散文

ファイル掲載日:2026年01月10日(第一版:暫定版)
ファイル更新日:2026年01月11日(第二版,05:00:追記A-1,2、軽微な修正)

散文『What is the Japanese language?』 Andil.Dimerk ※作成年:2025-2026 **注記** ※免責:筆者はいずれの専門家ではない。 ※免責:データ参照元についての詳細な情報の記載は意図的に減らし「論文ではないこと」を客観的に認識できるようにしている。必要であると考えるならば各自での研究に任せる。 ※補記:文中の[]の中は、文章において翻訳するべきではない文字列である。 ※補記:他言語へ翻訳する場合、微細な表現が大きく消失する恐れがある。特に、本文では情報の確度をかなり控えめに説明している。 ※補記:名詞においても、逐次的な自動翻訳などでは統一性を失う恐れがある。 **補足** ※それぞれの大項目は、大部分で独立性を持って説明しているつもりであるため、大項目ごとに読むことは可能なはずである。ただしおおよその相互補完的な部分はある。 - 日本語社会へようこそ -> 「英語を必要としない日本語社会と、日本語の機能的実力」 - 日本語から見た英語 -> 「日本語と英語の文化的な比較分析」 - 蛇足:「言語の地政学的な関係性」 -> 「日本の歴史的背景と日本語の歴史的背景」 - 蛇足:「ハイ/ローコンテクスト」に対する推論 -> 「高文脈文化という表層的理解への疑義」 ※過去の英語に対する散文でまとめた情報に対して、視点の軸足を日本語に変えつつ調べ直しつつまとめなおしたものである。過去の散文からは独立させているつもりである。

目次  # 日本語社会へようこそ もしあなたが日本人ではない場合、そして日本へ訪れた時を考えてみる。もし日本において、日本語以外の言語を使える場面があったとしたら、それは幸運なことである。事実上の国際言語と説明できる英語であっても同じである。日本において、英語を使える場面があるとしたら、それは幸運なことである。 なぜならば、日本は日常に英語への馴染みがろくに無いと言っていいほどの社会である。日本は国際的な関係性が広く、そして先進的な文明を持つ国とも説明されるが、しかし日本において英語とは「英語話者にとってのラテン語のようなもの」として例えることができるほど、特殊な領域であると説明できる。 日本は科学分野や技術分野においても国際的な影響力を持った、技術大国と説明することもできる。また世界に存在する論文のほぼ全てと説明できるほどの多くが、英語によって記述されている。その関係性から、日本社会は英語に熟達しているだろうと誤解されても不思議ではない。しかし、誤解である。 日本は経済大国であり、国際的な協力関係でもアメリカ・カナダ・フランス・イギリス・ドイツ・イタリア、及び欧州連合などで構成される「G7」に日本も含まれている。その国際性から、英語ぐらいなら多少は通じるだろうと想像されても不思議ではない。しかし、一般的な範囲では通常、期待できない。 日本社会では、国内のあらゆる分野が原則的に「日本語」を基盤として運用、運営されている。日本において英語を含む外国語とは一般的な分野ではなく、特殊な分野・専門的な分野に属するものである。制度教育では英語も学ばせているが、英会話などの実用にはほど遠い程度の教育しか実施されていない。 日本語社会において英語を使ったとしても、それをすぐに理解できる人は珍しいと説明する必要がある。英語を使われても、相手が英語の分からない人では困った顔をされてしまい、通行人であれば足早に立ち去られてしまうことになる。もしも、英語で会話できる人であったら、それはとても幸運だと言える。

目次  ## 日本語による情報の生産性 日本語の実用の実績をいくつか説明する。例えば、日本は書籍などの「出版文化」が非常に豊かであると言える。2022年頃のデータにおいて、世界の出版市場は約1400億米ドルと算定されているが、日本の出版市場の規模は116億米ドルと算定されている。概算として、おおよそ8~9%ほどの規模と推測できる。 しかし世界人口は推定において約80億人の内日本人は1.2億人程度のわずか1.5%ほどの比率である。他にも名目GDPでは2022年頃に世界合計が100兆米ドルを超えたとされる中で日本は約4兆ドルの経済規模である。粗いデータであり、あくまで目安としての整理ではあるが、出版市場の規模が大きいと考察できる。 そして、日本の本屋では置かれている本のほとんどが「日本語」の書籍であり、外国語の書籍は非常に限られていることを観察できる。経済規模に比して、出版市場の規模が著しく大きいだけではなく、実態として「そのほとんどが母語である日本語によって書かれている」という実態を確認できる。 あるいは、駅の売店やコンビニでは多種類の新聞を販売しているが、それらは原則的に毎日新しく発行され、交換されている。国際的な機関、WAN-IFRAからの調査に基づくデータにおいて、日刊新聞の発行部数では圧倒的な人口を持つ中国・インドよりは大きく劣るが、その2国を除いて最も多い。 2022年頃のデータとして中国約1億4000万部、インド約1億3000万部、対して日本約3000万部、アメリカ約2400万部、ドイツ約1480万部である。しかし人口比では2022年では中国約14.26億約10pt、インド約14.17億人約9pt、アメリカ約3.38億人約7pt、ドイツ約8300万人約18pt、日本約1.2億人約25ptである。 これらのデータで注目するべきは読者数ではなく、「記事の生産能力」である。日本には多数の新聞社が存在し、上位5社で全体の約半分程度を占める一方で、残りの約半分は小規模な新聞が多彩な新聞を発行している。つまり「日本語によって大量の情報文章が生産されている」という実態として説明できる。 「日本語は複雑な文字体系である」という実態は肯定できる。そして日本語が母語ではない人々の直感的な思い込みにおいて「日本語では文字の難しさから文章の生産能力は低いのではないか」という疑問・誤解を持たれやすいと考えられる。しかし、実態は「極めて高い生産能力」が発揮されている。 「文字の生産」という面において難点が存在すると説明できる一方で、しかしその生産規模の実態から「文章の生産」ではむしろ十分に機能していることを推察することができる。より詳しく言及するならば、制度教育1年目から書籍を扱わせることができる言語体系によって、高い識字率を実現している。

目次  ### 補足:「外国語で編集された書籍の珍しさ」 日本の書店において「外国語で編集された書籍」は非常に珍しく、まず国内で編集されて出版されることは極めて稀有であると観察できる。「外国から輸入した書籍」の販売環境を見渡しても、巨大なスペースを持つ大型書店の一角か、専門的な本を扱う書店を探さなければ、ろくに見つからない実態がある。 特に一般的な書店・本屋では「探す人・買う人がいない」ため、そもそも店頭へ置かれることさえもないのが、日本国内の「外国語で編集された書籍」の立場である。詳細な数値データは見当たらないが、極小すぎるために概算さえ難しいほど、日本の出版業界は「日本語の書籍」が圧倒的であると推察できる。 出版に関するより詳細な部分を考察するならば、日本の出版・販売の体制は出版社と書店が連携するシステムを持って運用されていることで広い販売経路を形成しているが、そのシステムの外側にある外国の出版物の扱いはリスクが大きいばかりでリターンも少ないニッチな領域であると説明できる。 そうした環境的な前提を含めて、日本の本屋にある多種多様な書籍のほぼ全てが「日本において日本語によって編集された書籍」であることを説明できる。日本の巨大な市場規模を持った多種多様な書籍の出版が「日本語」で実施されていること、「日本語によって実現できている実態」を観察できる。 もちろん「日本語に編纂された翻訳書籍」であれば日本でも多く存在するが、それも「日本語で実現している」。一方で、他の英語圏以外の国の書店では、母語で書かれた書籍以外も扱うことは珍しくないと観察でき、特に専門書や技術書などは英語などで書かれた書籍を扱う場合も多いと観察できる。

目次  ### 日本語による幅広い生産性 他にも日本語の実用の広さを示すデータとして、インターネットの利用規模を上げることができる。2020年のインターネット上の利用者における日本語話者は2.6%(上位8番目辺り)ほどとされる。日本人が世界人口の内の1.5%とされており、インターネットの利用率が世界に比して格段に高いことが示せる。 また同じデータにおいて「日本語のウェブサイトの割合」では5.1%(上位4番目)に及ぶとされ、利用者率に比してページ数が著しく多い傾向を示すデータが見られる。「話者の割合に比べて、ウェブサイトの割合が著しく大きい」と言える傾向を示す言語は他に、事実上の国際言語の「英語」だけである。 言語ごとの利用人口に対するウェブサイトの率が多い例自体は「フランス語(話者率3.3%:サイト率4.5%)」や「ロシア語(話者率2.5%:サイト率3.8%)」などとある。しかし日本の「話者率2.6%に対してウェブサイトの割合5.1%」は段違いに高く、また上位において唯一非欧州系の言語である。 「英語(話者率25.9%:サイト率49.1%)」は事実上の国際言語であるため「他言語の地域から英語ページを作られやすい」と考察しやすく、その比率の高さを理解できる。一方で、日本語は「1地域の言語」であり、他国から日本語で制作される例はグローバル企業の展開くらいで、それ以外は稀であると言える。 インターネット上のデータから、より現代的な領域においても「日本語の文字文化が、日本語社会においてとても広く親しまれていること」や「日本語の文字文化が、著しい生産性を発揮することができていること」を考察することができる。同時に「日本語文字の不効率さ」は、現実に則さないと説明できる。 もっと広い範囲の考察をするのであれば、日本語文化では「母語の学術書」や「母語の技術書」、あるいはネット上などでも「母語での技術分野・学術分野の解説」が非常に幅広く確認でき、特に「母語の哲学書・哲学文書が極めて幅広く見られる」という点は日本語の機能性を傍証していると言える。 つまり日本語社会では「あらゆる知識的活動が、日本語のみでも実施することができるほどの言語文化が形成されている」と推察することができる。それも粗製乱造の膨大化ではなく、日本社会の技術環境を観察して致命的なトラブルが多いとは説明できず、十分な機能性を発揮していると考察できる。 むしろ、現代の日本社会における技術水準は、世界的に見ても高度だと評されやすい風潮を確認することができる。日本社会では原則的に日本語を基盤としているため、即ち「日本語が技術水準を満たすことができている」と説明できる。その実態から、機能的に不十分であるという理屈は成立しないと言える。

目次  ### 日本語の編集の容易性 日本語社会の巨大な出版文化、大量の新聞発行量、またインターネット上の膨大な情報。これらの基盤は疑いようもなく、日本語という言語基盤があると説明できる。日本語は情報生産・情報共有において使えるだけではなく、膨大な規模で使われていることは、実用において「使いやすい」ことを傍証する。 日本語の言語構造は「文章の一部だけを編集する」ということが許されている。表現を追加して情報の詳細性を高める、または広い表現に書き換えるなどの作業では、基本的に対象となる部分だけを編集すればいい。日本語は言語構造として「更新したい情報の部分のみを書き換える」ということをしやすい。 例えば英語の場合「1文の一部だけを大きく編集すること」は、構造的に許されていない。英語の言語構造では「文章の編集では1文の構成に注意して編集する必要性があり、単語の変更でも付属語との関係性を確認する必要があり、大きい編集ではおおよそ1文ごとの書き直しを必要とする」と説明できる。 日本語では情報の欠落を確認できた場合、その情報を文章に追加するだけで最低限の修正ができる。これは例えば「情報の明示が不足していたとしても、それを明示的にする編集も容易である」と説明できる。英語は「整頓の済んだ状態」でしか文章を構築することができないため、標準的に労力が大きい。 出版などの高度な文書生産作業においては、作った文章に対して読み返し「編集・書き直し」という作業が当然として実施されるが、日本語の言語構造ではその作業の労力が標準的に軽減されていると説明できる。漢字などが文字の生産性で手間のかかる部分ではあったが、現代の技術環境では解消されている。 例えば他にも、日本語では「文章の分割する」という編集で、中身となる文章の構造をほぼそのまま維持した状態で、述語などの編集を実施するだけで2つの文章へ分けることができる。またその応用として「情報の順序を入れ替える」という編集も自在性が高いと説明できる。文章の整頓が容易である。

目次  ## 日本語の文字の効率性 「日本語は多数の文字種を併用する複雑な文字体系である」という事実によって、日本語という言語体系に対して、効率性や合理性が疑われることがある。これは日本人自身であっても日本語の難しさには自覚的であることが多く、日本語を母語としない外国の人間であればその印象はさらに強いと推察できる。 特に欧州においては、文字体系は単純であることが編集の効率性や理解可能性において最も合理的であるという思想を持つ。そして欧米の言語体系では古来から、アルファベットのような組み合わせ型によって文字の種類を最小限に削減した表音文字を中心としてきたため、表語文字の有用性を理解しがたい。 しかしまず「表語文字体系を実用できること」そのものは、中国大陸地域における漢字の長い歴史において実証されている。また漢字の歴史によって、表語文字体系は意味によって文字を形成していることで、時代や地域による多様な方言や発音体系の変化にも強いことを、実証として示すことができる。 もちろん漢字の記録にも時代性は存在し、古い記録を素直に読むことの難しいことは多い。しかし、古い記録であっても使われている漢字が理解できれば、その概要を非常に高確率で推定することが期待できる。一方で、表音文字体系の地域では、古い文書体系の読解が著しく困難となりがちだと観察できる。 そして文明的な文字記録とは「広域における安定性と長期的な保存性を持つもの」という理想を背負うものであると言える。広い地域において理解され、なおかつ長い期間にわたって読むことができる、という理想を想定できる。だが欧州系の言語記録の歴史的連続性は実態として、断絶性が深いと観察できる。 また、もちろん「表語文字体系」では文字の種類数が膨大化するために、その学習にかかる手間や労力が長大になりがちであるという問題が生じる。人間の適応力によって、学習を済ませ習熟していけば、複雑な文字体系であっても自在に使えるようになっていくが、表語文字のみでは学習は大変だと言える。 日本語は「表語文字体系の漢字」だけではなく、そこから音のみを表す「表音文字体系の仮名文字」を整備することによって、基礎的な学習が著しく早い文字体系を形成している。基礎的な学習の早さは、日本の制度教育で1年目から多数の「教科書」を児童へ所有させ、児童が自ら読みながら学習を進める。 まず「表音文字」によって音の認識性や記憶性を確保することで言葉を効率的に覚えていくことができるようになる。日本語では仮名文字で表される「音の階層」へ、「意味の階層」である「漢字」を上乗せする。漢字の学習は身近な言葉の漢字から始まり、徐々に複雑な漢字へと段階的に学習を進める。

目次  ### 基礎教育における作文 また、日本語の文字体系では「仮名文字を覚えれば、日常の言葉を、その音に基づいて仮名文字で筆記できるようになる」という法則性を持つ。そして、制度教育の1年目の半ば頃には一般的に、基礎的な部分の習得がおおよそ達成され、自力であらゆる言葉の音を書くことができるようになると説明できる。 もちろん、全ての子供がすぐに不便なく言葉を操れるようになるわけではなく、学習速度の個人差は存在すると言うべきであるが、基本的な水準において「聞き取れるあらゆる言葉を子供だけの能力によって表音文字で示せる」段階へ早期に到達する。基礎的な学習性は、非常に良好な体系と言える。 また日本の基礎教育では、その基礎的な文字を書けるようになる段階から早期に、児童に対して「作文・文章作成」の課題を与えて、簡単な文書から書く訓練を始めることもある。自力で簡単な文章を読むことができ、自力で言葉を書き記すこともできる、双方の技能を持つため文書作成の訓練が実施できる。 もちろん実際には、子供たちの言語能力や意欲、あるいはそれを導く教育状況にも大きく左右されるために、全ての子供がすぐに整理された文章を書けるようになるわけではないが、教育において初歩的な実行能力の差が生じる現象は人間の技能における普遍的な問題であると説明するべきである。 日本においては「文章を読む・文章を書く」という行為の開始時期は制度教育の1年目から実施可能である。初期においては親・保護者による支援を伴って実施される状態も多いが、子供は早期に「文書を扱うこと」へ向き合う。特に1年目から「読書感想文」と呼ばれる目的を持った文書作成の課題が出される。 「読書感想文」とは「何かしらの書籍を読み、読んだ内容に対する自身の気持ちなどを、自らの言葉で短い文書としてまとめる」という課題である。学習開始時期の子供であるために、実際に作られる文章の精度や課題達成は不安定だと観察できるが、「教育の初歩段階から文書作成が含まれる」と説明できる。 また日本語は文章構造における分かりにくい法則性も軽微であり、直感的に文章を構成することが可能である。そうして日本語の体系では「教育の初歩の時期から文書作成が始まる」という効率性を持ち、日本社会では「文字で文章を作れる」という技能が、「初歩的な一般技能」として成立している。 日本語の教育では、そうした「自力でも文書を扱える」という基礎的な技能が早期に成立しやすい。そして、その基盤の上で「仮名文字で記される言葉が、意味を司る表語文字に置き換えられる形式」によって「漢字」の学習が徐々に進められていく。初歩的には日常的な範囲の漢字から、段階的に学習が進む。

目次  ### 「話し言葉と書き言葉」の「連続性と高度化」 日本語は、仮名文字による直接的な音の転写が許されており、日本語は「話し言葉をそのまま文字で表すことも可能である」と言える。また、現代の日本語も「話し言葉の基本構造によって、書き言葉を形成する」と説明できるほど、話し言葉と書き言葉の接続性が強いと構造となっている。 現代の日本語における書き言葉・文語文体は「文書用の語彙や表現を使う」ため、話し言葉と完全に一致するわけではないが、話し言葉においても使われる基本的な言語表現の構造である「助詞」「述語」などの機能語が、書き言葉においても基盤として使われ、それを発展する形で文語文体が形成される。 もちろん「現代日本語が文語文体と極めて近いということ」について、「話し言葉の影響が強くて書き言葉が不安定になるのではないか?」もしくは反対に「それほど実用される書き言葉と同じ形式が話し言葉において使われていることは、話し言葉を著しく難しくしているのではないか?」と疑える。 しかし現代の日本語は学習体系としても「段階的に高度化させていく」という様式を持っており、「高度な文語文体は文語文体」と言える分かりやすい区別が存在しているため安定性は高い。また、その初歩的な部分・日常的な部分においては「古来から生活に根付いた話し言葉の様式」が強く残っている。 またその構造性により、日本語では「文書を声に出して読むこと」をしやすい様式として整備されている。どのような言語でも文書を声に出して読むこと自体は可能だと説明するべきであるが、日本語は話し言葉に近い構造として整備されているため声に出しやすく、学習性を高めているとも考察できる。 言文一致が実現しながら、日本語は「話すように書く」という様式がその基盤として機能していると言える。比較として、詳しくは割愛するが英語の言語体系は「書くように話す」と説明できる基盤を持っており、英語なども「話し言葉と書き言葉の基本構造は近い」といえる様式で成立していると説明できる。 もちろん、どちらも日常語の表現をそのまま書き言葉にされているわけではない。日本語は日常語の文字化も容易ではあるが、より整った文書表現では日常語との割合は減少する。しかし日本語の話し言葉から書き言葉への転換は文章構造の変化が小さく、主に「言葉の置き換え」で文書表現を形成する。

目次  ### 補足:アルファベット文字体系・英語の不条理性 アルファベット文字の言語は、表音文字としてシンプルであるように解釈されがちだが、文字体系として「組み合わせ型の表音文字・音素文字」とはその認知に明らかな手間が生じている。つまり「文字列の組み合わせに対し、どのような音が生じるのかを学習して、音を認識する」という手間がかかる。 アルファベットの文字は、1字ずつに発音とは異なった、文字の名前が別途存在する。一方で、この観点において日本語の「仮名文字」は劇的にシンプルだと説明できる。「仮名文字」は文字の名前が個別には存在せず、発音そのものが文字の名前となっており、組み合わせによる変化は限定的である。 さらに英語ではその実態として「文字列に対する発音」が単語ごとに異なる、「字と音の不一致」という不条理性を持つ。現実的な事情として、アルファベット文字言語では「文字の記録性」を維持するために発音へ追従することへ抵抗が生まれ、「音に字を合わせる」という修正が抑制されている。 詳細は割愛するが、英語では「字と音の不一致」が極めて顕著である。社会的な実態として、制度教育の序盤における「文章を自力で読めるようにするための教育」の期間がとても長いことが確認できる。英語は世界中で使われ、教育方法や学習性を最も研究されているはずだと推察できるが、未だに長い。 なぜ世界中で最も使われているはずの英語が「字と音の不一致」を維持し続けているのか、維持しなければならないのか? それは世界中で使われているからこそ「文書の理解可能性を維持する必要性」があり、「広域における安定性と長期的な保存性」のために字の変更が許容しがたいためであると言える。 「広域における安定性と長期的な保存性」という理解によって、英語はその実態として「漢字」という表語文字と同じ思想を持っていると整理することができる。単語の文字列が万全な表音性を持っているとは説明できない英語の文字体系は、事実上「表語文字体系に近い」と位置づけることができる。 英語などの主要な欧州系言語の多くは、特に近代化以降の社会的な要請に基づいて「表音文字体系での安定化」を目指してしまったことで、言語の普遍的な法則において自然と生じてしまうものである「音の変化」を厳密には追従しないことを選び、漢字のように「文字列が意味を表す」ように使われている。 よって、英語などの言語が「シンプルで覚えやすい」と説明することは、その実態と本質において著しく不適切であると言える。注記しておくが「十分に学習すれば実用できる」という理解においては、それはあらゆる言語において普遍的に同じことであり、英語のみが持つ優位性ではないと断じておく。

目次  ## 現代文明における知識分野と英語 英語圏は当然として、非英語圏であっても「高度な分野において英語を不可欠とする」という環境は珍しくないと観察できる。現実として、現代では学術論文のほとんどが英語によって書かれて共有されているため「英語を使わなければ、高度な学術分野へのアクセス自体が制限される」と言える実情がある。 北欧などの言語地域が小規模である国々では「知識分野を扱う際は英語を基盤とする」という方針を取って、学術分野において英語技能を前提としている地域も確認することができる。英語を基盤にする必要を回避している地域は、言語地域として大規模かつ高度な文化を持つ地域に限られると説明できる。 日本語社会は、その十分に大規模かつ高度な言語文化を持つ地域であり、知識分野を扱う際でも英語を基盤とする必要性が無い。また日本社会の技術運用の実態から、日本語のまま高精度に実用することを実現していると説明できる。そして、その社会環境は「日本語の強さ」を強く傍証すると言える。 日本語社会において、日本語を母語とする人は、その母語を深く学んでいくことだけでも非常に多くの知識体系に触れることができる。もちろん、国際的な分野や特殊な分野においては外国語を必要とする場面も存在するが、原則的には日本語を基盤として使い、補助として外国語を使う体系が許されている。 「日本人が英語を苦手としている」という説明は結果的な部分でしかない。その実態は「日本人は、基本的に英語を必要としない」と説明するべき言語文化と社会環境を持つ。日本語社会において「英語を学ぶメリット」自体が諸外国に比べて遥かにミニマムであることで、苦手としやすいのだと整理できる。 「日本人が英語を苦手としやすい」と言える社会環境とは、日本語社会が「英語の学習・教育」の必要性の最小化を実現してきた結果であるとも説明できる。専門的な人々へ翻訳などの労力を集約し、外国の知識をも日常的に日本語化し続ける習慣で、「日本語での知識体系」を積み上げてきたことを意味する。 補足しておくが「学術などの知識体系を英語へ依存する」という言語環境とは、英語ができない人は自発的に知識体系へアクセスする権利を持てないことを意味する。それも知識体系のように高度な分野での英語の運用とは、単純な英会話とは桁違いに学習・教育のリソースを消耗すると説明するべきである。

目次  ### 日本語と英語の距離感 まして「日本語と英語」は言語体系として著しく対照的な性質を持っている言語体系である。例えばアメリカ政府機関が公表している「英語話者にとって学習の最も難しい言語」の一つとして提示されている。それは反対に、日本語話者にとっても英語は特に難しい言語の一つであることを傍証している。 「英語は母音が約14~20以上の分類・子音のみを使うことも多い・発音の弱化や音の消失が多い」「日本語は母音が5分類・子音は通常母音と使う・発音での音の消失が限定的」「言葉や文法なども違い、英語は計画的な1文ずつの構築を必要としがちで、日本語は言葉をつなぎ合わせて1文を作れる」など。 なお日本語の母語としての学習性は、傍証される識字率の高さなどによって比較的優しい方である説明できる。もちろん日本語に難しい部分が存在することは明白であるが、発展的な学習における難しさが主だと言える。特に母語話者であれば、制度教育の1年目で自力での簡単な読書をすることもできる。 つまり「言語として難解であるために学習が難しい」という短絡的な理屈は、十分には成立しない。日本語は「幼少期の会話の認知から地続きに明晰な表音文字で文字の識別が進み、段階的に意味を持つ漢字を学んでいきながら語彙知識を継続的に拡大させていく」ために、外国語としての学習が大変と言える。 詳細は割愛するが、日本語の主な難しさとは「言語として覚えやすい言語体系を実現していることによって、多層的な文字体系と著しく多くの語彙を保存し実用できるため、覚えることが膨大になってしまっている」と整理できる。「覚えやすい」ために、ゼロから学ぶには膨大すぎると説明できる。 日本語の覚えやすさにおいて、英語に対して特筆するべき点は、最低限の求められる発音体系が単純化されているところにある。日本語は、最低限必要となる発音を非常にしやすい。そのため音を聞いて、そのまま発音することが非常にしやすく、すぐに新しい言葉を覚えていくことができる。 それに対して英語は「繊細な発音」を要求される部分が存在し、さらに言語構造としても「未知の言葉」を受け入れることが難しい傾向が見られる。既知の範囲、共有されている範囲において問題が無いことは言語の普遍的な法則だが、未知の範囲に対する耐性は、言語構造に大きく影響を受けると言える。 日本語は、明示的な補助語や述語が併用される言語構造によって、未知の言葉が出現したとしても言葉の立場を理解しやすく、また会話でも「表音文字単位による暫定的な認識や表記」で保留しやすい。一方で英語では、暗示的な言語構造であるため未知の言葉があると理解可能性が損なわれやすい。

目次  ## 日本語の方言性と共有性 補足すべき点として、日本の歴史的な背景から「日本は安定した民族による文化だから、言葉が安定して継承されているから日本人にとっては学習性が良い」という想像をされそうであるが、日本国内における言語的な統一性はむしろ悪かったと言うべきである。言語的には多様性のある地域である。 現代であっても、大都市圏である「関東地方」と「関西地方」だけでも、言語体系としての同一性はあるものの細かい言葉遣いや発音において異なる、明確な方言性を確認することができる。大都市圏などの人の往来が多い地域から離れた地方の地域になれば、その方言性はより強烈な傾向が見られる。 標準語教育や共有が進んでいる現代でも、地域によっては別言語とも思えるほど「言葉が異なる方言」を確認することができる。近代以前ではさらにその方言性は強かったであろうと推測することができ、実際、方言の違いによって言葉が通じないことについて言及する記録が残っていると言われている。 また日本語文化における方言は、古来から続いていた社会問題であると考察できる。日本は山がちであり、都市部以外では様々な小集団が点在する形で暮らしてきたため、言葉の地元性が非常に強く形成されやすい環境であったと考えられ、しかし、都市部には様々な地域の人々も多く集まったと推察できる。 さらに日本地域ではその自然環境の過酷さから「生存するために社会的な協力関係を持つこと」はとても重要である。よって、より多くの相手と「意思疎通できること」が最も重要視されたと推察できる。日本語の「単純な発音体系」は、そうした社会的背景も大きく関わっている可能性を考察できる。 日本語の発音体系は「子音のみの発音」を基本的な発音から大きく排しており、力強く発声することのできる母音を原則的に伴い、「叫ぶことにも適している」ような様式へと整理されてきた。また言葉の整理でも1音ずつを分割して伝えることのできる様式へと整理され、伝えやすさが確保されている。 日本語の発音体系を含む言語基盤は極めて「高い共有性を持った体系」として成立していると説明できる。この言語体系によって、近代化以降には標準語の教育普及も円滑に進み、日本国内では非常に深い方言性が残存しながらも、標準語を使えば意思疎通がおおよそ可能な社会環境を成立させている。 極端な例として、元々は「異なる言語圏」だとも分類できるような地域を、わずか1~2世代程度の短期間で「日本語地域にする」という言語転換が実現している歴史がある。それによって日本語の地域としての長い歴史的な連続性の有無に関わらず、日本語の学習・教育が可能であることを示せる。

