として「文字と発音の不一致」を調整しきれず、結局、地域ごとの「慣れた音で発音すること」を当然としてしまい、それによって"字と音の乖離"を矯正する圧力が乏しく、地域差が拡大したとも評せる。 ようするに。「音の細分化による語の区別」というものは、「限定的には統一性を確保できる使い方」とは言えるものの、現実的な「"広域・長期"において統一性を教育・維持し続けることは困難」だと言わざるを得ない。英語は分かりやすく「広域・長期」によって、変質の度合いが深刻なほど顕著である。
/負担と方言の発生 そもそもとして、言語の「正確な発音」という観念はあらゆる言語において、「日常レベルでは"過剰な負担"だ」とさえ言い表せる。日常的な会話では「分かる範囲で使いやすい発音」へと変異していってしまいやすい。人間の言語能力は「予測的な補完」を大部分でしているために、それでも聞きとれる。 語が多少崩れたとしても、特にローカルな範囲であれば聞き取ってしまえる・伝わってしまうために、問題なく使えてしまうのである。そうした「音の崩れ」が、長い時間あるいは広い範囲にわたると、伝言ゲームのように変異を繰り返し、同一言語だけでも元の発音から乖離しやすいわけである。 厳密にはさらに「他の言語からの影響」といったものまでも受けるため、地域性の変異はさらに大きくなる。そして、そうしたブレを"補正する圧力"が無ければ、変異はそのまま放置されてしまいやすく、結果として、英語のように同根とは言えても地域によってかなりの違いが生じるのだと説明できる。
/対比 つまり特に欧州系言語の「子細な音の区別」もまた、言語的な労力(特に文字の学習性)は暗に大きくなってしまいやすい、"長期の現実性を見ていない"体系だと評せる。反対に、日本語の"単純な音と表音文字の関係"は「非常に現実的な妥協をした区別」であり、実際"広域・長期"でも安定性が高い。 「日本は小さい島国」とされやすく、またメルカトル図法において小さく描かれやすいものの、実際の「本州の長さ」だけでも曲線約1,300kmほどあり、比較[英:ロンドン]から[伊:ローマ]の直線距離が約1,400kmほどの距離感にある所、それ以上の日本列島の長さの範囲をほぼ"同じ言語"で収めている。 ロンドン~ローマの直線上には主なものだけでフランス語・スイス系ドイツ語他・フランス語・英語という4系統の言語が存在しており、さらに細分化をすれば地域ごとの方言を見ることができる。言語の歴史として、「物理的に離れているなら言語が分かれていってしまうのが当然」だとすら言える。 実際日本でも昔は言語的な地域性が大きくあり、現代においてもその名残を見ることができる。(特に南端北端地域は"別民族"であったため各地元民は別の言語であった。)そうした言語基盤の統一を可能とし、また維持できているのは、「日本語の弾力的な機能性」が大きく働いているからだと評せる。 なんなら現代であっても「方言」は明瞭に残っており、極端な方言を使われてしまうと意思疎通が困難になることもしばしばある。また「大都市地域」において大規模に方言が残っており、地域の違いによる細かな言葉の違い自体は珍しくない。だが「標準日本語」の基盤によって意思疎通を可能としている。 (もちろん日本語も時代による変化をしてきた言語で、現代語と古文との乖離はしっかりあると評せる。しかし、そうした日本の古文も「日本語の(逆行的な)延長」として学習することが可能である。特に日本の記録に残る最古の"日本の言葉"の記録さえも、簡単に字を現代の音へ置き換えて発声できる。)
*蛇足:日本文化的にはちょっと行儀の悪いお話(ここも読み飛ばしていい) やや辛辣に表すなら、「英語などの欧州系言語とその文字とは、まるでその文章構成は顕微鏡をのぞき込みながらピンセットで言葉の積み木を精緻に組み立てているような作業であり、その読解にはその言語専用の虫眼鏡を必要とする。世界中マクロに使われているが、中身はあまりにもミクロだ。」と言える。 ↑ To put it harshly: "Constructing sentences in languages of European origin, including English, and their writing systems, is like peering through a microscope, and in which one precisely assembling linguistic 'Wooden Building Blocks' with tweezers. To read and understand them, a magnifying glass specifically designed for that language is essential. These languages are used globally on a macro-scale, yet their content is far too micro-scale." (大げさに自賛するなら)「日本語は、まるで言葉を歌劇(オペラ)のように宙へと書いていく共同作業だ。つむがれていく劇のような言葉たちは、互いに思いを通じ合わせ、想像と音を響き合わせ、協力しなければ完成しない。だが心を通わせ、同じ舞台に立つことで、とても豊かに、鮮やかに世界を描き出す。」 ↑ (To put it dramatically...) The Japanese language is like a collaborative effort, where conversations and spoken words are written into the air like an opera. These words, forming a living drama, cannot be completed without sharing our thoughts, imagination, sounds, and cooperating with one another. But when we connect our hearts and stand on the same stage, we can depict the world in vivid and rich detail. (補記:日本語は非常に感覚的な広さを持って認識しなければ、その全容を掴むことはできない。それぞれがそれぞれの視点ばかりから直接的な比較を試みてしまっては、互いにとってその"難点"を大きく見せる。ただ一つ、日本語は"多くの文化をよく取り込みながら成長してきた"言語だと説明できる。)
散文『言語について2:"日本語"の「負荷」と言語としての学習性』
*言語としての「負荷」 しかしながら、日本語の言語としての「負荷」という点は、論理的にかなり重いものだと説明できる。まず「使われる文字種の数が多い方・専門的になれば非常に多くなる」なおかつ中国的漢字とも異なり「ほぼ全ての漢字に複数の読み方が混在し、適宜使い分ける」、それが日常言語にも及んでいる。 「頻繁に、同じ字の"読み方"を語ごとに大きく切り替える」という文字体系、特に"同じ熟語に対して2通りの読みを取れる例"も多いという言語体系はかなり珍しい法則である。一応他言語でも「単語ごとに字の読み方が変化する」という状態は珍しくも無いが、"変化の幅"が非常に大きい。 それも「表語文字」という多種の文字群でそれぞれ異なる読み方が併存し、さらに一部の語で"特殊な読み"もある。そういった「音の判断」は"単語ごとに覚えていく"必要があるため、文字からの学習は混乱が特に大きい。(世界でも字の読みの変化は表音文字でさえも見られるので日本語特有でもないが。)
/歴史的経緯 典型例として「今日は一月一日、元日の日曜日、日本では祝日、ハレの日です」という例文は「日」の読み方が全て異なる。それは日本語が「口語と文語の融和」のために、"口語だった言葉に同じ意味の文字を割り当てる"方式によって発生した面と、ついでに異なる漢語読みまで混ざっているためである。 日本語の口語はおそらく太古から「元の口語を基盤としたまま、文語の語彙を外付けに受け入れる」という方式を維持してきたと言える状態であり、口語の文章化して「口語文の"意味の視認性"を良くするために、漢字を割り当てつつ通常の読みは口語のままで読む」という整理を行い続けてきた経緯がある。 また。口語を文章へと書き起こすことに長い歴史があるだけでなく、文語体も実務や実用において重用され続け、そういった併用の歴史から、口語においても「漢語でも音が良く分かりやすければ、会話における"語の認識性"のために、通常の口語でも漢語を使う」という拡張を自然と行ってきた。 (世界の文字文化では文字の権威性が強いことが多く、「字としての不安定さ」は許容されにくい。特に"同じ文字でも地方によって読みが異なる"くらいは珍しくないが、「1地域内では可能な限り1語は単一の読みであるべき」傾向が見られる。一方、日本では文字の権威性は口語と同格だったと評せる。) それが「公用語」として成立しているのは、日常会話語を地盤に、音の分かりやすい「仮名文字(ひらがな/カタカナ)」による直感的な学習の土台と、そこから様々な字や語を段階的に覚える「合理的な学習性を持つ言語体系」を持ち、それによって教育体制・学習体制を整えてきたからであると言える。 (なお。漢字は「同じ表語文字であれば、おおよそ近いイメージ・ニュアンスを持つ」ことが多く、"文字の読解"への負担自体はやや軽いとも言える。世界では「同じ文字かつ同じ音の語なのに多岐のニュアンスを持ち、"文脈"から意味を判断する」という言葉自体は、珍しくなく存在する。)
/子細な表現性 また漢字だけでなく、口語・口語体部分の作法も非常に複雑であり、細かい表現作法や語の変形がとても多い。特に"礼儀"の面で、かなり子細な表現の調整をする作法があり、丁寧な言葉を覚えるのは大変である。一応、日本語話者で、色々な言葉を普段から見聞きしていれば感覚の基本は自然と身につくが。 日本語話者であっても、細やかな表現法については必要に応じて学び、気を付けて使う必要性がある。しかも、細かい変化の仕方については感覚性に頼る部分も大きく、幼少から(あるいは学習的に)多くの日本語に触れてきていない人では、臨機応変な変形が難しく、不自然な日本語になってしまいやすい。 とはいえ、日本語としての基本構造が激変するようなことはほぼなく、礼儀の語彙もおおよそ単語の表現を切り替える、会話の前後が変化したり付け加えたりというくらいで、必要な語彙と用法を覚えておくと使えるようになっていく。ただ、1からの学習では"対応する語彙の量"に面を食らうことになる。 日本語話者は、日本語の「明瞭な音」という性質によって、日常的な会話、日常で触れる様々な言葉からも多くの情報を受け取ることができ、そこから日本語の言葉を日々学びながら扱っている。意識的に学んでいけば特に、日本語の持つ非常に豊かな表現力を、身に着けていくことができる。 なお。日本語ではその子細な表現力を応用して、場面に合わせた"伝わりやすい語彙を選ぶ"といった作法・配慮の幅やその範囲がかなり広い。礼儀の面だけではなく、状況や相手に応じて、妥当な語を使うわけである。また高度な場面では"正しく伝わりやすい"ように、その形式性はかなり固い表現にもなる。
/蛇足:欧州系言語の学習の難しさ (日本語について「漢字の読みが多い!」と文句を言われたりするが、例えば欧州系言語の多く、英語は特に「同じ文字でも単語単位で字の発音が変化する」という文字体系を持っている。日本語の感覚からすると「ひらがなに音読み訓読みが混ざってる」みたいな状態で、字と音の直感性に乏しい。) (一応。欧州系言語の中でも、英語はその字と音の不一致が酷い寄りの方で、欧州系言語比較としてマシな言語もあるが、それでも「音から字が確定しない」という状態が珍しくない。「表音文字」であるにもかかわらず、「音から字が確定しない」のである。日本人には何のための表音文字だ…?となる。) (補足しておくと。「漢字」は"読み"の直感性に欠けるが、「表語文字」であるため"意味"の直感性が高い。文字数や例外も多いため学習の手間は大きいものの、「漢字はおおよそ近いニュアンス」を持ちつつ、読みは音の直感的な「表音文字」で表せるため"学習や読解の効率性"は非常に良好だと言える。)
*異音同義語・同音異義語 /異音同義語 日本語の口語や"読み方"は、"口語基盤の言葉"と"文語基盤の言葉"が混ざっており、また古くから口語体での記録も残し続けてきた関係で、細かい表現を多く残されており、使い分けられる「異音同義語」が非常に多い。そこには"似た意味"の語彙でも、異なる機能性や"印象"の情報が備わっている。 それらは主に「聞きとりやすい・分かりやすい言葉」と「文字として使いやすい・使える語彙」という2つの要素が存在し、「口語について使いやすい語」「文字表記・文語で使いやすい語」もしくは「どちらでも使いやすい語」といった機能性から、「異音同義語」は併存させる合理的な事情がある。 例えば「あめふり/雨が降る」と「降雨」とでは使いやすい場面が異なり、「降-雨」のみでは聞きとりが難しく、「あめふり/雨が降る」は表記として冗長になってしまうといった事情である。さらに副次的な点として、細かい「言葉の印象」や「字面としての印象」という点での使い分けも生じている。 なお。口語における使い分けでは「口にして・聞いて違和感がないか」という感覚から使い分けが行われている。特に「音として違和感が無いかどうか」という点が、言葉の伝わりやすさ・広がりやすさ・残りやすさに非常に強く関わる。日本の言語文化は非常に「音の良さ」が大切にされていると言える。 また、そのような"豊かな異音同義語"は「口語の言語帯」と「(漢文由来中心の)文語の言語帯」が接続的に併存していることによって実現していると表現でき、さらに「どちらの場面であっても、より効果的な表現を"どちらの言語帯からも"引用して使う」ことができる言語として成立している。
/同音異義語 同時に「同音異義語」がかなり多い。これは元々"導入した漢字自体の事情"で音によって「同音異義の字」が非常に多い影響もあるが、日本でも"音読み"として受容してしまっている。特に"響きの良い語"は元の漢字の読みとしても好まれていたものだが、日本語でも継承され、積極的に使われていった。 ちなみに。日本の「漢字の"音読み"」は、その時々の漢字を輸入した時期・地域の古代中国の漢語読みが、字によっては2~3回導入され、日本での当てた"訓読み"の整備しつつも、漢字の"音読み"も同時に利用されて使われ続けてきた。(※なお輸入元の地域の読みは、時代の流れで消失している。) なお漢字由来ではない「日本の言葉」でも同音異義語はよく生じている。日本では日本の言葉に輸入してきた漢字を"訓読み"として割り当て、表記において区別しやすいように整理していった。(※"音の意味の多重化"は、人体として使える音が限られている以上、言語の宿命として避けがたいものである。) そのようにして「文字表記上の利便性」を考えた整理が行われたことで、多くの同音異義語や細かい意図の違いといった部分を、文字と十分な知識教養があれば直感的に読み取ることができる文字体系になっていったわけである。(その中で「仮名文字」を用意し、口語の筆記や、読みやすさも確保した。) そうして頻出する「同音異義語」については、口語では実用上、場面、状況や前後の言葉のつながりから「妥当な語彙」を連想し、瞬時に解釈する手順を(完璧とも限らないものの)行っている。ただし、明らかに分かりにくい・分かりにくそうな場合には、適宜、誤解を回避するための工夫・配慮も存在する。 (注記。日本語に限らず、"日常言語"の実用では「類推から意味を確定させる」という手順が必要なる言語は多い。当人たちは「詳細に聞きとって判別している」ようなつもりであっても、実態としては「おおよそを聞きとりながら、大部分を脳が勝手に類推で補完して語として認識している」ものである。) 日本語の口語では、話す自身も"解釈が難しい"と直感した時や、相手が分かって無さそうな時などには、他の語彙を使ったり、使用している語彙の説明を付け加えたりすることで、正しい意味を伝える会話上の作法・配慮がある。それも「平易な言語帯」や「別の読み」があることで、効果的に伝えやすい。 むしろ日本語は「口語での誤解を避けるための語彙」が非常に豊富であるとも説明できる。極端な例として、「科学/化学」は通常の読みが同音のため口語では「化学:バケガク」と言って区別できる。他にも「市立/私立」は同音だが、口語では「私立:ワタクシリツ」と言うことで明確に区別をできる。 一応。同音異義語でも細かいアクセント(音の高低)で区別されている場合もあるが、同じ音の例も珍しくなく、「語のつながりでアクセントが変化する」という場合もあったり、さらに「地域性・方言によって変化する」という例までもある。ようするに、それのみで判別されている・できるわけでもない。
/蛇足:言葉の言い回しについて (なお。例えば欧州系言語でも「単語一つに、直接的に様々な意味・ニュアンスが慣用句的にも残る多義性」がある。むしろ欧州系の方が"同音異義語"となる範囲が広いとさえ言えるかもしれない。欧州系言語では"語を明確にする形式的な使い方"に収めることを前提とすることで判別性を高めている。) (極端な例として。英語の慣用句(イディオム)として「kick the bucket:直訳"バケツを蹴る"」という表現に、さらにそこから転じて「bucket list:直訳"バケツリスト"」という語彙がある。英語ではこのような意味の多重化が多く見られ、英単語の直訳的な意味のみで語を理解することは不可能である。)
