散文

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散文『高/低文脈文化とされる現象への推論』 Andil.Dimerk ※作成年:2026 **注記** ※免責:筆者はいずれの専門家ではない。 ※免責:概要として認識できる現象を基準として論理を組み立てているため、それぞれの理屈において明確な根拠を持っているものではない。あくまでも「推論」である。 ※免責:データ参照元についての詳細な情報の記載は意図的に減らし「論文ではないこと」を客観的に認識できるようにしている。必要であると考えるならば各自での研究に任せる。 ※補記:文中の[]の中は、文章において翻訳するべきではない文字列である。 ※補記:他言語へ翻訳する場合、微細な表現が大きく消失する恐れがある。特に、本文では情報の確度をかなり控えめに説明している。 ※補記:名詞においても、逐次的な自動翻訳などでは統一性を失う恐れがある。 **補足** ※前半はメインテーマを扱い、後半は補足的な情報である。 ※過去の散文のなかで言及していた情報を、より注目して情報をまとめなおした散文である。過去の散文からはやや異なる視点もあり、過去の散文からは独立させているつもりである。

目次  # 高/低文脈(ハイ/ローコンテクスト)文化とされる現象への推論 まず今回扱う題材である「ハイ/ローコンテクスト文化とされる現象」についての概要を示す。その概念の大本は、あるアメリカの文化人類学者が「社会における人々の振舞い方が、地域によって大きく異なる傾向を確認し、その現象をコンテクスト(文脈)のスペクトル(度合い)で分析したエッセイ」である。 その「文脈の度合い」とは、「対人のコミュニケーションにおいて文脈、既知の情報として共有されていると想定する広さ・前提とする暗黙の広さ」と説明できる。コミュニケーションの地域的な違いの概要を、前提とする「文脈の度合い」から生じていると見て整理したものが、高/低文脈文化の分析である。 先に、注記しなければならない点として、この「高/低文脈(ハイ/ローコンテクスト)文化」とされる分析は、センセーショナルで分かりやすいステレオタイプとして引用され続けているが、しかし実証研究においては「理論と検証結果の整合性は悪く、根拠が不十分である」とされている「印象論」と言える。

目次  ## 高/低文脈(ハイ/ローコンテクスト)文化とされる現象 低文脈文化では「前提とする暗黙の情報が少ないため、言語的に明示的な交流を基本とする傾向を持つ」という理屈になり、高文脈文化では「前提とする暗黙の情報が多いため、言語的に暗示的な交流を基本とする傾向を持つ」という理屈になる。そして、その理屈を前提として、多様な分析をされている。 特に低文脈文化とは「前提とできる暗黙の情報が少ない社会環境であり、それはつまり特に多民族国家・移民の歴史が目立つはずである」という分析と、高文脈文化とは「前提とできる暗黙の情報が多い社会環境であり、それはつまり文化的に均質で安定した環境である」という分析である。 この分析において、最も典型的な低文脈文化とされる範囲は主にドイツ・ドイツ系の社会であり、また分析から強く推定できる領域として移民国家であるアメリカの社会も当然として含まれる。一方で、最も典型的な高文脈文化とされる範囲は主に日本やアラブ系の社会であると分析した。 また元となるエッセイにおいては、そうした文化性に対して、派生的に推測できる様々な文化傾向の分析を広げ、ステレオタイプが「高/低文脈文化の環境」から導き出せるのではないかと考察した。しかし後年の実際の検証において、元となるエッセイの分析には不整合性が大きいとする研究結果が出された。

目次  ## 表層的な高/低文脈(ハイ/ローコンテクスト)の傾向 しかし実態として「実用される言語的なコミュニケーションにおける、情報量・明示性の多さ」という観点に注目する場合には、その傾向は少なからずの「明示的な傾向・暗示的な傾向」という理解をすることも可能であり、これが文化性と解釈されてしまったのではないかという理解をすることができる。 そもそも「言語的なコミュニケーションの傾向の違い」を「文化的な違い」から整理するのは、「言語がどのように使われているのか・言語構造がどのようなものであるのか」という間に存在しているはずの重要な要素が抜け落ちていると考察できる。つまり本来なら「言語の比較」を必要とするはずである。 例えば「実用されている言語の基本構造」には文化的な背景・歴史的な経緯も影響するが、「使われる言語の構造は、表層における文化的な違いとは無関係に、言語的な活動の傾向を強く誘導する」と整理できる。つまり歴史的に形成された言語構造が後年に長く影響する現象についても、同時に説明できる。 もしも言語が「低文脈的な振舞いでしか実用の難しい言語」の場合、どれだけ深い連続性を持った文化的背景があったとしても、表層的には低文脈的な傾向を強く示しやすいと説明できる。実態として、十分な教育の歴史や共同体の安定が見られる地域でも、低文脈的な会話の傾向は観察できる場合がある。 反対に、もしも言語が「高文脈的な振舞いを大きく許容できる言語」の場合、浅い関係性であったとしても、表層的には高文脈的な傾向へと到達することが可能になると説明できる。そして、これは「自然言語の普遍的な法則」として、「状況に応じて、必要最小限で意思疎通を試みる傾向」が観察できる。 「自然言語の普遍的な法則」として、世界中のどの文化であっても「通じるのであれば、言葉を増やさない」という傾向が確認できる。専門用語においては「言葉の経済性」と呼ばれているが、言葉の使い方は許される範囲において省力化される傾向があり、どの文化でも「高文脈化の現象」は確認できる。

目次  ## 本質的な高/低文脈(ハイ/ローコンテクスト)の傾向 なお、この論理は「低文脈的な振舞いでしか実用の難しい環境」の場合と、「高文脈的な振舞いを大きく許容できる環境」の場合と、言い換えることもできる。例えば、読者の推測を極限的に減らす必要のある論文は著しく低文脈でなければならず、チームスポーツなどの意思疎通は極めて高文脈化する。 特に「低文脈的な振舞いでしか実用の難しい言語」であっても、実際の日常会話にまでは常に著しく低文脈的な作法に限定されることは過剰な労力である。自然言語である限り、省力化した表現法や意思疎通の手段が、可能な範囲において形成される傾向は広く観察される。慣用句・イディオムは珍しくない。 反対に「高文脈的な振舞いを大きく許容できる言語」であっても、丁寧に詳細な情報の交換や共有を必要とする場面においては、可能な範囲において「言語的な明示」は実施されると説明できる。そのように詳細な分析においては「高/低文脈の状態は状況にも応じて変化するものである」と説明できる。 実際に使われる言語の状態とは、その実用において「言語的な性質と、実用される状況に応じた度合い」という複数の条件が影響する。そのために「文脈依存」を「民族的な歴史」といった非常に表層的な条件のみによって分析しても、不整合性の強い論理を形成してしまう状態になることを理解できる。

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目次  ## 言語における「高文脈化への適応性と不適応性」の推論 しかし「必ずしも決定されるものではない不安定な現象である」という理屈はあるとしても、「自然言語の普遍的な法則」として、「言語構造や状況が許す限りの省力化」が生じると説明できるのであれば、「日常的な実用において、どのように省力化が許されないのか?」を分析することはできると考える。 日常的な実用においては、可能な限り簡単でシンプルな形で意思疎通をできた方が余計な労力を使わずに済み、省力化されるはずだと考察できる。ならば「標準的には低文脈的な作法で使われる言語体系」でも「省略して省力化すること」は発生するはずであるが、その傾向は限定的であると観察できる。 つまり「一般的にも低文脈的な作法を中心として使われる言語体系」とは、その実態として「低文脈的な作法でなければ実用することが難しい」という事情があり、つまり「高文脈化への適応性が低いため例外的な用法に限定されている」と予想できる。そして、実際に、その傾向を論理的に説明できる。

目次  ### 英語の「言語構造としての高文脈化への不適応性」の観察 最も典型的な文章を例示するのであれば、英語における[I fish in a pond.][Fish in a pond.]の言語構造である。英語は「言葉の配置によって、その語順から単語がどの立場であるのかが規定される様式で実用されているため、定型フレーズ以外での省略は、意味そのものが変化または崩壊する」と言える。 英語の[I fish in a pond.]は「私は池で釣りをする」という意味である。英語の[Fish in a pond.]は「池の中の魚」という名詞句か、もしくは「池で釣れ」という命令文としても解釈できる。[Fish]がその言葉の立場によって大きく意味を変化させることもあって、このような飛躍が生じてしまう。 さらに説明するのであれば、英語では他にも[set, run, get]など「一部の単語では1つの単語でも、使い方によって、その言葉の意味が多彩に展開する」という著しい多義性を有することが、珍しくないことを確認できる。英語では、原則的に省略した表現が著しく制限される状況があることを説明できる。 つまり英語の場合は「定型フレーズ以外で、単純な単語を示されても、その意味の可能性を著しく広く認識できてしまうために、意思疎通が成立しづらい」のである。しかし一方で、英語でも、多くの定型フレーズが存在し[Thanks.][Excuse me.]は、文章的には不完全だが、言葉としては完全に機能している。 そして、そうした「低文脈的・明示的な言葉遣い」をしなければならない現象の大きな要素として考察できるものは単語の多義性や、言語構造だけではない。そこに「言葉の聞きとりやすさ」という物理的な傾向も、自然言語としての実際の言語運用において、著しく大きな影響を及ぼしうると考察できる。

目次  ### 「音韻構造としての高文脈化への不適応性」の考察 実際に使われている言語では、その言語ごとに使われる発音・音韻の傾向・性質が異なる。そして多くの言語において、その発音の習得に必ず「発音の学習・教育指導」が必要となることが確認できる。また、聞き取りにおいても「音の傾向を認識できるようになるまで慣れる」ということが要求される。 それは言語によって「音の分類における音の分解度」や「音の分解の傾向」が異なる事情が大きい。特に、言語によって「細かく分解した音で分類する」が、しかし、それは多くの場合で物理的に全く新しい音を創出しているわけではなく「近い音だが、別の音である」という分類をしているだけである。 また言語によっては分解の傾向として「わずかな音や、わずかな音の変化も、発音の違いとして分類する」という状態も存在する。そうしたわずかな変化も、その実態として広義的には「近い音だが、別の音である」という分類を実施しているだけであると整理できる。あくまでも、分解度の違いである。 しかし「近い音だが、別の音である」という分類が細かい場合、その発音や聞き取りにおいて「わずかな違いを聞きとらなければならない」という物理的な難しさが生じる。だが、実際に発話される環境とは「静寂・近接・平穏」という理想的な発話環境だけで実施されるわけではない。 習熟した話者は「全ての音を十分に発音しているはずであり、また全ての発音を十分に聞きとることができている」と認識しやすいが、物理的な実態として、実際の発話環境では全ての音が精確に発音されているわけではなく、また全ての音を精確に聞きとることができているわけではないと観察されている。 実際に、英語などの発音では顕著であるが「音の弱化・消失」という現象も広く確認されている。しかしそうした現象があって「物理的にほとんど聞きとることができないはずの音を識別する」という現象が生じることによって、英語では十分に意思疎通が成立していることを観察できる。 その現象が発生する理由とは、人体には「聞き慣れた音声に対しては、欠損している部分を無意識に推測して補完することができる」という機能を持っているためである。そして英語では「形式性の強い・パターン性の強い発話によって、推測しやすくすることで実用を可能としている」とも予想できる。 この現象の典型的な類例が「ドイツ語」で、ドイツ語は非常に細かく子音を使うが子音のみの発声は物理的に弱く、明晰に伝わりづらいと観察できる。またドイツ語は語順の入れ方が可能で、推測可能性が低下した言語体系である。これらの難しさを補助するために、著しい明示性を持つと予想できる。

目次  #### 「子音」が独立する発音体系の繊細さ 日本語話者向けには、先に「子音」という概念を説明しなければならない。これは日本語で言う所の[かさたなはまやらわ]など、[か行:かきくけこ][さ行:さしすせそ][た行:たちつてと]=(Ka-Line: Ka/Ki/Ku/Ke/Ko, Sa-Line: Sa/Shi/Su/Se/So, Ta-Line: Ta/Chi/Tsu/Te/To)を区別する音である。 日本語では1音ごとに「あいうえお:母音単独、その他:子音+母音の複合」の音の構成を音韻の基本としている。日本語の基本法則に「母音の無い独立した子音」という概念が無いため、子音のみを個別に認識すること自体が不慣れである。日本語でも発音上で欠落していることはあるが、おおよそ無自覚である。 しかし英語やドイツ語などでは、母音と子音を「音素」という単位で分別して、言葉を区別している。例えば[Red]は「子音+母音+子音」の構造でひとまとまりの「1音節」という単位で発声する。複雑な発音の場合、例えば[strike]の発音は「子音+子音+子音+母音+子音」という多重の子音で発音される。 母音と子音を区別した「音素」と、「音素を組み合わせた複雑な1音節」という音韻体系は、理論上は「子音の組み合わせによって非常に繊細な音の表現が実施できて、短い発音でもより多彩な区別をした言葉を形成できる」と説明できる。しかし、実態としてその全てが明晰に発音されているわけではない。 日本語との最も大きな違いとして「手前の言葉の終点が子音で終わり、後に続く言葉の始点が母音で始まる」という場合「ひとつながりの音」として発音される状態で実用されている。あるいは「言葉の終点が子音で終わる」場合、しばしば子音の発音が弱まって発音されない状態になることも確認できる。 しかも子音が連続するような表現を繊細に聞きとることは物理的に難しく、聞き取れるようになるためには、言語に対する慣れが必要となる。そして、実用において実質的には「言葉の構成と、音の雰囲気によって、どのような言葉が発声されているのかを推測的に識別している」と想定できる。 また根本的な問題として、「自然言語の普遍的な法則」に基づいて、「物理的に聞きとりづらい音の区別は、発音の共有・継承において脱落しやすい」また「物理的に発音しづらい音の扱いは、自然な省力化によって脱落しやすい」という傾向を観察することができる。英語などはその傾向が顕著に見られる。 実態として「発音が不十分な状態」は繊細な発音体系であるほど頻出しやすく、しかし意思疎通ができなければ言語として成立しない。特に「地域の公用語」とする場合、多くの人たちが実用できる「単語自体を推測できる体系」に整備する必要がある。英語やドイツ語は、形式性でそれを求めたと整理できる。

目次  #### 「難しい音韻を持つ言語」における言語上の作法の強化 その言語の音韻体系として「発音の聞き取りが難しい」という場合、これは「成人同士の一般的な会話」だけではなく、「家庭内の日常会話」や「子供への言葉の投げ掛け」にも、大きく影響を及ぼすと想像できる。つまり、「子供が最初期に学習する言語も、作法や形式性が強くなる」と想定できる。 「自然言語の普遍的な法則」として、言葉を覚え始める段階の子供は周囲の会話や、自分への言葉の投げ掛けを聞きとりながら、言語の習得を進めていく。周囲で使われている言葉が「形式性のある言葉」ばかりであれば、当然、習慣的に「形式性のある言葉」を聞き取って言葉を覚えていくと想定される。 特に、子供にとっても「聞きとりづらい音」は、それだけでは情報として残りづらいと想像しやすい。そのため、言葉として認識できる範囲の多くが、「形式性のある言葉」になりやすいと想像しやすい。そのように成長する環境における言語の状態が、「言語感覚の形成」に強く影響すると想定しやすい。 つまり、そうして学習された言語的な習慣から、成長した後も同じように自然と「形式性の強い言葉」を中心として使うようになっていきやすいと想像できる。そのようにして、「言語的な文化傾向」や「言語的な作法」は、世代を超えて継承されていきやすいのだと考察を立てることができる。 ただし、もちろん「言語の普遍的な法則」として省力化の傾向があり、人々が常に形式性の強い言葉を使うわけではない。十分に意思疎通ができていると合意できる状態であれば、それ以上は互いにとって過剰な情報となる。そのために「可能であれば」長大な形式性を回避することも自然発生する。

目次  ### 「音韻構造としての高文脈化への適応性」の考察 英語やドイツ語と全く対照的な傾向を持つ言語体系が「日本語」である。先に補足しておくべき点として、日本語は英語やドイツ語と同様に「日本という先進的な文明社会において基盤として使われ、その先進的な技術環境の安定的な実用を支える機能性が実証されている言語体系」である。 そして、日本語は英語やドイツ語と異なり、音の分類が著しく粗い分類だと説明される。英語やドイツ語は主に母音の前後へ子音の発音を組み合わせることによって多彩な音を作り、短く多彩な言葉の表現を実用している。一方で、日本語の発音体系では「子音のみ」を区別する分類自体が存在しない。 日本語の発音は「1つの音に対して原則的に母音が付随される様式(例外[ん])」で、実際の発音での消失例はあるが、日本語の音韻の識別に「子音のみ」の区別が存在しないため「母音が想定できる1音」として識別される。日本語の音は「基本約46の分類、主な変化や複合で約110前後の分類」の構成である。 日本語は原則的に母音を伴う音韻構造によって「最小単位の1音ずつでも強く発声することができる」という構造を持つ。「1音ずつ叫ぶように発する」ということも可能であり、「騒音の中・やや遠く・乱れた音」という過酷な発話環境であっても、物理的に音が伝わりやすい傾向を持つと考察できる。 日本語では「近い音を区別する必要性」が大きく抑制されている。日本語の音韻体系では「近い音であれば、実質的にほぼ同じ音」と説明できるほどの単純な区別で整備されている。また実用においても「近い音を区別して識別する状況」は狭く、多いのは「同じ音の言葉の中から区別すること」の方である。 さらに日本語は単純な音韻体系であるために「情報量を増やすためには、より多くの回数の音を発して並べる必要性がある」という言語構造になっていることで、標準的な言葉における音の個数が多く、音の一部が不完全な状態になっても全体の推測がしやすく、言葉の識別性も高められていると説明できる。 日本語は単純な分類の音韻体系によって、単純な単語が発せられたとしても「なんの音で構成された単語であるのか」を高確率で識別できる。日本語では、極端に癖の強い発音や極端に長大な言葉でもなければ、おおよそたった1~2回聞いただけでも高確率で正確に構成されている音の復唱までも実施できる。 つまり日本語は物理的な状態として「音の詳細を推測によって補完しなければならない状況が少ない」と説明できる。もちろん日本語でも、聞きとりの難しい状態もあったり、英語などと同様に同音異義語の完全な識別には追加情報を必要とすることもあるが、日本語では補足も端的に実施しやすいと言える。

目次  #### 日本語の発音を含む言語構造の頑強さ 日本語の単純な分類の音韻体系とそこに成立した言語構造によって「日本語では、口内の操作が不十分な状態であっても、発している音の傾向/数/テンポ/イントネーションから、言葉を識別できる可能性がある」と説明できる。完全に発音の秩序が崩壊している場合には識別できないが、その許容度が大きい。 発話上の頑強さを示す象徴的な現象として、日本においても無作法で好まれない行為ではあるが「日本語では、食事中、口の中に物を入れたまま会話してしまう状態と、それでも度々、会話が成立する現象」を観察することができる。それも「うっかり無作法にやってしまう日常の現象」として存在している。 極端な例を示すならば、かなり限定された状況として、非常に親しく慣れた相手で、なおかつ分かりやすいことに限られるが、発話する内容の推測可能性が極めて高い状況では「音の数/テンポ/イントネーション」によって、[ん:n/m]のような単一の音だけでも、言葉を推測して識別できる可能性がありえる。 しかしイントネーションは非常に便利な情報となるものの、日本語の言語体系として不可分な情報ではない。日本語の「発音のアクセント」は弱い情報のアクセントの体系である。日本語でもアクセントは細かい意味の識別に使われているが、実態として方言や癖、言葉の流れによって変わることは珍しくない。 例えば日本語と同じ「高低(ピッチ・音程)の操作」を使う中国語では「声調」と呼ばれる音韻体系を持ち、高低の細かい操作で多数の言葉が決定的に区別されるため「ピッチが違えば別の言葉」とされる。一方で、日本語では同じ言葉においてアクセントの変化する言い方や方言や癖が併存している。 これにより日本語では、慣れた相手であればイントネーションを手掛かりにすることで高確率な識別を助ける一方で、聞き慣れないイントネーションでも、単純な区別の音韻体系によって言葉の伝達が成功しやすい体系として成立している。これによって、非常に乱れた発音でも識別できるブレ幅が非常に広い。 日本語は「騒音の中・やや遠く・乱れた音」という過酷な発話環境であっても通じる理由の一部を説明でき、その現象から「日本語では低騒音・近距離・平静などの一般的な会話の環境においては、会話の音から言葉の音を認識することが非常にしやすい」という理屈としても整理することができる。 さらに分析するならば、日本語は、言葉の音を認識することが標準的な範囲において著しく用意であるため、「頭脳的な処理負荷・脳神経への負担が非常に軽い」とも予想できる。それによって、言葉の音が明晰に伝わりやすいだけではなく、伝わってきた言葉の意味を考える余裕が大きいと想定できる。

目次  ##### 補足:英語・ドイツ語のアクセント 言葉のアクセント体系は「自然言語の普遍的な法則」に準じる傾向として、言葉の識別を助けるために、自然と形成されていく現象として観察できる。日本語は「高低アクセント」が使われる一方で、欧州系の主要な言語体系では「強弱アクセント・ストレスアクセント」と呼ばれるアクセント体系を持つ。 「強弱アクセント」は繊細な音韻体系でも「重要な音を聞き取りやすく発声することで、言葉の認識性を上げている」という性質を想像しやすい。厳密には他にも「長短アクセント」という体系もあるが、強弱アクセントにおいては実質的に長短アクセントも生じている場合もあることが観察できる。 英語やドイツ語も「強弱アクセント」によって「重要な音を明瞭になるよう発音し、一方でそれ以外の音を弱めること」で情報量を操作されている。会話においては、繊細な音韻全てを聞きとることは物理的に困難であるため、そうしたアクセントの音から言葉を推測しやすくしている技術であると整理できる。 さらに「同じ音韻を持つ単語でも、アクセント位置(韻律)を変えることで、その言葉の意味・役割を区別する」という体系も実用されている。英語やドイツ語にとってアクセントは「言葉の識別に重要な情報」であり、実際に、アクセントが崩れている発音は認識性がかなり低下しやすいことを観察できる。 ただし、アクセントの習得は「実際に聞いてきた音」を基準として身体化されていくものであり、「自然言語の普遍的な法則」において「口承に基づく継承では不安定な傾向がある」という事情から、方言などの癖によってアクセントがズレている場合もしばしば見られ、完全に統一されているとは限らない。 学習などにおいて発音の補助記号として例示されている場合は多ものの、一般的な文字体系において細かいアクセント表記が常用されているとは限らず、英語・ドイツ語もアクセント表記は常用されていない文字体系である。その重要性とは裏腹に、地域によってその方言性が著しい傾向を観察できる。 言語の自然な実用における現象として、アクセントで言葉の識別を詳細化させる傾向は珍しくない。むしろ、日本語において「アクセントなどの韻律はローカルな補助要素」という弱い情報に収まりながらも実用され、多様なアクセントの変化が同一言語で安定して併存している状態が、やや例外的と言える。

