小話

ファイル掲載日:2025/06/12(第一版※06/20誤字修正)
ファイル追記日:2025/07/05(「い.」追記)

題「無学の哲学の哲学 考え方を考える。人として生きる。」 Andil.Dimerk

■0.A.まえがき あくまでも個人的なメモとして、これを書き記す。 ここに書いていることは、"すごいこと"でも、"新しいこと"でもない。 私が自身の知識の整理のために、現時点の私の哲学的教養として記したものである。 その多くは既にとても普遍的に理解されているものを、私なりにまとめたものに過ぎない。

■1.始まり 哲学のおおもと ───それは、いつ始まり、何をしたのか? 私の哲学、私の考える哲学という概念について語るには、 まずその私のいうところの"哲学"を説明しよう。 先に書いておくが、書いていることはあくまでも「考えの一つ」である。 まず簡潔な説明として、「哲学とは【考え方を考える】というもの」である。 学問としての哲学には、本質への追及など、様々な表現が尽くされがちだが、 意味を削れるだけ削りきって残る哲学という概念の本質はそれだけだ。 特に「"哲学"の本質とは"行為"である」として考え、 「"哲学による産物"は哲学そのものではない」(=行為ではない)として扱う。 "哲学的活動"と言った場合、それは"哲学的な思案、考え方を考える活動"として扱う。 その解釈をする理屈について、少々難しい説明になるが… まず"哲学"という言葉、その元は英語におけるPhilosophy、さらにその大本は古代ギリシア語におけるPhilosophiaであり、「知恵"sophia"を愛する"philein"」に由来する。 つまり「太古の文明から繋がっている概念」であり、それは現代日本の一般における哲学とは、やや意味が異なるところにあるとも言える。 そして現代の多くの学問はそのPhilosophia、原義的な哲学に端を発していると表現できる。 順を追って概要を説明してくと… 太古においては、おおよそ「より考えること」そのものが特別な行為であった。 そうした活動が他の活動とは異なる、"Philosophia(知恵を愛する)"という呼び方で独立する。 非常に幅広い探究や、学問的な分野が"Philosophia(哲学)"として扱われた。現代において「ギリシア哲学」として分類されるものは非常に広く、明確な線引きもない。 Philosophia(哲学)によって更なる知識が積み重なっていくことで、学ぶための「後の"Academia"学問」の概念が整理される。つまり学問より、哲学の方が古い概念と言える。 時代が進むと、"Philosophia"(哲学)の内容、思考する技術を継承するための整理が逐次行われ、個別の学問領域として成立、分離されていった。 そうして"Philosophia(哲学)"からも様々な種類の学問が独自の領域として広がっていく。 自然の仕組みを考える自然学・後の自然科学、 数の扱い方を考える数学や後の形式科学、 それらの使い方を考える応用科学、 人の営みの在り方や社会の仕組みを考える社会科学、 人の営みの結果やさまざまな文化の姿を考えるさまざまな人文学。 長い時代を経て、哲学以外との合流もしながら、現代に続く学問領域が整理されていった。 そして様々な学問が成立している現代においてなお、個別の学問として分類整理されることなく残った最も原始的なAcademia(学問)の領域が、今現在の「"Philosophy"哲学」として扱われている領域だ。 つまり太古に存在した概念から、非常に多くの枝葉が分離されていってなお、その領域として残りつづけた根源的な本質が現代のPhilosophy(哲学)であり、 そして、それでも確固たる一種の学問領域として存在しているものである。 そうした経緯で、現代の哲学領域はより純粋に「より考えること」、特に【考え方を考える】という領域として扱われるようになっているわけである。 歴史的に見て「学問分野として整理をするために、哲学の領域から各分野が分離された」というものであるわけなのだから、歴史的にも本質的にも、現代の多くの学問も哲学的背景の上に立脚していると言える。 特に「どう考えればいいのだろう」という思案は"原始的な哲学(Philoshophia)"の手法であると位置づけでき、つまりその思案自体が一種の哲学的な思考であり、 それは現代のあらゆる研究における、基礎中の基礎・初歩中の初歩に他ならない。 さらに「考え方を考える」という行為が哲学に属するとすれば、学問・研究以外においても、頭を使っている時には多くの場合で大なり小なり行われている思考だと言える。 それこそ、現代のあらゆる文化も、哲学的活動の影響下に存在しているものだとすら表現できてしまう。 補足として、古代ギリシア語で"学問をする場所・学校"を意味する言葉は"skhole"、あるいは"skholeion"である。 場所としての"skholeion(学校)"とはphilosophia(哲学)をする場所で、古代ギリシアの時代にある人が"academia"というskholeを作り、それが現代における"academia"の語源となったという歴史があり、実際にも「現代の学問(体系)の源流には哲学の環境がある」と表現してしまえる。 なお、"skhole"とは"(充実した)暇・余暇・閑暇"という意味の言葉で、また無目的や怠惰な暇のことではなく、成長的なニュアンスを持っている。特に"仕事"や"信仰"などの実用や義務などとは異なるものとして、非常に広い領域の"成長的な"活動が言い表されている。 ようするに、 学問上の哲学、狭義の哲学(Philosophy)とは、その哲学のみをより詳細に研究している学問であり、また十分に考えつくされた哲学こそが"哲学である"としているため、専門的で難解なものととして使われてしまっているが、 本質的な概念における哲学(Philosophia)とは、専門的なよくわからないものに限らず、複雑で奥深く一見では理解できないようなものにも限らず、様々な所に内在しており、 実は社会一般にとても広く影響を与えているもの、あるいは支えているものなのである。 よって「哲学とは極めて純粋に【考え方を考える】というものなのだ」と、簡潔に説明できるわけである。 おさらいしておくが、 私の言う所の"哲学"とは、"行為"である。哲学的思案、哲学的探究が、哲学の本質である。 哲学によって作られた考え方そのものは、"哲学の産物"という扱いとしている。 またここにおける"哲学"という行為であることに、"正解"や"正当性"といった条件は無い。 荒唐無稽な考え方さえも、それを考え深めていくのであれば哲学たりえる、と言うのだ。 なお繰り返すが、書いてあることはあくまでも「一つの考え」である。 ちなみに学問上の哲学もおおよそ"こうしたこと"も考える分野で、これもその一種と言える。 色んな人が色んな定義を試みているため、 元々としてその範囲や定義は解釈によって大きく変わる。 そのために「(誰の、またはどこの)哲学」という前提をもって読み解く必要があることは珍しくない。

■2.例えば 哲学のすがた ───それは、どのように見て、何をするのか? 哲学の様子をとても単純に説明すると、【コップ半分の水】から例えられる。 【コップ半分の水】は"コップ半分の水というただ一つの事実"に対して、  楽観的「半分も水が入っている」  悲観的「半分しか水は入ってない」 などのように認識の形は複数ありえることを示す例え話である。 そこにおいて「コップ半分の水は"どのように考えられるのだろうか"と考えること」を試みる思考が、一つの哲学的活動である。 それは、"どちらが正しいのか?"という課題ではない。 "どのような考え方ができるか・可能性の思案"や、 "その考え方はどのようなものであるのか・解釈の分析"など、 そうやって【考え方を考えること】が一種の哲学的思案なのである。 科学の視点を借りてみれば「コップの容積はどれくらいで、その内水の体積はどのくらいであろうか」という分析を行えるし、 様々な知識教養から「その量の水によって何ができるのか」といった思慮を試みることもできる。それもまた哲学的思考の枝葉である。 考え方を考えていけば、安直な2択とは反対に「コップは半分空いている」というような視点を見つけることもできる。より飛躍的な発想をすれば「コップは無限の空間へ繋がっている」という視点さえも見つけてしまう。 そして「それがどのような視点であるのか?」と、さらに考えを深めることもできるのが哲学である。 なお、"哲学性を理解できない視点"からではそんな哲学的活動など「こんなことを考えて何の得があるのか」「どのように考えても"コップ半分の水"という事実は変わらないじゃないか」「"コップ半分の水"でることは明らかで、考えることなど無駄なことだ」という認識・意見を持つだろう。 哲学の視点はそんなところからも「ではコップ半分の水という事実を、いかにして過不足なく認識するのか?」というさらなる問い、科学的議題を作り出せる。あるいは「"コップの水の上には無限の空間が広がっている"のだから、その無限の空間に対して実質的な水は半分ではなく、わずかな水であると言えるのではないか?」と哲学的で意地悪な問いも作れる。 あるいは「コップの中に存在する水そのものの量について、水は分子レベルに分割できるものだがその"数を数える"ことは非常に大変である。実用的にはコップとの相対性によって、その量をはかるべきだろう。」と整えることもできる。ただし相対性とすると今度は「コップの大きさがどのくらいなのか」も考えなければならなくなる。 「"向き合い方≒それに対する考え方"を考える」ということも哲学の一種であり、 ただ一つの考えにとらわれず、"考え方を選べる"ように考えられることが哲学の意義だ。 それはつまり【今現在、己が幸福であるか・不幸であるか】さえも、たとえどのように考えても状況や事実が変わらないとしても、"どのように考えられるのか?"という思案を試みることができる。 心の持ち方・心構えを変えることも試みることができ、よりミニマムな幸福を認識することも、あるいは大きな不幸をミニマムに考えることもできる。 ただし"感じ方"、"感性"の領域に対して哲学は、感性自体を即時あるいはダイレクトに変化させられるわけではない。あくまでも、考え方によってその方向性を変化させていける可能性がありえる、というものである。 また、ただ一つの考え方を思いつくだけでは大して哲学的ではない。 特に哲学の無い、短絡的な思い付きばかりでは、破滅的な結果をもたらしうる考え方をしてしまっても、それを考え直し改めることができない。 例えばもし「コップの半分は奪われてしまったのだ!」などという妄執に至り、奪われた水を取り返さなければならない!と仮想の敵を作り出したり、これでは不公平だ!などと乱暴な正義感を振り回してしまうような状況すらありえる。 それはまずおおよそ「(無限の空間に対して)水はわずかしかない」という事実から、あまりに少なすぎるという感覚を抱き、その原因を他者に求めてしまった状態だと分解できる。その妄執を正すことは難しいが、倫理的に"安易に誰かを悪者にするのはよくない"とは言うべきである。 考え方とは、それこそ論理的であるかないかに関わらず、とても多様に形成されうるものであり、 特に思い付きの考えとなれば現実性や健全性が伴っているとも限らない。 地に足がついておらず、見当違いの考えで全く想定通りの状況にならないばかりであったり、あるいは破滅的で、あるいは非人道的に考え自分自身や他者を害するような方向性を持ってしまうこともありえる。 哲学とはそれらを検査できるものであり、哲学の知恵はそれらを調整することに使える。 哲学によって現実的な、「妥当な考え方」を探り、選ぶこともできる。 しかしながら"考え方"が哲学的に"考えて形成する"ことも可能なものだということは、意外なほど一般的ではないこともまた事実である。 特に「物事はただ一つの正しい考え方が存在する」かのようにしか考えられない人は珍しくなく、あるいは大多数ではないかとすら疑えてしまうものである。 それでも人間社会が回っているのは、それだけ"よく考えた誰かの哲学の影響"が広く社会に浸透しているからである。 自分自身で"考え方を考えること"ができなくても、色々汎用的な健全な考え方について知る機会が豊富にあり、多くの人が妥当な考え方の知識を持っているわけである。 誰かの哲学の産物から、一種の教養として"人として大切なこと"が語られ、多くの人々へ共有されているのだ。 「コップ半分の水は、半分も入っていると見た方が精神的には余裕ができる」などのように。 ちなみに補足として。 哲学"考え方を考えること"のみで、感性の全てをコントロールすることは現実的にはできない。ヒトには生物としての性質があり、思考と呼ばれるものはかなり表層的な反応でしかない。 そのため説明できること・純粋な理屈とは異なる、"ヒトの感性へアプローチする"ための手段を用いなければならない。 そして宗教や神格、特に神秘性やスピリチュアルなどは、厳密な科学的な説明や検証を条件とせず、超常的で説明のできない面も多いが、それらは心理へと働き、"ヒトの感性へアプローチする"ためにとても効果的な手段である。 それらは意識的あるいは無意識的に、「いかにしてヒトの感性へアプローチするか」という目的への思案として生み出された知恵である場合もあるとも解釈でき、それらの体系も"考え方を考えること"から生まれたり発見されたりしたものもあるだろうとも言ってしまえる。 例えば「困難は神が与える試練である」「神は乗り越えられない困難を与えない」などというよくある話も、超常的な理屈だが"そう考えた方が(信心を持つ人には)ポジティブな考え方をしやすくなるだろう"という思案の結果が使われ、多くの人々へと伝わり、広く共有された"誰かの哲学の産物による教養"だとも考えられるわけである。 特にヒトの人体の仕組みそのもの、認知の仕組みそのものには、科学と神秘の区別する機能をもっていないと言えるもので、また理屈よりも先にまず感性によって判断するため、それがとても有効になるのである。 理屈を考えられることばかりに執着していると、人間の感性というものへの理解を蔑ろにしてしまう。 人間を見るのであれば、その心のありかた、時に理屈ではないところもまた忘れてはならないものである。