*蛇足:「略称」 (より実用的な応用において。長い名前などを「短縮して表記」、発声することが世界中の言語で実用のためによく生じている。英語であれば「National Aeronautics and Space Administration」という正式名称は短縮されて「NASA:ナサ」と呼ばれる。当然、日本語でも、略称はよく実用される。) (日本語における主な略称は漢字名称であれば「漢字2字などへの短縮」であり、「東京大学→東大」「日本銀行→日銀」や、主要な語の頭を使うとは限らず「国立科学博物館→科博」、場合によっては「東京都美術館→"とびかん"(都美館)」という例もある。これは"音と意味"を重視して生み出される。) (日本語の略称では音の良さから「4音への短縮」が非常に好まれ、一般名称として定着することもよくある。現代的な所では外来語の短縮として、「Word processor:ワードプロセッサー」は"ワープロ"と略され、「Personal Computer:パーソナルコンピューター」は"パソコン"で定着している。) (ただし"音の良さ"なども重要であるため、音によっては4文字にならず、「Smartphone:スマートフォン」はスマホンではなく"スマホ"で定着している。その他にもより技術的な用語だが、「Mother board:マザーボード:略"マザボ"」「Graphics board:グラフィックボード:略"グラボ"」である。) (日本語でもこうした略称・略語によって短く言葉を伝える文化が広く存在する。あるいは「長いと思えば略称にしてしまう」ということが非常に多いため、より柔軟に言葉を使っていると評せる。日本語の文法機能はそうした略語も受け入れられる機能性を持っている点も、略語の多さに関わると言える。)
*補足:「文語文字での調整、口語発音での調整」 網羅するとキリがないので一部の現代に存在する例として、電車の路線名「山手線」という名称は「やま-"の"-て-せん」と呼ぶが、これは元々「山の手」という語が由来で「山ノ手線」となる所、「言葉をつなぐ"の"は名詞の漢字表記で省略できる」関係からか、短い「山手線」の表記となった。 なお「山手線」は字そのままの「やまて-せん」読みも当然あり、一時期そう表記もされていたが、後に由来である「やまのて-せん」表記へ変わった。ちなみに"「の」を入れる"という表現は、大昔の人名を扱う際にも見られる。「藤原道長」は現代だと「ふじわら-"の"-みちなが」と読み下される。 また駅名「秋葉原」は、由来が字音に建立された「秋葉神社(あきば-じんじゃ)」であるものの、地名は「秋葉ッ原/秋葉ノ原/秋葉ガ原」など呼び方のブレが大きく、さらに「あき-は」「あき-ば」が混在していたとされる。ちなみに「秋葉神社」自体のさらに大本となる神社では「あき-は」と読む。 駅は元々「秋葉原駅(あきは-の-はら-えき)」という名で、やがて呼称が「あきは-はら-えき」に変化し、そこからさらに「あきは-ばら」を駅の基本名称とすることとなった。…わけであるが、現代においてより短く地名を指す場合には"語感の切れが良い"「アキバ」という呼称が一般的となっている。
*習熟に必要となる感覚 日本語の深い習熟には「口語"話し言葉"の領域の感覚」と「文語"文字表現"の領域の感覚」などを、それぞれかつ同時に、知識としてだけでなく「感覚として」身につけなければ、日本語学習問いして十分には覚えられないと言ってしまえる。それらが並列し、複合的に運用している言語が日本語である。 ネイティブな日本語話者は小さい頃から日常的な範囲から色々な言葉に接しながら感覚を養い、それを土台として長く勉強を進めて文字、漢字の学習に更なる語彙の習得をしていく、という段階的な習熟を進め、また大きくなっても日々様々な言葉と触れ合いながら知識や感覚を磨いていくことで習熟する。 知識面だけではなく、そうした感覚的にも「覚えることが多すぎる」という点は、日本語の顕著な欠点だと評せる。また日本語ネイティブであっても、知識層と非知識層では"語彙力"に大きな差がある。(※ただし。高度な実用を可能としている言語において、"語彙力に差が生じる"のは自然な差である。) 非日本語地域の人が日本語を覚えようとする際には、「口語体系と文語体系の併合的両立」という力技によって残されている、第二言語学習上非常に"不合理・不条理"な面、また"非論理的な法則(感覚的な背景に従った法則)"による難しさに恨み節を吐くことはとても多い。「なぜ分かりやすくしないのだ」と。 ただ例えば日本語の「読みの分かりにくさ」などは、「英語などにおける表記と発音のブレのような形態」とは異なり、原則的には"表語文字の読み方を変換する"ことが主であり、またそれも媒体によってはフリガナによって読解の補助をしている場合も多く、"音のとっかかり"は非常にやさしいと言える。 また文章上の意味の読解においては、集中的に「主要な漢字の意味を網羅的に覚えておく」という学習によって、文章の認識はそこそこまでできるようにはなりうる。ただしその場合、口語体系への感覚性が抜け落ちるために、細かい読みや口語部分における変形の多さに頭を悩まされることになる。 日本語の口語部分は、その大部分は自然に体得される"直感的な言語感覚"から生み出されているものであり、「直感の元」は文語体・口語体それぞれの範囲で異なるものの、習熟者は会話などにおいて、おおよそ「言葉としてもっとも感覚に適うものを選ぶ」という方法によって会話を進めていると言える。 そのために"深い習熟"ともなると「より多くの言葉を見聞きしながら」また「より多くの言葉を自らも使いながら」、体感として言葉を覚えていく必要性がある。それも「口語として使うこと」だけではなく、「文語として使うこと」も必要である。それは第二言語として覚えるということに限らない。
/認識の柔軟性 そのように理論ではなく「感覚」を軸として習得されることで、言語的な様々な変化に対しても柔軟に受容していけるようになっていく。そうした「日本語の直感性」を持てなければ、「言い回しの違い」や「方便の違い」などに対して、"不自然"と感じて混乱させられるばかりになりやすいと言える。 日常言語における日本語は特に、言葉に細かいブレが生じることは珍しくないため、「"言葉・音に対する大きなイメージ"をまず拾って、"細かい言葉から細かいイメージ"を整えたり、状況や文脈から類推して補完する」という流れで、突然みょうちくりんな言い回しをされたとて言葉を受け入れられる。 (例えば突然「このことばかて わかりやすう ござんしょ?」と言われた場合、辞書の言葉しか知らない場合には"この言葉"と"わかり"くらいしか拾えない。しかし日本語の口語として受け取る場合「この言葉-かて(≒(だ)って)-分かり-やす~(≒安いで)-ござんしょ(ございましょう)」の意味を拾える。) そのように多彩な日本語を聞きなれている人には、言語に対する感覚性が非常に"開かれている"ため、語に対する学習性も非常に鋭くなっていくと言える。なお、日本人は「知らない言葉を調べる」という習慣を持つ人も多く、一昔前の子供のいる家庭となれば国語辞典の1冊はよく準備されていた。 (欧州系言語の習熟では、"文語体"が強い基盤なため、重要なのはとにかく知識量・情報量だと言える。言語感覚も、口語会話の場面において必要とはなるものの、"語の習熟"ではとにかく"語・文法の知識量"がまず無ければ始められない。知識を積み上げてから、直感性はその後でもいいとさえ言いうる。) (もちろん欧州系言語でも、日常言語における砕けた表現というものは良くあるが、日本語ほど頻繁に不定形な変化を起こすことは無い。特に、元となった言葉が圧縮されていたりする程度で、無関係な音が混じるという例はかなり例外的だと言える。そのためにまずは、単語の多くの知識が重要である。) (ただし。日常言語という場面になる場合は、「"近年の"実用例」の学習も当然、知識の一つとして重要なものとなる。"辞書的な意味"の網羅も重要ではあるが、欧州系言語は「既存語の新たな使い方」を珍しくなく増やすために、古い辞書では網羅しきれなくなりやすく、直訳にも齟齬が生じやすい。)
*補足:現代日本語の"発声しやすい"面 現代日本語の表音文字(ひらがな/カタカナ)は基本「1字1音節~2字1音節」であり、また漢字の読み方もその表音文字を使って表せるため、「字と音の繋がり」は明瞭だと言える。(少なくとも英語圏などで生じている、"単語ごとの字の母音の変化"みたいな細かい変化は表音文字では生じない。) ただ現在でも例外として表音文字でも音の変化例が全くないわけではなく、"助詞における「は(→わ)」「へ(→え)」"の2例がまず存在する。ただその変化する場面は分かりやすく、原則「"字単体ではなく、単語の外にくっつく時"は変化する」法則を持ち、単語を読み取れるようになれば混乱は少ない。 また「は」「へ」はそのまま発音したとしても語の意味が変化することは稀であり、不自然ではあるものの通じないことも無い。(分かりづらい用例として「こんにちわ/こんばんわ」は元が「今日は~/今晩は~」から派生したとされ、書き字では「こんにちは」などとも書かれる点は覚える必要はある。) 他の発音変化の例としては(他言語でも似たことのある)「あ/い/う/え/お」が「主に同じ母音(※)を持った文字の後につけて長音にする記号」となる場合はある。ただ"長音化せずにそのまま発音しても良い"語が多く【どちらでもだいたい通じる】。(※"お行"は通常"う"で伸ばし。"お"は例外な語になる。) (「"お行"→お」の語彙として「おおい(多い)」「おおきい(大きい)」「とおい(遠い)」「とおり(通り)」「こおり(氷)」」など日常語でも頻出するが、これらも長音化せずに発音していい語である。どちらかというと、"口語として砕けると"長音のように聞こえる・長音化しやすい音の並びと言える。) (他にも「"え行"→い」も、口語として砕けると"長音化しやすい音の並び"となる。例えば[けいせい]は"い音"をはっきり発音せず、[けーせー]と発音されることもあるが【同じ語として伝わる】。主な長音化は[あ行→あ]、[い行→い][い→う]、[う行→う]、[え行→え][え行→い]、[お行→う][お行→お]。) (ちなみに(主にカタカナ語用の)"長音化記号"として「ー(伸ばし棒)」という字が存在する。現在は、外来語などの長音はそれが使われ(ただし伸ばし棒は新しい記号で、古くは外来のカタカナ語もひらがな語同様、あ行で表現している)、また「口語の文章化」や「効果音表現」などでも適宜応用される。) (なお典型的な"口語的変化"として「言(い)う」の発音が「ゆー」となりやすい。正式な発音は"あくまで「いう」だが、実用上「ゆー」に近くなってしまう"という変化で、書き字は「いう」なのだが、主に「言葉を発する/転じて"そう言える"」の語でしか起きず、「言う」と書かれるため、混乱は少ない。) なお小文字を用いて、通常とは異なる発音を誘導する「2字1音節」の場合もある。「しゃ/りゅ/きょ」などの拗音に、その他「ファ/ティ/フェ/ツォ」など、合成的な音の表記があり、この辺りの説明まで詳細にするのは大変だが、少なくとも全ての表音文字に「書かれている通りの音」が存在する。 その「2字1音節」の音は、言えない場合「2字2音節」へ分解しても("しょ→しよ"など)、"字"として別物に変化するわけではにため、予想的な補完は可能な範囲に収まる。(ただし、語によって混同する範囲が増えるため極力発音できた方がいい。「しょう(賞/小...他)→しよう(使用/試用...他)」など) その他「慣れない発音」について「言いやすい"近い音"で表記する/発音する」ということも珍しくない。例えば英語Vの音を古くは「バ行」に訳して発音されていたが、現代では「ヴ(+小文字ァ行)」が使われる、など。ただ慣れている人は区別して発音するものの、現代でも慣れない人は「バ行」を使う。 あとは「ん」の発音が前の音から微妙なブレ(m(閉口)/先n/奥n)が生じているものの、語としては一律に「ん」で聞き取られるため、区別・発音分けが不可欠ではない。(「ん」の性質は日本語話者にとっては自然な変異のため、「異なる"ん"がある」ということに気づいてない場合も多い。) 他にも「ら行」の発音も、前の音の繋がりの関係で、内部的に発声が変化していたりする場合がある(通常は舌が前寄りのままだが、他の音から繋げる際は[舌を引いて音を出す]場合がある。日本人なら[レロレロレロレロ]の高速発音で"前後"感が分かるかもしれない)。他にも語尾の[す]音はほぼ[s]の場合がある。 こういった感じに、日本語は発音に対して"かなり許容範囲が広い"性質を持つ。"母音が明確な5種5音のみ"、"子音も基本約14+2種(+拗音)を常に母音と併用"、他"鼻音/促音"と、音の種類自体が限られ、「それらしい音の発声」のハードルは低い。(※言語的な不慣れが生じる例はまあまあある。) また「字ごとに音を分割していい」ため、「音の発声の難易度」では"わりと容易な方"とも評される。(ただし。外国人向けにはよくヘボン式アルファベット表記が発音ガイドに使われるが、"ん"のように"語における発音"では細かい変化が潜在的にあり、ヘボン式も子細な発音を表現しきれてはいない。) 第二言語話者には慣れない発音も珍しくないために多少の障壁はあるものの、日本語圏の子供にとってはフリガナがふられていれば日本語そのものの「言葉にすること、言葉を覚えること」が非常に容易であり、幼少の頃からとてもスムーズに日本語の基礎を覚えていくことができるわけである。 (なお文字自体にアクセント・イントネーション、音の高低は表記されていないため、この点は実際に音を聞くか、学習者向け用の辞典的な表音補足が必要となる。しかし第一言語話者の中でも、細かいイントネーションなどには個人差・地域差が生じている例も珍しくなく、厳密性はそれなりに緩い。) (例えば。代表的な点として日本語では[la/ra]の音帯を(中間の)[ラ]として区別しない。あるいは[see/cee]などの音の区別もせず、[thee/dee/zee/gee/jee]らの音はほぼ2~3パターンでの区別する。方言などにおいては発音の"癖"として、そうしたパターンの違いが内在していることもしばしばある。) (ただし、英語圏での日常口語的な発音においても、近い音について、ほぼ区別していないような状態は見受けられる。つまり「非実用的なレベルの音の区別を"文字という標準性(権威)"を背景に実用しようとしているが、結局、音はブレたり混ざったりしてる」と言えてしまうのが実情だと語れる。) ようするに。日本語は音の分類が"非常に雑"である。しかしそれは「広い地域における言語差を、弾力的に受け入れる機能性」を持ったと評せる。言語として地域ごとの発音の違いは珍しくなく、語の子細な違いまで字に落とし込むと、地域差の齟齬が大きくなる事は、現代でも欧州系言語という実例がある。 日本では昔から、また江戸時代ごろからは顕著に、都市部などでは多くの人々、多くの地方語もいきかうため、言語の実用性として"方言の違いを受け入れる言語構造"が必要だったのではないかとも考えやすく、よって"明確に発音が違う場合だけを異なる音として認識する"という手法が有効だったと言える。 さらにネイティブな日本語話者が相手だと、音や言葉から深く類推して予測的に解釈してもらいやすいため、(たまに誤解しやすい単語はあるものの)、発声による簡単な意思伝達自体はそれなりに容易と言える。発音に不慣れな癖があっても、語が明確なだけで「日本語上手ですね」と言われうるほどである。 (ただし「日本語上手」は語彙を明瞭に使えるだけでそう言われうるもので、「非ネイティブの発音の癖」は、かなりハッキリと認知されている。日本語自体が"難しい言語だ"という印象・風説から、十分な語彙を持って会話できるだけで「十分凄い」と評されるが、"ネイティブとの差"は暗に大きい) (そもそも日本語自体に「方言の違い」が根強く、それを大きく許容する言語性・文化性を持つ。代表例として「関西弁」は"標準語"の東京弁とは地味に異なるものの、互いに日本語として自然と通じる。あるいは非ネイティブな発音も、1種特徴的な「方言的な違い」くらいに感じれるわけである。) (もし非第一言語である人が発音においてもネイティブな日本語を話そうとするには、尋常ではない言語的な訓練が必要になってくる。音の使い方を詳細に分析して意識的に"日本語らしい音"を発する訓練など。とはいえ日本語の会話に「ネイティブな発声」の不可欠な場面はかなり限定的と言える。) (蛇足として。「日本語の発音の流暢さ」として、最も優れた評価をする際の賞賛の表現は「(音だけ聞いたら)日本人かと思う/日本人かと思った」などである。典型的な「非ネイティブ型方言」が感じられない場合に、相手の出身地を完全に国内であると認識してしまう状態が"熟練した日本語発声"なのだ。) なお日本語では現代までに普及・整理していく中で(区別の難しい)"音の振り分けが失われた文字"の例も存在しているなど、「分かりやすいように整理」され続けてきた。現代でも残っているほぼ同音で異字の「じ/ぢ」「ず/づ」の扱いも、多くが"ざ行"側へと整理されており、例外的に一部"だ行"を使う。 (「言葉を減らして困らないのか」とも思われそうだが、そもそも「使われている自然言語として、近い音を厳密に区別し続けることは全く現実的ではない」ことを、特に英語圏が顕著にその実態を示している。であれば、"区別しないでどうにか整理する"日本式は言語として妥当な手法だと言える。) ("文字を規範とするべし"な文語体基盤の言語体系の文化にとっては、直視しがたい実情だと言えるところだが。日本語は長く文語体領域とは別に"口語体での記録"も取り続け、そこから細かな問題とも長く向き合い続けてきたからこそ、そうした「口語のブレに対応できる言語構造」を持つと言える。)