目次  #### 注記:日本語における「幼少期の言語環境」 形式性の強い言語では、幼少期において触れる多くの言葉も形式性が強く、そこから言葉を学習していくことで、形式性も身体化されていくと想定できる。一方で、日本語における幼少期の言語環境は正反対と言えるほど全く異なり、非常に断片化された傾向の言語環境が多いと説明できる。 日本語では「幼児向けの言葉」や、そうした言葉の使い方を多く確認できる。子供へ投げ掛ける言葉は主に「聞きとりやすく単語とシンプルな構造」を中心として構成される。子供はそうした音から言葉の基本を覚えていき、成長していくにつれて多くの単語や、複数の単語を使った言葉を学習していく。 ただし、比較データとして、日本語環境の幼児と英語環境の幼児を対象とした調査において、生後20ヵ月(1歳8か月)時点の幼児の比較では、発話できる言葉の数が、日本語環境の幼児よりも英語環境の幼児の方が倍近く多くの語を発話できるという、極端な差が見られた調査データを確認することができる。 つまり「言葉を覚え始めた幼少期に限った場合、単語の学習速度は英語環境の方が優位」と言えるデータが見られた。しかし、同じ調査の中において、言語環境を詳しく確認していくと、単純に「言葉1つ1つの識別」において苦労しているとも限らないと考察できる傾向も確認することができている。 その調査の中で、日本語文化では「幼児向けの言葉」が著しく多く、また子供への会話にも一般的な言葉と幼児向けの言葉を混成した、「一貫性の乏しい多彩な構造の言葉」によって会話を実施する習慣が見られ、そうした習慣によって単語単位の定着が緩やかな傾向になっていると考察されている。 一方で比較対象となった英語文化では幼児向けの言葉自体が格段に少なく、また言語的な性質として「一貫性のやや高い、安定した構造の言葉」によって会話を実施する習慣が見られることで、単語単位では定着しやすい傾向があると観察されている。ただし、詳細な認知はさらに複雑である。 ちなみに同じ調査の中において、単純な範囲として「言葉の入れ替えによって、言葉の役割を認識できるかどうかの調査」という実験では、英語の幼児よりも、日本語の幼児の方がやや的確に言葉の役割を認識していると想定できる様子が確認され、言葉の識別能力ではむしろやや良好とも推察されている。 人は成長していくにつれて言葉や情報の認識能力もまた向上し、認識できる語彙は増えていくものである。特に、日本語環境では英語に比べて格段に早くから初歩的な表音文字を識別できるようにもなって、自力での読書が可能となるため、就学してから特に語彙量を増やしていきやすいと考察できる。

目次  ### 発音の容易性による影響 日本語は「言葉の音を識別しやすい発音体系」を持っているだけではなく、「区別されている音を1音ずつで分解して発声できる言語構造」である。「自然言語の普遍的な法則」に基づいて、自然な発音には相当の慣れが必要になると言うべきであるが、最低限の発音は非常に実施しやすい。 つまり日本語の発音体系では多くの人が「新しい言葉を覚えやすく、実用することがしやすい」と説明できる。日常的に使われる言葉として、実用範囲に存在している言葉の種類が多い場合、それが実用できれば「本質的に、より少ない言葉で、具体的な情報を提示することがしやすい」という理屈が成立する。 比較として、「英語」は辞書の中には極めて膨大な語彙を持つが、研究調査において日常会話の大部分を理解するために必要とする単語の数は、およそ3000語~4000語ほどであると分析されている。一方で、日本語の日常会話の大部分を理解するために必要な単語の目安は約10,000語と分析されている。 より詳しく説明するならば、英語は「単語の変形による表現」が乏しいため、実用においては複数の単語を組み合わせることで細かい表現を作り、日常会話が実施されている。つまり実態として「限られた単語を広範囲へ使いまわして会話を成立させている」と説明でき、実際に頻出語の多義性は著しい。 一方で、日本語は「述語の変形」で豊富な表現を形成できるため、1度の会話で必要とする語の量はむしろ少ない傾向を観察できる。また多くの単語が実用範囲に存在することで単語ごとの使いまわしが減って多義語は限定され、また広範囲へ使いまわす言葉も秩序が守られて安定していると整理できる。 なぜ英語が辞書の中では極めて膨大な語彙を持ちながら、実用される日常語が非常に限定されているのかは、複数の要因を考察できるが「発音体系の繊細さ」も大きな影響を及ぼしていると強く予想できる。つまり英語では珍しい言葉を発声しても、正常に伝わる可能性はかなり低い傾向があると予想できる。 しかも、英語はその言語構造として「不明な語彙の危険性」が著しく高いと想定できる。まず文章の構造として「不明な語が出現した場合、文章構造が確定しづらくなり、全体の認識性を落とす危険」がある。また相手側に「近似する思いつく言葉」で認識されてしまう危険性もあると予想できる。 つまり英語において、特に日常語で安全で確実な会話をするために「単語の中でも明晰な発音がしやすく、また聞き馴染みがあることで聞きとりにおける安全性も高く、通じやすい単語」を中心にする、社会的な要請が生じていると整理できる。珍しい単語を使う際は、極めて丁寧な配慮を必要とする。

目次  #### 「断片化可能な言語構造」 日本語は、発音体系において「単語の存在感」がかなり明晰な傾向を持っている。それによって日本語では「発声される言葉の伝達の精度」が高いことで、より多くの言葉が共有されやすくなり、結果的に「言葉の断片における情報」が高い有効性を持って伝わりやすいと整理することができる。 そして日本語の発音体系では「言葉の断片でも情報が伝わりやすいこと」によって、全体の言語構造においても「断片化」をさせやすい構造が形成され、実用において維持されていると考察できる。日本語は「文章の構造が助詞などの機能語によって構築される」と説明できる言語構造を持っている。 日本語は「言葉の後ろ側へ機能語を付随させることによって、対象とした言葉の立場関係を規定する」という言語構造を持っている。しかも「単語+機能語ごとのブロックが形成され、ブロックをかなり自由に入れ替えて、自在な文章を構築してもいい」という、著しく形式性の乏しい構造だとも評価できる。 一般的に、日本語における語順は自然な形として「SOV型:主体-対象-動作」を中心として実用されている。しかし言語構造の自由度が非常に高いため、厳密には、ほぼあらゆる語順を実現できるほど、自由な文章構築を可能としている。もちろん、標準形は「SOV型」だが、言語構造自体は極めて柔軟である。 また日本語が、この構造性によって獲得している性質の一つが「情報追加の容易さ」である。「単語が機能語を含むブロックごとに独立して安定している」ため、発話の中において「会話の最中に思いついた新しい情報を積み重ねる」ということをしても、既存部分を著しく不安定化させることが無い。 この「情報追加の容易さ」もまた日本語の言葉の豊富さを支えていると説明できる。発話の最中において、分かりにくい言葉や難解な言葉が出てきた場合に、一連の発話の中でその言葉がどのような言葉であるのかの簡単な説明を実施しつつ、また元の話題へと戻るという発話を実施しやすい構造になっている。 例えば英語では言葉が「1つの文」の単位で構成されており、その最中に余計な情報を入れてしまうと文章構造が崩壊する危険性までもあると説明できる。英語では、もしも詳しい情報を追加したい場合、既存の1文を完全に切り上げて、新しい1文として構成する必要性があると予想できる。 英語でも、日常的な実用においては、多少、柔軟に解釈される範囲もあるだろうと考察できるものの、英語の言語構造では原則的に1文の計画性を必要とする。一方で、日本語では、無計画に発話を開始しても、言葉の存在が安定していて言葉を無制限に積み重ねられる構造から、話を成立させることもできる。

目次  #### 日本語における目立つ「省略可能性」の正体 日常などにおける実践的な日本語では、主語が省略されやすいと説明されたり、また実態として助詞が省略されるされることも多いと観察できるなど、日常的な日本語では特に「省略的な表現」をとても多く見ることができる。しかし、省略されていたとしても、一般的な実態として意思疎通が成立している。 日本語は「発話において、言葉の音の種類を十分に区別しやすく、それによって言葉の音の識別をしやすい」という発音体系を持ち、「言葉が一つ一つが安定して伝わりやすい」という前提から、言語構造として省略しても「理解できる言葉に対して、推測するべき範囲が分かりやすい」と予想できる。 また「自然言語の普遍的な法則」に準じる会話の自然な法則として、会話という場面では原則的に「発話者である自分と、受け手となる相手」という関係性が自明として存在すると説明できる。さらに「自分と相手」の関係性が存在しれば、当然「自分でも相手でもない領域」という概念も自立すると言える。 日本語は「主語を省略されやすい」と説明されるが、例えば英語の[Thanks]という端的な表現において、その主体と対象が[You thank them]などと認識されることはありえないように、「主体と対象が自明として理解できるなら、明示しなくとも情報して理解されることは当然である」と説明できるはずである。 日本語における「主語の省略」の多くは「高い文脈性・高度な推測」を要求するものではなく、本質的には「言語構造として共有される大前提の法則性に基づく省略の現象」だと説明するべきである。日本語では「自明として理解される主体を明示する場合、あえて明示していると認識されやすい」と言える。 さらに日本語では「述語」の体系によって、多彩に言葉の方向性を明示することができる。特に最も大きな[する/される]の区別は、話の内容が「行為者である」か「受ける側である」かを明示する情報を持っている。その情報と言葉の関係性から、主体の存在についても高確率で理解することができる。 また自然な会話で度々生じる「助詞の省略」という現象も、言語構造としては「言葉同士の関係性において自明と言えるほど最も単純な関係性である」という場合に実施されるものである。例えば[私ケーキ食べた]という表現は助詞が欠落しているが、要素や述語の関係から自然とおおよそ一意に解釈される。 特に「省略される場合は、最もシンプルで妥当な関係性である」という当然の情報として理解されやすい。省略された情報に対しての解釈を「恣意的な曲解の可能性」を広げることは可能であるが、しかし実態として「一般的な解釈においては著しく飛躍することは稀である」と観察することができる。

目次  ##### 「恣意的な曲解の可能性」について 日本語の省略に対しては度々「情報が欠落しているのだからから、どのようにも解釈できる」という考察をされる。そして「実際の会話という場面において、致命的な誤解の生じる状況が頻出するわけではない」という実態に対して、「高い文脈依存性によって理解しているからだ」と整理されがちである。 しかし「言語の自然な実用として高確率で識別できるものも、特別な推測によって成立させている」という理屈を作ってしまうのであれば、例えば英語は言語上に言葉の立場を明示する語が欠落しており「言語の自然な実用として高確率に識別できるもの」によって理解されていると説明するべきである。 もしも安定して実用されている表現に対する「恣意的な曲解の可能性」を実施するのであれば、例えば英語の[Take off]という言葉に対して「[Take]=(手にする)、[off]=(外れる)」という言葉の構成から、無秩序に「手を放す[Take <- off]」という意味によって解釈することが許されてしかるべきである。 日本語の一般的な省略の表現に対して、これを「高い文脈依存性」として解釈することは、理論上「英語は極大の文脈依存の要素によって構成されている」とも説明することができてしまう。非常に極端な説明であるが、単語単位で学習している話者にとって英語は、極めてその状態に近しい印象を受ける。 例えば英語の[I love you.]を、自然な日本語へと訳する場合[愛してる]になるが、日本語訳側に[I][You]の意味語が存在しないために[Love]だけで言葉を表現しているようにも解釈されうる。しかし言葉の実態として、[してる]の部分には[して:do][いる:progressive/stative]という意味を持つ。 つまり[愛してる]の構成要素とは[- doing loving -]と説明できる内容を持っており、また「会話の自然な法則」に基づいて、発話者と受け手側が存在していることから[Thanks]の自動的な補完のように、[I'm doing loving toward you.]という意味を持った言葉として成立すると整理できる。 むしろ日本語の構成要素から見れば、英語の[I love you.]という表現は「動作として設定された[Love]という単語へ、自動的に[doing loving]という意味が補填されている」という解釈を必要とする。英語の自然な表現では[I love you]以外にも「簡潔な語に対する自然な補完」という現象は広く確認できる。 例えば英語の[I read that book.]は、基本的な意図として[I have read thit book before.]の意味で認識される。しかし、例えば[I will read that book.]では、そのままの意味によって認識され、[×I will have read thit book before.]という意味によって認識されることはないと説明できる。

目次  ##### 「最小が基本1文の英語」と「最小を選択できる日本語」 もちろん英語は文章の形式性が強く、言葉の意味を強固に定義する形で実用されやすいために「言葉の内容において推測的な補完は限りなく少ない」と説明することもできる。しかし、英語の実態は「言葉の意味を十分強固に識別できる状態でなければ、何を言っているのか分からない」だけであると言える。 英語において、特に頻出語ほど言葉の意味は非常に不安定な傾向があり、言葉の意味が識別できる状態で使われていなければ、言葉は発話として定着することも無く、有効な意味を持たずに消失すると言える。そうした語彙を実用するためには「意味が定まりやすい状況・文章」を成立させている必要性がある。 日本語の省略には「欠けている部分に情報を自由な充填できるはずだ」という解釈で、著しい「高文脈的な現象」として説明されやすい。しかしそれは英語の[Let's go]という表現に対していくらでも情報を付け足せるのだから「高文脈的な現象」だと定義してしまうような状態だと説明できる。 日本語の省略の多くは「情報として欠けている状態に見えても、既に言葉の意味が十分強固に識別できる状態であり、不可欠ではない情報が省略されている」という状態にあると説明できる。そして原則的に「欠けているように見える情報」は、「自然言語の普遍的な法則」に基づく補完が実施される。 また日本語では、その上で「省略されやすい部分を明示する機能性を深く残しており、一部を省略することもできるが、あえて省略せずに構成することも、さらに詳細な情報を入れることもできる」という構造を持っており、実際の会話においても、必要に応じて省略せず明示する場合もある。 より詳しく言えば、日本語でも「省略しすぎている」という状態そのものは珍しくなく発生する。言葉の使い方によっては判断が難しい場合もある。そして会話の実態として、情報が不十分な場合には詳細な情報の再確認が実施されていることも多い。つまり、理解できない場合は情報の補完が実施されている。 特に、日本語は「単語や単語+機能語のブロック単位で言葉が安定して存在しているため、情報が欠落した状態でも、基本的な情報の構造そのものは安定した状態で形成されている」と説明できる。そのため、情報が不足している場合でも「何が不足しているのか」も把握することがしやすいと言える。 さらに日本語は「ブロック単位で追加の情報を提示できる」という言語構造であるため、不十分だった情報の確認とその補完を、端的な言葉の提示だけで実施することがしやすい。つまり、不十分な情報の全てを「高度な推測」によって補完しているわけではなく、必要の応じて情報の補填も実施されている。

目次  ### 言語体系と「情報共有」の関係性 「高/低文脈」と呼ばれる現象の状況、つまり「多くを明示しなくとも十分な意思疎通ができる状態」と「可能な限りの明示を行って意思疎通をする状態」を分析する場合に、その現象を成立させる主要な要素とは直接的には「理解可能性」であり、実態はそれを実現する「推測可能性」であると整理できる。 つまり「どのくらいの量の情報の提示によって、理解可能であるかどうか・そのために推測可能であるかどうか」という観点で、「限定的なシグナルによって意思疎通が成立する」という状態が成立したり、あるいは「整理した言葉によってのみ十分な意思疎通が成立する」という状態にもなると説明できる。 そしてその現象は「前提とすることのできる情報の総量」と「提示する情報の伝達効率」の大きく2要素で整理できる。「前提情報」が多ければ、それだけ推測可能性が高くなり、単純なシグナルで理解ができる。「情報の伝達効率」は、より小さい情報で、必要な情報伝達を成立させられるかを左右する。 例えばチームスポーツでは「扱われる情報の範囲・必要とする情報の範囲」が限定されるほど前提となる情報が明確に存在していることで、非常に端的な言葉やサインによっても明晰な情報伝達が実現し、「高文脈」でもその場で必要とされる意思疎通が十分に実施されていると整理することができる。 例えば科学論文などでは「前提とする情報は、引用する範囲に限定しなければならない」という非常に低水準の前提情報を基盤としていること、また「推測による穴埋めをさせてはならない」という前提があるために、極限的に「低文脈」の作法を守らなければ成立していないものとされる環境である。 そして、日常生活の範囲においては「言語体系による情報の伝達効率」も大きく影響すると考察できるが、それによって「前提情報として機能する共通認識がどのように形成されているのか」という部分も、当然として関わってくるものであると分析するべきである。これは元のエッセイに近い視点ではある。 「文化的な均質性が高ければ、それだけ多くの前提情報を共有していることで、高文脈な傾向を発揮しやすくなる」という元のエッセイに近い理屈も成立するが、より小さい範囲を想定した「個人間における、前提とする情報の共有速度」という観点であり、そこには文化的な連続性を不可欠としない。 つまり文化的な背景に限らず「日常的なもの・他愛のない会話を含めた日々の情報交換・意思疎通などにおける情報共有の頻度・密度」によって、人間同士の間で互いに「前提とすることのできる情報の総量」が累積していくという理屈であり、これは「言語体系による情報の伝達効率」の影響も大きく受ける。

目次  #### 「高文脈化を実現するまでに必要な手間」という観点 チームスポーツに限らず、意思疎通が活発な小規模のグループ内などでは自然と「高文脈的な現象」が非常に多くなっていくことが観察できる。そうした小規模のグループ内は「前提とすることのできる情報の総量」が十分に累積していることで、それに基づいた「高文脈的」な意思疎通が可能だと予想できる。 そうした現象、傾向そのものは、特定の文化や言語に限定されず、非常に広い範囲で観察することができる。あるいは特定の学問を専門としている人同士では、その学問の情報が「前提とすることのできる情報の総量」の一部となって、その学問の情報を使った高度な意思疎通を実施することもできる。 その中において日本語は「言語体系による情報の伝達効率」が、理論上著しく高い傾向にあると説明してきた。日本語では日常的な会話を増やしやすいだけではなく、聞こえてくる周囲の会話の音によっても「基礎的な情報共有」が実施されやすい傾向を持っており、情報の共有速度が著しく高いと考察できる。 特に日本語は、日常的な発話を無計画でも実施することもできるほど、気軽な情報共有をしやすく、そのようにして会話をする頻度が多ければ、それだけ認識的な共通基盤の整備が高効率で進んでいく場合もあると考察できる。言語体系によって、前提知識の均質化が実現しやすいとも整理できる。 もちろん、日本語でも当然として「前提とすることのできる情報の総量」が乏しいと認識している場合には、できるだけ丁寧な会話を心がけることが社会的な作法として見られると言える。しかし、多くの言葉や情報を効率よく共有されやすいことで、早期に「高文脈化」の現象が発生しやすいと予想できる。 一方で、多くの言葉を使うことや聞き取ることに負荷が大きいと予想できる言語体系においては、広く情報を受け取ることが難しい傾向を推察しやすく、日常会話における情報交換の総量においても言語構造という制約が生じてしまうことで、「前提とすることのできる情報の総量」が増えにくいと予想できる。 つまり、「発音体系が複雑な言語」ではその難しさを支えるために構造的な制約が生じやすいだけではなく、それらの構造によって日常的な情報共有の頻度や密度が確保されづらくなってしまいやすいと考えられ、日常的な高文脈化の現象が抑制されやすい傾向を多重に抱えていると予想できる。

目次  ### 知識普及を支える「文字体系」 「情報の共有性」という観点では、「文字体系」もまた非常に大きく影響を及ぼすと考察できる。実用しやすい文字体系を持つ言語ほど、文書などによる情報共有が広がりやすく、反対に常用しづらい文字体系を持つ言語ほど、文書などによる情報共有が抑制されやすいと予測できる。 そこにおいて日本語は「漢字」と「仮名文字」などを併用する複雑な文字体系であるために、その効率性は低いのではないかとも考えられてしまいやすい。しかし、日本語の文字体系はその実用において、むしろ世界的に類を見ない規模の実用性を持って運用されていると説明することがしやすい。 詳細は割愛するが、2025年時点で世界人口に対する話者の総数はたったの約1.5%ほど、社会規模としては名目GDPにおいて2022年頃に世界全体に対する日本の比率は約4%ほどと見積もられている中で、「世界の出版市場」に対する「日本の出版市場」の規模は2022年頃のデータで約8~9%の規模を推算できる。 社会規模に比して著しく巨大な文書生産があり、そして日本の出版物はほぼ全てが「日本語」である。他にも2022年頃の「日刊新聞の発行部数」も人口比で見ると突出して多い規模を持つ。あるいはネット上でも2020年頃で日本語話者2.6%に対し、主要なウェブサイトでの言語比率は5.1%というデータがある。 現代における識字率の厳密な調査は実施されていないものの、制度教育では1年目から児童へ教科書を所有させ、一般的におよそ1年目の半ばごろには自力で簡単な本を読む基礎能力が習得される。書籍を実用させながら進めていく学習環境が成立している他、早期から児童が自力で文書作成する練習もある。 また日本語は同一の言語基盤で、その技能を発展させていくことにより、高度な知識体系を扱うための技能が習得されていく。初歩的には子供でも学びやすいと説明できるが、しかし高度化を進めていけば、先進的な技術の安定した実用を実現できるほどにまで高度な言語運用も成立する柔軟な言語構造を持つ。 一方で、英語の言語体系では「自力で書籍を読めるようになる段階」が、その他の言語と比較しても早くない水準であると説明されやすい。調査データにおいてもやや遅く、制度教育ではおおよそ2~3年ほどを目標として進められていくと言われている。また、その遅さも明白な理由を確認できる。 英語の言語体系では事実上「文書から多くの情報を読み取るために高度な技能が必要になる」と説明できる。また文書から言葉を知ったとしても、会話において実用することも難しいと言える。英語が辞書では膨大な語彙の総数を持ちながら、実用される日常語の種類が限定される理由の一つである。

