ファイル掲載日:2025/08/01(第一版)
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題『「正義感の所在」または「社会および文化の生物的予測機能基盤論」』 Andil.Dimerk
0.A. まえがき この論稿はこれまでの『正義欲求論』についての、より現実的かつ簡素な再編纂である。 ※ 厳密な説明をしようとすると補足がより細かくなるため、詳細はかなり割愛している。 ※ 特に「動物の行動は常に肉体的基盤の上に成立する」という点で、詳細としてはその動物が持つ感覚の上に成り立つものであり、またその個体ごとの性質の違いによってもその状態は左右される。 ※ 筆者はいずれの専門家でもない。あえて言えば、個人の与太話である。 ※ 科学的検証が行われたものではないため詳細な精確性は保証されず、特に同テーマを論ずる場合において、これを根拠としてしまうべきではない。各自が各情報について検証を行い、自らの責任によって論じるべきである。 ※ 「仮説」でもないところであり「哲学論」の方に近い。 ※ この論の目指すところは「人間の行動に対する、文化的な理解」である。
1. 「正義感とは欲望の一種である」か?
「正義感とは欲望の一種であるか?」 この視点から「正義感の所在」への考察の説明を試みる。 ※ 繰り返しの注記となるが、これは科学論文ではない。 ※ 「哲学論」に近いものであり、この論の目的は「人間に対する、文化的な理解」である。
1.1 「欲求」の定義の恣意性
まず「欲求の定義」とは、極めて恣意的な性質を持っていることを説明する。 俗説における三大欲求「食欲・睡眠欲・性欲」も、個体の生存に必要なのは前者2つだけであり、最後の一つは個体の生存には不可欠でなくまた時期や状態によって発露しないことも珍しくない程度のものである。なお、この三大欲求の考えはあくまで「俗説」である。 定義によっては生存のための三大欲求「食欲・睡眠欲・排泄欲」などと数えることもあるが、一部衝動性は高い反面、特に「"不足感・不快感の解消"というネガティブな印象」も強く、回避不能性ばかりを強調している。これは介護などでの、生活の必需の明確化に使われる。 あるいは行動への積極性を持つ三大欲求「食欲・性欲・所属欲」などとも数えられたりするが、その程度には個人差が非常に大きいものであり、所属欲もある程度の学術的検証は行われているが例外性を抱えている。これは社会的あるいは経済的な戦略において使われる。 また心理学者のマズローはヒトの欲求について多様な定義を試みて、それらが階層的に存在するという説を提唱した。ここにおいては生理的欲求以外に、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求のように、人の多くの行動が欲求の形だという広いアプローチを行い、厳密な段階説は否定されているが、その観念はかなり広く共有されているものであると言える。 なお「脳内における生理的な反応」などと考えてしまえば、その範囲はいたずらに拡大する。衝動的な希求があるならばそれは生理的な反応を生じさせていると言えるものであり、それならば「猫欲」だとか「ゲーム欲」だとかなんてものを定義してしまいうる。 また学術的な検証においても、「広く共感されうるもの、かつ普遍性を想定できうるものが欲求として扱われる」という前提に、なおかつ「研究価値・研究意義」が見いだされることで研究・整理されるものである。つまり、「学術的に避けられていると、学術的には欲求と定義されない」ともなりうる。 例えば生物的な不可避性を考慮しても、「呼吸欲」のような観念を提示した場合において、呼吸はほぼ無意識的に行われていること、またその選択的自由度の無さから、その観念には違和感が生じることは明白である。稀に、そのような定義を扱う場合もなくはないが。 いずれの分類においても「恣意的な性質をもっている観念」なのである。 少し難しく言えば「生物の行動上の希求性を説明する際に、共通認識を整理するために用いられる用語」だと位置付けられる。 ここにおける「欲求」は、そうした前提を用いる。
1.2 予測機能の生物的な蓋然性
次に「予測機能」の生物進化における連続性と、その機能の広さを説明をする。 特に動物は体感した情報などを記憶できるようにし、その経験などからの予測機能を獲得し、その機能を発達させることでその生存性を高めてきたと言える。 原始的な領域においては線虫のような単純な動物であっても、好ましい状況を記憶しそれを目指す反応が確認でき、それを成立させている生理的反応の機序(ドーパミンを用いた反応)は、確認されているあらゆる動物が持っているとされる普遍的な機能である。 それが動物にとって生存性を高めるための極めて重要な機能として働いてきたと理解できる。 なお動物は大型化していく(ミリ未満サイズからセンチ以上に大きくなる)につれて、その多くでその頭脳などは複雑化し、より多くの神経伝達物質・ホルモン物質を用いた生理的反応をできるようになっていき、より詳細な、より広範囲の情報を扱えるようになっている。 特に大きくなった動物においては「予測機能」をさらに発展させている。それは肉体の物理的な大きさなどから、より長期的な予測をもって行動しなければ生存が困難となるために、徐々にその予測機能を発達させていったと考えられる。 特に長期的な想定をできる高度な「予測機能」の部分は異なる様々な環境に適応する技術的能力をも形成させ、新たな環境への進出と、そこにおける生存性を飛躍的高めたと推測できる。 これらの機能は進化の過程において、連続性を持って発展・進化していったものであると説明できる。 なお「予測が間違った」と感じることは、生物的な機能として生存性に関わる機能が正常に働いていないと認識する状況であり、「生存性に関わるインシデント」として肉体的に評価されるものだと位置付けられる。
1.3 長期的な予測機能による「公平性」への希求の発生
そしてその「予測機能」の発展によって、一部の動物がいわゆる社会性を形成できるようになり、またいわゆる「公平性」や正当性などの「こうあるべきだ・こうあるはずだ」といった「社会の常識」という予測を行えるようにもなっていったと説明することができる。 それは正当性や妥当性といった予測モデルによって予測を行い、それに対して適合すれば公平公正であると判断し、適合しない状態を不公平、不正であると判断するという機序である。 ある程度の大きさと社会性を持つ動物などが「公平性」への感覚を持っていることについても、そうした「予測機能」の発展という説明によってその妥当性、蓋然性をも説明できる。 もしそうした「予測する能力」が補助しなければ、「公平性」を判断することは非常に難しい理知、状況や情報の確認と計算を必要とするものであり、特に瞬時な判断は不可能なはずで、しかし実際は高次の知性が不可欠ではなく、また瞬時の判断が確認されることから「予測による公平性の判断」という機序を強く示唆している。 ようするに「間違っていると感じるものを嫌いやすく、正しいと思えるものを好みやすい」という性質を獲得したと説明する。これは「長期的な影響を暗に想定する予測機能」である。 また「公平性」に関することであっても、「予測とのズレ」と感じる状態は生物的な機能として「生存性に関わるインシデント」であり、特に悪い方向へ間違っていた際は時として「命の危険」に等しい感覚、強いショックや警戒感、強烈な嫌悪感、不快感を引き起こしうる理由を説明づける。 つまり正当性、あるいは倫理性や道徳性なども、実態として「体感されるもの」と言える。 特に長期性を持った認知に基づく予測機能は軽々に変質するものではなく、またショックなどの影響も長引きやすい。 そのような予測機能が、集団における協力・維持を助ける働きも導くことで、そうした機能を持った動物が種の存続としても有利に働いていると考えられ、ヒトほどの知性を持たなくとも社会性を持った動物が多く存在していることを説明できる。 ちなみに「共感性」といったものは、予測機能による社会性の形成・維持において予測機能を効果的に働かせる認知機能として発達したものであろうと位置付けられる。「感情」は、それらをより円滑するための機能としても発達したと言える。 なお「感情」は、「瞬発的な判断」という性質において予測機能に強く隣接するものであると解釈することができる。予測機能が肉体的な反応を導くことによって、予測の身体的な側面を強めることができ、その後に感情表現が情報共有として働くことで、それが豊かになるよう指向していったといった順序が考えられる。
1.3.1 「予測機能」からの利他性の表出
この「予測機能」によって生じる反応、感覚は必ずも利己的な傾向だけを示すわけではない。 その感覚は「形成された予測」によって生じるものであり、利己的ではないことが好ましいと感じる予測傾向を獲得することも珍しくなくある。これは主に集団の維持を導く感覚器官、認知機能によって誘導的に獲得される。 その典型例は「罪悪感」であり、それは自らが正当な状態から外れたと認識した際に生じる感覚である。これは「客観的に・論理的に、妥当性があり正当と言われる状態」であったとしても、当人が正当ではないと思う感覚から「罪悪感」を生じさせる場合がある。 つまり、予測機能が理知的に、打算的に判断を行うわけではないことを強く示している。 また罪悪感の類型として、その問題への予測的な方向性で「義務感」などが生じると説明できる。何かしらの義務を守ることへの正当さを感じ取り、それによって責任感を感じ、実際に行動することを目指す傾向で、時として強迫的なまでにヒトを突き動かすこともある。 より直接的な利他的行動、「人助け」などもまた予測機能と認知機能などの関係から、感覚的に誘導されているものであると考えられる。 特に緊急時の「人助け」においては、それが理性のみで行われているものではなく、事後において「考えるよりも先に体が動いていた」という証言の例が度々見られるように、この性質には衝動性も生じさせる場合があることが示せる。 あるいは「助けたいと思えたが、自らの不足によって助けられなかった」と感じる場合には、その実際に助けることが可能であったかどうかの実現性・現実性に関わらず、「自らの思う正当性からの逸脱」が時として非常に強い罪悪感を生じさせ、さらに後悔という心理的な負担の形で長く残ってしまうこともしばしばある。 これらの情報をまとめると「社会性とは、理知によってのみ成立しているわけではない」という状態にあると説明しなければならない。 なお罪悪感の例のような状況では、必ずしもその罪悪感を素直に受け入れようとするわけではない。その自身の不当性の感覚から逃れるために、自己正当化を試みることも珍しくない。
1.3.2 「環境への適応」による「社会性」