■3.何のために 根源的な哲学の役割 ───それは、どのように存在し、どのように働いているのか? 太古から現代まで、常日頃から哲学的活動をするような人は稀で、奇特な人物である。状況によって哲学的な手法を使える人はいても、日常的に哲学的な思慮を出来るほどの人は限られている。 それこそ現代においても、あるいはおそらく太古においても、人々からの「"てつがく"ってなんの役に立つの?」という問いは、とてもありふれた疑問だ。 特に「現代において社会一般の"哲学"と定義されるもの」となると、実用からはほど遠いものばかりであり、また理解の難しいものばかりである。 さらに現代では画期的な哲学的発見と呼ばれる目立ったものも無く、新しい哲学者の存在さえ社会的に広く認知されることがとても難しく、社会貢献性が分かりづらい。 あるいは一見余計なことをしている壁のような存在にもなりがちで、哲学者という役割の有益性、存在価値すら疑われる所にあるとすら言ってしまえる。 そのために社会一般の定義、認識からは"哲学"というものの本質が見えにくくなっている。 しかし実態は【"哲学の欠如によって困っている"状況でも、哲学がなければ"哲学の欠如によって困っている"という実情にさえ気づけない】だけである。 "考え方を考えること"ができず特に一つの考えに固執し、柔軟性を失い、価値観から困窮してしまうという状況があっても、"考え方を考えること"ができない状態ではその問題の原因を自認することができない。 そうした哲学の力が無ければそんな自縄自縛の状態を自力で脱することはできないのだが、それが哲学の不足によって困っていると理解できることは多くない、ということである。 あえて言えば【バカは風邪をひかないのではなく、バカは風邪をひいたことに気付かない】ようなこととも、非常に似ている。 特に心理的な事情に基づく問題は"考え方を変える"ことによって改善や解決してしまうことも珍しくないが、そういった問題にさいなまれるような人の多くはそれを理解することができず、当然自力のみによって解決できることはまず滅多にない。 一般的な場合、そうした問題は外的な影響によって解決されることがある。それはたいてい「他者の哲学的教養を借りて、考え方に影響を与えられることによって解決される」という形である。 ただし、そうした良い影響を受けられる機会が無く、解決できないということも非常に多い。 哲学をできる人であれば、自らの思慮でそうした問題に対して受け止め方を変えようとすることもできる。心理的な問題の存在を理解し、どのようにすれば問題が軽減されうるかなど、対策を考えることもできる。 なお、それは自ら考え方を作り出すということに限らず、誰かの哲学の産物を借りること、問題に対して有効な哲学的教養を探して使うといったこともできる。あるいはあらかじめ多様な哲学的教養を身につけていれば、探す場所は自らの記憶にもなる。 そうした哲学的な背景をもって、適切な向き合い方を試みることができるわけである。 あらゆる思慮の場面、"どう考えたらいいんだろうか?"と考え方の試行錯誤を必要とするような状況、哲学的な探究活動においては、哲学に限らず広い知識教養がとても重要になる。 狭い知識教養では、できる考え方も狭く貧しいものであり、ろくな考えは浮かばない。 ただし哲学的な教養に実用へ直結するものは少なく活用できる場面は限定的だが、しかし"考え方を考える"場面においては最も重要なものとなる。 そう考えれば、哲学の力や哲学の教養は一種の免疫力にも例えられ、 あるいは知性における筋力の一種とも表現できる。 一般的には、"いわゆる哲学"だと呼ばれるものが無くとも生きていくのに困ることはないとすら言われるが、しかし哲学の不足によって困窮し、最悪、生存が危ぶまれることもまたある。 「なんて馬鹿のこと(ろくでもないこと)を考えているんだ」と言われてしまうような状況が起きてしまう。 とはいえ、いわゆる哲学自体も一般的に見れば「なんで馬鹿のこと(よけいなこと)を考えているんだろう」などとなってしまっていることもしばしばある。 "考えなさすぎも考えもの"だが、"考えすぎも考えもの"だ。 特に"哲学を深めるということ"とは"果てしなく考え続けること"であり、特に「あらゆる答えや定義というものに対してすらも考え直してみる」という試行錯誤などの継続であり、 そこに終着点・ゴール、明快な答え・不変の結論と呼べるものは実質的には存在しえない。 あえて言えば「"考え方を考えること"には、本質的に"ゴールが無いこと"なのだと、本当に理解すること」が、哲学の一つの到達点であるとすら言える。 "答え"という、人として"正しいと思うこと"は結局、それぞれが妥当性を探るしかない。 「余計なことを考えすぎてもしょうがない」として、丁度良い考え方を探るのである。

■4.既にある 現代における哲学的教養 ───それは今、どこにあり、何をしているのか? なお"汎用的な教養としての哲学の領域"は、既に平らにされ尽くした"元"山の領域である。 つまり、常識的、あるいは良識的、もしくは理想的な考え方という分野は、とうに考えつくされたものだと言える。 数学でいうところの"さんすう"のような、ごく基礎的な教養として掘り尽くされ、 またそうした基礎的な教養、"哲学の基礎"の多くは、"哲学"という看板を持たずに広く社会一般の中に細かく息づいている。 考え方というものは様々な、十人十色、百人百様、千差万別、非常に多彩で膨大な考え方の方法があるものの、 汎用性のある考え方は既に過去の哲学者などが整理し、知識として体系化され尽くした哲学的教養となっている。 大げさに言えば、人類は、考え方のあらゆる手法を既に揃えているかもとすら考えられる。 時代が変化し、文明が劇的に発展した現代においても、人間という存在そのものが極端に変化したわけではなく、「汎用的かつ真新しい考え方」というものはそうそう生まれるものではない。たいてい"既存のもの"に類似していたり、"既存のもの"の組み換えであったり。 また特に多彩な価値観の存在が広く知れ渡ってしまっている現代において、社会的に若い考え方がそうそう広く認められることのない時世でもある。 たとえ現代文明に由来する変化への哲学的考察を新しく考えようとしても、基本的論理構造は考えつくされているため、つまり「過去のいずれかの哲学を現代に当てはめて再検証と翻訳した形」となってしまうもので、またそれを発信したところでその哲学的教養が広く残っていくことも至難である。 大げさにいえば"万人が教養を持っていて哲学をしているかもしれない"ような現代において、「画期的な哲学的発見」などというものが、"哲学"として広く認められることは期待できない。例え生まれていたとしても認められなかったり、"哲学"以外の領域になりがちと言える。 結果、現代の哲学者が研究するもののほとんどは、過去の哲学的教養の現代的な整理であったり、実用的な整理であったり、あるいは未知の限定的で特殊な哲学の探究ばかりとなるわけである。 基礎の整備という非常に地道なことであったり、あるいはわけのわからない難しいものへの挑戦であったり、それらも哲学的な意義のあることではあるはずだが、一般人から見ると"難しく考えてる"ようにしか見えないわけである。 例えば「1+1=2」というさんすうの基礎知識を、数学的に整理するためには"数字の法則"と"四則演算の法則"を論理的に整理しなければならなかったのだが、一般人の感覚では「バカみたいに難しく考えてる」とすら思われてしまう。 ※補足1※数字の法則(要約):自然数"1"という概念を出発点として定義し、"1"の1つ次が"2"、"2"の1つ次が"3"、または"1"の1つ前が"0"、"0"の1つ前が"-1"(負数、-:マイナス符号)、"-1"の1つ前が"-2"(同)などのような手順を無限に繰り返し、全ての自然数・また全ての整数を定義する。その数字とは、単独の列に整列した状態として定義する。※厳密な定義は「1とaとbによる包括的な原理」である。※また厳密にはさらに多様な数の状態の定義がある。 ※補足2※四則演算の法則(要約):数字の法則を前提に、足し算+は"aからbつ次の数を示す"、引き算-は"aからbつ前の数を示す"、割り算は基本"aからbを何回引き算できるかの数を示す"、掛け算は基本"0を基点としてaとbのプラスマイナスの関係に従いb回分aつ動かした数を示す"、※厳密には割り算での負数の扱いや0の例外など、さらに細かい処理定義が存在する。 一般的に、さんすうは理論そのものではなく"数字の感覚"として習得されやすいものであり、この理論自体を知らなくとも"さんすう"の技術は使うことができる。 しかも、"哲学"そのものへのノーベル賞のようなものも大して知られてもおらず、劇的に目立つようなこともなく、ただただ地味である。 また専門的な哲学的教養を学ぶ際、特に参考とするべきとしてあげられるものは、現代でもそのほとんどが古典や古典を由来とする知識である。 それは、"権威"への信心の無い・信頼しない哲学的な未熟者の視点からすれば、それらは古臭く時代遅れだろうとすら思われてしまうような、古文をよまされるような分かりづらさに、代謝の無い"ミイラ"の分野のようにも見えてしまう。 あるいは反対に、それらの"権威"や難解さから神秘性・絶対性を感じてしまわれても、哲学的な展開を求めることをせず、哲学的教養ばかりを後生大事にしてしまい、哲学の本質を失うこととなりうる。 特に学問としての哲学は、自然ななりゆきではあるが結果として、歴史的背景や権威を後ろ盾としてしまうような状況となってしまって、哲学の本質として本来求められるべき哲学的活動への入り口は遠く、見えづらくなってしまっている側面までもある。 しかしそれらは「"哲学という学問"がいまだに未熟なままである」という話ではなく、「ヒトにとって哲学の領域はそのように見えてしまうもの」という話である。 哲学の本質とは、知識教養を触れた浅瀬だけで理解できるものではないのだ。 哲学書とは、本来「"さんすう"の教科書」や、数学の論文に相当するもの、そのようにあるべきものであり、そのように読むべきものである。 太古から現代においても、その本質を理解している深い哲学者たちは、考え方を考え、さらに「いかにして"考えさせる"か」も考え続けている。