目次  ### 補足:方言の多さと、方言の壁の低さ 日本における言語の環境を詳細に調べていくと、その方言の豊富さに驚くことになるだろう。高い識字率や教育普及率とは裏腹に「日常に根差している言葉」は全く異なる言葉が方言という形で根付いている。単純な発音の変化ではなく、完全に「近い意味だが全く別の音を持つ言葉」という例が、非常に多い。 日本では「標準語を喋ってもらわなければ、理解が極めて困難な方言」という事例を、現代にいおいても複数確認できる。教育の普及した現代でさえ、そのような方言差が一部残存していることは、つまり近代的な標準性の高い教育が普及する以前なら、地域ごとの語彙の差は著しかったと強く推測できる。 強烈な方言は、民族的に区別される言語だけではなく、「九州南部」や「本州東北地域」などでも確認できる。もしも文書体系までもが分離してしまっていた場合、ブリテン島やイタリアなどにおける地域言語の多様性のような状況が成立していた可能性を想定できるほどに、日本には言語的な地域差がある。 日常語の[すごく/とても]=(Very/Extremely)の主な方言の例だけでも[なまら],[わや/たげ],[らずもね],[いぎなり],[しったげ],[すこだま],[ばげぇに],[うんと],[まっさか],[なっから],[いら],[のうほど],[べらぼう],[すっげぇ],[ど/ばか],[ごぉざ],[なんちゅう],[まんで],[ひっで],[だたら],[えれぇ]… …[でぇれぇ],[がんこ],[でら],[むっちゃ],[えらい],[えろぉ],[めっちゃ],[がっせぇ],[ごっつぅ],[やにこぉ],[がいな],[まげに],[ぼっけぇ],[ぶち],[ぶり],[ごっつい],[ものすご],[ほぉとぉ],[こじゃんと],[ばり],[がば],[いじ],[たいぎゃ],[しんけん],[てげ],[わっせぇ],[でぇじ]などがあるとされる。 現代でも方言性の強い地域の出身者は、事実上「地域語と標準語のバイリンガル」と説明できるほど、語彙の使い分けを実施している。そうした深い方言の差が現代でも確認できるほど残存していながら、日本という地域は「おおよそ1種の言語」としてまとめられ、また標準語によって意思疎通をできる。 日本の方言環境を調べていくと、むしろ「なぜ日本が1つの言語圏にまとまっているのか」という実態への疑問を思い浮かべることになるだろう。日本では古来から、極端な方言差がありながらも、中央地域に由来する共通語を使える知識層が各地へと広がっていき、共有していったという歴史も説明できる。 また方言差は深いものの、近代化よりも前から平和な時代においては「裕福な個人・庶民による旅行」の文化が始まっている。制度的な制限は存在していたが、観光業を生業とする地域の人々は共通語を使い、方言の壁を克服して、人々が広く交流することのできる社会環境があったと推察することができる。

目次  ### 日本の翻訳文化 方言の多様性は、日本が古来から「言葉を翻訳する」ということを必要としてきた地域であるとも説明できる。また「外国語の言葉を自国語で解釈する」という翻訳に限らず、「対象の言葉を別の言葉で言い表す」という翻訳もまた日本語文化においては非常に日常的な行為であると説明できる。 日本という地域では、その自然環境の過酷さから協力関係を持つことが重要であり、より多くの相手との意思疎通を不可欠としてきた。そして意思疎通には、相手の言葉を理解して、また相手が理解できる言葉にしなければならない。つまり、文書などの大きな翻訳だけではなく、小さな翻訳も必要とされた。 日本語の言語体系における「未知の言葉の受け入れやすさ」の機能性なども、そうした言語的な多様性によって強固に整備されていったと考察することができる。言葉の語感の変形を抑制して単語の安定性を高め、細かい表現には統一的な機能語や述語の変形を整備されていることで、新語も柔軟に使いやすい。 日本の文書文化は、中国大陸文化から輸入した「漢字・漢語・漢文」によって整備されたが、その際には「漢文訓読」という読書法を整備していった。これは漢文を、そのまま漢語として読むのではなく、補記などによって「日本の言葉として読み下す」という形式で扱い、「日本語化」していった。 漢字が表語文字であり、異なる言語体系でも文字が分かれば理解がしやすいことも大きかった。だが「漢文訓読」では日本言語における語順を踏襲させるために、読みの順番を前後させることを当然しているなど、「漢文を日本言語として読み込む方法」を体系化していた翻訳体系だと説明できる。 日本語では知識分野において古来から「外国の言葉を自国の言葉にして扱っていく」という知識的な習慣を持つ。欧州からやってきた「蘭学」などの知識体系も自国語への翻訳を進め、自国語で理解できるようにする文化を発展させている。近代化に際しても、近代的な外来語を和製漢語として整備している。 現代では膨大な外国語の情報を、日本語へ次々と翻訳する人々が広く存在している。事実上の国際言語である「英語」では、その世界的な中心性から「他言語の人による積極的な英語へ翻訳」が実施されている。一方で、日本語では「主に日本語の人が、自力で日本語へ翻訳する」という文化を実践している。 日本語は歴史的経緯から「理解できる言葉へ変換すること」から始まり「他言語を日本語へ落とし込むこと」への機能性が持続的に整備され続けてきたと考察できる。もしも即時的な翻訳が困難な言葉があったとしても、それを暫定的な表音文字単位で識別し、日本語の法則性によって新語として運用できる。

目次  #### 言語の多層性と強すぎる日本語翻訳文化 歴史的に、日本語は「和語」と「漢語系語彙を含む外来の語」を併用する言語体系として整備されてきた。日本語の言語構造は和語を基盤として、新しい言葉・未知の言葉を受け入れる機能性が整備されてきたことで、多層的な語彙の運用・保持を実現している。日本語はそれによって、表現の幅が非常に広い。 日本語では「擬音語・擬態語」「和語」「和製漢語・漢語系語彙・その他外来語」などを、全て同一の言語基盤の法則性に基づいて、文章に組み込むことができる言語構造を持っている。さらにその中にも、細かい表現方法が積層しており、日本語では言い換える手段が非常に豊富に存在する。 その言語的な多様性は、国内のみにおいても「言葉の翻訳」や「表現の選択」という作法を当然としている。日本語の感覚基盤が柔軟かつ強靭に存在しており、「あらゆる言葉を自然と分かる日本語に翻訳して認識する」という作法を身につけていることも多い。自然と、和訳してしまうのである。 日本語の持つ言語的な表現力の広さと言語構造の強さによって 他言語の翻訳という場面でも、自然と日本語によって認識・解釈していくこともしやすく、大部分を直感的に翻訳していけるのだと考察できる。そのようにして「外来の情報を日本語の情報として蓄積していくこと」がしやすいと推察できる。 一方で日本語文化はその言語の機能性によって、あまりにも「情報の日本語化」をしてしまいやすい。外国語の学習において「直感的に日本語化してしまいやすい」というデメリットを持つと説明できる。つまり日本語を基盤として考えてしまいやすいために、他言語の身体化も苦手としていると考察できる。 日本語は「新しい言葉をすぐに覚えやすい」という機能性によって膨大な語彙量を保存してしまい、結果的に他言語の話者には学習が著しく大変だと説明できる。それだけでなく、日本語体系の「あらゆる言葉を扱いやすい」という機能性によって、結果的に日本語話者は他言語を苦手としやすいと考えられる。 日本語は、あらゆる情報を日本語の基盤において自由に扱いやすい機能性を持つ。また実用においても外来の学術知識・科学知識が日本語へと翻訳され、さらに日本社会でも日本語で日々膨大な情報が生産されている。日本語を中心としたまま、高度な技術も安定して実用できている日本語社会が成立している。 日本は、日本語を中心としたまま世界に伍する文明社会を形成することができる言語環境を持っている。そのため日本語文化・日本語社会にとって「英語」とは「世界に多数存在している外国語の中の代表的な言語」である。「外国語」として、補助的に用いる言語として扱うことができていると整理できる。

目次  #### 他言語への著しい翻訳不能性 また日本語は、非常に繊細な表現手法が実用されているために、他言語へ翻訳する場合の情報的な損失が非常に大きい傾向にあると説明できる。最も重要な点として、日本語には「意味を表す言葉」だけではなく、「社会的な情報を表す言葉」が体系的に整備されており、これを他言語に翻訳することが難しい。 言語における「社会的な情報」とは、「カジュアルな言葉遣い」「丁寧な言葉遣い」「格式のある言葉遣い」などに存在している「社会性の情報」のことである。カジュアルな言葉遣いであれば、カジュアルな関係や場面であることを理解できる。格式のある言葉であれば格式のある場面だと理解できる。 英語で例えるならば「相手に黙ってもらいたい」と伝える場合、乱暴な表現では[Shut up!]と言うが、全ての場面でそれが実用されるわけではない。丁寧な表現では[Please be quiet.]、丁寧なお願いであれば[Would you mind keeping it down a bit?]、格式的表現なら[Silence, Please.]などになる。 日本語でも乱暴な表現では[黙れ (Shut up)][うるさい (Noisy)]と言うが、[黙ってください (shut up, Please.)][静かにしろ (be Silence.)][うるさいです (It's noisy.)]とも言い表せる他、丁寧な表現では[お静かにしてください (Please be quiet.)][静かにしていただけませんか?]など。 英語などは主に「表現する際の言葉選び」によって社会的な情報を表明する形式である。一方で、日本語は意味を示す言葉選びだけではなく「社会的な情報を示す機能語」も使う。[黙れ],[黙って],[黙っててくれませんか][静かにしろ],[静かにしてください],[お静かに願います]など細かく調整できる。 日本語では「丁寧語」「尊敬語」「謙譲語」などの体系が整備され、「細かい社会的な情報を示すことが言語上で実施されている」と説明できる。しかし日本語ほど細かく体系化された丁寧な言葉遣いを持つ言語は珍しく、英語でも日本語ほど詳細な表現がないため、厳密な翻訳ができない部分が多い。 だがしかし、言語の運用が人間同士の関係において行われている以上、意思疎通において「社会的な情報」そのものは必要となるはずである。日本語では柔軟かつ強靭な言語構造と覚えやすい言語体系によって繊細な表現を実用しているが、他言語では「言外な作法」を大きく必要としがちであると整理できる。 つまり「言語上に存在する社会的な情報の密度が乏しいため、言語外の情報から社会的な情報を取得する必要性がある」と説明することができる。日本語は英語などに比べて省略的で情報が乏しいとも考察されがちであるが、「社会的な情報」ではむしろ非常に豊富な傾向があると言える。

目次  ##### 補足:社会的な情報の効果 日本語において体系的に整備されている、言語上で「社会的な情報」を示すという様式の実用性とは、「自分が相手のことをどう思っているのかを明示できる」という効果がある。これは即ち「相手が自分のことをどう思っているのかを知ることができる」という状況が作り出されていると説明できる。 他人との意思疎通には、常に「相手との立場関係」という現象が不可避に存在し、そのための表現そのものは限定的な風習などではない。典型的な例としてどの地域でも、君主などが相手であれば、格式のある丁寧な接し方が求められるものであり、どの文明社会でも「丁寧さを表明する表現」は形成される。 丁寧な表現によって成立する「相手が丁寧に話してくれているのか、それとも粗雑に話しているのか」の認識は、心理的な安全性に働くと推察できる。また同時に「自分が丁寧に接していることを伝えたい」ということを相手へ伝えられる形式があることで、伝える側にとっても心理的な安全性があると言える。 その「丁寧な作法」という様式が、言語上において使いにくい状態となっている場合、自然な接し方としては機能しない。特に「君主などの特別な相手のためだけに用いる」という丁寧な作法である場合、「大げさで過剰に丁寧であり、むしろ慇懃無礼な振舞いとして認識される」という危険性まで生じる。 自然な会話で使える作法において、言語上で丁寧さを伝える方法が少なかったり、あるいは使いにくかったりする場合、事実上「言語上から、相手が丁寧に接しようとしてるのか、それとも粗雑な態度を取っているのかを判断しづらい」という状態となり、「言語外の情報から様子を察する必要性」がある。 それは「相手へ適切な丁寧さによって接すること」の技術的な難しさも生じさせていると推察できる。語彙・単語の使い方によって丁寧さを表明する文化である場合、その使い方の違いを理解していなければ、全く無自覚に粗雑な態度をとってしまう恐れも想定されり、心理的な安全性が低いとも評せる。 日本語では丁寧な言葉遣いという様式が体系的に整備されており、それも単語の切り替えだけで表明されるものではなく、統一性と汎用性の高い「文章構造を規定する機能語」の範囲において大きく表明される様式である。そのため作法としての基礎部分を覚えやすく、使いやすいと説明できる。 もちろん日本語でも語彙において丁寧ではない言葉なども存在しているものの、機能語によって丁寧な表現が実施されているのであれば、少なくとも体裁として丁寧な接し方を心がけているのだということを理解される。乱暴な表現語も、丁寧な表現の機能語によって暴力性を多少抑えて伝えることができる。

目次  ## 日本語社会における他言語の不十分性 日本語社会は日本語を中心として高度な文明社会が成立している。現代文明における技術、学術、科学などの分野でも大部分を日本語を基盤としたまま、安定的に実用することを実現している。また行政や教育、法制度などにおいても日本語を基盤としたまま、長期間に渡って社会が運営されている事実がある。 より詳しく説明するのであれば、日本語文化ではその表現性の豊かさによって社会的な情報の明示を実用することを可能としており、社会的な関係性の円滑さを実現していると考察できる。つまり日本語社会において扱われている情報量に対して、他言語の情報では不十分になりがちであるとさえ考察できる。 つまり「日本語社会におけるコミュニケーションの要件に対して、英語の言語体系では扱える情報量が不足しがちである」とさえ整理できる。実態として「日本語でなければ表現できないこと・思考できないこと」はとても多く、日本語話者は「英語の体系でなければ表現できないこと」が極めて小さい。 また、もしも「外来語でなければ表現できないもの」があった場合、日本語の言語体系は「直接的にその言葉を実用する」ということを可能としている。「外来語の体系」によって実用するのではなく、「日本語の体系の中で外来語を実用する」という様式によって、日本語化してしまうことができる。 日本語は「柔軟かつ強靭な言語体系」を持ち、日本語社会では日本語を中心として実用されているために、日本語の言語体系のみで生活していても不便が生じることは限定的である。そのため日本語社会においては、特殊な事情が無い限り、日本語以外の言語体系が用いられる必然性が無いのだと整理できる。 そういった事情から、「日本人は英語を含む他言語を積極的に学習することが珍しい」と言える理由を説明できる。もちろん、実務上の理由や趣味において、他言語を学んでいる日本人も存在すると言えるが、日本人に対して日本語以外の言語が通じることは「幸運なこと」であると説明するべきである。 外国語を実用できる日本人とは「積極的に他言語への興味を持って学習している、ありがたい人材である」と説明できる。日本語だけで暮らせる日本語社会において、他言語を実用できる技能は非常に高度な特殊技能であると説明するべきものであり、英語が伝わることさえも「幸運」なのである。

目次  ### 蛇足:あまねく日本人が英語を学ぶべきであるか? まず、言語学習とは簡単にできるものではない。また日本人が英語を学ぶ、対照的とも言えるほど異なる言語体系を持つ英語を身につけるために必要とする時間は、著しく大きくなると考察できる。また、特に義務教育などの制度教育に使える時間は有限であり、教科ごとの奪い合いが生じるものである。 多くの日本人が一般的に英語を使えるようになるためには、つまり、それだけ多くの時間を語学に費やさなければならなくなることを意味する。しかも英語は母語であったとしても、基礎的な学習だけで長大な時間を必要とするものであり、また発展的な学習を進めるならばその規模はさらに拡大する。 しかし説明してきた通り、日本語社会では日本語のみを中心として社会が運営できている地域であり、英語を使えることの社会的なメリットが職務上の有利くらいにしか存在しない。国際的な環境を求めなければ、英語を使う場面は非常に少ない。長大な時間をかけた所で、実際のメリットが薄弱だと言える。 社会的に見て英語を使えるようになる最大のメリットとして「英語の知識体系へとアクセスしやすくなる」という部分を提示できる。しかし日本語文化では、外来の情報も含めて日本語で編纂され、多くの情報が日本語で存在するため、「知識体系へのアクセスできる」というメリットは著しく縮小している。 むしろ日本語を学ぶことや日本語で様々な分野に触れることによって、日本語へ習熟することの方が、日本語社会に存在する様々な情報を扱いやすくなるというメリットを説明できる。そのため「英語教育へ闇雲にリソースを浪費すること」は母語能力の低下、即ち社会全体の沈下を招く恐れさえも想定できる。 もちろん、分野によっては外国語を学習しなければならない場合もあり、また外国語を実用できることは職務上の技能として有利に働くと説明できる。現実的にも「素質のある人が外国語を使えるようになることで、言語の仲介者としての役割も果たせるようになる」という社会構造が、効率的に機能している。 まして日本語社会では「英会話」を必要とする場面は稀であり、事実上日本語社会の外側、国際的な環境などに限定されやすいと言える。英会話ができること自体は国際的な職能として有利になりうると説明できるが、専門的な技能として機能するものであって、日本での一般性は著しく低いと言える。 また現代の日本社会が著しく発展しており、安全性も高く、自然環境も多彩で娯楽なども溢れており、「外国へ行く幸福性」も一般性を持たない。よって、日本語社会において外国語での会話能力とは「他言語を覚えられる人間が、特殊技能として身につけるものである」と説明されるべきなのである。

目次  #### 蛇足:文明の利器を活用するための言語理解 なお日本の制度教育の中でも、ある程度の英語教育は実施されている。英語の学習としては非常に限定的なものであり、実際に使えるようになるためには制度教育外の学習を不可欠としている。それでも多少の英語教育は「興味を持つ人や、素質のある人を見つけ出す」という点において働いていると言える。 また現代の日本人は多少でも英語教育があることで、「外国語と言語の構造的な違い」を身体的に理解していることも多いと説明できる。簡単ではない教科として「言語の壁とは思慮深く対応しなければ、乗り越えることは難しい」という言語の普遍的な法則を理解していることが多いと言える。 現代では「機械翻訳」によって、機械によって表層的な翻訳をした状態で読むことが可能となっている。翻訳精度として必ずしも万全であるとは言い難いが、そのニュアンスを把握することにはとても役立つと言える。しかし、そうした翻訳に対して慎重な扱いをするためには、言語の知識が不可欠である。 現実的に、現代において基本として求められる英語の教養とは、「英会話」という高度な技能ではなく、機械翻訳を含む「簡単な翻訳に対する洞察」だと考察できる。機械翻訳を併用することで効率的に重要な情報を読み解き、適宜不自然な部分への再確認などの対応を実施することが合理的となっている。 ちなみに日本国内においても、「英語体系」ではなく「英単語」そのものへ触れる機会はそれなりに多い傾向がある。外国語でも「カタカナ語として日本語化している単語」は多く存在しており、他にもコンピューター技術などでは基盤がアルファベットとなっているため、限定的な英単語が実用されている。

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目次  # 日本語から見た英語 日本語話者として、日本語と英語を詳しく比較した場合の率直な感想として「英語は単語の安定性が恐ろしく低い」と感じる。言語の比較においては、よく日本語は省略的で、英語は省略がされにくいといった考察も見受けられるが、その実態は「英語は省略すると崩壊する言語体系である」と考察できる。 英語話者には英語の法則性が身体化された当然の法則であり、あるいは世界の中心に君臨する法則であるため、違和感を感じにくいかもしれない。英語は「使われやすい単語ほど多義性の傾向が強く、判別するために意図しない意味を削ぎ落す使い方をしなければ、意味が定まらない」という法則を持つ。 英語は「単語の意味が多すぎる」という傾向があり、単語の意味を絞るために文章を構築して、どういう意味であるのかを読み取れる形にする作法を強いられていると説明するべきである。特に頻出する[get, set, take, run]などの基礎語彙ほど、辞書に記載されている説明が恐ろしく広いことを理解できる。 日本語でも「和語」の表現は単語の意味がやや広い傾向を持つ説明できるが、意味の拡散性は狭く、また機能語や補助語を併用することで直接その範囲が設定される。また漢語系語彙などの表現では単語の意味が格段に限定されており、単体でもどのような意味を持つのかが決まっている言語体系を持っている。 もちろん、会話において、日本語は分かりやすく同音異義語が多く、判別が難しいとも説明される。しかし英語にも[Right/Write][Sun/Son]などの同音異義語は多く、また英語は「近似音」も多い傾向がある。これらの識別は前後の言葉や状況からも推測して、半ば無意識的に判別しているものだと言える。 さらに、英語は言葉の意味を「暗示的な構造」によっても規定する言語体系であると説明するべきである。英語は語順という文章構造によって「名詞であるのか」「動詞であるのか」を判別させる仕組みを持つが、この法則性は「文章を構築しなければ、言葉の立場が判別できない」と説明するべきである。 しかもリスニングでは、音の近い言葉を含めて多彩な言葉から、どの言葉が使われているのかを逐次判別する必要性がある。英語では「文章においてどのように使われるのか」の法則性を規定し、共有することによって、どの単語が使われているのかを強く推測しやすいようにしていると考察できる。 「推測的な識別」という現象そのものは、言語の普遍的な法則であると言うべきだが、英語は推測への依存性が著しく強いと推察できる。英語の利点として説明されやすい、語順の安定性や表現の安定性も、その裏返しとして「英語の言葉が不安定であるために必要とされる作法である」と整理できる。

目次  ## 英語の暗示的な構造 言語の普遍的な法則として、熟達した言語は無意識な補正が強く働き、言葉の意味を自然と補完することができる。英語話者も、英語は十分に明示する文法だと自認しているであろうと推測できる。しかし、実際は主に「機能語などによる明示」ではなく「並び順からの解釈する」という暗示的な構造を持つ。 英語は言葉の立場を明示する手段が限られているために、「言葉の並びが乱れると解釈が不可能になる」という性質を持つ。この現象が意味することは「言葉の並び順が、言葉の意味を規定するために不可欠である」という構造性であり、それは「言葉の不安定性」と「語順への強い依存性」を証左している。 しかも実際の英語の発話では、言語の普遍的な法則によって発音の省力化が起きて「単語同士の発音が連結する」、さらに「出しにくい音が弱化・消失する」という現象が一般的に存在する。その理解に「認識できる音と全体の流れから推定する」という作法を、初歩的な前提として要求されやすい。 なお、より深く説明すれば、言語の普遍的な法則から英語でも「理解可能であれば省略する」という文化は存在する、例えば[Excuse me.][Thank you.]などは、英語の文章としては不完全な表現だが、その意味が分かりやすく・異なる意味の解釈が困難であるため、英文として不完全でも常用されている。 つまり英語であっても「会話において理解可能であれば最小の発話にしたい」という文化傾向が存在している事実を確認できる。だが、英語は「単語に対して異なる意味の解釈をできる可能性」が著しく多い傾向を持つために、実際に省略できる状況が簡単なフレーズ表現に限定されていると整理できる。 日本語では機能語・補助語によって、どのような言葉であるのかを規定しやすい。例えば[XXX]という単語が存在するとして、[XXXする]は動詞などとして規定され、[XXXになる]は形容詞などとして規定され、[XXXがYYYである]は名詞などとして位置づける。[XXX]という不明単語でも言葉として運用できる。 日本語ではあらゆる言葉に対して助詞や述語の体系を使うことができる。日本語は「おおよその統一性を持った機能語・補助語によって文章を構築する」という言語体系を持つため、文章の構造を安定させやすく、また文章の構築と単語の意味を分けた構造で管理されているため、単語の存在が安定している。 日本語は「言葉の立場を明示的に示せる」という言語体系であり、「未知の語であっても文章構造を形成できる」という柔軟かつ強靭な言語体系を持っている。当然「既知の語であるなら理解可能性が非常に高い」と説明できる。それが、外見上「省略性が顕著」と言われる言語文化を成立させていると言える。

目次  ## 日本語の自由度と英語の形式性 日本語は自然な語順においてはいわゆる「Subject-Object-Verb・SOV型」であると説明されるが、「言葉の立場を明示的に示せる」という様式を持っていることで、順番を入れ替えた表現を構築しやすく、表現できる範囲としては「語順が不定の言語体系」とも説明できる、自由度の高い言語体系だと言える。 一方で、英語は「Subject-Verb-Object・SVO型」の構造を大前提の基本構造と規定して運用されている。英語は細かい機能語が消失しているため、言葉の立場を示すには通常、SVO型の基本構造に従わなければならないという制約が存在する。特殊な手法によって操作することも不可能ではないが手間がかかる。 例えば日本語では[私がケーキを食べた]という語順を標準としているが[私が/ケーキを/食べた]で分割し、[ケーキを私が食べた][ケーキを食べた、私が][私が食べた、ケーキを][食べた、私がケーキを][食べた、ケーキを、私が]などと入れ替えても、全く同じ意味を保存した状態が保たれる。 あるいは[私が彼にケーキを食べさせた]も、[私が食べさせた、彼にケーキを][彼にケーキを私が食べさせた][彼に私がケーキを食べさせた][私がケーキを彼に食べさせた]などと入れ替えても、[私が],[彼に],[ケーキを],[食べさせた]のように自立して安定した意味を持つ場合、全体の意味も安定する。 一方で英語で[I fed him cake.]という語順から入れ替えるためには、言葉の変更や追加といった作法を必要とする。例えば[Cake was fed to him by me.]といった構成にすることで、順序の転換自体は可能であるが、[was/to/by]が追加し、[I/me]の転換して「文章としての再構成」が実施されている。 さらに日本語は「言葉の意味が単独で安定させやすい」という性質を持つために、助詞などの機能語の省略さえもしやすい傾向を持つ。これは「省略される部分は、省略しても問題が無い部分である」という認識から、省略部分は原則的に最も単純なつながりによって補完されやすいためであると説明できる。 例えば日本語で[私ケーキ食べた]という場合、補完される最も自然で単純な関係は[私(は)/ケーキ(を)/食べた]として成立する。日本語でも英語でも、その他言語でも、言語の普遍的な法則において「省略しても意図の変質がほぼ生じない部分は、省略されやすい」という省力化の傾向が見られる。 日本語では、むしろ「省略可能な情報も深く残存させている」とも説明できる。関係性が複雑化する場合には適宜、助詞を用いることによって言葉の立場関係を明示して伝達することがしやすい様式を保っている。そのようにして機能語も多彩に残存していることで、文章構築の自在性が高い。

目次  ## 日本語と英語の構造的な距離 日本語は「安定した単語」「汎用性の高い機能語」、それらによって柔軟かつ強靭な言語体系を持つ。一方で、英語は「不安定な単語」「汎用性の低い機能語」、意味を指定するために決まった作法に従う必要性が強く、作法や慣例から逸脱した場合に文章として不成立となりやすいなど、対照的だと言える。 日本語は「単一の言語圏であり、それによって言語文化の安定性が高い」とも説明されやすいが、その実態は「多彩な方言性を包摂できるような言語構造を必要としていた環境」である。そうした環境から、必要に応じて高い明示性を持たせた言葉を作りやすい言語体系が形成されたのだと整理できる。 一方で英語の様子とは「暗示的に使われる言語的な作法を共有しなければ、言語的な理解が非常に難しい」と言える傾向を持ち、実態として「共同体における深い教育・学習によって言語体系の共有をすることで機能させている言語」である。つまり「仲間内において困らない様式」であるとも評せる。 もちろん「覚えなければ使いづらい・覚えれば使いこなせる」という現象そのものは言語の普遍的な法則性であると説明するべきである。しかし言語体系として、日本語と英語は、言語体系の設計が、あまりにもかけ離れているという事実は明白である。互いにとって非常に遠い言語だと説明できるのである。 特に英語は一般的な観点として「他の欧州系言語に比べれば、煩雑な変形をとても単純化させた整備が行われ、それによって多彩な言葉を包摂しやすい、柔軟で汎用性の高い言語体系」であるかのように説明される。その単純性で他の欧州系言語に比べれば覚えることは比較的シンプルになっていると言える。 ただし、それは「長い歴史の中でローカルな発展をし続けて複雑化していった様式を基盤として使い続けている欧州系言語に比べれば、英語は比較的シンプル」という評価である。その実態は英語も「仲間内において困らない言語体系の一般化」と整理することで、英語の持つ難解性を説明しやすくなる。 最も特徴的な部分として、「字と音の不一致」という問題は「仲間内で教え合っていれば問題なく機能する」という惰性が保存され続けているという理屈によって、その不合理性の残存を説明づけることができる。英語の「暗示的な構造」も同様に、共同体での作法の共有を前提としていると説明できる。 英語は事実上の国際共通語として実用されている。だが、その実態は「世界の特定地域において整備された言語を、知識層による高度な知識基盤を前提とした活用を中心としたまま庶民語への一般化を進め、言語的な共同体を社会的・政治的な影響力によって広域へ普及させた言語」だと説明できる。

