小話



   無学による人間論
            Andil.Dimerk



「私は何も知らないし、何もしていない。」



  序 説得力

 私の話に説得力を感じ無くともそれは当然のことである。なぜならば私は他者を説得することがないため、そのための意識を持たない。
 説得の意識、という言葉に対して疑問を持つ人もいるかもしれない。

 まず私は人間がもつ認識や意思などをひっくるめて「意識」と呼び、○○の意識といった使い方をする。例えば文章を書く意識と言えば、内容を考えることや文章にすること、言葉や文字を選ぶことなど複数の内容が含まれており、無意識的な、潜在意識的なことまでもその「意識」に含まれている。
 他の例を上げれば、計算の意識が薄い人は計算を行うための認識などが足りず、計算を不得意としているという表現だ。私は文章を書く意識を有しているためにこうした文章を書くことに苦難を感じないが、それは私がある程度文章を読んだり文章を書いたりすることがあるからこそ、そうした意識を有しているのである。(ただし、私は読書などをあまりしないため読んだ文章の量は多くないが。)
 反対に私は人と接することが極めて少ないため、人と円滑に接する意識に欠けている。濃い意識はあくまで経験によって持ちえるものであり、なんでも最初から存在するようなものではないことをここに書いておく。
 また意識にも良い意識の仕方、悪い意識の仕方がある。いわゆる天才と呼ばれるような人間は大抵とても良い意識の仕方が出来ているだろうし、いわゆるバカと呼ばれるような人間は悪い意識の仕方しかできていないのだろう。もちろん、あらゆる分野において優秀であるためには根本的に優秀な潜在意識を含めた意識を持っていなければ困難だが、一分野においてとても優秀な意識を持っていながらその他ではあまりよくない意識しか持てない人というのもありえる。
 人の認識が有限であるように、意識もまた有限なのだから、そうしたことは当然と言える。だが意識の使い方は他者の影響や知識と意思によっていくらでも変えられるため、意識が無いといえども、一切の才能がないというような断定はできない。

 さて、説得の意識についてだが、説得という行為について説明することになる。
 説得とは主に相手へ物事を説(と)き納得してもらうこと、理解してもらうことなどだが、何も特別なことではない。人間社会においては極めて重要な役割を果たしており、ごく当たり前に必要とされるものである。
 例えば体調が悪い時にただ「体調が悪い」と文字を並べても、本当に体調が悪いのだろうか? と思われるだろう。そういたことにおいては事実と証拠を示すことで、説得力を持たせることができる。体調が悪い場合は医師による診断書が一番の証拠となるだろうし、その他にもその人が日常的にどういった態度でいるかも説得力に影響を与える。仮病を常習的に使っている人の「体調が悪い」は狼少年のように説得力の欠片もないだろうが、目に見えた体調の悪さをおしてでも出てくる人の「体調が悪い」は重く説得力を感じさせるだろう。
 しかし体調が悪いというような証拠の有無が明確なものであれば、そうした証拠などによって相手を説得することもできるが、そうした証拠がない場合は言動によって相手を説得させることになる。極端な例として、相手を騙す詐欺は根拠のないものをあたかも根拠があるもののように装わせ、相手を説得し騙してしまうものである。と言っても、そうしたものに騙されるのは元々そうした知識を持たない者たちだが。
 そのようにどうすれば相手を説得できるのか、説得するためにはどうすればいいかを考えられることが説得するための意識である。そして私は説得の意識を持っていない。

 しかしなぜ私が文章を書くのかといえば、理解されるためではない。
 私は私の思考を文章化することによって残すために、文章を書くのである。
 私はあくまで私のために文章を書いているのである。






  1 人間の姿

 私は人間がこうであるべきだという哲学を持たない。それは私が成功者でなく失敗した人間とも言うべき者であり、私が考えたものが良い状態をもたらすとは限らないと考えるからだ。
 だが、修正すべき場所は修正すべき場所として感じることくらいはある。私も感情をもった人間だ。

