ファイル掲載日:2025年11月10日(第一版)
ファイル更新日:2025年11月21日(第二版:数値辺りの表現変更)
散文『The Unfriendliness of English - English is Not-humanity』 Andil.Dimerk ## 前説 ※免責:筆者はいずれの専門家ではないため、 厳密な精確性においては各自の調査確認を必要とする。 ※免責:繰り返すが、詳細な精確性は全く保証しない。 基本として「素人の与太話」として、話半分とすること。 ※この散文は散文『言語について』を編集したあとに思いついたことの整理である。 ※比較のために、かなりの割合が日本語の話になっている。 ※補記:文中の[]の中は、文章において翻訳するべきではない文字列である。 ※補足:漢字は「表語文字」というカテゴライズを取ることもあるが古い分類法で、 現代的な分類では「表語文字」、「語を表す」に分類されている。 ※補足:「表意文字」は文字の分類上、「音を指定しない形式」の文字のみを指す。
- <目次>
- 散文『The Unfriendliness of English - English is Not-humanity』
- 注記:社会的な配慮の説明
- 「現代における英語の重要性」と相対性
- 「英語の'surface'の長所」
- X-A「字と音の不一致」
- X-B「文法のフレーム性」
- X-C「単語や音の多義性」
- X-D「発展的な単語の多義性」
- X-E「英文における語の子細な選択」
- X-X「学習の不可欠性」とそれによる社会的負担
- X-F 補足:「発音における繊細さ」
- 英会話における慣れの重要性
- 他言語との比較:「日本語の発音」:変形の許容性
- 蛇足「日本語の発音」:他言語話者にとっての日本語の発声
- 蛇足「日本語の発音」:「日本語」における音の明瞭さの応用
- 蛇足「日本語の発音」:「日本語」における詳細な発音
- 蛇足「日本語の発音」:他とは異なる音の使い方、難しい面
- 蛇足「日本語の発音」:「日本語」における発音の整理や変異
- 蛇足「日本語の発音」:単純化の不効率な面
- 蛇足「日本語の発音」:単純化の合理性な面
- 蛇足「日本語の発音」:発音の単純化と高速化と効率
- 蛇足「日本語の発音」:標準語への歴史的な経緯についての考察
- 蛇足「日本語の発音」:日本地域の言語の歴史的な背景
- 蛇足「日本語の発音」:表層的な効率性と、人間的な合理性
- 蛇足「日本語の発音」:「拍」と「音節」
- 補足:音の種類と言葉の長短のトレードオフ
- 言語のパワーバランス
- 『英語の"Unfriendiness"』
- 「文字体系の相対的評価」
- 「現実的な言語事情」
- 注記:日本語の煩雑性
目次 ◆ # 散文『The Unfriendliness of English - English is Not-humanity』 - English is practical and widely used. -- [英語は広く実用的な言語だ。] - yet, objectively, the details are clearly difficult. -- [だがその詳細は、客観的に見れば明らかに難しい。] - Even native speakers are not exempt. -- [それは母国語話者であっても同様である。] - English may appear simple on the surface, but that is not its true face. -- [英語は一見、単純な顔をしているが、それは英語の素顔ではない。] 言語についてを調べながらまとめていると、こうした結論へ至ることとなった。 これを散文としてまとめておく。 - As a disclaimer, this prose is not intended to denigrate any particular nation, ethnicity, or region. -- 免責として。これは、いずれの国家、民族、地域を貶める意図を持った文章ではない。 ▲
目次 ◆ ## 注記:社会的な配慮の説明 社会的な立場を自覚している人ほど、言語的な問題について語ることを避ける。言語は文化と密接に関わるものであり、人々のアイデンティティに深く根差すものである。そのため利口な人ほど言語的な優劣を否定することで、社会的な不和を回避する。よって社会的に「言語的な優劣」は否定される。 しかし実態において、言語的な得意不得意、長所短所と言えるものの存在を理解することは可能である。言語的な形態に由来する普遍的な得意不得意の存在を、論理的に整理することは可能である。また言語的な歴史背景において、どのような経緯を辿ってきたのかを客観的に評することも可能である。 注記しておくが、あらゆる言語は、それぞれの地域における生存戦略によって使われ続けてきたものである。あらゆる言語に社会的な妥当性が存在し、歴史的な必然性があると評価できる。人々が生存するための現実的な手段として言語が存在し、それらは等しく、人類文明の一部であると位置づけられる。 特に人道的な観点から、特定の言語の不必要性を語ることは社会的に認められるものではない。また人道的な観点から、特定の言語の優位性を絶対視することも、社会的な妥当性を持つことはできない。ようするに、人々がそれぞれの言語において生きていること自体は、人道的に否定されてはならない。 ただし人道的な観点をもってしても、社会的な問題を直視することができなければ、現実的にその問題を改善することが困難である。社会的な問題を見過ごしたとしても、その問題が自然消滅するわけではない。問題の解決を目指さない限り、その問題は未来への負債として永久的に残り続けることとなる。 文明的な前進のためには、現実的に存在する課題を直視し、分析して対策を考えていくことはとても大切なことである。特に社会的課題に隣接する問題点は、それを残してしまうことこそ人道的な問題になると言うべきである。人道的な観点から社会的な課題を解決するために、問題を理解する必要性がある。 ▲
目次 ◆ ## 「現代における英語の重要性」と相対性 まず前提として。現代では英語が世界中で使われている。世界的あるいは先進的な環境では英語が重要な共通言語として扱われている。現実的な問題として英語は重要な言語である。現実的な問題として、国際的な環境においては必須となる言語である。よって現代の英語の学習は非常に有用なものである。 世界中で実用されており、また先進的な文明を動かすための十分条件の機能性を持っていると評せる。文明的な実用において「十分な機能を持った言語」だと言える。そのように世界中で実用されているのだから、「優れた言語」だと信じることは容易い。だがそれは英語の運用状況の話である。 英語を日常としている人たちにとっては、英語の多くの性質が当たり前なことである。英語圏の母語話者ともなれば、他の言語を学ぶ必要性が限定的だと言える。英語の母語話者では、英語そのものをより客観的に見ること、他言語との相対的な位置関係を見渡す機会自体が乏しいと考えられる。 また欧州地域の主要な国々の人々にとっては、比較対象が英語に近い欧州言語である。欧州には別言語として区別される言語が多数存在するが、英語と大きく異なる言語体系と比較する機会は少ない。むしろ主要な欧州言語の多くは、英語より単純化されていないものが多いことで「英語の単純さ」が際立つ。 だが一方で、現代の英語の実情をそれらの外側から評価するならば、「文明人が古びた鉄の道具を使い続けている」と評せるような様子である。英語は全世界で使えるほど頑丈な鉄の道具だと評せるが、その詳しい内情は[おじいさんの古い斧(Grandfather's old axe)]のようで、不格好な石器にも見える。 ▲
目次 ◆ ## 「英語の'surface'の長所」 英語の表面上の親しみやすさとして、まずアルファベットの表音文字体系であるため覚える文字数は少なく、基礎的に覚える量が少なく見える。英語の一般的な単語も、多くがとても短くシンプルでその文字列を覚えやすい。さらに英語はシンプルな接頭辞や接尾辞を使って、単語の意味の拡張をしている。 英語は語の変形も比較的単純とされて、覚える量も比較的少ないと言える。英語は文法構造が安定している。英語は文法ルールに従えば、重要な情報を安定した語順で揃える仕組みをもっている。英語は基本的なルールに従うだけで明瞭な説明となるとされ、誰でも素直に読むことができると言われる。 現代における科学論文のほとんどが英語によって編集されているように、英語の言語としての機能性が非常に高いと説明できる。英語は歴史的に、実用文書においてかなり使いこまれた言語である。文書における機能性がとても整備され、特に文書の精確性と言う点では、とても優秀だと評価される。 また英語は他の言語のと互換性として、基本的な文法ルールの明瞭さから、他言語への直訳がとてもしやすいとされる。特に現代では多くの言語と機械的な相互翻訳がしやすいため、他言語との互換性も優れているように見える。十分な整理がされていれば、機械翻訳をして他言語でも概要を把握できる。 ▲
目次 ◆ ## X-A「字と音の不一致」 英語の最も明らかな欠点は、「表音文字でありながら、文字と発音の統一性が極めて不完全」という点である。文字の発音が文字の配列ごとではなく、実際は単語ごとに変化するのだ。つまり、文字だけを見て確実な発音をすることはできず、発音だけから精確な文字へ書き起こすことができない。 英語やその他多くの欧州系言語で使われるアルファベットという文字体系そのものは、大小変形を除けば通常30種前後の文字で非常に多くの発音を表記しうる非常に優秀な文字体系である。しかしそれは「アルファベットの文字体系」の長所であり、それを使う言語自体の長所を保障するものではない。 欧州系言語はアルファベットを使うが、多くの欧州系言語において、歴史的な変化に対して口語と文字表記を一致させ続けることができず、乖離する傾向が見られる。英語は特に、長い長い波乱の歴史から変質を重ね続けた言語で、調整も十分に行えず、アルファベットの長所を大きく損なっている。 英語はアルファベット本来の長所を損なっていることで、人間の学習にとって不効率な性質を持つようになった。英語の勉強では、母国語話者であっても、単語の学習から始めなければならない。語の"文字列・スペル"と"発音の音"を単語ごとに覚える必要があり、「語の字と音の接続」に長い時間をかける。 英語でも最低限、文字列ごとの基本的な発音と言える形は存在する。十分に慣れていれば、最低限妥当な読み方や、妥当な文字で記すこともできる。しかし全ての語が、妥当な読み方をするわけではなく、しかもその発音の変化が非常に多くの語に及ぶため、統一的な対応方法は無いと評する必要がある。 この「字と音の不一致」という点は英語の話者であってもつまづくことがある。しかし、知っている言語が英語のみである場合、その理不尽さの程度を理解する機会が乏しい。学習機会に恵まれてきた人では、一部の単語でそういった難しいことが起きているというくらいの自覚となる場合もある。 しかしその問題の実態は、極めて多くの英単語において発生している。言語の性質について、比較しながらより詳細に分析をする機会を得られなければ、英語が広く内包している理不尽さを自覚することは難しい。また、より明快な言語と比較しなければ、難しさは当然であると思ってしまいやすい。 ▲
目次 ◆ ### 英語の字と音の関係性 英語の多くの単語が、アルファベットの短い文字列や、凝縮された短い発音にまとめられていることで、言語として表面的には簡単であるかのように見えてしまう。しかし、文字と言語体系の実態としては不規則な側面が多いために、多くの単語の詳細を個別に網羅して学習しなければならない実情がある。 アメリカ英語における例として、[ca-]から始まる単語の[call/case/car/cat]という4単語はおおよそ異なる[ca-]の発音をする。例えば日本語のカタカナ語の「音の単純な転写」では、それぞれ[koh/kei/ka/kya]の音で転写される。無自覚な場合もあるが実際は、明確に違う音で発音されているわけである。 1単語の例でも[Pretender]は、アメリカ英語において[e]が3種類の発音をする。慣れてしまった英語の話者には、[pre][ten][der]の汎用的な発音を取るだけなのでその不自然さを理解しがたいかもしれない。だが英語はそうして文字表記から音が大きく変化するため、「表音文字」としての不完全性が強い。 しかも、これらの例はまだ「母音の文字」の話だけである。「子音の文字」では、発音をするのであれば、(母音の文字よりは)まだ法則的な発音がされやすいと言いやすいものの、子音の文字でも確実な法則性や統一性を持っているわけではない。子音の文字も非常に不規則な性質が珍しくなくある。 字と音の不完全性を風刺する表現として[ghoti]という文字列が存在する。これは[enough:(gh=f)][women:(o=i)][nation:(ti=sh)]という異なる単語の発音の一部を切り取り並べることによって、[fish]と全く同じ発音にもなりうる文字列として創作された。なお、一般的な感覚からは大きく逸脱している。 またその不完全性は単純に字の発音が変異するだけではなく、音として欠落している場合も多い。例えば[knight]は、現代の発音だと[ni][t]の音を主として発音されるため、[k]や[gh]はほぼ単語の文字列における識別のみを意味する字となっている。他にも[lam(b)][(w)rist][i(s)land]など多数存在する。 極端な不一致性の典型的な文字列が[-ough-]であり(発音例)、[though(-oh)]、[thought(-a-)]、[bough(-ao/-au)]、[bought(a-t)]、[through(-uu)]、[cough(-of)]、[tough(-af)]、[hiccough(-ap)]、[borough(-a/-oo)]など、前後の字によって[ough]部分の発音の様子は細かく変化し、暗記が不可欠である。 英語はさらに、単語ごとに字の音が変化するだけではない。実際の発声では、前後の語から発音が変形することさえ珍しくない。英語は表音文字体系でありながら、実態として文字が発音を強制しない言語であるため、文字から発音が保障されていない。基礎的な部分から、そのような煩雑さに直面する。 ▲
目次 ◆ #### 英語の「言葉の学習負荷」 英語では「新しく見た単語」に対して、どのように読むのかが話者によって大きく差が生じる余地がある。正式な発音があっても、その音を聞かなければ、発声を間違える可能性が大いにある。また同様に「新しく聞いた単語」もまた、表音文字であるにも関わらず、どのように書くのかは一意に定まらない。 字と音の不一致は、既知の単語であっても音は分かるが文字を正しく書き表せないという事態も引き起こしやすい。しかも文字列が変化してしまうと全く異なる単語に変異する恐れもある。明らかなミスであれば類推によって補完することも可能であるとも言い訳できるが、語の記憶の負荷は軽くない。 また、たとえ日常生活で普段から耳にしている言葉であっても、単語の文字列を見てその知っている単語であると判別できない場合がある。より素直な読み方であればどの言葉であるか連想できる場合もあるが、字と音がズレていることが当然としているため、調べずに確定させることは事実上できない。 基礎的な文字においてそのようなズレを抱え込んでいるために、学習において文字で補助的に音を書き記されたとしても、その補記された音をどのように発音するのかを、単語の発音とは別に覚えなければ補記された音を使えない。しかも、アルファベット単体の読み方にも、文字列での発音とズレがある。 言葉を覚えるためにとても長い時間、語と音についての学習または教育を受ける必要性がある。英語の話者は、おおよそ自然と聞き取ることはできる。また、英語に習熟していれば自然と文字に起こすことができる。だがそれは、英語の持つ不合理な性質に対して、克服するための努力と支援を不可欠とする。 あらゆる言語で見られる傾向だが、習熟しているネイティブの話者は、母国語の言語的な難しさに対して無自覚であることも多い。頭脳はとても高性能な機能があり、言語でも言葉を無意識に予測して補完する能力を持つ。言語に習熟していれば、不完全な音でも脳が無意識に語や文字を連想して聞きとれる。 英語でも、母国語話者であったとしても、十分な学習ができなければ致命的な格差が生じる。「語と音の接続」ができなければ、簡単な文章を書くことさえも困難になる。長い文章は筆記だけでなく読解さえも至難になる。本だけでなく、新聞を読むことさえもままならないのが、英語圏内の教育格差である。 ▲
目次 ◆ #### 不一致の是正の困難性 しかし、言語において根付いてしまっている性質を矯正することは困難である。人体にとって日常的な言語の扱い方とは、音の1つずつやそれによって構成される単語1つずつをいつも論理的に判断しているものではない。頭脳が音や語の雰囲気を認識して、予測的に詳細な識別をしているだけだと説明できる。 人体にとって使い慣れてしまっている言語は、意識して識別しているものではなく、ほとんどは無意識に判別をされているのである。論理的に難しい性質を持っていると説明できたとしても、人体はそれに慣れてしまえば使いこなしてしまう。そしてその無意識の判別を矯正することは、非直感的な学習となる。 英語において、歴史的にそうした不都合が全く問題視されなかったわけではない。だがしかし言葉として非常に広く根付いてしまっているために、新しい発音を指導することが事実上、物理的に不可能であり、広い矯正を実施することはできていない。かといって文書の扱いの問題から、文字の修正もできない。 また英単語は非常に短く構成されているために「近い音に多くの語彙が集積されている」と言える関係性も、その修正を困難としている。例えば[call/case/car/cat]の例として[case]を汎用的な[ka]の音で読んでしまうと[curse]の語と近似してしまいやすい。あるいは[cat]も、[cut]の音と近似しやすい。 つまり非常に様々な語が入れ違うような変化を引き起こしてしまうこととなるために、従来の英語に慣れている人たちほど語の混乱が発生してしまい、直感的な判断をすることが極めて難しくなってしまうと説明できる。そのようにして言語の問題が保存され続け、理不尽な学習性が残され続けているのである。 ▲
目次 ◆ ### 一般的なアルファベット言語体系における発音表記の限界 アルファベットは母音文字として慣例的に[a/e/i/u/o+(y)]を主に使うが、繊細な発音をする言語の発音を全て書き表すには不十分であると言える。例えばアメリカ英語では細かい母音の音の種類が12種以上は存在し、主要母音5、6文字では物理的に足りず、実態として各母音に4種前後の発音が内包されている。 アルファベットの現代的な使い方では、実態として「あらゆる発音を表記しうる」という側面を実現していない。より発音の実態に則した使い方をするのであれば、不足している分の母音字を増やしたり、長音や複合音に対しても識別できる表記を用いるべきだろうと考えられるが、特殊な表記は限定的である。 (補足:ちなみに英語のアルファベットの子音は21文字ほどが使われる。また英語の子音の種類は約24個とされる。子音の複合表記による音の表現もできるため、子音の表現力という面では文字が致命的に不足しているわけではないとは言える。だが、英語の表記法は素直でなく、複雑化している。) 歴史的な話として、現代アルファベットの大きな祖であるラテン文字を整備した「ラテン語」は、元来のアルファベットで書き表せるほど比較的単純な発音体系、母音体系を持っていたと考えられる。しかしその文字体系が広まった他地域の言語の音は、それほど単純ではなかったために乖離が生じ始めた。 アルファベット文字が広まっていった地域においては、文書に持たせている権威などの問題から、文字体系の整備を積極的に行うことが難しいという社会環境があった。主な欧州系言語でもわずかに文字の調整をしている例はあるが、特に英語では表記的な調整をほとんどしないままに使い続けることとした。 また特に基礎的な文字へ記号を付与することで特殊な発音を示している例、「ダイアクリティカルマーク」と呼ばれる記法を利用しているアルファベット文字の言語も多いと言える。しかし英語ではそうした特殊表記を標準とはしていない。コンピューター入力でも標準ではないため記入に手間がかかる。 (補足:現代では学術や学習補助のために「国際音声記号」という「人間が使っている発音を詳細に書き記す記号文字体系」が整理されている。おおよそ世界にあるほとんどの言語の基本的な発音をその記号体系で書き記すことができる。この記号体系では、母音の記号だけで約20種を区別されている。) (蛇足:なお「国際音声記号」の解読は非常に高度な技術が要求される。繊細な発音方法の違いを分類しているが、どのように発音するのかは、深い学習による聞き分けと洞察が求められる。当然、音をあまり知らないまま記号だけで発音することは不可能であり、専門家や分析のための記号だとさえ言える。) ▲
目次 ◆ ### 補足:英語の歴史的経緯 英語の歴史の概要を触っておくと、欧州の主な言語は「インド・ヨーロッパ祖語」という分類の祖先を持つが様々な体系に分岐しながら広がり、その中の1系統が現代イギリス本島であるブリテン島地域において根付いた言語が「古英語[Old English]」と呼ばれる最も古い英語の形とされる。 同じ祖先を持つとはいえ歴史上の言語の普遍的な法則として、地域の広がりと時代の流れによって言語が自然と各地で変質する。その変質から欧州にも多彩な言語群が形成されていく。そうした「別言語」、特に整備されていたラテン語系から吸収していくことで、昔の英語は拡張していったとされている。 英語のツギハギはさらに、支配階級の流れから「フランス系の言語」が流入することで大きく加速し、またそうした言語的な混在の影響からか、その頃から特に表現の単純化が進んでいったとされる。その後、情報革命の時代になると、別言語の学術語彙が大量に流入して混在。非常にごちゃまぜとなる。 そうした時代を経てから、様々な事情もあって急進的に「標準的な英語」の整備が進んでいったことによって、現代の英語に続く体系が固まってくることになる。また英国が世界的な影響力を持つ中で世界の様々な語彙が取り込まれるなどをしたり、やがてアメリカ英語が独自の進化をしていったとされる。 英語の語彙の語源を辿ると、主要語源として「古い地域語系・ラテン語系・フランス語系」の3種がやや拮抗するような分布で存在し、加えて学術用語類にはラテン語系の他に「ギリシア語系」も多く存在し、残り1割程度がその他や不明の語とされる。現代英語は多言語のパッチワークだと説明できる。 ▲
目次 ◆ ### 他言語との比較:字と音の統一性 使用者が比較的多く、かなり明瞭な表音性を持つ文字体系の例として「日本語の仮名文字(※一部例外含む)」が実在している。さらに明瞭な表音性を持つ例として、欧州のアルファベット系列の中に「フィンランド語」の例がある。これらの文字体系は、「字と音」がほとんど1対1の整理された関係性を持つ。 「明瞭な表音性・字と音が1対1」なら、字と音の法則を覚えるだけで、あらゆる単語を文字列を見るだけで発音することができる。さらに単語の音からかなり正確に、文字列へと起こすことができる。※蛇足:日本語の仮名文字は一部明確な変化を含むため、完全な表音文字ではない。([は→わ]など) (補足:フィンランド人の母語能力は、英語圏の母語能力よりも早く身につく傾向があるという調査データが見られる。つまり第一言語としてのフィンランド語は、第一言語としての英語より学習性が良い傾向を持っていると考えられ、その傾向は文字の表音性が大きく影響している可能性が強く考えられる。) 日本語では「表語文字」も組み合わせるため、非常に高い負荷も存在している。しかし、その前に「表音文字の仮名文字」を覚える。仮名文字によって「字と音がほぼ1対1」に繋げられることで、日常生活における言葉の音が文字と繋がり、実際の基礎教育における学習性は、それなりに高いと評せる。 日本語の学習性では、義務教育が制度化されるよりも前から、多くの庶民が基礎的な文字を学ぶことができていた。さらに近代以降、義務教育が制度化されると、とても円滑にとても多くの国民が基礎的な識字をできるようになる。明瞭な表音文字がその効率的な学習を導いている一因だと考えられる。 なお日本語の文字の普及については、明治期の義務教育制度よりも前、江戸時代の寺子屋制度よりもさらに前、長い戦乱の時代の間にも「文字を書ける人々」が広がっていった歴史的な積み重ねがある。義務教育や寺子屋などの時代に突然、文字を教えられる知識層が大量に無から生まれてきたわけではない。 (日本は戦後「複雑な文字体系では教育に支障があるだろう」と疑われ、文字体系の見直しを検討されたこともあるが、実際の国語学習の調査において非常に優秀な成績が見られ、見直しの必要性が無いことを示したとされる。また現代日本には「ホームレスが新聞を読める」という逸話がある。) (ただし、現代日本でも「文字が最低限読めるだけ」ということが珍しくない。文字はわかるため学習のための基礎知識は持つが、読解の学習が不十分で難しい表現が理解できなかったり、やや複雑な文章を読み解けないといった例は少なくない。だが、自主的な学習は可能な状態になっているとは言える。) ▲
目次 ◆ #### 補足:日本語の表音文字「仮名文字」の様式と学習性 日本語の仮名文字「ひらがな/カタカナ」は、例外規則を持つものの、ほぼ1対1の字と音の接続性を持った素直な表音体系だと評せる。例外規則として、単語外の[は→わ]と[へ→え]の音の転換や、母音字の長音化などがある他、特殊な発音を2字で1音を表す場合[きゃ/てぃ]などの、法則的な例外はある。 アルファベットは「複数の字で1音の構成」を当然としているため、文字種の削減を実現しているが、代わりに「アルファベットの文字を明確に言い表すための、音とは異なる字の名称を用いる」という冗長な性質を抱えている。[A/B/C]が日本語なら[エー/ビー/シー]で発音される字の名前が実用されている。 日本語の仮名文字は基本的に、発音とは異なる字の名前を必要としていない。[あ]は[あ]という名前と発音しか持たないのである。例外的に、字列の説明に[しゃ]などの小文字の[ゃ]を[小文字の「や」/小さい「や」](Small "YA")などと表現することはあるが、仮名文字に「別の名前」自体は無い。 アルファベット言語はまずアルファベットの「名前」を学んでから、実際に使われる文字列における「読み方」を組み合わせごとに覚えていくという段階性を必要としている。第一言語でも「1音節ごとに音を分解して、文字を当てはめて音の文字列にする」という手順で文字と音の法則を理解する必要がある。 例えば[カ/シ/つ/ネ/ホ]などの聞こえる発音に対して[KA/SHI/TSU/NE/HO]といったような複数の文字を組み合わせ当てはめる必要があり、「文字列と発音の法則」で学習する必要がある。対して、日本語の仮名文字は「文字の読み方」を学ぶだけで、そのまま文字列を最低限発声できるようになる体系を持つ。 しかも実際の英単語は[a]にも聞こえるような音に対して[i][e][o][u]などの文字を当てはめる場合もある。子音の発音も不規則性を持ち、英語は字と音の不一致により、標準的な発音法則とは別に、単語ごとの発音法則を学んでいかなければならない。英語は基礎学習において、酷く混乱させる体系だと評せる。 特に子供のような視点から考えるべき所として、単純な1字対1音ではない方式、「1つの音を小さい絵の組み合わせで覚える」また「小さい絵の組み合わせから、音を組み立てないといけない」という、子音母音を分割する方式は、音の認知に分解を必要とする飛躍性のある文字体系だろうと考察できる。 基礎的な文字の学習性で言えば、アルファベットの文字体系よりも格段に覚えやすく使いやすい表音文字体系として整備されていると評せる。基礎教育として、この表音文字体系を基礎として初歩的な知識の基盤を作り、自力で文章を読むことも可能な状態で、発展的な文字体系を学ばせていくのである。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:仮名文字における「濁音/半濁音」と「小文字」 仮名文字は基本となる約50音分の46字ほどから、付属記号や小文字複合によって標準的な範囲で約130音分ほどの表記が可能である(蛇足:方言などの特殊な音を含めばもう少し多く表記がある)。特に仮名文字では[Ha/Ba/Pa]の3系統の音を[は]の変形として[は/ば/ぱ]という「濁音/半濁音」で表記される。 「濁音/半濁音」という字の整備によって、[G][Z][D]の音が最も近い音の字に記号を付与する形式で整理されている。[Ka/Ga][Sa/Za][Ta/Da]が仮名文字では[か/が][さ/ざ][た/だ]といった表記になる。日本語の「濁音/半濁音」は、他言語ではアルファベットと同様、別の字で整理されることが多い。 仮名文字はかなり単純な音に分類をしているため、日本語はその表音文字によって音が単純化されている傾向があるとも説明できる。しかし日本語では、複合的な子音による発音などを仮名文字の小文字を合わせることで表記される「拗音」という方式で、拡張的に細かい発音表現の整理をしている。 例えば[や/ゆ/よ]の小文字である[ゃ/ゅ/ょ]を合わせることで[きゃ/kya:kja][しゅ/syu:shu][ちょ/tyo:cho]などような音を表記する。(※日本語の整理の感覚としては手前の音の子音に[-ya/-yu/-yo]を繋げている形だが、英語的な表記や表音記号表記においては異なる子音へとズラされて表記される。) また拡張的な拗音として、[あ/い/う/え/お]の小文字である[ぁ/ぃ/ぅ/ぇ/ぉ]を合わせることで、より多くの変形的な音の表現を表記している。日本語では標準的ではなかった語の音も、この拗音の応用によって[ヴァ/Va][フィ/Fi][トゥ/Tu]といった拡張的な表記を可能として、そのように発音されている。 なお拡張的な音は日本語の発音として慣れない人もいるため、日本語元来の標準的な音へ単純化した発音[ヴァ/バ][フィ/ヒ][トゥ/トウ]などに変換して発音することが許容されている。さらに拗音自体が難しい場合は、不自然にはなるが小文字を含めて1音ずつに分解して発声するという方でも表現できる。 1字1音という形式でありながら、拡張性が整理されていることで文字のパターンがかなり削減されている。法則性を持って単純に整理された構造を持っており、仮名文字には「ひらがな/カタカナ」の2系統の文字種があることで学習負荷は高いようにも考えられるが、実際の負担はかなり軽いと説明できる。 蛇足:仮名文字での表記方法は現代的な整備が行われた新しい形式で、昔に比べてより分かりやすい表記法となっている。古くは同じ仮名文字でも音の順番や並びによって音が変化していたとされたり、「音としての小文字の表記」も使われ始めたのは近代化以降、広く常用されるのはさらに後である。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:仮名文字の細かい読み方 ただし日本語も、自然な発音では不文律の発音の傾向を多く持つ。細かい発音においては、特に発音のしやすさのために表音文字の規則から崩れていることが日本語でも珍しくはない。日常で使われる言語での発音の崩れは普遍的な法則である。しかし日本語では表記通りに発音しても語として十分通じる。 カジュアルな場面では、音の短縮や「近い音への変化」という現象も存在しているが、それらはあくまでも短縮的な表現や、癖の強い口語表現である。大きな変化の聞き取りにはやや難しくなる場面もあるが、あくまでも標準的・模範的な発音は表音文字の表記通りで存在しており、それで言葉が通じる。 日本語では、表音文字通りに読めば言葉として成立する。一方で、英語では文字列を「標準的な読み方」で素直に読んでも伝わらない可能性が高い。英語の標準的な読み方に、十分な標準性が無い。日本語の感覚から言えば「短縮的な癖の強い口語表現」が標準になっている形であると説明できる。 例えば[juice.]を[ju-i-ce.]や[jui-ce.]あるいは[ju-ice]と発音してしまった場合、瞬時に伝わる可能性は非常に低いと言える。もっとも近い発音を英語的に表記するならば[joos]や[juhs]などと表記できるが、そのように表記されることはなく、そう表記をしても伝わる可能性は非常に低い。 蛇足:ちなみに日本語の発話において音の変化が著しい面として、母音文字[あ/い/う/え/お]での「長音化」も変質として顕著だと言える。主な例として「[あ]音→[あ]」「[い]音→[い]」「[う]音→[う]」「[え]音→[え][い]」「[お]音→[う][お]」などの組み合わせで、長音化や変異が生じている。 また長音化の音も通常、別の母音へ変化する表記でも、実際の発音においては素直に同じ母音の音へ伸ばされやすい。[高校:こうこう]は字の音では[kou-kou]と読むが、一般的には同じ母音で伸ばした[koo-koo/こぉこぉ]で発音されやすい。また[経験:けいけん]も[kei-ken]が[kee-ken:けぇけん]になる。 しかし、これらはあくまでも長音化の発音の慣れにおいて発生している発音上のブレである。[高校]の標準語としての発声では[koo-koo/こぉこぉ]のように読まれるが、基本となる標準的な発音においては[kou-kou/こうこう]と読むものであり、またそのように呼んでも標準的に通じる範囲のブレである。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:仮名文字の細かい書かれ方 現代の日本語では漢字を使わない仮名文字表現において、[は→わ][へ→え]以外で標準的な発音から明確に逸脱している場合、異なる仮名文字で表記することを当然とできる。[ありがとうございます]が緩く極端に短縮されると[あざっす]や[アッス]になるが、その発音を音感覚通りの仮名文字で表記される。 日本語では口語表現を文字に起こす場合、そうした特殊な文字表記を当然としている。英語の場合、文字表現では原則的に単語の持つ文字列を記載することを前提として、口語通りに書くことは例外的な表現である。原則的に、例えば[Wednesday]を現代標準の発音に近い[Wenzday]とは通常書かれない。 他にも例えば英語の[I do not know.]は短縮形の[I don't know.]だけではなく、口語として発音が潰れる場合は[dunno.]と表記をされる[dano]の音になったり、アメリカ英語ではさらに潰れると[aranou.]という聞かれ方もある。だが表記の短縮は原則短縮形までとし、使うとしても口語表記例までである。 英語は表音文字を基底としているにも関わらず、文字表現において表音性を第一とはしておらず、表語を安定させるという方式をとっていると説明できる。特に文化的な実用においては、日本語の仮名文字の方が、はるかに高い追従性を持った表音表記として広く使われていると説明できる。 日本語は、細かい音の変化も含めて単純な音の分類で整理していることによって、方言などから発生してしまう発音の癖の違いも許容しやすい体系を持っているとも説明できる。また多くの音を並べる言語構造から、たとえ違う音に聞こえる場合であっても言葉の識別をしやすい傾向があると言える。 しかし加えて、音を素直に書きとることがしやすい文字体系であるため、明確に違う音である場合には異なる音であるという認識自体はされやすい。異なる音であるということを理解しながら、補完的に言葉を理解する聞かれ方をしている。これにより「発音の違い」自体には、非常に敏感であるとも言える。 ▲
目次 ◆ #### 補足:日本語での表語文字「漢字」の様式と学習性 日本語では大昔に、中国大陸で整備されていた「漢字」を輸入することで文書文化が整備された。日本語の文字体系は漢字に由来するもので、日本語の仮名文字であるひらがな/カタカナも、漢字を崩した簡単な字体を元として整備されたものである。本来、漢字は地域・時代ごとで1字1音節の体系を持つ。 しかし日本では「漢字の音を2~3度輸入して、それを併用する」という使い方、さらに「日本の元来の話し言葉へ漢字を当てはめる:訓読み」という使い方で、「漢字であるのに音が変化する」という様式へ変化した。日本の漢字は「意味の文字」として「音の文字」とは異なる層を形成している。 漢字で文字種が多いだけでなく、「日本語の漢字」は音が変化し、一部は非法則的な読み方さえもある。そのため日本語の漢字は特に学習負荷が高いと評される。基礎的な表音文字は非常に覚えやすい様式を持つのに対して、日本式の漢字の様式は飛躍的なほど高い難解性を持っていると説明できる。 日本語は「音の文字」と「意味の文字」という2層構造を取ることによって、言語の詳細性や情報量を確保する方式をとっている。また現代日本語では、表音文字の補記のフリガナ(ルビ)が普及しており、学習範囲や一般化を考える場面などでは、音を読みやすいように整備されている。 日本語は文字の種類が多く、覚える量が負担となることは事実である。しかし日本語の基礎教育における漢字の学習は、日常的な語彙の漢字化を中心として進める。母語話者にとっては、主に知っている語を「見れば意味が分かる字に変える」という学習形式で進めるため、感覚的な飛躍性は小さい。 日本語の漢字の「熟語」も、その総数は膨大だと言える。しかし「見ればおおよその意味が分かる字」を使うため、熟語の意味は覚えやすいことが多い。熟語であれば漢字の音も法則的な範囲に固定されていることも多い。例外はあるが、言葉も覚えやすい性質があり、学習の負担は軽減されていくと言える。 日本語は、音から言葉が聞きとりやすい。日常会話やテレビ・動画などからも多くの言葉を学びやすく、音は表音文字と1対1の明瞭な関係を持つため、音からも辞書などを調べやすい。日本語のネイティブでは幼少から多くの言葉を聞いて学んでいき、それを段階的に文字へ関連付けて覚えていくことも多い。 また日本語では漢字が書けない場合でも、音さえ分ければ表音文字で書くことができる。読めない漢字に対しては、字形から調べる形式の辞書も存在している。一方で、英語は音と字の関係が不安定なため、単語によっては調べるのに時間がかかってしまうことは珍しくないなど、自主的な学習に障壁がある。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:「漢字」の訓読みと熟字訓と音読み熟語 日本語では特に、漢字の「意味の字」という機能性を最大限活用して「話し言葉に漢字を当てる」という「訓読み」や「熟字訓」という方式を当然としている。これにより古い言葉を残存させ、その意味の識別をしやすい形態にして、現代においても多くの日常的な語彙を自然と使えるようにしている。 日本語の極端な煩雑性を物語る例文として[今日は一月一日の日曜日、日本は祝日、ハレの日です。]という文章がある。[日]を使う語を複数の音で読むため学習者には混乱しやすい例文だとされるが、日本人はそれぞれの語を日常の語彙から「音」として先に記憶しているため認知上の飛躍性は非常に小さい。 [今日:きょう](today)、[一日:ついたち](/Jan/ 1st.)、[日曜日/にち-よう-び](Sunday=[日(Sun)の曜日])、[日本:にほん](japan)、[祝日:しゅくじつ](holiday)、[-の日(ひ)](day of -)。これらの語も日常において頻出する語群で、音として記憶しているものを「意味の字」として書き表しているだけである。 またこうした言葉の文字表記は漢字を1字ごとではなく、「字の並びの1まとまり」ごとに認知することでそれぞれの言葉として識別されている。これは英単語が1字ごとや1音節ごとではなく、単語ごとで識別しているのと同じことである。つまり、音に文字列を繋げる形で個別の漢字に覚えていく。 ただし表音文字自体で記されている英単語と違い、日本語は音が表音文字によって1対1の明瞭に表せる形として単語ごとに存在しつつ、漢字の表記はあくまでも「意味の字」として上乗せされている形をとっている。日本語では、補記などがあれば発音で不便することはほとんどないと評せる。 この方式は多くの漢字の意味を自然と体得していくことができる面も持つと言える。例えば幼少から耳にする[小さい:ちいさい](Small)、[大きい:おおきい](big)といった語の文字を学ぶ過程で[大:だい/たい][小:しょう/こ]の語も覚えてることで、それらの字を含む熟語なども自然と理解しやすくなる。 例えば[学ぶ:まなぶ](Study/Learn)という語の文字を学ぶことで、[学校:がっこう](school)が「学ぶ場所」を表していることを理解しやすくなる。さらに[小学校](primary school/elementary school)が[小さい-学校](small-(people)-school)であるという意味も、初歩的な語の学習から自然と理解していく。 さらに[大学](University)と呼ばれる場所が、学校として大きい・大きな人たちの学校であることを自然と理解しやすくなる。日本語では読み方が煩雑になってしまう問題は存在するが、古来からの自然な口語を保存しつつ、段階的に多くの語彙を識別するための学習をしていく形式が整備されていると言える。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:表語文字の煩雑性と英語 ちなみに、漢字自体は地域や時代が異なると読み方も変わることは多いが、「1つの時代の1地域内で、1つの漢字の読み方を切り替える」という方式はかなり特殊であるとは言える。しかし「1つの字の読み方が変わる」という状態は、英語などの例から言語としてそれほど珍しくない現象だと説明できる。 「漢字」のような表語文字は「字から読み方を想像できない」という問題が存在すると説明できるが、英語も同様の問題を半分ほど抱えていると説明でき、また表語文字も基本的には統一された読み方が存在するため、覚えれば使えるという観点ではそれほど大きな差があるとは言えないものである。 例外的に表語文字の中でも「日本語の漢字」は、表意文字的な扱い方によってその読み方が変化することが珍しくないものの、これは非常に特殊な事例であり、また日本語ではフリガナといった読み方を補助する方式が整備されていることで、「読めない」という状態は減らす手段が存在している。 特に、基盤が表音文字であり、補記する方法にも難儀してしまうような英語が「字から読み方を確定できない」という問題を抱えながらも世界的に使われていることから、そうした性質自体が、学習に不便があるとしても、言語として使用不能なほどの致命的な欠陥であるとは説明できない。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:日本語の文字体系におけるイントネーション その他の言語でも珍しくないことだが、日本語も文字体系における言語情報の欠落として、文字はイントネーションの情報を持たない。言葉ごとに辞典などの表音情報を確認するか、音を聞いて確認する必要性がある。ただし日本語のイントネーションは、かなり変わりやすい傾向を持っている。 日本語のイントネーションは方言によって変化することも珍しくなく、標準的なイントネーションは存在するもののイントネーションの変化にはやや寛容であるとも評せる。ただし、実際の会話では細かいイントネーションの制御で言葉の識別をしていることも多いため、細かくは簡単な部分ではない。 特に単語のイントネーションも、言葉の流れにおいて単体の標準形から変化することが珍しくない。例えば[電話:denwa]は、個別に発音する場合と、他の語と繋げた1単語で発音する場合で変化する。例として[携帯,電話]と[携帯電話]は、間が短くともイントネーションによって区別できる場合がある。 細かいイントネーションは体系化されずに自然と形成され、また口伝で自然に継承されているものであるため、その法則性の明文化は難しい。[はし]が音の高低で[箸][橋][端]に変わることは有名である。また[花][鼻]の高低は同じだが、[花を/鼻を]では異なる音に変わって区別できる場合がある。 しかし日本国内だけでも、方言などの癖によってイントネーションが異なることは珍しくない。そのため様々な発音に慣れていて、特殊な癖があることを理解しているならイントネーションのズレの可能性も考えて識別をできる。聞きなれない発音は奇異に感じるが、致命的なことにはなりにくいと言える。 蛇足:ちなみに他の多くの言語においても、文字列に対するイントネーションやアクセントの不文律や変動性は珍しくないと説明できる。英語においても、同じ文字列でおおよそ似た音であっても、そのニュアンスや意図によって発音を変化させる場合はある。普遍的な言語の法則性であると言える。 補足:英語では同じ語でも、何かを示した呼び方の語として使われる場合と、動きを表す語として使われる場合では、語のアクセントを頭側にする/後ろ側にズラすといった調整によって語の意味の識別をしやすくしている。その他、[read]は意味によって発音が変化するといった変化が内在している。 ▲
目次 ◆ #### 補足:学習における「日本語の漢字」との学習負荷の比較 日本語では文字や言葉が多く、覚える量が負担となることは事実である。しかし英語との比較では、「単語ごとに字と音と意味の記憶が必要な英単語」と覚える負担はそれほど大差がないとも評せる。それぞれで負荷の大きくなるタイミングは大きく異なるが、どちらにも負荷の大きい部分がある。 英語は、実用を目的とする場合、単語ごとに文字を見て、意味を見て、発音を聞いて、発声をして、それらを体に覚えさせる学習をまず必要とする。そこからさらに実用例を見たり聞いたりして、単語に隣接させる語や、他の語と隣接した時の音を覚えることで、ようやく新しい単語を実用できると言える。 日本語の「漢字」は、表音文字によって言葉ごとに発音が設定されている。日本語の表音文字を扱えるなら、「漢字」は文字と読み方と意味を知るだけで最低限使える。実用においては文字単体だけではなく、字の組み合わせによる「熟語」の把握も必要であるが、それぞれで1単語という形である。 難しさとして、漢字の熟語は、語の特殊な成り立ちから非法則的な読み方や意味を持つ例も珍しくない。しかし、多くの語で文字からの意味の類推は可能と言える。また隣接する語もおおよそ汎用的な語が使えたり、もしくはおおよそ近い法則性を持った変形を使うため、新しく覚える点は少なくなっていく。 英語の日常的な語彙量はおおよそ3000語で約90%近くをカバーできるとされ、仕事などでの必要数は合計1万語ほどだといったデータが見られる。英語圏の一般教養のある成人が使える語彙数はおよそ2万~4万前後とされる。しかも、この語彙数は「一般変形を含む1単語」で数えたデータとされる。 英単語は複数の意味を持つ場合が多く、1単語当たりの覚える情報量が大きい傾向がある。十分な量の英単語を自力で扱えるようになるには、結局、途方もない学習が必要となると説明できる。英会話の基本の目標ではまず約3000語が実用の目安とされたりするが、日常で使われる英単語の多くの中身は分厚い。 強引な比較だが、まず日本語の「常用漢字」は2136字に収められ、主にそれらを応用して多くの熟語も扱う。日本語で日常範囲の約90%をカバーできる語数はおよそ5000語ほどとされ、また日本人の一般教養のある成人では5万語以上の語彙が分かるとされるが、音は覚えやすく、その多くに漢字の補助もある。 また日本語では、英語との比較として、単語の持つ意味が非常に多く分かれることは珍しい。日本語でも慣用句として広く使われる語はあるものの、飛躍的な意味を持つ例は英語に比べればはるかに限定的だと説明できる。英語では、多くの単語において多義的な傾向があり、それを覚える必要性がある。 「漢字」では字形の関連性を持つ例もあり、近い語彙で近い字形を使える例もある。例えば[火/炎/燃える/燃焼する]は[火]の字形を流用しており意味の理解をしやすい。これらを英語へ直訳すると[Fire/Flame/Burning/Combustion]で、関連性の乏しい単語に変形してしまい、理解の負荷はやや大きい。 日本語はそうした漢字の傾向から語彙の読解が補助され、学習も効率化されていると言える。よって「学習の総量」を、表面的な「文字数」や「単語数」のみによって精確に比較することはできない。しかも現代の日本語は、漢字の形を自力で思い出せなくとも、音さえ分かれば探して使える技術環境がある。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:漢字熟語の発展性と、英語語彙の散乱 漢字では[火:ひ]の字を覚えた時点で、自然と[炎][火炎]の語彙の雰囲気を認識できるようになる。他にも[大きい]の[大:だい/たい]の字が熟語へ応用され、[巨大][大型][偉大][雄大][大切][大事][大勢][大半][多大][特大]といった熟語、また接頭辞としての[大好き]などの語彙の規模感を認識しやすくなる。 日本語では他にも[デカい]などの語はあるが、大きさを表す主な語は[大]の関連と[デカ-い]が中心となる。一方で英語は、[big/biggest][ample][great][huge][large][major][sizeable][jumbo][mega][giant][gigantic][enormous][grand][monumetal][titanic]、[macro-]などなど、語が散乱している。 英語では漢語のような語彙の整理が無い上に、多数の言語に由来する語彙をつぎはぎのように持っており、それぞれの単語がほとんど独立して存在している状態にあると表現できる。そのため共通の語感も持っておらず、1語ずつをその細かい意味やニュアンスごとに覚えて、使い分ける必要性がある。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:日本語の二層構造と、普遍的な問題 日本語は「口語を元とする話し言葉の言語体系」と「文語を元とする表語文字の言語体系」が複合した二層構造を持つ。複合構造を持つ日本語の語彙の量はほぼ二種類分の言語に相当すると評せる。日本語を第二言語として学習する場合、この学習量の多さが非常に大きな障壁となるとよく言われる。 日本語を第一言語している話者は、幼少から口語の言語体系を自然と学習していき、まず表音文字によって基礎教育を始める。その後、表音文字を使って、言葉を区別しやすくする表語文字を段階的に学習していく。さらに、そこから文語の言語体系の学習を積み上げていく学習の流れが形成されている。 日本語の文字の基礎学習は「日常的に使っている言葉の音を文字にしていく」という形式である。またそこからさらに学んでいく表語文字も、最初は主に「日常会話から音を知っていることの多い言葉の漢字化」である。他言語と同様に、基礎は「言葉と音の理解」が先行した状態で文字の学習が進んでいく。 また言葉や文字の直感性は非常に高い。会話においては口語体系を主として使うことで、より安定した意思疎通が可能である。文語においては文語体系を主として使うことで、より効率的な情報伝達が可能である。日本語では、口語体系と文語体系の二層構造を使い分けることで、理解の負担を軽減できる。 注記しておくが、あらゆる言語において、学習意欲が無い場合などで言語の学習に支障が生じることは当然である。とても簡単な言語体系であったとしても、覚える意欲が無い人間にとって言語学習は常に困難である。または障害などから学習が困難な人も存在するが、それは言語側の問題ではない。 日本の基礎教育において、表語文字である「漢字」の学習につまづく例は珍しくない。特に「漢字」の筆記は高度な記憶を要求され、学習者が心理的に挫けてしまうこともある。しかしアルファベットの文字言語でも、およそ9文字から10文字以上の単語の文字列記憶では、ほぼ同じ記憶負荷の問題が発生する。 アルファベットの長い単語はたいてい複数のパーツが組み合わさっているため、それを意識すれば覚えられるといった話もできるが、それは漢字も全く同様のことである。またアルファベットなら音から単語の文字列を推定できるとも言えるものの、英語では統一性が弱いため十分な学習は不可欠である。 ちなみにアルファベットの言語でも、明快な表音性が確保されている言語では基礎学習を早く済ませやすくなる傾向が見られ、明快な表音文字を持つことは学習において有効に働くことが確認されていると言える。日本語はそれと同様の言語基盤を、表音文字の併用によって実現している。 ▲