目次  ### 英語の専門性 英語の言語体系を実用するためには、英語の広い基礎教養や言語文化をかなりの範囲において理解する必要性がある。幼少期から英語教育に恵まれ、学習意欲も豊富であった人々には、英語の持つ形式性が身体化され、表現のための文章構造を直感的に構築することができ、効率性が高いと推察できる。 しかし英語は「つたない言葉のつなぎ方」を言語構造の形式性によって強く拒絶する。英語は「言葉の不成立」とされる状態が標準的に存在し、英語は十分な教養や語彙を持っていなければ1文の構成をすることも・理解することも難しく、簡単なフレーズしか使えないし・分からないという状態に陥る。 学習性における最も深刻な問題として、英語は表音文字を使いながら「字と音の不一致・不安定」の傾向が著しく、基礎教育の実態として「字と音の接続させる認知を身体化させるための指導教育」に長い期間を必要としている。簡単な本を自力で読めるようになる段階が、遅い傾向があるとされる。 他にも英語は「基本的に使われる単語が限定されていて変形も少ない」ため、「覚えることが少ない」とも説明されやすい。しかし、社会文明で必要とされる表現力までも少なくなるわけではなく、表現への社会的な要請から「少ない単語で多くの表現を形成する」という様式となり、言葉の多義性が著しい。 英語はその実態として「覚える必要のある主要な単語の数」は少なくても、結局「覚える単語ごとの使い方や、それによる細かい意味の総量」は膨大と説明するべきである。単語の1面的な意味だけを知ってそのつもりで使ったとしても、実際は異なる意味で解釈されたり、意味が定まらない状況が多い。 英語の「単語の意味の広さ」を理解するならば、英語の辞書で書かれている「例文の数」を数える手法がある。安定した言葉では「どのような意味で・どのように使うか」だけで十分な記述になるが、英語の頻出語の多くは「どう使うと、どのような意味になるのか」の条項・例文が、長大に並べられている。 英語の辞書において並べられている例文とは、その例文ひとつひとつがおおよそ異なる意味や意図を示しているものであり、単語を安全に使うためにはその例文の使い方を網羅していなければならない。もちろん、日本語などでも使われる場面の広い語は存在するが、英語の頻出語ほど凝縮されてはいない。 さらに英単語は1単語でも、その中身が「複数の単語を接着した合成語」という単語もそこそこ多い。つまり「実際に使われてる単語の形」は「よく使われている単語の総数」よりもさらに限定される。そのため「同じ音・近い音」から意味の分岐が著しいと整理でき、確実な運用には高度な技能を要求される。

目次  ### 「単語は多くても常用語を増やしづらい英語」 日本語は、常用されている単語の数が英語よりも多いと説明されやすい。概算データとして、一般的な活用範囲のおよそ9割~それ以上の範囲の網羅に必要な単語数は、日本語では5000語から1万語以上とも見積もられやすいのに対して、英語では3000語~9000語とも見積もられている。 しかもこのデータは「変形を除く根幹となる単語の総数」であり、日本語は細かい述語体系によって非常に幅広い表現を可能としてる一方で、英語は細かい表現の調整に単語を繋ぎ合わせて表現する必要性がある。つまり「英語の方が一度に多くの単語を常用している」はずが、単語数は少ない傾向とされる。 言語の普遍的な法則として、文明社会において求められる表現力に著しい差があるとは考えられない。また日本語は自然な実用において1度に使われる語はやや少なくなる傾向を持っており、多くの単語が実用の範囲に存在しながら、端的な表現を中心としている。一方で英語は、複数の語を重ねて使う。 英語は「実用される単語の総数が効率化されている」とも説明できるが、しかし英語全体に存在する語彙は学術分野の広さによる文書の総量や、あらゆる言語からの引用を可能としている分も含め、極めて多くの単語を持っている。辞書的には膨大な語彙量を持ちながら、実際に使われる単語が限られている。 また「子細な発音を使う言語体系」の理論上の利点として、「発音を細分化することで、短い単語の総量を増やしやすくなり、より短い発話で多彩な表現が可能」となるはずだが、繊細な発音が使われている英語において実際に使われる単語の種類数が格段に多いわけではないと説明されるべきである。 この現象は実用上の「単語の覚えやすさ・使いやすさ」という理屈で説明できる。つまり、日本語は言葉が覚えやすいことで大量の単語が実用の範囲に残存しやすく、一方で、英語は珍しい言葉は覚えづらく使いづらいため、実用の範囲には分かりやすい単語ばかりが残り、数が限られやすいと考察できる。 特に日本語は「単純かつ明瞭な発音体系」によって言葉の記憶と発声がしやすく、なおかつ「柔軟かつ強靭な言語体系」によって珍しい語を使っても文章構造の理解は崩れにくく、安全性が高い。特に細かい情報を入れやすい言語構造を持つため、難しい言葉を使う場合、必要に応じて補足説明も入れやすい。 一方で、英語は「繊細な発音体系」と「字と音が不一致」によって、珍しい言葉は覚えづらく使いづらい。なおかつ暗示的な構造によって「分からない単語があると、発話全体の理解に悪影響を及ぼす」という危険性がある。安全な会話のために「分かりやすく伝わる単語」へ集中してしまうと整理できる。

目次  #### 言葉の役割分担 言語の普遍的な法則として、同等の文明社会において求められる表現力に著しい差があるとは考えられない。つまり同等の文明社会の環境であれば「実用範囲における単語の総数」は、実質的に「1単語ごとに使われている意味の範囲・総量・負担量」と反比例する傾向を示すと強く推定できる。 そして実際に、実用される単語数が限定される英語は、頻出語の持つ意味範囲が著しく大きいと観察することができ、一方で実用範囲に存在する単語数が比較して多い日本語は、単語ごとの持つ意味範囲は比較的狭い傾向を観察できる。もちろん日本語も意味範囲の多い語はあるが、一部の表現に限られる。 しかも日本語は「和語」「和製漢語・漢語系語彙」「その他外来語」などという多層的な語彙構造をしている。「単純な意味として使いやすく、広い意味を持つ場合は述語の変形で絞りやすい和語」と「限定された意味を示しやすい漢字語や外来語」などの併用によって、実用上の負担も軽減されている。 日本語は、実用範囲にある単語の数が単純に多いだけではなく、使われる単語へ比較的分かりやすい役割分担が整備されている。「広い意味を担う役割を持った単語」は非常に広い表現で使われているが、役割分担によって、その他の多くの単語で「1単語ごとの意味の範囲」が限定されやすいと言える。 「日本語文化において少ない言葉によって意思疎通がされやすい」というステレオタイプの現象を成立させている大きな理由の一つは、言葉の役割分担によって「言葉の意味する範囲を限定されやすく、聞き手側が推測する必要のある領域が狭くできる」という状況を成立させているからだと整理できる。 一方で、英語は日本語から見て対照的である。「一般的な日常において実用される範囲に存在する単語が少ない」とされる統計的情報は、その内容として「1単語ごとの役割がとても積層している」という傾向を強く推察できる。そして実際に英語の頻出語の多くが、少なからずの多義性を持つ傾向が見られる。 英語は特に[get, take, make, set, run, go, have]といった代表的な頻出語へ対して、多彩な役割を担わせており、言葉や文章を組み合わせることによって非常に膨大な表現へと使いまわさていると言える。それ以外でも「名詞」にもなり「動詞」にもなるといった単語が、英語は珍しくなく存在している。 しかも、英語には「言葉の立場を明確化する機能語」が限られていることで、「その単語が、どのような立場であるのか」は原則的に他の単語との組み合わせによって指定する必要性がある。複合的な事情によって、英語は「省略がされにくい」というステレオタイプの文化が形成されていると整理できる。

目次  #### 日本語の学習性 日本語の学習において、多種類の表語文字である「漢字」がとても難しいのではないかと疑われることは多い。実際、「漢字」は文字としては複雑であり、その学習の負担は大きいと説明するべきではある。「漢字」のルーツである中国大陸でも、長い間、知識層の高等な技能だったと考えられる。 しかし現代の日本語では、学習体系が整備されていることで「言語知識を徐々に拡張していく」という手順で学習することができる。日本語の基礎教育ではまず「表音文字のひらがな/カタカナ」を教えることで、「日常会話などに使われている言葉の表音文字化」ができるように学習が進められていく。 日本語の基礎教育では「ひらがな/カタカナ」が実用できる制度教育1年目の半ばから、日常会話などに使われている言葉の文字化を自力で出来るようになっていく。「ひらがな/カタカナ」は「基本は文字1つで音1つ、加えて法則的な例外規則」という基礎的な文字体系で、教えやすく・覚えやすいと言える。 基礎教育では、基盤となっている「ひらがな/カタカナ」という文字に対して、まず「日常会話などにも使われている言葉の漢字化」を徐々に進めていくことで、初歩的な漢字を覚えさせ、また「漢字の意味」という概念を同時に理解させていく。簡単に覚えられるわけではないが、難しさの飛躍性は小さい。 基礎教育を進めてから、発展的に高度な漢字や組み合わせの熟語を独立して徐々に学んでいくことになるが、前提として初歩的な文字や初歩的な漢字によって広い範囲の知識や言語感覚が形成されていることで、発展的な部分を全く新しい知識ではなく「知識を徐々に広げる」という様式で、学習が進んでいく。 母語としての日本語の文字の学習では「ひらがな/カタカナでの日常の言葉の単純な文字化」から始まり、「少しずつ、知っている意味を持った漢字への置き換え」を進めていくため、基本的に「分かる範囲の少し先」で学習が進んでいく。早くから簡単な本も読めるようになるため、自立した学習も早くできる。 実際に、日本語話者は制度教育を済ませた頃には、基礎の漢字として整備されているおよそ2000字程度の漢字について、ほとんどの漢字の基本的な読解を、多くの人が自然とできるようになっている。もちろん、学習の差や能力的な事情から漢字が苦手な日本人もいるものの、一般的には漢字が理解されている。 しかしもちろん、母語話者ではない人が日本語を学ぼうとする場合、「日本人が幼少期から段階的に少しずつ積み上げていく10年~20年以上の学習量」を、短期間で学ぼうとすることになるために、非常に大変だと言える。また言語体系としても独自性が強いために、そこに言語自体の難しさも加わる。

目次  #### 日本語の階層性と接続性 日本語は、漢字を使いまわすことで「意味の階層」という役割分担の連携をしている。日本語の漢字の特徴として、読み方に不安定さがある。しかし、正確な音が読めなくても「意味の階層」として、未知の組み合わせに遭遇しても、言葉の意味の推測や把握をしやすい体系を成立させている。 日本語は「知っているものを漢字にする」という事を進めていった後、漢字の体系として「知っている漢字を組み合わせ語・熟語にする」という単語を覚えることで、理解できる言葉を拡張していく体系として整理されている。漢字の体系は文字を覚えていくほど、新しい知識を学習・整理しやすくなっていく。 日本語の学習では、例えば[おおきい]という日常語を、[大きい]という漢字化をすることによって、[大][おおきい]という意味を司る文字であることを理解する。漢字体系では、その後突然[巨大]という言葉に遭遇しても「[大]を使っているから、大きさのこと・大きいことを示している」と推測できる。 また[大]の文字では[だい][たい]という読み方も教わる。他にも[だい][たい]と読む漢字はあるが、代表的な連想先として[大]が分かると、例えば[だいち]という言葉にも[大-ち]と想像しやすく、また[大地(だいち)]=(Earth/Ground)という言葉の感覚を、自然と[おおきい]に繋げて覚えることができる。 さらに日本語の重要な機能性として「漢字が分からない・思い出せない」という場合でも、言葉の音さえ分かっていれば「ひらがな/カタカナ」で暫定的に書き記すことができる。日本語で漢字自体を読めるようになったり・分かるようになる前から、様々な表現語に触れたり、音を書いたりすることもできる。 なお「漢字体系の利点」そのものは、他地域の漢字体系でも当然として存在する。「漢字を組み合わせて言葉を作る」という様式は漢字体系による基本的な単語の構成方式であり、分かる漢字を増やしていくことで理解できる範囲を広げていることは、漢字体系自体の利点であると説明するべきである。 日本語の特徴とは「言葉の音と意味の階層を分離して扱う」という様式によって、「和語」と「漢語系語彙」という本来なら異なる体系を、1つの言語体系の中で併用しやすくしている所である。日本語の「和語」は、古来の話し言葉の体系を基盤とした言語体系であり、会話において使いやすい機能性を持つ。 日本語では地元の言語であった「和語」も細かく書き記せるように「ひらがな/カタカナ」の表音文字体系を整備したが、しかし「和語」を表音文字だけで扱っていると「漢字体系」との連携ができない。そこで日本語では和語の表記も一部を漢字化して、漢字体系への連携を整備したと経緯を推察できる。

目次  #### 英語の語彙の多様性 日本語が言語構造として「和語」「漢字の語彙」「その他外来語」などの多層的な語彙を保持していることは、余計な情報量であるようにも考えられる。しかし事実上の国際言語である英語もまた、多様なルーツを持った表現語が存在していると説明するべきである。むしろ英語は著しく多彩であると言える。 日本語で「大きい」の表現語は主に[おおきい]や漢字の[大]を使う熟語、あるいは[デカい]などが中心的である。一方で英語は、[big/biggest],[great],[huge],[large],[major],[sizeable],[jumbo],[mega],[giant],[gigantic],[enormous],[grand],[monumetal],[titanic][macro-]など、語が積層している。 さらに実用においてはそれぞれの表現語において、文化的な使われ方が異なり、細かい意味合いが異なることもある。しかも「同系統の意味を持った詳細な語などであっても、関連性の薄い文字列によって構成されている場合が多い」と観察できる。実質的に1単語ずつの学習が必要になると言える。 漢字体系であれば日本語での実用例として[巨大/大型],[偉大],[雄大],[大切/大事],[大勢],[大半],[多大],[特大]といった熟語が使われ、また日本語では接頭辞としての[大好き]などの語彙の規模感を認識しやすく、言葉の表記と認識の関連性が確保され、新しい関連語を覚えやすい体系に整理されている。 漢字体系ではおおよそ「認識領域を拡張して、新しい知識も学習・整理しやすくなる体系」を持つ。一方で英語の場合、特に日常語と各種専門語は異なる言語に由来する語彙が多くなり「言葉や文字列の形」でも基本的に近似性が乏しく、学習には「全く新しい言葉」として覚えることになりがちである。 英語は日常語ばかりをどれだけ学習しても、専門語の領域を理解するには程遠い。専門語の領域を理解するには、そのための新しい学習が不可欠である。しかも専門語の中でも階層や分類が存在しており、専門分野によっては語彙自体が異なる部分も多く、分野ごとの学習量が多くなりがちだと整理できる。 しかもそれぞれの単語が独立的に存在しているため、「言い換え表現」が直感的ではなく、言い換えそのものが難しいと考察できる。それは「言い換え語への連想が薄い」だけではなく「異なる言葉には、全く別の方向性の意味が付随していることが多く、安全な言い換えが難しい」という問題も推察できる。 一方で、日本語は「日常的に使われていて伝わりやすく、また意味が緩やかな方向性を持つ和語」という領域が言語基盤になっているため、平易な言い換えが非常にしやすい。しかも「日常語と専門語の漢字による関連」が多いため、「相互的に平易な語や厳密な語への言い換えもしやすい」言語体系を持つ。

目次  #### 英語語彙の長大さ また英語などの言語体系は、物理的な問題として、詳細性のために「言葉の長大化」が避けられない。まず英語などの言語体系は「発音される音を基準として言葉の区別をする」という様式によって整備されているが、人間の発声器官の物理的な問題として、発声できる音の種類には物理的な限界がある。 また、さらに「実際に実用できる発声の種類」も限定される。英語文化では発音の事情によって「発話上では同じ音や近い音が非常に多い」と説明できる傾向も存在しており、それらの詳細な区別をしやすくするために「言葉の長大化」を実施することで、詳細な言葉を形成し区別することが実施されている。 また文書上の実用でも「言葉の長大化」が見られる。英語の場合、発音上は省略されている一方で、文書上の表記は音よりも長い単語で表記する。もしも「最小限の発音記号」なら、もっと短い表記になる単語は非常に多いと説明できるが、言葉の識別性を守るために文字表記の削減は極めて抑制されている。 もしも「同じ文字列で異なる意味を持つ状態」が増えてしまった場合、言葉がどのような意味であるのかの識別に、意味の明示を追加する必要性がある。この問題は、実際の英語において[bat][bank]という実例が存在し、これらの単語で詳細な区別を明示する場合は、言葉を長大化させて明示されている。 言語の物理的な問題・言語の普遍的な法則として、「異なる意味を持つ多数の言葉が、文書においても全く同じ文字列で書き表される」という状態では、言葉の意味を区別する際に情報を増やす必要性がある。つまり、どの意味であるのかを示すための「言葉の長大化」が発生すると説明できる。 他にも、専門的で高度な新しい単語を形成する場合、既存語との混同を避けるためには長い言葉を形成しなければならない。一般的な用語として普及させる場合は積極的に既存語を使うことで共有性を高めるが、反対に言葉が日常語として実用されてはならない場合は、長大な言葉を構築する必要性がある。 実際に、独立性のある専門用語の多くが非常に長い単語で形成されている傾向を観察することができる。長い専門用語などでは実用上の略語が生まれるものの「頭文字など、文字列の一部を使う」という方式で極端に短くなってしまう傾向があり、文脈の提示とその文脈に応じた理解を必要とする。

目次  ##### 補足:長大化の整理 例えば[Information processing technology]は全て10文字以上の単語3つで構成されている。音節においても[in/for/ma/tion],[Proc/ess/ing],[Tech/nol/o/gy]で合計11音節によって構成されている。略語では[IPT]とも短縮されるが、この極端な略語体系では当然として、他の用語の略語とも衝突している。 英語などのような発音基準の体系では、詳細な情報を扱う際に、長大な文字列を形成することでその詳細性を確保している。高度に習熟した話者であれば、こうした文字列が視界に入っても瞬時に理解するだろうと推測されるが、長大な文字列から情報を認識する必要性が多くなると負担は増えると想定できる。 特に人体の物理的な限界として「文字列が長大になるほど一度に認識できる幅を超過しやすくなる」と説明される。「長大な1まとまりの情報量を、一度で識別することは難しい」という現象であり、この点において表音文字は詳細な情報を扱うには、苦労しやすい傾向があるという理屈が成立する。 比較として、日本語の漢字では[情報処理技術]の6文字に収まる。発音でも日本語の単位では[じょ/う/ほ/う/しょ/り/ぎ/じゅ/つ]の8拍、音節で区別すれば[Jo/ho/sho/ri/gi/juts]の6音節に収まっている。通常「単純な発音体系では言葉の識別に多くの音が必要」と推察されるが、この言葉では英語より短い。 しかも、日本語で[じょうほうしょりぎじゅつ]という発音に対する認識として[情報処理技術]以外の解釈を必要とする可能性は著しく低い。あくまでも極端な一例であるが「必ずしも日本語の単純な発音体系で、全ての語彙の発音が著しく長大化する傾向があるわけではない」と説明するための実証になる。 もちろん日本語でも広く見れば、同音異義語による衝突も珍しくないと説明するべきである。例えば発話上の[そうこう][こうそう]という発音に対する認識は非常に広い。しかし英語の略語と同様に、文脈の理解で意味の理解は可能で、また日本語は意味の提示もしやすく、実用上の問題は抑制されている。 なお詳しくは文字認識だけでなく「情報の処理能力の限界」という物理的な制約も考慮するべきである。読書などで、表語文字を使う言語書籍では文字単位の読書速度が抑えられやすく、表音文字の言語書籍では文字単位の読書速度が比較的早いため、速度に対する情報量は収束する傾向があると言われている。

目次  #### 日本語の冗長性 日本語は「文章の構造を組み上げながら1つの文章が形成される」という言語体系であり、事実上「無制限に1つの文章を連続させたまま延々と続けることができる」という性質を持つ。言葉が短い単位で安定し、それを汎用性の高い助詞などの機能語によって繋げる形式で、構造が柔軟かつ強靭である。 一方で、英語は「1つの文章の中でどの位置に存在するか」という情報が言葉の認識に大きな影響を及ぼす言語体系である。語順という概念が無ければ言葉の意味を規定することさえもままならないため「1つ1つの文章を短い単位で構成し、それを連ねていく」という系式で文章を構成することになる。 この構造の違いは特に「補足のしやすさ」において大きく影響している。日本語では「1文の途中に補足説明を入れる」ということが許されており、また同音異義語が多い語彙では発話の中でも「英語のように属性となる言葉を並べること」で、情報の厳密性・詳細性を確保することがしやすい。 日本語では会話において「1つの話を中断、一度保留して、他の話へ迂回してから、また元の話へと戻る」ということまでもしやすい。一方で英語は、言葉の情報は直線的に整列して並んでいなければ、単語の分かりやすさ・認識しやすさ自体に甚大な影響を及ぼすため、補足にも制約が存在すると言える。 英語において、会話の中での補足には英語自体の標準的な使い方である「単語に対して属性となる単語を付与すること」か、または「新しい1文を新しく組み立てて外付けする」という作法が基本となる。例えば[bat]という単語は、意味を指定するために[baseball bat][flying bat]などと付け加える。 日本語は「会話をしながら言葉を選び、話を組み立てる」という状況でも成立させやすい安全性を持っているのに対して、英語は「1文の計画を立ててから話をする」という作法を要求されると説明できる。文章の構造が乱れてしまうと理解可能性が著しく損なわれるために、思慮深く話をする必要がある。 「発話における計画的な構成の必要性」という構造的な傾向の違いが意味することは「自然な会話における話の詳細度の高めやすさ」もまた大きく異なると言うべきである。日本語では、1文の中で逐次的に情報を細密化できるために、無計画な状態が話し始めても、話ながら情報をまとめることができる。 一方で英語は「計画的な発話が必要である」という言語構造の制約上、日本語のように「言葉や情報を選びながら並べて伝える作法」が許されづらい。英語で自然な会話において細かい話をする場合、細かい1文や独立した1句を並べる形になりやすく、その実態として説明の詳細化が言語構造として難しい。

目次  ### 言語構造の由来の違い 日本語と英語の言語構造の違いの理由については「使われている言語基盤が、どのような経緯で整備されてきたか」によって、その傾向の理解しやすくなる。現代英語が整理されたのは、活版印刷による情報革命が進み、特に産業革命による近代化以降、急激な整備が進んでいったと歴史的経緯を説明できる。 現代英語は「近代以降の文書上で最も効果的に機能しやすい様式」として整備されたと整理できる。アルファベットを使う言語体系の中で、英語は「ダイアクリティカルマーク・発音区別符号」を持たないのは英語の慣習に加えて、産業技術的にも文字はシンプルである方が合理的だった影響も推察できる。 また英語は近代化以降の文書を大量生産できるようになった時代に「文書での実用」を中心として整備されていったことにより、「考えてから文章を構成する」という作法によって実用され続けていった結果、文書を前提とした「思慮深く文章を構成しなければならない作法」が固定されていったと整理できる。 特に印刷技術によって大量生産される文書は「全く同じ文章が広域へと渡って保存され続ける」という形体であり、印刷されたものは不正確さや不安定さを修正するという事ができない。そうした物理的な事情からもより強固な精確性が求められ、「不安定な構成は許されない」という作法が公然化した。 「実際の発音に対して文字表記を追従させず、字と音の不一致を許容する」という形式も、「文書を広域かつ長期間に渡って安定して機能させるために、字と音の不一致を容認しなければならなかった」と説明できる。特に「外来語彙も元言語と文字列を合わせる」ことで、接続性を保持していると言える。 そして、英語はその「知識層による文書での実用を中心に整備されていった言語体系」を、ほとんどそのまま話し言葉としても教育・指導してしまうことで、日常語としても広く使われるようになった。「話し言葉としての使いやすさ」は自然な実用の中で乱暴に拡張されているのが、現代英語だと言える。 英語の話し言葉には英語の標準的な形式から外れた大量の定型フレーズ、イディオムなどが存在しており、これは英語を話し言葉として使いやすくするために多く開発されていると推察できる。また、発音も「発音しにくい部分が潰れる・崩れる」という状況が頻出し、その慣習的な発音が標準となっている。 そうした経緯から英語が「形式的・文書的な英語」と「日常的・会話的な英語」の違いが大きい傾向を強めてしまっていることを理解できる。これは日本の教育において「文書的な教育を進めても、英会話はできるようにならない」という状況が発生させている理由の一つとしても説明することができる。

目次  #### 言文一致の困難性 言語の普遍的な法則性として、話し言葉、特に日常語の領域は変化しやすく、また地域差も大きくなりやすいことが確認できる。現代の英語でも基本的な体系は制度的な教育普及によって揃えられていると説明できる一方で、実態として話し言葉の表現と文書の表現にはズレが生まれやすい実態が確認できる。 言語の普遍的な法則として、元々は同じ言語体系であっても、記録による固定化が無ければ時代が遠かったり・地域が離れるほど言葉は徐々に変化していってしまうものである。広域において話し言葉の統一性が確保されるのは、「話し言葉に使える言語基盤を記録し普及させる」という条件を必要とする。 また歴史的遺物から、そもそも記録文書の始まりとは「意味を表せる記号の集合体」だったと考察でき、当初は話し言葉を詳細に記録する能力を持たなかった。また、いわゆる「表音文字」として汎用性の高いアルファベット体系は画期的であったが、それも日常語の記録としては使われにくかったとされる。 文書記録は長期的な保存性と、発展的には広域の共有性も求められやすく、安定性の低い話し言葉は記録文書で使うには不向きであり、文書記録では避けられやすかったと考察できる。典型例として、中世の欧州では長らく「日常語として使われなくなったラテン語」を重要な知識言語として運用していた。 そのため近代以前の多くの文字文明において、話し言葉の体系の文書記録は非常に珍しいと言える。つまり「話し言葉から文字記録し始めた初期段階」か、もしくは「文字記録の言語を広域へ共有できる近代的な段階以降」でなければ、話し言葉と文書記録の両体系が近づく時期が存在しづらいと説明できる。 現代においても「一般的な話し言葉と文書言語が異なる」という状態は珍しくも無いと説明するべきである。地域によっては言語の統一をしないまま、言語の多様性を保存している地域もある。文書言語と話し言葉の構造的な統一性が確保されるには、国家行政などによる広域への制度的な教育が必要となる。 文書の扱い自体が言語学習の労力やコストを受け止められる社会的に強い立場の、いわゆる知識層の専門的な技能であったと説明するべきである。そして、現実的に制度的な教育が普及する時期とは主に、産業革命の影響によって、また庶民への教育の必要性が生じた段階を基点として見ることができる。 そして産業革命以降、社会や経済も拡大していくことで、庶民への教育制度も一般的と言えるほど普及していくことで、統一された言語の共有が進んでいったと整理できる。なお、より効率的に言語が普及していくのは、ラジオなどの通信放送やレコードなどの音声記録が普及した後だと考察できる。