 私は17歳になったとき、「自心教」という経典を公開している。見た人間はまずいないと思うが。
 そこには17歳になる少年がより良く生きるためにするべきという言葉が21個連ねられている。その自心教も人間のあるべき姿は言及してはおらず、修正すべき場所は何かと考えるための言葉に過ぎない。
 しかし、そこで「人間の原理」はなんであるのかを言及している。
 「人間にとっては、心が全て。自分の心、人の心、心が全てだ。」という言葉は、今現在も変わらずに思う私の哲学だ。この心が全てというものをもっと砕いて言えば、「人生は納得するためにある」という言葉になる。

 全ての人間は自らの心に従って生きている。それは自らの心を納得させるために生きているが、その方法や試みは人によって異なる。それが人間の原理である。
 もしそれを納得できないとしてもそれは納得したくないだけであるという、覆しようのない論理だ。心の数だけ納得の形があり、あるべき姿と呼ばれるものもまた数多に存在する。
 しかしながら、そうしたことを哲学者は認めようとはしないだろう。そんな論理で納得できる人間は少ないからだ。私は哲学者を真理を探求するものではなく、いかに納得するか、納得させるかという人間であると考えている。自分すら納得できない論理などゴミ同然なのだ。答えを求める者であっても、納得できない答えであるならクズのように捨ててしまうのだ。
 だがそれらの行動の理由すらも言い表せてしまうのが「納得するために生きている。」という魔法の言葉である。人間の行動は全てそれで言い表せてしまえる。まるで自分の首を絞めるような行動ですら、その心が納得しようとした行動だと言えるのだ。

 代表例として上げられるものが、宗教。
 あれは「納得するために都合のよい考え方」を植えつけるための装置である。それっぽく装い、それっぽく思わせ、それっぽく納得させてしまおうというもの。それで戦争すら起きるのだから、人間の思い込むという能力は末恐ろしいものだ。
 だが、現代においてより多くの人間が納得するためには宗教が必要である。
 例えば葬儀はよりよく葬るという名目で儀式を行うが、本当に葬る者へ効果があるのかといったものは疑わしいも、生きている人間にとって葬儀は死者との離別を明確にしてくれるし、墓も死者へ告げるための場所として存在してくれる。
 誰かも言っていた。そうしたものは死者のためにあるのではなく、生きている人間のためにあるのだ、と。
 より良く生きるためであれば神や仏もあっていいのだ。だが、そうでない神は必要なのだろうかと思うのである。多くの他者は納得できないのではないだろうか、と。

 また宗教の話でもあるが、幸福は幸福と思うことによって幸福であると感じるのである。不幸と思うからこそ不幸と感じるのであり、むしろ不幸と思うことこそ不幸なのであると。
 ただ宗教においては何かしらの儀式や形式によって幸福や納得などをもたらすが、その儀式や形式を遂行できない場合に不幸や不満を感じる原因になる。しかしそれは宗教に限った話ではなく、宗教はそうした儀式や形式を明確にしているためそれが無いより分かりやすく、むしろそれがない場合どうすれば満足できるのかという悩みを抱えることになってしまいかねない。
 そうした人間は、どう生きればいいかなど勝手に決めればいいことを他者に求めるのである。時には従順に従ってしまい、時には傲慢に反発する。そうした人間のためには哲学や宗教も必要なのである。

 しかし、まっとうに生きられるのならば宗教も哲学も不要である。まっとうに生きられない人間のために、それらは存在するのだから。






  2 善悪の左右

 私が正しいと思っているだけだ。誰かが正しいと言ったところで、それはその人が正しいと思いたいのである。私が正しい証拠などない。
 例えば前項の話も、私というの視点によるものであって絶対的に正しい根拠はない。しかし、もし人間がスパゲッティーモンスターに作られたとしても私はそれを明確に正しいと知るすべが無いため、前項のような結論に至るのだ。
 それは私の視点だけの話ではない。1+1ですら明確な定義がなければ2にならないのだから。

 ましてあやふやな心を明確に定義することは無理である。
 誰かが善と思ってもそれを別の誰かが悪と思うこともあり、誰かが悪と思ってもそれを別の誰かが善と思うこともあるだろう。こと感情において絶対的な定義などありえない。
 感情は常に相対的だ。感情はあくまでその人の経験や遺伝に基づいたものであって、世界や定理に基づいた感情など無い。