目次  ### 日本語の冗長性と傑出した柔軟性 日本語は識別性と共有性の高い発音体系と、柔軟かつ強靭な言語構造を持っていることにより、言語機能における「余裕」が非常に大きいと説明できる。日本語は日常的な範囲において必要となる語彙が10,000語とも説明されることは、それだけ多くの言葉を覚えやすいという機能性を示すものとも整理できる。 日本語では、他の言語では珍しいと言える語彙体系をいくつも持っている。最も目立つ部分として、日本語では「一人称を選ぶことができる」という様式を持ち、自分という存在への認識を言葉によって示すことができる。あるいは「他人の呼び方」においても工夫できる幅が広いと説明できる。 一般的な言語では言葉の丁寧さが「簡単・粗雑な語彙」「標準的な語彙」「形式的で格式のある語彙」などの大きな言葉の使い分けで実施されていることが多いと観察できる一方で、日本語では丁寧な言葉の中に細かく「丁寧語」「尊敬語」「謙譲語」などの細かい体系が整備されて実用されている。 こうした観点から言えば、日本語は言語上の「社会的な情報」を非常に広く「明示している」と説明できる習慣を持っている。そうした社会的な情報は、意思疎通において有効な情報であり、他の言語の場合、文字通りではない「言外の情報」から入手しなければならないと考察することができる。 また「擬態語」は、言語体系が整備されていくと語彙として縮小されやすいと言える。しかし日本語は高度に整備されている言語体系でありながらも、擬態語が実用範囲で膨大に残っている。特に日本語の言語構造では、あらゆる擬音語・擬態語も、1つの単語表現として1文の中へ組み込むこともできる。 機能性として、日本語は「擬音語・擬態語」「和語」「漢字系の語彙」「その他外来語」などを同一の言語法則の中で実用する言語構造を持つ。日本語には非常に多くの語彙が実用されている一方で、語彙の領域が多層的に存在していることで、使う場面を分かりやすく区別することもできる構造になっている。 日本語の会話では、その多層的な語彙による相互補完を可能としており、それによって言葉の解像度を制御したり、より分かりやすい情報を提示したり、必要な説明を追加するといった言葉の操作がしやすくなっているとも整理できる。日本語の語彙は多いが、無秩序に散逸しているわけではない。 こうした言語体系を持っているからこそ、習慣として「まず提示する情報は必要最小限として、もし不足すれば必要に応じて情報を詳細にしていけばいい」という意思疎通が常態化しやすいとも考察できる。分かりにくい言葉や判断が難しい場合には、自然と詳細な説明が実施されやすいと観察できる。

目次  #### 社会的な情報による心理的安全性 ([追記A]) 日本語は「多層的な語彙を使えて情報量を制御した端的な会話がしやすい」だけではなく、敬語体系や細かい一人称や二人称といった社会的な情報が、言語上へ分かりやすく入れられやすいことで「低文脈的な情報」として成立しており「会話における心理的な安全性」が確保されやすいと整理できる。 比較として英語などでは「丁寧な言葉遣い」の詳細性が粗く、「使う言葉を切り替える」「言葉を増やす」といった極端な形になりやすく、その手法が体系化されていないために不安定で分かりにくく、実際の言葉が「やさしい言葉遣いなのか、距離を置いた言葉なのか」も判断することが難しいと言える。 日本語は会話の中で心理的な関係性を明示しやすいことで、「聞き手側も、相手が自分側をどのように思っているのか分かりやすく」また「発話側も、自分側が相手をどのように思っているのかを伝えやすい」。それにより、互いに会話における言葉遣いを柔軟性に調整しやすいと考察できる。 例えば、特に「敬語の体系」という「丁寧な状態であることだけを伝えるためだけの言語情報」を用いることで、「端的な情報だけを示したとしても、表層的には不親切で言葉が少ないのではなく、丁寧に必要な情報を示している状態であることを示せる」ことで、互いの関係性を保全しやすいと説明できる。 また[-ですね/-ですよ]という丁寧語の系統だけではなく、他にも[-だね/-だよ]という「カジュアルだが攻撃的な場合に使われるものとは明らかに異なる親密な言葉遣い」の形も存在している。そのように日本語は、言語上で相手との心理的な関係性が明示できるために、端的な言葉も使いやすいと整理できる。 一方で、社会的な関係性を細かく明示できる表現体系が無い言語体系で、特に、単純な言葉しか発話されない場合「冷淡/親密/攻撃的/事務的」などの状態の判別は、「言外の情報」という不安定な要素から「察すること」が求められ、つまり社会的な情報が「高文脈な状態」で扱われていると整理できる。 そして、もしも心理的な距離感が不明である場合、心理的な安全性のために「丁寧な言葉遣いが実施されやすい」と想定しやすい。つまり、社会的な情報が乏しい言語では、会話において「誤解を減らすために安全な言葉遣いで、多くの情報を明示して誤解を回避する」という行為が発生しやすいと想像できる。 日本語の「丁寧語・敬語の体系」は心理的な階層を明示する必要性があり、社会的な格差を明示する言語体系だとも考察されやすいが、一般的な心理的な負担はむしろ軽減されやすい。英語などは比較して「心理的な障壁が低い」とも説明されやすいが、実態として「不可視であること」も負担になると言える。

目次  ### 「高文脈化の現象」が生じる理屈 言語の実用では「自然言語の普遍的な法則」として、使われる言葉は「必要最小限」になる傾向がある。専門的に「言語の経済性」とも説明されるものであるが、「意思疎通や情報共有という目的に対して、達成するために十分な言葉があれば、それ以上は互いにとって必要とされない」という現象である。 もちろん、状況によって「必要最小限」の水準は大きく変わるが、日常的な領域においては「互いがおおよその共通認識の合意をできる最小限」で、意思疎通は達成される。もしも「既に十分な共通認識があると合意できている状態」が形成された場合、それ以上に言葉を尽くすことは、冗長な行為である。 一般的に「無駄な労力」と見なされる部分は、共通認識として無駄に疲れるばかりであることが理解されている。「自然言語の普遍的な法則」として、そうした「無駄な労力」は可能な限り削減されてしまうものであり、意味に影響しない小さな省略から、解釈が難しくなる大きな省略までもが発生する。 もちろん「意思疎通において不十分である」と考えている状況では省略をせず、むしろ余計に多くの言葉が尽くされる状態も発生すると説明できる。「自然言語の普遍的な法則」として、状況や前提、そして言語構造によって、表明される情報量が増減することで、「高文脈化の現象」も生じると整理できる。 英語やドイツ語で「高文脈化の現象が生じにくい」とされる大きな要因は、言語体系によって生じている「言語構造として、定型フレーズ以外で情報伝達を成立させるためには、1文単位の情報量を持った構造体であることが求められる」という実用上の制約が存在することで、省略しづらいのだと整理できる。 一方で日本語で「高文脈化の現象が生じやすい」と観察できる大きな要因は「言語構造として、定型フレーズ以外でも情報伝達を成立させるための構造体が、最小サイズとして断片的なブロック構造でも機能する」という実用上の安定性と安全性があることで、基本サイズが小さい構造体になると整理できる。 ただし、日本語でも「明らかな不足が存在すれば、後から情報を追加して共通認識のすり合わせをする」という現象があり、実態として「一見省略しているとしても、後から省略した部分の補填」が実施される。省略した表現で始まっていても、必ずしも「高文脈化の現象」として成立しているわけではない。 日本語は言語構造として機能的に「高文脈化の現象を発生させやすい言語体系をしている」と説明することができる一方で、必要に応じて柔軟に情報の追加を進めることで「逐次的な低文脈化」も実施されていると整理することができる。情報追加の労力が著しく低いために、最小単位が小さいとも考察できる。

目次  #### 補足:言語的な機能限界または能力限界 一つ補足しておくべき点として、今回の考察における主な比較対象とは「先進的な文明社会の知識言語としても安定して実用され、なおかつ日常言語としても使われている言語」という水準での比較である。より広く多様な言語を見渡す場合、「言語の持つ機能的な限界」という要素への考察も必要とする。 単純な話として「言語体系として語彙の量が豊富ではない場合、詳細性を上げるとしても、その表現には限度がある」という言語機能としての物理的な限界が存在する。例えば非常に小規模な言語であり、特に学術や科学などの知識体系への造詣が乏しい場合、その言語のみで知識体系を扱うには限界がある。 英語や日本語、あるいはドイツ語などが、現代における先進的な知識体系への機能性を深めることができているのは、その言語の機能性において、常用される言葉ではない辞書的な専門用語を含めて「新しい語彙を増やしていくことのしやすい機能性」の基盤に支えられているものであると整理できる。 特に「未知の言葉に対して、それを自らの言語体系の中において扱うことができるかどうか」という機能性は、知識体系への機能性として非常に重要な要素になる。つまり、新しいものや新しい概念に対して、言語構造へ組み込みやすいかどうかが、知識体系の拡張性を大きく左右すると考察できる。 そうした知識体系を運用する言語体系から観察すると、知識体系の乏しい言語は、表現語の細密性が粗い状態であるかのように見えやすいと予想できる。つまり、比較において「高文脈的」であるかのように見えてしまう可能性が高くなると整理できる。そうした例は「言語体系の限界」と整理するべきである。 また、そうした問題は「知識体系を運用している言語体系を母語としている人」であっても発生する。つまり、個人の能力において言語的な学習・教育が不十分で、個人としての表現語が著しく狭い場合、その個人が実用できる言語表現もまた、「高文脈的」であるかのように見えてしまうことになる。 補足するべき点として、そうした「個人の言語能力」と「言語体系の機能」とは混同して考察するべきものではないことは書き記しておく。例えば、個人の言語的な技能が不十分な場合、論文などの極力「低文脈化」させなければならない環境でも、十分な文章を構築できない場合も当然としてある。

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目次  ## 蛇足:日本語の歴史的な背景 日本語は「質実剛健な音韻体系」と「柔軟かつ強靭な言語体系」を持つ説明できる。その言語体系に対して「日本語は神秘によって生まれたのではないか?」という想像や、あるいは日本語を知らない人からすれば「そのような言語が存在しているなんて信じられない」という解釈になると予想できる。 特に西洋の歴史からすれば日本語という存在は「近代化の頃に突如として現れた不思議な存在」である。物理的な距離が遠いだけではなく、言語的な成り立ちや言語構造そのものも西洋の主要な言語とは全く異なる体系持っているために、どのようにして現代の日本語が形成されたのかは想像しづらいと言える。 しかし日本語は歴史的に、突如として現代の日本語の形で出現したわけではない。現代の日本語の基盤となった言語構造は約1000年前の記録から確認できる。日本語の基盤となった言語の記録としては約1300年前の古い歴史書や作品集からも「漢字の表音表記」によって記述された作品の言葉を確認できる。 比較として、1000年前の欧州における言語とは現代から見て「異言語」と認識される。分類としては「古英語/古フランス語/古高ドイツ語」などとされ、現代の体系と著しく異なる場合は当時の文献を母語として理解することはできない。もちろん、日本語でも古い文献を直接的に理解できるわけではない。 日本語の歴史として注目するべきはその古い文書が「共通語として広まっていった」と説明できる歴史である。比較として、欧州の言語史において特に目立つのは「言語共有の限定性」であり、特に「知識言語」は知識層や支配層の特権とされ、日常言語とは全く別の領域として整備されてきた。 注記しておくが、日本語は現代においても多数の方言を確認することができる地域環境である。また物理的な規模としても、例えば「青森/東京/大阪/福岡」の都市間の距離の合計は、「ローマからロンドン」と比較できる規模を持つ。欧州において日本の規模間でも別言語が独立している例は珍しくない。 また歴史的にも「言語的な違い」があったことを伺わせる記録も存在し、日本はむしろ「言語的な多様性が著しい傾向であった」とさえ説明することがしやすい。特に「日本語における方言」とはイントネーションの違いだけではなく、「使う語彙の違い」が著しい傾向を持っていることを観察できる。 日本語の方言環境を見渡すならば、むしろ「日本が、日本語という一つの言語で統一されている状態」こそ不思議に見えるだろうと予想できる。現代では標準語の整備と、制度教育の普及によって「標準的な日本語」の知識体系が共有されていることで、共通言語で意思疎通できる社会が形成されている。

目次  ### 「質実剛健な音韻体系」が生まれた背景 日本という地域は山岳が多く、人々の生活環境が細かく分断されており、本来、言語的な多様性が深まりやすい地域環境だと説明できる。しかし人の集まる都であれば、その多様な言語性を持つ人々も集まっていたと想像でき、また地方へ出向く役人はそうした人々との意思疎通も必要としたと考えやすい。 さらに日本という地域は、計画的に暮らす必要のある大きな季節の変化に、度々破滅的な自然災害が発生することもある。日本という地域では古代から、社会的な協力関係を持たなければ、長期的な生存が難しい地域であり、広い意思疎通の成立は生存に関わる重大な課題であったと推察できる。 そうした「多様な言語性が生まれやすいものの、互いにとって意思疎通をしなければならない地域環境」によって、古代から、共通語の「音の最小単位の単純化」は生じていったのだろうと予想できる。音の扱いを単純化することで、より多様な人々がすぐに同じ言葉を扱える状態が成立させやすくなる。 日本における現代の標準語の普及や「日本語」のみを母語としている表層的な情報から、おおよそ古くから広く均質な言語を持つ、言語的に安定した国家だろうと誤解されることもあると予想できる。しかし「自然言語の普遍的な法則」としては「安定した集団内」では、むしろ発音体系は複雑化しやすい。 世界を見渡しても、地理的・社会的に安定した集団において使われる自然言語は、その集団の中において尖鋭化していきやすく、音韻が複雑化していきやすい傾向を確認できる。これは安定した集団ほど、繊細な音韻でも共有や継承がしやすく、その傾向が累積していきやすい傾向だと想定できる。 日本においても地域的な言語は複雑化しやすく、また日本でも古い貴族社会での発音体系は現代の日本語に比べてもやや複雑であったとも想定されている。しかし一般的な共通語では、言語的なルーツが多様な人々とも言葉を共有しなければならないため、基礎的な音韻は単純化されたと整理できる。 つまり日本語の発音体系とは、神秘的に突然出現したものでもなければ、あるいは最初から計画的に単純化した状態で存在してたわけでもない。歴史的に「多様な人々が意思疎通するという実用に基づいて基礎的な整備が自然と進み、実用のために共有されていったことで形成された」と説明することができる。 また、特に日本語の歴史の特徴は「共通語としての実用に基づいて整備されていった言語」が広がっていったと説明できる点である。基礎的な言語体系の大本は、日本の貴族社会において記録されて整備された言語構造だが、それが実用のために広く共有されることで、文化的な共通語として機能していった。

目次  ### 「柔軟かつ強靭な言語体系」が生まれた背景 日本という地域は広域では多様な言葉が存在する地域でありながら、それを統合的に扱う必要性があったことで、「単語だけで言語構造を構築すること」は不安定で、「機能語によって言語構造を組み上げて、そこに多様な言葉を入れる形で実用する」という傾向を獲得していったと予想することができる。 また現代日本語の基盤は、日本の貴族社会において記録されて整備された言語構造が大本になっていると説明できる。特に、日本の文書文化は輸入した「漢字・漢語・漢文」から始まっているが、日本においてはそれを「日本の言語体系で実用する」という事を体系的に進めていった歴史を持つ。 古くは「漢文訓読」という「外国語である漢文に対して全体の書き換えは行わず、最小の補記によって日本の言語体系へと置き換えて読む体系」が整備されている。そのようにして、日本語は「多様な言葉を日本語の構造の中で実用する言語構造・機能性」が整備・強化されていったことを理解できる。 そうして整備された文書文化は、日本において貴族だけのものではなく、実務的な技能として広く共有されていった。日本の歴史では、僧侶や役人、知識層や有力者が同系統の文書文化の技能を持って広め、それによって文書や言語のネットワークを形成して、広い協力関係を成立させていたと整理できる。 さらに日本における文書体系は、形式性の固まった安定した記録体系だけではなく、多くの人々による「実践的な試行錯誤」も繰り返される形で、実用に基づく整備が進んでいったと考察できる。特に日本語の文書体系では歴史的に「話し言葉に近い表現語の記録」が、実務の文書体系とは別に併存していた。 例えば約1000年前の随筆作品である『枕草子』の表現は、おそらく当時の話し言葉に近い文体であったと考えられている。日本の文書文化では「和歌」の記録を含め、古くから「話し言葉に近い文体」での記録も多く存在し、そうした表現語もまた文化的な共通語の参考元として機能していたと推察できる。 公的な記録物においては格式を持った形式性に強い表現によって記録されている一方で、文書作品などにおいてはより豊かな表現を実施するための工夫も実用され、あるいは文通などにおいては格式に応じた形式性を持ちつつも、より柔軟で身近な表現も文書で扱われていた傾向を観察できる。 日本の文書体系は近代化に際しても大きな変革が実施されており、より近代的に「実用に基づいた整備」が実施されていき、さらに安定して使いやすい様式として整備を進めていったと説明できる。古代から言語の整備を連続的に進めていった結果「実用性」に則した言語体系が形成されたのだと整理できる。

目次  #### 補記:「文章構造を機能語で組むこと」の必然 ([追記C]) 日本語では、「助詞」や「述語」などの「機能語」によって文章構造を構築する言語体系である。この構造性の最大の利点とは「新語」や「未知語」が存在していても、壊れない文章構造を形成することができる点である。なお、この利便性は、漢語が輸入されるよりも前から機能していたと想定できる。 日本の地域は、ほとんどが山岳地帯で生活環境が細かく分断されていることで方言・異なる言葉が形成されやすい一方で、自然などの厳しさから広域の協力関係も必要としていたという地域環境から、古来から言葉の違いが珍しくなかった状況が想像しやすく、現代に現存する方言の多さがそれを傍証している。 つまり太古から「未知の言葉」と遭遇が珍しくない環境であったと考えられ、「その未知の語がどのような言葉であるのか」を共有するためにも、未知語でも扱いやすい言語構造が社会的な要請として求められていったと想定することができ、「明示的な機能語の体系」が強化されていったと想像できる。 そして、日本の言葉にそうした言語構造があったことで、輸入された「漢文/漢語」という膨大な新語に対しても、日本の言葉の体系に合わせて読むという「漢文訓読」も実用的に成立させることもしやすく、体系化されていったと想定できる。また「漢文訓読」が、その機能性をさらに強化したと想像しやすい。 例えば現代の日本語での「[AなBをCがDでEする]」という文章なら、機能語の明示的な構造性によって高確率で「Aは修飾」「Bは対象の名詞」「Cが主体の名詞」「Dは場所/道具/方法などの付属情報」「Eは動詞」という分類を読み取ることができる。全てが未知語でも、言葉の属性のおおよその想定をしやすい。 一方で、例えば英語において「[Cxx Exx a Axx Bxx with a Dxx]」という複数の未知語を持った文章に遭遇した場合、わずかな機能語だけで「細かい言葉の繋がり方」を確定させることは難しい。言葉の関係性が確定しない場合、語順による役割も判断できず、文章として読むこと自体ができない状態になる。 現代の英語は、複数の言語体系の語彙を併合した過程で、煩雑な法則性が撤廃されたことで、他の欧州系の言語に比べれば分かりやすく、それによって新語も受け入れやすくなっているが、それでも、英語の基盤はあくまでも「主に既知の言葉を扱うこと」を想定して整備された言語体系であると整理できる。 もしも英語の体系において「未知の言葉」を使う場合、多くの既知の言葉と合わせることで、どのような役割をもった言葉であるのかを推測ができる状態にする必要性があると説明できる。そのようにして「既知の言葉」として成立させていった後に、それを組み合わせるということが求められると考察できる。

目次  ### 音韻体系と言語体系による「初歩的な発話の容易性」 日本の言語は「多様な言語性が併存する環境において広く実用できること」という役割を必要とされたことで、単純化された分類の音韻による「質実剛健な音韻体系」と、独立性の高い言葉の構造体を組み合わせて文章を構築していく「柔軟かつ強靭な言語体系」が形成されていったと予想できる。 そのように形成された日本語は、実態として「最低限、理解される発音」の水準についても非常に緩い。非常に強い訛りや癖のある発音でも、非常に不慣れな発音であっても、「単純化された音韻」における必要な音さえ並べられていれば、発話によって基本的な情報を提示することができる。 もちろん現代の日本語では標準語として「模範的な発音」や「分かりやすい文章構造」という概念が存在し、それを主な標準として扱われている。だが、現代でも「関西弁」に代表される非標準的な発音体系や言葉の使われ方が珍しくなく社会に併存している。多様な言語性は現代の日本語でも観察できる。 特に日本語はアクセントやイントネーションなどの韻律が音韻体系の中で「弱い情報」として実用されている。他言語においてアクセントは言葉の識別に重要な場合もあり、アクセントが不完全だと認識性は著しく落ちる状況も見られる。だが日本語では内部において方言の違いも目立つなど、絶対性は無い。 日本語でも言葉の識別のためにアクセントは使われるが、代表的な「標準語」と「関西弁」でもアクセントの傾向が大きく異なる状態を確認でき、異なるアクセント体系が併存した状態で実用されている。そのため日本語のアクセントは、重要となる強い情報ではない「弱い情報・参考情報」だと整理できる。 特に日本語では同じ単語でもアクセントの変異が多く観察でき、それは方言や癖だけではなく「言葉の流れ/言葉の繋がり」でも変異する。有名な[あめ:ame]はアクセントで[飴]=(Candy)や[雨]=(Rain)に変わるが、一般的な発音において[リンゴ飴:ringo-ame][飴]単体でも[あめ:ame]のアクセントは異なる。 そのように日本語ではアクセントが「弱い情報」であるため、アクセントが不全な話者であっても、基本的な意思疎通における問題はかなり抑制されていると説明できる。非ネイティブの日本語発音は、明らかに母語話者とは違う傾向を認知されても、言葉の音の識別に苦労することは少ないと言える。 日本語は「語彙の情報量」が特に膨大であり、第二言語としては母語話者が10年~20年以上もかけて習得する情報量の、短期間での学習を目指すため困難だと説明できるが、その情報量を持つ言語でありながら「最低限の発話において求められる水準」では、むしろ「やさしい発音体系」であると考察できる。