目次 ◆ #### 補足:比較としての初等教育の学習速度 英語圏であるアメリカやイギリスでの、初等教育において「基本的な文字の読みの学習」のために費やされる期間はおおよそ2~3年ほどと評される場合もある。一方で、日本語の「仮名文字」の学習は「義務教育1年目の長期休みを含む約五か月弱」だけで、標準的には体制が整うと評されている。 英語教育では「フォニックス」と呼ばれる「文字の音の傾向を覚えさせる学習法」を使いつつ、単語単位で徐々に覚えていく必要性があるために時間がかかりやすい。その代わり基本的な単語の学習も並行していくが、基礎的な学習において非常に長い時間を必要としてしまいやすいわけである。 日本語教育では表音文字と音の関係が分かりやすいため、非常に短く済む。漢字があっても「フリガナ」があれば音を読むことが可能であり、早期に独力で文章も読むことができる状態となる。そうした基盤を作ってから、煩雑な漢字や様々な語彙を長い時間をかけて段階的に学習していく手順となっている。 非常に大きな特徴として、日本の義務教育では初等教育1年目から既に豊かな教科書が整備され、原則的に全ての子供たちが「自分の教科書」を所有しており、子供たちは文字を覚えた段階から自主的な学習ができる。一方で、英語圏の教育では、自主的に読めるようになるまで非常に遠いと評される。 もちろん日本語であっても、日本語に慣れ親しんで、十分な訓練をされて詳細な読解ができるようになるまでは相応に長い時間はかかってしまうと言える。詳細な読解力は、個人の習慣にも大きく左右されるところであり、あくまでも最低限文字が読めるかどうかにおいて優良だと説明できるだけである。 しかしそのように最低限文字が読めることによって、日本語圏の子どもは早期からより広い情報に触れることができるようになっていく傾向があると評せる。文化的に豊かな家庭であれば子供が使うために辞典を用意していることもあり、あるいは図鑑などを子供へ買い与える例も少なくないと評せる。 一方で、「自立的な読解が遅い文化圏」では早期に文字の多い本を買い与えること自体が、それほど当然ではないと考察できる。十分な学習を済ませるまでは、本に書かれた文章を読むことさえ満足にできない。そのため、まだ読めない時期では、まだ買い与える時期ではないと考えられやすいと説明できる。 厳密には、英語圏においても特に豊かな家庭であれば子供へ本を買い与えることも当然としてあるだろうと考えられるが、義務教育の範囲における差は顕著だと言える。アメリカの一般的な初等教育では「教科書」自体が使われず、また学習が進んでも教科書は学校から借りる形式が多いと評されている。 ▲
目次 ◆ ### 「字と音の不一致」と「強烈な方言性」 近代以降の文字を整理し始めた時期に、英語は「字と音の統一性」を妥協した。それは、非常に多くの民族や文化と交わった社会で、社会制度の安定性を保障するために「字の安定化」を優先した、現実的な選択だと説明できる。そのまま短期的に広域へ普及させる方針をとったことで、妥協は拡大した。 基本として英語は字が音を強制しきらないため、字が目安程度にしか働かず、地域ごとに微妙に異なる英語を容認する言語となった。言語の歴史としては非常に短期間で広域へと広げるために、発音の指導や矯正も妥協される状況となり、「発音の統一性」も少なからず諦めることとなってしまった。 英語は、単語の識別のために繊細な発音が求められる言語でありながら、地域差が非常に拡大しやすい性質と経緯を持ち、実際その発音には地域差が見られる。極端な場合、英語同士であっても意思疎通が困難になる場合もある。「標準的な英語」という形式も存在するが、厳密な実用は限定的だと言える。 英語は、日常言語として多くの部分を、人間の無意識的な類推の補完によって補っている。言語の大部分を、人それぞれの使い方に強く依存している。特に、発音は個人の癖が強く根付いているところであり、身体的な癖の矯正は難しいために「標準的な英語」の普及も困難になっているのだろうと考察できる。 英語と言っても地域ごとに異なる傾向を持つために、例えばアメリカ英語やイギリス英語といった地域ごとの英語を示すことがある。その他にも、カナダ英語、オーストラリア英語、インド英語、シンガポール英語など地域で区別される場合もあり、また英米では英米内の地域差も生じているとされる。 なお、そうした地域によって発音が変化している例は多いものの、単語の文字まで異なる例は限定的である。英語はその文字列の安定性を守ることで、文書における共有性を確保している。ただし、アメリカ英語とイギリス英語の場合では[color/colour]など、単語の文字の例が変化する例もわずかにある。 また現実的に、日常的に使われている言語の普遍的な法則として、単語の使い方は地域の文化的な影響を受けるため、単語の意味がズレやすい傾向がある。アメリカ英語とイギリス英語とでも、単語の意味が別物となってしまっている例がある。例えば[chips]は「米国:薄い揚げ芋/英国:細い上げ芋」を指す。 言語の方言性そのものは、言語における自然な現象だと言える。英語では、その広がりから世界規模でその方言性が確認でき、特に発音の標準性は厳しい。そのため「英語が世界中で広く使われている」という評価も、厳密には実際に「1つの英語」を使えても、全ての英語と会話ができるとは言い切れない。 ▲
目次 ◆ #### 補足:比較としての日本の方言の規模 よく日本は小さいと誤解されているが、青森-札幌の間は直線約250km、青森-東京で約580km、東京-大阪は約400km、大阪-福岡は約480km、福岡-鹿児島は約220km、鹿児島から海を挟んで沖縄本島は約620km、主要地域を結んだ曲線で全長およそ2550kmになる。青森から鹿児島でも都市経由で約1600kmに及ぶ。 補足しておくと、欧州のローマからロンドンが約1430kmでその直線範囲だけで4つの言語地域がある。ローマからギリシアのアテネまでの距離が直線で約1050kmほどある。日本は外周の海路が使えたため文化的な距離感は異なるが、単純な物理的距離の規模としては欧州地域を跨げるほどの距離を持っている。 世界中多くの地域において、同じ言語の祖先を持っていても1000kmも距離があれば別の言語として成立してしまうことが珍しくない。また別の言語とされていなくとも、強い方言性が見られる場合は多い。実際、日本でも歴史的に民族的な違いから北海道や沖縄の地元民では別物とされる言語が使われていた。 また現代の「日本語」とされる範囲でも、その規模の大きさから多くの方言が確認できる。特に中央から離れた九州南部や東北地方では強い地域性があり、歴史的に共通語や標準語の整備が行われていなければ独立した言語と位置づけられそうなほど、強い方言性の実例が現代においても確認することができる。 しかし日本では近代以降、機能的首都であった関東地域の方言を元として標準的な日本語の整備を行い、基礎教育で言語的な基礎部分を共有させていくことを実現し、基本的な情報共有における問題は対応しやすい範囲に収めていると評せる。特に別の言語体系であった地域の言語的併合までもさせてみせた。 特に、交流が多い経済的な都市部は比較的標準化の傾向は強いと言える。だが、そうした中でも例えば東京などの関東地域と大阪京都などの関西地域でも、明確な方言による違いは現存している。都市部から離れた地方側では方言が強い場合もあり、特に強烈な方言では意思疎通が困難になる例も珍しくない。 現代であっても強い方言が確認できることから、日本が元々言語的な差の乏しい地域だったとは言えない。日本は、欧州のような地域性による言語の分断が発生しても不思議ではない規模を持つ。日本語が、1つの標準語を共通言語にできたことは、日本が元から均質であったからではないと説明すべきである。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:比較としての日本語の標準語 日本語は表音文字と音の関係が明快かつ単純である。その単純さから、基本的な発音をしやすい構造と、言葉を聞き取りやすい性質を持っている。またその日本語の構造上、標準語の情報は主に「語彙」の範囲であり、発声では繊細な発音を不可欠としなかったため、標準語の共有がしやすかったと考えられる。 標準化を目指した時代では方言が「悪しき例」とされたり、現代でも極端な訛りは奇異な感情を抱かれることも珍しくない。しかし、強い訛りがあったとしても、標準語の語彙を使うだけで意思疎通が可能である。現代では標準語の知識の普及が実現しながらも、地域の方言性は非常に多く現存している。 特に、標準化の傾向が強まりやすい大都市圏でも、大阪京都など関西地域と、標準語の元となった関東地域とでは、発音や言葉遣いに明確な違いが現存している。また日本語は構造上、多数の語彙を扱えて異音同義語も多い傾向があり、方言の言葉も「語の一種」として根付いていると言える。 日本語がその構造上「言葉の基本的な共有性」が非常に優れていたことで、古くから基礎的な日本語言語の基盤が日本各地へと広まっていき、教育の充実によって言葉の知識の普及が円滑に進んでいき、そして明治期での教育制度の整備と標準語の整備を、驚異的な短期間で実現できたのだと考察できる。 ちなみに日本の歴史では、現代の関西地域が文化の中心となって発展をしてきた。言語の基礎的な部分、文字の整備なども関西地域でされたものであり、それらの知識が広く共有されることで現代に続く日本語の言語基盤を作り上げた。つまり、現代では方言とされるが、日本語の大本は関西側とも言える。 一方で、英語圏として南北約900kmほどのイギリス本島のみでさえ、英語以外に地域・民族に根付いている言語が現代でも併存している。またそうした影響も含め、標準語の地域(ロンドンなど)から離れた地域によって方言性が強い場合、一部の人は標準語の学習に難しさの生じる例も確認されている。 基礎教育によって標準語の共有自体はおおよそできているとされるが、話し言葉では難しさが残る。英語は文書における安定性が高いため、同地域において教育を十分受けていれば、標準語の文書による情報共有や意思疎通はしやすいと評価される。地域差がある場合は、文書の方が安全だとさえ言える。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:日本語における「方言の領域」の特殊性 日本人が方言として最も顕著に認識している部分は「語尾の変化」である。その実態は話し言葉における和語の部分の変化であり、その話し言葉には地域ごとの方言性が非常に強く残存している。また和語の部分は主に言葉の後ろ側へ集約されているため「語尾の変化」が方言の典型として認知されている。 標準語となっている東京方言における[-だ。]という表現は、代表的な関西方言であれば[-や。]になることが有名である。他にも細かいニュアンスで変化することも多いが、[-じゃ。][-じゃん。][-だべ。][-だっぺ。][-ばい。][-たい。][-じゃけえ。][-だらぁ。][-んよ。][-やけん。]などなど。 より厳密には、日常的な語彙においても多く方言は存在している。例えば[しばく]という語は基本的に「こっぴどく叩く」ような意味だが、関西地方では「お茶などを飲む」という語としても使われていたりする。他にも有名な例として[なげる]が、標準語の[捨てる](破棄する)の意味で使われたりする。 現代でも、そうした日常的な語彙、話し言葉の領域には非常に広く方言の語を確認することができる。日本地域の言葉は一律に広義の日本語だとされるが、実態として方言は「異なる語彙層」だと言える。慣れている範囲では難しくないが、強烈な方言ではその語彙を知らなければ理解できない。 さらに詳しく説明すれば、音の癖や訛りなども多く確認できる。特に経済的な中心地などから特に離れた地域性の強い環境では発音も語彙層も大きく異なり、日常の語彙の範囲だと英語対仏語・英語対独語などのような差があると評せる。つまりその実態は半分「別の言語」だと位置づけることもできる。 日本では、日常的な語彙とは異なる層として文書に基づく標準的な言語表現を整備して普及させ、結局は併用させる形で、言語の大きな地域差を持ちながらも標準語の普及を実現したと説明できる。人の交流が多い地域では元々標準性の強い傾向はあると言えるが、その中でも日常語彙の方言は広く見られる。 日本語では、非標準語地域の人は「異なる語彙層」として標準語を覚える。例えるなら欧州のマイナー言語の話者が併用するために英語を学ぶ状態のように言い表せる。英語などと違い併用されるため日本語文化では方言性も大きく残存し、「語尾の変化」のような和語部分の変質が広く残存している。 そのように日本語文化では「話し言葉における細かい変化」が非常に身近なものである。より細かく見れば、標準語の元となっている東京地域であっても、多くの言語性が交わっていたり日常語として表現が変化することで、方言とは言われない程度のものも含めて、細かい表現の違いを確認することができる。 ▲
目次 ◆ ###### 蛇足:日本語の「言葉遣い」の多彩さ 言語の普遍的な機能として、細かい表現の違いは「出自や立場による言語感覚の違い」として認知されているため、そうした言葉遣いによってその人の立場を認識する助けになったりするほど重要な言語表現の領域だと言えるが、日本語においてはその領域が非常に広く、深く存在していると説明できる。 [お一ついただけるかしら?/一ついただいてもいいですか?/一個もろうてええか?/是ひとつ頂戴したく願い申し上げ候/一個ちょうだい?/ひとつあたっていいですけ?/ひとづもらっていいが?](Can i have one, please?)などからその人の立場や自認を推定でき、文字でさえもこれらを多彩に表現できる。 そうした日本語における「言葉遣い」の多彩さは、表層的な意味だけではなく非常に身体性の強いもので、「その人の姿を形成する一つの要素」として働く。言語文化として相手の言葉遣いから出自や立場を推定することは普遍的な現象だが、日本文化ではその表現力が非常に広いと評することができる。 比較として、言語表現が整理され非常に単純化されている英語では、その語彙の統一性から大別して「雑な表現」「標準的な表現」「丁寧な表現」などの区別があるだけで、そこに詳細な「人物像」を推定することも難しく、表現することも困難だと評せる。他の言語でも、その表現は限定されがちである。 日本語文化では「言葉から受け取る印象」という領域が広く根付いていると説明でき、また選択的に「自己表現」が可能な部分となっている。さらに、日本語は「音の転写」を当然とできる言語性と表音文字を持っていることにより、それらを文字において書き記すことも可能としている。 日常的な使われ方においては標準性も意識されやすく、その地域や領域の言語性を基本として会話をされやすいものであるが、創作表現においてはその要素が特に誇張されて扱われやすく、「キャラクターの識別」に言語タイプの違いを細かく書き分けることで、人物の印象を効果的に操作されている。 (日本の作品を別言語へ翻訳する場合、ほとんどの言語において、日本語の言葉遣いなどによって表されている「子細な印象の操作」が損なわれる。日本語の文化においては、そうした子細な表現もとても重要な一要素なのだが、この表現力を受け取れる言語は世界にはあまり存在しないと説明できる。) ▲
目次 ◆ #### 言語の継承や普及における普遍的な問題 人類にとって言語の変化、特に発音の変化は避けられない問題である。言語の音は、人から人へ伝言ゲームのように継承されていくもので、必然的に音は変質していってしまうものである。同じ言語の祖を持っていたとしても、長い時代や広い地域になると、大本の言語から離れていってしまうのである。 言語の音や意味を正確に継承するためには一人一人の発音を矯正する教育が必要だが、実際にそうした教育を広く普及させることは非現実的である。現実的な問題として、基礎教育で生徒全員の矯正をし続けられる数の、正しい発音の教師を用意することさえも至難である。その労力が人類の限界を超える。 現代では記録メディアや放送メディアによって標準化の教材を作ることはできるが、人間の教育には指導が不可欠である。特に、言語の継承とはまず身近な大人から子供へ自然かつ不正確に伝わるものであるため、音の変化を最小限にすることは望めても、個人差や地域差は必ず生じてしまう。 一般に普及する日常的な言語においては音や意味さえも精確に維持し続けることは事実上不可能であり、方言性は必ず生じてしまう。英語の方言性がその典型だと示せる。それこそ狭い限定的な領域において強力な指導教育をし続ける方式でなければ、言語の変質を最小限にとどめることはできない。 さらに使われている言語の基本的な傾向として、発音上の面倒な部分は、人間的な感覚からの傾斜的な法則から単純化や言いやすい形への妥協的な変異が生じてしまいやすい傾向があると言える。英語の「字と音の不一致」を広げた大きな要因の一つもまた、その発音の妥協の傾斜であると考察できる。 ▲
目次 ◆ ##### 普遍的な問題における「表音文字の限界」 この言語の普遍的問題は特に繊細な音を使う、アルファベットの言語体系において大きな問題を引き起こしてる。現代のアルファベットの言語の祖となっていた太古の言語の文字体系は、短期的な合理性の観点で考察すれば、もっと素直な字と音の統一性をもっていた可能性が非常に高いだろうと考えられる。 しかし、音を細分化して繊細な発音を扱う言語は精確な継承に多大な労力がかかり、言語の普遍的問題の影響によって、長い時代と広い地域へ遠ざかるほどに、他の地域言語とも混ざりあって大きく変質していった。そうして、現代の欧州地域における多種類の言語や方言が生まれたと説明できる。 (しかも欧州地域は近世辺りまで、言語の統一に対して積極的でなかったと言える。知識層の共通言語としてラテン語はあったが、知識層の専有物となっていた。貴族層も各地域で異なる言語を使い、庶民はさらに異なる地元の言語が使われている。支配層が、言語の統一に長く消極的であったと言える。) 表音文字でも、長い時代と広い地域に及ぶほど字と音の統一性も徐々に失われてしまいやすくなる。現実的な対応として本来は「字の修正」が度々必要になる。だが実用される文書記録は正当性や権威性を持つため、原則安定させなければならない社会的事情があり、字と音の乖離の方を許す形となりやすい。 多くの欧州言語は社会的事情から、大なり小なりの字と音の乖離を許してしまうことで、アルファベットの文字体系が本来持っていたであろう高い表音性という利便性を欠損させてしまう状態に陥ったと説明できる。字と音の乖離の少ない一部欧州言語は、比較的現実的な調整が行われたと考えられる。 表音文字体系、特に繊細な音を使うアルファベットの表音体系は、短期的あるいは限定的な範囲においては統一性を保つことができるかもしれないが、長期的かつ広大な範囲であっては実用上統一性を保ち続けることが困難な言語体系だと説明しなければならない。それが表音文字体系の事実上の限界である。 この問題への現実的な対応策の一つが表語文字体系である。典型例が中国大陸における「漢字」であり、音との統一性を最初から妥協してしまうことで、文字の意味を統一的に管理し、長期的かつ広大な共有を格段に高い安定性で実現していると説明できる。「漢字」も現実的な妥協によって成り立っている。 ちなみに、日本語の表音文字はアルファベットの文字体系と異なり「原則、子音母音を併せた1文字」の方式であったため、文字の修正の必要性が限定的であった。しかし限定的ではあるが、日本語でも字の修正や整理はされている。音の変化もあったと考えられている。単純な体系でも、音の変化が生じる。 ついでに言うと、日本語における漢字の言葉の発音においても、時代の経過によって変化している例は見られる。比較的新しい変化では表音文字による表記へ精確に反映されていない場合もあるものの、実際の発音が砕けることによって異なっているという場合も存在する。日本語でも同様に変化はある。 ▲
目次 ◆ ### 蛇足:英語や日本語における外来語の受容 英語における発音の変質という事情として、大昔に導入して保存されている語彙においては元となった言語に近い古い発音がそのまま残っている場合もあるが、現代的な外来語彙では「単純にアルファベット化した文字列の英語の標準読み」がおおよそ一般化して、元言語の発音から乖離しやすい傾向がある。 その問題が顕著に表れる点が「外国企業名などの読み方」であり、英語圏ではアルファベット表記からそのまま英語の標準読みをされることで、元の発音から大きく乖離している例も少なからず存在する。特に欧州言語は、近いアルファベットを使いながら音が異なることが多いため、乖離が顕著になりやすい。 ちなみに日本語の外来語彙では音を基準としつつ、非常に単純化したカタカナ語へと落とし込んで使われる。特に古い語彙では単純化の水準が非常に大きい。補足しておくと、日本における外来語は、言語的に様々な経路から語彙が導入されており、アルファベットを持つカタカナ語でも英語とは限らない。 やや古い外来語彙では、むしろ英語以外に由来するカタカナ語が多い。古くはポルトガルやオランダとの交流によって欧州の外来語が入ってきており、近代化の時期における技術や学問の語彙ではドイツやフランスからの導入が多く、古典的な音楽分野ではイタリアからの導入が多いとされるなど、幅広い。 そのため日本語において使われているカタカナ語をアルファベット表記にしても、発音は乖離してしまいやすいという実情がある。医学関係においてはドイツ語読みが多く、[ウイルス/英:Virus]や[ワクチン/英:Vaccine]の英語読みのカタカナ表記は[ヴァイラス][ヴァクシーン]と書ける発音である。 ▲
目次 ◆ ## X-B「文法のフレーム性」 「字と音の不一致」以外において、英語の学習負担としてあげられる部分の一つが「強固に形式的な文法」である。単語の立場関係を示す方法が、文法のルールに従うという形式であり、特に語順で語の立場関係が変化する。例えば[Side up.]と[Up side.]は、語順によってその関係性の違いが理解される。 また英語では、単語ごとに使い方の形式が細かく存在し、単語が成立しない・文章が成立しないという状況が発生しやすい。文章として分かりにくいなどの問題ではなく、そもそも文章になっていないとされやすいのが、英語の形式性である。このため「文法のフレーム」に従った文章の構築が基本だと言える。 語同士の立場関係を示す語も存在するが、基本的な語順から変えたい場合にもそうした表現のための文法のフレームに従って表現方法を調整し、文章構造を組みかえる必要がある。しかも細かい語では対象となる語の性質に応じた語を使い分ける必要もあり、汎用的な組み換えはできない難しさを持っている。 英語は表現したいことを、文法のフレームに当てはめて会話や文章の組み立てをしなければならない。強固な文法のフレームのおかげで、表現として正確性が高いとも評される場合もある。しかし、語の立場関係の指定の多くを文法に依存しており、文章上に明文化しない部分が非常に広いとも言える。 表面的なシンプルさから「余計な語を必要としないことで短くとも明快な文章を作ることができる」という評価をすることもできる。冗長な語が削減されていることで、単語の総量を限定し、語の意味を調べる手間を減らしているという評価も可能である。だが、文法としての理解が不可欠となっている。 文章が成立しないという面では、例えば順番を示す[First/Second/Third]の語は、それ自体で「AでN番目/N番目のA」、英文なら[Number #Num among the #Any.][#Any Number #Num.]といった対象Aに接続する意味までも持っているため、対象を指定されている状況でなければ語自体が不成立とされる。 独立して使うことのできない単語も珍しくなく、単語は原則的に意味のまとまった1ブロック単位で言葉を形成して使われる。さらに英語では単語の使い方によっては、言葉が成立しないだけではなく、表現の位置で単語の意味が変わることも珍しくないため、文法を理解しなければ読解も安定しないと言える。 ▲
目次 ◆ ### 英文の構造への努力 文法からの立場関係が重要となるため、英語の文章は「1文をまとめて見渡して、文法のフレーム構造を読み取ることから読解する」という形式と言える。特に長い文章では、1文ずつ見渡して文法のフレーム構造を把握しなければ単語の立場関係に不安が生じやすく、慎重に読み取る必要があると言える。 たとえ母国語話者であっても、英語の長文は筆記にも読解にも文法構成による負担がかかると言える。英語において詳細な情報を読み取るためには、文法構造の理解という負担への克服が不可欠である。また英語において詳細な情報を記すためには、文法構造の構築という負担への克服が不可欠である。 たとえ英語であったとしても、その文法の構造を読み誤ってしまうと文章を精確に読解することはできない。特に複雑な内容や表現となっている文章では、その内容を慎重に読み取る必要性がある。英語では文章の意味が、文法の構造に強く依存しているため、原則的に1文ごとの把握が重要な作法になる。 分かりやすく書かれた英文であれば、順番に素直な読み方をしやすい場合もある。しかし、英語であったとしても自然に分かりやすい英文になるわけではなく、むしろ英語の持つ難解さから認識の難しい部分も少なからずあり、整理されていなければ分かりにくい英文となる可能性は少なくない。 有名な英文として[The man saw the woman with a telescope.]があり、これは「男性が望遠鏡で・女性を見た」という読解と「男性が・望遠鏡を持った女性を見た」という読解の、2パターンの解釈が可能である。英文として不成立なわけではないのに、分かりにくく無作法となってしまう例である。 つまり明瞭な英文を構成するのであれば[The man looked at the woman through a telescope.](望遠鏡を通して)か、[The man saw the woman holding a telescope.](望遠鏡を抱えた)のような明確化の配慮が必要となる。複雑な長文では特に、対象となる語の判別がややこしくなる場合は珍しくない。 英語に習熟した話者では自然との構造を読み解いていくや構築する作業に慣れていることも多く、またその構造への作業が当然であるために、その負担に対して無自覚であったり、あるいは過小評価しがちであると考えられる。言語の普遍的な法則ではあるが、英語であろうとも言語の扱いに努力は必要となる。 普遍的な認知として、たとえ読みにくい文章に遭遇したとしても、それ以外の表現方法が難しいとされる場合には「文章の内容が難しい」という評価となりやすい。認知の法則として、読みにくい文章に対して「言語自体が難しい」と考えることは、やや特殊な認知であるとも位置付けられるかもしれない。 ▲
目次 ◆ ### 他言語との比較:文法 補助する語がとても整備されている言語もある。代表例は「日本語」。日本語は、単語の立場関係を示す語が端的に整備されており、様々な語の関係を文字や音において明示できる。なお補助語は語の並びにおいて関係性が明確となる場合に、省略できることもある。砕けた表現では度々省略される。 しかも日本語で単語の立場関係を示す語は、補助語として最小限の意味に削られていることで統一的な整備がされており、汎用性が高く、異なる語でもほとんどに同じ表現が使える。英語の補助語は、どのような関係かの意味が含まれるため活用が狭く、また異なる印象の語には異なる表現が使われたりする。 英語との最大の違いとして、日本語での補助する語は「対象となる言葉の末尾側へ設置し、次の言葉へ接続する」という形式によって表現される。立場関係を文章上に明示できることと、補助する語の位置関係から、日本語では、簡単に語順の入れ替えた文章を作れる言語構造、機能性を持っている。 顕著な違いとして、日本語は[赤い車…を運転している青い人]と[青い人…が赤い車を運転している]とできるが、英語は[A blue person (is) driving a red car.]の語順を基本とし、語順の入れ替えは容易ではない。もし[A red car...]を始めてしまった場合、素直に[blue person]を入れることはできない。 「赤い車を運転している状態」は[- driving a red car.]の1ブロックとして構築されているため、先に[A red car]と言ってしまった場合、そのまま[blue person]を乗せるには、[A red car is being driven by a blue person.]のように、新たな語を複数追加して文章を成立させる必要がある。 さらに、例えば[赤い車に乗っている青い人/青い人が赤い車に乗っている]という文章では、基本[A blue parson in a red car.]の英文から[A red car]で始める場合は[A red car with a blue person in it.]のように構成され、[運転している]とは追加する表現が別物になる。そうした選択が発生する。 英語でも語順の入れ替えが可能だが、入れ替えるための手間は「新しい形の文章」を再構築する状態になりやすい。始める際のブロックの情報が十分に揃っていれば[In a red car, a blue person.]のようにできる場合もあるが、新しい語が必要な場合では物事や単語に対応した適切な語を選ぶ必要がある。 そういった煩雑な手間があるために、もし間違って[A red car]などのように始めてしまったような状況では、素直に1文の言い直してしまった方が分かりやすい。そのように、英語での表現は基礎的な技術として1文ずつの見通しを立てた表現が求められるのだと説明できる。誤ると文章自体が成立しない。 ▲
目次 ◆ #### 補足:日本語の柔軟性、英語のフレーム性 他にも[the car is moving.]は[あの車が動く]、[(I'm) going by car.]は[(私は)車で行く]、[(I'm) going to the car.]は[(私は)あの車へ行く]、[the car in motion.]は[あの車の走り]など、日本語では[(A)が-][(A)で-][(A)へ-][(A)の-]などの語を、原則「対象語の後」に置いて言葉の立場を指定する。 比較として、英語の場合は例文の通り「文法のフレームを組み立てて、その1文の主語であるかどうか」によって位置関係を変えなければならないと説明できる。日本語の文法では立場を示す語が後に付けるため、対象語の前側には「どのような対象であるのか」についての語を尽くすこともできる。 例えば日本語の状態文[走り始めた車]と[車へ駆け寄る]動作文は素直に[走り始めた車へ駆け寄る]という1文にできる。英語では[The car started to move.](車が動き始めた)と[(I) run to the car.](車へ走る)の2文を、そのまま[×(I) run to the car started to move.]にすると文章が成立しない。 接合によって構成した英文を成立させるためには、[(I) run to the car "that" started to move.]のように接続する語を必要とする。なお[走り始めた車へ"急いで"駆け寄る]というニュアンスを取る場合、英文は大きく変わり[Rushing toward the car that had started moving.]という表現へと転換していく。 ▲
目次 ◆ #### 補足:日本語の文法自由度による問題 日本語はその自由度ゆえに、表現において注意が必要となる場面が多いという問題は生じる。だが日本語でも、英語の構築と同等くらいに注意をすれば、誤読や誤解の余地を減らした表現をすることも可能である。英語では、常にその負荷を背負って文章構築をしなければならないと言える負担がある。 日本語の柔軟性は、会話において思いついた情報から逐次並べることもできる。また日本語では、会話の最中において情報の細かい挿入が可能である。日本語では言い間違いにおける修正を、文章の中の細かいパーツ単位の言い直しでも十分伝えることができる。会話において詳細な準備を不可欠としない。 英語においては、会話であっても原則的には文法のフレームに当てはめなければならない。つまり英語では、会話する際にも話す1文ずつ構築して話す必要がある。また聞く側も1文ずつを聞きとってその内容を読解する必要がある。習熟しなければ、幼児のような単純な会話しかできないとさえ言える。 また英語では、1文の中に余分な情報が混ざってしまうと、文法のフレームに影響して、文として破綻する状態となりやすい。もしも言い間違いなどをした場合は、英語では1文ごとの言い直しが安全だと言える。英語の長い文章では特に注意が必要であり、言い直しは非常に大きな負担となる。 (日本語の会話と英語の会話の、明確な違いとして「あいづち」の頻度がその実態の証拠になると言える。日本語の会話は逐次情報を積み上げるため、情報ごとに細かい「あいづち」を入れることができる。英語の会話では1文ごとの理解が必要で、言い終わるまで待つためにあいづちの頻度は少なくなる。) ▲
目次 ◆ #### 補足:日本語での文章構成 日本語の例文として[A:真面目な花子と遊んでいる太郎と次郎]という文章は、複数の解釈ができる。まずは[B:真面目な花子と対比して、遊んでいる太郎と次郎]という対比の解釈。次に[C:真面目な花子と太郎と次郎の3人が遊んでいる]という状況の解釈。他にも解釈があり、例文は一意に意味が定まらない。 ただし[A:真面目な花子と遊んでいる太郎と次郎]の例文自体は日本語においてもやや悪文である。修正例として、[D:真面目な花子、遊んでいる太郎と次郎]ならほぼ対比だと読める。[E:太郎と次郎と真面目な花子が遊んでいる]ならほぼ状況だと読める。単純な調整や入れ替えで誤解を回避することができる。 また他にも、句読点や話し方によって区別することもできる。[F:真面目な花子と、遊んでいる太郎と、次郎]であれば、おおよそ3者の対比になる。[G:真面目な花子と遊んでいる、太郎と次郎]であれば状況を示している。日本語では「語の変更をしなくとも、語の範囲を指定する記法」が存在する。 日本語は文章表現の自由度から、解釈の余地が大きくなってしまいやすいという問題があると言える。ただし書いた通り、日本語では文章表現を明確化する記法が存在し、おおよそ簡単に解釈の余地を限定できる。文章作成において注意は必要だが、それはあらゆる言語において同じことである。 例文は、例えば英文で[Serious Hanako, Taro and Jiro are Playing.]とするような悪文だと評せる。雑に並べてしまった悪文において、混乱を引き起こしうることはどの言語であっても同じである。そして英文の場合、分かりやすく修正するには、1文全体の書き直しが必要となりがちである。 英語は単純な説明文でさえも、精確な表現には文法の知識と意識が不可欠であり、一文全体を考えながら細かい語を並べなければならない。英語の文法フレームは、学習が不十分な人にとって非常に大きな障壁になっていると言える。これは特に、子供にとっては著しい負担になるだろうとさえ考えられる。 また日本語ではたとえ意味を理解できるとしても、分かりにくい文章そのものが比較的悪文であると評せる。例えば[H-対比:太郎と次郎は遊んでいる一方、花子は真面目だ。]あるいは[I-状況:真面目な花子が、太郎と次郎の3人で遊んでいる。]と、表現を整えることで読解性を確保することが模範的となる。 日本語は、多少悪文となっても直感的に文章構成をできる自由度を持っているが、整理すればより明確で読みやすい文章などを作ることもできる機能性を持つと評せる。それも、状況や相手に応じて表現を細かく変えることもでき、日本語の熟達には場に応じた適格な表現をできることが重要な技術となる。 英文における「標準の文法」は収束してしまいやすい傾向を持ち、それによって基本的には分かりやすい文章を組み立てられると評価される。しかし実用において「標準の文法によって表現しにくい場合」や「標準の文法でも理解されない場合」における問題への対応を、苦手としてしまいやすいとも言える。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:日本語の表現力の一端 日本語では「語を繰り返す」という表現が非常に広く存在する。これは「畳語」と呼ばれる単純な繰り返し語だけではなく、伝えたい言葉を連続して発声することで、より確実な意思疎通を求めるという会話の文化である。例えば[例えば。例えばね!例えば、このように話しても良い]という発話ができる。 日本語では確認をしやすい過剰に丁寧な表現だと言える。一方で、例えば[For example. For example! For example, you could say it like this.]のように喋ってしまうことは、文法的にも混乱を招きやすいために認知の負荷が大きく、非常に無作法で不愉快にも思われかねない表現だとも考えられる。 特に英文は、余計な語が加わると文法の崩壊を招いてしまうため、文章の中で一つの語重ねて使える語が極めて限定的である。[very very very -][long long ago -]などのような程度を表す表現なら重ねられる可能性がある。しかし通常の語彙を重ねてしまうと「文の形成」をし始めてしまう問題がある。 そのため英語において繰り返し表現のできる範囲が「程度を表す語での強調」の他、「1文単位の反復」、「文章を形成しない単語の連呼」などに限定される。人間はその自然な法則として、感情的な場面では標準的な形式から外れた表現をしてしまうもので、そうした領域ばかりに限定されていると言える。 日本語では「畳語」と呼ばれる繰り返し表現がとても豊富にあり、語を強調したり、あるいは語の範囲を広げる表現の一つとして常用されている。[とてもとても](very very)、[むかしむかし](long long ago)、[一人一人](Each and every one.)、[重ね重ね/返す返す](again and again.)などなど。 さらに[ところどころで](in places.)の発展的な語彙として、[村々で][地域地域で][時代時代で][電話会社電話会社で]など、多くの語彙で繰り返し表現を使うことができる。他にも「あまり○○っぽい雰囲気ではない」という表現に、例えば[猫]なら[あまり猫猫してない]などのような表現がある。 [行くところ行くところ-](wherever /any/ goes.)という長い語を畳語にする場合もある。日本語がこうした直感的な表現を広く可能としているのは、日本語の文法システムが補助する語で言葉の立場を明示的に規定できる機能を持っていることで、語の表現性の可能性が非常に広く許されているからである。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:四則演算の表現 英語では四則演算の[+][-][*(×)][/(÷)]の記号はそれぞれ[+ plus][- minus][* times][/ divided by]と読み、そしてそれぞれの計算方法を[X+Y Add./Addition.][X-Y Subtract./Subtraction.][X*Y Multiply./Multiplication.][X/Y Divide/Division]と呼ぶ。語の接続性があるのは[Divid]だけである。 特に計算の数式読みと口語の表現が大きく異なり、[X+Y : X plus Y.][Add X to Y.]、[X-Y : X minus Y.][Subtract Y from X.](※XY逆転)、[X*Y : X times Y.][Multiply X by Y.]、[X/Y : X divided by Y.][Divide X by Y]という変化が見られる。特に引き算の口語では文法の制約から位置が逆転する。 日本語では「記号を漢字のように訓読みする」という方式を可能としている。つまり[X /any/ Y]の計算式に対して、[+ - * /]それぞれを[XたすY][XひくY][XかけるY][XわるY]と読み、口語としても[XとYを たす][XからYを ひく][XにYを かける][XをYで わる]などと、同じ語によって言い表すことができる。 なお日本語においてもややこしい表現があり[X/Y]を分数として数える場合、[Y分のX]と順序の逆転が発生してしまう部分はある。また四則演算の読み方は訓読み表現だけでなく漢語の熟語表現として[加算][減算][乗算][除算]という用語も存在している。しかしどちらも、教育が発展していった所で遭遇する。 ちなみに[X/Y]の分数としての表現では、英語は端的に[n-nth(s)]と言い表せる。[1/7:One-seventh][3/8:Three-eighths]と、「数の語[num]と順番の語[num-th]」という異なる数字の語彙を合わせることで、端的な表現を可能としてる。ちなみに[n/2]は[/n/ half]、[n/4]は[/n/ quarter]という語がある。 ▲
目次 ◆ ### 蛇足:読解、理解の難しさ 話していることや書かれていることを詳細に理解する能力とは、あらゆる言語において学習を不可欠とするものである。どの言語であったとしても、日常生活において使われる言葉の領域と、複雑な場面などで使われる言葉の領域はズレがあるもので、広い学習無しに、難しい話を理解することはできない。 会話においても、特に語彙の知識量において大きな差がある場合、使用する語彙のズレによって会話の認識が揃わず、会話がうまく成立しにくくなってしまう問題がある。これは語彙の量の多い日本語において顕著となりやすいように考えられるが、その他の言語においても同様に、生じる問題である。 「英語は模範的な文法のフレームが決まっているため、文章の読解に問題が生じにくい」という認識を持ってしまうこともしばしばある。だが、その文法のフレームをよく理解することにも語彙などを広く学習している必要性がある。英語であっても、長い文章となれば読解するための訓練を必要とする。 なお最も重要なのは文法よりも語彙の学習であると言える。語彙と文法は切り離せないもので、より多くの語のイメージを揃えておくことで文章の言葉の意味を読みとれるようになり、文章の言葉の意味が分かることで文法としての意味も理解しやすく、文法自体に慣れていきやすくなると説明できる。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:日本の英語教育の現実性 ちなみに日本の英語教育では文法の勉強ばかりで話せるようにはならないなどと評される。しかし英会話を目標とすると、公教育では非現実的な労力となる。英会話には「音の深い学習」が不可欠で、知識が十分な英語話者の教師と発音を詳細に学ぶ長い時間が必要となる。だが、それらの確保は簡単ではない。 英語は母語話者ですら、初等教育で2~3年ほどの時間をかけて言葉を教育していかなければならない言語である。普段から英語を耳にしている母語話者でさえ年単位の学習期間を必要とする言語であり、第二言語として学ぶにはさらに多くの時間を割かなければならないと言える。日本語とは全く事情が違う。 日本語は初等教育の最初の半年で基礎的な表音文字の学習を済ませ、そこから自然と多くの語彙を覚えられるようになる。その基盤の上で発展的な表語文字を長い時間かけて学習するが、既に自習も可能で、教師による親身な教育を不可欠としないとさえ評せる。その学習性は日本語だからこそである。 特に日本語は、英語とは多くの部分において対称的とも言えるほど大きく異なる言語体系である。音の扱いにおいても大きく異なり、音の学習は他言語に比べて困難な傾向があると説明でき、他国の英語教育の実態と安直な比較をすることはできない。英語の音の深い学習が、環境的にも言語的にも困難なのだ。 日本における英語教育において「文法を中心に学ぶ」という方式は、十分な教師や時間を確保することができないために、音の難しさに次いで難解な問題を持つ「英語の文法」という課題に取り組む、現実的な選択であると評せる。音の理解が浅いと不効率になりやすいものの、文法の理解も不可欠である。 しかも日本語話者は、英語の文法感覚とは大きく異なる文法感覚を持っている。英語の「文法のフレームによって文章が構成される」という概念自体が馴染みのない言語感覚である。英語の言語感覚を身につけなければ、英語の理解はほど遠い。単語の学習も大切だが、同等に文法も覚える必要がある。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:日本での英語の効率性 日本において、もし仮に他の時間を削ってまで英語教育を推し進めたとしても、日本国内で得られる恩恵は非常に限定的である。国内で英語を使う場面は少なく「その他の学習の恩恵を損なってまで得られるほどの恩恵は無い」と評せる。日本では、必要のある人が必要な分学べば十分なのである。 他の基礎的な知識や教養の教育を削ることは社会の力をむしろ損なうと言える。他国の中には科学分野を第二言語の英語で扱う例もあるが、それは英語でなければ高度な知識にアクセスできない事情を持つ事例である。日本では多くの基礎知識が日本語で揃うため、英語な必要な場面は非常に深い分野になる。 日本語環境の人には意識されにくいが、英語圏以外では「高度な専門分野の文献の多くを母語で読める」という環境は決して当たり前なものではない。英語を身につけなければ、高度な知識へアクセスできないのが普通だとすら言える。日本語でも、先端技術や専門性の高い分野では日本語情報が遅れやすい。 しかし遅れるとしても日本語では重要な知識情報ほど翻訳されやすく、また「日本語の言語体系において情報を整備する」という知識活動自体も活発であり、技術知識がいずれ日本語で扱えるようになることはよくある。そのために日本語に注力をしていても、基本的な知識情報を揃えることが望める。 他の言語圏で、英語教育が非常に重視されて社会的なリソースを大きく費やしてでも英語教育が進められているのは、英語が使えなければ致命的に不便であり不利となるために、生存戦略として必然的な対応策だと考察できる。例えば日本語・英語以外の言語では「母語の哲学書」などは貴重だと評しやすい。 だが日本では多くの知識が次々と日本語へと翻訳され、日本人は母語によってそうした知識へアクセスすることができるような環境が成立している。英語が扱えれば世界は広がると言えるが、扱えなくとも不便をしない。日本では「母語の哲学書」も、本屋に多く並んでいるようなありふれた本だと説明できる。 それこそ日本の環境では、母国語の能力を鍛えることの効率性が非常に高い。教科書などからを含めた文章読解に慣れることで、高度な文章読解をするための基礎を鍛えることもできる。そこからより専門的な知識の文章を読解する道筋が立っており、効果的に多くの知識を学びやすくなる社会環境がある。 日本語での読解能力を高めることによって、全体的な学習効率が引き上げられる。また文章構成能力を引き上げることは、機械翻訳など機械的な補助による翻訳などの手助けも効果的に扱っていくことがしやすくなる。日本語を高度に扱えることは、現代であれば他言語への対応力を強く補助できる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:語順の違い 日本語と英語などとでは語の構成順序が異なる。日本語の基本の語順は「SOV(主語→目的語→動詞)」だが、話者の多い英語とスペイン語と中国語などでは「SVO(主語→動詞→目的語)」を標準的な語順としている。欧州言語でもドイツ語やオランダ語など「SOV」を可能としたり、併用される言語もある。 日本語などのSOVとは[誰が/何に対して/何をした](Subject-Object-Verb.)であり、[私は手紙を書いた(I_a_Letter_is_Wrote)]という語順を自然としている。一方で英語などのSVOとは[誰が/何をする/何に対して](Subject-Verb-Object)であり、[I Wrote a letter(私は書いた、手紙を)]という語順である。 話者の多い主要な言語がSVOであるため、SVOが合理的であるかのように思い込んでしまいやすいと言えるが、実態として英語と同じSVOの言語の種類と日本語と同じSOVの言語の種類は、ほとんど拮抗しているとされる。つまり、そのどちらも世界中で使われていると説明できる、妥当な言語の体系だと言える。 世界的な言語を調べていけばその他の語順も存在したり、日本語のように語順を柔軟に操作して、あらゆる語順によって説明をできる言語もある。「世界的に話者の多い言語は英語と同じSVO」であると説明することはできるものの、世界的な言語の傾向としては、日本語と同じSOV系統の言語も多く存在している。 英語型の語順とその形式性を自然とする人たちには、日本語型の語順や柔軟性は感覚的に不慣れであり、不合理であるかのように感じてしまっても不思議ではないと説明できる。しかし、その違いは「異なる合理性」を目指した、言語の設計思想の違いに由来する違いであり、どちらにも合理性を説明できる。 そもそも認知の物理的な機序は「対象を認識してから、行動が実行される」というSOV、日本語型と同じ順序である。認知の機序として「行動が実行されてから対象を認知する」という順序は物理的にありえない。その「認知よりも先に行動がある」という順序は物理的な法則に反しているとさえ説明できる。 しかし英語型のSVOでは「行動を用意してから、対象を指定する方式」である。これは現実的に説明すれば、「言葉の時系列を、認知の時系列には合わせていない」という方式だと説明できる。英語型の語順とは「何が何をしている」という要素をまとめることで、「動作を描画している」と説明できる。 特に「絵図に書いて説明する」という場合、「何かをしている誰か」の図と「対象とする何か」の図という情報によって示すことが順当な形式となるため、英語型のSVOは図示的には自然な語順であると説明できる。つまり、英語型は「どのように存在しているか」を、図式的に説明する方式であると言える。 ▲
目次 ◆ ###### 蛇足:異なる語順と認知の形体 英語型のSVOの表現は「状況を絵図のように1つの場面を切り取っていくように表現している」と説明することができる。一方で、日本語型のSOVの表現とは「認知の流れを追っておくように表現している」と言える語順であり、つまり「動的な映像」の想像を誘導するように表現されていると説明できる。 特に、実際の状況において人へ説明をする際には、早めに「話題の対象を指定する」という手順でまず対象へ注目させ、そのまま「何をするか」という説明へと繋げる順序が円滑な説明になりやすいと考えられる。それが日本語型のSOVの「誰が-対象へ-何をするか」の持つ、身体的な合理性だと言える。 語順の考察において、SOVは「何をする?」が保留され対象の情報保持に認知の負荷があると言われることもあるが、実践的な場面の説明では、英語などのSVOは「何をする」が先に入りその情報を保持した状態で「対象はそれ」が指定された際、対象の探査が間に挟まると情報保持の負荷が生じる場合はある。 英語型のSVOの直感性は、図示的である。例えば「彼がボールを蹴る」という絵図を描く場合、「図A:(人物と動作)蹴っている姿の彼」と「図B:対象のボール」という図柄で描かれるはずである。そして、それを英語で説明する場合[A:"He kicks -"][B:"- a ball".]という、直線的な順序で言い表せる。 一方で日本語の標準な[彼がボールを蹴る]という説明で図を細かく見る場合、[図A:"彼が"][図B:"ボールを"][図A:"蹴る"]という形で、視点の往復が発生してしまう。絵図に対して直線的な説明をするためには、日本語の場合[ボールを-彼が蹴る(VSO)]などの標準形とはやや異なる語順を使うことになる。 つまり「認知上の順序」としては行動の前に認知があることはありえないため日本語型と同じSOVの方が自然であると説明できるが、一方で「人工的な説明、特に図示的な説明のための順序」としては、存在ごとにまず状態を規定しながら並べていく英語型のSVOの方が情報の説明をしやすいと考察できる。 ▲