 善悪の定義は左右の定義と似ている。左右は何かしらの例に頼らなければ定義することができないように、善悪もまた何かしらの例によって定義しようとされるものである。極めて曖昧な表現として言えることは「善は心がそれを推奨しようと思い定義されるもの」で「悪は心がそれを排斥しようと思い定義されるもの」と、そのくらいまでだ。
 つまり心という基準がなければそれをしめすことはできず、その心を明確に定義することは不可能であり、そのため善そのもの悪そのものを明確に定義することはできないのである。
 ファンタジーにおいては当然のように善悪を扱っているが、それは創造神という作者によって決められたものに過ぎない。社会においても当然のものとして扱われるが、法律に基づかないものはあくまで暗黙の了解によって統一された認識に過ぎず、法律に基づくものもまた心によって定められたことに過ぎない。

 ほとんどの人間は自らの感情に対して「制御する」という発想を抱かないだろうが、感情を制御することは古くは宗教的なものによって公然と行われてきていることである。代表例として、神頼みはよく分からない不安の感情を抑制させるために闇雲な思考を丸投げするものであるし、坐禅など心を無にするといったことは自らの意思で感情を制御しようとする行為である。
 意識的にしろ意図的にしろ無意識的にしろ、感情を制御することによって人間は感情に振り回されないように生きることができるのだ。もし感情を制御しようとしないのであれば、子供よりも子供のように何から何までわがままな感情をぶつけるというような状態におちいりかねない。それは反社会的な行動に至ることもありうるため、感情を制御することは人間社会における人の責務とすら言えるだろう。
 ただ重要なのは責務であることではない。感情を意図的に制御することができるということである。

 私は幸福感を幸福だと思うことで感じることができる。もちろん安っぽい幸福感ではあるものの、そう思い込んでしまえばその人にとってそれは事実なのである。
 それはあらゆることに言える。不満であろうとも不満ではないと思い込んでしまえば不満ではないのである。嫌悪を感じようとも嫌悪していないと思い込んでしまえば嫌悪ではないのである。幸せであろうとも幸せではないと思い込んでしまえば幸せではないのである。幸せが些細なことにあるという人間はそれを分かっているために、幸せと思うことが幸せにつながるのだと説くのだ。
 だから私は言う。無闇な嫌悪は何の利益も生まないし、むしろ精神的苦痛という損失しかなく、可能なかぎり抑制すべきことである。利口な人間は他者のそうした嫌悪の感情を利用して利益を生んだりすることもある。それが良いか悪いかは別であるが。

 例えば環境保護を名目としてまるで人間を弾圧するかのような行動をとることが本当に望ましいことなのだろうか。環境保護の根本は人間の環境のためであり、他の生物を守ることはその方が人間にとっても都合が良いのではないかというものでは無いだろうか。地球温暖化の叫ばれる昨今も、温暖化して最も頭を悩ませることになるのは人間であり、その他の生物は自然の摂理に従うに過ぎない。かわいそうなどという感情も、それが本当に良いのかは別である。
 ただ全ての人間が現状に満足することはありえないが、そうなってしまうことは文明の進歩を停滞させることに他ならないだろう。そのため何もせずに幸福を得るという行為は、人間社会において善とは言いがたい。だが納得できないことであろうとも、本当に納得しないことがいいことなのだろうか、と。納得しないことによって不要ないらだちを募らせるよりも、納得して不要な不満を持たないことの方がいいのではないだろうか。

 また満足の為の目標は明確にするべきである。例えば曖昧に「今よりもずっと良い」などと言っても本当に今よりずっと良くなろうが、その実感は薄くそこからさらに「今よりもずっと良い」ことを目指してしまいかねない。求め続け、その渇望が満たされることのない状態にもなってしまいかねない。

 しかし私は現状に満足してしまっている。現状が幸せであると思えてしまう。
 もちろん先々を考えれば不安になるが、それも幸せだと思ってしまえるのである。
 それが良いかと言えば、そんなことはないのだ。