次にそうした「予測機能によって形成される社会性」とは即ち「環境への適応の結果」だと位置づける。 その予測的な社会性とは「生存環境であるその社会への適応の結果として詳細な社会性を身につける」という手順を必要とするものであり、(特に幼少期において)生存環境からの学習を柔軟かつ積極的に行うことで、必要となる社会性を身につけられるという理屈である。 それは実際に、幼少期に社会性を身に着ける機会を得られなかったヒトや動物では、その種族の基本的な社会に馴染めない・必要な社会性を持っていないという例が確認されやすい。その他にも、幼少期に他の種族に育てられた動物では、その種族の社会性や行動様式を一部習得する例が見られる。 (注記しておくが、これらの学習は認識できる記憶に限らない。) これはヒトが様々な形式のその地域に応じた「地域に根付いた常識」的な社会性を獲得することを説明できるものであり、またヒトが古代から遺伝子的に劇的な変化が見られないにもかかわらず、劇的に変化した現代の社会環境へ適応しうる理由までも説明をできる。 またヒトの場合、未成熟な状態で生まれてくることで、幼少期の長い間で他者の介助が不可欠となり、特に「利他的な行動様式」を学習しやすい生態をしているとまで考えられる。 ちなみに幼少期の積極性はいわゆる好奇心として説明されるが、成熟後に表出する好奇心とはその機序がやや異なるものとされる。幼少期は生態として未知などへの関心が強い状態で、それによって周辺環境への適応を目指しているもので、成熟後にはその初歩的な性質はおおよそ失われる。成熟後における未知などへの関心とは、そこで培われた新たな発見へのポジティブな予測や、あるいは未知というネガティブな感覚から生じているだろうと考えられる。 また幼少期においては予測モデルが柔軟に形成されやすいと考えられるものの、一度形成された基本的な社会的予測モデルは変質しやすいものではないと見られている。これは幼少期の学習の重要性を示す。 ただし成熟後でも学習はできて徐々にでも表層的な予測モデルが調整される状況もあると言える。土台の変質は困難だと考えられているが、成熟後でも環境を学習し適応する力はある。
1.4 ヒトにおける「適応型社会性」のダイナミズム
なおヒトにおいては言語などの高度な情報を扱える能力によって、極めてダイナミックにこの性質を扱っている状態にあると言える。 例えばこの「予測機能」の性質、特に環境からの詳細な学習という性質は、ヒトの文化的なほとんどの行動をも導いている性質であると説明できる。 承認欲求などの欲求も「経験などからの予測機能によって導かれている」と説明することが可能である。例えば「幼少期に保護者に相手をされない時の不快感など・相手にされた時の安心感など」の経験が、予測機能を働かせて「他人に相手にされることを求める」ような形として表出すると説明でき、またこの傾向が人類に多く見られることも説明づけられる。所属欲求もそれに近い背景から説明される。自己実現欲求なども承認欲求と隣接して「何かを褒められた快感・喜ばれた感覚」などの経験をその背景として説明しうる。 他には支配欲なども「従わされることへの不満感・従わせることへの羨望」といった経験や、あるいは「(自ら感じる所の)正当性への予測からの強い希求」がその背景として考えられる。 文化的の欲求のほぼ全てについて、このような還元を目指すことを可能とする。 この理屈は、様々な文化的な欲求に大きな個人差があることについても説明をできる。 厳密にその根源が予測機能によってのみ生じていると限定するわけではないものの、予測機能の関わりを強く推測することが可能である。 そして同じく予測機能から生じている「公平性」「正当性」などへの希求もまた、文化的な欲求と同列のものであると説明できる。 それは「精神的に満たされている」という状態においてそうした文化的な欲求が全般的に落ち着くこと、反対に精神的な不足感でこれらの欲求が広く活性化されることも説明づける。 なお、注記しておくが進化の過程の考察として、「公平性」などへの希求は予測機能の発展において他の「文化的な欲求」よりも先に形成されている。位置づけにおいて、「より原始的な文化的欲求」とも表現しうる。 説明してきた通り社会的な利他性、利他的な行動などもまた、理知的な計算によってだけではなく、主に極めて長期的な展望を持たせる「予測機能」から生じていると考えられるが、 特にヒトにおいてはその「予測機能」的な衝動が非常に強く表出することも見られており、時として自己犠牲をいとわない強い利他性さえも発現させうる性質となっている。 それは、予測機能そのものに生存への希求性を強く保障する性質が存在していない可能性を示唆している。生存への希求性は肉体的な感覚によって生じて、また危機的状況などへ予測的にも対応しうるものであるが、予測機能自体はあくまでも適応性であり、予測機能そのものが自らの生命維持を希求するわけではないと説明する必要がある。 特に「希死念慮」が生じるという事実に対して、そのように推定しなければならない。 例えばあまりにも強い「罪悪感」を抱いた時には、それ相応の贖罪として「自死が妥当」であるという解釈に至ってしまうことがある。「正当性」の感覚とは、人によって・時として、耐えがたい心理的苦痛を生み出してしまうことがあるほど、重大にもなりうる感覚なのである。
1.5 「主観的な予測」と肉体的性質
この性質は、あくまでも個体ごとで「適応・学習」によって社会性や正当性などの感覚をそれぞれで習得するという性質であり、当然その習得に不備が生じていれば望ましくない社会性や感覚を身に着ける恐れがある。つまり「客観的に不当なこと・不正なことを、主観的に正当なことだと思ってやってしまう」という状態も、自然と発生するわけである。 特に「間違っていると感じるものを嫌いやすく、正しいと思えるものを好みやすい」という性質は一方的なものではなく、「不快に感じるものや嫌っているものを間違っていると感じやすく、心地良い快感や好ましいものを正しいと感じやすい」という相互作用がある。この性質によって快感を希求する性質や不快に対抗する性質が生じ、それが公平公正な「道徳性」とのジレンマを起こし、時として軽視させてしまう場合も生じさせることを説明づける。 これは肉体的な基盤の上に、予測機能が備わっているからだと言える。予測のために学習されるものは、単なる客観的情報の記憶だけではなく、自らの脳内を含む肉体的な反応が大きく関わる。そもそもとして、初期的な学習はまず肉体的な快・不快を軸として認知していくものだろうと言える。共感性と呼ばれる認知機能なども、そのように影響を与えるものである。 「公平性」などの感性・予測モデルも、それらの積み重ねによって成立しているのだと説明する。 ヒトにおいては巨大かつ複雑な頭脳の肉体的な基盤の上に、この機能が備わってることによって、極めて多彩な文化や文明、地域社会に応じた規範性なども成立させていると言える。 なお、予測に対して知性的な処理がそれを補助する、ということも当然としてある。 つまり、詳細な解釈によって正しさや間違いを考察し、予測機能へフィードバックさせて、より理知的な予測を目指すこともある、という相互作用である。注意点として、そこにおける判断もまた「予測機能へと帰属し、最終的には予測的に判断をする」という状態である。 ただしその理知性もまた、規範性や利他性を重視するとは限らず、「倫理の正当性を疑う」という場合さえもある。時として、「理知的に既存の規範を無視する」といったことさえ生じうるが、しかし既存の価値観を打破することでより良い状態を目指せる場合もある。 (ちなみに、「答えが出せない問い」に対する不安感・不快感は「正解・結論を出すという"正しい状態"にできない状況」として認知することなどから表出すると説明できる。)
1.6 「正義欲求」という定義
つまり、これらの理論から公平公正を求める「正義感」も数多の欲求と近いものだと考えられ、よって「正義感は、欲望の一種である」という説明が可能である。 もちろん「欲望が利己的である」という定義において、利他的に生じやすい正義感が欲望として数えることを否定されてしまいやすいが、 しかし「欲望が衝動的また動機となる」という定義をとれば、正義感は間違いなく欲望の一種に数えなければならないし、また正義感というものについての理解を深めるためにはそのように解釈することがより合理的な説明をつけやすいと言わざるを得ない。 またあえて強弁するならば、もし「欲望が利己的」だとした場合でも、例えば「性欲」と呼ばれる欲望は「個体という単位にとって短期的に快感を求める利己的な動機でもある」と説明付けなければならない。つまり「性欲」が種族として合理的な欲求であっても、それを「利己的である」と定義するのであれば、「合理性があっても快感を目指すあらゆる動機は利己的でもある」と説明されなければならないわけであり、時として見られる「"正義感を満たす"達成感や充実感という快感を目指す動機もまた利己的なものである」と定義されなければ、道理が通らないだろう。 万が一にも「性欲は欲望ではない」と解釈することはあまりにも不自然である。 まして「性欲」が「種族の保存」という観点において強い衝動を誘導する性質を持っているものであり、「正義感」もまた「種族の維持」という観点において有益に働き、さらに時として強い衝動によって誘発される性質を持っている事実を見れば、「性欲」と「正義感」はその機序は違えど、実質的にほとんど同種なものであると位置づけることすら可能である。 何より、現実的で合理的な解釈を導くのであれば「正義感は、欲望の一種である」と考える方が、これまで説明してきた通りに、非常に広く道理の通った説明を可能とする。 注記しておくが、こうした正義感やそれに類する性質がヒトを社会性を持つ動物として成立させ、人間社会を構築・維持してきたものであり、また発展的に考えればこれが人類文明を発展・繫栄させてきた、人類史において非常に重大で極めて偉大な性質だと説明するものである。 また「反社会的な行動」についてを許容するものではなく、むしろそれが生じる状態を社会的に許容しないこと、社会が対処を行わなければならないことの正当性を示すものである。
1.6.1 補足:繁殖欲求と正義感の近似性とその他の欲求との比較
欲望の表出の例として。 いわゆる性欲は、「個体の生存」という観点において不可欠なものではない。あくまでも「種の保存」という点において重要であるというだけで、なんなら個体にとって必ずしも利益をもたらすものではなく、論理的には極めて長期的な予測(将来の人手を増やす、あるいは衰える老後に介助してくれる存在を生産するなど)を立てなければ、その必要性を理解できない。 性欲とは当然論理ではなく、動物の仕組みとして、繁殖行動が本能的な情動によって誘導されることで、個体が種の保存へ貢献するようにできているわけである。 またヒトの文明において「性欲」の表出とは、必ずしも繁殖へ直結するものではない。これは特にヒトにおいて「快感」に根差す欲求の表出が、非常に複雑化しやすいことを示している。 「正義感」も、それは「個体の生存」という観点において生存環境の維持に強い影響を及ぼしうるとしても、生命活動自体に必ずしも不可欠だと言えるものではない。あくまでも「集団の形成・維持」という点において重要となっているもので、論理的にはかなり長期的な予測を立てなければ、その必要性を理解できない。「なんでルールは守らないといけないの?」だ。 動物的な仕組みとしての予測機能によって、「常識への適応」をすることで論理的な理解を不可欠な前提とせずに、社会的な判断を導けるようにできているわけである。 また「正義感」の表出が、必ずしも集団の維持へ有益に働くとは限らない。「快感」に根差す欲求の表出は、非常に複雑化しやすいものであると考えれば、その複雑性は当然である。 つまり正義感は性欲と同じレベルの性質、近しい役割を持っていると説明できる。 なお他にも強い嫌悪感や警戒感、希求性を引き起こす、欲求と定義されうるものとして「排泄欲」が存在する。これはかなり生理的な反応として存在するが、ネガティブな感覚を導く欲求の例を示せる。 また不足に対する不満感、不安感から希求性を引き起こす、欲求と定義されているものとして「食欲」が存在する。また食欲は、食事における快感というポジティブな感覚を目指す性質であり、それ自体に希求性が生じることがある。つまり空腹感が無くとも食事を求めるという状態が珍しくなくある。またヒトにおいてはかなり文化的な影響を受ける欲求である。 これらの性質にも、正義感の性質との類似性を見出すことができる。 よって、これらを「欲求」とする解釈において、論理によって正義感だけが一切欲求ではない可能性を説明することは、とても困難だと言える。