■5.あらためて 哲学の再定義とその産物の位置付け ───それを、このように考え、どのように考えるか? 改めて、私がより強く主張するところとして。 私の考えにおいて再定義するところの哲学とは、 特に"哲学の核心・根幹とは【考え方を考える】という行為そのもの"である。 特に、「誰かの哲学」とは哲学そのものではなく、哲学の教養でしかないと断じるわけである。 哲学という行為によって生み出された産物は、哲学という行為そのものではない。 あらゆる知識そのものは、哲学においては"教養"であって、哲学そのものではないと言う。 哲学的な知識は哲学の産物であり、哲学的教養であり、哲学の鍵であって、それ自体は哲学的活動そのものではないのだと。 たとえどれだけ偉い人が、"どのように考えたか"の学問上の哲学があったとしても、他者にとっては「そのような考え方がある」という一つの知識教養でしか無く、それを哲学として語ったとしても、それは「哲学の教養を語っている」だけでしかなく、"哲学をしている"わけではないとする。 特に「~と、プラトンが言っていた。」などと語ってしまうと、権威の引用でしかない。 「そのような考え方について、どのように考えられるのかを考えること」などが、一種の哲学の活動であり、哲学の意義であり、哲学の価値となる。 "哲学の本質とは思考することそのもの"であり、哲学の教養をうのみにすることやひけらかすことは、哲学の場外の出来事である。 (~と、自分も考えられる。)という思案こそが本質だと。 哲学的思案のみが、"哲学をする"ことになりうるのだとすら考える。 もちろん、"哲学の教養"は哲学をするための便利な道具として使うことができるため、必要が無いものでも無駄なものでもない。多くの哲学の教養は、様々な考え方、考える方法が存在することを示し、また哲学をするためのパーツとしても扱える、有意なものである。 そのためより深い哲学をするためにはまず準備として、様々な知識教養を学習しておくことは大切である。 しかし"哲学をする"ために、哲学の教養とはただの道しるべや道具でしかなく、"答え"などでは全く無い。 「他人の哲学は、その全てがあくまでも"考え方の一つ"」であり、無限に存在しうる方法のうちの一つでしかないと言う。 それこそ、"哲学をする"ために、"哲学書"の知識教養は必須ではない。 もちろん、考え方の知識が貧困であってはろくな哲学をすることはできないために、哲学的教養を多く持つことが大切だと言うべきであるが、考え方を考えることに、哲学書の文字列など必ずしも必要とせず、 あるいは教養にばかり頼り切り、自ら考えることに怠けてしまうような、邪魔になることすらありえる。 特に哲学的な教養は"哲学書"だけに存在するものではなく、様々なところからその教養を拾い集めていれば、とても豊かな考え方を持つこともできる。 ただし当然のことだが、学問上の哲学の場においては、基礎知識として哲学書の知識教養を身に着けておくことが重要となっている。 個人では車輪の再発明がいくらでもある領域であり、既存の知識をまず有効活用するべきだ。 学問の場において哲学を深めるには、その上で、自ら考えることに努めなければならない。 そうして自ら考えるのなら、その上で哲学書と同じ考えに至ってしまっても、哲学である。 "それを自らの言葉で説明できてこその哲学者だ"とすら言えるだろう。 定義としてはかなり乱暴ではあるが、哲学的活動への到達を意識させるために、少なくとも、 "哲学的思案(哲学)"と、"哲学的知識(哲学の産物)"は、特に区別されるべきであると言う。 知識はあくまでも道具であり、哲学の本質ではないとして、 それを私は"哲学"と、その"教養"という名称に分離した再定義を試みたわけである。 なお補足しておくが、哲学的教養そのものは"考え方の誘導灯"として、広く働いているものである。 幅広く存在する哲学の産物である教養によって、人々は導かれているのである。 ちなみに、哲学的活動には対話的な哲学という手法も存在する。つまりディスカッションして"一緒に考え方を考える"という活動である。 これは特に「活きた思考」が求められるために、とても哲学的だと表現することもでき、互いの考えを投げ合うことによって、より広い発想を求めることはできるが、充実した哲学的思案には互いに極めて高度な対話能力が必要となる。 リアルタイムな場では考えられる時間が限られやすいため、思考の瞬発力を求められ、また深く考えることは難しく、あるいは直感によって感性が強く介在し思考にバイアスがかかってしまうことも起こりやすく、深い哲学性は損なわれやすい面も存在する。 それこそ対話的な哲学とは"予め用意した哲学の検証"に有効な手法であり、また対話によって得られた視点や知識から再び自分で考え直してみることが、より現実的な使い方である。 特に社会性の確保や、社会的合意を得るためには、対話的手法は欠かせないところである。 個人的な話として、自ら深く探り、作り込むタイプの私はその手法をあまり好まない。 特に感情に引っ張られすぎてしまってはただの口論であって哲学にならない問題もあり、 表面的にはかなり直情的な傾向を持つ私には全く不向きである。 私は基本、自らの内省を主軸として、疑似的な自らとの対話や、都度の調査検証を行いつつ、自分の哲学を成立させている。

■6.だからこそ 哲学者とは ───それは、何を考え、何をするべきか? では哲学者とは何のために存在するのか? いわゆる哲学者、哲学を扱いそれを職業・生業とする人間は、ただ哲学をしていればいいわけではない。 "哲学をする"だけであれば、哲学者以外を含め多くの人々が大なり小なりやっているもので、哲学者の特殊能力だとか特権だとかそういったものではないのだから。 【職業:哲学者】として"社会においてそれで生きていく"となれば、 社会との関係性において、その力を用いていかなければ名折れである。 哲学の本質・核心は【考え方を考えること】だが、 哲学者の社会的意義とは、一つの考え方をただ使うところではなく、"その考え方の一つ一つを共有してみせて他人にも思考させること"にこそ、哲学者という役割の価値が存在する。 "哲学者"であるならば、その考え方が、門外不出の秘術のようであってはならない。共有してみせなければ社会性≒職業性が無く、あるいは誰にも全く理解されない哲学者であっては、その役割においてはあまりにも寂しい状態である。 "哲学者"とは、自らの持つ哲学へ人々を導く案内であり、そうした「哲学的教養を作り上げ、社会的資産として遺していくこと」にこそ、哲学者の本懐が存在すると言うべきである。 哲学者とは、数学におけるそろばん・計算機ではなく、方法の教育者・指導者である。 哲学書とは、数学における答案・結果ではなく、方法のまとめられた論文・教科書である。 哲学者のあるべき役割とはただ哲学を考えるだけではなく、 他者をその考え方の方法へ導くことこそが、哲学者の使命である。 そうして他者から、あるいは社会から求められる立場になるのである。 つまり哲学者は、考え方を考えることは当然として、「いかにして自らの考え方を、他人にもたどれるようにするか」ということを目指さなければならないと言える。 とはいえあまりに複雑なこととなれば、それは学ぶ側にも相応の努力を求める形になることは当然である。 その手順はものによって、ややもすれば胡乱でよくわからないと思われてしまうこともあり、"答え"ではないためにとても回りくどく、"さんすうのために数の定義から始める"ような余計なことを費やしてるとも見えてしまい、特に慣れない人は苦労して教養として覚えようと試みるばかりで考え方の理解にはほど遠いままになりがちだが、 一つの深い哲学的教養の核心へと届かせるには、そのような手順にならざるをえないとも言わなければならない。 "答え"ばかりを欲する即物的な価値観においては、無駄なことだと断じられてしまうであろうものだが、それは哲学から最もかけ離れた考え方である。 「そうして短絡的な考え方にこりかたまってると、短絡的な利益にばかり執着して、計画性が無くなって長期的な健全性を失って、結果むしろ対応できない苦難を闇雲に増やす"軽率な考え方"だ」と言ってしまえる。もっと簡潔に言えば「考えが浅い」。 より理想的にはもっと気の利いたことを言って、「もっとよく考えるべきだ」と説得することを目指したりすることもありえるのが、哲学者の立ち位置なのである。 なお、ものによっては"途方もない考えを巡らせることによってのみたどり着けるものがある"ように誘導してくる教養も存在する。"そうしなければ到達できない境地が存在する"と言っているかのような、かなり専門的なタイプであり、それは一見複雑怪奇なばかりで不親切だと思ってしまうが、そんな親切心があっては意味がないと言わんばかりのスタイルな哲学的教養である。 あるいは「そういった難解な教養の解釈を試みることで、より深くその哲学へ潜ることができる」という意図にも考えられる。それもまた人を導く一つのスタイルである。 よって【哲学者】の役割とは"果てしない旅をするだけの人"ではなく、通ったところに道を作る・整備する立場だと言える。 とはいえ歴史の積み重なった現代では、非常に広い範囲が既に繰り返し整備がしつくされ、果てしなく広げられた平野のような路上が存在し、その方々に多数の旗が立っており、そこを多くの人々がうろうろと行き来しているような状況だが。 またこの定義では、太古から現代においてまで引用をされるほどの哲学者たちや教養を遺した者たちがいかに遠大な仕事をしたか、その説明にもなる。 今も名を遺す哲学者たちは哲学的思索の環境を作り、社会的にとても偉大な遺産を作り出した人物たちなのだと。 そして太古の時代から、"名を遺せなかった者たち・哲学をしていただけの者たち"も、きっと多くいただろう。 注記しておくが、そういった古典の哲学とは「"偉大であるから使われる"のではない」。 哲学的教養として非常に有用であるから使われて、「"使われるから偉大"と言える」のだ。 なお現代における、特に翻案をする哲学者たちも、時代・言語・文化の変化によって風化していくその道しるべの整備をしなおすことで、歩くための道を作り直している。 太古のそれに比べれば相対的には極めて短期的な、地味な仕事であり、現代において大きく名を遺すことは難しいが、とても大事な仕事をしている。 ちなみに、"結論"や"答え"を示す哲学者が全く"間違っている"と断じるわけではない。 啓発、啓蒙というカテゴリも哲学者の役割に被るものであり、また"思想家"やその他"学者"などとしての役割には"結論を強く示す"活動はありえるもので、哲学者という肩書でそれらの活動をしているという位置づけなどにもできる。