  3 感情と人間

 私は感情を可能なかぎり抑えた思考を行うことができる。そう思っているだけだが。
 例えば感情の原因は全てその感情を持った人の中にある。いかに他者へ嫌悪をもよおそうともそれはあくまでも勝手に嫌悪をもよおしただけであり、あくまでも感情の原因は自身がそう思ったからにすぎないということだ。

 感情は制御することができる。その感情の管理者は本人に他ならない。管理もしていない獰猛な獣の苦情を他者に当てるなど非論理的ではないだろうか。
 感情は保護されるべきものであるが、絶対の法とはなりえない。もし感情が絶対の法となってしまったのなら世界は阿鼻叫喚の地獄絵図の様相を呈するだろう。社会には罪に対して罰を与える仕組みはあり、その根本は感情によるものかもしれないが、その運営の大部分は感情によって成り立っているものではない。
 もちろん、最低限は保護されるべきであるとも思うが、それらは社会の裁量に任せられている。つまり人を動かす人間がそうしたものを決めるのだ。

 人間社会を支配するのは人を動かせる人間である。権力や財力などといったものばかりではなく、説得力、求心力もまた人を動かす。こと現代においては民主主義という人の心を動かせるものこそが正義という仕組みを用いている国家も多い。ただしそうした民主主義による政治であっても国民が納得できる政治とは限らない。
 民主政において言えば、本当に民主的な政治のためには国民の多くがより政治に対して議論を交わせるような必要がある。そうでなければ国民は政治家や報道の言動によって制御された票の塊でしかなく、そこにあるのは民主主義という名を掲げた多数派主義ではないだろうか。
 民主的な統制における最大の要素とは集団における全員の意思を合わせて考えるというものであり、つまり話し合いや議論によってするべき事を決定するという手法である。しかし現実的に全員が全員話しあうことは不可能であり、またそうであっても極少数の意見が日の目をみることは滅多にない。ほとんどの民主制においては多数決によって代表者をたてることによって議論を行う者を選ばせ、その議員達によって議会を形成し多数決によって国政を行う代議制の民主政が一般的である。
 そうした民主政における多数決とはあくまでも折り合いをつけるためのものであり、本来であれば最大限議論を尽くして決定することが望ましいのではないだろうか。そう思うため議論や思慮の伴わない多数決による政治を多数派主義と呼んだのである。ただし、私はそうしたものの解決方法などを知らないが、教育を調整する必要があるとは思う。
 国民が納得できるのであれば民主政である必要性は無く、納得させるために民主政を用いているに過ぎない。納得できるとも限らないが、選択肢を与えているという言い訳があり言い逃れはできてしまうのである。
 もし納得できないのであれば、何かしらの手段を講じればいい。人間社会なのだから、人を動かし人を集め、より多くの人間を動かしてしまえばいい。それが人間なのだから。あるいは諦めてもいいだろう。

 人によっては他者を満足させることによって自らもまた満足するということもある。そのように人助けなどを生きがいとしている人もいるのだが、それを装って商売をしている人もいるだろう。例えば動物保護といったものもまた現実的な方法を考慮する団体もあれば、感情を武器に非論理的な言動を振り回す団体もあり、それらは一概に何が何々などと言うことはできない。
 本当に多くの人間を救った人もいれば、金を集めているだけの人間もいる。しかし人間はそうして社会を形成し、たくましく生きているのだ。特に利口な人間は理不尽すらも利用し、自身の感情すら利用するだろう。

 改めて言うが、感情は制御することができる。そして感情の管理者はその本人に他ならない。より良く生きたいのであれば感情をうまくコントロールし、不要な心労をしないよう心がけるほうが望ましいだろう。
 どうしてもどうにかしたいのであれば社会の仕組みを知り、どのようにすればいいのか考え実行すればいい。それすらしようとしないのであれば、子供のようなわがままでしかない。何かを欲するのであればその為の行動を思慮し行動しなければ得られると思うべきではないのだから。
 もし感情を制御しようともせず、子供よりも子供のように何から何までわがままな感情をぶつけるというのであれば、そんな人間なんてほとんどの人は納得したくないだろうし他者から批難されて然るべき言動であると言うだろう。

 例えばお金が欲しいのならばお金について考える必要がある。働いて入ってくるお金はたかが知れており、働くことしか考えないのであれば、お金は相応にも得られないこともありうる。
 自分で考えられないのであれば人に聞いたり調べるという方法もある。
 何もしないわがままなど子供以下だ。






