散文

ファイル掲載日:2026年05月12日(第一版:暫定)
ファイル更新日:2026年05月13日(番号修正/リンク追加)
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散文『日本人の宗教観について、対外的説明のための理解』 Andil.Dimerk ※作成年:2026 **注記** ※免責:筆者はいずれの専門家ではない。 ※免責:データ参照元についての詳細な情報の記載は意図的に減らし「論文ではないこと」を客観的に認識できるようにしている。必要であると考えるならば各自での研究に任せる。 ※補記:文中の[]の中は、文章において翻訳するべきではない文字列である。 ※補記:他言語へ翻訳する場合、微細な表現が大きく消失する恐れがある。 ※補記:名詞においても、逐次的な自動翻訳などでは統一性を失う恐れがある。 **補記** 「Grokによる英訳・解説」([A更新]版)※完全な英訳ではない

目次  # Philosophical key points note : "On the underlying foundation of Japanese culture" 散文『日本人の宗教観について、対外的説明のための理解』 (0) 個人的なメモになるが、日本人の宗教観と外国からの宗教観の「ズレ」を理解するために、日本人を含めて理解しておくべき要素がかなりある。考察できるポイントを列挙する。また「ズレやすい部分の大枠の概要における分析・理解のための骨組み」であって、証明するための理論ではない。 (0.1) 前提として、どの地域・どの文化であっても、特に大規模な社会において、その内情の多様性が広がりやすいものであり、そして日本は現在1億人超の人口を抱える地域であり、その中身は均質ではない。多様性を抱える社会において、全てが完璧で理想的に回るという理解は、現実性を持たない。 (0.11) 日本社会は、「膨大で地味に多様な人々が協力的に大きな共同体を形成する」という構造性を持ち、その中においては多様な個人や様々な小共同体が存在していると説明するべきであり、そうした構造において、結果的に生じている"日本文化"の大きな傾向を抽出したものを整理するメモである。 (0.2) 文化的に"語られやすい"問題点は、必ずしも"日本地域固有"の事象ではないと言うべきであり、語られやすい事象も中には場所によって相対的に"抑制的"な事象もある。典型的な"同調圧力"などの概念も、他国に"集団圧力/Peer Pressure"など同様の事象が存在しないといった妄想は現実性が無い。

目次  ## 1 : Faith of A Japanese (1) 現代の日本人にとっての「無宗教(Non-religious)」は「無信仰(Non-Faith)」を意味しておらず、"無神論"や"無宗教主義"を意味しない。また"善悪の欠如"、"倫理観の欠如"、"規範性の欠如"、"哲学性の欠如"なども意味せず、"精神性の未熟性"も意味せず、実際には"社会性を有する"人が多い。 (1.1) 現代の日本人の多くは「Non-religious」を自認する一方で、同時に、現代日本人でも多くが"不可視な存在"への信心を使っている。 (1.2) 現代の日本文化における「自分に宗教があること」の観念は、通常「特定の教義を遵守する・特定の宗教に所属する」といった"非中立を意味する"観念である。 (1.3) 現代の日本人の多くは宗教的な自認に左右されず「宗教的な作法の実施」「宗教的な儀礼・行事への参加」を習慣としている。 (1.31) 一般的な現代日本人は「新年や行事で宗教施設へ祈る慣習」「墓で祖先へ祈る慣習」「結婚式で宗教的儀礼を受ける慣習」「クリスマスなどを祝う慣習」がある。 (1.32) 一般的な現代日本人は「民間信仰」と呼べる行為として、食事の前後において「[いただきます]/[ごちそうさま]」という挨拶を実施する。これは「食事・食べ物への礼儀」の観念と、「その食事が実現するためにかけられた人々の尽力への謝意」の観念を複合する、祈りを含む習慣である。 (1.33) 一般的な現代日本人は文化的習慣を「宗教的な行為」として認識していない場合も多く、また"宗教的行事"と認識していたとしても、その参加が"宗教性の証明であるとも解釈していない"。そうした行為を実施していたとしても、現代日本文化では一般的に「"宗教に属している"とは解釈されない」。

目次  ## 2 : Behind Good and Evil (2) 現代の一般的な日本人は「善悪の観念」に対して、詳しく言語化できるとは限らないが、極めて一般的な感覚性において合意をとることができる。現代日本人にとっての善悪とは「社会を含む、人々にとっての善悪」であり、「人にとって良ければ善・人にとって悪ければ悪」と理解されている。 (2.1) 多くの現代日本人にとって「非絶対的な善悪」という哲学はかなり一般化した理解である。一方で、西欧的な哲学からは「絶対性のない善悪」の哲学性は「不安定で不誠実である」かのようにも解釈されやすい。 (2.11) 日本文化における「非絶対的な善悪」とは、「現実に対する誠実」である。 (2.2) 現代日本文化における"善悪"は「不安定で不確実な現実の社会や人々を可能な限り理解すること」に依拠している。そこでは安直な単純化こそが「不誠実」であり、あらゆる善は「状況への適切さ」を必要とする。 (2.21) 社会や人々を直視しないことが「現実に対する不誠実な怠慢」である。 (2.3) 現代日本文化において、どれだけ高尚な理念を持って、どれだけ素晴らしい結果を生み出すかなどと大義名分を並べたとしても、「社会や人々を直視していない理念」は"最悪の不誠実"である。 (2.4) 現代日本文化ではシンプルに「(不当に)他人へ迷惑をかけるな」という理解が共有されている。 (2.5) 現代日本社会における"法律"や"規則"は、人間的な善悪の観念と社会的な善悪の観念などに基づいて、その公共性が認められるものが整備され、"社会的な範囲におけるルール"という意味で、公的に運用されている。明文化されたルールに基づいて、他者を含む社会への破壊的行為が禁じられてる。

目次  ## 3 - 3.31 : Comprehensive pragmatism, within Inevitable reality (3) 現代日本文化が潜在的に持つ哲学的な根幹は「包括的な実用主義的尽力」と説明できる。それは短絡的な「俗世主義」や短期的な「利己主義」を意味しない。 (3.1) 包括的な実用主義には「社会で生きる場合は他者との関わりが不可避」という現実や「人心・感情の存在」という現実も包含している。 (3.11) 極めて現実的な問題として、「他者をないがしろにする行為」は他者の反感を生じさせ、他者からの妨害・攻撃を誘因する危険性という「現実的なリスク」が存在する。 (3.111) その現実に対して、現代日本文化では「不要に対立しないこと」や「やさしさ」が、文化的な作法として定着している。 (3.12) 極めて現実的な問題として、「人間の感情」は人間が生きていく中で避けようもない要素であり、これを適切に対応することも現実的な課題である。 (3.121) その現実に対して、現代日本文化では、様々な活動で「心残りの清算」や「前向きな心理の誘導」の文化が組み込まれている。 (3.13) 極めて現実的な問題として、人間が良く生きていくためには"人間よりも巨大な構造である社会"の維持が、極めて有効である。 (3.131) その現実に対して、現代日本文化では「"社会"を守ること」が規範の基底にあり、"自己の余裕と他者の必要性"に応じた助け合いによって、社会が保全される。 (3.14) 極めて現実的な問題として、「人間社会という構造体は、構成する人間の協力関係が不可欠」であり、特に人間の協力を得られない体制は自壊または破壊される。 (3.141) その現実に対して、現代日本文化では"協力関係の形成と維持"のために、構成される人間を可能な限りにおいて保全する。 (3.15) 極めて現実的な問題として、事実として全ての人間が高い教育を"受けようとする"わけではなく、また事実として全ての人間が高い判断能力を有するわけではない。 (3.151) その現実に対して、現代日本文化では「人々の理知の限界」を"当然である"として、感性的な共有も文化的に併用してきた。 (3.16) 極めて現実的な問題として、人間同士でも物質的には別々の存在であり、その感覚は独立的に併存していて"完全な一致"は不可能である。 (3.161) その現実に対して、現代日本文化では「他人の感性は同一にならない」という理解に基づきつつ、社会では"互いの妥当性を考慮して"社会を回している。 (3.2) 現代日本文化では極めて現実的な問題への応答と試行錯誤が長年継承され続けてきた結果、社会のための倫理や規範が「社会における当然の道理」として普及している。 (3.21) 現代日本社会の規範性には自主性があり、実態としても、災害時や非常時においても高い規範性を持つと説明されやすい。 (3.3) 現代日本文化は「非論理的で神秘的な特殊性の事例」ではなく「経験的な妥当性に準じた構造性の基盤」を持つと解剖できる。その構造性は"神秘的な文化背景"として観察するよりも、「多くの要素を包含した利口な反復ゲームの均衡の、習慣的な継承」での説明が整合的ではないかと思索できる。 (3.31) ただし「このように整理して解釈できる」だけで、この構造が"知識"で理解されているわけではなく、"万人が正常に合理的な考えを持つわけではない"。この構造は"試行錯誤"を前提とし、論理的に整理するには複雑かつ柔軟すぎるため、"画一的な知識体系に基づいて広めること"自体にも適さない。

目次  ### 3.4 : Ideals are from the Reality (3.4) 現代日本文化の哲学において、「"理想"は、現実的な要請に基づいて運用されるもの」である。 (3.41) 現代日本文化の哲学において、"現実性に根差した理想"であれば、それがどれほど困難でも、その"必要性への理解"に応じた人々の尽力を導き、実現へと急進的なまでに邁進することさえある。 (3.411) 日本の近代化での文化的大転換、あるいは現代技術の驚異的な普及なども、"必要性への理解"によって達成されたと位置づけできる。現代の日本でも、文化的な遺産としての保護をしながらも、一般的には時代に応じた生活様式の更新も進められており、その暮らし方は多様に展開し続けている。 (3.412) 日本の近代化は、その前段階において、"教育の国家的な制度化"よりも以前から"庶民の教育文化の広がり"の歴史を確認できる。つまり庶民にも「安定して暮らすために"基礎的な教育"が現実的に必要」と認識される社会があった。後に、広い教育文化が日本の近代化を大きく支えることになる。 (3.42) 一方で現代日本文化の哲学において"現実性を欠いた理想"は、どれほど高尚であるかのように見せかけたとしても、必要性の理解が及ばない限り、その理想は実効性を持たない。現実性を欠いた理想は「現実を直視せず物事を単純化した、観察と思慮の怠惰による"不誠実な論理"」とさえ評されうる。 (3.421) 特に"論理の誤謬"として、「理想と現実の乖離における問題を、現実の不完全性などへの"他責化"をすること」は、一方的な"問題の創作"であり、無制限に"敵を創作できる"、論理上の倫理違反である。包括的な実用主義の中では、理想を語る者こそ、現実をよく見据え続けることが求められる。

目次  ### 3.5 : "Explanation" does not imply "Existence" (3.5) 現代日本文化においてこれらの哲学性が、知識体系として理解されているわけではない。しかし知識体系として理解されていないのに実態をそのように分析できるという事実は、日本文化において「これらを西欧的な具体性を持って説明する必要性そのものが希薄だった」と説明することができる。 (3.51) Do birds explain aerodynamics to justify their flight? Do fish theorize about swimming to move through water? Can an ordinary human articulate the mechanics of walking? The absence of explanation does not imply the absence of function. 同時に、"説明"は実在を意味しない。 (3.52) 現代日本文化で、理想的な哲学性を完全に体現する人間ばかりではないことも確かではある。規範から逸脱する人間がゼロなわけではない。しかし1億人超の規模かつ高密度な地域を含む社会でありながら、社会秩序に関する調査上の各種数値は、国際的に見ても良好な水準で長期的に安定している。 (3.521) 「人々の持つ道徳の不完全性」は、あらゆる"大規模な社会や文化"において、完全な解決が達成されていない問題である。たとえそれが、明示的な教義によって規範性が厳格に整備されていたとしても、教義へ全ての人心が完璧に従うという実証は未だ現存しないことは、経験的事実である。 (3.522) 現代日本文化を基盤とする大規模な社会が、外部から見て標準的に規範性の高い社会が形成されていると評される事実を踏まえれば、「特定の"知的教義"への依存」が、唯一の最適解ではないことが実証されていると説明できる。(考察においてはそれを"特殊な民族"だと例外化されがちである)

目次  ## 4 - 4.1 : Faith in Human Society, And the reason why (4) 現代日本文化の精神性を西欧の価値観において精確に説明しようとするのであれば、それは「社会への無名の信仰」と説明できる。つまり、"宗教的な存在や超常的な存在によって与えられた世界観"への従属ではなく、「人間的な尽力によって成立している人間社会という尊い世界」への参加である。 (4.1) 現代日本文化がそのように形成された背景には、日本の地域環境が極めて強く関わっていると考察できる。 (4.11) 日本は「水資源が豊富で自然豊かな島国」と語られ、生存は容易に思えるが、その代償として「長期的に安定して生存するためには、大規模な協力・計画性・対策を必要とする」。 (4.12) 日本は陸地のほとんどが山岳であり、少ない平地も多くが湿地帯である。そのため台風を含む大雨による洪水や、山崩れなど土砂災害が頻発する土地であり、開墾し環境を整備し続けなければ住む場所すら安定しない。 (4.13) 反対に、「雨が降らず、水不足になる」という災害も度々発生する。 (4.14) 日本の主要地域は、季節によって気温や湿度が極端に変化する。夏場は温度と湿度はカビや菌を増殖させて疫病のリスクを増やし、一転して乾燥する季節には乾燥を好む感染症のリスクが増大する。冬場には気温の低さによる健康リスクを増やす。健康上も、季節への対応を不可欠とする。 (4.15) 日本における「豊かな自然」も、社会にとって十分な食料を生産するためには、農地の開墾と維持に膨大な労力が必要であり、社会的な協力を不可欠とし続けてきた。"種をまいて放っておけば育つ"環境ではなく、あくまでも「人間的な努力を介在させることで安定した生産が望める」地域である。 (4.16) 日本において長期的な災害として「大地震」や「火山」といった破滅的な災害さえも存在している。建造物を容赦なく破壊し、また大噴火の火山灰は広域へ農業へと深刻なダメージを与えることもしばしばある。 (4.17) 日本文化は主に「大小さまざまな備えをし続ける文化」が生存してきた。

目次  ### 4.2 : Human obligations, for The Live (4.2) 日本文化は過酷な環境の中で「人間の責任を放棄しないこと」を求め続け、「人間ができることはできる範囲でやり尽くす」という文化哲学を育んできた。 (4.21) 歴史上、自然災害に対して"超常的な存在の怒り"という名目で扱う信仰があっても、しかし自然現象への備えも必要として実施してきた。 (4.211) 水害に備えて治水・堤防を整備し、渇水に備えて貯水池を整備し、地震に備えて建築物を強靭化し、疫病に対して衛生環境を整備し、病に対して薬の普及も進め、飢饉に備えて食料備蓄を増やし、あるいは緊急時の食料の理解を深める。それらは全て"現実で生きている人間の尽力"である。 (4.22) より詳細に言えば、"包括的な実用主義"の集団が、日本という地域で多く生き抜いてきたと考えられる。より広い協力関係を作れる文化性を持ち、備えによって安定した社会を目指せる集団の文化が地域を収め、現実的な備えをできない文化は、歴史的に淘汰されやすい立場にあったと整理できる。 (4.23) 日本文化の構造は「誰かが総合的な設計をしたもの」ではない。人々が過酷な現実に対して試行錯誤をし続けて、「現実的な順応と淘汰に基づいて収斂していった文化体系」だと考えられ、"政治的な設計図だけで普及した様式"ではなく「生態系のように選抜されていく文化」だと整理できる。

