小話



『絵がうまくなりたい』と思った方への思考試験、概念の明確化、【見描想】のススメ
            Andil.Dimerk


 ●序 まえがき
 予め断っておくと私はそれほど「絵がうまい」わけではない。それは自覚している。惰性のように絵を描き続けた所で劇的に上手くなるわけではない。
 しかし物事を考えることに関しては他者に引けを取らないものだと自負している。
 そして私が「それほど絵がうまいわけではない」のは何故であるのかについても悔しいところはあるが自認している。一番分かりやすい所で言えばこうして文章で説明する方が寝食を忘れられるほど性に合っているものの、細かく絵で表現することにあまり気が乗らないことが多いためである。絵を描くのが死ぬほど好きなわけではないのだ。絵を描いていても他のことばかり頭の中を巡っている。
 反対に言えば『どれだけ立派なご大層な考え方を持っていたとしても、実践が伴わなければ絵が上手くなることはありえない』ということを経験則として紹介することができるだろう。絵を描くことが好きなのならば下手なことを考えずにただ色んなものを向き合って絵を描き続けていた方が身に付く。こんな文章を読んでいる場合じゃない。
 ただもしどうすればいいか分からず悩み迷っているようであるのなら、これらの文章によってその背中を蹴り飛ばして前へ進ませようと思う。ずべこべ言わずにさっさと描け、と。

 繰り返すが絵を描きたいのなら余計なことを考えずに絵を描いたほうがいい。

 とっとと絵を描け。



 ●一 【絵のうまい人】とは
 絵がうまくなりたい。絵を趣味としている人には極々当たり前のような願望だ。あるいは絵を見ることが趣味の人でもうまい絵が描けたならみたいな事を思う人も少なく無いだろう。
 うまい絵を描きたい。しかし現実はそう甘くない。多くの人が「どうすれば絵が上手くなるのだろう」と試しに描いてみた絵を目の前にして悩むのである。そして諦める人がいれば「どうすれば手くなれるのだろう」と思う人もいる。
 では多くの人から【絵のうまい人】に見える人はどう考えているのだろう? 聞く話ではそう変わらないことが少なくない。例え【絵のうまい人】であっても「どうすれば上手くなれるのだろう」と悩むようである。絵を書き続けてきてある程度うまくなったとしても、その目にはさらなる高みが見えているのだ。

 ならそもそも【絵がうまい】とは何なのだろうか? そう問うたならば形やバランス色や構成、細密さや大胆さ、魅力や引力、描画力に表現力、才能や努力、様々な表現がなされることだろう。傾向はあれども十人十色の答えが帰ってくるかもしれない。
 作品によっては【絵がうまい】と感じる人もいれば【絵がへた】と感じる人もいるといった場合もある。しかし素晴らしい絵に対しては捻くれ者を除く多くの人達が共通して【うまい絵】と感じることもある。【うまい絵】という客観的評価には明確な基準や明瞭な定義が存在せず個々人それぞれの感性によって左右されてしまう。

 つまり【絵がうまい】というのはとても漠然とした具体性のない言葉なのである。さらに言えば「絵がうまくなりたい」というのは非常に曖昧な表現であり「スポーツがうまくなりたい」「勉強ができるようになりたい」「お金持ちになりたい」などのような詳しい中身や確かな実現性が存在しない。なんのスポーツがうまくなりたいのか? うまくなって何がしたいのか? なんの勉強ができるようになりたいのか? してどうするのか? お金持ちになって何がしたいのか? といった詳細が一切含まれていないのだ。それに「絵がうまくなりたい」と言うのは最終目標ではない、【うまい絵】を描くための手段である。
 「絵がうまくなりたい」と言う時に何かしらのビジョン、目標となるイメージ、何かしらの方向性がハッキリとしない場合は、まずその具体性のない考え方を改めるべきである。そこに絶対的な定義は存在せず、素晴らしい作品を同様に高く評価するという漠然的な傾向は存在するものの、根本的には個々人の感性次第なのだから。
 だからこそ多くの人からみて【絵のうまい人】であっても「どうすればうまくなれるのだろう」と悩むことがあるのだ。それはその【絵のうまい人】が多くの人よりもより厳しい基準、あるいは詳しい感性によって自己を評価している、と考える事ができる。
 結局、客観的評価としての【うまい絵】というものはおおむね「その人がうまいと思う絵」なのである。社会的評価で言えば「多くの人たちから、あるいは権威のある人たちからうまいと思われている絵」である。

 しかし、そうした感覚的な評価とは別に「技術の高さ」として【絵のうまい人】もいる。それは【うまい絵も描ける技術を持っている人】と言い換えられ、【うまい絵】であるかどうかに限らずより精確により自在に絵を描くことができる技術、能力を持っている人である。
 そういった技術の高さだけを証明するための試験などは存在しないが【絵がうまい】ということをそうした技術を持っている人のことだと思う人もいるだろう。だが技術力があるということと誰からも【絵がうまい】と評価されることは必ずしも一致するわけではない。もちろん全く評価されないということは無いだろうが、技術力があったとしても見る側の感性に全く合わないものだとしたら【絵がうまい】とは評価されにくいのである。
 かと言って技術的に稚拙なのに【絵がうまい】と評価されるということは滅多に無い。ある程度の技術があった上で「感覚的な魅力」を持っていることで多くの人たちから【絵がうまい】と評価されるのだ。

 【うまい絵】あるいは【絵がうまい】というのは大きく分けて2つ、「感覚的な魅力」と「技術的な能力」の複合体である。
 「感覚的な魅力」は決定的にコレであると定義することができない非常に多様かつ曖昧なものだが、例えば手描きで狂いのない円や図形模様を機械的に描いた所で技術的に素晴らしくとも絵としての魅力は乏しいように【うまい絵】には「感覚的な魅力」が欠かせないものなのだ。
 もっと言うならば抽象表現やキュビズムのように分かりやすい技術的な表現を切り捨てたような作品であっても、権威ある人たちから高く評価されている絵画もある。歴史的に見ても現実を描き写したような写実的な表現は技術的にも間違いなく素晴らしいものだが、その時代の後にはより感覚的なものを描き入れた印象派が広まったように、「感覚的な魅力」もまた大きな力を持ったものなのである。

 よって『感覚的な魅力を技術的な能力によって実現できる』というのが包括的な【絵のうまい人】の表現と言える。
 それを頭に入れた上で、この先を読み進めて欲しい。



 ●二 【デッサン】の重要性
 「デッサンをしなさい」、人によっては耳や頭が痛くなるだろう。それくらい繰り返されてきた話だ。
 まずここにおける【デッサン】とは鉛筆などの画材で「対象物を観察し、それをキャンバスへと描きとる行為」のことである。
 絵の学校など専門的な教育においてはまず間違いなく【デッサン】を繰り返しやらせる。授業において繰り返さずとも【デッサン】は努めてやるよう促されるだろう。なぜそれほどまで【デッサン】が重要なのか?

 絵を描くという行為を分解しておくとその理由がよく分かる。
 絵を描くという行為には色んな表現が使われたりもするが、それらを全て取っ払って外面的な状況だけを説明するならば【見て】【描く】だけである。神秘的なことは何もしていない。【デッサン】も「物を見て、それをペンで紙に描き写す」だけである。超常現象を起こしているわけではない。
 極めて単純なことしかしていないのだが、それが誰にでもすぐ完璧できるというものでもない。一見して描き写したとわかるようになるまでも簡単ではなく、写真のように見えるほど描き切るようなことは至難である。