*補足:日本語の"日常語彙"の簡素さと機能性(と蛇足) なお、(だいぶ手前で)「知識的な場面では適宜"解釈の幅の狭い理路整然とした運用"もできる」と語ったが、それは限定的な場面に限られるものであり、ごく日常環境においては非常に"感覚性の強い"言語だと説明しなければならない。その関係において最も顕著な点は「指示語」が簡潔で多用される点である。 「指示語」とは日本語で言う所の「こ/そ/あ/ど/(か)」の言葉である。「あれ/そこ/あっち/どう/かの」などの表現で、短く「対象を示す」言葉である。そして会話において「単体で用いる」状況も多い。最も便利な言葉が「アレ」で、【記憶的に最も目立つ位置にあるもの】を示せる語彙である。 例えば「これ、あっちに置いて、あれのどっちかそこに持ってきて。」という口語が会話において成立しうる。この場合「これ:すぐ近くのものを指す」「あっち:遠くの位置を指す」「あれ:遠くのものを指す」「どっちか:2つの対象の片方を指す」「そこ:やや近い指定した位置を指す」という指示語である。 比較として、英語の日常語では指示語も「原則的には対象の名詞なども示す」という形がおおよそ一般的とされている。日本語の日常語では「これ、お願い」という表現でもごく一般的に機能しうると言えるが、英語の日常語だと「*やること* this *対象*」が一般的な表現だとされている。 「日本語の場合なぜその表現でも機能するのか」という点は、"互いに環境・状況を把握したうえで、文脈を想定して語を聞き取る"という習慣が存在するためであり、そういった性質によって簡略的・省略的な表現でのやりとりを可能としていると言える。なお分からない時には、なるべく素直に確認される。 (なお。会話の"間を取る音"に「え~:(間を取る音)」の他、「あの~:(主に記憶を探る/対象を選択する状態)」や「その~:(対象は明確だが、主に言葉を探る状態)」、「こう~:(主に表現を探る状態)」といった使い分けが生じる。"間投詞"自体は他言語でもよくあるが、日本語では"状態表現性"を持つ。)
/蛇足 (ちなみに。「英語で"主語を欠落させてはならない"とされる」のは、まず欧州系言語の機能的な問題として「"一般語彙の語が非常に短い"ため、音の識別・話の判別に課題が生じやすい」部分、さらに発展的に「"一般語彙の意味が多重にされやすい"ため、意味の判別に課題が生じる」部分が考えられる。) (人類は言語において"類推・推定"による補完を無意識に多くしていて、言語機能として音を「予測的に聞きとる」という処理を当然としている。欧州系言語は「非常に細やかな音や語を使い分ける」ために"聞きとりにおける補完"の比重が大きく、"理解するために多くの音や情報が必要になる"と言える。) (つまり結果として欧州系言語、特に英語は「話を理解するための十分な情報を得る」には、"言葉の流れ構成から類推する必要性が必然的に多い"という状態だと考えられ、結果として基本形な作法として「口語においてもより分かりやすい、説明的な話し言葉になりやすい」と説明づけられる。) ((もっと文化的な話をしてしまえば。公共の場面において「個人が"周囲を積極的に把握する習慣が無い"という視野の狭さ」から一般的な会話において語の省略ができない、とも評してしまいうる。なお、より関係性の近い相手とのカジュアルな話し言葉においては、語の省略も珍しくはない。)) ((日本語では「注意を引く語・音」が非常に根付いている。「あっ」「あの」「ねぇ」「さあ」「では」などの"(ほぼ無意味な)音"で「会話への意識を喚起する合図」を出して聞き取りを促してから会話を始めることが多い。そうした文化も日本語の意思疎通のスムーズさを支えていると考えられる。)) (さらに。英語での"子細な説明"では、"単語の意味の多重性"という課題から、単語ごとに誤解しにくい整理をしつつ、その上で本題の内容を説明するという、冗長な手間が当然として必要になる。また文法の形式性も、"語の意味を正確に伝える"という機能性を保つために守られているものと評せる。) (詳細な説明をしようとする場合、文章を「分離」して段階的に説明を重ねる必要性があり、冗長性はさらに伸びていく。それは「説明をするための説明をするための説明…」となりやすく、一見「論理的な説明を積み上げられる機能性」などとも評されるが、"不自由な言語であるための努力"とも評せる。) (ようするに。「子細な説明を"得意"とする」とは評しにくい"力技の構築"と冗長さを持つ、と言ってしまえる。英語の詳細さとは「言語的な難点から"必要に迫られて"、窮屈な文法の中で、語を尽くして並べ続けなければならない」という背景に由来しているもので、"特有の機能性"とは言い難い。) (しかも。そうして書かれた"詳細な文章"は、非常に細かい字が長々長々と並べられ、延々延々と説明をし続けている状態となり、"(日本語に比して)可読性が良好であるとは全く言い難い"状態である。解釈が文法に強く依存するため、1文1まとまりごとに情報を読み取る必要があり、読解にも手間がかかる。) (そして。辛辣な評をしてしまうならば。たとえその言語構造に依存して、論理を構築してみせたとしても、必ずしも正常な論理構造が形成されるとは限らない。全く的外れな視点ではどれだけ説明を尽くしても的外れになる。あるいは、長い文章の中、少し"ミス"で論述が破綻する恐れさえもある。) (「文法的に固い文章だから、正しく読めば誤読もしにくい」という評はあっても、「記述のミス」だけでなく「読解のミス」によって、それが破綻してしまう場合は当然としてある。それも、長い文章となれば記述することも読解することも、長さ相応に負担がかかるために、ミスの発生率は増える。) (ついでに説明しておくと。言語的特性が、能力的傾向を絶対的に保証するものではない。機会や習慣が乏しく慣れない人は読解を苦手としやすい。また文章の扱い、説明が下手だと、言語的に破綻した表現へと突き進んでしまう場合があるのは、あらゆる言語において見られうる自然な様子だと言える。) (強く説明しておくが「論理が苦手である」という事象は、あらゆる言語において、その言語的特性に関わらず、「言葉が不得意なので論理も苦手」な状態を引き起こしうる。これは「言語的特性」のみに由来するものではなく、それよりも文化的環境・教育水準・教育への機会に強く依存するものである。) (日本語の場合。文法的な柔軟性が高すぎるために「読みにくいが正しくはある文章」という状態もありえる。日本語の論述では、"強制的にかかる英語の文法的制約"とは違って、自由であるがための「精確に読みやすい・整理された文章」を自らの判断で整理する技量が求められるが、それも可能である。)
*学習難易度について とはいえ。日本語は「口語的表現」と「文語的表現」が併合されており、言ってしまえば「"ほぼ2種類の言語情報量"で1言語になっている」とも評せる。他言語話者には「なぜ日本の人々の多くがそんな難しい言語を当たり前のように使えるのか?」という疑問も持たれやすいだろうと考えやすい。 特に。「口語的表現」部分も、あるいは「漢字の読解」も、あまりに"非論理的・単純な説明をできない"性質が多すぎる。そのため非母国語話者にとっては、あまりに理解が困難な傾向が強くあり、深い学習には非常に大きな労力を必要とするものの、日本では「国の一般言語」として成立している。
/学習の基礎部分 だが第一言語としての、日本語の日常的な水準の習得は、それほど困難を極めるようなものではないし、それほど極端に難しいものだとも思われていない。それは「口語的部分」と「文語的部分」が、個別の言語ではなく"相互性を持った2層構造"として併存しているため、地続きに学習可能であるからだ。 それも。初期教育では「日常会話と全く同じ言語を使うことのできる口語的文字」の領域が存在しており、自然と体得される日常口語を基盤として初歩的な文字領域を学習していくことができる。また漢字も初歩では「日常口語の漢字化」を行うことで、漢字の意味を日常口語と結び付けて学習していく。 基礎的な教育では「日常口語→仮名文字→簡単な漢字」という段階的な流れによって基礎的な知識を積み上げていき、そうした知識基盤の上でさらに多くの漢字・語彙を学んでいくことができる。そのようにして「感覚的な口語」と「文語領域」とを密接に繋げていくため、効率的・合理的な学習をできる。 そのため、(家庭環境には左右されるものの)自然と多くの言葉に接することのできる"文化的な生活"をしていれば、子供が日本語を覚えていくことに困難な部分が少ない。また学習環境が整っていれば「知らない言葉を調べる」というハードルも低く、日常的な領域からさらなる学習していくこともできる。 かといって。"当然として全てを覚えられる"というほど難しさが軽んじられているわけではなく、「学習そのものは(人によってはかなり)大変なものである」という面も、おおよそ理解されている。そのために、より分かりやすい、より"効果的または効率的"な教え方や学び方も、多く考えられ続けている。
/文化的な社会環境 現代日本では、言葉の学習のための文化が整っている。それは単なる教育機関における学習だけではない。幼少期から言葉に触れるあらゆる機会、子供への読み聞かせといった習慣、あるいは色々な本やテレビ、ラジオ、その他動画やゲームなど、日常的な範囲で、豊かな言葉と文字に接することができる。 (家庭によるものの)特に子供向け図書などは絵本から子供向け小説やマンガも含めて、自発的に娯楽を通じてより多くの語彙に触れる機会を得られる、という非常に重要な学習性を持った文化がある。またテレビや動画、アニメやゲームといったものからも、浴びるように言葉に触れていく環境がある。 日常においては単なる"辞典的な学び"ではなく、「感覚的な認識」を伴って学習していけるのである。またそれと併せて、学校などにおいてより体系的な教育による学習を進めていくことで、学習不足部分へのカバーや、文化的な格差に対する底上げも行われていく。多面的に「学べる」環境があるのだ。 また日常環境にも非常に多くの言葉が溢れているために、習慣として「言葉には学習が必要」という文化も広く根付いており、大人も含め「知らない言葉・知らないこと」について調べるといった学習行為もよく見られると言える。生涯"学習が当然"だと考えられる文化的な環境があると説明できる。
/明瞭な学習の入り口 説明してきた通り。しかも日本語は「ほぼ明瞭な表音文字」があることで「音と字の分かりやすさ」から、初等教育的な学習のハードルが非常に低く、学習への入り口が非常に広い。「明瞭な表音文字」は、「音の聞きとりやすさ・文字との繋がりやすさ」に「発声や筆記のしやすさ」と非常に広く影響する。 分かりやすい字と音の関係から、(特に子供にとって・大人であっても)音と文字を非常に覚えやすい性質を持っており、そうした理解を前提として、段階的に「おおよそ固定的な意味を持つ表語文字」あるいは"慣用句"なども音と共に少しずつ覚えていくという、効果的な手順が整備されている。 (しかも。日常で使っている言葉をそのまま表音文字だけで書くことでも、初歩的な"文章を書く"ことができる。一応、可読性の問題から漢字も使えた方がいいものの、重要なのは「口語もそのまま文字にできる」という点である。それは"明快な表音文字"のおかげであり、少なくとも英語にはできない。) (日本語は1音1音が単純かつ明瞭なため「ゆっくり話してもらう」と、音の聞きとりやすさが格段に良くなる。複雑な音を持つ言語だと、ゆっくりでも"どの音なのか判別が難しい"ことは珍しくなく、英語のような音と字が一致しにくい言語ともなると、音だけでは何の言葉か理解しがたい。) 日本の文字事情から活用されている特殊な表記法として、主に表語文字へ「表音文字の補記(フリガナ)」を併記するという手法が存在し、それによって「知らない漢字でも音で読むことができるようにする」といった補助方法があり、可読性・学習性、また索引のしやすさをとても良く支えている。 フリガナは、ただ文字と音の関係性が分かるだけでなく、読み方が分かれば知らない語彙を「言葉に出して周囲に聞く」といったことや、自力で辞書を開いて調べることもしやすい。あるいは「音として聞いたことのある言葉の記憶と繋がって、その言葉の文字表記を覚えられる」という場合もある。
/つまり 日本語は、そのように(様々なコンテンツなどからも含め)"学習を日常としうる"社会文化によって、数多くの語彙や文字といった高負荷な部分を克服し、一般言語として成立してみせている、と説明できるわけである。「ほとんど2種類の言語情報量で1言語」だとしても、"覚えれば使える"のだ。 またそもそもとして。"2つの言語体系が併存する"とは言うものの、それぞれの"直感性"はおおよそ優れている。口語が感覚的に体得されるのは当然として、口語の"音"を直感的に表記しうる表音文字がありつつ、漢字は"意味"を直感的に把握できる表語文字のため、読解が高速で可能なほど負荷が軽い。
/補足:現代技術におけるハードルの低減・障壁 ちなみに。現代ではPC/スマホ環境によって「表音文字から表語文字への変換システム」が存在している。日本語の表語文字は常に明快な表音文字とのつながりを持つため、音さえ精確に覚えていれば多くの漢字への変換が簡単にできる。それにより高速な文章入力も可能となるなど、現代技術の恩恵が大きい。 そのようにして現代では、"漢字を書ける必要性"はかなり限定的な場面だけとなっており、またそれによって(第一言語話者にとっての)"言語の学習負担"は劇的に低減されていると言える。(最低限"読める"必要性はあるため学習の必要性が無いわけではないが、音の明瞭さからその負担は非常に軽い。) (他の言語。アルファベット系言語では「音と字の乖離」が少なからず存在するため、単語ごとの学習の必要性があり、長い語で予測機能を使うとしても"文字列を"覚えておく必要がある。中国語系の漢字では別途"音の表記法則"を覚えておくか、あるいは"字形の入力法則"を覚える必要がある。) ("音声入力における自動認識の齟齬"の起きやすさという点については、他のあらゆる言語においても「音と字の繋がり」において同様の問題は生じる可能性が高い。なんなら日本語の場合、表音文字というクッションを用意できるため、自動変換を妥協すればむしろ問題を回避しやすいとも評せる。)
*補足:かるた遊び 江戸時代に爆発的に広まった遊びの一つとして、「かるた遊び」がある(原型はポルトガル由来のカード遊びをまねたもので、"かるた"の語源もポルトガル語"carta(カードの意)")。その形式が国内の遊戯と組み合わさり、江戸時代では主に「言葉に対応する札を取り合う遊戯」として広まり親しまれた。 細かくは様々な遊び方があるが。教育性の高いものとして「いろはかるた」がある。"hひらがな"の文字種(いろは)に対応する「ことわざなどの書かれた読み札」と「対応する取り札」が用意され、無作為に広げた取り札の中から、読まれた札に対応する取り札を取る、子供も遊べる簡単な遊びである。 子供用では取り札に絵が描かれ「"言葉"と"絵"の組み合わせを覚えて遊ぶ」という形となっていて親しみやすく、遊びを通じて「ことわざの意味・イメージ」を覚えられる教育性がある。使われる言葉は(絵になるなら)自由で、様々なかるたが作られ、現代でも子供向けの遊びとして残っていると言える。 さらに高度な"かるた"としては、古い名作和歌をまとめた"小倉百人一首"を題材に、「書かれた"和歌"を覚えて、読まれた前半に対応する、後半の札を取る」という難易度の高い方式のかるたも存在する。詳細は割愛するが、ようするに「親しみやすい形で古い文化も長く語り継がれている」わけである。
*第二言語として学ぶワザとハードル なお第二言語として学習する際は、「日常会話範囲への一定の慣れ」を前提としている子供向けの教育手順ではなく、認識力のある大人であれば、仮名文字の次に「漢字のパターンから一気に覚えていく」という手段もあるらしい。効率的に「分かる語彙を増やす」ために、"漢字のイメージ"を学ぶのだ。 漢字さえわかれば文章などの概要をつかみやすくなり、より効率的な学習を目指していきやすくなる、というアプローチであり、読める文章は確実に増える。ただし、漢字によって学べる範囲はおおよそ「文語的表現」の領域ばかりであり、「口語的表現」の領域はまた個別に学んでいく必要はある。 (極限的に。最低限の読解であれば、「漢字の意味」「名詞」そして「口語部分の"肯定/否定"の判別」を覚えられれば、書かれた語の意味を拾い上げるための力は最低限持つことができると考えられる。ただし、より自然に使っていくためには、「口語的表現」部分への慣れは不可欠である。) 「口語的表現」の領域は"文語体"の領域と違って非常に身体性・感覚性に根付くものであり、それは"実際の言葉などを聞き取って"覚える必要性があり、また"実際に言葉を使っていくこと"で身につけていくものだと言える。このハードルは"高い"というより、「長く続く、小さい段差の連続」だと説明できる。 日本語は顕著に「理論的な学習だけで集中的・短期的に学びきることは至難」である。特に、実用上の「言葉選び(多様な表現方法から、場面に妥当な表現を選ぶこと)」「読み方選び(漢字の読みやアクセントの付け方)」には、知識だけでなく高度な感覚性を求められるため、第二言語としては非常に難しい。 さらに高度な習熟として、「日本語の発声」という面では、第二言語話者の場合どうしても「母国語の癖」が現れやすい点はある。ただ慣れた日本語話者なら「方言的な認識」で聞き取れるため、"発声の精確性"より"音の明瞭さ"と、あとは語彙の学習へ集中する方が会話への近道になる。 (日本語は"音が単純"であるために「幅広い音の変化も1音に収まって認識される」ようになっている。非常に細かい音の表現・区別をしている言語では、その細かい表現をできないと発声できず"伝えられない"状態にもなりがちだが。日本語はブレても"伝わってしまう"ほど、伝わりやすい言語である。) (なお実践的な会話において非常に大切だと考えられる点は、1つの意味に対して1語だけを覚えるのではなく、1つの意味を示す"代替表現"もなるべく覚えること。"(不明瞭な)1語だけ"だと類推するにしても限界があるため、伝わらなかった際の"保険"を持っておくことも大事と言える。)