目次  ### 「話し言葉を基盤とした言文一致」という特殊性 世界的に近代以降、国家的な政策として、教育の効率化や知識普及のために「話し言葉と文書言語の体系を近づける」という整備が実施されることが多い。注記するべき点として世界的な言語の歴史として、話し言葉と文書言語は、通常「一致しないもの」として整備されてきた歴史を見ることができる。 そもそも歴史的な文書の記録の文字、ヒエログリフなどを見渡すことで、文書の始まりは話し言葉を記録するものではなく「情報を並べる記号の集合体」として整備された歴史を見ることができる。あくまでも情報を書き留めるものであって、元々は日常の話し言葉を記録できるものでもなかったと言える。 原始的には「意味を表す文字」を並べることで文書が形成されてきたため、アルファベット文字のような「音を表す文字」の発明は画期的であったと推察できる。しかし、文書体系はあくまでも「情報を並べる記録物」であるために、表音文字で言葉を記録していても、話し言葉の記録は稀であったとされる。 特に「記録物や文書で使われている言語体系」と「日常で使う話し言葉の言語体系」は、歴史的に乖離していく傾向がある。特に、文書の言語は記録として高い安定性がある一方で、話し言葉は歴史的に記録物が乏しいことで安定性が非常に低く、やがて変質してしまうことが珍しくない問題が存在する。 たとえ、ある時期の話し言葉が記録されたとしても、それが強固に継承されていなければ実際に使われる話し言葉は徐々に変質していき、古い話し言葉は「理解の難しい古い文書の言語」になっていってしまうのである。そうした不安定さもあって、歴史的に話し言葉の記録は重要性が低かったと予想できる。 そして近代において、乖離した状態からの「言文一致」が実施される際には「記録物が多いことで参考にしやすく、体系も整備されている文書の言語」の言語構造を基盤として、そこに日常語の語彙を吸収する形で言文一致が進められていくと説明できる。それは、どの言語であっても同様だと言える。 日本において「話し言葉に近い体系で言文一致が実施された」のも例外ではなく、それを実現できたのは「記録物の多い文書の言語の中に、話し言葉に近い言語体系を扱った記録物が十分に多く存在していた」からであると説明できる。日本語における、その歴史の深さは1000年以上遡ることができる。 日本語の文書文化では、近代以降の整備でも「実用性」に基づいて、格式のある形式性の高い文書でも実務に広く関わる文書であれば、難解な表現体系は「使いやすい言語体系」への翻訳や整備を実施されていった。そして、その整備によって実用性が致命的に損なわれることも無く、十分に機能していった。

目次  #### 日本語の文字体系の「実用に基づく発展」 日本語の文字体系もまた「実用に基づく整備」によって、形成されていったものであると説明できる。日本の文書文化は輸入した「漢字・漢語・漢文」から始まっているが、日本においてはそれを「日本の言語体系で実用する」という事を体系的に進めていった歴史を持っていると観察できる。 日本では当初「漢字を表音文字の代わりとして実用する」という体系を整備している。実際に『万葉集』では4000作品以上が主に漢字を表音文字とする表記法でまとめられていることを確認できる。実務文書では当然、漢字は漢字の意味を持って実用されていった一方で、音を表す記号としても転用されていた。 そうした実用に基づいて、やがて表音文字として表記する漢字を簡単な表記にしてしまう体系が整備され、「仮名文字」が成立した。より厳密には「漢字の一部のみを記す省略表記のカタカナ」と「漢字の極端な崩し字のひらがな」の2系統の仮名文字が別々に整備され、別々に実用されていった。 また日本語が「単純な発音体系」だったことで「仮名文字」の種類も膨大化せず、非常に共有もしやすい文字体系として成立したと考察できる。現代の仮名文字では「基礎的な形で各46文字×2系統」で構成されており、現代の制度教育では一般的に、1年目の半分程度で仮名文字の学習が達成される。 実用においては細かい発音の変形などが存在するものの、「基本として1つの字に、まず1つの音」という直感的な様式で学習を進めていくことができ、そこから発展的に変形や、やがて漢字などの詳しい学習を進めていく。実用に基づいて整備されていったことで、学習性にも人間的な合理性を観察できる。 仮名文字が整備された日本語の文書体系では、漢字と仮名文字の併用する様式がさらに広く実用されていった。漢字体系と比較して仮名文字だけでは意味を記すのに不十分であり、しかし漢字体系だけでは筆記・構成・読解に手間がかかる。実用上の利便性の探究によって、併用されていったと考察できる。 元々「漢字を使った表音表記」を実用していた自体でも「漢字の意味表記と、漢字の表音表記の併用」という書記体系は実用されていたが、仮名文字の整備によって、漢字はより柔軟に応用されるようになっていった。計画性の薄い発展のようにも考察できるが、しかし「実用に基づいて」普及していった。 実用においては「必要な情報が伝わること・必要な情報を伝えられること」が最も重要であり、日本語の文書体系では歴史と格式のある形式性を必要とする文書以外では、広く様々な文書の表記方式が試行錯誤され続けていた様子を確認できる。そして有効性の低い様式は、淘汰されていったと推察できる。

目次  ### 盛んな実用に基づく積み重ね 日本語の文書体系は、広範囲における試行錯誤も重ねられながら、より広く実用しやすい様式へと収束していったっと説明できる。また、そうした広い実用に基づいて整備されることによって、言語体系としても、日本語の言語構造における柔軟性や強靭さが、より発展的に整備されていったと考察できる。 日本語の文字体系は確かに、アルファベットに比べて遥かに文字種が多い。表音文字の1系統の基本形46種だけでも、主なアルファベットを使う言語の文字種の倍近くであり、しかも日本語の表音文字は2系統を併用する。特に「同じ音を使う異なる表記の系統」が併存する様式は、非常に奇妙と言える。 一方で他の漢字圏から見て、漢字体系としても逸脱した状態である。一般的な漢字圏では、漢字の読み方は基本1パターンだけで、多数のパターンを持つ例外は抑制されている。日本語では漢字に「意味の役割」を任せ、「音を表す役割」が体系として分離できたことで、非常に多彩な読み方を許容している。 そのために日本語の文字体系は「複雑すぎる上に無駄も多い言語体系である」かのように考えられてしまいやすい。あるいは日本語話者でも、文字体系が他に比べて複雑であることには自覚的である。だが「世界有数の規模の国で、広域・大規に実用可能な水準でまとまっている」という事実がある。 学習性においても、社会が大きく教育制度が充実しているという理由を上げられやすいが、その前提として「教育制度の充実を可能とするほどの知識層の基盤が形成されている」という実態において、十分に妥当な学習性を有していることを説明できる。そこに「社会を拡大できた」という実績も含まれる。 特に日本における「庶民教育」では、制度教育よりも前から広がっていた歴史を見ることができる。近代化による制度教育の整備よりも前から、文書を扱える知識層が多く生まれ広く存在しており、安定した社会では庶民が教育を求め、知識層は仕事の一つとして教えるという文化が形成されていった。 もしも、日本語の文書体系について決定的に学習性が悪ければ、そもそもとして広域に文書を扱える知識層が存在する環境の成立自体が困難であると考えられる。もしも、決定的に難しく、基礎教育にも長大な時間をかかるのなら、学習側にも教育側にも労力が見合わず、広がりは抑えられたと想像しやすい。 そうした想定から考察するのであれば「多くに人にとって学習が致命的に困難ではない水準であったからこそ、広域へと広まった」という想定が妥当であり、より厳密には「多くの人にとって学習が可能な様式だけが一般的な文字体系として共有されていき、難解な様式は淘汰されていった」と整理できる。

目次  #### 稀有的な体系の成立を実現させなければならなかった環境 世界の文字体系を見渡せば「音として読めることを前提とした表音文字の文書体系」と「意味として伝わることを目的とした表語文字の文書体系」は、その設計思想において相反する体系であると想定できる。実態として、世界中の文字体系を見渡しても、その表音文字と表語文字の複合的な体系は稀有である。 それは「音として読めなければ文字として不効率である」という思想は、表語文字の体系を理解しがたい。特に現代で世界的に使われているアルファベット・ローマ字を使った文字体系は、基本26文字の組み合わせ表記によって限りなく多彩な言葉を表記することが可能で、表音文字としての効率性は高い。 一方で「意味を区別できなければ記録文書の文字として不効率である」という思想は、表音文字体系は便利だとしても、「文書のための文字」としての有効性を損なうものであると想定できる。現代の中国語では、アルファベットの発音表記を整備して学習性を確保しているが、あくまでも補助的なものである。 日本という環境において「漢字と仮名文字」という「表語文字と表音文字を組み合わせて併用する文書体系」が実用されていることは、双方の文字体系の一般的な思想から外れている。だが、日本においては文化的にも、実用的にも、表語文字の漢字を輸入しながら、表音文字の実用も不可避であった。 日本の言語文化では、文書文化が輸入される時点で既に、音韻の配列による細かい表現技法が成立していたであろう様子が伺える。それは日本最古の歴史書や文書に「漢字の表音表記」で記録されている「和歌の表現」において、非常に細かい言葉の表現・音韻による表現を確認できる。 当然、文化的な成立の順序として、漢字文化が輸入された後に日本の言語としての細かい表現の体系が出現したとは考えにくい。つまり、文書文化が輸入されるよりも前から、日本の言語には細かい表現の体系が存在して、文書文化が輸入されて国内でも記録できるようになった際に記録されたと想定される。 しかし漢字は日本へ輸入されるまでにも長い歴史の中で整備されてきた文字体系であり、記録文書や知識体系のための文字としての完成度は非常に高く、それによる格式もあり、そうした実用に基づいて、漢字の持つ機能性もまた、日本の文書文化の中において高度に実用されていったと言える。 「日本の言語体系にも実用的な細かい表現技法が存在し、文書言語の漢字体系の表記だけでは表しきれない課題」が存在していたと観察でき、しかし文書的な実用において漢字体系は完成度も高く「漢語の知識体系」を扱うためにも使わなければならない。そのように2方向の要請が併存した。

目次  ##### 文字体系の不完全性の合意 日本の文書体系は「口語として細かい音韻表現が実用されていた言語体系の文化へ、高度に整備されていた表語文字の文書体系が輸入されて、柔軟に実用される」と説明できる稀な経緯から、輸入した表語文字から表音文字を創出してまで「表語文字と表音文字の共存」という体系が成立したと整理できる。 しかも現代では「部分的に併用する」という様式ではなく、言語体系において不可分なほど融和的に実用されている。最も象徴的な融和性が、漢字体系の語彙を使う方式と「話し言葉で使われていた語にも漢字を割り当てる」という使い方の併存であり、「意味を持つ漢字」という形態を高度に応用している。 現代において「数字」として共有されたインド・アラビア数字[1234567890]が世界中で広く利用され、さらに多くの場合において「文章の内部に配置される場合もある」ように、言語の実用において「瞬間的に認知できる意味を持った文字」の効率性そのものは、非常に高いことを理解できる。 さらに「数字」はその組み合わせによって、桁数の変化などに対して自然と各言語における数字の読み方へと柔軟に変換されることを確認できる。非常に単純な文字での実例ではあるが、人間は文字を見た際に、その組み合わせによって柔軟に読み方を変換できることを、世界中多くの言語文化で確認できる。 これは、人類が「親しんでいる言語体系と、意味のみを司る表意文字の併用」を自然と実用できる認知能力を持っている事実として示せる。「日本語の漢字の読み方」は「数字」よりもはるかに複雑な体系だが、人間の普遍的な認知能力の範疇に収まっている「図柄の認知の1パターン」として整理できる。 日本語の文字体系における「日本の漢字の読み方」という特殊な体系、1つの表語文字に対して多彩な読み方を併存させている方式は、「整備された文字体系」の設計思想から見れば、全く不整合な文字の運用であり、体系として「不効率であるはず」と考察されやすい言語体系であることも理解できる。 しかし、そうした設計思想とは「文字体系は、文書上において完結できる、言語的に完全な体系を目指すべきである」という哲学・理想論に基づく理解であると言える。そして、それだけを追究してしまうことは実態として、人間的な「使いやすさ」という観点が軽視されていると考察することができる。 一方で、日本語の文字体系は「文書上における整列された完全性」を実用に基づいて放棄した。日本語の文書文化では、初期の「漢文訓読」の体系においても「文書を読むための補記」が当然として見られ、「文字体系とは、完全な状態ではない」という文化的な合意が形成されていった経緯を推察できる。

目次  ##### 不完全性の合意による合理性 日本語の文書体系では早期から「文字体系とは完全な状態ではない」という前提を共有し、極めて柔軟な試行錯誤が実施された。そうして成立した現象が「意味を表すための漢字」「音を表すための仮名」という役割分担と、それによって生じた極めて多彩な「日本語の漢字の読み方」の許容だと整理できる。 しかし、まず「概念を固定する漢字」と「表現を操作できる音の仮名」の併用によって、日本の言語が持っていた「機能語による文章構造の明示」や「述語の変形」などを使った自在な表現操作の機能性を維持したまま、単語においては非常に多くの概念を短く、しかし詳細に示すことが可能となった。 また日本語は文字の役割分担によって、「漢文訓読」からの読み方を含め「親しまれている言葉の音を残しながら、文字において漢字を上乗せすることで意味を分かりやすくする」という様式を広く実用できるようになった。特に「単純な音韻を維持しながら、細密な概念を扱いやすくなった」と考察できる。 体系としては「漢字の読み方を増やす」という形だが、日本語の言語体系として生じていた現象は「従来の語彙に対しても、より明確な意味を示せるようになる」という形である。これにより「発音による言葉もまた、完全な状態ではない」という合意も持つことで、「音韻の複雑化」も抑制したと推察できる。 日本語以外の一般的な漢字体系では「多数の漢字を細かい発音の操作で区別する」という発音の複雑化が生じており、その他の言語においても概念を細かく区別するために発音を複雑化または長大化させることで多くの概念を使い分ける必要性が生じる傾向が見られるが、日本語では音韻の完全性も妥協した。 これにより「漢字体系が持っていた知識体系の複雑な概念」さえも、発話においては日本語の単純な音韻体系に基づいて扱うようになる。それによって、漢文に由来する分かりやすい言葉や使いやすい言葉が一般的な語彙として実用しやすい形で共有することができたと整理することができる。 そうした経緯から日本語では「本来複雑であるはずの漢字を、単純な音韻で実用してしまう」という形によって、極めて多くの「同音異義語」を許容することになってしまったとも説明できるが、しかし「複雑な音韻の扱い」という学習の障壁を消失させて多くの人が使いやすい形へ整理されたと言える。 分かりにくい場合や混同する可能性がある場合も「実用において適宜、言葉を補えば十分である」という経験則によって妥協され、そのように実用に基づいた整備が進められていくことによって、基礎的な学習性を著しく容易化し、結果「知識の民主化」を可能としやすい言語体系が成立したと説明できる。

目次  ##### 学習を要請・促進する言語体系 日本語の体系では結果的に「学ぶことを放棄させるほど難しいわけではなく」しかし「あまり学ばないまま実用できるほど簡単でもない」というバランスが形成された。「教われば学んだ部分をすぐにでも使えるが、知らないことを知らずに使えるわけでもない」という形は、学習を促進させたとも考察できる。 日本語文化においては、分からない漢字や言葉について「調べる・質問する」という行為を当然としている。これは文字や言葉の不完全性を前提としていることで「知らないことや分からないことは当然としてある」という共通認識が形成されやすく、必要に応じて教え合うことも促進していると想定できる。 また日本語は、基礎的な文章構造を汎用性の高い助詞や述語の変形などのほぼ一律の「機能語」によって構築する。全ての言葉が強靭な構造体の中で扱われているため、「分かりにくい言葉があったとしても、文章全体の輪郭は崩れず、分からない言葉だけが分からない状況を成立させやすい」と整理できる。 しかも、日本語では文章構造で概要が示されることで、未知の語が出現しても「機能語や言葉の中での位置づけから、どのような領域に存在する言葉であるのかは理解しやすい」ようになっていると説明できる。未知の語に付随している言葉から、その言葉がどのように使われる語であるのかも理解しやすい。 日本語では未知の言葉に対して「単語」ごとに学習を進めていくことがしやすい。新しい語彙を学習する際も「動詞」「名詞」「形容詞」などという専門的な用語によるラベリングではなく、例文を1つ2つほど確認するだけで「どのように使うことのできる言葉であるのか」をすぐに理解することができる。 そして、学習においては「どのような言葉であるのか・どのようなときに使う言葉であるのか」を感覚的におおよそ理解した上で、言葉の意味を覚えることだけに集中して、理解を深めていくことがしやすい。当然、文章の構造が強靭であることで、新しい言葉を広く実用していくこともしやすいと説明できる。 日本語は一見「不完全な言語」のようにも見られるが、そもそも言語の完全性を成立させるためには、人間がその完全性を万全に実用できない限りは不完全な状態に陥るものである。むしろ、日本語は「言語の不完全性」を合意することによって、人間的な実用性や運用効率を高めていると推察できる。 そして実際に、日本語は母語とする地域において非常に高い教育普及率を実現し、また日常範囲で必要な語彙量の目安だけで10,000語とも言われる膨大な言葉を実用範囲に収めている。さらに学習性だけではなく、発展的な応用でも現代文明の先進技術を安定して運用できるほどの発展性を両立させている。

目次  ###### 補足:比較としての繊細な言語と言語の普遍的な法則 他の言語は、日本語の機能語のような安定した構造を持つとは限らない。特に英語では「単語の並び方によって、文章の構造が決定される」という性質上、未知の語が出現した場合、注意深く文章の構造を観察する必要性が生じると言える。素直な構造であれば推測しやすいが、注意は必要である。 また言葉を理解したとしても、英語のように文章の構造が繊細な言語体系である場合、使い慣れない言葉を実用する際には慎重さも強く要求される。珍しい表現ほど解釈の難しい使い方となってしまう恐れも大きく、より分かりやすい文章を構築して使わなければ、全体の理解可能性を著しく損なう危険がある。 しかも、英語のように繊細な発音体系で構成されている場合、言葉の認識自体に不安定さが生じる。また新しい言葉を学習する段階においても、発音上の難しさがかかることによって抑制される傾向が想定される。そして、その実態としても、英語の日常的な常用語は慎重に限定されがちであると観察できる。 英語のように「高効率な法則性を共有することによって言語の効率性を上げる」という理想は、現実的な実用性において極めて負荷が高く、成立させることは難しい。また「繊細な発音体系によって短くとも多彩な語彙や表現を増やす」という効率性も、現実的には言語の継承や共有の難しさも生じさせる。 日本語はその言語体系として「難しさ」を強く自覚させる。だがしかし、それは「言語」というもの自体が原理的に「少なからずの難しさを抱えざるを得ない」と説明するべきである。世界に存在する情報を詳細化するためには語彙を増やさなければならず、現代文明において言葉の複雑性は回避できない。 しかも言語は、物理的な現象として「個人個人の言語感覚に従って使われる」と説明できるものであり、あらゆる言葉の理解を完全に一致させることは、実態として困難なことであるというべきである。設計思想において「言語の完全性」を信じるとしても、実用において完全性を成立させることは困難である。 さらに、言葉によって論理を構築して説明することにも相応の複雑性が発生する。人間は多くの言語情報を参考にして、言語的な論理の操作方法を理解し、言葉によって示される論理を理解できるようになっていくものである。どのような言語であっても、論理を容易に可能とすることはないと言うべきである。 特に、知識層の理想によって設計されている言語ほど言語の完全性が目指されがちであり、しかし実用においては現実的な不完全性による少なからずの不都合に直面する。日本語とは、実用に基づく積み重ねによって、「言語の不完全性」や「言語の難しさ」を理解しやすい言語体系が形成されたと説明できる。