目次  #### 日本語の言語構造の由来 日本語の歴史的な証拠として、まず「約1000年前に執筆されたとされる『枕草子』という随筆」を確認するべきである。これは約1000年前の日本語の文書であり、おおよそ話し言葉に近い形式であると推定されている。そして、その文章構造には、現代日本語と明確な連続性を確認することができる。 日本人であれば、その「約1000年前の話し言葉に近いとされる文書」の文章構造は直感的に把握しやすい。もちろん、長い歴史によって一部の語彙や表記において変化があるため、現代語とは異なる部分も多いが、文字が読めれば「現代でも日本語として認識することができる」と言える構造を持っている。 語彙が古くて異なるために素直に読むことができるわけではないが、助詞などの文章の構造を形成する表現が1000年前の文書記録とほぼ同じであることを理解できる。この現象が意味することは、日本語が「古くから和文として話し言葉からの言語体系も記録して継承してきた」という歴史を示している。 歴史的連続性を説明するのならば、日本の国歌『君が代』の歌詞は、さらに古い約1100年前の作品集とされる『古今和歌集』の時代でも「作者不明」で詠まれていた祝賀の作品を原型として、長く詠み継がれていき、歴史の中で一部フレーズ・表記は変化しているが、現代では国家の象徴として歌われている。 日本の文字文化は元々「中国大陸から輸入してきた漢字文化」を基盤としてたものであり、漢字を中心とした文書文化も盛んであったが、「日本では話し言葉からの言語体系による和文の文書記録も約1000年ほど前から実施され、その文書が読み継がれて言語文化が継承されてきた」という歴史を確認できる。 日本では「非形式的な表現も文書記録できる環境によって、話し言葉からの和文体系の整理や発展的な実用、特に漢字語彙と和文体系の混成文体などの更なる整備や、その共有や普及を実施できる状況があった」と考察できる。形式として硬直しすぎず、その時代や環境に応じた記述法として実用されていった。 特筆するべきは日本では、漢字を中心とする実務文書や知識文書の体系も実用されながら、文化的な活動として「話し言葉に近い言語体系の和文や混成文体も、実用に基づいて整備し続けた」という経緯によって、「話し言葉の感覚でも高度な応用ができる言語体系が形成されていった」と推察できる点である。 改めて注記しておくが、日本の話し言葉は制度教育の普及した現代でも明らかな方言性の存在や痕跡が確認される環境であり、制度教育以前では地域差が著しい地域であった。そんな中、近代化の最中に「話し言葉に近い和文体系を主軸にして、話し言葉と文書言語の再編と普及を進めた」と整理できる。

目次  ##### 1000年前の古期英語からの変異 「1000年前ごろの英語・ブリテン島の正統な言語」は現代の英語と著しく異なり、当時のイングランドの言語は「古英語」と分類されている。記録は残っているが、現代の英語話者が古英語を読むことは困難と言われている。現代の英語では消失している、欧州系言語でよく見られる変化もまだ多く残っている。 また当時の知識言語とは既に母語話者の存在していなかった「ラテン語」であり、それも古英語とは異なる言語体系である。さらに当時のブリテン島の地域では、他の言語も混在していた。より詳しく考察するならば、記録は乏しいものの、当時の欧州地域では「庶民の地元語」も多様だったと考えられている。 古英語が穏やかな社会の中で現代英語へ変異していったわけではない。歴史的な経緯として、「ノルマン・コンクエスト」と呼ばれる侵攻を受けた頃から大きな社会変化があった。そこから異なる言語の語彙が大量に流入してきたことで、当時の英語体系も大きく変化していくこととなったと説明される。 異なる体系の語彙が混在したことによって言語体系は混乱を収めるために整備されていき、おおよそそうした経緯によって徐々に「欧州系言語でよく見られる変化」などが削られていったようであると考察される。そうした時代を経て、やがて現代英語に近い形態とされる「近代英語」へと落ち着いていく。 しかし安定していったわけではなく「初期近代英語」の時期には、「大母音推移(Great Vowel Shift)」と呼ばれる発音変化が発生しながら文字表記の安定が優先されて、現代にも残る「字と音の不一致」の大きな基点となる。同時期に印刷技術の発展によって、他言語の語彙も大量に流入してくることになる。 時代の流れとして欧州各国が世界的に影響力を拡大させ、言語的な交流も盛んになっていく際にも、さらに他言語の語彙を取り込んでいき、語彙の多様化が深まることになっていた。その中でイギリスが世界規模の影響力を持って英語を世界各地へと根付かせ、その後にアメリカが英語の権威を大きく牽引した。

目次  #### 「言文一致」の様式 「言文一致、話し言葉と文書言語を近づける整備」を実施しているほとんどの言語では、既に体系的に整備されていることや、知識体系の表現力を守るため、既存の知識体系への接続性を確保するためにも、文書の言語体系を主な基盤として、話し言葉を矯正するような形式になりがちであると言える。 もし話し言葉を基盤にしたくても、まず言葉の記録や法則性の分析、言語的な体系の整備から始める必要性があり、さらに知識体系で使われている表現力に対応できる様式も整備しなければならない。特に、一般的な話し言葉は高度な知識的活動で使われづらく、結局、大部分で文書言語の表現を必要とする。 そのため既に大量の記録が存在し、とても安定した状態で体系化されており、言語的な分析もしやすい文書の言語体系を、使いやすい形に整備して広めて使わせることで「基本的な話し言葉と文書言語の統一性の整備ができるはずだ」という期待を含め、現実的な選択として文書の体系が優位に整備されやすい。 既に大量に整備されている文書言語の法則性を基盤として、そこへ話し言葉の語彙を吸収・整備することで日常語も活用できる状況を形式的に保証し、同一の言語法則において意思疎通を可能としつつ、同じ言語法則によって高度な知識体系へとアクセスできるようにされやすいと整理できる。 日本語が「話し言葉に近い言語体系で、話し言葉と文書言語の統一を実施できた」と説明できるのは、とてもシンプルな話で「話し言葉に近い言語体系の文書言語も存在していたから」である。専門的な文書言語とは別に、参考にできる大量の話し言葉に近い言語体系の文書記録が実用されていたからである。 現代の日本語の文書言語は「話し言葉に近い言語体系」であると説明できるが、その言語体系の基盤は「雑多な俗語」なのではない。元々、日本語の文書文化の一部として実用され続けて整備されてきた「話し言葉に近い言語体系の和文と漢字語彙の混成文体」を、文書言語の体系の一種を基盤としたのである。 また重要なのは、歴史的に「和文として整備されてきた言葉遣い」もまた、話し言葉の基盤として影響を与えあっていたであろうという点である。和文体系を用いた著名な作品や記録は文化的な教養として共有されていたため、知識層における実際の話し言葉の規範にも強く働いていたであろうと想定できる。 そのような関係性によって、現代日本人でも約1000年前に書かれた和文の構造を把握しやすい、言語的な連続性を保ってきたのだろうと整理できる。詳しくは割愛するが、他にも文字体系の影響や、自然環境へ抗するための社会的な要請、「日本のリンガ・フランカ」としての扱いといった事情なども関連する。

目次  ##### 哲学:言語に何を求められるべきか? 英語のような形式性の高い言語は「文書のために最適化されている文語体系としての完成度」を、「言語としての完成度」のように誇りやすいと推察できる。特に欧州圏の多くの言語文化では、知識言語の文字記録による「正当な文書」への信仰とも呼べるような文化傾向を考察することができる。 そうした思想から見れば、日本語の言語体系とは「形式的な安定性が欠如していて著しく不安定で、致命的な曖昧さの危険性がある、未熟な言語体系だ」という感想を持つであろうと想定できる。特に「話し言葉の様式が強く残っている」と言える現象は、先進文明の言語として非常識とさえ感じられるだろう。 やや強い主張に対するカウンターであるため強い主張をするが、そうした価値観とは「言語は人間性を失うほど高度である」という思想であり、そこからの日本語に対する評価とは「言語として人間性を失っていない」という指摘であると評せる。そして、人間が使うものならば人間性は必需である。 もちろん、特に「知識体系のためだけの記号構造」であるのならば、不安定性を極限的に削減することが最も重要である。しかしそれは、想定される領域を限定でき、その領域におけるあらゆる前提を網羅して明確化できる「数学」などのような環境でなければ、完全なる安定性を求めることはできない。 また英語が、数多くの論文を実用できるほどの機能性を持っていることは疑いようもなく、「知識言語としての実用性」という点で十分な機能性を持っていることも実証されていると言うべきである。ただし日本社会もまた日本語を基盤・中心としたまま、高度な技術体系を安定して実用している事実がある。 日本語に不安定な部分が存在することも事実である。しかし、それは高度な知識体系において実用されている英語であっても、日常語の領域においては不安定性と呼ぶべき文化的な部分が存在する。現実的に、言語の実用において重要なのは「状況に対して必要な情報を扱うことができるかどうか」にある。 そして自然言語が使われる環境とは、著しく不安定である。他者が同じ言語感覚を持っているかどうかも確定することはなく、人の認識があらゆる情報を正確に網羅していることは無く、言葉の使われ方とは本質的に「ズレること」が当然で、ズレを修正することで意思疎通を成立させていると言うべきである。 言語の普遍的な法則に基づけば、自然言語において「認識のズレ」とは言語の失敗ではなく、スタート地点であると言うべきである。言葉とは「固定された座標に存在する絶対的な意味」が認知されているわけではないと言うべきである。なぜなら人間は全知全能ではなく、また自分と他者は別の存在だからだ。

目次  ## 根本的に異なる2言語 実態として「日本語も英語も、同等の文明社会を支えている言語である」と説明できる一方で、説明してきた通り、言語として非常に多くの部分が著しく対照的であるとも説明できる。それは文字形体などの表層的な部分や、地理的な要因などだけではなく、使われ方や作られ方においても著しく異なる。 日本語を母語とする話者が英語を本格的に学ぶことも、英語を母語とする話者が日本語を本格的に学ぶことも、母語として備わっている言語感覚を大きく揺るがすような学習を必要とする、非常に大変な努力だと説明するべきである。言語文化そのものが、あまりにも違いすぎるのだと説明できる。 日本語を母語とする話者が英語を学んだとしても、また英語を母語とする話者が日本語を学んだとしても、パターンフレーズの翻訳的な応用ではなく、より深く習熟して言語感覚の身体化に至るまでには極めて長大な言語体験を不可欠としがちである想定できる。それを万人に求めることは、現実的ではない。

目次  ### 同じことをしている2言語 日本語と英語はどちらも「外来語を受け入れやすい」。その様式に細かい違いはあるものの、現代の日本語は「旧来の地元言語・知識体系からの外来語・その他外来語」などの語彙体系を実用し、現代の英語も「旧来の地元言語・知識体系からの外来語・その他外来語」などの語彙体系を実用している。 どちらの言語も「外来語を受け入れること」が言語の基盤において広く整備されていることによって、新しい語彙を自国語の一部として活用しやすい言語体系となっていると言える。より厳密には、日本語では「日本語化」して応用したり、新規の熟語を作ったりするなどの違いも大きくあるが。 日本語も英語も、外来の概念をその言語体系の中において再編することを自然としやすい体系を持っていると言える。必要に応じて、言語の持つ知識体系を柔軟に拡張させていくことがしやすい。その機能性によって、先進的な文明の拡張性にも対応できる言語体系として機能しているとも考察できる。 また日本語も英語も、その規模は違うものの「多様な言葉があった地域・勢力圏において、安定した言語体系によって意思疎通を実現する」という役割を実現している。英語も難しい部分を説明できる一方で、広域において使われてきたために、簡単な範囲では単純に使うこともできる表現様式を持つ。 日本語もまた、古来から多様な方言性に対応するための機能性が整備されてきた。特に近代における「標準語知識の普及」という政策も、おおよそ1~2世代程度で実現していると整理できる。さらに簡単な範囲であれば、単純な発音体系と分かりやすい言葉の存在によって、最低限の意思疎通を実施できる。 また、それはただ言語を普及させた事という実よりも、さらに「基本となる言語を普及させながらも、言語の実用においては地域による様々な方言性を確認できる」という点を注目したい。異なる言葉を持った地域において、異なる癖が残っていても、意思疎通を成立させやすいと言える性質を備えている。 つまり日本語も英語も「異なる言語の存在を当然・前提としながら、融和的に機能させるように整備された言語体系」であると考察できる。日本語と英語は言語的に遠いため、相互的な学習が難しい傾向を持つ一方で、言語として使いやすく整備されている部分もあるために、互いに全く使えないわけではない。

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目次  # 蛇足:「言語の地政学的な関係性」 日本語と英語の関係性における、直接的ではないが重要な話題として「言語の地政学的な関係性」という観点を記しておきたい。地理の話ではなく、「英語圏は巨大な社会規模があり、特にアメリカなどの先進文明社会で使われ、また多くの国でも英語が第二言語などとして実用されている」という事実である。 英語は現代における「事実上の国際共通語」として実用されているという強大な立場を持っている。世界中で英語が使われることでさらに広く使われていき、その規模を自然と増加させ続けるという立場を形成している。一方で日本語は1地域のローカルな言語であり、その話者数は日本の人口にほぼ等しい。 英語は、英語の世界へ集められている巨大な知識体系の存在によって、現代文明において最も重要な言語として存在している。そのために多くの国において、あるいはほぼ全ての文明国において、高度な教養として英語が使えるようになることは、非常に重要なステータスとして機能していると説明できる。 そのようにして英語の世界では「科学的・技術的な最先端の情報」が常に集積され続けていると説明できる。つまり「言語の地政学的な関係性」において、英語圏は著しく有利な立場を持っていると説明するべきである。「母語によって多くの情報を入手できる」という著しい恩恵を享受している。 一方で、そうした「言語の地政学的な関係性」において、日本語は英語から最も距離の遠い言語体系と説明される事情がある。また日本語は1地域のローカルな言語であり、世界的な広がり・協力関係も存在しない。つまり、日本語は「言語の地政学的な不利」を重く背負っていると説明することができる。 しかも日本は、日本国内における情報を原則的に日本語でまとめられる社会であり、外国語は補助的または例外的に活用されるものであると説明できる。つまり「言語の地政学的な関係性」において、日本は「世界の中心的な存在から、あまりにもかけ離れた位置に存在する地域」であると説明できる。 しかし実態として、日本語中心の社会のまま運営され続けている日本は、科学的・技術的な分野において著しく遅延している様子は無い。むしろ世界に対して科学的・技術的の最先端へ追随していると説明でき、むしろ一部分野ではトップクラスの立場や評価を受けるほどの科学・技術環境が形成されている。 それは日本語文化が、外国語で存在する重要な科学知識・技術知識を迅速に再編成して日本語の知識体系へ取り込み実用していくことのできる言語文化と社会規模を持っていることで、知識的な遅延を極限的に抑えているからである。また、その社会環境を実現できる日本語の実用性も証左していると言える。

目次  ## 日本という地域・歴史的条件 一つ注記しておくが「言語的な自立性を保ちながら、世界水準の技術環境を成立させている」と言える実態において、「日本が十分に大きな社会規模を持っているから」と説明することはできる。しかし、その社会規模になるまで暮らしている人々が尽力をし続けてきたのが日本という地域である。 日本という地域は楽に安定して暮らしている環境ではなく、気候において冬季には厳しい時として雪の降る寒さ・夏季には一転して高い湿度と温度による疫病の恐れがあり、「自然と水は豊富」と言えるものの嵐による水害も多く、土地のほとんどが山岳で平地の多くは水害と隣り合わせの湿地帯である。 いつも雨が確保できるわけではなく水不足による飢饉も幾度となく経験し、稀に火山噴火、大地震、津波と言った破滅的な巨大災害までも潜んでいる。大規模な集団を形成することが決して簡単ではない地域であり、人々は生存するために協力的な社会を形成し、過酷な自然に耐久できる社会を形成していった。 すぐには使えない土地を開墾し続けて、農地を少しずつ広げていき、また農地を維持するための整備も進めていき、食糧生産を増やし続けていったからこそ、やがて「その当時において世界最大級の都市」を長年維持し続けられるほどの社会が形成できたと整理できる。当然、街の開発も人の力である。 外からの侵略が少なかったとも言われるが、そもそも日本地域とその周辺はその自然環境から大集団を維持することが至難な環境であり、軍事国家が侵略してくる時代では既に対抗できる軍事力を先んじて形成しており、文化的接触が増える時代には文化的接触を統制できる社会体制を形成していた。 特に「いわゆる鎖国」において欧州地域からの文化的接触を社会的な制度として統制できたことは、それだけ「十分に強固な支配体制が成立していた」という実態があったことの証左である。また近代化に際しても社会体制が崩壊せず、自国の自力によって再編成できたこともまた、社会の強さを傍証している。 しかし古来から社会が安定していたとは説明できず、むしろ厳しい自然環境によって余裕を作りにくい地域でありながら、さらに破滅的な災害によって困窮することもしばしばあるという不安定さから、本質的に「地域同士の争い・奪い合い」が発生しやすいだろうと考察しやすい地域環境である。 日本の統治者たちは、そうした地域環境において領地を安定させるための尽力をし続けていき、領民と協力しながら社会の強靭化と発展を進めていく努力をし続けていったことによって、安定させられる社会体制を作り上げていったと説明するべきである。日本地域は、古来から安定していた地域ではない。

目次  ### 日本という地域:統治者の条件 日本という地域では歴史的に、長い戦乱の時代が存在している。重要なのは、地域の領主たちは「奪い合いに対抗できる武力を持って、略奪・破壊行為を抑制すること」が前提として求められたことである。そして「その武力を維持するために地域社会を運営すること」が必然的に要求されたと整理できる。 そして「互いの破壊的関係が抑制される状況まで争い続けてきた歴史」を持つ。それは「武力を浪費してしまえば弱体化して、領地を守れなくなる」というジレンマを抱えているため、近代化以前の領主でも「武力は前提だが、余計な争いは避けなければならない」という事情があったと説明できる。 特に「中央の朝廷が強権的に統治する」という統治体制は、その歴史において明確な失敗をしており、抑えられなくなることで戦乱の時代へと突入している。そうした歴史的な教訓と経緯から、「地域の領主が領地を守る役割を担って治める」という統治体制が広がり、進んでいったと説明できる。 そして戦乱の時代では最も武力を使った領主ではなく「最も広い同盟関係をまとめ上げた領主が、争いを抑止できる体制を整えていき、権力的な統制を実現した」という歴史を見ることができる。武力とはあくまでも同盟を成立させる背景であり、同盟関係こそが大きく働いたと整理すべきである。 なお「武力を根拠とした統治」と説明すると、単純に搾取的な支配構造にも見えてしまうが、「争いの抑止」とは領民との関係性も含まれている。領地を安定させることのできない人間に領主は務まらない。生存の余裕が乏しい日本では搾取的な支配は破綻しやすく、その立場を失いやすかったと説明できる。 日本において生き残ることができた領主たちとは、ただ武力を持っていただけではなく、その武力を長く維持できること。武力をむやみに使わず、広い範囲で協力的な関係を築くこと。そのために、文化的な技能がとても有効に働いたと推察できる。そして必要な時に武力を使うことで、領地を広げた。 戦乱の時代において日本の朝廷の勢力は著しく弱体化していったが、地域の領主たちは朝廷の立場を保障することによって文化的な正当性を成立させ、また朝廷は統治の実権を委任するという形式の統治体制を成立させた。それもまた社会を最も安定させやすい方式として選ばれたと考察することができる。

目次  ### 日本という地域:「徳川幕府」の時代 日本の歴史において特に重要な時代は、戦乱の時代の後の「徳川家康」を起点とする「徳川幕府」の成立と持続である。「徳川幕府」の主目的とは「国家の安定」であり、大きな戦乱の無い時代に社会の整備を進め続けて、日本の社会基盤を強靭化させていったと説明できる。それが後の近代化の基盤になった。 「徳川幕府」は、あくまでも「国家の安定のために、徳川幕府として統治を進める」という存在であり、様々な社会制度を整備することで実態としても大きな戦乱は抑制され、日本という厳しい地域環境において、「徳川家康」の死後にも稼働し続け、200年以上の間その役割を果たしていたと説明できる。 そして非常に偉大な点は「徳川幕府」が主目的を実態として守り続けてき、その力が衰退し不十分となってしまった時代において、主目的の「国家の安定」のために、最小限の争いによって名目を保ちつつ新体制への権力の移譲を進めていき、「徳川幕府」自身の判断によって、その役目を終えたことである。 なお「徳川幕府」の時代での社会の整備とは「安定のために更なる余剰や余裕を生みだすこと」が求められていたとも推測できる。日本は稀に破滅的な自然災害も発生する地域であり、災害を乗り越えるための備えを不可欠としてきたことで、安定期には非常に余裕のある社会が実現したと考察できる。 また「徳川幕府」の時代へ到達するまでに、戦乱の時代の中で「文書技能・知識」を含む文化的な技能を持った人材や領主たちが生き残りやすく、歴史的な資料から文書を扱える技能者が各地へと広がっていたことを観察できる。「徳川幕府」の時代では、その技能者が行政の実務などで活躍したと推察できる。 「徳川幕府」の時代が進み、地域の整備が進んでいき、経済や物流も盛んになっていくと、社会には大きな余裕が生まれるようになり、さらに実務能力として文化的な技能者が広く存在する社会的背景もあって、「一般庶民でも読み書き・そろばんなどの教育を受けられる」という社会までも成立していった。 日本では近代化以前、近代的な制度教育が整備されるよりも前から、庶民が自発的に初歩的な教育を受けられる場所が整備されていったのである。その規模は、現代に残っているその時代の出版物の種類や総量が多様かつ膨大であることが、教育の普及の大きさを強く傍証していると言える。 安定した時代に初歩的な教育が広まっていったことで、基礎的な知識層そのものが増えていき、増えた知識層がさらに初歩的な教育から広めていくという循環が成立していったと考察できる。さらに時代が進み、近代化における制度教育の整備も、既に多くいた知識層によって円滑に実現したと整理できる。

目次  ### 日本という地域:「日本のリンガ・フランカ」 日本という地域では古来から、領主同士の交流や、知識層同士の交流だけではなく、庶民との強い協力関係も重要となった。日本の自然環境では協力をしなければ安定して暮らしていくことはできず、生存の条件として「広い範囲への意思疎通」が必要であった。しかし古来、言語の統一性は乏しかった。 日本はそれなりに広い島国であり、古代の主要な地域と説明できる「瀬戸内海とその周辺地域」だけでも長さが500km近い距離があり、また「現代の東京から大阪まで」でも直線にして約400km、実際は山岳が存在するため物理的な距離はさらに遠い。陸地はほとんど山岳地帯のため、生活環境の分断は深かった。 補足しておくが「日本の青森から東京・大阪を経由する福岡までの地形を無視した直線距離」では約1400km以上である。物理的な条件は異なるが、現代のローマからロンドンの地形を無視した直線距離が約1400kmほどである。この距離において言語が異なることは当然として発生すると説明するべきである。 日本という地域は古来から方言が広く存在しており、特に人の往来の少ない中央地域から離れた地方地域においては、もはや別言語のようにも思える違いを持った地域語が存在していた。そうした地域であっても「意思疎通をしなければならない」という社会的な要請によって、言語が共有されていった。 欧州では知識言語として共有されていた「ラテン語」が知識層の持ち物として守られていた一方で、日本では輸入した漢字体系から「貴族社会で整備された言語体系・文書体系」も記録物として広く共有され、それを手本にした有力者たちの実用に基づいて、言語体系・文書体系が広く整備されていった。 特に表音文字を使った「和文」として記されていた話し言葉に近い言葉遣いは、文化的に模範な表現として共有されていき、さらに実用に基づいて洗練されていきながら、戦乱の時代の中でも領主など知識層が各地へ広がっていくことで、基礎的な言語基盤が広く共有されていくことになったと考察できる。 日本では知識層がまとめた「日本のリンガフランカ」が特に文書記録も通じて共有・普及していき、文化的な教養を持った多くの人々が「同じ言語に基づいて意思疎通ができる」という社会環境が形成されることで、広い協力関係を実現し、そうして社会を発展させていったのだと整理することができる。 それも、特に「和文」は「話し言葉に近い文書言語」であったために、言葉としても身体的に使いやすく覚えやすいことで、共有性が良かったと推察できる。やがて平和で安定した時代になった頃には、一般的な庶民さえも学習して実用しやすい言語としても機能し、それが「日本語」となっていったと言える。

目次  ### 日本という地域:人材の再生産 日本の歴史を丁寧に分析していけば、物理的にあるいは社会的に分断されやすい地域でありなら、しかし、だったからこそ「協力すること」が最も強い力として働き、協力できない者たちは徐々に追いやられたとも推察できる。そうして、共有性の高い言語が広まり、協力性の高い文化が広まったと考察できる。 また同様の分析から、近代化以前からその社会環境と言語体系によって「基礎的な知識層が自己増殖的に増えていく」という人材の拡大的な再生産のサイクルを実現していたと説明できる。少数の教育者からの教育指導によって、効率的に多くの知識層・教育者も生み出されていく環境が成立している。 教師という人材が求められても、それは無から生まれるわけではない。制度教育のために多くの教師が必要になっても、それは工場で大量生産できるものではない。日本は、近代化の中で制度教育を整備する時期には、ほぼ全ての地域の教育施設を整備するための、必要な教材や人員を用意できる社会があった。 日本における制度教育の整備とは、何もない所から大量の教師が出現したわけではなく、それまで多くの庶民の間にも浸透していた教育文化の制度化と、より広く効率化する再編成として進んだ。それによって、それまで教育を受けることの難しかった庶民にまで教育を行き渡らせることを実現した。 また日本語の学習は、初歩的な学習を進めることで、高度な学習の足がかりになる。日本語文化では「高度な学習をするために、まず初歩的な学習しなければならない」という連続性があり、それによって、より多くの人材が日本の高度な言語体系でまとめられた知識文書へ触れられるようになっていった。 先んじて近代化を進めていた欧州各国では、初歩的な学習は地域言語の初歩的な教育で進められていた一方で、より多くの高度な知識文書を読むためには、地域言語とは異なるラテン語などの知識言語を覚える必要のあった。その問題は長く残り、解決されるには地域言語文化の発展と整備を待つ必要があった。 注記するべき点として、欧州地域と日本で「一般的な庶民が、書籍・出版物を親しむようになった時期」にそれほど劇的な差は無い。日本では近代化以前から出版が盛んになった一方で、欧州地域での一般化はほとんど庶民教育の普及以降であり、その時期はどちらもおよそ18世紀ごろとされている。 日本語文化は「情報を共有すること・知識を学習すること」を日本語と呼べる一つの大きな基盤によって可能とする環境を成立させてきた。厳密には様々な表記体系が混在していたが、近代化に際しては、言文一致を含む標準的な表記法への再編成を行い、また様々な表記体系への道筋も整備していった。

目次  ### 日本語文化:輸入された「漢字」 日本語文化において不可欠と言うべき存在が「漢字」である。漢字は、中国大陸地域において「情報の記録・広域の共有・長期的な保存を主目的として体系的に整備されていた言語」であり、習得の難しい文字体系ではあるが、漢字体系もまた「共有性のために整備された言語」であると説明できる。 中国大陸地域は非常に広大であり、歴史的に言語的な違いも著しく大きい地域であった。大陸地域で人々の大規模な流動も多く、言語的な壁を古代から抱えていたと考察できる。そこで「漢字」は発音の統一性は妥協して、「同じ漢字であればおおよそ同じ意味を持つ」という記号として利用されていった。 漢字体系は広く共有され実用され続けることによって「極めて広域への共有性」と「極めて長期的な保存性」を成立させている。長い歴史の間で整備や変質があったため言語体系として完璧な同一性は無く、古代の漢文記録をそのまま現代の言語感覚で読むことは難しいが、意味の推測はしやすい。 そうした漢字の「文化的な思想」と「文字言語としての機能性」は、日本において発展的に実用されていったと説明できる。日本もまた、方言のような言語的な差を抱える地域であり、そうした環境であっても安定した意思疎通が求められたために、「漢字の共有性」が劇的な効果を発揮したと想像できる。 特に、漢字体系とは「広く共有されることによってその役割を果たす」という思想に基づいて整備された言語体系であり、わずかな知識層だけによって使われるものではない。「文書体系は広く共有したほうが効率的である」という漢字体系の思想が、日本の環境に極めて適していたと考察することができる。 日本の文字体系は、僧侶や有力者などの知識層が各地へと広がることによって、文書による情報のネットワークを広げていったと整理できる。特に統治者たちにとっては文書を扱えることは実務能力として重要な技能であり、自力でできない場合は技能者へ文書の代筆を依頼することもあったとされている。 ただし、日本では「漢字体系」をそのまま使い続けていったわけではない。他の漢字文化圏との交流は限定的であったこともあり、日本の文字体系は日本の文化体系に合わせた拡張や整備が柔軟に行われていき、日本独自の文字や漢字の使い方を成立させ、「日本語」として機能させていったと整理できる。