目次 ◆ ###### 蛇足:文体の違い 英語型のSVOは図示的である中でも、英語は特に図示的な形式性の強い言語体系をしていると表現でき、英語は原則、写真のように、1つ1つの場面を切り取って説明していく様式を持つ。一方で、日本語型のSOVが動的である中でも、日本語は特に動的な構成を可能とする言語体系をしていると評せる。 例えば日本語では[あなたは教室へ入って机に座ってノートを開いてペンを持って文字を書いて]という意識上の流れを、途切れない一連の文章としてその順序のままに示すことができる。だが英語では動作一つ一つを図示的に独立させて示す形式のため「行動ごとに文章を切り上げて並べる」という状態になる。 機械的な翻訳の例としては[You enter the classroom, sit at your desk, open your notebook, take your pen, and start writing.](あなたは教室に入る, あなたの机に座る, あなたのノートを開く, あなたのペンを取る, さらに書き始める.)。まるで絵柄を1枚ずつ並べているかのようである。 その英文をより直接的に日本語へ転換させていく場合[あなたはその教室へ入る。][あなたの机へ座る。][あなたのペンを持つ。][さらに書き始める。]となる。[you/your:あなた]という語が頻出しており、場面ごとの状態を表して並べる文体になっている。これが英語の強固な形式性である。 これらは「言語体系がどのように世界を整理しているか」という点の、設計思想の違いによって生じているものである。日本語型は「言語によって行動の設計図を作りやすい」とも言い表せるし、英語型は「言語によって行動の絵図を作りやすい」とも言い表せる。突き詰めればどちらにも十分な合理性がある。 ▲
目次 ◆ ## X-C「単語や音の多義性」 時として英語は「明瞭な説明をする」と評されることもある。しかしそれは英語の欠点を補うために必要とされている作法だと言い換えられる。英語は、単語の意味が多義的な場合が珍しくない。英語では語の意味を確定できるだけの情報量を詰め込まなければ、誤読の危険性や可能性が非常に広いと言える。 英語の多くの単語が、アルファベットの短い文字列で構成されているため「文字列として覚えやすい」とは評価できる。だが、多くの単語を様々な場面へと使いまわしていることで、多くの単語で意味の多重化をしているため、単語自体で覚えなければならない情報がとても多く、詳細な学習は簡単ではない。 「英語は可能な限り明文化するために状況からの類推の必要性が低い」などという解釈も存在する。しかし英語の実態はむしろ「明文化された情報や状況から、単語ごとの意味を類推して補完しなければならない量は多い」と評されるべきである。これは「明文化されない文法のフレーム」にも依存している。 例えば[Side.]は「側(そば)/側面」などを意味する語で、[Up.]は「上/上げる」などを意味する語だが、[Up side/Upside]は「上側」という領域を意味する語になるが、逆順の[Side up]では「側面を上にする」という動作を意味する語に変異する。主要素か副要素かなど、語の立場によって意図が変化する。 さらに英語においても「同音または似た音において異なる意味を持つ語・音」が非常に多い。ネイティブスピーカーの会話では、多くを自然と特定の単語として聞きとっている。しかし、実態として英語の会話は、人間の認知能力で文脈や情報から予測的に補完することが、不可欠になっていると評せる。 補足:日本語が語を省略しがちで文脈に依存するという話も見られるが、日本語は「言葉を判別するために十分な語や音を使う」という前提があることで語の省略がしやすいのだと説明できる。英語では「言葉を判別するために十分な語や音」に、おおよそ「1文」を必要としがちなのだろうと考察できる。 ▲
目次 ◆ ### 英語の文脈依存性 無作法な言葉遊びになるが[1:Give a flower to night.]と[2:Give a flour to knight.]は、発音において近いことが多い。他にも[3:Sun is a cell in the world.][4:Son is a sell in the world.]を発音のみでは判断できない場合がある。こうした問題を持つために、英語でも「語を増やす」必要がある。 単語の多義性の例として、[Fire]は火に関する意味を持つ単語で、[Torch fire]で「松明の火」、[Mountain fire]は「山火事」を意味するが、「+過去形/形容詞 [-ed]」で変形させた場合、「Fired a coal.」で「石炭を燃やした」から、「Fired a gun.」で「銃を発砲した」といった意味も表現される。 [Fired a gun.]などの使い方からさらに転じて「Fired a man.」では「男を解雇した」という意味になり、現代の[Fired.]という言葉は一般的において「解雇した」の意味で使われやすい。並んでいる言葉や状況から、その[Fire]がどのような意味の[Fire]であるのかの判断をしなければならない。 他にも[He takes on board. This board took a board to board the board of board, on all board for room and board, and is above board.]といった英文を作れる。[board]は複数の意味やイディオム(慣用句表現)を持つため、乱暴に使うと全く読めなくなる。この問題は多くの単語において生じる。 同じ単語を使いまわして使い方によって異なる意味を持たせるという体系は、単純な語を広く応用している合理性と評価することもできる。しかし単語の多義性は単語に多くの意味が混ざる方式である。単語ごとの使い方を覚えて判別しなければならないため、少なくとも分かりやすいとは言い難い。 英語において日常的な会話を成立しているのは、単語や音が分かりやすいからではない。英語は単語や音が多義性を持つため、それらのみで判別することは不可能である。また英語の多義性は、表語文字の同音異義語などとは違い単語の文字列には現れないため、文章においてもそうした問題が残りやすい。 英語は、英単語を使いまわし続けることによって生じている意味の混乱を、「比較的明瞭な説明」という習慣によって克服しているだけであると評せる。特に細かい英語を円滑に理解するためには、英語における言葉の使い方の傾向を感覚的に理解して、直感的に判断できるようになる必要があると言える。 ▲
目次 ◆ ### 他言語との比較:単語や音の多義性 もちろん、音が多義的になるという状態や同音異義語の存在はあらゆる言語において生じてしまうものである。例えば「日本語」においては、主な不便さとしてよく同音異義語の多さが挙げられる。しかし、同じ音において意味が多重になってしまう現象そのものは、特定の言語固有の問題だとは言えない。 また日本語では、同音異義語の典型例を「漢字」の範囲から引き合いに出されることも多いが、英語の[run]や[set]のように「同じ言葉が広い意味に及ぶこと」は、漢字が元ではない日本語の話し言葉の「和語」においても見られる。例えば[書く]や[欠く]といった[かく]の和語の音も多義的である。 だが日本語の場合は「異音同義語」も揃っており、同音異義語の混乱を回避する手段が存在している語が多い。分かりやすい語彙、または文脈から予想可能な語彙を使うことで、混乱は減らせる。また多くの同音異義語は文字の異なる場合も多く、文字の説明を挟むことで意味の固定が容易にできる。 日本語は文法の自由度から、会話中にも細かい説明を挿入しやすい。また日本語では会話において言葉を細かく区切ることができる。難しい言葉の場合、配慮して、細かく区切りながら相手が理解しているかどうかを確認しながら会話を進めることもできる。習熟していれば意思疎通はとても円滑にできる。 例えば[かく]の語には[書く](write)、[描く](depict)、[欠く](lack)、[掻く](scratch)などの和語の他、[各][核][格][角]他の漢字がある。まず漢字は表現の対象とする言葉として使われやすく、和語では主に[かく]という動作を表す語彙で、語の使われ方として、対象と動作の大きな区別は容易である。 和語については[書く]の代わりに[記す](write down)や[綴る](compose)、[書き込む]などの表現をできる。[描く]は[えがく](和語の[え=絵/画]picture+[かく]writeの変形の感覚)や、[描画する](draw)という代替熟語がある。[欠く]は意味に応じて[不足/欠如/欠落/欠損/欠-]などの熟語を使える。 [掻く]は[引っ掻く]や程度が強ければ[搔きむしる]ような表現に転移して区別できる。またこれらの和語は使われる表現対象の傾向が異なるため、たいてい[かく]だけで十分に伝えることができる。また必要であれば「筆記のかく」「描画のかく」「欠けてるのかく」「引っ掻くのかく」などと説明できる。 日本語は他にも、多くの語彙において簡単に意味を限定する表現や、分かりやすい代替表現が少なからず存在していると言える。実際に多彩な表現を使うためには言葉の習熟は必要となるが、日本語において同音異義語についての問題を回避する手段そのものは、豊富に揃っていると説明できる。 ▲
目次 ◆ #### 英語における同音異義語への対応と英単語の基本的な性質 一方で英語の場合、同音異義語や似た音の語について、その全てを単純な別語への変換のみで回避することは難しいと言える。特に多くの語彙が多義的であるため、異なる語を使う場合には異なる注意が必要となりやすい。そのため基本的には、意味の説明を付け加える言葉や文脈で補われている。 例えば[he bought a bat.](彼はbatを買った)という言葉は[bat]の意味が一意には定まらないため、精確性を持つためには語の変換ではなく、説明によって対処をする。野球の[bat]である場合は[he bought a baseball bat.]、動物の[bat]であれば[he bought a live bat.]などのような表現を必要とする。 つまり多くの英単語における運用規則として、実質的に「文脈や複数の語彙を複合することで1つの語を形成する」という状態となっていると説明できる。状況によって省略することもできるが基本として、英語の言葉とは英単語1個ごとではなく、文章内の1ブロック単位で構成されていると説明できる。 言語の基本法則として、同音異義語でも文脈から区別しやすい場合は併存しやすい。[right]と[write]の音は同じだが使う場面が異なり、問題は大きくない。また特に混同しやすいケースで、補足による回避も難しい場合においては、自然と何かしらの異音同義語などを用いて、混同を回避されていると言える。 日本語では文法の自由度から、単語自体の説明を細かく入れながら、逐一確認をしながらでも会話として成立させることはしやすい。英語では1文単位であるため、状況や1文の文脈からでも単語が理解されない時などで、語の明確な説明をする場合も原則的には1文単位で説明を構築する必要がある。 特に英文は単語の性質が文章に影響を与えるために、英語における説明では、単語の理解をしてもらえなかった場合、単語の説明をした上で改めて本文を理解させる必要性が生じる。必要に応じて2度3度、同じような本文を伝えなければならない形式で、非常に労力が大きいと考えられる。 しかも英語で「分かりやすい説明を試みること」は、非常に高度な技術を必要とする。分かりやすい語彙と文法と文脈の整理という、特殊で高度な話術が必要となる。特に言語学習が不十分な相手では、細かい文法表現も伝わりにくいことで、形式的な英文では理解できない場合もあり得る。 日本語では複数の言語層が併用され、感覚語や和語、漢語と外来語などを柔軟に使い分ける機能性を持っている。語の難しさを客観視しやすく、特に「分かりやすい説明を試みる」という場合では、日常的な範囲の和語や感覚語を中心に説明することが自然と意識される言語体系であると説明できる。 ▲
目次 ◆ #### 言語の実用における妥協点と発展性 言語の普遍的な傾向として、言語に不安定な部分があっても、その言語の母国語話者など十分に学習し習熟している人にとっては自然に使うことができる。だがそれは、使われている言語が自然に使える形へ収まるような法則性と、人間が言語機能の大部分で自動的な補完をしているからである。 その言語に慣れている話者は自然に使えてしまうため、言語として万全な機能性を持っていると感じやすい。しかし自然言語の実態とは、論理的な合理性ではなく、人にとっての感覚的な妥当性によって扱っていく。英語の実用も例外ではなく、英語もまた十分な学習と言語感覚を前提としている。 さらに自然言語は、使われていくうちに「最低限の妥当な形」へと、妥協されていく普遍的な傾向がある。つまり実用においては「必要なことが伝われば十分」という実情から、言語の不要とされた部分や扱いにくい部分において、省略へと進んでいく傾斜的な法則性があると確認されている。 つまり、主に意思疎通や情報共有のために、最低限必要な量だけを使うように効率化されていく傾向を持つ。その法則性から、裏を返してしまえば、英語とは「一通りの情報を揃えた音や文字によって、ようやく情報共有や意思疎通が成立し得る、それを底辺としている難解性を持った言語」だと評せる。 なお、厳密な情報精度を必要とする場面においては、その情報精度へ「伝えるべき必要なこと」の範囲が拡大される。言語の実用として厳密な情報を扱っていく場面が多ければ、そうした場面のために言語の機能性が拡張、整備されていく。言語の形態は、必要に応じて、妥協も発展も生じると言える。 言語そのものにおける論理的な機能性という観念とは、言語の性質そのものに基本として備わっているようなものではない。論理的な機能性とは、言語が論理のために使われること、論理の言語化が積み重なっていくことによって機能性が整備され、また論理的な言語化の体系が整備されていくのである。 蛇足:日本語では「丁寧語」や「尊敬語」「謙譲語」といった表現領域が幅広く存在する。英語においても丁寧な言葉の観念は多少存在するが、日本語文化では言語情報としても「礼儀」が「言語に必要な情報の一部」に含まれる。必要であるために、丁寧な言葉が幅広く継承され続けていると考えられる。 ▲
目次 ◆ #### 補足:近似の識別の問題と、人間の文字認識 聞きなれない他言語に対して「似たような音の単語があって分かりづらい」という感想を持つことは珍しくない。英語については、むしろ特に近似する音の多い言語だと評せる。また近似する文字の問題も[o/p/q/d/b/c/(a/g)]や[u/y/v/r]、[rn/m]など、アルファベット言語もまた似たようなものである。 人がそれらをどのようにして識別しているのかと言えば、言語認識の大部分において予測からの補完を働かせているからである。特に近い言葉が存在していたとしても、「文脈や状況において自然な語の推定」をすることによって、何を言っているのかについてをほとんど無意識に選択して判別している。 言語の実用においては、必ず使用する場面が存在し、その場面に応じた類推を働かせるものである。それはあらゆる言語において生じるものであり、英語も例外とは言えない。むしろ英語は非常に短い音の単語を多数持っており、全く同じ音を持つ単語さえ珍しくも無い。それでもおおよそ識別をできている。 英語において例えば[write/right]の識別に困らないのは、それらの同音異義語が同じ場面において混同されるような使われ方を回避されるからである。日本語における多くの同音異義語もまた同じように混同しにくい使われ方をしたり、あるいは混同しても意味的に乖離の小さい範囲に収まるように使われる。 文字においては、日本語辺りは文字種が多い上に近似する文字も頻出することで識別が難しいとされることもあるが、それも状況に応じた類推によってほとんどを識別できる。むしろアルファベット言語こそ文字種が少ないにも関わらず識別性の悪い状況に少なからず直面する問題を抱えていると評せる。 アルファベットの小文字は筆記の効率化を求めた単純化によって多くの字が1ストローク(1筆)構成に収められている。その1ストローク化によって形状が限定され、機械表示であってもなお、よほど慣れていなければその識別に意識的な判断を必要とする。あらゆる言語の効率性は常に慣れを前提としている。 英文における単語の識別も、実質には「単語単位の字形」を識別する状態であると説明できる。他の言語においても「語単位の識別」を基本とすることで、多少の崩れがあったとしても問題なく単語として識別できる。これは「単語の内側の文字が入れ替わっても認識できる」という有名な実証も存在する。 つまり人間の文字の識別能力では、英語などであったとしても「複雑な形のひとまとまり」で認識されているわけである。アルファベット文字を中心とする言語圏には納得しがたいところかもしれないが、表語文字における「漢字」などもまた人間の認識能力に収まっていると説明できるわけである。 ▲
目次 ◆ #### 「説明」における文化的な問題 「明瞭な説明をする」と評される英語も、その実態は最低限でも一通りの情報を揃えなければ伝わりにくい言語体系である。一通り揃えることは当然、理解の必要な語も増える。英語でも、会話では相手に十分な学習量を期待して、相手の理解力に大きく依存して、会話を成立させているだけであるとも評せる。 特に、文法的な正確性とは「正しい説明をしている」という正当性を客観的に保証してもらえるだけで、実態として意思疎通が十分である証拠にはならない。典型的な例として、形式的かつ精確な文章である法律関係の文書などは「正しい説明をしている」と言えるものの、その読解が簡単であるとは言い難い。 また「正しい説明」という観念に依存してしまう状態は、言語能力が不完全な相手との意思疎通を著しく損なう恐れがある。配慮をしないため理解は遠のく。また「正しい説明の義務を果たしているのだから理解できなくても相手の問題」と思い込みを誘導し、自身のミスの自覚もし難くなりやすいと言える。 日本語では「漢字/外来語/話し言葉」などがあり多層的な言語であるため表現の幅が広い。そのため、場面に応じた「分かりやすい説明」という配慮が重要とされやすい。日本では会話技法として[噛み砕いて説明する]という慣用句がある。これは分かりやすい言葉で雰囲気を伝える手法である。 (日本語の[噛み砕いて説明する]という慣用句は「噛んで形を崩して、飲み込みやすくする」[Chew to break down the shape and make it easier to swallow.]というニュアンスの語彙であり、さらに「飲み込む」[swallow]は「理解する・身につける」の意味を持ち、それを助けるという意味合いである。) 日本語文化では、正確性を後回しにしてまず近いイメージを共有するための「雰囲気を伝える」表現手法が根付いている。その典型的な語彙領域が「オノマトペ系統の語」である。日本語では純粋なオノマトペがあるだけではなく、オノマトペ的な表現体系があり、多くの語彙がオノマトペ的に活用される。 なお日本語は多層的な言語であるため表現の幅が非常に広く、必要に応じて、英語の長文と同じような注意をしながら文章を組み立てれば、日本語によって十分に細密な表現を組み立てることもできる。日常的な場面では見かけないため日本人でも馴染みの薄いことは多いが、そうした言語領域もある。 ▲
目次 ◆ ##### 注記:「あいまいな語」と科学分野 「あいまいな語」というものは、おおよそあらゆる言語においてその存在を確認することができると言えるほど、人間的に不可欠とも言える表現である。それは人間の認知能力が絶対的ではなく、感覚的で相対的なものであるため、正確な表現をできない場合に、あいまいな語が必要となるのだと言える。 また「あいまいな語」は科学分野においても重要で、むしろ科学分野にこそ不可欠な語群である。とても単純な話で【科学研究において「不確定の断言」は禁忌】である。情報の精確性をより誠実に提示するために「あいまいな語」は避けられない。特に仮説段階は多くが予測的であるために不可欠となる。 むしろ、あらゆる場面において「あいまいな状態」を指定できる表現性が持っていることは、科学研究において誠実かつ安全だと評せる。もしも、あいまいな語が無い場合「不確定の断言」をしてしまうことになるか、あるいは予測的な表現を一切使えなくなり、科学研究はその基盤さえ失うと考えられる。 「語の定義があいまい」ということを問題視する場合については、単語の解釈において多義的な煩雑さを持っていると評せる英語が、世界的な科学分野や国際的な実務における共通言語として使われている実態から、語そのものが問題であると考えることは適切とは言い難い。ようするに、使い方次第である。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:「漢字」の多義性と実用性 中国大陸から広まっている表語文字体系の「漢字」も、単体の漢字ではやや広い意味を内包する場合もある。また広い使われ方によって、多義的な意味を内包していく傾向はあると言える。英単語と大きく異なる点として、漢字は単体がコンパクトで「組み合わせの熟語」が使いやすい点がある。 例えば[Light]は[in light](光の中に)、[light a torch](たいまつに-火をつける)、[come to light](露見する)、[(thinking) in a new light](新たな視点)、[highlight](明るい部分/主な部分)、[light blue](明るい青)など、英語でもこうして単語に他の語を付け足すことで、意味の設定をしている。 [明]の字も「あかるさ」以外に「あきらかさ」や「見通しの良さ」とそこから「理知の広さ」などの意義を持つ語であるが、日本語の語彙として[明度](brightness)、[明瞭](calrity)、[明解](clear understanding)、[明星](morning star./venus.)、[明暗](Light and darkness)、[明日](tomorrow)など。 他にも[明示](explicitly state./it clear.)、[解明](Elucidation)、[究明](investigation)、[賢明](wise)、[光明](light/hope)、[公明正大](fairness./just and upright.)、[克明](detailed)、[証明](proof)、[自明/明白](obvious)、[声明](statement)、[説明](explanation)、[発明](invention)など。 [不明](unknown./not clear.)、[文明](civilization)、[明察](insight)、[頭脳明晰](sharp mind)、[明滅](flickering)などなど。日本語での漢字の例とはなるが、このように様々な語彙において近しいイメージの漢字の共有にすることで、語の種類と詳細度を効果的に確保していると説明できる。 単純な計算として、表音文字の英語などでは100個の単語を覚えるためにおおよそ100種類の文字列を覚える必要性がある。一方で、漢字では、約11個の漢字を用意して2文字の組み合わせが作れるのであれば、[11x10]のパターン110種類の単語になりうる。※単純計算であるため実際はそこまで単純ではない。 複雑な表語文字は文字ごとの記憶の負担は大きいとも表現されるが、学習すれば自然と瞬時の読解が可能となっていく。しかも、新しい熟語に対してそれぞれの字の持っている意味から類推しやすい性質もあり、確実ではないものの、新しい語を連想的に覚えていくことがしやすなると考察できる。 さらにアルファベット言語では単語ごとに文字列を覚え、特に英語などでは発音も単語ごとに覚える必要性がある。だが漢字の熟語は基本「特定の読み方を使いまわす」という性質を持つため、新しい熟語の音まで読むこともしやすい効率性を持つ。※ただし日本語の漢字では複数の発音を持つ場合がある。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:実用に対する設計の違い 言語の使われ方として、言葉が多義的な性質をもっていくことそのものは普遍的な現象である。より多くの物事を表現するためには、1語に1意だけでは語彙の効率も非常に悪い。そのため、少なからず複合させて言葉は使われていくものであり、その語彙の効率的な整頓方法の一種が「漢字」だと評せる。 英語の単語は基本として複数の文字を使いながらも、結局さらなる言葉や文脈によって意味を固定する手間をかける。漢字では字の組み合わせの自由度が高く、特定の字を組み合わせた熟語を用意しやすく、そのように意味を限定した単語を多数形成することで語の識別性を制御している。 漢字でも文脈で意味を指定している場合も見られるものの、英語よりも格段に多くの語を用意しやすい。子細な表現のために多くの語が用意されていることで、多くの単語の意味は安定的な傾向を持ちやすいと説明できる。代わりに単語の総量は増えるものの「漢字」のコンパクトさと意味から理解はしやすい。 膨大な種類の音に対して、アルファベットは少ない文字種を組み合わせることでその細かい音を書き記し、伝えていくことができると言える。一方で、世界にある膨大な物事に対して、格段に短い文字数で書き表せるように整理されているものが「漢字」であると言える。文字の情報効率が、非常に高い。 「単純であることが最良」だと考える英語の体系からすれば、文字種が多いことは「簡易化の失敗」のようにも考えられてしまう。しかし実用における簡潔さでは、基礎が単純すぎるがために手間を必要とする英語に対して、漢字は基礎が複雑であることで多くの物事を端的に書き表せる手法だと評せる。 なお、同じ「漢字」でも異なる地域では意味が異なってくることはある。言葉は地域の文化的な傾向によって変化していくため、情報の共有が少なければその地域との語の統一性も少なくなっていく。特に日本地域の漢字語は情報の輸入が非常に古く、独自の発展を遂げたため、意味が異なる熟語は多い。 一方で、日本においてまとめられた漢字の語彙が、中国大陸地域へ輸入される例も少なくない。特に日本の近代化の際に輸入して翻訳を行った様々な西洋由来の概念の言葉は、日本において漢字化の整理が行われた後、それが中国へと輸入されたため、西洋由来の語彙では同じ意味を持つ例が多く見られる。 代表的な例が[資本/資本家/資本主義][社会/社会学/社会主義][共産主義][共和国][経済/経済学]などの政治経済に関する語彙、また西洋からの様々な学問で[科学][哲学][論理学][倫理学][物理学][形而上学]などの語も、日本で整理された語彙が借用語として他の漢字圏でも使われていると言われている。 ▲
目次 ◆ ## X-D「発展的な単語の多義性」 英語は単語が多義的なだけではなく、既存の単語に新たな意味、新たな使い方が一般化することがよくある。英語では新しい単語が生み出されるだけではない。英語の既存の単語が比喩的に慣用句のような使われ方をして、広く共有されると新しい意味もまた定着していく。語の拡張性、つまり不確定性を持つ。 それは英語という言語のシステムが、多くの単語が固定された一つの意味の名称ではない形式を持つためである。多くの英単語は「印象の名前」だと説明できる。象徴的な概念の方向性を総合的に抱え込んでおり、これを他の言葉と一緒に使った1ブロックにすることで、詳細な意味を決定する形式だと言える。 表語文字の「漢字」に例えると、英単語は漢字1字に相当する語であり一般的に使われている多くの字は、1字だけでは必ずも分かりやすい単一の意味を持てるわけではない。漢字は他の字と併用することによって、より精確な意味を決めることができる。それが多くの単語で発生しているのが、英語である。 そのように英語では、多くの英単語を「印象の方向性」として伝えるために、既に共有されている一般的な使い方とは異なる新しい使い方も創作される。つまり英語は「多くが比喩表現によって成立している言語」とも説明できる。そのため英単語ごとに最新の使い方、新しい意味を学ぶ必要がある。 その柔軟性は、新しい概念へも対応しやすい言語とも説明されるが、しかしそれは言葉の意味が積層的になるという煩雑性とも説明できる。英語は、言語の基本構造が省略的であるために、新しい単語の創出には既存語との衝突を避けなければならない問題も大きい。そのため語の意味の煩雑性を許容している。 ▲
目次 ◆ ### 言語における普遍的な拡張性と英語の法則 言語の普遍的な法則として、日常的に使われる言語では、単語の本来の意味から飛躍した意味を持つことはそれほど珍しくはない。比喩的な表現はどの言語であっても生じるものであり、慣用句、あるいはイディオムと呼ばれる語が生まれる。その中でも、英語はイディオムの総数が非常に多いと評せる。 英語は、より精確な言葉を使うためには原則としてブロック単位の言葉を形成する必要があることで、ブロック単位で形成された言葉がイディオムとして定着しやすいと説明できる。そのため英語の学習では、単語単体の意味の網羅だけではなく、現在の実際の使われ方、慣用句までも覚えなければならない。 英語は言語の中でも特によりシンプルな単語を中心に使うことを求める法則性を持つ。人々が覚えるべき単語の種類は可能な限り少ない方が望ましいとする力学を強く働かせ、その省略化で単語の学習にかかる時間を減らしているつもりだろうと考察できる。だが実態として、言葉の煩雑性は回避できない。 シンプルで優しい言語のつもりであるが、現実的にそのシンプルな言葉だけでは物事を詳細に説明しきることができない。そのためシンプルな言葉を組み合わせることで表現を確保しなければならない。結局のところ言語の物理的な法則として、「言葉として覚える総量」が劇的には減らせないのである。 むしろ新しい単語を形成しないために、単語の意味が時代や場面によって変質し続けるという不安定さを強めているとさえ評せる。それは言葉の使い方の代謝が早いとも説明でき、英語の教材は更新をしなければ現代英語から離れていってしまいやすいとも言われる。その性質が、言語の基礎部分にまで及ぶ。 ▲
目次 ◆ #### 英語の文化的な表現やイディオム 英語には慣用句的な表現が非常に広く存在する。英語は「明瞭な説明をするため文脈依存性が低い」などと評されることもあるが、英語の実用では文化的教養を持って単語の類推をしなければならない。典型的な例として[Trick or Treat!]は、文化的な知識が無ければ、その意味を理解できないと言える。 [Trick]は「策略/ごかかし/ペテン」などを中心とする英単語であり、一般的ではない小手先の技などを意味することもある他、カジュアルな文脈においては「いたずら/悪さ/冗談」という印象で用いられる。[Treat]は「丁寧に扱う」という印象を中心とする英単語であり、その詳細な方法は文脈に応じる。 [Trick or Treat!]を直訳的に考えてしまえば「だますのか、それとも丁寧に対応してくれるのか?」といった印象を持つ語である。これを玄関前で家主に叫ぶことで「わるさを選ぶか、もてなすことを選ぶか」という印象はあるが、それだけでは「何をどのように」という意味までは持っていない。 この[Trick or Treat!]は1イベントにおけるフレーズでしかなく、イディオムではない文化的なフレーズであって比較的分かりやすい表現であると言える。英語でも慣用句として「本来の語の意味から飛躍した意味の言葉:イディオム」が日常において珍しくなくあり、むしろその飛躍性は顕著だとも評せる。 例えば[A piece of cake]は「一切れのケーキ」という意味の文字列だが、英語文化における言葉としては「とても簡単なこと」という意味を含み、日本語で言う所の[朝飯前](Before breakfast./ It can be done earlier than morning meal.)と同じ意図を持ったフレーズである。英語にもこうした表現は多い。 連想の難しい極端なイディオムとしては「バケツを蹴る[kick the bucket]」という表現があり、これは由来不明だが「死ぬこと」の迂遠な表現として存在する。さらにそれが発展して「バケツリスト[Bucket list]」が「死ぬまでにやりたいこと」を意味する語となっている。単語からの連想は困難である。 ▲
目次 ◆ #### 英語の単語の発展性 英語は新しい単語を受け入れることに強い制限がある。英語は言語の基本構造が省略的であるために、既存語との誤認を避けられるような表現をしなければならず、しかし非常に多くの短い語彙が既に敷き詰められているため、未知の短い単語は近い語へ誤認される可能性が高いと言える。 そのため英語で一般的な普及を目指す新しい概念では、近い印象を持つ一般語を割り当てることが多いと言える。「情報通信における持続的配信方式」は、常に一定の流れを保つイメージの「[stream]小川・流れ」を用いて[Data streaming][Live streaming]と呼ばれ、現在は[stream]だけでもその意味を持つ。 現代の[Stream]について、日本語の漢字では「通信/電信によって情報を配る」という意味の[配信]という既存語が主に当てはめられる。また日本語では[ストリーミング]と英語をカタカナ語にして扱うことも多い。英語に比べて言葉の細分性や新語の受容力が高いため、一般語彙は流用されにくいと言える。 ちなみに中国語では、データ通信では[流媒体]「流れる媒体:流動的なメディア」という語であり、一方ライブ通信では[直播]「直に播く(直接、伝播)/(種の)直播きの語」といった既存語が使われる。日本語漢字と中国語漢字では文化的な断絶性と、言語の違いによる情報的な隔絶性があるため、一致しない。 英語では他にも「雲[cloud]」という単語が「[Cloud storage]情報通信を用いたデータ保存の外部化」などの意味に使われ、電子機械の文脈では「通信を用いた記録や処理の外部化」の方式を総合的に[Cloud]と呼ぶようになっている。(蛇足:[クラウドファンディング]は[Crowd-]で別語である。) 英語における一般的な語彙の比喩的な流用は、概念の感覚的な共有性という側面においては有効な手段だと説明できる。言語として、既存語を使いまわせることは語の効率性を高める方式であるとも評せる。しかし、このようにして英単語の意味は積層的に積みあがっていき、学習や読解の負荷を高めている。 ▲
目次 ◆ ### 他言語との比較:単語の発展性の傾向 言葉の新しい使い方が模索されることは、実用されている言語における普遍的な傾向である。特に、スラングなどの存在は強固な表語文字体系の中国語においても当然見られる。英語と同じ性格を持った言語体系、特に1単語を広く使いまわす言語体系であれば、英語と同様の傾向を示しやすいと考えられる。 ただし欧州言語の比較として、ドイツ語では言語的な柔軟性から合成語を用意しやすく、新しい単語によって新しい概念に対応しやすいとされる。他にもフランス語では制度的な仕組みで言葉の使い方を統制して言語の安定性を保とうとしているとされる。それぞれの方法で、既存語の変質を抑えている。 一方で「日本語」は、まず新しい概念に対しては新しい言葉を使うことが多い。日本語は新しい語を受け入れやすい言語体系を持つため、既存の語を使いまわす必要性が少ない。また日本語の熟語などは、英単語よりは限定的な意味であることも多く、感覚的に納得しやすい応用の範囲が狭い傾向がある。 また日本語には慣用句なども多くあるが、歴史的な蓄積が大きく、新しい慣用句表現の定着も珍しい。だが日本語においても、新しい言葉の使い方の定着も全く存在しないわけではない。日本語でも、特に日常で使わない語彙では元々の意味の感覚が弱いため、新しい使い方も定着しやすいと言える。 既存語の新しい使い方が普及した例で、[推し(oshi)]が応援活動やファン活動での対象を示す語として定着している。ただし[推す(osu)]という語が元々推奨の意味で、また[押す(osu)]という語に[一押し]や[太鼓判を押す]など「注目の対象を示す語彙」があり、その変形の一種として共有できたと言える。 非常に拡張された日本語の例としては、[ヤバ-い(yaba-i)]の語が極端に広く使われるようになっている。ただし、それらは英語の「雲」や「小川」のような主要な名詞の語ではない、表現する語彙の応用である。基本的な語彙の多さや和語などの表現範囲の広さから、主要な単語の飛躍的な応用は限られる。 ただし、日本語においても非常に多くの表現方法が作られている。そうした文化的活動の結果、日本語でも既存の一般的な単語に、新しい使われ方として意味が追加されるようなことも全くないわけではない。現代技術に近い所として[ケータイ(ke-tai)]という語は、携帯できる通話機能を持った機器を指す。 定着の経緯は[携帯電話(keitai-denwa)]と呼ばれる機器(Mobile phone)が普及することで一般化し、そこから砕けた表現として「住居や施設に固定されている従来の電話」などと区別するため[携帯(keitai)]と略称されるようになり、やがて[ケータイ(ke-tai)]だけで携帯電話全般を指すようになっていった。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:「草」 日本語における最近のカジュアルな表現で最も極端な語彙が[草:kusa](Grass)である。これは一般的な語彙でありながら非常に飛躍的な意味を持った、「笑った反応」を端的に書き表す表現である。語源は別であるが「自然と生まれてしまう様子」や「豊かな状況の印象」なども強く影響していると考えられる。 語源としては「笑っている様子」を意味する[笑い]から、それを書き表した[(笑い):(warai)]をさらに略した[w]があり、これは[笑ったwww]のように下品だがその量で直感的に感情の程度を表現できる記号として使われている。そしてその[wwwww]の字面が[草が生えてる](Grass grows.)と例えられた。 日本語の文字表現では[あはは]などのように、笑い声の音を文字へ転写する記法もあるが、「文字での会話」にはやや迂遠であったためか、雰囲気として伝える[(笑)]や、直感的な[w]などのような代替表現も根付いていき、その発展形として[草]という表現も根付いていったのだと説明できる。 なお[草]の表現自体はやや批判的な表現を中心として広まったと説明できるもので、[wwwww]の字面を下品と感じ、それを揶揄して[草生やすな](Don't grass growing.)などと言い表されていた。その印象が広まった結果、[草生える](Grass growing.)が実用され、[草]に新しい意味が根付いたと考察できる。 入力的な問題としても[w]は短いが、スマートフォンの日本語入力では[w]の入力がやや手間である。そのため[w]を代替として[草]が根付きやすかったとも考えられる。ちなみに他にも[(笑):wara]と同じ音で入力できる[藁:wara]という語も、限定的ながら見られたスラングの一種である。 また[w]は、あくまでも「笑い声の記号表現」の印象が強く、応用性が狭い。一方で、[草]の文字表現では、[大草原](Big prairies./LOL./大笑い)や[草枯れる](Grass withers./losing laugh./笑えない)といった応用的な比喩表現も見られる発展性を持つ。しかも口に出して読むことがしやすい利点もある。 標準的な和語表現である[笑った](Laughed.)などは言葉として報告や説明の印象が強く、瞬間的なコミュニケーションにおいては迂遠な印象になる。[草]は瞬発的な表現として使いやすく、また[草なんだが](It's funny.)などの表現も口語として自然と発することもでき、根付きやすかったと考察できる。 ▲
目次 ◆ ### 補足:英語における「合成語・複合語」について 英語にも、単語をつなげて作る複合語そのものは多数存在する。しかし実用には煩雑な傾向がある。英語における大きな問題として、言葉を区切るための表現が常用されずに欠落してしまったことで、1つの文章であるのか、1つの言葉であるのかの判別が難しいという状態となってしまっている。 また英語の書き字においても安定性が無く、[Classroom]のような完全な1単語[Close form]とするとは限らず、[take-off]のように[-](ハイフン)で語を連結する場合[Hyphenated form]もある。そして、[High school]のように単語を並べた状態でひとまとまりの語とする形[Open form]も混在している。 例えば[Black board.]と[Blackboard.]では語としての意味が変化する。こういった混同を回避するためには[Black color board.]などと区別をかける必要がある。他にも[First classroom.]と[First class room.(The room of the first class.)]などのような問題も、意識的に回避する必要性が生じる。 他にも、多くの単語量を使いながら文章ではなく「1つの語」となっている場合も存在する。例えば[一般情報処理教育]は英訳して[General Information Processing Education.]でひとまとまりの名前となるが、そうした長い名称が一連の流れの中に出てくる場合、文との区別に注意が必要となる。 この合成語の問題に最も影響を受けている領域が、新しく多数の用語を作っていく必要のある科学分野の語彙である。その名称に一般的な単語を用いてしまうと「文章なのか/名詞なのか」の混同が発生しやすく、また英単語の繋ぎ合わせではかなりの冗長化も招いてしまいやすい問題がある。 英語における学術用語では、別の言語の語彙を中心的に使う形式が強固に維持され続けている。英語の学術用語は英単語から類推することができない。当初は歴史的な知識言語の影響からきたものだと説明できるが、語彙を識別しやすくする実用性から慣例として残りつづけていると説明できる。 しかし結果的に、例えば病院の科の英名が原則的に学術用語由来の名称を使っているため、一般的な語彙からは理解できず、知識が無いと分からないという問題を生じさせている。典型例が[Otorhinolaryngology:耳鼻咽喉科](耳鼻科)であり、日本語では見慣れた常用漢字があるため一見して判別ができる。 ▲
目次 ◆ #### 比較:日本語における複合語の識別 日本語などのような言葉を繋ぐ語が原則的に使われている言語では、文字表現では特に、実用として言葉の1単位の区別がしやすい性質を持っている。その区別のしやすさから「単語をつなぎ合わせた複合語」の識別性も確保されていることで、複合語の積極的な活用をすることができていると説明できる。 日本語においては、「文章を構成する言葉」と「名前を構成する言葉」で基本的な構成の違いが明確に存在することで、既存語の組み合わせた新しい言葉をかなり柔軟に組み立てることができ、特殊な形でなければ、それを1つの言葉や名前であることも一見して認識できるような明瞭さを持っている。 例えば[美術学部先端芸術表現科]という1文は、明確に[科]を示す1連の語だと認識でき、それ以外の認識をしにくい。その中に文章を構成する語が存在しないため、一見して文章ではないと認識される。漢字圏でも、日本語は文章を構成する語に「ひらがな・和語」を併用するため、識別性が特に高い。 日本語でも言葉や名称の中には、文章との区別が難しい例も存在は存在しており、英語と同様に対応を必要とする場合も存在している。だが、特に文字表現において基本的な語彙における熟語などは、熟語であることを認知しやすい形状や配置の状態となっているため、学習面でも語についてを調べやすい。 日本語は「表語文字+表音文字」の複合という言語の形式性として非常に煩雑な形態をとっているとも言われるが、文章の読解では意味の語と補助の語の区別が明瞭で、非常に識別性の高い様式を持つとも言える。その識別性の高さによって、極めて多くの語彙を扱うことができていると説明できる。 ちなみに[アルファベットげんご を ぼご とする ひと が にほんご の ひょうおんもじ を おぼえる と かんじ の ひつようせい を うたがってしまう ばあい も ある]が、これを直すと[アルファベット言語を母語とする人が日本語の表音文字を覚えると、漢字の必要性を疑ってしまう場合もある]になる。 表音文字の言語圏の人が、日本語という表音文字と表語文字の複合言語を学ぶと、表音文字を学んだ時点で十分な学習量だと思って、表語文字を学ぶ必要性を疑ってしまう場合もある。しかし日本語は、表音文字だけでは文字表現として識別性が非常に悪いため、漢字を学んだ後には必要性を痛烈に理解する。 ▲
目次 ◆ ### 補足:英語における翻訳可能性 英語は文法的な明瞭さによって翻訳がしやすい傾向にあると評価される場合もあるが、必ずしも完全な翻訳が容易という意味ではない。その実態として単語の多義性の問題から、単語ごとに直訳していく形では単語の意味の選択を間違えやすく、単純な機械的翻訳では翻訳が不完全になりやすい。 また特に精緻な文章ではない場合、作品のセリフなどの翻訳ともなれば明文化されていない文脈を読み取ることが英語であっても不可欠であり、単純な翻訳作業では不自然な翻訳となることも珍しくない。これは翻訳した人の技量が著しく悪いわけではなく、英語の翻訳も簡単ではないという話である。 例えば[I know.]という表現は単なるあいづちとして使われる語であり、これを[知ってる](I understand.)と訳してしまうと、会話が不自然になってしまう。特に口語表現では文化的な背景が非常に強く現れるため、それらが辞書通りの意味であることの方が少ないだろうと注意するべきだとさえ言える。 あらゆる言語において、言語は少なからず文化的な文脈性を持っているものであり、別言語へ翻訳することはあらゆる言語で原理的に難しい部分が生じる。英語であったとしても、実態として翻訳作業は全く容易ではなく、それは翻訳先の言語による難しさに限らず、英語自体の難しさも多く含まれている。 言語の翻訳における普遍的な問題として、あらゆる言語は「文化に応じた語が広げられていく」という傾向を持つ。例えば、A地域では1単語で総称される概念が、異なるB地域において多数の単語に細分化されるという場合もある。1つの言語しか知らない場合、その当然の現象も、理解しにくい。 つまり、あらゆる言語の翻訳においてあらゆる単語が常に1対1の翻訳を可能としているわけではない。解像度が異なる言葉や、同系統だとしても文化的に異なる文脈を持った言葉が当然のように存在する。互換性の高い言語関係という場合も存在するが、言語として遠く、互換性の低い関係も少なくない。 異なる言語同士において、単語の互換性が保証されているわけではない。言語の翻訳とは、表層的な意味において対応する語や表現を選んでいるだけである。特に印象を重要とする分野の翻訳作業とは、互いの言語における文化性をよく理解した上で、ニュアンスを抽出して再構成する必要性がある。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:日本語の中にある「解像度の違い」 日本語は、その言語の解像度の違いという観念を自国語の中で触れることができる。日本語では、例えば[はやい]という「短い時間の様子」を表す話し言葉(和語)を持つが、表語文字の漢字になると[早い](基点から見て短時間であること)/[速い](動きが高速であること)の2語に細分化できることを知る。 なお[早]と[速]は漢字としての本来の音を別々に持つ。文語領域から導入した熟語では[早:sou]や[速:soku]の音を使い区別される。[早期:sou-ki](基点から短い時間の時期)、[速度:soku-do](スピードの程度)など。日本語は、古来の自然形成された言語体系を基盤として、細密な言語体系を併せて使う。 日本語では単一の言語の中でも生じていると説明できる、「語の解像度の変化」という事象が、他の言語との翻訳においても生じるのである。例えば[はやい]に対して、[fast:高速][quick:瞬発的][early:早期][rapid:迅速][speedy:素早い][swift:機敏][hasty:拙速]などの、どの表現が適切かを逐一選ぶのだ。 日本語は「大和言葉」とも呼ばれる非常に古い話し言葉から続く言語の領域(和語)を大きく維持したまま継承されてきた言語で、そこに外来語、主に実用文書に基づく機能性を持つ詳細な言葉の領域「漢語」を上乗せして複合的に使う言語形式を持つ。かなり原始的な性格を持った言語も維持されている。 大昔の話し言葉から細かい言葉遣いは時代の流れによって大きく変化しているとも言えるものの、日常生活における言葉遣いにおいて、詳細な機能性よりも身体的な実感性を優先した単純な言語の層が現存していると言える。例えば[かた-い]という語は、「形状や状態の変更をしにくい印象」を包括して示す。 [かた-い]は、単体で[固い]=状態維持の強さ/概念的な強固さなど:対義語「緩い/弱い」、[硬い]=形状維持の強さ/心理的な硬直さなど:対義語「軟らかい」、[堅い]=守りの強さ/慎重な堅実さなど:対義語「脆い」、[難い]=[-し難い]=実行が難しい:対義語「易しい/し易い」などを包括的に表現する。 [かた-い]は象徴的な例だが、その他にも広い印象から表す言葉は多い。日本語は、原始的な言葉の使い方、広い印象で識別する言葉を使う言語層が大きく残り、現代でも広く使い続けられている。その上、詳細に区別できる言葉も持つ。[強固/硬質/硬直/堅牢/堅実/難解]など端的に多彩な表現をできる。 また[かた-い]の言葉には近いイメージの語があり、[かた]では[型][形]など「決まった様式や形状」を表す語になり、それに近い所で[しかた/仕方][やりかた/やり方]は「何かに対する方法」を示す語となる。また[かたくな/頑な]は、心理的に譲らない、強固な意思を示す。イメージを共有する例は多い。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:「解像度の低さ」について 解像後の低い語は、厳密な情報を持たないために論理的な実用性が低いとも評される。例えば英語でも[Light]は非常に多義的な語であり、言い表している範囲が大きく、それだけでは情報としての詳細性は低いと言える。[Light]は文脈からどのような[Light]であるのかを判断しなければならない。 [Light]という語は、日本語へ翻訳すると基本「明るさを持った光」の意味の語へ変換されるが、その使われ方は非常に広い。[Light]とは「あっさりとかるく晴れやかな印象」を持たされた語であり、「重量の軽さ:対義語[Heavy]」「密度の薄さ」「色の明るさ:対義語[Dark]」「簡単さ」なども含まれる。 [Light]はさらに「照らされる光」というイメージから「見方/見解」や「指導者」などの表現においても用いられる。厳密に言い分けようと思えば、その他の細かい語に言い分けることもできるが、日常的な場面においてそうした印象を簡単に伝える場合は[Light]が最も簡単に伝わりやすい語だと言える。 「光:a Light」以外[Light]は比喩的表現だということもできるが、実用においてはもはや比喩表現ではなく、その意味自体を言い表す語となっている。原義は「光:Light」かもしれないが、日常的な実用では範囲が拡張され「解像度を下げて幅広い印象を言い表せる言葉へと変異している」と説明できる。 日常的な実用性において、そうした言葉の持つ概念的な感覚、低い解像度によって言葉を扱うことは、とても重要な働きを持つ。例えば「対外的に好印象を与える整った容姿の男性」という表現や、または「他者へ好印象を与える言動をする男性」という表現は非常に論理的な説明であると言える。 英語に訳せば前者は[He is a well-groomed man who presents a neat and polished appearance, giving a positive impression to others.]、後者は[A man who conducts himself in a manner that consistently leaves a favorable impression on others.]のような表現が、論理的な説明と言える。 だが日常でそう表現されることは無い。英語なら言葉の印象を使って[Cool guy.]などと言い表される。日本語なら[カッコいい/良い人]である。日常的な実用性においては「感覚によって非織印象に基づいた言葉を共有することで、端的に印象の伝達をでき、共感もしやすい」という、高い効率性が存在する。 そういった解像度の低い印象を使う言葉や言葉遣いとは、日常会話における妥当性がある。つまり解像度の低い語とは日常的な実用性において、社会的な意思疎通として十分な情報共有を、端的な表現によって実現できる効果的な語彙であると説明できる。日常の言葉は、そうした使い方が主であると言える。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:言葉の発展性と日本語の特殊性 人間の日常的な言語の使い方として、日常会話では直感的な判断から感覚に従って言語を使っていくものである。日常的な言葉では論理の整合性よりも、必要な印象の共有がその主目的となる。そのため、厳密ではなくとも広い印象を持った言葉こそが日常には重要な言葉となると説明できる。 また日常的な意思疎通において、概念的な言葉ほど比喩などによって応用をされやすく、その応用の感覚的な共感性が強ければ、それが言葉そのものの発展的な意味として定着していくこととなる。反対に、印象を伝えるための言葉が不自由では、日常的な意思疎通も制限されてしまうことになる。 なお言語の感覚は人同士の間で統一されているものではなく、個人差、地域差、時代差が広がっていく傾向を持つ。これは発展性だけではなく、言葉の変質や陳腐化なども引きおこす。人間的に統一的な傾向がありえる要素は、より根源的な「音象徴」の感覚だけで、言語においては限定的な領域である。 日本語は、言語の実務的な整備をされながらも、実務の言語範囲は主に漢文を元とした文語の領域で整備されてきた。日常的な言語の領域は日常において併用して使われ続け、古い言葉に由来する原始的な低解像度の語群が大きく保存され続けた。現代日本語は、それらを複合させた2層の言語層を持っている。 日本語では和語において印象を言い表せる言葉の領域が広く現存しており、日常的な会話の場面では直感的かつ印象的な意思疎通をしやすい言語体系を持つ。解像度が低いために厳密性という点では不十分な性質を持つとも言えるが、日常生活の領域では非常に効率的な意思疎通を可能としている。 また日本語では、話し言葉の中には「オノマトペの擬態語」が一般的な語彙として非常に多く持っている。世界的な言語の基本傾向として、詳細に整備されている言語では「オノマトペの擬態語」が限定的になりやすい傾向が見られるが、日本語は現代文明的な言語の中では例外的に広く残っている例と言える。 ▲
