ファイル掲載日:2025年08月17日(第一版~第二版:16時ごろ更新)
ファイル更新日:2025年08月18日(第三版:細かい部分を大きく追記編集)
散文「"物語の文化"について」 Andil.Dimerk
※いつもの免責:筆者はいずれの専門家でもありません
(ツイート用書式) 芸術や社会に関する歴史を広く見渡して眺めているとどうしても日本の特異性というものは考えざるを得ない所にある。 人類の規範性とは芸術、特に「物語の文化によって形成されている」と表現できる。つまり創作された「ストーリー」によって規範の観念を効率的に学習でき、そのようにして社会的な倫理観が広く形成されていき、そうして人類文明は発展し、また現代においてもそうして社会秩序が守られていると言える。 その理屈の大きな根拠の一つとして「日本」という地域の実在である。日本は世界トップクラスの経済規模・社会規模を持ちながらも、その国民の多くは「無宗教」を自認している。だが宗教の強い地域の人々にとって「無宗教」とは"規範性の無いならず者"に等しい状態だと認識されてしまうらしい。 宗教の根強い地域の人には「なぜ現代日本では"宗教の規範"の存在は薄いにも関わらず、多くの人々が高い規範性を持っているのか?」みたいな疑問を持ってしまうらしいが、そもそも「前提がズレている」のだ。規範性とは"宗教"そのものではなく"物語"によって形成されると考えればつじつまが合う。 日本地域では物語の文化が非常に古くから継続している。特に歴史的な連続性では、神話の時代から決定的な断絶をしないまま現代にまで到達している地域であり、あるいは千年前の物語さえ現代でも一部親しまれているほどであり、また民間伝承の様々な物語、「昔話」もまた多く確認できる。 日本地域の歴史として古くは『古事記』『日本書紀』『風土記』などに様々な民話がまとめられ、それらの情報・物語を継承していくこととした。また平安時代半ばから更なる物語が作られ『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』といった作品、あるいは『枕草子』という随筆の存在が知られている。 その後いわゆる軍記物として『平家物語』や『太平記』といったものがまとめられたり、あるいは『今昔物語集』として当時の「昔話」として多くの説話がまとめられたり、『徒然草』『方丈記』という随筆が存在する。江戸時代に入ると「歌舞伎」「浄瑠璃」「演芸・落語」などなどと表現方法が広がる。 また江戸時代が進むと本の出版までも盛んになり、より多くの物語が大衆へと広まり、またさらに多くの物語が作られていくという時代となる。やがて「紙芝居」に至る流れが生まれ、近代化と共に大流行、また時代背景から「教育性」との深い繋がりが導かれ、物語による教育文化はより深く根付いていく。 また近代化に合わせて「映画」の形式も登場していく他、さらに近代化が進んでくると現代に至る「マンガ」の形態が広まっていき、現代近くにおいてテレビが登場~普及していく中で「アニメ」も大きく広まっていく。そして現代最新の物語でも、昔話の引用・モチーフが強く見られる例が存在する。 * 一方で例えば欧州地域では特定宗教が権勢を持って支配的な統制が行われた結果、多くの物語が隔絶・断絶してしまう歴史が生じた。一時期、特に書物の扱いが「ごく一部の人々にしか許されない事実上の特権」のように管理されたり、あるいは効率的に民間伝承が断絶させられるような時期さえも見られる。 そうした宗教の強い地域では「ほぼ全ての物語≒宗教の管轄」という状態となり、その物語文化と宗教が合一した状況が長く続き、『物語から規範性を受け取る』という人類の性質が、その地域において事実上『宗教から規範性を受け取る』という価値観にすげ変わり、固定化されたのだろうという理屈である。 ちなみに人類史として現代に至る技術として欧州は非常に先進的に発展してきたと説明できるが、「書籍・本の一般化」という点では欧州から東の最果てである日本との差は長めに見積もって200年程度の差しかない程度であり、あるいは本以外を含む「文化的な知識の一般化」ではその差はさらに縮まると言える。 欧州において本の一般化、民衆も触れられるようになったのは印刷技術、特に活版印刷の普及のさらに後でありそれほど昔からできていたわけではない。一方で日本では江戸時代において木版印刷の技術の時点から出版物の大量生産が実施され、本の一般化を実現していたために、その時代差は意外と小さい。 日本が明治から近代化を進める際、驚異的な速度で適応していった背景には、そうした「知識文化の一般化」という状態は近代化を進める前からほとんど済まされていた歴史的背景があるとも説明しうる。また大きな時代の変化の中でも、決定的な隔絶・断絶はせずに連綿と「物語の文化」は継続していった。 現代日本ではさらに"子供向け作品"が大真面目に、教育的道徳的要素を踏まえつつ子供も親しめるようにと考えられながら数多く制作され続けている。それもいわゆる「幼児向け」だけでなく「少年少女向け」まで幅広く制作されている。