目次  #### 日本語文化:「漢字」の機能性 「漢字」の機能性について英語話者へ向けて説明しておくと、まず漢字は「表語文字」と呼ばれる文字体系である。漢字は「1つの文字で1つの印象を示す」という仕組みを持つ文字体系であり、例えば[Water]を主に[水]と表記し、[Fire]を主に[火]と表記する。「単語の概念を1字整備した」と説明できる。 また実用においては、全てが1字によって表されているわけではなく、漢字単体だけではなく「組み合わせ語」として単語・言葉を形成する。英語が、[Take off][Put on]などのように、複数の単語を組み合わせてることで様々な表現を実用しているように漢字体系でも、複数の字を組み合わせて使われる。 非常に極端な例え方をするならば、英語では新しい1000語の単語を覚えるために基本1000パターンの細かい文字列と読み方と意味の組み合わせを覚える必要性があると言える。一方で、漢字体系では100種の文字と読み方と意味を覚えて、その組み合わせ語を知れば、1000語以上の言葉を理解できるようになる。 例えば[火]=(fire)と[山]=(mountain)の組み合わせによって[火山]=(volcano)という単語が形成される。他にも、日本語の熟語としては[水]=(water)と[素]=(basic element)の組み合わせによって[水素]=(hydrogen)という単語が形成される。蛇足だが、中国大陸側の漢字体系で水素は1字で表される。 特に表語文字は、文字が意味を持っているため、「新しい言葉でも知っている漢字であればその内容の方向性をおおよそ推定できる可能性が高い」と説明できる。もちろん文化的な使われ方によって、漢字の持つ一般的な意味と実用されている意味にズレが生じる場合もあるが、それは英語でも同様である。 むしろ漢字体系は「漢字が他の言葉との組み合わせ語にも使われて意味の印象が強く形成されやすく、意味の無秩序な変質は抑えられやすい」と説明できる。文化的な使い方としてあえて異なる意図で使われる場合もあるが、元の意味は保持されやすい。一方で、英語はそうした構造性が弱いと推察できる。 英語でも、多様な組み合わせ語による転用は多く見られると説明できるが、漢字よりも実用されている単語の総数が限られる傾向があるため、より限定された単語へ多くの使い方が積層している傾向が強いと推察でき、また「理解可能なら単語単体で表す」という習慣から単語単体への意味の侵入も多い。 もちろん漢字体系でも、文化的な使われ方による飛躍的な使われ方の定着や、意味の変質はあると言うべきだが、漢字の字形や組み合わせ語の存在によって、秩序が保たれやすいと考察できる。英語は意味の変容を抑える構造が乏しいため、使われていない古い言葉が通用しづらくなりやすいと考察できる。

目次  ##### 日本語文化:「漢字」の意味の整備 漢字体系では「多くの場合で、同種の属性を持つ言葉で同じ字形を共有させる」という整備が行われている。例えば[水]=(Water)の属性を共有した[池]=(Pond),[湖]=(Lake),[海]=(Sea),[湾]=(bay)や[波]=(Wave),[油]=(Oil),[液]=(Liquid),[湯]=(Hot water)や、[湿]=(humidity/moisture)他多数がある。 多彩な属性が存在し、[火]=(Fire)属性なら[炎],[燃],[焼]などの漢字があり、[木]=(Wood)属性なら[根],[梁],[柱][杉],[桜]、あるいは[草]=(Grass/Grass Plant)属性、[体(肉→月)]=(Body)属性、[手]=(Hand)属性、他多数。全てで厳密な連動性があるとは限らないが、基本の意味が整備されている。 個別に覚える必要性があるのは単純な形のパーツ類と、少なくはないが限定的な特殊な漢字であり、漢字に熟達していれば多少複雑な漢字に対して、むしろ「字形の構造から、意味を類推しながら覚える・思い出す」という手順によって実用することができる。英語の語彙よりも、統一性は高い。 一つ一つの文字が複雑な形で形成され、なるべく多数の文字を覚える必要性があるために「初歩的な学習の負荷が大きい」ということも事実であるが、字形の関連性や組み合わせ語の広さなどによって、応用性が非常に高く、覚えるほど単語の学習効率が著しく高まり、実用における効率性は高いと説明できる。 ちなみに漢字の意味から飛躍した文化的な使われ方の目立つ例として、近年の日本文化において[草]=(grass)が「笑った様子」を表すスラングとして使われている。詳細は割愛するが、笑った状況を説明的に記されていた形が記号化し、記号化された様子をさらに言葉として言い表すの発展形のスラングである。 しかし「[草]=笑った様子というスラング」が広まりやすかった要因として、「元の言葉の使われるタイミングと著しく異なる」という区別と、しかし「自然と生えてくる草・自然と湧き出してしまう笑い」という共通性、また字形においても[草][言葉→葉+早]という親近感を考察することもできる。 なお英語の体系でも「小さい語の組み合わせ語」によって単語が形成されている場合もあり、専門用語などでは「外来語の法則性を流用して単語を組み立てる」という方式が常用されている。そのため専門用語として体系的に学習すれば、専門用語の理解可能性は増えるが、限定された領域に限られる。 補足として、英語では「接頭辞・接尾辞」などによって単語の意味の展開が可能であるとも説明されるが、漢字体系でも「接頭辞・接尾辞」は存在する。むしろ言葉の法則から自由度が抑えられている英語に対して、漢字体系は高い法則性に基づいて汎用的に「接頭辞・接尾辞」を使うことができると言える。

目次  #### 日本語文化:「漢字」と「表音」の役割分担 日本の漢字では早期に[仮名:kana]という使い方が整備された。「仮初の文字」を意味するもので、初期は「日本の言葉に対応する意味ではなく、同じ音を持った漢字を当てはめる」という方式で、日本の人名の音などを表したり、日本の「歌の文化・和歌」の音を表して文書へ記録することに実用されていた。 日本で編纂された初期の文書記録・歴史書においても、主な文章は漢文でまとめられていたが、音を必要とする「歌」の部分では「同じ音の漢字」を借りた、簡単な音を持った漢字を表音文字のような使い方で記述されていることを確認できる。初期においては「漢字による表音表記」のまま実用されていた。 つまり日本の文字文化では「漢文・漢字の体系」を輸入しながらも、文化的に「日本の言葉は、漢字の音へ注目して表記する」という表記法が常用されていった。例えば、古い「和歌」の作品集である『万葉集』では、その「漢字による表音表記」によっておよそ4000以上の膨大な作品数がまとめられている。 そうして使われていく中で、やがて「音を表す場合の漢字の表記法」が単純化されていく。漢字は字形が複雑で1音1音の表記には手間が大きかったため、既に整備されていた「漢字による表音表記」から、「省略表記でのカタカナ」と「崩し字でのひらがな」という[仮名文字]=(仮名文字)が整理された。 日本の文字文化は「表語文字であったはずの漢字を表音文字のように使いまわし続け、やがてそこから表音文字そのものを開発して実用を広げていった」という経緯を持つと整理できる。日本語の表音文字の発音において、歴史的な安定性が高い理由の一つとして「漢字とのつながり」という部分も示せる。 日本独自の「表音文字」が整備されたことによって、漢文との区別がしやすい形で、より簡単に音を表せるようになる。手軽に大量の文字を書きやすくなったこともあり、「直接的に和語から文字にしてまとめた文書記録」や、文書を使った交流も活発になり、大量の記録物や作品も生産されていった。 日本の「表音文字」も元々は貴族社会や知識層において使われていた表記法であったが、そこにおい作られた記録物や作品が「文化的な教養・教材」として共有されていったことによって、日本の文字体系の基盤として普及していき、さらに共有される言語体系の基盤としても機能していったと整理できる。 特に「表音文字」の整備は「漢字」を意味の記号へと分離して、新しい音を与えやすくなった。それによって「日本語の漢字」は読み方の多様性を広げることになったが、「和語の音を保持したまま漢字を割り当てる表記法」がしやすくなり、その「意味の表記」によって言葉の安定性は強めていったと言える。

目次  #### 日本語文化:和語に漢字をつける 文字文化における日本語の極めて象徴的な現象が「和語の音を保持したまま漢字を割り当てる表記法」である。例えば[あつい:atsu-i]という和語は、「物体などが高温である:[熱]」、「生活環境としてやや高温である:[暑]」、「抽象的な豊かさや、物体の積層量などが大きい:[厚]」などを表す。 そして日本語では、[熱い]と書くことで「物体などが[あつい]」を表し、[暑い]と書くことで「生活環境として[あつい]」を表し、[厚い]と書くことで「状態や形状として[あつい]」を区別できる形で表記するようにした。元々は[灼熱][残暑][厚意]などの漢字系語彙の漢字を和語にも転用した。 漢字表記自体で「もし仮に[あつい]という語が、他の地域の方言で異なる言葉となっていたとしても、漢字が共有されていれば、表記されている漢字の意味で理解できる」という状態が成立する。漢字体系は知識文書として高度に整備されていたため意味の安定性は強く、理解を助けたと整理できる。 「和語の漢字表記」は、「意味を持った他の言葉との関連付けられた漢字を用いることによって、その意味の安定性を著しく高める」と説明でき、「漢字の割り当てられた和語が、その基本的な意味の共有性や安定性を著しく強めた」と推察することができ、日本語全体の歴史的な連続性も高めたと整理できる。 また「和語への漢字の割り当て」は、一般的に使われる範囲は慣例に基づいて限定されているものの、日本語自体の法則における自由度が著しく高い。規則によって使われたものではなく、「漢字の語彙ではない言葉へ、意味や音を連想できる漢字を当てはめる」という形の中で、広まったものが残っている。 例えば[ならす]という和語は[均整/均一/平均]などの[均]に近い意味であるため[均す]という漢字が割り当てられている。他にも[もてあそぶ]という和語は[翻弄/愚弄][弄]に近い意味を持つため[弄ぶ]という漢字が割り当てられている。常用されにくい使われ方を含めれば、膨大な例があると推察できる。 現代では文章表現において適宜「読み方を補記する文化」が習慣として存在するため、「発音は口語的に設定する・表記は意味的な漢字で表記する」という表現法が表現文化において使われている場合も確認できる。ただし「一般的な読み方」として共有されている範囲は、長く広く使われてきた例に限られる。 ちなみに、この形式が読み方の多様性を深めているものの、「意味の繋がる漢字が割り当てる習慣・法則」が存在するため、古い珍しい読み方でも知識が広ければ「使われている漢字は知らないが、意味と音は分かる言葉」と「分かる漢字」の組み合わせによって、推測的に言葉を読める場合もある。

目次  #### 蛇足:「ヤバい」 話し言葉に由来する語彙でも、漢字を持つ語彙は日常語としての応用において、極端な飛躍性を持ちにくい傾向を持つと説明できる。しかし一般化した漢字を持たない語彙は、非常に感覚的な振舞いをしやすく、その使われ方が著しく広がる傾向を持つと観察できる。その典型例が[ヤバい:yaba-i]である。 [ヤバい]は漢字を当てることも可能であるものの、表記が一般化していないためその拘束性が弱い。[ヤバい]は、古くは「危険な状態」を表す語彙であったが、使いやすい話し言葉として広まった結果、「危険な状態」から拡張され「平常から逸脱した状態」の全般を表す語彙へと広がっている。 ちなみに、話し言葉において単語の使われ方が飛躍的に広がってしまうという現象そのものは、おおよそ言語の普遍的な法則であると考察できる。例えば英語で[bad!]=(悪い/好ましくない様子)や[Sick!]=(病気/体調の悪い)という語彙が、肯定的な表現において使われる例と近い現象と説明できる。 話し言葉・日常語において、そうした意味が変質や拡張する現象は珍しくない。他の日本語でも、古い言葉から意味が変化している例は探すことができる。しかしむしろ、日本語は多くの話し言葉の語彙を持つ言語体系でありながら、多くの語彙において意味の安定性は比較的高いのではないかとも考察できる。 日本語は和語の領域でも多くの言葉で、他の語彙との接続性を持った漢字による表記の整備が存在しているため、漢字が「言葉の楔・錨」として機能していると推察できる。その範囲においては、逸脱した表現が一時的な流行として発生しても、原義の印象が消えにくいために、あくまで派生だと識別される。

目次  #### 日本語文化:ハイブリット言語 「1つの言語体系の中で、表語文字に多数の異なる読み方を併存させる」という「事実上の表意文字」としての運用とは、煩雑性が高いと説明するべきである。「1つの文字セット」に対して、多数の読み方までも同時かつ同地域で併存していることがある状態は、世界的に見ても非常に稀有であると言える。 英語は「文字列に対する発音」という点で「一部分に同じ文字列が使われていても、異なる単語なら異なる発音にする」という不安定性を持っていると説明するべきだが、しかし英語でも「1地域の発音において、同じ単語に対して多数の読み方が併存する」という状態までは極めて例外的な現象である。 文字文化の基本的な法則として「文字列は意味と発音で1セット」となることが、一般的な文字体系であると言える。それは1種の文字列・1つの単語表記に対して、1つの発音と意味を結びつけるだけで使えるため、異なる発音は通常なら必要とされにくく、あっても消失しやすいと考察できる。 しかし「文字の実用」として「近しい意味を持っている言葉でも、音が異なるなら全て異なる文字列で表記する」ということもまた、実用において煩雑であると説明できる。一般的な文字体系では、表音文字中心か表語文字中心のどちらかであるため「実用できない」という事情から成立していないと言える。 例えば[今日は一月一日の日曜日、日本は祝日、ハレの日です。]などの文章は[日]の読み方が多彩で、日本語に習熟していない人を混乱させる例文として有名である。だが例えば[きょう は いちがつ ついたち の にちようび、にほん は しゅくじつ、はれ の ひ です]と書いた場合、意味の認識性が低下する。 日本語の文字表記とは「意味として理解できれば、最低限機能している」という前提で使われている。日本の漢字は基本法則として「意味を示す役割」を担っているものであり、その読み方を画一的にする必然性が弱く、漢字の読み方ではなく「日常語の表現で読むことも許されている」と説明できる。 極端な例として、例文は[TodayはJanuary 1stのSunday、JapanはHoliday、Special occasionです]と理解してしまっていいし、あるいはそのように発音しても言葉として成立する。漢字の理念である「異なる言語性同士でも、意味において通じやすくする」という機能を常用しているだけであると言える。 また日本語の読み方でも「文字列は意味と発音で1セット」の法則は存在する。日本語話者は、それぞれ[今日は:きょうは],[一日:ついたち/いちにち],[日曜日:にちようび],[日本:にほん],[祝日:しゅくじつ],[XXの日:XXのひ]の言葉を、単語単位で理解していれば瞬時に読める。実用上、成立している。

目次  ##### 日本語文化:文字体系の実用に基づく整備 注記しておくが、日本語の「表音文字と表語文字のハイブリット方式」は、長い歴史の中で広い実用に基づいて表記体系の整備され続けてきた結果である。日本語の文字文化の始まりは輸入した漢字のみによる表語文字体系であったが、その実用性と使いやすさを求めた結果、表音表記を実用していった。 その初期には「漢字体系」と「漢字を使った表音表記の和語部分」が組み合わされた表記法も存在している。効率性に基づいて「表音表記のための文字の整備」によって仮名文字が開発・実用されていき、古くは「漢字語彙を中心として補助的に仮名を入れる」という混成の表記体系から始まっている。 特に日本語の文字文化は、非常に広い範囲で、高度な知識層の統制からも離れた、やや無秩序とも言えるような実用がされた。「様々な表記法が試行錯誤されながら、権威や見栄えだけではなく、実用に基づいて、より使いやすく・伝わりやすい表記法が好まれて普及・体系化していった」と説明できる。 仮名が整備されてから「複雑な表記の漢字の実用はむしろ広がった」と言える現象も、実情として文化的な言葉の違いは珍しくないために、仮名では意味が伝わらない恐れも大きく「文字の意味の固定」を必要としていたことと、また「漢字の方が読みやすい」という部分もあっただろうと推察できる。 「道具としての実用性」の想定において、高度な知識層による、高度な知識的な背景を持った立場から、その格式や権威に基づいた整備が実施されたものは、その実用に高度な知識を要求されやすいと想像できる。日本語の文字文化では広い範囲の実用から、ただ使いにくいだけの様式は避けられていった。 ちなみに「漢字の読み方が一定ではない」という問題も、現代の英語において顕著である「文字表記から意味を識別しやすいように、文字表記を安定させて発音の統一性を妥協する」という実態が現実に実在して、世界中で実用されている事実を考慮すれば、「文字の多種読み」が致命的だとは説明できない。 むしろ「歴史的な経緯から表音文字のまま、単語表記が表語的な性格を持って実用されている英語」に比べれば、日本語の文字体系は「意味を規定する表語文字の漢字」と「音を規定する表音文字の仮名文字」によって役割分担がされている分、実用性や現実性が考慮された整備であるとも説明できてしまう。 また日本語の漢字が「必ず一つの読み方をするわけではない」という実態を説明できるものの、漢字ごとに「漢字系語彙」で使われやすい「漢字のみで読む場合のおおよそ標準的な読み方」という発音があり、未知の漢字を読む場合は、暫定的にその「おおよそ標準的な読み方」で読み流していくこともできる。

目次  ##### 日本語文化:不完全性の合意 まず欧州系の主要な言語文化では、顕著に「整備された言語こそ理解のために不可欠である」と説明できる歴史背景を持ち、「理想的な言語」という理念に基づいた知識層による言語の整備が実施され、近代化以降には、強い形式性を標準として言語教育が進められていったと説明できる。 しかし言語は自然な法則として、多様な様子を見せることを当然とする。拙速に広い範囲で実用される整備を進めた結果、英語に至っては発音体系の著しい変質が発生しながら、現代にまで残る「字と音の不一致」という問題も抱えた。一方で日本語は、根本的に「言語の完全性を前提としない」と説明できる。 日本語文化は「言語は道具であり、文字体系は便利な道具である」と言える社会体制によって、広く実用され続けてきた歴史を持つ。実用において使えることを第一として、意思疎通に使えれば十分であることを最低限の条件として合意し、そして使いやすくなるように、実用に基づいた整備が行われてきた。 日本語文化では「相手に通じなければ意味が無い」という前提と、しかし「相手へ通じるならばそれで十分である」という妥協が存在し、また必要とされる水準は使われる場面によって可変するものであることが、古くから文化的に理解されている。それによって、非常に様々な文書体系も試行錯誤されている。 特に日本語の文書文化における「意味と音の分離」という様式は、言語文化として「発話による情報共有の難しさ」を強く自覚させている。一方で、英語などでは理念として原則的に「発話によって内容を完全に伝えることが可能」だと信じているが、だが実態は同音の語の混在が生じており、完璧ではない。 日本語文化は文書教育によって「音の階層」から外れた「意味の階層」という概念を形成することによって、発話において不安がある場合に「意味の階層を説明する」という事も自然と許されている。また、漢字を基準とした言葉もまた「異なる語彙の層を使って説明する」ということを自然と実践している。 つまり「不完全性を前提とすることによって、より安全な意思疎通を成立させることを互いに心がけさせる」という文化が形成されていると考察できる。また、そうした文化的背景によって、「知識の橋渡し」になる「噛み砕いた説明・分かりやすい説明」という様式も身につけられやすいとも推察できる。 そうした「必要に応じて表現を調整する言語文化」によって、現実的に、多様な言語感覚を持っている多くの庶民を含めた、非常に広い人々が使いやすくなっていく言語体系として成立していき、そのようにして日本社会が非常に幅広く知識層が育成されていく社会体制を形成できたと考察することができる。

目次  ##### 日本語文化:学習の段階性・基礎段階 まず日本語の表音文字である仮名文字は「短期間で実用できる様式」であると説明できる。例外法則はあるものの、基本的には1つの音の認識に対して、1つの文字を割り当てることができる。例外法則も法則性は高く、組み合わせによる1つの音の表記や、文語上のわずかな表記ブレに収まっていると言える。 しかも、文書体系が高度に整備されている言語体系の表音文字でありながら、表音文字のブレを大きく許容している。文字表現として非常に自在性の高い表記が許されており、それによって、意味の単位ではなく、表音文字としてより感覚的な妥当性の高い文字表記をすることが許されている。 比較として、アルファベット言語体系は基本として「組み合わせによって多彩な発音を表現する」という方式であるため、基盤として「まず文字の組み合わせごとの音を理解し、文字の音の要素を分解的に理解する」という学習を必要とする。そして、それはあくまでもアルファベットの基本法則でしかない。 実際にはアルファベットを実用する言語体系ごとに細かい発音法則が存在しており、「一部の文字が読まれないこと」も珍しくなく、また英語などの一部の言語によっては「文字列の中身に一部同じ文字列が使われていても、異なる単語では異なる発音を使うこと」も多く、基礎部分から学習を難しくしている。 発音法則の問題とは「表音文字だとしても、文書体系を高度に整備する場合には文書上において識別可能な単位を安定して保持しなければならず、発音の変異やブレと言った情報を文書上へ反映させることが許されにくい」という「知識体系にとっての事情」から、基礎部分の難しさが堅持されている。 一方で、日本語は「文書体系のために安定して堅持しなければならない意味を識別するための表記法は、その役割を音の体系から分離して、表語文字の漢字体系によって整備されている」というハイブリットな体系を持っていることで、基礎的な表音文字の一般的な自在性が許されていると考察できる。 そうした「直感的な表記が許されている表音文字体系」では、子供なども「日常的に聞いていたり使っている音声を、直接的に文字へと表記することができる」という体系であり、また「文字を学習することで、簡単な形で表記されている文章であれば、独力で音読することもできる」という基礎構造を持つ。 その覚えやすさもあって、現代の日本語の表音文字は「ひらがな」と「カタカナ」という2種の文字セットが併存し、適宜使い分けられている。欠点として「原則1字1音でのため、発音表現を増やしにくい」とも考察できるが、現代では分かりやすい「ファ」や「ヴィ」などの拡張表記は実用されている。

目次  ##### 日本語文化:学習の段階性・発展段階 表語文字である漢字の学習は、大変であることは疑いようもない事実である。しかし日本語においては、表音文字のみでは実用において不便である現実的な事情と、漢字が「意味の伝達・記録において有効性が高い」という実用に基づく合理性によって、漢字が文書体系の中心として実用され続けている。 補足しておくと、もしも表音文字のみで詳細な意味の伝達性を保つ場合、英語のように「複数の語彙を組み合わせたりすることで、意味の指定を実施すること」が現実的な対応策になるだろうと考察できるが、その場合さらに長大な文字数が要求されることになり、その効率性は著しく悪くなると説明できる。 例えば[はな:花/鼻/etc.]などを「ひらがな」のみで確実に区別する場合には、[くさ の はな][かお の はな]などの[XX の はな]という長大な表現をする必要性がある。これは英語で例えれば[Bank]という単語に対して厳密な区別をする際に、[Money bank][River bank]と記述するような作法である。 実際の日本語では表語文字の漢字を併用することで、たった1字の「[花]=(植物のHANA)」と「[鼻]=(動物のHANA)」で、どの[はな]であるのかを表記・識別できる。なお「人間は見慣れていれている人の顔なら見分けて個人を識別できる」ように、漢字の識別とは人間の普遍的な能力の範囲内であると言える。 そもそもアルファベットなどの文字体系でも、熟達した話者による認知とは単語に対して厳密な音を再生しながら理解しているわけではなく、「文字列の姿」から直接的に意味を認知して読み取ることができる。これは有名な「単語の文字列の中身が入れ替わっても読める」という実証から強く傍証されている。 日本社会の制度教育の学習体系では、まず基礎的な漢字の学習を「聞いていたり使っていたりして、既に表音文字で書くこともできる日常語の範囲から、その言葉の音の漢字化を徐々に進める」という手順によって進められていく。つまり初期は「分かる言葉と、漢字を紐づけていく」という学習をしていく。 徐々に学習を進めていく中で、その他の教科の教育を含めて多くの文章へと触れさせていき、抽象的な概念を含む様々な言葉へと触れさせながら、実用される漢字が徐々に増やされていく。そして9年の制度教育の中で「一般的に使う範囲として規定された漢字」の約2000字程度の学習・教育が行われていく。 詳細な学習効率については個人差も大きいが、それはその他の言語体系と同様の現象である。しかし、日本語では1年目から教育のために書籍を所有させる制度教育が実施できるほど自力での読書の時期が早く、読書習慣のある子供なら教育の先んじて多くの漢字に触れやすく、広く学習している場合もある。

目次  ##### 日本語文化:漢字と「フリガナ」 漢字は、学習が不十分な人にとって読めない場合がある一方で、日常的な語彙であれば「音であれば聞いたことのある言葉である」という場合も多くある。また「日本語の漢字」は、その読み方の多様性を許容してきたために、一般的な読み方から逸脱した読みを持つ場合も珍しくないといった事情がある。 そうした事情に対して、実用性に基づいて補記の体系が整備されていった。様々な補記の体系が試行錯誤されていったが、近代化に際して高度な印刷技術が普及していく中で「漢字の横に読み方を仮名で記す」という記述法の「フリガナ」が定着し、難しい漢字を読めない状況を補助する文書文化が形成された。 子供向けの書籍においては、難しい言葉が使われない一方で、簡単な漢字であればフリガナをつけて表記することを標準として実用されている。特に小さい子供向けの書籍では「カタカナにもひらがなによるフリガナをつける」という補助が行われているなど、読まれやすさという実用性が追究されている。 日本語文化の「補助を当然として必要としなければならない」という体系には、言語的な整合性の乏しさとしてその合理性を疑うこともできるが、しかし実態として「本質的に、どの言語でも、補助が必要な場面は存在するはずである」と考察できる。英語の発音なども学習に補助を必要とする体系である。 日本語文化は「言語は広く使われる道具だが、その知識量には必ず個人差が存在する」という自然な前提に立って、また「言語は使いやすくした方が助かる」という実用に基づいた整備をし続けている中で、「難しい部分は横に補記をすればいい」という手段を文化にして実用しているだけであると説明できる。 また、こうした「読み方を補記する」という表記法の整備は「漢字語は一般的になっているが、和語としては珍しい言葉」という表現の普及・定着にも影響していると考察できる。つまり「音から文字を理解する」だけではなく、「文字から音を理解する」という順序による語彙の保存も成立していると言える。 ちなみに定着した「フリガナ」の表記法は、文化的にとても幅広い応用も行われている。元々は補記の手法であったが、技術的には「単一の文字列へ2重の表記をする」という表現法であり、小説などで「言葉の意味と実際の発言を併記する」あるいは「2重の名称を表記する」などの表現が実用されている。 日本語文化においては珍しくない表記方法ではあるが、世界的に見るとあまり一般的ではない表記方法であるために、そうした部分においても「日本語文化からの翻訳困難性」が存在していると考察できる。多くの場合「読み方のみを引用して翻訳し、表記する」という状態になりがちである。

目次  ##### 日本語文化:ハイブリッドによる視覚的な識別性 日本語の「表音文字と表語文字のハイブリット方式」は、文書における視覚的な識別性を高めていると考察できる。一般的な漢字体系とも異なり、意味を持つ単語の多くが漢字を主体にして表記され、その間で主に仮名文字によって文章構造が明示され、その情報量の違いから区分の直感的な判別をしやすい。 現代の日本語ではさらに「ひらがな」と「カタカナ」の役割分担が進んでいるため、「機能語または述語」は主に「ひらがな」を表記され、また「ひらがな」以外は主に単語・名詞などであると瞬時に理解できる。そのため「意味を理解するために注意するべきポイント」を直感的に意識しやすいと考察できる。 一般的な文字体系では全ての情報が似通った文字形体によって表記されがちであり、「情報の重要性の識別」には、単語の内容を認識していく必要性があると言える。特に英語では、単語がどのような立場であるのかを前後の文章から確認しなければならないため、広く眺めても判断しづらいと考察できる。 もちろん、精確な理解には詳細な読解が不可欠であり、精確な読解には相応の技能が必要になるというべきだが、長い文章の中から「到達するべき情報がどこにあるのか」を見つけ出す面では、日本語の混成方式は意味の言葉だけを見渡していくことで、重要な情報を見つけやすいと考察できる。 また、どんな文字体系であったとしても「模範的な組み立て方による予測可能性の高い文章構成」であれば、全体の読書速度は確保しやすいと推定できる。なお、読書速度や情報密度などの研究データから概算すると、一般的な範囲で、情報量に対する全体への読書速度そのものに極端な違いは見られない。 特に英語文化では、基本的な形式として「文書は形式に従って書かれるべきである」という規範を持っていることで、模範的な文書であれば「文章構造の予測可能性」は高められやすい傾向を持っているだろうと推察できる。一方で、日本語は執筆者の読書経験と技量に大きく左右されてしまうとも考察できる。 ただしそれは「英語は、文章構造の予測可能性が損なわれると、文章自体の理解を大きく損なう危険性が高い」という言語的な事情から、作法として矯正されている部分であると説明するべきである。また「日本語は、文章構造の標準性が薄くとも、最低限の理解可能性が確保されやすい」とも考察できる。