/感覚的な学習、理論的な学習 日本語の学習性とは。「感覚的な学習性」として"日常会話から地続きに文字学習を段階的に進められる"という、感覚的な土台の上に学んでいく性質から極端な難解さは薄く、幼少から学ぶ第一言語話者には自然と習得、習熟する素養が育まれていく。学ぶ機会は必要だが、適切に学べば自然と習熟していく。 しかし「理論的な学習性」では、ほとんど不規則な"ほぼ非論理的な性質"、特に漢字の読み方や、口語的表現部分における細かい表現の選び方など、子細な変化が非常に多彩であるために、理論的にそれらを網羅することは気が遠くなる煩雑さである。理屈を整理しようとなるととんでもない理論の量となる。 第二言語として日本語をより深く学ぶためには、会話や物語などから浴びるように様々な日本語の音を聞き続けつつ、また日本語を自ら発声し、またそれに対応する様々な日本語の文字や文章を読み書きしていき、日本語を良く調べ、体に"日本語の感覚"を根付かせる手順が求められるだろうと説明できる。 (言語学として。発声の詳細さでネイティブさを求めようとする場合は、音の性質・傾向を注意深く意識し、適切に発声できるように訓練する必要性がある。特に歌やセリフなどをまねるなどを繰り返し、"その言語の発声の癖"を体得しなければ、中々に届かない領域である。日本語は特に独特さを持つ。) なお。日本語の第一言語話者の大人でも「日本語を知る・学ぶ」という場面に遭遇することは珍しくない。日本語の記録は非常に長く、様々な表現を積み重ねてきた歴史があり、表現方法が多彩すぎるほどあり、また新たな表現を作ったり導入したりすることも多い。日本語は、日々学習していくものなのだ。 (日本語は口語文語が親しく、音と仮名文字の関係も明快であるため、例えば「テレビ・ラジオ・配信、その他作品などの会話の音」からでも、辞書などで"語を調べること"につなげやすい。欧州系言語、特に英語は発音から単語表記が確定しないため、音だけでは文字を調べることすらままならない。) (ただし。日本語は「音節の密度」という面では音のテンポが短くハイペースな語である。例えば欧州系言語は1音節に音を重ねることが多く「音節の密度」だと若干緩くなりやすい所、そうした話者からは日本語は"早口"に聞こえる。"音は単純だが早い"感覚に慣れないと聞きとりが難しい。)
*受け継がれる感性の欠片 日本において、「言語における様々な表現が存在する、あるいは残ってる」状態の背景には、間違いなく日本の文化、言語芸術や物語の文化が大きく関わっていると言える。日本では"言葉"と"芸術"の文化が、相互的な関係で大昔から現代に至るまで、持続的かつ発展的に使われ続けてきた歴史背景を持つ。 古くから「口語の歌」を記録として残し続け、「文語体の作品」が作られつつも「(推定)口語体の作品」さえもおよそ10~11世紀頃の記録が残っている。"作品"らしい作品ではないが、"日常芸術的な文"、今で言う所の古い"手紙"が、長く教育にも用いられ、様々な面から言語の文化が継承されていった。 江戸時代が進むと、社会が豊かになり様々な娯楽表現も増え、また庶民への教育も広がり、多くの庶民が様々な本をたしなむようになり、またそれと相互に当然"書く文化"なども一部知識層の庶民にまで広がって良き、人々の創造性の土壌が広がっていったと言える。その文化性は、現代にも続いていく。 近代からは「紙芝居」などの形式も登場したりと、そのようにして、様々な娯楽文化が普及していくことで、多くの"日本語の文化"もまた広く共有されていったと言える。また、そうして"当然のように"親しまれるようになっていった創作物語を含む娯楽文化が、"日本人"の文化性を形作っていくこととなる。 (注記しておくが。"社会性と物語文化"の関係性は、人類史において不可分なものである。どのような物語があるのか、またどのくらいの物語があるのか、特に「子供へと話されるおとぎ話」は、人々が備える社会性へ大きく影響を与え、あるいは「人間性の基盤」の大部分となりうる経験となる。)
/創作文化の連続性 日本の創作は「日本の言葉という言語の軸」が大きな基盤となることで、古くから日本地域の創作文化が育まれていき、それは文化的にも精神的にも連続性を持って受け継がれ、時代の変化にも対応しながら連綿と継承され、長い蓄積と試行錯誤による発展をし続けてきた、分厚い歴史があると表現できる。 この"分厚い歴史"とは、単に「古典が保存されている」という意味ではない。「非常に幅広い時代にかけて、なおかつ連続性を持った文化の中に様々な作品を確認することができ、特に社会が安定する頃からはさらに膨大な作品が積み上げられていった」という意味の、歴史の"分厚さ"である。 特に12~13世紀ごろから「(当時の)昔話、説話」をまとめた書物の存在が確認されており、その中身は「当時口伝されていた"お話"」などと考えられる。またその編纂よりさらに前、10世紀初頭前後に『竹取物語(現:かぐや姫)』という作品が成立したとされ、その物語の概要は現代にまで伝わっている。 さらに各地においてその由来は不明瞭だが、現代でも口伝されてきた昔話/おとぎ話が多く確認されており、また「類型のお話が各地に"点在"して確認される」という場合も見られ、そうした物語は非常に昔から(庶民にとって書の遠い時代でも)主に口承で広まっていっていたのであろうことが推測される。 そして現代日本の創作文化もまた、太古からのおおよそ連続的な探究と発展の延長線上に存在する。歴史的な文化の流れ、特に物語や芸術創作の文化と言語の文化という基盤が、日本における創作文化の基盤となり、また現代文明が活動を支える土台となって、豊かな創作が日々作られ続けているのである。
*補足:(創作文化の"歴史的連続性"について) (欧州地域の場合、中世欧州時代においての記録が限定的と言える。庶民が文字を持たないだけでなく、多くの情報が主に聖職者層に管理され、また支配層が扱うものは長らく占有していた"古典"を中心としていたため、歴史的な"蓄積"という点では限定的・局所的で、かなり薄い期間だと言えるらしい。) (現代欧州の"歴史的芸術"の多くは、連続性として"中世後期~近世以降"を大きな基点としており、特に14世紀ルネサンスなど(当時の)古の文化復興の流れを含め、(比較的)開放的な時代となり積極的な芸術制作が可能となって、多くの創作文化が生まれる時代となり現代へと続いていく、と説明できる。) (一応、中世欧州の半ばまででも一部新しい創作は存在していたとは言われるものの、局所的・限定的な文化な傾向で、多くは古典性・硬直性が強い傾向が見られる。また庶民の領域については当時の記録において残されることも無く、"創作の連続性"としては限られがちな社会情勢だったと説明しうる。) (特に、庶民たちの持っていた「物語」の領域さえも、"聖職者"たちによって与えられたり"管理される"ような部分も多かったと推定でき、細かい民間伝承の物語をとても残しにくい時代が長く続いていただろうと考えやすい。その影響が弱かったのは地理的に聖職者の力の弱い地域くらいだったと言える。) (14世紀ルネサンスの少し後、15世紀半ばごろに活版印刷が発明され、16世紀には「宗教革命」が発生。(現代から見て)"欧州近世"と呼ばれる時代へ進んでいき、新しい活動がより活発になっていく時期になる。印刷の普及によって文字文化・創作文化も特に盛んになり、現代に続く流れが強まっていく。) (なお"文書の鬼"と言える地域としては中国大陸を上げられる。歴史的に非常に多くの文書記録を確認することができる。おおよそ記録を積み上げ続けられる社会体制を構築し、"記録できる人材"が非常に多く育てられ、現存している書物の量だけでも凄まじく、その連続性と総量は世界随一とも評せる。) (とはいえ中国大陸における書物の歴史の大部分は主に"国家的・公的"な記録文書であり、広く見て"民間の書籍"の歴史となるともっと短くはなる。それでも雑に見ても、民間向けの商業出版がおおよそ10世紀ごろから、"庶民文化"の起点となるのも14世紀ほどまで遡ることができるとされる。) (ただし中国大陸は"近代~現代"の時期で一時的に非常に厳しい時期を経ている。深刻な状態は短期的であったものの、その影響は根強く残り続けており、現代にあっても"情報的に閉じた地域"とさえ表現してしまえる社会情勢と説明できる。"現代の連続性"と"発展性"では若干厳しい情勢が見られる。) (さらに中国大陸では"漢字"の習得難度がかなり高いために、現代的な広い教育整備が行えるまで"庶民"と言っても高度な教育・学習を得ている層だけであり、また漢字は「形式的な文書の記録」には非常に有効である一方で、創作をすることはハードルが高めで、その面でも難しさがあったと見える。) (なお。現代の世界で特別に長い連続性を持って物語を"語りづいてきた"地域としてはインド地域を上げられる。特に口承の文化が非常に深く広く存在し、3世紀頃に重要な説話をまとめた書物が編集され広まる。その後も様々な物語が生まれ、各地域において語り継がれ、その流れは現代に続いている。) (ただしインド地域は言語的な多様性が非常に豊かすぎるくらいであり、またさらに各地で語られる重要な物語は地域にとってのアイデンティティであったりするなど、主要な物語の扱われ方には"社会的影響"が非常に強く見られる。ようするに、主要な物語では"権威性"がだいぶ強いと言える。) (また言語的にとても煩雑で、地味な制約を抱えている。特に各地域における言語(アイデンティティ)を許容するために「言文一致」の傾向が乏しく、地域の口語・方言が自由に散乱してしまっている一方で、文書類・文学系の言語域は権威的な性格が強く非常に"固い"、といった言語事情が見られる。)
*最も"感覚的"な言葉「オノマトペ(とオノマトペ的な語)」 日本語は、非常に"感覚的"かつしかし"高機能"という複合的・多層的な言語体系である。そこには、時として直面してきた「筆舌にしがたい体験」「言葉にできない感覚」もまた、「いかにして表現するのか」という探究をし続けてきた・し続けていく言語的な文化性が根付いているとも説明しうる。 美術史的な視点としては「感覚性」「合理性」を重んじる傾向から、"現実性・写実性"をあまり追究してこなかったと言えてしまう側面も目立ってしまうが、それが芸術史としてただ"拙い"と表現してしまえるものではなく、(使える道具で)「いかに効果的な表現をするか」を追究してきた姿だと言える。 そして日本の文化の「いかに効果的な表現をするか」の追究において、最も顕著である文化が「オノマトペ」である。しかも日本のオノマトペは伝統的なオノマトペが多数確認できるだけではなく、「必要なら新たなオノマトペ的表現が創出される」こともあり、それさえも広く伝わりうる文化がある。 「感覚を"言葉の音"に落とし込む・"言葉の音"を感覚として受け取る」という技法・文化が根付いており、そうした感性によって「擬音語:音をまねた語」だけでなく、「擬態語:状態を表現した語」がとても豊富に存在する。世界的に見て"話者が多い方"とされる言語としては、傑出して多いとされる。 しかし日本語においてはそれもまた"言語の一部"であるが、"言語的ではない"とさえ言えるほど感覚性が非常に強い。日本人は「言葉を知らずとも伝わるはずだ」と思う"平易な表現"のつもりでさえあるが、オノマトペの狭い文化圏から来た人には理解の難しい格段の苦労を強いられる語群である。 そして日本語は明確なオノマトペに限らず、多くの語彙に"オノマトペ性"が根付いているために、「日本語の(表層的ではない)深い習熟・繊細な表現の読解には、"知識の蓄積"だけではなく、感覚的な学習が不可欠だ」と言わなければならないのである。感覚を知らなければ言語自体使いこなせないのだ。 (より厳密な話をすると、日本語の伝統的な語彙で「狭義における"オノマトペ"だと断言できる語彙」はそれほど多くない。それは"オノマトペ的な語"であっても本当に"オノマトペである"と定義することは難しいためである。しかし、日本人は非常に多く"オノマトペ的な語"を使っているとも言える。) (一つ注意しておくと。「音の感覚」は、"音象徴"という性質によって誘導されている部分も大きいものの、細かい音の感覚の認識は"文化"にも大きく左右される。それは単に「イメージを読み取れる・読み取れない」だけでなく、"音から連想するイメージ"にも文化的なズレの生じることもある。)
*オノマトペ的な語の文法 日本語のオノマトペ"的"な語は、その多さから基本形が"体系化"されている。一番代表的な部類が「ABABと短い語を2回以上繰り返す(畳語)」で、これは通常の語彙でも柔らかい印象で"気持ち・感覚"を伝える際に使うことができ、新語にも、例えば「エモエモだよ~」と言っても、語として通じる。 重要なのは「エモエモだよ~」と発する場合、これは「エモい」という単語が元となった「厳密な"オノマトペ"ではない」という点でありながら、「オノマトペ的な語」として"擬態語の文法を導入することで、「持続的な気持ちの体感」という子細な感情を柔らかく強調する"という手法となる点である。 畳語以外は新語の応用は少ないが。より音の要素が強い文法として「っ:促音」「ん:鼻音」「り」が用いられる。明瞭に"単発の擬音"として「○○っ」「○○り」「○○ん」(がたっ/がたり/ガタン)という"音の変形"が存在し、印象の感覚や音の相性によって使い分けされる。適宜"長音"も使われる。 またこれらの"単発擬音型"は、畳語のように2回以上繰り返して連発性、"印象の持続ではなく、印象が何度も生じている様子"を表現することもできる。"ガタガタ"よりも"ガタッガタ"の方が強調的な印象になり、"ガタリガタリ(-と)"や"ガタンガタン(-と)"となれば音の一拍一拍を強く認識する印象となる。 なお。通常語彙としても「○○り」「○○ん」は多すぎる事情もあり、新語へ応用しようにも音の衝突が非常に発生しやすく使いにくい。("エモ"なら「えもり(苗字類)」「えもん(衛門/衣紋)」などの語がある。)ただ、"マンガ効果音"的な拡張であれば「エモ~ん♪」は滑稽な誇張表現として可能と言える。 また畳語表現でも1文字目に「っ:促音」を付け加えることでも強調表現の変化になる。「エッモエモ」とすれば「"強い"持続的な体感の表現」になる。ただこの形と間に促音を入れる「エモッエモ」形式との感覚的な区別は希薄な所で、おおよそ話者や語の関係から言いやすい方が用いられる。 より伝統的な語彙に使われる文法が「○っ○り」と「○ん○り」の語で、より「"単語"として扱いやすくなる形」である。中には「ひっそり/ひそひそ:密(ひそ)か」や「ひんやり/ひやひや:冷(ひや)し」といった通常語彙に繋がるもの、「もっさり/もさもさ」「ふんわり/ふわふわ」など擬音の変形語もある。 ただし中には「がっかり(期待を裏切られて気落ちする感覚)」や「しっくり(丁度良いという感覚)」など、「がかっ(×)/がかり(係り)/がかん(×)/がかがか(×)」「しくっ(×)/しくり(×)/しくん(史訓)/しくしく(泣く様子)」のように、他の文法への変形では意味を保持しない語も存在する。 こうした「変形可能性」の違いはほぼ"音の感覚"に依存し、論理的な説明は現実的ではない。しかも「ポカポカ(温かい気持ち/連続打撃)/ポカン(大きく口があいた様子)/ポッカリ(大きく穴があいた様子)/ポカッ(やわらかい打撃音)/ポカリ(名詞語)」などのように、変形で意味が変化する音までも見られる。 より単純なオノマトペ的な語の形として「○っ」という語がほとんどの字(音)に存在し、「○ー(-っ)」という語も非常に多い。なお小さいオノマトペ的な語は、文章/会話において多くの場合「~と」と繋げ、語の識別はされやすい。長い語の一部は「~した/する」とも繋げることがある。 そのように日本語においてオノマトペ的な語は「語」の範囲として、通常の会話/文章の最中にも導入できる。特に日本語は語の配置の柔軟性が非常に高いため、大量のオノマトペ的な語を1文の中に敷き詰めた文章を作ることも可能である。ただし過剰なオノマトペ的表現は"幼稚な文章"にはなる。 一応、日本でも「オノマトペ的表現はやや幼稚さがある」という印象そのものは存在する。しかし、一般語彙の範囲においてもオノマトペ的な語が少なからず存在し、それを回避しようとすると伝わりにくい難解な語彙を使わなければならないために、大人になってもオノマトペ的な語を使う機会は多い。 なお、これらは「文語としての主要なオノマトペ的表現の文法」である。"音の表現"としてはさらに細かく広い。実際に発声する際は、声の出し方やテンポなどを変化させることによってより詳細な印象を表現する。また書き文字においても、より細かく文字を費やすことで"音を感じさせる"手法もある。
