小話

ファイル掲載日:2025/06/20(第一版※19:30更新)
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題「適応性嫌悪好感モデル─新正義欲求論(2025)」 Andil.Dimerk

■0.A.まえがき ※筆者は、いずれの専門家でもない。あえて言えば、個人の与太話である。 ※これらは科学的な実証に基づく説でもなく、科学的な立証を目指す仮説ではない。  科学的知見も含め、様々な事象の観測から考えられる一つの概念論であり、文化論である。 ※科学的検証が行われたものではないため詳細な精確性は保証されず、  特に同テーマを論ずる場合において、これを根拠としてしまうべきではない。  各自が各情報について検証を行い、自らの責任によって論じるべきである。 ※この論の目指すところは、「人間の行動に対する、文化的な理解」である。 ※正義欲求論としては、以前のものから、より考える範囲を広くした。 「人間は誰しも正しいと思えることをしたいと願っている。  けれどもそれが法律的・社会的・道徳的に正しいとは限らない。」

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■1-1."正しいと思うこと"の概念 まず、ヒトには「人助けをすると気分が良い」という性質が広く確認される。 それ以外でも、「"正しいと思うこと"ができると気分が良い」ように感じて、 反対に「"正しいと思うこと"に反していると気分が悪い」ように感じる。 その感覚から、ヒトは「"正しいと思うこと"が良いこと・やりたい」と思い、 また「"正しいと思うこと"に反しているものは悪いこと・ダメなこと」と思っており、 そうして影響されながら行動をしている。 詩的に言えば「ヒトは"正しいと思うこと"をしたいと願っている」と言える。 注記しておくが【これは「[正しい]こと」ではなく「正しいと<思う>こと」である】。 道徳的・倫理的・理想的な[正しさ]ではなく、おおよそ"良い感じと思うこと"である。 "正しいと思うこと"に対する感覚、その快・不快はヒトが普遍的な傾向として持っている。 しかし、実際に"正しいと思うこと"は個人に依存するもので、ヒト同士において完全に一致するものではなく、また社会的な妥当性を持つ[社会的な正しさ]とも異なるものであり、 あくまでも「そのヒトが持った<個人の感性・感覚>に依存するもの」だと位置づけられる。 これは「"正しいと思うこと"に、自分自身が反していても気分が悪い」という反応を示すもので、それが"正しいと思うこと"が単純な損得勘定や打算ではないことを強く示している。「[客観的にも正当性があって得をしている=妥当かつ嬉しい状態]であっても、それに対して罪悪感を感じる」といった事のように、「理屈とは異なる反応」は多く見られる。 これが「罪悪感」などに相当する。 また理屈よりも強い感覚として、他にも人助けなどではその後に「考えるよりも先に体が動いた・動いてしまっていた」という自覚を語る例が確認される。つまり、これらの反応は理屈よりも先に生じている場合もあることを示している。 よって、この"正しいと思うこと"の感覚は、理性的な論理・理屈のみによって制御されているものでも・完全に制御できるものでもないと分かり、 しかもその上で、理屈よりも先に実際の行動・言動となってしまうこともあるわけである。なんなら「感覚的に行動をしてから、それらしい理由を作ろうとする姿」も、よく見られる。 これは一般的に「感情」と呼ばれる形で表出しやすいものだが、その観念に限定されない。 例えば「何かに熱中して、寝食さえ忘れてしまう」ということもある。これもまた、やりたいこと≒"正しいと思うこと"の表出の仕方であり、生存に必要な欲求すらも上回ってしまうことがありうるもの、と位置づけられる。 * "正しいと思うこと"の形成、その感覚を生み出す["感性"]の形成は非常に複雑なものである。 そのヒトの「肉体、感覚、経験、記憶などの内面的基盤と、情報・思考・想像などの影響も受けながら形成(学習)されていくもの」であり、また随時「肉体の変化や、新たな経験・記憶・情報・思考想像などによって、部分的に変質(再学習)していくもの」でもある。 特に肉体的要素はあれども、複雑なものとなるとほとんど後天的なもの≒「文化的なレベルの[正しさ]の観念となると最初から備わっているわけではない」と言える。 その["感性"]から、状況・情報に応じた感覚が、瞬発的に生み出されている。 変質する可能性はあるとはいえ、一度強く形成された"正しいと思うこと"や、その大本の感性が変質しやすいわけではない。 当人が理性的に理解しているはずの理屈や理論とも異なる反応を示し、それに悩んでしまうことも珍しくないように、形成されたそれを完全に制御・管理することは、できない。 理性的に、理屈・理論、解釈によって方向性を多少誘導するといったことは望めるが、 より深い感覚的な再学習、いわゆる[納得]と呼べるような感覚を強く持てなければ、"正しいと思うこと"の意図的な変更は難しい。 例えば、「"正しいと思うこと"としてやったことが、他者から社会的・状況的に妥当ではないと強い説得や指導が行われても、改心できるとは限らず、あるいはその場しのぎに表面的な反省だけを見せて内面的には大して変化しない」ということが珍しくなくある。 本質的な内面を指導・矯正することは、簡単ではない。 指導による改心には、より感覚的な強さ、「その指導こそが正しいと本心から思えるようになる」ような粘り強い手順が必要で、しかし感覚の状態によってはそれが極めて困難・現実的に不可能なこともある。特に「その場しのぎの表面的な反省」に慣れていると、変質させられることを避けるため、改心はさらに望みにくくなってしまう。 スムーズな反省のためにはその「反省する」という行為への受容が感性に備わっていなければ難しく、「反省すること」にも慣れは必要となる。 "正しいと思うこと"の感覚とは、非常に根深いところから生じているものなのである。 他人の理屈だけでなく自分の理屈含め、その理屈がどのようにあっても、 人は【信じたいと感じたものを信じる】ようにできている。 一応、その根深い所にまで影響する感覚や感動が伴った場合、新しい"正しいと思うこと"としてある程度上書きされることも十分にあり得るとは言える。 それは非常に強い体験、衝撃的な体験であったり、あるいは長く粘り強く影響する経験であったり、決して気軽に変えてしまえるようなものではないが。 またその感性の形成には、肉体的な経験などではない肉体的な性質に影響される部分もあり、その影響を意図的に失くすことは難しく、肉体的に強烈な変化がある、あるいは経験に由来するものを被せた感性を強引に作る、というくらいしかできない。 例えばヒト含めた一部の哺乳類において、「蛇」に対して注意・警戒をする性質傾向が確認されている。これは原始的なレベルにおいて備わっている肉体の性質と言えるもので、そうした性質もまた当然、後天的な感覚の形成にも影響しうる。ただし人によって蛇を好むことがあるように、それによってのみ決まるわけではない。 恐怖の反応はそういった注意・警戒に由来するものに限らず、後天的な体験に由来するもの(トラウマなど)もある。 恐怖に限らず反応の本当の由来についての厳密な区別は難しいが、「上書きされる」ようなことがあるため「後天的な経験が非常に大きな影響を及ぼす」と言うことは間違いない。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■1-2."正しいと思うこと"の由来 「人助けをする」などの性質は、ヒトの幼児においても早期に見られるとされている傾向である。つまり、"正しいと思うこと"への感覚の根っこ・土台は、非常に原始的な・プリミティブな領域からも生まれているものであると示している。(注※[正しさ]自体の感覚ではない。) 詩的に言えば通常「ヒトは生来"正しいと思うことをしたい"ようにできている」とも言える。 (注※繰り返すが[(客観的)正しさ]と[(主観的)正しいと思うこと]は別々の概念である。) しかし、成長することによって実際に形成される"正しいと思うこと"への感性は、非常に複雑な状態となる。それはヒトの高次認知機能とヒトの暮らしている生活環境から、より詳細に生存環境へ適応するために、複雑な状態を獲得していると言える。 対象ごとに大小さまざま・様々な形態や方向性を持って、複雑・多層的に覚えていく。 人間社会においては、文化的な生活や文化的な活動への適応、社会的な規範や道徳への適応、現代ではさらに論理や科学といったより文明的な体系・知識への適応なども求められ、その感覚はさらに複雑化していく。 それも、遺伝子的に「ヒト族がそれほど劇的な変化はしていない」にも関わらず、ヒト族は自ら作り上げた複雑な現代社会の様相にまでおおよそ適応してみせている。 これらもまた([正しさ]ではなく)"正しいと思うこと"を求め適応する結果だと考えられる。 個人個人が・個体ごとに生きている環境へ合わせて、感覚と能力を育み適応させていく。またそれによって、規範性などだけでなく、多くの文化的様式を継承し、複雑で多岐に渡る多彩な文化を習得することができたり、あるいは育んだ感覚から新たな文化を創造・発見したりと、 「その根源的な性質が、人類と文明の基礎となっている」と表現できる。 ここには肉体的な影響も当然ある。特に、幼少期は「肉体的な性質としての[好奇心]」から、積極的に行動しやすく、環境への適応を目指しやすいようにできている。他、肉体的な不足や不全によって感覚の形成や反応処理が大なり小なりうまくいかないこともある。 * その性質が「肉体を基盤として、緩やかに環境へ適応していく感覚・感性」となるわけだが、"正しいと思うこと"と[社会性]においても「適応」という形態・文脈によって機能する。 社会を受け入れて暮らしていれば「その社会で暮らしていくために他者からも求められる[社会的な妥当性](規範性・モラル・一般常識)」を持った、社会性のある"正しいと思うこと"の感性をおおよそ習得していくことができる。 なお幼少の「人助けをする」などの傾向も、実際の発現にはある程度の期間を要するため、その一種であるとも解釈できる。特にヒトは生後長い期間他者の介助が不可欠であることから「人助け」の傾向・行動を習得しやすい背景も存在する。 だが、その柔軟さゆえに、必ずしも・無条件に[社会的な妥当性]を持った感覚が形成されるわけではないという問題も存在している。 (注記※肉体が基盤だとはいえ、個体として大きな肉体的な特殊性(欠陥・欠損)を持っていない限り、[環境由来]の割合・[環境がそう作り上げた]影響割合が非常に大きい。) これは「[他人・社会が自分を守ってくれる]という感覚を覚えれば、[自分も社会を守りたい]という傾向を獲得しやすい」という性質である。(※100%確実ではない) つまり「[他人・社会が自分を害する]という感覚を覚えてしまうと、[自分も他人・社会を害する]という傾向を獲得しやすい」という性質でもある。理屈として「社会が自分を守ってくれない→社会が【自分の敵】になるなら、自分も【社会を敵】とする」と語られるところである。 人の幼少の弱さと生存上の関係から、例のようにだけ覚えてしまうことは珍しいものの、細かい感覚において、そのような感覚を持つことは珍しくもない。 そして、そうした感覚は単純に・包括的に獲得されるわけではなく、多少の相互性はあるものの様々な要素においてそれぞれで学習する必要性があるため、一部が強すぎたり・一部が欠落したりといったことも当然としてある。 [社会的な妥当性]の感覚を社会的に十分な程度を獲得することさえも容易だとは言い難く、[ 完璧・十全な社会性]を持つことが当然だとは全く言えない。 適応していく過程で、十分な道徳性・倫理性を適切に指導されることが無い場合、つまり「社会的に見て悪いとされることをした際に、それが「悪いことである」と納得できるよう反省する機会をろくに得られなかった場合」には、基本的な社会性をもっていたとしても一部において道徳性や倫理性に欠けてしまうといったこともまた、ありうる。 あるいはうっすらと「悪いこと」だと感じていたとしても、それが十分に強い感覚ではなく、抑えられないこともしばしば見られる。 さらに、現実においては偶発的な経験からの強い影響を受けてしまったり、ごく常識的な環境の中においても好ましい経験を積むことができずに不満や不安が生じてしまうこともあったり、それによって周囲に対する悪感情を抱くことまであるなど、 「社会一般から」も含めて"正しいと思うこと"の形成は非常に多くの要素から影響を受ける。 そもそも「その社会で暮らしていくために他者からも求められる[社会的な妥当性](規範性・モラル・一般常識)」というもの自体が、時代や状況によって変化してしまうものであり、特に異なる社会においては妥当性も異なる場合は多く、新しい時代・新しい社会に「形成された後に変化を求められる」ようなことさえもある。 そのような状況でも、深く【納得】さえすれば配慮をしたり、多少変化することもあるもので、そうした「社会性の後天的獲得」の性質は適応能力として汎用性が非常に高く、合理性はとても高いと言える。 それは時として、個体としてのヒトが、人道性の存在しない極めて過酷な環境下で、その非人道的な状況にも適応し、強い生存力を発揮しうることもあるように。そして、それは平和な社会でより多くの人々と円滑な関係をもって温和に暮らしていけるヒト個体と、その根幹は大差のない根源的な性質に由来すると言うわけである。 なお、一度強く形成されてしまった感覚の[修正・再適応]は簡単なことではない。当人が望んでいたとしても、だいたい感覚の深さ相応の手間や苦労がかかり、社会的に言えばそのための配慮や支援が大切となる。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■1-3."正しいと思うこと"、"良い感じ"なこと、そして芸術について "正しいと思うこと"を砕いた表現にすると、大なり小なりの"良い感じに思うこと"となる。 これは、肉体や適応によって備わる極めて広い範囲に対する感覚を示すものである。 専門的、あるいは厳密にはものによって様々な分類や区別をされるところではあるが、 「好ましい印象」としてとらえているため個人かつ広義においては、ひとまとめにできる。 "正しいと思うこと"は、"良い感じと思うこと"に言い換えても、その方向性は通じる。 メインテーマからやや離れた話にも思えるが、とても大切なつながりを持ち、 また社会的にもとても大きな働きを持つものとして、【芸術】というものがある。 ヒトは社会的に好ましいと思うものを見た時にも、"良い感じ"と思うが、 これは好ましいと思う【芸術】を感じた場合にも、同様に"良い感じ"と思う。 これらは、非常に近い感覚として存在している。 (神経学的に、それらが「共通の神経系による反応を含む」という研究報告が見られた。) さらに【芸術】は、その印象によって感覚へと当たる影響により、感覚の大本の感性へと強い影響を与えることもある。 つまり"良い感じ"と思うものが、むしろ【芸術】によって変化させられる場合があり、それによって一種の社会性など、"正しいと思うこと"が変質させられることまでもありうる。 「芸術によるプロパガンダ」のような例もあり、【芸術】とこのメインテーマとは、全く切り離して考えることはできない。 また個人的な生活上の精神的な充足と、それによる精神的安定においても、"良い感じ"と思える【芸術】はとても効果的に働き、精神的な健康に寄与するものでもある。 文化的な生活としては、「【芸術】の存在が不可欠だ」とまで考えるべきだと言える。 * ただし、実際どのように感じるかは、"良い感じと思うこと"の感覚にも大きく左右される。 つまり、【そのヒトの「肉体、感覚、経験、記憶などの内面的基盤と、情報・思考・想像などの影響も受けながら形成(学習)されていくもの」であり、また随時「肉体の変化や、新たな経験・記憶・情報・思考想像などによって、部分的に変質(再学習)していくもの」でもある】。 そうやって形成される感じ方・感性・センスから、"良い感じ"であるかどうかの感覚が生じる。 なおこれは「理屈として正しいと思うこと」よりも、より肉体的な基盤、肉体的感覚・肉体的反応の影響も大きいと考えられる。