目次  ##### 日本語文化:仮名文字への待避 ここまでの整理で「漢字を使えれば」という部分に注目して説明してきたが、日本語は「漢字を回避すること」もできる文字体系となっている。つまり、日本語は漢字を使えない場合でも、音さえ理解していれば「発話」に近い法則性で、表音文字の仮名を使って、言葉を文字化することが許されている。 これは文字の学習初期などにおいて、言葉は分かるが漢字は分からないという状況でも、言葉を仮名文字によって暫定的に表記できる。しかも、仮名文字は文字と言葉の音の関係性がかなり明晰で、例外も法則性があり、多少不整合でも致命的になりにくい精度で文字化することができると言える。 これは学習初期や漢字を忘れてしまった場合に限らず、日常的な実用において、瞬発的なメモなどを「暫定的に仮名文字で筆記する」ということも可能とする文字体系となっている。それによって文章を書いたとしても破綻する恐れはなく、覚えているか読解できれば後から漢字を補完することができる。 またこの日本語の機能性は、現代において劇的な効果を発揮している。現代的なコンピューター上での文字入力では、一般的に文字を変換する機能が備わっており、日本語の入力では「仮名文字で入力し、その文字に対応する漢字のリストを呼び出して変換する」という仕組みで入力されている。 文明の利器において日本語の漢字は「言葉の正しい音を覚える」「対応する漢字を読める」の2段階だけで、多くの漢字の言葉を呼び出せる。なお学習において、筆記の体験は身体的な記憶を導きやすいというデータが存在しており、基礎教育で文字の筆記させていることは十分な合理性があると考察できる。 日本語の文字体系は古来から「詳細な思慮だけではなく、瞬発的な思考でも筆記できる文字体系」として機能しており、現代文明の技術では、仮名入力からの瞬時の漢字変換によって、さらに高速で高度な文章構築をも可能としている。現代技術への適合性は、知識活動も高速化していると考察できる。 一方で、英語は「単語の文字列が分からない」という場合に、発音を頼りにした暫定的な筆記が許容されにくい。根本的な「字と音の不一致」の問題だけではなく、自然な発音ではさらに標準性が弱くなり、断片的な情報から文字化しても、元の単語の復元は穴埋めパズルのようになりがちであると推察できる。 英語は、単語の文字列をおおよそ使いこなせるようになって、問題無く実用できるようになっている段階であれば、効率性を発揮するであろうと考察できるものの、その実現には「使う全ての単語において文字列を理解しておくこと」が必要だと言える。特に短い単語ほど、精確な記憶が不可欠だと推察できる。

目次  ### 日本語文化:発音体系の単純さ 日本語の言語体系としての特徴として「発音体系の単純性」を説明することができる。基本的な発音が文字と同数の約45音分の分類、そこに付属記号や組み合わせ表記を含むことでも標準的な発音の種類として多く数えて約110音分の分類で使われている。なお方言などの特殊な音を含む場合はもう少し多くなる。 また日本語は「子音は基本認識として母音と合わせて使う」という様式であり、「子音のみの発音でも、通常なら母音を含む音の一種として認識される」という認知体系が形成されている。「子音の連続発音」も当然として使われず、原則的に「判別しづらい子音」が使われない体系となっている。 例えば英語では子音のみでの発音が基本として存在し、子音のみを連続する形もよくある。物理的な問題として「子音のみの発音は、実際の発音において音が弱くなりやすい」という性質があり、また英語では顕著に「実際の発話において、強めにくい子音が消失しやすい」という傾向を観察することができる。 そのため英語の発音は実態として「単語ごとに、熟達した話者の発音を聞きながら、それを模倣して体得していく」という訓練をしなければ、基本的な発音を覚えることさえ難しいと説明できる。それも「字と音の不一致」によって、文書の教材から学ぶにも最低限以上の英語の感覚を要求されると考察できる。 そうした不安定な発音体系で意思疎通を可能としているのは、繊細な発音よりも「言語体系の基盤として形式的を強めることで、言葉の推測可能性を確保し、経験的な推測による無意識の補完での判別をしやすくしている」のではないかと疑うこともできる。パターン性が、意思疎通を支えていると推察できる。 対照的に、日本語は「発音を比較的認識しやすい」と言える発音体系になっている。特に「1音ずつ丁寧に発音してもいい」ため、日本語の標準的な発声に不慣れであっても、最低限必要な音を発声できていれば、日本語として認識できる言葉を発話することができる。実用上の安全性が非常に高い。 これは日本という地域が、古代から「地域的な方言の差が多彩な地域」であり、しかし交流は存在し、意思疎通をしなければならない社会的な要請から「一般的な発音の複雑化が抑制された」のではないかと想像できる。特に日本でも貴族社会では現代より複雑な発音体系であったという説も存在している。 日本語文化は古来から「一般的な実用性」に基づいて言語が整備されてきたことを観察することができる。その発音体系においても同様に、使いづらい部分は淘汰される形で縮小していき、実用において十分な形として、現代に続く単純性を持った発音の分類体系になったのではないかと推察できる。

目次  #### 日本語文化:音素記号分類での不規則性と合理性 日本語の発音を、アルファベット・ローマ字を音素記号とした表記では、基本的に子音の字は統一されるが、一部で子音表記を変えている。[か/き/く/け/こ][ka/ki/ku/ke/ko]と表記される一方で、[さ/し/す/せ/そ][sa/shi/su/se/so]と表記する。他にも[た/ち/つ/て/と][ta/chi/tsu/te/to]となる。 他にも[は/ひ/ふ/へ/ほ][ha/hi/fu/he/ho]と一部子音の字を変えて表記する。外国の学習者にとっては混乱しやすい部分だとも推察できる。しかしこれは日本語が「多くの人の実用に基づいて、より使いやすい形に着地する」という経緯で現代の発音体系を形成しているからであると説明できる。 日本語が歴史的により多くの人にとって「識別しやすい音」へと選別されていった結果、外来の表音で例示するなら、[si]の音では[su/se]の音と近いために[shi/ci]と表せる音になり、[ti][te]と近いため[chi/tci]と表せる音、[tu][to]と近いため[tsu]と表せる音、[hu][he/ha/hi]とも近いため[fu]と表せる音になるといった、「区別しやすい近似音」へ回避されたのだろうと推察できる。 注記しておくが、これは[si]から[shi]と表せる音になったのではないか?といった歴史的な推移への推定の話ではなく、「物理的な使われ方において[shi]と表せる音が好まれただろう」という理屈であり、もしかしたら方言によっては「早期から[shi]と表せる音が使われていた可能性」さえも想像できる。 注記するべき点として、アルファベットなどの細かい音素文字による表記は、かなり「発音を実施する側の認識に基づく区別」だと推察できる。発音する側にとっては違いが存在し、また注意すれば聞き取れる音の違いがあるとしても、実効性は低下しやすく、「発声側の都合」の表記体系であると言える。 日本語は「実際に広く使われ、聞き取れる音に基づく区別」で音の区別を整備・収束させていった言語と言える。厳密には方言によって発音の違いが見られたり、実際の発話でも発音の効率化での母音省略などの様々な発声が内在している。それらの変化を包括的に、近い音を同じ音とする粗い分類をしている。 そして、それを「外来の記号表記に基づいて、日本語話者へも伝わりやすい音になるような形で書き表すとしたら」という実用的な条件を考慮した結果、一部やや変形させた音素表記によって表される形になったのだと説明するべきである。実際に、アルファベット表記の発音でも必要最低限だが伝わりやすい。 発音の曖昧化への整備では、[じ/ぢ:ji][ず/づ:zu]という歴史的には異なっていたが近くなってしまった音を、現代では制度的に「同じ音」として扱い、日本語の文字表記としては珍しく法則性に欠ける例外的な表記規則を持つ。それも原則的には[じ/ず]を標準として、一部例外で[ぢ/づ]を用いている。

目次  #### 日本語文化:日本語の「濁音/半濁音」という分類 現代の日本語で特長的と言える発音分類として「濁音/半濁音」という分類をしている。これは[D/G/J/Z/B][P]などの子音で表される発音を「基本とする音からの変形」として書き表す分類を実用している。例えば[Ha/Ba/Pa]はそれぞれ[は/ば/ぱ]と「基本となる音と補助記号」によって表されている。 日本語の古い文書においては、歴史的に「濁音/半濁音」を区別する表記があったりなかったりとのことで、その区別が曖昧であったことを確認できる。現代の日本語の感覚では、[GA:が][KA:か]の音の変形であり、[ZA:ざ][SA:さ]の変形、[TA:た][DA:だ]の変形として、言語の識別をしている。 これは現代に残存している方言や語彙において、標準語と近い言葉でも「濁音化」している語彙の例が存在していることから、古来から「非常に近く、隣接した発音である」という共通認識があったことをうかがえる。近代化に際して明確な整備を行うことで、現代の日本語では補助記号で区別されている。 しかし現代語でも、例えば「物を数える単位・助数詞」に[いっぴき/にひき/さんびき]という明確に「同じ音が元でありながら変異している」が存在する。他にも漢字の読み方において、例えば[算:さん]の文字を[足し算:たしざん]がなるように、発音が変化している例を非常に多く確認することができる。 日本語の発音体系では「発音の癖や、癖に基づく発音のしやすさ」によって、基本の音から「濁音/半濁音」へ自然と変化してしまいやすいことの実例として提示することができる。そして、日本語では歴史的に、そうした細かい変化を包括的に活用しながら扱ってきたのだろうと推察することができる。 一方で、他の言語体系において「細かく区別していたが、歴史的に時間的・地域的な発音上の変異があったのだろうと推察しやすい実例」として、欧州言語における[J:Johann][V:Virus/Volk]などの言語ごとの発音の違いを確認することができる。同じアルファベット字でも、発音が違う例がある。 「日本語という発音を転写する言語体系の感覚」によって音の区別すると、例えば[Johann]の発音のパターンは[ヨハン:Yo-han],[ユハン:Yu-han][ジョハン/ジョアン:Johan/Joan]などの日本語表記ができる発音パターンを確認できる。またスペイン語の[J]は、日本語表記で[H-:は]系統の音になる。 [Virus]は日本語表記の場合[ウイルス/ウィルス:Uirusu/Wirusu]だがこれはドイツ語の発音に由来し、英語の発音は日本語表記で[ヴァイラス:Vairasu]になる発音になっている。他にも[Volk]はドイツ語の発音なら日本語表記で[フォルク:Foruku]になるが、英語読みでは[ヴォルク:Voruku]にもなる。

目次  #### 日本語文化:日本語における合成音 「濁音/半濁音」の例だけではなく、現代の日本語では「小さい仮名文字」を組み合わせることで、細かい発音の区別をする表記が常用されているが、これも近年において整備された表記法である。日本語でも古くから「発音のしやすさ」のために「表音文字の表記から外れた発音」は頻出していたと言える。 近年において整備された事例として、古くから使われていた[せう:se-u]という表記に対して、常用されていく段階で発音が緩んでいき[しょう:sho]の音へ変異して、その形が定着していたと説明され、近代化よりも後の、現代な表記整備において[しょう]と表記する表記規則を普及させることとした。 [せう]以外にも、現代において使われている和語の「小さい仮名文字」を組み合わせて使う発音表記は、元々「通常の仮名文字の組み合わせ」からの変音の整備によって表記法を変更した例であると説明できる。特に注目するべきは「元々は変音を含めて、同じ仮名文字に包括していた」という点である。 「濁音/半濁音」の発音と同様に、方言や発話の癖によって、「現代では小さい仮名文字を使った合成音」として区別される合成音のような発音が併存していたことを推測することができる。例えば[Ta:た][Cha/Tya:ちゃ]と発音する方言や癖があっても、それを[た]の範囲として包括していたと想像できる。 日本語の単純な文字体系であっても「実用における実際の発音との乖離」という現象そのものは存在し、古くから「字と音の不一致」とも言っていい現象そのものは存在していた、と説明できる。そこから近代化以降「表記の分かりやすさ」を進めるために、表記法が拡充的に整備されていった。 なお、「小さい仮名文字」を応用した表記法の大きな整備は、近代以降の大量な外来語の受容から始められている。単純化されすぎた発音の表記では、知識の共有において不十分である問題意識が共有され、「小さいカタカナを組み合わせた合成音とする外来語の表記」を一般化していったと言える。 それまでは補記のために用いられていた表記法が「より細密な発音を書き表すための表音文字」として拡張されていったと説明できる。これにより、日本語でも「[Ha:は][Fa:ファ]の区別」「[Dci/Zi:ぢ][Di:ディ]の区別」といった詳細な表記法が整えられ、「細かい発音の識別」も一般化したと整理できる。 そうした発音の整理が実施された後、更なる整備の中で近代以降の外来語以外にも「小さい仮名文字」の実用範囲を拡張していき、和語や漢字の読みの表記においても「小さい仮名文字」を使った合成音の表記法が一般化していったと説明できる。ただし、現代でも「発音の細かい変異」は許容されている。

目次  #### 日本語文化:単純な発音体系の効果 日本語の「質実剛健な発音体系」は、「発話における安全性」を極めて高めていると考察することができる。実際に発話が行われる環境とは「静寂・近接・冷静の理想的な会話環境」とは限らない。日本語では、原則的に母音を合わせることで「少し遠くから1音ずつ叫んで会話すること」さえ可能としている。 日本語はかなり過酷な会話環境であっても、会話を成立させやすいと言える。しかも単純な発音体系のため情報量を増やす際にはさらに多くの音を必要とすることが、その安全性を高めていると考察できる。まして「静寂・近接・冷静の理想的な会話環境」では、もはや「通じすぎる」とさえ評価できる。 単純な会話ならば、ほんのわずかな音だけでも「なんの音であるのか」を識別しやすく、またその音からどのような言葉であるのかも推測しやすい。むしろ、必要以上の言葉を発されている場合には、「必要だと思って、あえてその言葉が使われたのだろう」とさえ感じることができてしまうと考察できる。 また「言葉の音を明晰に認識しやすい」ということは、「言われていることを逐次認識することができる」と推察できる。例えば「日本文化ではあいづちが多い傾向」も、言われている言葉に対して、逐一理解を表明して合図を出すことができる言語体系となっているのではないかとも推測することができる。 蛇足だが、日本文化に対しては「ハイコンテクスト」という印象論が使われることも多いが、そのように評価される日本語文化を形成している大きな要因は、「文化的な統一性」という表層的な情報ではなく、もっと根源的な「言語的な安全性」、特に「発話における安全性」の影響を考えることもできる。 つまり「頑強な発音体系によって発話における安全性が標準的に高いため、相手の言葉を認識できるまでの・標準的な意思疎通のために必要な音の量が少ない」という現象から、日本語文化において大量の情報を発する必要性が減るという仮説である。比較対象として、英語やドイツ語との対比を示せる。 これは「繊細な発音体系なら短く多彩な言葉を作れて、それによって短い言葉でも多くの情報伝達をする発話が可能になるであろう」という想像上の理想が裏切られる考察である。しかし「人間は繊細な音を完璧に使えるわけでも聞き取れるわけではない」という実情から、それは想像上の理想だと言える。 また日本語の言語体系は、発音体系も言語構造も「言葉を言葉として識別しやすい」と説明できる。その「言葉の認識しやすさ」が、文化的な知識的背景、知識基盤の形成にも良い影響を及ぼしているのではないかとも推察することができ、それが意思疎通の効率性をさらに高めているとも想像できる。

目次  ##### 日本語文化:頑強な発音体系と言語体系 日本語の発音体系の頑強さの例として、象徴的な現象を上げるのならば「食事中、口に物を入れた状態でも、発話の成立する可能性が現実的にある」という事例を示せる。口内の操作が制限され、発音の形成がほとんどできていない状態であっても、多少できていれば、通じる可能性を確認することができる。 実際に何かを食べながら喋ることは無作法な振舞いであるとされるため好まれる行為ではないが、日本語は不完全な発音でも「音の数」と「音の傾向」が明晰であれば、言葉の推測を試みやすい言語構造となっている。内容が予測可能な状況であれば、[ん:n/m]の連続でも言葉の連想を試みることができる。 この性質は「言葉の複雑性によって、うやむやにされてしまうことを抑制しやすい」とも推察できる。つまり日本語では新しい言葉を聞いた場合、その記憶のしやすさや再現のしやすさによって、言葉の定着として定着しやすく、分からなくとも聞いてみたり調べてみたりしやすいという学習性が確保される。 日本語体系では多少不正確な形でも「1つの言葉として再現すること」がしやすいため質問として成立しやすく、推測もしやすいと言える。また基本的な発音を正しく聞き取れる段階になれば、発音と表音文字が高い統一性を持っているため辞書などを調べることもしやすく、理解して使える言葉になりやすい。 英語などの場合、まず「口内の操作が不自由だと、発音可能な言葉が著しく制限される」と言える。しかも文章構造として「高密度の情報が、少ない音節で発話される」ため、推測範囲を限定することも著しく難しい。不完全な発声に対しては、極端に予想可能な言葉でなければ理解が難しいと考察できる。 また英語などでは「聞き慣れない言葉」に対して、それを自力で再現することが容易であるとは言い難い。会話の最中であればもう一回言ってもらったり、「雰囲気で聞き返す」という事も可能だが、その場で確認することのできない状況で、後からその言葉を調べることが著しく難しいと考察できる。 しかも、英語は顕著に「字と音の不一致」が著しいため、言葉の認識があいまいな状態では、それを自力で調べることさえも簡単ではないと推察できる。あるいは、全く異なる言葉へ到達してしまって誤解する危険性も増えるとさえ考察できる。英語は「親身な教師」の存在がその語彙力に大きな影響を与える。

目次  ##### 日本語文化:同音異義語と誤解の回避 日本語では特に「同音異義語が多い」と説明され、その区別にアクセントやイントネーションによる識別を行っているという実態に対して、難しい要素として説明される。しかし、日本語の実用において、実際に同音異義語で混乱が発生する状況は限定され、判別が可能な場合も多いと言える。 日本語文化では法則として「話題」という前提が設定される。「話題」は暗黙によって設定されることもあるが、必要に応じて明言されるもので、そこに難解性は無い。「残存している同音異義語」は基本的には、異なる場面で使われてる単語同士であり、場面ごとに対応する言葉を連想して理解される。 また日本語の言語体系では、発話の最中にも自然と「補足説明」を入れやすく、「難解な言葉」や「誤解の可能性がある言葉」に対して、逐一意味を示して認識を共有することもできる。より正確な意思疎通には言語への慣れも必要ではあるが、それが必要なのはあらゆる言語において同じことである。 日本語は文章構造と単純な発音体系によって「推測するべき範囲が狭い」ため、「近似する音にひっぱられて誤解する」という問題もかなり抑制されている。そもそも言語の普遍的な法則として「誤解する恐れの高い言葉遣いは自然と対処される」ため、一般的に困らない使われ方で実用されている。 どうしても混同する可能性が高い場合には、特殊な言い換え語によって直接的に区別する作法を持つことも多い。[科学]=(Science)と[化学]=(Chemistry)は日本語において同じ[かがく:kagaku]という読みを持ち、使われる場面も非常に近いため、言い換え語として[化学(ばけがく):bake-gaku]とも発声される。 もしくは[Chemistryのカガク]などのように異なる言語を使って説明的に発話することもある。また日本語の補足説明のしやすさとして文章構造が柔軟なだけではなく、「シンプルかつ伝わりやすい体系を持った、和語による幅広い表現力」が整備されているため、情報の方向性を直感的に明示しやすい。 なお、典型的な[はし:橋/箸/端][あめ:雨/飴]などの語はアクセントだけではなく、その使われる場面や言葉としての使われ方が大きく異なる。文化的な使われ方として、例えば[おハシ]は高確率で[お箸]のことであり、[ハシっこ]は語彙として[端っこ]である。[アメちゃん]は高確率で[飴ちゃん]である。 もちろん、他の言語と変わらず、日本語においても自然な実用において完璧に誤解を防ぐことができるわけではない。また例えば、発音上の区別が不可能であり、しかし一般的に使われにくい語である[公爵]=(Duke)と[侯爵]=(Marquis)の、会話上での識別が難しいといった例も存在する。

目次  ##### 英語文化:近似した言葉の存在 比較として「同音異義語になっている言葉」や「聞き間違いやすい近似した音の言葉」という点では、英語もまた非常に多い傾向を観察することができる。非常に繊細な表現語を使い分けているだけではなく、多数のルーツを持つ言葉の複合した言語体系のため、音の近接への配慮が弱い状態で整理されている。 また旧来は異なる発音であったはずの言葉が、おそらく言語の普遍的な法則に基づいて「自然な発音のしやすさ」を求められた結果、言いづらい要素や聞きづらい要素が消失していき、元々の発音から単純化されてしまっていることで、「同音になってしまっている言葉」が非常に多く存在すると推察できる。 現代の英語はその実態として[right/write][to/too/two][night/knight][flour/flower]など、非常に多くの同音語を確認することができ、しかもそれらは一般的な語彙として使われる範囲にも多く存在している。英語文化でも、それらを言葉の中の位置づけなどから判別できることで、実用できている。 また英語には「同じ音として認識されている語」だけではなく、「わずかな違いしかない近似した音の言葉」と言える、聞き取りに慣れていない人や聞き取れない状況では「実質的に同音となる語」も多いと説明できる。丁寧な発音では無い場合、特に「推測的に聞きとる」ような状況が増えていると言える。 英語において、作法として強い形式性が求められるのは、言語体系として「音の近い言葉」が多数混在している状態でも、「語順による言葉の立場の明確化」「文章を構成させることによる単語の追加」によって、言葉にかかる情報量を増やすことで推測可能性を高めて、理解しやすくしていると推察できる。 やや強い説明になってしまうが、実態として「繊細な発音によって多彩な表現を使うことで、効率的な意思疎通ができる」という理論上の効率性は、実用においては判別可能になるまでの十分な情報量が求められていまいやすく、理論上の効率性は実質的に理想論だろうと想像できてしまうわけである。 英語が「高度な知識層が静かな部屋の中で使う環境を想定した言語体系」と見える想像は、英語の持つ性質を説明しやすく、そして実用においては「より頑強な発音をしやすい単純な単語に集中することで、日常的な意思疎通の可能性を確保している」という説明によって、英語文化の傾向も理解できてしまう。

目次  ###### 英語文化:癖に対する脆弱性 ([追記A-2]) 「英語における聞き取りの困難性」について、さらに難しい要素として「地域別の方言性」や「個人の発音の癖」を考察できる。言語の発音とは完璧な発音の継承・共有に、その繊細さに応じて丁寧で膨大な教育指導の手間が必要となる。そして英語は言語として、やや繊細な発音体系を実用していると言える。 英語の発音体系は、長い時間と手間をかけて丁寧な教育指導が実施されなければ、十分な発音の精度を確保することが難しく、実際の教育現場においても「発音の矯正」は必要として実施されていると観察できる。しかし英語は極めて急速に広がったことで、発音の共有が完璧ではない状態が一般化している。 英語は極めて広範囲で実用されているが、人によって発音のルーツや癖が異なるため、実際に発音される音のブレ・ズレが多く確認できる。英語では、実態として「同じ言葉でも別の人だと発音が明らかに異なること」は珍しくなく、英語話者同士でも言葉の識別が難しくなる場合が明確にあると説明できる。 更に問題を深める要素として、英語では「近似した音の言葉」も多いことで、「異なる人が発した言葉が、同じ発音に聞こえる場合でも、発言しているつもりの言葉が全く異なる」という状態も発生する問題がある。「全く違う言葉として認識してしまう」という危険性は、英語でも存在すると言える。 そうした不安定な発音の環境が公然化しているために、一般的な実用範囲において「近似した音の言葉」は「事実上の同じ音の言葉」という認識で、言葉が識別されていると考察できる。そのように整理した場合、英語の持つ「事実上の同音異義語」は著しく膨大である、と説明することができる。 こうした問題に対して、英語文化は、日常では「発音の多少のブレが問題にならないほど分かりやすく簡単なフレーズを主要な日常語として使う」、必要に応じて「フレーズではない場合は、使っている言葉を高確率で識別できるだけの、多くの情報を提示する」という対処法が実施されていると説明できる。 そのような観点からも、英語において実施されている「文章構造の形式性を強める作法」は、ただ単純に言葉の情報を増やしているだけではなく、文章構造そのものを「言葉を推測するための1つの情報」として扱えるように形成されている対応策だと整理できる。そのように実用されていると考察できる。

目次  #### 日本語文化:発話の効率化 日本語では「質実剛健な発音体系」によって、実用される発音において著しい省力化が行われている。「単純だが明晰な音を出さなければならない」という発音体系ではあるが、言語としては判別できる音が発声できれば十分であるため、「単純性によって必要となる発音の強度の水準が低い」と説明できる。 また日本語の標準的な発音では、英語の[F-][V-]の音のように「唇と歯を合わせる形」、また英語の[R-]の音のように「舌を大きく動かす形」、英語の[Th-]の音のような「舌を歯先に触れさせる形」などが標準的な発音の中には無い。これは「発生に時間のかかる音が抑制されている」とも説明できる。 日本語の標準的な発音では「唇を必須とする発音」が、基本の形には[m-:まみむめも]しかなく、残り[h-:はひふへほ]の変形として分類されている[b-:ばびぶべぼ],[p-:ぱぴぷぺぽ]と、これらの合成音[みゃ/びゅ/ぴょ]しか存在しない。[n:ん][m-/b-/p-]が直前の時に発音の流れから[m:ん]に変化する。 そうした発音の性質から、日本語の標準的な発音は「わずかな舌の動き」と「たまに口を閉じる動き」によって構成されている。ちなみに日本語の[r-:らりるれろ]は、英語の[R-][L-]に近い音とされるが発音は異なり「英語の[D-]に近いが接するのは舌先だけ」と説明できる発音になっている。 また[aiueo:あいうえお]の母音は、直前の発音の流れから「長音化」する発音法則が成立している。しかし日本語は「1音ずつで区別して発音する」という発音体系によって、「音を1拍ずつで識別する」という感覚性を持っているため、言葉の流れのなかで1拍か2拍以上かで短音/長音を認識できる。 さらに日本語は「子音だけで音を区別することが無いため、実際は子音のみのような発音でも、母音を想定した1音として認知される」という法則性があり、「厳密に分析すると子音のみで発声している」という状態が存在する。例えば標準語の語尾の[-です/-ます]は、発音上[-des./-mas.]で発声されている。 日本語は単純な発音体系として「丁寧な発話」が可能な体系として整備され、それから発音が効率化されていったことで、著しい「高速な発話」も可能な発音体系が成立している。標準的な会話においても主要な言語の比較研究において時間当たりの区別可能な音の総量が多いというデータが確認されている。 単純な発音体系とは本来「音当たりの情報の密度」は大きく損なわれると言われる。音による細かい識別力が低下するために、情報効率は下がりやすいと考察しやすい。しかし、会話の情報量の比較調査で「時間当たりの情報量」ではどの言語も近い水準に収まるデータであったと言われている。