■7-1.隣にある 数学と哲学の近似と相違 ───あれはそれであり、だが、それはあれではない。 比喩にもたびたび使っているが、一つのネタとして語られる学問の扱いとして。  「~~学は数学だ。~~学は数学だ。~~学は数学だ。」 多くの理系の学問や研究は、特に大なり小なり数学的知識が要求され、多くの学問が数学に通じる、あるいは"数学の延長"として通じていると表現される。  「数学は哲学だ。」 しかし一転して、数学そのものの研究においては、"数学の延長"から外れた所の、"哲学"に行きつくという広く使われている話のネタである。 数学者はなんかよくわからないことを考え続けている。 哲学者はなんかよくわからないことを考え続けている。 そうした表面的な近似を見ている場合もあるが、それだけではない。 この話の理屈は、私が語っている「哲学とは【考え方を考えること】」と解釈すれば、非常に分かりやすい。 数学とは「科学的手法の基礎中の基礎」であり、純粋な理系だけでなく"定量化・数字にすることができるあらゆる分野"で用いられるものであり、理系分野にいてはほぼ必ず必要となる。 特に問題解決や研究の手段として、より深く数学的な知識が必要となることもあり、 そうした性質から"多くの学問は数学だ"という比喩されるわけである。 しかし、数学そのもの研究では一転、ただ"計算すること"で解決するものではない。 「計算の方法が既に存在するもの」は、もはや数学にとって既知の領域で、踏破された山、あるいは破壊された障壁、橋が整備されつくした谷として、"研究対象として非常に弱い"。 最新の数学の研究対象とは主に【計算の方法がまだ存在しないもの】であり、数学にとって解明されていない領域で、未踏の山、うずたかくそびえる障壁、橋の無い谷である。 特に【"計算の方法"を誰も知らないもの・誰にも分かってないもの】が研究対象となるのだ。 即ち数学の研究とは「どのような手段を用いれば、その課題を解決しうるのか」という"解き方を考える"領域であり、つまり数学の研究では【考え方を考えること】をしなければならないわけである。 そして"論理的に"、時には言葉を尽くして整理し、解決を導く方法を共有しなければならない。 それは時に極めて多重的な構造を持ち、難解な手順を踏むことによって解決が行われたりすることもある。 そうした領域が、一種の"哲学だ"と比喩されるわけである。 ただし"数学=哲学"とまで言ってしまうのは明らかな誤謬、決定的な相違点がある。 数学とは定義の共有が比較的明瞭で容易であり、「同じ世界に立つ」ことが数学ほぼ全てにおける大原則、スタートラインとして明確に扱われている。 「他者と共有しても、原則的に全く同じように扱える」という定義の強固さが存在し、同じ定義と同じ数式を用いれば、同じ答えを導出できる。できなければならない。 同じ方法によって同じ答えを出せなければ、間違いであるとするのが数学の基本原則で、 机上で、紙とペンや計算機によって誰もがどこでも再現しうるものでなければ、数学として成立していない扱いとなる。 そうした再現性と共有可能性が大前提となる科学的な手法による論理的な強固さから、"唯一の解答"を持ちうるものである。 時としてその方法が極めて難解になってしまうことはあれども、数学の大原則とは【科学的な全人類世界共通言語】となることである。(極稀に例外はあるが) 哲学とは使用言語に強く依存する世界であり、その言語の定義さえも絶対的ではなく、定義を行うことさえも絶対的なものにならない。また根本的に、言語を扱う感覚、「それをどう感じるか」にまで依存する領域である。 ようするに「哲学的知識の捉え方とは言葉や思考、感覚の性質からどうしても見た人間によって大なり小なり変質してしまうもの」で、歩み寄り「極めて近い世界に立つ」ことは望めても、"他者と全く同じ世界に立つ"ということは実質的には不可能である。 もちろん、社会的意義における理想としては、可能な限り近い世界に立つことを目指さなければならない。社会上の哲学者は、「いかにして、より近い世界に導くことができるのか」と考える役割を持ってはいるが、全人類が"同じ世界に立つ"ことは届かない理想論である。 また哲学の本質においては、"同じ世界に立つ"ことの意義すらも、研究の対象となりうる。 より簡潔な言葉で説明するならば…  学問としての数学とは普遍性を持つ科学の基底にあり、数学とは礎石である。  学問としての哲学とは多義性を持つ文化の極北にあり、哲学とは縁石である。 表面上近しいところに見えかけても、その実態は全く異なるものである。 よって"数学は哲学である"という解釈には誤謬があると言うべきところである。 ただし哲学の分野が全く科学に似た性質を持たない・数学に似た態度ではないとも言い切れない。 言った通り、哲学者の使命とはただわけのわからない問いを並べ立て思考の迷宮へと迷い込ませることだけではない。 【職業:哲学者】が追及するべきものとは「その哲学から、まるで数学の論文のように、再現性を持った哲学的教養を作り出すこと」を理想として、全く同じ思考は現実的に難しくとも、極めて近い思考の導出へ目指すことを諦めてはならない。 それによってより汎用的な哲学的教養が生み出され、広い学問の一翼となるものである。 理想論ではあるが、それが哲学者として求めるべき理想だと言える。

■7-2.補足 言語・言葉というものの不確かさ ───それがそれであると、なぜ言えるだろうか? なお、非常に面倒な話になるが、哲学の共有困難性の理由として、補足をしておく。 要約しておくと【ヒトの言語は科学的な共有をできない】。 哲学自体の話ではないため、この章はその要点以外は読み飛ばしても良いが、これもまた「哲学的教養の一例」である。 ヒトの言語、主にいわゆる自然言語、話し言葉はとても広く共有されているように見えるが、 ヒトの言語そのものには実は科学ほどの頑強な共有性は無い。 "言語感覚"という、個人個人の感性によって微妙にブレが生じてしまうもので、厳密にはその解釈がズレていることがあり、厳格な"共有性"としては存外悪い。 特に、自然科学的な厳密性を持つ科学的手法にのっとり、ヒトの言語を論理的に「同じ定義」にしようとしても、その定義が有効であるかどうかは結局"言語感覚"に依存してしまう。 さらにその定義のための説明自体にも更なる検証が必要となる場合もあり、検証の検証、検証の検証の検証、検証の検証の検証の…と果てしなく長く、あるいは永久に続き、"定義を固定する手段"が無い場合も少なからずある。 例えば「哲学とは【考え方を考えること】である」というが、では「考え方とは?」「考えるとは?」そして「考え方とは考える方法のこと」「考えるとは複雑な情報処理をできる頭脳を持った生物ないし存在がその頭脳の機能を用いて、認識している物事に対して指向的に情報処理を行うこと」、そこからは「方法とは…」「複雑とは…」「情報とは…」「頭脳とは…」「生物とは…」「存在とは…」「機能とは…」「認識とは…」「物事とは…」「指向的とは…」などと、爆発的な数の言葉の説明が必要になり、 また循環参照(※)になってはならず、厳格な論理のみによってその全て成立させることは現実的には不可能であり、 また、その定義が言語感覚に理解されるとも限らない。 (※循環参照:AとはBである・BとはCである・CとはAであるとなり、定義が定まらない。哲学的な専門用語では"無限後退"と表現される。) たとえ非言語的な定義を試みたとしても、その定義の解釈が一つの意味に定まるようでなければそこにブレが生じてしまうことになり、厳格な定義は成立できない。 その問題を回避できるような"言葉"は極めて限定的であり、ヒトの言語はほぼ全体においてそのような性質を抱えている。 であるにもかかわらず、社会的にはおおよそ同じ意味が共有され、その言語によって意思疎通が成立している。 それは実用的に、言語感覚が「おおよそ"そんな感じのもの"である」という共通認識の根拠となることで、厳密な定義が困難なものを表面的に解釈することができ「おおよそ同じ世界を共有する」ということが実現しているためである。 つまり共有されているヒトの言語は、あくまでその時々に異なる感覚同士が「おおよそ"こういう感じのもの"だよね」と合意しているだけに過ぎないのだ。 その「おおよそ"こういう感じのもの"だよね」という合意のみが、ヒトの言語の共通認識を裏付けている。 それがヒトの"言語"というものの実態である。 それでも、そうしたものによって、社会はしっかりと回っているのである。 その不確かさに気付きにくいほど、言語感覚とは強固な思い込みと、柔軟な性質を持つ。 あるいはそうした言語の性質こそが、言語の文化の豊かさを作り支えているとも言える。 意図的に解釈が複数の意味でとりうるような、多義的に扱っている場合すらある。 そして言語感覚は、そのヒトが暮らしている環境、文化的背景、知識教養などによって形成されていくものであり、個人差が少なからず生じてしまうことは当然として、 時代の流れ、文化の変化によっても変質してしまうことも避けられない。 場合によっては同じ文字列・同じ言葉を使っていても、ニュアンス・微妙な意味合いが変わることは珍しくなく、あるいは意味が全く異なってしまうこともある。 特に「そういう感じだっけ?」と合意されない意味では、言語として伝わらない状態となってしまう。 科学的手法とは「同じ条件・同じ方法によって誰でも・どこでも同じ結果を導ける」というものであり、 使う人、使う時代、使う場所などによって変化が避けられないヒトの言語というものはつまり、 【厳密には科学的な共有性・科学的な再現性を持ちえない】と言わざるを得ないわけである。 "言語という文化"を客観的、あるいは科学的に検証するという学問はあっても、それは"言語そのもの扱い方"とは別の場所にある。 科学は可能な限り変化しない定義を理想として、現時点で最も理想的な定義を目指すが、 ヒトの言語はそれが困難を極め、ほとんどできない。 またこれは整理された哲学的教養、哲学書などにおいても非常に重大な問題であり、なおかつ非常に重要な要素である。 「どのような感覚であるのか」を伝えるために、とても感覚的な表現、感性へとアプローチする手法を使うことがある理由の一つであり、 言語を含む"感覚"から誘導することをしなければ、その理解、方法の利用には十分にならないという意図がありえるのだ。 さらにそれは古い哲学書を、現代の人たちが"現代語訳"を試み続けること、あるいは"現代訳"をし続ける理由でもある。 より詳細な哲学書の作成や読解には、より広い意味で、言語にとても堪能でなければならないわけである。 時代の変化によってニュアンスが大きく変化した象徴的な言葉を一つ上げると 【人間的】という言葉がある。 古来、人間の基本的な対極なる対象は、"動物"であった。 つまり「純粋に本能的で、理性を持たない粗暴さが、動物的である」としつつ 「純粋に本能的で、理性を持たない粗暴さが、非人間的なものだ」という前提から 「本能を律し、理性を持つ高潔さこそ【人間的】」という表現が用いられてきた。 だが特に産業革命や技術革新によって、人間の基本的な対極なる対象が変わった。 それは"機械"である。 つまり「システム的で、情愛や柔軟性を持たず、融通が利かない冷たさが機械的」としつつ、 「システム的で、情愛や柔軟性を持たず、融通が利かない冷たさが非人間的」という前提から 「感情や柔軟性、やさしさを持つ温かさこそ【人間的】」という表現になったのである。 それこそ未来において、文明の変化によって新たな対極となる対象が生まれ共有されれば、 【人間的】はまた大きくその意味を変化させてしまう可能性もある。 あるいは、残った"人間性"には、"高潔さ"も"やさしさ"も抜け落ちてしまうのかもしれない。