目次 ◆ ###### 蛇足:「オノマトペ」 語ではなく音で示す語彙が「オノマトペ」である。世界各地の言語において「音を疑似的に再現する擬音語」は広く確認することができ、動物の鳴き声や、印象的な音ではそうした「擬音語」を世界中の多くの言語で見ることができると言える。音による印象の情報共有として、広く使われている語彙である。 一方で「実際の音ではない印象を表す擬態語」は、非常に原始的な性格を持った語彙であると説明できる。特に、より詳細な整備が行われてきた多くの言語において「擬態語」が限定的な傾向を確認できるが、詳細な整備が行われていない多くの言語において「擬態語」が多く存在する傾向が確認されている。 つまり世界的な言語の基本傾向として、言語の体系が整備されるほど、オノマトペの擬態語は縮小していく性質がある。状態を表す言葉が語として整備されるだけでなく、言葉が増えることによってオノマトペが入れる隙間が減りやすく、多くの擬態語は排除されていくような基本傾向があると説明できる。 代表的な範囲として、多くの欧州系言語は言語に対して詳細な整備が行われ続けてきた言語圏であり、それらの言語においては「擬態語」が非常に限定的な傾向が見られる。反対に、文明社会から遠い地域や民族においては、詳細な表現語が乏しくなる代わりに「擬態語」が豊富になっていく傾向が見られる。 日本語は、詳細な整備が行われている言語でありながら、「擬態語」の言語領域が非常に広く残っている例外的な言語の一つであると説明できる。おそらくは、詳細な語と表現の語が、言語の層として明確に分離されていたことで区別され、表現の語の感性が非常に深く残存し続けていると説明できる。 日本語には基本的な語彙の中にも擬態語が残存している言語体系を持ち、特に「オノマトペの表現体系」が形成されており、それが通常の語彙にも広く応用され「オノマトペ的な表現語」が多く存在する。[たっぷり](plenty)[ふんわり](soft)や、[しっかり](solid)[のんびり](leisurely)と言った語がある。 日本人は幼少からオノマトペ表現に触れて覚えるため、その感覚性の言語が深く根付いており、音の印象で表すオノマトペ表現は「最も感覚的で、最も単純な表現」のつもりである。しかし、英語を含む他の言語では忘れられた領域であることも多く、他言語にとっては難解な言語領域となっている。 より詳しく言えば、和語の基盤自体が「オノマトペ」に大きく由来しているのだろうと考えられるほど、音象徴の性質や、音の印象の共通性が非常に強い。そのように説明の難しい感覚性が強く残存している点が、感覚的な習得性の効率や、感覚的な意思疎通の効率に働いているとも考察できる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:日本語の表現階層の違いの明瞭さ 文語表現の領域と話し言葉の領域を複合されている日本語では、全ての言葉がおおよそ平たく並列しているわけではない。話し言葉と文語表現が、明確に異なる表現方法であることに気づきやすい形を持っている。また文章では新しく輸入される外来語などが、おおよそ外来語であることも分かりやすい。 日本語は言葉が言語のどの層に属するのかを、その言葉と文字の性質を分析するだけでおおよその分類をすることができる。つまり、漢字を音読みしている熟語からきた言葉であれば、書き言葉において整備された層であると分かり、訓読みされている言葉は話し言葉の層であることを高精度で分析できる。 そして現代でのカタカナ語は、情報が薄いか文化的な歴史が浅い、特殊な言語帯であることが明白である。主に新しい外来語に使われるが、外来語だけではなく古い表現から離れた新語などにおいてもよく使われる。もう少し精確な情報を入れると、オノマトペではひらがな/カタカナの印象の違いも使い分ける。 一方、アルファベット言語では文字列において、あらゆる領域の言葉が平たく併存している。そうした言語をどれほど親しんで使っていたとしても、その言葉がどのような層に位置する言葉であるのかは、辞書などから言葉の由来を紐解かなければ精確に理解する手がかりが無い。言語層の違いを自覚しにくい。 「日常的に使われている言葉であるかどうか」から層の違いの概要を感覚的に推察することはできると言えるが、使い慣れてしまっている場合、どれほど難しい言葉を使っているかについて認識しづらくなってしまう。そうした面から、英語などは自らの難解性に無自覚となってしまいやすいとも考えられる。 日本語の文化では「やさしい説明」の場面では、ためらいなく文語表現から話し言葉に解像度を下げる、話し言葉からさらにオノマトペまで解像度を下げることをする。言語の層の違いを自覚しやすく、それに対応する文化を持つ。英語では、予め「分かりやすい言葉の層」を調べておく必要が大きいと言える。 「走っている車」のことを、英語では一般語では[a moving car.]、形式的文書では[a vehicle in motion.]などと表現する。日本語ではおおよそ同じ意味において[走行中の車両]、[走っている車]、[びゅんびゅんのぶーぶー]などの表現の変更ができるだけでなく、そうした語が使われる場面も識別しやすい。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:日本語の[こ/そ/あ/ど] 日本語の[あつい][かたい]などの話し言葉の語彙は、英語に比べてやや解像度が低く広い範囲を指す言葉が多いと言えるが、英語より解像度、詳細度の高い語彙の領域がある。何かを指し示す時の語彙「指示代名詞」と呼ばれるものでは、英語よりも日本語の語彙のほうが詳細かつ整頓されている。 英語では物を指す語彙として「話者から近い/遠い」が区別された[this/that]の語彙群がある。端的な英単語では「自分から近い[this]/遠い[that]」の2パターンだけを指し示すことしかできない。一方で、日本語では物を指す語彙として[これ/それ/あれ]といった3パターンの語彙が存在する。 [これ]は「自分側や自分の手元で示したもの」、[それ]は「相手側や相手の近くにあるもの」や「話題の対象になっているもの」、[あれ]は「互いのどちらの近くにもない外側のもの」を示すという3パターンが存在する。英語においては[それ][あれ]の区別があいまいで、どちらも[that]が使われる。 特に日本語の「対象・相手側の近く」を示す[それ]の語彙群は、日本語において非常に象徴的な語だと説明できる。相手側を示すための[それ]の語群は、「会話において相手側の立ち位置を基準とした表現」であり、相手の立ち位置を認識していなければ使えない表現で、その意識が言語に根付いている。 さらに「不特定の対象」を示す際の語彙も、[これ/それ/あれ]の直接的な変形で[どれ]という形が使われる。英語では疑問文だと[Which]という完全に別の語に変化するが、日本語は[こ/そ/あ/ど]の変更だけで表現され、しかも付随語で対象が変わる。例えば[ここ/そこ/あそこ/どこ]で場所を示す語彙になる。 [こちら/こっち][そちら/そっち][あちら/あっち][どちら/どっち]で方向や、人間の立場を表す語彙になる。[こやつ/こいつ][そやつ/そいつ][あやつ/あいつ][(どやつ)/どいつ]などで人間を指す語彙になる。他にも[この-/その-/あの-/どの-][こう/そう/ああ/どう][こんな/そんな/あんな/どんな]など。 さらに、英語では物を示す[this/that]が複数の場合に[these/those]へ変化するのに対して、日本語は単数ではないものを[-ら]の接尾辞で複数を示せる。日本語では[これら/それら/あれら]で語を維持したまま複数形になる。[こちら/あちら]などの語彙も、単数でも使われるが、領域を示した表現である。 英語では人間を指し示す際に[He/She/They]を使わない場合、[This -/That -]の語群を用いて示され、それ以外の手段に乏しい。英語で詳細な情報を表すには、細かい表現が必要となる。日本語では、日常的に使われる対象を示す語彙において、簡潔に細かい表現が可能で、なおかつ体系が整理されている。 ▲
目次 ◆ ###### 補足:[どういうこと?](What does that mean?) 英語でも、場所を示す際の語彙として[here/there/where]は綺麗に整頓されていると言える。また、疑問文においては原則[w]から始まる語彙が使われているといった法則性はあると説明できる。英語では疑問文のために使われる単語が整備され、指示語からも[that/what]、[there/where]の変形が見られる。 しかしそれらの語彙もまた英語の単語の扱い方、文法という制約に縛られるため、その使い方は純粋な入れ替えのみによって使えるとは限らない。[what]は[that]の不定形ではなく、疑問文のための単語である。対象を示す[それ]は[That one.]などとなるが、不特定の[どれ]では[Which one?]の語を使う。 [where](どこ)は[there](そこ)へ素直に転換できるが、[this]は「それ」の語で[what]は「何?」の語である。あるいは[who]を[tho]、[which]を[thich]、[why]を[thy]に変形させても語は成立しない。[where]の他に[t]転換が可能なのは、[when](どの時)は[then](あの時)への転換くらいである。 つまり現代の英語で素直な転換をできる語彙は、[where/there](どこ/そこ)、[when/then](どの時/あの時)という空間と時間を指定する語彙に限られる。一方で、日本語では[こ/そ/あ/ど]の整頓された語彙体系によって、より直感的な理解をしやすい、全体的な法則性と統一性を持っていると説明できる。 特に[where/there]であっても、[どこにある?/そこにある](Where does it exist?/exist in that place.)の素直な英文では[Where is it?/There it is]となり[it]と[is]の語順の入れ替えが生じる。一方で、日本語の様式であれば、単純な指示語の入れ替えのみでも文章の意味が転換して成立する。 ▲
目次 ◆ ### 補足:英語の接辞と語の変質 言語において広く見られるが、英語にも語につけることで意味を追加する「接辞」の要素が存在する。前につくものを「接頭辞」、後ろにつくものを「接尾辞」と呼ぶ。接頭辞の[un-]をつければ「それがない」という状態を示し、例えば[known](既知)は[unknown](未知)になるという語の要素群である。 接頭辞は主に単語の意味を変化させるものであり、例えば[re-](再びする)であれば[try](試行)を[retry](再試行)という意味の語になる。[pre-]は「その前の/事前の」などを意味する語彙であり、[view](観る)が[preview](事前に確認する)という語に変化する。ただし、素直に変化する語ばかりではない。 接尾辞は主に単語の状態を変化させ、例えば[-er](-するもの)であれば[run](走る)が[runner](走る者)に変化し、あるいは[compute](計算する)が[computer](計算機)に変化する。[-ion](~のこと)を付け加えれば[educate](教育する)が[education](教育)になる。なお、多くの接尾辞で語の細かい変化がする。 しかし、これは必ずしも「既存の単語の分解性」を保障しない。特に英語は単語ごとに発展的な使われ方をされて意味が積み重なったり、語が変異していくことも多い。結果、接辞を抜いた元の単語と接続性のない場合も珍しくなく、あるいは元の単語そのものが現代英語にない場合もある。 最も単純な所として[under](下)は[un-d-er]のような語だが、[der]では意味が成立せず、[und]でも意味は成立しない。あるいは[understand]は接頭辞[un-]や[under-]のようにも見えかけるが、[Derstand]という語は存在せず、また[Stand](立つ)からも飛躍した「理解する」という意味の単語である。 他にも[discuss](多角的に論じる)は、接頭辞[dis-](対象が「欠けている」)との印象的な接続性が悪い。また[cuss]という語は[curse](呪い)の口語であったり、あるいは「野郎」を示す語として使われるが、[Discussion](討論)の意味との接続性は厳しい。それはそもそもとして語源が異なるからである。 [discuss]の語源はラテン語に由来するとされ、まず[dis-]の接頭辞はラテン語において「分けた」の意味が存在し、[cuss]の部分はラテン語[quatere](何度も打つ動作)が元であるとされ、つまり「何度も叩き砕いて分解するように扱う」という表現語[disquatere]から、英語の[discuss]が生まれたとされる。 あるいは[cord](ひも/縄)の語に、[re-](再びする)が加わると[Record](記録する)という語へと飛躍的な変化が起きる。他にも[tend](傾向がある/貢献する)に[pre-]がつくと[pretend](ふりをする/王位をねらう)になり、[-er]の付いた[tender]では「かよわい/やわらか」などの意味も含む語へと転換する。 ▲
目次 ◆ ### 補足:同音異義語の自然発生と識別問題の普遍性 文明的に発達し、多くの情報を扱うようになり、より多くの物事を細かく識別しようとするほど、言語の物理的な限界によって、言葉における「同じ音・似た音」を回避することはできなくなる。たとえ複雑な言葉を用意しても、実用されている言語は自然に効率化する傾向が働き、単純化されてしまう。 特に、頻繁に使われる語ほど手間のかかる表現をそのまま使い続けることに暗黙の抵抗感が生じていく。言語における傾斜的な法則によって、発話は必要最低限に省力化されていきやすい。また人体にとって楽な発話の形態には収束しやすく、結果「同じ音・似た音」へと必然的に偏りしやすいと考えられる。 より多くの語を使わなければならない、しかし詳細な発音を使い続けることも疲れやすく、また発音の詳細性自体が伝わりやすいとは言えないために、特に多くの人間が使う言語ほど発話は単純化されていきやすい。つまり「同音異義語」の発生とは、発達した文明における宿命であると説明することができる。 しかし音が単純化されてしまう傾向があっても、文章においては確実に識別しなければならない事情があり、結果的に「文書における非表音的表現」という状態は、表音文字であっても避けることが難しいと言える。「文書文明の高度化」が進むほどに、「非表音表現」を不可欠になっていくのだと考えられる。 表語文字である「漢字」はその点において早期に同音異義語を許容してしまうことで文書における安定性を確保した。一方で、英語なども表音文字体系ながら文字列のみを維持することで文書の安定性を守るという手段を取ったこともまた、文明的言語の宿命として自然発生したものであると説明できる。 ちなみに、実態として「全く異なる複数の意味をもつ同じ綴りの語」も存在する。日本語における[ライト:Right/Light/Write]のような例だけはなく、英語であっても[bank](「金融を扱う場所」と「川の側の地形」)のように「異なる語源の語が1種の綴りに集約されている」という語も存在する。 「同じ字で異なる意味の語」の存在は、英語においても存在する。これは特に異なる言語の言葉を導入してしまう場合に、こうした語の衝突が発生してしまいやすいと考えられ、異なる言語が複合的に使われている英語ではそれほど珍しいことでもないと説明できる。広域な文明社会の、宿命とも言える。 そして、そのような問題が一部において生じていたとしても、意思疎通において頻繁に致命的な欠陥を生じさせるわけではないことを、英語が実証していると言える。つまり、自然に使われる言語において「同音異義語」が内包されるだけではなく、一部において「同じ字の別語」もまた許容されるのである。 ▲
目次 ◆ ## X-E「英文における語の子細な選択」 英語は単語や音の多義性などの事情から、語の概念や意図によって、合わせ使う語が細かく変化する。英語で、より正しい表現をするには「単語に接続する語」の分類も学ぶ必要がある。英単語の学習とは、単語の意味と音と文字列を覚えるだけではなく、現代の用例も学ぶ必要性がある。 例えば「公園」「道」「学校」は異なる概念を持つ。「彼が○○で走っている」という例文では、英文において[He is running in the park(公園内)][~ on the road(道路上)][~ at school(学校の活動)]あるいは[~ inside the school(学校の中)]など、概念や意図に応じて挟まれる語は変化する。 つまり英語では「場所などを指定する表現」において、「場所における具体的な位置関係の語」を原則的に選ぶ必要性があると表現できる。細かくは「概念的な性質に対する妥当性」という点によって選ばれる語群であり、また例えば[over]は厳密には想定される状況を表す語であるため位置関係は変動する。 [The bird flew over the tree.](木の上:上空)、[The light over the door.](ドアの上)などの位置関係の他に、[Go to the hospital over the rever.](川をこえて)のような動きを含む表現もある。「向こう側」なら[The hospital is across the rever.]もあり、これは文法の状態が異なる。 そうした[in/on]や[at][over]などの語彙は、それらの語彙の持つ印象や文法上の状態を理解して、また表現する対象や意図に応じた適切なイメージの語を選ぶ必要性がある。例えば[The hospital is over the rever.]は、厳密なイメージが定まらないためにあまり好ましくない表現方法となってしまう。 他にも煩雑な例として[車に乗っていく]は[(I) get in a car.]だが、規模の大きい[バスに乗っていく]などが[- on a bus.]となる。一方でまたがるサイズの自転車やバイクでは[- on a bike (ride).]などとなる。なお「○○を使って」という意味では主に[- by /Anything/.]で表現される。 また「時期」を表す場合、[on/at/in]の指定が複雑化する。時刻に対しては[at]、日付に対しては[on]、それより広い時期に対しては[in]と示される事が基本だが、イベントなどを示す場合は[- on Christmas.](クリスマスの日付)だが、[at]を使うと[- at Christmas.](その辺りの時期)といった表現に変わる。 ▲
目次 ◆ ### 英単語の頭につける「冠詞」 語の前の「[a](汎用的な存在性)」「[the](特定の存在)」は概念や意図に応じて使い分ける。例えば[home]は「生活拠点の領域あるいは建物/帰る所」などの概念的な語で、[the home]では特定の領域を、[a home]では不特定の領域を指す。なお[go home]とした場合は「帰るべき所へ行く」の意味になる。 例えば[giving a home]では、「homeになるような環境をgiving(与える)」という意味になる。[giving the home]は、「(文脈において)既に決まっているhomeとなる特定の領域、建物などをgiving」という意味になる。なお[giving home]は、形の無い概念に[giving]は使えないため不正確な文法とされる。 なお非常に面倒な面として、概念に[give]を使うことができないのは、英語の文法的なルールにおいての話である。もし慣用句的な表現として共有された場合、その表現は文法を超えてイディオムとして有効になりうるのも英語である。実態として「使いたい抽象概念」において[give]も有効な例がある。 ちなみに[home]の例においては、[home]自体が多義的な単語であることで[giving home]のような「どのような意味の[home]であるのかの判断が難しい応用」は拒まれやすいと説明される。そうした感覚性を理解し「不正確な文法」を回避するには、単語ごとに実際の使われ方を深く理解している必要がある。 また例えば「本」を[book.]と訳してはいけない。なぜなら[book.]だけでは「本」を指す語に定まらない。「本」を言い表すためには[a book.]あるいは[the book.]が通常必須で、[book.]単体では意味が宙に浮き、[book a flight.]などとなった場合、「本」の意味を持たない表現へと変異する。 ただし[book.]単体ではなく、表現の中で[Photography book.]といったような形がとられている場合は、自動的に「本」に類する様態であることを示す語に落ち着く。一方、日本語では単語を通常そのようには使わないため、日本語話者と英語話者とでは、根本的な言語感覚が大きく異なると言える。 ▲
目次 ◆ ### 英語における更なる不安定性 他には英語でも同じ意味の語の系統が不規則に大きな変化をする例がある。特に「不規則動詞」と呼ばれるもので、それらはタイミングに対して単語そのものが変化する性質を持つ。それらは単語ごとに変形例を覚えておき、細かい状態や使い方によってそれらを使い分けなければならない。 例えば[go](行く)の過去形は[went]や意図によって[gone]に変化する。[eat]の過去形は[ate]や[eaten]に変化する。変形は「不規則」であり、統一的な変形の傾向を持たない語群である。語によっては、使われる意図によって過去を示す場合でも原形を使う場合もあるなど、それも不規則である。 なお、単純化や整頓の傾向を持つ英語の中でこれらの語彙が残存しているのは、使用頻度が高いからである。実際の英会話や英文などにおいても遭遇する可能性や必要な場面は多い。ある程度の傾向が見られるようで語によって変形の性質は全く異なるため、語ごとに覚える必要がある。 英語での文章構成では、書く事象に対して一文ごとに見通しを立てながら、使うべき単語とそれに付随する細かい語を的確に選び、文法ルールに従って必要な語を並べていく必要性がある。語の理解が不十分では、語の定義語が不足したり、定義が食い違ってしまうなどで文が乱れてしまいやすいと言える。 より実用的な領域になると、細かい語の使い方において「文法ルール上、可能であっても不自然とされる」といった表現も存在している。不慣れだと明らかな会話の場面など、大雑把なニュアンスさえ伝われば問題ない場面においては、ここまで細密に注意する必要性は少ないものの、無作法となってしまう。 ▲
目次 ◆ #### 補足:「英国人」「米国人」「日本人」 英語の不規則性の例として、その地域の人を言い表す表現語が変化する。イギリスでは[England/English][Britain/British]、アメリカでは[America/American]、日本では[Japan/Japanese]と変形が複数の種類に及ぶ。それ以外にもフランスでは[France/French]など、国ごとに表現を覚える必要がある。 しかも細かい表現として、「イギリス人たち」では[The British]、「アメリカ人たち」では[Americans]、「日本人たち」では[Japanese people]のように変化する。またより詳しく人物として指定する際は[An Englishman./An English parson]、[An American]、[A Japanese parson]といった違いが生じる。 その他にもギリシアでは[Greece]から、ギリシアの人では[Greek]、ギリシアの人たちでは[Greeks]という表記になる。あるいは「ニューヨークの人」では[New Yorker]、「パリの人」では[Parisian]、「東京の人」では[Tokyoite]、「ローマの人」は[Roman]など、都市名でも表現語は変化する。 英語では、地域名を表す語がそれぞれ異なる経路によって導入され、その性質も統一せず、そのまま使い続けられていることで、このような複数の法則性が併用されたままになってしまっていると説明できる。さらに分かりにくい例として、国名の「タイ」は[Thailand]だが、タイ人は[Thai]と呼ぶ。 一方で、日本語を含む漢字文化においては、漢語の接尾辞[-人]の表現によって統一的な整理が行われている。日本語ではカタカナ語も使うが、漢語の法則として[イギリス/イギリス人][アメリカ/アメリカ人][日本/日本人]のように統一的な表現が可能であり、あらゆる地域に対して同様の表現が使える。 ▲
目次 ◆ ### 他言語との比較:英語の変化は「比較的単純」と言われる 英語の長所として、主要な欧州系の言語で良く見られる煩雑な語の変化が、大部分で削ぎ落されている。他の主な欧州系言語ではさらに細かい語の変形変化などがある例も多く、語ごとに覚えなければいけないことがさらに多い傾向だと説明できる。そうした比較から英語は「比較的単純」という評価をされる。 特に、自然言語では「言葉の性別/格」などと呼ばれるような言葉のグループ分けと、それによる言葉の使い方の変化という現象は、世界中の少なくない言語において広く確認できる法則である。世界的に見ればありふれていると説明できるが、現代英語では馴染みが薄い。ちなみに日本語でもなじみが薄い。 例えばスペイン語の典型的な表現の変化として、[el chico alto. / la chica alta.]という表現が存在する。これは「背の高い少年/背の高い少女」を表す語であり、「冠詞」と「背の高い」の語も性別で変化している。さらに複数形では[Los chicos altos. / Las chicas altas.]と全ての語を複数系にする。 物理的な事情として、多くの自然言語では言葉の認識性を高めるために、そうした付随する語を変化させる様式を持つことで内容の推測と把握をしやすくしているのだろうと考察できる。また馴染みが薄いと言っても、現代英語や日本語の中にも「対象の性別/格」に応じて語を変化させる語彙はわずかにある。 英語も、古くは他の主な欧州系言語と同様に「対象の性別/格」に応じた語の変化は存在していたとされる。英語はその歴史的な変遷の中で煩雑な変異が削ぎ落されるような流れから細かい語系の変化が消失したとされ、現代英語では機能的に必要とされる語彙として、対象によって選ぶ表現が残存している。 ただし英語は他の言語で語の変形が担っている部分を、分離した語などで補っている部分も多い。英語は、単語の形においては比較的単純な傾向を持つと評価できるが、実用においてはそれなりに複雑な手間が必要となっている。煩雑に分離されているだけで、覚える手間はあまり変わらないとも考えられる。 他にも日本語には馴染みの薄い所として、英語には複数形の形式が残っている。一般的な変化は、語に応じた[-s/-es/-ies]などの接尾辞によって複数形に変化するが、例外で[man/men](男/男たち)、[foot/feet](片足/両足)、[child/children](子供/子供たち)、[person/people](人/人々)などの変化がある。 ▲
目次 ◆ #### 補足:「語の性別」による変化 例えばスペイン語などでは物に対しても性別が規定され、それに応じた表現を必要とする。「本[libro]は男性系/家[casa]は女性系」のため[El libro nuevo/La casa nueva]と、合わせる語も変化する。また同じ単語に対して冠詞の男性系/女性系の違いで、言葉の意味が変化する語も見られるらしい。 そうした変化は英語以外の主な欧州系言語においても同様であるとされ、スペイン語以外でもフランス語・イタリア語・ドイツ語なども、似たような語の性別や表現の変化が生じている。一応、欧州系言語でも、英語のように語の性別を使わない言語や、縮小傾向にある言語なども確認されている。 なお英語では「語の性別」での変化は存在しないが、対象とする性別や性質に合わせて[He/She/They/It]などの語を使う。英語は「対象がなければ成立しない語」などの存在から対象を明示する必要があり、対象を示す際の語として[He/She/They/It](その男/その女/その人(たち)/それ)などを使い分ける。 世界中を見れば語自体の性別に由来する変化を持たない言語も多い。日本語も「語自体の性別」に由来する変化は存在しない。日本語でも言葉として性別を指定する語は当然存在するが、文法として不可欠とするものではない。蛇足:日本語では、言葉遣いとしての男性の作法/女性の作法は見られる。 ▲
目次 ◆ #### 比較:日本語における語の選択と変化領域 主な欧州系の言語では冠詞の選択や単語自体の変化などを必要とし、また多くの言語で煩雑な変化が見られる。一方で、日本語の語彙において細かく変化する部分は「語の末尾側」にほぼ集約されている。そして、おおよそ統一的な規則性がほぼ全ての単語へ、汎用的に使うことができるように整備されている。 日本語は和語と漢語に外来語が集合しているため、語彙として「単語の総数が非常に多い」と評価できる。その代わり日本語は、言葉としての細かい変形が、ほぼ和語部分における表現の変化を主としている。語の末尾の[~する/~した]などを変化させて言葉の文法上の意味を規定するシステムを持つ。 日本語における言葉の末尾の変形法則は、全ての語に対しておおよそ統一的な規則性に従って使うことができる。また日本語の単語同士の関係性を示す語([て/に/を/は]など)も統一的な語をほぼ全ての単語へ汎用的に使うことができ、その補助語も「言葉の後ろ」に配置されるという全体的な統一性を持つ。 日本語の単語同士を示す語は、英語の[in/on]などとも違い状態を示す意味が薄く、言葉を繋ぐ意味を中心に持つ語であることで、語の汎用性が非常に高い。詳細な状態を示す場合には状態を示す語を付け加える必要性はあるが、あらゆる語に対してあらゆる詳細な状態を示すことができる自由度を持つ。 細かい使い分けにおいては、日本語でも感覚的な判断を必要とするために、一律に単純であるとは言えないが、言語システムとしては非常に整備されている基盤を持つと言える。そうした強固で柔軟性のあるシステムを持つことで、非常に膨大な語彙を扱うことができているのだと説明できる。 膨大な語彙を許容しているため、日本語には「丁寧な言葉遣い」として丁寧さを表現するために付随される語群があり、他言語では馴染みのない性質の煩雑さも抱えている。日本語の丁寧な言葉は、単語を使い分けるだけではなく、冗長な表現を付け加えていくという印象のための表現という形式を持つ。 特に日本語でも頭につける語の変化として、意味を付与する漢語の接頭辞以外に[お-/ご-]の表現がある。これは意味よりも丁寧な言葉遣いのために印象を整える表現であり、[言葉/お言葉][丁寧に/ご丁寧に]と付け加えることで、対象語を単体として強調しつつ、軟らかい言葉に転換される。 英語の学習では、単語ごとに実用例を参考にしながら「付属する語」の性質も覚えておく必要性があると言える。一方で日本語は覚える単語の総量は格段に多いと言えるものの、「付随する変形パーツ」などはかなり共通性が高く、変形パーツの基本体系を覚えることで付随する語をほとんど網羅できる。 ▲
目次 ◆ ##### 比較:英語と日本語の変化の違い 英語と日本語を比較として並べておくと[Eat:たべる][Ate:(既に)たべた][Eaten:たべられた][Eating:たべている]という形で、[たべ-(る)]という語の基幹は英語と違って変化しない。しかも日本語では[たべたい:I want to eat][たべたかった:I wanted to eat it.]なども、語の変形として表せる。 他にも[Go:行く][Went:(既に)行った][Gone:行って(しまう)][Going:行って(くる)]など、[行く:い-(く)]といった基幹に対して似たような変形を取る。[write:書く][wrote:(既に)書いた][written:書かれた][writing:書いている]など、細かい部分にブレはあるが、語の基幹部分は変化しない。 一方で英語の[put]などは反対に細かい変化が乏しく、対応する[置く/置いてくる/置かれた]などの意味の変化には[put]そのものではなく周辺の語や言い換えによって区別をされる。また英語の不規則動詞は[begin/began/begun]や[do/did/done]、[give/gave/given]など、変形パターンが多い。 日本語は、基本形が[食べる/書く/持つ/買う/学ぶ/読む]など[-u]音に整理され、過去形が[食べた/書いた/持った/買った/学んだ/読んだ]など語尾は[-ta/-da]音にまとまっている。更なる変形も[食べられた/書かれた/持たれた/買われた/学ばれた/読まれた]なと、語尾は[-areta]の音へまとまる。 もちろん[書く/書いた/書かれた][買う/買った/買われた][読む/読んだ/読まれた]などの、「語の基幹」と「意味の語尾」の間はやや不規則性を持つと説明できる。変形法則が揃っているなら[書く/×書くた/書かれた][買う/買うた/×買あれた][読む/×読むた/読まれた]となるはずだが、そうではない。 これらの変化は細かい語の識別の他に、「基幹部分の頭から語尾の意味部分へ、発音上の接続をする際の丁度良い語感」で繋がれている、感覚的な妥当性を持った変形と言える。つまり、「基幹部分」と「意味部分」を合わせて使っていく中で自然と収束した言い方が、現代の和語を形成していると言える。 ([-をしたい](I want to -)の表現では、標準変形は[-i-たい:-i-tai.]の語尾で[書きたい/持ちたい/買いたい/学びたい/読みたい:-itai.]などとなるが、非標準変形の例として[食べ-た]の形は強固で[食べたい:-etai]となり、通常[食びたい:-itai]とは言わない。他にも[寝-たい:ne-tai]などがある。) こうした語尾の変化は、他にも[明るい/明るさ/明るかった/明るく-(なる/する)][暗い/暗さ/暗かった/暗く-(なる/する)][近い/近さ/近かった/近く-(なる/する)][遠い/遠さ/遠かった/遠く-(なる/する)]などのように、状態を表す語においてもほぼ統一的な変形によって、細かい状態が言い表される。 さらに[~く-(なる/する)]に続く動詞の変形、[なる/する/した/された]などの語彙は通常の動詞の変形と全く同じ法則性を持っており、その法則性のまま、あらゆる単語で使うことのできるパーツとなっている。英語においても、近い語を流用することのできる場合も多いが、語によって制約が生じやすい。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:日本語における語の変化の応用範囲 日本語では[活用する][スタートした]など、漢語や外来語でも和語の語尾による意味の設定が活用できる。日本語は、関係を示す汎用的な語や汎用的な語尾などの、統一された言語のシステムによって膨大な語彙を柔軟に扱うことができ、新しい語も自然と日本語の文体の中へと組み込む仕組みを持つ。 有名な例として「ルー語」という表現手法がある。「ルー語」は日本語表現の一部をカタカナ語へと置き換えてしまうという表現手法だが、日本語ではそのように語が置き換えられても文章が不成立になることはまず無く、その意味も言葉さえ分かれば問題なく通じる。日本語の構造の強固さを示す例と言える。 他にも日本語における単語の変形として、漢字の接頭辞/接尾辞による漢語的な変形の単語化も存在する。[再○○/再スタート][反○○][○○性][○○化]など、これらは単語であれば新語でも外来語でも統一的に活用できる。言語として接頭辞/接尾辞の応用は珍しくないが、漢語応用では汎用性が非常に高い。 また話し言葉の表現においては和語的な語の変形による応用も行われる。例えば[クールさ](Cool feel)や[ハイソさ](High Society feel)などは和語における「その雰囲気や性質の近さを持つ様子を示す表現[っぽい/っぽさ]の固い短縮の[○○さ]」を端的に表す表現の応用として使われた。 他にも[sabotage]に由来した「怠慢する」を表す[サボる]は、和語的な動詞として[サボろう/サボりたい/サボらせて/サボるな]などと活用される。他にも[エモい](emotional)や[チルい](Chill)といった表現も見られる。日本語にも対応語はあるが、カジュアルな表現としてそうした表現が親しまれている。 [彼は昨日、学校を正当な理由も無く休み、小旅行をして大きく気分転換してきた](He skipped school yesterday without a valid reason and took a short trip to refresh himself.)を[彼はイエスタデイ、スクールをサボり、スモールトリップして超リフレッシュしてきた]と同じ意味で言い換えられる。 例えば英語でも接頭辞/接尾辞はあるが、語彙によって使いにくい場合は多く、また外来語への応用は特に難しい。英語の接尾辞などでは文字列や音の変形を伴う場合もあるなど、例外のような不規則性がよく見られる。なお、英語では接頭辞/接尾辞のようであって全く別の単語になるという場合も多い。 英語はその強みとして、外来語などの「受け入れ可能性」という機能性の高さが評価されている例もあるが、その多くは必要に応じて「英字に落とし込んだだけ」という状態だとも評せる。外来語でも単語によっては応用も可能ではあるものの、単語自体の変形が伴いがちであるために日本語ほど自由ではない。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:日本語の最も変化の大きい「数の読み方」 日本語の和語表現と漢語表現の複合は、数の読み方においても混在する。[1:ichi/hito][2:ni/huta][3:san/mi][4:shi/yon][5:go/itsu][6:roku/mu][7:shichi/nana][8:hachi/ya][9:ku/kyuu/koko][10:juu/to]のように大きく漢語/和語の2通りに発音上の変形も存在し、それぞれで細かい音の変形も存在する。 細かい語の表現においては特殊な和語表現も残存している。例えば[30:san-juu/miso]の和語表現は現代だと普段は使われないが、「30歳」を表す[三十路:miso-ji]や「年末の月末」を表す[大晦日:oo-miso-ka]の呼び方、「20歳」は[二十歳:hatachi]で「月の20日」は[二十日:hatsu-ka]という和語が残る。 日付の語彙ではさらに例外的な語が残っている。ただしそれらの和語は端的に言いやすい表現として残っているだけで、[30歳:san-jussai][30日:san-ju-nichi]、[20歳:ni-jussai][20日:ni-ju-nihci]と呼んでも問題ない。数字の読み方は言いやすさや聞きとりやすさで使い分けられ、また音の変化も生じる。 特に大きな数は主に漢語由来の発音を取るが、言いやすさのために[1000:sen/issen(いっせん)][8000:hassen(はっせん)]など数の2音目が促音[っ]に変化したり、聞き分けやすさのために[4/7]では和語由来の[4000:yon-sen(よんせん)][7000:nana-sen(ななせん)]が使われ、細かく使い分けが行われる。 かなり煩雑性を感じさせる[200:ni-hyaku][300:san-byaku][600:roppyaku]などの音変化は、実態は[ひゃく/びゃく/ぴゃく]の濁音/半濁音の変化である。数からの読みやすさのために直後の[h]の音が、[m/ん]閉口鼻音からは[-mb-/-んびゃく]に、[chi]音と[ku]音が[-pp-/っぴゃく]の[p]+促音に変わる。 日本語を聞きなれていない場合、聞き取りにおいてはそうした細かい変化に混乱してしまう場合も多いと言える。ただし標準的な発音例に従っても、意思疎通に問題はない。日本語話者にとっては違和感が生じやすいものの、日本語話者でも、誤認を防ぐ際には語を明確にできる標準的な発音が使われる。 また、文字上においては原則的に漢数字や代替のアラビア数字によって表現されるため根乱するような部分は無く、情報伝達における煩雑性は限定的である。慎重な確認が必要となる場合には、複数の発音を併用することで、誤認をしにくい言い換えを行うことで強い安全性を保っている。 ▲
目次 ◆ #### 補足:日本語の「濁音/半濁音」という概念と発音の変化 日本語では、数の場面以外においても発音のしやすさのための「濁音/半濁音」の変化は非常に多く存在している。アルファベット表記では別の母音字へ変化してしまうため、連想性が低くく混乱しやすいが、日本語話者は「濁音/半濁音は元の字の変形である」という感覚を持っているため直感的に識別できる。 例えば[発:hatsu/はつ]と[砲:hou/ほう]をつなげた場合、言いやすさのために音が変化し[発砲:happou/はっぽう]という[っ]促音化と[゜]半濁音化が生じている。また[算術:san-jutsu/さんじゅつ]の[算:san/さん]は、一部の語で[足し算:tashi-zan/たしざん][暗算:an-zan/あんざん]など[゛]濁音化を起こす。 他にも[信][心]はどちらも[shin/しん]と読むが並べた場合[信心:shin-jin/しんじん]と濁音化するなど。発話上の変化を許容し、また字で明示できる形式になっている。注記しておくが、こうした言いやすさのための音変化という現象自体は、英語を含む、他の言語においても普遍的に存在する現象である。 アルファベット表記は、全ての音を同列に分解して判別するシステムであるために、こうした口語感覚に由来する音変化に対する追従性が非常に厳しい傾向を持つと言える。つまり、「極端に異なる文字列へ変化する」もしくは「同じ文字列のまま異なる発音へ変化する」といった状態が常態化している。 例えば英語では[t]音の関係がかなり変化しやすい。[want to]は[wanna]に変化し、[going to]は[gonna]に砕ける。さらにアメリカ英語では[Water]の音が[Warer/Wader]のような形に砕けやく、[little]の音が[lillo/lido]のような形に砕けやすいといった傾向がある。言語の普遍的な法則に従っている。 自然な言語の使われ方においては、発音は言いやすい形へと変化していきやすく、発音は自然と変化していくものである。発音を安定させることは、その自然法則に逆らう必要がある。現代日本語では「従来の発音」についてを明瞭な表音文字によって書き表されていることで、基本形が認知しやすい。 日本語でも[体育:tai-iku/たいいく]が実用上[taiku/たいく]と発声されるような潰れ方があるものの、基本的な発音の形が示されて残っているため、[tai-iku]と発音しても問題なく伝えることができる。一方で現代英語は[knight]などの子細な発音は完全に潰れ[nite]と区別ができない。 また日本語は「意味の層:表語文字」と「音の層:表音文字」が分離的に存在し、近代以降の整備によって、発音の変形を素直に書き記すこともできるようになっている。日本語では極端な発音の変化も、表音文字へと音から転写して書き記すこともできるため、発音の大きなブレは認知されやすいと言える。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:日本語における「対象の概念を見る語」の領域 言語の人間的な側面として、英語の[in]/[on]/[inside]などのような「対象に合わせた感覚的な語の選択」は他の言語でも見られる。フランス語などでは性別を規定して、語の選択をする。日本語の場合は「物の数え方の単位の語」において、それらに似た感覚的な選択が大きく表出している。 日本語の性格では、「対象に合わせた語の選択」の傾向が単語の範囲へ混ざらないために、単語の学習に影響をあまり与えない。しかし、「物の数え方の単位」においては対象に合わせて、一つ二つ、一人二人、一頭二頭などのように、数に合わせる語(助数詞)を使い分ける。この使い分けは感覚的な面が強い。 しかも日本語では[1本/2本/3本:いっぽん/にほん/さんぼん]や[1匹/2匹/3匹:いっぴき/にひき/さんびき]など、合わせる語の音が変化する。あるいは語によって[ひとり/ふたり/×]と[いちにん/ににん/さんにん]など語の形が一部独立する。ただし、音の変化は再現しなくとも致命的な問題にならない。 特に日本語に慣れていない場合、[は/ひ/ふ/へ/ほ]からの濁音[ばびぶべぼ]/半濁音[ぱぴぷぺぽ]の変化が全く別の音[h-/b-/p-]のように認識してしまうため、煩雑性を強く感じてしまいやすいとは言える。しかし音の変形は砕けた表現であり、「基本の読み方」をしてもおおよそ問題なく伝えられる。 物の数え方では音読みの数と基本の読みの[1本/2本/3本:いちほん/にほん/さんほん]と呼んでも問題ない。細かい例として、[3本:さんぼん(bon)][3匹:さんびき(biki)]などと数える中、[1分/2分/3分:いっぷん(pun)/にふん(fun)/さんぷん(pun)]という[3]+半濁音化の例もある。極めて感覚的な法則に従う。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:言語に表れている対象の概念への意識の違い 主要な欧州言語の話者にとっては「物の数え方」のために使い分ける語が、言語感覚に存在しないことが多いため感覚的に苦労をしやすい。「合理性が分からない」とも評されうるが、これも英語の[a/the][in/on]などのように、音の意味や状態の固定化、認識の効率化をしている部分であると説明できる。 日本語の物の数え方の問題は、日本語話者にとっての英語などの語の概念によって[in/on]などを合わせる語の変化がある様式の難しさに相当する部分である。日本人にとっては、そうした「単語ごと」に関わってくる細かい変化の方が馴染みが薄く、とても煩雑な語の使われ方だと説明できる。 また日本語の物の数え方は、聞き取りさえ問題なければ、自ら細かく使い分けることをしなくとも、表現を工夫すれば意思疎通の問題は生じにくい。日本語では細かい数え方が分からない場合、無作法になってしまうことはあっても、会話などの表現において致命的な問題が生じる場合は少ないと言える。 おおよそ汎用性の高い[1つ/2つ]と[1回/2回]の数え方だけでも意味を十分伝えることはでき、あとは礼儀として[1人/2人][1頭/2頭]などを覚えるだけでも会話はできる。語群として非常に煩雑さを感じさせる部分ではあるが、細かく使えると便利な表現であって、細かく使わなければならない語群ではない。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:物の数え方の語、「助数詞」について 特に、単純さを求める英語文化の英語話者にとっては、使うとしても汎用的な[1つ/2つ/3つ]の形を使えば十分でシンプルだろうと思いやすいと言える。[1人/2人][1名/2名][1体/2体]、[1匹/2匹][1頭/2頭][1羽/2羽]、[1枚/2枚][1本/2本][1着/2着]、[1冊/2冊][1部/2部][1通/2通]など、あまりに煩雑だと言われる。 その意味について英語話者に説明するならば、日本語の「数え方の語」とは[in/on]や[a/the]などのような「どのような状態であるのか」を識別しやすくするための語である。例えば[1つの作品](one work)と表現した場合、それだけでは「どのような形態の対象であるのか」が一切共有されない。 日本語では[1つの作品]を、[1枚の作品]とすれば「紙などの平面的な状態のもの」だと分かり、[1冊の作品]なら「本など」であると識別することができる。また使い分けの例として、生物などを言い表す[1匹/1頭]の語は、「対象の規模感または重要性」によって使い分けを行い、その印象を伝える機能を持つ。 特に[1つ]の数え方は汎用性が高いものの、「対象の語における最大限の範囲」も示せる性質を持つ。例えば[2つの魚]と[2匹の魚]では、表現が全く異なる。[2匹の魚]はおおよそ2個体の表現だが、[2つの魚]は場合によって「2種類の魚における性質」を言い表せる表現になるため、完全な同義ではない。 さらに[1匹の魚]と[1尾の魚]や[1本の魚]などの違いでは想定される「対象の状態」が識別できる。日本語は数を状態の一種として示しているため、一連の変形の一種として[ひときれの魚](1欠片)や[1皿の魚](食事の1品)のように、同じ部分を入れ替えるだけで「対象の状態」を細かく言い表すことができる。 他にも例えば[ひとさじのお酒][1口のお酒][1杯のお酒][1本のお酒]などでは、その量の規模が異なる。「匙1回分」「口に入れる1回分」「コップ1つ分」「保存容器1つ分」などの違いも端的に言い表している。英語で「数えている対象の状態」を示すには、語の追加や変化が不可欠である。 例えば英語で[one beer please.]と頼んだ場合、どの規模の[beer]を頼んでいるかは明確にならない。飲み物の語では基本として「1杯」を示すことが慣例であるため1杯が標準であるとは言えるが、状況や場所によっては最悪の場合[One barrel](1樽)の[beer]を持ってこられる可能性もあり得ると言える。 日本語であれば[ビール1杯](One glass of beer.)、[ビール1本](One bottle of beer.)のように、数の数え方によって規模感を含めた情報を伝えることが自然とできるわけである。実際には数え方の区別について必然性のある場面ばかりではないものの、使えるととても便利な表現であると説明できる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:日本語の助数詞の理屈 日本語の「物の数え方」とは、数の数え方に物の状態を言い表す語が接着しているだけであると説明できる。英語における[a/the][in/on/at]などの機能性を持っているものだとも言えるが、あくまで数え方にしか使われず、また[1つ/2つ]のような汎用的な数え方が存在するため、問題は回避しやすい。 会話において相手に使われた場合、「数」を聞き分ける必要性はあるものの「数え方の語」の重要性は低く、また判断に迷う場面では「形態の語」で聞き直せる。また使う場合でも「形態の語[-の××で1つ]」を用意すれば[1つ/2つ]などの汎用的な表現だけで言葉として十分な情報量を確保できる。 ちなみに日本人でもおおよそ、そうした数え方についてその全てを意識して覚えているわけではない。知る機会があって、それを自然と覚えていくものである。また非常に感覚的な判断で使い分けを行っている。「数える対象の状態」の感覚的な印象に基づいて、数え方も分別している状態であると言える。 また実用としては[1球場/2球場](1つの球場/2つの球場)や、[1映画館/2映画館](1つの映画館/2つの映画館)のように、端的に数える際は「数+名詞」の形で済ませる場合も多い。また文法の柔軟性から情報として数える場合[魚1/魚2][肉1/肉2]などのように「名詞+数」で簡潔な表現をする場合もある。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:日本語の数え方の応用 日本語における「物の数え方の語」は「状態を示す語」で、これは「順番」を表す言葉へも繋がる。例えば[1人/2人/3人]の末尾に[目]をつけて、[1人目/2人目/3人目]にするだけで「1番目/2番目/3番目」の人を言い表す表現へと変わる。他にも順番を言い表す語はあるが、数を使う場合は法則的だと言える。 一方で英語の数と順番は下一桁1~2が別語に、他も変形する。1[one/first]、2[two/second]、3[three/third]、4[four/fourth]、5[five/fifth]、6[six/sixth]、7[seven/seventh]、8[eight/eighth]、9[Nine/Ninth]、10[ten/tenth]、11[eleven/eleventh]、12[twelve/twelfth]、13[Thirteen/Thirteenth]。 省略表記では下の桁が4~13,0の数値では番号に[-th]をつけ、下の桁が(11~13以外の)1~3では[-1st][-2nd][-3rd]という表記で、順番であることを示す。数が増えていくと度々1~3の変化が生じる。そのため[Number]という「番号を示す語」を短縮した[No.-]を使って統一的な表記に収められたりする。 補足すると、英語の数の語は他の語と合わせると[1つのXXX/2つのXXX]の意味が生じる。順番の語は常に[XXXの1番目/XXXの2番目]の意味で使わなければならない。[Number -]も「数えてXXX目」を表す語で、例えば[Number five./No.5]も「数えて5つ目」を示す。「純粋な数字」の表現が数字のみに限られる。 (蛇足:英語の順番を示す[First/Second/Third]は、[One/Two/Three]と異なる語源を持つ語彙であるため[4:four/fourth]以降の法則性[-th]から外れているとされる。[First/Second]は日本語で例えれば[はじめ/つぎ]に近い語源の語で、それがそのまま「1番目/2番目」を表す語として使われ続けている。) 日本語は[1人分/2人分/3人分]や[1杯分/2杯分/3杯分]などと[分]をつけることで「対象のnつ分に対応する分量」の語になる。英語では「何か1つ」そのものではなく「何か1つ相当の分量」という概念の表現には、対象に対して適切な分量を示す語を付け加えた文へ整理する必要が多く、表現として煩雑になる。 こうした数え方における調整という範囲では、英語よりも日本語の方が簡潔な変化によって様々な表現を作ることができる。「物の数え方の語」にも、合理的な機能性がある。蛇足になるが、主に人が食べる料理などの分量の表現では、[分]の代わりに[1人前/2人前/3人前]にすると、やや丁寧な表現となる。 ▲