目次  ### 4.3 - 4.4 : The Physical and The Spiritual (4.3) 日本文化では「人間ができることは、できる範囲でやり尽くすこと」が求められるが、それは同時に「理知や人間にはどうにもならないこと」も、自然と直面し続けてきた。その現実的な問題に対して、日本文化は極めて現実的な解決策として、宗教的な"祈り"の習慣を保存し続けたと整理できる。 (4.31) 現代日本文化における"祈り"とは主に、どうにもならない領域の委任や逃避、"不可能な領域の非人間化"、どうにかなったことへの感謝、あるいは覚悟の表明などで行われる。現代日本文化の一般的な"祈り"とは、生活の中心ではなく、心理の外縁を支える「文化の壁面」にあると整理できる。 (4.32) 日本文化ではその「"物理的問題"と"精神的問題"の分別」が自然と進んだことで、「先進的な文明社会」と「古来の宗教文化」の対立を限定化し、併存する環境を無自覚に両立させている。目に見える世界の難しさも見つめることを忘れず、しかし目に見えない世界の難しさも忘れない文化である。 (4.4) 現代日本文化の象徴的な文化として、12世紀ごろから既に「宗教的な中心が政治的な中核から"支持者"となり、実務に強い現実的な実力集団へ統治の権利を委任する体制が始まった」という歴史を持つ。また同時に実力集団も、宗教的な勢力を"心理的な後ろ盾"として現実的に尊重している。 (4.41) 「精神的な中心」と「実務的な中心」の分離は、「精神的な中心が名目上の正当性のみによって暴走して瓦解する危険性を抑止」し、「実務的な中心は、実務上の能力を条件として委任による精神的な安定を得ながら、働きに基づいて正当性が認められる仕組み」という、現実的な協力制度である。

目次  ### 4.5 : Minimizing intervention by a Mysterious Entity (4.5) 日本社会は歴史的に「"超常的存在"の、社会運営への介在を最小化していく尽力」が重要だったと説明できる。日本社会は、文化的に超常的存在を不可欠だと尊重しながらも「現実社会の構築はあくまでも人間的な尽力であること」を譲らない集団が、現実的な発展を重ね続けたと整理できる。 (4.51) 日本社会の「愚直なまでの包括的な実用主義の文化性」の歴史的な証明として、徳川の江戸幕府は、現実的に持続可能な調整に基づき、非常に長く安定して国を治めた政権であり、初代が「東照大権現」という宗教性を有しながら、幕府が実務能力を喪失した段階で、権力の移譲を決断した。 (4.52) 日本社会は"江戸幕府の終焉"から現実的な必要性への理解に応じて、極めて貪欲な近代化"明治維新"から、制度の再編成と国土の整備による国家の強靭化を断行している。「これまで成立していたこと」でも再考し、「秘されていた宗教的な象徴の姿を民衆へと知らせること」すらも敢行している。 (4.521) また日本社会は、近代化において宗教的な象徴を「政治の中心的存在」として据えた一方で、その実務は一貫して「実務を担う者たちの判断」に基づくものであり、その実態は「政治を追認させる立場」であり、日本文化における歴史的な統治体系の様式はそこにおいても守られ続けている。 (4.522) 日本の宗教的な象徴は、近代の大戦後に自ら"人間宣言"をすることで、その神秘性の否定を実施しているが、しかしそれが社会的に破滅的な混乱や、社会の破綻を導くことはなかった。元々「人間の秩序は人間が成立させる理解」が既にあり、社会構造としては小さな変更点だったとも整理できる。

目次  ### 4.6 : Polycentric state. and Force concentration (4.6) 日本社会は歴史的に見て、本質的には「多中心的」である。歴史的に、各地域の独立性の強い傾向があり、"中央集権"の制度が存在していたとしても、地域ごとの統治実態は基本的に地域へ根付いた形で実施され続けており、"中央との協力関係"に近い構造性によって運営されていると説明できる。 (4.61) 日本という地域では現場に応じた理解と対応を実施し続けなければならないため、地域で生活している人々の活動は自立性の高い傾向がある。特に日本は地域の多様性によって「中央の理想が一律には成立しない現実」が横たわっているために、本質的に"中央政府での完全な統治"自体が困難である。 (4.611) Tips: 日本の長さはイギリスのブリテン島(訳1000km)や、イタリアの半島(1100km前後)よりも長い。日本列島は、最大の本州だけで曲線で1300km以上の長さを持ち、幅は90km~200kmほどで、その中央を山岳が分断している。そして本州だけではなく、九州・四国・北海道にその他離島もある。 (4.62) 現代日本では「個人も社会の当事者」という理解が当然であり、課題に対してまず現地人が現場の判断と対応を実施する。現地人では対応できない規模や領域において「地域が責任を任されることで対応する」、そして、地域でも対応できない規模を「中央政府が請け負う」社会構造を持つ。 (4.63) 日本という多中心的な地域環境において成立している中央の行政府とは、本質的に「大規模な責任を任される領域で活動する権力構造」であり、日本における"中央集権"とは「国家規模の課題の責任を集中させるための権力の集中」だと説明できる、その本質は「社会の最終責任者」だと整理できる。

目次  #### 4.631 : Tokugawa Bakufu System continuation and shutdown (4.631) 「責任のための権力の集中」の構造性は、歴史的な「徳川江戸幕府のシステム」を見ることでその仕組みを理解できる。江戸幕府は"全国を支配する立場"であったが、その目的と実務は「国家を安定させるための尽力」であり、その統治の基本は「地域管理の、地元有力者への委任」であった。 (4.6311) 江戸幕府が長期的な統治ができたのも、その本質は、地域だけでは不可能な越境的な調整や整備を実施し続けることで、「大多数の有力者からその統治を支持または黙認されていたから」であり、統治体制が相互的に守られてきたからこそ、200年以上もの間、政権を維持できたのだと説明できる。 (4.6312) 特に、江戸幕府は「幕府成立以前に、徳川家に敵対していた勢力は格下として扱われるとしても、しかし、勢力を根絶やしにはせず、縮小させつつも、その実務能力に基づいて地域を任せる」という"反感の可能性を温存"したにもかかわらず、実際において、安定した統治を実現している。 (4.6313) そして江戸幕府が終焉したのも「統治の機能性が不十分となり、その支持を失ったから」である。また江戸幕府も統治の正当性が「国家安定という責任を果たせる機能に基づくこと」を理解していたからこそ、内戦に対して能力の不足が明確化した段階で"権力を返還した"という整理で整合する。 (4.6314) また対照例として、闇雲な拡大的方針へと指向していた"豊臣秀吉"は、計画の失敗によって勢力内の信認を失って離反を招き、その勢力圏は次代へ継承されず、崩壊した。非常に大きな権威を有したとしても、統治を実行する能力が認められなければ対抗され、打倒される実例として提示できる。

目次  ### 4.7 : Humanitarian aid requires an Economic foundation (4.7) 日本社会が、歴史的に"理想的なシステム"だったとは説明しないが、しかしその全てが長期的に"怠惰なシステム"であるかのような評価は、日本地域の困難性を著しく軽視している。 (4.71) 例えば日本の近代より前の「西欧世界から見た人道主義の遅れ」という理解は、"非対称的な評価"と見れる。 (4.711) 「社会的に保護する」ということを目指しても、その「保護するためにかかるリソースの捻出」は制度的に不可欠である。 (4.7111) 戦国時代の日本における経済的"極限状況"として「茶器など物理的には質素な物体が褒賞にも使われる"高級品"になっていた」という事例を提示できる。 (4.712) 西欧からの宣教師などによる倫理的惨状の報告が存在し、また宣教師による"人道的支援"の記録などもあるが、その"倫理性"は背景の経済力に支えられている。 (4.7121) 西欧では、広げた信仰に基づく大規模な社会領域を基盤とした経済力を持つ集団によって、様々な社会活動を可能としていた。 (4.72) 日本社会の大規模に安定した発展は、内乱が収まった江戸時代において長い期間が経ち、経済的なシステムも円滑に稼働するようになってからのことである。特に分かりやすい影響が、いわゆる「生類憐みの令」と呼ばれる"悪法とすら呼ばれる理想に偏った"諸法令を限定的にでも運用できている。 (4.721) いわゆる「生類憐みの令」は、個別の令において社会的な妥当性に欠いて、後に撤廃されたものも多かったが、"疫病に影響しやすい領域"など、"人命に関する領域"は継続されており、これによって現代では「日本文化における人道意識の普及に大きな影響を及ぼした」という評価も存在する。 (4.73) 現代文明の「人権」の一つに"教育を受ける権利"が含まれるが、日本の基礎教育の歴史では社会の安定期に"行政府による制度化より前"から、庶民が教育を求めて地域の知識層が応じて基礎的な教育をする社会が容認されている。近代化の制度教育は民間の活動から制度化をしたものと説明できる。 (4.731) 西欧における広域の「庶民への基礎教育」が普及するのは、歴史的に"宗教的中核の動乱と再編"より後の時代であり、それ以前の"庶民の教育"は限定的であった。後の普及においても"統治者側の思惑"の大きい目的が強くあり、それも地域差が著しく、地域によっては「西欧の近代化」を待つ。 (4.732) 「多くの庶民が広く本を読める時代」は、西欧では地域差は大きいが17世紀から18世紀以降が中心だと説明される一方で、日本でも17世紀後半辺りから多種多様な庶民向け出版物が大量に生産されていた物証がある。つまり「庶民の教育の普及」の実態では劇的な"遅れ"があったとは説明できない。 (4.74) 日本の近代化では「"西欧世界"との関係構築」を主目的として、旧来の社会制度の"人道的な"再編成だけではなく、自発的に服飾の西欧化など、旧来の文化様式さえも多くを変えてまで、"西欧ローカルの社会体系"への適応するように、著しい速度で「西欧化」を進めた、"社会的な尽力"が見られる。 (4.75) 世界有数の経済規模にまで発展した現代の日本社会では、様々な水準において、福祉制度が広く整備され、また現実的な調整をされ続けている。象徴的な領域として、日本社会では"国民皆保険制度"によって、参加する国民が基礎的な医療の多くを安価に受けられる人道的な環境を成立させている。

目次  ### 4.8 : Realistic constraints (4.8) 現代日本社会は文化的に「社会を重要なものとする構造」を持ち、社会的な場では"その共同体を破壊しない社会性"を標準として求められる。しかし、「人心の全てを完全に制御できるわけではない」という現実的な制約を捻じ曲げようとすることは、困難を極める非現実的な空論と理解される。 (4.81) 「人心は統制できない」という現実的な制約に対して、現代日本文化では「社会活動や社会秩序を妨げず脅かさない限り、私的活動が容認される」ような構造を持つ。その社会の耐久性によってその水準は変化してしまうが、安定した地域においては、私的な文化活動が大いに活発となる。 (4.82) 運用条件において"社会は個人を必要とし、個人は社会を必要とする"が、「社会は個人を自由に使うことはできず、また個人は社会を自由に使うことはできない」。現実的な機能的限界に基づいて、「社会は個人への無限の要求を正当化できず、また個人は社会への無限の要求が正当化されない」。 (4.83) 社会的な倫理性と持続性において、社会は"構造そのものの維持"のために「社会が、個人の生命や生活の保障について、可能な範囲において尽力しなければならない」が、同時に"社会の構造を守る"ために「社会にいる個人は可能な範囲において社会への協力しなければならない」とする理念である。 (4.84) ただし、あらゆる社会において"完璧な社会"は空論であり、たとえ超越的な理念に基づいた構想によって設計していたとしても、実際に社会を安定させるためには現実的な問題を拾い上げ、必要となる対応を実施し続けなければならない。超越的な理念の存在は、"完璧な社会"の成立を意味しない。 (4.841) 日本文化では基本"現実における地道な調整"を前提とする。日本社会では、現実的な社会運営において問題が生じている領域へ補修的な対応が要求され、他文化と同様に、現実的な対応を適宜し続けている。 (4.8411) 「人心を無限に抑圧すること」は"人間工学"的に安定を持続させない。 (4.85) 日本という地域環境は「物理的な社会活動によって膨大な人命が支えられている」という関係性にあり、「社会活動の崩壊」は"人命への危険"を招く。現代日本社会では「社会活動の崩壊」が"人道的問題"に接地し、"社会と人命"を守るために、その最小化が必然的な努力目標となる。 (4.851) 日本地域は「大災害による予測不能なリスク」も抱えているため、"制御可能な社会活動"において、どのような理念に基づいても、"社会を不安定にするリスクを含む方針"は厳しく審査される。 (4.852) 現代日本社会では、"社会の安全化や強靭化"が認められる場合において、革新が制度化できる。 (4.86) ただし、日本社会も日本文化も日本人も、万能でも全知全能でもない。実際の日本社会が必ずしも"正解"を選び続けるわけではない。環境や人間という制約の中において可能な範囲で試行錯誤を繰り返し続けてきた社会であり、制約の中の地道な試行錯誤によって安定と発展を目指し続けている。

目次  ### 4.9 : The fact of "Hideyoshi's failure" (4.9) 「日本は安定した地域だから高度な社会が実現した」とする考察もあるが、実態は「"大帝国化が困難なほど"不安定な要素も多い地域で、多くの人が安定に尽力している結果が、現在の日本」だと整理できる。もしも統治の容易な地域なら大陸進出も"秀吉"より早い時代から活発だったと想定できる。