■8.いつのまにか 物語というやさしい哲学書、あるいは歌の響きの導き ───それは、あまりにも広く、あまりにも深く、ある。 実践的な話としてまず、好きな物語、あるいは好きな歌を何か思い浮かべてみて欲しい。 一般的な生活において、哲学と呼ばれる知識そのものは必要とされない。 それこそ一般的には哲学をしていなくても生きていくことができ、哲学的手法を必要とする場合においても、当人が大した哲学をせずに暮らしていけてしまうものである。 しかしそれは哲学の影響が存在していないわけではなく、他者の哲学的教養に助けられていることがほとんどであり、 特に汎用的な哲学的知識とは、人の営みの根底に広く根付き、気づかずに受け継がれているものである。 それは、"哲学の産物"は哲学という看板を持っているとは限らず、特に物語などによっても語り広められているもので、時には軽いエッセンスとして、時には深い哲学の導きをもって、人類文明の中に脈々と根付いているからである。 印象的な物語によって強く"誰かの哲学が生み出した"一つの考え方へ導かれることも珍しくなく、 あるいは、様々な物語に触れている人間は、それによって様々な哲学的な教養を徐々に獲得していく状態にある。 "哲学"と言う認識がなくとも、それは人類文化へと広く存在しているのである。 ようするに「物語の登場人物に感銘を受けて、生き方・考え方を導かれる」ということだ。 それはいわゆる小説、劇、映画、アニメなどだけでなく、詩や歌という形態もある。 それは"どうしてそのように考えられるのか"の理屈について深堀されにくいため、"哲学的教養の指南"としては非常に乱暴すぎる、とんでもない力技だと言わざるを得ないが、 心理的な"共感"や"羨望"、あるいは"おそれ"などによって、哲学的教養の指導、"考え方を誘導する"という面において、人間にはとても効果的である。 また、物語から「いろいろな人間が存在する・いろいろな考え方がありえる」という実感をもつことで、様々な哲学的教養、哲学的な基礎が育まれ、広く哲学をすることもしやすくなる場合もある。 ただし物語からの教養は非常に感覚的なものばかりであり、言語化までは遠い道のりになってしまうが、よく考える人は自ら考えを深め、哲学に踏み入れることができたりする場合もありえる。 そして、その手法は古来から人類文明において活用されてきた手法である。 太古から、物語のある神秘性は、人の感性へとアプローチする非常に効果的な手段である。 さらに出版が一般化した時代以降では、より多くの人々が多くの物語へ触れられるようになることで、そこにちりばめられた哲学的な教養も非常に広くいきわたるようになる。 大衆向け小説などの普及によって人々の倫理観が変化していったと語られるように、 "大衆向けの物語の娯楽によって、数多の哲学的教養の欠片も広がっていき、多くの現代人の哲学性を、大なり小なり育んでいるだろう"と考えられる。 なんなら、現代社会の多くの人々は「数多の作家という疑似哲学者に導かれている」と表現してしまうこともできるだろう。 "哲学を深める"という意味においては自ら考えるということをするとは限らないために、そのほとんどが浅瀬くらいか、あるいは足先が触れているかどうかくらいとすら考えられるが、 「誰かの哲学の産物の影響を受けている状態にある」とは十分に考えられるわけである。 そうして、多くの人が、自ら哲学をすることがなくとも、誰かの哲学の産物に助けられたりもしながら、生活していると言える。 哲学の種、哲学の草花は、人類の中にとても広く存在しているのだ。 哲学を知らずとも、好きな物語が、好きな歌が、その人の哲学の基礎をも形作っている。 哲学ができずとも、より多くの物語、より多くの歌からも、哲学の知恵は豊かになりうる。 自ら哲学、哲学的思案ができなくとも。

■9-1.けもの 正義という妄執 ───それにとって、もっとも怖いもの。 次の話をする前に、哲学にとって最も厄介な感覚を説明しなければならない。 それは"正しさ"への感覚、執着である。 特に"正義という観念"の、神格化をまず砕かなければならない。 先に補足しておくが、"正義"・"正しさ"とは多義的なものである。まず大前提として、社会一般における正義、社会的な正義とは"社会的な妥当性が合意された正義"のことである。また理想の社会的な正義を考えるならば"人道道徳倫理を踏まえて合意された正義"だろう。 また社会的な観点において、社会的な正義に反することが"社会的な悪"として扱われるものであり、特に「"独善的な正義"や"身勝手な正義"というものが正当化されるようなことはあってはならない」と考えることが、社会常識的に認識されている所と言える。 しかし"正義"の観念とはあらゆる立場に存在しうるものであり、個人においても"個人の正しさの感覚"が強く存在し、そしてそれらは他人の正義、社会的な正義と同じとは限らない。 だが個人にとってその感覚は非常に重大なものであり、基本的な性質として"絶対的な正義"であるかのように感じる≒"神格化"する方向へと向かってしまうものとすら言える。 場合によっては"反社会的なことすらも「正しいと思ってやる」こと"が実際にあるのだ。 他にも「"えらいこと"が正しい」と思い込み、その"えらいこと"を求めてしまったりする。 この問題の根深さを説明するには、非常に長く、言葉を尽くさなければならない。 まずヒトの脳反応の検証で「人助けをすると気分が良い」性質が広く確認されている。 それ以外でも、「"正しいと思うこと"ができると気分が良い」ように感じて、 反対に「"正しいと思うこと"に反していると気分が悪い」ように感じる様子が広く見られる。 「自身が"正しいと思うこと"に反していても気分が悪い」ように感じる、いわゆる"罪悪感"も存在し、その感覚は例え自身が得をしていたとしても発生するもので、これらの反応が単純な損得勘定や打算によって発生するものではないと言える。おおよそ認知機能の一部である。 こうした感覚は状況によってかなり幅広い強弱があり、深刻な不快感をもつこともある。 ここの要点は【"正しいと思うこと"は快・不快の感覚と強く密接な関係にある】ということ。 また、その"正しいと思うこと"の感覚は、非言語的な段階からも発生し、そのまま行動してしまうことも多く確認されている。行動についてすぐ言語化できない、"理屈を後から考える"といった状況は、よく見られる。 例えば、人助けにおいて「考えるよりも先に体が動いていた」という自覚を話す例は多い。 瞬発的に"それをしたい"という衝動を生み出す性質が備わっている性質ということであり、ヒトは考えるよりも先に、感性から"正しいと思うこと"をしたいと動けるようにできている。 ここの要点は【"正しいと思うこと"は理屈が無くても、行動にもなりうる】ということ。 そして個人の"正しいと思うこと"は、初歩的には、個人の肉体、経験、記憶知識、状況などによってその感覚の詳細が形成される。状況に合わせて、また暮らしてきた環境や親しんでいた文化に合わせて、周囲から影響を受けつつ、またヒトは自ら思考することで記憶知識を増殖させることも加えて、極めて緻密で複雑に多種多様な"正しいと思うこと"が作られると見える。 汎用性としては非常に柔軟性を持った性質だが、それが問題となる。その"正しいと思うこと"が法律的、社会的、道徳的に正しいとは限らず、論理的に正しいとも限らないからだ。 そしてそれは、前述の「考えるよりも先に体が動いていた」という状況にも到達しうる。 ここの要点は【"正しいと思うこと"による行動が、論理的に、客観的に、社会的に、妥当であるとは限らない】ということ。場合によっては、本人が罪悪感を感じることもありえる。 しかしそんな個人の"正しいと思うこと"の性質は、初歩的には環境への柔軟性を持っていると考えられるものの、既に何かしら"正しいと思うこと"が強く形成された後では、その変容は非常に難しいこととなる。 "正しいと思うこと"の形成・変容は、おおよそ「それが"正しい"と感じる状況によって、納得からその感覚を覚えていく」という手順であり、既に強固な"正しいと思うこと"が働いている状態に対しては、既存"正しいと思うこと"の障壁を通過しなければ、学習できない。 平たく言えば「他者から"悪いことだ"と言われても、その感覚で納得しなければ"悪いことだ"とは理解できない」ということである。特に「"悪いことだ"と指摘されても、強く"正しい"と信じている場合、指摘する行為の方が"悪いやつだ"と認識する」のである。 "正しいと思うこと"は理論や理屈によって方向性を持つことはあるが、感覚的に納得をできなければ変わらないもので、単なる理論理屈だけでの完全なコントロールは不可能である。 ここの要点は【自身の"正しいと思うこと"は、感覚的に信じすぎがちである】ということ。 ※補足として、肉体的にこの性質が薄い、あるいは欠如しているといった例外はありえる。 よって、 "正しいと思うこと"という観念は、快不快という感覚にも紐づいているものであり、理性的論理的に調整される部分もあるが、その多くは"感覚に由来するもの"だと留意するべきである。 "正しいと思うこと"は、当人にとっては"正しく間違いがないことだ"という思い込みをしてしまいやすいが、時に感覚ありきで理屈を後付けすることも珍しくなく、それが妥当であるかどうかも保証されないものである。特に他者を不当に害することをしながらも、"自己正当化"ばかりに陥ることさえも珍しくない。 ようするに、イジメだとか差別だとかも、この性質に強く由来しているものだと推定できる。 "正しいと思うこと"の性質は、それが社会的に妥当なこと、特に人助けなどの社会に貢献する方向性へ発揮されれば、社会を安定と繁栄へと導ける非常に重要な性質だと言えるが、 ごく個人的な"正しいと思うこと"の基準だけでは、容易に社会的に妥当ではない行動をも取ってしまいうる危険性があることは、良く自覚しておかなければならないと言うべきである。 社会的な妥当性を持つことを意識するには、自身の"正しいと思うこと"はあくまでも自身の感覚であることをよく理解し、独善的な感覚を振りかざしてしまわないように気をつけなければならない。 なお社会的な教育指導においては、情操教育の範囲から、より複雑な手順が必要となる。 ・まず社会が自分の味方であることを、感覚的に理解できるような支援や補助(保育含む) ・その上で道徳的な情操教育、また人道や法律などの広い倫理性や社会性の教育や誘導 ついでに、健全な範囲でより多くの楽しいことなどを覚えさせて好感を覚えさせ、"社会は守るに値するもの"だという価値観を感覚的に理解させることである。 ちなみに"強く抑圧した教育"は、不満が生まれ恨みをつのらせる恐れが非常に大きく、最悪の場合"社会は自身を害するものだ"と感じて社会性を失ってしまう危険性までも想定できる。 特に短絡的な指導者は「強く躾ければ従うんだからそれが最適だ」などと思ついてしまうが、非人道的な手法は「非人道的な手法は正しい」などと覚えて社会性を損なう危険性がある。 反対に十分な道徳、倫理や社会常識の教育ができなければ、こちらも悪びれもせずに社会的に妥当ではないことをやらかしていまう恐れは考えられる。情操教育はとても重要だ。 さらに個人の肉体的先天的な性質と順次獲得していく後天的な性質によって、有効な教育方法も変化してしまい、こうした保育や教育は臨機応変に柔軟なバランスが必要となる。