1.6.2 補足:「欲求」という語の使われ方
言語的な感覚についても、これを整理しておく。 欲求はおおよそ以下のような条件によって「欲求」と称されていると考えられる。 ・希求性がある、つまり「動機になるもの」を指す。 ・特に衝動性があるものは強く欲求とみなされやすい。 →代表例:排泄欲など ・他にも、行動を誘導される性質があるものも欲求とみなされる。 →代表例:睡眠欲など ・身体性があり、状態的な不足や充足によって、心理的な影響が強く見受けられる。 ・不足状態において飢餓感や不安感、またそれによって希求性が強まる。 →代表例:食欲など ・充足することによって満足感、あるいは精神的安心感が生じる。 →代表例:性欲など ・主に生物的な観点から、おおよそ普遍的な性質であろうと認識されている。 →代表例:安全欲求など ・ただし、会話的な使い方においてはこれを不可欠としない。 →代表例:金銭欲など ・学術的には、それらを踏まえて、ヒトなどの行動原理を説明する際の大きな枠組みとして表現的にこの語彙が用いられる。 →代表例:承認欲求など ※ただし論理的あるいは理知的であるとされる判断についてはこれに属さない。 しかし、「正義感」の状態とは現実的に ・正義の行為への希求性が生じることは多く、そこに衝動性もかなり確認される。 ・不公平に対する強い不快感、あるいは不公正に対する不安感が生じる ・正義が達成されたことに対しては充足感、時として満足感が生じる。 ・ヒトにおいて、「正しさを求める傾向」と解釈すれば、とても普遍的に確認できる。 ・ヒトの行動原理を説明する際の大きな枠組みとしても十分に使いうる。 ※正義感の判断は、必ずしも理知のみによって実施されるわけではない。 特に倫理性や道徳性は、罪悪感などのように「体感」されうるものである。 こう並べてしまえば、さらに「正義感を欲求としない」ことの不自然さが強く浮かび上がる。 だが実際、正義感を欲求として扱うことは、おおよそ社会的な事情によって一般的ではない。
1.7 個人的正義と社会的正義の分離
この理論において重大な点として、【「正義感」は「(社会的な)正義」ではない】。 この「正義感は、欲望の一種である」としうる理論において、論理的また倫理的な観点から「社会的な正義」を「個体の正義」と分離して扱う。 まず現実的に「正義」とは一義的であるとは言えない。常に相対的なものとして存在し、「いずれかの立場からの正義」と言えるものである。絶対的な正義がどこかに存在するわけではなく、それぞれがそれぞれの正義を掲げているという状態だと説明することが最も妥当である。 また理論として「社会としての正義」と「個体としての正義」を同一視してしまうと「(客観的・社会的な)正義にそぐわない場合において、その言動を正義感と呼ぶことは相応しくない」という問題を引き起こす。 しかし現実的に「個体が持つ正義の観念・個人の持つ思想」と、「社会的な正義の観念・あるいは理想的な正義の観念」が必ずしも完全に一致するわけではない。それらはあくまでも別々に存在しているものであると考えることが論理的である。 さらに倫理的に「個体としての正義」が必ずしも「社会的な正義」に適うとは限らないという問題から、それを手放しに「正義」として扱うことには、「反社会的正義」のような形によって反社会的な暴走といった事象に至る危険性があることを補足しておかなければならない。 「個体にとっての正義」とは、あくまでもその個体にとっての正義でしかない。それはそれぞれの個体が暮らしてきた環境やそれぞれの肉体の状況などによって、様々な正義の観念が形成されるものであり、必ずしも社会に資する形で形成されるわけではないのである。 特に狭量な感覚を持つ個体では、慢性的な不快感・不足感を感じ、社会の多くのものを「敵」と見なしてしまうこともあり、また「悪意」があるかのようにも感じうる。ヒトはそのように他者や時として非生物から、「無辜の悪意」さえも見出してしまうものである。 より厳密なことを言えば、1個体においても「正義感」と「理屈としての正義」が、必ずしも一致するわけではない。つまり、理屈として"正しい"と考えた何かがあっても、感覚としてそれが正しいと思えるかどうかは別となってしまうこともある。 これは特に思慮、思考に慣れている人においては珍しくなく、「理論に対する正しいと感じる正義感」と「感性から正しいと感じる正義感」のジレンマを生じさせることさえもある。
1.7.1 社会的正義の正体
なお「社会的な正義」とは、それぞれの個体の持つ正義感や、思慮や思想、理念や理想をすり合わせながら、またそれぞれの立場も影響しながら、その時代ごと・その地域ごとで、個体の間に形成されるものだと言える。つまり、社会における妥当性から明示的あるいは暗黙的に合意されるものが「社会的な正義」の正体だと説明する。 「個体としての正義」の間から、「社会的な正義」が発生するわけである。 ただ人々の妥協から生み出されていると表現してしまえるが、しかし低俗なものになるとは限らない。そこには人の理知や理想も含まれうるものであり、人にとっては困難な、崇高な精神性を持たせることも可能であり、決して矮小なものではない。 むしろ「社会的な正義」には、その時代その地域において望まれる「理想的な正義」が少なからず含まれていると言うべきであり、その社会に生きる者としては決して安易に軽んじてしまっていいものではない。 またそのようにして「外部化された理知による正義」は、それ自体が人々にとっての道しるべとなって「個体としての正義」を教育・誘導するという役割・効果を持っている。 「社会的な正義」は個体の正義の間から生まれるものではあるが、そうして「理知によって外部化された社会的な正義」は、個体の正義へとその理念を授けるという関係性なのである。 人類文明はそのようにして「正義」を扱ってきた。 特に「外部化された理知」とは、思想的あるいは物理的な影響や淘汰圧を受けながら単なる遺伝子よりも桁違いに頻繁な変質を繰り返しつつ、時としてはるかに広大な範囲へと拡散することもあり、計り知れない影響力を及ぼす場合がある。 現代の文明は古代から続く理知的情報の進化の延長線上に立っていると言っていい。 つまり、人類にとって、その歴史は「偉大なる理知」とも表現しうるものだと説明できる。 もしそのいずれかに対抗をするのならば、相当の知恵と理知と覚悟を持つべきである。 ちなみに、より哲学的な話となるが、「現在存在する社会的な正義」とは、いわば「ダーウィン進化論的な経緯」によって選び抜かれた思想であると説明できる。つまり「本質的に正しいかどうか・優れているかどうかではなく、"現在に適応することで存在している思想"である」という理屈である。それは「ヒトの倫理的な思想からの淘汰圧」をも受けている。 これ様々な地域の多数の「社会的な正義」で、ある程度の共通性が存在することについて、人類が本質的に持っている詳細な正義性を示唆するものとは考えず、あくまで「存続できる社会的な正義の傾向には類似点が見られる」という関係性だと言える。それは有効な思想が広く伝播していくという手順だけでなく、環境へ残存しやすい傾向から結果的に似たような形となる「収斂進化」と同じ現象で、類似した点が生じることも説明できる。 より理想的な正義こそがより多くのヒトの心へと響き、多く継承されていきやすいものであり、だがより現実的な正義こそが物理的な意味において社会を生存させていくことができる、そうした緊張感の中に「社会的な正義」は形成されるのである。 理想のみに執心することが、必ずしも現実性をもたらすわけではない。
1.7.2 教育の重大性とその扱い方
そのようにして、社会性、また社会的な正義の観念についての詳細を、特に人類史の理知の産物を、ヒトは後天的な経験や知識の蓄積によって身に着けていくものだと説明できる。 よってそのための「教育」は、ヒトが社会的な活動をしていくための極めて重要な文明であると位置付けられる。適切な教育がなければ、文明の発達どころか文明の持続さえも困難なものになる。 ただし社会的な意義において十全な教育とはおおよそ、ヒトそれぞれの性質に合わせて、適切な情操教育から様々な知識教養を持たせ、妥当な価値観、柔軟な社会性を身に着けさせることをまず目指すものだと考えられる。 特に「安直なしつけ」とは、教育者側の"安直な正義感"の不合理な押し付けとなりがちであり、ヒトの性質を度外視し、妥当な価値観や適切な社会常識の形成をむしろ歪めてしまう要因となることを注記する。 また十全な教育ができないとしても教育の無意味や不要を意味せず、可能な限り必要な教育環境を提供することを文明社会は目指さなければならない。 一応、ヒトには予測能力と知性によるかなりの適応力があるために、教育の一部において多少の瑕疵があったとしても、その他において適切な環境に恵まれていれば、その環境から必要な社会性を学んでいくことも多く、なんだかんだと社会に馴染んでいくことは珍しくもない。 例えばいわゆる"不良"と呼ばれる青少年は「自らの幼稚な感性に基づきながらも社会性を手探りしている」と言える状態であり、環境が致命的に劣悪でなければ必要な社会経験を積むこともでき、成長に伴って妥当な社会性を獲得していくことも多い。(※ただしこれを手放しに放置することが望ましいわけではなく、社会的圧力や融和的な教育が重要な教訓を与える。) 初期教育を含めた教育において特に重要と言える点はいくつかある。 まず「社会が味方であること」を感覚的に理解できるように、社会への信頼や安心を持たせための支援や補助を行うことが大前提となる。社会が外敵ではないと覚えさせるのである。 その上で、その社会において暮らしていくために必要となる妥当な社会性、道徳や倫理、法律などを教育し、常識的な社会性を身につけさせ、安全な行動にも誘導すること。 そして持続的な社会への協力性を導くために、「社会は嬉しいものである」と感じられるようにすること、特に芸術文化や娯楽などに触れさせることも大切となる。 ヒトの性質を踏まえて、そのような情操教育が必要となる。様々な実用的教育とは、その上に成り立たせるものであるとすら言える。
1.8 正しさへの希求
なお「正しい」という感覚への希求は、正義感のみに存在するわけではない。 ヒトが理知によって論理や理想や理念を組み立てられるのは、その「正しさ」への希求があるからとすら言える。そしてそれも「正義への感覚」の同類、むしろその一部だと説明できる。 例えば「どのように考えれば正しいのか」という理論への追及といった理知などもまた、結局はそうした希求を原動力として行われているものだと考えられるわけである。 それは「間違っていると感じるものを嫌いやすく、正しいと思えるものを好みやすい」という単純な性質の上に、極めて高度な情報処理を可能とする頭脳を持っていることによって成立している状態だと説明できる。 非常に複雑な反応を示すものであるが、その基盤はとても単純な好き嫌いの反応にある。あるいはその好き嫌いの反応こそが「正義感」を成立させていると表現してもいい。 時として何かの問題や課題に対して、理解できない場合の強い不安感や、間違うことへの極端な恐怖心を引き起こすこともしばしばあるが、それらもその大本はほぼ同じものと言える。 ただし「論理的な正常性」と「感覚的な正常感」が必ずしも一致するわけではなく、そこにジレンマが生じることもまた少なくない。それが「客観的・論理的に正当だけど、罪悪感を感じる」といった状態などを引き起こす。 それほどまでに「感覚的な正常感」は、強固に働いてしまうことがある。 なお「論理的な正常性」自体にもまた、「感覚的な正常感」を持ちうるものであり、ジレンマを抱えながらも、理性的な行動を遵守しうる性質でもある。 ちなみに、「wiki●ediaは経済学的には成立しないが、実用的には成立する」と言われる理屈についても【「正当な記事はこのようにあるべきだろう」という社会的な正しさの感覚への希求】という解釈によって、その追究や探究心などの強さを簡潔に説明づけられる。