その個人差は大きく、極端に異なることは多い。 またそういった好感とは、「理屈の正しさ」や単純な【美しさ】などのような分かりやすい「好ましさ」には限られない。 美しさではない印象深さも、一つの"良い感じ"な印象として感じうるところである。 また、対象そのものだけでなく「関連する情報、知識・教養」すらもその感覚に影響を与え、より多くの【芸術】を知り、関連する情報までも学ぶことで、その感性は深く広がる。 より多くの要素を感じられるようになると、感覚は多層にもなってくる。 そのため、人によってその"良い感じ"となる範囲や傾向、センスは大きく差がある。 それこそ生理的には拒否反応を起こすようなもの、例えば「怖いもの」などさえも、それを一つの芸術として楽しめる人には、それもまた何かしら"良い感じ"として感じていることがありうるわけである。「嫌悪」さえも一つの娯楽になりうるのだ。 当然のこととして、【芸術】においても、社会的な評価と「個人の評価」が大きく異なることは非常に多い。そもそも社会的な評価と言っても、【芸術】では特に文化的背景が浮き彫りとなるため、社会的と言っても個別の小集団によってその評価が分かれることも多い。 ある程度の共感性・共通性はあるため、広く評価される作品は知らない人が見ても評価できる率は高いと言えるものの、文化的な背景からの違和感が生じることも珍しくない。 また芸術的なセンスや教養の浅い人々となると、そうした【芸術の広さ】が理解できず、「芸術の評価軸とは[うまい・へた]の上下の軸だけで、塔やピラミッドのように[高度であるほど価値が高い]」かのような、まるで「正しいほど価値がある」かのような、狭く安易な芸術観念も珍しくなく見られる。しかしそれは、人にとっての芸術性における一要素でしかない。 さらに芸術に無理解な人たちには、大した役割の無い・低俗な、「実用性の無いおもちゃ」のように思われてしまうこともしばしばである。 (芸術哲学の話になるが)芸術の価値とは「いかに心を動かすか」にあり、教養と感受性の貧しい人々にとって、度々価値が無いと解釈されてしまうことは仕方のないことである。 ただしそれは、ただ作品そのものだけではなく、その作品に関連するあらゆる事柄、時代背景や作品がどのように扱われてきたのかの歴史さえも、「心を」動かす要素になりうるもので、芸術文化においてはそのようにも鑑賞されるものである。 そしてこれらもまた"正しいと思うこと"に通じる。 ちなみに蛇足として。芸術とは分類されにくいが、「プロスポーツ」の【鑑賞】という行為は、芸術の鑑賞と極めて近い位置づけにあると言える。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■2-1."正しいと思うこと"の性質の生物的妥当性「適応性嫌悪好感モデル」その1 "正しいと思うこと"への感覚が、理性や知性によってのみ生じているわけではなく、特に原始的な性質から傾向が生じていると考えた場合、 その性質そのものは「ヒト族・ホモサピエンス固有のものではない」と予想できる。 それについてのより原理的な解釈を試みる包括的理論(概念論・文化論)が 「適応性[嫌悪/好感]モデル」である。 * まずいわゆる感情などではなく、生物における非常に原始的な判断機能「状況に対して記憶を行い、行動を偏向させる性質を持った生物」は、非常に原始的な神経系を持つ生物である【線虫】においても確認されている。 これはおおよそ「周囲から感じる刺激の[経験の記憶]を行い、その後、周囲の刺激を感じ取って行動を[より適した方向]へと偏向させるメカニズム」として検証されている。 これは単純な仕組みで、人で言う所の【感情】と呼べるような複雑な機能は持っていないとされるが、「神経による経験・記憶を用いた環境への適応性」と言う意味において、最も原始的な形態であると位置づけられる。 補足として、線虫の判断機構はドーパミンを用いた機能であり、同様にドーパミンを用いた機能を持つ動物は線虫だけではなく、小さい動物から大きな動物まで、ヒトを含めた非常に広い範囲において確認されており、脳を持つ動物は原則的にその機能を持つと考えられる。 その「環境に適応する能力」自体が、動物的に極めて有利な性質であったと言える。 より複雑な頭脳を持った動物になると、より多種類の神経伝達物質やホルモン物質などによって、より複合的な情報処理までも行えるようになり、より多層的で繊細な判断を行えるようになっていく。 (※当然だが、それらは肉体的な感覚器官からの情報を基にして反応を示すものであり、各五感の有無やその情報量、痛覚の影響や味覚の性質などは動物・個体によって差異がある。) 特に人間と暮らしている一部の動物においては、「人で言う所の感情のような反応」も広く認識されており、また客観的にも分かるほどの「好き・嫌い」のような様子も広く観測されており、これらは「状況を記憶した関連付けによっても身につけることがある」ものだとも確認されている。厳密なことは分からないが、それらに似た性質はある。 なお知能の高い動物の中で、身の危険が少ない種類ではさらに「好奇心と呼ばれる性質」が働いてる状態が確認できる。それは幼少期でも危険が少ない場合、幼少期に強く見られ、それによって行動が活発化されることで、周囲・環境を積極的に確認していくことが誘導され、環境への積極的な適応が促進されたり、他の個体との関係性を作ることなどに働いている。 また動物によっては「個体同士で協力をする<群>」を作るが、それらの動物は生来「他の動きに注意・意識する能力や傾向」を強く持っている。そうした動物で広く確認できる「他の個体を助ける利他的行動」は、他者を意識する機能があることで成立したと考えられる。 そうした動物の中には高い共感性を示す場合もあり、「他者の反応を共有する反応機能」によって、それらの協力的な行動や、強い社会性へと導かれやすいと考えられる。 さらに社会性と高い知能を持つ一部の動物においては、ヒトにも似た「公平さ」を認識しているような反応も観測されている。 つまり「理屈においても成立しうる<協力関係を維持する>ための性質・傾向そのもの」は、ヒトのような高い知性だけを由来とするものではない。 そして【(機能的に単純ではない)社会性を持てる動物であっても、[幼少から他個体との経験を十分に得られないまま育った個体]は、社会性において難のある状態になりやすい】ことが確認されており、 そこから【動物における(単純ではない)社会性とは、経験によって身につけるものである】ということが強く示されている。 それを裏付けるように「動物の幼い子供が、親代わりとなる異なる種の動物によって育てられた場合に、本能に由来していない行動様式の範囲では親代わりとなった動物に似る」という例も観測されている。 つまり【生息集団に適応する(≒社会性を獲得する)機能】というものが、動物界においても存在することが非常に強く推定できるわけである。その機能の土台はヒト固有のものではない。 さらに補足するならば、ヒトの頭脳の中において働く神経伝達物質・ホルモン物質においてヒト・ホモサピエンス固有とされるものも現状確認されておらず、とても大きな脳には非常に高い処理機能と特殊な神経構造を持っている部分はあるものの、 その土台となる基本機構自体は、動物のそれととても近いものであると考えられている。 それが「適応性[嫌悪/好感]モデル」の前提となる。 * 適応性嫌悪好感モデルの枠組みにも強く関わるところで、大事な補足として。複雑な脳を持つようになった動物は、高い処理能力によって「予測する」機能を備えるようになっていく。 例えば[物が動いている]状態において「直後の未来で、それがどの位置にあるのか」を無意識に処理して、おおよその視線を追尾させることができ、狩りや生存に非常に役立つ。 (※ただし不規則な動きに対しては詳細な予測は難しく、極端な方向転換やフェイントを受けると、先の予測に引っ張られて反応しきれない、という状態も往々にしてあるように、未来予知ができるわけではない。) ※なお単純で小さな動物、小さい昆虫などではそのサイズの小ささから認知と行動までの処理が極めて短いために[反応]だけで、おおよそ生存に十分な行動を取れている。 生物としてサイズが大きくなると神経系が伸長して処理反応は遅くなり、また物理的な重さで動きも遅くなり、結果「[認識からの反応]のみでは対応しきれなくなる」ために、その難点を補助しなければならない。 そこで予測の機能による反応の疑似的な高速化が、生存のためにとても重要な能力になった。 また生息環境が拡大、複雑化することによって、瞬発的な反応のための予測だけではなく、より長期的な対応のための予測もまた重要となっていく。生息環境・生息集団において、どのように暮らしていけばいいのかを判断する力が必要になる。 つまり「環境から学習し、随時過去の体験・記憶からどのようなものであるのかを解釈して、求めるべきものを判定する機能」が優位に働くようになり、 そうした経緯からも、複雑な頭脳を持つ生物に備わり受け継がれてきたものが【適応性嫌悪好感モデル】の環境適応システムだ、というようにも説明できる。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■2-2."正しいと思うこと"の性質の生物的妥当性「適応性嫌悪好感モデル」その2 【生息集団に適応する(≒社会性を獲得する)機能】というものは、ヒト固有の能力ではなく、知能を持った、特に社会的行動が可能な動物において広く確認できるものである。 そして、そうした機能を持つ動物は概ね【主に幼少期からの経験によって、生息集団の行動様式、社会性の基礎を表層的にも深層的にも学習することで適応する】という生態で、 十分に経験することができなかった個体は集団になじまない行動を起こしやすくなったり、 あるいは幼少から[行動様式の異なる(特に種族の異なる)]代替親に育てられた場合には、その代替親から学習されて、行動の一部までもまねる例が見られるように、 「先天的な学習傾向の性質から、後天的に[詳細な社会性]を獲得する」ことが分かっている。 そのようにして社会性を備える動物では、「他の動きへ注意・意識する能力や傾向」を持っており、場合によっては「共感性」を持つ様子も見られ、そうした傾向や能力の結果として、<基本的に>と言えるほど助けること・利他的な行動なども取りやすいと考えられる。 その他、動物の「好き嫌い」のような行動は[条件付け]によって確認される例がある。 知能の高い動物となると、「成功体験・失敗の経験」などがより顕著に、行動性へ影響する。 * そうした性質を、大きな頭脳と複雑な神経構造によって、非常にダイナミックかつアグレッシヴに行っているのが、ヒト・ホモサピエンスであると考える。 つまり、「ヒトの行動様式の内、複雑なものの多くは生来のものではなく、後天的に[複雑な社会性]や多くの詳細な[好き嫌い]の感性が形成される」と考えるわけである。 (ただし肉体的な反応から、ごく一部の好き嫌いはほぼ生来と言える部分もあるが、それさえも形成される感性によって心理的な感じ方が変化することもある。) それによってヒトは、様々な文化的生活や文化的活動、社会規範や道徳の習得、文明的に高度な論理や科学他の利用や研究などの、極めて多様で多彩な・複雑な環境へと対応できるようになっている、と考えられるわけである。 ちなみに、ヒトの出生時の状態は多くの動物に比べて非常に未熟だが、むしろその未熟さによって介助が不可欠な状態が長く、結果その生態から「社会的な傾向を学習する機会」も多くなりやすく、結果として高い社会性を獲得しやすい生態をしていると言える。 ほぼ生来と感じられるほどに利他的な行動を習得しやすいことの原理も明快になる。 それが【適応性嫌悪好感モデル】の根幹であり、これは動物と同じ性質の延長上に存在する。 この【適応性嫌悪好感モデル】では、環境に適応するためのシステムとして、 (前提として知覚能力に強く依存する。五感や、大なり小なりの共感性など。) ・状況などから大事なこと・有効なことなどを感じて「[環境に対する]感性」を形成。 ・その「[環境に対する]感性」と、肉体的性質から、適応の偏向が生じる。 ・適応の偏向と状況に合わせて、脳内に誘導システムが働き、行動へと表出する。 ([状況]とは周囲・環境の情報だけでなく自らのあらゆる状態、思考想像までも含まれる。  [誘導システム]では感覚的な[快・不快]や弱い[良い感じ・悪い感じ]が予測的に生じて、  それに触発されるようにして動機や衝動や欲求が生まれ、それで行動が引き起こされる。  ※感覚は多層的にも生じるため、適宜我慢をしたり、ジレンマを起こすこともある。) ・形成した「[環境に対する]感性」も、新たな経験・知識などから適宜、更新されていく。 という環境適応システムが、生理的に存在していると考える。 なお「環境から得る経験・知識」は、必ずしも当人が自覚しているとは限らない。 特に幼少の頃の認識できる記憶が曖昧だとしても、より深い感性において幼少期の経験が刻まれており、それが成長後の感性に大きく影響していることも大いにありうる。 またヒトは非常に感受性が高く、<褒められること>だけでも、非常に強い経験になりうる。 「[環境に対する]感性」による偏向・誘導システムは、主に[嫌悪・好意]と呼ばれるもののことであるが、それを明らかに[好き・嫌い]と自認しているものに限らず、「なんとなく良い気がする」「なんとなく悪い気がする」くらいの軽い快・不快による誘導もある。 そこから実感的にも予測的にも、 その[嫌な感じ]から大なり小なりそれを回避する・抵抗するような傾向を生じさせ、 その["良い感じ"]から大なり小なりそこへ接近する・実行するような偏向を生じさせる。 時には<強い感覚>から、衝動的に誘導されすぎてしまう、という状態もあり得る。 ※感覚は多層的にも生じるため、適宜我慢をしたり、ジレンマを起こすこともある。 「言語的な理屈」などというものはそこにおいて、その感覚を引き起こす一つの要素であったり、それによって感性へ影響を与える1要素であったり、あるいは感覚に対して後付けを行うものであったりする。つまり、そうした複雑な反応も内包されている。 そうした感覚が、ヒトの行動・言動の衝動・原動力の一種として機能する。 特に「ヒトの文化的行動」のほとんどは、この環境適応システムから生まれている。 というように考えるのが【適応性嫌悪好感モデル】の概要である。 補足として、行動には反射的・瞬発的なもの・能動的・意識的なもの、また無意識的なものなど、様々な状態・様子はあるが、それら全てへおおよそ間接的にあるいは直接的に、様々な強さ・状態の快・不快感覚が影響していると考えられ、 当然この環境適応システムも、自覚の有無に関わらず広く大きく影響すると考える。 * ちなみに、いわゆる「子供への愛情」は(授乳時の脳内反応など)かなり肉体的生理的な促進反応によっても重みづけられていることが確認されている他、子供を含め、いわゆる「かわいいもの」に対しては「保護したいという気持ち」が湧きあがることが広く確認、広く共感されるものである。育児を行う種族として「子供を庇護・支援する性質」は非常に有用であるために、進化の過程から生来としてそのような感覚を持っていてしかるべきだろうと言える。 ただし子どもが嫌い・苦手という人もいるために厳密に[全人類共通]と断言できるものではなく、絶対の性質でないことも確かだと言わざるを得ない。 その性質が、どの程度の強さの性質であるのか、またどのくらい後天的な学習によって偏向するものであるのか、厳密なところは分かりにくい。 それはおそらく「生来持ちえたであろう傾向の性質さえも、表層的に失うことはあり得る」と言えることであり、それが環境適応システムの強度を示していると推定することもできる。 このように説明すると悲観的に見られてしまいそうだが、 しかしヒトはその感性の柔軟性によって、受け入れられる対象範囲をより広げるようにも作用することがあり、そうして【他動物(他種族)との積極的な協力関係】を形成することにも多大な影響をもたらした性質であろうとも考えられる。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■2-3.補足 「適応性嫌悪好感モデル」概要図 ・ 補足「反省への慣れ」 なるべく単純化した概要。 ※要点は【原則的に["感性"]を介する】という所。  ●概要 [環境・他者]→情報→個体[情報知覚]→[多層処理:行動反応]→身体行動→[環境・他者]  ●「適応性嫌悪好感モデル」 概要略図 肉体「 ※全てが肉体ベースであり、全てに肉体的性質の影響を受ける。  身体:生理的状態・内的感覚:内的[情報]→[知覚]へ  外的&内的[情報]→[知覚能力] 強い刺激の場合→【反応・動作:反射行動】  外的&内的[情報]→[知覚能力] 全ての情報→[情報処理層]  ([知覚能力]:外部または内部の情報を感じ取る能力)      ↓[情報]:[意識情報]と[無意識情報]  情報処理層「 ※主に脳だが、脳に限定しない   [意識情報]※強烈な印象の場合→["感性"]→[感情]→【反応・動作:即応の行動】   [意識情報]→["感性"]([感情])→情動↓([記憶]&意識へ)   [意識情報]→["感性"]([感情])→[記憶]&[意識]↓(["感性"]へ)   [意識情報]  →  [記憶]&[意識] → ["感性"](→[感情])→【反応・動作】   [無意識情報]→[無意識の感覚][無意識の記憶(経験)]→緩やかに他の処理へ伝播   強い[感情]→【身体:生理的状態】に影響→[知覚能力]→[意識情報]&[無意識情報]   その他:[記憶]&[無意識の感覚&記憶]→【無意識の動作:慣習の行動】       内面循環※強い相互性を持つ ※これらの処理は多層的に生じうる。   [記憶]←→[意識] ←※強烈な[感覚]や強い[感情]が働くと[意識]が乱れやすくなる    ↑↓  ↑↓  ←無意識の感覚記憶も緩やかに影響    [ ["感性"] ]→([感情]→【身体】→[全体])へ        細かい概要   [記憶]:経験・長期記憶・短期記憶・(認識している記憶・認識していない記憶)など    ↑↓非常に強い相互性を持つ   [意識]:認識している知覚情報、[思考][想像]など    ※[思考][想像]:記憶などを用いた情報処理で、新たな記憶・情報を増殖させる。    ※[思考][想像]には<程度・深度>がある。    ※この処理の中においても、["感性"]の影響が関わる。        感性の働き   [情報][記憶][意識]     ↓    ["感性"]の働き「 ※単純・単一な働きではない。    ["感性"]:【嫌悪・好感】、【快・不快】、【良い感じ・悪い感じ】の感覚を生成    ※ほぼ情報の要素ごとへの反応。近い時は影響も与え合う。    ※要素が複雑な場合、複合的・多層的に生じることもある。     ↓    [感情][情動][無意識な感覚][予測的な感覚][判断の偏向]など    ※感情のみではない全ての<(個人的な)判断感覚>。理性的な判断も感性は介する。   /["感性"]の働き」     ↓   [記憶][意識]【反応・動作】へ     ["感性"]の柔軟性「 [環境に対する]感性:記憶だけではない学習性    ["感性"]のベース:肉体による基礎構成 ※非常に単純な傾向のみ    ["感性:環境適応性感覚"]の形成←[情報処理層のあらゆる情報]から適宜の影響    ["感性:環境適応性感覚"]の更新←[情報処理層のあらゆる情報]から適宜の影響     ※未熟な場合においては形成・変質が非常に盛んだが、成熟後の変化は限定的。     ※影響は["感性"]自体によっても、その強弱は大きく変わる。     ※意識が複合した「行動の成功・失敗などの体験」は大きく影響しやすい。    このシステムにより、無意識レベルでの予測的感覚・直感なども生み出される。   /["感性"]の柔軟性」   ★予想:<公平性への感性>について    <正常性・正当性への感性>は[予測的な感覚]に由来しうると説明できる。    「[このようにあるはずだ]という慣例の予測」と「現実の結果・状況」の齟齬から、    感性として【嫌悪】が生じてしまい「不正・不公平」を認知する機序が想定できる。    ※この感性が客観的な正当性を持たない場合には、客観的に不当な不満も生じうる。  /情報処理層」 /肉体」 * 補足として、 <罪悪感>などと呼ばれるもの・「自分が"正しいと思うこと"から外れた」という感覚は嫌悪感を生じさせるが、それは時として非常に強いショックにもなりうる。 「自分が悪いことをしてしまった」という感覚は、意外と強烈な影響を及ぼしやすい。 また強い[感情]が働くと[意識:思考]、いわゆる[理性]と呼ばれるところが薄らぎ、パニック状態に陥ることもある。 そうしたパニック状態では特に、自己防衛として自然と「自己正当化」を行ってしまいやすく、そうした癖がついてしまいやすい。 「反省する」あるいは「謝る」といった経験は、適切な段階(感性による納得)を踏みつつ、慣れておくことが望ましい。そうした機会がなくとも[そのようにする]知識は持っておきたい。 またそのために「自分が悪かったら、まず[落ち着いて]謝罪するという選択肢がある」ということを覚えておくことで、そうした状況でも"正しいと思うこと"ができうることを理解し、罪悪感に対するパニックの抑制・軽減を期待できる。 そうして努めて、自分に対しても、また他人に対しても[正当化]への衝動を抑え、冷静に状況を確認することが望める。 ※ただしパニックのまま(感性による納得をしない)表層的な謝罪だけしていると、本当に悪いことをしていても、むしろ[悪いことをしていない]くらいの感覚として覚えてしまいやすい。 ※深い反省はそれが悪いことであるという自覚(感性による納得)を促し、また深く意識することによってその後似たような場面において記憶から想起され、回避しやすくなる。 ※ちなみに、他の人はそうした状況において、パニックを助長してしまわないよう、まずは自分も落ち着き、相手も落ち着かせるよう振舞うことが理想的だと言える。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■3-0.補足 【欲求】の概念について 【欲求】というものは生物的、生理的な理由を多く持っているものであると言えるが、 哲学的に考えると、その解釈や分類の方法、定義や範囲などはかなりのブレがある。 最も代表的な欲求には、まず一般的に「三大欲求」と数えられる【食欲・睡眠欲・性欲】があげられやすいが、実のところは、それらを「三大欲求」として扱うのは<俗説>である。 一般的においては非常に同意・共感されやすく、その解釈が共通認識となっているが、 実のところ厳密な根拠を持った定義ではない。 特に「食欲」「睡眠欲」の2つと、「性欲」とではその位置づけが決定的に異なる。 「食欲」は、生物として栄養を摂取しなければ生存ができないために、不可欠な欲求とされ、 「睡眠欲」も、身体のメンテナンスに不可欠で、不足すると不調をきたす重要な欲求だが、 「性欲」は、「個体の生存」という観点において不可欠なものではない。 [個体]にとって、「性欲」は無くても致命的に不便することはなく、そもそも時期や状態によって感覚の薄い、明確な表出をしないことも珍しくない。 なんなら人間社会では文化的に制限のかかるもので、「あって困る」ようなことすらある。 「性欲」が不可欠とされるのは、「種の継承」という役割のためであり、[種族]という範囲において極めて重要と言える性質であり、また強い欲求を引き起こすこともあるために「重大な欲求」として数えられ、三大欲求の一角に並べることも広く一般的となっている。 しかしながらそれは<共通認識>に由来した俗説としての解釈の一つでしかなく、 細かい考え方や[分野]によっては三大欲求として扱わない解釈も存在する。 * 特定の専門分野で扱われる分類となるが、由来の非常に分かりやすい例としては、 <生存のための三大欲求>として、【睡眠欲・食欲・排泄欲】とする選定例がある。 通常の生存のためにほぼ日常的に行うことが不可欠な3種であり、根拠は明快だ。 生活環境の整備、特に介護などにおいて避けられない重大な3要素である。 しかし「排泄欲」は「せざるをえないもの・してしまうもの」で、強い生理的反応として強い衝動が引き起こされることはあっても短期的なもので[我慢をする気持ち]の方が目立ち、なんなら「必要が無いのなら一切したくない」とされうる、しかし正常にしなければならない、 当人にとって「かなりネガティブな要素」を背景とする欲求である。 「睡眠欲」についても通常「せざるをえないもの・してしまうもの」で、慣習的な動機はあっても、積極的な動機としては弱く、「必要が無いならしたくない」となる状況も珍しくない。 生物的に不可避ではあるため重要だが、ほぼ不可避性ばかりが根拠となる選定例であり、「生活(生存)の必須3要素」と呼んでも通じる。 「三大欲求」として解釈されることはあるものの、解釈への共感性として特にネガティブな要素である「排泄欲」は【意外】とも思われるような選定であり、専門的・ローカルな解釈である。 * 欲求を「行動の動機を引き起こしうるもの」などとして考えた場合はまた異なり、 一例として【食欲・性欲・所属欲】という、とても文化的な傾向を含む3種の選定例がある。 生存に不可欠な欲求は「食欲」のみ、種族として不可欠な「性欲」、そして社会的に・社会性のために重要となる「所属欲」というバランスを取った選定例であり、 文化的行動としても重要である「食欲」、文化的背景にも強く依存する「性欲」、文化的集団への希求である「所属欲」と、文化的な要素があるとも解釈できる。 これはおおよそ[社会的な環境における]人の動きの分析・予想手段として用いられる。 だがこちらは、例外的ではあるものの想定として「一人でいることを好んで他者から離れている例」があげられると、「所属欲」が「食欲」「性欲」に並べられるほど強い欲求だといえるのか?と疑われる。 またそもそも「所属欲」という観念が一般的に馴染みのないもの、人によっては(それを実は求めていたとしても)「所属欲」という観念への実感が薄い場合もあり、解釈への共感性にもやや欠けている。 「所属欲」という観念自体は学術的に整理されているもので検証もされているものであるが、文化的背景、また個人的な経験のよる差も大きくかかわっているものである。 * <三大欲求>という考え方自体に【正解】と言えるような観念は存在せず、あくまでも「どのような場面において・どのような欲求を重要視するのか」という背景・想定・前提条件から選定されるものである。例えば俗説の三大欲求は、おおよそ「認知度」に由来すると言える。 【欲求】という語も、仮に「欲求には生理的反応がつきものだ」「欲求には行動を起こす誘導性があるものだ」などと想定してみても、脳内において誘導や実感を伴うものであればそれ自体が生理的反応が生じてる状態だとも言えて、むしろその範囲は無限に拡大していく。 あるいは反対に、厳格な定義を考えて狭めようとしてしまうと、例のように性欲が切り落とされたり、睡眠欲が切り落とされたりと、対象が限定されることで一般的な感覚からの乖離が生じやすくなり、非常に専門的、あるいはローカルな解釈と収まるものになる。 一般的な視点において、「何かしらの特別な実感」が伴わなければ、基本的に欲求とは呼ばれにくい。例えば生理的な不可避性から「呼吸欲」と表現されたところで、不可欠だと言うことは理解しても、恒常的な行動すぎて欲求としての共感は難しい。 ただ反対に、特別な実感、希求性ばかりを重視すると、「猫欲」だとか「ラーメン欲」だとかといった感じ方をして、そう言語化する例もある。 そのように「学術的ではない扱われ方もされる、非常に広い言葉だ」ということであり、 また学術的に扱われるものでさえも、原則的に「[広く共感されるもの]かつ[普遍性を想定できるもの]であるからこそ【欲求】として扱われる」という前提に、「研究価値を見いだされること」によって研究・整理されるものである。 それは「学術的に避けられていると学術的には欲求と定義されない」ともなりうるような、 いずれの分類においても【恣意的な性質のある観念】なのである。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■3-1.【適応性嫌悪好感モデル】における、様々な文化的欲求の位置づけ 【適応性嫌悪好感モデル】では、ヒトにはおおよそ「内面において、環境から適宜学習することで環境に対応した嫌悪好感・快不快・良し悪しの感覚["感性"]が形成され、肉体的反応だけでなく、その感覚が原動力や衝動となって、適していると思う行動を実行する」という環境適応システムが、生理的なレベルにおいて働いていると考える。 ※肉体的反応に由来する行動も存在するが、[感覚を用いた適応]であるならばその環境適応システムの中、あるいは隣接して存在し、おおよそ同じシステムの一つとしても解釈できる。 そしてヒトの持つとされる文化的な欲求のほとんどは、そのシステムから発生しているものであると、位置づけることができる。 注意しておくが、環境適応システムは「1つの対象への短絡的な快・不快」だけで動くのではなく、【過去に体験したものを含む長期的かつ潜在的な記憶から、さらに複雑な多層構造を持ち、また状況に対する予測的にも働いている】。さらに肉体的な基盤の上に成り立っているもので肉体的な影響も大なり小なりあるが、「表層的に不快側であっても、良い感じにも思える」ということすらある。 またヒトにおいては純粋に体験したことによる記憶だけではなく、その知性によって知識や教養としての学習による記憶、また記憶に知識や教養を元にして思考や想像を行うことで増幅された記憶などまでも、環境適応システムに影響する。 ※他者への[憧れ]などによる感性と、その情報の学習といった形で影響することもありうる。 さらに実際の「実行される行動」は、「その時点の機能的能力や文化的能力」に依存するものであり、衝動の元となったものとは異なるところに由来することが当然としてある。 そうした簡潔な説明ができない複雑な性質を包括的に解釈する概念論が【適応性嫌悪好感モデル】である。 ※肉体的な基盤の上に成り立っているものであるため、当然、肉体的な性質・状態により、その一部ないし多くが機能不全状態にある例外も存在しうる。 * 例えば【承認欲求】は非常に広く共感されるものだが、その元は、(特に幼少の)[誰にも構ってもらえない状態の苦しさ]と[構ってもらえたことによる解放・喜び]が記憶されていることなどによって、人からの応答などを望む欲求として発露するようになると推測される。 これは非常にありふれた「幼児の頃に、空腹や排泄、その他苦しみに対して、保護者にすぐ対応してもらえなかった不快な体験、強く呼ぶことで対応してもらえたプラス体験」などが、その原点のなりうるため、欲求として非常にありふれた扱いとなっていると考えられる。 例えば【所属欲求】もそれに近い所だと推測でき、例えばもう少し成長した段階での「独り迷子になってどうしたらいいか分からなくなるなどの不安な経験・家族や集団と一緒にいれば助けてもらえて困ることが少なくなる良い経験」などが、その欲求の原点となりうる。 例えば【自己実現欲求】は、一つは共感性によって[他人が喜んでいて自分もうれしくなった]といったプラス体験など、あるいは承認欲求と隣接して[自分が何かをしたときに褒められる]という良い経験、あるいは加えて[相手に喜んでもらえて共感性から自分も嬉しくなった]といった良い経験など、「認められる」という心地よい感覚が、その欲求の原点となりうる。 これはかなり複雑に形成されやすいと言える。[自己実現のための成長]についても、同様の良いと感じるプラス体験がそれに向かう原動力となりうる。 達成感は<褒められる経験>があってこそ強くなるものとも考えられ、また知識があるならば<自分を褒める>ことによって、これを補助するということもできる。 例えば【知識欲・探究欲】も、より多様な原点を持つものだと言える。 まず主に幼少期の好奇心旺盛で感受性も豊かな活発な時期において、[自分自身が良いと感じるような発見をしたプラス体験]、あるいは対人的に[喜ばれることを発見したプラス体験]などが、未知を探す行為への欲求の原点となりうる。これは特に幼少の初期の性質としての[好奇心]が働く時期においては、未知との遭遇が非常に快く感じられるようで、そこからプラス体験として積み重ねることがあり得る。