 なぜその単純なことが難しいのか。単純に「物を精確に捉えること」や「精確に描いていくこと」が元々備わっている能力ではないだけである。
 例えば人間は多くの人が無理なく自然に歩くことができる。しかし誰しも生まれた直後からすぐ歩くことができたわけではない。生まれてすぐは筋力的に弱々しくまた自分の体を制御することすらおぼつかない。しかし成長するにつれて筋力的な問題が解消し自分の体を動かす感覚を少しずつ覚えていく、その過程で歩くという動作もまた少しずつ覚えていき、およそ一年半もあればほとんどの子供がひとり歩きをできるようになっていくのだ。
 もう一つ例を上げるならばプロの体操選手。彼らもまた最初からああした動きができたわけではない。初めの頃は簡単な技ですら失敗していたであろうし、どれだけうまくなったとしても高難易度の技を絶対に成功させるということは出来ない。本番でより確実に成功させるために幾度となく失敗を繰り返しながら練習をし続け、失敗のズレを修正し続けてより精確に体を動かせるようになっていくのである。
 つまり人体は「最初から精確に動くようにできてはいない」のだ。そして物理的な範囲内で、感覚の許す限りでだが「練習を続けることでかなり精確に動くようになっていく」のである。
 絵を描くということも同様だ。物体を精確に認識し、そしてそれを精確にキャンバスへと描いていく、そうした技能も人によって向き不向きはあれども修練によって身につけていくものである。

 例えばリンゴを【デッサンする】として、置かれているものがリンゴであるならばリンゴであると認識することは簡単である。しかしそのリンゴの詳細な形や模様、色味や陰影などまで詳細かつ精確に認識することは意外なほど難しい。人間の視点には認識に程度の違いがあるもので「物体が存在することを認識する」「物体がなんであるかを認識する」「物体がどういうものかを認識する」などと同じ「見る」でも認識の詳細さは異なるのである。
 【デッサン】をする時は「物体で何という名前であるか」「その分がなんという名前であるのか」を意識する必要はない。基本的には「物体がどういう形であるのか」を強く意識して、次に「物体がどういう色・明暗であるのか」を強く意識する。全体のバランスを比率をとったりして見て全体のバランスをとり、細部の形を大きくも小さくも見て細部の形をとる。ハッキリとした直線も曖昧で微妙な曲線の形も丁寧に確認し、急がず焦らずしっかりと、みたいな感じ。多分。
 より精確かつ詳細に認識をするためにはそういう意識を持って物を観察しなければできないし、元々そうした意識の強い人でもない限り長時間の観察などによる訓練が必要となる。でなければ形を見落としたり陰影を見落としたり、あるいは描いた絵の間違いも見落としてしまい結果絵を直すことすらできなくなってしまう。つまり始めから精確に描くことができていない上にその間違いに中々気づけないという悲惨な状態となる。
 対象物をより精確かつ詳細に認識し、また描いたものがどうなのかを確認する。この【見る】という技術や意識は絵を描くこと、特に【デッサン】においては不可欠である。

 そしてもちろん描くという行為も修練を必要とする。
 描くという行為は物理的には、手でペンなどを持ち、その手や腕を動かすことでキャンバスに色を乗せていく。手を動かしているのは多数の筋肉であり、手を動かすという意識で多数の筋肉を無意識的に動かしている。ただそれだけだ。
 ただ手で線を引くだけでも人間は完璧には中々できないし、複雑な形ともなれば綺麗に描ききることは至難である。例えば決まった形である文字を書くことですら綺麗に畫けないことは珍しくない。様々な形を描かなければならない絵と違い、文字は同じ形を練習することができるのに綺麗にできない。それは勿論【見る】という技術が足りていないことも多いが、なぞるだけでも大きくブレたりズレたりする。
 そのズレの原因は【見る】の不足と「思い通りに体を動かせていない」からである。人間の体は最初から思い通りに動くようにできてはいないし、描く時に使う筋肉はそれぞれの指を前後に動かす筋肉や手首の筋肉に腕の筋肉、大きく描くときには上腕や肩、さらに大きければ全身を使うことになるが、それらを全てミリ単位で思い通りに動かすというのはプロの体操選手であろうがズレが生じるくらいだ。ろくに自由の利かない状態で描いた所で思い通りの絵を描けるわけがなく、その上【見る】ことが不足していれば思い通りに描けていないことすらうまく認識できないという惨状だ。
 しかし感覚次第ではあるが思い通りの動きができるよう練習を重ねれば人間の体はそこそこの精度で制御できるようになるものである。線を描くことも大体同じことで自在に綺麗な線を描けるよう修練を積めば、ある程度は思い通りに自由自在な線を描けるようになる。もちろんミリ単位の微細な調整というレベルまでできるようになるとは限らないだろうが、多少のズレは修正していけば良い。

 高度になってくると力の強弱やペンなどの扱いを考えて、ペン先を描きたい場所へと精確に落とし描きたい方向へと精確に動かし描きたい濃度で紙に乗せていくという精確な描画能力、また描きたい物を再現するためにはどのように描画すればいいのかを選び実現していく描画技能、そういったものを備えていくことが必要になる。
 例えば鉛筆なら鉛筆先の状態を調整しつつ太い細いに濃い淡い、擦って広くにじませて消して色を調節していく、こうした技術までも駆使しながら詳細に描ききるのである。より精確に描くために、あるいはより豊かな表現をするためには様々な技術をも学んでおきそれらを適時駆使していくのだ。もちろんアタリや下書きを描くことで全体のバランスを調整したり道具を用いてより精確な確認や描画を行ったり、そういった手法や道具による能力の補完もまた描画技術の一種である。
 ただ根本的には変わらない【描く】という行為の延長に過ぎず、学びながら練習を重ねて様々な技術を身につけていくのだ。

 【見る】ことを含めて【描く】という行為の根本はただそれだけのことである。そこに魔法や神秘的な現象は無く、ただただ現実的な能力と技能の積み重ねによって【見る】【描く】は成り立っている。もっと言うなら、まるで魔法のような描画というのは【見る】と【描く】を積み重ねた上にしか成り立たないものだ。
 そして【デッサン】はその【見る】【描く】の能力が特に求められる。対象を精確に把握し、それをキャンバスへと描き写していき、描いたものを見直し見比べさらに描画修正を重ねていく。見て、描く、見て、描く、見て、描く、見て、描く。ただただそれを積み重ね続けること。それが【デッサン】である。
 【デッサン】は絵の基礎である【見る】【描く】の練習にうってつけであり、【デッサン】をする能力はそのままあらゆる絵の技術へとつなげていくことができる。例え抽象画などを目指しているとしてもマンガタッチの絵を目指しているとしても【デッサン】によって身に付く力は間違いなく役に立つ。


  だから先生方は言うのである。「デッサンをしなさい」と。


 絵の教室などで甘くない指導者がついている場合はより負荷の高い【デッサン】の練習を期待できる。現状では認識のできない部分を見てもらって指摘してもらうことができ【見る】こと【描く】ことがまだまだ不足しているのだと認識させてもらえる。難しく辛いことではあるがより認識を、【見る】【描く】を深める修練にはなる。

 ただし【デッサン】によって身に付けることのできる細かい技術はあくまで「デッサンのための技術」に過ぎない。【見る】【描く】という基礎的な能力を伸ばすというのには間違いなく役に立つが、単純にそれだけであらゆる絵を描けるようになるわけではない。
 他の描き方でも同じように一から見て描いて見て描いてと繰り返して細かい技術を覚えていくのである。もちろんその時には【見る】【描く】の基礎が強ければ強いほど効率的効果的に覚えていくことができる。基礎でしかないが、非常に強い基礎なのも間違いない。
 少なくとも「描くものをろくに見たことがない」「キャンバスをしっかりと見ていない」「描いたものもよく見ていない」といった惨状や「思い通りの線を引くことができない」「そもそも線をどう描くかを考えていない」「描き方もよく考えていない」という惨状では絵を綺麗に描けないのは当然である。最初は特によく【見る】よく【描く】を繰り返してそうした基礎を積み上げていく必要があるのだ。


 また【デッサン】に限らず、写真や絵などの【模写】もおおむね同じ【見る】【描く】の繰り返しである。こちらもよく言われる「模写をしよう」という話も根本的には「デッサンをしよう」と同じ効果を期待しての言い回しである。

 ただ模写にはまた別の効果がある。
 もしマンガやイラストのような絵を描いていきたいのだとしたら、デッサンと同じようにマンガイラストなどの模写もしっかりとやっていくといいだろう。