目次  ## 5 - 5.2 : Folk tales of A Japanese (5) 日本文化の文化的な基底は、古くから民間伝承から根付いていた御伽噺からも読み取ることができる。地域ごとにも様々な御伽噺が伝承され、江戸時代以降には出版物として記録されている。主要な御伽噺は人々の間で「社会的な物語」として、教育的な効果を持って扱われていたと考えられる。 (5.1) 日本の主な御伽噺は「民間的な勧善懲悪」の物語が主流であり、それも"超越的な存在による報復"よりも、"人為的な報復"という形で語られるものが多い。また「誠実や人助けは、自分にとってもうれしいことを招く」という物語も主流であり、それらが日本文化の根底を支えていると考察できる。 (5.11) 日本の主な御伽噺では、悪行や不誠実に対する報復について、"人々の手で実行されやすい"傾向がある。日本文化では「秩序とは人々が主体的に、互いの同意を形成することで成立するもの」とされ、「秩序とは人間的な行為の結実」という哲学性が、文化的に自然と共有されていると言える。 (5.12) 一方で、日本の主な御伽噺では、善行や誠実に対する報恩は"必ずしも直接的なものではない"。そもそも善行や誠実自体が"報酬とのトレード"のために行われるものではなく、御伽噺における主な報恩は、現実的な倫理性に準じて、結果的に「思いがけずに得られるもの」として表現されやすい。 (5.13) 御伽噺やその哲学性を継承した様々な創作作品たちによって、現代日本文化でも、多くの人が「他人が困っている状態で"居心地が悪い"、"気分が落ちること"」の対処法を安定させ、同時に「人助けをすること自体が"気分が良い"、"心地よいこと"」の理解を安定させていると整理できる。 (5.2) 現代日本文化でも、"なまはげ"のような「超常的な存在に基づく教育的な概念・表現」は少なからず存在する。しかし、その基礎的な倫理観・道徳性は"教義的な理念"に基づくものではなく、人間的な水準に基づく「社会や自然のメタファー、象徴的な擬人化」として現実的に活用されている。

目次  ### 5.3 - 5.7 : Applicability of folk tales (5.3) "物語を通じた疑似体験に基づく道徳教育"の形態そのものは、あらゆる文化において存在する。日本文化は、その中でも「民間が主体となって継承されてきた"社会的な物語"による御伽噺」が継承され続けてきた歴史を確認でき、それが日本文化の社会性の大きな基盤となっていると整理できる。 (5.4) また日本文化の御伽噺は"権威を持った聖なる物語"ではなく「俗習に根付いた民話」である。日本文化では、その"教育的な物語"において「時代に合わせた翻案」をすることに制約がなく、実用において現代的な"道徳性の更新"を実施し続け、社会的な保全と継承を実現している。 (5.5) 日本の創作文化は"歴史的な純粋性"や"文化的な正当性"ではなく、"当代における現実的な共感の妥当性"をもって監査され、共有されている。 (5.6) 御伽噺の中でも、近代化以降には外国の御伽噺も多数輸入されており、日本の道徳性に合うものが、日本に合わせた形で広く根付いている。 (5.7) なお「安定させない基準の道徳教育で、社会規範が安定するのか?」の疑義は、その根拠の「"基準と規範"の安定性の単純な相関」が、"宗教などに依って一貫性が高く一律に近い道徳性の教育が可能な地域でも社会規範に限界が見られる事実"と"現代日本社会の実証"によって単純には成立しない。

目次  ## 6 - 6.24 : Freedom of culture within the bounds of good sense (6) 現代日本文化では、「社会における現実の安心と安全」の良識が守られている範囲であれば、文化的活動は非常に自由度が高い。 (6.1) 現代日本社会では、人間的な尽力による社会の強靭化によって、平時の社会的な余暇が生まれたことで、多様な文化的活動が許容される社会環境が成立している。 (6.11) 例えば「"住宅火災の中でテーブルゲームに興じること"は、どのような理想をもってしても、その危険性を否定することは不可能」である。一般的にテーブルゲームを興じられるのは、緊急の危険もなく、他にすることもない余暇であり、「テーブルゲームに興じるから安全」とは言えない。 (6.2) 現代日本文化では"良識の範囲"の中で多くの文化を受け入れる。特に大衆文化が非常に多彩であり、伝統文化もあれば、外来文化もあり、新興の文化も多い。それらが地域や個人など、出自を問わず、多中心的に併存しており、誰もが良識の範囲において「好きな文化を楽しむこと」が許されている。 (6.21) 現代日本文化では「人間的な良識を失わない限り、個人の自由が社会を崩壊させない」という安心が概ね共有されている。 (6.22) 特定の文化に没頭することは、その文化理解を深める行為とされる。 (6.23) 不特定の文化を広く親しむことは、文化理解を広げる行為とされる。 (6.24) ただし、現代日本文化でも、"個人の自由"の範囲を他者や公共へと強引に拡大しようとすることは、他者の心理を軽視した良識の範囲を外れる行為である。他者の心理を軽視しない範囲で勧めることはできても、強制的に押し付けたり、強制的に関与させようとすることは良識に含まれない。

目次  ### 6.3 : Differences in the concept of "IDENTITY" (6.3) 大きな注意点として、「アイデンティティ」への観念が西欧哲学からの社会通念と、日本文化の哲学性において異なりやすい概念であることを理解しておく必要性がある。 (6.31) 西欧の社会通念で「IDENTITYへの一貫性」が"社会倫理"と結びつきやすい傾向が見られる点は、日本とは異なる。 (6.32) 日本文化の哲学性において、西欧の社会通念と同系統の"社会倫理"は「立場・職務に応じて要求される倫理性」であり、それは"IDENTITY"を棄却して倫理を規定する。 (6.33) 現代日本文化の哲学における"アイデンティティ"とは暗黙的に「精神的な選好や信条」と「物理的な不自由」に基づく。 (6.331) 現代日本文化の哲学において、"精神的なアイデンティティ"とは「個人の自由と意思に基づいて選好される信条・好み」として理解される。 (6.332) 人間には「喪失することのできない身体的な自己性の"物理的なアイデンティティ"」も存在し、それは「人間的な不自由さ」に属する。 (6.34) 現代日本文化でも「その人のキャラクター性との不一致」な状態への違和感、奇異さの感性は一般的に存在する。しかし"社会性を損じない・良識の範囲内"であれば、その違和感は"文化的な豊かさ"を示す「特別性」と解釈される。その基準は極めて不定形だが、"安心感"に応じて著しく拡大しうる。 (6.35) 現代日本文化でも「IDENTITYへの執着」と評せる事例は存在する。しかし、その精神性は"社会的な要請"による行為ではなく「自己の価値観に基づく、純粋な自己存在への誠実」である。つまり「何かのようにあるべき」は"方法論"であり、「何かになりたい」が目的であり核心である。

目次  ####◆ 6.351 : For example, Identity of "Ohtani Shohei" (6.351) 例えば著名な日本人として、野球選手"大谷翔平"はまるで「アイデンティティとして野球をしている」かのように解釈されやすいが、その本質は「優れた野球選手としてあるべき」という社会的な義務ではなく、「傑出したことをしたい」という目的によって優れた野球選手へと到達している。 (6.3511) "大谷翔平"は、プロの野球選手になる際「前言撤回」をした人間である。元々はすぐにアメリカへと渡る意思が強いことを明言していた。しかし、日本の1つのプロ野球球団が「"現実的な理想"の候補と手段」を提示したことによって、日本において"育成されること"を了承した。 (6.3512) また"大谷翔平"は、プロ入りを決める前の時点で「バッターとピッチャーの両立」について確信的な目的とはしていなかった。それが可能であるかどうかについて、彼自身も現実性に欠いていると判断していた。「バッターとピッチャーの両立」を提案したのが、彼を採ると決めた球団である。 (6.3513) しかし、手段において大きく方針転換をした"大谷翔平"は、プロの野球選手になる前後を通じて、その目的の核心は何も変わっていない。彼の"精神的なアイデンティティ"とは「誰もやったことのない業績を達成する人になりたい」という目的であり、その手段が"明確化"しただけである。

目次  #### 6.36 - 6.3625 : The unification of Ethics and IDENTITY (6.36) 西欧の社会通念で見られることのある「IDENTITYの一貫性と倫理の同一化」の論理は、西欧内部においても懐疑される社会通念である。その論理は様々な理屈によってその正当性を説明されるが、その実態とは「人間的な不確実性や柔軟性を拒絶し、社会から排除することの正当化」とも説明できる。 (6.361) 「IDENTITYの一貫性と倫理の同一化」の論理とは「人間の複雑性を社会的に棄却し、"個人が原則的に一貫した言動を保つこと"を"模範"と位置づけ、"他者を表層的に理解しやすく"して、短絡的な解釈で安心できる環境を創作する」構造であり、"他者への理解を単純化する論理"とも解釈できる。 (6.3611) 「IDENTITYの一貫性と倫理の同一化」の社会通念とは、社会において「わかりやすくいてほしい」要請から「互いにわかりやすく振舞うべき」とする"社会性"の合意であり、"分かりにくい相手の排斥の正当化"と整理できる。しかし、それは自覚的または無自覚的な「本質的な自己の棄却」を伴う。 (6.362) 「IDENTITYの一貫性と倫理の同一化」の論理は主に「責任の主体としての内面」という論理によって正当化される。これは「責任は人間の意思へ課されるものであり、その人間の内面性において"連続的な同一性"がなければ、その責任を課すことができなくなる」などの理屈によって説明される。 (6.3621) 「IDENTITYの一貫性と倫理の同一化」の論理における「責任の主体としての内面」の論理については「内面へ責任を課す論理を"成立させるための手段"として、"誠実"の名目でIDENTITYの一貫性という社会的責任を課す」理屈だと整理できる。つまり「社会都合のIDENTITY観念」とも説明できる。 (6.3622) この「社会都合のIDENTITY観念」は、現代的には"自由な個人"の観念を尊重する論理に見せかけて、その実態は「社会の都合によって個人の在り方、外面性と内面性の自由を制約する」社会性が含まれる。そこにおいては個人の自由な領域も制約され、"文化的活動"にも強い制約を生み出しやすい。 (6.3623) 当然、"行動と内面の一貫性"を持っている状態でも「社会的規範に違反すること自体は社会的に認められない」。"倫理に違反する行為は許されず"、その上で"行動と内面性の一貫性を社会的に強制される"ロジックは、即ち"他者に影響を与えない範囲の内心でも自由が認められない"に等しい。 (6.3624) 「IDENTITYの一貫性と倫理の同一化」の論理は、例えば「"生命や尊厳の危機"などの抵抗不能な状況における行動などの外面的な強迫性に基づく行動さえも、倫理的に内面的問題へと責任転嫁される」構造でもある。しかし現代的な法理では、精神的不自由に基づく行為は減免または免責される。 (6.36241) 思考実験として、"行動と内面の一貫性の当然化の倫理"は「AさんがBさんから生命への危害の示唆で脅迫され、Bさんの命令に基づいてAさんがCさんの尊厳を害した場合、その行為の責任はAさんが負う」理屈であり、しかし現代的な法理では減免または免責される、現実とは不整合な論理である。 (6.3625) "行動と内面の一貫性の当然化"は「不可避な影響への抵抗さえ個人の倫理的義務と解釈し、抵抗の不可能性さえ個人の意思へ転嫁されうる構造で、本来の個人の意思が棄却されうる」論理である。理不尽な責任転嫁を回避するために、社会的に"強硬的な自己主張"が当然化していると解釈できる。

目次  #### 6.363 : The separation of Ethics and IDENTITY (6.363) 現代の日本文化の潜在的な哲学性においては、そもそもとして「人間は単純な存在ではない」という前提を取る。しかし人間は不安定で不明瞭で不確実な存在であるからこそ、少なくとも「社会的な場では、最低限、社会的な適応だけはするべきである」という公共的な協調で同意する。 (6.3631) 現代の日本文化では慣習的に「"社会的な場"と"個人的な場"における心理を分離すること」で、内面的には"個人の心理的自由の環境"を確保しつつ、外側では"社会での対応力"を自在に追求することも可能とする。人間的な柔軟性を活用して、"過酷な社会性が維持されている"と整理できる。 (6.36311) 現代の日本社会で"多くの人々の規範性が良好な状態だと観察できる実態"も、「互いが何を考えていたとしても、"社会環境を破壊しない限り"最大限の多くの人々が共存できる」という実利の社会的な要請に基づいて、「社会的な場では、過酷な社会性を強いている」と整理できる。 (6.36312) 日本文化では「人間を理想化しないこと」を前提としつつ、しかし「人間的な尽力の放棄も許されない」ものとして扱う。そして生活環境や経済状況などの社会的な基盤が成立している限りにおいて、現代の日本文化では個人の内心の自由が"他者や社会を害さない最大限"まで認められやすい。 (6.3632) 現代の日本文化の哲学性では、人格的な倫理性の「"個人の人格的同一性"に関する論理的問題」に対して、「それは明らかな不整合性が生じている特殊なケースにおいて考慮されるべきもので、普遍的に考慮するものとはしない」扱いになる。同時に、"情状酌量の余地"が自然と理解されやすい。

目次  #### 6.364 : Liability for negligence (6.364) 「IDENTITYと倫理の距離感」は「過失」への観念において著しい違いを生み出す。 (6.3641) 「IDENTITYと倫理の同一化」の論理は、「失敗するつもりが無い」心理であれば、"過失の責任"に対して倫理上の責任を回避できるつもりになれる。場合によって"論理的に他責化できる"論理である。 (6.36411) もしも「"悪い行為をする責任"が、"悪い意思"だけに存在する」とする場合、「"悪い意思"が存在しない"過失"には、その責任が発生しない」理屈になる。現実的な運用では「明示的な契約の中で"不注意も意思の範疇"に収める」ように論理操作して責任を追及するが、自覚とは乖離しやすい。 (6.3642) 日本文化の潜在的な哲学性では、社会的な倫理が「社会的な立場・役割」に付随しているため、「悪気のない"過失"」でも「"社会的に求められた役割の放棄"という倫理違反」であり、その責任からの逃避も倫理違反となる。そのために役割上の"責任感"が強く理解されやすいと説明できる。 (6.3643) 「IDENTITYと倫理の同一化」の論理を採用していても、「不注意は意思の範疇」の論理を同意する個人なら"不注意の過失"を積極的に同意できる。一方「社会的な立場に付随する倫理」の社会でも立場の自覚が無い個人は責任を理解しない。どちらも"自覚"そのものは必要だが、その方法が異なる。 (6.36431) 「IDENTITYと倫理の同一化」の論理を採用している場合、「自己認識の一貫性」が当然として重要とされることで"倫理的に自己の認識を守ろうとする"。その中で「自己認識の外側を"自己のの一部"と解釈すること」は"自己認識の変容"に近似するものであり、許容が難しくなると疑える。

目次  ### 6.4 - 6.43 : Restrictions on culture (6.4) 日本の文化史において、社会の脆弱性や不安定性などに基づいて、厳しい制限をかけた歴史は存在する。しかし、日本文化における文化の制限の名目は「"社会の安定"を根拠とする措置」の理念で解釈され、運用は社会的な妥当性に基づいて判断され、社会に応じて実施・調整され続けている。 (6.41) 面白い事例として、日本の最古級の御伽噺に『竹取物語』という「当時では社会的な支配層の貴族や、頂点である"さらに偉い人"さえも、(主神とは異なる)超常的存在に退かされる、"現世権力の軽視"を含む物語」が、古典として継承され続け、現代でも代表的な御伽噺として親しまれている。 (6.42) 日本の最古級の"長編小説"の『源氏物語』は、女性作家によって書かれた貴族社会の様子を文学的に、純粋な神格化ではなく"人間的"に表現した小説が、当時から評価されて広まり、ほとんどが歴史的に受け継がれ続け、1000年ほど後の現代にまで重要な古典作品として語り継ぐことができている。 (6.43) ただし現実的な問題として、たとえ現代であっても、社会的な妥当性を持たない領域においては「自由という名目による正当化は却下される」。特に「他者の権利・尊厳を棄損する行為は容認されない」し、あるいは「自己を含む人命への危険性がある場合には高い安全性を要求する」。

