散文

ファイル掲載日:2025年08月18日(第一版)

短編・散文「"心の飢え"について」 Andil.Dimerk
※いつもの免責:筆者はいずれの専門家でもありません

(ツイート用書式) 「心の飢え」は、どれだけ物理的に満たそうとしたところで十分に満たされることなどない。漠然とした不安感を物理的な不満感と誤解して、物理的に満たさるための行動に突き動かされてしまうことも珍しくないが、しかしそれでは心の飢えは満たされない。スピリチュアルな話ではなく、心理の話だ。 心の不安感を物質な充足に転嫁しようといくら試みた所で、心が埋め合わされることなどなく、不安感が消えることはなく、ずっと「満たされない」ままである。そして「心が飢え」という観念は、何かしら哲学的指導・哲学的教養を得られなければ、理解することもできないままに、飢えに苦しみ続ける。 ただし、心を満たすもの、というものはとても不定形なものである。個人差も多く明確化も難しいためにオカルティックな方向性ともなってしまいやすいものであり、そうした落とし穴にはまってしまうということも珍しくない。そのために「心の飢え」も、それを理解することは難しい感覚なのである。 しかしながら「理解できない」としても、無自覚であっても、実態として「そのような性質を抱えている」のであり、そこへ対応する何かをろくに持てないようであっては、それはまるで「餓鬼」のように飢えと渇きに苦しみ続け、あるいは醜い足掻きをし続けながら、ざるで砂を掬うような人生を歩むのだ。 しかも、その「心の飢え」は他人に理解されることはほとんどないと言っていい。一般的な人に理解されやすいものではないし、内面的なものであるために物理的に見ることはできないため、それを実証することもおおよそできない。そのため他人にも、自分にも理解されない飢えとして、苦しみ続けるのだ。 どうすればいいのか、という点については個人差が多すぎるのでなんとも言い難い所である。人それぞれが持つ「感性」に強く依存するものであるために、一概に「何を」と言うことは難しい。ただ少なくとも、"社会性を持って生きること"は、心を守るためにも非常に大切となるものである。 規範性、道徳性、倫理性といったものは、あるいは感覚的に煩わしいと感じてしまうこともしばしばあるところであり、欲望のためにそれらを無視してしまうといった振舞いを引き起こすことも珍しくはない。だが不道徳であっては立場を悪くして、結果的には心に傷を負うことを招いてしまいやすい。



戻る