 ※ ちなみに練習として、写すものを透かしてなぞるように描くトレースでは「決まっている所でより精確な線が描ける」ようになる以外の効果はあまり期待できない。丁寧に線を描くなら「綺麗な線を描く練習」にはなるが、全体を見ながらバランスをとったり見た形をキャンバスに落としこんだりといった事をしないため十全な練習にはならない。
 ただそもそもろくに線を描けないというには必要な練習ではある。手でペンを最低限前後左右に動かせなければどうしようもない。練習としてなぞる場合にも絶対に乱暴にはせず努めて丁寧に描くこと。かと言って力を入れ過ぎないように。力を全く入れないと安定せずふらふらしてしまうが、力を入れすぎてもペン先がスムーズに動かなくてグラグラする。その線を描く感覚を身につける為には、線を描く練習は必須である。
 またそうした練習をするときは必ず丁寧に描くことに加えて、必ずよく見直すこと。描き損じていないか、線がズレ過ぎていないかあるいはブレ過ぎてはいないか。線をガサガサ重ねるてしまうと一見「描けている気がする」が、綺麗に描けてはいない事を忘れないこと。
 ※ 他人の作品の模写・自分の作品でない画像のトレースは「完全な自分の作品」ではないため取り扱いには要注意。その旨を明記せず「自分の作品である」とすると色々問題がある。
 ※ ただ作品制作としては作業の簡略化にも非常に効果的ではあるため、著作権等の問題がない範囲(自分で撮った風景画像なり素材として利用可能とある作品なり)でならよく使われている。ただなるべく使わずにも描けるほうが調整など融通が利くのでその方が便利ではある。



 ●三 真似るということ、好きであるということ
 デッサンの練習において大きく欠けている物がある。デッサンによって【見る】【描く】を磨いてより精密かつ詳細に描画する能力を身につけたとして何をするのだろうか?
 【絵のうまい人】の包括的な表現を見直そう。『感覚的な魅力を技術的な能力によって実現できる』
 はてデッサンでは何をしていたのか? 【見る】【描く】を繰り返して技術的な能力を伸ばすことはしていた。では足りないものはなんだろうか?

  『感覚的な魅力』だ。

 対象をただ精確に詳細に描くだけでは正しい形を描くだけの図鑑のような絵にしかならない。それはそれでおおいに利用価値はあるが、図鑑的な方面以外ではろくに使い道が見当たらないだろう。そうした状態は色んな表現をされているがあえて上げるなら「独創性が無い」という言葉が最も適切かもしれない。
 デッサンなどによって身に付く能力はあくまで基礎中の基礎に過ぎない。それらを使えば様々な表現が可能なのかもしれないが、それはいわば「ただ道具を手にしただけ」なのである。その道具を使って一体何を作るのか? 何を表現するのか?
 実のところデッサンでの練習は初歩中の初歩でしかない。絵を描くということに持っていて当たり前の能力を身につけるためだけの練習とすら言える。重要なのはその先、その技能で「何を表現していくのか?」である。

 何を表現していくのか? 残念ながらそれを他人が明示することはできない。極めて個人的かつ哲学的な問題だろう。だがそれこそが『感覚的な魅力』という課題に繋がる問いでもある。
 それを紐解いていくにはますそもそも『感覚的な魅力』とは何か? と分解していこう。

 『感覚的な魅力』とはまず明確な基準の存在しない個人的な感覚である。
 そこには様々な感覚があり「綺麗」「心地良い」「気持ち良い」「美しい」「楽しい」「嬉しい」「可愛い」「興奮する」「カッコイイ」「圧倒される」「感動する」「心を動かされる」といった好意的なものから「恐ろしい」「不安になる」「気持ち悪い」「おぞましい」「哀しい」「苦しい」「涙が出てくる」といったややネガティブなものも含まれる。人によってはネガティブなものに魅力を感じることも珍しくない。
 そしてそうした感覚を見た人から引きずり出す力を持っている作品こそ「『感覚的な魅力』を持っている作品」だと言えるだろう。もちろん作品と人の相性によっては琴線に触れないため効果が無いこともあるが、社会的評価としては「多くの人が、あるいは権威のある人が評価する」ことでおおむね決まる。

 しかしではどうすればそうした『感覚的な魅力』を持った作品を作ることができるのか、何が『感覚的な魅力』になるのか、残念ながらそれの絶対的ものを示すことはできない。おおまかにどういうものであるのかは説明できても、その中身は非常に多種多様な上不安定で時代によって相手によって状況によってさえ変質してしまうものだからだ。
 だが唯一わかることがある。それは『自分自身が何に魅力を感じるのか?』という事。自分が何を好きなのか、何を美しいと思うのか、何に感動したのか。そういった事は思い返すことができる。それは間違いなく自分自身が『感覚的な魅力』を感じたことだ。
 もちろん自分が良いと思ったものであっても、他人が良いと思わないこともある。他人の心の中を覗くことはできないし、状況からそれを推測することはできてもそれを考えるのは結局「自分自身の感覚」に頼らざるをえない。色んな事を考えても最終的には「自分の感覚」という原点に着地するのだ。
 結局自分のセンスしかない。自分が心を動かされるものを表現すれば、他人の心をも動かし得る。そうして自分のセンスから良いものとは何かと想像をしながら描いていくことになるわけである。

 ただもし自分のセンスと多くの人のセンスが全くズレてしまっているとなれば社会的評価を受けることは難しい。社会的評価を考えたいのであれば自分のセンスと大勢のセンスとのズレも考えつつうまくやっていかなければならない。例えどれだけの技能技術があったとしても一般人に合わせたセンスが無ければ、一般人には理解できないような作品になってしまう。偉い人のセンスにも引っかからなければそうした評価も得られずに埋もれてしまうだろう。
 そして例えどれだけ大勢のセンスに合わせて作ったとしてもそれが本当に社会的評価を受けられるとは限らない。それこそ社会的評価を得られるのは「自分のセンスが社会のセンスが合っている上に運の良い時だけ」とすら言ってもいいかもしれない。人によっては時代の移り変わりで死後に評価されるなんて人すらいるのだから。
 どうしても社会的評価を考えなければならない、いわゆる生業としてプロの道に進むというのであれば社会のセンスを感じ取ってうまく自分のセンスを調整していく必要があるだろう。その為には過去から現在までヒットした作品、名作と呼ばれる作品、流行となっている作品などを見てそのセンスを学んでいくこととなる。
 ただもしそういったものに魅力を感じることができないのだとしたら、それはもう芸術において社会的評価をまず受けられないと覚悟しなければならない。何が良いのか理解できていないのに良いものを作ろうとするというのは何も考えず「1番に賭ける」ような博打でしかないのだから。

 長々と難しい話をしてきたが言いたいことは単純である。『色んな名作を見てセンスを磨き、良いと思ったものを想像して描いていく』ということだ。さらに砕いていうなら「好きなモノを見つけて、好きなものを描いていく」くらいでいいだろう。
 社会的評価を気にせず個人的な道楽だけでやるのならば別にセンスを磨くことが不可欠というわけではないが、センスを磨いて自分が本当は何を好きなのかをハッキリさせることで「自分でも描いて良いと思える絵」を作りやすくなることもありえる。


 『人のセンスから学んでいく、そして自分のセンスを頼りに描いていく』


写実が良いと思えば写実を、デフォルメが良いと思えばデフォルメを、マンガが良いと思えばマンガを、キュビズムが良いと思えばキュビズムを、抽象画が良いと思えば抽象画を、日本画が良いと思えば日本画を。良いと思った作品などをよく見て観察し、【模写】をしたりしてその表現の技法を真似ていく。
 色んな良いと思うものに思いを馳せ、試しに想像しながら描いていって『感覚的な魅力』を描き出す技術を身につけていくのである。あるいはどうしても足りないと感じるようであれば、自ら良いと思う表現や技法を編み出してしまうことも良いだろうが、それは確かな基礎と数多の技法を身につけた上で考えるべきことだ。
 細かい表現技法についてはいくらでもというレベルで色んな人が研究をしている。自分で編み出さずともそうした色んな人の技法から、特に好みだと思える作品の技法から研究して身につけていくほうが効果的かつ効率的だ。その上でどうしても物足りないと思う時に自己流に研究していく方が良い。