  4 無学の疑心信仰

 私は疑心と許容を信仰している。加えるとするならば覚悟もあるべきだが。
 疑心は物事を冷静に判断するために、許容は世界のあるがままを受け入れるために。そして覚悟は人間としてあるために。それぞれを信仰している。そのため私は神を信じられず、まっとうに生きるための装置であると語ったのだ。
 だが私は神を必要とするような人間である。

 まず私にとっての神のことを書き記す。
 これだけ多くの宗教が存在する世界が未だに存在するのに人間の知る神による世界の終焉は訪れないのはなぜか。神がいたとしても人間を特別視するような絶大なる力を持った神はおらず、いるたとしても傍観するだけの神や何の特別な力も持たない神だけだろう。もし神の所業のような奇跡があったとしても、それは偶然の重なった奇跡でしかない。
 神が信じられているのは、分からないことなどをそれっぽく見せることによって心の安定をもたらし、心を制御しよりよい社会を形成させるためである。現人神として人を安心される人間もいるが、それは安心や満足などを与える代わりに富や名誉を貰いうけている者である。
 昔から残っている宗教などであれば文化として重大なものもあるだろうが、結局そうした宗教も神聖っぽく思い込ませる装置に過ぎないのである。しかしそうしたものによる安心などを必要とするものもいるため、そのような役割を持ったものが無くなることはこれからもありえないだろう。
 私はそう思うのである。簡潔に言えば心の支えであってそれ以上のなにものでもないのだ。

 それら自体は誰かに教えられたわけではない。と言っても0からそう考えたわけでもない。先人たちの言葉を見て思い至ったことである。
 しかし私はそうした哲学、宗教学といったことを勉強したことは無いに等しい。先人たちの言葉を見たのも文字通り言葉だけを見たのであり、その背景などは一切知らないように、私は基本的にそうしたことを学んでいない。だから「無学」なのだ。
 私をそこからこの考えに導いたのは私の疑心であり、その疑心の果てに許容や覚悟が必要であると至った。私は人間であり人間でしかなく、世界を覆すことなどできないのだから、その世界を受け入れなければ苦しいだけである。
 だが受け入れるだけではなにも起こることもなく、ただ流されるだけの人形に過ぎない、心を蔑ろにした状態だ。

 疑心はあくまでも疑いであり単純な否定ではない。あくまでそれがどのようなものであるのかと考えるための疑心である。
 とは言うものの私はそれらしい考え方を見つけようとするだけであり、事実がどうであるかは証拠を持って証明しなければならないし、私にそれはできない。あくまでも考えるだけだ。
 またそれに加えてそのあり方に疑問や不満などを感じようとも、それを変えようとするべきであるかも別であり、どうにもならないと思うことは許容するのである。

 ただあまり褒められたものではないし、そんな私は極めて心の弱い人間である。何をするにしても怖くてまともに動くことすらできない。だから覚悟を必要だと言うのだ。
 私は神などに頼って心を安定させて生活するような人間である。だが私は疑心にとらわれて、神を信じることのできない考えを持ってしまった。
 と言っても思い込むことはできるため全くそれらに頼ることのできないわけではないとは思うが、強く頼ることはできないだろう。思い込みは無用な感情を招くが、思い込みがあるからこそ無用な思慮を抑制できる場合も多く、何事も節度と使いようである。

 私は人を動かすことが苦手であり、社会的な弱者だ。それでも私が生きていられるのは幸運に他ならないだろう。死を考えることはいくらでもあったが、私の力で生きたことは一度としてない。
 全ての感情の大元はその感情の持ち主本人だが、世界におけるあらゆる現象は自分以外のものによって成り立っている。この体ですら世界からの借り物に過ぎないし、身の回りのものもまた与えられたものに過ぎない。その姿は望もうとも望むまいとも、他者によって形作られているのだ。
 分かりやすくいえば悪いと思うことは自分のせいで、良いことは人のお陰という考え方でもある。それが正確であるかは別として、その方がより謙虚に世界や社会と向きあうことができるだろうし、その方が闇雲な感情に振り回されにくくなるだろうと思うのだが、その私は恐怖という感情に振り回されている。