目次  #### 日本語文化:発話の表現力 まず自然な言語として「アクセント」が自然な会話の中で言葉の推測可能性や認識性を高める形で習慣的に自然と形成される。その性質は大きく3タイプ「強弱・ストレス」、「高低・ピッチ」、「長短」であり、「ストレス」には「長短」も内在している場合もある。そして日本語は高低アクセントである。 しかし高低アクセントは使われているものの中国語の声調とは違い、日本語では絶対の不可欠な要素ではなく、方言差も大きい。言葉の識別に有効でも「参考として使えれば便利」の要素に収まっていると言える。日本語は、癖を包摂できる言語体系の基盤によって、アクセントは補助的な立場であると言える。 そうした言語体系から「発声における表現の制約」が著しく緩いと考察できる。言語の普遍的な法則として、発話の印象から社会的な情報を読み取ることは世界中の自然言語で存在するが、日本語では物理的な自由度によって、発話に印象が表れてしまいやすく、その表現力が拡張されていると整理できる。 日本語文化では、発話における「演技的な感情の表出」や「歌唱的な印象の表現」が著しく広く、また繊細な効果を持つと考察できる。標準的な表現法から逸脱した場合でも、言葉の認識そのものが崩壊しづらいために、「言葉として伝わりながら、その表現が逸脱した状態にある」という形で理解される。 例えば、言語の比較の中には、他の言語を聞いた場合に自然に喋っている音であっても「怒っているように聞こえる」などのような感想が見られる。発音の印象にはそうした印象が存在していることと、言語の発音体系によって「発音の基本的な印象の表現力が制限されてしまう」という事が理解できる。 日本語でも、他の言語から聞いて偏った印象を聞き取る場合もあると言えるが、日本語文化の中で、発音の状態を大きく変容させてもいいという言語構造としての余地が大きいため、[声色]=(tone of vioce)による表現の実用が繊細で幅広いと考察できる。印象という社会的な情報が効果的に実用されている。 「声の表現力」の豊かさは、通常の言葉だけではなく、日本語表現において多く存在する「擬態語」も、日本語の発話の自由度によって言葉の印象を増幅させることがしやすく、そのようにして効果的に機能していると考察できる。擬態語がただ使えるだけではなく、効果的に使うことができると言える。 他にも、日本で芸術活動が広がる時代には「[話芸:wagei]」という芸能が発達している。これは「言葉を巧みに操り、話し方によって多彩な印象を作り、聴かせる芸能」であり、その内の「落語」では「ひとりによる喋りと最小限の身振りで、しかし話者という認識さえ忘れさせる1つの芝居」を成立させる。

目次  ##### 日本語文化:擬態語や音の転写 日本語文化は「音の区別が単純な、粗い分類で実用している」と説明できる。しかし、むしろ、その単純さで実用するために形成された冗長な言語構造と、音の単純さによって大きく変化させても伝わりやすい安全性を基盤として「実際の発声による表現力を極限的に活用できる言語文化を持つ」と説明できる。 その言語基盤によって、日本語では「現代文明のための言語として高度に整備されている言語体系」の中では、例外的に「擬態語」が著しく多いと説明される。また「擬音語」も著しく豊富であり、日本語文化の特徴として「擬音語・擬態語」、総じてオノマトペが非常に幅広い傾向を持つと説明される。 補足しておくが、高度に整備された主要な言語では「擬態語」が限定的な傾向を確認できる。推論としては、言葉として知性的ではない漠然とした表現が削られやすかったり、言語構造の中で音の表現を実用できる領域が限られやすいために、細かい「擬態語」がとても減少しやすいと推察することができる。 しかし日本語は「どのような言葉でも、日本語の言語基盤で、文章の最中に入れることができる」という柔軟かつ強靭な言語構造を持つため、音だけを表している「オノマトペ」も一種の表現語として常用されている。しかも日本語のオノマトペには複数の「オノマトペ的な表現の体系」を観察できる。 日本語の「オノマトペ的な表現の体系」として[ふわふわ][ふわっ][ふわっふわ][ふわ~っ][ふわり][ふんわり][ふ~んわり]など、同じの音でも細かい言い方の違いによって印象の違いを言い表すことができる。実際の発話では「印象に合わせた発音」をすることで、印象を強調して表現される。 また日本語は、文書的な表現においても著しく自由度が高いと説明できる。日本語ではオノマトペという「自然な音や印象を、言語の音によって言い表す」という文化があり、それが文書へも展開して「音を文字へと転写して書き表す」という表現法は、非形式的な場面では広く一般的に常用されている。 日本語が「聞こえている音を基準として、文字を表記する」と言える言語体系として整備されている文化性も、オノマトペの表現法を柔軟に実用することのできる基盤となっていると説明できる。当然、こうした言語感覚が「外国語からの日本語での仮名文字表記」を実現する基盤にもなっていると整理できる。 日本語は音の印象を重要とした、非常に身体的な感覚にも根付いた言語体系であるとも説明できる。より詳細な考察をするのであれば、「古い話し言葉の語彙体系が、大部分で当初に近い状態で維持されたまま継承されてきた」と言える性質は、多くの言葉の「音象徴」も強い傾向にある可能性を想像しやすい。

目次  ##### 蛇足:日本語文化:文字の印象による表現力 「声の印象」によって非常に幅広い情報を実用している日本語文化では、「文字を使った表現」への文化的な要請も強く働いたと考察できる。より多彩な文字表現の活動が広がっていくと、日本語の文字文化ではやがて「文字の姿によって印象を書き表す」という表現法を劇的に広げていったと説明できる。 文字の印象を使う表現技法、という概念そのものは世界中の文字文化でおおよそ広く見ることができると言えるはずである。しかし「印象を強調するためだけの芸術性を強めた姿の文字」という「知識から逸脱した表現」が文字文化において広く許容されるのは、おそらく近代化以降であると考察できる。 しかし日本語の文字文化において、まず「言葉の持っている印象をそのまま書き記したい」という文化的な要請から、日本最古の歴史書から既に「歌の文字列を書き記す」という形によって実施されている。やがて整備された仮名文字によって「やわらかい文字と日常語で書き記す」という記録が残っている。 当初の段階ではまだ「文字の姿自体での表現」ではなく「技術的な使いやすさによる使い分け」であると説明するべきだが、「文字表現における自由度」が非常に古くから存在していたことを示せる。文字の姿の表現法の大きな展開は、近代化以降、ほぼ現代にかかる段階に入ってからであると説明できる。 日本語の文字の姿の表現において、最も象徴的な表現は「マンガにおける効果音の表現」である。これは音を表した文字であると同時に「音の印象を視覚的に表す芸術的表現」によって記されている。勢いのある音なら勢いの印象を与える形で描画され、柔らかい擬態語なら柔らかい印象の形で描画される。 日本語文化には「擬音語」も「擬態語」も多く存在していることで、音の文字表現そのものが非常にしやすく、これを極限的に活用する表現法として「マンガにおける効果音の表現」を示すことができる。また「文字表記を用いた表現法」そのものは、機械的な印刷や、デジタル表示においても追究されている。 代表例として[私/わたし/ワタシ]の文字列は基本的な発音の内容としてはおおよそ同一であると言える。しかし文字の印象として「[私]はフォーマルな立場を持つ表現」「[わたし]はやわらかい印象によって可愛さも、か弱さも感じさせる表現」「[ワタシ]は主張の強さを感じさせる固い表現」などに変化する。 更に拡張して書き表すならば[ワタシ][ワタシ]でも、その印象が全く異なる。機械的な表記における「[アイウエオ]の表記」は「半角カタカナ」という文字体系であり、「横書き」でしか使えないため一般的な表現ではないが、見た目の印象として非常に窮屈さを感じさせ、「高音で早口な発音」が想起される。

目次  ### 日本という地域:共存を強いる環境への適応 日本は丁度良い距離感で漢字を輸入することができたなど「文化的に恵まれた」と説明することもできるが、しかしそれは「日本の歴史において生き残ってきた人々の努力」の不在として説明するべきではない。日本という地域は、もはや「不幸の存在にも恵まれていた」とさえ説明するべきである。 日本の社会とは「恵まれた地域環境の結果」かもしれないが、しかしその上に成立している日本社会とは、奇跡や魔法によって導かれてきた結果ではなく、あくまでも人間的な現実の努力を積み重ね続けてきた結果として実現しているものであると説明するべきである。だからこそ日本社会は高い安定性を持つ。 日本という地域は、その環境によって「協力しなければ生存が危うくなる」という「不幸に恵まれること」で、限られた集団による支配構造の拡大を拒絶した。季節の変化に対する計画性を持った生活を強いられ、また統治者もその立場を守るために災害への備えを含む長期的な計画性を強いられてきた。 古くは農耕に適した土地も限られ、安定した生活のために土地を整備しなければならず、開墾も管理も多くの人々と協力する必要がある。そうした環境から、使われる言語さえも実用に基づいた整備によって、多くの人々が使いやすく、また致命的な失敗を回避しやすい様式の言語が形成されたと整理できる。 日本という社会は、むしろ「人間が使う技術への、神秘の介在を可能な限り拒んできた」とさえ考察できる。日本社会にとって、神秘とは「今の人間にとってどうにもならない領域への心理的な委任」であり、しかし「人間の手でどうにかしうるのであれば、人間がどうにかする」ようにしてきたと考察できる。 つまり日本社会とは「人類が協力的に努力と知識を積み重ねをし続け恒久的に社会を発展させることを強いられるような地域環境であった場合に、どのような社会が形成されるのか」という条件によって生じた環境であると説明し得る。日本社会は、その歴史上の連続的な積み重ねの上に、成立している。 地域に存在する自然環境という破滅的な災害への備えを強めていくことによって、地域の外側から襲来する破滅的な危険が訪れるよりも先んじて強固な社会体制を形成し、歴史的に「日本社会」を維持し続けていった。特殊な事例であると説明するべきであるが、しかし「奇跡や神秘ではない」と言える。

目次  ### 日本という地域:「言語の地政学的な関係性」の特殊性 「言語の地政学的な関係性」において、日本が「世界の中心的な存在から、あまりにもかけ離れた位置に存在する地域」だと説明できる一方で、その社会の実態として世界の中心的な存在から文明的に大きく遅れているわけでなく、むしろ一部において世界に比肩する場面も存在しているとも説明できる。 現代では日本国内において整備されている技術などが、外国において求められるような状況も確認することができる。日本からの最も大規模な輸出品は「自動車」であり、現代の高度な技術の複合体が評価されていると推察できる。他にも「半導体関連」という、先端技術の分野でも多く輸出が見られる。 日本社会は「言語の地政学的な関係性」において中心として存在している「英語」の体系を、おおよそ基盤として実用するのではなく、あくまでも「道具の一部」あるいは「参考とする外国語の領域」とし続けながら、日本語の自立性を保ったまま、高度な技術を安定して運用していると説明できる。 そしてその社会が成立する理由を、「日本という環境に対する、人類としての抵抗の歴史」から「多くの言葉を記録し、多様な書記体系を実用しながら試行錯誤していき、実用に基づいた整備をし続けていったことで、現代文明においても十分な機能性を持った体系として形成されていった」と説明してきた。 日本語は、「歴史的に見ても均質な言語背景であったとは言い難い日本という地域」において、共有と教育を進めれば多くの人へ使わせることがしやすく、また多くの人が身近な教師になることもできて、さらに多くの人が使えるようになっていく、と言える性質を持った言語体系であると説明できる。 その共有性で実際に、近代化における体制の整備でも、わずか1~2世代程度の短期間でおおよそほぼ国内全域への標準語知識の普及を実現したと説明できる。さらに日本語は、ただ覚えやすいだけではなく、同じ言語体系の学習を進めていくことによって、徐々に高度な応用へと進んでいくことができる。 また歴史的な経緯として「和語体系」と「漢語体系」という異なる言語体系が実用に基づいて、複合した様式で整備されていったことで、「外来の語彙も包摂しやすい言語構造」も形成され、近代化においては大量の外来知識を「日本語」として整備して、それを国内において普及させることもできたと言える。 その言語体系によって、近代化によってほぼ国内全域へ整備された教育体制は、基礎的な教養を持つ人材の育成を実現しただけではなく、高度な知識体系へと進める人材も効率よく育成していったと推察でき、その教育によって「現代」の範囲で、社会規模を急速に成長させていくことを実現したと整理できる。

目次  ### 日本という地域:社会的な安定性について なお日本地域の社会的な安定性の背景として、言語が非常に大きな役割を果たしていると考察できるが、社会性は言語によって助けられていると考察できるものの、言語だけに由来するものではないと説明するべきである。「社会や世界、他者を理解するための手助け」にはなるが、理解するとは限らない。 特に大きな影響を及ぼしていると推察できる要素としては、日本語文化では幼少期から多くの物語に触れさせる文化がある。家庭による差はあるものの、古来の昔話や、おとぎ話など、早くから読み聞かせする習慣を持つ家庭は多いと言われている。幼児教育や、基礎教育において、必ず物語に触れさせていく。 それも、子供へ触れさせるおとぎ話の多くは、日本文化の精神性が反映されている物語であったり、外来の物語でも日本文化の精神性に適合する物語が主に使われやすい面なども考察もできるが、加えて純粋に「触れる物語の総量」自体が、「想像上の疑似的な社会経験」を積み上げていくとも推察できる。 また日本語の言語体系は、子供が簡単な文字を識別できるようになる段階が早く、そこから非常に短い距離で、自力で簡単な絵本などを読めるようになっていく段階へと早期に進んでいくと説明できる。やがて言語能力が成長・発達していけば、多くの本から自力で情報や物語を読めるようになっていく。 日本の制度教育では1年目から子供たちそれぞれに書籍を所有させ、子供自身で本を読ませながら教育を進めていく。そのように日本語文化で育ち、より多くの物語へ触れていくことで、深い情操教育が進んでいくと推察できる。日本文化では、多様な哲学・思想の表層へと触れていることも多い。 あるいは日本社会では、制度教育の中で、多数の子供を集めて行動させることで、集団における作法などを体験させて学ばせていると考察できる。特に、日本の一般的な基礎教育では「掃除」という、学力とは無関係な「共同作業」が日課として実施されている。知性だけではなく、人間性が求められる。 ちなみに「日本の教育基本法」では第一条の「教育の目的」において、「人格の完成」や「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」、そして「心身ともに健康な国民」といった名目が規定されている。教育の理念において、国民が社会で生きていけることを、目的として提示している。 なお日本語の言語体系による「音の伝わりやすさ」は、子供との意思疎通や、子供たちの意思疎通において、効果的に機能していると推定できる。初期においても「相手の言葉を理解しやすい」と想像でき、成長すれば「説明を試みやすい言語体系」が、双方向的に社会性の成長を助けやすいとも想定できる。

目次  #### 日本という地域:「教えやすさ」 日本語では「説明を試みる」ということが非常にしやすい。言語体系によって断片的に情報を並べていくことが許されているため、非常に粗い水準から情報共有を実施することができる。また必要に応じて、ただし言語的な技量が許す限り、詳細な情報を説明することがしやすい言語体系であると説明できる。 標準よりも少し優秀な領域に限られる話ではあるが、この機能性は「教師が生徒へ教えやすい」というだけではなく、「優秀な生徒が、同じ生徒へと教え合いやすい」と説明できる。ほんのわずかな部分から教え始めることができ、そして分からない所は互いに考えながら進めていくこともできる。 特に「完璧に説明すること」ではなく「説明を始めやすく、情報共有をしやすいこと」という性質から、日本語社会では、知識の「横の繋がりへの伝播」が実現しやすいと説明できる。教師だけに注目させて、教師の知識を生徒へ伝授していくだけではなく、生徒同士がその確認を進めやすいと言える。 日本語文化では「学習の環境」として教室などで、教師から教わる、個人で教科書などから学ぶ、という形だけではなく「近い生徒同士で勉強する」という文化が効果的に機能しやすいと考察できる。また教師でも、学校外で「年上の学生が、年下の学生への家庭教師になる」という方式が一般的に見られる。 学生間の家庭教師は、教師側にとって「学生の身分でも教師役になることで、自らの知識体系の再確認と整頓を実施する」という機会になり、教師側も更なる発展的な学習への地盤を整えられる利点を考察できる。こうした文化が形成できることで、非常に広い知識社会を実現していると考察できる。 もちろん、そうした「知識の横のつながりへの伝播」や「横の教育」と言える現象そのものは、他の国・他の地域でも発生するものであると言うべきである。どの言語・どの地域であっても、高度な教育を受けている人であれば教えられる側になっていく。これは普遍的な文化であると整理できる。 しかし日本語文化では、日本語の言語体系によって、知識の基礎的な共有のしやすさや、また伝授の成功率は高い傾向にあるだろうと考えられ、その「横の教育」を実施しやすい環境が形成されていると推察できる。そうした文化背景から、教育方法への社会的な蓄積も、深くなっていると考察できる。

目次  ##### 日本という地域:「見て覚えろ」「観察して学習しろ」 日本語では「説明を始めやすい」と説明できる一方で、日本の技術的な教育などでは「見て覚えろ」と言われる様式が常態化している場合もある。「技術は見て盗め」では説明が不十分で、好ましくない非文明的な風習と揶揄されることも多い。しかしながら「説明できるとは限らない」という事情も多い。 まず繊細な技術の詳細とは厳密な言語化が困難であり、またたとえ厳密な言語化をすることができても、その言語化に対して受け手側の理解が保障されるわけではない。また言語を介した説明ばかりでは必要とする情報量の分だけ時間がかかる一方で、表層的な理解に留まる危険性も高いと言える問題もある。 日本語文化では「言語の限界性」が理解されやすい。身体を使う高度で繊細な技術では、言語的な情報で分かる範囲だけでは不十分であり、より身体的で感覚的な学習をしなければならないことも多い。特に、的確な言語化は効果的な学習を促進するが、不正確な言語化は成長を妨げる恐れがある。 そのために日本語とは「言語を使って教え合いやすい言語体系を持っている」と説明できる一方で、だからこそ「言語では説明しきれない、言葉では教えきれない領域の存在」も強く認識されていると説明できる。言語化が難しい部分・言語化しての共有が難しい部分において、不正確な言語化を避ける。 もちろん「必要かつ的確な言語化」は学習効率を向上させるため、可能な範囲において積極的した方が理想的であると説明するべきである。しかし、特に技術者と素人では認識や知識背景が大きく異なるため、的確な言語化による共有そのものが簡単なことではない。精度の高い教育は、特殊な技能である。 社会的な規範性などにおいても、かなりの部分で「見て学ぶ」という必要性があるとも説明される。しかし社会の規範性とは極めて広範囲かつ複雑なため「不正確な言語化」や「不完全な言語化」になってしまいやすいと言える問題が現実的に存在する。「言われてないから問題無い」とされる危険がある。 特に日本文化における社会の秩序とは「権威的な秩序」によって成立しているものではなく、「妥当な振舞いを、各自が判断することによって形成されている」と説明するべきである。与えられている強い秩序があるのではなく、個人の判断へ委ねられているからこそ強い秩序が形成されていると言える。

目次  #### 補足:日本という地域:日本文化における社会体制 日本文化の傾向の印象として「保守性が強く変化を好みにくい」と説明されやすい。しかし、その根本は「社会体制として安全性を考慮する必要性が現実的に存在する」という事情がある。日本という地域は、稀に破滅的な自然災害が無慈悲に発生する地域である。それが文化的な保守性の心理も説明できる。 欧米社会においては「理想に基づいて急進的な変革を進めることが文明を前進させる」という思想が社会的に強い傾向が見られ、しかしそれによる社会的な不安定性を経験しながら、つまり「人々に負担を強いながら実験的に社会運営をしている」と説明することができる社会運営の体制である。 しかし、欧米社会において「それが可能であった」のは、「それを可能とするほど余裕のある環境的な安全性と優位性」が存在していたからである。「人々に負担を強いても、社会が破滅しづらいくらいには安定した地域環境」があったからこそ、急進的な改革を許容できたと考察するべきである。 例えばフランスは、共和制へ移行する歴史的な革命において、著しい社会的な混乱があっても、その主権を守れる環境であった。だが世界的に見て、社会的な混乱から一部あるいは全ての主権を奪われる例は、世界史を見渡せば少なくないと説明するべきである。欧州においても珍しくはないはずである。 一方で、日本においては、人為的な混乱が無くとも破滅的な自然災害によって度々社会が大きな負担を受ける地域環境であり、「社会を安定させた状態でなければ、恒久的な維持に大きな支障を及ぼす危険性がある」と整理できる。そして、社会機能が失われることは、日本地域では生存条件の喪失になる。 ちなみに、日本社会は「中央集権型」と言われやすいが、社会構造の実態とは「多層的責任分散型」である。実態は「全域の統括的な責任を預かる中央の権力者」と「各地域の責任を預かる権力者たち」が複合した社会構造であり、その構造によって「地域の災害などへの段階的な対応力」を構築している。 整理するなら、非常時において対応する立場にある者とは、まず現地において判断できる人々であり、現地の力の範囲を超える場合に地域を管轄する層が助け、そして「地域の力を超える場合には、中央がその責任と権力に基づいて対応を実施する」という社会構造・社会体制として説明できる。 中央への集権は「全域の統治の責任の大きさへ、権力が相応に拡張される」という物理的な事情も関わると言える。災害対策を含む総合的な強靭化には、複数の地域に及ぶ横断的な実施が必要な部分もあり、円滑な実施には中央の権力が公然化を求められる。その構造を調整もし続けながら、運用されている。

目次  ##### 補足:日本という地域:日本文化における社会性 日本文化の傾向の印象として「保守性が強く変化を好みにくい」と説明されやすい。しかし、災害などにおける一般的な人々の振舞いは、高い規範性を維持する。むしろ一般的な人々であっても「社会的な安全性において高い統率を維持しやすい」とさえ説明できる、「変化への耐性」が存在していると評せる。 比較として、日本以外の世界を見渡せば「非常時における振舞いの無秩序さ」は珍しくないとさえ説明しやすい。欧米などであっても、非常時において十分な規範性が維持されているかといえば疑うことのできる様子も観察できる。「与えられた秩序が失われた状態への耐性」は、多くの地域で当然ではない。 日本文化・日本社会では「社会とは、暮らしている人々が協力して構成するものである」という前提が存在し、それによって「社会の維持に対して、個人が当人の範囲の責任を有する」という文化的な合意がある。もちろん、日本でも確実に全員が秩序を守るわけではないが、一般的な水準は高いと観察される。 典型例として、2019年頃から発生した世界的な感染症における民衆の対応力には地域によって著しい差が見られたことを振り返ることができる。日本では古来から疫病対策の必要性が存在し、防疫的な風習を持っていたことも大きいと説明できるが、疫病の歴史は世界中に存在すると説明するべきである。 日本文化では「社会が、人々への責任を果たさなければならない前提と理解」が機能しており、それに基づいて「社会がその責任を果たすために、人々は社会を安定させることに努める」という相互関係が成立しているとも説明できる。「社会が自分を守る」という信頼によって「自分が社会を守る」となる。 また日本文化では「変化を好みにくい」とされるものの、その実態として「社会的な安全性のための前進」だと理解される部分においては、むしろ著しく積極的であるとさえ説明できる。また安全性への理解を前提とするものの、「安全性を強固にするための社会的な効率化」においても貪欲だと観察できる。 例えば日本における歴史的な交通網や交通手段の整備は、人々の暮らしを劇的に変化させていったと説明するべきであるが、これは「物流機能の拡充」という社会基盤の強靭化を大きな根拠として積極的に実施されている。社会的な利便性だけではなく、災害時の必要物資の輸送経路などに重要な役割を持つ。 そのように「非常時でも人命が損なわれない社会体制と社会規模への発展」の先で、社会的な余地が十分に確保されることで、人々は個人の希望が社会の範囲において許されるようになり、社会の下で人々の本質的な自由が守られるとも考察できる。その社会によって、日本は豊かな文化を持つと整理できる。

目次  ### 日本という地域:表現文化の多彩さ 日本文化では、表現文化が非常に多彩である。純粋な言語芸術としての詩や和歌、小説などの物語、その他文章を使った様々な表現。視覚芸術においても絵画、書道、工芸、建築、写真、その他様々な芸術。絵本、マンガ、あるいは教養書。音楽も民族のルーツにとらわれず様々な表現技法を集積している。 舞台芸術もまた広く存在し、古来から継承されている舞台芸術や西洋からの舞台芸術、音楽ライブ、あるいは落語や漫才などの話芸。映像芸術において映画、「アニメ」もまた多彩である。超総合芸術の領域としてのゲーム。その他、様々なデザインや作法。1地域ながら、文化的な分厚さを見渡せる。 日本の表現文化を見渡す際に重要な視点とは「大衆芸術」が著しく多彩な点である。それはつまり「多彩な大衆芸術を受け止められるほどの社会規模がある」という意味だけではなく、「多彩な表現を受け止められるほど、大衆の文化性が多彩である」ということを意味している。豊かな文化基盤の広さを持つ。 そして多彩な文化を受け止めるためのもっとも根本的な基盤こそ、「言語」による情報の共有であり、そして「言語の不完全性の理解」である。日本は言語の表現文化が著しく広く、遥か昔の「和歌」や、文章による作品を確認できるが、であるからこそ「言葉では伝えきれない」ということも理解されやすい。 日本文化においては、歴史的な記録として最古の歴史書から「和歌」の体系が確認できる。「和歌」は基本5拍と7拍の言葉で作る短い詩の芸術であり、より細かくは「短歌」「俳句・川柳」といった枠組みが存在する。それは歴史的な連続性を持って親しまれ、現代においても新たな和歌が作られている。 しかし一方で「表現技法」に対して、日本文化は著しく貪欲である。古来からの芸術技法は存在したが、西洋から様々な表現技法が伝来すれば、それを吸収し、日本において表現することを試みてきた。映像芸術も、西洋の映画などから学び、日本において再構成し、それが世界への広がりも見せている。 また、日本文化において「文化が異なる」という現象そのものは、国内においても案外、珍しくない。日本という1つの地域であるために極端な違いがあるわけではないものの、一部において明確な違いを感じさせるほど「日常」の文化が異なる。日本文化における「異文化」への、心理的な耐性を考察できる。 日本国内だけでも多様な文化に触れることができ、文化の違いへの理解を深められる。一見著しく保守的な印象さえもあるが、その本質は著しい現実主義とも言える。心理的な壁が無いわけではないが、親しめる・楽しい・安全と思えれば、心理的な障壁は消失し、むしろ強い興味を持つ傾向さえ観察できる。

目次  #### 日本という地域:知性のゆりかご 日本文化においては、様々な芸術から非常に幅広い「哲学・思想」の表層を受け取ることができる。人間社会には、様々な表現が存在し、様々な思いが存在し、様々な人々が存在し、様々な考えがあるということを、日本文化においては多くの場合、自然と触れながら成長していくことになる。 制度教育の中においても「国語・算数・理科」といった実用的な学力だけではない多様な科目が実施され、加えて実用の「社会」だけではなく「音楽」や「図画工作」他といった表現文化までも標準的な教育の一部となっている。「国語」からも、教材として当然として言語表現にも触れながら学んでいく。 それは文化的な均質性を揃えるという意味ではなく、むしろ文化的な多様性を理解させる。表現文化に存在している多彩な考え方の表出は、大衆にその気持ちの受け取り方を意識させるとも考察できる。それは単純な規範性や道徳性の教育ではなく、倫理の点検、思想の相対化の訓練になっていくと言える。 表層的にはただ享楽的な娯楽として消費的な活動のようであっても、人々にとって娯楽とは心理的な健康、あるいは心理的な健全性を保つために働くと考察できる。もちろん健全な範囲において楽しむ限りであるが、娯楽の豊かさは人々の安定した幸福性を高め、そして人間をより活発にし、社会を豊かにする。 そうした文化もまた「日本社会の安定性」に大きく働いているであろうと推察できる。より分かりやすい効果を説明するならば、絵本からマンガ・アニメ、映画・ドラマ、音楽・舞台などといった様々な表現によって社会への興味を導かれ、より豊かな社会への原動力になっていると考察することができる。 なお、さらに考察するのであれば表現文化の担い手、特に大衆向けの文化の担い手はその出自が非常に多彩であると説明できる。最も代表的な例として、日本のマンガ・アニメ史において外すことのできない「手塚治虫」は「職業:医師」で、実際に医師の国家免許を持っていたことが有名である。 それ以外においても表現文化の担い手は、専門的な学校で専門的な学習をしてきた専門的な人間ばかりではないと説明できる。もちろん、例えば文学の作家では文学科を卒業している作家も多く見られる一方で、それ以外の出自から作家をする人なども珍しくなくいる。マンガなども同様である。 そうした社会一般において暮らしてきた「人間性」や、場合によっては「広い知識基盤」を持った人々、表現文化へと参入し、さらに豊かな表現作品を創出しているという社会背景を説明できる。世界的に有名な「鳥山明」もまた「工業高校」へ進学し、デザイナーという職業から、漫画家へ転身している。