■9-2.ただしさ 哲学の障壁 ───それが、いかにして妨げられるか。 前述した通り、人間は小手先の理性ではなく、理屈や論理ではなく、 【無意識な所から当人にとって"正しいと思うこと"を求める】ようにできており、 また【当人にとって"正しいと思うこと"に、反するものを不快に思う】ようにできている。 それは妥当性をもって発揮されれば社会にとても貢献する性質であり、 【人類にとって、大きな恩恵も、もたらしている性質】である。 たが哲学をする際は決定的な障壁として、思考の自由を妨げてしまいがちなものである。 まず最も初歩的な段階として、 何かを感じた時、通常、自然と最初に「自分の感覚は正しい」という思い込みが生じる。 何かを思いついた時、通常、ごく自然に「自分の発想は正しい」という思い込みが生じる。 それは無自覚に"自分の考え方(感覚・思い付き)は、正しい位置に存在する"と認知してしまっているため、考え直す必要性を感じることが無い。 しかも、それを否定されてしまうことは「"正しいと思うこと"を否定される」ことであるためその状態ではかなりの不快感を伴う。特に強く"正しい"と思っている場合、否定的な指摘は「人格を否定される」かのような衝撃として受け止めてしまうこともある。 この段階では内省することはおろか、ちょっとした指摘でさえも苦痛に感じやすい。 「自分は正しいことを言っているんだ」と思い込んでいるため、何かしら自分の思い込みが崩されるような納得が得られなければ、むしろ"自己正当化"を強めて言い繕ってしまう。 当然、それが本当に、客観的に"正しい"と言えることであるとは限らない。 それが、いわば"哲学性に欠けた(哲学的能力の足りない)"状態だと説明できる。 しかし、それはむしろニュートラルな、自然な状態、本来の反応だとすら考えられる。 人間は生来そのように反応するようできているものだとも言ってしまえるもので、 それは"哲学が不可能な人間"ではなく、"哲学面では未発達な段階"だと言えるのだ。 なお"正しいと思うこと"への感覚や執着、反応の程度や仕方などには、個人差や状況による違いは大きくある。 一段階成長し、考え方を学び学ばされ、考え方を"選べる"ようになっても、 まだ「いずれかの考え方が正しい」という思い込みにとらわれやすい。 繰り返すが、人間は"正しいと思うこと"が大好きで、それに反するものが大嫌いである。 それでは「正統で正解な、"正しい考え方"というものが存在するはず」と思い込み、"正しい考え方に頼ることが最も正しく、それに従わないこと信じないことは間違いである"などのように思ってしまいがちである。特に、それを否定するのは"悪者だ"とすら思ってしまいうる。 表面的には何かしらの考え方を使えるが、正誤、善悪の二元論を持ったままな状態である。 学校のテストのように「答えの決まった問題を解決するために"有効な考え方"を使う」という場合であれば、「予め存在する、学習しておいた"正当な考え方"を探して使う」ことになるため、勉強熱心であればペーパーテストの成績も期待できるくらいには、考えることができる。 表面的には"様々な考え方を扱えている"状態であるようにも見えるわけである。 しかしこのままでは、"答えを知らないこと"や"答えがないこと"を問われるような状況には、"間違えることがとても怖い"と思ってしまいやすい。間違うことがあまりに怖いと、その問いにちゃんと向き合うこともできない傾向を示してしまいやすい場合もある。 つまり初期段階と似たような反応"自己正当化"の傾向を示しやすかったり、あるいは"答えの知らない問題"に自分なりの答えを出すことすらしたがらない、などである。 あるいは「質問者の顔色をうかがって、"怒られない返答"をする」ような傾向を見せる。 自分が"間違えてしまった"ことを認識した時、人は「自分は"正しいこと"ができていないんだ」という気持ちになり、人によってはかなり強いショックを受けてしまうこともある。 自分の間違いを認めたがらない初歩段階よりは成長しているものの、"間違っていることは悪いこと"だと思っており、時には"間違うことはとても怖いこと"だと思ってしまうこともある。 理知をもって考えようとしていても、 そんな"正しいと思うこと"への情動、妄執から脱却することはたやすいことではない。 特に「"正しい答え"が存在するとも限らない哲学」というものが、 多くの人にとってとても"難しい"と思われる原因の、大部分だとすら言える。 "正しい"が分かりづらいもの、見えないものは、多くのヒトにとって触りづらいものなのだ。 一つ注意しておくべき点として、この"正しいと思うこと"の関係では、 人はすごいと思ったもの・憧れているものについて、その状態を"正しい"と思ってしまいやすく、時には「憧れたものは正しいはず→"正しいと思うこと"を目指す」という反応によって、"憧れの人を目指す"ようになる場合がある。有名な人や、"えらいもの"などをだ。 しかし表面的な理解だけでは、その姿だけに追いかけて、内面が伴わないことも珍しくない。自分の状態を見返す機会がなければ、全く実態がなくても、自分もすごいと勘違いしてしまうようなことになってしまったりする。 例えば難しい本を読んで、その内容を語るだけで自分が凄くなったと思ってしまうこともあったりするのだ。 あるいは、一見強い信念や強固な考え方を持っている人に憧れて、それになりたいと思ったものの、十分な中身や背景がないままに表面的な頑固さを真似してしまうこともある。 本当に信念・考え方が強い人は、たいてい十分な経験と知識を積み上げて、その上で思慮をし続けた末にたどり着いた姿であり、それは中身のないまま安易になれるものではない。 イメージとしては、ボディビルダーの筋肉は一朝一夕で作り上げられるものではなく、年単位の"人生"をかけることが必要であるように、実質を伴う思考は鍛錬のたまものである。 ハリボテの思考で目先の優越感にとらわれたりしないように、よく注意しなければならない。 "尊い理想"を目指すことは、とても夢のあることだが、それは簡単なことではない。

■9-3.はばたく 哲学的成長 ───それを、いかにして使えるようになるか、いかにして考えるべきか。 前述した通り、思考における"正しいと思うこと"への無意識の偏向や執着から脱しなければ、 二元論にとらわれがちで、自己反省も難しく、哲学を試みることは極めて困難なままである。 "正しいと思うこと"による自縄自縛から脱するには、 特に【"間違い・失敗"などへ、その"正誤・善悪"の感覚の衝動を小さくすること】が大切となる。 "間違い・失敗"への嫌悪感・恐怖感・劣等感・喪失感などを重大に思わないことである。 ここからは特にとても教育的な、"人間の扱い"の話、"人体の扱い方"の話となる。 ただしここで語れることは詳細な手法ではない。その知識の上に、泥臭い努力が必要になる。 なお、もちろん「人に迷惑をかける状況」であった時は、程度に応じた謝罪を忘れずに。 まず、特に"間違うことへの経験・知識"と、"それでも自分は損なわれないという安心感・自身"を獲得すること。 それによって自分が間違うことも大した罪悪ではないという感覚を身につけられ、さらに自分が間違っていることが明らかな時には、苦痛なく自省、修正することができるようになる。 反省は忘れずに。 つまりよく言われる「失敗を含めた挑戦を経験することで、精神的に成長していく」という話だが、ただしそれは【教育上"短絡的に失敗をさせればいい"なんて話ではない】。 単純に失敗するだけでは「挑戦=失敗=罪悪」という悪い刷り込みになりやすく、積極性を損なわせるばかりで、それだけでは自省にもたどり着きにくく、ほとんど逆効果である。 "成功体験も大切"だがそれだけでなく、「間違ったことに対して、自ら納得する」という手順を踏めなければ、しっかりと自省することができない。 納得を疎かにしてしまうと、むしろ意固地な心理が形成され、心の柔軟性が失われてしまう。 「失敗に対して考えることを重ねて、正解への道筋を探る、そして正解に至る」という経験や知識が、この自信をつけるためにはまず多く必要なのである。 そうして"考え方"とは"使うもの"であること、特に自分の発想・考え方も守るものではなく"臨機応変に変化させていくものだ"と、感覚的に理解できるようになる。 ただし、これにはより濃密な挑戦による失敗と成功の経験が欲しい。今の時代であれば「廉価な登竜門」のようなものとして、数多くのゲームやパズルといった遊びがあり、それらを惰性ではなく「考えながら・方法について意識しながら」プレイすることが、経験を重ねるのに効率的だと考えられる。 なお、パズルなどの答えを見てしまうのは、十分挑戦してからにするべきと言える。手間をかけることで強い達成感を得る、"成功体験の感触"もまた、自信をつけるために大事なことだ。 より実践的には、失敗や問題によって自分がどうにもならなくなるわけでもない時、つまり死ぬみたいなわけでもない時には、意識して余計な不安を持たないよう心がけること。 特に小さい間違いであれば「しょうがない」「まあいいや」と、間違えたことを引きずらないことである。失敗した事実は水に流して、もし勉強など反省が必要であれば、【間違ったところの"確認すること"だけに意識する・気持ちを集中させること】をまず心がけよう。 それは"成長の機会"でもある。 一方で損害が出るなど大きな間違いだったときは、どのように間違えたのか、どのような結果だったのかを強く意識して、直前を思い返したり、今の状況を見て確認するほうが望ましい。 【まず深呼吸!(気持ちより)先に状況確認!】をするのだ。 "どのように間違えたか"を検証することで、今後注意するべきところとして覚えられる。 あるいは「失敗は成功の元」であるように、改善方法を発見できるかもしれない。 またこれらは他者の"間違い・失敗"に対しても、同じくらいの気持ちを持つことが理想である。もし自分が失敗の被害を受けた場合はそれどころではなくなりがちだが、"状況確認がまず第一"だと意識したいところである。 他者の失敗にも寛容であることを努めること、その経験によって、自分自身に対しても、より"正しいと思うこと"による抵抗感、自縄自縛を緩めることがしやすくなる、はずである。 "考え方"の扱いにおいては、明確な"失敗・間違い"がないこともある。 しかし間違いなどへの耐性をつけていくことで、 "考え方"は「間違いでもいいからまず一度試しに作ってみて、うまくいかない時・問題がある時に変えてしまっていいものだ」、という扱いができるようになっていく。 実はその手順が、考えを深めるためのごく初歩的な方法である。 そして「強い信念や強固な考え方」というものは、その手順を繰り返してくことで中身を伴って、「考え直そうとしても、やっぱり(現時点では)そう考えられる」という形で、強固に形成されていくものである。

■9-4.そうぞう 哲学的解釈 ───それは、どのように向き合うか、どのようにつかむか。 ごく単純に言ってしまえば、そうしたことに「慣れる」ことで、 "考え方を考える"ことも、より抵抗なくできるようになっていく。 だがそれは、必ずしも万人にとって容易であるとは言い難いものである。 言った通り、"正しいと思うこと"への偏向や執着は、理屈ではなく無意識な所から生まれており、それを理性のみによって全てをコントロールすることは無理である。 またさらに、それはその人の肉体、経験、記憶、そのほか環境などによって形成されているもので、個人差も極めて大きく、細かくはその人に合わせた対応法が必要となる。 例えば【強いトラウマ】が、その心に強いくさびを打ち付けている場合、その感覚からの脱却は非常に困難である、といった場合がある。失敗への強い恐怖体験が"無くなる"ことはない。 そうしたものは上辺の理屈ではなく、より深く感覚的なものと向き合い、"落ち着かせる"努力をしなければならないところにある。恐怖心とは、"落ち着かせる"ものと言える。 抵抗感が強い場合は、より専門的な、いわゆる精神修行のような内面への訓練を要する。 なおトラウマの例とは反対に、幼少の頃から旺盛な好奇心などから様々な経験を経て「失敗は経過の一つである」といったことを理屈ではなく体験し学習して育った人もいたりする。 その上で色々なものを見て、自ら意識をする・考えることにも慣れていくと、若い頃からもう息をするように"考え方を考えること"に至ることもありえる。 その性質の獲得は、必ずしも年齢を条件としない。 それ故に「できないこと」への認識が決定的に異なっていることもある。 当人にとってはそれが自然体であるために、"どのようにしてそうなった"のかは改めて分析しなければ十分な理解をできない。 鳥がなぜ翼を持っているのか、鳥自身はその理由を知らない。 魚がなぜ水中で暮らせるのか、魚自身はその理由を知らない。 哲学の手法には感覚を分析すること。それを教養として伝えるということがある。 感覚が具体化させることによって、大事なことをより掴みやすくなる、という場合がある。 非常に色んなイメージがありえるものだが、そのいくつかを記しておく。 "考え方を考えること"において大切なイメージは、 「ヒトの考えとは、"その時に発生した反応の一つ"でしかない」という所である。 そもそも考え方そのものとは、大なり小なり勝手に変化していくようなものであり、また状況に応じて適切に変化させていくものだ。 「考え方とは人格の表現の一つであっても、"人格の外側に存在する方法論"であって、強い繋がりはあっても"人格・アイデンティティ・人の品格"そのものではない」と考えること。 人をむやみに困らせてはならないなど、言動の責任は相応に持たなければならないが。 "考えること"は記憶や経験、そして肉体から発生した反応の一つでしかない。 永久に同じ形のまま墓まで持っていくものではなく、 刹那に使って過ぎ去っていくものが、"考えること"の正体である。 書き留めておかなければ、同じ考えが二度とやってこないことさえ想像以上に珍しくない。 記憶経験が積み重なっていくことで、徐々にでも変化していってしまうものであり、 あるいは衝撃的な経験からあっけなく変質してしまうこともあるのが"考え方"だ。 "今までしてきた考え方"も、それこそ"長く積み重ねてきた考え方"であっても、 "その時点から見て未来にいる今現在の自分"にとっては、過去の残滓である。 あるいは。考えとはいわば「投げたボール」に例えられる。 投げた本人そのものから、放たれたものである。 そのボールがどれだけ打ちのめされていたとしても、 打ちのめされているのはボールだというイメージだ。 そして、意外と容易に失くてしまうものでもある。 なお、それを他人にぶつけて傷つけてしまっては怒られてしまうものでもある。外で投げるときには注意も必要である。 過去の自分の振舞いは"過去の自分"であり、"今現在の自分"ではない。 反省とは、"同じ過ちをなるべく避ける"ために意識すべきものであり、"未来の自分を助ける"ための手順であって、今の自分をやたらに打ちのめすことではない。 とはいえ社会的には、過去の自分であってもその言動の責任は持たなければならないものとされるために同一のものとして扱われるが、 自分自身にとっては、過去の自分と、今の自分と、未来の自分は全く同じものではない。 本当に大切なものを、未来の自分へと大事に持っていくべきである。 これらはあくまで解釈・イメージの一例で、実際そのように自覚していることは稀だろうが、 "考え方"は柔軟に持っていいもの、色んな考え方ができてしまうものなんだということを理解し、「小手先の考え方は大切にできるものではない」と思えること。 そうして思考の失敗、変容、否定に対する抵抗感が弱まっていく。 そして、"考え方も試行錯誤ができるもの"として扱えるようになるのである。 なお補足として、"社会的に正しいこと"というものは、"個人の感覚"と異なる存在である。 それは人々の「その方がいいだろう」と思う妥当性によって適宜形成されるもので、明文化された規則や、または不文律において、社会的におおよそ合意されているものである。 文化や地域や時代によって変化していくようなものでありつつ、理想的には普遍的な倫理性や人道性の確保もとても大切と言うべきだが、少なくとも"個人の感覚"そのものではない。 社会的な正しさとは「大衆の"個人の感覚"の集合集積」によって形成されるものだが、 社会的には「"個人の感覚"を社会的に合わせるべきもの」となっている。 個人の感覚は、社会的な妥当性を考慮し、倫理性や人道性にも注意をして、自分と他者との関係ですりあわせていくことが、社会的に求められるところである。