*蛇足:"オノマトペ的な語"という観念 蛇足として。日本語のオノマトペ的表現において「由来が音の表現ではない可能性があると説明しうる語」が多い。おおよそ「通常語彙がオノマトペのように使われる」場合は、狭義的な意味で"オノマトペではない"とされやすく、ここでは包括的な表現として「オノマトペ的」と称している。 分かりやすく通常語彙との近似が分かる例として「あつあつ:熱(あつ)いの変形」「ゆらゆら:揺(ゆ)らすの変形」「まるまる-と:丸(まる)いの変形」、あるいは「ふっくら:膨(ふく)らむの変形」。既に上げた所で、「ひんやり:冷(ひ)やし」「ひっそり:密(ひそ)か」といったものもある。 音っぽい所でも、「ころころ-と」はまさしく「転(ころ)がる」で、「すりすり」も「擦(す)り/擦(こす)り」という語があり、「くるくる-と」も文字において「繰る:糸を巻きつけるなど」という表現が見られたりする。ちなみにオノマトペ的な語の「でこぼこ」は「凸凹」と書ける語である。 「しっかり」はオノマトペの文法を持つが、漢字において「確(しっか)り」と書ける語である。あるいは「バッサリ」も純粋オノマトペのようで、「ハサミ:道具」が「○○バサミ」と変形するため近似語を持つ。「空いている様子での"ガラガラ-の"」も「伽藍堂(がらんどう)→がらん-と」の近似語がある。 「ぼやぼや/ぼんやり」(ぼやける)も、同じ音の"暮夜(ぼや):夜になった時"という連想できる語がある。連想まで広げてしまえば、「あっさり」は「浅(あさ)い」という連想できる語があり、「うっかり/うかうか」は「迂闊(うかつ)」という語がある。「じめじめ」と「湿(しめ)る」は変形の近似語である。 さらに"そのまま"以外の音まで含めるなら、「ゆったり」の"ゆた"には「揺蕩(たゆた)う」との関連を疑える。あるいは同様に「すやすや」は「安(やす)らか」の関連性を疑える。「ピカピカ」は「光(ひか)る」との近似性が強い。それらが本当に関連するかは別で、あくまで"近似"がうかがえるだけである。 このような視点で考えていくと、伝統的なオノマトペ的な語において、狭義的な「連想できる通常語彙の無い、"純粋なオノマトペ"」と呼べる語がどれだけあるだろうか?と考える必要性が出てくる。「ボロボロ」も同じ音に"襤褸(ぼろ):破れた衣"という語を見つけられるが、ボロボロ由来とも言われる。 ようするに。「元々存在した大和言葉のオノマトペ語彙に、同じ意味・ニュアンスの字が当てられている(訓読みになっている)」という可能性の例が十分に想定できる。つまり因果が逆で、「通常語彙をオノマトペに転用している」のではなく「オノマトペを通常語彙にした」範囲もあるだろうと想像しうる。
*どんぶらこ 口語表現において、日本人なら誰もが分かるほど有名だが、しかし極めて不思議な音の表現が存在する。それは「大きめの物体が、川の水面をやや浮き沈みをしながら流れていく様子」を表現しているもので、有名だがその他の物語作品ではまず目にすることのない独特の表現がある。 「川上から大きな桃が"どんぶらこ、どんぶらこっこ"と流れてきました。」この表現の巧みさは、「桃の流れる速度・水との様子」を端的かつ直感的に言い表しているところにある。子細な説明を費やすことなく、感覚的に表現されており、それを朗読されることでほぼ同じような想像を導くのである。 それも「大きな桃がゆったりと流れてきた」では、桃が静かにくつろいでいるような様子で流れていき、「大きな桃がゆらゆらと流れてきた」になると桃が軽く落ち着きがない様子で流れてきてしまい、「大きな桃がゆっくりと流れてきた」では川の流れそのものが遅くなりすぎてしまいやすい。 "どんぶらこ"は、重量感がありつつ「川で流されている」様子が表現されており、また朗読の際には2度の"どんぶらこ"で自然と抑揚が自然と促され、その音の高低によって桃の浮き沈みをも表現させる仕掛けとなっている。物語の中、特に朗読されることで完成する音の語なのである。 ただ元の物語以外において"どんぶらこ"を使う機会はあまりにも稀ではあるが、そうした表現は多くの日本人の言語感覚の基礎に根付いていると言える。日本人は幼少から、大人になっても、「言葉でいかに雰囲気を伝えるか」という点を伝統的かつ日常的に模索していく、素質が育まれているのである。 そうした"音の感覚"の素質、言語感覚から「感覚的な的確さ」を探って、知識に無い"音の口語"を生み出すこともある。それは伝統的語彙と被る場合もあるが「その知識が無くても、新しい表現でも、体感的には伝統的語彙とほぼ同じ」とさえ言える。"分かる"と"知っている"つもりになるのだ。 日本語の文化が、論理的な説明として「高度に体系化された言語」とも説明しうるものの「難解な性質を持つ言語」だと説明しなければならない。それはオノマトペ文化などが象徴するように、その基盤が"論理"ではなく「高度な感覚によって成立させている」という理屈へと深くつながっていく。
*哲学的観点と日本語の拡張性について 哲学的な理論として、言語は「世界を見るための窓」に例えられることがある。つまり「ヒトは言語化することで物事をより的確に認識できるようになる」という観点である。言語に無いものの理解をすることは格段に難しく、「言葉を組み立てて定義する」という手順を必要としがちである。 これは「言語によって世界の見え方が決まってくる」という説で、さらに「言語の豊かさが世界の見え方を豊かにする」といった観念や、「異なる言語同士では世界の捉え方も微妙に異なってくる」といった文化的な違いにも繋がってくる観点である。それを踏まえると、日本語の様子は非常に面白い。 日本語は論理的言語と感覚的言語が同一軸上に大きく併存するという、「合理的な機能性を複合的・多層的に持つ言語」であり、なおかつ「感覚に強く根差した深い言語感覚によって使われる」という観点から、文化的な世界の捉え方が、他の言語圏とはかなり異なる形態を持つとさえ考えられる。 日本語文化の顕著な点として「積極的に新しい言葉・新しい使い方を生み出す」文化が見られる。学術に強い言語にもひけを取らないほど、日本語の文化において活発な場面では「世界を理解するための手段を模索し続けている」とも表現でき、日常においても探り続け、生み出し使っていく文化力がある。 個人個人においてはその人の持つ文化力に大きく左右されるものの、社会的な文化力として「新しいものを受容できる文化性」があると言える。それは特に、近代から現代にかけての社会環境の大転換期にあっても、言語的な受容を無限なほどにまで拡張し、必要なものを日本語へと飲み込んでいった。 そうした近代以降において、様々な外国の技術・知識の導入を非常に短期間でしてみせて、必要なものを「日本における日常」とまでしてみせたことは、日本語の力と、それを基盤とする日本文化がいかに柔軟な文化的強度を持っていたかと評することもできるだろう。民衆の受け入れがあまりに早すぎる。
*言語的両立 特に現代日本語は、ごく日常的で平易な言葉であったり、極めて芸術性の高い雅な表現などがあったりするが、"同一の言語"において、必要に応じて極めて精緻で論理的な説明の構築を可能とする機能性を持っている。"極めて情緒的な認識"も"極めて科学的な認識"も、同じ語の上に受容する機能がある。 それは日本という地域が"言語"に対して、権威的な文字の独占から早々に手放され、言語が持つべき本質的な目的である「意思疎通」や「情報伝達」の高度な実現を社会的に求め続けていき、広い柔軟性と深い連続性を持って、発展的に積み上げてきた歴史があるからだ、とも説明しうるものである。 文芸においては「印象や気持ちを伝えるため」、その感覚性を最大限引き出す端的な使い方の探究もされ続け、実務実用においては「より合理的かつ的確に伝えるべき情報を伝えられるように」と表現の形式を試行錯誤されていき、それらが「日本語」の両輪となって、相互的に社会を動かしてきたのだ。 それらを両立させることができたのは、いわば「2層の言語形式を併存させる」という言語様式を、「"表語文字(漢字)の読み方を複数併存させてしまう"という【力技】」を実用してみせたからだと言える。元々の"大和言葉"を強固な言語基盤とし続けつつ、その上に輸入した"漢字"を借用して使い倒した。 特に「文語(漢字)言語のみ」か「口語(旧来の言葉)言語のみ」かと切り替えるわけではなく、「文語を地元口語で読み下してしまう」、さらに文字を整備して"表音文字(仮名文字)」を制作し「地元口語を文字にしやすくする」、そして「文語の読み(音読み)を、口語にも導入する」といった"併合"を進めた。 そうして「かんたんなもじ」と「高度な言語帯」とを言語的に融和させ地続きにしてしまうことで、書物において「形式的な文語体で編集する/地元口語を応用しながら文語を編集する/地元口語で書き記す」といった、多様な表記形式を1つの言語の中に併存させてしまうことを実現してみせた。 特に、日本における文字の普及・学習の普及は、そうした"かんたんなもじ"に大きく支えられてきたと表現でき、その"かんたんなもじ・かんたんなことば"を足掛かりとして、"高度な文字・高度な言語帯"を段階的に学んでいけるという、非常に「合理的な多層性」がうまく成立した稀有な言語と評せる。 人類が発せされる言葉を基準にかんたんな文字を応用して構成する"表音文字"だけで、全てを分かりやすく言い表し切れるほど世界は単純な形をしていない。しかし難しい文字を大量に作り出して構成する"表語文字"言語だけでは人類にとって学習は簡単ではなく、また日常では使いにくく口語には不向きだ。 言語において人類が悩み続けてるそうした問題に対して、有効な解決策となりうる手段こそが、日本の実現した「表音文字と表語文字の併用」だと評することもできる。(少なくとも、"表音文字を標榜しながら実態として表音性がひどく不完全な言語"が多用されている状態が、言語として合理的かは疑える。)
*"ユニークな言語" なおしかしながら言ってきた通り、「日本語の第二言語としての習熟」は非常に長い苦労を必要とするものである。第一言語話者にはとても効率的で合理的で優秀だとすら感じられてしまうものの、あくまでも"ユニーク"で、ローカルに豊かな文化や機能性を持つだけのガラパゴスな言語だと説明する。 決定的な点として。現在世界で広く使われている"英語"との互換性が非常に厳しく、それが人生において地味な不便となってしまいやすい。おおよそ言語の歴史的・地域的背景にも由来して、他の言語との形態や法則性に隔絶的な違いさえ見られ、特に西の果ての欧州系言語の習得は中々大変となる。 (日本語からは言語的にほど遠く必要ともされにくいため難しいという事実はあるものの、英語自体はその言語的な性質によって「第二言語」として習得するハードルが比較的低い方であるとも言える。日本語話者としては決して"簡単だ"とは全く言い難いが、世界的に使われているのも事実だ。) (現在では世界的に使われているため、第二言語としての有用性が非常に高く、覚えられるなら「覚えておいた方が世界が広がる」というのも真である。だが言語的に面倒であるという部分を見ると、辛辣に言えば「英語は第二言語として使う方が合理的」だとさえ思えてしまう所である。)
*余談:可能とし得た言語 「表音文字と表語文字の広い併用」という言語体系は、単純に作ろうとするとどうしても煩雑になりやすいために、日本のように「口語体系を強固なベースとして、口語へ徐々に表語文字を受け入れて、併合する」という順序を得られなければ、これを成立させることは中々難しいと考えられる。 しかも、"音の体系"は単純化されていなければ、表音文字のみで大量の字を必要としてしまい、そこへさらに漢字を覚えることの負担が大きい…という状態に至ってしまいやすい。言語的に、口語で時代を重ねると発音の細分化による言葉の区別で、言葉に使う"音"の種類が非常に多くなってしまう。 例えば「韓国」において、"地元の表音文字"と"漢字(表語文字)"の併用をしていた時期があったものの、色々な社会的事情から、特に「表音文字だけでも数が多くて大変・表音文字だけでやっていけるだろう」と判断されてか、地元の表音文字のみを中心とすることに切り替えたという実例も存在する。
*免責:※"筆者は専門家ではない"。 冒頭にも書いているが改めて書いておくべき所として。筆者、私はいずれの専門的な教育を受けたこともなく、またいずれの専門的な職業についている人間ではない。私の書く文章の構成は、極限的に「アマチュアの作法」だと思っており、正式な・形式的な文章とは全く異なる表現記法だと思っている。 専門的な文書を扱ったことはなく、ただただ後で自分が見直すつもりくらいの文書を(大量に)書き続けてきただけの人間である。文章表現の器用さ、あるいは発想力、感性といった点については、非常にアマチュアの作法に則っているとは思うものの、自分なりに適宜非常に細かい調整をし続けている。 最も強く自覚している部分として、私は「」や""などを多用して文章を構成する。そこに一貫した法則性があるわけではなく、ただ「その時々において"印象を強めたい"場合」に使うことも多い。ただ「文章として"前後の文章との明確な分離"をしたい場合」にも、これを感覚的に乱用している。 私の書いているものはあくまでも私的なエッセイ"未満"、メモのような文書・散文であり、その最大の用途が「後で自分が読み返すこと」であるため、私自身が最も読みやすいであろう書式によってまとめている。(そんな人はそういないと思うが、私の文書は他の人が参考にするべきではないと思う。) また同時に書いておきたい所として。言った通り、「より専門的な文書を扱うためには、専門的な学習や習熟が不可欠なもの」であり、そして"私はその専門的な学習も習熟もしていない"。私が精確な文書を書ているかどうかについて、私にはその保証をできないということを、改めて書き記しておく。 ちなみにこの記述形式は原則X(旧Twitter)の1ツイート単位での文章編集を行っている。1ブロックのおおよその文字数を枠にはめ込んでしまう事はあまり合理的ではない…とも言えるものの、「文章の確認性」という点では、1ブロックが適度な大きさで分かれているため、読み返すのにはとても楽である。
散文『言語について3:蛇足:
言語的背景から見える歴史の背景と、その理解の難しさ』
*"中世欧州"を理解するために 蛇足となるが。主な現代文明人、特に日本語圏の人などは「高度な知識への隔絶が小さい言語圏」である。基礎的に学習されている言語から延長的に学習していくことで、かなり高度な知識も得られる社会背景を持っている。これは当然のようにも思えるが、全く当然とは言えない、整備された社会環境だ。 そうした"(現代的な)知識への隔絶が小さい言語圏の人々"にとって、「同一地域内での言語の分断による決定的な格差」というものを理解しにくい。「同じ地域なら同じ言葉で話していて当たり前」だと思ってしまい、例えば「中世欧州的な階級社会の"強固さ"」は、想像することの難しい世界である。
/教育と社会構造 例えば。一般的な庶民が"文字"を学ぶ機会のある環境というのは、昔はおおよそ"経済的立場を持っている層"などか、それらの集まる"高度な経済規模の都市部"の話ばかりであり、あとはおおよそ"近代以降の社会"の話となる。(どちらかというと「庶民も学びやすい時代」から近世近代と呼ばれやすい。) 特に、中世欧州の社会環境でも、一般庶民が文字を学ぶ機会はほぼ得られなかったと言われ、情報は伝聞ばかりで、ほぼ身近な範囲と、あとは支配階級によって管理統制されるような環境だったそうだ。(一応、例外的な立場というものもあったとされるものの、基本的な社会構造として。) 現代において先進国となる欧州圏の歴史において、その前々段階の中世欧州でもそのように"一般庶民の識字率が稀"だったと見られるのは、「社会の統治体制」として支配層が特権的にそのような社会を維持していたからだと説明できる。祖配送やそれに隣接できる立場でなければ、"知る機会"さえ限られた。 中世欧州の"いわゆる貴族社会"では「教育機関・教育制度」自体が実質"特権階級"専用の領域であったとされる。貴族や聖職者など、"支配層・それに隣接する立場"用の環境で、立場の無い庶民の学べる場所は「家」か、"相当の経済力≒実質的な社会的立場"をもって学ばせてもらわなければならなかった。 それは「聡明な支配層と弱い庶民」という構図を決定的な形として、事実上実質的に"庶民に余計な知恵をつけさせず"「支配階級が効率的・安定的に統治するための体制」として機能した。また支配層でも、「聖職者」と「俗世の有力者」にも区別があり、知識のアクセスに強固な制限があったとされる。 その「階級の分断」を決定的な形にせしめていたものが「"上位領域"の文字を教えない」環境であり、それによって「民衆による必要以上の知識の蓄積を妨げ、また新たな知識を得る機会さえも与えず、"弱い庶民"の立場に押し込め続けていた」と説明できるわけである。(あるいは結果的に・実質として。) (厳密には。多くの一般庶民にとって「必要性を感じなかった」というもの大きな理由として上げられる。また"庶民"であっても、「経済的に豊かな都市部」などの"市民"ではまた事情が大きく変わる。とはいえ教育施設はおおよそ教会などの管轄下であり、ほぼ"聖職者に隣接する立場"に数えられる。)