「良いものを見つけた」という体験が非常に重要である。 より成長した段階ではそうした経験による欲求、あるいは「未知に対する(大小様々な)不安」という面から生じる探究への意識が、新しい[好奇心]となって更なる探究を求めて、より多くの知識を積み重ねていくことになる。 例えば【美的欲求】は、その中でも[素晴らしいと感じるものを見た時の好感・感動・衝撃というプラス経験]が、その欲求の原点となりうる。なお、「審美眼」自体は個人の経験知識に基づく感性やプリミティブな感覚も混ざった、複雑なものである。 例えば【安全欲求】は、[心地よい場所にいたプラス経験]よりは、単純に[命の危機を感じた・恐怖や苦痛に遭った・不便だったなどの不快な経験]などが、その欲求の原点となりやすい。 例えば【支配欲】は、[立場の強い相手に、従わさせられた不快な経験]などが、その欲求の原点となりうる。それは他人であったり、家族であったり。あるいはもっと複雑で「物事はこのようにあるはずだ」と感じる「正常性」への感性と現実の周囲との乖離から、物事は自分が想定する通りのあるべきだという感性から生じているパターンも考えられる。 例えば【自由欲求】は、[行動が強く制限された不快な経験]、特に[好奇心に対して強い制限をされてしまった不快な経験]などが、その欲求の原点となりうる。 例えば【愛情欲求】は、承認欲求に類する点以外では、原点は肉体的な快感から生じていると考えやすい。それはいわゆる三大欲求のそれだけではなく、肌接触などによる肉体的な心地よさの反応も含まれるもので、ただしそうした快感を学習することによって、より衝動や強い欲求を伴って欲するようになりうるとも考えられる。 注記しておくが、特に実際に個人が直面する状況・状態は極めて多彩で、詳細な要素は様々な形態で起きるために【[似たような状況]でも[厳密に同じ状況]であるとは限らない】。 特にこれらはあくまでも「個人の体験・個人の感覚」であり、肉体的な感覚やそれまでに形成されていた感性によっても感じ方は左右されるために、その感じ方の個人差は非常に大きくなることもある。1度目と2度目だけでも、その感じ方が全く違うことが当然としてある。 そしてより細かくは、[実際に感じた良いプラス経験・不快なマイナス経験]の記憶だけではなく、ヒトの持つ知性による様々な知的活動による記憶を含めて影響していき、色々な気持ちの原石である["感性"]が形作られていく。 そうして作られた["感性"]からその時点の状況に応じた欲求が生じて、時に行動が伴うのである。 * ちなみに、この環境適応システムは「強く[生存を求める]ような前提」を持っていないようである。感覚的な影響、経験によって、生存への欲求が形成されやすいとは言えるが、この感性は時として<希死念慮>を生じさせてしまうことさえもある。 ただしそれは基本[逃避したい感覚の末の究極的な脱出]を望むという形であり、あまりに辛く厳しい環境に向き合ってしまうと、そのような感性が形成されてしまうことがある、という例である。安全な逃避行動を自主的に行えることは、とても大切である。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■3-2.【適応性嫌悪好感モデル】における、「正義欲求論」 よって【適応性嫌悪好感モデル】は、進化的に動物の世代から継承されてきた環境適応システムに、ほぼあらゆる[文化的欲求]をも位置づけられる。つまり、それらの多岐に渡る欲求の根源が、一つの大きなシステムに由来するものとして簡潔に説明する。また、あまり欲求とは呼ばれない種類の[文化的行動]についても、多くが同じシステムから生じているとする理論だ。 「あまりに単純化しすぎている」とも言えるが、この理論によって「非常に多くの[文化的欲求]が、その程度に極めて大きな個人差が存在すること」の説明を一律につけることができるように、そもそも「あまりに根本的な部分にまで細分化をされすぎていた」と考えるわけである。 なおこれは、各分野の欲求の理論が不要になるような理論ではなく「全くバラバラになりがちであった[文化的な欲求]などを1つのカテゴリとして整理しうるだけの概念論」である。 この理論は、例えば「非常に精神的に安定し、満たされていると感じる状態において、多くの文化的行動・文化的欲求の表出が抑制されいやすいこと」も、一括した説明を可能とし、 また反対に精神的な不安があると何かを渇望する状態となりやすく、「[生存に必ずしも必要ではないはず]のところで、(客観的には不相応に)強い衝動をも生じさせる」ことも、一つにまとめられる統合的な理論である。 また一般的なヒトは大なり小なりの不安感を感じながら暮らしているものである。非常に豊かな知覚能力を持つものの、全知全能ではなく、実際にできることには限りがある。 不安や不満なく暮らしているのは例外的な状態で、基本的には大なり小なりのストレスを受けた状態で暮らしている。そうした不安や不満などの不快な感覚から、対抗的に[感覚的なプラスへの意欲]、つまり【欲求】が生じており、その流れから日常的な文化的な欲求も発露していると言える。 ※ただしこれは、あくまでも<概念論・文化論>として考えるものである。 * ここから少し倫理的に意見が分断しやすいところの説明をすることになるが、 【適応性嫌悪好感モデル】の[様々な要素から形成される複雑で多層的な良し悪しの観念]を、"正しいと思うこと"に接続し、汎用化したものが「正義欲求論」である。 【適応性嫌悪好感モデル】そのものが「正義欲求論」の様式である。 (学術的にありうるとしたらより狭義的に、規範などへの欲求として承認欲求などと並べる形になるだろうが)ここで語る「正義欲求論」は、 正義欲求がその他の文化的欲求と並べて考えることができる、というものではなく、 [環境適応システム・文化的欲求]そのものが「正義欲求の正体だ」という文化論である。 あらゆる文化的欲求、またそれ以外の文化的行動も、「正義欲求に由来する」と位置づける。 プリミティブ(根源的)な傾向から生じる"良い感じと思うことをしたい"という気持ちとして共通性を持ち、その範囲において広く相互性、代替性が緩やかにあることを理解し、おおよそ感覚的に「"正しいと思うこと"をしたい」という正義欲求そのものだと位置づける。 突然ふってわいて出るものではなく「元々存在している機能」だと位置づけることで、「それをどのように扱うべきか・どのように注意するべきか」を意識させるための概念論である。 * ただし【[身勝手な正義]は、社会的に容認されない】という倫理性は堅持する。 注記するが、正義欲求論は、まるで性善説のように[模範的な正義が本能的に内在する]と考えるものではない。そこにおける先天的要素はほとんどが[学習し適応する性質と傾向]であるとし、特に社会的で複雑な知識は後天的な要素が極めて大きく、"正しいと思うこと"の感覚はそうやって形成されるもので、そこから一種の欲望のように発露する、という解釈である。 [正義]とは現実的には多義的なものであり、また各立場からの相対的なものである。 特に[個人の正義]の観念とは個人に形成された["感性"]に由来するものである。その個人の感性の大本は、それぞれ個人の肉体の基盤の上に経験や知識情報の影響を受けながら形成し、また変化や蓄積で適宜、変質させているものでしかなく、その内容に一義性はない。 社会的に合意される[社会的な正義]も、民衆が互いの正義の感覚をすり合わせ調整し続けながら、妥当性をとって暗黙にあるいは明文化されて合意される、社会的な立場のものであり、それは地域性や時代性までも色濃く反映されていくものである。その内容に一義性はない。 [社会的な正義]とは多くの正義の集合体であり、個人の正義を基としているものと言えるが、社会的には「個人全体が社会的な正義に合わせることが求められる」という関係性である。 「正義の反対は、別の正義である」と言われるように、正義とは対立することもある。 特に[正義]とは、直感的な感覚のみに短絡的に由来しては危険なものであり、歴史の知識教養、社会情勢、その他の知識教養、そして理想などを踏まえた、道徳的、人道的、倫理的な前提を持って形成されることが、安定と安全には必要となる観念である。 [暴走した(自称)正義]が悲惨な結果をもたらすことは、歴史に多くの例がある。 これは[個人の正義]だけではなく、[社会的な正義]ではその責任が大きくなるものである。 倫理性において、正義の由来を個人の損得勘定のようなところに由来させることはやや疑わしいところであるものの、実態として正義の価値とは<高潔な意思によって>ではなく、【社会的な共感と合意】によってその価値が生じるものであり、社会性・時代性が強く影響する。 しかし【社会的な正義】とは、(妥当性とはいえ)多くの人々の理想を共有しうるものであり、そこには【高潔な精神性】が形成されうると言える。なお個人に対しては【[人類に資する]高潔な意思】という視点においては、普遍的にその高潔さが賞賛されうると説明できる。 【社会的な正義】とは、ヒトから生じるものであっても[外部化された理知]であり、ヒトから超越した位置に掲げられているものであり、「そこから人へ降りて来るもの」である。 即ち、それが<神格の正体>だとも表現できる。共感も合意もされない神格は力を持たない。 しかし問題として、「[個人の正義]の感覚」は、時に妄信的なほどまでに強固な思い込みを生じさせることがある。つまり、自らの感覚から生じたものを、個人的に神格化して感じてしまうわけである。それは個人の正義の感覚が、[感覚を作り出すところ]に由来するためである。 理想的には、あまねく他者を尊重する倫理性によって社会を考えるべきであると言え、あるいは打算的であっても他者の正義の存在が自分の正義にとっての障害となり少なくない労力を支払わされることを理解し、また力関係によっては大きな不利益にもなることを理解し、 個人の正義の行動とは[社会への妥当性]を前提にするべきだと、自覚しなければならない。 もし社会の観念を変えたいと願うならば、それは「より多くの個人を説得し、より多くの個人の正義の感覚を同じくすることによって、社会の妥当性を変容させる」ことが大切である。 社会から共感・合意されるものであれば、それは社会的な力を持ちうる。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■4-1."正義欲求"、[個人の正義感]というガソリン ほぼ繰り返しになるが、ここまでわざわざ多くの言葉と理屈を費やして説明した通り、 【"正しいと思うこと"が、非常に根源的な生態のシステムに近いこと】を強く示せる。 "正しいと思うこと"を生じさせているのは、小手先の論理は知性そのものではなく、 【環境に適応するための機能から形成されている、より内側にある["感性"]・感覚】である。 その["感性"]は肉体的な基盤の上に、後天的に詳細が形成され、また適宜更新されていく。 知性・論理などによって、感覚の大本の["感性"]へ働きかけられる相互性はあるものの、 感覚の大本の["感性"]を知性・論理のみによってその全てを制御・変更できるわけではない。 その["感性"]へと働きかけることができなければ、["感性"]を変質させることはできない。 また形成の初期段階においては柔軟で、他者の教育から偏向性を持たせることはしやすいが、[肉体的性質]と[あらゆる経験・知識]が関わりうるために、教育のみで決まるものでもない。 それはよく注意して扱わなければならないのだと自覚しなければ自身にとっても危険である。 「"正しいと思うこと"をしたいという願い」そのものはとても尊い。 社会に資する傾向としてとても大事なものであり、それによって人類はあらゆる環境に適応し、大きな社会を作り上げ、安定と繁栄を実現してきたとすら言える。 ただそのために[正義]とは高尚で崇高で、大切で重要で、もはや神秘的で神格化されるもので、「そのようにあるべきだ」として華美に装飾され尽くされてきたものである。 人にとって正義の存在・正義の感覚とは、そのように強く輝いているものである。 * 人は環境適応のための機能・環境適応による感覚で、非常に細かく多彩な関係性の位置づけを行い、文化的な行動なども学習し、そして多くの文化的欲求をも誘導されている。 承認欲求や自己実現欲求のような欲望もまた、複雑な環境適応の出力方法の一種と言える。 そして「個人の[正義感]と呼ばれるもの」の実態もまた、その1種であり、欲望に極めて近い、あるいは欲望そのものと呼べてしまう出力であることを、強く自覚するべきである。 個人の[正義感]とは、あくまで個人の感じ方によって形成されるものであり、特に「社会的、道徳的、論理的に正しいとは限らない」ものであることを、理解しなければならない。 時として極めて独善的、身勝手な行動をも見せるものであり、それでいてそれを疑えずに信じてしまい、自己正当化に執着してしまうことすらあるのだと、自戒しなければならない。 個人にとっての狭い常識は、広く見て偏見であり、改心するべきこともあるのだ。 「そういう性根だからしかたない」と開き直ってはならないのだ。 それは社会的に妥当な状態、社会性を持つためにはそう断じなければならない。 個人にとっての[正義感]とは、時として<神の啓示>のような強固な思い込みを生じさせ、当人にとって神格化をしてしまうものであり、それでは社会性を失ってしまいやすい。 社会性を失えば、他人の協力を失うこととなり、結果的に困るのは自分となる。 であるために「個人の欲望」だとして、その妄信へ本来の品格を突きつけなければならない。 「李下に冠を正さず(疑われる行為そのものもよく注意して避けるべきである)」とは言うが、「疑われることそのものさえも<悪行>と見てしまうことさえある」のが人の感性である。 現代における社会的に妥当な正義、法律の原則においては「疑わしきは罰せず(※証拠不十分≒疑わしい状態で罰することはできない≒疑わしいだけで罰することはできない)」なのだが。 * [社会的な正義]とは、1個人の考えによって決められるものではなく、社会における妥当性をもって、共感的な暗黙あるいは明示的な合意によって形成されるものである。 [社会的に妥当な正義]とは、民衆が互いの正義をすり合わせて調整をしながら作り続けるもので、また理想的には道徳倫理人道を踏まえた上で作られていくべきものである。 華美に装飾するならば、「社会的な正義こそが、人々の理想を共有しうる尊い精神性」であり、「理想を目指す社会的な正義こそが、人類の高潔な精神性」だと言える。 そのために実際の行動には社会的妥当性を持つべきであると注意するものであり、 またたとえ間違いなく[正しい]としても社会的に妥当な手続きが求められるものである。 その妥当性が社会の安定には不可欠とされるべき、[社会的な正義]なのである。 * しかし個人の[正義感]とは、そんな社会のことなどおかまいなしに、短絡的な・直感的な正義から行動をしてしまうのである。それは「人はみんな"正しいと思うこと"をしたいと願っている」からであり、即ち[正義への欲求]を抱えているからだと言える。 それこそいじめや差別、多くの意図的な犯罪もまた、同じものから生じているのである。 それが妥当であればお咎めもされにくく、また社会のためになれば褒められることすらあるものの、だが「それが[社会的に安全な性質である]とは全く言い難い」。 [人助け]の気持ちすらも、思慮や配慮が無く、不適切な方法であっては迷惑をも生み出す。 例えるなら「正義感とはガソリンのようなもの」であり、 安全かつ有効に使えば世界を豊かにする極めて有用な活用ができるものであるが、 安易に使えば可燃物あるいは爆発物としてその炎や爆発が周囲を傷つけるばかりである。 いわゆる庇護欲や自己犠牲などの感覚は、適切な方法であれば広く社会的に認められやすく、それによって社会が支えられてる側面もある。ただし適切な方法であることが、前提である。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■4-2."正義欲求"、「正義欲求論」の主旨 詳細は既にこれまで語ってきたところであるが、正義欲求論の要旨とは、 「人はみんな"正しいと思うこと"をしたいと願っている」 そのようにできている。 「しかしそれが社会的、道徳的、倫理的、論理的に[正しいこと]とは限らない。」 