目次  ### 6.44 : keep Religions under control (6.44) Interpreting Japan's historical ban on Christianity only as "unjust oppression" ignores the broader social context. this logic is like saying "an apple is food"—even if that is true, it leaves out deeper biological and cultural meaning and becomes an oversimplification. (6.441) Historically, Japan has tended to accept external religions insofar as they did not disrupt social order. Early interactions with Western religions were also permitted by ruling authorities, based on their perceived benefits for diplomatic relations and social stability. (6.442) Prior to the ban, Western religions were spreading in Japan. However, situations emerged in which religious priorities conflicted with the existing social order, generating instability and confrontation, and leading to a loss of social trust in these religions. (6.443) The ban on Christianity occurred when Japan was emerging from the long Sengoku period and beginning to establish nationwide stability. Because maintaining order was a top priority, the tolerance for potential sources of conflict was exceptionally low. (6.444) "運用上の非人道性"と分別するべき点として、当時の統治者において「実際に起きた問題を前提として、"多くの人命を含む社会"との関係において、放置することも立場上の責任放棄になる」という構造であった。一方一部の"倫理違反"のみを見ることは"an apple is food"のような解釈である。 (6.4441) Exclusivity that creates structural conflict is not innocence and safe; it requires careful management. (6.445) また同時期の日本社会での"社会的統制"は外来物だけではなく、既存勢力の独走も抑止するために、各勢力を社会的な制度の中へと機能的に位置付ける調整をしている。

目次  ## 7 - 7.212 : Multicentric Worldview (7) 現代の日本文化では、自由度の高い文化的活動の中において、極めて多様な哲学性が流通している。 (7.1) 一般的な現代日本人はそれを哲学として体系的に理解しているわけではないが、多くの現代日本人が主に伝統的な諺や多様な創作文化を通して、様々な思想や哲学の情報へ触れている。 (7.11) 一般的な現代日本人の多くは、思想・哲学を積極的に学習したり、言語化するわけではない。しかし、体系化された講釈を受けずとも、その思想や言動には「社会性を持った哲学性」や「自己に対する哲学性」が見られやすく、実態として秩序や倫理性を持つことは多いと観察できる。 (7.12) 現代日本文化では「多様な人間性」を知識的に触れやすい環境で、現代日本人の多くは自然と「他人は他人でしかない」という哲学性を身体化する。現実的な「物理的な限界として、異なる人間は物理的に異なる存在である事実」を、意識的または無意識的に理解し、"他者の別世界性"を理解する。 (7.13) 現代日本文化では、多彩な創作文化から"多様な哲学性"を含む"多様な世界観"が散逸しており、それらを多くの人が触れていくことで「"人の理想"と"現実"の違い」や、「"思考"と"実物"の区別」つまり「"想像"と"現実"の位置づけ」の感性が、非体系的に育まれやすいと整理できる。 (7.2) ただし現代日本文化では「社会とは物理的に異なる人間同士、即ち多様な世界観が集まって暮らしている現実」を前提としている。「社会を運営するために必要な秩序を守るための道徳倫理の共有」をしているが、そこにおいて"個人の世界観"と"社会的な世界観"は暗黙的に区別されている。 (7.21) 現代日本文化では"社会性"を共有することで秩序を守り、協力関係を成立させている。前提として"社会性"を共有するための干渉は必要とするが、前提の「社会性」が守られる限り過度な干渉を避けることが許され、"他者の世界観"を統制せず、そうして「他者を容認すること」を指向している。

目次  ### 7.22 - 7.2212 : Multilayer polycentrism (7.22) 現代日本人の多くは「命題として自立するかも疑わしい議題への冗長な論理構成など、明示的に複雑化しているように見せかけて、言語の檻によって一面的に単純化させた"論理的な説明"」を"言葉の遊戯"ではないかと疑問視しやすく、中には"個人が所有する世界観"と解釈する場合も少なくない。 (7.221) 例えば「善悪とは何か?」といった議題で、個人の理解を表明することは可能であり、また表明が他者の理解を導くことはある。しかし、煩雑な言葉で哲学的論理を構築することは悠長な操作であり、現代日本文化ではシンプルに「厳密には立場それぞれ」が"現実に則した解釈"だと解釈される。 (7.2211) より厳密に説明しておくと「善悪とは結局、価値観に属する概念だ」という理解が普及しており、つまり「価値基準となる"誰か"もしくは"何か"から見た基準にすぎない」ということを多くの人が感覚的に理解している。定義的には「善悪とは特定の位置から見た利害関係」として理解される。 (7.2212) そして、現代日本文化では、「人類の公共的な水準における善悪」の観点ならシンプルに「"多くの人"にとって良いことが善・"多くの人"にとって悪いことが悪」という水準が共有されている。また"社会視点"として人ではなく「社会という構造体にとっての善悪」という水準でも考察される。

目次  #### 7.222 - 7.223 : The Inversion of intellect (7.222) 普遍的な"論理上の課題"として定義の明晰性は重要であり、西欧哲学では特に「明確な定義をしないことは不誠実だ」と語られやすい。しかし論理上の問題として"現実的な事象に則していない定義は実体を持たない机上の空論"であり、その空論こそ"不誠実"とする批評は西欧哲学内にも存在する。 (7.2221) In Western philosophy, the emphasis on rigorous argumentation fostered schools that privileged definitional abstraction over concrete reality's instability, positioning such abstraction as the epitome of intellectual excellence and forming the foundation of tradition. (7.2222) Although Western philosophy has historically acknowledged the importance of reality-grounded premises since antiquity, such approaches only gained prominence as systematic frameworks and established themselves as one of the central paradigms from modernity onward. (7.223) 現代の日本文化において「論理ばかりに執着する人」は、慣用句において一般的に「頭でっかち: (An unusually) large brain, (and small physical.)」と揶揄される。また"言語のみに基づいた言語上のみの論理"は、意識的または無意識的に「言葉遊び: language entertainment」と解釈される。

目次  #### 7.224 : A Front-door and Backdoor of Ethical Sensibilities (7.224) 例えば「人々の関係の中で善悪を決める」という基準は"人間的な判断に基づく善悪"という論理であり、それは「誤った方向に行くことも容認される"不安定な基準"」とも解釈されやすいが、それは"社会においては社会的な同意の構造によって判断される"「倫理観のフロントドア」構造である。 (7.2241) この「倫理観のフロントドア」構造は、本質的に世界的な"現代倫理"の基盤構造として広く制度化されている。現代的な"公共性に基づく社会制度"は公共的な判断によって善悪が監査される制度を有し、その構造性を持った仕組みが多くの国において実際に広く実用されていることを観察できる。 (7.2242) 人間的な基準において判断される「倫理観のフロントドア」では、どれだけ必要であると強弁しても「社会倫理に反する限り、社会においては"善"とされない」構造を持つ。不安定性とも呼ばれる柔軟性を持つが、一方で、"必要悪"を"善"から外し、抑止あるいは是正できる"倫理性"を有する。 (7.2243) 対照的に「現実の人間性ではなく"超常的な力学"に基づく善悪」の"絶対的倫理観"は、"安全ではなく、安定もせず"、「人間が信念に基づいていれば、あらゆる行動を"善行だ"と強弁する根拠にできてしまう」論理であり、錯誤的な"思考放棄"さえも心理的に正当化できてしまう構造である。 (7.22431) 特に"絶対的倫理観"と「全知全能の存在Y」の力学が融合すると、"可能な行為は存在Yが容認した"という「倫理観のバックドア」を生み出す。無知な人間が、悪逆非道が残り続ける状態を目にした場合、"それが存続する事実"に基づいて"実際は問題無いという解釈が成立しうる"脆弱性である。 (7.22432) 「倫理観のフロントドア」を主体とする環境において、"思考放棄"はただの怠惰である。その環境は「常時かつ永久的に、人間的な検証を受ける倫理性」であり、それは人間的に楽ではない過酷な環境である。しかし、その思慮の尽力が"現代の人類文明の安定部分"を成立させている。

目次  ### 7.3 - 7.33 : Informal Elementary Philosophy Education (7.3) 現代の日本文化では、「子供向けの創作」も非常に盛んである。これは御伽噺の文化からも通じている文化性であり、ただ"見ていて楽しい・面白いだけの、子供の注意を引き付けるだけの幼稚な享楽"ではなく、その中において道徳的・教育的な物語を丁寧に扱うことが、文化として根付いている。 (7.31) 現代日本文化では、"宗教的な指導で育まれる程度の水準の哲学性や倫理観"が、御伽噺などの子供向けの作品の「社会規範を疑似体験させる形式」によって育まれていると整理できる。それは直接的・明示的であるとは限らず、また論理的に理解するわけではないが、無意識的に身体化していく。 (7.311) 「規範の大切さ」は中心的な題材であり、勧善懲悪は一般的な物語である。ただし子供向けであっても素直な勧善懲悪がメインテーマとは限らず、「悪いことをすると嫌なことが起きる・良いことをするとうれしいことが起きる」など、多様な形や大きさによって「規範の大切さ」が表現される。 (7.3121) 規範の大切さに隣接する部分として「他者の協力の強さ」も相当に表現される。「他者と協力することによって、より大きなことを実現できる」という力学が表現されることによって、さらに「他者と協力するためにも、約束を守るといった信頼関係の保全が大切になること」が表現される。 (7.313) 「願望に対する"自力の努力"の必要性」も中核的な題材であり、これは勧善懲悪の物語であっても扱われることが多い。目標を達成するために「できなかったことを、努力してできるようにする」という段階が当然として扱われ、また「力があったとしても勇気や努力が必要になる」とも表現される。 (7.32) ただし、興味を引けなければ子供にも見てもらうこともできないため、現代日本文化では、そのための創意工夫が続けられている。 (7.33) そうして様々な物語から"人の動き方"を知り、また「人々にとって好ましいもの」を想像できるようになり、人によっては、それを"自らの目標"とする。

目次  #### 7.34 : Philosophical Symbol (7.34) 現代日本における象徴的な作品例が『アンパンマン』である。主人公の「アンパンマン」は「頭部が"あんぱん"」で出来ていて、それを空腹な他者へ分け与えることができる、人類にとって普遍性の高い"飢餓を救済する"ヒーローである。また同時に、完全な頭部を貰うことで苦難に対抗できる。 (7.341) 「アンパンマン」の頭部は自然再生するわけではなく、「頭部となる新しい"あんぱん"」を貰わなければ完全な状態には戻らない。完全な頭部では力を発揮して悪役を退治できるが、「ヒーローでさえも、その能力は有限な機能であり、他者の支えを必要とすること」が示されている。 (7.342) 「アンパンマン」において、"顔を分け与える"という一見グロテスクなキャラクター性は、不条理な要素ではなく、本質的に「誰かに助けられることは、相手の"一部"を受け取っている」という当然の摂理を示している。暗黙に、"善意の有限性を雄弁に示すヒーロー"として広く受容されている。 (7.343) 他にも『アンパンマンのマーチ』の歌詞には「苦しみを抱え込める生命賛歌」「人生・生命の意味が分からないことへの拒絶」「幸福・喜びの拠り所が分からないことへの拒絶」などが含まれており、子供たちはその意味を深く理解しないとしても、その哲学的な歌詞を高らかに歌い上げる。

目次  #### 7.35 : Rational elementary education (7.35) 「感覚を先行させる学習法」の有効性については世界的な実績がある。 (7.351) 例えば初等教育の標準的な手法として、数学の基礎"四則演算"において通常「抽象的な数学的基礎理論」から学ぶことはなく、まず"実用される具体的な動き"から始める学習と教育方法が、世界的に実用されている。 (7.3511) 子供への初等教育で、数え方を教えるために最初から「ペアノの公理」など"公理の説明"から学習を始めることは"一般的には不相応"とされる。「知識体系への対応力がまだ鍛えられていない子供に、概念中心の論理操作の理解は困難である」ことが、経験的な事実に基づく標準的な理解である。 (7.352) 数学基礎に限定されず、子供への教育において「具体的な物質での例示による説明」が、有効な学習手段であることは広く合意される。具体的な物質での例示から基礎的な"動き"の感覚性を身に着けた後に、必要に応じて、高度な"論理操作"の学習へと発展させることが標準的な教育である。 (7.353) 加えて、例えば「日常的な生活の中における"お菓子の数え方"では、"数の具体的実用の技能"だけで十分機能する」ように、日常的な生活の中において、「実用において機能する水準の理解」があれば基礎的には十分であり、「公理を説明できる技能」は専門的な場面でしか必要とされない。 (7.3531) 例えば「コンピューターを日常的な水準で使うために、プログラミング言語を理解する必要性は無い」。 (7.3532) "知識の説明"を与えても、その本質を理解するとは限らない。特に「文字列を覚えること」は"知識"として持っていても、その技能を運用する能力の証明ではない。 (7.354) そして、道徳や倫理において「規範の知識を持つことが遵守の確約を意味しないこと」は、人類史の経験的な事実である。 (7.3541) 特に、立場上、規範知識や法的知識に深いはずの人間による不道徳や犯罪の記録も存在しており、"知識が行動を確約しないこと"は経験的に明らかである。 (7.355) 基礎的な教育において「"エピソードのパターン"が少ない」学習方式では、その定着率が弱いものとなる可能性を強く示している。現実的にも、どの文化でも熱心な教師ではその経験則から、知識体系には無い「例え話のエピソード」を個別に創作して教えている事例は多く観察できる。 (7.356) 道徳性を学習させる際には「直感的な理解のための、具体的な指導や具体例を用いた教育」が非常に重要だと整理できる。 (7.3561) 現代日本文化では"社会性の初等教育"として「多様な物語を通じて"人間の動き方"を例示することで基礎教育を補助している」とする整理が、その実態と整合する。 (7.357) 物語が教育を補助する現代日本文化でも、"全ての物語が善良な教師"とはされない。社会的に"慎重な扱いを受ける物語"もある。むしろ、"絶対的に従わなければならない倫理性"という固定観念は無いことで物語上では試行錯誤が可能であり、それらが人々の良識的な観念に基づいて解釈される。 (7.358) 現代日本文化では教育指導において「完璧な論理と環境がなければ完全な人間は成立しない」などの"現実へ不誠実な"理想論は通常懐疑される。教育の本質的な目的とは「必要な水準において機能すること」で、そのために、不安定な現実的に対して必要な、柔軟で現実的な指導を重ね続ける。