 絵を描くという行為はあたかも魔法のように0から10を作り出しているように見えるかもしれない。しかし実際には【見る】【描く】という現実的な基礎の積み重ねに、嗜好や研究で様々なものから身につけた技法を駆使して絵を描き出しているわけであり、基礎も知識量も無いカラッポな空間から素晴らしい発想は生まれることはありえない。
 そこには魔法も神秘も超常現象も存在せず、全て現実的な積み重ねを繰り返して蓄積した土壌の上にまるで魔法のような神秘的な超常現象にも見える力が芽吹くのである。

 だからこそ好きなモノを見つけて、好きなモノを描くのだ。
 その興味を持つ好きなモノは別に絵画イラストマンガなど平面表現作品に限る必要はない。映画やアニメなどの映像表現や、舞台演劇などの演技、彫刻工芸品などの立体芸術などなど様々な作品。画像的なものに限らず小説や音楽などもいいかもしれないし、あるいは作品ですらない人々が絶賛するような風景や多くの人達が熱狂的になるスポーツもまた人の心を動かすものである。
 それらから『感覚的な魅力』とは何かを探し出し、自分の手で表現していくのである。
 ただ好きなものだけを描いていればいいというわけではないが、好きなモノは描くべきだ。
 たまに言及される「個性」などの話は「自分が良いと想うものを」の段階で自然と「形がハッキリとしてくる」というものである。


 ちなみに【デッサン】は基礎だけと話していたが厳密には違う。【デッサン】で最重要視されるところはあくまで基礎能力であるのも間違いないが【デッサン】はそうした「良いところを見つける」という訓練も少しだけ担っている。
 代表的な【デッサン】として【石膏デッサン】があるが、それに使われる石膏像はほとんどが遥か太古から現在に至るまで素晴らしいものだと評価され続けている永遠の名作とすら言えるような傑作ばかりである。その傑作から強い印象を持った作品とはなんであるのかを多少なりとも学ぶのだ。
 もちろん他の作品を真似る【模写】であれば【デッサン】よりもハッキリと「良いところを見つける」という訓練になる。作品一枚全体の模写に限らず、良いと思った表現だけを抜き出して【真似る】のも良い。そうして良い所を見つけ、よく【見て】よく【描く】ことで表現技法として修得し少しずつ積み上げていくのである。
 そして技術知識を積み上げながら、表現したいことを想像していき適切な技法によって表現して「自分の作品」を描いていくことになる。ただ「想像したものを描いていく」という技術も他と同様に最初から完璧にできるものではないため、「想像したものを描いていく」ということを意識して繰り返していって練習していくものなので【デッサン】などとはまた別に練習を重ねていくことになる。


 こうした『何を表現するのか』などを考えていくことを一纏めにして【想う】と呼んでいる。興味を持つこと、あるいは好意を持って思い出すこと、想像してみること、考えてみること、感動することなどなど『頭の中の全ての活動』が【想う】ことである。
 先生方からも【見る】【描く】は当たり前のように重要だと語られてきているが、この【想う】という要素も欠かしてはならないほど大きなものである。しかし恐らく先生と呼ばれるようになれる人は大体、意識せずにそうした素晴らしいものを見つけていくという優れたセンスを持っていたりしてそうしたことに悩むことが少ないのか、【興味を持つこと】の重要性を語ることが少ないように感じるのだ。
 だが人は【想う】ことをしなければ何もできない。



 ●四 才能と意識、【想う】こと
 私を含めて上達をしにくい人たちはたいてい絵を描くこと自体が少なかったり、あるいは意識して技術能力の向上に努めておらずより綺麗に描こうとはしていなかったり、あるいは努力していたとしても方向性が明後日のあまり効果のない方法だったりする。反対にドンドンと上達していく人たちはだいたい毎日のように絵を描き、貪欲に学び続け、そしてしっかりとした方法でより綺麗に描こうとし続けていたりする。昔の私のように。

 「努力する才能」なんて表現も存在するが、とりあえずこの行動自体は「生まれながらにして持ちえている才能」ではなく「環境的習慣的に身についた意識」である。【才能】ではなく【意識】の差である。暇になった時に絵とは無関係のことに気を回したりするのか、それともいの一番に絵や表現のことを考えてしまうのか。それ自体は【才能】でもなんでもなく、日常的な【意識】の違いに過ぎない。
 絵をろくに描いたことのない人が「絵の才能が無いから」などと言ったりするわけだが、そもそも「絵の才能を豊かに持っている人」自体稀有であり多くの絵描きたちは日常的な【意識】を持つことで長期間修練を重ね続けて技量を伸ばしてきただけである。それを才能の一言で片付けるのはもはや侮辱とすらとれる。描いたことのない人たちは絵の【才能】が無いのではなく、本当は絵への【意識】が無いだけだ。
 もちろん体に染み付いた【意識】をいきなり変えてしまうことはできないが、絶対に変わることのない【意識】は存在しない。目に見える範囲で細かい習慣などを変えていくことができれば多少ずつとも【意識】を変えていくことはできる。例えば芸術専門の教育機関では「芸術へと意識を向け続ける環境やプログラム」が構成されており、ただでさえ優秀であろう人たちがそこで更に意識を研ぎ澄ませそして修練しているのである。

 絵に限らずあらゆる分野で言えるくらい何度でも言いたいことだが、初心者が思う【才能】という言葉は全て【意識】という言葉に置き換えてしまったほうが適切である。彼らに足りないのは【才能】ではなく、そもそも【意識】が無いのだと。そう考えるべきだ。
 ただどれだけ強い【意識】を持って死に物狂いでやり続けたとしても見えてこない領域、届かない領域は存在する。どれだけ頑張った所で出来ない、それこそがどうしようもなく横たわっている【才能】という壁だ。しかしそれは相応の技術能力を持っていなければ実感することのない世界だ。
 と考えておくほうが良い。大した技術が無い内から才能がどうこうと悩む必要はどこにもない。それこそあからさまに障害を抱えているとかでもなければ「物理的に不可能な領域」なんてものは分からないし、芸術分野で言えば障害を抱えていたとしてもそれを一つの特性として扱ってしまう場合すらあるくらい、底が無いほど懐の深い世界である。


 ではどうすれば【意識】を身につけることができるのかと言うと絶対的な方法というのは流石にない。分かりやすいものとしては「習慣付けとして毎日のように何かを描いてみる」とか「魅力的に思ったもの綺麗だと思ったものをすぐメモのように描いてみる」とかだろうか。そこで何より重要なのは「描いてみたい」と思うこと、あるいは思い込むことである。無理にノルマを決めてろくに意識せずに描いてしまうことは全く描かないよりはマシかも知れないが、あまり望ましくない。
 またより早い上達にはその習慣にプラスαする必要がある。描いてみたいものをより良いとおもう描き方を探しながらしっかりと描いてみたり、同じものであっても構図や表現を変えてみたり、しっかりと考えながら色んな風に描いていかなければ新しい技術は身につかない。そうした修練を積みながら色んなものを参考にしつつ研究し、より良い表現というものを模索していくことになる。
 ただろくに絵を描けないというような人である場合は、何よりもまず最初に【見る】【描く】をある程度身につけなければその先に進むことができない。意思をしっかりと持ち、しかし頭は固執せず柔軟に、手も力まず軽やかに、【デッサン】なり【模写】なりと【見る】【描く】を練習すると良い。
 ちなみに芸術系の専門学校などでは開始地点が高くかなりの地力は要求されるものの、そういったものをプログラムや課題として組んでいるためより深く意識を深めていくこともできる。意識を深めようと思えなければできないが。


 小難しい表現を使っているが単純な言い方をするならば「絵を描くことを好きになろう」の一言で済むかもしれない。元々好きなら更に好きになること、それほど好きでないなら自己暗示でもいいから好きだと思いこむこと。絵を描くことを楽しめるのならばそれはとても適した意識である。
 絵を描くことを好きになる。絵のことを想い続けてその上で一歩一歩色んな事を試して遊び、より良い表現の作品を目指していければ、そのまま上達することもできるはずだ。最初はうまく表現できないとしても、何度も試していけばきっと表現できるようになるだろう。
 だが人によって毎日描くほど好きになれない、時間が無いとか描きたいものが無いだとか色んな言い訳をするかもしれない。そういう人はもう抜本的に意識を改革しなければ、絵へと意識を向けることは無理だ。厳しい言い方をするなら「実はそれほど絵を描きたいわけではないのだと自覚するべき」だ。ろくに好きでもない状態で誰でも上手くなれるのなら誰も苦労したりしない。