■9-5.げんかい 哲学的訓練と、その先 ───それは、果てしなく続き、ゴールは無い。 哲学的成長によって苦も無く「考え方を考える」ということができるようになっても、 さらなる成長には、より"考え方"というものの理解を広げ、深める必要がある。 つまり、様々な考え方、あるいは哲学的教養や科学の歴史知識などに触れたりすることで、 「世界には色んな人がいて、それぞれが各々の立場と頭でさまざまな考え方をしている。」 「あらゆる考え方は、それを考えた者の立ち位置から生じた"一つの考え方"に過ぎない。」 こういったことを深く理解していき、また 「その考え方は、どのような視座であるのか」 「その考え方は、どのような手順であるのか」 「その考え方は、どのような知識背景、文化背景を持っているのか」 「その考え方は、どのようにして構築されているのか」 その考え方は、どのような考え方であるのかと、 さまざまな知識・教養を分解し、自ら考えるためのパーツとして摂取していくのである。 ただ表面的な考え方の精確性などではなく、いかにして考えたかに着目すれば、あらゆる考え方が、分析してみることのできるものである。あらゆる考えが、面白いとすら感じうる。 そこまで考えることによってようやく、「その考えが何を持っているのか」や、 教育的には"補わなければならない「その考えから本当に欠けているもの」"など、 本質的なところまでもが見えてくる。 思考とは、いわば知識・教養の積み木やパズルを組み立てたりするようなものである。 なお自らの考え方を考える際、最も分かりやすい方法論は「メモをして見返す手法」である。 「自らの考え方を物として書きまとめることで明確に外部化をして、後で見返して再確認とリファイン、あるいはリメイクを行い、さらにまた後で見返して繰り返す」という手法だ。 単純な話、考えも一発目ではたいていその考えはかなり雑で、整理が十分ではなく、自分でもちゃんと理解できてないことさえも珍しくない。何度でも読み返しながら、何度でもまとめ成していくことで、理屈の整理された考え方にすることがかなう。 ただしこの工程には、より強く「自分を信用しすぎない」という感性が求められる。 自分の発想は正しいはずといった所だけでなく、「自分はこう認識している」というところ、特に「自分はこう書いたはずだ」などの思い込みまでも、再確認するよう心がけること。 時にはただ書き直すだけでなく、意図的な反論、反証を試みること、客観視も必要である。 現代では機械的な手法で「書いた内容がどのように伝わるのか」を検証することもできる。 ただし、それはあくまでも「検証の手伝い」にしておかなければ、自ら考える力は養えない。 対人含め対話は【その内容が本当に伝わるのか】を検証するためのものである。 それは実のところ、「それを忘れた未来の自分が見た時、どう伝わるのか」も示している。 ようするに、思慮においても論文をまとめるような手続きを繰り返していくことが、哲学を深める歩みの一つである。 そうした活動によってようやく、「安直に"正しくあらねばならない"としてしまう妄執・バイアス」から脱却し、それは"思慮"という段階においては不要という感覚をつかめる。 その果てに「思慮することそのものが正しい」と思い込める状態、「考えること自体が良いである」という立ち位置に到達する。 哲学の障壁となっていた"正しいと思うこと"を、 哲学をするための"燃料"にしてしまうわけである。 そうして「考え方を考えること」へと、純粋に向き合うことができうるようになる。 そして、一般的な生活においてそこまで深い哲学性が求められることなどなく、そこに至るだけでも非常に手間がかかり、またすることにもかなりの労力がかかるものであり、かといって明確な見返りが存在するわけでもなく、全く割に合わないとすら思われてしまい、 現実として哲学的活動が一般的になるわけもないのだ。 哲学的活動も特別分かりやすく楽しいわけでもなく、 哲学的活動をするのはだいたい考えることが好きになってしまった、考えることが日常になった人くらいなわけである。

■9-6.にんげん 哲学的感覚による苦しみと、人としての哲学的決意 ───それは、やさしいものではなく、いかにして考えるか? また、"誰もが哲学的成長を目指すべきだ"などとも言いがたい。 安直に「全人類がもっと賢くなれば世界は幸せになるのでは」なんてお花畑は、実態はそれほど優しい世界ではないと言う。 哲学的な成熟は、いわば思考から自らの"正しさ"の感覚を引きはがすことになるわけだが、 それは決して安寧へと至る成長ではない。 むしろ思慮の泥沼に足を踏み入れるに等しいとすら言える。 人類としてほぼ普遍的に「"正しいと思うこと"をしたい」と願っているにもかかわらず、 内面においてそれを疑えてしまうと言う状態は、自らを安定させるための手段を持つことは難しくなる場合があり、精神的な安定を損なってしまうこともありえる。 考えすぎて、ろくなことにならなかった人も、珍しくないものだろう。 哲学がただ幸せや金を生み出してくれるわけでもなく、 考えることに執着しすぎてしまうと生活のリソースまでもいたずらに消費する。 また哲学の領域は社会一般とはズレた領域で結果社会性を失う危険性さえもある。 ようするに、社会的また精神的な生活基盤が不十分だと、生存自体が危ぶまれるのである。 哲学性の欠如は、心理的な困窮の理由を理解や対処のできない恐れはあるが、 半端な哲学性も、心理的な困窮を導いてしまう恐れがある。 「それでもなお」と言える哲学に到達しなければ息苦しいばかりであり、 考えられてしまうこと自体が心理的な負荷になってしまう。 もし、哲学の世界へ、心を踏み入れてしまったのならば、 より色んなものを見るように努め、その哲学をより広く持つように心掛け、 獲得してしまった性質と、どのように向かうべきかもまた、考えなければならないのだ。 特に自己完結に終始してしまわぬように、貪欲に知識教養を探し、まずはより安全な考え方を求めるべきである。 特に「意味を疑う」などというだけの半端な所で立ち止まらず、哲学をより深めて、 「それでもなお」というべきものであるという人間的な感性の大切さを思い出し、 "健康的な考え方との付き合い方"を目指すのだ。 自身が人間であるのならば、一人の人間として、人間であることを前提として、その先を考えなければならない。 理屈として世界に意味がないと思えてしまっても、 "それでもなお"人とは意味を求め、考え、決めて、そうして生きていくものであると。 人間として、人間を肯定する、その原点を思い出し到達しなければならない。 いかなる深みに潜ったとしても、息継ぎのように、それは思い出さなければならない。 人間とは、そのように存在するのだから。 私は、そうあることを祝福したい。 「超越するべき」と理想が語られることもあるが、どれだけ考える力があったとしてもヒトはヒトであり、その心理も哲学によってその全てを管理制御できるわけではない。 考えることが正しいと思っても、ヒトとして、本当に大切なことも見つめ、考えるのである。 "脱人間思考"などを目指すこともとても意義深い哲学のテーマの一つだとは言えるが、それは"考えている間だけ"にするよう心がけるべきであり、一つの命として「人間社会に存在する一人の人間としての自分がある」ということを忘れてはならない。 ちなみに「自らを疑えるようになる」という技能自体は、平和的に獲得されるものとはかぎらない。時に強い精神的ショックによって獲得してしまい、最悪「自らを否定することが正しい」という形で覚えてしまう場合もある。 そうした自己嫌悪の領域に入ってしまった場合、"そうした考えを中断させる"か、あるいは"その考え方さえも疑う"、"考え方を考える"という哲学性を獲得できなければ、精神的な負のスパイラルに陥っていしまい、致命的な結果になることさえある。 哲学とは、そうした深淵のそばを、自らの意思によって歩くようなものである。 哲学に触れること、哲学的な技能をつかむことは思考上の免疫、筋力として有用だが、 哲学にハマること、哲学の沼に沈むことは、思考と時間の破滅的な浪費を招く。 健康的な生活を目指したいのであれば、「考えすぎることもまた毒である」と覚えておく必要がある。 特にそれは、えらそうに思えても大してえらいことでもない、すごそうに思えても大してすごいことでもないのだと。 楽しめることを探そう。娯楽を得ることは、健全な範囲であれば、そう悪い事ではない。 心が踊るようなもの、心に光があたるようなもの、心の温かさを感じられるものを、探そう。 何より、肉体的な健康と、精神的な健康こそが、より安全な哲学性を育むのだと考えたい。 人間の心の根源とは、思考ではなく感覚なのだから。 その心を本当に支えるのは、小手先の技術ではなく、それまでの状況によって形作られた"感性"である。 人として、それもまた大事にするべきである。