/言語の"層" 言語の歴史において口語と文語が異なる例は珍しくなく、特に中世欧州の支配層が用いていた文書の言語は、庶民の日常口語とは異なる"特別な言語"であり、庶民は本に触れることすら難しいだけでなく、学ぶこと・学ばせることのハードルが非常に高く、知識格差の解消を自然と困難なものとしていた。 また"最上位の言語"にはさらに別の「ラテン語」が位置づけられ、"聖職者"など最上位の立場などの最も重要な文書や、高度な知識的な文書はラテン語で管理されていた。それは"俗世の有力者(一般貴族)"が普段扱っていた言語とも異なり、"聖職者"とそれに連なる立場(学者)にしか扱えないものであった。 (中世欧州の「ラテン語」は、当時においても既に「母国語とする地域・話者がいない"古い言語"」であり、歴史的な知識の蓄積、またそれによる歴史的な権威性、さらに"日常語"としては使われていないことによる言語的な硬直性によって、"知識層の共通言語"として便利に使われていた。) (補足として。大昔は地域ごとの言葉の差が大きいため、国際的な最上位層にとって"(ラテン語という)知識言語として十分に整備されていて広い統一性を持てる古典言語"による記録や情報共有が非常に有用であった。その知識や技術を独占的に管理していたのが、当時の上位の支配層だったわけである。) なお"俗世の有力者"は、ラテン語とも若干異なる、"(地域ごとの)中層の言語"によって文書を扱っていたとされ、さらにそれらとは別に「各地庶民の俗語(地域土着の口語)」が存在していたとされる。つまり、"同地域でも教会層/貴族層/庶民層のような3重の言語の層"が併存していたわけである。
/階級の"意識" それは「社会的な立場の違う人々が"より高尚な言語、高等な知識を扱える"」という社会環境でもあり、そうして下位の人々には直接理解できないようになっていることが上位の"権威・神秘性の保護"にもなり、「異なる階級では"決定的に立場が異なる"」とする根拠ともなっていた、と社会背景を説明しうる。 つまり「"上位言語を持つこと"が、その"上位言語を持たない相手"よりも上位に属する価値観」は、一般庶民にも反対に"下位に属する"価値観が、単なる知識的技術的優位性といった印象だけではなく、社会的な立場、神秘性や権威の正統性など、"心理的な影響"として及んでいただろうと説明しうるのだ。 そのような価値観が、支配層を中心として根強くあった可能性がある。特に「高度な知識領域」は"聖職者・知識層"が独占し、また共通言語を使うことで各地の知識層、聖職者とのつながりを広く持つこともでき、"文明の保持者"として「監督者」たりえるとする、そんな価値観が抱いていたかもしれない。 ただし中世欧州の後期には、支配層はそうした"心理的な優位性"による傲慢さ、"言語的知識的優位性を持っている"という立場からの慢心、長い時代の中で"言語的な隔離"の強みにほとんど無自覚となったのか、その"情報統制"の意義さえ見失われ、彼らは"知の堤防"の崩壊の足音を聞き逃した。
*知の堤防の崩壊、あるいは知の解放 欧州のそうした「言語的隔離」という古い様式が打破されるには、欧州での"活版印刷"の登場を待つ必要がある。欧州では15世紀に登場する"活版印刷"によって、情報が劇的なスピードで拡散しうる時代となり、旧来の体制を守ることができない状態となり、結果、打破されることとなったと説明できる。 その昔「本」は作るための労力が非常に大きく、とても貴重なものであった。しかし活版印刷は「文字をパーツ分けして使いまわし、新たなページに再利用できる仕組み」によって、本の複製作業を劇的に効率化させ、多種の本の大量生産を実現できるようになった。「書の氾濫」の始まりとなる。 「書の氾濫」に対して、当時の支配層は初動において十分な統制をしそびれた。印刷技術を便利に使ってはいたものの、どうにも"その影響力"を過小評価していたようで、支配層にとって適切な"掌握"は行われなかった。だが、その初期の時期に大騒動、意識の転換を引き起こす文書が拡散することとなる。 その頃からようやく危険性に気付かれ各地の支配層が出版統制、掌握をしていくようになっていくものの、既に"知の堤防"は致命的なひび割れを起こしていた。書の大量生産の中で「庶民の口語に対応した内容の書」なども登場し、それが都市部から広まり、地方で読み方を教える人までも現れていく。 子細は割愛するが。そうした流れから"地域の有力者"が支援した運動によって、"中央の聖職者階級"とのパワーバランス、権力関係へ大きく影響を及ぼすこととなる。庶民向けの書物として「宗教の知識」が広い庶民へと行き渡る事象が発生し、「16世紀:宗教改革」という歴史的大変動を及ぼした。 その様子は「庶民の言葉ごときが文字になっても些細なこと。支配層の持つ"特別な上位言語"の力が揺るぎなく、その立場が危ぶまれることなど無いだろう」と思っていたようにしか思えないほどに、"中央の教会"の統制は遅すぎた。不都合な"疑義"が拡散する時点で、知の堤防は既に崩れかけていたのだ。 書物から人々が知識や情報を得られるようになったことで、宗教や政治の在り方を問いただせる意思を得て、多くの地域において旧来の体制を大きく揺るがす大変革へと向かっていったのである。(蛇足だが、この辺りの変革で、今で言う"カトリック"からの分岐で、今で言う"プロテスタント"が拡大した。) そのようになったのは、当時の支配層が"活版印刷"の初動時期において、当時の支配構造の本質と言える「言語的隔離」の力が、いかに強く働いていたかについて"無自覚であった"と考えなければ説明がつかないと言える。とはいえ、そのようにして新しい時代への変化がもたらされることとなる。
*知の解放の後の時代 なお大変革が発生した後、力を保てた支配層は統制を強めて社会体制を守ろうとしたものの、やがて更なる激動の時代「18~19世紀:産業革命」の流れが生じる。これは動力源において"蒸気機関"の改良が進み、機械への応用・機械の実用性が現実的となることで、機械による生産が拡大していく時代が始まる。 機械による生産の普及と同時に機械自体の生産も増加し、「機械式の工場」がどんどんと増えていくこととなるが、すると、その工場を回すために"労働者"がより多く必要となる。これにより「機械工場への労働」という労働がどんどんと一般化していき、様々なものを大量生産できる時代となっていく。 またその革命は輸送においても劇的な変化をもたらし、動力式の輸送船や鉄道が大量の物資をより早く輸送できるようになっていき、それが機械工場の普及を強く後押しした。その輸送力によって経済活動もまた劇的に広げていき、機械化を進めることが経済の拡大、即ち国力の増強へと繋がる時代となる。 それまでは人が手作業で少しずつ物を作り出すことしかできなかった時代から、機械化が「より多くの人手から、さらに大きな国力が生み出される」という【世界のシステムへの大革命】となり、より多くの機械を使える人手を揃えるために「民衆への教育」が必要となる時代となっていった。 そうした結果、支配層は「他国に国力で遅れてはならない」という緊張感から"必要に迫られて"、庶民の教育環境の整備をしていったと説明できる。ただし、それも多くの地域において簡単なことではなく、教育環境の整備は大変な改革をさらに伴っていくこととなり、さらにまだ労働力のための教育であった。 そのような社会変化があっても、庶民と"インテリ層"の間には、大きな"距離"がまだ残る。"インテリ層"の知識領域は、旧来の上流階級が独占していた(ラテン語を主とする)高度な知識領域であり、そうした高度な知識は「元が特殊な言語」であるために、教養の狭い多くの庶民にはまだまだ遠い存在であった。 知の解放によって壁はとても低くなっていたものの、その時代ではまだまだ多くの庶民にとって乗り越えられるようにはなっておらず、近世の時代にあっても「言語的に高等な知識を持てる上位層(インテリ層)が、下々の庶民へと知識を与えて監督する」という社会体制そのものは、長らく続いていった。 時代が大きく変わっていってもなお、「同一地域における言語的な隔絶を背景とする分断」は根強くあり、知識層と庶民との間には依然「決定的な立場の違いがある」という風潮・認識として長く残り続けてしまったのではないかとさえ考察できる。文化的格差は、外から見える以上に根深いと考えられる。
*「言語の整理」の流れ 整理しておくと中世欧州では「2~3重以上の言語環境が併存していた」わけだが、後の問題はそれだけではない。歴史的に見て、上位層と下層では文化的格差から言語体系にズレた状態は珍しくもなく、"日常言語"と"知識言語"が言語的な直線上に揃えられるのは教育が一般化した近代以降の話である。 欧州で知識格差が長く残っていくことになった大きな要因とは「2~3重以上の言語環境を解消しきらずに、個別の文字体系として整理していった」という流れである。体制的な事情から"上位言語の下層への拡張的"ではなく、"下層言語独自の文字体系"が作られてしまって、言語の分断が生まれたのだ。 もちろん文化的な蓄積・歴史的な流れ、社会的な力やパワーバランスなどなどの事情からそうならざるをえなかったとは言えるものの、言語統一のための配慮や努力を怠ったと言える言語的歴史によって「上位層・インテリ層」と「下層・一般庶民層」との知識的分断は長らく続いてしまったわけである。 しかも文字文化において実用性より権威性が強すぎたためか、感覚的な使いやすさと言う点で考えると、多くの欧州系言語の文字表記は表音文字でありながらその直感に反するような面倒な性質も地味に残し続け、そのまま近代以降の"文字の使い方"が固定されがちな時代へと至ってしまったと表現できる。 そうした分断が"おおよそ解消できた"と評価できるようになるには、「高度な分野の運用において、"上位の言語(ラテン語)"での扱いを不可欠としない範囲」が広がり、地域の言語で扱えるようになった後の時代になると言える。(ただし学術用語などの多くは、ラテン語やギリシア語が継承されている。)
*一方"東の果ての国"では 昔の日本においても知識へのアクセスが容易であったとは言い難いが、その障壁は主に「経済的背景による格差」だったと説明しうる。特に経済的に豊かな家であれば知る機会・学ぶ機会を得ることに縛られる面はおおよそ個々の細かい事情ばかりで、江戸時代が進むと初歩的な障壁も非常に小さくなる。 江戸時代では社会が変わっていく中で統治の関係から「支配層が多くの庶民にも"読み書きそろばん"を求める」ような方針をとったらしく、どちらかというと「"庶民の方が"必要に迫られて」、教育をしてもらうようになった流れらしい。そうして日本は広く初等教育を受けやすい社会になっていく。 日本では元々、江戸時代より前から、いわゆる上流階級ではない有力者でも(経済的な立場があれば)、教養として同じ文字文化に親しむことができていたと言える社会環境であり、また武士やその家臣などを含め、各地に知識教育の基盤があったことが、庶民教育の実現にも大きく貢献したと想像できる。 それは大本として「上流階級で整備された言語」を"実用のために広く共有する"という体制によって広域の統治が目指され、上流階級と同系統と言える言語基盤が各地域の統治者・有力者の実務のために習得されていって知識も各地へ広がり、全国各地へ同じ言語の基盤、言語統一の素地を広げていたのだ。 江戸時代が進んでいくと"いわゆる寺子屋"などが広く整備されていき、地域差はあれども非常に多くの人々が初等教育を受けられるような時代となっていく。それを広い地域で可能としたのは、「それまでの歴史から"教育をできる知識層が各地へ広がっていた"社会基盤があったからこそ」だと説明できる。 各地に広がった教育文化は、やがて後の時代、近代化に合わせて"国民皆教育"の制度を実施するための基盤ともなり、それはおおむね社会的に自然な流れの順当な改革だったと評せる。日本の近代教育は、古くからの知識の共有、各地への伝播、庶民教育の普及という段階を経て実現したものなのだと言える。
*"東の果ての国"における、言語的連続性 また当時の庶民の本などと、より高度な文書・古い文書の読み方自体はかなり別物のようであると表現できるが、基本的な言語体系としてはおおよそ同一軸上に存在した。対応する専門的な語彙の学習や文法の学習は必要になるが、基本教育の素直な延長線上に高度な知識領域が存在していたと言える。 当時の高度な文書は主に「文体の違い」、"同じ言語範囲のまとめかたの違い"であり、逆転的な話となるが「高度な文書を読むためには、まず基本教育における知識を身につけなければ、言語的な習得がままならない」という関係性であり、基本教育に加えて語彙や文法を学ぶことで扱えるようになった。 「誰でも学べる」時代には文明的に十分豊かな現代まで待つ必要はあるものの、「言語的な隔離」の状態は、日本の歴史において極端に悪辣なものではなかっただろうと説明できるわけである。文化的・経済的な格差から結果的に生じていた言語的格差はあれども、言語的には拒絶的ではなかったのだ。 (なおもちろん現代日本でも、家庭の経済力などが基礎的な文化力にも大きく影響し、文化的な格差が大きく生じる側面は当然としてある。あるいは例え経済的な力を得られても、文化的な教養を蓄積する機会に恵まれなければ、その行動様式は乏しい文化力の範囲に収まってしまう再生産もある。) (ちなみに。日本語地域においても、「宗教的な特殊言語」の存在自体は確認することができる。ただそれは主に「祈りのための言葉」などであり、儀式のための限定的な言語だとか、他にも広く唱えるために共有されやすいものだとか、おおよそ高度な知識を独占を目的とするようなものではない。) この蛇足の要点は、現代文明人、特に現代日本人には日本語の性質・歴史・現代社会の様子による<「言語による"人の階級"の違い」という文化的観念の非常に弱い立場>からは、言語によって階級の"障壁・つまづき"があるという観念の方に、むしろ違和感を覚えやすいだろうとすら考えられる点である。
*現代的な「言語の障壁」 ただ「言語の障壁」という観念は、現代の研究者などにはむしろ馴染みがあるだろう。例えば「ある専門分野がほぼ全て外国語のみで扱われており、母国語では詳細な情報がろくにない」というような知識の分断状態で、昔の欧州は"その分断が「社会的地位」と密接に結びついていた"ような状態なのだ。 また現代国際社会では事実上の"国際共通語"として英語が使われているため、「英語へのアクセスができない」状態は事実上、先進的な専門性のある情報の多くを獲得できないことを意味する。また「英語での発信・主張ができない」状態では、国際的には下の下の位置づけにされてしまいやすい。 一応、現代において言語的な隔絶性は、中世欧州のような隔離みたいな悪辣さはない。学習する意欲があり、また十分な経済的・社会的背景があれば学習できる。国際的にはあらゆる身分での学習が認められている。そのため中世欧州とは異なるものの、近代欧州には近いくらいの格差は存在する。 英語が公用語ではない地域の人たちにとっては、通常教育に加えてさらに「英語教育」が必要になるという高いハードル、実質的な障壁自体は現代においても間違いなく存在する。詳しい英語を別途学ぶには、十分な経済的社会的背景を持って特別に努力をしなければ、国際社会の環境には参加できないのだ。 (なお英語の実態として。実のところ「現代の"母国語話者"」であっても、熱心な教育を受けられなければ、読み書きがろくにできないことは珍しくない。"字と音の統一性の不完全さ"から、母国語話者であっても"英語教育"のハードルを乗り越えられなければ、簡単な文章もろくに"書けない"言語である。) (日本では、世界的な学術分野であっても多くの場合その基礎的な部分からかなりの範囲に渡って、"日本語(母国語)のまま学習する"ことのできる場合が多い。だがこれは例外的な環境で、「先人が様々な学術の情報を、日本語へと落とし込んで整理し続けてきた」という歴史によって成立しているものだ。)
*蛇足:「原始時代」のイメージ さらに蛇足となるが。現代日本語は「文字と融合して成立する部分」が非常に広く、書き言葉と話し言葉は当然のように不可分となっている。また日本人を含む現代文明人にとって、「文語の無い口語」の文化は、もはや「原始時代」のイメージにさなりがちだろう。石器時代などの世界観になるのだ。 安直な想像において、一部の人々において"文字が理解できない"というものではなく、社会として「文化的に文字を持たない」という地域となると、そもそも言葉をどれだけ持っているかも怪しくなる。だが、あらゆる言語の生まれは文字の前に言葉があり、それを整理したものが文字の文化である。 例えば"文字文化"をほぼ持てなかったとされる「中世欧州の地方庶民」の様子を現代文明人は正しく想像しがたいと言える。特に「文字の無い文化」は詳細な文化の記録が非常に残りづらく、「外部の記録によってのみその様子を知りうる」状態になりがちで、彼らのことを知ることもままならない。 知る機会、知れる情報が少ないために、「中世欧州の地方民がほとんど文字文化を持っていなかった」ということも分かりにくく、反対に「現代において先進的な欧州の祖先なのだから、当時においても多くの庶民も先進的な暮らしをしていたんだろう」などと安直な連想してしまう場合も多いだろう。 そこに旧来の階級社会として決定的な文明の格差がどれほど大きく存在したかを理解するためには、こうした「言語の歴史」などを紐解かなければ、直視する機会も少ない。ちなみに非言語的な「美術史」であっても、当時から現存しているものは上流階級のもので、当時の"高尚な"範囲ばかりしか見えない。 欧州の美術表現において庶民の姿が広く扱えるようになるのは、おおよそ社会変革の後の話であり、中世欧州の美術表現に、庶民の姿は原則見られないとさえ説明してしまいうる。当時の庶民の姿を知る手掛かりは本当に限定的で、博物的な「暮らしの道具や痕跡」くらいしかろくに見当たらないのである。 あるいは、上流階級で語られた「"物語"などに現れる庶民の姿」はどうかとなるものの、それもまた「上流階級の視点」から形成された"概念的な姿"ばかりだと考えざるを得ないもので、それが本当の姿であるかどうかは信じきれるものでもない。あとは「口承」の断片をつなぎあわせて想像するしかない。 だが中世欧州とは、そんなに遠く大昔の話などではない。現代で先進的な立場である欧州地域であっても、千年もさかのぼらないくらい、ごく数百年程度の前の歴史において、「庶民のほとんどが文語を持たない」、口承の文化ばかりで生活していた社会が存在していたと説明しなければならない。 (なお日本地域も、庶民の多くが文字を扱えるようになったのはそれほど遥か昔の話ではなく、おおよそ欧州と大差のない程度の時期である。ほとんど同時期に、多くの庶民にとっては口承の文化を中心として生活していたわけである。実のところ庶民の歴史なんて、案外そんなものである。)