目次  ## 「言語の地政学的な関係性」の有利と、限界性 英語は「最も広く使われている言語である」と説明することができ、その社会規模や文明水準においては、人類において最も巨大で最も高度な領域に存在するとも説明してしまえる。「言語の地政学的な関係性」において、英語は事実上の国際共通語として「世界の中心的存在」と説明することが妥当である。 特にネイティブに限らず第二言語として英語を使う話者を含めれば、最も話者数が多い言語である。世界中において、最も重要な言語として「最も多く学習されている言語」であり、それはつまり「最も大きな社会規模によって、学習への投資が実施されているはずの言語」だと考察することができる。 現代社会における実情として、英語学習・英語教育は非常に重要な市場であり、また母語とする英語圏の国家にとっては「国民の教育水準」や、それによって形成されていく社会水準という影響までもが存在するために、その学習法への研究や整備について膨大な労力と資金が投じられているはずである。 繰り返し確認するが、英語は、最も広く使われている言語であり、即ち最も広く学習が行われている言語である。そして、その社会規模は著しく巨大であり、経済規模においても莫大であり、そうした社会背景に基づいて、人類は尽力して「英語の学習法」にも多くのリソースが投入されているはずである。 しかし、英語圏の基礎教育において「自力で本を読めるようになる段階が、早いとは言い難い」という教育効率に留まっている実態が存在する。「英語圏の教育が著しく怠惰なのではないか」という仮定は、一般的な教育者たちの努力を軽んじる視点であり、現実的にこれを成立させることはできない。 もちろん英語は、現代における知識言語として高度に機能しているとも説明するべきである。非常に多くの人々によって使われ、また知識体系の基盤として機能している実態が存在する。世界中に存在する論文のほとんどが英語で執筆されているという事実から「高度な実用性」も一切否定されない。 しかし、英語の基礎教育では特に「文字列と発音の身体的な接続」の学習作業に長大な時間を必要とする。通常の文字列を見ただけでは必要となる発音さえも確定しない、また発音を聞きとっても表音文字の文字列へ復元することもできない。ついでに発音も指導による矯正が必要とされがちであると言える。 英語が言語体系として、特に文字体系への基礎的な学習において長い学習期間を必要とする要素を明確に示すことができ、またその社会規模において著しい怠慢があるという仮定も成立しない。これらの実態は、「英語に自律的な学習を始められるまでの学習に物理的な困難性があること」を強く示している。

目次  ### 例外的な学習 英語の基礎的な学習も「身近な教師」の存在によって、早めることは可能であると考察できる。ただし、それは「制度教育で必要とする学習時間を、短い期間で実施すること」であって、学習そのものを簡単にしているわけではない。学習意欲と、学習するための環境が揃えば、学習が進むというだけである。 子供の学習意欲を引き出して、またその意欲に応えられる「身近な教師」がいれば、学習に必要とする期間を著しく短縮しできる。そうすれば「言語的な能力の学習効率が良いとされる、幼少期での学習量を増大させること」も可能である。ただしこの例外的な学習は、どの言語であっても同様だと言える。 しかしながら、英語においては元々必要とする学習期間が長いことによって、理想的な学習環境によって生じうる神経系の物理的な有利の形成が著しく大きくなる可能性を想定できる。それはつまり、格差の是正の困難性を想像しなければならない。教育への尽力の有無は、人の成長に著しい影響を与えうる。 特に英語圏の子供たちでは、限られた多感の時期において「言語学習」へ多くの時間を奪われ、しかし英語に習熟しなければ理解できる表現を著しく制限される。言語の不全性とは、受け取れる情報が著しく制限され、人間的な可能性を大きく狭められてしまうという、人道的な問題になる。 もはや、教育環境に恵まれていない場合、現代の英語はむしろ構造的な不利を生み出してしまう可能性が想定されるものであるとさえ説明できてしまう。それは英語圏における、言語的な基礎技能の普及の水準も説明できてしまうものであり、つまり人道的な問題を考察してしまうことにさえなる。 「人道的な観点」によって、英語社会は、教育格差の是正のために更なる探究と尽力をし続けなければならないと説明できる。書くまでも無いが「十分な基礎教育」を受けられることは、国際的な合意において広く共有される基本的な人権の一つとして規定され、社会の努力の放棄は人倫において認められない。 その構造上「英語は第二言語として扱う方が健康的であり、理想的にはより学習しやすく、また出版物や表現文化の広い言語を第一言語とすることが人間的な成長を促されやすくなる」という整理さえもできる。そうした視点において、日本語話者は、英語を第二言語にできるなら理想的な立場だと想像できる。 ただし、日本語の構造が英語の構造と著しく異なっているという問題によって、日本語話者が第二言語として英語を学習することのハードルはかなり大きいと説明するべきであり、構造的に理想的な立場とまでは説明できない。結局、優秀な人間が幅広い活動を保障される、という構造性であると考えられる。

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目次  # 蛇足:「ハイ/ローコンテクスト」に対する推論 元々「ハイコンテクスト/ローコンテクスト」の説はおおよそ「印象論」をまとめたものであって、厳密な研究によって成立している論説ではない。これは非常に表層的な部分のみを分析しているような考察であるために、より実態の部分、特に物理的な部分の分析が不十分であることを推察できる。 「長年連れ添ってきたパートナーであれば、ハイコンテクストな意思疎通が成立する」という傾向や、「初対面の相手とは慎重に、ローコンテクストな意思疎通の傾向になる」という傾向を拡大解釈しているとも説明できる。しかしより分析するべきは、それを成立させる「推測可能性」であると考察できる。 ようするに「言語的な推測可能性が高ければ、それだけ単純なパターンで十分な意思疎通が成立し、ハイコンテクストになる」と説明でき、相手のことをよく理解している長年のパートナーに対する推測可能性が高いことは当然として、多くの考察はそれを「歴史を持った文化的な均質性」に求めていた。 しかし「言語の使い方」が関わるのであれば、物理的な現象である「言語上の推測可能性」によっても分析するべきであろうと説明できる。文化習慣の比較であるにもかかわらず「言語体系の違い」の認識について、あまりにも研究不足であるか、研究を知らずに考えていたのではないかとさえ考察できる。 日本語は「発音体系が単純」で特に、簡単な学習で誰でも言葉を認識してもらうための最低限必要な発音を可能とするほど、言葉の発声を成立させやすい。また慣れてくれば音としても聞きとりやすく、それによって「言葉の学習性が高いこと」や「単純な音から言葉の類推をし始めやすいこと」を推察できる。 つまり日本語文化では、慣れた話者ほど「言語的な情報の共有が、著しく高効率で進む」と想定することができ、その理屈によって「互いの推測可能性が著しく高まりやすい」と説明することができる。また言語的な認識負荷が軽いことで、言語以外の情報への意識も自然としやすいとも整理しやすい。 一方で「発音体系が繊細で、しかも音が消失しやすく、詳細な聞き取りには意識を向ける必要がある」という傾向や「言葉が多義的であったり、近似音からの派生する意味が広い場合、言葉の理解に多くの情報が必要」という傾向を持つ言語では、「断片からの推測可能性」が弱くなりやすいと説明できる。 また「発音体系の繊細さ」は「言葉の一般的な共有性」に限界も生じるために、多彩な言葉を使い分けることさえも難しくなってしまう。そうした理屈から、言語的に「丁寧な説明をする必要性が増える」という機序によって、ローコンテクストな傾向が形成されやすくなるという推察を整理することができる。

目次  ## 日本語 日本語はまず「音の識別がしやすい体系・ハッキリした音を基盤としている」と言える。使われる音は標準的な範囲で約45音が分類され、主要な変形や複合を含めても約110音の分類である。日本語ではその単純に分類された音を大量に並べることで情報を構築し、意思疎通を行うという言語体系となっている。 基本的な音の区別が単純化されていて、音の識別がしやすいということは、つまり「知らない言葉の音を理解しやすい」つまり「新しい言葉を聞きとりやすく、多くの言葉を聞き取れるようになることで、新しい情報を記憶することがしやすい」と説明できる。基盤として語彙量が増えやすいと説明できる。 日本語文化では「言葉の共有性が高い傾向にある」と推察できる。言葉を聞きとりやすいために「何の音をだったのか」を判別しやすく、1度聞いただけでも、印象的であれば新しい言葉として使っていくことさえも可能としている。また当然、情報の共有においても、より伝わりやすいと考えられる。 そのようにして日本語文化では「言葉の認識自体の推測的な処理が軽い」と説明できる。同音異義語が多いとも説明されるものの、実際にその区別で苦労する状況は頻発するわけではなく、また必要になれば瞬時の補足や確認もしやすい。推測も補足もしやすいので、明示的な前提の共有の必要性も軽くなる。 また、音の区別が単純であり、標準的には多くの音を並べて会話することは「音ごとの推測するべき範囲」も著しく狭くなる。特に多少、不整合な音であっても、意思疎通に十分な情報が伝達されやすいと説明できる。また短縮された場合は単純な語だと判断でき、推測すべき範囲が身近な語彙だと理解できる。 短期間で「言葉の意味の推測可能性が高い」という状態が成立し、結果、まるで「他言語にとっての長年のパートナーのような効率の意思疎通」の段階に至るまでが著しく早くなっているという理屈を整理することができる。詳しくは多様な要素が影響すると考えるべきだが、大きな要因として説明できる。 注記しておくと、日本語社会は基本として「均質な言語文化」ではないと説明するべき地域である。日本は現代でも方言が併存しているような地域であり、言葉の違いという概念をむしろ理解しやすいほど、言語的な多様性を知る機会も多い地域である。さらに、それを併用していしまうほどの言語文化である。 現代の日本語の言語体系や発音体系とは、そうした「言語的な多様性を持つ社会背景」によって成立したと説明しやすい。詳細は割愛するが、より厳密には「言語的な多様性を持つ社会において実用され続けてきことで形成された頑強な構造性を持つ言語体系を、現代日本語の基盤にした」と説明できる。

目次  ## 例えば英語 英語の発音の分類は日本語に比べて細かい。主要な欧州系の言語において一般的な分類であるが、母音と子音が分離して使われているため、発音の種類が爆発的に多いと説明できる。英語などは「音節」という単位によって識別され、母音を中心としつつ多数の子音を並べて多彩な音が作られる。 英語で言えば、母音だけで約14~20音以上の分類、子音は約24音ほどの分類で、そして主に「子音/母音/子音」やさらに前後へ子音を増やした1音節が構成され、そのパターン数は明確ではなく「推定の総数」でしか分からないほど複雑である。概要として実用される音節で400種~600種以上とも言われる。 また実際の発話においては音が弱まったり、音が消失したり、音が繋がったりといった変化が生じている。しかも現実的に会話をする環境では「静寂・近接・平静」という理想的な状態で会話されるわけではない。物理的な限界から、実態として、その全てを厳密に聞きとれているわけではないと説明される。 さらに音が繊細で識別が難しくなりやすい問題は、つまり「知らない言葉の音を識別しづらい」つまり「新しい言葉を聞きとりづらく、その言葉を聞き取れるようになるための訓練を必要とする」と説明できてしまう。また繊細な発音体系は、新しい言葉を発声することにも、技術を要求されやすいと言える。 物理的な事情によって「使える語彙を増やすことが難しいだろう」という理屈を説明することができる。そして、英語の実態として、日常語では少ない種類の単語で構成されがちであるというデータもある。語彙量が減ることはつまり単語の使い方にも大きな影響があり、頻出語の表現する範囲は著しく広い。 では、どのようにして英語が日常的な会話を成立させているのかといえば、「形式性を強めて法則性を定めて共有することで、推測するべき範囲を基本として絞り込み、推測可能性を実用なレベルに引き上げている」と考察することができる。「難しいけど、形を整えさせて成立させている」と説明できる。 実態として、日常語で使われている単純な単語の領域で、交流できる程度の意思疎通を可能としているため、社会的には問題なく成立していると説明できる。しかしながら物理的な問題から言語的な制限が形成されてしまっており、日常的な会話で子細な情報交換に苦労しやすいのではないかと想像できる。 音への基本的な推測範囲が著しく広いために、単純な音が提示されたところで、状況から強く推測できない限り、その音が厳密に何の言葉の音であるのかさえ判断に確信を持つことは難しい。また単語として理解できても、言葉として成立していなければ、どのような意図で単語なのかも判別が難しいと言える。

目次  ### 「ローコンテクスト」 英語などは、物理的な限界として繊細な音を全て厳密に聞きとれているわけではないと説明できる以上、その実態として言語の並びとわずかな雰囲気から言葉を推測的に聞きとっていると整理できる。つまり言語での意思疎通のために必要な情報量が多くなって「ローコンテクスト」になると整理できる。 なお厳密な説明をしておくと、典型的な「ローコンテクスト文化」とされる地域の言語には「ドイツ語」が例示されている。そしてドイツ語は「子音表現を多用する言語」であり、しかも語順は変動させることができる言語体系である。そのために、ドイツ語は著しく明示的な傾向を持つと説明できる。 ただし、この推論の主軸は「言葉の認識と推測のしやすさ」であり、発音の繊細さそのものではない。「言葉の認識性や推測性が高くなる条件」が揃えばハイコンテクストな傾向に傾きやすく、「言葉の認識性や推測性が悪くなる条件」が揃えばローコンテクストな傾向に傾きやすいという理屈である。 これらの条件は、あらゆる場面において応用することができる。限定的な状況において、必要となる情報が確定していて、強く推測しやすい場合には最低限の発話によって意思疎通が成立する。これは「スポーツなどの場面で、単純なシグナルを使って意思疎通をする」という状況の説明にも繋がる。 また初対面の人同士のように、情報が不十分で推測がしづらい状況では、慎重な会話をする場合に、言葉を選んで分かりやすい会話を進めることが自然と行われることも、同様に説明できる。あるいは、もっと踏み込めば「推測させる必要性を減らすために、論文は最もローコンテクストになる」と説明できる。 ※ただしこれはあくまで推論であり、あらゆる言語体系に対して厳密な検証を行ったわけではない。推論として、より広い範囲においても適合しうるような、構造性を分析した場合にこうした推論が可能性の一つとして導き出されたと説明できるものである。しかし、より普遍的な法則として想定できる。 ちなみに言語として「言葉の推測可能性が広い」という場合、言語的なコミュニケーションの負荷が重い傾向にあると考察できる。例えば、元々の推論において、「ハイコンテクスト文化の方が、沈黙を好むだろう」と予想されていたが、実際の検証研究では、むしろ反対の傾向を示す事例まで確認された。 つまり「ハイコンテクスト文化の方よりも、一部のローコンテクスト文化の方が沈黙に肯定的な傾向を示す」というデータが見られている。しかしそれは、そもそもローコンテクスト文化でも「言語の運用という高負荷なタスクから解放されていることで落ち着く」とも推察することができてしまう。

目次  ## 言語構造の領域での典型的な省略可能性 日本語はよく「主語を省略する」という説明をされる。しかしその実態とは「前提となる話題を設定していなくとも、言葉の内容を識別して推測的に補完しやすい言語体系をしている」と説明することができる。「推測可能あるいは理解可能であれば省略される」という現象は、言語の普遍的な法則と言える。 例えば英語でも、定型のフレーズとなっている言葉の多くは「情報が省略されている形」であると説明できる。[Thanks]は著しく省略されたフレーズであり、英語の文法として未完成であるが、その音が意味する言葉は極めて狭いために推測しやすく、やがて単体で理解されるようになったと説明できる。 まず「言語を使う場合は常に自分という発信側の立場が存在し、相手という受信側の立場が存在すること」は自明であり、また同時に「自分でも相手もでない領域」という概念も自立する。これが成立するからこそ[Thanks]のフレーズを投げかけた場合に、[You thank them]と解釈されることはない。 日本語では「述語の部分によって、言葉の方向性が明示される」という機能性を持っている。特に[する/される]は「実行する側/受ける側」という区別が明確に存在し、それだけで言葉の方向性が明示され、「自分」や「相手」という情報が明示されずとも、基本的な推測や理解が可能となっている。 むしろ日本語の場合、述語の部分によって明示するために、容易に推測可能な情報を明示する場合は「あえて重複させて明示した」と言える文章となる。丁寧な表現としても機能するが、意図的な強調とも認識されると説明できる。また、判断が難しい場合には日本語でも確認や明示は実施される。 また日本語は「省略された情報を、単純かつ妥当な補完する」ということを直感的にしやすい言語体系になっている。自然な発話において度々「助詞」が省略するという傾向も、単純で「推測可能」であれば省略されるという法則性であり、あえて助詞をつける場合には、やはり丁寧さや強調と認識される。 一方で、英語は「語順に従って言葉の立場が決定される形式」のため、理解可能なフレーズ以外で、冒頭に存在する「主体」を省いてしまうと崩れた文章を提示されることになり「どういう意味言ったのか」の認識が乱れてしまう危険性がある。そのために、基本的には省略不能となっていると説明できる。 英語は「言葉の認識」の問題もあるが、通常の会話でも文章を成立させなければ定型フレーズ以外の意味の直感的な識別も難しく「基本的には伝わる言葉として成立させるために、1つの文章を構築しなければならない」と整理できる。[I fish in the pond][Fish in the pond.]になると意味は激変する。

目次  ### 省略可能性と本質的なハイコンテクストの区別 しかし、もしも詳細に「ハイ/ローコンテクスト文化」の理解を分析するのであれば、言語の用法において省略可能な範囲は「言語の法則性に基づいて実施される普遍的な解釈」であって、それをコンテクスト性として結びつけることは拡大しすぎる解釈であり、あまり適切ではないと考察するべきである。 「言語の法則性に基づいて実施される普遍的な解釈」までもコンテクスト性として考えてしまうことの危険性とは、「英語が単語の立場を明示的なマーカーを使わずに決定して、文章を構成していること」が著しく「明示性に欠けるハイコンテクストな言語構造である」と説明する必要性が生じるためである。 「英語の整った文章は、情報量として言葉としておおよそ一意に判断できる形で構成されているのだから、推測による補完の必要性は低く、ローコンテクストだ」と説明できるが、それを言えば「日本語における自然な省略」も、「恣意的な誤解可能性は広いが、一般的な解釈は狭い」と言うべきである。 日本語という言語体系に対する不安定性は「恣意的な誤解可能性の広さ」を著しく拡大解釈して考察されがちである。そして、もしその論理を通すのであれば、例えば英語で[Take off]という言葉に対する解釈を、恣意的に「手放す[Take <- Off]」という意味に取ることが許されてしかるべきである。 英語の単語の使い方こそ著しい不安定性を考察することができる領域である。その不安定性を持った状態の言語について「一般的にそのように使われているのだから、安定している」と説明するのであれば、「一般的に解釈される」と言える範囲までもハイコンテクストと説明することは明らかな逸脱である。 そうした「一般的に収束する解釈が可能な省略」の区別を心がけた上で、日本文化においては著しいハイコンテクストな意思疎通が実施されている部分を観察するべきである。例えば日本語の会話において[あれ]という言葉が突如として示される場合、広い範囲からの推測を必要とする「暗中の言葉」になる。 もちろん、動作や会話において情報が追加されていけば、その[あれ]が何を示すものであるのかも収束していきやすい傾向にあるが、対象とする情報が非常に不安定な状態から会話が実施できる。そして聞き手も不十分な情報から推測していき、対象となる[あれ]についてを把握することもあると観察できる。 例えば、[昨日のあれ]=(That thing from yesterday.)と言われた場合、聞き手側は「発言者と話していた昨日の話題」や「昨日発生した目立った話題」などを連想し、そこから暫定的な回答な応答を始める。もちろん、思い出した内容に自信が無い場合や、思い当たらない場合は再確認をする場合もある。

目次  ## 本質的なハイコンテクストの成立要件 推論として、本質的にハイコンテクストな文化とは「日常の情報交換の頻度と密度は、むしろ著しく豊富である」という可能性が予想できる。ハイコンテクストな意思疎通の成立には前提となる情報の共有が不可欠だが、これを「事前に実施して、認識の共有ができる」からこそ実現しやすいと想定する。 もちろん、言語的な条件として、言語構造において「断片的な意思疎通のしやすさ」も大きく影響するという障壁がある。これはつまり、英語などが言語的な制約から「ローコンテクスト文化のように振舞う」という傾向を持つが、その構造的な性質の部分はコンテクスト性の評価に使うことはできない。 日本語が、言語的な条件として、言語構造において「断片的な意思疎通」を可能としやすいと説明できる。しかし日本語を含む、どの言語でも会話において「事前情報が十分に準備されていない場合」は必然的に基本的な情報共有を実施する必要性があり、意思疎通はローコンテクストな状態になる。 さらに踏み込んで説明するなら「情報を保存できる規模や整頓の制度」によっても、日常的に成立する「情報共有」の質は変化する。ここにおいて言語的な性質の影響も、より明確に立ち上がってくる。つまり「情報の受け取りやすさ」は、情報の記憶性にも大きく影響すると言った考察をすることができる。 日本語は「聞いた言葉を直感的に復唱することもしやすい」と説明できるほど、音が明晰に伝わりやすく、発音も使いやすく、再現性が高い。また日本語は単語の独立性も高く、日常的に存在する、より多くの言葉や情報について、記憶への断片的な情報の定着率も良好になりやすいと想定できる。 また日本語は性質として、「積極的であれば極めて活発な情報共有を実施できる」言語構造をしている。文章として整頓されていない状態でも会話を開始でき、会話をし続けていれば、量的な規模として特に大量の情報を共有することもできる。「情報共有の量的な規模を増やしやすい」と推察できる。 一方で反対に、発音の複雑さや、言語構造が「日常の記憶上の情報の整備」に影響するこおとも想定できる。言語構造として、会話における情報の整理が実施しづらい場合も、対人的かつ日常的な情報共有が十分な状態になりにくく、短期間ではハイコンテクストな状態を成立させにくいだろうとも整理できる。 ※あくまでも言語構造や性質を見渡すことによって、このような影響があり得るだろうというだけの推論である。特に注記するべき点として、言語が「記憶力としての傾向」に直結するものと断言するのではなく、あくまでも「他人との情報共有と整理の状態」という限定的な情報管理への想像である。

目次  ### 本質的なハイコンテクストを補助する性質 日本語は言語構造として、会話内容についての計画性を不可欠とせず、わずかな情報から逐次的に会話を開始することもできる。日本語は、非常に脱力した状態でも、多くの意思疎通ができる。この性質が「会話のために必要とする準備や労力」という、頭脳的なリソース消費を抑制しているとも想定できる。 一方で英語は言語構造として、フレーズ以外の会話では「文章構造の計画を立てながら言葉をまとめる」必要性がある。習熟した話者は直感的にできるため、その負荷について無自覚である場合も多いと推察できるが、実施されている処理そのものは構造への思慮を必要とする高度な言語操作だと説明できる。 日本語では、言葉の構築において構造的な計画性が不可欠ではなく、霧散するような話し方さえもできる。そうした性質上、頭脳的な余裕が生まれやすいと想定でき、その余裕によって普段から「状況や情報を把握するため、周りを注目する意識」がしやすく、情報を入手しているのではないかとも整理できる。 他にも、日本語文化では「意味の薄い、合図としての発声」が自然と多用されていると観察できる。ハイコンテクストな振舞いとも位置づけられるが、状態としては「必要に応じた簡単な合図を発して良い・合図に対して意識を向ける」という文化習慣として、認識共有のしやすさを高めていると整理できる。 日本語の「合図としての発声」は、いわゆる会話の最中における「あいづち」だけではなく、[え~],[あの~],[さて]などの音によって「これから会話を開始する」というシグナルなどにおいても頻出する。日本文化を広く見渡せば、声を出すことが「認識やテンポの同期システム」などに常用されている。 日本語文化では習慣としても「意思疎通の始動における、最低限の水準が非常に粗い傾向」を持つとも観察できる。そして普遍的な法則として「互いの認識がおおよそ一致し、理解できた段階で確認は完了される」ため、客観的に見て不十分な情報でも意思疎通の成立する状況が観察されやすいと整理できる。 補足しておくが「互いの認識がおおよそ一致し、理解できた段階で確認は完了される」という理屈は言語の普遍的な法則であり、人間の意思疎通の広い法則においても同様だと言える。意思疎通における不安から多くの言葉を尽くす傾向もあれば、柔軟で気軽すぎて初動の言葉が少ない傾向もあると整理できる。

目次  ## 注記:「間違う可能性」 なお「英語は一意な表現を形成しやすいので誤解する余地が少ない。一方で日本語は構造的に柔軟性が高すぎて誤解する可能性が大きい(※恣意的な誤解可能性)」と説明される場合もあるが、その実態として英語は「共通認識の深い英語話者同士であれば」という条件・前提が非常に重いと言うべきである。 英語は言語の特長として「精確に伝わる言葉を構築する」と説明されやすいが、それは実態として「不正確に伝わる可能性を著しく制限しなければならない」という作法が存在し、「不正確に伝わる状態は、英語という存在の中に成立していないものとして切り捨てる」という実情を説明するべきである。 英語の本質的な特長とは「非常にシンプルな構造によって、強固にその意味を限定することができる」という言語構造を持っており、その構造から「適切に実用することができれば、短い文章でも精度の高い情報伝達が可能である」と説明できるが、それは「適切に実用できれば」という条件が存在する。 実用上の実態として、もしも共通認識から逸脱した状態になってしまった場合「英語でも容易に誤解を生み出す可能性がある」と説明するべきである。これは特に、形式性が弱くなる日常語において極めて顕著な傾向を見ることができる。非常に単純な例えとして「イディオムが伝わらないことはある」。 また、あるいはドイツ語などのように非常に長い言葉を尽くして文章を構築されやすい言語体系であっても、「発話する側の言葉の構成が間違っている場合」という可能性が完全に回避されることはなく、また「聞きとる側の言葉の認知や解釈に不具合が生じた場合」にも、誤解が発生することは避けられない。 英語やドイツ語と言った「強い形式性に基づいて誤解を最小化できる言語体系」という理想が成立するのは、互いにその言語体系に習熟し、十分丁寧に言語を扱える状況で、必要となる言葉の伝達が実現している状態に限定されるという前提条件がある。特に、庶民の日常語において常に成立するとは言えない。 おおよそ「正しく使えれば問題は起きない」と説明するが、それは「正しく使えるという前提条件に依存した、正しく使えれば問題は起きないはずであると信じ込む理想論」でしかない。エラーが言語上に存在しないことにしているだけであり、「火星に誤解は存在しない」と言っているようなものである。 そういった言語の普遍的な法則に基づく、物理的な問題において「間違う可能性」そのものが完全に排除されることはないと説明するべきである。むしろ人間的な意思疎通においては「間違う可能性を前提として、共通認識の擦り合わせを進める形で会話すること」が、最も安全であるとさえ説明できる。

目次  ### 注記:「ローコンテクストもできる日本語」 より強い説明をするのであれば、「英語などと同等の丁寧な意識を持って文章構成をするのであれば、日本語でも十分に意味の一意性を確保することは可能である」と考えることができる。注記するが、「恣意的な誤解可能性」を持ち出す場合においては英語での[Take off]の例を改めて提示することになる。 そして、実態としても日本語社会において、日本語を言語基盤とした状態で高度な科学技術の運用が広域かつ安定的に実施されているという事実において、「十分な精確性を確保した情報共有が実施されている」という実情を説明できる。現実に基づいて「日本語の機能的な不十分性」は否定される。 特に「高度な文章の読解が難しい」という現象そのものはどの言語であっても同様であり、学術論文・科学論文において最も広く使われている英語であっても、読解を誤る可能性は否定できない。むしろ日本語では言語的な構造性において、必要な表現を極限的に増やして細密化を進めることを可能としている。 日本語は、言語構造として「無制限に表現語をつなげて重ね続けることが可能」である。また、日本語は非常に豊かな表現語を持っているため、これを組み合わせることによって「言葉の意味する範囲を限定すること」そのものは物理的に可能である。難点は細密化のために「文章が長大化すること」である。 しかし内容の細密化するために文章が長大化しても、日本語の文字体系は「概要の把握」をしやすい視認性の体系を持っていることで、その基礎的な理解可能性は確保されやすいと説明できる。「読みやすいこと」で読解のミスを生じさせる可能性については「読みにくいこと」によるミスも論じる必要がある。 つまり、もしも「斜め読みしやすいために理解が不十分になる」という理屈を使うならば、反対に「読み込みに手間がかかることで理解が不十分になる」という理屈もまた考慮の対象となる。人間の認識力や処理能力は無限ではなく、また「間違いの自覚を常にできるわけではない」という問題は普遍的にある。 ([追記A-1]) なお、もちろん、そうした高度な文書を構成する技能は高度な専門技能として存在するものであり訓練は必要とする。しかしそれはどの言語であったとしても同様である。たとえ英語でも日本語でも、訓練なしに高度な文章を構築できるわけではなく、またその高度な読解を自然と可能とするわけではない。

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