■X.最後に。私の到達した幸福論 最後に、この言葉を書き記す。  【ブッダより猫】 私は、私の哲学によって、この言葉に至った。 多くの人たちにとって、本当に必要なのは"叡智"よりも、"猫を愛でる"ようなことである。 その"猫"はあくまでも例えで、つまり理屈でなく、"かわいい存在を愛でるようなこと"だ。 ただただ、無償の愛を与えたくなるようなものに触れることこそ、最も平易な幸福である。 言葉をつくすべきではないような、小さくとも愛せるものを愛することが、大切だと。 それができる平穏こそ、人が基本として求めるべきものだとすら言える。 ブッダとは、サンスクリット語で「悟りを開いた人」のことで、一般的には仏教の開祖であるお釈迦様(の悟りを開いた後の称号)を指す。 そのブッダ、智の果てを求めることは限定的な理想論であって、現実として万人にとっての理想にはなりえないものである。 ブッダを真に求めることは無理難題へと沈み込む歩みであり、 不幸を超越するための苦行であり、 そして人心からの解脱である。 "人として"のありかたで到達できるような場所ではなく、 そしてそこに存在するものは神仏の座であり、人の席ではない。 "人として"の幸福とは、 合理性によって支えられることはあれども、合理性そのものではない。 それは理屈によって支えられることはれども、理屈そのものではない。 あるいは科学によって支えられることはあれども、科学そのものではない。 幸福とは身体的、本能的な感覚に由来するものであって、 理知とはそれを助ける手段でしかない。 理性は幸福を感じない。 哲学は幸福を感じない。 叡智は幸福を感じない。 それらは、あくまでも人を守るために、助けるために、導くためにある。 特に現代は、わずかな人伝えしかなかった太古と違い、現代においては様々な形で哲学的教養が極めて多く広く存在しており、わざわざ自ら考え深めようとせずともその力の恩恵を受けているものであり、それらが無自覚に多くの人々を支えている時代である。 また太古に比べて豊かな現代文明下においては、人々はおおむね生存に困ることも少ない。 ゆえに、多くの人間として、健康的な価値観とは「ブッダより猫」なのである。 高尚な考えをもつことがもし"えらい"としても、それが幸せとは限らない。 "猫"を愛でて幸せなら、それが人としての安楽椅子である。 そして、"猫"によって助けられない人に、ブッダの類の助けや哲学の海が必要とされてしまうだけである。 考えている人からすれば、あるいは憤りにさえ至るほど、 世の中にいる人々は想像以上に"考えていない"。 だがしかし、それでもなお大勢の人々が暮らす社会は回っており、 そしてそこには幸福も当たり前のように存在している。 つまり「"深く考えること"は、必ずしも幸福に必要なカギではないこと」を意味していることにも気づかなければならない。 全く考えないことは考え物ではあるが、 闇雲に考えてしまうこともまた考え物である。 であるがために「ブッダより猫」なのだ。 現代は特に、万人がブッダを目指す時代ではない。 より深く考える人は、"ブッダこそが猫"である人、思慮こそが幸福である人だけでいい。 そしてそれが、座に置かれる役割を得るのである。 ただし"全ての猫を愛でたい!"などとまで思ってしまうのは、いわゆる"煩悩"にあたる。 つまり、それによって苦しくなってしまうこと、あまりに執着しすぎてしまうことには、 生活のことや社会性を忘れてしまわぬように気をつけなければならない。 もしそうなってしまったら、瞑想のように感性を抑える技術が必要となってくる。 困った時は、そうした知恵も借りてみよう。ただしそれにも、のめり込み過ぎない程度に。 また実践的には一つの"猫"ばかりに執着してもよくないため、 他にも愛でられるものは増やしていこう。 人生は愛で楽しむべきだ。 なお、もっと厳密に言えば【まずブッダよりは猫】である。 困ってもブッダなどへ頼る前に、まず"猫"を愛でて幸せを感じようということで、 より高い目標を持ち、覚悟をして苦難に向かい努力することは、それもまた尊い。

■Y.なお… なお。 何か質問があっても、「私は知らん、自分で調べて考えたまえ」としか言いたくない。 私は「あくまでも人間的である」ことを結論とするほどの強い情動を持っている人間であり、 またかなり直情的な性質を持っているために、私はそれに耐えられる人間ではない。 これらはあくまで長く深い自問自答、書き直しの繰り返しによって整理された考えであり、 端的に現時点の私の考えを引き出したところで、その整合性は保証できない。 それに、私が書けるものの書くべきは粗方書いたつもりだ。 そして、これらはあくまでも、書いた当時の「一つの考え方」に過ぎない。 そもそも分からぬのであれば、そう考える必要もない領域の話である。 どうしても考えたいのであれば、自ら考えなければならない領域の話でもある。 哲学の世界とは、そのようにあるもので、そのように歩くものだ。 ちなみに、日本語における【哲学】には"学問分野における哲学"以外の意味がある。 それは"その人の持つ信条的な考え方"である。 さて、私の哲学とは、どれだろうか。

■Z.あとがき あくまでも個人的なメモとして、これを残す。 ここまで話しておいてするのはおぞましい話だが、 私は哲学について、その詳細を学んだことはない。 過去の哲学者のことはその概要を多少触れてきたくらいであり、 細かい知識は一切と言っていいほど持っていない。 例えば私が文中に"哲学者からの引用"をほぼ使わなかったのは、それができないからである。 しかし、そのほとんどは、何かしら既に考えられた哲学的知見だろう。 たとえ私が自分で考えついたものでも、それは過去の哲学者が通った道だと考えられる。 それほどまでに長い歴史を経て哲学の教養知識とは積み重ねられているものであり、 私は現代社会にある色々な本や文書、様々な物語などから多くの教養を受け取り、 そこから考えていくことで、哲学的にも考える力を持ったと言える。 ただし私のような手順でそれらを会得することは、他人にはお勧めできない。 これは長い長い時間考え続けるという時間と精神の浪費から身に着けたものであり、 全く不効率な手順で、またかなり危険な手法だからである。 哲学について考えようと思うのであれば、まず知識教養を学ぶことをオススメする。 一人の人間ができるような考え方は既に考えられ、体系化され、学べるようになっている。 特に学問として、哲学を志すのであれば、古典知識も現代知識も網羅しておきたいはずだ。 それらは"知識のショートカット"である。学習においても、表現においても。 なお注意点として、平易な表現が必要となる場面ではそのショートカットは機能しない。 安易に引用しても相手によってはよく分からないことで、ただの知識のひけらかしになってしまう。 より"哲学者であること"を目指すのであれば、他者への理解をよく意識して、 そして、そのための文章・言葉の表現も身につけなければならない。

■(追記)い.与太話 「哲学の浅瀬」 (※非常に批判的な視点が中心となる) 本文ではあまり触れてこなかったが、よくある哲学のお話として、 「世界に本質的な意味や価値が存在するか?」という疑問を扱うことがある。 これは非常に根源的な哲学、あるいは哲学にしかできない所であり、 またそこでは「世界に絶対的な意味や価値は存在していない」と結論づけられがちである。 それを結論として虚無を感じ、物事が無価値であるかのように考えることは、一見「特別な視点」や「高次元の考え方」であるために、それが「高尚である」と思ってしまいがちで、それを「不変の正解」であるかのように安易に立ち止まってしまうこともしばしばある。ニヒリズムの入り口だけで理解したつもりになって、ふんぞりかえることも珍しくない。 しかし、それは【哲学の浅瀬】である。大げさに評価すれば「そんなこと誰でも気づける・誰でも分かる」とすら言える初歩中の初歩の段階であり、それだけを理解した所で人として何ら特別でも高尚でも高次元でもない。 あたかも世界の深淵、底の無い洞窟に入り込んでしまったような気分になりがちだが、実はそのことは古くから哲学者たちが整理をして、既に考えつくされただだっ広い平地である。 哲学としては、もはや<スタートライン>の線の上である。 虚無に行きついたところからの基本的な反論として、「じゃあ世の中にある価値が人が勝手に決めているからといって、"人にとってはその価値がある"のだから、そうしたことを否定する必要がどこにあるのか?」と言える。 つまり「絶対的な価値は存在しない」からといって、「相対的な価値というものの意味や価値」が人にとって存在しない理由にはならない。 特に人間は「人間である」のだから、その「人間である」という視点において、物事の価値を考えることはごく当然の前提であり、それを否定するためには例えば「人間が人間ではない」などという理屈を立てなければならないわけであるが、それは実質として非現実的である。 その人として「人にとっての相対的価値」を否定することは、ただの単純な自己矛盾である。 なんなら「絶対的な価値が存在しないからこそ、相対的な価値をより重要に・大切に・慎重に扱わなければならない」と考えつくされた記録が、哲学的な教養としてもう存在している。 ではどのようにして相対的な価値を考えればいいのか?としなければならないのが、今を生きる哲学の役割である。 あえて言えば 「哲学の本質とは、結論を求めるものではない。  結論を出す手段を求め続けるようなものである。  結論に行きついたのなら、哲学としてはもう機能停止している状態であり、  哲学をし続けるには、更なる思案をし続けなければならない。」 と言えるもので、 そのような視点においても、一つの結論を後生大事に大切にしてしまうような扱い方は、まったくもって【哲学の浅瀬】である。 特に「哲学を深める」という行為においては、ただ一度出したくらいの結論を後生大事にすることはない。むしろ自らの結論に対しても思案のアプローチを重ねて、いわばボコボコにしようとしてみることさえ重要な哲学的思案の一環だと言える。 その上で、より強固な考え方、一つの大きな哲学的教養が形成されうるのものである。そのようにしてとても多くの哲学的教養が作られてきた。 * 「活動としての哲学」とはやや離れた話になるが。 そういえば現代において「学部」としての哲学、「哲学的教養を扱う専門家」を作ることが有意義であるかどうか?などと考えられてしまうこともあるらしい。 だがそれは「知識の継承」という点を語るならば言語道断とも言われうる理屈である。 例えば「書いてある文章を読み解くだけなら専門家なんていらない」などと思われているのかもしれないが、読み解く専門家がいなくなったら古い文書はその意味を読み取られることすらなく、その価値を決める手段すら存在しなくなる。 「理解できないのだから価値が無い」と思ってしまうことは仕方がないが、理解するための体系化が存在しなくなってしまえば価値を決める手段も無くなり、その"無価値"な範囲は極めて広がってしまうこととなる。万が一にも、そうした判断によって知識を捨ててしまうような恐れすら発生しうる。 つまり人類文明にとって極めて甚大な損失をもたらしかねない、とんでもない暴論とすら言われかねない。 万が一、もし知識としての哲学的教養が断絶しようものならば、人類はまた改めて同じような思案の体系化に膨大な時間を取られることとなりうる。それが本当に価値があるかどうかではなく、「価値があるかどうか分からないけど、考えられるから<整理されていない・体系化されていない考え方>を整理して体系化する」という愚かな再生産を強いられるのである。 当然、それは「一つの知識が失われる」という損失だけではなく、「再生産を強いられることに使われた人的資源が本来新たに生産しえた文化的財産すらも喪失している」とすら言える甚大な損失である。 なんなら知識の再生産は人類文明の歴史、特に争いや激動の時代による遺失などによっても、幾度となく繰り返されてきてしまった人類の愚行だとすら言える。それを比較的平穏な世の中において「自らの手で捨てる」などのような蛮行を招いてしまいうる考え方をしてしまうのは、もはや【人類文明の歴史から何を学んできたというのだろうか?】とすら問われるであろう、非常に浅はかだと言われうる視点だ。 人類がどれだけ苦心して知識の継承をし続けてきたのかを全く理解していない。知識教養とはこの世界において「勝手に生まれるもの」でも「知識として元々存在していたもの」でも、あるいは「何もしなくても残っていくもの」などでもなく、人々がその手で作り出してまとめ、人々の間で伝え合い、時に世代を超えて知識の継承という活動をし続けてきたものである。 もちろんその立場として、酷い評価をすれば「現代の教養的な哲学の知識を扱う専門家とは、現代において価値があるのかどうかを確認できるようにし続けるために存在する」とすら言っていい。それは(特に現代の"学問的な哲学の領域に残された部分"だと)常に大した価値が無いことを証明し続けるような状態になってしまいうるものであるが、 【必要となった時に存在しない理論を1から作るよりもはるかに合理的】な状況である。 「今現在使えなくとも、あるいはたとえ"未来においても使えない"ものであろうとも、  もし必要となった時に使える状態にしておくこと」が知識の番人の、理想的な役割だ。



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