*欧州の紆余曲折 なお、中世欧州から近世近代欧州への極めて目まぐるしい社会の変革に、社会や民衆が健全に適応していったというと、またさらに別問題だと評さざるを得ない。それは何より、統制管理されてきた文化による"民衆の文化基盤が脆弱な社会"から、社会が成熟するまでには紆余曲折をたどっている。 そうした歴史的な流れをよく理解するには、そのような「民衆の文化の弱さ・弱い民衆を形成するための社会体制」という中世の段階についてを、知っておく必要があるとも考えられる。それはただ立場的に弱いだけではなく、強固なまでに「押し込められていた」と言える経緯があったのだろうと。 そうした歴史の文化的背景を強く示しうる、傍証しうる要素が「言語の歴史的経緯」だとも表現しうる。例えば「宗教改革」というものが、いかに社会へと極大のインパクトを引き起こしたのかといえば、"情報の解放によって多くの人々の意識改革も一気に広まった"からであると言えるところである。 (ちなみにゲーム的な扱いで「"明治維新"と言う革命で社会が前進してるのはどういうことだ?」などと疑問に思われることもあるらしいが、当時の日本は多くの庶民に初等教育の文化基盤があり、「表層的なシステム部分を新しいのに入れ替えただけ」みたいな形で、近代化で強く前進できたのだ。) (欧州各地が産業革命の流れで、迫られるようにして緊急的に教育環境を整備し教育を広めるという大きな変革をしなければならなかったのに対して、"日本の近代化(産業革命技術を含む様々なものの導入)"では、元々初等教育の下地が存在していたために、非常に早く近代化社会へと順応していった。)
*日本の歴史的背景について 日本地域での言語的な分断は、かなり古くから地域性、あるいは経済的・文化的格差そのものから自然発生した差ばかりで、「支配層が統治に言語的な分断を制度的に用いた」と言えるような例は見渡す程度では見当たらない。あるいは重箱の隅をつつくように、それらしい様子を論うしかないと言える。 もちろん「上流階級が専門分野において高度な言語を用いた」ような例は探せば見つかると言えるが、それはおおよそ「文化的な格差」の範囲で、厳密には「実務上/儀礼上において難解な表現・語彙が必要とされた」と言える例ばかりだと説明でき、「統治のための隔離」と言う観点からは外れる。 (また重箱の隅として、文化的に非常に貧しい立場の人間が、立場のある人のいいように扱われてしまうといった状況も、個々の事象で発見しうるものであろうとは言えるが、「社会体制としての言語隔離」という点ではズレたところになるし、"弱肉強食"な事例は地域に限らず世界で広く見られる。)
/日本地域における"統治"の歴史 ちなみに、それらは日本地域が長らく「強力な武力的統治」を軸として統治していた面が大きいとも説明できる。つまり間接的な体制ではなく、「武力が無ければ領土を守ることが難しい」社会情勢だったわけである。しかし、それは短絡的な「暴力による民衆支配」とは限らないものである。 かなり長い時代「武力的統治」を軸とした社会背景は存在していたが、初期の統治者らが文化力、格式的な権威だけでなく、文化的な交流などもとても重視しており、後に支配的となる武士たちもそれをみならい踏襲して、文化的な交流のための礼儀作法・知識教養を、おおよそ大切にしたとされる。 「長く戦乱の世が続いていた」とは言っても、ただ無文明・無秩序だったわけではない。特に"統治者:領主"は、他方と交流ができなければ味方を作れず、不利な立場となり領地を奪われる。そのため不安定な余の中であっても、味方を作るための基礎として文化的教養は脈々と受け継がれていった。 ようするに【他方との文化的交流ができなければ、死活問題となるために、教養は必須であった】と言えるわけである。特に文書による連絡ができなければ、同盟を結ぶ・他勢力と協力し連携するといったこともままならず、そこにおいて「知識文化の一部」である"文字"も活用されたわけである。 (ただし。補足しておくと、実際に「文書を書く人間」は必ずしも武士など本人だったとは限らないとされている。本人が書いていた例もあるようだが、「筆記専門の役職」がいて代筆させていたことも多いとされている。ただいずれにせよ、"文字が重大に活用されていた"と言えることは間違いない。) 例えば"戦国武将"の実力とは、単に"戦場で強かった"だけではなく、「戦をするための準備で、いかに有利となるように備えるか」も大きく力関係に働き、それはまず庶民との関係で経済力を蓄え、文化的な交流でより多くの味方を作り、"武力を揃える"政治力の有無も非常に重要だったと説明できる。 特に昔から「各地の武士は、"社会的・経済的"な力を得るためにも地元の人々との関わりもまた非常に重要」であり、少なくない範囲において庶民との積極的な文化交流もあったであろうと想像できる。たとえ戦乱の世にあっても、戦乱の世だからこそ、領民の信を得ることは有効なことだったと言える。 つまり武士たちにとって、文化的な知識教養もまた"信頼を得るための実務的な力"であり、"生き残りに不可欠な実力の一種"だったわけである。信頼を得られなくては、味方を作ることも、兵力を用意することも、よって戦うことすらままならないため、戦場の力だけでは生き残るのは難しかったと言える。
/天下泰平と"文化の力" 文化の力を背景として、やがて長い戦乱の果てで「より多くの味方を揃え、それによって主な対立相手を粗方打倒せめる勢力」が形成され、そうして"天下統一"が成し遂げられ、その後、最も安定した統治勢力による"天下泰平の世"へとたどり着く。それは高い文化力によって成し遂げられたものと評せる。 平和な世において、武士たちは直接的な武力を奮う機会をほぼ失ってしまうことにもなったが、元々としてある程度の文化・教養を持っていた者たちも多く、慣れない時代にも適応していることは多かったと言える。とはいえ、平和な時代に馴染めず失脚、御家断絶の例もまあまああったようだが。 そんな江戸時代ではさらに広く文化的であることが求められ、やがて多くの庶民も"読み書きそろばん"を当たり前のように(半ば状況に迫られて)学ぶようになり、それから「本の一般化」と言える時代まで訪れるわけであるが、非常に長く安定した社会が続き、江戸時代の終わりも社会は前進的に進んだ。
*「日本語」における歴史的問題 日本地域における「歴史的な言語の問題」は、どちらかと言えば「言語の統一」という面を説明した方が良い。日本にも古くは非常に多様な方言・地域言語があったと言えるが、現代においては"標準語"が整備されたことによって、顕著な方言・地域言語は非常に限定的となり、均質化された。 これは「地域の言葉を失わせる≒既存の文化基盤を損じる」面が存在すると言えるもので、特に"言語の異なる"地域であっては大きく文化性を破壊されるような状態となったと説明でき、その点においては悪辣な物だったと説明するべきではある。だが、基本「同じ基盤に立たせる」という文化であった。 それは功罪どちらも語れるところではあるが、積極的に"言語的な分断・言語による文化的な格差を減らした"という所においては、功罪どちらも語らねばならないものである。"言語的分断を放置すること"は、弱い地域にとっては隔絶と相対的停滞を生じさせるという、大きな危険性も語れるのだ。 (また"標準語"が整備されたとはいえ、地域的に慣れ親しまれた言語はそう簡単に消えるものではなく、地域ごとに継承されていっている部分も少なからずある。特に口語では、アクセント、イントネーション、細かい語彙に地域性が確認されることはよくあり、多様な方言性は一部残っている。) あるいは。それこそ戦後日本が統制下にあった時点で、英語圏言語への(第二公用語でも)強い教育方策が無かったことには、"文化の保護"と尤もらしい外面の良さも語れるが、日本に対して「国際社会における隔離的状態の維持」という面もある。どちらがより"非人道的"であるかは哲学的な議論を要する。 それは特に「欧米の歴史上(近代奴隷も含め)"言語を与えない"手法が極めて強力な社会的支配手段だった」という背景を考えるなら、戦勝国が戦後日本に英語教育への方策を(第二公用語化さえ)与えなかったことには、「国際社会において"弱くあるべき"だ」といった意識が、一切なかったのかは疑わしい。 (もちろん。欧米の知識人たちにとって、日本は「世界に比肩する文化背景を持つ国である」と広く認知されていたであろうと考えられ、文化面ではジャポニズムの流れが欧米の近代において少なからずのインパクトを与えていたものである。そもそも大国と同盟やドンパチできる国力を持つ国だった。) (欧米から地理的に大きく離れながらそこまで成長してきた文化力を持つ国に対して、"先進的な文明を施す"などという発想はとても弱かったであろう。国際社会と比較して、日本は"子供ではなかった"のだから、指導の必要性は無いと判断されたのだろう…などと言い訳を言い繕うこともできる。) (実際、「日本の教育技術・教育文化」なども既にとても発展していた状態であり、一説として戦後に「日本の複雑な文字体系では教育が難しいからローマ字化をするべき」と言われた際、実際に国語の教育状態を調べてみたところ、むしろだいぶ良好な成績が見られ、問題無しという結論を叩きつけた。)
*そして現代日本の立ち位置 そして現実では結果的に、日本は日本語のみを軸として、日本語の持つ文化力、機能性と発展性を大きな基盤として、戦後復興だけでなく高度成長を実現し、世界トップクラスの国家にまで発展してみせ、改めて国際社会にその存在感を示す規模へと成長し、世界へと大きな影響を与えられる立場となった。 特に文化面では、近代化の中で欧州が発見した"全く別の発展をした未知の異国の文化"として強いインパクトを与えたジャポニズムと同じように、日本の文化土壌から生まれた様々なコンテンツが現代においても世界中へと響き渡っている。芸術文化の分厚い歴史のたまものを世界へ共有し始めている。 それは日本語と言うものが、非常に長い歴史を経て多彩な知識教養を積み上げ続け、また時代の変化を多く経験し様々な面で洗練されていき、それを時代ごとの規模で多くの人へと共有させ、それまでも社会を発展させ続けてきた、深い文化力を併せ持った言語だったからだと説明することができる。
/教育力の重要性・発展性の重要性。 あるいは、人類史において文明社会をより強固に回すためには、「発展にも耐えうる教育の文化」こそが最も大切であるということを示しているとも評せる。人類の社会は文化をさらに積み上げ続けることによってこそ発展するものであり、それを持続する文化と教育こそ、文明社会の力の根源なのだと。 それは欧米各国もまた、近代から現代において一気に発展してきた最大の要因は、単に"人種として特別・優位"だとか、"欧州は歴史が長い"とか"米国もその系譜である"だとか、そうした抽象的あるいは表層的断片的なものではなく、現代的な発展の本質・根源とは、「発展に耐えうる教育の文化」なのだ。 (発展に耐えられない旧来の中世欧州の制度は、"暗黒時代"とさえ呼ばれるほどの停滞を生み出した。社会体制としてはおおよそ安定していたと言えるかもしれないし、また当時の技術的状況においてはそれが妥当だったのかもしれないが、現代的な発展の持続性にはほど遠い社会であった。)
散文『言語について4:
蛇足の余談:最新時代の国際社会における言語的格差のこと』
*事実上の世界共通言語「英語」 余談。現代日本ではやや冗談めかしてではあるが、「なぜアメリカは統制下で英語を強制しなかったのか」という恨み節が見られる。語ってきた通り、現代国際社会においては英語が非常に重要であるにも関わらず、日本の英語教育は進めてきてはいるものの、主要な教科ではない"インテリ"な領域である。 日本国内の生活では不可欠とされる場面も限定的で、そのために日本人は英語へアクセスしたい場合、(ほぼ自発的に)高度な英語教育を受ける・英語の勉強をする必要性がある。そのため日本人は国際社会へのアクセスに、かなり自発的な苦労、特に経済的負担を余計に強いられがちになっているわけである。 そうして国際的な情報や、英語を軸とした環境へ関わることに「壁」が存在していると言わざるを得ないのが日本社会の状態である。英語の文書を読むことも高度な知識活動であるし、現代電算機械のソフト・アプリの基礎言語は英語が基盤で、制作などには少なくとも英単語の知識が相応に求められる。 (今は高度な自動翻訳システムがあり、概要をつかむ程度であればそれによっておおよその内容を知ることは難しくない。それでも、より専門的で精確な情報を得ようと思った場合、あるいはリアルタイム・生の声で交流をしたいとなった場合などでは、やはり個人が努力をして身につけることとなる。) それはつまり「日常言語と全く異なる"重要言語"を扱えるかどうか」という点で、国際的あるいは技術的な活動の幅が大きく制限されてしまうことになるわけであり、「インテリ層」的な知識の隔絶的分断、社会的な立場としての格差が、現代日本でも生じていると表現してしまえる状態なのである。 また日本語圏の人にとっては英語だけではなく、英語ともある程度共通の体系を持っている欧州系言語へのアクセスも当然としてさらに遠い。言語的に近い位置にある欧州圏の人間が、英語を学習するようなハードルとはわけが違う。日本語圏の人間にとって、言語的に遠い英語の学習ハードルは非常に高い。 例えば日本語と英語の典型的な違いとして、自然な日本語と英語とでは「要素の置き方が全く別物で、ほぼ前後正反対の配置になる」と言われる性質がある。また言葉や文法の性質としても日本人にはなんとも把握しづらいこと把握しづらいこと…と言えてしまう違いであり、学習負荷は非常に高い。 (日本語が非常に柔軟性のある便利な機能性や、母国語話者にとっては優良な学習性を持っているために、特に英語の性質は形式的過ぎて非常にややこしく、日本語話者には著しく非直感的で全く分かりにくい上に、その読解にも目を皿にして読み込む必要があり、全く不合理だとさえと評したくなる。) (特に、文章で「語の関係性が文法のフレームで決定され、"文字での明記が少ない"」という英語の性格は、「"関係を原則的に文字として記載する"日本の文語」の感覚とは全く別物である。文章では1文ごとに、文法のフレームを推測的に読み取って関係性を明確化させる手順が必要なのである。) 歴史的な背景や国際社会的なパワー関係からしょうがないところではあるものの、実質的には「国際社会からは言語的な分離をされている」と言えてしまう状態ではあるのだ。それでも日本が先進的な国家として肩を並べられているのは、それだけ強い言語文化と教育文化が深くあるからとも言える。
*現代技術において生まれている「言語格差」 ちなみに。最新のGPT形式の対話型AIは、その質において学習文書の量がとても重要となるため、「該当言語のデジタル文書の総量」などがその言語で使えるGPT式対話型AIの能力に強く直結する状態である。これは最も新しい「世界の言語的格差」を生じさせるものとなりうるとも言わなければならない。 GPT形式は概要として「極めて膨大な量の学習用データ、会話なら文書・テキストを大量に読み込んで、使われている細かい要素同士の関係性を多層的に分析・整理し、その学習マップを元として、投げかけられた入力(質問など)に対して、予測的に妥当な繋ぎあわせを行って応答する」というものである。 そのため学習に用いられる"ネットの文書量"の乏しい言語を母国語とする人々には、GPT式対話型AIの質が劣りやすくなってしまい、十分な恩恵を受けることが難しくなる。他言語対応のために内部で翻訳的に処理している場合も多いみたいだが、返答の質が「学習のデータ量」に依存することは変わりない。 そのため先進的な・高度な恩恵を受けるためには、"デジタル普及率の高い言語"を介する必要があり、そうではない"ネット文化に乏しく・ネットでの主要言語を学ばない地域"とは、GPT式対話型AIという先進的な技術へのアクセスが悪くなり、大きな格差さえ生じさせてしまうだろうと言えるのである。 ようするに「英語など、ネットの主要言語を使えなければ最新鋭のGPT式対話型AIが活用しづらく、素直にアクセスできる社会と比べて決定的な遅れをとる」と言う状態になってしまうわけである。より"強いAI"の発明で言語差の壁を突破しやすくなる可能性はあるかもしれないが、技術普及率は格差になる。 (ちなみに「"英語"がGPT式の学習において有利な言語であるか?」については、言語的な性質ではなく、純粋に「学習用の教材データの量が膨大である」という点によって成り立っていると言える。英語は"不文律の仕様"を持つために、書かれている文字から類推する学習に特別適しているとは言い難い。)