目次  #### 7.36 - 7.3623 : Japanese Language Books (7.36) 現代の日本語文化では、実態として「子供が自立的に読書できる段階」が、比較的早い。現代では"多くの子供が本を読める社会"で、子供向けの書籍も非常に多く、当然、その中には物語などの経験的な哲学性を内包した、小説や漫画なども膨大に存在し、教育的文化を補助している。 (7.361) 現代日本語は、対外的な理解において非常に難解な言語とされやすい。特に「世界で広く使われている英語から見て対照的な構造」であり、英語話者にとって最も習得の難しい言語の一つと評される。しかし、その評価は第二言語としての困難性であり、母語話者における実態とズレがある。 (7.362) 母語話者にとっての現代日本語は、基礎的な学習での困難性は小さく、困難となる部分は発展的な学習における領域で、それも実用において問題を抑制できる構造性を有する。実態として、「日本語の母語話者の制度教育では1年目から子供が教科書を所有し、実用しながら学習を進める」。 (7.3621) 日本語の文字体系では世界でも稀な「表語文字と表音文字の融和的な併用」をしているが、"表音文字kana"はシンプルかつ整理された体系で「1億人超の話者がほぼ同じ音韻感覚」を共有し、また字と音が比較的整合的であるため、1年目から教科書を使えるほど、基礎的な習得は早い。 (7.3622) 日本語の文字体系では、"表語文字kanji"を「意味のレイヤー」として使うことで文字数を圧縮し、文書の運用効率を成立させている。また母語としてのkanjiの基礎学習では「音の分かる言葉のkanji化」から始めて徐々に増やしていく方式で、一般的な人であれば基礎的な習得がほぼ達成される。 (7.36221) kanjiの難しさに対して、日本語では「読み方の補記」が子供向け・一般向けに広く実施されている。 (7.3623) 現代日本語の構造は「任意に明示できる機能語で文法の骨組みを構築できる体系」で、「未知語があっても文法が崩壊しづらい構造」を持ち、また文法から未知語を解釈しやすい。

目次  #### 7.363 - 7.364 : The reality of Japanese language society (7.363) 社会的な事実として、現代の日本社会ではほぼ全国民への義務教育が普及し、現代の国際的な教育成果の調査(PISA,TIMSS)で上位の水準にある。この成果は日本語環境で成立している。 (7.3631) 日本国内では、"日本語体系"以外の言語は「国際的場面や表現で限定的に運用する補助言語」である。 (7.3632) 現代の日本語が母語として現実的な学習性が実証されているだけではなく、現代の日本では基盤言語を原則日本語ベースとして「社会制度も現代の先進技術も安定運用できる社会」を実現している。外国語は国際的な領域において不可欠であるものの、専門的な技能として位置づけられている。 (7.364) 「日本言語」も、日本文化と同様に"理念先行で整備された体系"だけで普及したものではなく、「多中心的な環境において、長年の実践的な運用に基づいた試行錯誤と、様式の取捨選択を経て、また近代において共通語化の整備がされ、広く実用される様式へと収斂的に到達した体系」である。

目次  ## 8 - 8.13 : "Kami" is a Dignity Holders of Multitudinous (8) 日本の宗教性の一般的な解説では「[八百万の神: "Kami of multitudinous"]」が説明されやすい。これは辞書的な直訳で「["Eight million gods"]」とされやすいが、文化的な背景から"god"と"[神:Kami/Shin/Jin]"の意味には大きくズレがあり、文化的には"Deity"の方が"近い"がそれも一致しない。 (8.1) 日本地域では歴史的に「地域ごとの信仰」が細かく広がっており、その多中心的な信仰の中で共同的な関係を成立させた勢力が「国家としての日本」を創始したと考察できる。 (8.11) 古来の"多神教"では珍しくない成り立ちだが、日本の神話では明示的に「大きな合意」に基づいて建国されている。 (8.111) 日本の神話の中では、建国において「[神々:Kami's]の領域」と「人間たちの領域」の役割を分けた統治の合意が書かれている。つまり神話が編纂された時点、8世紀初頭ごろから既に"精神的統治"と"物理的統治"を区別するための哲学性の雛形の萌芽を発見でき、この構造性の発展形が現代に続く。 (8.12) この概念性は本来「新しい統治でも[神:Kami]の存在の否定を回避できる」構造を持つ。つまり「従来の神を否定する場合に必要な労力」を抑制して、「現世のことは現世の人間が統治するから、他の[神:Kami]の存在は祈りの場へ異動してもらうだけ」で信仰上の精神的な整理を期待できる。 (8.13) こうした歴史的背景から、日本文化では[神:Kami]と呼ばれていても、その「大きさ・強さ・格付け・性格」などは非常に大きなバラつきがあり、立場も[神:Kami]ごとに異なる。[神:Kami]は"慎重に扱うべき存在"と理解されているが、"無条件で従属するべきとする権能を有するわけではない"。

目次  ### 8.2 : Coexistence "Shin-Butsu" (8.2) 日本文化はそうした多中心性を保持する統治構造を持っていたことで「広域における一元的な規律」は難しかったと考察できる。そこへ「知恵を普及させるシステムの仏教」が様々な技術と合わせて伝来し、それを"参考になる知恵"として解釈し、従来の[神:Kami]の隣人として普及させている。 (8.21) 日本文化では仏教のシステムによって統一性のある規範性を「知識体系」として広域へと広めているが、伝来した仏教自体が"知識体系が中心"であり、ほぼ全地域へ普及して、一部が影響力の強い実力を持つ勢力になることはあっても、社会秩序の一元化を実現する勢力には発展していない。 (8.22) 仏教の寺院では知識普及のための教育体制が整備され、社会制度が整うまでの主要な教育機関として活用されている。また寺院には書記の技能を持つ人がほぼ常駐しており、地域運営に係る連携のための実務を委任されるなど、その実用性によって、よほどのことがなければ有力者に頼られていた。 (8.23) 日本文化では古くから「[神:Kami][仏:Hotoke]」の区別が緩く、複合させた「[神仏:Shin-Butsu]」と呼ぶことも多く、「[神:Kami][仏:Hotoke]の姿の一つ」という解釈が広まった時代もある。近代化に際して"西欧的明確化"のために政治的に分離されるまで、区別の必要性自体が薄かった。 (8.231) 江戸時代に社会制度の整備が行われた際、「人の死後のことは[仏:Hotoke]の管轄へ一元化する」ように整理した文化の名残から、現代でも緩やかに役割分担された慣習があり「未来の祈願は主に[神:Kami]の領域」「過去の整理は主に[仏:Hotoke]の領域」として頼る文化傾向が存在している。

目次  ### 8.3 - 8.332 : "god" is a type of "Kami", But "Kami" is not "god" (8.3) 慣例的に[神:Kami][god]と翻訳されやすいが、ズレの大きい訳語である。 (8.31) [god]という語は文化的に極めて狭い概念を中心として使われてきた"存在の名称"である。一方、日本文化の[神:Kami]とは文化的に極めて広い範囲で使われてきた"属性の名称"であり、"カテゴリ"が違う。 (8.32) [god]は主に「正当性の原理を提示する絶対的な存在」の概念である。 (8.321) 英語では[deity][神:Kami]の訳語の一種であり、こちらはより広い「神性のある存在」の概念であり、"多神教"において使われやすく、翻訳によっては[deity]で訳されるが"完全な一致ではない"。 (8.33) 日本文化の[神:Kami][god]のように「社会的な正当性を示すための概念」としても使われてきたが、しかし[神:Kami]という語そのものは"正当性を提示する概念"に限らず広く使われてきた。また、その存在は非常に多様であるため「神性のある存在を表す[deity]」ともズレがある。 (8.331) 日本社会は歴史的に[神:Kami]と呼ばれる存在が多中心的に存在し、また統治方針として、その信仰が社会秩序を乱さない限りにおいて[神:Kami]と呼ばれる存在を容認する方針で維持されてきた。そうして多様な[神:Kami]の併存し、文化的に[神:Kami]の語が広く使いやすい環境が形成された。 (8.332) 日本における[神:Kami]とは、主に「敬意や畏怖などを感じさせるほどの特別な存在や現象の属性名」として解剖できる。強い存在や深い印象などを共有する概念であり、その中に「主神」や「何かを司るKami」が含まれる一方で、広く共有されているKamiだけではなく、多様なKamiが見られる。

目次  #### 8.333 : keep "Kami" under control (8.333) ただし「公共的な[神:Kami]」という規模においては歴史的にも、[神:Kami]の存在を"社会的に濫用することが抑制"されている。信仰は「社会秩序を乱さない限り」において許されるものであり、社会秩序への影響が大きい場合においては、社会的な正当性に基づいて抑止される。 (8.3331) 例えば歴史的に、徳川幕府の初代将軍"徳川家康"は死後「東照大権現」と呼ばれる公共的な[神:Kami]として祀られているが、しかし二代目以降は同格には祀られていない。つまり以降の徳川幕府は「[神:Kami]の後継」の背景を持ちながらも、それは背景であり"正当性の物理的根拠"ではなかった。 (8.3332) 日本の歴史において、人間が"公共的な[神:Kami]"として祀られた事例は"菅原道真"や"豊臣秀吉"など他にも確認することはできる。しかし原則的に、その権能は"祈りの場"の役割に限定されており、また、わずかな例外を除いて「"死後"に公共の[神:Kami]に座する」という形で運用されている。 (8.3333) 理論上"誰もが[神:Kami]になりうる"が、しかし、日本文化の公共的な[神:Kami]は古くから「祈りに関する役割を背負う立場」で、"人間が公共的な[神:Kami]になること"は「現世の祈りを受け止める役割を背負う約束で、死後も含め、現世へ永久的に尽くす」"非人間的な存在"になることである。 (8.3334) 日本文化の社会哲学では、「社会的な立場には、相応の社会的な責任がある」というロジックが堅持されている。これは、現実の実務的な責任を引き受けられない程度の[神:Kami]には、実社会における実務的な権能の拡大も認められないロジックとも一貫して整合していると考察できる。

目次  ### 8.4 - 8.422 : The story of "Kami" Slaying (8.4) 日本文化における[神:Kami]とは汎用的な属性名であり、根本的に"無条件に大切ではなく、無限に奉仕する相手でもない"。日本神話の時代から、秩序を共有できない"荒ぶる[神:Kami]"については実力によって制圧される対象であり、人間的にはその後「祀って鎮める対象」である。 (8.41) ただし現実の領域では「人間は"強い[神:Kami]そのもの"に対して無力である」と理解されており、自然災害などを"荒ぶる[神:Kami]"と見立てながらも[神:Kami]には祈り願うしかなく、しかし、その上で「人の手が成しえる現実的な尽力を求めた人々」が、人々の安定を築き上げてきた。 (8.42) その伝統から、現代の日本文化の創作では「たとえ[神:Kami]に属する格を持っていても、その振る舞いが人々に害をなすのであれば、これを咎める形へと向かう物語」が度々見られる。それも「単純な勧善懲悪として、主神と対立する"悪しき[神:Kami]"を征伐する構造」に限らない。 (8.421) 「単純な勧善懲悪として主神と対立する"悪しき[神:Kami]"を討伐する構造」は世界的にも見られやすい物語のパターンである。現代の日本文化の創作では、さらに「人間的な幸福性に反する場合において、"主たる[神:Kami]"を打倒する物語」も少ないながら存在し、一例として受容されている。 (8.422) 現代的な「主神すら打倒しうる思想構造」は"無秩序"や"無思慮"を意味するものではなく、むしろ極めて強固に一貫したロジックを持つ。シンプルに"主たる存在であるならば、主としての責任を有する"とするロジックが、「[神:Kami]であろうとも、その職責の範囲を免責されないだけ」である。

目次  #### 8.423 : When and Where do Miracles come from (8.423) 日本文化の潜在的な哲学性で言語化するなら、「[全知全能な存在と地上の不条理さ」の論理に対して、「そもそも全知全能の[神:Kami]がいるとしても、世界への"道義的責任"を果たしていないように観察されるのであれば、それに人間側から依存する立場へ下ることの適格性が懐疑される」。 (8.4231) このロジックは、同時に「人のことを祝福する[神:Kami]がいるならば、それは"万能ではない"と評価しなければ、現実の無慈悲さと整合しない。つまり現世においては原則、人間が自立して尽力しなければ障壁は解決せず、もしも"天の助け"があったら稀な"ありがたいこと"」という理屈も導ける。 (8.4232) このロジックは、「何かへどれだけ強く祈り、品行方正にしていようとも、記憶も新しい内に不定期かつ繰り返し自然災害が発生する」という環境において、"人の力によって"文明が発達するにつれて、「人の力の重要性」がより強く理解され、そのように着地せざるを得なかったと整理できる。 (8.4233) 巨大な自然災害で多くの人命が失われる。そこには当然、無辜の赤子さえも含まれる。死後は[仏:Hotoke]が導いてくれるかもしれないが、その現世の"理不尽な死"を"正当化せず"、「"理不尽な記憶"として文化の血肉へと繋げ続け、"未来を守ること"」こそが必要とされてきたと整理できる。 (8.4234) 日本文化の潜在的な哲学性において、"理不尽な記憶"を"意味のあるもの"にしうる方法とは「その無念を"意味のある教訓"とする尽力によって、意味を成立させること」である。そのようにして「社会的に無意味なものにしないこと」が、"深い誠実性"であると解釈できる共通認識を持つ。

目次  ### 8.424 : Goodness that should be contained within human intelligence (8.424) 日本文化においても「人知を超えた力を持つ[神:Kami]」という概念も一般的ではある。しかし、その振る舞いに「人間的な視座を持たない[神:Kami]」は「人間の理解者」とは定義されにくい。「人間的な視座を持たない[神:Kami]」は「荒ぶる[神:Kami]」や「悪しき[神:Kami]」とされやすい。 (8.4241) 日本文化の潜在的な哲学性における"善性"とは"絶対的な性質"や"固有の属性"ではない。もしも「人間を見ている全知全能の存在」が想定されても、それが「人類全員との良好な関係性を守っていると見えない」場合、善良寄りに考えても"非中立"、あるいは"無軌道"や"荒ぶる[神:Kami]"である。 (8.4242) 日本文化の潜在的な哲学性において、「人間にとって理解のできる範囲に収まっていない存在」は「人間とは"異なる領域"の存在」である。「人に理解できない存在」は"自然の現象"や"野生の存在"のように、「人間の裁量とは切り離された存在」と解釈し、適切な対応をする対象と位置付ける。 (8.4243) 日本文化の潜在的な哲学性において、"善性"は「人間が判断できる概念」へと収められている。"善"を自称しても、それが「環境における"善"に適合しない」場合には"ローカルな善"だと解釈される。それはたとえ[神:Kami]のような存在でも「他人による評価可能性」は免除されない。