目次 ◆ ###### 蛇足:英語の数え方について 英語では「連続的な発展性を持ちうる数の観念を表す表現」として[1:single][2:double]といった表現も存在する。日本語で言えば[1:単独/単一/独身]などの特殊な表現に対応する。「2つの1組[一対]」などを表す場合は[pair][twin][couple]という語も使われたりするなど、英語でも数え方の表現は広い。 また「n回重ねた状態」を表す場合になると[3:triple][4:quadruple][5:fivefold/quintuple][any:multi]といった表現へと発展する。日本語でも[シングル/ダブル/トリプル]は聞き馴染みがあり、英語でも[single/double/triple]までは日常的にも使われやすいとされ、それ以上は専門的な用語の領域となる。 人物の表現では[1:solo]という語も用いられる。これは音楽用語の[2:duet](2人の演奏)、[3:trio](3人の演奏)などに連なる語彙であり、[1:solo](独奏)は「強い独立性を感じさせる単体の動き」を言い表す際などにも使われる。(蛇足:日本語の[コンビ]は2人組を表すが、これは日本語での意味である。) 語の接頭辞の表現ではまた変化が生じて[1:uni-][2:bi-][3:tri-][4:quadri-][5:penta-][6:hexa-]など、また数の数え方とは異なる表現が使われる。[uniform]は「1つの形」で制服などを表す語である。[bilingual]は「2言語を使える」。[pentagram]は「5点を書いた」という意味で5つの角の星型を表す。 日本語では数の読み方における漢語和語の複合や、数え方における助数詞の煩雑な表現が存在すると説明できるが、英語も全てが統一的な語によってシンプルに整えられているわけではないと説明するべきである。[2-]の語だけで[two/second/double/pair/twin/couple/duet/bi-]などがあり、煩雑と評せる。 日本語では熟語などに[単][片][双][両][複][多][諸]などの語も使われるが、[三角形(san-kakkei):triangle][四角形(shi-kakkei):square][五角形(go-kakkei):pentagon][六角形(rok-kakkei):hexagon]などの語でも、原則的に通常の数字の数え方と同じ語を用いる。漢字に由来して法則的に整備されている。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:月日の数え方 なお日本語でも、日付には煩雑な言葉が残存している。形式的に[1日:いちにち][2日:ににち][4日:よんにち][6日:ろくにち][8日:はちにち][20日:にじゅうにち]などと読んでもいいが、話し言葉では[1日:ついたち][2日:ふつか][4日:よっか][6日:むいか][8日:ようか][20:はつか]などの読みが常用されている。 しかし日本語の形式的な文字表記では、全て漢字や漢字代わりのアラビア数字表記へ変換して表記するため、文書における認知には全く負担をかけない。また「暦の月:month」の表現では、古くは月ごとの語が使われていたが、現代に続く言語の整備がされた際に、通常[n月]の表記をするようになった。 一方で、英語圏では「暦の月:Month」の表現において、現代でも数字を通常使わない。英語のMonthの表記は、機械的な処理などの技術的な事情が無い限りは、暦の月を表す固有の語を使う。これは文化的な保存だけでなく、英語は機能的に「その年のn番目の月」を表すことに言語的な手間が大きい。 例えば英語で日付を示す場合、「/any month/のn日目」になる表現、[Junuary first.]などと表現するため「暦の月を示す語」が不可欠である。英語で月の固有名詞を使わずに日付を言葉にしたい場合、[the first day of the first month of /any year/.]などのような冗長な構成を取る必要性がある。 英語の[first]などの順番の語は、「基準から見て何番目であるか」という表現であるため、簡潔に[fisrt month]と言っても「(?)からひと月目」となり、それでは言葉が成立せず、[- of /any/ year.]が必要である。同様に[one month]は「ひとつき/一か月の期間」を表してしまうため、何月かは示せない。 [/number/ month of the year.]と毎回表現することは長すぎるために、基準となりうる「暦の月の固有名詞」を使って短縮している。実用上、その形式を使わなければならないのである。その結果、番号での認識をせず、慣れるまで直感的な判断が難しい表記を維持し続けていると説明できる。 データ表記ではアラビア数字のみを並べた表記法も存在するが、例えば[y/m/d]での[2025/10/12]の日付を発音する場合、[October twelfth, twenty twenty-five.]あるいは[the twelfth of October, -]とMonthは固有名詞にする。なお2025年を[two thousand twenty-five]とするのは形式的な表現になる。 ひとつ重要な点として、そうした英語の基本的な年月日の発声では「月:固有名詞」「日:順番を示す語」「年:数を示す語」で異なる基準の語が使われている。それぞれの表現によって区別が可能であるために、Month、Day、Yearの語を必要とせず、簡潔に言い表すことが許されている。 ▲
目次 ◆ ###### Notes: How to count months in Japan. In Japanese, simply writing [n月] directly means "the n-th month of the year." For example, [Jan:1月], [Feb:2月], …, [Dec:12月]. If you want to express "one month" as a period of time, you can use expressions such as [ひとつき:hito-tsuki] or [一か月:ichi-ka-getsu]. (訳:日本語では[n月]と書くだけで「その年の何番目の月」を言い表せる。[Jan:1月][Feb:2月][Mar:3月][Apr:4月][May:5月][Jun:6月][Jul:7月][Aug:8月][Sep:9月][Oct:10月][Nov:11月][Dec:12月]。もし[One month]を表したければ[ひとつき:hito-tsuki]や[一か月:ichi-ka-getsu]という表現が使える。) In Japanese, the date [y/m/d: 2025/10/12] is written as [2025年10月12日] and pronounced as [ni-sen-ni-juu-go nen, juu-gatsu juu-ni nichi]. Also, since the order goes from larger to smaller units, the [m/d/y] notation often causes considerable confusion for Japanese speakers. (訳:日本語では、[y/m/d:2025/10/12]の日付は、[2025年10月12日]と表記し[にせんにじゅうご ねん じゅう がつ じゅうに にち/ni-sen-ni-juh-go nen, juh gatsu juh-ni nichi]と発音される。なお日本では基本大きな単位から並べるため、[m/d/y]の表記が非常に混乱する。) ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:他の「対象の概念を見る表現」 日本語における、他の感覚的な語の選択の例として[ある/いる]の使い分けがある。これは「言葉の格」ではなく「対象の性質」を見て、感覚的に使い分けている。端的な説明では主に「動物(または生物)とそれ以外」などと言われるものの、実際の使われ方からするとあまり正確ではない。 端的に言えば「意思がありそうなら[いる]/なさそうなら[ある]」である。主に「自律的な動作や意思のある、もしくはあり得ると感じられる」という対象に[いる]が使われ、それを感じられない対象には[ある]の語が使われる。例えば生物の中でも植物や菌類は、一般的に[ある]と呼ばれやすい。 例えば「車」という存在に対して、「動く気配のない止まっている車」は[ある]と認識されやすいが、「走行中または運転中の車」は[いる]にひっぱられやすい。人が介在していなくとも、例えば「固定されたロボット」は主に[ある]だが、「自律性の高いロボット」は[いる]の認識にひっぱられやすい。 なお日本語の場合、[いる/ある]や物を数える語も含め、これらは単純な概念だけではなく、「社会的な礼儀」という感覚を使って語を選ぶ部分も大きい。動物に対して生存している状態では[いる]を使い、死亡後は[ある]の状態へと移るが、礼儀において死亡後も[いる]として呼ぶこともある。 また大切な人形なども、その精神的な重要性から[いる]として扱われやすい。そうした敬意を持っていれば、植物や菌類も[いる]と表現する。ちなみにこうした「擬人化表現」への変化自体は、形式性の強い英語などでもヒトのみに使うべき[He/She]をペットなどへ使うような例は広く見られる。 これは数え方の語においても同様である。例えば[1人/2人]は「[いる]状態の人間」を指す言葉であり、遺体の数え方は形式上「人の形のものが[ある]状態」の[1体/2体]と数えることもありつつ、礼儀において[1人/2人]や、より慎重な状況では通常生きた人の丁寧な数え方である[1名/2名]を使うこともある。 ちなみに動物における[匹/頭]の使い分けでも、敬意を持って扱う/慎重に扱うという対象となる場合、[匹]では軽い印象の状態を示す語でもあるため、より重い印象/大きな印象の状態を示す[頭]が使われやすい。例えば、通常[匹]と数える大きさの犬でも、盲導犬などの役割を持った犬は[頭]になりやすい。 細やかな礼儀にも関わってくる部分であるため、人やペットに対して[ある]と言ったり、[1つ/2つ]と数えてしまうことは「モノ扱いの失礼な表現」になる。英語において「人を[It]と呼んでしまう」ような、非人道的と言える非常に失礼な表現となってしまう。存在は[いる]と覚えるのが安全と言える。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:「名前につける敬称」の効果 日本語における語の識別性において、「名前につける敬称」もまた重要な語である。英語圏からは単純な礼儀を示す語彙などのようなものに位置づけられやすいが、敬称もまた識別のために必要となっている表現であると言える。[Mr.-/Ms.-/Mrs.-]などのように、[-さん]とつけることで語を人物へと変換する。 日本語ではこの「名前につける敬称」が多彩である。現代で最も一般的かつ汎用的な語が[-さん]、やや形式的な表記としては[-氏(し)]、相手を大切に表現する際は[-様(さま)]、儀礼的な表記では[-殿(どの)]を使う場合もある他、やや親しみのある語では[-君(くん)][-ちゃん]など、他にも細かく存在する。 あらゆる語に共通する機能性として、人物につけられる敬称の語は、あらゆる対象の語を人物として設定し呼称することができる。これは人物だけではなく、役職や施設などを人物として呼称することもしやすく、極めて汎用性の高い語であると説明できる。他者を示して呼ぶことが非常にしやすくなる。 しかし欧州の主な言語における英語の[Mr.]などの語は、非常に形式的な固い表現であり、儀礼的に用いられる傾向が強い。そのため日常的な場面において使われる敬称の語そのものが根付いていない。それこそ、限定的にも汎用性の高い日本語の[-san]の表現を借用して使っている例も見られるほどである。 日本地域は古くから様々な方言を持つ地域の人々、つまり様々な名前の人々が行きかったため、名前と語の衝突が珍しくないという言語事情がある。欧州圏の文化では一般的に「人名に使える語」という領域があり、人の名前にはそれらが使われやすく、人の名前の区別性が軽視されていったと考察できる。 日本の典型的な名前の例として、女性名の[サクラ]は「桜[Cherry (blossoms).]」と同じ語であり、[ヒナタ]は「日の当たる場所[Sunny place.]」と同じ語である。古い格式ある家柄は字面の良さを、現代の一般家庭では音の良さ基本として、時代ごとに大きく移り変わっている非常に多彩な名付けが見られる。 日本において自由な名付け方が許容されている理由の一つが、語の識別性の高さ、特に敬称が使われることで人物名の識別性の高さにもあると考察できる。敬称の持つ儀礼的な性格もまた文化的に重要な機能だが、言語としては「他者を呼称しやすくなる」という機能性が非常に大きい効果を持つと評せる。 ちなみに乗り物や役割を持つ動物などに対する敬称的な符号として[-号]というものがある。例えば[マウントフジ号]とした場合、[マウントフジ]という名前の付けられた動物や乗り物が表されている。現代的には動物にも人間的な愛称を敬称が使われるためなじみは薄いが、形式的には[-号]が使われる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:日本語における人の呼び方、自分の呼び方 日本語では名前に付ける敬称に多くの種類があるだけでなく、「人の呼び方」(人称代名詞)もバリエーションがある。三人称では[彼/彼女]の他に、[奴(やつ)]という語があり、さらに[奴]から指示語表現を付け加えた語の変形として[こやつ/こいつ][そやつ/そいつ][あやつ/あいつ]といった表現がある。 また付随させて対象を指定する語彙である[この/その/あの]は人を呼ぶ際にも応用しやすく、ややカジュアルな表現として[この人][その女][あの少年]のように表現されるだけでなく、フォーマルな場合は[方(かた)]という語を使った[この方/その方/あの方]という表現が丁寧な三人称として存在する。 二人称では、[あなた][あんた]、[そちら][そっち]、[きみ][お前]などの語がある他、より丁寧な表現では[貴(き)-]と対象を示す語を組み合わせて[貴殿(きでん)]や[貴社]などが存在する。なお同じ形式の[貴様]は元々丁寧な表現であったが、広く使い込まれたことで非常に軽視した二人称となっている。 また役割や立場と敬称を合わせた呼び方も常用されており、家族において[父さん][母上][お爺ちゃん][婆様]などの様々な形の呼び方が多いと言える。その延長として[お兄さん][お姉さん]の語は、[兄](Big brother.)や[姉](Big sister.)だけではなく、他人に対する軟らかい呼び方としても使われている。 なお「立場+敬称」の表現語は敬称は基本的に丁寧な語であるため、敬称をつけない相手に対しては使われにくく、[お父さん](Dad)、[お母さん](Mom)、[おじいちゃん](Grandpa)、[おばあちゃん](Grandma)などは使われるが、[息子/娘][弟/妹]の語を使った呼び方は一般的ではなく、名前などで呼ぶ。 他には[先輩](senpai)や[先生](sensei)といった立場の語は、名前に合わせる敬称として使われるだけでなく、そのまま単体でも二人称として広く使われている。名前に合わせる敬称がそのまま二人称となる語としては[陛下](- Majesty.)や[殿下](- Highness.)などもあり、おおよそ同じ敬意の作法と言える。 そして日本語は一人称の多さがとても有名である。最も一般的で汎用的な語は[私(わたし/わたくし)]だが、[あたし/あたくし]、[うち]、[俺/おれ]、[自分]、[僕/ぼく]、[わい][わて]などの他に[儂/わし][わー][おら][おいら][おい]、さらに非日常的な[我/われ][拙者][吾輩][某][小生][妾(わらわ)]などなど。 様々な一人称があり、それらからさらに口語として崩れた表現もある他、書き字においてはさらに「(漢字)/ひらがな/カタカナ」などを使い分けることもある。なお形式的な場面では[当方]や、団体規模である場合は[当-]か[弊-]を所属に付けた[当社][弊社]などの表現が主に用いられる。 ▲
目次 ◆ ###### 蛇足:呼び方の語彙 日本語における人の呼び方は、「立場の認識を明示する語彙」であると説明できる。言語に社会階層の習慣が根付いているなどとも言われたりするが、社会的な機能性は高い。呼び方から立場の認識が共有されることで、相手や第三者がどのような対応をするべきかも想定しやすくなる実用性があると言える。 文化的な習慣として根付いているために、一般的に意識して使われているわけではないものであると言えるが、無意識的な範囲において他者を認識する手掛かりとして機能していることがあるとも説明できる。他者との関係において、礼儀や注意の必要性を把握しやすくなり、警戒心の調整をしやすくなる。 他言語でも「人の呼び方・自分の呼び方」において、象徴的な立場や印象的な関係のための語彙が存在することは珍しくないと言えるが、子細な印象を持った多彩な語彙を持つ言語はやや珍しいと説明できる。文化的な影響から語彙が増えた地域は他にも存在するが、日本の語彙は非常に顕著な例と言える。 英語の場合、特定の他者を呼ぶ際に役職語[Doctor.]や敬称語[Sir.]を用いたり、立場語[Dad/Mom]や特別な関係を示す語[Honey/Babe][Dude/Mate/Bro]を使う場合もあるが、特に一人称は[I/we][me][myself]などに集約され、三人称も基本は[he/she/they]の語彙に集約され、その他では特殊な表現を必要とする。 そうした言語文化では「言語的に対等な関係である」とも説明されるが、表現語彙が少ないほど他者を知るための情報量が少なくなるため、社会的には緊張関係が強まりやすいとも説明できる。相手がどのような立場か分かりにくいために、他人に対する心理的な負荷はむしろ大きくなりやすいと言える。 日本語では呼び方だけでなく、広い言葉遣いにおいて丁寧語、謙譲語、尊敬語といった表現が存在するが、これらはただ自らを格下に位置付けるということだけではなく、相手の警戒心を抑える方法が言葉に内包されていると説明できる。つまり、英語の方が難しい手法に頼る必要性が大きいと説明できる。 ▲
目次 ◆ ### 蛇足:礼儀と品格 英語などの言語は、一般的な呼び方に細かい立場関係が反映されにくいため、「言語体系が細かい階級を作らない」などとも評される場合もある。しかし、現実社会の実態として立場の違いが存在しないことはない。英語であっても、言葉遣いなどによる心象的な影響は実態として存在すると説明できる。 日本語では「敬語」というカテゴリで丁寧な言葉遣いが整理されていると説明できる。英語でも、上流階級などの社会的な中核の立場で使われる言葉遣いが標準的な言葉として扱われ、そこへの近さが丁寧な言葉遣いのように扱われていると説明できる。英語でも、言葉遣いに出自の差が見られると言える。 英語圏の出身であっても、実態として育った環境から身につける英語の傾向は異なる。より標準的で形式的な言語能力を持っている人間ほど、より上流的な社会環境に親しんできたと認識されやすく、標準性や形式性の不足している人間はそこから外れていると判断されやすい。英語でも、心理的階層はある。 こうした言葉遣いによる心理的な階層そのものは、言語の普遍的な法則であると考えられる。どの言語であっても、教育の浅い階層ほど語彙は乏しく乱暴でも分かりやすい語が優先され、また発声も乱雑になりやすい。社会性の高い階層ほど、豊かな語彙から安心させる語を優先し、安定した発音で発する。 それは英語であったとしても同様であると説明でき、英語であったとしても言葉遣いにおける礼儀や品格という心理的な印象の存在はあると言える。しかも、英語における丁寧な言葉遣いは語彙の豊富さに強く依存すると説明でき、教育の浅い階層ではそうした表現そのものが困難だとさえ考えられる。 特にやや迂遠な表現を使うことは、多くの社会文化において社会階層の高い領域における上品な表現の一種として見られやすい手法であると説明できる。つまり、日本人は「迂遠な表現をしがち」だとも言われるが、それは日本人が一般的にも上流階級的な表現法が普及していると評することができる。 また日本語では、丁寧な言葉遣いが敬語として形式化されていることで語彙として覚えやすいとも説明でき、それに従うことで心理的に社会性を感じさせることがしやすいとも評せる。丁寧な言葉は見知らぬ他人でも互いに社会的な安心感を形成しやすいため、その容易さは社会の心理的負担を軽減しやすい。 特に日本語では「丁寧な表現」というパーツが存在し、一般的な語彙と組み合わせることで、最低限丁寧な言葉を作ることができる。カジュアルすぎる[めっちゃヤバいっすね!](That’s really crazy good!)といった表現も、一般語の[とても][良い]と丁寧な[ですね]にするだけで、最低限丁寧な語になる。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:マジでどうもヤバい言葉遣い 日本語でもカジュアルな表現領域は広く存在し、配慮が必要ない場面においてはそうした語彙が中心的に用いられる。その中でも非常に解像度の低い、表現範囲の広い語の代表例として[どうも]と[ヤバい]の2つを上げることができる。[どうも]は丁寧な語の一部であるが、便利であるためカジュアルに使える。 日常的な、非形式的な語が非常に粗雑になっていくこと自体は言語において普遍的な現象である。古今東西、ほとんどあらゆる時代やあらゆる文明において、若者言葉に苦言を示している例がよく見られると言える。言葉遣いの乱れという事象は、自然に使われている言語の普遍的な性質だと説明できる。 近年の英語のカジュアルな言葉においては、例えば[cap]が「虚偽」という表現になっていたり、[no cap]として「本当に」という表現になるなんて話がある。元々[cap]は「頭に被せる帽子」を表す語であり、転じて「塞ぐために被せる物」も[cap]と呼ばれ、「真実を塞ぐ物」も[cap]と呼んでいるわけである。 他にも[Slay]が元々は「何かを仕留める」ような語から「難題をやっつける」ようなことからか、特に「カッコよくやり遂げる」という表現としても使われているらしい。その他にも様々な表現がある。使われている言語の細かい言葉遣いは、時代や地域ごとに様々な使われ方をし続けているものである。 ▲
目次 ◆ ## X-X「学習の不可欠性」とそれによる社会的負担 英語では「字と音の不一致」「単語や音の多義性と発展性」「文法のフレームと子細な語の選択」などの重い学習負荷がある。英語の学習負荷は、母国語話者であっても重い。英語圏の母国語話者でも、言語の重い負荷を克服するために十分な言語学習の機会を得られなければ、致命的な格差が生まれる。 たとえ英語圏の母語話者であっても、英語への理解のための学習に長い時間をかけなければならない。特に、英語は母語話者でも、十分な学習機会が無ければ簡単な文章の筆記も読解も非常に難しくなる。独力で学習できるようになる能力を持つことさえも、長い学習時間を必要とすると言える。 十分な初期教育を受けられない場合、言語能力に致命的な不利が生まれやすく、社会的な格差へと転じる。言語的な能力が欠けてしまうと、社会的な主張をすることに強固な制限が生じる。社会的な情報発信が困難になるため、社会的な救済を求めることも難しい。そうした悪循環が潜在していると言える。 英語の母国語話者は社会的な手段を確保するために、英語の問題を克服しなければならない。つまり英語圏の社会は英語の問題を克服するための努力を恒久的に課されている。それは人道的な観点から見て、英語圏の社会は英語の問題を克服するための不断の努力を恒久的に尽力し続けなければならない。 もしもの話として、もう少しでも学習性の良い言語体系であったならば、英語学習にかけなければならない時間はかなり短縮できただろうと考えられる。もし、英語学習に浪費しているリソースを余らせることができていたならば、それ以外の多くのことへ、リソースを配分することもできただろう。 英語圏の社会は、そうした言語的に不合理な性質を抱えたまま、それを克服するための尽力を強いられ続けていると言える。また人道的な観点から見て、英語圏では基礎教育から教育格差が社会的な致命的格差へ繋がることから、人道上、一般的な英語教育のための、不断の努力をし続ければならない。 しかし現実的に、英語圏において全ての国民への十分な教育が実現できているのだろうか。データを見る限りでは実現できていないと評価しなければならない。人道的な観点から、教育格差の大きい地域ではさらなる努力をしなければならないはずだが、社会的な負担の重さからそれが困難なのである。 あるいは基本としている言語の難しさは「英語の複雑さを容易に克服できる能力を持った人材を結果的にピックアップしやすい」という社会構造として機能している可能性も考察できてしまう。英語の自然さ、習熟度からその教養の程度を判断しやすくなる。無慈悲な合理性を持つ言語環境であると説明できる。 ▲
目次 ◆ ### 補足:英語の難解性と社会的な正当性 英語そのものの難しさではなく、英米文化における言語の扱いの事情を補足する。英米文化においては「正しい文章であること」が非常に重要になる。社会制度上、客観的な正当性を確保するために「正しい文章」が重視され、「正しい文章」でさえあれば原則的に話者の瑕疵は無いものとして扱われる。 例えば、英語の単語の多義性と文法による難読性の典型例が[Buffalo buffalo Buffalo buffalo buffalo buffalo Buffalo buffalo.]という正しい英文である。このような難解な文によって意思疎通が不十分だった場合でも、英米文化では一意な正しい英文なら、話者の瑕疵が原則的に存在しないとされやすい。 社会的には、社会制度の安定性を守るために「正しい文章」を重視することは合理的であるとは評価できる。だが、不測の状況または不十分な状況によって、正しい言語化をできない場面では、社会的にはその立場を矮小化されてしまいやすい。正当な形によって言語化する力が、非常に強い力を持つ。 そのため英米文化では、社会的な立場を守るためにも英語の理解が極めて重要である。しかし英語の学習は簡単だとは言い難い。また英米でも、その全ての地域において英語の教育普及が十分であるとは評価できない。悪文も決して珍しいものとは言えないはずだが、正当性が弱いために矮小化されてしまう。 英語では文法や単語を使い方を間違えると、意味が非常に大きく変質してしまう問題が存在し、文章として破綻することも多い。社会的な制度において、そうした文章を配慮して認めることも難しい。知識の不十分な人間は「正しい文章」を作れないため、社会的な発言権が極めて制限されやすいと言える。 英語は言語的な学習が難しい上に、英米文化では社会的に言語能力が不十分な場合、事実上、その社会的な立場を認めにくい社会構造である。教育機会に恵まれない立場の場合、社会的に正当な主張をすることさえ困難となる。言語と社会構造から、弱い立場から脱することが非常に難しいと考えられる。 改めて注記しておくが、英語はたとえ母国語話者でも、基礎的な学習さえ、やさしくない。通常は教師となる相手から基礎的な教育を受けて、基礎的な学習を十分進められなければ、自力で学習することさえも著しく難しくなる。そして自主的に学習することの障壁が大きいため、学習意欲も挫かれやすい。 ▲
目次 ◆ #### 補足:教育普及について 英語に限らず、現代社会での普遍的な問題として、言語に関する基礎教育は極めて重要なことである。英米社会の例に限らず、社会的な参加、あるいは新たな学習のための基礎能力において、地域における主要言語の基礎教育は、人道的に保障されなければならない課題である。人道的にこれは否定されない。 現代文明の大原則として、地域社会は可能な限り、基礎教育の普及に尽力しなければならないという人道的な義務を背負っていると言うべきである。それは国際的な合意において、教育を受ける権利が基本的人権の一つとしても数えられている。基礎教育の普及が不十分であることは、人道的な問題を疑える。 (「世界人権宣言[Universal Declaration of Human Rights]」の第26条、[Everyone has the right to education. ---](すべての人は教育を受ける権利を有する。(後略))。この他にも国際的な目標とされる枠組みで、生存のための要素(貧困/飢餓/健康)の次に「教育」が位置づけられている。) (その他にも国際条約の「[ICESCR]の13条」において、同様に教育への尽力が規定されている。なお、それらの中において直接的に「言語の教育」そのものが明記されているわけではないが、あらゆる基礎教育において言語教育は不可分なものであり、そこに言語教育が含まれることは自明である。) 英語圏を含め欧米社会は世界的に見てかなり先進的に国家的な庶民への教育の整備を開始していたはずの地域である。これらの地域において少なからず、未だに教育が十分に普及しているとは言い難いデータが見られる。それは社会的な問題だけに由来するとは限らず、言語的な問題を、強く疑える。 英語圏の社会がその問題に無自覚であるはずはなく、可能な限りの尽力がなされているであろうと考えたい。それに英語であれば、英語圏の社会規模によって教材なども非常に充実しているであろうと想像しやすい。しかし、英語圏においても言語の基礎教育が万全に行えているわけではない。 特にアメリカなども教育の問題を自覚しているはずであり、非常に巨大な社会と経済の規模によって、教育の研究も追求され続けているであろうと考えたい。そうした社会環境でありながらも、初等教育における言語教育にかける時間は、他言語と比較して特別に短くできているとは言い難い。 実態として「現代の英語が基礎教育の効率性において良好であるとは考えにくい」という考察に行きつく。また英語の持つ様々な性質への論理的な評価において、英語には相当の学習負荷が存在することを説明できる。これらを整理すれば、英語の基礎教育にかかる高い負荷の存在は、強く示唆される。 ▲
目次 ◆ ### 他言語との比較:「日本」の教育 教育普及の不全について、地域や社会の規模を理由に正当化されてはならない。小国とは言い難い人口の多さと地域の大きさにおいて、基礎教育のほぼ全国民への普及を実現している「日本」という例がある。よって教育の普及が、人口の多さや地域の大きさを根拠として不可能であるとは言えない。 日本では、義務教育の範囲であればほとんどの地域において子供の徒歩圏内に学校が存在すると表現できる環境ではあるが、現実的に少なくない範囲において学校が遠い場所も存在する。日本国内でも学校が近くに無い地域は存在し、そのような環境でも基礎教育を受けられるよう整備されていると言える。 もちろん、日本において教育の普及が実現できているのは、「日本語」という基礎教育の学習効率がとても良好な言語体系を持っていることも大きな理由と言える。日本語は日常会話から地続きに文字教育が始まり、段階的に高度な言語学習へと進んでいく。第一言語での学習性は合理的な言語だと評せる。 日本では義務教育の制度化よりも前に、江戸時代中期ごろから多くの庶民が教育を受けられる社会となった。その社会教育は、江戸時代よりも前から多くの知識層が広く存在していたことで実現できたものである。そして、それらは日本語が古くから基礎教育での学習性が良好であった傍証として提示できる。 つまり、学びやすい言語体系を持つことでより多くの人々が使えるようになり、そうした人々によってまた多くの人々への教育ができるようになる。教育を受ける側から教育を与える側が十分に育成されていきやすいことで、広大な規模において持続的な教育環境を実現していると説明できる。 実際に、現代の日本ではかなり多くの人が文字に親しむ。日本は非常に多くの人が多くの本を読める。また日本はとても多くの人が多くの文章を書ける。もちろん詳細な質は高度なものもあれば低俗なものもある。日本ではごく日常的な文章も非常に多く見られるほど、とても多くの人々が文章を書ける。 日本語との比較だけでも、英語の不合理さや不効率さを強く疑うことができる。大げさに言えば、日本が欧米列強へと追いつくことができたのは、英語を含む主要な欧米言語が言語的な負債を解消せずに使い続けることで大きな負担を背負い、その歩みを遅らせていた可能性さえも疑えてしまう。 補足:欧米社会は特に出版技術などの面において、日本よりも先進的な立場にあったはずである。日本で高速な大量生産を可能とする活版印刷などが普及するのは数世紀遅れてのことである。欧米社会ははるかに早く教育普及をしうる立場であったようにも思えるが、実態は、劇的な差が見られない。 ▲
目次 ◆ #### 補足:社会を駆動させる力 なお「日本は広く豊かな社会を持っているから、教育が普及できている」という理由によって、日本における教育の普及が特殊な事例であるようにも考えられる。しかし、そういった視点は「[鶏が先か、卵が先か]"Which came first, the chicken or the egg?"」の話にすることができる。 日本が広く豊かな社会を安定させている環境もまた、広い教育によって支えられているものだと説明できる。広い教育によって多くの人材が育てられることで、社会を安定的かつ豊かにする活動を活発化させている。広い教育によって支えられた社会があることで、広い教育を支えることができると言える。 日本という地域は、古くから安全で豊かな土地であったとは言い難い。自然が豊かであり、特に水資源において豊富な傾向を持つ土地であると説明できるが、しかし強烈な天候の影響を受けやすい土地である。歴史的に飢饉を何度も経験しており、さらに水害も非常に多い過酷な環境だと説明できる。 日本という国が豊かな社会となったのは、その環境の過酷さを克服するために社会的な尽力をして、文明を前進させてきたからである。環境を改善してより強靭な国土を作り上げるために、とても多くの人々が努力を積み重ねてきたからこそ、安定して豊かな社会が成立していると説明するべきである。 そして日本社会が現代日本の環境まで文明を前進させることができたのは、前進させることのできる多くの人材を育ててきたからだと説明するべきである。それは日本社会が広く豊かな社会を持っている理由において、中でも教育を広く普及させてきたことの重要性を否定することはできない。 日本は明治時代での教育整備の際に、突然虚無から大量の教育者が生まれたわけではない。国家的な教育整備よりも前に、十分な数の人材がいなければ早期には実現しなかった。それより前の江戸時代にも寺子屋などの教育施設は広まったが、その時に突然虚無から大量に教師が生まれたわけでもない。 日本においては江戸時代よりも前から、知識層が各地へ広がって存在している社会環境が存在していた。争いの多い戦国時代であっても、知識を持つ人々が各地へ広がってさらに知識を持つ人々を増やしていった。そうした知識文化の基盤が広がっていたからこそ、後世の庶民教育を早期にできたと説明できる。 そうした社会的な知識基盤が元々広く存在していたからこそ、日本は明治時代からの近代化やその後おいて、迅速に社会の整備や発展を進めていくことができたのだと言える。そしてそれらは何よりも多くの人々へ知識を広げること、教育を普及させてきたからこそ、現代の日本があると言うべきである。 ▲
目次 ◆ #### 補足:「読解力」について ちなみに、いわゆる国際的な学力に関する調査データなどについては、その調査方法や調査対象による偏りが生じる点についてを留意するべきである。例えば[PISA]の調査では「その地域での十分な教育課程を経ている児童」が主要な調査対象であり、統計的な妥当性は考慮されているが完全な平均ではない。 また言語の違いによって生じるテストの微細な変質は否定できないものであり、言語に関するテストは特にその影響が大きくなりやすい。これらの調査は妥当性を持って調整をされていると説明できるものの、国際的な比較は一つの指標であって絶対的な基準ではないことを留意しなければならない。 特に日本語は他言語から非常に孤立した言語体系を持つために、テストの内容を国際的な標準性へ合わせることがとても困難であると説明できる。十分に検討され、妥当性を持って内容が設定されているとしても、言語の違いによる変質は否定できない。これは高低どちら側においてもの話である。 ▲
目次 ◆ ### 「言語の人間性」の比較 比較して、英語は「人類のための言語」としては非常に不親切だと評せる。社会的に十分な英語の能力を備えるには、母国語話者でも基礎教育に豊かな学習機会が必要である。たとえ母国語話者でも、基礎教育時点で十分な教育と長時間の学習機会が無ければ、読み書きに根深い問題を抱えることになる。 あらゆる言語において、学習機会が不十分な場合の問題は"読み書きができない"だけではない。あらゆる言語において、若い頃の言語学習が不足していると"読み書きを覚えること自体が難しい"という困難性が生まれる。そして英語は、英語の学習性の難しさがその克服をさらに難しいものとしている。 英語では、おおよそ親身な教育と長時間の学習機会を得られなければ、最低限の読み書きをすることすら困難となりやすい。言語の難しさは教師側の負担も大きい。親身に教育できる教師も無限にいるわけではない。また子供たちも全員が真剣だとも限らない。そうして教育格差、学習格差が大きく生じる。 特に言語学習は、幼少期の認知を含む早期の学習が非常に大きな影響を及ぼすことが知られている。人体の仕組みとして、幼少期に十分な言語の仕組みに触れる機会が乏しければ、言語能力の基盤が十分に育たず、生涯、苦手になってしまいやすいと説明できる。学習のしやすさは非常に大きな影響を及ぼす。 比較として「日本語」では基礎教育の学習性が非常にやさしく、日常会話の音をそのまま文字へ書き記せる表音文字体系がある。身体的な直感性の高い表音文字の基礎を備えてから、それを前提として段階的に意味を区別しやすくする表語文字体系を覚えていき、感覚的な識別を高める言語体系を持つ。 日本では実際に、小国とは言い難い人口の多さと領土の広さを持ちながら、基礎教育をほぼ全国民へと普及させることを実現していると評価できる。日本では最低限の読み書きのできる人がとても多く確認できる。高度な文字体系への習熟には個人差があるものの、基礎教育は人道的に普及していると言える。 英語には言語としての不効率さや不合理さがある。それは実際に教育格差などの社会的問題が広く確認できる。それは英語の言語的な性質が格差の是正を難しくしていると評価することができる。人道的な観点から考えれば、英語は「人道上の問題を抱えている言語である」と評してしまうこともできる。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:基礎教育と発展的学習 ちなみに日本も、「十分な読解力」という水準では完璧とは評価できない。文字を読める人は多いが、その詳細な読解力には格差が見られる。読解力は基礎教育だけでなく、基礎の上に広く学んでいくことで鍛えられていくものであり、読解の習慣を持たない人は、その能力が十分ではないことも多い。 ただし、それは言語の普遍的な傾向だと言える。あらゆる言語で、より深い言語能力を持つためには、読書などの習慣から様々な文章を読むことに慣れて、多くの言葉を学習していく必要性がある。あらゆる言語において、言語へ繋がる学習的な習慣が乏しい場合、言語能力はあまり鍛えられないままとなる。 日本では、社会体制として多くの人への基礎教育が普及しており、基礎教育を真面目に受けられていれば、最低限、基本的な文字は読めるという状態になる。ひらがな/カタカナは当然として、常用漢字の内、頻繁に使われる漢字や簡単な漢字なら最低限、読むことはできるようになっていく社会環境である。 だが、そこからさらに言語能力を発展させていくかどうかは、個人の意欲などに大きく左右される部分である。日本ではほとんどの場合、自力で学ぶための基礎的な能力は持っており、さらなる学習ができる状態だと言うことはできる。しかし学習できる習慣の有無によって、言語的な格差が生まれる。 日本語と日本の環境では、基礎的に身につきやすい能力だけで「最低限読むこと」ができる。そのため意欲の乏しい人々にとっては、学習の必要性に気づきにくい傾向にあるとも考えられる。日本では「分かりやすい表現」の文化が広く根付いていることで、やさしい反面、圧力の緩い状態だとも考えられる。 「最低限使えてしまう」ために、学習が不十分な人は使えていない領域や読めていない部分に対して、無自覚や無責任であることも珍しくない。浅学な人からの「国語教育って何を学ぶんだ?」という感想も見られる。社会制度による社会的な圧力の弱さから、高度な言語能力への訴求が乏しいとも評せる。 しかし言語能力は、非常に重大な能力であると説明できる。ほぼあらゆる学習で言語が使われるため、言語能力が不足してしまっている場合、その学習自体に支障が生じる。実態としても、「国語」における基礎的な能力は、他教科の能力への強い相関性が見られると言われている。言語は知識の基盤である。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:インターネットへの参加水準 なお、インターネットでは文字による交流が主な領域になっていると言える。現代ではスマートフォンの普及によってより多くの人々が「文字による交流」をできるようになっているが、日本はその基礎的な教育の成果によって、非常に広い範囲の人々がネットに親しめる環境を持っていると言える。 日本では基礎教育が普及していることで、インターネットを扱える人々が非常に多い。日本語の文字体系が母語として非常に扱いやすい環境から、「書く側」でも非常に様々な人が見られる。そしてその環境から、最低限の国語力しかもたない人々の存在も、ネット上で珍しくなく見られる言語圏だと評せる。 英語圏では基礎教育の機会に恵まれなければ文字を読むことや書くことが難しくなり、インターネット自体扱うことが困難な立場にさえなってしまいやすいと言える。これによって知識的なフィルタリング、言語能力での足切りが生じやすい傾向があると考えられる。知識層にやや偏りやすいと評せる。 ただし英語圏でも、カジュアルな場面では形式性から崩れた文体もありふれていると説明できる。形式性が必要な場面では十分に形式的な文章が当然となっているものの、直感的な交流を重視する場面では状況という文脈に依存する表現は珍しくも無い。だがそれは、グループ外側からはより難解でもある。 ▲
目次 ◆ ## X-F 補足:「発音における繊細さ」 英語の会話では、英語の構造自体が使う語を削減している上に、発話ではさらに語が短縮される。また発音も非常に短縮化された形で収まっていることで、会話における実際の音の量はさらに少ない。実質的に核となる音ばかりで構成され、その繊細な音の聞き取りが非常に重要となると言える。 さらに英語は「音の多義性」や「近い音の多さ」の関係から、発音のブレによって別語への誤認が生じやすいと説明できる。また文法の形式的な繊細さなどから、誤認によって文法の認識がうまくいかない可能性も大きくなる。習熟者にとっては文法の形式性が類推性を高めているとも言えるが、難解性を持つ。 つまり英語は実用上の弾力性が乏しいと言える。シンプルな構造に整備されていることによって状態の崩れに対する靭性が弱く、聞き間違いや言い間違いの問題や、それらに対する補完がやや難しい様式となっていると考察できる。互いの声が十分に聞き取れる状況でなければ、会話を成立させづらい。 英語の発声は、母語話者も含めて十分な指導や教育を受けていなければ、一般的な会話にも支障が生じやすい。しかも発音や文法が繊細であるため、聞きなれない単語があると、認識に混乱を生じさせやすい。英語の会話とは、相応の教育や学習を済ませている者同士でなければ、支障が出やすいと言える。 十分に英語の教育を受けて学習している健常者の話者同士であれば、英語の会話は十分に機能すると言える。しかし、学習が不十分な人や不慣れな人、あるいは発声や発話における障害を持つ人などにとって、英語の繊細さは大きな壁となる。吃音などは深刻な障害になりやすく、理解や補助を必要とする。 英語を十分に発声できない、また英文を正しく構成できない場合、英語によって十分な会話をすることができない。当然、英語を十分に聞き取れない、特に英文を精確に聞き取れない場合も、英語によって十分な会話をすることができない。この克服には、母語話者を含めて、十分な教育や学習が必要となる。 この問題は教育の有無だけでなく、英語での日常会話から自然学習を十分にできる環境で無かった場合、英語での会話に慣れていないことで意思疎通で致命的な問題が生じてしまいやすいと言える。断片的な表現では語の意味も安定せず、よほど相手が意を読み取ってくれなければ成立しにくい。 ▲
目次 ◆ ### 英会話における慣れの重要性 英語の会話には、十分な数の認識できる語彙を持つ必要性があると言える。だが「単語の発音」と「会話中の発音」で、音として別物に変質することも珍しくない。様々な英単語の音によく慣れていなければ、言葉を聞きとることも難しくなる。十分な語を使った会話に聞き馴染んでいる必要性がある。 たとえ英語の母語話者であっても、慣れない音を正しく聞きとることは困難であり、慣れない音を正しく発音することも至難である。英語の発音や文法などの繊細さは、意思疎通において大きな壁が生まれてしまいやすい性質を持っていると説明できる。発声の面では扱いやすい言語」とは評しづらい。 英語は世界中に広まることで、世界的な共通言語としての役割を担っていると評することができ、大げさな評価をされる際には相互理解に貢献しているなどと言ってしまうこともできる。しかし、相互理解を深められるのは相応の教育や教養を持っている者同士に、強く制限される傾向を持つとも言える。 英語の会話において、発声がハッキリとしている傾向が見られる点も、英語の機能的な問題に由来する必然性の面が非常に大きいと評せる。ハッキリとしていない発声ではそもそも会話をするつもりがないようにさえ認識されうると言える。英語では、生き残るために強い主張をしなければならないのである。 ▲