目次  ###### 蛇足:真摯な長話 日本語文化では、そのようにしてどれだけ深く学習したとしても、むしろ深い学習を進めるほどに「言語による伝達は、不確実性をゼロにすることはできない」という「自然言語の普遍的な法則」を理解しやすい。日本語文化では「異なる人同士で、言葉の認識が一致することは当然ではない」と理解しやすい。 補足として、一方で欧州などにおける主要な言語文化では「言語に対する強固な信頼」と呼べる意識を観察できる。歴史的に「正統な言葉こそ、真理の理解に必要となる」という言語への思想が見られ、特に「情報は全て言語化可能であり、言語化できない状態は技術の不足である」と解釈されやすい。 一般的な言語の運用においても「理解のためには正しく言語化することが不可欠である」と説明できるような文化の傾向を観察できる。英語やドイツ語、フランス語などの強い形式性や言語的な作法には、そうした「言語への強い信頼」といえる文化的な背景も要因の一つとして関わっていると説明しやすい。 「発話においては、発音体系の繊細さ」や「文書においては、長大な文字列の読解にかかる負荷」などの影響も想定できるが、歴史的な背景も含めて、英語文化などにおける固い文書、論文などでは「必要な情報を揃えつつ、可能な限りシンプルに構成すること」が一般的な作法とされ、美徳とされている。 一方で、日本語文化では、東洋思想においても多い「真理は、表層的な言語によって理解できるものではない」という思想が根強く見られる。もしも言語によって、詳細な説明をしようとするのであれば、おおよそ「明らかに困難な情報伝達の成立を試みる行為になること」をやがて自覚することとなりやすい。 日本語文化では、「言語の理解とは人間的な認識の上に成立する」という物理的な現象への理解をしやすく、「どれだけ細密に書いたとしても、それを理解できるかどうかは、相手側の感覚にも大きく左右される」という「自然言語の普遍的な法則」に基づく問題に自覚的であると説明できる。 そのために日本語文化では、特に直接的な問答をすることのできない「文書」の領域で詳細な説明を試みる場合、「非常に長大な話を構築する場合も多い」と観察できる。やや執拗なほど、必要に応じて同じ情報に対する繰り返しの説明を実施することさえ当然とする。「長話」になることもよくある。 しかし、日本語文化では、「言語は不完全である」という前提があるため、多重の説明によって意味の安定性を構築・創造することこそ「真摯な説明」になりうる。もちろん、過剰に無駄な長話になってしまうことは本質的に必要な情報を分かりにくくするため、分かりやすくするには技能も必要となる。

目次  ##### 蛇足:融和の難しさ 日本に近い朝鮮半島地域でも、限定的に「漢字と表語文字の併用」という様式が一時期だけ実用されていた。歴史的な経緯としては、漢字圏として実務や知識体系は漢字体系が実用されていた一方で、口語体系が乖離・分離した状態で存在し、文書体系の転換において併合・併用していった形である。 朝鮮半島の文字文化では、口語体系のために「発音記号の組み合わせ」で多彩な発音を高精度で表記できる表音文字が独自に整備され、それを普及させて中心的な文字とした。表音文字と漢字の併用もされていたが、社会的な事情も含め、表音文字だけを中心とする方針へ切り替えた歴史を見ることができる。 朝鮮半島の表音文字は「完璧な表音文字」を目指す設計思想で整備された「工学的な文字」であると説明できる。それもアルファベットのように直線的な整列ではなく、「発音の情報を持ったパーツを組み合わせた1組ごとで実用する」という、漢字体系の思想を継承した表音文字体系だと説明できる。 朝鮮半島の口語を高精度に表記することができる文字体系が作られ、元々口語のみによって実用されてきた言語体系を基盤としていたため、言語的に妥当な規模の機能性を持ち、文字体系として自立することができたと言える。そして、旧来の知識層で使われていた漢字体系の必要性を弱めたと推察できる。 さらに朝鮮半島の発音体系はやや複雑な音韻を使っており、表音文字のパターンもかなり多く、やや複雑と説明できる。そこに漢字までも併存させることは過剰な負荷であると考えられてしまうことも自然である。やがて表音文字だけを中心として、漢字は例外的に使うこととした経緯を考察できる。 朝鮮半島での文字体系における現象は、導入する順序として「整備された表音文字を基盤とした言語体系に対して、追加する形で表語体系を導入することが簡単ではないこと」を示していると言うべきである。表音文字体系だけで十分な状態を成立させてしまったことで、融和性が低かったと言える。 なお朝鮮半島は大陸の一部とはいえ半島地域であり、地形的にやや閉鎖された地域であったことで、漢字文化圏でありながらも言語体系としては離れていき、口語体系の独立と尖鋭化しやすい程度の安定性はあった様子を想定できる。その口語体系を文字化するために独自の文字体系を開発する必要性があった。 また、かといって漢字などの表語文字を文書体系の中心としたまま、口語体系のための表音文字を複合させる様式へ拡張することも非常に難しいと想定できる。実質的に「2つの言語体系の融合」であるために手間が大きく、文書体系としての安定性を損なう危険性も考えられ、整備自体が難しいと想定できる。

目次  ##### 蛇足:「稀有的な体系の成立」 日本語が、表音文字と表語文字を共存させる体系を成立させることができたのは、前提として「元々口語体系が他言語を併合できる言語構造を持っていたこと」、そして実用に基づいて、非常に長い時間をかけ「外来の文書言語を、母語へと飲み込む作業を実施してきたからである」という理屈で整理できる。 日本地域では、地理的に「方言など異なる言葉が形成されやすい」一方で「少なからずの交流も不可欠とする」という言語環境から、言語体系の過度な複雑化が妨げられたと推定できる。またその環境から、言語構造においても「異なる言葉を受け止めるための機能性」が整備されていったと想像しやすい。 そうした言語環境に文書文化として漢字体系が輸入された際にも、実用に基づいて、それを母語の言語体系において扱う「漢文訓読」の体系を整備した。そして場面に応じて「漢字体系に対して、漢語として読むこともあれば、母語で読むこともある」という柔軟な使い分けが実用されていったと考察できる。 しかも日本における文書文化とは貴族や官僚といった限られた人々の専有物ではなかった。文書体系とその言葉は「共通語」の役割も持った実務技能として広められ、多くの知識層が扱う技能として実用されていった歴史を確認できる。そうした広い実用によって、一緒に「言葉」として広まったと整理できる。 つまり文書文化などが実用に基づいて広まっていくことで、「共通語」の中に「和語の語彙」も「漢語系語彙」も併存して広められていき、2つの言語体系の語彙が、日本の言語体系の中に融和する状態になっていったと考察できる。どちらも実用的な状態で使われ続けてきたからこそ、言語として共存した。 そうした歴史的背景から、日本語の文書文化において、漢字を捨てることは実用性を損なう状態であり、かといって当然漢字のみによって文書を扱うことも実用性において不便であると言える。そのように「2つの言語体系が混合した状態」となり、「稀有な体系」が成立したと説明できる。 日本語は客観的な評価において「論理的な設計図を想像することが難しく、不安定で不効率さを疑いやすく、不合理な言語体系とも思える」ような体系である。だが「長く膨大な実用に基づいて成立した状態」という理屈によって、実態において、先進的な社会の公用語として機能している理由を説明できる。 学習性において、教育体制が万全という理由以前に教育体制を万全に普及できているという実態、またその内容も1年目から簡単な書籍の読解や、簡単な作文も開始する早さを確認できる。しかし、その基礎的な学習性を確保しながら、高度な応用においても先進的な技術を安定して運用する環境を支えている。

目次  ###### 蛇足:「実用を軽んじた結果の実例」 「おおよそ論理的な設計を目指して整備されながら、しかし実用において著しい不整合を許容している言語体系である」と説明できる大きな実例として、事実上の国際的な共通語として実用されており、また国際的な学術言語としても広く機能している「英語」の存在を提示することができる。 英語における最も大きな課題とは、「字と音の不一致」であり、学習者は母語話者であろうとも、文字と音を繋げて理解するために膨大な労力をかけた学習を要求されると説明できる。これは歴史的に整合性を整備することが困難であったという社会背景も存在するが、英語はそれを許容する体系となった。 またその一因として、英語の文字体系は「シンプルに整備することによって、より広く使われやすい文書体系」として整備されている一方で、実態としてやや繊細な発音体系をしており、その発音の精確な継承には「親身な教師による指導」を必要とする繊細さであった不整合から考察することができる。 英語の発音は習得に親身な教師役を必要とするほど繊細であったにもかかわらず、性急な整備と急速な普及を進めていった影響などから、発音の変化が著しく生じていった歴史を見ることができる。しかも「文書体系は安定させなければならない」という社会的な要請によって、表記の変更もできなかった。 加えて、英語の設計は「文書体系を中核に据えて整備された言語体系」であるために「発音のしやすさ・発話のしやすさ」が軽視されていたと想像しやすい。自然な発話に合わせて整理されていたわけではないために、実用において常に模範的な発音を実施することが困難であったであろうと理解できる。 英語の実用では発話の省力化のために子細な発音は非常に弱まりやすく、詳細な聞きとりが難しくなる。そうした発話環境で共有されていった発音では、音の欠落が進んでいくことを現代においても確認することができ、普及の当初から著しい欠落が発生していった歴史を言葉の文字列が強く示している。 また「文書体系を中核に据えて整備された言語体系」であるために、言葉の基本構造が「丁寧に考えて整列させた状態で成立する」という形式性を抱えてしまっていることで、定型フレーズ以外で会話する場合には、1文として計画的に言葉を組み立てて分かりやすく閉じるという作法を強く求められる。 そうした言語的な不自由さは、言語として楽に使いやすいものではないと想像しやすく、その理屈によって英語が楽に会話するための「定型フレーズ」「慣用句・イディオム」などを多く創出させる文化的な傾向を理解できる。自在な言語運用には、幼少期からの高度な教育と学習を必要とすると想定できる。

目次  ####### 蛇足の続き:「話し言葉と書き言葉の分離状態」 英語に対して最も目立つ課題である「字と音の不一致」を度外視するとしても、実態として話し言葉の語彙と、書き言葉における語彙の乖離、あるいは接続性の乏しさは結局のところ著しい傾向を観察できる。特に書き言葉で使われる語彙は、長大な傾向が強く、日常会話において運用するには発音が重い。 英語の話し言葉の語彙は「比較的、明晰に聞きとりやすい語彙、または混同が生じにくい語彙」を中心として形成され、なおかつ、発話は「発音しやすい短い語彙の組み合わせ」へと集中して実施されている。聞き慣れない珍しい単語は、直感的な識別が難しくなるために、慎重に使う状態になる。 英語の会話における頻出語の実態として「少ない単語の組み合わせによって、多彩な表現を実施する」という様子が確認でき、単語ごとの使われ方が著しく多彩な傾向を観察できる。特に「英語に対する最新の文化的な理解を深めていかなければ、日常語の理解は難しい」と考察しやすい。 一方で、書き言葉の語彙は「単語として明晰で安定している語彙」を中心とすることが「正統な文書作成の作法」として考えられており、それによって「知識言語」としての機能性を運用できるものの、実用するために求められる技能と手間は重い。特に、日常会話の語彙とは異なる語彙が求められる。 英語の話し言葉と書き言葉は「言語としての基本法則」は共有されているものの、語彙体系としてはかなり分離した関係にあり、文書として正統に成立させるには文書のための語彙を理解する必要性が大きいと観察できる。しかし、単語ごとに文書での実用例を観察して、一つずつ使い方を学ぶことになる。 また、英語の話し言葉の主な語彙と書き言葉の主な語彙はそもそも「言語的なルーツが異なる」とも説明されるほど、同系統の意味を持った言葉でも、言葉・文字列の傾向が全く別物である。そうした事情からも、英語の話し言葉に習熟したとしても、英語の固い文書は理解が及ばない状態に留まりやすい。 さらに書き言葉の語彙は、多くの概念を詳細な区別をするために長大な文字列となっている傾向があるために、一つ一つの覚える手間もやや大きいと想定できる。記憶しやすくするために音を伴って覚えようとしても、正式な発音は個別に調べる必要があり、また発音の長さから、その記憶も容易とはならない。 そうした「同じ英語でも、文書言語が一般的な日常語からあまりにもかけ離れすぎている」という問題は文化的に根深く、実態として英米では「平易な言葉で文書を構成する表現体系[Plain English]」を制度によって整備しなければならなかった歴史も観察できる。現実的に、実用に基づく整備が求められた。

目次  ####### 蛇足の続き:「設計思想」と「実用」 英語は実績として、「詳細な文書における高い実用性を発揮している知識言語である」と説明できる一方で、動的な実用においては発話の難しさや発音体系の不安定性を論じることができ、また語彙体系の事情によって知識層から外れた一般的な領域から知識体系を見渡すことは著しく困難な傾向も観察できる。 現実的に、事実上の国際的な共通語としても実用されている一方で、必ずしも理想的であるとは言い難い課題を抱え込んでいる言語であると整理できる。しかも発音において「明らかな不整合性」を抱えながらも、それを解消することも現実的ではないために、もはや当然のこととして許容してしまっている。 理想的な設計が、必ずしも実用において成立するわけではない。あるいは、英語がそれほどまでに「明らかな不整合性」を持った言語であったとしても、「事実上の国際的な共通語」として機能している実態から考えれば、「多少の不整合さが、言語の致命的な欠陥になるわけではない」とも理解できる。 英語は「日常語として使われやすい単語」が多彩な使われ方をしていることで、事実上「言葉の意味の判別に、周囲や前後の情報に基づく判別、即ちコンテクストを必要とする状況は発生している」と説明するべきである。また実際の発音の省力化・省略を識別にも、実態として文化的な習熟が求められる。 言語の物理的な問題とも言えるところであるが、英語もまた「推測の必要性」という事情を一切回避しているとは説明できない。それを回避するためには高度な言語技能が必要であり、また高度な言語技法は当然として、話者にとっても受け手に取っても運用に大きな負荷がかかり、常用は難しい。 英語は、おおよそ「真面目に学習を進めれば、万人が万全に使うことができるはずだ」という理想論に基づいて、多少の難しさがあってもそれは「言語側の欠陥ではない」と理論武装をしてきた。しかし母語話者さえ「万人が深い学習を進めるわけでも、進められるわけでもない」という現実の実用に直面した。 実情として「実用に基づいた人間的な実用性の拡張」とも説明できる「発音の著しい簡略化」を統制することも対応することもできず、「発音の多様性」や「字と音の不一致」はさらに深められていき、基礎的な文書読解の学習性は大きく損なわれ、学習者全員へ長い教育を課す文明的な負債となっている。 そして「自然言語の普遍的な法則」として、母語でも、特に幼少期の高い学習効率を発揮する時期に十分な学習環境を得られなかった人は、脳神経における言語運用能力の構築に大きな影響があると考えられ、物理的な不利を抱えることになり、その不利は多くの家庭環境で次世代へも継承されると想定できる。

目次  ###### 蛇足:「実用に基づく」ということ 英語とは対照的に、日本の言語は「言語の基盤において、歴史的な実用に基づいて、人間的な効率性が形成されていった」と説明できる。例えば「様々な人々と使うことが前提になって細分化や複雑化を抑制された音韻」を中心として、発話において伝達の成功率を最重要とした発音単位を持つ音韻体系を持つ。 言語の構造においても、情報の理解可能性を助ける表現の整備が進んでいき、明示的な機能語によって文章の構造を構築できることで、あらゆる言葉を安全な運用もできる機能性を持つ。文書体系では、文字の不完全性を合意することで、高度な意味の層を分離し、段階的な学習を進められる様式とした。 複雑とされる文書体系において、母語としての学習性では、一般的な水準として早期からの初歩的な文章を読み書きできるようになり、制度教育では1年目から生徒が個人で教科書を所有して実用させながら教育を進める。そして、十分に広い教育制度を成立させること、そのための人材の育成を実現している。 また「単純であるから学習性が高い」のではなく、「基礎部分における単純性が整備されていることによって学習性が高い」と言える。日本語では、その基礎の上で、発展的な知識体系を徐々に積み上げていく体系を整備している。柔軟かつ強靭な基礎を持ち、あらゆる情報を積み上げていくことができる。 実態として、日本社会は日本語を中心としたまま、先進的な文明社会を長期的かつ安定的に運営することができている。日本社会では、国際的な知識言語である英語を得意とする人は珍しいとさえ言える環境でありながらも、実態において高度な科学技術を、世界的にも先進的かつ安定的に運用し続けている。 日本語は実用に基づいて整備されてきた体系であり、「本質的に無理のある様式」はその実用の歴史の中で淘汰されてきたと説明できる。日本語は、表層的には不整合性を論じれる体系を持ちながらも、現実的な実用において十分な実効性を確保できる程度の妥当な機能性が構築されている。 日本社会の能力に対して「民族的に特別であった」と説明することは、どのように特別であったのかの理解を放棄した想像である。「言語の実用性によって、その社会の運営が実現している」と説明する方が妥当であり、またその言語の実用性は機能的な部分にも、歴史的な背景にも妥当な説明ができる。 日本語文化では度々「高文脈的で、それを扱える日本人が特殊である」といったステレオタイプを説明されがちである。だがそれは、その話題の中心にあるはずの「言語の性質」を完全に無視した言説である。そして、言語の性質を分析すれば、日本語も「言語の普遍的な法則に基づく一例」だと解釈できる。

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目次  ## 蛇足:現代の主要な欧州系言語の歴史的な背景 欧州における言語史、特に「文書言語」の歴史では、「広い実用」よりも「深い実用性」が求められてきた。中世欧州では、著しい「言語への強い信頼」に基づいた「正統な言語は正統な力を持つものである」という思想の歴史を観察できる。そして、それが英語などの文書文化の基盤となっている。 欧州の歴史において中世では、文書の整頓が行われながら母語として使う地域の途絶えていた「ラテン語」が「国際的な共通語」として運用されていた。しかしラテン語を使えるのは、十分な教育・学習を得るこのとできた一部の知識層のみであり、ラテン語を扱えることが社会的な権威として成立していた。 母語として使う地域の存在しないラテン語は「安易な使い方や不十分な知識に基づく使われ方によって無秩序に変質する恐れが無い」という点において、当時の知識の保存方法としては理想的であった。そして、それを秩序を守ることのできる人々だけが使うことによって、その安定性を堅持していた。 異なる地域においても機能する事実上の国際語ではあったが、使える者は社会的な上位層に限られた。そして、そのごくわずかな知識層のみが「正統に知識を扱える者たちである」として知識体系をも専有し、その強固な秩序の中において真理への知識を深めていくために、文書文化が整備されていった。 また、各地域の主要な地域言語も「正統な言語」という理念を踏襲する形で、地域の知識層たちによって「ラテン語のような深い実用をする文書のための正統な言語体系」が整備されていった。それらの言語では歴史的に「秩序のある言語こそ、社会的な正当性を示すものである」という思想が観察できる。 それらは秩序による強固な安定性と、それによる正統性の提示を目的とした文書言語であった。そのため「読み書きの利便性」の追究とは、秩序を乱す危険性から極めて慎重に扱われ、容易には変化させない「ラテン語同様の硬直化」を人為的に発生させていたと説明すると、その後の歴史も理解がしやすい。 そうした歴史的背景によって、主要な欧州系言語の環境において「正統な言語、特に文書言語を扱うためには、間違いなく使えるほどの学習をしなければならないのは当然であり、不勉強な文書は非常識で棄却しなければならない」という言語文化が、現代に至るまで受け継がれていることを理解できる。 それは「言語の完全性」が可能なはずであると信じる、「言語への強い信頼」に基づいた言語文化だと整理できる。そして近代以降、そうした「正統な言語こそが、正当性を保障する」とする形式性の強い言語を口語の基盤としても広め、日常の現場で「口語の使いやすさ」が模索されていると説明できる。

目次  ### 「言語ごとの階級という観念」 欧州の言語史において、中世でも言語が「正統な言語」だけだったわけではない。人間が社会的活動をする限り、意思疎通の必要性が生じ、意思疎通のための手段として「自然言語」が形成される。正統な言語が限られた人間だけで使われていたのだから、当然、それ以外の庶民は他の言語を使っていた。 欧州の言語史において、中世では「最も高度な知識体系と権威を保有する文書中心のラテン語」「ラテン語ではないが文書体系は整備されている実務のための地域言語」「庶民が使っている地域ごとの口語の俗語」といった関係性があったと説明され、言語ごとに「社会階級的な分断」があったと分析される。 非常に「整った文書体系」を持ったラテン語が社会へ秩序を与える社会的な上位の言語として扱われ、その知識体系を持たない実務的な地域言語は文書体系を持っていてもラテン語を上回るものではないとされ続け、そして文書体系を持たない俗語は「秩序の存在から最もかけ離れた言語」とされやすかった。 欧州の言語史において、「正統な言語」の観念とは「支配の正当性」を示すものであり、「正統性の乏しい言語」に対する「被支配の妥当性」を示すものでもあった。「秩序を与える側」としての正当性を示すために「整った言語」が重要とされ、その言語の難しさは当然とされていたと想像できる。 やがて時代の流れから社会環境は変わっていき、活版印刷による印刷革命などによって実務的な地域言語の社会的な影響力が拡大したり、その後、産業革命による産業構造の変化から人手の確保のために庶民への制度教育が整備され、地域言語や一部俗語が「標準的な公用語」として整備・拡張されていった。 しかし実務において使われていた地域言語も俗語とは違い元々「社会的に恵まれた出自に準じる高度な教育を前提とした言語体系」であり、「高度な言語の整備」は「ラテン語の扱いの踏襲」の傾向を強めていき、「日常的な実用」において必ずしも楽に使える言語体系ではなかったであろうと想像しやすい。 各地域における「標準的な公用語」の設計や実用、教育などにおいても「正統な言語は正統な力を持つものである」という思想が美徳とされやすく、現代でも教育上「言語の強い形式性を求める」傾向は多く見られ、「言語への強い信頼」という言語文化はむしろ強く広まっていったと考察しやすい。 そのようにして広められていった地域言語が、現代の主要な欧州言語の基盤として成立していったと整理することで、特に文書的にも主要な言語となっている英語・ドイツ語・フランス語においても、「計画的に使うことを要請する言語的な形式性の強さ」を美徳とする文化が根付いたことを理解できる。