 結局、私は何もできない。
 そして私は何もされたくない。






  5 私の理性の死

 私が死を考えた回数は数えきれない。しかし死を実行に移そうとしたことは無い。死んだとしても納得できないし、人も納得できないだろうし、何より死が怖いのだ。
 しかし私が死ぬべきあると思うのは感情によるものではない。ここ一年そこらのことではあるが、私はいるべき人間ではないと理性的に思うのである。生きいたとしても何もできず他者を圧迫するだけに過ぎないのではないか、と考えるのだ。
 だが私はそれを否定できるほど強い人間ではない。

 神を信じない私は死後の世界なども信じていない。死を甘いものとは思えない。死はただ地へ還るだけにすぎないのだと。
 ただただ死ぬのが嫌だ。私はこの世界にいたいのである。それこそ肉体など必要でないし精神も重要ではない。ただこの世界を見ていたいのである。だがそんな方法などこの世界に無い。だからのうのうと生きているのだ。何もせずだらだらと。そんな人間なのだ、私は。
 なぜ私の事を話したかといえば、私がその程度の人間なのだと改めて私の言葉を考えなおしてほしいからである。
 私は中学にはまともに通っておらず高校へもいっていない。ただ学校は可能なかぎり行くべき場所だとも思っている。例えば私がこうした文章を書くことができるのはあくまで私が偶然そのような人間に育ったからである。
 学校に行かなかったことによって得られなかったものは大きく、得たものは極めて少ない。利口な人間であればその有用性を理解し、それを得ようとするだろう。

 所詮、ただ文章を書くだけであればほとんど誰でもできるようなことである。私の至った現実的なまでの現実主義も先人が既に通った道だと信じているし、私にしかできないことなどなく誰にもできないことは私にもできない。
 虚無主義はニーチェなどから教わることができるし、心のためなどというのはそういった本などから教わることもできよう。
 それゆえ私がいなくなったところで社会における損失とはなりえないどころか、私がいることによる損失の方が大きいとすら考えるのだ。私はいるべきではないと考えてしまうのだ。
 もちろん私も感情を持った人間であり、その考えは私の心を苦しめるものである。だが、それもまた私の幸せだ。あらゆる苦痛は必要なのである。しかし私は考えることしかできないのだ。

 私は何の力も持たない20歳前にしてまるで死んでいるような若造である。20年という歳月は私に苦しみを与え、私はその苦しみすら幸福だと感じるまでに至った。
 自分は何もすることはなく、ただただ現実的なまでの現実主義の思慮を巡らせる。私はなにもしないのに、その口をつむぐことなく、ただただ言葉をつむいでいく。
 その心は誰にも信じられることも頼られることもないと思うのだ。もちろん実際はどうであるかなど私の知るよしもない。
 ただ、ふと思うのである。一個人として私を見たとき、ちょっと凄いのではないだろうか、などと。だがそれでも私は死ぬべきだ。

 15歳になる直前、人生について拙い思考を巡らせ文章を書いていたほど、私は昔から考え文章を書くことが好きだ。こうして文章を書くことが楽しくて仕方がない。
 それは私の言う天賦の才に少し当てはまる。その私の言う天賦の才とは、それに対して四六時中それをし続けようと思え、四六時中思慮を巡らせ続けられ、飲食睡眠などを忘れるほどに熱中できるほどの恒久的な強い意識である。単純に言えば人生にそれを捧げられる意識だ。
 もちろんただ才があったとしてもそれを育てようとしなければ何の変哲もない石ころにすぎない。私はただの石ころにすぎない。私は文章を書くことが嫌になることもあるからだ。
 そして少なくとも一朝一夕ではなく、10年近くこうしたことを考え続けてきた。それでもこの程度なのだ。

 私は私を制御することもままならない。制御しなけれなならないと思っていながら、考えながら何もできない。私は動かない。動きたくないのである。わがままなのである。
 私にできることといえばこの積み重ねてきた考えを、こうして記す程度である。主に自分のためではあるが、何かしら人の役に立つのならばそれはこの上なく嬉しい。役に立たないかどうかも私には分からないが。