目次 ◆ ### 他言語との比較:「日本語の発音」:変形の許容性 一方で、日本語はかなり単純な音の言語体系で、繊細な音の表現を不可欠としない。また日本語は、明瞭な音を細かく非常に多く並べていることで、機能的な許容性が非常に広い。どれほど発音のブレを許容できるかの実態として、日本語では「口に物を入れながら話しても、そこそこ通じる」ほどである。 口を物に入れながら話すことは行儀が悪いためマナーとしてやるべきではないが、口内による音の操作が不十分な状態であっても意思疎通が致命的に不可能となるわけではないのである。それ以外の通常の発話においても、多少「舌足らず」な発音が混じるくらいであれば問題なく聞きとることができる。 実際の日本語でも、発音の癖や方言などにおいて、音が変化してしまうことは珍しくない。そうした癖のある発音や方言も、多少慣れている人であれば多少音の変形があったとしても聞きとることがしやすい。一般的な場面として異質な発音に奇異な感情を向けられることはあるが、意思疎通はしやすい。 また文法や単語の扱いにおいても許容性が広く、歪な音が混じったとしても言葉の意味がかなり維持できる。特に発話が不安定であると認識できる場合は、自然と言葉の類推の範囲を広げ、相手の言葉を理解しようとすることも多い文化を持つ。さらに音が分かりやすいため言葉の聞き直しも非常にしやすい。 日本語は1音ずつ丁寧に発音することもしやすい体系を持っており、丁寧に明瞭に伝えることを意識すれば、かなり聞き取りやすい発話をすることもしやすい。必要があれば識別しやすく発話できるため、普段は丁寧な発音や標準的な発音を妥協してしまっても、困ることは少ないとさえ言える。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:他言語話者にとっての日本語の発声 非母国語の人が日本語を話す場合も、音さえ明瞭であれば多少不自然な部分があっても最低限の意図は伝わりやすい傾向を持っていると評せる。音の変化もわずかなら許容されやすい。もちろん音の変化で語の変化が起きる場合もあるため、発音は精確であるべきだと言えるが、許容性は深い。 日本語を第二言語として学ぶ際は、覚える量が膨大であるために大きな学習負荷が生じると説明できるが、日本語の発音においてはかなり簡単な方であるとも評価できる。発音的な不慣れによる難しさが生じる場合はあるが、癖があっても言葉の存在が判別できれば意思疎通しやすい、やさしい言語と評せる。 また第二言語での「音から学習していく」という感覚的な学習方式において、「聞いた音を発声すること」のハードルが低く、自主的な練習も非常にしやすいと評することができる。またそうして感覚的に学習していったものが、明快な繋がりを持つ表音文字や漢字の学習の強い土台となる連続性がある。 (第二言語での英語でも「音から学習していく」という学習方式も比較的効果的であるとは言われるものの、音と文字の繋がりが素直ではないため、単語の音と文字列のギャップを埋めるための大きな手間が生じる。また非常に子細な発音の違いの習得も容易ではないため、その学習には手間がかかる。) ただし、そうした日本語の「雑な音の感覚」は、日本語話者が他言語を学習する際の初歩的な障壁となってしまうことも多い。日本語が細かい音の識別が乏しい言語であるため、他言語の細かい音の識別に慣れるまでとても苦労する。つまり母国語としてのやさしさが、苦労を生み出していると評せる。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:「日本語」における音の明瞭さの応用 日本語の発声では、日本語の最小単位である表音文字の体系において1音ずつの発音が可能である。1音単位の表音文字体系でもあるため、例えば[たとえば/tatoeba]を[た、と、え、ば/ta, to, e, ba]と発音をしても語は変異しにくい。1音ずつ確かめられるため、言葉の音を教わることが非常にしやすい。 また「語の長音」の部分が対応母音の1音として表され、分解できる形態を持つ。[ちょうおん/cho-on]を[ちょ、う、お、ん/cho-u-o-n]に分解できる。さらに、それを1音ずつ長音化することも可能であり、[ちょーうーおーんー/chohh-uhh-ohh-nhh]と発音しても語の存在が維持される。 特に英語などにおいては非長音と長音が「全く別の音」として扱われやすい。別の音になるため、別の単語へ転移してしまい傾向を持つ。英語などでも限定的な単語で、文脈に依存しつつ長音へ引き延ばす発声ができる場合もあるが、あくまで例外的な表現である。繊細な区別をするために表現が制限される。 日本語では「全ての音をゆっくり1音ずつ確認しながら発音する」という言葉の伝えかたをすることができ、聞きとりにおいても表音文字でそのまま記せる。表語文字の語を口頭で伝える場合は文字ごとに説明をする手間はかかるが、そうした手間はアルファベット言語の文字列伝達でも通常の単語から生じる。 (蛇足:日本語文化の歴史的な背景として、日本地域には「和歌」という文化が日本の言葉としての音が記録され始める時点から存在していたことが確認できる。その和歌の文化には「1音ずつを丁寧に発声する」という読み方があったことで、日本語の「1音の明瞭さ」が大きく導かれたとも考えられる。) 日本語はこうした発音の柔軟性や、言葉の音全てに詳細な意味を詰め込んでいないことで、言葉の発声による表現の幅が非常に広く確保されている。特に日本語の話し言葉では「歌うような表現」が頻出する。[とてもすごい!](Very amazing!)の印象を、[すっっっご!!!]([Amaaaz!!!])と表現しやすい。 感情の表現は爆発的な表現だけでなく、[メシ食いてぇ~…]([wanna eat noooow.]/I want food.)のような深い気持ちの表現などもしやすい。他にも乱れ切った表現や声に詰まるような表現も、言葉として発声することがしやすい。発声の表現は他言語でもあるが、日本語の許容性は非常に広いと説明できる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:「文字による音の表現」 文字だけでは分からない、発声による豊かな表現力を、日本語は非常に深く内包していると説明できる。さらに言えば、日本語の表音文字は「音の転写」が広く許される形式であり、また日本語自体にオノマトペ的な表現も広く根付いていることで、より詳細な「文字による音の表現」も広く存在している。 [とても食べたい!](I really want to eat it.)という表現を、文字表現において[食べたーーーーーい!]と書き記すことで、強い感情から叫ぶほど求めていることを表現できる。あるいは[たーべーたーいー!]では強く訴えかけてねだるような表現になり、こうした表現を文字で書き記すことができる。 また標準的な形式の表現ではないが記号表現の応用として、通常[10~20](10 to 20.)のように使われる[~](波線記号/波ダッシュ)を、[ー](長音記号/伸ばし棒)の代わりに使うことで[あま~い]など「発音に高低などのゆらぎを含む長音」を書き表すことができる。[すんげぇ~~~っ!]などと記せる。 通常の[ー]伸ばし棒の記述は一定の勢いの印象があるため、[すんげぇーーーっ!]では一定のトーンで伸ばされている表現となる。他にもさらに[すんげえぇぇぇッ!]などと書き記すことも可能で、音が明瞭に聞き取れる強い発声の印象を表現できる。また[すんげぇ……っ!]では言葉を失う感覚性を表す。 他にもカタカナを混ぜることによって[すンげぇ!]などと記されている場合、「訛りの強い発声である印象」が表される。より顕著に[モノスゴイデスネ]と普通の和語が完全にカタカナで書き表された場合は異邦人ような発音として認識されやすく、半角で[スゴイネ]となる場合は特殊な早さを持つ印象となる。 非常に面白い表現として[…っ!]という表記法によって「息を呑む(Breathtaking.)」様子を書き記すことができる。これらは標準的な記述法ではなく、形式性を必要とする場面では使われないが、感覚的な表現をしたい場面においては、日本語の記述の自由度から非標準的な表現法が多彩に存在している。 日本語の文字体系は「文字であらゆる音の印象を書き表す」という機能と文化性を持つ。[バタンッ][ガタンゴトン][ゴゴゴ…][ひらひら…][びゅぉおっ][シュタタタタ][ざぶーん][ドバドバ][カタカタ][ミーンミンミンミンミンミンミーー][じゅわぁ][もちっ]、こうしたオノマトペの文字表現もその文化の上に成り立っている。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:「日本語」における詳細な発音 日本語の単純で明瞭な音の体系は、その実態として「国際音声記号で異なるとされる音でも、ほとんど同じ音なら1つの字に収める様式」によって整理されてきた経緯を持つ。日本語の表音文字も、実のところ、厳密に分析すると同じ字で詳細な発音の変化している例が潜在的にいくつか見られる。 典型的な例として、鼻音[ん]は1字しかないが、音声記号の分類では複数の音が混在している。[m](閉口の鼻音)、前[n](舌の前を閉じる鼻音)、中・奥[n](舌の奥側を閉じる鼻音)などを、主に発音の流れからの「発音のしやすさ」で自然と使い分けている。その使い分けに、日本人自身は通常無意識である。 またそれぞれの字は短音ならおおよそ一定の発音になるが、語の流れによって発音の精度が緩くなって変化する。例えば母音[う:u]の音は英語の[u]音よりも唇が緩く、特に母音[あ:a/い:i/え:e]の音の直後に発声するパターンではほぼ唇をすぼめずに発声する場合があり、母音の形がかなり緩くなる。 細かい音の違いは、主に「発音のしやすさ」がベースとなっている。その他にも[ら/り/る/れ/ろ](r-)の発声は、前の音によって「舌を前に出す」「舌を軽く奥へ引く」という2パターンの発声を使い分けているが、おおよそその人が瞬時に発音できる形で発声される。それらも同じ音として認識される。 また発音の癖は、方言のように身につく例も多い。標準語の標準的な[さ/し/す/せ/そ]の音はローマ字表記なら[s-/sh-]に近い発声となるが、方言的な癖によって英語の[th-]に近い発声をしている例といった方言性が密かに見られたりする。標準語においても[です/ます]の[す]は、[-s]になる癖が見られる。 語尾として使われる[です/ます]の表現は、標準語の方言では[des./mas.]のように[u]音が抜け落ちているが、他の方言や癖で[ですぅ/ますぅ]のように明確な[su]の音として発声される例もある。他にも[し]の音は通常[shi]とされるが、[si]や[ci]に近い例があるとも言われるなど、細かい差が内在している。 しかし日本語ではそうした微妙な発音のズレがあっても、言葉の認識での問題はあまり起きない。これは、日本語が音の識別を単純化していること、さらに単純化されている分で音の種類が少ないために普段から多くの音を並べることで、ブレがあっても言葉を識別しやすい性質を持っていると説明できる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:自然な発音の難しさ 日本語であっても、自然と形成されて内在している発音の癖は非常に多くあるため、「日本語の自然な発音」をするには、明記されずに潜んでいる細かい音の表現を覚えて使わなければならないとは言える。ただし、そうした「自然な発声の癖」といった傾向そのものは、おおよそあらゆる言語で見られる。 明瞭な表音文字であっても書かれている要素はあくまでも「主な音の要素」にすぎないため、実際に発音される際の状態は文字に対して確実に一意であることは珍しいとさえ評せる。人間の言葉の音の識別能力は、非常に強い補正機能を持っているため、自然なブレが一般的に許容されている言うべきである。 むしろ日本語では、そうした「標準的な発音」からほど遠くても、音の傾向さえ分かれば言葉の識別をしやすいようになっている。音が体系的に単純な分類をされていることで、発音に求められる精確さがとても緩く、広い許容範囲を持つ。さらに基本の音の多さから、音の変異が理解されやすいと言える。 この言語の傾向は、日本の言語的な歴史において、特に地域ごとの多くの方言が混在している都市環境で、その許容範囲が非常に重要な働きをしただろうと考察することができる。現代においても方言による違いは大きく見られるが、発声の癖が理解されていれば、言葉も認識されやすい傾向がある。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:他とは異なる音の使い方、難しい面 日本語は「テンポ良く1拍の音を大量に並べる」という言語方式であり、その中に「長音:伸ばし音」「促音:[っ]の表現」が細かく応用されている。特に「促音」は明確な「音」ではなく「音が止まる」表現であり、促音という音の単位を使わない言語圏の人からは認識や自然な発声が難しいとされる。 日本語は「音の種類の識別」は緩いものの、日本語話者は「音の長さの識別」が細かく、発話中のわずかな長さの違いを「音の数の違い」として認知できる。特に通常の発話においては母音が並ぶ場合に長音化する場合もあり、[いいえ/いいいえ]のような音の違いを聞きとることが難しい場合があると言われる。 また特に英語圏では促音の表現が感覚的に薄く、そうした日本語における「促音の認識・発声」に苦労する例がよく聞かれる。英語にも、単語において「音が止まる」ような単語自体は存在するが、それらは自然な発音の流れで止まった状態が発生しているだけで「促音」としての認識や区別はしていない。 日本語以外の言語でも「促音」の表現を使っている言語も皆無ではないものの、使われず意識しない言語からは語の認識や自然な発声が難しくなる。しかも日本語において促音は頻繁に使われる非常に重要な語の要素であり、例えば[かた(kata)/かった(katta)]では全く別の語層へと転移してしまう。 さらに日本語では「長音」の有無によって言葉が変化する例も非常に多いが、さらに自然と「言葉としての長音」と「表現としての長音」を使い分ける柔軟性を持つ。こうした長音の表現も、元の言語圏によって慣れ不慣れが生じやすい部分だと説明できる。特に発話上の「長音化」で非常に混乱されやすい。 代表的な例として[おばさん/おばあさん]の違いは、慣れない言語の話者にとっては識別がやや分かりにくいとされ、また発音においても自然な発音をするために注意が必要とされる。こうした不得意や不慣れは元の言語の性質によって大きく左右されるもので、不得意とする部分は言語によって異なる。 ちなみに英語話者に[促音]の表現を理解させたい場合、「止める音」を使う単語の表現を流用させると分かりやすい表現にできる。例えば[必須:ひっす]は[ひす]と表現してしまいやすいことがあるらしいが、低く[hit]の[hi]部分を出しながら、[t]を出さず[su]に繋げることで、[hissu]の音を出せる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:音の聞きとり方 最も初歩的な発声の特徴として、日本語の基本的な発音では、長音を除いて原則1音を非常に短く切り上げる。効率的に音を並べるために、1音の発音が他言語の多くの比べ非常に短い。特に英語圏では母音によって音を伸ばしてしまいやすく、不自然な発音になってしまうことが多いと説明できる。 日本人は英語を聞くと文字数に対する音の少なさや1音節における変異も「2つ以上の音」のように認知してしまいやすく、英語の音を非常に早いテンポと感じやすい。反対に、英語圏の人が日本語を聞くと、非常に細かい音が連続的に並べられるため、互いに相手の言語の方がテンポが早いと感じられやすい。 例えば[ビルディング](building)の語は、日本語だと[ビ-ル-ディ-ン-グ]の5つの音で構成されているが、英語の[Building]は[bil-ding]の2つの音節で構成されている。英語での1音節が日本語では2~3音に聞きとられているわけである。それも8文字の言葉が2音節となっているため、印象がズレる。 反対に、例えば[たなばた祭り:tanabata-matsuri]という語は、一般的な日本語の発音ではおおよそ1秒ほどに収まる。しかし英語などの癖を持った認識では[Ta-na-ba-ta-ma-tsu-ri]を1音ずつ発音することが基準で、英語的な発音ではおよそ1.5倍近い長さになり、それより早い場合は特に早口だと感じやすい。 それは特に英語の癖においては通常の母音をしっかりと発音するため、英語の発音体系では日本語のような「大量の小さい母音表現」の高速化が難しい。そして、そうした表現体系から音の聞きとりも訓練されているため、高速な大量の母音表現が連続する場合に、音を拾い上げきることが難しくなる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:難しい発音 英語圏からの難しさとして日本語の[ら/り/る/れ/ろ]([r]音)が、英語における[R]でも[L]でもない発音であるため発音に苦労しやすい。舌の位置としては[D]音に近い形から[L]音や[R]音を出している様子であり、日本語においても癖によっては[り(ri)]が[di]音に変異している例が内在してるとも説明される。 日本語の[r]音と[D]音の近さを表す典型例として[pudding]が[プリン:purin]と記される。他にも、英語圏からは[りょ:Ryo]などの発音が難しい点について、英語の[R-yo]や[Ry-o]の発音ではなく、[Di]の形から[D]音を抜きつつ[yo]の音を発することで自然な[りょ]を発声しやすくなるだろうとも説明できる。 反対に、日本語話者にとっては、日本語には英語の[R]や[L]の発音が存在しないため識別と発音にとても苦労しやすい。舌を大きく動かす[R]の音が難しいと言われるが、日本語には「舌を固定する」という発音自体が通常[ん(n)]でしかなく、舌を固定しがちな[L-]の発音も実際は慣れない形であると言える。 さらに日本語話者の中でも、厳密には方言性によって様々な癖が存在し[ら/り/る/れ/ろ]の中でも様々な音が内在していると言える。[り]が[でぃ:di]音に近くなってしまうのもそうした癖の一種でありつつ、日本語の基本の音には[でぃ]や[どぅ]の音は存在せず、[り][る]へ補正して聞き取りうる。 こうした問題は他の音や他の言語においても、様々な形で生じている。多くの言語同士において「使っている音/使われていない音」による発音の不得意は生じてしまいやすいものであり、また多くの言語同士において「区別している音/区別していない音」による聞きとりの難しさは生じてしまうものである。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:イントネーション/アクセント 普遍的な傾向として、自然言語では発音を細かくコントロールするイントネーションやアクセントと言った技法が広く見られる。これは自然な現象として同音異義語など近い形や同じ形の音を発することは避けられないため、細かい語や意図の識別を助けるために自然発生するものであると説明できる。 しかしアクセントの付け方やその法則は言語によって大きく異なる。英語は「強弱」という形、単なる音量の大きさではなく「特定の音を分かりやすく発音する」という方式でアクセントをつける。一方で日本語は「高低」という形、特にイントネーションとしての「音程の変化」でアクセントをつけている。 言語によってはアクセントの補記をする例もあるが、多くの言語において補記されない部分である。また文章全体としてのイントネーションで細かい単語ごとのアクセントが変化してしまう場合もあり、統一的な補記が物理的に難しいため、ほとんどは感覚的に体得されるものであると説明できる。 蛇足:そのように英語と日本語はアクセントの付け方においても全く対極的で、互いの言語を学習する際には「日本語の高い音を強い音で発声する/英語の強い音を高い音で発声する」といった状態がよくある。しかし、アクセントは身体的な感覚に根付いているものであるため、修正は非常に難しい所である。 補足:なお日本語の広く使われている標準語表現においては「ピッチ(音程)の高低のイントネーション・アクセント」が、語の識別において効果的に使われている。特に通常の発音とは別に「単語をつなげる際のイントネーション」が常用されていることで、これにより語の接続を効果的に認識している。 例えば[公共:こうきょう]と[放送:ほうそう]の2語の発音をつなげた語にした[公共放送:こうきょう*ほ*うそう]では、[放送]の単体での語と音が明確に異なる。[携帯、電話/携帯電話]や[絵画、表現/絵画表現]など、日本語話者は無意識に、語の接続の有無でイントネーションを使い分ける。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:「日本語」における発音の整理や変異 なお日本語の歴史でも音の変化はあり、時代の流れによって細かい変異をしたり削られたり、特に近代以降の整備では識別の難しい音の区別をさらに削減し単純化している。代表例として[じ/ぢ]や[ず/づ]は厳密には違う音と言えるが、区別の共有が難しいため現代では基本、同じ音として扱われている。 他にも古い話し言葉の記録と現代語ではかなりの共通性が見られる一方で、特に[は/ひ/ふ/へ/ほ]などの古語における使い方は現代語との乖離が目立って見られる。研究から音の使われ方もかなり変わっていったことが推測されている。他の和語においても、変異の痕跡と思われる発音が見られている。 ちなみに「小文字」を用いた音の表現が整備されたのも、近代化における外来語の表現の整理から始まったとされ、また通常の語彙の書き字でも小文字が使われ始めたのはさらに後とされる。それまでは大文字の組み合わせによる読み方の変化によってそうした音を扱っていたとされる。 典型的な語としては古い和語の[せう]で、元々文字通り[せう]と発音されていたものの発音の変化から[しょう]という語へと変化していった語であるが、表記においては長らく[せう]のままで使われ続けていたとされる。後の時代、ほぼ現代の範囲において[しょう]と表記するように変化した。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:単純化の不効率な面 言語の普遍的な事情として、音の区別の詳細度は言語に大きな影響を与える。区別する音の種類が少なくなると、細かい言葉の識別のためにはより多くの音を並べる必要がある。音の種類が多いほど、短い音の並びで多くの語を作ることができて、表現のために必要となる音の量が減ると説明できる。 例えば[赤い車に乗っている青い人]という日本語は[っ](促音)を含めて17つの音を必要とするが、英訳した[the blue person in the red car]は8~9音節で構成されている。日本語の1音は標準的な範囲で130種ほどしかないが、英語の1音節を構成する音の種類は明確な数値化ができないほど膨大である。 英語の1音節を構成する音の種類は、広く見れば1万前後に及ぶと推定されており、常用される範囲に限っても日本語とは倍以上の種類の音が使われているとされる。英語や、英語と同様のタイプの言語は細かい音の表現ができることで、短い音でも多彩な言葉を持ち、基本、短い言葉で会話をできるわけである。 一方で日本語では、音の種類が少ないために短い音で構成できる語の数が少なく、特に詳細な話をするためには非常に長大なほど大量の音を並べなければならない。短い言葉を多数持つ言語から比較すれば、日本語の長大になりやすい方式は「言葉の効率が悪い」と評してしまうことも可能である。 また音の種類や繊細さはその詳細を単純に可視化したり、体感することが難しいため、その煩雑性を実感しにくい。一方で、音の量は体感し続けるものであるため、その煩雑性を強く感じてしまいやすい。そのために「表層的な効率性」を求める場合、音の細分化の方向性へ偏りやすいと考察できる。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:単純化の合理性な面 だが「人間的な実用性」の面においては、事情が大きく異なる。まずそもそも、細かい音の違いを詳細に識別することは簡単ではなく、十分な訓練を不可欠とする。詳細な音を用いる言語は学習性において、聞き取りにより深い慣れが求められ、発音においても繊細な発声をするための訓練が必要である。 一方で日本語は、単純で簡易な音の区別によって、人間的な聞き取りや発音の難易度がかなり低いと評価できる。第二言語話者を含め、方言的な発音の癖によって標準的な発音がうまくできない場合であっても、音の傾向や文脈から判断して、言葉の識別をできる範囲がとても広く、言語の弾力性を持つ。 日本語は音が単純であり、多少のブレも許容できる弾力的な構造を持っていることで、言葉の音をとても共有しやすい傾向を持つと評せる。言葉として聞きとることがしやすく、また言葉として発することもしやすい。さらに実用的に使いやすいことから、語が多少長くとも、体感的にも覚えやすいと評せる。 特に日本語では単純な1音ずつに区切られていることで、言葉を1音ずつで伝えるコントロールをしやすい。言葉を1音ずつ丁寧にゆっくり話すことで、音の聞きとりやすさを確保しながら伝えるという表現をしやすい。英語では1音節ずつで発音する関係上、ゆっくり音を表現するにも限度がある。 しかも日本語では「長音(伸ばし表現)」や「促音[っ]」なども通常の音と同列の1字1音の扱いをしていることで、言葉を分解して発声して、そうした発音でも言葉を識別しやすく、意思疎通することもできる柔軟性を持つ。また発音上奇異にはなるものの、「拗音」の音さえも分解して発声しやすい。 [発表会:はっぴょうかい]は通常[happyo-kai]のように発音されるが、[は-つ-ぴ-よ-う-か-い:ha-tsu-pi-yo-u-ka-i]と発音しても言葉が維持され、そのまま意味も伝わりやすい。発音としては奇異にはなるものの、そのように音が変形する前の状態で発音しても、語として識別できる可能性が高い。 例えば英語において[School]を丁寧に発音しようとしても、発音上の分解はおおよそ[s-co-l]くらいが限度である。さらに語を分解するには[es-si-eich-o-o-el]のようにスペルの文字列を表現する必要性があり、それでは元の音が完全に失われているため文字列を組み立てなおして理解する必要がある。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:発音の単純化と高速化と効率 ちなみに日本語の会話では実用において音をとても多く並べなければならないが、日本語の発音は非常に高速化もしやすい性質を持つ。日本語の発音は口や舌の動きが他の言語に比べて小さく収めやすい傾向を持っており、早口に適した言語だと評せる。多くの音を使うが、発話は効率化されている。 象徴的な部分として「唇を合わせる音」が日本語の標準的な発音だと[ま/み/む/め/も]と一部の[ん]、あとは濁音/半濁音の一部[ぱぴぷぺぽ/ばびぶべぼ]だけであり、発話をする際の唇の運動量が非常に少ないと言える。さらに他言語では珍しくない「唇と歯を合わせる発音」の必要性が、日本語には無い。 通常の発話では唇の動き自体も小さく、顎の位置も大きく変えなくとも十分な音を出すことができる。舌の動きでも省力化が行われており、大きく前に出したり奥へ巻いたりする発音を必要としない。そのように口と口内の動きが非常に狭い範囲で収まっているため、高速な発話ができていると説明できる。 さらに言葉の使い方においても、アクセントの方式が音程の操作であるため1音の長さの調整が長音の発声のみに集約されており、その長音も1音としての識別や発音が許されているため発声を短縮できる。1音ずつのゆっくり明瞭な発音もできる一方で、非常に早口な発声もすることができる言語だと説明できる。 ちなみに日本語における[ヴァ:Va]や[ファ:Fa]の音も、英語などにおける[Va]や[Fa]とは違い、下唇と歯の接触は使わずに発音されがちだと言える。おおよそ「[Ba]に近いが、唇を閉じずに発音する[ヴァ]」や「[Pa]に近いが、唇を閉じずに発音する[ファ]」の様式などと説明することができる。 日本語も基本的な言語感覚から、総合的にテンポ良く発声できるようにするための傾斜が働いていると言える。日本語では効率化のために「時間のかかる口の操作」の音が標準的には喪失していたり、また発音の効率的な細かい変化が内在しているような現象も、同様に説明づけることができる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:言語の効率における普遍的法則 日本語は、英語などの法則性から見て不効率な様式をもっているかのように評価することもできるが、その評価の実態は、英語などが発話のために重い労力を支払っていることで表面上効率的に見せかけているだけであるとも評せる。日本語も自然言語として十分に使われることで、合理化されている。 特に自然言語の普遍的な法則として、同じ意味を表現するためにかかる長さは、どの言語でもおおよそ近い長さに収まる傾向があると言われる。それは「短い語彙の少ない語数で伝えられる言語」でも結局、子細な音の表現に長い音が必要となって、発話にかかる時間は伸びやすいのだろうと考察できる。 子細な発音を使う言語は「音節」という単位においては数がとても少なくなりやすく、それによって情報量として短く整理されているように感じられ、体感においては端的で効率的な発話だと思い込みやすいのだろうと考えられる。しかし実際の「発音にかかる時間」は、音節の複雑さによって伸びている。 つまり、子細な発音の表現で多くの短い単語を多く用意できているようで、子細な発音を使うために実際の言葉は長く、発話も長くなってしまいやすいのだと言える。一方で、単純な発音表現で多くの語を並べる方式では、音の区別が単純な分、音を短くしやすく、発話も短くなりやすいと考えられる。 日本語では単純な発音表現の中でもその傾向が強烈だと説明できる。音の区別を単純化した上に、発声にかかる動きの極限的な効率化が進み、また音の単位を最も短くできる「1拍の音」で細分化しつつ、音の効率化から実態として「1~3拍が1音節」で発声されることで、音の展開速度が極めて速いと評せる。 そもそも言語を使う人体に機能な差、性質としての違いが大きいわけではない。使われている言語の普遍的な法則として、どの言語体系でも変質していく法則と、自然と一般的に妥当な表現機能が求められる妥協的な傾斜が存在し、その妥当な範囲へ向けて、おおよそ近い範囲に収まっていくのだと説明できる。 また人体の機能として、一般的な「情報処理の能力」そのもので極端な差異があるとは説明できず、情報処理の能力が言語の速度の上限となってしまうとも考察できる。一般的な日常会話の範囲では、情報交換をできる速度は言語の効率性ではなく、人体の限界によって近い範囲に収まりやすいと言える。 (ともすれば英語は「理論的な机上における最大限の効率性を求めたものの、発話の運用においてはその効率性を実現できているとは言い難い」と評価してしまうこともできる。つまり発話の実態として、劇的な効率性を実現しているとは言い難く、習得の難しさばかりを背負っていると評してしまえる。) ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:標準語への歴史的な経緯についての考察 現代日本であっても、場所によっては意思疎通が困難となるほどの強烈な方言を持った地域が現存している。近代での「標準語」が整備されるより前は、方言の問題は大きかっただろうと説明できる歴史的背景を持つ。その背景を持ちながら、現代では「標準語」が普及し、一般的な意思疎通がしやすい。 標準語の一般化を実現できた背景には、日本語の単純な音の体系が大きく寄与していると説明できる。特に日本語は単純な音さえ使えれば、発音の矯正が不可欠ではない。比較として、英語圏では「標準的な英語の発声」の普及が主に強固な地域性に阻まれ、使われる場面は限定的だと説明される。 現在の日本国内における、日本語の標準語の学習では肉体的な基盤を作り直す必要性があまりない。方言があっても、その元々の言語の上に「標準語の言葉」を覚えるだけで標準語を最低限使えるようになる。強い訛りが奇異に見られることはあるものの、音さえ分かれば標準語での会話は成立しやすい。 比較として、英語の発声では基本として細かい発音が求められるために、英語の標準語教育では「発声の矯正」が不可欠になりやすいと考えられる。発声の矯正は、肉体的な慣れを作り直すような作業となるため、学習上困難や負荷を伴いやすい。それが英語の標準語普及の障壁になっている可能性も疑える。 日本語の発声は、不慣れでも単純な音を並べるだけで言葉になる体系を持つ。流暢な会話には相当の習熟が必要だが、それはあらゆる言語に共通する課題である。日本語の発声は、流暢ではなくとも会話が成立する範囲が、非常に広いと評せる。その安全性の高い基盤の上に、非常に膨大な語彙を扱っている。 つまり日本語は「極めて膨大な語彙を実用できるほど、言語的な強度と学習性の機能を保有している言語である」と評価することもできる。日本語における明確な学習の難しさだと説明できる「語彙の総量」は、日本語が言語の器として強靭すぎることで過剰に蓄積してしまっているのだとも評せるわけである。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:日本地域の言語の歴史的な背景 日本語がそのように整備された背景として考えられる点として、日本における多様な方言の影響が想定できる。歴史的に、日本では古くから方言性を持った発音の癖が異なる地域が広く存在しており、また異なる地域へ移動する立場の人も多く、都市部では異なる地域の人のかかわりも広くあったと説明できる。 現代の日本語であっても、標準語の元となった関東地域と、日本の主要な方言を持つ関西地域では、大きく異なるイントネーションの傾向が現存している。「東京弁」と「大阪弁」は明らかに異なる方言だと言えるが、しかし知らない言葉さえ無ければ大きな問題は無く、会話が成立する程度の標準性を持つ。 つまり、日本語は「多様な方言、異なる言語性を持つ人々で会話をする経験」を積み上げてきたことによって、言葉の共有性や学習性が大きく確保された言語体系が求められ、そのように言語が発展した可能性と考察できる。単純な音を取る表音文字体系も、そうした背景から構成された可能性も考えられる。 方言の差、言語の差による問題は非常に古くから存在していたものだと考えられる。しかし社会的な協力関係を築くためには、意思疎通ができる程度の言語の連携や共通化が不可欠だったはずである。必要に応じて、より多くの人々の癖を弾力的に受け止められる言語体系になったのではないかと考察できる。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:表層的な効率性と、人間的な合理性 繊細な音による多彩な短い語を使いまわす英語は、習熟者の体感としてはとても効率的であるように感じてしまいやすいが、習熟者による「表面的なシンプルさ」を求めた結果、地域性を強く持ってしまう性質の言語だと言い表せる。言語に対する十分な知識と慣れを持たなければ、間違いやすい言語である。 英語は本来「地域のローカルに使われていた言語」が、無理やりとても広域で使われるようになったとも言える言語である。歴史的な流れとして、英語も異なる言語文化との交流によって調整をしてきた経緯はあるために、必要な分の共有性の傾向を持っているとも説明できるが、人間的にはとても苦労する。 日本語は、人間的には親しみやすい性質を持つ。だが単語の音が多めであったり、非常に多くの語彙を持っているため、その冗長さが学習に不効率だと疑われやすい。特に、日本語は「話し言葉の体系」と「書き言葉の体系」の2系統が複合しているため、「同じ意味の異なる言葉」までも多く存在する。 日本語での単語の学習量は他の言語に比べて、かなり多いとも評される。データとしては英語で日常の主要な語彙がおおよそ3000語程度とされる一方で、日本語で日常の主要な語彙は約5000語とも言われる。しかも英語は簡単な文字体系を持つ一方で、日本語では表音文字だけでなく大量の表語文字を扱う。 日本人はそうした膨大な情報量をどうして扱えるのか?という疑問には、日本語の基礎的な学習性の良さが非常に大きく働いていると説明できる。音の単純さによって言葉の音の覚えやすさがあり、それによって1語ごとの学習性が確保され、大量の語彙を覚えて使うことができると考えることができる。 特に日本語の「言葉の音が聞きとりやすく、発声もしやすい性質」は、人間にとってとても記憶しやすい。母語での日本語学習は、日常会話から地続きに明瞭な表音文字を学び、それを土台として表語文字を段階的に学んでいく、合理的な学習性を持つ。人間的に親しみやすい性質が、大量の語彙を支えている。 第二言語としての学習では「日本語の音」を1から学習し始め、さらに大量の文字の記憶を要求されるために、強烈な難しさを感じさせる。また実際、日本人が幼少からまさしく十年以上をかけて段階的に覚えていく範囲を、一気に覚えようとすることはかなり負荷の高い学習となってしまうものではある。 だがその問題は、言語体系としての不効率さではなく、むしろ日本語が言語体系として人間にとってとても合理的であるために、多彩すぎる過剰な語彙を膨大に保存してしまっていると説明できる。ちなみに日常的な語彙では汎用性が非常に高く、少ない語でも最低限の意思疎通をできる利便性も備えている。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足「日本語の発音」:「拍」と「音節」 日本語を表音文字で1文字ずつアルファベットへ変換する場合、形式的には必ず母音を指定して表記される。しかし、実際の発音では[です/ます]の[des./mas,]のように、「母音の音が消える」という音で表現されることは珍しくない。しかし重要なのは「[s]の音も[す]の音で聞きとられている部分」である。 これは「母音が無くても」という話ではなく、そもそも「[s]の音が、おおよそ[す]の一種である」という認知を取っているという点である。「[k]の音は、おおよそ[く]の一種である」と認識し「[t]の音は、おおよそ[と]の一種である」など、子音のみでも表音文字の1字に対応した音で認識されるのである。 非常に単純化した認識の方式であると言えるが、日本語は「1音ずつ大声で発声できる」ような音の分類によって言語を扱っているために、「子音」という概念そのものが薄弱であるとさえ説明できる。日本語にとって、子音による[あかさたなはまやらわ]の変化は、あくまでも「タイプの変化」である。 アルファベット言語は子音と母音が分裂しているため、「子音のみで発声する」という音を定義することが可能である。一方で日本語では子音と母音が分裂していないため、「定義上では原則、その区別が存在していない」という様式であり、発音上の子音表現はあくまでも自然な変形の一種でしかない。 日本語では物理的に「子音のみを発音している」という場合であっても発音上は「1音」であり、より厳密に表現するならば「1拍分の音」として認識されているわけである。そのようにして英語の1音節を複数の音として聞きとられ、また日本語の発音における「1音節」も拍で分割して認識されているのである。 例えば[活動方針:katsu-dou-hou-shin]の発音を表音として表すならば[Kats-do-ho-shin]の4音節であるが、日本語の感覚では[か-つ-ど-う-ほ-う-し-ん]の8拍分の音で識別される。こうした音の認識をするため[学校:gak-kou/Gut-ko]の2音節が[が-っ-こ-う]であるように、促音[っ]も「1音」で認識される。 なお現代的な日本語における[-ou/-oo]の音を「英語」で表記する場合、より音の近い[-o]に丸められた文字表記が使われる。しかしこの表記法は日本語における「拍」の概念を潰してしまっているとも評せる。日本語の[ライト:Light/Right]の問題と同じ様式を、英語もまた抱えていると説明できる。 日本語では[考古:こうこ][個々:ここ][高校:こうこう][孤高:ここう]といった語は全て異なる発音をしているが、単純な英語の表記においては全てが[koko]にまとめられてしまう。なお、日本語の英語表記ではなく「日本語のアルファベット表記」では「長音符号」を付与されるため区別ができる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:音の強靭さと言語の靭性 日本語の音の単純さは「日本語は言葉における音の表現能力の欠如」ようにも説明することはできるが。しかし「音の伝えやすさ」という面においては極めて高い強靭さをもつ形式である。日本語においては「音の言い直し」を必要としやすくなるような伝わりにくい音の区別を強く抑制している。 日本語では言語の整備のいても単純化を進めており、現代的な範囲でも[じ/ぢ]や[づ/ず]の音の区別を原則的に撤廃する方針をとってしまうなど、識別の難しい音が整理されている。現代的な発音の問題としても[ファ]や[ティ]といった語彙を、[ハ]や[テー]/[チ]といった発音に丸めることを許容している。 音の単純化によって、より多くの音を並べる様式になってしまっているように説明されるが、むしろ音の多さによって言語の弾力性が形成され、癖などによる音の変異に対する類推の可能性が確保されている。日本語では「語のやりなおし」はあっても、「音のやりなおし」の不可欠性を強力に抑えている。 典型的な例として、英語においては[R]と[L]の発音の違いによって全くことなる語彙に変化してしまうことがあるため、学習者は原則的にこれらを間違えないように気をつけなければならない。この問題は[R]と[L]に限った話ではなく、英語はその方言性によって煩雑な音の使われ方が形成されている。 一方で日本語では全く異なる音に変質してしまっていたとしても、高い類推可能性によって補正できる範囲が非常に広い。極端な例として[こんとんじょのいこ]という発音であったとしても、癖の傾向を理解している場合は強烈な補正がかかり、[かんたんじゃないか]という言葉で認識することができる。 また、物理的な問題として「子音のみを大きくハッキリと発声する」ということには物理的な限度がある。子音の強い発声は、前後の母音と接続する形によって形を作る必要性があり、「子音単体の音を強く発声する」と言うことは非常に困難だと説明できる。これは音の伝達性において非常に脆弱だと評せる。 伝達性の脆弱性は教育などにおいても強く影響を及ぼしやすい。子音を複雑に用いる言語の詳細な発音では、近接的な教育を受けられなければ、発音の継承に不全が生じやすくなってしまいやすい。つまり子音の使い方に依存する形式は、その運用において大きく不安定性を抱え込みやすいと言える。 説明をするために「子音のみ」を発音することは物理的に無理があり、現実的には「母体となる音」が付随してしまう形になる。つまり[k]と発音しているつもりでも、息遣いや口の形によって母音の要素が薄くともまざってしまうものである。日本語感覚での認識は、その音を聞きとっていると考察できる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:「よっぱらい」 日本語の発話における靭性としてあげられる例が「酔っ払いに対する社会的態度」である。日本では、かなり「酔っ払いに優しい」社会文化が形成されていると説明できる。これは、日本語が泥酔した状態であっても表層的な意思疎通を可能とする弾力性を持ち、「意識はある」と認識されていると考察できる。 一方で欧米文化などにおいては「泥酔している状態」は「話ができない相手」のように、かなり忌避される傾向がある。特に公衆での泥酔自体が、社会性が欠落しているとみなされるほど悪い振舞いとして扱われている。これはろれつが回らない場合、会話自体が不可能となりやすい部分も大きいと考察できる。 あるいは「声をかける」という場面でも、日本語は単語単位の理解可能性が強く、相手が朦朧とした状態であっても簡単な言葉で最低限の意思疎通をすることが期待しやすい。英語においては「文章から理解する必要性のある言語体系」から、思考力の低下した人間には言葉の理解が非常に困難だと考えられる。 つまり日本語と英語などでは「会話不能な酔っ払いのしきい値」が大きく異なる可能性を説明できるわけである。日本語では他者へ注意を向けることすらままならないような朦朧とした状態でもなければ、会話が不能であるとはされにくい。一方で、英語では言葉が成立しなくなる段階が非常に早いと言える。 そうした言語的な機能の違いが、異常な状態、泥酔のような意識レベルの低下した状態に対しての意思疎通の可能性にも影響しているだろうと考察することができる。非常に突飛な考察だとも言えるが、言語が文化的な振舞いにも大きく影響を与えているのではないかと考察することができるわけである。 ▲
目次 ◆ ### 補足:音の種類と言葉の長短のトレードオフ 言語の普遍的な事情として「音を詳細に区別して音の種類を増やすことで、実用する言葉や会話を短くしても十分な情報共有ができる」また「音の区別を限定して音の種類を減らしても、実用する言葉や会話を長くすることで十分な情報共有ができる」と言える傾向がある。この関係は主にトレードオフである。 つまり「音の単純さを妥協して、短く伝えられるようにする」または「音の簡単さを求めて、短さを妥協する」のトレードオフである。もしも「音の種類を減らして、言葉や会話も短くする」という状態にすると、表現できる情報が必然的に少なくなり、情報共有の幅が非常に狭まるため、実用性が損なわれる。 ようするに、英語も日本語も、実用されている言語として、十分に妥当な性質を持っていると説明できる。人間は身体という物理的な限界を持つために、言語においても少なからずの妥協しなければならないのである。妥当であることは、機能において絶対的に優秀であることを保障するものではない。 ちなみにこうした言語の普遍的な事情におけるトレードオフは「単語の多さ」においても生じていると考察できる。つまり「多彩な単語を持つと言葉の識別性を高めやすいが、覚える単語の数は増える」または「単語を使いまわすと覚える単語の数は減らせるが、言葉の識別は文脈に依存する」と言える。 単語の面では、日本語は音の簡単さから多くの単語を覚えやすいために、多彩な表現の語彙を保存できてしまい、そのまま使うような煩雑な語数を持ってしまったとも説明できる。一方で、英語は新しい単語の学習に壁があるため、既存語彙を使いまわす煩雑な多義性が強くなっている可能性を考察できる。 なお結果的に、日本語では「単純な音」と「多彩な単語」のおかげで端的な表現でも伝えやすい性質を持つ。一方で、英語は「音の識別の難しさ」や「多義的な語」を解決するために語を重ねて文脈において定義する必要性が生じやすく、結局ある程度の音を費やした1文の構成を求められる。 人類が生物として完璧な知性を持っているわけではなく、また万能な物理的性質を持っているわけでもないために、全ての言語において、どうしても難儀する部分は生じてしまうのだと説明できる。言語は、肉体的な事情や社会的な事情から、現実的なバランスへと落ち着いていくのである。 ▲
目次 ◆ #### 英語の選んだトレードオフ だが「広い地域における言語の共有性」において評価をするのならば、英語は文字と文字列の単純さにおいて優良だと評価できる一方で、現実的な英語の使われ方において身体的な音の共有性や字との学習性が二の次となっているとも評せる。これは文書の安定や普及を急いだことで、難しい形へと硬直した。 使われている言語の普遍的な法則として、祖となった場所から長い時代や広い地域へと遠ざかるほど、変質していくものである。その中で英語はまず「文字列の固定化」を優先したことで、基本的な「字と音の統一性」を大きく妥協する方針を選び、さらにその結果「発音の広い統一性」も妥協する形となった。 英語では標準的な英語の目安は存在するものの、特に繊細な音を使う言語の普遍的な課題として、音の共有性はやや厳しい。また基本構造として「字と音の不一致」を抱えているために、発音の強制力も弱い。そうした英語が広域への普及を急いだことで、指導力も不十分なままに広げていった。 近代における慎重さや丁寧さを欠いた、非常に性急な普及によって、実態として「地域ごとの発音」、強い方言性を大きく許す形で普及が進んでいったと説明できる。つまり、英語は「文字列の固定化を求めながら広く普及させる代わりに、発音などの広い統一性を妥協した」というトレードオフの選択をした。 その結果、英語は余計なほど字と音の関係性が不安定で、煩雑な状態を維持し続けている。これは後世での学習負荷を二の次にして、特に字と音の学習における甚大な負担を残してしまう代わりに、極めて短期間での非常に広域な普及を実現した。非常に広く使われる代わりに、後世には負担が残り続けている。 蛇足:近世から現代へ至る英語の使われ方は表音文字体系でありながら、表語文字の「漢字」と非常に近い思想によって運用されてきたと言える。漢字は「異なる地域でも文字においては原則同じ意味を持つべきである」という思想の文字体系で、発音の統一性を妥協した歴史的経緯を持つ。 英語もまた「異なる地域でも文字においては原則同じ意味を持つべきである」という思想によって文書と文字体系が整理されたことで、表音文字でありながら発音の統一性をやや妥協する形へと至った。どちらも文書の安定性を求めた結果であり、それ自体は妥当な選択であったと評せる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:回避できない学習の必要性 日本語に難儀している人やその難しさに憂う人は、英語などに対して「アルファベットの文字種は少なくて、表音文字なんだから文字を見るだけで発音も分かって読みやすいはずだし、世界中で使われているんだから誰もが覚えられる言語のはず」と理想的な言語であるかのような想像を働かせることもある。 しかし英語も簡単な言語であるとは言えない。実態として、英語の母語話者であっても十分な教育を受けられなかった人では新聞を読むことすら難しいというデータが見られる。教育や学習が不十分な状態から読解を苦手としてしまう人は、たとえ英語であったとしても発生しているのが実情である。 学習の必要性というものはあらゆる言語において存在するものである。英語も例外ではない。むしろ英語の学習性は、論理的にやや厳しい言語であると説明することができる方である。また世界的なデータを見渡せば、ローカルな言語において、英語よりも早期に学習が済む言語の存在も確認できる。 日本で育って日本語の読解に苦労するという人は、それこそもし英語圏に生まれていたとしても基本的な文書を読むことすら難儀する可能性が高いと考えられる。日本という学習環境に恵まれた社会で育っても言語の学習が不十分になるような人間に、英語圏の環境で十分な言語学習ができるとは考えにくい。 仮想として、日本で育って簡単な日本語しか扱えないという人は、たとえ英語圏に生まれていたとしても同程度の暮らしぶりであっては簡単な英語しか扱えない程度の学習しかできないだろうと考えられる。そのような学習態度や家庭環境では、日本語でも英語でも、言語に難儀する可能性は高いと言える。 第一言語の学習の難しさから逃れるためには、より簡単な他の言語の地域に生まれなければならない。しかし日本以外で発展している地域では、現実的に国際的な知識へのアクセスの関係から「英語」の学習は逃れられないと説明できる。高度な文明を諦めなければ、言語の悩みから解放されることはない。 ▲