*「日本語のデータ」 なおその技術環境において"「日本語」は比較的優位な側である"。高性能なGPT式対話型AIであれば「GPT式対話型AIが広く対応できる上位側の言語」として広く活用もされ始めている。ただし日本語は「感覚的な口語文」に依存する部分も多く、その点は非常に不器用な傾向はやはり見られるが。 また文字種など情報量としても桁違いに高負荷だと表現しなければならないものの、形式的文書における論理性・構造自体は固く、安定性のある分かりやすい性質もある言語であるとも説明でき、十分な学習量・学習範囲・学習深度を網羅できている高度なシステムであれば、それほど不便もなく使える。 それは日本が世界的に見てネット環境・ネットの利用規模・情報参加規模がとても大きく、高度な文化層だけでなく庶民からのデジタル文書の量も極めて膨大であるために、機械学習に使えるデータ量は格段に大きく、おおよそ用に足る学習が行われ比較的「有用な対話型AIを使える立場にある」と言える。 それは日本社会が、使いやすく機能的な言語での地域統一、広い教育の底上げで文化的格差の是正、そうして社会を成長させつつ、また古くから続く「文字でも言葉を楽しむ言語文化」によって庶民からも趣味の範囲でもデジタル・ネット環境に適応し始め、世界優秀の利用規模を生み出したからである。 つまり日本語が積み上げてきた歴史の、必然と言えるものである。「日本語は膨大な文字種や語彙表現に難解な性質も多いから、GPT式対話型AIの対応はどうしても遅れるだろう」と言われていた中で、圧倒的物量の学習リソースという最大限のアドバンテージを持って、一応使える程度にはなっている。 (とはいえ、現行のGPT式対話型AIでは"文字を音や画像として見ていない"という点において、"日本語の扱い"として不器用な部分が決定的に大きくある。日本語は複合的な感覚で扱われるために、見慣れないニュアンスには対応してもらえない。そのため「機械的な言語構成」の違和感はしばしばある。)
散文『言語について5:
蛇足の余談の追記:哲学の話と対話AIへの距離感』
*太古から続く「思考委任の性質」と現代の課題 GPT式対話型AIを使う場合に、最も注意しなければならない点は「"違和感"を見落とすこと」である。そうしないため大切なのがいわゆる「批判的思考」とも言われるが、より絞って言えば「"警戒すべき点"を見つける力」で、AIに限らず「あらゆる文章に対して、整合性の不安点がどこに生じるか」が重要だ。 というのも。批判的思考といった基礎的な知力が不十分である場合、思考において"すぐ相談できる知者(AI含む)"がいると委任的な依存状態が形成されやすく、どんどん"考えることを怠ける"傾向へ誘導されてしまいやすい、と言われている。そして当然、怠け続ければ能力が向上する見込みも薄い状態に陥る。 その「思考活動における委任的な依存状態」の問題はAIに限った話ではなく、また人類にとって現代的な問題などでもなく、哲学領域として太古から現代また未来にまで続いていくような、人類にとっての原始的・根源的な問題である。「考えられるものはさらに考え、怠けるものはさらに怠ける」のだ。 「怠けられる時に怠ける」という性質自体は、余計な労力を出さない合理的な生存戦略ではあり、実際それでもなお人類は存続し、人類文明も発展してきた。「全ての人が常に自分で考える」という必要が無く、多くの人類が大雑把に情報を扱ってもどうにかやっていけるように人類文明は進んできたのだ。 現代的な問題は、ネット環境の普及によって「情報が常に氾濫している状態」であること。考えられる人はより多くの情報を活用しながらさらに深めていけるが、考える力や意思が不十分であっては膨大な情報から"それらしい"考えや答えを探せ、思考の大部分を他人へ委の任もしやすい環境になっている。 現代の最大の問題は「誰もが発信できる」ような自由を得た代わりに、「不正確な情報」もまた無責任に流れていく所である。人類はそれを「その都度対処」しなければならないし、対処しきれない情報も溢れてしまっているために、「妥当な情報の選択」が大きく個人の責任へ委任されてしまっているのだ。
*「考え方を考える」哲学 哲学的な視点として。「あらゆる情報は、発信側の活動によって発信されている」「あらゆる主張は、主張者側の活動によって主張されている」ということ、「原則的に"その者の立場から発されているだけ"である」ということ。「そういう情報を発信する立場・状態がある」という機序を理解する必要がある。 情報の妥当な選別をするには「"そういう情報がある"という認識だけでは不十分」であり、「その情報がどのような情報で・どのような立場から出てきたのか」を一度立ち止まって確認することが必要になる。批判的思考ではさらに「自ら一度論理的に組み立て直して信頼しうるかどうか」という手順をとる。 哲学的な手法の話だが「考え方とはただ唯一に実在するのではなく、様々な考え方が併存している」という視点が非常に有効である。誰かの考え方が"正しい"や"間違い"という判断よりも前に、「その人の考え方でしかない」とまず距離を置き、外から見つめて「どのような考え方であるか」を分解するのだ。 しかしながら、そうした哲学性の獲得とは簡単なことではない。「考え方を考える」こと、それを自ら実行する「哲学を持つこと」は、知力における難しさだけでなく、精神においても負荷のかかるものであり、これが人類普遍の共通認識になりうるかと言えば、全く望めないものと言わざるを得ない。 (あるいは経済的文化的な選別によって"インテリ層"が多かったインターネット初期においては「ネット普及で人類文明は広く知性的に高い段階へ進めるだろう」などと希望さえあったかもしれないが、実態は「知的に富む者が知的に富み続け・知的に弱い者はさらに知的に弱くなる」ばかりとなった。)
*「深く考える」という行為の負荷の重さ また「考えられる人」であっても、人にとって"負荷の高い状態"を保ち続けることは難しいことであり、限定的かつ特別な技能であると説明しなければならない。「考えられる領域において考えることができる」だけで、そこに注力するため、人は一部~大部分で「思考の委任」を当たり前にしている。 大切とされる「批判的思考」による、物事への"検証的思考"もまた当然同じことである。慣れれば心理的抵抗感は軽くなるものの、気力や体力は少なからず削られていくために、これを続ければ精神的な摩耗、心理的負担が深刻になれば体調不良さえ引き起こす。それが常識的行動になることが望めようか。 体調不良・心身の不調を引き起こしうるという現実を見つめるならば、人間は「ほどよく委任しながら暮らしていくことが健康的だ」とさえ言わなければならない。知的エリート層はその負荷に慣れているため、その負荷を過小評価しがちだが、それは決して一般の日常において耐えうる強さの負荷ではない。 (なお"批判的思考"という語彙は外来語が熟語化されたもので、その語源は「クリティカル・シンキング」である。クリティカルは「批判的な」だけでなく「危機的な/非常に重大な」というニュアンスであり、日本では"致命的な一撃"を日本語で「クリティカル」と書くためか、明確化に熟語化された。) (しかしながら、日本の「批判的」という語彙は非常に"徹底的な否定性"だけを持つ語彙であるために、そのニュアンス・解釈においてズレが大きいと言える。より精確な、実態に即したニュアンスを日本語へ落とし込むならば、例えば「検証的視点」「検討的思考」と訳する方が精確だと言えるだろう。)
*AIとの関係性 で本題として。「対話型AIにおいても検証的視点(いわゆる批判的思考)は大切である」とは言われつつも、現実的に人がその技能を獲得することは簡単なことでもなく、実のところ多くの人にとっては"普段の意識に存在しないもの"でしかない。(これは多くの研究において、おおよそその結果が見られる。) 要するに「(便利な相談相手がいると)"思考の委任的依存状態"の形成とは、人類の持つ普遍的な性質によって誘導されてしまうものである」と説明、また想定することが適切だと言える。自立的に思考を深めるという行為は"一般技能"と言えるものではなく、特別な訓練と意識的な注意を不可欠とする 大げさに言えば、"検証的視点"の意識をほぼ常時持つような状態とは「生身の心臓を人工心臓へ置き換えている」ような不自然な心理状態だとさえ言える。繊細な調整をし続ける必要があり、また身体的な負担そのものが存在し、"生きているだけでも辛い"ような状態にさえ陥ってしまいやすい。 またたとえ一時的であったとしても、それなりの負荷が生じやすいものである。であるために、つまり「個人の意識によって"検証的視点"を持つこと」は一般化しえないと表現してしまうべきである。そうした人間の普遍的性質が存在するということを前提として、どうするべきかを考えなければならない。 対話型AIの活用で重要な点は「再確認を当然とすること」、自分が理解しきれない部分では「しつこく再確認を試す・検証する方法を質問する」といった手順の理解だと考えられる。対話型AI最大の利点は「いくらでも高速に話し続けられる・何度でも改めて聞ける」ことであり、これを使い倒すのだ。 なお"質問の具体化"が重要であるため、場合によっては「~について知りたいが、どのように質問をすればいいか?」といった応用法もある。質問の仕方によって大きく返答の傾向は変わってくるために「気になる点」をできる限り質問に織り込めることが望ましい。が、知的活動に疎いと難しい所ではある。 その他にもAIシステムにはそれぞれ癖が存在し、異なるAIサービスを併用するといった手法も有効となりうる。同じ質問を並列的にすることで、異なる傾向からの回答も期待できるわけである。とはいえ、併用は返答を読むための負担・時間が増えてしまうために、楽な利用方法ではないところである。
*根本的なところ:「読むことの重要性」 ただ何より重要だろうと言えるところは「文章を可能な限り読むこと」だと考えられる。一つよくある傾向だが、「考えが浅い人・考えられない人」は"細かく読む"ことに慣れていないことが多く、読解に手間取って文章から情報を読み取りきれない状況のままになりがちのため、意識的な訓練が必要となる。 "読解力"はAIの活用だとか以前の、文化的習慣や教養といったものによって育まれるものであり、少しずつでも「長く精緻な文章を読む」ような習慣を積み上げていくことが大切だと言える。その訓練は一朝一夕で済ませられるものではなく、ただ「文章を読み取ること」を深めていくことを必要とする。 本当に初歩的な段階では、とにかく「興味を持てる文章」を見つけることだと言える。それによって「文字を読む」という動作を習慣化し、身体的な(頭脳的な)効率化をすることで、より多くの文字を受け入れられるようになっていく。なお、"分からない言葉"は調べながら読み進めることも重要である。 そもそもこの辺りはもはやここまで読める人にならどうにかなってるであろうものだが、ようするに「習慣・訓練」などによって、より多く・より多彩な「文字・文章を読む能力を鍛えること」をしていなければ、"読解"の力というものは大して身につかない、「誰にでも備わっているものではない」のだ。 対話型AIの活動では殊更に、とにかく細かい文字の文章と読めないとろくなことができない。ちなみに注意点として、読書に全く慣れてない場合「分からない言葉を無意識に見逃す」という状態を引き起こす。何が分からないのか、脳内が意識から消しているために、自覚さえできないという問題がある。 そのレベルの初等教育の世界であっては、「音読」が最も効果的な指導学習方法であったりする。言葉に出させることで「読み飛ばし」を客観的に観測するわけである。個人の範囲の場合は反対に「音声を字幕・台本などの内容の文字を見ながら聞く」という手法で、言葉を認識度を高める手も考えられる。 他の勉強例として、古くからある手法で「書かれた文章を、全て手作業で書き写す」という方法もある。ただし「字を写すだけ」では"意味の読解"の意識が薄くなりがちなため、あくまで音読に近い"文字の認識"の訓練である。PCなどで「1節ずつ、手入力しては見比べる」といった作業がベターだろう。 (なお。分からない語彙に遭遇した場合は、その語彙をメモしておき、都度調べて意味の確認をすることも大切である。そのようにしてとにかく「認識できる文字」「理解できる言葉」を増やしていく訓練が、読書や文章制作の基礎中の基礎として必要である。インテリ層は習慣として身についているが。) しかしながら「分からないことが分からない」という状態の改善は、本人の学習意欲と有効な指導者なしにはそうそう改善しえない。これは対話AIが相手であっても同じことであり、むしろ対話AIは「勝手に類推する」ために"分からないことの自覚"からは遠ざかってしまいやすい、とさえ考えられる。
*根本的なところ:「書くこと」の重要性 なお、読解の学習を進めていく際は「自らの文章を書く」ということも非常に重要である。「自ら言葉を使うこと」によって、より深く読解・文章構成への理解を深めていくことを目指しうる。対話型AIの活用も、「可能な限り自分で整理して文章を書く」という能力は前提とすることが理想的だと言える。 ただしそうした「書く力」もまた、慣れが重要な技能である。慣れない人にとっては「1度文章を一通り書ければ、それで全部終わり(にしたい)」というくらいの作業であり、"読み返しすらままならない"。慣れた人は【何度も読み返し、必要となるだけいくらでも書き直す作業をし続ける】。それが基本だ。 (知識が揃ってきて書くのにも慣れてくると、書いている最中に「語彙の不安」を感じれるようになれたりする。つまり"この言葉を思いついたけど、本当にこの場面で使える言葉なのか?"という直感である。自分がその言葉を本当に理解しているかどうかの自信度を認識して、適宜、意味を確認するのだ。) 対話AIの"文章における"活用は「客観的な解釈を確認する」ために使うことが最も有効だと考えらえる。対話AIの生成する文章は"人間的な主観性"を持たず、文章はその正常性のために可能な限り人の目を通すべき・通さなければならないし、清書は可能な限り人の手で書かれるべきだとさえ言える。 つまり「自分で書いた文章を("分析して"と)読み込ませてみて、反応を確認して修正点を探す」といった方法である。ただしそれも「書かれていることを整理する」くらいであり、それによって全ての修正点が見つかるわけではない。特に「書くべきことの抜け落ち」には、対応しきれるものではない。 一応対話AIでも"論理上の抜け落ち"・"一般的な論理性における抜け落ち"という分かりやすい穴は見つけて貰える場合もあるが、小さな穴や決定的に大きすぎる穴などは、人の目が必要である。特に「何を書きたいのか」を知りうるのは人だけであり、人自身が気づかなければ・見つけなければならない。 さらに高度な・達人的な領域としては「文章の的確な表現」の感覚は"人間にのみ"備わりうるものだとさえ言える。つまり、単に文字や言葉を羅列するような文章構成では人間的な文章としては不十分で、「人間的な伝達性」は強まりにくい。ようするに"芸術性"は、人の手で整理して、表現するのだ。 (とはいえ、そのレベルの達人というものは人類においてほんのわずかなものだし、慣れない人間が書くよりは、AIに文章を書かせてしまった方が基本的な部分は伝わりやすい形になってしまうものではある。しかしながら使う文章は必ず読み返すべきで、"感覚性"への習慣を蔑ろにするべきではない。)
*要点 「文化的格差」は家庭単位においても強く生じるものであり、また家庭の文化は人の基礎的な文化力を形成するものであり、また文化力は知性の素養を育むものであるために、文化力の格差が大きく学習の格差へと繋がってしまい、「知性の格差」はどうしても生じてしまうものと言わざるを得ない。 知性の底上げによる標準化は、人類が人類である限り、全く遠いものであるということを理解しておかなければならない。設計する側にあっては、この現実を理解し、この現実を前提として、より平易な方法による対処法を求めなければならないのである。「深く考えなくてもどうにかなる」ようにするのだ。
*そして、おさらい:「言語の感覚性」 また「言語」というものは、大なり小なり、"人の感覚"に根付いて使われているものである。特に日本語は、"非常に深く感覚性に根付いている言語"だと説明できる。そのために言語の扱いはAIが感覚性を持ちうるまでは、人が最も的確な表現をしうるものである、と考えて言語を扱うべきである。 「対話AIに感覚性が無い点」をより明確に説明しておくと、"非伝統的な・非定型のオノマトペ"の分析、例えば「"ズバンバズババン"とはどういう意味ですか?」と質問すると、対話AIはその感覚性を十分には理解していないことが明確に分かる。(類推から近い答えは出すが、ズレがある。) これは"繊細な言葉の表現"においても、同様の問題が生じる。特に日本語は「語彙の選択幅」が極めて広く、これを"文章・言葉の流れを考えて"細かく使い分けをして、それによってより人間的な意図を入れることもできる…のだが、対話型AIはただ「確率的に妥当な言葉を並べるだけ」である。
〆