目次  ### 8.5 : The modern story of "Kami's" in a near-democratic system (8.5) 現代の日本文化での"現代的な創作における[神:Kami]の翻訳"では、解釈の現代的な発展形として"民主性"がシステムとして設定されている事例が見られる。創作された「多数の[神々:Kami's]が明晰に併存する世界観」において、「信仰が神秘の力の"燃料"となる」というロジックが度々見られる。 (8.51) 創作世界観の設計において、「信仰に依拠して[神:Kami]の力が発揮されるシステム」の設定が普及しており、より明確に「信仰の多さで[神々:Kami's]の力と格が決まる」という"半民主的"な設計の事例もある。そして、これらは現代の日本で非常に納得されやすく、1例として定着している。 (8.52) 創作世界の「信仰に依拠して[神:Kami]の力が発揮されるシステム」とは、「自立した力を有する[神:Kami]が"信仰というトリガー条件"によって応答する」という仕組みではなく、「[神:Kami]は"神秘エンジン"であり、"信仰という燃料"を貰うことで能力が発揮される」という仕組みである。 (8.53) 「最も中心的な信仰を集めている[大神:Major Kami]」は、それだけ大きな力を持つが、それだけ大きな役割を担う立場であり、その責務を背負うことになる。反対に「信仰の少ない[小神:Minor Kami]」は使える力が小さく、ささやかな奇跡しか起こせない。そして、その両者が併存している。 (8.54) 「人々が集まり、集団としてその意思を合わせられるほど"強い"」という観念は、「現実世界における、社会・集団・文化のパワーバランスの原理」と非常に親和性がある。そうした社会観念を持つ場合、「"信仰心=神の力の源"のロジック」は、むしろ"明晰で分かりやすい仕組み"と納得される。

目次  ### 8.6 - 8.6231 : Everything can become "Kami" (8.6) 日本文化においては、[神:Kami]の概念は開かれており、概念を司る存在としての[神:Kami]や特定の存在を根拠とする[神:Kami]なども併存している。文化的に「あらゆるものに[神:Kami]が存在する」という可能性があり、また「あらゆるものが[神:Kami]自体になる」という可能性がある。 (8.61) 日本文化における[神:Kami]は「固定された姿」に限定されない。文化的に"人間と同様の姿"で描かれる場合もあるが、同じ[神:Kami]が人間以外の動物の姿になる場合もあり、あるいは生き物の姿ですらない状態で解釈される場合も多い。それぞれが「[神:Kami]の姿の翻案の一つ」になる。 (8.62) 日本文化の[神:Kami]の重要な概念として、[ご神体:go'shin-tai]という「現世で[神:Kami]へ祈りを捧げるための実体」が定義されることが多い。[ご神体:go'shin-tai]には実体を持つ"代替の難しい物体・場所"が選ばれ、これを[神:Kami]の姿の一つとして解釈し、[神:Kami]として祀られる。 (8.621) 日本文化の[神:Kami]では「公共的な[神:Kami]」である場合、その存在性をコピーする形で増やし、同一の[神:Kami]が"宿る拠点"を増やすことができる。特に広く親しまれている「公共的な[神:Kami]」では「大本の拠点[本社:Hon-sha]」以外にも、各地に大小様々な「[分社:Bun-sha]」を有する。 (8.622) 現代的な日本文化では減少傾向にある風習として、古い日本文化の風習を継承している家では「家屋の生活スペースの中に、小さな祭壇の[神棚:Kami-dana][仏壇:Butsu-dan]を設置することで[神仏:Shin-Butsu]の依り代を設営し、日常的に祈りをささげる」形式が広く実在している。 (8.623) [神:Kami]そのものとはされにくいが"機能的な神性"を持つ道具として、現代日本においても「[お守り:Omamori] (Amulet/Lucky charm)」は一般的な文化であり、宗教的な出自と自認に関係なく広く親しまれている。「[お守り:Omamori]」に準じた「[縁起物:Engi-mono]」と呼ばれる物もある。 (8.6231) 日本文化の諺には「[鰯の頭も信心から] (People can even worship a sardine's head.)」という言葉が広く語られている。これは"荒唐無稽に見える行為であっても、信心によって実践されること"を意味しており、本質的には「人間心理における、祈ること自体の技術的な重要性」と整理できる。

目次  #### 8.63 : The birth of tiny "Kami" (8.63) 日本文化の身近で小さい[神:Kami]として、「[付喪神:Tsukumo-gami]」という[妖怪:youkai]にも近い概念がある。これは「長く使われ続けた人の道具は、特別性を有し"[神:Kami]に近づく"」という感性に基づく存在で、独立した意思を持つ段階が「[付喪神:Tsukumo-gami]」だと整理できる。 (8.631) 日本文化では重要な道具を粗末に扱うと「[神:Kami]を粗末に扱うような感覚」を抱くことも珍しくない。 (8.632) 日本文化では一部において「使い続けて特別性を有した道具が役目を終えた時に、使い続けてきた道具への感謝と、その神性の安寧を願い、一度"供養する"」という風習が見られる。

目次  #### 8.64 - 8.65 : Those called "Kami" (8.64) 日本文化の[神:Kami]という概念における非常に重要な要素として、日本文化では「人にとって望ましい[神:Kami]ばかりではない」という体系から、人間にとって悪い現象も、その傾向を[神:Kami]の一種の仕業として、悪い現象を司る[神:Kami]の存在も文化の中において扱われてきた。 (8.641) 日本文化での「悪い[神:Kami]」の概念は古くから一般的で、「[悪神:Aku-shin][邪神:Ja-shin][魔神:Ma-jin][鬼神:Ki-shin]」などの属性を持つ[神:Kami]の分類があり、中には「祟りの[祟り神:Tatari-gami]」、「厄災の[厄神:Yaku-jin]」や「疫病の[疫病神:Yakubyou-gami]」がいる。 (8.6411) 先進文明的な社会が強固に発展し、また旧来の伝承を知る機会の少ない現代的な日本文化では、[邪神:Ja-shin][魔神:Ma-jin][鬼神:Ki-shin]などの表現に「古来の[神:Kami]」という印象は薄く、おおよそ創作などにおけるファンタジーな属性のパターンとして扱われている。 (8.642) 日本文化において「悪い[神:Kami]」は、それらは[神:Kami]の作法において"適切に対応するべき対象"とされ、場合によっては丁寧に祀る形式を固めることでそれを鎮める。 (8.6421) 特に強い[神:Kami]であった場合には、制御された力が"加護"になることを期待して祈る場合もある。 (8.643) 日本文化の特徴的な[神:Kami]の例が「[貧乏神:Binbou-gami]」である。これは特に、近世~近代以降、社会経済が発展してきた中で"貧乏へと落ちること"などが特殊な状態だと考えられるようになり、これを招く"悪い[神:Kami]"として「[貧乏神:Binbou-gami]」の観念が広まったと整理できる。 (8.65) 日本文化において[神:Kami]と呼ばれるものは、「人間や俗世とは異なる法則を持つと感じられる、不確かで不明瞭な形態」が主要な形態の一種と考察できる。例えば科学の発展によって"疫病"が人知に収まった現代では、[疫病神:Yakubyou-gami]が一般的に"揶揄"として使う語彙となっている。

目次  #### 8.7 : When praying to "Kami" (8.7) "様々な[神:Kami]が併存している"日本文化において、現代でも「[神:Kami]へ祈ること」は宗教の自認に関係なく実施されることが多い。余暇がある場合は、専門性を持った特定の[神:Kami]へ祈ることも多い。例えば「学業成就として有名な[神:Kami]」といった認知が一般的に実用されている。 (8.71) 現代日本文化において、緊急的な祈りで、「どうしようもない状況で[神:Kami]へ祈る」場合には、特定の神へ祈ることは[神:Kami]への教養を持つ人に限られ、一般的には"漠然とした[神:Kami]"へ祈る。シンプルに例えるなら"神秘領域の緊急通報用連絡先"が「[神様:Kami-sama]」だと整理できる。 (8.72) より詳しく考察するならば、現代日本文化において「[神:Kami]へ祈ること」は"それ以上の手段がないことの表明"である。人間が物理的に可能な事には限度があり、世界に存在していても個人にとって操作不能な事象は少なくない。そうした不可能な領域を「[神:Kami]へ祈り、任せる」のである。 (8.721) 現代日本文化において「[神頼み:Kami-danomi] (Make a wish to "Kami")」をするとしても、それが本当に[神:Kami]へと委任しなければならないことでもなく、"人間が自力によってどうにかするべきこと"である場合、それを[神:Kami]へ祈ることは"人間的な責任の放棄"として解釈されやすい。

目次  ### 8.8 - 8.813 : Etiquette as a form of worship, to Society and the World (8.8) 様々な[神:Kami]が遍在する社会で育まれた日本文化では、現代において、内面的な"特定の信仰"を問う意味そのものが薄弱である。しかし、その代わりに特定の教義や特定の所属にかかわらず、外面的な体裁、"社会的なマナー"として「他人への礼儀」が重要とされ、作法として求める文化がある。 (8.81) 世界には様々な[神:Kami]や、それに属する人々が併存しており、つまり「異なる世界観を有する"予測不能な未知の存在"」と暮らしていくことを意味する。その「"予測不能な未知の存在"と同じ空間で併存するために、慎重さを体現するための通信規格」として一般的な作法があると説明できる。 (8.811) 現代日本文化では、たとえ特定の教義や特定の所属を持たない人でも、「社会に所属する条件」として礼儀作法を覚えることが、最低限の条件として共有されている。環境に応じた礼儀作法を実施することによって、多様な人々の間でも安全な環境を成立させ、共同体を機能させることができる。 (8.812) 現代日本文化において、礼儀作法がなぜ必要なのかを論理的に説明できる人ばかりではないが、しかし「文化的な習慣として根付いていて、社会的に教育指導が行われ、自然と必要なものと理解され、適切に実施している人が非常に多い」。そして、多様な人々が安全に併存できる社会がある。 (8.813) 日本は"単一民族の均質な文化性"のように考察されやすいが、人口が現在1億人超の高人口地域で、地理的に分散的で地方文化の多様性は少なからずある。特に都市部では多様な人が暮らし、流動性も高い。そうした社会で「共通の礼儀作法」が心理的な安全性を大きく保全していると整理できる。

目次  #### 8.82 : Daily etiquette (8.82) 「礼儀を守る」という概念の実態は「目に見える言動のバリエーション」であり、抽象のみの概念ではない。 (8.821) 言動としての礼儀作法は、具体的な動きとして表出するものであり、一つ一つは形として「見て覚えること」また「見せて教えること」が、比較的容易である。 (8.822) 礼儀作法の言動は、その必要性や本質を理解していない状態でも、作法の動作を再現することは容易にできる。 (8.823) 礼儀作法の本質や必要性は、その言動を実践していく中で、"気づいて"理解することも多い。実践を先行させやすいため、本質的に"多くの人と共有しやすい"。 (8.824) また現代の日本社会では、一般的な地域の制度教育において「多数の子供での共同活動を実践させる」。また「多くの大人や、あるいは年上や年下などの子供と同じ領域で活動をする」。多くの人が、子供のころから「集団生活における実践的学習」を進め、同時に基礎的な"礼儀"も指導される。 (8.825) ただし日本文化では、"適切な礼儀作法"の実現のために「現時点の現実の環境をよく観察し続け、その場の状況へ適切に対応すること」への心掛けが、最も合理的な理解となる。作法にはいくつかのバリエーションが用意されているが、それを状況や相手に応じて、適切に選ぶ必要がある。 (8.8251) その「状況に応じた振る舞い」を重視する社会文化が、俗に「空気を読む」と説明される。 (8.8252) なお「礼儀作法」や「空気を読む」といった言動の必要性や有効性そのものは、あらゆる社会の文化において顕在的または潜在的に存在するものであり、本質的に日本文化特有の事象ではない。

目次  #### 8.83 : The customer is "Kami-sama" (8.83) 現代の日本文化での"礼儀の重要性"を象徴する言葉として、「[お客様は神様です: The customer is "Kami-sama".]」という1つの哲学性を表す表現が、広まる発端となった文脈からも大きく離れて広く親しまれている。ただし、これは日本文化の中でも誤解の大きい表現でもある。 (8.831) 「客を[神:Kami]に例える」表現の広まった言葉の、元々の文脈は「芸事において、観客は[神様: Kami-Sama]であると覚悟し、雑念を排して芸に集中する」という意気込みである。しかし、一般的には「客商売において、客を敬うべき存在として丁寧に対応する意識」の標語として広まっている。 (8.832) 「客を[神:Kami]に例える」表現は「過剰なサービスを求める不適切な標語になる誤謬」としても広まっているが、日本文化の潜在的な哲学性から考えるなら、そもそも日本文化において「[神:Kami]は"無条件で奉仕する対象ではない"し、特に荒ぶる[神:Kami]は丁寧に遠ざける対象である」。 (8.833) 日本文化において[神:Kami]は、無限に奉仕するべき対象であることを意味せず、むしろ本来「極めて限定的に対応する対象」である。まして、秩序を乱すような[神:Kami]である場合は[疫病神:Yakubyou-gami]などの悪しき[神:Kami]の類であり、"一般の社会に存在することすら許容されない"。 (8.834) 「客を[神:Kami]に例える」の有効性とは「客が人の姿をしている[神:Kami]である可能性を想定して接するべきである」という解釈にあるが、それは潜在的に「客は"予測不能な存在"である」という含意であり、本質的に「"同じ世界観の人間"とは限らない」という表現であると整理できる。 (8.835) 「客を[神:Kami]に例える」意識の、一般的な効果とは「一度きりかもしれない見知らぬ他者でも、丁寧に慎重に接するべき存在と解釈させる比喩」であり、「社会的な関係が生じる他者には、必要となる配慮と尊重を心がけるべき」という"最低限、基礎的な礼儀を導く指導方法"と位置づけできる。 (8.836)「客を[神:Kami]に例える」意識は、「"予測不能な未知の存在"に対して、どう振る舞うべきか?」を端的に指導するための表現と位置づけできる。「なぜ客に対して丁寧な対応が必要なのか?」という疑義はよくある疑問であるが、実際の業務において「基本的に丁寧な方が安全で円滑になる」。 (8.837) 「客を[神:Kami]に例える」意識は、日本文化において気軽に他者も[神:Kami]として位置づけできるために実用されているが、日本文化では「善悪を問わず[神:Kami]にできる」。[神:Kami]を西欧的な「"[神:Kami]=god"の解釈」のように扱うと、著しい齟齬が発生してしまうのだと整理できる。 (8.838) 日本文化において[神:Kami]が敬われるのは、その能力への期待や畏怖がある場合であって、期待できない[神:Kami]に与えられるものなど「五円のお賽銭」すら惜しいものである。まして「荒ぶる[神:Kami]」ともなれば、対応の術式を実施し、丁寧に対処することこそが当然の対応だと整理できる。 (8.839) 「客を[神:Kami]に例える」意識として、相手側が「好ましい[神:Kami]」と評せるような存在であった場合、丁寧な対応は良好な関係を守り、更なる良縁に恵まれることも期待でき、「相手が幸福の[神:Kami]となる」という可能性の解釈もできる。ただし、その可能性は"善良な客"に限られる。