 熱中していることはそれから離れていてもふと思い出して考えてしまうものである。重篤な状態になれば四六時中というレベルでそのことを考えてしまう。無意識的に【意識】してしまうのだ。絵の【意識】を持つということも同じである。目を閉じた時に絵のことなどが思い浮かんでしまうような状態が一番望ましい。
 そのくらい絵のことを【想う】ことができるのならば、それだけ絵を好きになれるのならば、その好意を行動に向け、いろんなものを見ていろんなことを学んでいき、能力的にも技術的にも魅力的にも磨いていくことができる、はずだろう。
 その時には『絵がうまくなりたい・うまい絵が描きたい』という気持ちはもう二の次である。一番の願望は『絵を描きたい・自分で表現をしたい』という気持ちであり、それに付随して「表現したいことのために技術が足りないから、絵がうまくなりたい」と続くのである。
 もし上達し続けたいのであれば「表現したいこと」をより貪欲に求めていく方が良い。実際絵の技術は「表現したいこと」以上に身に付くことは無い。例え技法を知識として覚えても扱うことは滅多に無い。

 「表現したいもの」はどんなものなのかをしっかりと持って描くのだ。



 ●五 才能の壁、努力の道
 才能のことなんて考えずとにかく意識して頑張っていけばいい、とは言っているが別に才能が存在しないというわけではない。むしろ才能の壁はどうやっても乗り越えられないものだ。
 現実として人間は均質なものではなく能力には優劣があり向き不向きがある。絵においても同様で先天的なり後天的なり、絵に適した状態の人とそうでない人がいるのである。

 「絵の才能のある人」というのは一般的には覚えの早い人のことを言うだろう。おおむねそれで間違いないが、重大なのはもっと根本的な部分である。覚えが早いということはより精確により詳細に【見る】ことができ、より繊細により豊富に【描く】ことができる、その基礎的な能力が修練をするまでもなく高い水準だというわけである。
 最初から高い基礎能力を持っているというのはつまり『生来として非常に繊細かつ優秀な感覚を持っていること』に他ならないし、その資質を適切な教育や修練によって更に研ぎ澄ませ、さらにその器用さによって様々な技法を習得していけば誰にも真似の出来ない天才的な人になりえる。優れた感覚を持っているのであれば感覚的な魅力を掴むこともそう難しいことではないだろう。
 そしてその優れた才覚によって他の人には生み出せなかった表現方法を開拓していくかもしれないし、あるいは上回ることの難しい極まった表現による作品を生み出すかもしれない。常人の絵描きにとってそうした領域というのは「何が見えているのだろう」と思ってしまう世界である。例え見て知ることが出来てもそれを自分の手で再現することすら難しく、まして自身の作品に応用することなど不可能だと思わせる。
 ただしそこまでの技能を習得していくことや作品を完成させていくことには相応の労力を払わなければならない。それは見上げてしまえば果てしない世界であり絵が好きでなければそこまで労力をつぎ込むこともなく、大きな作品を作るには至らないだろう。例え優れた才能を持って生まれたとしても、それが活かされるとは限らない。

 そう、絵を描くことは非常に時間と労力を必要とする。

 もし、ろくに練習もしていないし別に描くことが好きでもないのに「上手い絵が描きたいなぁ」と妄言を吐いている人間が超常現象によってポンと絵を描く能力技能を身につけてしまったとした場合、きっともろくに作品を作ることはなくその技能を腐らせることだろう。
 しっかりと作品を作る人は一枚の絵に数時間、長ければ数日掛けて数十時間、もっと長ければ週単位月単位という時間をかける。その間は多少休憩息抜きを挟んだとしても、ずっとずっとずーっとキャンパスと睨めっこをしながら少しずつ少しずつ描き進めていくのである。それも刺し身の上にたんぽぽを乗せるような思考を停止させてできる単純作業ではなく、ほぼ常時考え続けながら集中して自ら手を動かし続けなければらないのである。その最中にはゲームのような分かりやすい勝ち負けなりクリアなり褒美もサプライズも無いし、その他娯楽作品のように面白いところも感動するところも用意されてはいない。ただただキャンバスと自分の感覚に向き合って少しずつ少しずつ描き進めていかなければならないのである。
 ただただキャンバスと向き合い続け、少しずつ筆で色を乗せていく。それも何時間何十時間何百時間という単位で。ずーっと絵と向き合い続けているその姿は端から見ればもはや狂人だと感じるほどだ。
 「絵を上手に描けたら楽しいだろうなぁ」と思うことは勝手だが極まってくるとその実情は逆になる。「楽しんで絵を描くことができなければ、上手になることが難しい」のだ。だからこそ「絵を描くことが好きになる」ことが最も望ましいのである。
 「絵描きが絵の仕事の息抜きに絵を描く」という話もある。

 絵を描くという行為はそれ自体が楽しいわけではない。特に絵の完成度を高めていくという工程はもはや苦行と言って差し支えないであろうほど地味で抑揚のない作業である。集中し続けて細部から全体まで確認と調整を繰り返さなければならない。そこに明確な道筋は無くあるいはゴールもない。おおよそ「自分が満足するまで」であり、自ら終わるまで終わらないマラソンを続けるのだ。
 だが楽しいとも思えるのである。絵が形になっていく、絵が綺麗になっていく、絵が完成していくことが地味に楽しいのである。満足する出来になって完成すれば嬉しいし、あるいはそれが人の評価まで貰えたならもう感激してしまうこともある。そう思えるようになることが望ましい。

 だからこそ時として「好きという才能」といった表現が使われるのだ。

 絵を描くことが好きであるほうが良い。そうでないのならば絵を描くことが好きになるほうが良い。もしくは絵を描くことが好きであると思い込むほうが良い。絵を描くことは楽しい。絵を描けることは楽しい。絵を描いたことが楽しい。そうした楽しむ心構えこそ、比類無き「基礎」である。

 ちなみにある程度の能力技能を得た所でぱったりと上達が止まってしまう人がいる。その辺りは才能の限界などというよりも「表現したいこと表現できる技術が手に入ったため」というケースが多いだろう。特に漫画では多いことだが漫画を構成する上で必要な表現さえできるのならばそれ以上の極まった技術は時として邪魔になってしまうことすらある。場合によってはあえて簡単な表現方法を用いているという場合も珍しくなくあり、その方が見ていて分かりやすいからという理由があることも多い。もし身につけた技術に満足してしまったら、絵の上達はほぼ確実に止まると思っておいた方がいい。
 仕事などで注文をしてくれる相手がいれば新しいことに挑戦せざるを得ないし、上達しなければならないという状況にできるがそれはそれでさらに辛い。



 ●六 絵を描こう
 と、あーだこーだと色々な考え方を頭の中に入れただけで絵がうまくなることはあり得ない。こうした文章を読むことは映像的でない知識を頭の中に入れてしまってむしろ意識中の絵の範囲を逼迫してしまうかもしれない。できることなら余計なことを考えずに紙とペンを手にとって絵を描いていたほうが良い。
 ただ絵を描きたいのに絵を描けないようであるのならば考え方を変えなければならない。


 「なんでもいいから好きなモノを描いてみよう。」

 そう言われた時に何を描くか全く出てこないようなら考え方を考えなおした方が良い。最近何を好きだと思ったのか思い返してみよう、最近何に感動したのかを思い出してみよう、それを描けばいい。難しく考える必要はない。何を描くか色々と出てきすぎて選べないという時も同じように考えてみて、一番最初に浮かんだものやあるいは最も良いと思うものを描けばいい。難しくても描くのだ。
 描く気力が無いのならば思い浮かべるだけ思い浮かべてみよう。それで思い浮かべたものの一部だけでも描いてみよう。それでもう少し描いてみよう。さらに描き進めていこう。