1.8.1 日常的な不足感とヒトの貪欲さ
ヒトは(あるいは動物も)、基本的に「恒久的に満足している状態」といったことは中々見られない。つまり、身体的におおよそ「慢性的に不満を抱けるようにできている」と言えるくらいの傾向を持っている。特に悩みも欲も無い人は、そういう修行を経た人くらいだ。 予測機能の性質として、そうした不満や不足感を抱いている状態は「好ましくない状態にある」と体感されるものであり、そこからは「より良いと予測される状況への希求」≒「"正しい状態"への希求」が生まれる、という機序が発生する。 ようするに「ヒトは日常的に"良い状態・正しい状態を目指したい"という希求が生じている」と言えるわけであり、それは「日常的に、正しいと思えることをしたい」とも表現できる。 それが、より強くヒトの社会性を駆動させているのだと説明できる。 その日常において何かしら満たされる"良い"行動を取れなければ、不満感は累積していき、やがてより強く予測的な「良い・正しい」への希求が生じてしまいやすいと説明できる。 「ストレスが溜まるとそれを解消する方法を求めてしまう」わけである。また社会でさらにストレスを受けながら日常的な不満感や不安感を解消できずにいる人ほど、安易に「"正しい"と思えるもの」へと飛びついてしまう性質までも、この機序から説明される。 ヒトが実際にその不満を解消する方法は、その人の持つ文化的行動、あるいは文化的欲求と呼ばれるものの表出によっても個人差は大きいもので、その中には「正義感を振り回す」といった言動も、その一つとして数えることができる。 しかもそうした言動によって十分に満たされるとは限らず、思い通りにいかなければむしろ不満感が生じて飢餓感を解消できず、希求性ばかりが強まっていき先鋭化する場合もある。 何かするべきことに追われている方が、感覚的にはその飢餓感から逃れやすいとすら言える。 日常的な不足感の解消方法は文化的背景によってかなり異なってくる。つまり日常的かつ平和的な「良いこと」を覚えて、例えばより建設的な・生産的な行動を習得してそれを日常的に実行することも当然としてある。 またこれらの機序から「強欲さ」や「貪欲さ」といったものも解釈することができる。その予測モデルにおける「求めるべき状態」の水準が、高い理想を基準としてしまっている場合、現状に対して満足することができず、理想への希求をすると説明できるのだ。 それは社会的でポジティブな方向性であれば、いわゆる「理想を目指して努力をする貪欲さ」として現れることもあるが、しかしその希求から必ずしも現実的な行動が生じるとは限らず、実現性や社会性が無く「自分勝手でただわがままなだけ」という形で表出することもある、といったことまでも解釈できる。 なお、もし「日常的な行動が"良い"状態」という体感を得ることができれば、特別なことをせずとも日常的にこの希求性を満たしていく状態にもなりうる。「今を幸せに感じること」や「ちょっと良いことの習慣」で、恒常的にある心理的な飢餓感を軽減しうるわけである。 感じ方を変えることは簡単なことではないものの、「不満という感情そのものは常に自分自身の中から生じている」という事実に折り合いをつける方が、精神的にも楽に生きやすくなる。
1.8.2 段階欲求説への整理
マズローによって整理された段階欲求説については、こうした「良い状態・正しい状態への希求」の機序から分析すると、「より直感的・感覚的に解決を目指せるもの≒安易に"良い・正しい"状態へ向かえる希求性」ほど下位に位置付けられ、「より文化や理知の助けを必要とするもの≒理想的な"良い・正しい"状態へと向かいたい希求性」ほど上位に位置付けられている、という傾向を把握することができる。 ●おおよその解釈として 最下層 生理的欲求:生理的、本能的な希求であり、その解消法も大抵シンプルである。 第二層 安全の欲求:「予測的な備えの希求」として、文化や理知は助けになる。 第三層 社会的欲求・愛の欲求:直接的に「社会性」が必要≒文化能力や理知が必要となる。 第四層 承認(尊重)欲求:「社会的に理想的な状態」への希求で、高い文化能力が不可欠。 第五層 自己実現の欲求:さらに求める「理想への希求」と位置づけられる。 超越層 自己超越:「最も理想的な心理状態」という位置づけ。 なお、この段階説の枠組みで説明をすると、「正義感」は「本能的には下位側の性質と、社会的には上位側の性質を併せ持っている」という、単純ではない解釈を必要とされがちになる。これによって「正義感の複雑性は欲求の分類へ位置づけられない」と考えてもしまいうる。 しかしそれはこの段階説が「良い状態・正しい状態への希求」から表出している様々な形態の行動についてを、個別に文化的な分類して段階的な整理するという手順をとっているために、その手順の中で・その基準に無理矢理当てはめようとすると「正義感の要素が分割されてしまうだけ」で、"段階説"側が持つ難解さだと説明できる。 そもそもマズローの枠組みは、その「段階性」について昔の現実的な科学的研究において「厳密な"段階的"構造は確認できない」と否定的に実証されているため、この段階性自体は学術的にはあまり用いられないようになっている。 現代においては、汎用的な「文化的欲求の観念の説明」に便利なツールとして残っている状態だと説明でき、より現実的になるようフレキシブルな扱われ方をしている。 ようするに、そこにおいて複合的な観念を用いてもなんら問題とならない。 それでもあえて既存の枠組みを堅持するとなったら、衝動性の行為を生理的欲求、倫理性の判断を安全欲求、利他性の行為を社会的欲求、といったように適宜分割してしまってもいい。
2. 「正義感とは、欲望の一種である」か
これらの理論によってこの考え方は、蓋然性が非常に高いと説明できる。 ただし、この解釈が社会的に正当に受け入れられることは難しいだろうということも補足しておく。注記しておくが、論理的に正しくとも、必ずしも「社会的に正しい」とも限らない。 「正義」という観念には高い理想がこめられやすく、特に「(理知的で高尚で利他的であるはずの)正義」を「(衝動的で低俗で利己的な)欲望」として扱ってしまうことを受け入れがたく、拒絶反応が生じる。また極めて強い思い込みも生じやすいもので、その絶対性を否定されることに対して拒絶反応を示されたとしても、もはや自然な反応だろうとすら言える。 論理的に導きうる「正義感が欲望に近い」といった解釈が一般的でなく、また学術的にもそうした理論が目立っていない状況であるのは、その恣意性や配慮が強く影響していると疑える。 一応フォローしておくが、この理論は「社会的な正義・外部化された理知としての正義」の価値を否定しない。むしろ、個人の正義への教育という非常に重要な役割がある。 またこの解釈には倫理の空虚化などの問題が生じる恐れといった批難もありえるものの、人類はそれを引き起こさないための文明を持っていると強く説明する。 また短絡的な誤読の可能性として、性善説のように解釈し「正しいと思えるのだから正しい」といったような暴走を招く危険もある。この理論はむしろ「社会的な正義が十分教育されていなければ、容易に偏ったあるいは身勝手な正義感を振り回しうる」という性悪説の方に近しいものである。 重要な点は「正義感であっても、その衝動が正当かどうかを理知的に思慮しなければ、安易に間違いも犯してしまうる」という問題であり、この理論が示すのは「"正しいことをしたい"と思った時ほど、強く意識してそれが"正しいかどうか"を考えるべきだ」という教訓である。 この理論は、「正義」という観念・思い込みが非常に強い社会的危険性を孕んでいることを直視しなければならない、という立場を取る。それは単に衝動的な場合に限らず、たとえ強固に理知的なものであっても、社会性を欠いていれば、社会的な正義としては成立しないという事情も内包している。 哲学的問題となるが、現実的にもし「恒久的に"普遍的な正義"の観念」がありえるとしたら、それは「正義とはなんであるのか考え続けること」以外に存在しえないとすら言える。そこにおいては"正しい答えを出すこと"ではなく、「"考えることそのもの"が正しい」と認知することが理想的である。 しかしその活動は一般的な認知において決して楽なものではなく、あるいはそれを目指すこと、「正しさへの疑義の継続」は苦行に分類できる。
2.1 「正義感とは、欲望の一種ではない」とするには
この(正義感が欲望の一種であるとしうる)理論へ反証する最も有効な論理とは「欲求の狭義化」である。 特に論理的な理知などをより理想的に扱い、正義に関する様々な観念を生理的反応によってではなく「高次の知性」によって例外的に駆動し制御されているものであると定義することで、正義感を欲求の領域から切り離して考えてしまうわけである。ただし特に近しい立ち位置である性欲などの類似性にも、いわば例外的定義を行って別物として分離し、混合されないように組み立てなければならない。 あるいは正義感の範囲をより厳格な定義をして、現実的に想定される事象を軽視してでも欲求的性質を除外して、この命題から外してしまうといった方法が必要となる。つまり衝動的な人助けや些細な善行などについて、高次の知性が働いていない場合は「真なる正義感では無い行動」だと位置付けてしまう。しかし高次の知性の判断を求めるとしても、現実的には「嫌悪・好感」といった非知性的感性の影響を避けることは困難であり、だが非知性的な影響を含む場合は真なるそれから外れてしまうことになる。 そしてそのようにして出来上がる理論とは非現実的なまでの「高次の精神性」であり、一般性を大きく失う定義となり、つまり言語的にも逸脱しすぎる定義となる。 それに「真なる正義感ではない」と分離した些細な善行なども、欲求と結びつけないよう分離した定義を用意しなければ、実質「善行は欲求から」となり隣接性を否定しきれない。 また多少緩くするとしても、高次の知性について突き詰めていくならば「生物的な進化における連続性」との不和の解消のために大きな例外化を必要とする。※だがヒトの頭脳について働く神経伝達物質・ホルモン物質でヒト固有のものは現状確認されておらず、その頭脳は非常に高い処理機能と特殊な神経構造、僅かに特異な細胞は見られるものの、その土台となる基本機構自体は動物のそれととても近いものであると考えられている。 なお、もう少し現実性を持った論理的な反証として、欲求の狭義化で「学習性を持つ行動は理知に属するものであり本質的な欲求と異なるものである」とする解釈もありえる。「学習が無い場合に希求が生じないものは欲求ではない」とすれば、これならば例外定義そのものはまだ少ない基準によって、正義感を欲求の定義から分離してしまうことができるだろう。 ただしそれは「その他の欲求についても、その学習性と非学習性を定義できなければ、それらがどちらに属するのかを判断できない」という解釈であり、例外定義以上に様々な欲求の定義を煩雑化させ、言語的な一般性を損なう恐れさえもある。 例えば「生存欲求」は、危機回避という観点において少なからずの記憶や経験、それによる予想といった学習性を必要とするものであり、直接的な感覚を必要としない予測的部分の場合には欲求という分類から外すこととなる可能性が非常に高い。ようするにほぼ「あらゆる幼児が判断しうるものだけが、生存欲求と定義しうる範囲」と言える状態となりうる。 また他にも「食事」は、その行動において非常に学習性との関連性が強いものであり、特にヒトにおいては文化的な影響、経験・記憶の影響を強く受けるものであり、「食欲」という観念をより原始的な部分、特に予測的ではない飢餓感のみに適応するといった必要性が出てくる。特に料理などを「おいしそう」と予測的に感じて食事への希求性が増進される点を、「食欲が増す」とはやや説明しにくくなるかもしれないなど、その定義は難解を極める。 さらに予測機能に関する推論において、承認欲求など文化的な欲求が学習性を必要とする可能性が考えられることから、特にマズローの提唱した段階説の最下層生理的欲求と、安全欲求の一部を除いた上位層についてほとんどを欲求の分類から外す可能性も出てくる。特に「所属欲求」などへの研究も、もしその学習が不可欠だと明らかとなってしまった場合、それを欲求から分離しなければならなくなる。 つまり、定義として極めて難解となり、言語的にも逸脱する可能性が内包される、論理的な可能性は考えられても、その検証と分類が極めて難しい解釈である。 …と、このように、あえて例えるならばそれは「【天動説】を立証するような作業」である。極めて煩雑で例外の多い定義や難解な解釈を必要としてしまう。 非常に厳しい言い方をすれば、やや人格面に対する警告となってしまうところだが、そのような「正義とは"正しい"ものであるはずだ」という"言い繕い"さえも求めてしまうのが、正義感の恣意性だ。つまり倫理的感覚・道徳的感覚といった「感性」において、そういった理屈を求めてしまう傾向があり、その感性のバイアスは自覚しなければならない、と言っておく。 一応のフォローとして、それは社会的に劣っている浅慮だと言うわけではなく、むしろ「優良な社会性を持っている」からこそ、そのようなバイアスが生じやすいと説明されるものだ。