目次  ## 9 - 9.7 : the fun of Sharing (9) 日本文化の哲学では、"不可能な同一性"までは目指さず、「他人は他人でしかない」と個人同士の世界観の区別がされやすく、多中心的な傾向を持つ一方で、同時に"人間的な感性"における"共同体への感情"そのものは、むしろ素直に存在する。「仲間が嬉しいことは当然として嬉しい」と感じる。 (9.1) 日本文化の哲学の根幹は「社会的な妥当性を追求した包括的な実用主義の構造」を観察できるが、その実装において包括性を持ち、「人間性を否定しない」。 (9.2) 人々が物理的に異なる存在でも、感情において「同じ事象に対して、同じような感情を抱くこと」は物理的に可能である。 (9.3) 日本文化においても、古くから地域ごとに様々な「祭り」が開催されており、人々に広く楽しまれており、そこには共同体を活性化させる実利を含む。 (9.31) 現代でも日本人の多くは"祭り好き"であり、"イベント好き"である。特に季節のイベントには積極的に参加する人も多い。 (9.32) 現代日本文化では季節によって、正月初詣、節分/バレンタイン、雛祭り、花見、鯉のぼり、七夕、夏祭り、お盆、月見、ハロウィン、クリスマス/大晦日などなどの大きなイベントが存在し、"名目"さえ共有できれば積極的に楽しむ文化を持つ。また、他にも地域ごとの多様なイベントが存在する。 (9.33) 現代日本文化における"文化的行事"のイベントは、本来宗教的な背景を持つ場合であっても、一般的な理解において宗教性の自覚は非常に薄く、宗教的な自認に関係なく楽しまれている。日本文化において、公共的な行事に重要とされるのは"親しめること"であって、名目は"名目上"大切にされる。 (9.34) 古来の日本文化として特に象徴的な行事が「盆踊り」である。元々は「先祖など死者たちのことを振り返る行事」に付随した「慰霊のための祭事」とも言われるが、実態は"適当な名目"で集まり、「その場で一緒に合わせて踊ること」を楽しむことで、共同体の心理的な保全と交流を促す祭りである。 (9.4) 現代日本文化では、スポーツをすることやスポーツ観戦も盛んであり、季節恒例の大会であれば非常に多くの人が楽しむ場合もある。 (9.5) 現代日本文化において、スポーツに限らず「何かを応援すること」が一般的な趣味として理解されており、その活躍を"我が身のように喜ぶ"姿がある。 (9.6) 日本文化では歴史的に驚異的な速度でテレビが普及したり、SNSが普及しており、これらも「同じものを楽しむ」という機能性を持つ。 (9.7) 現代日本文化では「楽しみを共有すること」も一般的であるが、一方で「一人で楽しむこと」も珍しくはなく、文化的に様々な楽しみ方が併存している。

目次  ### 9.8 : Intuitive good deeds (9.8) 文化ではなく人類の生態として、人間はその感性において、自己認識の拡張を引き起こす現象が確認できる。人間は「周囲や他者のことを、自分のことの一部」として感じているような感想、言動を取ることが珍しいものではない。そして、それは道徳性や社会性の領域でも発露するものである。 (9.81) 文化を問わず、シンプルな事例として、人間は「社会であった他人の悲しいことを、"特定の倫理的正常性が損なわれた不条理への論理的反応"ではなく、直感的に、自分の一部のことのように悲しむ」という反応を示す場合がある。その発生に"論理的な整合性"は前提ではなく、不可欠でもない。 (9.82) 文化を問わず、人間の自己拡張的な感性は、同時にポジティブな方向性を導出する場合もある。つまり「他者が嬉しくなることを期待して、自分の嬉しさとして求めてポジティブに実行する」という傾向、「社会貢献が自己実現の一部になる状態」が論理ではなく、"感性の発展"によって成立する。 (9.83) 感性の発展には、"人間の成長"として多様な方法と形態が存在する。 (9.831) "体系化した教義によって善行を規定し、これを導く"手法は、指導方法の主な一例だが、それだけが唯一の方法ではなく、またそれによって確実にその感性を体得するわけではなく、義務的に体裁を守るだけの場合もある。 (9.832) 現代日本文化でも、様々な他者と触れ合い、作法を学び、また流通する様々な哲学性へと触れ、社会性を身につけていく中で、"社会的な自己拡張"の感性が成立していることは多いと考察できる。その程度は教義的な教育と同様に個人差はあるが、同様に強力な献身性が育まれる場合も見られる。 (9.8321) 現代日本文化において人々の社会への献身性が著しく限定的なわけではなく、現代の日本社会ではむしろ、社会的に"過剰な献身"の事象も問題化し、それに対する制度さえ整備されている。つまり「外部からの抑制が必要な強さの献身性を少なからず生み出してしまう」ほど、成長させてしまう。 (9.8322) 現代日本文化でも、その社会的な態度には個人差があるものの、「与えられた役割に対して努力すること」が標準的なことと解釈する人が多く、時として過剰に努力することさえ少なからずある事実は、体系化された教義的な教育以外でも人々の社会性は育成できる実証として位置づけできる。 (9.8323) ただし、日本社会では「社会が個人の助けになり続けている」という前提がある。個人が"社会を敵対する存在や個人を損なう存在"とは解釈されづらく、"社会が個人のために妥当である"と解釈できる社会を成立させているからこそ、現代日本社会は成立していると解釈するべきである。

目次  ## 10 - 10.3 : Sincerity towards enjoying and rejoicing (10) 現代の日本文化では、社会的な安定性に基づく人々の余暇の中で、「楽しむこと」そのものへの追求が盛んであり、非常に多彩な娯楽文化が楽しまれている。 (10.1) 現代日本文化において、精神を前向きにするために「日常において実感できる幸福」が非常に大きな役割を持ち、大切にする人が多い。 (10.2) 現代の日本文化では「健康的な生活」の理解の中において、一般的に"楽しめる趣味の活動ができること"が含まれる。 (10.3) 現代日本文化では「食事への誠実さ」も強く、現代では人の多い地域ほど「おいしいものに溢れている」。それも安定して、安全に入手できる水準で普及している。

目次  ### 10.4 : Japanese pop culture (10.4) 現代の日本社会では「サブカルチャー」とも呼ばれる"現代的文化"が著しく発展しており、発信された作品の一部が世界的な評価を受ける実態を持つ。それもローカルな言語を使う1地域の文化であり、翻訳など特別な労力が必要になる産業的な不利を背負っているにもかかわらず、広がっている。 (10.41) 現代日本文化が世界に広がる場合、多くの事例においてそれは「地政学的な優位の力学、経済的支配力や政治的強権性などによる普及」ではない。特に言語が「1地域でしか使われていないローカルな言語」であり、英語などのように言語普及度を背景とした地政学的な優位を持つわけでもない。 (10.42) 日本の現代的文化における世界への広がりは、多くの事例において「人々が好奇心によって日本文化から発見した"好き"と思ったものを希求する」という形が起点と地盤となって広まっている。「広く求められた需要に対応して、文化の国際的な発信を進め、広まっている」という順序である。 (10.43) 日本の現代的文化の日本国内における需要においても、現代的文化は旧来の伝統という正当性や、政治的な正当性を持つものではなく、より純粋に「多くの人の好奇心を満たせる、完成度を持った作品」でなければ商業的に成立しない環境において、発展した文化であるという背景を持つ。 (10.44) 日本の現代的文化は、"楽しむことへの誠実"を必要とする、"娯楽としての実力主義"的な文化基盤で拡大させ、多くの作家によって膨大な数の作品が日夜創作され続けており、その中から優れた作品が、他文化圏の社会からも求められるほどの「楽しさ」を提供していると整理できる。 (10.45) 日本の現代的文化も、その本質は多中心的である。現代日本の"創作文化"は自由度が著しく広く、極めて多彩な方向性が併存している。流行として非常に目立つ作品もあるが、そうした公共的な創作ばかりではなく、限定された対象向けの創作や、よりニッチな好みの創作なども多彩に存在する。

目次  ### 10.5 : Open culture (10.5) 日本の現代的な文化では歴史が浅いことも影響し、作家の出自が多彩である。専門的な家柄に生まれ、専門的な学校に通い、エリートコースとして作家になった事例ばかりではない。日本の現代的な大衆文化においては特に「エリートコース以外からのクリエイター・作家」が少なくない。 (10.51) 典型例において、日本の"マンガ"の文化はその源流は古いものの、"マンガ"の形態として普及し始めたのは近代以降であり、専門学校がそもそも現代まで存在せず、他分野からの参加が目立つ。特に、日本において歴史的に偉大な漫画家とされる"手塚治虫"は、正式な資格を持った"医者"である。 (10.511) 世界的に有名な漫画の作者である"鳥山明"も、幼少期から絵を描くことをしていたが、その出自は著名な芸術家一家ではなく、学歴においても"工業学校"へと進んでおり、さらに就職においても漫画家ではなく"デザイナー"であった。そうした出自の人物が、"金に困って"漫画家になった。 (10.52) "スタジオジブリ"のアニメーション映画の監督として著名な"宮崎駿"も芸術系以外の大学へ進学しており、学業の余暇において絵の勉強をして、その後アニメーションの世界へと進んでいる。 (10.521) 日本に芸術系の学校が無いわけではなく、芸術系などの専門的な学校出身の著名人もいる。 (10.53) "手塚治虫"と"鳥山明"と同様に"Harvey Awards Hall of Fame"へと名を連ねている"高橋留美子"は「少年向け漫画を描く女性漫画家」として長年時代に応じたヒット作を作り続けている漫画家である。"想定されるターゲットが楽しめる作品を作れる"なら、作家は"実績で注目される背景"である。 (10.531) 日本の現代的文化では、おおよそのターゲットとして"子供向け"/"少年向け"/"少女向け"/"青年向け"/"男性向け"/"女性向け"/"一般向け"などの基本想定は存在するものの、実際的には「それを楽しめる人が楽しむ」ように親しまれており、その中において"創作できる人が創作をしている"。 (10.54) 日本でも歴史の深い文学の文化においては、エリートコースとして専門的な文学系の学校から作家になる事例が多いが、その中においても、非常に大きな出版市場と多様な執筆文化を背景として他分野出身の作家による作品も集められ、文学系エリート以外の出身者も少なくない。 (10.55) 日本でも近代以降音楽系の学校は整備されているが、現代的分野の中においては、音楽系家系や音楽系学校などのエリートコース出身者も珍しくはないが、音楽を職業としていない家系や、一般的な学校の出身者など、アカデミックなエリートコース以外の出身者も多く見られる。 (10.551) 日本の現代的文化のゲーム史において大きな存在と説明できる『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』にはその初期から印象的な音楽を聞くことができるが、これらの初期の代表的なテーマ曲の作曲者2名も「(エリート的ではあるが)音楽系以外の大学出身の専門家」である。 (10.56) 日本の現代的文化、サブカルチャーの文化の中では、そもそも"アマチュア"あるいは"インディーズ"が、数えきれない規模を持つ。特に「"一般的な職業"に就きながら、趣味の中で創作活動をする」ということも珍しくはなく、プロやプロ見習い以外の、ローカルな作家の層が非常に分厚い。

目次  ### 10.6 : Gender transcendence within cultural activities (10.6) 日本文化では、芸術において"現実的な制約の中で、演出を成立させるために自在な手段を用いる習慣"があり、特に、近代以前から「舞台芸術で男性たちが男女両方の役を演じる」という形式が確立し、近代以降には「舞台芸術で女性たちが男女両方の役を演じる」という形式が確立している。 (10.61) 「歌舞伎の"女形"」や「宝塚歌劇団の"男役"」など、これらの"異性を演じる"演出技法は、「社会的な秩序や道徳性を守る名目で、肉体的な異性の併存が許容されなかった環境」において、現実的な制約の中で「演出的な異性を創出する」という手段を確立させ、それが広く受容されている。 (10.611) 日本文化における"異性を演じる"表現は、高度な領域では単なる「妥協」として着地するのではなく、その制約の中において、むしろ「より深く印象的な演出」を突き詰めてきた。それは"同性では困難である"と思われるほどの「肉体的技能」や「極めて繊細な所作」によって実現している。 (10.62) 日本の現代的文化では、"社会的な制約"ではなく"実用性"に基づいて「アニメキャラクターの声優において、細い少年役を女性が演じる」という形式が"一般的な配役例"として理解されている。声質の近似、そして「技能」と「長期的な安定性」において、成人女性が"機能的に妥当"とされている。 (10.63) 日本の現代的な文化の中では長らく、高尚な演出ではない「作為的に女性を演じる"明らかな男性"」という属性も、"親しみのあるポピュラーな表現"の一種として、"社会において一般的ではない"とされながらも存在する。それは"非日常的だが自然な範囲"の「人物像の一種」として見られている。

目次  ### 10.7 - 10.73 : Cultural representation of gender roles (10.7) 日本の現代的文化の中では、創作表現における「男性的な女性キャラ」や「女性的な男性キャラ」も一般的な表現として受容されており、また「中性的なキャラ」という属性も親しまれている。これらの属性は、近年の"性別に関する制度"よりも昔から、制度とは異なる文脈で使われている。 (10.71) 日本の現代的文化の中における「肉体的性別から特性を固定しない表現」は、歴史的に"社会理念から生まれて受容されたもの"とは説明しづらく、自由な表現文化の中で"題材として面白い"あるいは"表現として面白い"という注目によって、「自然発生的に共有され始めたもの」だと整理できる。 (10.72) 創作表現において、キャラクターの属性を画一的に扱うことは純粋に"バリエーション"を制約する実用上の不自由である。日本の現代的文化の中では、キャラクターの性別に関する属性も細分化し、"属性の一種"として、表現の思惑に応じて自在に運用し、"面白さの要素"として受容されてきた。 (10.73) 日本の現代的文化の創作では、「典型的な"性別への偏見的一貫性を持つキャラ"」も基本的な表現例として存在しつつ、キャラクターを魅力的に表現する、あるいは作品を魅力的に構成するという思惑において、「細かく組み換えた属性を持つキャラ」が自然と生まれていったと整理できる。