 どうしても描きたくないのなら、それはもう根本的に絵を描きたくないだけだ。それはもうどうしようもない。描きたくないのに絵がうまくなりたいなどと言うのは、それは「絵が描きたい」のではなく「好きなものの好きな絵が見たい」とか「絵がうまいという名札が欲しい」とかみたいなことだと自覚しなさい。そんな人が例え超常現象によって技術を会得したとしても、絵を描くことのあまりの面倒さに辟易し、別の誰かが好きな絵を描いてくれるのを座して待つだけだ。
 「どうすれば絵を描けるようなるか」というのは言ってしまえば的はずれな質問である。絵を描きたいだけなら紙とペンでも好きに描けばいい、それは基本的に誰でもできることだ。

 では、どうすればうまい絵が描けるようになるのか。

 絵を上達させるために必要な要素は大きく3つ。【見る】【描く】【想う】たったこれだけだ。
.色んなものを観察する、色んな作品を鑑賞する、描いたものを確認する。
.色んなものを描く、色んな技法を覚える、表現したいものを適切な技法で描く。
.好きなモノを想像する、描きたいと思い込む、表現する技法を考えて選ぶ。
 細かく言えばもっと複雑に色々なことを含めた極めて巨大な包括的表現なわけだが、基本的な考え方は単純な方が良い。【見る】【描く】【想う】を全て欠かさないこと、とにかく手と目と頭を働かせて沢山の絵を描けという話である。
 少なくとも、少なくとも。
.『描きたいものをよく覚えていない』『描いたものもよく見直していない』のでは目をつぶったまま筆を動かしているのと同じ。しっかりと描けているわけがない。また作品なり教材なり『色んなものから学ぼうと、技術を覚えようとしていない』のなら知識的な技術力が培われることすら無い。
.『思い通りの線や色を描けない』『ろくに描き続けられない』のでは本当に思い通りの絵を描けるわけがなく、ズレや不足でグチャグチャのスカスカになるしかない。色んな物を色んな風に描いていかなければ実践的な技術力が培われない。
.『何を表現したいのか考えない』『何を描きたいのかすら無い』のでは絵を描くことにしすら至れない。表現したいものが分からないなら絵を描く理由が無い。そして『見る時描く時に頭を働かせない』のなら絵をより良いものにしてくことも出来ない。


 どうすれば描き続けられるかと言えば、たった一つ「絵を描くことを好きになれ」。
 「お絵描きが楽しい」と言うのは一応の実感を含むことはあれども、ほとんどは自己暗示のためだと思ってもいい。そう思わないとやってられない。お絵描きが楽しいと思い込めるまでが一番大変かもしれない。
 絵を描くことを楽しめれば、どんどん描きたくなる。毎日描くように厳しいノルマを決めるのは苦しさが勝りやすく止まってしまうとズルズル描けなくなるので初心者にはオススメできない。できなくても落ち込まないくらい軽い気持ちの習慣をつけるくらいならいいが、そもそも描いていて楽しいと思い込めえれば勝手に身体が動いて勝手に続く。
 そうした所に無理のない頻度でちょっとした課題や挑戦をこなしていけば少しずつでもうまくなっていく。気分が乗っているとき、調子に乗っている時は難しい課題や挑戦をしてみてもいい。
 もし絵を描くことを一緒に楽しめる友人がいるならば、もっと楽しく描いていけるだろう。そうであればこの上なく素晴らしい状態である。

 ただまあまずなによりも、とにかく描け。ろくに描いたことがないなら模写から始めてもいい。描いてみたいものを探して、うまくいかなくてもなんでも描いていけばいい。間違っていると思うところは修正して、少しずつでも描いていくといい。
 よく見て、よく描いて、よく見直して、よく描き直して、よく考えて、よく想像して。
 もし描きたいものが枯渇してきたなら色んな作品を見ろ。特に名作とされる作品が良い。それをよく見て特にいいと思ったものを描こう。そうやって良いと思う表現を自分の中に蓄積させていくのだ。

 「表現してみたい」と想うことが大切である。


 時には好きであるかも描きたいかも関係なく、自分を精神的に追い込んで無理矢理キャンパスへと向き合い絵を描くということもある。仕事とすれば必要に迫られて珍しくそうなるだろうし、趣味でもイベントなどの締め切りがあれば気張って描く必要がある。もちろん好きでなければ続かないがそれで絵が描き続けられるのならそれも良いだろう。

 とにかく描こう。



 ●七 あとがき
 とまあ最近はろくに絵を描けていない私が言うのも何な話ではあるのだが、改めて意識を変えていかなければいけないなと再確認するのである。

 芸術の意味や価値とは一体なんであるのか考えたことはあるだろうか。もし色んな人に聞いてみれば色んなふうな表現が出てくることだろうが、表現方法を問わずあらゆる芸術は一つの根幹から成り立っている。それは【心を動かすこと】だ。心とはなぞやとなるとややこしいので言い方を変えるなら【人の感情を引き出すこと】だ。
 芸術作品としての絵もまた同じように【人の感情を引き出すこと】に意味、価値がある。それはつまり『感覚的な魅力』こそが芸術作品の根幹であるとも言える。
 もっと言ってしまうならば『技術的な能力』とはあくまでも『感覚的な魅力』を作り上げるための道具に過ぎない。もし『感覚的な魅力』を創り出すことができるのならば、高度で複雑な『技術的な能力』は不可欠ではないとすら言えるだろう。ただ実際には『技術的な能力』がなければ安定して『感覚的な魅力』を創り出すことができないため、ある程度の『技術的な能力』は必要となるが。
 例えばより効果的な表現『感覚的な魅力』のために現実的なことをあえて無視することは多く、それこそ写実的とされる表現であったとしても時として現実的な構造を無視することもありえる。もちろん【技術的な能力】を最大限高めることでそれ自体が『感覚的な魅力』となることもありえるが。

 ただしその『感覚的な魅力』は個人個人の感覚次第の元々不安定なものでもある。反対に言えばソレに頼って生み出される芸術作品は全て個人個人の感覚によった千差万別に異なっているものである。個人の感覚というものは似ていることはあったとしても誰一人として同一であることはありえない。
 「例え他の人とどれだけ似ていてもあるいは他の人の方がうまくても、あなた自身の感性を精確に表現することができるのは他のだれでもなくあなた自身しかいない。もしあなたが作品を作らないのだとしたらあなた自身の感性はこの世に芽を出すこともなく、今が過去となった未来においてもあなたの感性を表した作品は存在しないままである。」
 色んな事を言われたりして悩むことがあるかもしれないが、自分が作ることのできる作品は誰かと似ていたりあるいはそちらの方がうまかったりするとしても、自分の感性から生み出された作品というものは自分以外の誰にも作ることが出来ないのだから、なるべく作ってみるべきである。

 仰々しい話になってしまったが芸術というものはよくよく見つめると恐ろしい世界なのである。そこに決まった答えは存在せず、人々の感覚的な評価という不安定な基準しか存在しない。言ってしまえば芸術で生きていくということは五里霧中の真っ暗闇に飛び込むようなことである。
 真っ暗闇で何も見えない世界で自分の耳と嗅覚を頼りに進んでいかなければならない。そこで孤独に耐えながら、つまずいてすべって転んで倒れてぶつかって血と汗と涙とよだれも鼻水も小便も垂れ流しても前へ進み続けなければならない。進んだ先に足場があるとは限らないし、むしろ谷であるなら堕ちるだけで済むが、底なし沼であったならわけもわからずもがけばもがくほど沈んで溺れて、心が折れて一からやり直すまで何もできないことすらありえる。そんな世界でもあっても、己を信じてその世界にあることの嬉しさを悦びを愉しさを叫んで走り続けるのが芸術家という人たちなのだ。
 自分のも含めて【人の尺度】と全力で向き合う、向き合わなければならない。それこそが文化の最前線たる、芸術の世界なのだ。
 趣味や道楽でやるなら気楽なものだ。だがそれを生業とするとなったら地獄のほうがまだ温い。


 人の評価などはまじめに悩んでしまうともうどうしようもない領域である。だったらもう最初から大きな期待はせずに、自分の好きなように描いているほうが幸せなのだ。多少優れている程度では褒めてくれないことも珍しくなく琴線に触れなければ罵詈雑言が飛んでくる始末だ。
 だからこそ余計なことは考えず、純粋に絵を描くことを楽しんでいる方が良い。