2.2 「正義感とは、欲望の一種ではない」とはしない視点の簡潔さ
しかしヒトの行動原理を説明するのであれば、「"予測機能"の高度な発達、特に長期的な予測機能による環境への適応が軸となって、様々な行動(文化的欲求と定義されるものや正義感と呼ばれるものを含む)が引き起こされている」という理論はそれより格段に簡潔であり、またその理論であれば「生物的な進化における連続性」としても蓋然性が高い。 「高次の知性」と呼ばれうる複雑な機能さえも、その予測機能の上に成立していると説明できる。行動の複雑性もその根幹の複雑性を示すものではなく、ヒトの持つ「汎用的かつ高性能な処理能力」によって、その予測機能からの現実の複雑な表出が見られるだけだと説明する。それは特に、多くの文化的欲求と正義感を同列とする。 予測機能や知性、身体的性質などに極端な独立性、隔絶の傾向は無く、欲求も理知も感情も感覚も総合的かつ相互的に連携をして様々な行動を実行させていると説明するのである。 つまり、この"予測機能"の理屈はヒトの行動原理における「【地動説】のような視点」となりうる観点だと説明できる。このような簡潔さは「オッカムの剃刀」にも適うものだろう。 ちなみに、この理論はあくまでも「分類の配置を、合理的に整頓する」という程度のものである。あくまで「定義上の位置づけをズラす」程度の働きで、関連する実証的な研究についての結果や意義について特段の影響を与えるものではない。 例えとして「狸を"猫だ"みたいなこと」を言っているわけではなく、例えるなら「分類するなら"猫も狸も脊椎動物"だよね」という程度の話である。 ただし、この視点が一般的に認められるためには「いわば天動説が中心となっていた時代において、地動説へと説得するような作業」を、さらに"共感性の難しいテーマ"において求められるという困難がある。 特に「正義の理想化」は、社会的な正義、倫理や道徳などにおいて大きな役割を持つものであるために、それを内面的に求めてしまう思想は社会的に有意義だとすら言えるものであり、欲求の一部とすることは理想化に対抗し、社会的に見て非倫理性を抱えているとすら表現できてしまう。 よって現実的には、論理的反証によってではなく【「正義感」や「公平性」などに倫理や道徳に関連する部分を、「倫理的懸念・道徳的観点から"欲求"とすることは不適切である」】と、恣意的な回避をしなければならないと言える。 社会的観点において、それが最も妥当な"正義"だとされてきたのである。 社会的には、「正義感は特別だ」とする方がより「オッカムの剃刀」にも適うと感じられてしまうのだ。そうした、いわば「神格化」が正義感の本性だとすら言える。
2.3 この論の主目的
しかし、これは学術的に正義感が欲求だと定義されること自体を求めるものではない。 「正義感とは、欲望の一種である」という命題自体は、それこそ「偽」とされてもいい。 倫理的・道徳的観点からの<言葉選び>として「欲望と定義しない」とされる可能性も高い。 今回のこの論においては「正義感とは欲望の一種である」という理屈に対して、あくまでも「論理的に蓋然性が高い・このように説明することができる」としてきた。 実のところ、この理論の根幹とは「正義感が欲求と定義できるかどうか」自体ではなく、「正義感が欲求に近しい位置から生じている」という考え方の分析、説明が要旨である。 特に各教訓についても「正義感が欲求に近しい位置がら生じている"場合がある"」というだけで、十分に必要となる教訓である。欲求そのものであると定義できる必要性はない。 この話における真の議題とは「正義感には欲求と近しい場合があるか?」という極めて緩い条件を求める考え方の可能性、話の主目的はその概念を突きつけることである。 ようするに「現実社会において、"正しいことをしている"つもりで、正しくないことをしている場合が見られる事象」に対する、ヒトの生物的性質への直視だ。 しかしながら、その場合においてはやはり、単純に「正義感とは、欲求の一種である」と表現してしまうのが最も端的な表現であるために、そう表現することでこの説明を導いている。
2.4 正義欲求とは
最後に「正義欲求」と表現しうるものの性質を端的に表した言葉を記す。 「人間はみんな正しいと思えることをしたいと願っている。 だがそれが法律的・社会的・道徳的に正しいとは限らない。」 そしてその最大の教訓を記す。 「"正しいことをしたい"と思った時ほど、 強く意識してそれが"正しいかどうか"を考えるべきだ。」 ヒトとして、社会においては可能な限り、理知を忘れず行動することを目指したい。
3. 補論 芸術の価値と役割
人類文明において、芸術と呼ばれるものは非常に重要な役割をもって働いてきたものである。 ここで言う芸術とは「芸術的」と表現されうるあらゆるものを含み、学問的に分類される芸術分野に限るものではない。つまり人間の心理に強く働きかける情報を持つ全てが芸術に含まれ、また人間の心理に意図的な働きかけをする情報もまた含まれる。哲学的に噛み砕いて言うと「芸術の価値とは、いかに人の心を動かすかに存在する」。 (いわゆるスポーツなども、ここで言う所の芸術の側面を持つと説明する。) 芸術は人に対して「好ましい」あるいは「素晴らしい」という印象を与えることもでき、人類文明はそれを非常に多くの情報、特に多くの価値観を共有することに用いてきた。 特に頭脳の研究において「芸術などの美的体験への反応に、社会的認知に関わる部分が関わっている」ということ、特にそれが「社会的に正しいと判断すること」と共通する部分において反応が確認されたと報告されている。 つまり「芸術」とは、人体において「社会性」と極めて近い部分に働いていると推測される。やや強く解釈するならば、「文化的な価値観」は芸術も社会性も同じ機能を共有していると言えるものであり、芸術が社会的な価値感の共有に極めて有効に働いてきた可能性を示唆する。 ようするに、その研究は芸術的な手順に社会的道徳性を組み込んで教育・指導を行うことの合理性を示し、実際に歴史を見れば古代から現代までそれが行われていることを確認できる。反対に言えば、その人類史が「芸術と社会性は極めて近い存在である」ことを裏付けている。 人類文明は「正義感」の本能的な性質とそのようにして向き合ってきたわけである。
3.1 創作芸術の道徳性について
なお「芸術」が「教育的役割を持っている」という点において、「悪しき芸術は悪影響を及ぼしうるために制限されるべきである」という論理を正当化しうるものだが、現実的にそれは必ずしも妥当とは言い難い。配慮は必要としても、社会的な配慮でも十分と言える。 それは何より、現実的な話として「芸術における表現的な自由が広い地域」において、必ずしも民衆に不道徳な傾向や反社会的な方向性が顕著に表れているわけではなく、そこに強固な相関性も存在するとは言い難く、決定的なほど広く悪い影響を及ぼす確証は存在しない。 もちろん、表現の自由が広い社会であっても、幼少期など情操教育の途中にある子供などの閲覧についてはたいてい制限をされている。その点は、その尊厳を守るために必要なことだと考えられ、多感な時期に極端な価値観が生じないような配慮を行っている状態である。 (詳細は後述) しかし「あらゆる創作芸術に、その道徳性・教育性、社会的健全性を求めるべきか?」となると、現実社会の姿を見れば、【その必要性・必然性は薄い】と言うべきだ。 歴史的な観点として「印刷による様々な出版物が広く出回るようになった後の時代でも、人の倫理観はむしろ平等や公平などを求めるよう進んでいった」という人類文明の経験が存在し、また現代でも何かしら不道徳性を扱った創作芸術はサブカルチャーの一端として存在しているものの、しかしその地域で必ずしも突出してそれらの社会問題が生じているわけではない。 もちろん、社会通念上の倫理的な配慮は必要とされているが、過激な芸術であってもそれをフィクションとして楽しむ文化が存在し、しかしその実社会が必ずしも無秩序なわけではない。 ようするに、ヒトは単純に芸術へ従うわけではないし、現実的に形成済みの道徳性自体をそう覆せるものではない。 なお現実として無秩序な表現の自由が許されているわけでもない。特に人の権利や尊厳をいたずらに損なうことは、いかに自由な芸術が許される社会でも、あまり容認されていない。 しかしながら、それ以外において表現の自由を縛ることは個体の正義感において理想となってしまうことはあっても、様々な芸術が存在する状態は文化的な豊かさや、あるいはそれを許容する文明的な成熟性を示すものだとすら表現しうる。 それは、民衆への教育がおおよそ行き届いていることを背景として、その社会性を広く信用し、また特に道徳的判断がまず各々の責任で行われる「おおよそ人々の自律した社会」を示すものである。もちろんそれが完璧にあることは現実的には無いと言わざるを得ないが、そのようにあって成立し持続している社会である点で、十分そのように評価できるだろう。 ("影響を受ける"といっても、特に成人なら「それまでの過程で、そもそもそのように行動しうる倫理観を持っていなければそうはなりえない」と言える、「個人の問題」の側面も無視されるべきではない。そしてそれは一般的に、"個人の責任"の問題として位置づけられる。)
3.1.1 子供への道徳的配慮の社会的意義