 だが私は死んでいるも同然である。
 生きてすらいない。






  6 世界の意味

 私は前述したとおり、善悪は左右のようなものだと思っている。その思考は何より世界に定まった意味などないのだというところから来ている。
 神がいないとすれば世界の意味はただ人が勝手に決めているだけであり、そんな神はいないと思うからだ。
 説明の順序が逆になってしまっているが、だから善悪は左右のようなものだと言ったのである。

 世界の原理は研究によって調べることはできるが、世界そのものに意図は無いのである。少なくとも、今現在人が知ることのできる意味はまだ無い。
 もし人間が世界の全てを解明したとしても、そこに絶対なる意味があるには神と呼ぶべき存在がいなければならない。それがいなければ世界は無意味であることを証明するだけであり、人間は虚しい意味をつけくわえて納得しようとするだろう。
 ただ人間の欲する意味が世界に無いのなら、本当の意味すらもかなぐり捨てようとするだろうが。それが人間というものである。

 人はみな自分勝手であると言うが、それはそれぞれの心がそれぞれの方法で納得しようとするためであり、なんら不思議でもないことだ。
 だがその心に際限がなければ、死ぬまで渇望し続けて永遠に満たされることはないだろう。人によってはそんな納得できないことをやめさせようともするだろう。
 それが人間であり、そうして築かれたのが人間社会というものである。善悪などそのための言葉に過ぎず、正しいと思うことも間違いと思うこともそのための挙動に過ぎない。

 神がいなければ世界は無意味であり、その神を知ったものなどいない。ただ人が意味を求め決めているだけであり、人のいう神もそのための言葉でしかないのだ。
 顕微鏡で見える世界は仕組みだけだ。そこに絶対の意味はなく、人が意味を思う。もっと言えば人類はそれを仮定し続ける。
 だがそれは私がそう思いたいからではなく、私にはそうとしか見えないからである。だから私は、人にとっては心が全てだと言うのだ。

 人間にとって意味が無いというのは、何の色も形も音も無いようなもの。触れられることすらしない空虚のようであり、それが世界の姿であるとするならば人はそれを認めないだろう。つまり人がそれを認めないのだから、人にとってそれは間違いなのである。
 ならば人にとっての世界の意味とはなんだろうか。私には分からない。それは個々人の心にあるものであり、そして私の心には無い。私がそれを理解することもできないかもしれない。
 例えば宗教などは意味を決める方法を一つだが、私はそれらに人間的な意味しか感じ取ることはできない。言ってしまえば空想であり事実とはいいがたいものだが、人はそれを事実であると信じようとすることもなんら不思議とは思わない。人間にはそれが必要となるのだから。

 またどんな意味を求めようともかまわないのだろうが、少なくとも冷静であるべきである。例えば規律や人道を無視するような意味は他者から批判されて当然であるのだから、そうした意味を貫こうとしても苦難を伴うばかりだ。それが重大な意味だと思うのであれば貫くこともいいかもしれないが、それが他者に認められるかどうかは別なのだから。あくまで仮定にすぎないのだから。
 と言っても、意味を考えつかない人もいるだろう。人生の目的が分からなくなるというのは大抵元々人生の目的を決めていなかったり、一つ二つに限ってそれをなくしたりしてしまったものだろうし、人生について考えることの少ない人がそうした悩みを持つことは当然である。だが、そうした心の迷いにつけこんだ宗教もあるため、心と共に足元をすくわれないように何かしら頼れるものを持っておくべきだ。人でも神でも仏でも。
 例え空虚なものであったとしても、根拠のないものであったとしても、それを根拠として生きることはできるのである。誰しも何にも頼ることなく生きられるほど強くはなく、人は何かしらの根拠や意味を必要とするのだから。
 ただし心を蝕まれてしまわないように。もちろん無闇に心を蝕むようなことはしないように。

 しかし心がいくら必要としようとも世界に意味はない。人が決めているだけである。
 人間にとっての意味はありえるが、それは人が勝手に決めるものであり絶対的な意味などありえない。それぞれが勝手に決めてしまうものであって、無理に統一されるべきものでもないだろう。
 ただ唯一共通させるべきものを上げるとするならば、心のためにあることを望む。