目次 ◆ ## 言語のパワーバランス 英語が世界的に普及した理由は、英語が言語として特別に機能的であるからではないと評せる。最も大きな要因として、英語を使う国が先進的な発展をして、世界的な影響力を持ち、また世界を牽引する立場になったことで情報の集中が引き起こされたからである。「使われているから使われる」のである。 近代から現代にかけての時期、英語圏、特にアメリカが大国として非常に広く先進的な研究をしていた。その時代から最新の研究情報を入手するためには英語が不可欠となり、英語の利用価値が高まる。そして最新研究は原則的に英語でまとめることが最も合理的となる世界が形成されたのである。 現代の英語における機能性も、元々その全てが備わっていたのではないと言える。現代の英語の機能性は少なからず、広く形式的な文書として実用されることによって洗練、整備されていった部分があると言える。機能的であるから広まったのではなく、広まる際に機能的になったのだと説明しやすい。 特に「文法において細かい説明を前提とする」という文化も、近代から現代にかけて様々な情報を整理したり広めていく際に、安定した意思疎通や情報共有をする模範的な方式を整備する必要性が強まった面も大きいだろうと説明しうる。それが言語の基礎として普及した部分も大きいだろうと考えやすい。 また英語は、近代からの先進国である欧州各地の言語と、言語体系が近い関係性にある。英語と他の欧州言語は言語の系統として、親戚のような関係性である。地理的な近さだけでなく言語的な近さから、欧州各国の知識層は英語を比較的学びやすい。そうして英語はさらに広く使われることになる。 だが例えば「日本語」にとって英語などの欧州系言語は大きな違いがある。日本語と地理的にも言語体系としても大きく異なる。それにより日本語話者が英語を学ぶことは過大な負担を強いられやすい。日本語の感覚と全く別ものであること、また英語の難しい性質からゼロからの学習性が良いとは言い難い。 なお、日本人が英語学習で苦労しやすいという点について「日本語の欠陥性」に原因を求めることは妥当ではない。客観的に分析しても、日本語と英語は、その言語基盤が全く異なることによって、感覚的にあまりにもかけ離れている実態が存在する。これは欠陥と評価することは英語中心主義に過ぎない。 英語圏の「アメリカ国務省の外交官養成機関」が公表している、英語を母語する人にとっての世界各地の言語の学習難易度として、アラビア語/中国(漢字)/韓国(ハングル)に加えて日本語が、英語話者にとって最も難しい言語に位置付けられている。英語側から見ても、日本語は最も遠い言語の一つなのである。 ▲
目次 ◆ ### アルファベッドが最も合理的に機能した時代 欧州各国が近代化において目覚ましい発展をした理由として、欧州中世後期ごろの情報革命から説明することができる。活版印刷が「文字種の少ないアルファベット体系」との相性が非常に良かった。その「アルファベットによる活版印刷」が文書の大量生産を実現し、社会を大きく動かし始めた。 (活版印刷とは、文字ごとに部品を分割して用意し、文字部品を流用することで文書の複製を、当時としては劇的に効率よく大量生産できた印刷方式である。それまでの主な印刷は1ページごとに職人が時間をかけて製作する必要があり、非常に時間と労力が大きかった。書き写す写本も多かった。) 紙の上においては非常に合理的な言語として機能し、欧州の産業革命時代では文書の生産力はさらに増大する。また欧州各国は機械化工場のために多くの人手が必要となり、急進的に庶民への教育を普及させた。だが普及を急いだことで、「文字の人間性」はやや蔑ろにされてしまうこととなったと評せる。 その後も19世紀後半から20世紀後半ごろには、タイプライターの普及によって文書の生産から高速化できるようになり、情報の共有速度は著しく向上していった。そうした情報革命から産業革命によって生まれたアドバンテージによって、欧州の主要な国々はさらに世界的な影響力を持てるようになっていく。 (タイプライターとは、キーボードで瞬時に文字を打ち込める機械である。通常の筆記では、時間当たりの文字数には限りがある。また急いで書かれた筆記体では解読が必要になることもあり、情報生産能力として限界があった。タイプライターでは、高速かつ明快に文字記録を作ることができた。) (蛇足:「活版印刷」、文字の部品化する印刷技術は、欧州よりも早い先例が中国文明にある。だが中国文明は字の種類が多い「漢字」を使っていたため、当初の普及は限定的であった。やがて技術的な進歩により大量の文字種も扱いやすくなってから、欧州に遅れて広く普及していったと説明される。) ▲
目次 ◆ ### 「時代への適合は、言語としての機能的優位性を意味しない。」 英語が世界的に広まることになったのは、あくまでも「当時の最新技術への適合性」から生じた有利による影響力の大きさこそが主要因である。影響力が非常に大きくなったことで、情報的な偏重が発生し、またその偏重から更なる偏重が生まれる。そのようにして英語は世界的な言語になったと説明できる。 現代の技術において、英語などのアルファベット言語が技術的に特別有利であるとは言い難い。コンピューターによって大量の文字種も使いやすくなったが、英語などは前時代に効果的であった言語体系をほぼそのまま使い続けている。英語自体への技術的な優位性はタイプライターから特別増えてはいない。 現代の機械技術では、前時代において英語が先進的な影響力を発揮したことでコンピューターなどが慣例的に英語を基盤として設計されるようになり、それが継承され続けて今でも使われている。しかしそれは英語の機能性ではなく、「アルファベットの利便性」によって継承されているものだと説明できる。 だが英語は広まりすぎてしまい、かなり乱雑に使われている。英語は広まりすぎてしまったことで、改めて整理することも非常に難しい。現代の英語の使われ方とは、「使われているから使う」という社会的な惰性で、人間的に大きな手間のかかる不効率な言語体系を使い続けているだけだと評価しうる。 より現代的で身近な運用として、スマートフォンの文字入力においてアルファベット言語は非常に細かい文字配列を覚えて対応する必要性が残っている。比較として「日本語」のスマホでは「"10系統の子音選択"から"入力スライドによる母音選択"」によって、直感的かつコンパクトな入力画面となっている。 また日本語は、全ての表語文字が明瞭な表音文字と対応する言語体系である。日本語は、現代の技術環境では「表音文字の入力から表語文字への変換」が可能となり、非常に効率的な文章入力ができる。現代技術の恩恵が大きく、日本語の表語文字の難しさや手間がかなり緩和されていると言える。 現代の機械技術において、日本語の文字入力が技術的な恩恵を受けている中、英語の文字入力は前時代のタイプライターに由来する文字配列をなぞりながら単語を予測するような入力方式である。英語でも予測による単語入力の補助は存在するが、それは最新技術において標準的な入力補助機能である。 (蛇足:日本でも、今もパソコン環境での文字入力には、英字のタイプライターに由来するキーボードで、日本語のローマ字化表記に由来するローマ字入力方式を使う例は多い。1字対して1~2回分のキー入力を必要なため、こうした環境下では前時代の環境が根強く、入力効率はそれほど向上はしていない。) ▲
目次 ◆ #### 更なる技術的問題 現代的な言語の事情として、音声処理の自動化という領域が広がり始めている。音声の自動識別では、あらゆる言語において同音異義語の存在が文脈に応じた高度な識別を必要とする難しさになると考えられる。その他、発音の癖や言葉の砕け方などもまた自動入力において難しい問題になる。 英語では膨大なサンプル量や、模範的な英語では十分な1文を構築する性格を持っているために、精度を高めた自動入力を望みやすいとも考えられる。ただし英語でも、その恩恵を受けられる範囲はデータの整備範囲に限られる。地域や個人に応じた最適化か、あるいは個人の標準語への適応が必要となる。 また英語などでは単語や文章の表記ごとにほとんど1パターンの標準的な発音自体は存在するため、英文の自動音声化も適切なデータさえあれば単純に音声化しやすい傾向があると言える。ただし同様に、言語の普遍的な傾向における変質には機械か人間のどちらかが対応する必要性は生じる。 特に問題となりやすい面はデータが不十分となりやすい領域、特に新しい言葉や名称への対応には、大きな手間が生じやすいと言える。データが無くとも暫定的に標準的な発音例を取ることはできるものの、その発音が本来の発音から乖離している場合には、自動音声化にも自動認識にも不具合が出る。 文脈を含めば精度を高めやすいと考えられるものの、新しい言葉の使い方に対しては大きな対応が要求されやすいと考えられる。英語は、明文化される文脈が大きく、そこから言葉の判別もしやすいと評せるものの、一方で言葉の変化には結局煩雑な対応が必要となる。そして英語は新しい使い方が頻出する。 ちなみに日本語では、音は単純な傾向であるものの、同音異義語や癖が多いため音の識別よりも言葉の判別に困難性が生じやすいと考えられる。一応、一般的な語彙なら文脈からの判別が困難な語彙はそれほど多くなく、人間でも判断が特に困難な場合には人の会話においても語の補助が見られる。 自動音声化でも、日本語では表語文字の発音が1パターンに定まらない例も多く、精確な音声化には音の指定が必要となると言える。だが日本語では「フリガナ」の方式で、あらゆる言葉に対して明瞭に基本的な発音の指定を用意することもできる。人力の対応で、多少整理しやすいと考えられる。 ▲
目次 ◆ ### 蛇足:アルファベッド言語の応用性 アルファベットの言語では、その顕著な応用性として非常に端的な略称の単語を作られている。簡単な名称の略称では名詞の頭文字2~3文字を用いたり、2単語以上に分かれているならば語の頭文字を取り出すことで略称が作られることもある。その性質上、非常に長い文章でも端的に略することが可能である。 例えば[United States of America](アメリカ合衆国)は、略称として[USA]で表記・呼称される。他にも[Gratest of all times](史上最高)という表現が[GOAT]と略するなど、応用範囲は広い。略する元の知識がなければ理解は難しくなることはあるものの、事前に共有されていれば極めて端的に言い表せる。 アルファベットによる略語はアルファベット言語における文章の長大化という問題を、とても効果的に軽減する方法であると評せる。元の語が共有されている必要があるため、万能の表現ではないが、場面において理解されやすい名称や象徴的な言い回しでは積極的に用いられていると言える。 なお略語の使用そのものは活発な使用言語においては普遍的に見られやすい現象であると考えられる。日本語においても珍しくなく、一般的な日本語の例では「語の一部3字前後」や「2分割した音の2字+2字など」が主となる他、名称においては漢字の1~3字を抜き出した表現などをする。 日本はカジュアルな場面において、2~4音での略語が非常に好まれている。言葉としてまず非常に言いやすい形に整えられて、それによって認識しやすいサイズで覚えやすい言葉となる。[パソコン]などのように、親しまれ方によっては標準的な名詞として定着していくことさえある。 日本語の標準的な略語の特徴は、元の語彙の音要素が明確に残りやすいという点である。英語は元の語彙の音ではなく文字を抜き出す形式であるため、文章的な認知を共有できなければ略語として成立しない。日本語では「音を抜き出す」という形が主となるため、語の類推や共有が比較的しやすい。 ちなみに例外として、漢字での国名表現では漢字名称からの略称が一般的である。日本の場合も例えばアメリカは[亜米利加]という漢字表記から[米国]または国名表記では[米]だけでもアメリカを言い表し、イギリスは[英吉利]からの[英国/英]を使う。なお漢字圏でも国によって当て字が異なる場合は多い。 蛇足:どの言語であっても略語は発生すると言えるが、あらゆる略語は文脈の共有ができていなければ精確な識別はできないことになりやすい。他言語の略称でも発生する問題だが、特に英語の単語の頭文字を用いた略称は短縮性が非常に強いため他の略語や単語との衝突がやや発生しやすいと評せる。 ▲
目次 ◆ ### 蛇足:日本語の言語における地政学的不利 日本地域は日本語の言語体系によって、地政学的な不利を持っていると説明できる。現代では欧州系に由来する言語が世界中で使われ、英語や次いでスペイン語がその使用範囲の広さにおいて劇的な広さを持つ言語である。※話者数では中国語も多いが、中国語はほぼ1まとまりの地域である。 英語が世界的な実質的な共通言語として使われていること、先進的な科学技術などの情報も英語で集約される状態にあるために、英語を使えるかどうかは非常に重要な意味を持つと言える。だが地理的条件において、日本地域は欧州世界から見て、ほぼ世界の反対側にある最果てと説明できるほどの地域である。 例えば「アメリカ国務省の外交官養成機関が公表している、英語を母語とする人にとっての世界各地の言語の学習難易度」において、アラビア語/中国(漢字)/韓国(ハングル)に加えて日本語が最も難しい言語として並んでいることから、実態としても「日本語は英語から最も遠い言語の一つ」だと説明できる。 英語圏の人から日本語を学ぶことが非常に難しいように、文化的な距離の遠さで生じている言語体系の大きな違いから、日本語圏の人が英語を学ぶことも当然のように難しい相手である。英語を理解することが特に難しいと言える不利を背負った状態にあり、英語の情報を入手することには苦難が生じる。 言語の地政学的な視点から見れば「日本とは本来、最も先進的な世界から遠い位置に存在する不利な地域」であると説明することができる。特に英語などによる文明を中心とした欧米世界から見れば、理論上日本の地域とは最も遅れることになるはずの地域だと考えられるほどの、言語的な距離感がある。 その言語の地政学的な問題は、当然「言語的な情報を発信する場合」にも非常に大きく影響する。現代における国際的な場面における情報発信は原則的に英語を基本となっているために、日本語圏の人が世界へ発言するには「英語への適切な翻訳」か、英語での思考の組み立てという苦労を強いられる。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:日本社会の努力 日本地域は言語的に欧米世界から遠い位置にある、また世界的に見ても孤立的な言語性を維持している地域である。欧米世界とは全くことなる文化でありながら近代的な発展を実現し、独自の言語を社会基盤として巨大な社会規模を持っている地域である。その規模から、英語への転換はまず不可能である。 言語的な観点において、日本語は世界の中心的存在から非常に遠い位置にあると説明することができる。つまり「日本は世界の中心から最も離れた立場にある」と位置づけることができ、日本は、世界の中心に対して最も大きな労力を払わなければ、関わることができないという文化的な距離感を持つ。 そうした言語的な距離感から、あえて言えば日本地域は「世界の共通認識から不利を押し付けられている側である」とも説明できてしまう立場にある。非常に遠い距離感を克服することを強いられる立場であり、日本人は世界に対して最も多大な苦労をさせられている状態にあるとさえ評せる。 特に国際的な場面では原則的に、実世界の実質的な共通言語が英語であるため、日本人は最も離れた言語と言える英語を使うことを強いられる。また日本地域へ受け入れる場合であっても、原則的に他言語への配慮を強く進めなければならない立場にあり、その対応のための労力を強いられていると言える。 そのような立場であってなお、日本はむしろ先進的な国の一つとして数えられるほどの文明性と規模を持っていることは、欧米世界の観点からすれば、もはや別次元と言えるような世界観とも表現できる。あるいは、最も離れた日本が十分発展しているために、言語的な障壁が軽視されやすいとさえ考察できる。 日本が先進的な国の一つとして数えられるほどの文明性を持っていることは、ただ社会文化が独立的に発達しているという面だけではない。国際的な場面や先進的な場面において、日本側が世界に対して言語的な歩み寄りをし続けていることで実現している。日本側が、言語的な譲歩をし続けているのである。 日本地域はあらゆる知識を日本語化して整備し続けることによって、多くの知識を扱いやすくして、世界的な知識の競争において肩を並べる状態を維持することを実現している。それは言語の障壁が無いのではなく、あくまでも日本側が恒久的な他言語への理解の努力をし続けているだけである。 そしてそれらは、日本語がより多くの語彙を柔軟に扱える非常に強固な言語構造の基盤を持っていたことで成し遂げられたものである。近代化以降、より多くの語彙を扱うために整備された部分もあるが、日本語は日本語の構造の中であらゆる語彙を日本語化して扱うことができる極限的な受容性を持つ。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:日本語社会の特異性 日本には本屋が豊富にあり、またそこに売られている本もまた多彩かつほとんどが「母語」の本である。日本は先進的な文明国でありながら、日本人は第一言語である日本語以外の書籍を読む機会が極めて少ない。他言語に触れる機会そのものはあるが、母語以外の書籍を買うことは非常に特殊な例だと言える。 日本では高度な知識であっても基礎的な範囲からかなりの範囲にわたって、母語の書籍などによって学習することができる。他言語の書籍などを必要する場面は、極めて先進的な情報や、極めて専門的な情報を入手するため、あるいは小説などの原文を読みたいといった、非常に特殊な事情に限定される。 ある程度の大きさの本屋であれば非常に広い分野で母語の本が揃っている。科学関連の母語の本も揃っている。プログラミング関連の母語の本も揃っている。哲学関連の母語の本も揃っている。非常に多くの知識を母語で学習することのできる環境が揃っていると説明できる。これは非常に贅沢な環境である。 一般的な日本人にとって他言語の本を買う習慣が無いため、そもそも他言語の本の取り扱いそのものが限定的であると説明できる。よほど大量の品ぞろえをしていたり、専門的な品ぞろえをしている本屋でなければ手に入らないとさえ言える。本屋は広く存在する一方で、他言語の本が限定的なのである。 この日本語社会の環境は、他の非英語圏の国々においては非常に特殊な環境であると説明しなければならない。母語で非常に多彩な知識を得られることは決して当然なことではない。非英語圏においては、多くの知識を得るための「通行許可証」のようなものとして、英語が不可欠になると例えられる。 現代文明においては、高度な知識ほど英語などの主要な言語で書かれている本に集約されてしまっていることが多いと説明できる。非英語圏において、そうした知識や書籍が全て母語に翻訳されているとは限らない。高度な知識が求める際は、多くの国でまず英語を学ぶことが前提となっているのだと言える。 特に多くの外国語の書籍が母語へと翻訳されてるという社会環境は、それだけ出版業界の規模が大きくなければ成立せず、十分に大きな社会環境と、多くの人々が本を買うという文化的な習慣と、そして翻訳をできる人々が揃っていなければ成立しないものであり、非常に巨大かつ豊かな社会に限られる。 欧州の強い文化圏であるドイツ・フランス・ロシアなどにおいてはその文明の規模によって翻訳や母語出版が十分に活発な傾向から母語の書籍の範囲も広いと考えられるが、同時にそうした欧州の先進的な国においては英語の教育も当然として重視されやすく、英語の書籍も扱われていると考察できる。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:「英語が免除される高度文明地域」 日本語社会は非英語圏や特に「非印欧語族」の孤立語としては例外的に、母語によって非常に多くの知識を扱える環境が成立している社会を持つ。日本語社会に生きる人々は、事実上の国際的な共通言語である英語という「知識文化への通行許可証」を、非常に多くの部分で免除されていると説明できる。 もちろん国際的な領域や専門的な領域では英語を使わなければならないが、日本語社会では日本語のみによって知識を醸成できる環境がある。特に「多彩な哲学書を母語で読むことができる」という文化的な豊かさは、その言語体系が非常に高度な機能を持っていることを示しているとも評せる。 日本国内においては基本的に日本語を知識の基盤として扱いながら、国際的な場面では通訳を介したり、情報発信においてもまず日本語によって整理を行い、それを英文へ翻訳して発信するという形ができるような環境が整っていると評せる。必要性が無ければ、完全に日本語のみで完結することもできる。 本来的に、現代文明において「英語などの主要言語を扱えない状態」は高度な知識へのアクセスが極端に制限されると説明できる。多くの非英語圏で、高度な知識へのアクセスするための手段として外国語学習を必要とする状況があり、世界の主要言語が使えないことは先進文明との断絶さえも意味している。 現実的に「世界的な知識の領域」のほとんどが実態として「英語に縛られている」と説明しなければならない。世界に存在する論文のほぼ全てと言えるほどの割合が「英語」で書かれている実態もある。英語を扱えないという状態は、本来それらから大きく隔絶し、文明的な遅延を招くとさえ考えられる。 そうした言語の世界情勢から、非英語圏の小さい国によっては英語を知識的な第二言語として位置付けて、高度な知識分野は原則的に母語ではない英語によって扱うという国も見られるほどである。それほどまでに英語は強大な言語だと説明できるのだが、日本はその中において、日本語によって自立できる。 蛇足:日本人として自賛的な話となってしまっているが、地球の現代文明において日本語社会は明らかに例外的な存在であると説明するべきほどの特殊性を持っている。母語によって強固な知識体系を構築し、直接的な知識の民主化を実現している一方で、非英語圏としての苦労は専門的な人が頑張っている。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:日本社会の他言語配慮の象徴 日本における言語的な障壁とその克服のための努力という部分において、最も象徴的な出来事が、20世紀東京オリンピックのピクトグラムである。ピクトグラムはそれよりも前から使われていたが、国際的に重要なアイコンとして使われ始めたのは、その20世紀東京オリンピックからであると説明される。 より多くの国々の人々が行きかう状況で「多くの人にとって認識しやすい表現をするべきである」という社会的な要請は存在してた。しかし、それを国際的に体現したのは20世紀東京五輪でのピクトグラムの活用であり、それがピクトグラムの有用性、重要性を国際的に知らしめる転機となったと言える。 近代的なピクトグラムは、20世紀初頭(1900年代)から進められていたものであるが、当初の活用範囲は高い視認性と共通性を必要とした道路交通標識における統一であった。国際的な場面で「絵の案内」が使われた例も1948年のロンドン五輪の案内を確認できるが、小さい場合の視認性は低い細かい絵であった。 1964年の東京オリンピックで整備された各種のピクトグラムは、単純な形状で強く明瞭に情報を伝えるように整えられて、開催案内などに広く活用された。これによりピクトグラムの国際的な有用性が認知され、世界的に国際的な場面でのピクトグラムの活用が進んでいくこととなると説明できる。 文化的な歴史から考えて、20世紀東京五輪が転機となったことは偶発的なものではないと言える。英語圏のような知識を持てばいいという傲慢さを持たず、日本がその文化において「やさしい表現」の社会的な重要性への認識があったこと。そして言語的な理解の難しさを自覚していたからこそだと考察できる。 欧米世界における先進的な「簡素な絵で視覚に理解を導く表現」という手法を先んじて研究していた例は、1920年代のオーストリーでの「アイソタイプ」がある。しかしオーストリーは歴史的な事情から、言語的な対立や交流の場面が多かったからこそ、そうした発想が社会的に生まれたとも考察できる。 欧米世界では、瞬間的な判断を必要性から高い視認性と共通性が不可欠であった道路交通標識などでは共通化を実現したものの、ピクトグラムのような整備は遅々とした。その理由として考えやすい所が、「文字こそが文明の象徴であり相互理解の方法」と考えられているような文化性から考察できる。 つまり、文字で理解できるはずという思い込みだけではなく、人間ならば文字で理解しなければならないとする社会的要請の強さから、一般的な場面での「非言語的な理解可能性」は軽視されてきたのだろうと考察できる。その実態として、ピクトグラムの国際的な活用の先例を、日本に譲ったと考えられる。 ▲
目次 ◆ ## 『英語の"Unfriendiness"』 英語には、世界中で実用されているだけの十分な合理性は存在すると説明できるが、人間的な効率性においては、実用できれば十分と言われるような様子でその場しのぎのツギハギだらけな傾向から、特に学習面で大きく損なわれている部分があると評せる。覚えれば楽でも、覚えるまでは大変苦労する。 使えればいいという惰性によって維持されてしまっている「音と字の不一致」だけをとっても、新規の学習者、それは母語話者の子供たちさえも学習に長い時間と手間を要求する。学習者たちは、前時代から続く言語整理への怠慢の負債を背負わされ、不整合な文字体系に時間等のリソースを消耗させられる。 だが英語を扱える知識人ほど、言語学習の機会に恵まれていることも多く、言語の不健全さに気付く機会は少なくなる。「真面目に勉強をすれば使えるようになる」のだからと、「不真面目な人間のことなど、考える必要もない」などと思ってしまうことも、とても自然な感性であろうと言えてしまう。 あるいは世界的に使われていること、世界的な立場を持っていること、世界的な実用をされていることによって、まるで人類にとって最も合理的に効率化された言語であるかのような自認を導いてしまうであろうことも想像しやすい。だが、人間にとって不条理な部分を抱え込んでいることは自明である。 より強い言葉を使えば、「現代の英語とは、現代人類文明にとって重大な文化的負債の一つ」だと表現しうる。このまま改善もなく使い続ければ、人類はこれからもずっと大きな負債への対応を強いられ続けることとなる。それを未来へと惰性的に継承し続けることは、もはや「未来への背信」と表現しうる。 個人において、言語の難点を克服するための努力は一般の社会的義務であり、努力によって克服できるものであるとされやすい。そのようにして、言語的な学習負荷によって生じている不条理は軽視され続けてしまうと言える。特に、教育が不十分な社会的立場では、努力もあまりにも無力だとさえ言える。 また教育機会に恵まれたとしても、英語の学習には、その不条理さにかかる余計な浪費をさせられ続ける。特に英語圏の子どもたちにとっては社会的義務へ応じるため、とても貴重な時間を奪われ続けているとさえ表現できる。「母語の体系を学ぶため」だけに、遊ぶ時間も他のことを学ぶ時間も、削られる。 ▲
目次 ◆ ### 英語学習の困難性と、言語学習の重大性 現在の英語は、言語として不親切な多くの性質から、長大な教育機会を得られなければ十分な言語能力を有することは難しいと説明できる。英語は特に「自主的な学習をするための基礎的な言語能力の獲得」という部分に大きなハードルがあり、これを個人の努力のみによって克服することは困難である。 「自力で学習をできるようになる」までに、英語では長い時間をかけて言葉と文字の関係や、文章を読むために必要となる多大な知識量を、教育を通じて揃えさせてもらう必要性があると言える。言語の原則として、かんたんな説明さえも、それを読むために必要な知識がなければろくに読めないものである。 言語学習の不全は、社会的立場の不利を招きやすいだけでなく、世界に溢れている情報を読み取る力の限定を意味する。それは個人における幸福の追求にも著しい障壁となってしまいやすいものであるとも位置づけられる。また社会性も限定されてしまいやすく、結果、それらは社会の不安定を導いてしまう。 言語能力の不全とは、特に現代文明であっては社会的に前進しうる能力の欠如を意味する。社会的な立場や社会的な力を持ちにくいという問題だけではない。言語能力の不全は、交流や学習によって自己研鑽をする技術さえも、ひどく限定されてしまう状態である。正当に努力するための道筋さえ得難くなる。 より辛辣な評価をしてしまうならば、社会という単位において、もし人間社会が恒久的かつ平和的な発展を実現するためには、「現在の英語の難解さ」の改善が非常に大きな課題になるだろうとさえ考えられる。それは世界的な相互理解の話ではなく、個人個人の安定した社会性という面における問題である。 ▲
目次 ◆ ### 感覚の不均衡 特に英語的な価値観では、歴史的におおよそ「言語の合理性として単純化、省略化をするべきである」ような傾向が働いていると説明できる。それにより、常用される語の種類をいたずらに増やすことは、言語としての合理性を損なうとさえ思われやすいように見える。「見かけ上の単純さ」が重視された。 だが語を増やさないために単純な単語を使いまわすこと、加えて省略のために余分に見える語を削ること、これらの文化によって単語の意味は多重化を深め、また文章における語の識別を共通イメージという暗黙のルールにも大きく任せる形式となり、言語としての実質的な「単純さ」は失われていると評せる。 見かけ上の単純さは、十分な教養や知識を持って慣れ親しんでいる人々にとってはシンプルで合理的だと感じられてやすいと言える。そうした無意識に補われている部分への無自覚によって、実態は感覚性の不均衡が大きく生じていると説明できる。英語は習熟者側に近い形で整備されていると評せる。 ▲
目次 ◆ ### 教育普及の実現性 現代文明の大原則として、国際的な合意において、地域社会は可能な限り基礎教育の普及に尽力しなければならないという人道的な義務を背負っているというべきである。基礎教育の普及の不全は人道的な問題であると説明できるものであり、先進国では社会的な姿勢としてその問題に自覚的なはずだと考える。 おおよそ可能な限り、普及の努力をしていると考えたいが、「最も広く普及していると表現できる英語」を使う英語圏の先進国でも少なからず、その言語の基礎教育が不足する部分が見られる。一つ、教える側が足りないという場合については「教わる側を教える側へ育てる」という社会的循環の不全である。 教育普及の実現性については、「日本」という実例が実在している。日本は小国ではない人口の多さと土地の広さにおいて、ほぼ全国民への基礎的な教育を実現していると評価できる。よって、教育の普及はたとえ大きな地域であっても、人間社会として不可能なことではないことが実証されている。 また、日本は基礎的な教育を普及させることによって、社会がより活発に発展していくことも実証している。日本は社会的にかなり安定していると評価でき、それは基礎的な教育の普及によってより多くの人が十分な社会性を持ちやすくなり、社会の安定性を大きく支えていると考えることもできる。 (欧米社会はより先進的な歴史を持っていたはずであり、また現代においても世界的に先進的な立場にあると評価できる。しかしそのような社会であってなお基礎教育の普及が十分であるとは言い難い部分が、注記するべきほど確認できるという実態は、日本と比較すると怠慢にさえ見えてしまう。) (ただし日本は日本語という人間的に親しみやすく整えられた言語を持つ。それは長い歴史をかけて言語の共有と整備、そして共存や併用をし続けてきたことで形成されたものである。それが基礎教育での高い学習性の確保と、教育する側の育成にも繋がり、近代以降の教育普及を実現したと説明できる。) ▲
目次 ◆ ### 英語文化による英語の難解性の経緯 英語圏、特に英米の基本的な社会制度として、「正しい文章が正当な権利を持つ」という社会構造を持つ。それは、英米文化が歴史的に多くの民族や文化と交わってきた経緯から、社会秩序の基盤を安定させるために、正当性を「名目上分かりやすい言語」と「正しい文章」へと委任しなければならなかった。 英米文化では、社会制度の保障を「英語」と「正しい文章」へ委任している。見かけ上「分かりやすい言語」と、厳密な「正しい文章」という形式を共有することで、様々な主張を統一的な言語形式で客観的に判断できるような社会制度を目指したのである。これは社会的に、妥当な選択だったと言える。 英米文化とは、客観的に見て「正しい文章に人が従う」という社会構造をしている。より強く言えば「人間が、言語に従属させられる立場にある」と評することができる。近代以降の法治国家制度において、そうした社会体制は論理的に合理的だと評せる。実際、アメリカが広大な規模の社会を保っている。 しかし英語の文字体系は、様々な人々と同じ文字体系を共有する体制にしたが、性急な言語共有をしながらも、「正しい文章」を守るため文字体系をむやみに変更してはならないとしたことによって、英語の持つ問題の解決を著しく難しくしてしまったとも評せる。その使い方から、方言性の拡大が容認された。 歴史的な背景として、英米文化は社会的な妥当性から、現代の英語の言語体系や社会体制へと進んでいったと説明できる。英米社会が、安定と発展をしていくための現実的な生存戦略として、英語の言語体系を現在のような形式にすることとした。だがその妥当な選択が、言語的な難解性を容認したと評せる。 自然に崩れていく「字と音の乖離」に対する有効な手立てを持てず、不文律のシステムに依存する「文法のフレーム」構造によって柔軟性を放棄し、それらを含む様々な事情から新しい言葉を許容しにくい構造から単語を使い回すこととして「単語や音の多義性」は際限なく増え続け、日常言葉の変容も早い。 その文化的な事情は、現代の英語自体の難解性について、なんら問題が無いとまで擁護できるものではないと言える。歴史的な事情はあくまでも、現代に至るまでの経緯を明らかにするものであって、現代における現実的な問題の黙認や容認を正当化する理由にはならないと言われるべきである。 ▲
目次 ◆ #### 「形式性の強化」による人間性の不在化 やや文化的な批評ともなってしまう面だが、英米文化のような「正しい文章」の存在に依存する社会性では、人間性の確保が難しくなりやすい。形式性が強固になるほど「雰囲気」の観念は薄くなり、少なくない部分において人間性が損なわれる、欠ける、あるいは削られてしまうことになりやすいと言える。 「正しい文章」の存在に依存すると、人々は常に言語化、特に具体化を強いられることとなる。その社会環境では社会的に言語化されたものだけが存在するように扱われる。裏を返せば、「言語化できないものは存在しないものとして扱っていい」という合意が形成されてしましやすいと説明できる。 言語化へ依存する場合、社会的な空間において「主張として表明されなければ、心情は存在しない」ように扱われやすくなると言える。「言語化の必要性」が存在することで、日常的に説明する義務が課せられ、各自が「正しい言語化」によって説明しなければならない文化を持つようになる。 その文化では相手が必要とするなら主張があるという前提が形成され、「相手の主張や説明に依存する」ような風潮を形成する。それにより「暗黙の配慮」の領域は著しく損なわれていってしまうと言える。文化の実態として、暗黙の文化も確認することはできるが、慣習の範囲に限定されがちだと評される。 (補足:一つ注記しておくが、日本語で言う[空気を読む](Read the atmosphere)の概念は、英語においても[Read the room](部屋を読む)という慣用句がある。人間的な文化として[Mood](ムード/気分)の観念も当然としてある。しかし[room]で言い表されているように、意識する場面は限定的だと評せる。) ▲
目次 ◆ ##### 人間性の不在化:具体性の実用的限界 「正しい言語化」に依存する文化は、模範的な解釈において「言語化されていない部分を、想像してはならない」という常識を形成してしまいやすい。社会的な作法として、明文化されている情報以上のことの想像を要求する文章は「文章の欠陥」のように扱われやすく、文章側の瑕疵だと位置づけられる。 その常識の範囲では、原則的に余計な穴埋め行為をさせないように心がけられ、受け取る側も言語化されたものには必要な情報が十分揃っているはずであるという前提を取る。それは精緻な情報伝達という部分においてとても有効な文化であるとも評せるが、抽象的な理解という部分は欠けてしまいやすい。 具体的に言語化することは誤解の少ない意思疎通に重要である一方で、具体化をしきれない抽象的な概念では限定的な具体化になってしまいやすく、抽象的な共有に問題が生じる。非常に単純な例として「犯罪などの反社会的行為をしてはならない」では、具体性において「犯罪に満たない行為」が外れる。 こうした問題に対する安直な考え方として「具体的な言語化をし続ければいい」という、素直な考えも珍しくはないが、実際に物事を余すことなく具体的に説明しきることは全く現実的ではない。抽象的な概念の完全な具体化は、説明が際限なく増大してしまうことになりやすく、実際の実用性を喪失する。 例えば「卵」という抽象的な概念を、抽象性を許さず完全な具体化をするには、あらゆる卵を具体的に指定する必要があり、その場合も「新しく発見された卵状態の物体」はその定義からは「卵ではない」となる。抽象的に「生物が生み出す新しい個体の1形態」として範囲を定義する形が実用的である。 また具体化をし続けると、説明は際限なく増大してしまいやすく、無限のような規模となっていく。それは説明を作ることだけでなく、説明を運用することにも、過剰な労力を必要とする。事象に対して適応できるどうかを、毎回その説明の全てを調べ尽す必要性があり、膨大な時間を繰り返し必要とする。 つまり人間が使う説明として、ある程度の抽象性を持つことは実用として避けられないものである。そうした「抽象的な説明」において、実例とは「具体化」ではなく「抽象性を理解するための参考例」として認識するべきものだが、具体化が当然だと思ってしまっている場合その認識は狭まってしまう。 (例えば「差別をしてはならない」という規範も、具体的に言語化された対象においてのみ共有されることとなってしまいやすい。また最悪の例として「被差別対象を抑圧してはならない」と言語化してしまうと、被差別対象が問題を起こした場合に対して、それを抑圧することが制限される状態となる。) ▲
目次 ◆ ##### 人間性の不在化:誠実と理解の距離 「正しい言語化」とは必ずしも、人間にとっての理解を保障するわけではない。「社会的に正しい言語化」は、「客観的な義務の証拠」や「各人の主観的な認識の自負」となるものであっても、実際において「現実的に妥当な認識」を保障するものでもなく、「実質的な道義の履行」を保障するものでもない。 とても単純な話、長大すぎる説明を用意したとしても、それを理解することはどれだけ正しいことであったとしても人間にとっては苦労を強制されることになる。例えば法律は現実的に不可欠な程度の長大さを持つが、これを理解していることは専門的な技能であり、万人が全てを理解しているわけではない。 つまり「極めて精緻な説明」と評することのできる文章ほど、論理的情報量が膨大に積み上げられている状態となってしまう。情報量の多い文章は理論上「最も精確に共有できる」とも説明できるが、現実的には情報量と一般的な共有の可能性は反比例するものであり、実際の長大な説明は実用性を損なう。 また「正しい言語化」を重用する観念は、「正しい主張をしたら、それに対する正当な反論が存在しなければ、元の主張は受け入れられるべきである」という強い独善性を許してしまう。正当な反論を作ることが難しい場合、あるいは不快な反論を無視してしまえば、一方的な主張ができると信じられてしまう。 (非常に極端な例として、アメリカにおける禁酒法は、整備当時における客観的な正当性に基づいて整備されたと説明できるが、人間的な観点において全く非現実的なものであった。むしろ反社会性を助長し、大きな社会問題を引き起こした事実によって、客観的な正当性が失われたあとに撤廃された。) ▲
目次 ◆ ##### 「形式性の強化」による人間性の局所化 また感情表現において、規定された意味しか持ちえない言語による、規定された「正しい言語化」のみで記せるほど、人間の持つ感性は単純なものではない。「正しい言語化」しか受け入れがたい文化性であっては、そうしたものの理解は難しくなり、そのようにして社会的に「人間性」が削ぎ落される。 補記しておくが、英語において全ての人間性が失われているわけではない。英語であっても文化的な範囲において、人間性は強く残されている。人間的な抵抗として、芸術表現や文学表現による拡張も試みられ、そうした表現領域も存在する。だが、受容力の低い人にとって、それはただ不自然な表現である。 英語の文化であっても、芸術や文学的な表現領域などにおいては、いわゆる行間を読ませるような手順を使う場合もある。しかし、英文において「穴埋め行為をさせる文章」は模範的でない。英語の基本原則に反するとさえ説明しうるもので、これを受け入れることは局所性の高い感性を要求すると言える。 英語を含む、日常的な形式性が強い言語にとっては、文学賞などのような社会的な価値を認める制度が存在しなければ、「常識的な価値観」において制限を受けてしまいやすい領域であるとも説明しうる。「価値がある」とする権威的な合意を用意しなければ許されにくい、局所的な領域だと位置づけられる。 (ちなみに皮肉の文化というものは、「行間」というよりも言葉の「裏側」を立てる文化であり、あくまでも文章上の「言葉の意味を読み取らせる」という形をとると説明できる。文章の穴埋め行為ではなく、言葉の多義性に潜在している表現を用いるものであり、これは英文においても常用できる。) ▲
目次 ◆ #### 補足:言語の「正しい進化」という誤解 言語が現代的な社会における合理的な形式性を求める場合、必然的に英語のような強い形式性に固まっていくのかと言えば、そうとは言えない。人間の文化には表現行為もまた必然的に存在するものであり、形式を軸とする英語はむしろ非形式的な表現行為を言語の外縁に追いやった言語だと説明できる。 これは現代的な英語が、形式的な活用を喫緊の主目的として整備、普及させていったことで形式性が中核となり、非形式的な表現性が大きく削ぎ落された歴史的経緯を持っているというだけである。英語は、英語特有の歴史的な経緯における妥当な生存戦略によって形成された一形態でしかないと評せる。 英語は、その文化的な進化の方向性として、表現性の受容がやや狭いとさえ評価することもできる。もちろん、英語による表現行為そのものは人間の文化の必然として多く見ることは可能であるが、それらの多くは英語の強い形式性の枠組みに縛れやすい状態であり、表現の幅や自由度が高いとは言い難い。 ▲
目次 ◆ ##### 補足:対極的な言語の例 対極的な例として、「日本語」の存在を比較対象とすることができる。日本語は歴史的な経緯として、形式的な言語領域と表現的な言語領域の、大きく異なる2つの系統を同時に持って、複合的に使い続けてきた蓄積を持つ。言語体系を統合した現代日本語は、2層の言語体系を適宜使い分ける様式を持つ。 その日本語の様式は、他の言語圏から不合理にも思われる。ひらがな/カタカナという全く同じ音を取る表音文字を2パターン揃えてることは、シンプルな表音文字体系の文化からすれば余計な文字種である。一方で、漢字の読み方が同じ地域なのに単一でないことも、他の漢字圏からすれば難解である。 しかし日本語は、その言語的な冗長さによって非常に広い受容力と表現機能を持つ。全く同じ意味の言葉を表現するだけでも幅広く表現を調整することが可能であり、言葉の意味を超えた雰囲気を伝えることも、シンプルな情報だけを伝えることも、それらをおおよそ自然と読み取ることのできる文化を持つ。 [日本語は文語表現に於いて漢字の多用で極端な厳格性を表現し得る機能を保有し、話し言葉の伝えかたでは人と話すときに使いやすい、やさしい言い表し方も同じようにそなえている。さらにはジャパニーズのセンスから外れたアトモスフィアをテキスト上でメイクすることもポッシブルである。] ([]文:日本語は書き言葉では漢字を多く使うことで固い表現をすることができるだけでなく、「会話での表現」や「会話を書く表現」では漢字への依存を減らした話し言葉でやさしい表現をすることもできる。さらにカタカナ語を用いることで、非日本語的な印象を言い表すことや書き表すこともできる。) 日本語は文語体系の領域と口語体系の領域が単一の体系の中で併存しており、ほとんど2言語分の言語とも評せる。他のシンプルな言語圏からすればあまりにも冗長すぎる煩雑な言語で、学習性も疑われるが、音は単純化、文法形式も総合的に合理化されており法則的で、母国語での普及状況は良好と評せる。 (※注記:日本語は、母国語として学ぶ際は幼少の日常会話からの段階的な学習を可能としているが、第二言語として学ぶ際には表現の冗長さによる膨大な情報量が大きな負担となる。ローカルにはとても便利に使われているものの、ユニークすぎて国際的な学習性という面ではとても厳しいと評せる。) ▲
目次 ◆ #### 蛇足:「日本語」の形式的機能性 日本語は、形式性と表現性を往復できる複合的な言語体系を持ち、日常的な言語においては表現性を広く許容できる機能を持つ。なお日常的な一面ばかりを切り取って、日本語は形式的な機能性において劣るなどとと評価をする例も見られるが、これはスラングまみれの英語と公文書を比較しているに等しい。 現実的な実態において、日本国内では日本語を基礎的な基盤にして科学技術の研究が進められながら、日本は世界的に見て科学技術の分野で決定的に劣る立場ではない。その立場にある日本語が言語的な機能性で劣っているのだとすれば、その他の言語も同様の評価をしなければならないと言える。 他にも日本製製品では多くの場合において、世界と比較して不良品の率が明確に低い傾向のデータが見られ、日本製というブランドに優秀なイメージを抱かれていると言える。それもまた、日本語が基礎的な情報共有において、十分条件の正確性を現場レベルにまで行き渡らせていると考えられる。 現実的な評価として、日本語は十分な機能性を持っていると評価されるべきである。また実態として日本語は形式的な文書において、十分な精密性をもった表現のできる機能性があると評せる。あえて表現するならば、英語は初歩から形式的文書の形態での構成を強いられているような言語だと言える。 英語は初歩から形式的文書の形態に近い位置から始められることで、それらを扱うための学習が比較的近しいと表現することもできる。日本語は形式的な文書の形態が、一般的に馴染みのない形態で、日常的において慣れる機会に乏しいと評することもできる。ただし、専門的な文書はいずれの言語でも難しい。 英語でもその形式性のみによって細密な表現ができるわけではない。実態として精緻な説明をするには、日常的な表現方法とは異なる詳細な表現を習得している必要性があると説明できる。英語でも、より詳細な語彙や表現構造を理解して使えなければ、形式的文書のような表現を構築することはできないと言える。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:形式的文書の読解 専門的な文書は、どの言語であったとしても難しく、特に専門的な語彙は専門的な学習を必要としがちであると説明できる。厳密な説明をするためには、英語でも難解な語を使わなければならない場面があり、その読解には専門的な知識が原則として不可欠となっていくと説明できる。 日本語においては、形式的な文書の形態そのものに慣れる機会は乏しいが、その読解はそれほど困難な形式ではないと言える。特に文章における基本的な構造そのものは、日常語における構成と近しい形態を持っており、難解であるところは専門的な語彙と、言葉の詳細な理解にあると説明できる。 特に英語の場合、単語そのものが文章の構成に深く関わる構造をもつために、難解な文章では単語がそれぞれどのような位置づけによって使われているのかを含めて理解して解読する必要性があると説明できる。日本語では文章の構造そのものに大きな違いは無く、その解読は語の意味に集中しやすい。 しかも日本語では運用上の常用漢字が定められることで、使われる文字については見知っていることが非常に多い。表語文字の性質上、知らない熟語があっても意味の推定をしながら読み進めやすい。つまり日本での形式的文書は、見慣れないことが多いだけで、困難性はやや低いとも考察できる。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:「言語の論理性」 非常に表層的で短絡的な評価として、英語は形式性が強いことで論理的な説明に適しており、英語は論理の力を育みやすく、一方で日本語は形式性が緩く抽象的な語彙が多いために論理的な説明に適さず、日本語では論理の力が育ちにくい、などと言うような観念の視点を確認することもできる。 そもそも言語能力と論理能力は、密接な関係を持っているようであってひとまとまりの能力ではなく、相互的な関係性を持っているに過ぎない。最低限、文字と文章の認識ができたとしても、高度な知識の学習には、多くの場合で更なる努力と能力が必要となるものである。言語は能力を保障しない。 言語能力とは、外側から見える様態を作る能力であり、文章などにおける外見や外形を整える技術であると説明できる。一方で論理能力とは、言葉の内面を作る能力であり、文章などにおける中身や実態を整える技術であると説明できる。言語能力は論理を支える力を持つが、論理能力そのものではない。 それはあらゆる言語において同様のことであると言える。また高度な論理性とは、日常において必ずしも使われるものでも、培われていくものではなく、それは文章の形式性の強い英語であっても同じと言える。英語を使えたとしても、細密な論理を組み上げる能力が万人に備わっているわけではない。 英語は形式性の強さがあり、言語として制限のある難しい形をしていることで、論理性が自然と鍛えられていくなどという観点も見られるが、現実的には英語に慣れている人々の全員が、高度な論理を使えるわけではないと言うべきである。論理の整合性は、言語の形式性のみで保障できるものではない。 ただし実態として、世界中を探し回れば、論理的な説明に向かない単純な言語という場合は存在する。高度に詳細な説明をする機能性を持たない言語も存在すると言えるが、それはその言語が使われている文化において、高度に詳細な説明をする機会が少ないために、整備されていないだけであると説明できる。 言語の普遍的な法則として、言語とは必要に応じて拡張されていくものである。それは言語そのものの法則であると同時に、個人の能力においても同様だと言える。つまり言語の論理性は、言語の形式的な論理機能よりも、言語化された論理の総量こそが論理的な機能や能力を積み上げていくと説明できる。 英語に論理的な有利性があるとすれば、それは膨大な「言語化された論理の総量」であって、言語の形式性そのものではない。論理に親しむ機会が無ければ、論理性はあまり育たない。それと同様に、日本語もまた「言語化された論理の総量」は膨大であり、そこで学べば、論理性は十分鍛えられると言える。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:個人の努力の必要性 言語教育によって自動的に論理的能力が培われるわけではないという実態については、日本における教育の実態から導き出されるものである。そうした傾向を、教育しているはずなのに育たない、などと解釈して日本語の劣等性と誤謬されたりするわけだが、英語では読解さえ苦労することも珍しくは無い。 また論理性において言語に縛られると言える部分はあると説明することはできるが、その実態として高度さを持つためには個人の尽力もまた常に不可欠である。高度な文章の読解に労力がかかることは、どのような言語であったとしても避けられないものであると言える。人間は全知全能ではない。 人間は生きていくために日常的な語彙を自然に使っていけるようにできていると思ってしまいがちであるが、実際には人間であってもその習熟には差が生じてしまうものであり、より単純な語彙しか使えないという場合は珍しくも無い。それは義務教育の十分普及している日本であっても同様である。 特に高度な文章の読解のためには、より多くの言語的な知識や慣れの感覚が必要となるものであり、これはどのような言語であったとしても、日常的な生活の中で万人が身に着けられるようなことはありえない。日常的に不必要なほど高度な認識や思慮をすることは、自然な状態ではないからである。 つまり人間が高度な論理性を身につけるためには、それを必要とされる状態に置かれたり、自ら必要とすることによって思慮の習慣を持って、知識を深めながらその扱いの精度を高めていく必要性があると説明しなければならない。その傾向は、人間の物理的な法則によるものである。 英語の形式性も、日常的な範囲における実態は論理の操作ではなく「1層分の情報を並べることが明瞭である」というくらいの機能しか持っていないと言える。形式性によって保障される部分とは、情報を整然と並べられるという点だけであって、その情報をどのように使うかは別の技能である。 論理的な言論を含め、情報を広げていく場合、英語はその強い形式性によって1文で説明できる情報量に原則的な制限があるために、文章のつぎはぎをすることが必要となる。英語であっても高度な文章における、文章同士の複合的な理解、論理的な解釈の構築は、結局、読者が読解に尽力しなければならない。 あらゆる言語に共通する事情として、それぞれの情報についてを読み取りやすいという形式性と、それが論理的な理解を導けるかどうかはまた別の問題である。英文も万能な表現方法などではなく、その形式性の強さから、非言語的な図式の方が分かりやすく、説明もしやすいという状態は珍しくないと言える。 ▲