当然"子供向け"ではない、「青少年向け」も多く制作されている。 日本が「物語の文化」において傑出して豊かである点は、経済規模やその影響力において明白である。また「物語の文化」は、とても効果的に「共感によって道徳などの教育」をすることのできる便利なツールで広く活用されていると説明でき、それが日本地域の基盤となっているという説明は理に適う。 つまり、現代日本が世界的に見て比較的高い規範性・道徳性を持っていると言われやすい点において、その大きな要因・文化的基盤となっている一面がその「物語の文化」だと考えられるわけである。もちろん全体的にはそれだけでなく、教育の社会制度も当然として影響しているとは言えるが。 そして「物語の文化」の力は、当然「宗教」においても例外ではなく同様に人類への影響を与えている。宗教性の強い地域でも、その宗教が「規範的な物語」の媒介者となっている状態で、その規範性の本質は宗教そのものではないとさえ説明でき、それによって宗教の強さと、日本の特殊性も理解できる。 ようするに、この「物語の文化が、人類に規範性をもたらすための非常に効果的・合理的な文化として存在している」という観点で考えれば、「宗教性の強弱有無」と「規範性の強弱有無」の強い相関性だけでなく、日本などのような例外的な地域の存在も、どちらも矛盾なく一律に説明しうるわけである。 * ちなみに。同様に例外的な地域、宗教性は弱いが規範性は高いと言われ、なおかつ先進的な社会規模を持つ地域として、欧州の中でも宗教の影響力が弱くなっていった北欧地域の近代的な傾向としてもその傾向が確認できるらしい。「物語の文化力」としても「アンデルセン童話」など日本でも著名な作品もある。 北欧のような宗教的例外地域とその歴史と現状を見ることによって、つまりこの理屈は単に"日本のみ"の例外性と宗教的地域との共通点を説明するだけのものではなく、その他の地域における例外性もまた同時に説明しうるものということとなる。遠い未来で、多くの地域が同様の形態に向かう可能性さえ考えられる。
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はみ出しそうな点について補足。「宗教の儀礼」などの行為も、"現実世界=物語の外側"と言えるものではなく、「物語の実体化」という形式だと位置づけられる。つまり「宗教的な物語の内側に、人々を配置する手順」であり、それもまた物語の文化の一種だと説明することが可能である。 * 他に補足として。日本を含め「表現の自由」が認められている現代社会において、秩序への悪影響が明確に確認できるわけではない点から、十分な社会基盤があるならば"無秩序な物語の氾濫"があっても全体の秩序への悪影響は否定できる。それには"人々の倫理的選択"が影響していく事情も含まれる。 「表現の自由」について、最低限「社会的な配慮」は必要だと考えられるものの、社会教育が十分であり、あるいは物語がありふれている社会であれば、"人々の倫理的選択"が特にフィクションはフィクションであると判断したりすることで、自然と社会の秩序を守る働きをしていくと言えるわけである。 * 注釈として。欧州の歴史の「効率的に民間伝承が断絶させられるような時期」とは【魔女狩り】のことである。特に民間の「物語の文化」は女性によって語り継がれてきた例が非常に多いと見られ、人類の文化の継承者として女性は非常に重要な存在であった言える所で、その断絶が目指されたのである。 なお【魔女狩り】において、北欧地域は中央から離れていたためにそもそもとしての影響が弱く、【魔女狩り】の対象も北欧ではその多くが男性であったと言われている。これはつまり、北欧の現代における環境は「欧州の過酷な時代にあっても文化が断絶せず守られていたから」と解釈することもできる。 * 例外の補足で。個人単位の例外的存在、ようするに犯罪者などの存在は現実的に地域に関わらず見られるものだ。個人の模範性は「家庭」や「小集団」の文化性に強くに依存するもので、地域的な宗教性の強さや地域の物語の文化力だけでその全てが教育できるわけではない。その例外はまた別問題である。 なお宗教的な物語に規範性を依存している地域では「宗教と離れてしまうと"物語の文化"に触れる機会も大きく逸してしまいやすいため、動物的性質としての規範性の学習が困難となる」とも考えられる。社会的に「宗教に頼ることができない層」がそのまま高リスクの層になってしまうと考えられてしまう。 さらに宗教などのように道徳教育の外部化とその依存の社会形態は「家庭内における教育の空洞化」の恐れも高まると言えるところである。つまり最低限の教育は目指しやすいものの、実態として家庭など小単位での道徳性を積み上げる機会が疎かにされてしまうと、社会的な成熟はむしろ妨げられてしまう。 一方で宗教性の弱い地域であっては、"各家庭の文化力"がそのまま「基礎的な道徳教育」へ繋がるために、高度な文化性を確保する社会が形成されている必要性が存在するという難しさはある。文化的に貧しい家庭がそのまま高リスク層へ直結するために、社会的な支援制度はこちらにおいても不可欠である。