 さあ、さっさと絵を描こう。何を描こうか。



 Andil.Dimerk

 2015/11/24 初
 2015/11/25 追記調整
 2015/11/26 追記調整
 2015/11/27 一部改定。◯八を↓に追記
 2015/11/28 追記調整
 2015/11/29 追記調整
 2016/01/01 一部改定。
 2017/02/27 〇九を↓↓に追記



 追加◯八 細かい練習方法とその中身について
 巷には色んな練習方法の解説が溢れている。ただしその中身は玉石混交で汎用的な練習方法もあれば局所的な練習方法もある。何かしらやってみること自体はマイナスになったりしにくいが、練習方法が偏ってもあまり好ましい状態ではない。
 例えば線の練習ばっかりしているといざ色を塗る時にどうすればいいかわからないままだったりする。一定のアイコン的な絵ばっかり描いていると他のものが描けないままだったりする。特に注意したいのはそうした局所的な技術ばかり伸ばしていると、いざ変わったものを描こうとした時に、初めての時に味わったようなろくに描けないという地獄を再び見ることになる。とは言え、無理に色んな物を描かなければならないというわけでもないが。

 練習方法の目的は大きく3つのステップに分けられる。
レベル0.ペンをある程度動かせるようにする。描くものや描いたものをしっかり見るようにする。
レベル1.色んなものを見て描いて、物の形やその描き方を覚えていく。
レベル2.様々なものを観察研究し、性質や表現技法などを考えて描き、細かい技術を覚えたりあるいは開発したりする。
 デッサンや模写での練習というのは、その人の能力技量に合わせてスキル毎にこの3ステップを1つずつ進んでいくものだったりする。ちなみにレベル3は無い。一生勉強だ。


 見たものをちゃんと表現できるように描くことすら難しい、というのはレベル0。この段階ではまず紙を見ながらペンを動かせるようにならないと話にもならない。場合によってはトレースなどでも線を描く練習をしよう。
 例えば好きな図柄の塗り絵なんかがあればそれを透かしてなぞっていくとかがいいかもしれない。好みに合うかはわからないがキャラ物の塗り絵なんかは文房具売場でよく並んでいるはず。それにメモ用紙やコピー用紙なんかを端にテープで貼っつけて鉛筆などでなぞるといい。塗り絵は白黒で線がハッキリしているので比較的なぞりやすい。全体をなぞりきったら破らないよう丁寧に剥がして色鉛筆で色をつけてみてもいい。※画用紙など高い紙は紙質がしっかりしすぎていて重ねても透けたりしないので注意。
 線を描くことに少し慣れたら物を見て描くデッサンや模写をしてみよう。この段階では大して期待できないので精確に描かなければダメというわけではないが、自分のできる範囲で精確に描けるようしっかりと見ながら描いて挑戦しよう。見る、描く、見る、描くという基礎中の基礎を「覚えていく」段階だ。

 特に物を見た段階で形を把握するときに普段の認識が「邪魔をしている」ことにも気づきたい。代表的な方法としては、一度模写をしてみた対象の絵を少し時間をおいて今度は逆さまにした状態でそれをそのまま模写してみるというものがある。「それは◯◯である」という普段の認識に意識が引っ張られてしまい全体に合わせてバランス良く描くことができなくなってしまっている事が多いのだが、模写する絵を逆さにすることでその認識を低減できることがある。普段の見る時と、絵を描くために見る時とでは認識の感覚が異なるのだ。
 また線を描くことにも注意をしっかり向けておきたい。多少のズレはしかたないものの、かといって「とにかく描こう」とガサガサと散らばるように乱雑に描いてしまうと描いた当人は描くもののイメージがあるため綺麗に認識してしまいがちなのだが時間が経って改めて見ると汚く見えるため、なるべく線は大事に描いていきたいし下書きやラフでもあとで見ても分かるようにちゃんと描いておきたい。ただ反対に「丁寧に描こう」と意識しすぎて力を入れすぎてプルプルと震えた線になってしまったりも良くないので、力の入れ方は人の感覚によって違うがペンを紙に強く押し付けない程度の力で「ゆっくり素早く」という感じに描いていくといい。


 見たものをある程度描けるけど自在に描けるわけではない、というのがレベル1。この段階ではデッサンや模写がそこそこできるようになっているので、自由なお絵描きと併せてそういった練習をして能力を磨いて技術を身につけていくといい。
 最低限見て描けるので色んな「◯◯の描き方」みたいな講座・教本などを参考に試してみてもいい。詳しい技術を使いこなせるようになるのはまだまだ遠いが、それでも「顔は◯に十字線のアタリ」みたいな分かりやすい技術は少しずつ使えるようになっている。段々と色んなものが描けるようになってきて、怖がらなければ一番楽しい時期かもしれない。楽しみながら少しずつでも見る詳細度、描く精度を上げていこう。
 余り悩まず怖がらずに好きなものも色々と描いていった方が長続きしやすいので、ただの練習だけでなく興味や好奇心の赴くままにも絵を描くようにしておくと先々も楽になる。「自分は◯◯がうまく描けないから」といってそれを描かない必要はないのだから。

 ただし色んなものをただ描くだけでなく、時には綺麗に描ききるということも心がけたい。綺麗に描くということもその意識を持って練習を重ねなければできないし「作品を完成させる」ということも同様。せっかくだからしっかりと完成させておこう、というような習慣をつけておくほうが良い。
 特にまとまっていないラフや下書きみたいな状態では描いたものをしっかり分かるのは描いた直後の当人だけである。よほど基本的な部分がしっかりとしていて要所要所を綺麗に描いていたりしなければ他の人が見たら「よく分からない」という状態で、当人でもそれを放置して数年後に見直すと「なんだこれ」となってしまいやすい。できる範囲でだが綺麗になるよう描いていきたい。


 そこそこ自在に描けるようになってきたらレベル2。この段階でも基礎的なデッサンや模写はより深い意味を持つ。と言うのもレベル2以前の代表的な練習は大体「表層的な問題」を解決するための練習である。
 例えばリンゴを描くとして、
レベル0.リンゴとわかる記号を描けるようになるまで
レベル1.リンゴらしいリンゴを描けるようになるまで
レベル2.『美味しそうなリンゴを描くにはどうすればいいか』みたいに考える
 魅力的に表現する、あるいは効果的に表現するためにはどうすればいいかを悩むわけである。他の例として人体表現ともなれば、人とわかるようになるまでがレベル0、一応全身や細かいパーツを描けるようになるまでがレベル1、人体の構造を理解しつつより魅力的あるいは効果的に人体を表現できるように考えるのがレベル2だ。
 一応この「感覚的な魅力」への踏み込み自体はレベル0からでも「好きなものを描く」ことによって踏み込んでいる領域ではある。ただ『どう表現するのが効果的か』ということをしっかりと考えることができるのは、ある程度の技術能力を持った段階でなければ「ろくに選択肢のない状態で悩む」ということになってしまうのでよく分かってくるまでは意識しすぎない方がいい。
 場合によってはレベル1までに積み上げてきた「正しい表現方法」をも、ここでぶん投げることになる。

 例えばレベル2ではただ効果的な「より良い表現」を求めるだけではない。特に「好きに描いた絵を売る」という画家系以外の、マンガ系やイラスト系など枚数を描く仕事をしたり厳しい締め切りを意識したりする場合はある程度の効率化も必要になる。それなりに分かるように表現することを前提としてより素早く描けるようにしていくわけだが、それはただ急いで描けばいいというわけではない。
 作業時間の短縮は表現を変えなくても「無駄を省く」だけでかなり短縮することができる。というのも普通は、意識して綺麗に綺麗にと描こうとしていると細かい修正や塗り重ねなどで「描き直し」や「重ね描き」を何度も何度もしていることが多い。なら短縮には修正しなければいいのか?というとただ雑になるだけではいただけないので、根本的にミスを少なくする、描き直さなければいけないような描き損じを減らすように努めることになる。もちろん急ぐと大なり小なり描き損じを見落としてしまうことが出てくるので、少なくとも致命的なミスは見落とさないように気をつけたい。
 ミスを減らすことでかなりの時間短縮は可能だが、それ以上の短縮については表現方法か描画方法を簡略化していくことになる。その辺りは描きたいものと相談していくことになるが、ことマンガ表現においては巧妙に簡略化することによってそれ自体を印象的な表現方法として扱うことがある。表現したいものだけを抽出し余計なものを省くことで、より分かりやすく伝えることができるため、ただ単純に「質を落とす」という話ではない。
 ただこの辺りは考えて描けるようになってから考える話だ。