この2文に集約され、よって【いつもよく気をつけなければならない】という文化論である。 欲求という表現は[衝動としても起こりうるもの]と理性的に理解させるための理屈である。 「正しいと思うから正しいんだ」という短絡的行動を、社会的に非難するための論理である。 主旨は、【衝動的に動きたくなったら、さらに注意するべきだ】という戒めである。 (※ただし衝動的でなくとも注意は必要であるため集約においては言及しない。) * また人間は誰しも意識的でも無意識でも大なり小なりの不安や不満を抱えながら生きているものであり、心理的なバランスをとるために、無意識的にでも日常的に"良いと感じること"・"正しいと思うこと"を求めているものである。 日常の欲求を満たせない状態では精神的な不満や不安が無自覚にも強くなりやすく、それがいわば[精神的に飢えている状態]だと表現できる。 そして、そうした状態では特にこの正義欲求が表出しやすくなる。おおよそ不安に対する避難や対抗、あるいは代償行動(欲求が満たされない時、その目的とは異なる行動をする反応)として解釈されているところである。 そこにおける典型的かつ短絡的な行動とは、「[わるいと思うもの]を攻撃する」という非常に原始的な行動である。 「[外敵]と認識した相手を攻撃すること」は生物的に根源的な防衛反応に由来するものであり、そうした感覚から「[わるいと思ったもの]を何かしらの手段で攻撃する」わけである。 しかもヒトは、極端な場合「自警的に気分の悪いものを自ら探し出して、てきとうな[わるいと思うもの]を見繕って、それを攻撃する」などの言動の例もある。それこそ、[いじめ]や[積極的な差別]といったものも、多くはそうした所から起きている場合があると言える。 しかしあくまで「個人の感覚」であり、その相手が必ずしも社会的に悪いものであるとは限らず、それらしい理由に飛びついたり、あるいは他人からその行為が良くないと言われても自己正当化をしてしまったり、"当人は正しいことをしているつもり"である。 (時として、そうした行為が[娯楽]のようになってしまっている場合すらある。) そうした短絡的な状況において「[わるもの]とした対象がいなくなれば不満や不安が解消するか?」といえば、対象が全く無関係なあるいは不合理な対象な場合もあり、結局「(攻撃している間は不安を忘れられるが)結局何も解決しない」ということが珍しくない。 適切に、直接的な因果関係を持った対象との関係を対処・処理するような判断が伴わなければ、解決することはほぼ無く、また現実的にそれができる状況ばかりでもない。 あるいは明確な不満の対象を排除できたとしても、単純に状況が改善するとは限らないのが、人の社会とヒトの認知の複雑でめんどうな所である。(大げさな例えとして、社会的なスケールで例えるなら「打倒による革命は、革命をした後にこそ重い苦難があり、その苦難を同じ信念において乗り越えることこそ、革命の最たる困難である」と言える。) なおストレスを受けた状況における攻撃的な行動には、他の表出パターンもある。 例えば[ものに当たる]、[八つ当たり]も同種の行動と言える。これは他人にも無害と言える小さな範囲であるならば比較的、平和な表出だとは言える。ただし、攻撃としての出力である点は全面的に好ましいとは言われず、強く当たる姿となると周囲へ不安や不快を招く。 場合によっては、「自分の何かが[わるいと思うもの]」として、[自傷行為]に至ってしまうこともある。特に自傷行為においては、その他の生理的反応も引き出されてしまうために依存性が出やすく、より強く習慣化してしまいやすい傾向がある。 また[自傷を伴う八つ当たり]といった表出となるパターンもある。 * 「人間は誰しも意識的でも無意識でも大なり小なりの不安や不満を抱えながら生きているもの」と言ったが、それは客観的に見て分かりやすくストレスのかかった状態ばかりではない。 主観的な[自身の感覚基準において、感覚的に悪い状態にある]という心理であるため、例えば表層からは分かりづらい程度の[劣等感]や[無力さの自覚]などによっても起きる。 例えば、「社会的にできることが何もない状態」など、特に[自分が役割を果たせていない]と感じる状況においては、(その状況が周囲から許されていたとしても)どうにも[居心地が悪い]という地味なストレスが生じるというヒトは珍しくない。もし周囲からの目が厳しければ、なおさら強く認識してしまいやすい。 [何かしなければならない]と、いわば強迫観念として抱えている場合はおそらくかなり多い。 それこそ「何もしないことを求められている」状態であっても、しんどくなることがある。 それを「"正しいと思うこと"ができていない状態は苦しい」と表現できる。 よって、そうした場合において求めるべきは、それ以外の、より平和的で社会的な妥当性がある"正しいと思うこと"をどうにかして見つけることである。(それと合わせて衝動的な行動を反省するように心がけることも行動の改善には大事である。) しかし特に現代の一般的な社会において、安直に「[わるいもの]を探して退治する」みたいな正義の行動ができる場面は単純なゲームの物語の中くらいなものである。それで済む場合もありうるものの、文字通り[正しいこと]の方向性で探すには、中々難しい所である。 一応「ゴミ拾いをしてみる」といった日常的にできる活動も、ある種の[わるもの退治]だったりはするが。 より砕いた表現として、"良いと思うこと"に範囲を広げて、世界を見渡すことが望ましい。 建設的な、文化的に「ポジティブなもの」などを探してみたりして、[文化の恩恵]を多く求めていくことである。できるのであれば、自ら建設的な活動を目指してみてもいいが、そのハードルはやや高い。 どうすればいいかと言えば、まず[文化的に評価されているもの]などを探し漁る活動をしてみることである。情操教育の一環みたいな話になってくるが、必要なのはまさにそれである。 分かりやすい所では[音楽]が、直感的な心地よさを期待できるが、他の芸術も当然良い。 現代的な表現をするならば、[推し]を見つけられることが特に良い。 また習慣の幅を広げることやリスクマネジメントも兼ねて、単一の推しだけに執着しすぎず、より多くの好みを探そう。 それで本当に解決するのかと言えば、必ずしもとは言い難いが、「"正しいと思えるもの"に触れる心地よい感覚」によって精神の安定がもたらされれば、精神の不安定さに由来する衝動的な行動は緩和できる。 (※深刻な場合は医学的、[薬学の物理的生理的な補助]も必要になる。) 文化的な、ようするに【芸術】などの「好ましいこと・好ましいものを感じること・触れること」は、人の社会的な満足感に働きかける効果がある。 人というものはそのようにできている。それもまた"正義欲求"なのである。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■4-3."正義欲求"、多くの[衝動・行動]の抑制、気持ちのコントロール ヒトはより広い方法によって、意図的に「衝動による行動」を抑制することができる。 [我慢]などによって、強く意識することで衝動を、自ら律することができる、場合がある。 [我慢]の他に、[代替]のようなものが大事である。前述した間接的な方法(欲求の充足での不安軽減)も、間接的な衝動のコントロール方法の一種であると言える。 脳の反応は時として同時に複数の評価を行っている複雑な多層構造を持つもので、 つまり「行動をしたい」という衝動と「行動をするべきではない」という気持ちが同時に発生することも当然としてある。そこで行動をしない気持ちが強く出ていると「すごくしたいけど[我慢]する」という状態も成立するわけである。 よほど重大に感じた物事においては、それを意識のみによって我慢することは困難だが。 ※他、日常的に[我慢]の気持ちが広く強くでるような状態だと、日ごろから行動が抑制されすぎて引っ込み思案とかになるといった場合もある。 この[我慢]をする判断は、環境適応システム・正義欲求の感覚へ特に依存するものだと考えられ、我慢に関する経験・記憶のベースに、より意識的に「それをやってはいけない」とする思考や、想像、記憶を大きくして、感覚の大本にまで馴染ませておく必要がある。 (※ただし肉体的な性質もかなり影響してくると知られている部分で、物理的に「[機能的に我慢が難しい]と表現される状態」の人、肉体的に[我慢]が難しい状況の人などもいる。この場合は自律的な[我慢]を求めることは難しいために、その他の対策・配慮を必要とする。) 単純な[我慢]だけではなく、予め意図的に[代替となる行動(代償行動)]を意識して用意しておき、[(我慢しなければならない)それをやりたい]という気持ちが起きた時に我慢と複合して[代替行動を実行する]よう条件づけをして、気持ちを上書きしてしまい、結果的にやってはいけないことの回避を試みる手法もある。 また「深呼吸をする」など肉体的な操作を含めることで理性的な働きを強め、より効果的抑制することが期待できると言える。 あるいはもっと根源的なところへの対策によって、抑制を目指すこともできる。 つまり「それをやりたい」という衝動を引き起こす、その感覚の大本の方を小さくすることを試みる状態である。 ただし、これの主な方法は「他の行動や他の意識で感覚を満たして済ませてしまう」といった[予防的な代償行動]と言える手法である。言い換えると「他のことで忙しければやる暇がない」という理屈。 またそれと合わせた気の長い方法として、[それから距離を取ることで、意識に出てくる占有率などが引き下がるまで待つ]みたいな力技もある。行動はもちろん、【想起することまでも意識的に別の想像をして抑える】という意識までも必要となる。 (つまり[依存性のあるもの]からの待避と似たようなことである。) * 欲求はいつでも満たせるものではないし、必ずしも満たせるものでないことは当然である。 そのために、その欲求を健全にコントロールすることは、とても大切な生活技能だと言える。 ただし通常、我慢だけではお腹は膨れない・心は満たされないという点にも注意は必要である。我慢はあくまでも[抑える]だけであり、渇望が満たされることは基本的にない。 一応、例外的に「我慢そのものへの好意」が生じていれば、多少満たされやすくはなるが、それは[長く修行をこなせる修行僧]みたいな、特殊な人だけができうるものと言うべきである。 * なお色々語ってはいるが、精神的に不安定な状態において本来まずやるべきは 「おいしいものを食べて、温かくして寝る」というような対応がまず一番大事である。 小手先の欲求への対処ではなく、まず肉体的に身体も頭脳も健康的な状態にすること。 肉体的な健康は、精神的な健康のための大事な基礎だ。 * ちなみに「個人的な欲求は[我慢をするべき]」という思想として、「自らにしか利益が無いことはするべきではない」という観念を持つ人、あるいはそれを他者へ求める人もいる。 どのような由来であるかは想像できるところだが、割愛する。 つまり「社会にいるヒトとして生まれているのならば、滅私奉公、生存のために必要なこと以外は全て社会に資することへ還元されるべきである」と考えているような観念である。 自らの意思によって社会に資することを志すことはとても尊い精神性だと、社会的には褒められやすい様子ではあり、時としてそれによって大きな社会的成果を残すことも見られるが、 しかしヒト種族として全ての個体でそれが最適になるようにはできていない。 むしろヒトとしての活動を狭めてしまうことは、活動の抑制につながってしまい社会にとっても不利益であり、またヒトの心理状態も悪化しやすく、個体として不安定になりやすい。 個人の感覚においてそれを望むことが高尚であっても、社会からそれを個人個人へ求めることは意外と不合理になりやすいのである。 極端な節制を強いられる環境においては、社会維持のために個人が余計な浪費をしてしまわないよう心がけるべき状況もありうると言えるが、そうでもない文明社会の環境においては文化的な豊かさにこそ意識を向けるべきであると言える。 個人が平和的かつ健康的に精神状態を向上させれば、それだけその個人の高い活動性を望むことができ、結果としてそれが社会に資する影響を及ぼすことまでも期待できる。(絶対ではないが) 個人自らにしか利益が無いことであっても、それが平和的かつ健康的で精神的にプラスの働きをするのならば、社会的に許容されるべきだと言える。(※[健康的]であること、肉体的な悪化をもたらさない範囲であることは大前提である) そのようにして個人個人が豊かに暮らしていけることが、豊かな文明社会を発展させていくためには重要なことである。 ただしあくまでも「平和的かつ健康的(社会と自他の安定や健康などに、実害や持続的な悪影響を及ぼさない範囲において)」と注文は付けておく。特にある程度許容されているものの、度を超してしまうと不健全な状態になってしまう、という場合には[我慢]も大切である。 あくまでも、節度やバランスをもって向き合うべきである。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■5-1.社会における"正しいと思うこと"の偉大さと、そして教育の重要性と難しさ 改めての説明になるが、あえて重々しく説明を連ねるならば。 ヒトは生来「"正しいと思うこと"という観念への興味と学習を行っていくもの」であり、それは肉体と経験と記憶、さらに思考や想像も含めて"正しいと思うこと"の感性が形成、適宜更新されていき、肉体とそうした環境適応能力を基として、生活をしている。 ヒトは大きな頭脳だけでなく、その"正しいと思うこと"への性質が動物的な基礎として存在することによって、人類文明を構築・維持・発展させ、繁栄してきたものであると言える。 非常に広い範囲の多様な地域や独特の性質を持つ地域にも生息できていること、またその中で様々な文化や技術が生まれ引き継がれてきたのは、その基礎があってこそだと考えられる。 社会として協力・互助や配慮、分担などによって集団でのシステムが形成され、さらに様々な地域ごとの常識的な社会規範がおおむね機能しており、途方もない個体数と超巨大集団を形成し、その持続をも実現していることも、その基礎的な性質が支えている。 なお詳細な社会性とは学習から後天的に習得するものだが、固定されたシステムではなく「生活環境の社会性を獲得しようとする性質」であるからこそ、極めて柔軟に地域の事情や状況に対応した性質を獲得しやすいようになっており、それによって太古から現代まで、そしておそらく未来においても、人類は長く存続していくであろうと想像できる。 さらに秩序の維持という面だけでなく、様々な文明の発展においても極めて重要な役割を果たしたといえる性質であり、"正しいと思うこと"への希求は「現状への不足の認知から、より良いもの・より良い状態を求める傾向」などとしても機能し、技術の継承と伝播、更なる発明などの基盤にもなっていった。 例えば「科学は世界に対する[より精確な情報と法則の理論](理論の正しさ)を求めることによっても整備発展してきたもの」であり、あるいは「数学は[より様々な観点から精確な検証をするための手段]の開発」としても探究され、そしてそれらが社会文明の発展を支えてきた。 それも遺伝子的には「太古のヒトとそれほどかけ離れた状態ではないままに」である。 * つまりこれは、極めて高度な能力を発揮しうる非常に優秀な性質を持った機能なのである。 こうしていわゆる[正義感と呼ばれるものの性質]がどれほど有用であるかの解釈を、並みの正義の解釈よりもはるかに有意義で有益で偉大で高度なものであるかも示せる。 だがしかし、非常に有力な機能であるがために、実用的なバランスは実情として非常に難しく、それこそ個人においては[欲求]であるかのように、慎重に扱わなければならない。 現実として全人類が安定した安全な環境で十分に満足できる生活をできるわけではなく、不安定な・危険な・不満のある、厳しい生活を強いられていることも珍しくなく、時として[正義感]から状況を打破するために、周囲や社会に対し対抗的な行動に至ってしまうこともある。 それはたとえ一般的に見て十分な生活をしていたとしても、不満を持つことがありうる。 * よって、ヒトは自らの"正しいと思うこと"を、生活する社会における社会的妥当性に合わせて扱うことを覚えることが、社会的に求められるものであり、それは幼少の保育を含め、適切な経験・知識を詰ませる学びを与え、妥当な社会性を構築するように、周囲・社会が誘導、教育していかなければならない。 それにはまず「社会が味方であること」を感覚的に理解できるように、必要であれば適切な支援や補助も行うことで、社会への信頼や安心を持たせることもとても大切であり、 その上でその社会において暮らしていくために必要となる妥当な社会性、道徳や倫理、法律などを教育していき、常識的な社会性を身につけさせることで、安全な行動にも誘導し、 さらにずっと「社会は嬉しいものである」と感じ続けられるよう、社会にある価値のあるもの、特に芸術文化や娯楽などに触れさせることもまた大事だと言える。 しかし生来の肉体的な性質による特殊な状態や、あるいは偶発的な経験による変化が生じる場合もあり、実際には個人や状況に合わせた細かい対応、指導教育が必要となるもので、とても手間がかかる上に詳細なバランス調整までも必要で、非常に高度な教育・指導が求められる。 とはいえ、現実的にそんな「十全な教育」ができるとは限らないし、それに多くの子どもたちは「自然と適応して育っていくものである」のだから、特に[重要・重大となる状況]において、より確実に補助や指導を行うようにすることが、現実的な妥協点である。 現実的にできることは「相手を適宜助けつつ導き、本当にダメなことを教えつつ、そして自分の力で進ませること」である。根を詰めすぎては冷静さを失い、バランスを失ってしまう。 時として、教育熱心であるがために[正しい教育]を極端に考えた結果、人道に欠ける教育となり情操教育が不全の状態となってしまうという例は度々聞かれる。 * 注意しておくが、社会的な妥当性として「法律が今許している」からと言って、それだけで全く問題が無いということはない。法律は社会にとって重要な規範であるが、法律は基本、社会の状況・時代に応じて更新されてもいくものであり、絶対の指針ではない。 またヒト個人は、法律だけで考えるわけではなく、あるいは法律よりも強い気持ちや衝動を持ってしまうことさえもある。そうした規範を失う衝動は[社会的に認められるものではない]としても、現実的に発生してしまうものである。 「道徳や倫理」を持つことは、自身が他者のそうした衝動の対象になる可能性を引き下げうるものであり、その身を守るためにもとても大事なことである。(配慮していても事故的に対象となってしまうことはあるものの、可能性は下げうる。) なお、いわゆる[マナー]とは、特に馴染みのない子供などにとっては意味が分からず、間違えると起こられる怖いものなどと思われてしまいがちだが、実態は「怖い規範」ではなく、 (特に長く継承されてきた)[マナー]とは、相手を警戒させないために必要となる道徳性や、またトラブルを避けるための合理などがパッケージされた所作であり、配慮や心遣いの表れであり、社会において円滑な関係を築くためにとても優秀な指針である。(※ただし不合理な思い込みを[マナー]としてしまう例もあり、全てのマナーに当てはまるものではない。) それは「社交の場という戦場における、身を守るための鎧だ」とも表現される。 ちなみに、例えば[教育以外の場面]でのマナー違反に対しては「他人の目もあるその場で指摘し[恥をかかせる]こと」は、それが一種のマナー違反だとなりやすい。 しかしながら個人の感覚とは千差万別で、片方が配慮もしていて全くそのつもりがなくとも、受けた側が気を悪くすることも珍しくなく、絶対の対策というものではない。なんならそういった配慮に怒りをあらわにするような例すらあるために、詳細はケースバイケースとなる。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■5-2.社会における"正義欲求論"について、そして[正義]の所在 "正義欲求論"の中身は「"正しいと思っている"からと言って、なんでもしていいわけではない」というものである。だが、字面からどのように解釈されるかはまた別問題である。 字面からはあたかも性善説のように誰でも正義をするんだと誤解することもできる。 しかし「たいてい、よく注意しなければ悪いことをしてしまう≒どちらかといえば性悪説の方に近しいもの」という考え方なのだが、そう解釈されるとは限らない。 あるいはもっと悪く「[<高潔な正義の理念>は欲望という野蛮な性質に由来する]などと見ている倫理性に欠けた暴論」などと解釈されてしまう可能性もありうる。 * 社会一般の倫理観の中の一種には、「[正義]とは高潔で高尚で理想的な人類普遍の理念であり、そうでないものは正義ではない、正義であってはならない」「高潔な[正義]を実行する意思は、崇高な人間性に由来する気高く尊い人格である」ような観念が、あるいは太古から、現代においてもなお広く存在している。 そのために「[高潔な正義の行動]と[正義を騙る情動]」の根源を、同一視してしまうことには、[高潔な正義の意思をも貶める]などの倫理的問題が疑われてしまうわけである。 研究においては、普遍的な範囲において「人助け」や「不公平への反応」などの分かりやすい表出の要素ごとの検証は行われているが、 [総合的な正義と生理的反応]という分野は、[正義は概念的に極めて広い上に、個人差や文化的な差が大きく、科学的な検証方法を用意することから困難である]という「科学的な難しさ」だけでなく、 【「崇高な[正義]の意思」などの観念を揺るがす可能性・貶めてしまう恐れという倫理的問題が想定されやすい】などの「社会的な難しさ」も、この点の科学的追究を困難なものにし、 さらに[その理論や研究結果を研究者や社会が受け入れられるとも限らない]という検証後にも大きな困難性が生じるという更なる「社会的な難しさ」が想像しやすいところである。 だが近しい科学的研究による傍証や、あるいは社会観察による行動分析などによって、その可能性の想定、あるいは「そう考えられる」という哲学・解釈の論自体も散見され、もはや社会的に[強く推定されている]とさえ言えるものである。 それなのに現代の科学において、そのための研究結果は見当たらない。(もしかしたら存在しているかもしれないが、目立っていないとしても不思議ではない。) それこそ、その詳細が厳密的に科学的な検証をされて「どうであるか」を実証されることは、将来たとえ有効な科学的手段が開発されたとしても、あるいは人類の科学史において永く認められないかもしれない。 古くからそのような歴史も存在している。特に研究結論の作為的な偏向、あるいは最悪の場合、捏造すらも想定されうるほどに。 <客観性の要塞>である科学の場であっても、「正義」という概念にはとても慎重な視点が不可欠である。「正義」そのものに対しても、科学的結論に対しても。 特に人類の文化的な要素への研究とは必ず検証対象の文化的背景が影響するものであり、その中でも【生存者によるバイアス】を避けることは至難である。 研究への参加者・研究対象となりうるようなヒトであれば、たいがい"社会・他人に慣れている"ことが多いと容易に想定でき、意図せずともサンプルには偏りが生じてしまう可能性が極めて高く、現実的には必ずあると言える。 * そもそも「社会的に現存している[正義]と呼ばれるもの」さえも【世界で生き残ってきたもの】という[生存者]側の立場の存在である。[正義]と呼ばれるものさえも、その詳細は「いわば<ダーウィン進化論的>な経緯によって生存し選び抜かれた[思想]」だと説明できる。 実際の世界において[正義]の内容が「共通点を持ちやすい」と言える状態には、そのような「生き残っている存在というバイアス」が生じている可能性が否定できない。 それは歴史上の「当時は[正しい]とされながらも残らなかった文化」の死屍累々を見れば、その可能性は非常に高いと言える。 * 「現実的な倫理性」を構築するのであれば、それは最新の科学ではなくヒトが古くから用いている手法に頼らざるを得なくなる。 「個人が必ずしも社会に資するわけではない」という現実から、個人に[絶対の正義の根拠]を求めることは、まずとても非現実的である。 その中において[社会的な正義]として評価されうるものは、[社会的な正義に適う方向性をもった個人]であり、とりわけ<人類に資する高潔な意思>と見られるもののことである。 [正義の価値]とは【社会から見た、共感と合意】によって生じる、相対的評価だと言わざるを得ない。現実的な倫理性とは、その前提の上に立脚させる必要がある。 【社会的な正義】とは、実質的に人々が互いの正義や価値観をすり合わせ調整し続けながら形成していき、妥当性をとって合意される、社会的な妥当性の産物ではある。 また現実的には、個人がその社会的な正義に合わせながらも生きていくものであるが、 社会の人々がそれに共感・合意しなければ社会的な正義として機能できない関係性である。 例えば「仮に、ある日突然ヒトの上位存在が現れて、[新しい規範]を示したとしても、ヒトの性質そのものが変更されない限りは、従うのは合意したものだけであろう」と強く予想できる。何ならそれは「万が一科学的方法によって、ヒトという存在の使命が発見・証明されたとしても───」と言い換えても当てはまり、[本質的な絶対正義]などと考えても、同様である。 しかし、現実の社会的な正義が妥当性とは言っても、安易に低俗なものとは限らない。 人々が正義という理想を含む観念をすり合わせて形成するものであるため、それは【多くの人々の理想を共有しうる[崇高な精神性]】を持ちうると言える。 つまり[社会的な正義]とは、社会システムによる[外部化された理知]として、人の上位に位置する概念として掲げられているものであり、そこから人へと社会に適う正義の観念をもたらしているものだとも表現できる。 (こう説明すると倫理的に疑われそうだが)ようするに、[社会的な正義]やそこにある「現実的な倫理性」の存在方法とは、長く続く宗教の手法とその構図を同じくするものである。 大切なものだと掲げる。古くからそれが、最も合理的かつ効果的な手段だったわけである。 多くの民衆に深い理知も広がった現代においては、それをより広く社会的な手段によって、多くの人々の正義と希望と理想を合わせながら、各地域社会にも合わせ、更新され続けている。 そして、それでいて社会通念の立場は、人々がそれに適うことを願う関係にある。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■5-3.社会における、正義への信頼、その必要性 繰り返しの話題になるが。 「人類普遍の正義があるはずだ」とその理想を追求することは一つの哲学的命題としてはとても有意義な理想論と言える。 だが現実として、社会的な正義の在り方では、社会的な妥当性、社会的な共感と合意がなければ、社会的な正義として機能しない。 たとえどれだけ「絶対的に素晴らしく・崇高で・人類を豊かにするものだ」と語られたとしても、人間的な現実性に欠けていればそれは実現しえない。たとえ「もし万が一、科学的な手法によって人類の命題・人間の絶対的な正義が発見、証明されたとしても、人類がそれに共感し同意できなければ、社会的な正義としては成立しえない」と言えるのが現実社会である。 現実的に、社会的な正義は常に一意なものではなく、[あの地域・文化の正義]と[異なる地域・文化の正義]では、その価値観の異なることが当然としてあるように、[正義]の認識は多義的に存在しうるものであり、あるいは同じ地域であっても、時代の変化・社会の変化によっても変化しうる。 そして、それら全てがその時の当人たちにとっては、おおよそ「大切な[正義]」なのである。 * しかし「社会にとって[正義]という観念は、強く[正しいもの]として信じられていなければならない」という道徳的な事情の現実がある。 社会という構造体において人々の規範への意識が無くては、その維持に支障が出る。 よって社会を安全に安定を保ち、あるいは有意義な発展や理想的な繁栄を望むためにも、より多くの人々に[正義]の観念を遵守、あるいは配慮して生活してもらうことが重要である。 だが、ヒトもまた意思をもって活動しているものであり、[正義]であってもそれは一方的な押し付けではなく、相互的な関係性による信頼関係が無ければならない。 つまり、その[正義]が共感・合意・信頼できるものであるからこそ人々は守るわけであり、そのために[社会的な正義]とは人々の共感・合意によって形成・成立しているものである。 一方で、誰もかれもが「[社会的な正義]とはかくあるべし」と深く考えられるわけではなく、掲げられている[社会的な正義]へと頼る人々もまた少なくないのも実情である。 <合意や共感さえあれば>、やや非現実的な理想の倫理観さえ広く存在しうる。 「[正義]とは高潔で高尚で理想的な人類普遍の概念であり、みんなを幸せにする。」 「高潔な[正義]を実行する意思は、気高く尊い人格であり、みんなを幸せにする。」 そのように考えること、あるいはそのように考えてもらう方が、社会規範の習得方法・指導方法としては格段に分かりやすいとすら言える。その分かりやすさゆえに共感・合意が得られ、古くから倫理性にそうした考え方が広く根差していたと言える。 それにより[社会的な立場からによる規範]が、広く適応されてしまうこともあるわけである。 社会的に合意も共感もされない理念は、イコール社会的にとって受け入れがたいものであり、時として[悪者]や[敵]としても見なされてしまい、[1つの正義]は[敵]が多くなればなるほど、それだけその安定性や実現性が損なわれる。 それを避けるために「共感・合意される妥当性」が不可欠で、また広い妥当性があるならば[多数の正義の協力]を可能とし、互いの合意によってより広い社会的な正義をも実現しうる。 * だからこそ、あらゆる[正義]は慎重に形成されなければならないし、更新し続けなければならない。 暴走した正義が悲惨な結果になることは、現代において常識と言える知識である。 また古い価値観においては、大切なこと・重要なことが残っていることはあれども、現代において不合理になっているものも珍しくなく、時代に合わせた更新も大切である。 また形成・更新には、当然、直感的なものだけではなく、歴史の知識教養やそれによる予測的視点、現実的な社会情勢、また理想的には道徳、人道、倫理なども踏まえ、特に【自ら妥当性もなく[敵]を生み出してしまうことが無い】ようなものを、人々が共感し合意することが望ましいと言える。特に社会文明という構造体にとって、むやみな争いは忌避すべきものである。 それにはより多くの人々がその形成に携わり、その認識を共有し、その知識を広め、それを指導していき、さらに多くの人々の思慮を合わせ、そして共感によって合意されるべきである。 そうして、より現実的かつ平和的な、人類史上最大限の[人類普遍の概念]として成立しうる。 そして、それは常に、未来から見て妥当でない可能性も大いにある。 * 時として、その社会の妥当性に対して違和感を覚え、受け入れがたく思えたとしても、【社会において生きるならば、社会的な妥当性を蔑ろにすることは、社会的な正義からの離別となりやすく、社会が味方にならないことになりうると理解しなければならない】。 実践的には人が関わる限り、広義には見られるところである限り、それはついてまわる。 それは個人にとって共感の乏しい[社会的圧力による強制的な合意・従属]の構造となってしまうが、それが「他者を受け入れなければ、通常、他者は受け入れがたい」という社会の構造と限界であり、現実的にそうならざるを得ないために、社会的に妥当性をもってしまっているものである。 例えば理論的に、「他の人類から発見されえない場所において、個人あるいは小集団である場合、そこにはその人・その人たちの価値観しか存在せず、そこに広く社会的な妥当性を目指す合理性や意義が生じない」ために、そうした非社会的状況であれば、おおよそ自由である。 しかし現実、[社会の中]において、その環境は存在しえない。十分に気密性のあるプライベートな空間での行動に限られるものである。知られてしまったら、それは社会の一部になる。 なお個人の"正しいと思うこと"は、社会において直接的に正義となることはないが、社会的な手続き、つまり社会的な妥当性を獲得する、社会からの共感と合意を得る、つまり多くの人々を納得させるという方法によって、その妥当性という条件を満たせる範囲においては、通念上認められるものである。 