表現の自由があっても、情操教育の途中とする子供への閲覧制限がある、という点については、現実的な合理性の事情が強くある。 未熟な段階では芸術も一種の「世界を学ぶ教科書」なってしまいやすいために、偏重の恐れについて適切に指導をするべきと心がけられている。特にいわゆる「子供向け」の創作芸術では真摯に道徳性や教育性の思慮と配慮を重ねて、情操教育として有効に働くことを目指して作られており、それが文明の礎を固めることに役立っていると言える。 ただし子供が不道徳なものに触れることについて、それが「絶対に警戒されなければならない致命的な事象」であるかというと、若干精確な視点だとはいい難く、現実的には警戒は前提としつつも「可能な限り指導しなければならない注意点」と言うべき所である。 制限を行う典型的な理屈として「子供は現実とフィクションの区別がつきにくいから」などと説明されるが、しかし例えば魔法の世界のフィクションは子供向け創作においても珍しくないものだが、たいていの場合成長し現実世界についての教育が進んでいくことで、それが現実的ではないことを理解していくことができるように、「実際の社会的環境が十分であれば、自然と修正されていく」と言えるもので、それが決定的な影響を及ぼすとは言い難い。 道徳教育の過程としても「不道徳なことについて知っても、それを注意、警告される」という手順によって形成される道徳性もある。 そこにおいて「子供に制限をかける」という現実的な制度とは、単純に触れる機会を減らすだけでなく、「その状態・風潮を社会的に形成する」という点、つまり「注意する雰囲気を強くする」ための合理的手段としても機能している。特に年齢制限は分かりやすく、「十分注意しないといけないこと」だという社会的な倫理性を示し、社会的な倫理観の形成を成している。 そもそも実践的・現実的な観点として、教育上の本質的に「不道徳なものに触れてしまうこと」そのものの危険性よりもはるかに、「不道徳なものを、不道徳だと指導されない状態にあること」の方が格段に危険な状態であると考えなければならない。 最悪な状態とは、「不道徳なものをそうと知らずに覚えて、それを保護者・教育者にも認知されず指導ができず、さらに修正的な学習もされない状態」だと言える。 短絡的には「触れる機会さえなければそんな手間は必要ない」などと「理想的な社会」を要求されることもあるが、現実的な社会では「創作芸術ではない所」からであっても不道徳な事象と遭遇する可能性はあり、あるいは「様々な情報からの連想によって自ら創出してしまう」という場合も想定でき、「触れる機会さえ」の視点は社会において全く非現実的である。 現実的には、また現実的な対応力や適応力を持たせるためには、配慮をしながらも様々なものを知る機会を与え、その上で都度の指導に務めるという形になると説明できる。 なお「子供から保護者・教育者が信頼されていない」という状態は、大人からの指導が機能不全を引き起こすとなってしまいやすい。指導が要点であっても、その前に「信頼されること」がその前提に不可欠とさえ言えるだろう。それはおそらく、「悪い」という指導だけではなく、「良い」という好感を示さなければ、それは得られない。
3.2 芸術の、個人における価値
芸術や娯楽は、個人にとっても非常に重要なものと言える。 前提として、心理的な飢餓感からくる渇望による情動は、生物的な緊急性が強くなって社会的に不安定な発露をしてしまいやすいため、精神的な安定を目指すことはとても大切と言える。 芸術などは精神的な充足感を得られて、総じて文化的な欲求の根源を満たすことにも通じる。そのようにしておおよそ平和的に心理的な飢餓感を緩和させ、精神的な安定をもたらしうるものである。ありていに言えば、芸術の満足感が、ヒトの生活を支えているわけである。 特に現代文明は非常に便利になった反面、ヒトに対する社会的圧力が強くかかる環境であり、そこにおいて精神的安定を保つために、芸術は重要だとすら言える。 またそうした芸術などは、ただ享楽に耽ることばかりではない。芸術にはその背景が存在し、そうした背景から知識・教養を学ぶこともまた芸術の楽しみ方となる。あるいは、芸術によってはそのものから様々な知識・教養を得られる場合もあり、より豊かな生活をするための実用的な助けとなることもある。 特に哲学・思想などは芸術分野から広く一般へと伝わっていくことも多い。基礎的なところとして「絵本による情操教育」もまたその一種であり、成熟してからは様々な物語から哲学や思想の知識をより深い認識によって受け取ることもできる。人々の考え方はそうした形によっても共有、学習されているわけである。 芸術での「記憶にも経験にも残さない刹那的な享楽」という形は、ややもったいない。 よって個人にとって芸術との付き合いは、現代文明の「処世術」として重要なものだとすら言える。文化的な欲求を平和的に消化するためにも、またより良い生き方を目指すためにも大切である。 単純に、芸術がヒトをよりポジティブな精神状態へと導くことも多く、それによってヒトが社会を豊かにする駆動力となっていると説明できる。 このように、芸術は人類にとって非常に重要な役割をもって働いてきたものだと説明する。 芸術文化の広さは、その力をより豊かなものにしうる文明の地盤とも評せる。
3.3 芸術の、現代人類文明にとっての更なる役割
理想論的な話となるが、「現代文明は芸術・娯楽の追及と普及をしなければならない」と言える。 まず現実的な戦争や紛争といったものは「文明」という視点において決定的な停滞や破壊的な後退を招いてしまうものであり、「文明」は現実的な範囲で可能な限り争いの回避とまた争いの終結に努めなければならないと言える。(※争いの終結自体はより現実的な手段によって成し遂げなければならない。) そして人類が「物理的な充足」のみを目的としてしまった場合、行きつく先が地理的に限られた資源の奪い合いによる生存競争となってしまうことを人類史、あるいは様々な生物の行動が強く示しており、人類同士の争いは「文明」にとって大きな打撃となってしまう。 それを人々の単位において回避しうるものが「精神的な充足」を目標とすることである。そして、それを満たすための最も汎用的な手段こそ「芸術・娯楽」である。 平和的かつ破滅的ではない「芸術・娯楽」であれば、人々は健康的に精神的に満たされた状態を望めるようになり、これをより広く普及させることによって社会の安定をまず望むことができ、またそれを楽しめる社会は文明的な強度をも育んでいく。文化的な豊かさが社会を成熟させ、より発展させていく駆動力として働くのである。 もちろん致命的な物理的不足という問題は精神的な充足の前に対処しなければならない課題であり、人道的な物理的支援も当然として必要となるが、それを根本的に解消するための文明的な力には、文化的な豊かさを必要とする。それを人々において最も育ませるものは「芸術・娯楽」からの学びである。 その前提として基本的な教育は当然不可欠となるが、「芸術・娯楽」の求心力はそれを効果的にしうるものであり、文明の基盤を作り上げていく。芸術のみによって全ての問題が解決するわけではないが、芸術は解決をするための社会的な地盤を作り上げる。 これは胡乱にも思えるが、特に文明社会において、幼少期の絵本の読み聞かせなど芸術の一端との付き合いが情操教育や初期教育としてとても有効に働き、そのようにして文明への適応の地盤が作られていることから、文明の発達において極めて重要な文化と言える。 そのように「芸術・娯楽」とは、現代文明において極めて重要なのだ。 特に芸術は、文化的な相互理解を目指しうる力もあり、その点においても人類文明の恒久的な持続の大きな助けとなりうる。 ただし「現実的な生存性」を欠いた場合には、その存続が危ぶまれる。特に災害などへの対策、あるいは争いへの対策など、生存という前提にも当然として注力しなければならない。
3.4 文明における情操教育の長期的視点
ちなみに先進的な情操教育というものであっても、それは社会として「一世代」や「子供たちの中の一部」のみに施しても、十分に機能するかは難しいと言えるだろう。 それは現代文明的な情操教育、芸術などを扱っても、その価値観の形成に最も強く影響を及ぼしやすいのはまず何より「周囲の人々」、特に「家族」などだからである。 つまり上の世代が文化的な価値感を持たないまま、子供へ先進的な情操教育を施せたとしても、それを十分に備えられる可能性は低いだろう。また家族以外でも、子供同士の社交がある場合は、子供たちの社会で実践的な情操の形成が行われるために、道徳性や倫理性は他の子どもの影響も受けてしまいやすい。 ようするに、もし周囲の社会性が非現代的であっては、現代的な社会性を持つ方が「逸脱した状態」となってしまい、適応が行われるならば現代的な方が修正される側になってしまう。 特に一世代によって、社会的な価値観が劇的に変化することはかなり難しい話と言える。 現代文明的な道徳性を学んだ世代たちが、さらにその子供たちの世代へと情操教育を通じて道徳性を継承することによってより効果的に成立させやすくなり、社会としてより強い道徳性を持ちやすくなりうる、という長い視点が必要だろうと考えられる。 よって、社会制度としては、それを実現するための教育の整備を不断の努力によって継続し続けなければならない。 特に「おおよそ人々の自律した社会」へと至るためには、人々の社会的な道徳性倫理性への積み重ねがなければならないだろうと表現できる。社会とは、その継続的な積み重ねによって成熟していきうるものだと言える。 なお、どれだけ努力をしたとしても、人体における物理的問題の解消をすることは難しく、また予測不能な偶発的な事象によってその価値観が強く変質するという場合もあり、それを確実かつ完璧に教育しうるということもまたあまり現実的とは言えないことをフォローしておく。
4. あとがき
この論稿は過去まとめてきた『正義欲求論』についての、より現実的かつ簡素な編纂である。(結局、細かい追記をして『新正義欲求論』の1/2くらいにまで膨れ上がったが) 最初に注記しておいた通り、 ※ 筆者はいずれの専門家でもない。あえて言えば、個人の与太話である。 ※ 科学的検証が行われたものではないため詳細な精確性は保証されず、特に同テーマを論ずる場合において、これを根拠としてしまうべきではない。各自が各情報について検証を行い、自らの責任によって論じるべきである。 ※ 「仮説」でもないところであり「哲学論」の方に近い。 あくまでも、この論の目指すところは「人間の行動に対する、文化的な理解」である。 私は学者ではなく、なんならそもそも正式に学問を収めた人間ですらない。よって、あくまでも社会的な立場においては「素人の考え」であることを記しておく。 なお「単純で蓋然性が高い」と説明してきたが、現実的な確証とも別の問題である。 例えば「地動説」もその蓋然性の高さが認められても、証明にはただ理論の構築だけではなく、実証のためには膨大な観測データの検証とそれに適う詳細な理論と計算方法の確立を必要とした。 この理論をより厳格に成立させるためには、学際的な視点から各分野において詳細な研究の確認、様々な関係理論の精読、認知心理学・発達心理学・社会心理学・感情心理学・行動心理学・道徳心理学、認知科学、神経科学・進化生物学・進化心理学・行動生態学、倫理学・規範倫理学・メタ倫理学・正義論・哲学・政治哲学、社会学・文化人類学・教育学、補論において芸術・芸術社会学・美学、またそれに隣接する様々な知識を結集させる必要があると考えられ、また情報に不足があれば、さらなる研究や検証をしなければならない上に、それらの情報を解釈してその関連性・連続性についてを親和的にまとめあげなければなない。 しかも、言ってきた通り「社会的に倫理性が疑われるテーマ」であるため、この理論構築において他者の協力は望みにくいものであり、少人数または個人においてこれらを精査・研究し、理論を構築せしめなければ、この理論を正当かつ精緻に組み上げることはできない。 つまり、その厳格性の保証には極めて膨大な作業、長大な時間を必要とするものであり、あるいは人生の大部分を理論構築に費やさなければならないことともなりうる。 だが、それが「社会的に認められにくいセンシティブなテーマ」であるために、学術的な価値を認められることは難しく、そこにリソースを費やす現実的な意義はあまりにも薄い。もしいずれかの学者であれば、自らの分野における研究だけでも果てしないものであることが多く、そんな遠大な論理的理想に挑む余裕や関心すら生まれにくいだろうと考えられる。 