目次  #### 10.74 : The story of Fighting Boys and Girls (10.74) 日本文化の潜在的な哲学性では「一般的な役割は能力に応じて任せる」理解があり、「役割に相応しい"能力"を持つなら、その役割を担える」解釈を潜在的に持つ。それが創作文化において顕在化し、現代では最も象徴的なジャンルとして"戦う少年少女のキャラ"を扱う作品が多彩に実在する。 (10.741) 日本の現代的創作文化では、「性別・年齢に関係なく、戦う力があるなら戦える」解釈が一般的であり、"戦う女性キャラ"や"戦う子供キャラ"の存在は非常にポピュラーである。その中でも、現実的には戦いから遠いパブリックイメージを持つ"少女のキャラ"さえも能力さえあれば戦う。 (10.7411) 日本の現代的創作文化では、本来非力なはずの「少女キャラ」であったとしても、「属性として戦うことのできる能力を与えられたならば、役割として戦うことができる」という文脈がシンプルに成立し、現代では実際に様々な作品で「戦える少女キャラ」の存在を見ることができる。 (10.7412) 日本の現代的創作文化には、現代では「[魔法少女:Mahou-Shoujo] (Magical girl)」が大きなジャンルとして存在している。これは「超常的な"魔法"の力で、少女が戦う力を得る物語作品」という非常にシンプルなロジックをベースとして、その中で、複雑で多彩な作品が作られている。 (10.742) 日本の現代的創作文化において、少年少女であったとしても「主体的に行動しなければならない展開を描く物語」が非常に多い。作品としては「より面白く、魅力的な作品を作り上げる」目的のためとも整理できるが、「少年少女の立場であるからこその視点や葛藤」の要素を含む作品も多い。 (10.7421) 日本の現代的創作文化において、少年少女が何かしら"特別な能力"を獲得した場合、それに対する「役割」や、時として「責任」の概念が避けがたく衝突してくる物語も多く、「戦える能力」であればそれを使って、守るべきものを守るために戦うことが自然と求められることになりやすい。 (10.743) 日本の現代的創作文化における「戦う女性キャラ」や「戦う子供キャラ」は、社会運動などの思想の影響を間接的に受けている可能性はあるものの、現実において"非力な人が戦うこと"には賛同されづらく、明示的に特定の思想への賛同として広まったものとは説明できない。 (10.7431) 日本の現代的創作文化における「戦う女性キャラ」や「戦う子供キャラ」は、創作文化の試行錯誤の多様な中において、物語や創作を効果的に彩りやすい"興味深い要素"として親しまれ、"より魅力的で面白い作品"のための要素として、創作文化の中で広まっていったと整理できる。

目次  ### 10.8 : Adapting to modern society (10.8) 日本の現代的創作文化では、"流行の演出"はあっても"固定された教義"は存在せず、純粋に想定される対象にとって"より魅力的で面白い作品"という実用性が求められる。そのため創作の「現代文化への適応」もまた、社会的な運動の名目の実現ではなく、"面白さの安定"のために実施される。 (10.81) 日本の現代的創作文化では、"作品のための演出として必要なもの"は譲らないが、しかし"必須ではないもの"であれば、作品にとってより安定する形へと柔軟に変更する。 (10.82) 日本の現代的創作文化は、非常に自由であるが、ただし対象に応じた"適格性への統制"の秩序は守られている。

目次  ## 11 - 11.22 : "Kai-dan" - Salvation through fear (11) 日本文化における物語文化の、非常に大きなジャンルの一つとして「[怪談: Kai-dan] (Tales of the Supernatural / Ghost stories)」がある。これは恐怖をテーマにした物語形式であり、いわゆる"ホラージャンル"に属するが、"ジャパニーズホラー"と呼ばれるほど異なるタイプとして語られる。 (11.1) 現代の日本文化の無宗教を自認する日本人でも、その多くは"死後の世界"の概念に同意する。これは「確信として信じる」とは限らないが、「あった方が良い」という意味で同意され、死者に対し"死後の安寧と幸福"を祈る。同様に、日本文化でも「魂」やそれに基づく「幽霊」の概念がある。 (11.2) 日本文化における伝統的なホラーの形式である、[怪談:Kai-dan]にはそうした「人の幽霊」を用いた話が多く、中でも「怨恨」や「後悔」などによる「現世への未練」という背景があり、「思念が現世への影響を及ぼす」という形式の物語が典型的な[怪談:Kai-dan]の1パターンである。 (11.21) 一般的な解釈において、日本文化の[怪談: Kai-dan]とは「恐怖の物語」であるが、その本質には「不遇な人生への悲しみ」への同意が含まれる事例も多く、"後悔"や"怨恨"の存在性の共有にも機能していると考察できる。「人間の強い想いは、簡単には消えない」とする救いの物語でもある。 (11.211) 日本文化の[怪談: Kai-dan]の中には「恨み」を扱った物語も多く、それは社会的な観点として「"強い恨み"は、人間が常識的な理解や合理的な打算を超越する危険性」という教訓が含まれる。[怪談: Kai-dan]では「死者の恨み」で説明されるが、現実的に"生者の恨み"は同等に危険性が高い。 (11.2111) 例えば「復讐は何も生まない」という"合理的な言葉"は、"実際の人間の行動"を説明していない。人間は"現実的な視座"や、"打算的な合理性"のみで行動するわけではなく、時として"現実性を欠くような"行動をとる。日本文化の[怪談: Kai-dan]は、その現実性を潜在的に語り継いでいる。 (11.22) 日本文化の[怪談: Kai-dan]の精神性には「ただの1つの命に収まらない抵抗性への同意」も含まれる。恐怖心によって「過去の人々が直面した痛みを、未来の現実で安易に繰り返さないこと」を強く訴求する。他者の不運であっても"人間的な尽力の不在"が想定され、必要な対策へと誘導する。

目次  ### 11.3 : A safe and careful Curse (11.3) [怪談: Kai-dan]に付随する話として、日本文化には"呪い"の概念も一般的に存在している。"呪い"の概念は、どちらかと言えば非常に「平和的な感情の表出方法」として位置づけることができる。つまり「直接的な攻撃」を避けて、"表向きの衝突を回避する実用的な手段"とも説明できる。 (11.31) ただし日本文化においては古くから現代まで、"呪い"の関する強い教訓を示す諺が語り継がれている。「[人を呪わば穴二つ] (One curse, Two graves.)」。「他者を呪うことは、その報いとして自らの命さえも害することになる」という言葉であり、安易の"呪う"ことも戒められている。

目次  ### 11.4 : "Kai-dan" - Visualizing invisible dangers (11.4) 日本文化の[怪談: Kai-dan]には「"不可視な存在"への注意」の教訓も含まれていると説明できる。[怪談: Kai-dan]の中で語られる超常的な存在の多くは、常に直接見える存在ではなく、限定的に確認される存在である。つまり「見えていないからといって存在しないことを意味していない」。 (11.41) 日本文化の[怪談: Kai-dan]では「危険性の見えていない状態が、危険性の不在を意味するわけではない」という教訓を示唆していると整理できる。 (11.411) 例えば日本という地域における自然現象の脅威とは、日常的にその危険が可視化されているわけではなく、たいてい突如として出現する。 (11.4111) 日本文化において「普段見えないものへ備える観念」が一般的な理由の一部に[怪談: Kai-dan]の教養も含まれていると整理できる。 (11.412) 「普段見えない危険」という観念の中には、「他人の感情」という"間接的にしか観察することのできない観念も含まれている"と整理できる。 (11.4121) 人間関係において「他人の感情」とは必ずしも可視化された状態にあるわけではない。しかし実態として確実に影響するものであり、それを無視することは人間関係において著しい危険を伴う。 (11.4122) 日本文化の[怪談: Kai-dan]は感情への理解の大切さも示唆していると言える。

目次  ### 11.5 : "Kai-dan" - Compassion within fear (11.5) 日本文化の[怪談: Kai-dan]とは「安全な恐怖という娯楽」なだけではなく、その本質は"やさしさの文化"でもある。 (11.51) [怪談: Kai-dan]の本質とは、仮想的で誇張された物語の中で「他者の痛みに触れること」であり、その恐怖とは、"他者の痛みを理解するために必要となる恐怖"である。 (11.52) 日本文化の[怪談: Kai-dan]とは、人間にとっての"寂しさ"や"苦しさ"が、決して特定の個人だけが抱え込んでいるような孤独な闘いではなく、他人の中にも"存在していること"を教え、そして「最も悲惨な"寂しさ"や"苦しさ"」を伝える手段である。その理解が"やさしさ"を育むと整理できる。

目次  ### 11.6 : Life ethics (11.6) 日本文化では"suicide"に対して「"超越的存在"から預かった大切なものを粗末にする」とは説明されにくく、現代の日本文化では"環境から授かったものを粗末にする"という理解が多く、一般的に"社会からの離反"として「周囲の人が悲しむから」といった"現世への影響"の基準で解釈される。 (11.61) 日本文化の世界観における「個人の命」とは、人道上は個人の所有物であり、個人の裁量によって扱われるものである。しかし社会倫理上は、同時に"共同体の一部"として連結されており、他者にとってその喪失は"心身の一部が失われるようなこと"として表現されることが多い。 (11.62) 日本文化の世界観において、あらゆる"他者の命"は他者であると同時に"広い共同体の一部"として解釈されるため、いたずらに軽視することが許されにくい。無関係な他者であっても、[怪談: Kai-dan]などのように、その"命の存在"を考えさせるような文化性が根付いていると整理できる。

目次  ## 12 : The Dishonesty of Loudness (12) 日本文化とは、本質的に「多くの人々が協力し合って社会を形成し、社会を守る限り融和的に守りあって生きていくこと」によって、生存してきた文化だと説明できる。それも「内心の統制が不可能なほどの巨大な規模での協力」を必要として、最も普遍的な共通言語の「現実中心主義」が育まれた。 (12.1) 生存の条件として、日本という地域では、一介の庶民に至るまで計画性とそのための知識教養、そして協力性を持つことが求められてきた。つまり、一介の庶民にも計画性や生きるための知識教養を与え、そして協調性を指導することによって社会を安定させ、それで発展させてきたと整理できる。 (12.2) 日本社会では「なるべく多くの人と、融和的に協力しながら生きなければならない」という課題を持つ環境から、文化的に「"特定の教義"や"特定のイデオロギー"による対立と衝突」が"極めて警戒しなければならない要素"であり、また"極めて冷静に観察されるべき対象"となったと整理できる。 (12.21) 人間にとって熱狂的な理想に進むことは、見据えるべき現実性を容易に欠如させる。日本社会では文化的に、日常では「"政治"と"宗教"と野球の話題は(安易に)するな」という教訓があり、これらは対立を表出させ、日常的な協力関係を妨げる危険性を持つため、慎重に扱うべきとされている。 (12.22) 日本文化では、対立を生み出しやすい「"特定の教義"や"特定のイデオロギー"」などを表出させる話題は、「相応しい場において扱うべきもの」であると理解され、"日常的に扱うような話題ではない"とされる。特に"日常での深い会話も社会へ有益に働く"などの理想像は、直感的に棄却される。 (12.221) 日本社会の経験において、"いたずらに対立することは正常な社会活動を妨げるコスト要因になる"ことが、多くの人にとって潜在的に理解されている。闇雲な対立や、またそれを生み出しうる正当ではない要求や圧力などは、平静な判断による社会的な裁定において、許容されがたい。 (12.222) 人間の性質として「弁舌において負かせた所で、それは相手を従属させることを意味しない」。むしろ「対抗して負かせる」方法ではむしろ対立を強めるばかりであり、平和的な解決には一切ならず、一方的な享楽であり、社会的には危険ですらある。"弁舌の勝利"は身体の安全を保障しない。 (12.2221) 「"弁舌の勝利"は、身体の安全を保障しない」。特に社会的な権能の働かない日常的な領域において、安易に対立を深めることは、単純に「社会的な協力関係を破壊する行為」ですらあり、つまり"反社会的行為"にも隣接しうる短絡的な暴力性であり、利口な人ほど、それを慎重に扱う。 (12.23) 日本文化の潜在的な哲学性から、多くの人が「他人は、結局、他人でしかない」ということを同意する。特に、玉石混交の多様な他者と関わることがあれば、「相容れない相手」の存在も理解する。"人間は真に知性的な存在である"などの理想像は、現実に基づいて、理性的に棄却される。 (12.231) 人間という存在において、現実的には「他人は、結局、他人でしかない」し、また「"意思の通じない"相容れない相手も存在する」という実態に対して、日本文化は「そのうえで、共倒れも避けて、生きていかなければならない」ために、"安全な文化性"を醸成していったのだと整理できる。

目次  ## 13 : A culture of using words to their fullest extent (13) 日本文化は、過剰に語ることを回避されやすいが"言葉を使わないわけではない"。むしろ、極めて大量の言語情報を実用する文化圏である。 (13.1) 一つの指標として、日本語社会の出版市場の規模は、内需だけでも経済規模に比べてやや大きい規模を有し、国内出版のほぼ全てが日本語ベースである。 (13.11) 日本語社会において、本屋には多彩な本が並んでおり、書店によっては娯楽から技術書、専門書や哲学書なども大量にあり、そして、そのほぼ全てが日本語ベースで書かれている。日本語社会において「日本語ベースではない本」を探すには通常、大きな書店や専門店を探す必要がある。 (13.12) 日本社会では"新聞"文化も一般的に根付いており、多種多様な新聞が"日刊"で大量に発行され、一般に消費されている。デジタル化の進む近年では減少傾向ではあるものの、全国紙から地方紙、専門誌など多様な新聞の存在は「大量の言語情報を運用する文化」の一端として提示できる。 (13.2) 日本文化でも、専門的な領域の場合は著しく大量の言語情報を整備されている。一般的な水準においては、一般的に実用できる水準の言語情報で扱われているが、法律や論文など、専門的に必要となる場合には必要な水準で言語情報を扱うため、著しく大量の文書が実用されている。 (13.3) 日本文化では古来から"手紙の文化"もあり、デジタル文化が普及する現代より前までは大量の手紙がやりとりされ、またデジタル文化が普及する頃にはメール文化やネット文化が急速に広まり、現代ではSNS文化が広く根付いている。現代のネット上には、大量の日本語情報が存在している。 (13.4) 現代の日本文化では「制度教育1年目から教科書を実用させながら教育を進める」ほど読書は基礎的な技能であり、また、文章を書くことも「制度教育1年目から文章を書き始めさせる」ほど基礎的な技能である。能力的な個人差から、万人が万全にできるわけではないが、"基礎技能"となっている。 (13.5) 日本文化では、言語そのものは実務において徹底的に実用されているとすら言える。相互に十分な水準で実用できる使い手同士であれば安定した情報の交換を可能としており、必要に応じた丁寧な言語化によって万全な情報伝達が可能であることが、日本社会の安定運営において実証されている。 (13.51) 日本語は「多くの人に基礎的な技能を習得させることができる言語」であり、また非常に"安全な"情報交換を可能とする構造性を持つ。これにより"日常的な水準での情報の伝達はむしろ非常に活発な傾向がある"と整理でき、そうした前提の情報量から「省略」による伝達も安定すると説明できる。 (13.6) しかし同時に、数千万人規模の膨大な人々が実用しているからこそ、"言語の万能性"は否定される。「同じ言語を使っていても、万人が同じ理解をできるとは限らない」という現実を認識しやすく、言語の限界性が理解されやすい。一般的にも、言語は「認識の一部」でしかないと理解されやすい。



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