目次 ◆ ##### 蛇足:自己客観視による「日本語難しい」の自認 なお自国の言語に対して「言語として難解である」と自認することは、世界的に見て特殊な認知であると説明できる。言語として比較する手段が無ければ、難解な文章などを見たとしても、それは「難解な文章である」という認知をすることが基本であり、言語そのものの難解性であるとは認知しにくい。 自国の言語の性質を認知するためには、比較対象を持つ必要性がある。しかし日本人は、日本語のみを使う人であっても日本語の難しさに対して比較的自覚的である。「日本語むずかしい」という感想は、日本地域において非常にありふれた感想であり、言語に対する客観的な自認を持っていると言える。 日本語は言語的な二層構造を持っていることで、「1言語の中において、比較的な視点を持つことが可能となりやすい」という状態が形成されている。日本語では文章構成の高度な柔軟性と、二層以上に及ぶ語彙などの多重性から、単一の物事でも「言い換えた説明」の幅が極めて広いという機能性を持つ。 日本人は、日本語の持つ豊かな機能性から結果的に「比較的分かりにくい説明:比較的分かりやすい説明」という評価にも直面しやすい。そのため「比較的分かりやすい説明」へと言い換えることが、非常に重要な技能として認識されており、そうした技術の活用や配慮をする文化が形成されているのである。 言語的な構造における強靭さから難解な言葉や表現が非常に多く保存され続けており、またあまりに高い柔軟性から解釈の難しい文章構成といった問題も存在している。そうした問題を引き起こすほどの使い方を指して、「日本語むずかしい」という自認に至ることが自然と発生するわけである。 ▲
目次 ◆ ###### 「やさしさ」 現代日本語では、特に発音における形式的な正しさという観念が一般的には希薄である。そもそも日本地域では方言が珍しくなく存在し、標準とは異なる発音が当然のように併存している社会環境を持つ。そうした環境から、「不慣れな発音」に対しても「よくある方言の一種」のような感覚で受け取られる。 言語そのものが方言性を許容する仕組みを持ち、また実社会でも異なる方言が併存する環境があることで、標準化の弱い現代では発音の許容範囲が非常に広い。もちろん人それぞれの感覚として奇異な感情を持つ例も存在すると説明するべきであり、また公共性を担う役割では一定の標準性を求められる。 しかし特に外国人による「不慣れな発音」に対しても、必要な音や意思の表明が揃っていれば「頑張ってくれている」とさえ思われやすいと言える。語の間違い自体は存在するが、発音のブレや癖と言える程度のズレであれば、日本語としては「発音の違い」であって「発音の誤り」とは、やや、されにくい。 一方で英語圏における英語話者は言語において、強いストレスにさらされていると説明できる。学習そのものの負担が大きく、また教育において形式性が求められ、言語的に分かりやすい発音への要請がかなり強い傾向にあると説明できる。特に発音の不全は社会的な印象にも強く影響を与えてしまう。 ▲
目次 ◆ #### 蛇足:文化的な影響としての「歌の作られ方や聞かれ方」 英語における大衆向けの歌とは、原則的に「簡単な言葉」で組み立てることが基本だと確認されている。それはまず、より多くの人々へ提供しようとする場合、不特定多数な相手側には十分な教養が保証されない状態であるため、難しい単語が避けられることが最も大きな理由として考察できる。 また英語における難しい単語は、歌という領域において扱うこと自体が難しい傾向もある。まず長いと単語の音をメロディーラインに載せることが難しい。さらに音楽の形式の中で言葉の文脈を構築することも簡単ではないために、単純で分かりやすい語がそのほとんどを占めていると考察できる。 英語の歌であっても適切に構築することを目指せば、非常に深い詩的表現を使うこともでき、そうした名曲も存在する。しかし非常に高度な技術や音楽的な制約がかかりやすいために、一般的な音楽とは区別しやすいほどの独自性を持つ、特別な傾向を持った音楽になっていきやすいと考えられる。 一方で、日本の歌の場合、詩的表現や文学的表現がそのまま音楽の形に乗って使われていると評せるほどの表現性を持った歌詞が多い。日本語の文法的な自由度、表現的な自由度があり、また音においても許容範囲がとても広いことでメロディーラインへ乗せることも非常にしやすく、複雑な歌詞を用意できる。 日本語そのものが、古くから「和歌」と呼ばれる歌の文化に強く根差しながら使われ続けてきたという歴史的背景の影響を考察することもできるが、現代音楽では古来の形式からも解放された非常に豊かな表現が存在する。そして、その表現をしている歌が自然と多くの人にも受け入れられていると言える。 日本語の表現力があまりにも豊かなため、歌詞の創作にも専門性が明確にあり、「作曲者」と「作詞者」の役割が標準的に区別されている。一人で作詞作曲することも珍しくはないが「どちらもできる人」と評せる特別さを持つ。一方、英語では権利や契約の事情が無ければ[Songwriters.]へまとめられる。 ▲
目次 ◆ ### 英語への信仰 英語という言語がどれほど人間に不条理であるかも、これを英語だけで言語化することは難しい。文化の分析の原則として、異なる文化との相対的な評価をしなければ、あらゆる文化の特徴も明確化することはできない。言語の分析も、異なる言語との相対性によってのみ、その実態を評価することができる。 だが英米社会にとって、社会基盤である英語のみが最も正当性を持った文章でなければならない。その社会通念上、英米文化において英語以外の言語に正当性を持たせることが難しいと考えられる。ようするに、世界で最も広く使われてる言語だから最も優れている、といった傲慢さを抱きやすいと言える。 英語が最も優れているという認識をしている場合、英語以外の形式の合理性を理解しがたい。特に英語を自然と扱える知識層ほど、慣れてしまっていることで英語において致命的な不便を感じることが少なくなる。世界的に英語が最も重要な言語となっていることで、英語以外を必要とする機会も限られる。 そうした背景によって、英語が相対的に見て明らかな問題を抱えているとするような評価は、特に英語という言語の立場が強い英米文化にとってはとても非常識な評価だと認識してしまいやすい。その評価を受け入れることには困難を伴いやすいと考えられる。それは、社会基盤を疑うような事象になる。 ある特定の母国語だけを使う話者にとっては、たとえ他の言語形式についてを話者の母国語で詳細に説明をしたとしても、母国語とは異なる言語形式は「違和感の大きい言語形式」でしかない。言語的な直感が合わないことでその合理性も理解しがたく、もはや「不合理な言語」のような認識に陥りやすい。 それはあらゆる言語において見られる現象であり、英語においても同様である。英語においては社会的な圧力の強さや世界的な影響力といった社会的背景によって、英語に対する信仰心はさらに強く働きやすいと言える。それにより英語以外の形式の合理性を、認めることがさらに難しいだろうと評せる。 (もし英語文化が、自らの学習性の問題を自覚していたのならば、日本の戦後において「日本語の文字体系は煩雑であるため学習性が悪く、教育における障害となっている。より分かりやすいローマ字にするべきである。」などという実態とはかけ離れた蒙昧な提言をすることも無かっただろう。) ▲
目次 ◆ ## 「文字体系の相対的評価」 相対的な視点として、アルファベットの文字体系は「文字だけでは意味が理解できないし、予測もできないことさえ多い不効率な体系だ」と評せる。それは相対的に、表語文字の体系は「文字に意味を付与するため、語の意味を推測させやすい」、理解における効率性を高めやすい言語体系だと評せる。 ただし読解の早さについては、人間が1度に認識できる文字量や情報量は人体の認知機能による限界がある。つまり人体の物理的な法則に基づいた、基本的な限度があると説明できる。細かい読解速度については慣れや能力による個人差や、文章内容による差も大きく表れるが、平均的な傾向は存在する。 アルファベット文字体系は文章量に対する情報密度が薄く、情報量が薄い分認知負荷が軽く、文章は長くなるものその分早く読みやすい傾向が見られる。表語文字体系は文章量に対する情報密度が高く、情報量が多い分処理負荷が重く、文章は短くなるが文字ごとの読み込みは若干遅くなりやすいと言える。 情報密度の観点から、読み込む情報量で比較する場合、読解の機能的な差は縮小しやすいと説明できる。細かくは言語の性質だけでなく読む人の能力などによって差の出てしまう場面もあると言えるが、どちらの文字体系でも言語が十分効率的であれば、母語として効率的な読解は可能になると評せる。 また現実的な問題として、人間が簡単に扱える範囲の文字や言葉のみによって、物事を全て識別して説明できるほど、世界は単純な形をしていない。単純な生活をしている原始的な環境では単純な言葉だけでも問題ないことも多いが、文明や社会が大きくなるほど識別を必要とする物事は増えていく。 しかし物理的な制約から、人が短く発声できる音や言葉だけでは、物事を詳細に区別することはできない。物事を詳細に区別するためには、音や言葉を重ねて長大化させることは避けられない。そして長大な言葉も負担になる。実用として、同じ音や似た音が多義的になることも避けられないと言える。 人の発声に依存する表音文字の言語体系では、文字においてもその問題の影響を直接的受ける。そのために表音文字では、詳細な識別に長い文字列を使って説明をしなければらない文字体系になっていく。表音文字体系は、音と文字が繋がる言語体系である代わりに、文章でも長大化を回避できない。 一方で表語文字は、概念から文字を区別することで、文字列の長大化の問題を緩和していると言える。また表語文字体系では文字の種類を増やすことで、概念の識別はほとんど際限無く増やすことができる。ただし文字列の長さを緩和する代わりに、表語文字はその文字体系が複雑化してしまう。 ▲
目次 ◆ ### 表音文字体系と表語文字体系における言葉の学習性 学習性において、表語文字体系は文字の学習量が多く負担になりやすいことは事実として説明できる。アルファベットの文字体系は文字自体の学習量は圧倒的に少ない。しかし、単語の学習量としては、アルファベットの文字体系でも単語ごとの学習は不可欠なことであり、学習自体が不要なわけではない。 また表語文字は複雑な文字となりやすいために文字の記憶が難しいとされるが、アルファベットの言語でもおおよそ9~10文字以上の単語の記憶は難しくなりやすいとされる。一方で、代表的な表語文字と言える「漢字」では文字の組み合わせによって、非常に多くの語彙が短く効率的に形成されている。 特に、アルファベットの言語では、細かい名称などが識別のために長大化してしまいやすい傾向があり、その記憶や共有に、大きな負担が生じやすいと言える。漢字体系では、専門用語も表語文字の概念を組み合わせることで簡潔な熟語に収めることもでき、記憶や共有の負担を軽減しやすいと言える。 言語の根本的な原則、言語の物理的な性質において、社会的に詳細な識別を求めるほど、必要な解像度を実現するために複雑化や長大化は避けることができない。いずれの言語にも学習の負荷が生じやすい部分があると説明できる。総合的な学習負荷において、文字体系自体の差が大きいとは断言できない。 単純な計算として、アルファベットの言語で100種の単語を覚えるためには100通りの音や文字列の組み合わせと意味を覚えなければならない。漢字体系では頻出する25種程度の文字を覚えれば組み合わせを含め100通り以上の語ができ、追加1つ覚えるごとにその組み合わせも増え、単語を効率よく覚えられる。 アルファベットの言語でも、言葉にパーツを組み合わせることによって意味を制御する接辞の方式は存在し、それによって語彙を増やすことはできている。だが、より詳細な語を必要とする場合には異なる言葉を用いるか、アルファベット言語も言葉の組み合わせが必要となり、長大化をしてしまいやすい。 漢字で顕著な傾向として、多くの表現を簡単な字や短い語に押し込めると、同音や同じ単語の意味が多重化し、音や語の多義化を引き起こす。しかしそうした傾向は表語文字固有の問題ではなくアルファベットの言語でも見られる現象である。また漢字体系では文字の組み合わせで意味を細分化できている。 また「音の覚えやすさ」などの点でも、長大な語彙になるほどその負担は大きくなる。アルファベットの言語は詳細な語彙が長大化してしまいやすく、音の負担は大きくなりやすい。一方で漢字は本来1字ごとに短い読み方が決まっており、単語も短く抑えられ、音の負担自体は軽いと評せる。 ▲
目次 ◆ #### 表音文字体系の合理性と表語文字体系の合理性 純粋な表語文字の言語体系では文字ごとの学習負荷が大きく、基礎教育が難しくなることも事実だと言える。表音文字の言語体系であれば、字と音の整合性に応じて学習負荷が軽くなるため、基礎教育がとても効率的になりうると説明できる。特にアルファベットは見かけにおいてとても親しみやすい。 表音文字体系の性質として、基礎的な文字を扱えるようになるまでが早い傾向があり、基礎において高い効率性を持ちやすいと評価できる。その代わりに、より多くの情報を詳細に扱うようになると、物理的な法則として短い表現では収まらなくなるため、学習や共有、運用の負荷が増大してしまいやすい。 表語文字体系の体系は、文字1つ1つの記憶学習に負荷が大きく、基礎的に十分な文字を扱える状態になるまでは手間や時間がかかる。その代わりに、十分な学習を済ませた状態でより多くの情報を詳細に扱う段階になると、様々な情報を短い表現によって使い分けられ、高度な情報運用の効率化を望める。 論理的な分析を整理すると、表音文字体系を基盤とする言語は初期的な学習性が比較的良好な傾向を確保しやすいと説明できるが、詳細な情報や識別を必要とする場面においては長大化を避けられないという欠点がある。しかし日常範囲の場面においては問題になりにくく、日常では効率的な言語になりうる。 反対に、表語文字体系を基盤とする言語は、初期的な学習性では負荷が大きいという欠点はあるものの、詳細な情報や識別を必要とする場面において短く書き記すことがしやすくなり、また、それによって高度な分野における情報共有性はやや高めやすいと考えられる。詳細性を高める際の負担を軽減しやすい。 言語の体系として得意とする場面、不得意となる場面は存在すると説明できるが、どちらの文字体系であっても、文字体系としての十分な整頓や効率化と、教育の整備や合理化によって、社会的な言語として広く普及させて高度に実用することも可能であると言える。物理的な事情から、一長一短のものである。 ただし現代のアルファベットの言語では、字と音の整合性が完全ではない例が多く、その全てで学習負荷が軽いわけではない。アルファベットの文字種が現代の発音に対して十分な数とは限らないことや、現代文明では詳細な情報の安定性を必要とするために、表音性の妥協をされてしまっている事情がある。 また現代の代表的な表語文字の「漢字」は、近代化の必要に応じて合理化や効率化が進められている。元々として漢字はできる範囲で近い意味の字でパーツを共有することで字の合理性を高め、応用教育の効率は高めている。中国大陸でも簡体字整備やピンインの整備によって学習効率は高められている。 ▲
目次 ◆ ### 文字体系の相対的評価における英語の文字体系の位置付け 現代の英語はアルファベットの文字体系の中でも特筆すべきと言えるほど、字と音の統一性が悪い言語である。英語では音と文字列の両方を単語ごとに記憶していく必要があり、実質的に表語文字に近いような学習負荷が生じていると説明できる。英語を表音文字の言語体系と呼ぶことは疑わしいとさえ言える。 英語は、字と音の統一性を軽視してしまうことで「多少異なる発音になっても同じ文字列であれば基本的に同じ意味とする」という形式を取っている。これは中国大陸の表語文字体系「漢字」が、発音の統一性を求めず、字の意味を統一させることで文書共有における利便性を確保したという形式に近い。 歴史的に見て、現代に続く英語も文書における安定性を確保するために文字体系を強固に守ることとして、その発音の統一性を妥協したという経緯を持つ。つまり英語は実態として、「漢字」と同様、文書共有のための表語文字体系に近い、文書優先の形式で運用されていると説明することができる。 しかし、そのような歴史的選択から結果的に、英語は文字体系として非常に中途半端な立ち位置だと表現できる。英語は、表音文字体系の長大化と、表語文字体系のような学習難の、両方の欠点をかなり併せ持ってしまっている言語だと評価できる。歴史的な妥当性を持つが、言語的な合理性は限定的である。 英語圏の文化の自認においては、その(見かけ上の)単純さから世界的な普及を実現できて、それによって世界的な共通言語として多くの人々の意思疎通を可能とした最も優れた言語であるように思い込むことはできる。実態は表音文字体系の特性と文書向き文字体系の特性の両方を、多少持っているだけである。 あえて言えば、偉大なのは英語という言語ではなく、単一の言語に世界的な影響力を持たせることに成功した英国とそれに連なる米国の偉業であるとさえ表現できる。言語としては、客観的な分析をしてしまえば、妥協に基づく傾斜の底辺へと接しているような状態として見えてしまうのである。 ▲
目次 ◆ ### 補足:文字体系の相対的評価における日本語の文字体系 一方で、日本語は、日本語アルファベットとも呼ばれる比較的明瞭な表音文字体系「仮名文字」と、その上に表語文字体系「漢字」を重ねて覚えて使うという複合的な構造を持つ。日本語の言語体系は、英語の言語体系と非常に多くの面において対照的であり、ほとんど正反対だとも表現できる。 文字種の総量が多く、第二言語としては学習が難しいとされやすい。だが日本語の音と表音文字はかなり単純化されて整理され、現代では基本で約50音分の文字にまとまっている。アルファベットの言語体系ではさらに複雑な音の言語も多いが、日本語では基本の変形や複合を含めてもおよそ130音程度である。 日本語の基礎教育は、まず明瞭な表音文字「仮名文字」で字と音をほぼ1対1に繋げることができ、日常会話の言葉の全てを素直に表音文字で書き記すことも始められる。また、その表音文字を足がかりに、段階的に高度な表語文字の「漢字」を学んでいく。第一言語としては、学習の負荷が分散されている。 ただし「漢字」の使い方としては例外的に、異なる発音の語彙で共用する様式を持つ。日本語の漢字は「表意文字」にも近く、漢字を「意味の層」として「音の層」から分離して用いている。これにより同じ言語・同じ地域・同じ文字で、発音の傾向さえ一定ではないという、とても奇異な文字体系を持つ。 これにより表音文字の補記が無い場合に発音が保証されないという問題を抱えてしまっているとも評せる。一方で、異なる発音体系の語彙で文字を共用してしまうことによって、文字の意味の学習性を高めているとも評価できる。日常語や専門用語で同じ文字が使われやすく、文字の共有性が非常に高い。 例えば[大(おお)きい/小(ちい)さい]という日常語の漢字化から、[大/小]の文字と概念を接続的に学習することができ、文字を転用した異なる発音の[特大][小物]といった語を[特に大きい][小さい物]の語として素直に理解できる。[耳鼻科:jibika]も、[耳:mimi][鼻:hana]の語から、接続的に理解できる。 実態としても、日本語の基礎教育では、現代の全地域の非常に多くの人々が文書を読むことができる。歴史的に見ても、義務教育よりも前に庶民的な教育施設が広まっており、近代化に際して全地域への学校の整備を早くに実現している。そうした歴史には日本語の学習性の良さが一因にあると考えられる。 歴史の流れとして、教育制度が整備されるよりもはるか前から、文字や教養の共有が進んでいき、長い戦乱の時代の流れの中でも文字文化が重要な働きをすることで広い地域に知識層が広く点在する環境が成立しており、それが戦乱が終わった後の江戸時代における庶民教育の大きな基盤となったと説明できる。 ▲
目次 ◆ #### 補足:日本語の長所から生じる短所 ただし、日本語を第二言語として学ぶには学習量が非常に膨大である。文字だけでもアルファベットより多い表音文字のひらがな/カタカナだけでなく、表語文字で大量の漢字。さらに異音同義語も多数ある、膨大な単語表現。第二言語として日本語を学ぶことの学習性はかなり難しい評価されやすい。 その難しさは、日本語の第一言語としての学習性の良さに由来している。日本語は言葉をとても覚えやすい性質を持っているために極めて多くの語彙が保存され、多くの語彙が持続的に使われる状態となり、学習量を膨大な状態にしていると説明できる。内的な長所から外面の短所が生じているのである。 (ちなみに第二言語として日本語の文字を学ぶ場合は、ひらがなカタカナの発音を覚えることと共に、主な漢字の意味や頻出する熟語の意味を覚えることも特に重要だと言える。文章における漢字は極端に言えば音を思い出せる必要性が無く、使われる意味さえ理解できていれば、読解が最低限可能となる。) また日本語が第一言語としている場合、日本語の持つ特性から、他の言語の学習に感覚的な難しさが生じやすい。特に音が単純なため、繊細な音を使う言語の発音や聞きとりに苦労しやすい。また言語のとても自由な感覚性が根付いていることで、英語などの形式性の強い言語にも感覚的に難儀しやすい。 日本語は「単一の言語」でありながら表現的な柔軟性が非常に広く、その応用によって機能的な表現も可能であり、また母語としての学習や読解における合理性や効率性もかなり高い言語だとも評し得る。しかしその強みが、他言語圏への参加にも、他言語圏からの参加にも、壁を生み出していると言える。 ▲
目次 ◆ #### 補足:日常語と形式語彙の間における文字の接続性 特に英語では、主な日常語と形式的な語彙や学術的な語彙の接続性が乏しい。これは特に、異なる言語に由来する語彙が併用されているためである。日常語と高度な語彙とを明確に区別できるというメリットがある反面、日常語をどれだけ学んでも、高度な語彙の要素はほとんど学べないという隔絶性を持つ。 代表例が[Otorhinolaryngology:耳鼻咽喉科]で、これはギリシア語の[oto-](耳)、[rhino-](鼻)、[laryngo-](喉頭)、[-logy](学)の語を合わせた英単語であり、これは日常的な英単語をどれだけ勉強していても分からない。日常語では[Ear, Nose, and Throat]を略した[ENT.]で呼んでしまうらしいほどである。 法律用語などでも、日常語と異なる語彙も多く見られ、また日常語と同じ言葉でも異なる意味によって使われる場合も珍しくない。そうした傾向はその他の言語においても珍しくはないことだが、英語では特に専門的な領域の語彙を理解するためには専門的な学習を大きく必要とすると説明できる。 しかも英語は語彙が文法の形成にも関わるために、単語ごとにどのような語であるのかを把握できなければ、文章全体の推測も怪しくなると言える。また多くの言語では、異なる領域の語彙でもほとんどが同じ形態で並んでいる様式を持つため、語彙に対する視覚的な区別のしやすさも乏しいと説明できる。 一方で日本語の、「音の層」と「意味の層」を分離して漢字を意味の層として使いまわすという方式は、異なる領域の語彙の接続性という面において、合理性のある整理だと評せる。感覚的に使いやすい日常語の漢字の学習を進めていくことで、徐々に専門的な用語の意味も理解しやすくなっていく。 日常語の[おおきい]に[大きい](big)という漢字を当てることで、[大]の基本的な概念を理解できる。そして組み合わせで[大人](adult)/[大型](large)/[大陸](continent)/[大地](earth)/[拡大](expansion)/[巨大](huge)/[大脳](cerebrum)/[肥大](hypertrophy)/[重大](serius)など他多数の語に接続する。 しかも一般的に使われる漢字の熟語は多くが2文字単位で形成され、長い熟語でも四文字程度に収まっていることで、文字列の印象を記憶しやすいようにパッケージされている。さらに、接頭辞[大-](big -./great -.)、接尾辞[-大](- size.)などの応用についても派生して理解をしやすくなる。 また日本語においては異なる文字種を併用することによって、書き字において語彙の視覚的な区別のしやすさを成立させている。純粋なアルファベット言語の場合、文字列だけでは元々あった語彙か輸入した語彙かの識別が困難である。日本語では、和語・漢語・その他外来語を区別しやすい様式を持つ。 ▲
目次 ◆ ### 相対的評価における「比較の難しさ」:文章の長さと読解性 異なる文字体系での読解能力の比較には注意が必要である。例えば[週末、私は親友と一緒に近所の小さな公園へ行き、赤いブランコで遊んだ。]の例文を、機械的に平易な英訳をすると[On the weekend, I went to a small park nearby with my best friend and played on the red swing.]となる。 例文は日本語では句読点除き31文字である所、英訳は空白除き計74文字というズレが生じる。他にも中国語へ機械的な翻訳では[周末,我和我的好朋友一起去了附近的小公园,在红色的秋千上玩。]で句読点除き27文字になる。助詞など含めた語数で分割しても日本語17語、英語20語、中国語16語と、差がある。 細かい語で単語の意味を定義する必要のある英語は、自然と語数が多くなる。このため「文字数か語数などを揃えた比較テスト」では、見かけ上が公平なようで、英語と同じだけの文字数や語数を使う場合、日本語や中国語での情報量は英語よりも増大してしまい、決定的な差が生まれてしまう。 (日本語の一般的な読書速度は平均およそ毎分600字ほどとされ例文では約3.1秒の推算。英語では単語単位で平均およそ毎分200~300単語ほどとされ例文は約6~4秒の推算。中国語では文字単位で平均およそ毎分450~500字前後と言われ例文は約3.6~3.24秒の推算となる。※例文では若干差が出た。) 文字数を揃えれば同じだけの文量を読むように感じさせやすく、公平なように見せかけやすい。しかし異なる文字体系で文字数を揃えると、文章中の情報量に不均衡が生じやすく、表語文字体系にとって処理する情報量が増えて大変になりやすい。よって公平な条件のテストにはなりえないと説明できる。 一方で「同じ文章を平たく訳した文章でのテスト」では、表語文字体系を使える側が有利となるように見えてしまう。「同じ文章を平たく訳した文章」同士では、特に英語をアルファベットの言語は文章構築に多くの文字を使うため長くなってしまい、言語ごとにテストの見かけに大きな差が生じやすい。 母国語における社会的な実態を確認するという客観的な視点を持つのであれば、「現実における実用的な能力」を確認できる条件で揃えるべきである。よって、基準とするべきは文字数や語数ではなく、「原則的に可能な限り同じ意味を持つ文章での比較」が十分に妥当だと説明できる。 しかし「見かけ上の公平さの印象」は損なわれ、それも特に英語を含む欧米各国のアルファベットの言語を持つ国々が「見かけ上、不利な印象」のテストを受けさせられることとなる。そのため、その十分に妥当だと説明しうる形式でも、国際社会的に受け入れられるとは限らないという問題が付きまとう。 (ただし表語文字体系は、表語文字を使うための学習や読解に十分な言語的負荷を背負っている状態にある。文字数や語数の平均化のような「見かけ上の公平感」を強く求めるような視点は、表語文字体系言語での社会的な努力や学習者の努力を軽んじる意見であると批難されるべきだと言える。) ▲
目次 ◆ ## 「現実的な言語事情」 しかしながら英語を一切捨てることは現代人類文明にとって全く現実的ではない。英語圏だけの問題ではない。現在の人類は既に、英語へ強く依存した状態で、英語を廃することは不可能である。どれだけ英語が不効率だと語れることができても、人類はこれからも英語を使い続けなければならないのである。 現在の人類は、英語による情報を膨大に積み上げて続けてしまっている。英語を使用言語として手放すことは、積み上げてきた膨大な情報を使いづらくしてしまうことになり、結局は甚大な不効率さが生じてしまう。よって人類が英語を手放すことは事実上、不可能である。英語は使い続けなければならない。 英語は使い続けなけれならない。よって「英語の改善」が、論理的に採用できる改善の方針となる。だが「英語の改善」の実現可能性も困難を極める課題であり、現実的に可能であるとは言い難い。「英語の改善」には、多くの話者に対して統一的に指導しなければならないが、英語は話者が多すぎる。 「英語の改善」では、人間的に使用している英語の話者に対して、非人間的な転換を求めなければならない状況となる。つまり「英語の改善」は事実上、非人道的な転換を求めることが必要になる。英語そのものを非人道的だと評することはできても、それを改善することさえもまた非人道的になるのだ。 ▲
目次 ◆ ### 現実的な対処法 「たとえ汚い水であっても、それを飲み続けるしかない問題」と似たような状態である。それを科学の普及した現代文明において、人類はほとんど無自覚なまま、抱え続けているのである。どれだけ不合理さや不効率さを抱えても、現実的な生存手段として、人類はその方法を使い続けるしかない。 よって人類文明は現実的な対処法として、各地域各人に対応できる「英語の効率的な基礎教育の手法ならびに効率的な基礎学習の方法」を探究し続けること。そしてその教育法ならびに学習法を広く普及させることに尽力し続けなければならない。人類文明は"その場しのぎ"をし続けなければならないのだ。 人類文明はこれからも、「英語と呼ばれる巨大な文明的負債」を恒常的な尽力によって返済し続けなければならない。未来においては画期的な手段によって言語的な問題が大きく改善する可能性もありえるかもしれない。だが大変革が現実的に実現しうるとすれば、それは遠い未来の話である。 現実として、事実上の国際共通語であり、国際的あるいは技術的な場面において人類史上最も大きいとすら言えるような言語的な有用性が存在する。たとえ多少不合理で不効率な言語であったとしても、社会的な有用性を得るために、面倒で時間のかかる学習をして、使い続けなければならないのである。 ▲
目次 ◆ ## 注記:日本語の煩雑性 最後に注記しておくべき所として、日本語は学習性や共有性の高さ、多くの言葉を使いやすい言語体系を整備したことによって、他の言語に比べて極めて煩雑な語彙を維持していると評せる。音の単純さや許容範囲の広さ、表音文字と音の簡潔性から非常に「言葉を覚えやすい」という人間的な合理性を持つ。 多くの言葉を覚えやすい体系と、また感覚的な表現領域と論理的な表現領域の多層的かつ分離された言語構造から、言葉の単純化の圧力が薄弱となり、一般的な語彙量だけで他言語よりも非常に多い状態を維持している。しかも言語構造が強固であるがために、非常に繊細な表現性も広く維持してみせている。 言語構造、言語システムとして日本語は、極めて汎用性の高い整備が行われており、体系そのものは傑出した柔軟性と強靭性を持っていると評せるほど整備されている。英語などとは違い、新しい言葉に周辺語の関係性を確認する必要性なども乏しい。言葉の意味に応じて、汎用的な語をそのまま使える。 英語を「頑丈な鉄の道具」に例えるならば、日本語は「巨大な鉄の器」である。あらゆる言葉を、日本語の一部に落とし込み、日本語の内側へ内包することを効率的に可能とする受容性を持つ。それを可能とする土台の頑強さによって、煩雑すぎる語彙の総量を当然として維持してしまっていると評せる。 日本語は口語表現と文語表現において似たような意味を持つ語彙が重複して多数存在している状態であり、実質的におおよそ2言語分の語彙量を併存させていると説明することもできる。さらにそこへ、別言語から輸入し続けている多数の外来語語彙の、日本での使い方も加わり、総量はさらに増える。 日本語は自然と多くの言葉を扱えてしまう受容性の高さによって、社会に蓄積されている煩雑すぎる語彙を維持してしまっている。母語話者であれば幼少から長い時間をかけて段階的かつ漸進的に語彙を増やしていくことになるが、第二言語として学ぶにはあまりにも巨大すぎる障壁となる。 しかしその受容性に高さによって極めて広大な表現能力と、文化的な保持力を持っている。日本語には様々な言葉遣いや方言も存在しているが、それらの語彙や表現を日本語の一部として保持できる深さを持つ。それは日本語がとても広い方言性の中で育まれることで、それらを統合できる構造を持った。 自然言語の普遍的な法則として、あらゆる言語において言葉の変化や音の変質は生じてしまうものである。短期的な計画において整合性を取ったとしても、自然と変質して統一性は損なわれてしまいやすいものである。日本語は、変質を抑える単純さと、弾力的な構造によって、長期的な合理性を確保した。 ▲
目次 ◆ ### 蛇足:日本語の協力性 日本語は母語話者にとって、傑出した表現性の広さを持つと評せるが、しかしその表現性は突き放した表現性だとも評せる。例えば非常に多彩な表現が許される言語構造を持つことによって、情緒の表現は純粋な論理によって成立するものではないことを自覚しており、その感覚性を受け取る側へ委ねる。 その感覚性と相互的に、日本語は「受け取る側に対して、歩み寄りを要求する」と言える文化体系を持つ。これは言語的に抽象的な表現を非常に広く持ち、体系的に常用されていることで、言語によるコミュニケーションも「人同士の相互的な関係性」に据え置かれていると説明できるような、文化基盤を持つ。 一方で、例えば英語は典型的な「言語を介した交流文化」に位置づけられる。英語文化とは、人と人との間に言語という仲介役が存在し、その通訳の間で交流をしている状態にあると表現できる。そのために受け取る側の言語理解という知識や努力に依存しつつも、受け取る側の歩み寄りを原則的には求めない。 ただし日本語は、ただ感覚性のみに偏った言語ではない。感覚的な表現に於ける「受け取る側に対して、歩み寄りを要求する」という形式は一方的な責任の放棄などではなく、相互的な責任の分担である。それは言語の物理的な性質である、受け取る側の感覚によって受け取られているという事実の直視である。 たとえどれだけ精確な説明をしていたとしても、受け取る側にそれを理解できる能力が無ければ説明できたという事実は実態において成立していない。英語文化では「正しい説明をしたのだから、後は受け取る側の責任である」と感じられてしまいやすいが、実態としては「説明の完遂」はしていない。 それは英語自体が強固な形式性と見かけ上の簡潔性を持つために、「正しい説明」であれば分からなければならないという合意が形成され、「正しい文章」への依存性が強まりやすいと考察できる。日本語は煩雑で、理解させるために工夫が必要な言語性を持つことで、「表現の伝わりやすさ」がよく意識される。 伝わりやすさが重大であること、また伝えられたことを理解することもまた大切であるという、言語の物理的な法則に則した前提を持つことによって、日常的な日本語においては一転して「伝わっているのであれば十分である」という省略を受容できているとも考察できる。理解できるのであれば十分である。 ただし、日常生活において単純な言語層のみで生活が保障されるという点は、人道的であると評価できる一方で、言語的成熟の社会的圧力を低いものとしているとも評せる。感覚的な表現の水準を当然としてしまいやすいとも言われる。だが、高度な言語を扱うことは、全人類にとって普遍的な難しさがある。 ▲
目次 ◆ ### 蛇足:言語における意思疎通の本質的な難しさ 日本語の基盤は、どちらかといえば対話による意識のすり合わせ、意思疎通を進めていく形によって、説明を進めていくという形式に適していると言える。特に話し言葉の層は、対面的な会話に適した言語体系を持っており、日本語はその構造を言語の基礎としているため、対話形式向きであると説明できる。 日本語文化は「必要な説明を逐一重ねていくことが理想的」という形式だと説明できる。完璧に整理された説明を作ることで、説明は十分になると合意する形式を持つ英語とは大きく異なる。日本語でも文語によって十分な説明を明文化することも可能ではあるが、機能としては副次的な要素である。 日本語の文化では、質問や確認をできない状態では、十分な意思疎通ができないという合意を持つ。単一の文章のみによる説明では、十全な説明にはならないという基本的な合意を持つ。それは現実的に、あらゆる言語の認識は受け手任せの形になってしまうため、実用上、確認による調整は重要な手順である。 日本語において詳細な文章を必要とする場合、言葉の意味や表現において非常に細かい注意を払う。より安定した表現をする際には、異なる表現によって二重以上の説明を作ることで言葉の範囲を絞る。文章としては冗長になってしまうが、日本語はそれをしやすく、それが可能な限りの説明として機能する。 日本語の文化は「互いに協力をしながら情報共有をする」という方式に適しており、説明をする側も説明をされる側も、互いに理解のための尽力が必要となることを理解しやすい。日本語において、物事の説明とは「理想的な単一の文章」に集約されることはなく、何度でも様々な説明を再生産していく。 その文化性から、日本では多彩な教育書籍が作られて親しまれている。現実的な問題として、人間の認識能力は「ただ1回の1種類の説明」だけで完璧に理解することは難しい。日本語は、その広い表現力を使い、1つの事柄に対して多数種類の説明を作ることで、知識の認識精度を高めていると評せる。 その表現の自由度があるために「理想的な単一の文章の説明」を構築できるような形式性を持つことが難しいとも説明できる。ただし物事の理解とは、一面的な説明のみで正確に実現できるものではないと言うべきである。日本語が不安定なのではなく、言語の不安定さに日本語文化は自覚的なのである。 ▲
目次 ◆ # あとがき 今回の話題について、派生的な言語化を進めて逐次補足追加をしていったら、極めて膨大な情報量になってしまった。言語についてをより詳しく説明しようとすると、言語自体が細かい要素によって構成されているだけでなく、社会環境や歴史的経緯などもあり、その話題は非常に膨大になってしまう。 しかもそれぞれの要素が強い関係性を持つため、いずれかを削るということも考えにくく、ほぼそのまま長く書き連ねた。長すぎたため、全容をもはや把握しきれていない。内容については冒頭で説明している通り、筆者はいずれの専門化ではないため厳密な精確性については各自の調査確認を必要とする。 当初は簡単に要点をまとめて整理しようかと思っていたのだが、情報の十分な整理をしておこうと思いひと月以上の時間をかけて、長大な文章を構成してしまうことになった。原則的にXポスト用の情報単位という特殊な形態でまとめているが、概算1100ポスト分以上の文章量になっている。 ちなみに、「説明には対話的なことが大事だよ」みたいなことを書いてはいるが、私はこうした話題について対話的なことをするつもりは全く無い。それはあくまでも、日本語における自覚の話であり、また言語における普遍的な難しさの話であって、私のスタンスの話ではない。私にその辺りの習慣はない。 ▲
目次 ◆ ## 免責:[The Greatest of All Times as a Language] なお、英語などに対して、かなり辛辣にこき下ろすような文章となってしまっているとも評せるが、意識的にはあくまでも「英語という文明に対する客観視」という立場である。英語という存在は人類にとって偉大であると思うし、英語が現代文明において不可欠な存在であることそのものは全く否定しない。 しかし現代文明において「高度な知識体系が整備されている言語」が、英語以外は主要な欧州言語に偏り、またそれらも英語への依存性が高いと評してしまえる。非欧州系において高度な知識言語を成立させている地域は、欧州世界の反対側である漢字圏の、中国語と日本語だけではないかとさえ説明できる。 それはつまり「英語という言語体系を高度に客観視し得る文明言語が、中国語と日本語しか存在していない」とさえ表現してしまえる状態だと言える。もし中国語や日本語が英語からの自立性を失ってしまった場合、文明的な多様性による弾力性を失ってしまうことになると説明するべき状況だと考察できる。 生物的な法則として、単一の性質しか持ちえない生物は限られた環境や条件でしか生存できない。これは文化的な観点においても重要な視点だと考える。つまり「単一な傾向の言語に高度な分野を支配されてしまった場合、その高度な分野はその言語の持つ性質の制限を受け続ける」という危惧を提起できる。 より詳しく言えば「客観的な提起を可能とする立場が存在しなければ、生存的な圧力を受けることが無い」と言える問題は、既に実在していると言うべきである。英語が客観的に見て非常に不合理な要素を抱えているにもかかわらず、それを改善する生存戦略を採択する、危機感を持てる環境では無いのだ。 人類にとって「英語以外の高度な知識言語を持つ先進的文明が併存している」という事実は、僥倖であるとさえ評せる。これはつまり、仮想的な問題として、英語的な思慮におけるボトルネックに対し、それを異なる視点によって突破し得る生物的な多様性を保持することができているという幸運である。 もし万が一高度な知識言語が英語系統に収束してしまった場合、人類文明は英語の性質が持っている限界を突破することが著しく困難となり、人類文明は英語という限界に縛られてしまうことになると考えられる。また客観的圧力を得られない生物は緩やかにその生態を沈下させていくという問題も想定できる。 ▲
目次 ◆ ### 人類文明の相互進化 最も代表的な「高度な異文化による文明的前進」の例をあげるのならば、やはり「ピクトグラム活用の普及」から見ることができる。ピクトグラムの国際的な場面での活用を広める契機となったのは「非欧米圏における国際的な祭典:20世紀東京オリンピック」であり、非欧米的視点の提供だと位置づけられる。 非欧米圏でありながら高度な文化的能力があったことによって、ピクトグラムなどの有用な活用を実現し、その有効性を欧米圏へと知らしめる機会となったと説明できる。世界的な祭典という名目を持ちながら、普遍的な理解可能性を整備されないままだったことは、もはや絶望的な状況だったとさえ評しうる。 また、日本語文化もまた、近代化に際しては欧米からの大量の知識体系を吸収する過程でその言語体系を整備しなければならないという圧力を受け取り、現代日本語の劇的に高い柔軟性と強固な靭性、そしてそれらを応用した十分な形式性を構築できる機能性を併存させた言語体系へと再構築をしていった。 人類文明にとって言語とは「単一であってはならない」とさえ評するべきであると考えられる。世界で異なる言語性が維持されることは、意思疎通において不便を伴うものであり、相互理解を阻むものとして考えてしまうものであるが、それはあくまでも表層的な問題にすぎないとさえ位置づけられる。 人類文明にとって、異なるの視点を持つことは総体的な生存戦略として極めて重要であると言える。異なる言語性が併存することは、互いの言語を客観視する機会を生み出し、異なる視点を感じることによって、世界をより鮮明に直視することを導くとさえ考えられる。それが言語の多様性の重要さだと言える。 それはそれとして英語の基礎的な学習性の悪さ自体は、ほとんど単なる文明的遅延にしかならないと言えるので、決して手放しに肯定されていいものではないとは言える。その惨状が許されているのは、一強の言語という社会的な優位性から成立してしまっている「圧力の弱さ」の影響も大きいと考察できる。 ▲
目次 ◆ ## 余談:日本語の学習性と習熟性 余談として、筆者である私は学校教育について義務教育を済ませていないと説明できるような経歴を経ている。教育を受け入れていた期間はその内の3分の1程度で、形式的な学習自体も同様に十分だったとは言えない。それでも、私はそれなりの言語能力を身につけていると自認している。 それは何よりも、日本語と日本社会の学習性のおかげであると説明し得る。最低限度の教育しか受けていない状態であっても、自主的な経験を深めることによって学んでいくことが可能な言語体系をしていると、私という存在がそれを実証していると言える。ただし、十分な時間をかける必要性はある。 日本語という形式をより深く分析していくことによって、私という存在は日本語という形式によって育てられたとさえ考えられるようになった。最低限度の教育の段階から思慮へと没頭し、それを文字として書きまとめていくことの可能な言語であったからこそ、私はこのように言語を扱えているのだと。 もちろん、それには長い積み重ねを必要としている。特に「自らの文書を見直し、書き直す」という行為を幾度となく繰り返し続けている。言語的な教養を深めているだけではなく、自らの文書を見直すこと、そして書き直し続けることを当然としてきたことによって、言語感覚はより強固に形成できる。 通常なら学校教育でそうした課題を与えられることで教育的な指導を伴って標準性を意識し、形式性を導くように強化していくべき所ではある。客観視による反省を行わなければ、言語感覚は独善的な認知に陥りやすく、時が経つと自分でさえ分からないという事態にさえ陥る。それを自覚的に注意している。 特に、日本語は「言い換え」の範囲があまりにも広いことで、その意識を導きやすいとも考えられる。英語のように形式性が強すぎれば言い換えることが難しくなり、書き直したとしても同じ文章へと着地せざるをえないばかりになりやすいとも考えられる。日本語は「唯一の文」という独善性を捨てやすい。 ▲
目次 ◆ ### 日本語とは 日本語に対する欠点として語られる部分の少なからずが、日本語の長所に由来するものであるとすら説明できる。より日常生活において使いやすい言語層を非常に広く残しており、また詳細な言語層を含む大量の語彙を保持できる許容力を持っていることは、日本語の強みに由来するものである。 日本語の不安定とされる部分も、日本語の表現性の深さによるものであり、これは注意さえすれば克服できるものである。比して英語が形式的で強固であるという視点も、英語が特別に注意を必要とする形式性に縛られているだけであると評せるものであり、日本語も同様に注意をすれば形式性を確保できる。 より露骨に言ってしまえば、日本語が難しいと評されることは、日本語があまりにも高性能であることを意味するものであって、日本語自体の不全性を示せるものではなく、日本語を扱ってる人間側の不全性を示すばかりの評価であるとさえ言ってしまえる。英語が「狭いだけである」という評価もできるのだ。 日本語の語彙の豊かさなども、日本語の構造が持つ強靭さによって支えられていると表現できる。日本語の表現力の豊かさから比すれば、英語はいかに狭く不自由な言語であるのかと評してしまうこともたやすい。英語の「単語が少ない」と言う長所も、「多くの単語を受け入れる力が弱い」と言い換えられる。 また日本語文化においては、極限的に多彩な表現が許容される。それは日本語の不安定さと定義することも可能であるが、日本語が極めて多角的な視点を持って物事を表現できると評することもできる。特に言語表現の豊かさでは、英語は「文学が権威に守られている必要性がある」とさえ評せる制約を抱える。 日本語文化はその学習性の良さから、極めて様々なものを受け入れてしまえるという側面も持っており、それをあたかも日本語の不全性であるかのように語られてしまうこともある。現実的な実用性が機能している以上、不安定さは文章の不全性であって、日本語の持つ言語体系の不全性を示すものではない。 そも、英語が表層的に整えられた文体を構成しやすいという形式を持っていると評することはできても、形式的な正常性が現実的に内容の万全性を保証するものではない。あるいは形式性の強さとは、「本質的に正しい表現」であったとしてもそれを受け入れることができない危険性さえ抱えているとも評せる。 そして日本語は高次の機能性を持ちながらも、日常的語彙においてはとても身体的で直感的な運用が可能な言語体系を非常に残している。形式性が人間の持つ自然な感覚を潰してしまわない多層的な構造を持ち、人間が本来持ち合わせている言語の感覚性を、形式的言語体系と接続的に併存させている。 ▲
目次 ◆ ### 難しさの普遍性 なお「日本語が難しい」という点については、おおよそ言語の普遍的な問題に属すると言える。ようするに、どの言語であったとしても、言語的な不便性や難解性を抱え込んでしまうものであり、これを回避するためには言語文明そのものを低次な領域まで諦める必要性があると説明できる。文明を諦めるのだ。 むしろ日本語は自国語の中にあって「日本語が難しい」という認識を持てること自体が、極めて異例な言語体系を持っている。多層的な言語体系を持っていることで実質的な二言語話者のような感覚性が育まれ、単一言語でありながら言語的な客観視することを可能としているのが日本語であると評せる。 また特に高度な領域における言語的な難しさは、どのような言語であったとしても回避することはできない。世界的に使われている英語であろうが、高度な文章の厳密な読解は簡単なことではない。もし日本の環境にあって日本語を大して使えないのなら、もし他言語であろうが大して使えないだろうと言える。 なんなら、日本語は単一言語であっても言語的な客観視をしやすい対系を持っていることで「やさしい表現・[噛み砕いた表現]」への文化や習慣が広く存在している。日常語彙としてより低次な言語領域を広く持っていることで、比較して言語的にやさしい言語圏だろうとさえ考えられる。恵まれた環境である。 ▲
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