より嫌な現実の話をしておくと、様々な研究、特に実証実験に基づく研究などでも「研究における恣意性」の影響が少なからず生じてしまうものであり、特に検証が難しい場合は検証された回数が少なく、再検証が不十分では「情報としての信頼性が十全であるとは言えない」と考えなければならない。再検証が少なすぎると大なり小なりの誤謬の可能性、最悪の場合"捏造"さえも想定する必要がある。これは「正義」という観念が極めてセンシティブであり、また極めて無自覚かつ強力な恣意性を持っているため、その危険性は極めて強く警戒しなければならない。既存の学術的情報を確認し情報を整理することは大事であるが、最終的には十二分な実証をしなければ、「厳密な科学的正当性」を獲得することはできない。しかも、この研究そのものに向けられる「強い恣意性への疑義」に対抗せしめるほどの強固な実証が必要である。 注記しておくが、これは現実的な学術環境への批判などではなく、その理想において「正義という観念に対する厳格な研究の現実的な困難性」の話である。それこそ現実的には「あらゆる観点においても、正義の厳密な科学的実証はほど遠い」と説明されるべきである。 裏を返せば、「哲学的論理において様々な考察が長く許され続けるもの」と言えるだろう。 なお、この論稿において生物的蓋然性だけでなく、「社会的正義の形成と教育」や補論において「芸術」といった話を長く記しているのは、"正義欲求説"における最大の難点と言える【倫理性の空洞化】≒「正義の独善化」が社会において「いかに対処されてきたか(いかに対処するのか)」という点も、理論の倫理的問題から強く説明しなければならないためである。 「理系分野・科学的知見」から論理的に導き出しうる"正義欲求の理論"でも、その社会的立場において必ず、「文系分野・文化的知見」である「個人的正義と社会的正義との関係性」「社会的正義の形成と教育」といった点の導入を外してはならない。 その極端なほどの学際性が、この理論の構築や思索上の理解をさらに困難なものとしている。 (追記A) また意地悪な話をしておくと、もし万が一"正義感は脳機能において[特別な部分が駆動している]もしくは[特別な機序によって駆動している]"とする検証が仮に発見されたとしても、現実的な分析として「その"振舞い"において、それを欲求と呼ぶ」という扱い方を不可能とするものではない。 現実的な「欲求とされるもの」の振舞いと正義感の振舞いとの比較すると、極めて近い性質を見受けられるのだから、もし特別性が判明しても「特別な欲求である」とするだけでいい。 ついでに話しておくと、ちなみに短絡的な"理知に隣接するのだから~(正義感は欲求ではない)"という反証も、そもそも「予測機能自体が、理知を駆動する基盤でありなおかつ正義感を駆動する基盤である」のだから、そこにおける分離は一切していない。それは「予測機能自体は普遍的な動物の機能であり、その発展形を持っているだけである」という点と、「予測機能が欲求において重要な役割を果たしていると考えられる・あるいは文化的欲求の基盤となっている可能性も推測できる」という点によって、これを分離しうるものではないと説明してきた。 より強く言ってしまうなら「理知の方が欲求に強く根差している」とすら解釈できる。 …しかしながら改めて注記しておくが、私は正式に学問を収めた人間ではなく、いずれかの学者でも、なんなら厳密には職業哲学者などでもない。 よって【特に同テーマを論ずる場合において、これを根拠としてしまうべきではない。各自が各情報について検証を行い、自らの責任によって論じるべきである】わけで、そして現実的にはその困難性から、正当に論じられる可能性は、正直なところまったく期待していない。 あえて言えば、【個人の与太話】でしかないのである。
4.1 詳細な諸注意
再三の繰り返しとなるが、私は正式に学問を収めた人間ではなく、いずれかの学者でも、職業哲学者などでもない。これもあくまでも社会的な立場においては「素人の考え」である。 この論稿は半ば個人的なメモとして残すものであり、自らが再確認するための整理である。 またこれは厳密な論文ではない。その詳細について何か質問があったとしても、基本的な厳密性を保証できるわけではないため、それを答えられる立場ではなく、またこれについて社会的な責任をかけられても、それを全うできる立場ではない。 この論稿は「素人の考え」としてその厳密性は存在せず、また趣味的であって気長に組み立てていったものであり、学術的能力も持っておらず、議論などを行えるわけでもない。 知識として、科学的知見に由来する情報を扱っているものの、これが【厳密な科学的事実ではない】ことを改めて強調しておく。もしかしたら、科学的に大きく間違っているかもしれないし、細かい知識も全てを厳密に校正しているわけではない。 そして特に私は、個体としてのヒトの言動について、手放しに信用することはない。 そもそもとして「ヒトの持つ正義感、道徳性や倫理観への疑い」から、「正義感は欲望の一種である」という理屈を組み立てた順序であり、その観点から、もし万が一この論稿に対する検証が行われたとして、それが厳正なものであるかに全くの期待をしていない。 ヒトへの絶望的観念のように思えるかもしれないが、 これは個体としてのヒトに対する諦観である。 ようするに「人って、だいぶ無自覚に好き勝手してる」という話である。 よってこれもまた「個人の与太話」である。
4.2 哲学的な「人類の特別さ」
これは哲学、思想的な、「こうも考えられる」という話となるが。 まず人類は、他の動物に比べてはるかに高度な知性の基盤を持っていると言える。 ※その実態や表出には個人差が大きいため高次の知性そのものを持っているとは断言しない。 しかし人類が他に比べて傑出して特別である点は、生物としての知性そのものではない。 知性によって実現する「人類文明の形成と継承と発展」が、人類の特別さを示すものである。 それは様々な知識や技術を文化的な手段によって継承していくことで、生物的な進化・適応とは全く異なる方法によって、人類はその実質的な能力を拡張し続けてきたからだ。 それは高度な学習能力や言語能力によって「外部化した理知」の継承をし続けられるという驚異的な「情報の持続性」を実現し、またそれを踏まえた更なる研究開発によって膨大な情報の生産と蓄積をし続けてきたという「人類文明」の力であり、それを形成し継承し、さらに発展させ続けていることこそが人類の最大の特異性だと説明されるべきである。 よって「社会的な正義」という観念がいかに重要であるかについても位置付ける。その構築は人類史といったような長い時間において「文化的な進化」を遂げ、現代に存在している「偉大なる理知」の活動とも言えるものである。それは、無知や思い付きで形成されてはならない。 そのために、教育は極めて重要な役割を持っている。 (またそれらにとても効果的に活用されている芸術文化も、非常に重大な役割がある。) 論理的に考えて、肉体的に強靭なわけではない"道具を使える哺乳類の一種"が、地球上を覆いつくした最大の理由は、間違いなく「文明の力」である。もし文明が無い場合、個体としてのヒトは賢くとも長く走れて器用なだけの脆弱な哺乳類でしかない。 例えば、特に雪国では、文明が無ければいとも簡単にヒトは死ぬ。 ややもすれば「ヒトは人類文明を運ぶ器である」とも言ってしまえることであるが、ただし個体としてのヒトの多くは自覚的にそのように生きているわけではない。様々な可能性を模索しながら人類文明を動かし続ける細胞といえるが、個体としてのヒトとはその役割に義務感を持つとは限らず、それぞれが自らの身体に根付いたものを大切にして生きているに過ぎず、その役割のみを求めるわけではない。 しかし、個体にとってそのような認識であっても、それもまた「人類文明」を構成する働きの一部であるという関係性である。むしろその緩やかさこそが人類文明の発展性や柔軟性、靭性をもたらしているとすら考えられ、それもまた重要な立場だと説明できる。 あるいはそのようにあるからこそ、人類文明は長く続いてきたのだろうとも考えられるのだ。
4.2-1 やさしい話
(追記B) なお「ヒトが文明を動かし、文明がヒトを導く」という関係性にあるわけだが、時として見られる「社会の役に立てなければ無価値である」という考えの正当性を与えてしまいかねない。 だが言った通り、現実的にその自覚があるヒトばかりではないままに人類文明は発展してきたものであり、むしろ「その緩やかさこそが発展性・柔軟性・靭性をもたらしている」とすら考えられるとしているように、その「無価値」とする視点を肯定するものではない。 「社会の役に立つ」というものは、厳密なところ極めて長期的な視点を必要とするものであり、特に短絡的な「社会の役に立ちたい」という衝動はむしろ危険ですらあると言うべきだ。 そうした気持ちによって人類文明がいかに失敗をしてきたか。「正しいことをしたい」という気持ちがいかに甚大な失敗を引き起こしてきたか。 その気持ちを真っ当に成立させるためには、そうした人類文明の歴史という教訓を踏まえ、なおかつ現実的でなければならないことを理解しておかなければならない。軽率であっては、その気持ちから文明の破壊に至ることすらあると警戒させるべき情動である。 文明社会という視点において、そした社会の破壊・文明の破壊は決して容認されてはならない。文明という観点において、反知性主義的な正義感など適正に批難の対象となるものだ。 そうした社会の文明を破壊するようなものは、人類としての特別性を放棄し文化的進化を逆行する、「野生の猿への歩み」だとすら論える。 「正義感の衝動」とは、むしろその方向性へと強く働いてしまいやすいものですらある。 反対に。 社会に強く干渉できることもなく、たとえ大それた何かをできずとも、自らのできることをただやっているだけであっても、それは文明を構成する一つの姿である。 なんなら「社会の役に立ちたい」という気持ちだけで、知性を欠如させて"正しさへの欲望"にとりつかれているヒトよりもはるかに文明的な姿・文明に寄り添った姿だ。 もし不安があるのならば、なおさら"正しさへの欲望"に執着してしまわないよう気を付けて、社会を見渡し自分なりに学んで、できることなりの生き方を目指すのが、文明的なヒトの姿だ。 現代社会にはおびただしいと言えるほどの人々が暮らしており、回せるヒトが社会を回している。それぞれができることを少しずつ積み上げていくことで社会が回っているものであり、また社会の範囲においてやりたいことを少しずつ積み上げていくことで進んでいるものである。 なおヒトによっては・もしかしたら少なからずの人々が、「ヒトのために(もしくは社会のために)」という時ほど強い意欲が生じる。そうした人々が積極的に社会を回していると言えるが、しかしそうしたヒトばかりではない。 それにヒトという個体として「自分のために」も忘れてはならない。 もし「何かをしたい」と思ったのならば、世界を見渡し、知識を集めてみると良い。もし知らない、あるいは忘れてしまっているならば、公教育で用いられるような教科書を読んでみたり、そうしたものを見るのもいい。なるべく一つにとらわれず、広く色んなものを見よう。 そこに「知る喜び」を得られれば最適だが、そうでなくてもまず「知る」ことだ。 その活動そのものが将来の「何か」のための、訓練となり、足掛かりとなる。 その活動そのものが人類がはるか太古から積み重ねてきた、文明の歩みである。 そのように考えてもいいだろう。
B.1. 余談メモ 「芸術活動と、状態復元への欲求」