もし広く社会的な妥当性を認めさせることができれば、発端は個人や小集団であったとしても、広く社会的な正義を変えることもできるものである。 それは理知的に行われれば理想的でもあり、そして、直感的に行われれば危険性を伴う。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■6-1.芸術文化の社会的重要性、"良い感じと思えること"の共有 【芸術】への活動、おおよそ"良い感じと思えること"の文化的活動は、 社会において極めて重要な役割を持っていると言える。 * 先に芸術哲学の話、哲学的表現になってしまうが、【[芸術の価値]とは、作品だけでなくその周辺情報を含めて、「いかに人の心を動かすか」というところに存在する】と表現できる。 単なる快・不快ではなくより広い範囲として「意識や感覚を動かされる」というところに、その意義が存在する。それも全人類共通でなければならないわけではなく、[誰か一人の心だけ]であっても、それも[作者自身]だけであっても、それぞれにとっての[価値]があり得る。 反対に「心が動かされなければ、その人にとって価値を感じない」というのが実情である。 あらゆる芸術文化とはその「いかに人の心を動かすか」という至上命題を背負って存在していると言っても過言ではなく、またそれが芸術文化でなくとも[芸術的]と言われる理由である。 芸術の社会的な評価とは色んな要素をあげつらって語られるものの、それは[いかに人の心を動かしたか]の多寡・強弱に由来し、細かい要素はあくまで心を動かすのための手段だ。 そのため、まずここで上げる【芸術】とは、いわゆる芸術文化に限ったものではない。 いわゆる造形、音楽、舞台、文学、映像などなどの芸術、カルチャー・サブカルチャー、古典的芸術といった一般的な芸術領域だけではなく、「芸術的」と評されるようなあらゆるもの。 特に非人工物の自然を見ることも、見惚れるスポーツを見ることも、あるいは工業的なものまでも含むあらゆるデザイン、あらゆる工芸品、結果的に見ることで心理的効果を与える街並みや工場のようなものまでも、それらを見ることも一般的な芸術と同様の心理効果が生じうる。 その効果の一部は、専門用語でも[美的体験]として総合的に扱われている。 ここではそれらをひとまとめにして便宜的に、短く【芸術】として扱う。 またその効果・条件は、個体ごとの、個人それぞれの感覚、感性に依存するものである。 ヒトにとって"良い感じと思えること"は、その肉体的感覚だけでなく、肉体の性質、経験や記憶、知識・教養、あるいは思考・想像他によって極めて多様な方向、多彩な形態、複雑な多層構造を持つ。場合によっては「肉体的には不快であるはずのものを好む」こともありうる。 またこれは対象そのものだけではなく、それに関わるあらゆる情報がその感性に影響を与える。その感覚は常に更新され続け、特に同じ人が見ても[1度目]と[2度目]というだけの違いでも普通持っている[経験・知識]が以前と異なるため、得られる感覚には差異が生じる。 感覚には[慣れる]部分もあり、特に強い感覚は[初めて見た時]に限られやすいといった事であり、しかし「新たな知識を持ったうえで見返す」ことでまた別の感動を得られる場合もある。 * 現代の社会における[個人]には、精神衛生の向上という面で【芸術】などによる精神的な充足はとても大切である。有体に言えば「芸術などを楽しむことでポジティブさを持てる、維持できる」ということで、おおよそ「【芸術】が社会を回す個人の力になる」関係性にある。 あるいは【芸術】が、個人にとって社会を守る大きな理由の一つになるとすらも言える。 その効果は非常に強力な場合、強力すぎる場合もあって適切な節制も大切ではあるが。 * またヒト個人と社会の関係においては、【芸術】の効果によってもたらされる[共感性]も、とても大きな役割を担っている。特に【芸術】は強い印象、心理的衝撃などを与えることがあり、それによってヒトの感覚の大本へ働きかけ、部分的に変質させていくことまでもできる。 社会は【芸術】によって、個人への様々な教育・指導、あるいは文化的知識・教養の継承を行い、社会性の形成を補助することをしている。 またその文化的活動によって、様々な人々の感性が共有され、時に多くの知識・教養までも伝えられていくことで、人々の共感と知性の下支えをして、より広い文明への理解、あるいは[他の文化への理解]といったものにまで影響してくる。 視点を変えれば、個人は【芸術】からもより多くの感性や体験、より多くの知識や教養などを自らの知識・記憶へと取り込むことにより、より複雑な社会や様々な文化・文明との関係性の基礎を作り上げることができる。そうした関係性を持っている。 分かりやすい所としては「物語を持つ【芸術】」は、例えば[絵本の読み聞かせ]が特に幼少の情操教育と言語教育として機能する合理的な娯楽であったり、他にも大人でも様々な物語から社会的な知識教養、人々の持つ思想の知識・哲学的な教養までも得ることができる。 歴史的に見て、古くから神話やおとぎ話が人々を導いてきた。あるいは印刷技術の普及した時代からは数多くの複雑な物語が溢れることで、[社会の倫理観]に劇的な変化が見られた。 他にも音楽の【芸術】は、聴覚や触覚からの印象深い情報による強い共感性が、小集団の連帯感から大規模集団の一体感、個人的な気持ちへの影響など、多くの役割を持って人々へ深く影響を与えてきた。 当然、個人においては、そうしたものを社会へと発信する手段として扱うこともできる。 【芸術】分野とは、人類文明・人間社会において、とても重大なものなのである。 * それこそ大げさに言えば、理想論として【人類文明とは、芸術・娯楽の発展を追求しなければならない】とすら語れる。 特に現在、現代史として記される時代における、人類文明の飛躍的発展とは、【芸術】と娯楽の文化の発展が非常に大きな割合を占めているものだとも表現できる。個人が芸術・娯楽の文化によって動かされ、芸術・娯楽のために、文明とは飛躍的な発展を成し遂げているのだと。 単純な話、人類が物質的な充足を目的とすると、世界に存在する物質という限られた資源を奪い合うことにならざるをえない。それでは豊かな土地の奪い合いになってしまい、戦争は地域文明の破壊を招き、荒廃させる。文明という意味において、戦争とは決定的な停滞、あるいは後退をもたらしてしまうものであり、[人類文明]という視点において人類の戦争は容認されてはならず、それを避けることが文明の責務である。 そのため人類文明は、精神的充足の可能性を(健全な形で)目指さなければならないわけであり、よって【人類文明とは、芸術・娯楽の発展を追求しなければならない】と語れるのだ。 * 【芸術】の文化とは、それほどまでに意義深く、重要な文明の一翼なのである。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■6-2.芸術文化の個人的重要性、"良い感じと思えること"というガソリン 【芸術】と個人のかかわりについて。概要は既に話しているが改めて主題としてまとめる。 おさらいしておくが、ヒトにとっての"良い感じと思えること"は、肉体的な基盤をベースとしつつ経験・記憶・知識、思考・想像他などの複合によって、極めて多様な方向性、多彩な形態、複雑な多層構造を持つ。例えば特に経験・記憶によって差が生じるために、1度目と2度目とではその感覚が大きく異なることもよくある。 短絡的な感覚とは限らず、[肉体的に不快であるはずのものを好む]ということすらありうる。 また対象そのものだけではなく、それに関わるあらゆる情報がその感覚に影響を与える。 これは【適応性嫌悪好感モデル】における環境適応システムに由来する["感性"]である。 また、そうした嗜好・好意の対象自体はいわゆる芸術文化として分類されるものに限らず、芸術とはみなされない文明や文化、あるいは自然を対象とすることも当然としてある。 ここでは便宜的に、【芸術】としてひとまとめに扱う。 * ヒトは[【芸術】を楽しむ]ということによっても、精神的な充足を得ることができる。 苦しい時、悲しい時にはそこへ寄りそうような【芸術】によって心の痛みや疲れを癒したり、あるいはものによっては【芸術】によって気分がアガり、よりポジティブな精神状態へと誘導され、心理的な活力を湧きあがらせ、生活を広く豊かにするという場合さえもある。 そうした精神的な充足によって、心理的に安定した生活をも望みやすくなる。 ちなみに現代的な表現で言うところの[推し]とは、おおよそ熱狂的にそのポジティブな状態がわきあがる相手を指す。これは人の心理に極めて大きな影響を与えるものであり、一部の好例においては、紳士的に「[推し]に恥ずかしくないように」と、規範意識をも持ちうる。 なお、そうした現象自体は、太古から存在していたであろうと言える。 現代の社会では特に、[個人]にとって、精神衛生の向上という点において【芸術】などによる精神的な充足はとても大切なこととなっている。 現代社会において求められてしまう[個人]に対する責任など、環境的圧力から生じる心理的負担は非常に重く、「現代人は精神的健康のために、芸術などを楽しむことが欠かせない」とすら言えるだろう。文明によってかかる負担に、文明で心を支えているのである。 * ヒトはその性質上、日頃から「"良いと思うこと"をしたい」と願うようにできている。 しかしヒトにとって能動的な"良いと思うこと"が日常的にできるとは限らず、あるいは日常的に[嫌なこと]ばかりで小さな"良いと思うこと"すら貧しく、精神をすり減らしていくこともしばしばある。 【芸術】に触れることは、そんな生活において、やや受動的に"良いと思うこと"を得られる行為として心の栄養となるわけである。あるいは能動的に、【芸術】という様式をとった自己表現、自己実現などもまた、自発的に用意できる"良いと思うこと"になりうる。 【芸術】によって、より平和的にヒトは心の充足や安定を求めることができるのである。 特に精神的に大変な状態においては、心を強く動かすような【芸術】が、時として<カンフル剤(※かつて死にかけの生命維持に用いられたもの)>のような役割をも果たす。 極端な例ではあるが、生きた【芸術】に魅了されて、それを<活きる糧>として精神を補強していき、苦難の生活を通り過ぎるといった体験が語られることも見られる。 <死にかけている心理状態をも蘇生しうる>、それほどまでに強く感じさせる【芸術】体験もありうるわけである。 あまりに強すぎるために、当人ですらその気持ちに恐れを感じることさえある。 場合によっては、興奮からハリキリすぎて暴走してしまい、まるで漏れ出した可燃物・爆発物のようになってしまうこともありうるために、のめり込み過ぎて好ましくない状態に陥ってしまわないように、気を付ける必要もある。 【[推し]に恥ずかしくないように】また【[推し]に恥をかかせないように】ということだ。 * 現代文明の便利さと引き換えに、相応の大変さや重圧もかかりやすい現代文明において、【芸術】とは非常に重要な、人々の心の栄養、精神的な燃料として、働いていると言える。 常識的な範囲で、健全に、広く適度に楽しめば、それは豊かな生活を支えるものである。 * なおいわゆる芸術の分野とは、単なる[享楽]としての【芸術】ばかりではない。より深く理解することによって、【芸術】をより鮮明に見る目を養うこともできる。 例えば歴史的名画を見る場合には、ただその絵面のみを見るだけでは、[歴史的]である背景は分からない。いつの時代、どのような意図や経緯で、どんな対象を、どのような構図で、どのような表現で、[どのように作られたのか]や、さらに[どのようにして語られてきたのか]を、知ることで、名画から拾うことのできる情報、教養はとても多くなる。 また特に時代背景を知れば、それは「歴史的な流れ」さえも学ぶ機会になる。 やや極端な例ではあるが、「印象派」と呼ばれる作風が登場した歴史的背景には、産業革命による社会構造の変化までも存在する。様々なものの大量生産ができるようになり、さらに様々な人たちが経済的な力を持てるようになっていく時代の流れにおいて、挑戦的な作風がしやすくなった社会環境から生まれ、そこから[見る側に教養が乏しくても心地よい作風]などの特長から、(アカデミックで権威主義的な層以外から)親しまれるようになったと言える部分が存在する。それが専門家だけではなく、現代の一般人にまで親しまれやすいゆえんだと語れる。 (なので「印象派」についてはこうして語るほうが野暮とすら言われかねないところであるが、[現代まで目立って語り継がれるほどの「雰囲気の良さ」]があったわけである。) あるいはもっと直接的に、解説などによって学びを伴った【芸術】から学習自体をすることができたり、他にも物語において登場人物たちの精神性を見せる【芸術】からは一種の知識・教養としての思想哲学が飲み込まれていたり、 単なる心理的な充足だけでなく、ある程度の実用性を伴うような【芸術】分野もあり、ただ口を開けて受け取るだけの享楽に耽るばかりではもったいない。 * 文明社会で生きていくならば、 多種多少・多彩な【芸術】を健全に親しむことは大事な[処世術]となっているのだ。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■(A追記章)7-1.ヒトの予測的機能と、[正常性]への思い込み ヒトは「環境適応システム」から【「[このようにあるはずだ]という慣例の予測」を行い、「現実の結果・状況」が[予測]から外れていると違和感を感じ、それが「正当性」という面において発露するものが「不正・不公平」の認知となる】という機序が考えられる、という話をした。(2-3参照) ただしその理論においても、それは完全な正当性・公平性を保証するものではない。あくまでも「個人的に"正しいと思うこと"から、外れているかどうか」というもので、その個人の["感性"]が、客観的にも[正当・公平]であるとは限らない。 それこそ「環境適応システム」は、例えば「自分は[大事にされること]が当たり前なんだから、そうでないことは[正常ではない]、自分をないがしろにする相手が[間違っている]んだ」などとなってしまうような認知をも引き起こしうるものである。 そしてそうした[思い込み]の性質は当然、極めて広い範囲において、様々な形で表出する。 過去の経験・記憶から、「あれが正しいはずだ」「これはこうあるべきだ」という[正常性]、偏見的認知、<先入観>を形作ると、強く考えられるわけである。 なお[思い込み]は短絡的な発想だけではなく「考えた上で、その結論からそれが[正しいはずだ]と感じるように感覚が形成される」という機序によっても発生しうる。 「非常事態での[正常性バイアス]」などは冷静さから生じてしまいやすいと考えられる。 * その<先入観>、[予測的認知]は、必ずしも客観的に悪い状態で表出するわけではない。 その[予測的認知]が[状況]に対して適格であれば、たとえ実際の状態を十分認識できていないとしても「正常な状況認識をしている」と言われる状態を作り出すことができる。 状況確認において、意識上の重い情報処理による状況把握や状況予測を必要とせず[瞬時に]、その場に合った判断をできうるわけである。確実ではないが、学習次第で高精度にも。 問題が発生するのは、その[予測的認知]が[状況]と全く違う状態だという場合である。 つまり[思い込み]によって、その場に全く適さない認識をしたままに、対応をしてしまうことになる。それによる問題は非常に多くの場面において発生するため、その方向性は多種多様で、それらの例を網羅して説明することは難しい。 そのために、こうした点については一括りにして語られる。 「[思い込み]で判断してはいけない」と。 * [思い込み]によって判断してしまうような癖には、社会的な危険性が転がっている。 典型例として「他人が間違っているという[思い込み]」は、その[思い込み]が正常でなかった場合・相手が本当は[正しい]状態であった場合、それは[強い失敗の経験]あるいは[罪悪感]も感じうる非常に[恥ずかしいもの]である。 それによる言動次第では社会的な立場を危うくするような結果さえ招きかねない。 そのため「[正誤の判断]は努めて熟慮しておかなければならない」のだ。 