目次  ### 「話し言葉における使いやすさ」 欧州において「知識層以外を含む、より多くの人と共有する共通言語の整備」という歴史は、長く見積もったとしても「近代・啓蒙主義・17世紀以降」、現実的に見積もるならば「庶民への教育が広がる時期から・18世紀以降」だと整理できる。そこから現代まで、長くても400年程度の積み重ねである。 もちろん、細かくは異なる地域との言語の共有において自然発生した共通言語や、大きな移動をする人々との「実務において使われる暫定的な言葉」といったものもあったとされるが、庶民を含む「標準的な公用語」として整備されたものは「公的に整備されていた文書体系を基盤とした言語」である。 また主要な言語における「標準的な公用語」では、「正統な言語は正統な力を持つものである」という価値観によって、言語の正統性を守るために「正しい書き方」を規定し、それを当然としたため、「多くの人々にとって使いやすくする」という理念は「安定させる」という観点にのみ存在したと整理できる。 そういった歴史的背景から、欧州系の主要な言語における「形式性の強さ」の根拠は、歴史的な形式性を踏襲してきただけではないかとも解釈できる。しかし「文書上において効率的に機能させる」という前提で整備されてきたことによって、「話し言葉にける利便性」は軽視されてきたとも想定できる。 つまり「文書においては問題が無かった」としても、話し言葉において明晰で使いやすいとは限らなかった。そして「自然言語の普遍的な法則」に基づいて、話し言葉では「自然な傾向として使いにくい部分が弱まり、使いやすい形へ変化していく」という傾向が強烈に発生していったと想像しやすい。 特に発音体系では「聞きとりの難しい部分や発音の難しい部分は世代を経るごとに弱まり、本来の発音と乖離していく傾向」が生じたと想像できる。また「文書においては明晰に区別できる」としても、「話し言葉とした場合に、言葉の使い分けは不安定になる」という問題もまた、生じていったと整理できる。 そして結果的に、「話し言葉において発音が分かりづらい状態になっても、形式性に従った状態であれば推測しやすく、言葉が識別しやすい」という状態、「発音において区別が難しくても、その内容がおおよそ判別できてしまう」といった現代的な現象を生じさせていったという理屈を作ることができる。 その理屈は「言語的な形式性が強いことで、発音に求められる精確性の軽減に成功した」とも評せるが、「定型フレーズ以外では、形式性が無ければ話し言葉の識別自体が難しくなる状態で定着していった」とも評せる。口語が形式性を利用し、口語が形式性に依存する状態に落ち着いたと整理できる。

目次  #### 蛇足:「より多くの人と共有する共通言語」の整備と実用 比較として、日本においては「当時の話し言葉・口語近いとされる文体の記録」の歴史が約1000年ほど前から、あるいは「当時の話し言葉・口語に由来すると考えられる表現の記録」では「和歌」の記録として約1300年ほど前から確認でき、それが広く共有されていった歴史の痕跡を見ることができる。 日本の言語史、文書の歴史では、知識体系や実務のための形式性の強い文書体系も実用されていた一方で、それとは別に、強固な形式性よりも柔軟な意思疎通をするための文書体系も広く実用されていた。そうした文書体系が広い「共通言語」となって、広域のネットワークが形成されていた歴史が見られる。 改めて注記しておくが、日本という地域は「言語的な多様性・言語的な分断の生じることが当たり前にあった地域」であり、制度教育による標準語の普及が全域で進んだ現代においても地域の方言において著しい多様性の痕跡を確認できる。その環境において、広く「共通言語」が必要とされた歴史がある。 日本では歴史的に言語的な多様性のある環境でありながらも、人々が意思疎通をするための共通言語も必要な環境であった。そのために実用に基づいて言語が整備されていき、整備された言語が実務技能として普及していき、さらなる実践的な試行錯誤も進められ、実用性のある体系が残っていったと言える。 「共通言語の整備」の歴史という観点において、制度的な整備の実施が行われた時期については、おおよそ近代化に伴う制度整備の一環を目立った転換点として説明しやすいが、整備したのは既に長い歴史の中で広く実用されてきた言語体系であり、「実用する言語体系の選別と整理」であったと説明できる。 つまり「共通言語として使える形」という意味の整備においては、貴族社会において実用されていた文書体系の広域への普及から始まっていたとも考えられる。あるいは、その貴族社会において実用されていた言語さえも、古くは「より多くの人と共有する共通言語」であった可能性さえも想定しやすい。 特に日本語文化では、現存する日本最古の公的な文書記録『古事記』(8世紀初頭)においても、「和歌」の原型とされる表現の記録が確認でき、ほぼ同時期において『万葉集』(7世紀~8世紀半ば)という「和歌の作品集」が確認できる。特に『万葉集』では4000以上という多様な作品がまとめられている。 「和歌」の体系は日本語文化において歴史的に使われ続けており、現代でも「和歌」に連なる体系である「短歌/俳句/川柳」などの形で新しい作品が創作される、今も生きている文化である。また古い歴史を持つ代表的な作品も多く詠み継がれており、現代日本の国家さえも、歴史的な作品から作られている。

目次  ##### 補記:「和歌」の体系による発音体系の安定 日本語の発音体系は「和歌」の影響を非常に大きく受けているとも整理できる。和歌は原則的に「5拍/7拍」の2つのリズムを組み合わせる定型を持った「短い詩」である。最も代表的な形式である「短歌」では「5/7/5/7/7」の構成であり、その数から[みそひともじ]=(古語で「31文字」)とも呼ばれた。 「和歌」の文化は、日本最古の文書記録から確認され、歴史的に大きな断絶も見られず、その時代に応じた様々な歌が作られ続け、中でも印象的な歌であれば歴史を超えて詠み継がれていき、そうした長い歴史を持ちながら現代でも使われ続けている、今も生きている古典的な表現文化であると説明できる。 「和歌」の体系では「音の数」が非常に重要視されており、日本語文化において、標準的な発音体系における「1音の明晰化」が強固に維持された要因の一つとしても考察できる。つまり、どれだけ発音が変化したとしても「1音として聞こえる音は、1音として扱う」という規範になったと想像できる。 日本語の文字体系はそもそも「1音に対して原則1字」という体系で整備されているものではあるが、文書体系が輸入されるよりも前から、その大本として「1音の明晰化」という概念が強く存在していた理由の一つとして想定することができる。文字の体系は、おそらく後から整備されたものである。 また「和歌」の体系が文化的に当然として「記録されるもの」になっていったことで、「口述される音でありながら、記録される文字である」という、文字文化と口語が両立した表現文化になったと言える。「和歌」の影響から「口語でも文字にできること」が文化的に広く根付いていったとも想像しやすい。 日本語文化では、「和歌」という文化的な活動が広がることによって「自然な言葉の流れを文字にすること」そして「文字を自然な言葉として読むこと」が当然となっていきやすかったと想像できる。それは単に音を記録するだけではなく、教育上「記録から音を再現できる」という基盤を強化したと整理できる。 もちろん、日本語文化においても、自然な発音において形が変化することは珍しくない。しかし日本語文化では「音の数は減っている」という場合、一般的にその消失は認識されやすく、それを文字表記へ起こす場合は原則「文字が減る」という形で区別される。その識別は、和歌の文化の影響が想像しやすい。 比較として英語などにおいては話し言葉で音の連結や消失といった現象が珍しくないと言えるが、一般的な話者はそうした発音の変異について無頓着・無自覚であったりする傾向を観察できる。厳密にはアクセント体系などの違いも大きいと説明できるが、一般的には「音の数」自体は重要とされにくい。

目次  ### 哲学:「言語化という行為」の位置付け 欧州の言語史や言語の使われ方を見渡すことによって、現代の主要な欧州系言語の「運用思想」とは「原則的に、整備された言語法則に従うこと」であり、つまりそれは「人間が道具の一つとして言語を使うのではなく、高度な言語という外部化された法則を持った知性に人間が従う文化」であると整理できる。 人間が生来持っている不安定な感覚性に対して「整理された言語によって外部から高度な秩序を与えられ、それに従うことで高度な理性が獲得される」という言語の価値観であると説明できる。それは「動物的ではない人間性としての言語文化」であり、「前時代的な意味の人間性の獲得」であると説明できる。 そのために高い形式性に基づいた知性的な言語が重要視されたと言える。しかしそれは、実態として「言語による情報の外部化」という言語文化であり、「思考や感情などを個人の持ち物さえも、超越した立場を持った翻訳者へと委任し、その翻訳者を介して他者が受け取る」という様式であると説明できる。 西洋の典型的な言語観において「言語という翻訳者」とは超越的でなければならないために、正統な言語には「現代的な意味の人間性」を削ぎ落した、整った法則性と形式性が整備された。そのように「超越的な翻訳者」へと任せる「言語への強い信頼」の言語文化を作り上げ、それを一般化させたと言える。 もちろん、非形式的な言語・非標準的な表現といった文化的な領域は自然と生じるものであり、また「現代的な意味の人間性」においても自然と求められるものであると言える。しかし代表的な英語などは、その言語基盤に「超越的な翻訳者」が存在し、一般的に、その構造の中で暮らしていると言える。 言語として「超越的な翻訳者」へ任せることは理論上「長期的な安定性」を保障するとも説明でき、理想的には「恒久的な理解可能性」を成立させるものであるとも評せる。しかしそれは、結局「超越的な翻訳者」に任せられる情報でのみ成立するものであり、また実用においてその安定性も確実ではない。 たとえるならば、西洋の典型的な言語文化では会話でも「コルクボードへと文書を打ち付けながら情報交換を進めていく会話体系」であり、話した言葉とは原則的に「外部化されている」とする様式であり、話者でさえもまるで他人事のように「コルクボードへ文書を供給する存在」として機能する。 一方で、例えば話し言葉の作法が色濃く残っていると言える日本語文化における会話とは、原則的に「話者の立場」と「聞き手の立場」が当然として併存し、「言葉を手元へ提示しながら情報交換を進めていく会話体系」であり、その中では「言葉が相手へ届かないこと」も常に意識されやすいと考察できる。

目次  ### 非形式的な表現の希求 しかしながら「自然言語の普遍的な法則」に基づくところとして、ごく一般的な意思疎通における「発話や表現の省力化」は必ず発生していくものであり、それは西洋的な伝統のある言語文化の中でも完全に抑制されることはない。模範的な形式性があっても、自然な形において非形式的になることは多い。 「自然言語の普遍的な法則」として、いかなる言語であっても、互いに追って十分な意思疎通ができていると合意される状態であれば、それ以上は互いにとって過剰な情報であり、それ以上の言葉を尽くすことは余計な労力である。そのために「可能であれば」長大な形式性を回避することは自然発生する。 英語文化においても「定型フレーズ」は非常に多く存在しており、その定型フレーズでは形式的な文章構造を持たないことは珍しくない。また定型フレーズの中においても更なる短縮が生じていること場合もあり、短縮的な定型フレーズの[Thank you.]という表現語も、現代では[Thanks.]も多く観察できる。 英語文化であっても「互いを十分に理解しあえている」と信じている間柄では、むしろ非形式的な表現を好むとも考察できる。公的ではない場面であれば、「非形式的な表現が伝わる・非形式的な表現で伝えられる」という状態は、事実上の親密さの表れであると感じられているように観察できる。 つまりは英語文化における「形式性」とは「言語基盤としての制限」と「公的な場面において求められる作法」であって、不可分な性質ではないことを、その実態として観察できる。英語文化であっても「可能であるならば、もっと楽に伝えたい」という社会的な要請があると考察できる。 他にもデジタル上の文字チャットやSNSなどにおけるカジュアルな意思疎通では、完璧な文章を構築しない表現も多く出現し、[you -> u]と短縮する形や、[Thanks. -> thx.]と短縮する形など、「伝われば十分」とした自由な記述法が観察できる。「英語の形式」からすれば意味不明であるが、実用されている。 文字列上において「感情を表すための顔文字[ :) ][ :( ]」も存在し、現代的にはテキストデータの一種として整備された[emoji]を使った、非言語的なアイコン表現も、広く親しまれていることを観察できる。それらは文書体系から完全に逸脱した手法だが、非形式的な場面では広く実用されている。 もちろん日本語文化においても当然の現象であり、あるいは日本語文化の方が極めて自由な表現を進めていったとも説明しやすい。「文字上・デジタル上で、いかにして表現するか」という探究では「一般向けの携帯電話において絵文字[emoji]という表現機能を用意した」という先駆的な歴史を示せる。

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目次  ## ★★★推論のまとめ ([追記B]) 要点部分をまとめていく。詳細については本文を参照すること。

目次  ### ●高文脈文化/低文脈文化(ハイコンテクスト文化/ローコンテクスト文化)の誤謬や主な誤解 ・「高/低文脈文化」という概念は元々、「言語の使い方」という、言語の性質や状態が大きく関わる領域に対して、「言語の性質」ではなく「文化の性質」から説明を試みた印象論のエッセイから整理された概念であり、論理的な整合性としても不安定である。 ・「高文脈的/低文脈的」という概念そのものは「意思疎通における1つの状態」であって「大きな概念や文化の性質ではない」と説明するべきである。 ・「高文脈的/低文脈的」の状態とは、主に「推測可能性」と「情報の伝達効率」の関係性から成立していくものであると分解できる。 ・「推測可能性」は、受け取る側に推測する能力があるかどうか?ではない。  「推測可能性」は「推測可能な状態であるかどうか」もしくは「推測をしてもいい状態であるかどうか」によって、大きく左右される。  これは主に「前提情報の総量」や「前提にしていい情報の総量」から「推測するべき範囲」の大きさや狭さが変わり、それによって「推測可能性」が変化する。  ※「前提情報」という理屈によって「高文脈文化/低文脈文化」の理論が生じたと考えられるが、元々のエッセイなどにおいては「推測する範囲の可変性」や「情報の伝達効率」という観念が欠落しがちである。 ・「情報の伝達効率」は、「推測可能性」を成立させる条件であり、「推測可能な状態、または理解可能な状態にするまでに必要なシグナルの効率性(必要量の小ささ)」のことである。  会話という状況であれば「言語の性質」によっても大きく変わると説明するべきである。※元々のエッセイではこの条件に対する考察が不十分であったと説明するべきである。

目次  ### ●高文脈的な状態の典型例「高文脈的な現象の発生」 「チームスポーツにおけるサインや声掛け」は、著しく「高文脈的な現象」である。チームスポーツという環境では、「前提情報の総量」が十分に多い状態であり、またシグナルに対して「推測するべき範囲」が極限的に限定されていることで、わずかな情報伝達だけでも必要な意思疎通が成立する、「高文脈的な現象」が発生する。 会話においても、同じような条件によって「長年暮らしてきた親密な関係性」「付き合いの長い小規模な集団」「専門性のある集団」などもまた、「前提情報の総量」が累積している状態であるために「推測可能性」が高い状態が成立していることで、「高文脈的な現象」が成立しやすいと言える。 しかし、いずれにおいても「相手が認識できる・識別できる情報が明示されていなければ、反応することはできない」と説明できる。相手が認識・識別できるだけの「情報の伝達」は必ず必要になる。そのため「情報の伝達効率」の影響は無視されない。 例えるならば「コンピュータープログラムにおける関数命令」である。コンピューター側が「関数」という前提情報を保持していることで、命令側は関数の呼び出しを指定するだけで、関数の実行をしてもらうことができる。 しかし突然「[S]の関数を呼び出して」と命令しても、前提情報に設定されていなければ、コンピューター側が[SUM]などの関数を呼び出してくれるわけではない。またプログラムによっては「関数の実行を命令するための命令文」も必要となり、突然[S]とだけ提示してもコンピューターは何もできない。命令において「命令情報として成立するために必要な情報量」は不可欠である。

目次  ### ●低文脈的な状態の典型例「低文脈的な作法の発生」 「論文における文章の構築」は、著しく「低文脈的な作法」を要求される。これは論文という環境が原則的に「前提情報について、使用言語以外をゼロとした状態から成立させること」という前提で書かれなければならないためであり、つまり「推測可能性」をゼロと仮定した状態で整理することが求められる。もしも外部の情報を使う場合は「引用という形で情報元を明示する」ということが実施される。また新しい概念や不安定な情報を用いる場合は、論文の中において明確な「定義」を実施して使われる。 会話においても、同じような条件によって「相手に推測させてはならない場合」や「相手が推測できるかどうか判断できない場合」において、つまり「前提情報の総量が少ない」と認識していて「推測可能性が限りなく小さいと想定できる状態」においては、同様に「可能な限り全ての情報を並べた低文脈的な作法」が発生すると理解できる。 ただし、いずれにおいても基準となるのは「相手が十分に識別できる情報を明示すること」であり、「相手が理解できるだけの情報が揃った場合、必ずしもそれ以上を必要としない」と説明できる。 例えるならば「コンピュータープログラムにおける命令文の構築」である。コンピューター側は、基本となる前提情報が画一的に決まっている状態であり、命令文以外は原則的に画一的なプログラムとシステムの処理のままにしか動かない。 原則的に書かれていない情報、存在しない情報を勝手に補完することは無いため、コンピューターのプログラムが成立させるためには「プログラムの処理が成立するために必要な情報を全て揃える」という必要性がある。 もしも「コンピュータープログラムが持っていない情報」を使いたい場合、コンピュータープログラムの中において、その情報の定義を実行してから使う必要性がある。例えば「新しい関数」を使いたい場合、その関数の内容を定義してから、実行する必要性がある。

目次  ### ●推論上の定義「高文脈化は現象」「低文脈化は作法」 自然言語の使われ方における重要な法則性として、一般的な言葉の使われ方において「なるべく少ない労力で、できるだけ多くの情報を伝達しようとする」という傾向を広く観察することができる。専門用語としては「言語の経済性」とも言われる所である。 理屈として「人々が意思疎通を実施する際、十分に意思疎通ができていると合意できる状態になった場合、それ以上に情報を交換することは、互いにとって過剰な情報であり、過剰な労力になる」という状態である。 簡単に言えば「十分に分かったら、それ以上を話すことは無駄と認識される」という状態であり、十分な意思疎通が合意されれば、それ以上の言葉は必要とされない。 そして、その現象を前提として発話する際にも「意思疎通は、十分に伝わると期待できる最低限の量から実施されやすい」という省力化の傾向が生じるという理屈を整理できる。 これらの現象と傾向は「推測可能性」と「情報の伝達効率」の条件を満たすことによって発生し、これらの現象と傾向によって、客観的な事実として「発話における明示的な情報量が減った状態」が「自然言語の使われ方における高文脈化の現象」であると定義できる。 ※挨拶や合図といった簡単なフレーズの形成も、「高文脈化の現象」に近い、省力化の現象に準じて生じるものである。ただし、そのフレーズが安定した意味を持って広く共有された場合は、一般的にそれだけで十分な情報を持った「1つの独立した言葉」として扱われやすい。 しかし必ずしも全ての自然言語で、言葉を最小化されていくわけではない。それは「意思疎通を失敗した場合や誤解されてしまった場合には、むしろ、その失敗や誤解から修復するための労力が増えてしまうことになる」という現実的な問題が存在する。 自然発生する「高文脈化の現象」は、あくまでも「失敗しないこと・誤解されないこと」という条件がある。「失敗すること・誤解されること」は労力を増やすことになるため、自然と回避されやすくなり、過剰な「高文脈化の現象」は抑制されると説明できる。 失敗する可能性が高い状態や誤解による危険性が高い状態になると、意思疎通において「失敗しないようにすること・誤解されないようにすること」という社会的な要請が発生し、失敗や誤解を回避するために「必要な情報を伝えるために、分かりやすく必要な情報を可能な限り並べる」という現象・傾向が「作法」として発生する。 特に「失敗した時の危険性が高い・誤解が致命的になる恐れがある」という危機感を認識している場合は、その作法が実施されやすいと整理できる。反対に「失敗の危険性が著しく低い・誤解による問題が皆無」と認識している場合には、その作法は軽視される状態にもなりうる。 これらの現象と傾向は「推測可能性」と「情報の伝達効率」が満たされない状況において発生しやすく、これらの現象と傾向によって、客観的な事実として「発話における明示的な情報量が多い状態」が「自然言語の使われ方における低文脈化の作法」であると定義できる。

目次  ### ●「言語の違い」と仮定する 「高文脈化は現象」「低文脈化は作法」と定義しても、実態として元々の「高/低文脈文化」のエッセイにおいて書かれている通り「地域によって、高文脈的な現象が多く見られやすい」または「地域によって、低文脈的な作法が多く見られやすい」という「地域差」を、印象論として整理されるほど観察することができる。 そして「地域差」は一般的な傾向であって、場面に応じた臨機応変な状態を確認することもできるため、元々のエッセイにおける「文化」という区別は分類が大きすぎて、論理的な不整合が大きいと言える。 しかし「地域差」を観察できるということは、地域差に類する要素が強く関わっている可能性が大きい。そして「高/低文脈」とは「言語の使われ方において表出する現象」の分析であり、その現象と不可分に関わると言える最も大きな要素が「言語の違い」であると発見できる。 つまり「言語の違い」が「高文脈的な現象を発生させやすい」または「低文脈的な作法が必要とされやすい」という傾向の違いを生みだす大きな要因となっている可能性を見出すことができる。 「言語の違い」を大きな要因として位置付ければ、「異なる文化では異なる言語が使われていることも多い」という強い関連性から、元々のエッセイを含め「文化の違いによって高/低文脈の傾向が発生している」と解釈されやすい理由も説明づけられる。 ※注意補記:「大きな分類において同じ言語とされていても、異なる地域では方言的な違いによって厳密な言語の状態は異なる傾向がある」と観察できる。例えばアメリカ英語とイギリス英語では、特に発音の傾向において大きな違いを確認できる。

目次  ### ●「言語の違い」による「情報の伝達効率」 元々のエッセイにおいて例示されている中から3種の言語を比較対象として例示する。 「日本語・英語・ドイツ語」を比較する。この比較対象は「現代の先進的な社会において大規模に公用語として実用され、またその社会を安定して運営するための基盤として成立していることが確認できる機能性を持つ言語」の3種である。 ※補記:例示する3種の言語を母語とする国は、2024年の世界各国のGDP(国内総生産)の比較において、桁違いに巨大な人口を有するインド・中国を除いた最上位の国々の母語において使われている言語である。 ※この前提より「社会規模の格差・言語的な機能性の格差によって生じる決定的な違い」という観点は除外される。 それぞれの言語は元々のエッセイやステレオタイプとして「日本は典型的な高文脈文化」「英語は低文脈文化」「ドイツ語圏は典型的な低文脈文化」という認識を広く確認することができる。 それぞれの言語の主な違いの概要を比較列挙していく。