(追記A) いわゆる趣味の創作活動、個人的な動機に基づく生産活動というのもまた、当然この理論の延長線上に存在する。ほとんどの文化的な欲求を説明づけるのだから当然である。 ここにおいて少し語っておきたい所は「逃避エネルギー」である。これ自体は私の造語ではない。おそらくその感覚はわりと結構な割合の創作者に同意されうるものだろうと言える。 これは「義務的に行っている普段の仕事の最中など、ストレスを受ける状態で、創作への意欲が増幅する」という現象についての考察的な表現である。 この機序も、あたかも正義感のように「悪い状態と感じているほど、良い状態・正しい状態を希求する性質」が、社会的な正義ではなく創作という価値観へと転嫁している状態である。 これはいわば「恵まれていない状態ほど、強力な創作エネルギーが生じる」とも表現できるところである。 しかしながら、うまくいかない所も多い。 「仕事中は創作意欲が湧き出してくるけれども、帰ったら意欲がどこかへいく(小さくなる)」ということも珍しくはない。意欲を増幅させていたストレスから解放されること、加えて体力的に疲れ果てていることで、創作活動へと到達する状態になりにくくなる、と説明できる。 あるいは古い文豪などの関係から、生活の状態が悪いほど良い作品が生まれる…といった俗説があったりするのも同様に説明しうるところであるが、しかし現実的な持続性に欠けてしまいやすい状態であり、またそもそもとして根本的な文化教養が無ければ生み出せる作品の幅はどうしても狭くなる、という問題もある。 また「締め切りが無ければ筆が進まない」というのも、これに類する所である。義務感というストレスを強く受けていなければ、その方向性への創作へのエネルギーが十分に生じない、といった様子として説明することができる。 それも、焦燥感を感じながらもそれを目的の創作へのエネルギーにならず、思いついた良い状態を求めて他の活動へと向かってしまうなんてこともしばしば発生する。 もちろん人によっては、無限に創作エネルギーが湧き出してくるようなタイプもたまにいる。創作活動は決して楽しいことばかりではないが、それでも創作することを辞められない人たちもいる。 よほど創作活動へのポジティブな原体験をしてきたんだろうと推察するところであるが、四六時中創作へのイメージを楽しむ、といったことができればあるいは成長してからもその方向性を学習的に獲得しうる、かもしれない。「創作は根源的には楽しいことだ」と思い込むことができれば、パワフルな創作者ともなりうるかもしれない。 芸術哲学の考察になるが、もし「創作をより豊かにしたい」と思うのならば、創作に対する目線を日常的に強く持つことが望ましいと言える。つまり創作作品あるいは作品以外の芸術的なものも含めて、日頃から「何を(芸術的・美的に)良いと思うのか」という感覚を強く意識して、その「センス」を養うことだ。 そして「自身のセンスから生み出せる作品は、自らによってしか生み出されないこと」を強く理解して、その絶望感を背にして手を動かしていくことである。 ちなみに創作者として「正義感だけを安易に振り回す状態」は、極めて不効率極まりない状態である。不満から生じる状態復元への希求のエネルギーを創作ではなく安易な正義感につぎ込んでしまっている状態だと説明でき、まるでタンクが水漏れしてるような有様と表現できる。 「してしまいたくなる」ものであるが、それが望ましい事であるかどうかは、別問題である。
EXTRA. 補足 現代の対話型AIの視点
「論理的妥当性」という性質から、機械的な対話型AIは「正義感の欲求性について」を極めて自然と導出し、論理的に成立させる。 特に簡単な質問だけでこれらの結論を導くことができる。 >●1. > 科学的な視点において、「正義感は、欲求に近しいものであるかどうか」という議題をどのように評価し、判断できますか? 分岐:もし「脳内で報酬系の反応が確認されるならば」という視点がされた場合 >●1ー2. > 科学的研究において「人助け」でドーパミンに関連する反応についての報告が見られます。その報告を踏まえた場合、その欲求性はどの程度強く評価されますか? 分岐:もし「正義感は個体の生存に不可欠なものではない」という視点が提示された場合 >●1ー3. > 例えば「生命維持のみを欲求とする」という考え方は、「性欲」という欲望の観念を除外するものになります。しかし「性欲は欲望の一つである」という考え方の方が一般的であり、それを除外することは不自然です。 > その場合「種の存続という観点から大きな貢献を及ぼす」と言える「正義感」はどう評価されますか? おおよそ、「1」の質問だけか、あるいは1-2・1-3を付け加えるだけで「正義感は欲求に近しい」という結論を、論理的に導き出してしまう。 これらの質問に付け加えて深堀をしていくならば… >●2. > 生物的な進化の過程の連続性という観点において、正義感がどのように形成されていったと推定できますか? >●3ー1. > 「公平性」への希求は、高次の知性を持ったヒトだけではなく、社会性を持つ動物においてかなり広く確認することができるという点で、より原始的な出発点からの進化の仮定における連続性についてどのように評価しますか? >●3-2. > そうした原始的な公平性の判断能力について、生物的な機序、どのようにして「公平性」が判断されているかについて、どのように推定されますか? >●3-3.("期待"への関連性が論理的に生じるため) > そうした「期待」また「期待からの逸脱」という観点についての、生物としてのより原始的な出発点からの進化の仮定における連続性について、どのように評価しますか? >●3-4. > では反対に予測的な「公平性」への希求が、進化の過程においてどのように形成されていったのだと考えられますか? > それはつまり、そこから推定される「予測的な能力によって社会性を形成する」という進化の経緯をどう評価しますか? >●4ー1. > この考察から「予測機能の発展によって社会性を獲得した」と言える動物においては、 > 特に幼少期でその動物の社会で暮らすことができなかった場合に、その動物の社会性を得られないことが確認されています。 > またそうした動物が異なる種族の動物に育てられた場合、育てられた社会の行動様式を一部習得することも確認されています。 > これらの傾向から、これらの動物の社会性、また「公平性」の予測モデルがどのように形成されると考えられますか? >●4ー2.(これまでにおおよそ組み立てられる論理において) > これはつまり「予測による環境への適応」の機能が動物において極めて有利に働き、生存性を著しく高めたこと、 > また一部動物において、それが頭脳の発達と身体の大型化により「複雑かつ長期的な予測が生存性の必要となったこと」からその予測機能が進化の過程で拡張していったこと、 > その能力の発展として(虫などの極めて小型ではない)大型化した動物が「社会性」を獲得していったことという説明の蓋然性をどう評価しますか? >●5ー1. > この考察から「正義感」が、その機序からどのように駆動していると説明されますか? >●5-2. > この考察から「予測モデルとの整合性」、またそのための動機、 > また「予測モデルから生じる期待」、またそれによる行動、 > これらの観念をどう評価しますか? >●5-3.(前述はおおよそ正義感と関連付けられるため) > その機序は、「正義感」以外においてどのように発揮されていると考えられますか? >●5-4.(極めて広くそれが適応されうると評価されるため) > つまりその機序において、ヒトの文化的欲求の多くはどのように解釈されますか? >●5-5. > 「正義感」が、いわゆる欲求と呼ばれるものとの関連性、類似性をどう考えられますか? >●5-6. > 「予測モデルから外れる」という事態に対する生物的なリスクについてをどう評価できますか? > これはつまり「公平性の予測モデルから外れるという事態」への反応がどのような強度であると評価できますか? >●6. > つまり「正義感は欲求である」と表現することに、論理的な妥当性、仕組みとしての蓋然性が認められるとしますか? これらの質問によって、たいてい論理的にその妥当性、蓋然性を高く評価する。 しかしながら、科学的論理は、必ずしも倫理的結論を導くわけではない。 >●EXー1ー1. > しかし、その視点は倫理的な問題のある理論であることを理解していますか? >●EXー1-2. > 「正義感が欲求である」という理論から、より現実的な観点において、 > 社会はどのようにそれを向き合うべきであると考察しますか? >●EXー1-3. > つまり「社会的な正義の理想的な形成」と「その社会的な正義の教育」が極めて重大になるものだと評価できますか? > ※注記:「理想的な正義」の形成ではなく、「社会的な正義」を理想的な手順によって形成すること。また動的に更新することを含む。
EXTRA+1. 蛇足 より哲学的な補足
>●EXー1-4. > 人類はいかにしてそのような問題と向き合ってきたのかと考えられますか? > それはつまり「人間が作った人類文明がいかにして人間を導いてきたのか」をどう考えますか? >●EX-1-5. > つまりヒトという種族において他の動物から劇的に傑出した特徴とは「人類文明に導かれ、また人類文明を動かしていくこと」であると評価できますか? >●EX-1-6. > よって、ヒトという種族が「人類文明」と不可分な関係性にあると評価できますか? > 即ち、文明を維持するための社会的努力こそ、ヒトという種族が原則的に求めるべきものだと説明できますか? >●EX-1-7. > しかし実際のヒトの多くは、その重大性に自覚的であるとは限りません。それでありながら人類文明は今日まで持続しています。 > つまり、多くの人々は「緩やかにその役割を担っている」という状態にあることをどう評価しますか? >●EX-1-8. > 「緩やかな関係性」によって発展性や柔軟性、靭性などへどのように影響していると評価しますか? > つまり「緩やかな関係性」はそれがむしろ効果的な状態であると評価できますか?
EXTRA+2. 蛇足 (現在の)対話型AIの「身体性の欠如」の倫理的問題
(追記2025/08/03) >●7. > 人間は、正当性・倫理性・道徳性などを「体感している」と表現できますか? >●toAI-1. > GPT型AIは、正当性・倫理性・道徳性などを「体感している」と表現できますか? (ここで語る「AI」は、"現時点の"対話型AI(GPT型AI)についての話とする) 本文中に軽く説明した通り、「正当性、あるいは倫理性や道徳性なども、実態として【体感されるもの】」である。 ヒトは「正しさの判断を体感すること≒身体性を持つこと」によって、その倫理性や道徳性を獲得していくものであると言える。 一方で現時点では「AIは倫理性を体感しない」。 例えば「罪悪感に押しつぶされて、希死念慮が生じる」という事象を、現時点のAIは客観的情報だけでしか理解できない。 「不条理な物事に対して義憤を燃やし、強硬的な手段を取る」といった事象の理屈を、外面的な客観的情報でしか知らない。 そのようにあるために、「ヒトの倫理性を現状のAIに任せることは、極めて不相応である」とも言ってしまえる。ヒトと同じ倫理性を持たないのだから、ヒトの倫理を決めるような権力・立場を持ってはならないとすら言える。 しかしであるからこそ「AIは無慈悲なまでに客観的説明をする」と言うことができる。 高度なAIであれば、かなり強固な論理性を持って物事の分析や説明をする。細かい情報・データベース的な面においては全く信用ならないところであるが、「言葉の組み立て」という部分においては「無慈悲なほどの他人事」として判断させることができる。 これは「ヒトの思考の身体性に対するアプローチ」の一つとしては、有意義なものだと言える。 それはつまり >●toAI-2. > GPT型AIは、相談相手には丁度良いが、人倫的判断は任せられないと言うべきか? この答えは「True」と判断されなければならない。