その点についてよく留意している人は、[他人の間違い]あるいは[他人の疑わしい状態]を目撃した場合、まず真っ先に【自分の認知を疑う】という手順を踏む["感性"]を働かせる。 時には調べた上で適切な手段を考えて実行する。 これは特に学術的な物事の扱いに慣れている人だと習慣として備えていることが多い。 またそれに類するものとして、「[自分の立場が上・相手の立場が下]という状況認識において偉そうに振舞うことが[正常だと思い込む]という事例」は、珍しくないありふれた["感性"]だと言えてしまうが、当人にとって正当な権利を行使・主張しているかのように感じていても、 周囲には「尊大に振舞って相手に余計な負担をかけてくる人」に見られるものである。 [自分が正しい位置にある]という感覚は心地良さを感じてしまいやすいものであるが、実際には社会的な評価を落としてしまっているばかりである。 [社会的な見られ方]・[客観的な評価]を理解している人は、例え本当に偉い立場であったとしても、できる範囲において余計な負担をかけないような配慮を心がけて、社会的にあるべき[気高さ]を見せるのである。 それは利益が無く自分が損をすること、ノブレス・オブリージュのような理想論ではなく、 実態として「自分の立場とは、[自分がその立場に存在するから]という絶対的な理由ではなく、[自分のことを周囲がそのように評価する状態であるから]という相対的な理由であるために、相対の相手をないがしろにしてはならない」という非常に合理的な社会性の姿である。 またそれら[一歩引いて振舞うこと]は「もし万が一相手の方が[正しかった]場合・偉かった場合にも、[紳士的な態度]に一貫していれば心証を悪くされにくい」という処世術でもある。 ただし、相手の文化的背景によっては「[紳士的な振る舞い]で気を悪くされる」という場合もあるのが、["感性"]と振舞いのとても難儀な所である。 特にいわゆる野性的な、「力関係によって立場や扱われ方が決まる」ような文化的価値観の人たちには、「こちらが認めてないのに偉そうな振舞いをしているよそ者」のように受け取られてしまう場合もある。 そうした場合に限らず、[配慮]そのものに対して、それ自体が「甘く見られている・自分が下に見られている」などと感じて、強く「気に食わない」と思われてしまうことがあるのだ。 「上品に接すれば間違いない」という認識もまた一種の[思いこみ]となってしまいやすい。 * しかしながら現実的に、ヒト社会の関係において「[予測的認知]・[思い込み]の能力」があるからこそ、機能していることは非常に多い。現実的に、その機能に頼らざるを得ない。 特に、一般的な状況における「規範・モラル」とはその[予測的認知]・[思い込み]を作ることによって、その合理性の理解よりも前に「規範・モラル」を習得させることが多い。 考える力の乏しい段階にあっても、[そのようにあるべきもの]という認知をさせることで、社会性を確保させる・社会性を確保できる。そうして社会の規範が広く守られているのである。 「[できる]からといって、[やっていい]わけではない」と広く理解してもらえていなければ、他者は「[できない]ようにする」ためのコストを強いられ、結果的に全体的なコストが増大していき、みんなが苦労を強いられる結果となる。 一部でも人々が規範を失ってしまうことには、より多くの人々が不利益を被ることになる。そうした事情からも、合理性の理解よりも前に、なるべく早く、そして強く習得させなければならないのである。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■(A追記章)7-2.ヒトの予測的機能と、「詳細を省略した認知」と人の暮らし ヒトは「環境適応システム」から【「[このようにあるはずだ]という慣例の予測」を行う】という話をしてきたが、これは当然「自らの行動による結果の予測」などにおいても発生する。 その様子は【[魔法]・[呪文]・[儀式]】のようなものと例えることができる。 それは超常現象やオカルトの話ではなく、現実における心理的な【認知】の比喩である。 その極端な例は「話せば分かる」という[魔法の呪文・儀式]である。 これは【[話す]という行為(魔法の儀式)によって、相手は自分の言い分を飲み込む】という意味合いにおいて用いられる[呪文]である。そこに「論理的な根拠」が存在するとは限らない。 現実的には「できるだけ説明をしても、他人には必ずしも共感してもらえるわけではない」のだが、とても安易に用いられる。そして、実際に話してみて理解されなかった場合、予測と現実のギャップに強い不満感、不快感、あるいは不安感を生じさせ、たいてい[相手の落ち度]のようにすりかえる。(冷静に言うなら「話を聞いて欲しい」として、[相手の状態]の予測を含めず、あくまでも「自分の立場を説明する」のが現実に即してる。) それに類する例として「命令のようなお願い」などの形をとった、[魔法の呪文]もある。 基本として相手を選ぶが【この相手に頼めば、希望を叶えてくれる】という思い込みで、時として「相手をもはや[人間]ではなく[希望を叶えてくれる現象]として見ている」ような言動さえ見られる。(冷静に考えれば「他人は[叶えてくれない]のが基本」であって、希望が叶うかは相手との関係次第。どうしても必要な場面であっても、他人にも人としての事情がある。) そうした「因果関係の論理的な理解をしないままに[思い込み]で解釈している」状態が、 理屈の理解せずにそうなってほしい・そうあってほしいと思う【[魔法]のような認知】、 機序の理解せずにそうしたいという【[呪文]のような言動】【[儀式]のような行動】である。 そして時には作為的な【嘘・虚偽】すらも「目的のための[魔法の呪文]」として唱えうる。相手を慮るのであれば「嘘も方便」ともなりうるが、他者を貶めるようであればそれは悪辣な非行である。 * そうした[思い込み]が生じることは対人関係に限らない。 もう少し文化的な例としては、【[お金]は[魔法]のように発生する】と認知されがちである。 [経営][商売]の理解が浅い、特に[労働者・被雇用者]は【[労働]という[魔法の儀式]によって[お金]が生じている】と言える立場にあり誤解しやすい。ただし[経営者]側でも【[労働]が甘いから生み出す[お金]が足りていない】かのように認知し、経営が持つべき責任を転嫁してしまう例もある。(社会的には[経営者]側が「労働者へ安定して[賃金]を支払える経営状態を成立させなければならない」という責任を持つ。) その認知だけでは【すごい[労働]なら[大金]を得られる】などの誤解も生まれやすい。 実際は【まず[大金]を支払える商売相手が存在して、その[大金]を払ってもらえる商品・サービスを提供することができて初めて[大金]を得られる可能性がある】という因果関係で、 その経済の理屈を理解していないと、「甘言につられて危険な仕事へ導かれてしまう」といった社会の落とし穴へとハマってしまう恐れが大きくなる。 また「努力をすれば報われる」という標語は広く知られているが、それ自体が【努力を導くための[魔法の呪文]】であり、その実態は「努力(儀式)をすれば報われる魔法」ではない。 安直な勘違いをすると「自分が努力と思うことをしているだけで半自動的に報われる」と誤認することもしばしばある。実際には「報われるために有効性のある[適切な努力]が必要である」ため、盲目的に行動をしつづけてればいいというわけではない。 その言葉の真価とは【何かの目標のためには苦しくとも相応の努力が必要になる】もので、「努力による[体力の消耗・時間の消費]の末に何の成果も得られない失敗に至る」という可能性もあり、努力をし続けることにはその恐怖を乗り越える相応の信念・心理的な強度が必要となる。その心理を支えるのが「努力をすれば報われる」という[魔法]への信心なのである。 * こうした[思い込み]の認知、あるいは「心理的技法」は、例に挙げたものだけではない。 感覚には個人差も多く、本当に多種多様なものがあり、その全てを列挙することはできない。 現実的・実用的な話として、「[大金]があれば幸せになれる」と[魔法]のように考えてしまうことはそこまで的外れでもない。厳密には「後生大事に[大金]のまま抱えても[大金]以上の幸せにはならない」と言うべきだが、[お金]があればより多くの文化的な恩恵を得られ、またお金で抑えられる不幸もあり、結果として幸せになりやすいと現実の因果関係も説明できる。 「[お金]は大事だが、もっと大事なものために使うもの」ということであるが、 まずは理屈はともかく「お金は(安定して)稼げる方が望ましい」と教えるわけである。 より神秘的な意味合いを持った行動については、文化的行動においてその事例が観測される。 例えば【祈り】とは、物理的な分析をしてしまえば、それだけでは現実的な事象をなんら引き起こさない[魔法の儀式]の一種である。ただ【祈り】には[心理的な効果]があり、深く思いを寄せることで深層的な記憶を狙い、将来の行動を導く実用的な手段の一つでもある。 「直接的な因果関係」はなくとも、とても効果的に「心理的影響を及ぼす」ことが期待できるために、その[魔法の儀式]は世界中広く見られるわけである。 * ヒトは思ったよりも様々な【[魔法]のような認知】と、それによる【[呪文]のような言動】や【[儀式]のような行動】に半ば助けられながらも、日々生活をしているものであり、 そして、それらもまた「環境適応システム」の性質なのだと解釈できる。 例えば「わるいことをしたら怒られる・犯罪は警察に捕まる」という認識は【[魔法]のような認知】であっても持ってもらえることが個人にとっても安定した生活を導き、また社会的にも有益であるため、その点を悪しきに断じてしまうことはできない。(ただし、かといって単純化されすぎて[怒られていないからセーフ]などと思われても危険という面もある。) そのようにして広められている・広まっている【[魔法]のような認知】は少なくない。 また、その【[魔法]のような認知】全てから脱却することは非現実的である。物事の全てに対してその都度詳細に考えられるほど人の頭脳は高性能でもなく、あるいは[思い込み]からの脱却により個人的な価値基準の喪失から非人道的な心理状況に陥る恐れまでもある。 ヒトは[思い込み]と、うまく付き合っていかなければならないのである。 警戒しなければならない所は「現実の何かが思うようにはいかない」という状況において、物事を単純化しすぎて考えて短絡的に「その何かが悪い」と認知してしまいうる所である。「悪い事が起きるのは、悪い事をされたから」というような誤解だ。 因果関係を[想像]のままに判断してしまうのではなく、現実的にどのような因果関係によって引き起こされたのかを理解するように努め、「いたずらに誰かを[わるもの]にしてしまわないよう努めて気を付けるべき」である。 "正義欲求"を暴走させるようなことにならないよう、努めて慎重さを持つべきだ。 特に【無自覚な悪意】などという解釈は、あらゆるものを悪意とも認識しうる過激な価値観である。

※注記:「(客観的)[正しさ]」と「(主観的)"正しいと思うこと"」は別々の概念である。
※注記:ここにおける「正義欲求」とは、厳密な[規範性]などに基づく性質のことではない。
※注記:これは科学的論文などではない。概念論・文化論である。

■X.あとがき "新正義欲求論"とは まず先に。 ※筆者は、いずれの専門家でもない。あえて言えば、個人の与太話である。 半ば個人的なメモとして残すものであり、これについて社会的な責任をかけられても、ヒヨコを大統領にするようなものである。責任逃れとも言えるが、責任を持てるほどの背景が存在しない。場末の個人の与太話である。 何か質問があったとしても、それこそそれを答えていいほどの人間ではない。その知性についてそう強く信じられても困る。 * 新正義欲求論(2025)は、若い頃にまとめた「正義欲求論」(2014年・2016年・2017年)から長く経ち、改めてより多くの情報を持ってまとめなおしたものである。 古いものは読み返すと、とても感情的に様々なケースに対する要点ばかりを書いてしまっており、若い書き方であると感じたが、しかし今でも当時の考え方から[根本的な部分]は変わることは無かった。その間に経験や新たな知識は多くあっただろうと思うが、それを踏まえて「表現を整える・情報を整える」ことが、主となった。 大きな違いとしては、より広い知識から補足的な情報を多く付け加えているところで、それがあまりに多すぎるために、文量が元から非常に増えてしまって、かなり冗長である。 それこそ若い方が感情的な訴え方として簡潔だろうとすら思える。(読んで欲しいとは言い難いが) 以前は難点ばかりあげつらっていたわけだが、社会的な利点や対応策などについても、ある程度まとめられるようになった。 それでも、その根幹「身勝手な衝動も引き起こす」という難点は、ブレていない。 「人間は誰しも正しいと思えることをしたいと願っている。  けれどもそれが法律的・社会的・道徳的に正しいとは限らない。」 * なお、まえがきにおいて書いた通り、 ※これらは科学的な実証に基づく説でもなく、科学的な立証を目指す仮説ではない。  科学的知見も含め、様々な事象の観測から考えられる一つの概念論であり、文化論である。 ※科学的検証が行われたものではないため詳細な精確性は保証されず、  特に同テーマを論ずる場合において、これを根拠としてしまうべきではない。  各自が各情報について検証を行い、自らの責任によって論じるべきである。 ※この論の目指すところは、「人間の行動に対する、文化的な理解」である。 あくまでも考え方の一つであって、科学的知見に由来する知識も扱っているとはいえ、【[科学的事実]ではない】ことを、改めて強調しておく。もしかしたら、科学的に大きく間違っているかもしれないし、あと細かい知識も全て厳密な校正をしてあるわけではない。 * 肉体的や心理的な面ばかりを軸として整理し、「考えること」についてはごく表層的なものであるとして、あまり細かくは言及していない、つもりである。「考えること」については哲学の話として、既に大きくまとめてある。 またかなり冗長な、膨大な文章量なのに、改めてそこまで書いてなんていられない。 * 私にとってこうした文章を書くことの主目的とは、私個人、自分自身のためである。 自らの考え方からその情報を整理していくこと、また整理しておくことでそれを読み返して思い出せるようにするための装置としても作っているのである。 自分で見るだけであれば、体裁や形式、その他を整える必要性は薄いように思えるかもしれないが、「未来の自分」がちゃんと当時の感覚と同じように読めるとは限らない。 そのため、より精確に「知識を取り戻せる」ように、その時点において可能な限りのことをまとめていいるわけである。 公開することについて、そこに全くの意図が無いということではないが、それ自体は全く主目的ではない。特にネット上に公開しておくと「(手元に無くても)自分自身がそれを読み返すことができる状態」にしておくことができるという点が大きい。 むしろ、他の誰かに読まれることについては、やや恐怖を感じるところですらある。 特に私は、人の行動・言動についてろくに信用していない。 文中において「社会的な妥当性」の重要性について幾度となく繰り返し強調したことなど、「個人の考えを信じていない」という点は、そうした背景も存在している。 実際、「無条件に全てを信用していいものではない」と、言わなければ危険である。 ようするに、かじった知識を根拠にした棍棒を振り回されても、なんとも困る。 * 私は何かを書くことについて、強い執着を持っている。あるいは天性の資質かもしれない。 筆がのってくる(※実際はパソコンであるため「指が踊り始める」というべきだが)と、生活や睡眠をないがしろにしてしまうほどまでに、ただただ書き続けてしまいがちである。 そうしてかなり一気に書いているために、そもそも文章としても少々疑わしいと言っておいた方がいいかもしれない。機械的な手法の力も借りてなるべく整えるようにはしているが、人目線においてしっかりとできているとは限らないところである。 そんな状態の、与太話というわけだ。



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