目次  #### 音韻体系の比較 -音韻体系・発音の違い (※) --●日本語: 音韻表記において、原則的に母音/子音を分断した個別の識別をしていない。子音の区別はあるが原則的に母音を想定した「1音」の分類である。また母音/子音の分類も、それぞれの範囲が大きく単純であり、変異にも寛容である。※例外として[ん]は特定の母音は無いが子音扱いではない。 --★英語: 母音/子音を音素として分けて識別されている上に分類も細かく、実際の発音において著しい変質を確認できる。 --■ドイツ語: 母音/子音を音素として分けて識別されている上に分類も細かく、さらに子音の表現が多く確認できる。 -韻律・アクセント体系 --●日本語: 高低(ピッチ)アクセント。実態として自然な変異や方言も多く、緩い情報である。緩い情報だが、補助にはなっている。 --★英語: 強弱(ストレス)アクセント。単語に強い音と弱い音の差をつけて識別する。 --■ドイツ語: 強弱(ストレス)アクセント。同上。 -音韻の種類による影響 --●日本語: 音韻が単純で分類が少ないため、詳細な情報の成立には多数の音を並べる必要がある。 --★英語: 音韻が複雑で、分類が多いため、理論上より短く細かい情報を成立させることができる。 --■ドイツ語: おおよそ同上。 -音韻の明晰さ ※発話の場面は「静寂・近接・平穏」という理想的な環境とは限らない --●日本語: 音韻が単純かつ常に母音が意識される。1音ずつを叫ぶようにも発することができる。音ごとの識別がしやすい。 --★英語: 音韻が複雑かつ、アクセントで強弱をつけるため、物理的に「聞こえない音」は頻出している。別の情報で補っている。 --■ドイツ語: 音韻が複雑かつ、アクセントで強弱をつける上に、個別の音としては弱い子音を多く使うため、状況によって識別が難しくなりやすい。別の情報で補っている。 -発音速度 ([追記E]) --●日本語: テンポ良く、高速な発音が実施できる。音韻が単純化されていることで、発音の省力化と効率化が実現している。 --★英語: 情報密度が高い代わりに繊細な発音を必要としており、ストレスアクセントの操作の影響もあって、高速化には限度がある。 --■ドイツ語: おおよそ同上。 ※補記:「音韻の分類」とは主に「どのくらい細かく音を区別するのか」という要素である。細かい発音を実用する音韻体系でも、物理的に全く違う音を扱っているという例は珍しく、お多くの場合で「わずかな違いを区別するかどうか」という「分類の詳細性」であると言える。  「区別されている音韻」とは体系的に「別の音」として扱われ、基本系に「言葉の意味の区別に使われている」という状態である。  「音の識別ができない」と認識される場合、それは「言葉の認識ができない」という状態になる。反対に「言葉として識別できる」という場合、「音の違いを識別しているつもり」になりやすい。 ([追記E++]) ※補記:日本語の「音韻の分類が単純」という体系は「他の言語では2つ以上に分類されることもある音を、1つの分類とする」という状態である。  また日本語の実態として、自然な発音を分析すると多様な発音が無自覚に内在して使い分けられていることを確認でき、しかし日本語ではそれらの細かい区別をしていない音韻体系を持っている。多少の変化を許容する傾向によって「言葉における自然な発音の省力化」も成立している。 ※([追記E++])補記:その他の言語においては「わずかな違いを区別する」という音韻体系が実用されている。物理的に「わずかな違い」であっても「理想的な発話環境」であれば、その差異を識別することができるために区別されている。  しかし「理想的な発話環境」から外れるほど、「わずかな違い」は区別が困難になる。特に実態として「物理的に、ほぼ同じ音」という状態もあるが、これを「人体が音として完璧に識別できるかどうか」は、その確実性が著しく低下する。  →なぜ識別できるのか言えば「別の情報で補っている」ことで、人体が「無意識の補完」もしくは「意識的な推測」で、「聞きとれているつもり」になる。

目次  ##### 音韻に関する情報補足と推論の拡大 ([追記E++]) -音の分類についての概要 ※一般的とされる水準 ※組み合わせ型は言語ごとに異なる --●日本語: 基本母音5分類◆子音約14分類+特殊音+複合音 --★英語: 一般的に母音15~20分類前後(※長短複合含)◆子音24分類前後 --■ドイツ語: 一般的に母音17分類前後(※長短複合含)◆子音23分類前後 --※アラビア語の標準語: 一般的に母音6分類(※長短複合含)◆子音28分類 --※アラビア語の日常語: 一般的に母音6~8分類(※長短複合含)◆子音25~30分類 ※方言 --※イタリア語: 一般的に7分類◆子音23分類前後 --※スペイン語: 一般的に母音5分類(複合除く)◆子音17~19分類 --※ヒンディー語: 一般的に母音10~11分類(※特殊除く)◆子音31分類前後 --※中国語: 一般的に母音6~10分類前後(複合36分類)◆子音21分類 ※「声調」がある --※ポルトガル語: 一般的に母音12分類(複合除く)◆子音18分類前後 --※フランス語: 一般的に母音16分類(複合除く)◆子音17分類 --※スウェーデン語: 一般的に母音18分類(※長短含)◆子音18~20分類 --※ノルウェー語: 一般的に母音18分類(※長短含)◆子音18~20分類 --※フィンランド語: 一般的に母音16分類(※長短含)◆子音15~17分類 --※あくまでも概要のデータ。区別の方法によって前後する。 --子音の分類や使われ方だけでなく「母音の分類」の影響の大きさも想定される。 ---→元のエッセイで「高文脈的」とされた地域の言語の母音の分類数は少ない傾向(粗い) ---→元のエッセイで「低文脈的」とされた地域の言語の母音の分類数は多い傾向(細かい) ---「子音の区別」だけではなく「母音を含む音の区別」の影響の大きさを想定できる。

目次  #### 言語体系の比較 -言語体系 --●日本語: 助詞や述語などの機能語によって、文章構造を組み立てる。形式性は緩い。 --★英語: 形式が決まっており、語順によって文章構造を成立させる。 --■ドイツ語: 形式が決まっており、細かい作法に基づいて文章を成立させる。 -主要な単語の目安数:外国語として90%の理解に必要とされる実用上の目安データ ※実用範囲のデータであり辞書における語彙量は遥かに多い。 --●日本語: 目安およそ6000~10000語とも ※ +述語によって多彩な変形で表現が広がる --★英語: 目安およそ3000~5000語とも ※ 単語の変形は少なく、単語の組み合わせて表現を広げている --■ドイツ語: 目安およそ5000語 ※ 単語の変形が多く、細密な意味を設定する -主要な単語の安定性について ※ 仮定として「同程度の表現力が必要とされるはずである」とした場合、主要な単語が少ないほど頻出する1語辺りの表現範囲は広がると強く想定できる。 --●日本語: 多層的で多彩な言葉を使い分けるため、1語辺りの意味範囲は指向的と言える。 --★英語: 頻出語が非常に少なく、それを使いまわしているため、頻出語の多義性は著しい。 --■ドイツ語: 比較的、安定しているはずである。 -定型フレーズ(※)以外での、単語が安定する最小単位 --●日本語: 多くの単語で、単語だけでもかなり安定した言葉になりやすい。 --★英語: 多くの頻出語で、単語単体では意味が定まりにくいため1文を揃える必要性が大きい。 --■ドイツ語: 単語単位では意味が定まりにくいため1文を揃える必要性が大きい。 これらの条件によって生じている状態として -定型フレーズ(※)以外での発話として通じる最小単位 --●日本語: 単語のみでも明晰に言葉が伝わりやすく、単語やブロック単位で伝えられる。 --★英語: 「単語の聞きとり」が不安になりやすく、単語の識別と意味の確定に、1文が必要とされやすい。 --■ドイツ語: 「単語の聞きとり」が不安になりやすく、単語の識別と意味の確定に、1文が必要とされやすい。 ※補記:ここで言う「定型フレーズ」とは、日常などの会話において「わずかなフレーズだけで、その意味が伝わる表現」を指す。自然言語において省力化のために発生する普遍的な現象であり、広義において「高文脈的な現象」に近いが、一般的には「一つの言葉として安定して成立している状態」の独立した言葉である。例えば[Danke./Thanks./ありがとう]などのような語は、英語・ドイツ語でも形式性から外れた状態と言える単語単体でも自立して通じる。 -実際の発話における情報密度 ([追記E]) --●日本語: 単純な音韻体系により「1単語ごとの音節の回数」は多めになっているが、高速な発音をするためそれほど遅くならない。 --★英語: 複雑な音韻体系によって「1単語ごとの音節の回数」は少な目になっているが、「丁寧な発音」と「1文単位での発話」を求められるため、それほど早くならない。 --■ドイツ語: さらに複雑な音韻の操作によって短くとも多彩な表現を実施しているが、「丁寧な発音」と「1文単位での発話」を求められるため、それほど早くならない。 --※調査研究において、各言語の実際の発話における「時間当たりの情報量」は言語による差がそれほど大きくないとされるデータが確認できる。

目次  #### 「高文脈化の現象」の発生のしやすさ・成立のしやすさ 言語での「情報の伝達効率」の観点では「言葉の伝わりやすさ」が非常に重要である。 ステレオタイプでは「高文脈は1個を伝えて10個が伝わる」「低文脈は10個を伝えて10個が伝わる」と説明されやすい。 しかし「言語の違い」からは「高文脈化の現象を発生させやすい」と観察できる日本語では「Aを伝えれば高確率でAが伝わり、Bを伝えて高確率でBが伝わり、Cを伝えて高確率でCが伝わる」という現象の理屈を分析できる。日本語は断片的な情報でも、その情報が伝わりやすいと説明できる。 (詳細な検証データは無いが、日本語における「発話時の音の伝わりやすさ」では、新しい言葉も多くの場合で、たった1~2回聞いただけでも多くの人がその言葉を実用には十分な精確性で復唱できる傾向を観察できる。もちろん、言いづらい言葉や長大な言葉など覚えにくい言葉といった例外はあるが、復唱できるまで非常に短い傾向があると観察できる。) 一方で「高文脈化の現象が発生しづらい」と観察できる英語やドイツ語では「Aだけを伝えてもそのAがなんのAであるのか伝わりづらく、音によってはAであるか,Uであるか,Rであるかも判別できない場合さえある」、そのために「Aの1種であることを伝えるために、ABCを揃えることが必要とされやすい」という「低文脈化の作法」の要請が発生しやすいという理屈を分析できる。 英語やドイツ語では「言語の性質」として、定型フレーズとして自立していなければ、断片的な情報は言葉として伝わりにくいと説明できる。 (※詳細な検証データの無い「印象論」だが、英語やドイツ語において「言葉を教える時」には「繰り返し発音を聞かせて、それを繰り返し復唱させる」という反復的な指導が実施されることが多いような印象がある。音韻の性質上、必要な回数が多くなりやすいと予想できる。) 注記するべき点として、断片的な情報で伝えられる日本語でも、必ずしも「高文脈化の現象」が成立するわけではない。「前提情報」が揃っているという条件において限定的に「高文脈化の現象」が発生する場合もあるが、物理的に識別される情報は明示された情報だけである。 日本語の一般的な会話でも、判断が難しい場合は欠落した情報についての確認が実施される。[「Aだよ」「AってBの(A)?」「いやCの方。」]などのような形で、「情報の補完」は珍しくなく実施される。日本語は「明確な同音異義語」も多いため、分かりにくい場合には積極的に補完が実施されやすい。 日本語において特長的な傾向としては「断片化させた情報でも、言葉として伝わりやすい」ため、後から情報を追加・補完することも容易であり、そうした機能性を前提として「会話の初動においてAだけを伝える」という形で、意思疎通を始めることが習慣化していると観察できる。 つまり日本語が、「高文脈化の現象」が発生しやすい言語体系であるという理解も、的外れではないと整理できる。 的外れであるのは「少ない情報から理解できる」という点で、実態は「情報の伝達効率」として「少ない情報でも高確率でその少ない情報そのものを判別できる」という音韻体系と言語体系を持っており、それによって「推測可能性」が保障されやすいことで、条件として「前提情報」が揃っていれば「高文脈化の現象」が成立することもあるだけだと分析できる。 特に、日本語であっても「低文脈化の作法」が必要とされる場面においては、著しい低文脈化の作業が実施されることを確認できる。特に日本社会が日本語を中心としたまま、高度な先進技術なども安定して運用されているという事実から、日本語における必要に応じた「精確な情報共有」の精度が傍証されている。もしも「論理的な機能性が不足しているとという仮定」を考慮する場合、日本の技術環境の広域の安定性の説明ができなくなる。 ただし、言語自体の難しさも関わるために、低文脈化の作法が実施されていても「単純で分かりやすい」という状態になるとは限らない。「高度な文書における難解性」はあらゆる言語において同様の傾向を観察できる。

目次  ### ●「情報の伝達効率」による「前提情報の共有効率」 より踏み込んだ考察をするならば、「高文脈化の現象」を成立させるための「前提情報」の蓄積も、言語によって強く支えられている傾向を考察することができる。 日本語は言語の性質として「情報の伝達効率」が良好であると観察できる。特に「未知の言葉であっても、言葉の音そのものは明晰に認識しやすい」という現象を論理的にも説明できる。それは「言葉が効率的に伝わりやすい」という傾向を示しており、つまり「言葉の学習が支えられやすい」という効果についてを予想できる。 一方で英語は言語の性質として、特に繊細な音韻体系に変化の多い発音体系であるために、「不慣れな言葉」に対する認識は著しく難しい傾向が観察でき、それはつまり「言葉の学習が難しくなりやすい」という影響についてを想像できる。また「情報の伝達効率」においても比較して、「情報共有するための労力」が高い傾向にあると理屈も成立する。 その実態の一例として評価できるものが「主要な単語の目安数」であり、日本語は目安10000語とも言われる語彙が実用範囲に存在していると言われ、一方で英語は実用範囲に収まっている主要な単語が目安3000語ほどと言われている。 ※注記しておくが、英語は「辞書に書かれている語彙の総量」が非常に膨大である。つまり「大量の語彙が実在しながらも、実際に使われる主要な語彙は著しく少ない傾向がある」と説明する必要性がある。 ※注記しておくが、日本語社会では「基礎教育が万全に普及していることで、膨大な語彙量が成立している」という説明をすることもできるが、「基礎教育を成立させる基盤は言語体系」であり、その影響を軽視することはできない。 ※最も象徴的な違いとして「日本語社会の制度教育では1年目から教科書を児童へ所有させてそれを実用しながら学習を進める」が、「英語社会の制度教育では本を自力で読めるようになるまで一般的に2~3年かかる」という傾向を観察することができる。英語社会では「言語の基礎的な学習」にかける時間・負担が非常に重い傾向にあると比較できる。 ※注記しておくが、「英語社会の制度教育が著しく怠慢である」という前提を取ることは非現実的である。確認できるデータとして「教育にかけられている支出の水準」において、主要な国々との平均に比べわずかに高い程度で、著しい格差があるわけではなく、特に「行政による公的な教育支出のGDP比での比較」として日本はむしろ低い水準であることを確認できる。 そうした社会的な実態から、日本語では一般的な傾向として「新しい言葉や、新しい情報を入手しやすい」という社会や文化が形成されやすい傾向があると強く想定できる。特に、学習の容易性が成立していると考えなければ、日本社会の安定した状態や日本の制度教育の実態についてを説明づけることが難しい。 そして「新しい情報を入手しやすい」という傾向はつまり、多くの人が日常的に社会的な「前提情報の総量」を積み上げることがしやすい傾向があると予想できる。あるいは、日常生活の中においても、周囲の会話なども外側から断片的な情報を入手することもしやすく、そのようにして、周囲への理解を深めやすい傾向さえも想像しやすい。 日本語社会では、そうした「前提情報」が効率的に集積されていきやすいことによって、「高文脈化の現象」が成立する可能性を高めているのではないかと推測することもできる。 ※より細かい状況の想定をすると「語彙量が乏しい場合、どうしても断片的で高文脈的な解釈を求める言葉遣いになってしまう場合もある」と言えるが、これは言語能力として不十分な状態によって発生する状況であり、例外的な事例とする。  なお、そうした状況そのものは、どの言語であったとしても発生する可能性がある。特に「第二言語として学習している途中の人」などであれば、言葉を自在に使えるわけではなく、相手側へ推測による補完を求めてしまうことになることは珍しくない。

目次  ### ●推論の略図 -×「高文脈文化」「低文脈文化」 文化のみでは説明できない ↓ -○「高文脈化の現象/高文脈的な状態」 -○「低文脈化の作法/低文脈的な状態」 --→自然言語の普遍的な法則として「言語の省力化」が発生する。 ---→省力化によって「高文脈化の現象」は自然な現象として発生するものである。 ---→ただし意思疎通において失敗・誤解が発生すると、余計な労力が生まれる。 ----→失敗・誤解を回避するために「低文脈化の作法」も自然と発生する。 --→高文脈化の現象は「推測可能性」と「情報の伝達効率」によって分析できる。 ---→「推測可能性」は「前提となる情報/前提としていい情報」が大きく影響する。 ---+しかし、「前提情報」に加えて、推測に十分な情報が伝達されなければ成立しない。 ----→そのため「情報の伝達効率」も影響する。 ---→「情報の伝達効率」は、「情報を伝えるために必要な労力の効率性」である。 ----→少ない労力で十分な情報が伝わるかどうかは、状況や言語によって変化する。 --→低文脈化の作法は「前提情報」が少ない・限定されると判断されると生じる。 --→※「情報伝達の効率」が悪い場合も、結果的に多くの言葉を必要としがちになる。 -×「文化の違い」 文化のみでは説明できない ↓ -△「言語の違い」による傾向 この方が全体として説明しやすい --→○「高文脈化の現象が発生しやすい/発生しづらい」ような言語 --→○「低文脈化の作法が必要とされやすい/必要性が限定される」ような言語 --※→言語に関わらず、状況に応じて「高文脈化の現象」も「低文脈化の作法」も発生する。 ---→例えば「専門的な職人同士」なら、交流が浅くとも「前提情報」は広い傾向がある。 -△「日本は高文脈文化」 ↓ -○「日本語は、高文脈化の現象を発生させやすい性質を持つ」 --→単純な音韻体系・豊富な語彙と柔軟な言語構造を持ち、「情報の伝達効率」が高い。 ---→「物理的に聞こえる音」に対する「意味の探査範囲」は狭い。[◇D] ---→断片的な情報でも「断片的な情報」として成立し、意思疎通を始められる。 ---※×「1から10が分かる」 ではなく →○「Aと伝えて、高確率でAが伝わる」 ----→自然な会話として、最小限の情報から会話を開始することもできる。 -----→それによって「高文脈化の現象」が成立する状況が観測されやすい。 -----→ただし、必要に応じて更なる情報の追加「低文脈化」も実施されている。 ----→情報が欠落しても「その部分が欠落している」だけで、全体は崩壊しづらい。 ---→当然、必要に応じて始めから低文脈的な作法も実施される場合もある。 -△「英語圏・ドイツ語圏は低文脈文化」 ↓ -○「英語やドイツ語は、高文脈化の現象を発生させにくい性質を持つ。」 --→複雑な音韻体系や自立しづらい単語と、それらを補助する強固な形式性を持つ。 ---→「物理的に聞こえる音」に対する「意味の探査範囲」が非常に広くなりがち。[◇D] ---→よく使われるフレーズ以外の断片的な情報では、言葉として成立しづらい。 ---※△「10のために10と伝える」 ではなく →○「Aだけでは、Aと伝わりにくい」 ----→○「Aの1種という情報を伝えるためだけでも、ABCDの情報を揃える必要がある」 ----→それによって一般的な言葉遣いとして「低文脈化の作法」が必要とされる。 ----→情報が欠落すると、一部だけでなく全体の情報が不安定になってしまう場合も。 -----→一部だけではそもそも「言葉として認識すること」から難しくなる。 ---→ただし、よく使われるフレーズでは言語の形式性を無視した言葉も実用されている。 ----→フレーズは「高文脈化の現象」に近いもので、そうした省力化は生じている。 ---→十分に「前提情報」が共有され、状況が許すなら「高文脈化の現象」は発生する。 ●※補記・推論 ([追記D/◇D]) -△日本語は「同じ音でも異なる言葉が多い」 → △なのに文脈で判断できる。 ↓ -○※「同音」の問題は、日本語だけに存在しているわけではない。 -○英語などでも頻出語は「同じ言葉を異なる意味で使う」 → ◎けど文脈で理解できる。 --→英語は特に、頻出語の意味の分岐が著しく多い。 → 文脈や周辺情報を不可欠とする。 --→むしろ「物理的に近い音」まで含めれば、英語・ドイツ語も十分に多い。 ---→※「物理的に近い音」は、「理想的な発話環境」でなければ区別は困難である。 ---→※「物理的に近い音」は、「事実上の同音」だが、感覚的には無自覚になりがち。 ----→「物理的に聞こえる音」に対する「意味の探査範囲」が非常に広くなりがち。 ----→◎実態として「文脈などによって判断する」ということは実施されている。 -○日本語でも「同じ音で異なる意味」の判別が難しい場合はある。 --→しかし「同音」である事実が明確に理解できるため、その問題が自覚されやすい。 --→日本語でも、必要だと判断される時は情報の追加による補足が実施される。 ※音韻の実態 -→日本語の音韻は「事実上の同音」を区別せず、同音・ほぼ同音として分類している。 --→日本語の音韻は「発声側の都合」よりも主に「聞き手側の都合」で分類・認識される。 --→「事実上の同音」という状態が認識されやすいことで、混同する可能性に自覚的。 ---→分かりづらいと自覚している場合、区別するための補足が自然と実施されやすい。 ----→必要に応じて言葉を追加し、言葉の「意味の探査範囲」を狭めることもしている。 ---→音も聞き取りやすいことで、「最も妥当な範囲」という理解がスムーズにできる。 -→英語やドイツ語の音韻は「事実上の同音」も区別して、別の音として分類している。 --→英語などの音韻は「聞き手側の都合」よりも主に「発声側の都合」で分類・認識される。 ---※「区別が困難な音」は、「自然言語の普遍的な法則」によって、やがて同音化。 --→「事実上の同音」という状態でも、異なる音として分類している。 ---→発話者は「異なる音」のつもり →「混同する可能性」が直感的には自覚しづらい。 --→※実用では「形式性」と「明示性」によって、言葉の「意味の探査範囲」を狭めている。 ---→「意味の探査範囲」が狭まることで「直感的に言葉を識別できる」 ---※「直感的に言葉が認識できる」という現象で「聞き取れているつもり」になる。 -「鼻音」のみの発音、[ん]の音の分類について ([追記E]) --→「聞き手側の都合」の日本語では一律に[ん]という単位で分類している。 --→「発声側の都合」の発音体系では[n][m][ng]などの音に細分化した分類がある。 ---→※しかし物理的な音の状態は極めて近く、確実な識別は物理的に至難である。 -「意味の探査範囲」:与えられた情報に対して、適合する可能性のある情報の総量 --→「情報の伝達効率」を支える現象。※「推測可能性」も含まれやすい。 --→「意味の探査範囲」が狭い場合、言葉の意味を直感的に判別しやすくなる。 --→「意味の探査範囲」が広い場合、言葉の意味の判別が難しくなる。 --※定型化したフレーズは「意味の探査範囲」が十分に狭いため、低い形式性でも通じる。 --補足:省略があった場合も「省略された」という条件で絞り込める。 ([追記E+]) ---→「省略しても問題ない」という認識の前提があることで、省略が生じる。 ----→聞き手側は基本「分かりやすい範囲にある意味」を探査して理解する。 -「理想的な発話環境」→「静寂・近接・平穏」の揃った環境。 --→「静寂」かつ「近接」:発音を高精度に聞きとりやすい --→「平穏」:高精度の発音をしやすい --※話者の属性として「聞き慣れた発音の傾向を持つ相手」が理想的である。 ([追記E++]) -「非理想的な発話環境」→日常的な環境では、上記の条件が必ずしも揃うわけではない。 --→「非・静寂」:日常の環境では騒音が当然としてあり、騒音と発音が混在する。 --→「非・近接」:近いとは限らない。距離が遠ければ、届く音が物理的に弱まる。 --→「非・平穏」:落ち着いて丁寧に発音できる状況とは限らない。 --※さらに「聞き慣れない発音の傾向を持つ相手」では難しくなる。 ([追記E++]) -※複雑で繊細な音韻体系でも「理想的な発話環境」なら詳細な聞き分けが期待できる。 --→繊細な音韻体系は「非理想的な発話環境」だと大きな不安・不安定さが生じる。 -※日本語は「非理想的な発話環境」への耐性が高い傾向にある。 --→日本語の場合「理想的な発話環境」は、あまりにも「聞こえすぎる」と評せる。