 ちなみに「個性」はあまり気にしすぎないほうがいい。能力も技術も知識も感覚も足りていない初心者は特に陥りやすいことだが「魅力的な画風」を持っている絵描きに憧れて「自分の画風はこうだ」と決めてしまうことがある。それはかなり危険だ。
 画風の固定と言うのは一定の効果を持っているのも確かではある。しかしデメリットも大きくあり最低限自在に描ける能力があってこそ効果的に扱えるものであって、能力のない人が扱ってしまうとデメリットだけを抱え込んでしまうことになる。
 画風を固定するメリットは安定した作画が可能になるという点。描き方を予め決めておくことで毎回悩んだりセずに効率的に描いていくことができ、固定形なら練習しておけば極めて短時間で描いてしまうこともできるようになる。つまり「より表現を豊かにするため」ではなく『より表現を安定させるため』であり、「より綺麗な表現を探すため」ではない。デメリットとして『悪い部分も癖になって残ってしまう』わけである。
 じゃあ、ろくに良い表現も出来ないような人が画風の固定をしてしまったらどうなるのか。狭い範囲でなら描くことが早くなり安定するのは間違いないが、つたない表現も大きく残ってしまう状態に陥る。この固定した画風を変えない限りつたない表現がずっと残ってしまうのである。
 だから「個性」はあまり気にしすぎないほうがいい。

 そもそも「個性」は基礎的な練習をしていようがいまいが「勝手に発現してしまうもの」である。努めて隠そうとしないかぎり、特に勝手気ままに好きなものを描いているならばその好みが個性として現れる。努めて個性を求めなくとも自分の良いと想う表現をしていけばそれが勝手に個性となるのだ。
 技術があって特徴的な独創的な個性的な画風の人たちも基本的には「自分の良いと思った表現」をしているだけで尖り過ぎたセンスから結果的に個性派となってしまっているだけだし、反対に言えば技術があって没個性的な画風の人というのは概ね特徴的なセンスが無いだけである。あるいはその没個性を好みとしている人である。
 しっかりと技術を積み上げつつ好きなものを描いていったなら、それが勝手に自分の個性となり画風となるので、とりあえずはコレだという形に固執せず自由に描いていくほうが望ましい。

 もし上でいうレベル2、ある程度自在に描けるようになって自分の絵に「なにか足りない」と感じた時には、そう思ったときに「良いと想う表現」を開拓していけばいい。その好みの表現が個性になるのだから。




 追加◯九 「絵を描く力」という概念を改める
 本文で書いている通り「絵の上手さ」は漠然とした具体性のない表現だ。だがそれが当たり前のように共有されており「あらゆる絵の技術を包括総称して【絵の上手さ】や画力などと表現されてしまっている」のである。
 しかし実際の絵を描く力はそんなに単純なものではない。

 絵を描く力は基礎的な「詳細精確に見る力・自由自在に描く力・知力」の見描想にあたる部分以外、その上にあるあらゆる技術はゲーム的に言うと【スキル制】だ。基礎的な能力は濃い経験・長い経験によって伸びていくものだが、細かい技術などのスキルは「それぞれ別々に獲得していくもの」である。
 一つのスキルを身につけてもそれ以外のスキルまで伸びてくれるわけではなく、例えば油絵スキルLv100を身につけた人がいたとしても、やったことがなければ水墨画スキルLvは0のままだ。しかも実際のスキルは非常に細かく分かれている。
 例えば「綺麗な円を描くスキル」を磨いたとして、それによって基礎的な能力は向上するものの、それだけで「綺麗な正方形を描くスキル」は伸びることはない。基礎力が高くなれば新しいスキルを覚えることも早くなるものの『やらなければ覚えられない』のである。

 色んな作品をまねると言うのは「優れたスキルを覚えていく」ための練習と言っていい。好きな絵をまねていければ好きな絵の持っている表現スキルを少しずつでも身に着けていくことができるだろう。絵を描く能力が豊かになっていくのだ。
 しかし反対に色んなスキルを覚えていかなければ狭い少ないスキル、貧しいスキルだけで描き続けることとなる。ただただ「持っているスキル」だけで描き続けても同じような絵を描き続けるだけでは劇的な向上は全く望めない。
 例え数万と描き続けてもそれが「ただの円」しか描いていないなら基礎力の向上と「円を描くスキル」しか伸びない。同じように例え数千枚だろうと一定のスキルだけで同じような絵を描き続けたとしても、基礎力の安定はしても真新しい新しいスキルを身に着けることは無く『劇的に絵が綺麗なるなんてことはありえない』のだ。
 「色んな表現に挑戦していくこと」という話もまさしく新しいスキルの獲得のため。もちろん新しく覚えたスキルはしっかりと練習して伸ばさなければ綺麗に扱うことは難しいが、様々表現をしていけばそのために要求されて鍛えられる基礎力の伸びも良く、「新しいスキルを的確に扱っていくための力」が伸びる。

 「同じスキルだけでは劇的に変化することはない」
 反対に言えば「色んな新しいスキルを覚えることで絵は劇的に変化し得る」。

 「個性に固執するな」という話はまさしくそれだ。
 新しいスキルの習得を疎かにしてしまえば絵は中々変化してくれない。長く続ければ基礎力の向上で多少安定してくれるかもしれないが、初心者の綺麗に描くスキルさえ無い状態で画風を固定してしまえば絵が綺麗になることは無い。その偏執を捨てるまで。
 理想的な個性の身に着け方は様々なスキルを習得した後に、使うスキルをあえて選ぶ方法。

 繰り返すが絵の技術は基礎力以外【スキル制】だ。
 「絵を描く力」は【基礎力】と【スキルの量と質】の複合だ。

 多少の基礎力を身に着けつつも「絵が上手くならない」と感じたなら新しいスキルの習得、新しい表現へ挑戦したほうが良い。新しい発見、新しい世界、新しい自分が見えることだろう。そのためにも様々な作品を漁り、良いと思う表現を探そう。
 ただ多少の基礎力も無い初心者ならスキルの習得も大事だが、基礎の見る力・描く力・想う事の向上もとても大事だ。最低限の見描想がなければ覚えたいスキルがどのようなものであるのかさえ分からない。
 慣れるための戦いと、慣れとの戦いだ。

 なおスキルは最終的な表現のためのスキルに限らず、補助的なスキルも多い。「アタリ」や「下描き」といった手法も一種の補助スキルであるし、対象を観察する際の視点に対する長さの測定といったものも補助スキル。偏屈な人はそうした補助スキルを横着として唾棄するきらいがあるものの、それこそ芸術に対して不誠実で不効率な考え方だ。
 表現したいもののために効果的効率的な手段があるのならば、(もちろん権利的な問題が無いなら)それは進んで使うべきだ。ただしもちろん表現したいものを諦めて簡単な手段に走ることは望ましくはない。



 ちなみに元々優れた感覚を持ったいわゆる「才能のある人」と言うのは基礎力がとても伸びやすい。基礎力をさらに高めれば、暴力的なまでの基礎力になる。暴力的な基礎力のある人は、それこそ補助スキルを必須としない。下描きが無くとも頭の中で構成して綺麗に的確に描くことができる人もいる。
 だがそれはあくまでも特異な人、極めて高度な基礎力を持った人に限った話であり、そうした人たちは「それで思い通りの絵を描ける」からこそそれでもいいのだ。「正しい描き方」というものは存在せずあえて言うなら「思い通りに描ける描き方が正しい」のであって作法手法に固執する必要は全く無く、アタリや下描きが必要で使えるなら使うべきだ。




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