目次  #### ●補足:「なぜ日本語はそのような体系を成立させたのか?」の略図 -・日本地域 --・山岳が多い→生活環境は分断されがち→方言など言葉の違いが成立しやすい。 --・気候厳しい&自然災害多い→広い協力関係が欲しい→異なる地域とも意思疎通したい。 --→「多くの人々が共同で使える言葉が、社会的な要請として求められた」と想像できる。 -・日本では教育の普及した現代でも、多数の方言が確認できるほど多様な言語性がある。 --→当然、より古い時代であればもっと大きな言語差があったことを強く推定できる。 --→そうした様々な言語性を持った人々が交流できる言葉が整備されたと想像できる。 ---→音韻体系の単純化が進んだと強く想定できる。 ----→また、その音韻体系を前提とした言語体系も整備されていったと整理できる。 ---→「明示的な機能語で構築する文章構造」も言語的な多様性の影響を考察できる。 ----→「意味を示す語」と「文章構造を示す語」を分離した様式の有効性を考察できる。 ※現代の日本は「日本語」という単一の言語で統一されているため、言語的に均質性の高い地域であるかのように感じられやすく、また「言語的に安定した地域だったのではないか」と想像されやすい。 ※注記:自然言語の法則として言語的に安定した地域や集団では、むしろ音韻体系が複雑化・尖鋭化していく傾向を世界中の言語において観察できる。  日本という地域で、音韻体系が単純な傾向であるという事実が「日本という地域は言語において安定した地域ではなかった」という歴史の傍証であると想定できる。 ※補足:世界的に見て「交易言語・ビジン言語」と呼ばれる「明らかに異なる言語が混合して形成された共有語」では、音韻において相互的な理解可能性を求める傾向からか「音節構造」では単純化しやすく、特に「子音+母音型」の様式が好まれやすいとされる。  「子音+母音型」の様式は日本語の基礎構造と同じ様式であり、日本語の成立環境においても同様の背景があったことが強く示唆される。([追記E+]) ※日本語は「多様な言語性を包摂している」と説明できる音韻体系によって、例えば「外国人における初歩的な発音の容易性」としては傑出して寛容な傾向があるとさえ言える。「最低限の意思表示や情報の提示をするための言葉として成立させるための要求水準」は、かなりやさしいと説明できる。  もちろん、「自然な発音」の習得には相当の修練による身体化を要求され、また他言語ではそれほど多くない「促音」といった音韻を使っていたり、英語話者などにとっては分かりづらい事実上の「短音/長音の区別」という性質など、全てにおいて簡単であるとは言えないものの、「日本人らしくない発音」であっても成立させやすい性質を持っていると言える。 ※(第二言語の話者に対して、日本人はわりとよく「発音(日本語)すごい上手だね」と評価する。しかし日本人から出てくる日本語の発音への最上級の評価とは「すごい上手」ではなく「気づかなかった/日本人かと思った」である。他言語の感覚に由来する癖について寛容ではあるが、不可視なわけではない。)

目次  ##### 概要:日本語の文書体系について -・日本語の文書体系・文字体系 --→日本の文書体系は中国大陸から輸入した「漢字・漢文」の書物・技術から始まる。 ---→しかし日本の言語構造も、社会的な有用性において捨てられない。 ----→日本の言語体系を基準として、漢文を読む「漢文訓読」の体系を整備している。 ----→古くから「漢字を表音記号にして、日本の言語を記録する書物」もある。 -----→漢字を表音記号にして、日本の言語による作品をまとめた『万葉集』がある。 --→やがて「漢字の表音記号としての表記法」が整備されて、「仮名文字」ができる。 ---→文書体系が試行錯誤されて、漢字と仮名文字を混ぜた文書も広く実用していった。 ---→「意味を持つ漢字」と「音を持つ仮名文字」の役割分担が確立されていった。 ----→「表語文字と表音文字の共存する文字体系」が長年、現代でも続いている。 -----※複合的な文字体系が長年実用されているのは、世界的にも稀有である。 --→日本の文書体系は、貴族社会や役人だけのものではなく、広く共有されていった。 ---→貴族社会の記録物を参考として、日本の「共通言語」の基盤として広まっていった。 ----→強固な「文書による広域のネットワーク」が成立していたことを確認できる。 ---※補足:旧来の貴族の権力は縮小し、幕府体制になっている。 ([追記E+]) ----→戦乱の時代があり「中央集権による権力的な安定性」という前提はやや不整合。 ----→戦乱の時代でも「文書による広域のネットワーク」が必要に応じて実用され続けた。 --→「実践的な試行錯誤」と「実用に基づいた整理」によって、使いやすい形が残った。 ---→安定した時代には、庶民が初歩的な文字体系を学べるようになるほどであった。 ----→その時代の「出版物の種類と量の豊富さ」から、普及の規模が傍証されている。 ----→制度教育の普及よりも前に、「庶民でも学習できる」という事実がある。 -----→それは「日本語の文書体系の、基礎的な部分の学習性」を傍証している。 --→学習性は疑われやすいが、実態として、学習性は確保されている。 ---→初歩的には、直感的に分かりやすい表音文字の「仮名文字」によって基盤を作る。 ---→発展的に、意味を示す表語文字の「漢字」を徐々に増やしながら学んでいく。 ---→特に「現代では制度教育の1年目から、書籍を所有させて実用させる」ほど早い。 ----→日常会話の言葉から地続きに理解を進み、日常の言葉の記録も始められる。 ----→その上で「現代では、そのまま高度な知識体系へも緩やかに進行していく」。 --→実用性、生産性も疑われやすいが、実態として、日本の出版市場の規模は非常に大きい。 ---→まず前提として日本国内の文書生産は、ほとんどが「日本語」で実施されている。 ---→人口比あるいはGDP比から見て、出版業界の市場規模の比は著しく巨大である。 ---→毎日発行される新聞の総数も著しく多い。主要な国での人口比は最も多い。 ---→インターネットにおける利用者率とウェブサイト率の比率においても高い。 ----→日本語は日本以外ではほんのわずかしか使われていない。 ----→日本における日本語の出版物は、ほぼ全てが日本人によって生産されている。 ---→高度な文書でも、日本語の哲学書や技術書なども多く存在している。 ---→実用でも日本語の教科書や技術書を知識基盤として、多彩な人材が育成されている。 ※日本語と日本の文字体系は母語話者も、初歩的な段階における実用は非常に早いが、総合的には10年以上をかけて徐々に学んでいくものである。日本語の母語話者は、日常会話から地続きの文字を学び、そこから長い年月をかけて学習や日常から語彙量も文字種も徐々に拡大させていく。  第二言語としての学習では、その膨大な量の情報量を短期間で学ぼうとするために著しく難しい傾向があると整理できる。

目次  ##### 概要:「日本語の不全性」という評価について -・日本語や日本語の文書体系は「形式性」や「計画性」の欠如を感じられやすい。 --→語順が事実上「自由」であり、強固な形式性を観察することができない。 --→「漢字の多様な読み方」に対して、文字体系としての不完全性と考察されやすい。 --→計画的に整備された言語に比べ、「不完全な言語」ではないかと考察されやすい。 --→しかし「実用において、十分に機能している」という実態を説明できる。 ---→日本は、日本語を基盤として、先進的かつ安定した社会を成立させている。 ---→規範性においても「秩序ある言語を使う地域」から劣る傾向は観察できない。 ---→教育の普及率も、むしろ良好な学習効率を説明するほうが妥当な様子と言える。 ---→文書などの生産規模は、むしろ社会規模に比して、かなり膨大だと観察できる。 --※「実用性において致命的な問題がある」という理屈には特別な論理を必要とする。 --※×つまり「民族として著しく優秀」などの突飛な発想が必要で妥当性に欠ける。 -・「柔軟かつ強靭な言語構造」 --→「言語の構造は機能語によって明示的に構築する」ため語順の規定を不可欠としない。 --→文章構造を構築するシステムの強靭さによって、言語操作の柔軟性が著しく高い。 ---→説明において非常に柔軟な情報の提示が可能である。 ---※分かりやすい表現のためには、相応の技量は必要となる。 --→文章構造を構築するシステムの強靭さによって、あらゆる言葉を瞬時に実用できる。 ---→外来語でも、直感的に、日本語の法則性の中に組み込んで実用できる。 ---→未知の言葉があっても、文章構造に悪影響が及ばない状態にできる。 ----→文章構造の明示性から、未知語がどんな言葉かを直感的に推測できる場合もある。 ---→オノマトペでさえも、文章における表現語の一つとして並べられる。 ----→「高度に整備された言語体系では淘汰されがちな擬態語」が多くある。 -・「文字の不完全性の合意による合理」 --→「漢字の読み方を固定しないこと」によって、意味の記号を広範囲へ応用している。 ---→「和語」「漢語系語彙」という異なる語彙層において、意味の接続性を確保した。 ---→発音において苦しい発音を回避しやすい・回避しても漢字が意味を固定する。 ----→特に、話し言葉として自然な「和語」の語彙で発話することも許される。 -→このように「実用性における利便性」の方を説明しやすい。 -※×日本語が完璧な言語であるとは説明しない。 --実社会で「実用において妥当に機能している」事実と、その機能性を説明している。 「日本語と日本語の文書体系は、長い歴史をかけて多くの人々による広域での使用と多彩な試行錯誤を経ながら、実用性に無理のある形式は淘汰され、現実的に実用できる比較的使いやすい様式が主として残存していき、そのようにして整備されていった実用に基づいた言語体系である」と整理して説明できる。 もしも「日本語が不合理である」と説明するのならば、その評価軸において、日本語より計画的に整備された言語は日本語よりも優れた合理性や効率性を発揮しているはずであり、日本語社会と同等以上の規模において、日本語社会と比べて万全に優れた傾向を見せる言語地域の提示を求める必要性がある。 ※事実上の国際的な共通言語として成立している「英語」ですら、「字と音の不一致」という学習の初動における大きな難点を抱えているという問題がある。 ※また現代では、英語以外の言語でも学術知識において「英語」を必要とする場面が多く、研究において「英語を併用する」または「英語を中心とする」という社会環境も多い。過去学術に強かった言語の地域でも、現代では英語の割合を増やさざるを得ないといった傾向が観察できる。  日本語社会は実態として「英語環境との連携は不可避であるが、国内における英語の実用は拡大しづらいほど、国内の大部分が母語によって完結している」と説明できるため、同様に「母語を中心とした学術環境が強く、英語環境の拡大を抑制している社会」という条件を課すこともできる。 注記しておくが、「日本語は、日本社会という大規模な社会の基盤として広く実用され、日本社会という大規模な社会の運営を支えている」という実態が存在するため、その規模を前提として比較しなければ「規模に対する適応性」という機能性を正しく比べることはできない。 また「日本語が不合理」という評価をする限りは、比較対象とする言語において日本語よりも格段に優れている社会的な傾向が示されなければ、その評価の妥当性を持たない。 そして現実的に、地球上にそのような言語の社会を確認することはできない。日本語は「不格好」であるように観察することはできても、現実的な実態において「不合理」と評することは妥当性を持たない。

目次  ### 蛇足:「自然言語」自体の「文脈性」([追記F]) 認知言語学に当たる部分だが、誤解可能性を削るために明示する。 -「自然言語」は物理的な性質として、人間や生物の「言語感覚」という基準で扱われる。 --→「自然言語」は、多くの人にとって強固な情報であるが、絶対の情報ではない。 ---→「自然言語」は、当然として存在しているために、強い情報だと信じられやすい。 ---→「自然言語」には、不変の情報があると信じられやすいが、絶対の情報ではない。 --→「自然言語」は、必ず、人間や生物の感覚が介在するものである。 ---→「自然言語」の根拠は、「絶対的で不変かつ普遍的な情報」ではない。 ---→「自然言語」の情報を、科学的な手法で、画一的に固定することは不可能である。 ---→「自然言語」の情報を、科学的に不変のものにすることは不可能である。 --→「言語感覚」は、人間や生物の持つ、それぞれの頭脳神経において判断される。 ---→「言語感覚」は、個体ごとの環境からの情報によって学習的に形成される感覚である。 ---→「言語感覚」は、個体ごとの学習に基づいて、神経系で形成される現象である。 ---→「言語感覚」は、個体ごとの神経系に左右されるものであり、個体差が生じる。 ----→「言語感覚」は、個体ごとに、差異が生じることは当然である。 ----→よって「言語感覚」に、「絶対的に不変な根拠」は存在しえない。 --→「自然言語」は各々の「言語感覚」から「共通認識と合意される情報」で成立する。 ---→使用者同士の「おおよその意味として合意されるもの」によって実用されている。 ----→使用者に「同じ意味だ」と認知されても、厳密には「近似値」である。 ----→使用者に「全く同じ意味だ」と認知されても、あくまでも暫定的な合意である。 ---→「自然言語」そのものが「前提とする情報」に基づく現象である。 ---→「自然言語」は、「言外の情報である文脈」を根拠とする現象である。 ----→「文脈への依存」という現象そのものは「自然言語」の根幹部分から存在している。 ----→「文脈への依存」という現象が一切無い「自然言語」は存在しえない。 ---※一部の言語文化では、言語は「絶対的で不変かつ普遍的な情報」という「言語への強い信頼」の傾向を観察することもできるが、それは信頼であって現実ではない。 「文脈への依存」という観念を深める場合、これらの理論との衝突を解消する必要がある。 つまり「その言語において、十分に共有されている前提に基づいて理解されている使い方」に対して、それを「文脈への依存と呼ぶ」ことは、「あらゆる言語の成立条件に対して、文脈への依存と呼ぶ」ことと等しい問題が発生する。即ち「自然言語は全て、高文脈的である」という解釈に到達することになる。 「特定の自然言語の法則性」において広く合意されている法則性は、それを「文脈への依存」と呼ぶことは、「文脈への依存」という概念を極大化させることになると言うべきである。 安易に「文脈への依存」とする場合、例えば英語の[Take off]の「恣意的な誤解可能性」(手放す[Take <- off])も許されなければ、論理的な公平性において不整合な状態となる。 そういった「恣意的な誤解可能性」を破棄するのであれば、一般的に理解されうる範囲に対する「文脈への依存」という概念を抑制的で慎重に考察しなければならない。 「高/低文脈」という概念における「文脈への依存が特別に大きい・高文脈的」という分類には「その言語において広く合意されている法則・意味・用法からだけでは、一般的には識別できないような使われ方」という状況的な条件を必要とすると整理できる。 なお、この条件においては、「定型フレーズ」や「イディオム」や「スラング」は実態において、「その条件の境目付近に存在するものである」と説明する必要がある。一般化すれば「文脈への依存性は小さい」という扱いになるが、そのしきい値を厳密に示すことは不可能であり、実態において「境目付近にある語彙」という説明になる。 ※蛇足:社会的な情報※  日本語では「言語上に、細かい社会的な情報を明示的に表現できる機能性と、それを実用する文化」が存在する。つまり日本語文化では「社会的な情報に対して、言外の情報への依存度が軽減されやすい」と言える。「社会的な情報」という部分においては、文化的に「低文脈的な作法」が常用されていると説明できる。実用における有効性においても、そのように「社会的な情報」が明示されていることや、「社会的な情報」を明示できることによって、人間関係における心理的な緊張感・不安感が緩和されやすいと説明できる。  それを比較した場合、その他の多くの言語は「社会的な情報が乏しい言語である」と説明することが可能であり、それはつまり「社会的な情報を理解するために、言外の情報からも認識しなければならない範囲が大きいため、高文脈的な状態である」という説明をすることもできる。

目次  ## ※推論成立のために必要となる主な検証部分 ([追記E]) ※より詳細に調べる必要のある部分はあると想定される。 ※実際に研究し、整理をするなら細かい補完・調査は必要になる。 ※有効な先行研究が存在するならば、それを確認すること。 1.音韻体系の違いを、数理的に整理すること。 1.1.日本語の音韻体系について 1.1.1.基礎的な音素の使われ方。※明確に分離されている標準的な範囲が算出可能 1.2.英語、ドイツ語の音韻体系について 1.2.1.基礎的な音素の使われ方、主要なパターンなどの分析。※著しく多様。 1.3.各言語ごとを比較して、その差をまとめる。 ※英語は主要な区別される音の組み合わせ例が「概算」しか出せない程度に複雑である。 ※印象としてその差は明らかだが、これを数理的に明確化する。 2.発音体系の違いを、物理的に検証すること 2.1.仮定:日本語の音韻は物理的に強いのか? 2.2.仮定:英語やドイツ語の音韻は物理的に不安定なのか? 2.3.理想的な発話環境に限らない、物理的な強度の検証を必要とする。 2.3.1.理想的な話者に限らない、発音の検証を必要とする。 2.3.2.各言語ごとを比較して、その差をまとめる。 ※非常に広い実験、あるいは「物理的なデータ検証」を必要とする。※難しい ※注記:「音を聞き取る検証」の場合、人間の推測が成立してしまう状態だと「物理的な検証」として成立していない状態になる。推測の困難性を確保した検証でなければならない。 ※「音声の波形分析による、物理的な音の近似性の調査」といった手段が考えられる。 3.一般的に実用される単語・表現量を、統計的に調査し、数理的に整理すること。 3.1.「一般的に実用されている単語の範囲・一般的な単語」の条件を明確化。※難しい。 3.1補.「外国語として学習する際の目安とされる主要な語彙量」が参考にできる。 3.1補.「大衆向けのヒット曲において使われる単語の分布」なども目安になりそう。 3.1補.「大衆向け映画における単語の分布」なども目安になりうる。 ([追記E++]) 3.1.1.日本語文化における、一般的な単語の量をまとめる。 3.1.2.英語文化やドイツ語文化における、一般的な単語の量をまとめる。 3.1.3.各言語の「一般的な単語」において、各単語の持つ意味の範囲を整理する。 3.2.「一般的に実用されている表現」の観点による発展性を整理する。 3.2.1.日本語は単語外の「機能語」「述語」などによる多様な変化などについて。 3.2.2.英語は単語の変形について。 3.2.3.ドイツ語の詳細で厳格な表現体系について。 ※注記:「敬語」などの体系は「単語・意味語」ではないが、「社会的な情報」を明示する機能を持った語彙であるため、この語彙の位置づけも整理する必要性がある。 4.etc.、その他細かい言語差を、数理系に整理すること。 4.1.「母語としての言葉の覚えやすさ」なども調査対象になりうる。 4.1補.「新しい言葉に対する学習の速度」も比較対象にできる。 4.1補.「言語構造における未知語の安全性」などの調査もできると理想的。 4.2.「文字表現と発話表現との接続性」などについても、考察できる。 5.「言語の普遍的な法則」についてをまとめる。 5.1.過去の論文などを漁るなどして、言語の普遍的な法則性についてを整理する。 5.2.重要★「労力の最小化、省力化」の普遍性について、立証する必要がある。 5.2.1.省力化による「明示される語の縮小」の傾向を確認する。 5.2.2.「労力の最小化」のために「失敗を回避するための作法」について整理する。 5.2.3.★真なら「高文脈化の現象」と「低文脈化の作法」という分類ができる。 5.3.補記:「自然言語」自体の「文脈性」についての論理的な整理をする。([追記F]) 6.主要な言語差のデータに基づいて、どのような考察が導けるのかをまとめる。 ※免責:筆者は専門家ではない。研究者でもない。



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