 自らの心だけでなく他者の心のためにも。
 人間はそのために生きているのだから。






  7 意識の心

 私に何を望むのか。できそこないの若造は橋を渡ることすらままならない。どうしても美しい花を見たいのならば川を渡ればいいだろう。
 彼岸に咲く花は毒々しく赤く血に染められたようだ。空が落ちてくることがあればいっそ楽にもなれる。それでも私に何を望むのか。

 神も仏も心を救うが身は持たぬ。身を持つ己が動かねば何も得られることはなく、ただただ時を失うだけである。
 また疑いなき信じる心は何も見ることはなく、何かを知ることもない。思慮のない心にもできるのは他者に踊らされることだけだ。

 不可能など無く、ただ方法が見えぬだけだ。人にまだ見ぬ方法もあるが、あらゆる方法を考え尽くさねば人の不可能も見えない。
 運の良し悪しはただ結果を見たに過ぎぬ。だがあらゆるものを見ようとできれば、良いことを見つけられ、悪いことをあまり見逃さない。

 血や周りによって限られる選択でも、ない物をねだるより選んでしまわなければならない。なきものを想おうとも、あるものしか使えないのだから。
 それも今見えるものばかりに気を取られてはならない。より知れば使えるものは増え、まるで限られぬ選択を持つこともできよう。

 不愉快もまた娯楽である。不幸もまた幸福であり、幸福もまた不幸であるのだから、あらゆるものを楽しみ笑ってしまえばいい。
 苦しい時こそ笑ってみせよ。その笑顔がその心も引き上げてくれる。その笑顔は悪魔も修羅をも恐れように。

 人の心に背けば、人はその心に背くものだ。あらゆることができようとも人の心に背きすぎては、赤子にできることすらもできない。
 例え自分自身であろうともそれらは他の生物によって他の物体で形作られている。それを忘れることなく、その幸福を想うといい。

 他者は自分でないのだから、自分に正しかろうと他者に正しい通りはない。いかに似ようとも同じことはありえず、人の正しさは人の正しさだ。
 しかし人々によって作られた規律は理性を持って使われている。それらは理性を持って考え、冷静に扱わねばならないのだが。

 自分は他者でないのだから、他者に正しかろうと自分に正しい通りはない。いかに自分が納得できようとも他者の考えは他者の心のためにある。
 納得を他者に依存してしまえば、他者の心に振り回されるだろう。人は人、自分は自分と人に頼りすぎてはいけない。

 血に無いことよりも、知の無いことを知るべきである。こと技術の才など、その大半を意思と知識によって作ることも不可能ではないのだから。
 むしろ血が良くとも血を沸き立たせるような意思がないのならば血も腐り、いくら血が良くとも知に欠けてしまえば方法を誤ろうに。

 知識がなければあらゆる意思は石のように扱われよう。最悪、良心も与えられず投げられ砕けてそれまでだ。
 意思がなければ膨大な知識は紙の重しのように重く動きを鈍らせよう。骨は使われることしかできぬのだから。

 血も肉も無ければ骨しか残らない。感情も欲望もなければ動くことのない潔白な屍だよ。
 だが無闇に溢れる血は皮を割いてしまうだろうし、目的もなく膨れた肉はさらに求める続けるだけ。健全な血、必要な肉、丈夫な骨こそ必要だ。

 ある程度でよしとしなければいつまでも心は渇いたままで、命の水すら飲み干し底も知れない。あるものだけが必要と思えれば、渇きも安い。
 安い渇きは何も求めず痩せていくが、底知れぬ渇きは求めて痩せる。水であろうと酒であろうとほどほどがよいだろう。

 心こそが人の依り代、人は心の入れ物よ。私が見たとも知ったとも、それでも私は知らぬ存ぜぬ。
 これらが嘘かも知らぬ存ぜぬ。信じることはいらぬと説く。悩み迷えと言うのである。

 納得できるかできないか。それが人生心の生。納得できぬと言おうとも、納得せねばならぬと言う。
 利益にならぬ拒絶など、損を生み出すだけである。それを正す労力と正して得られる納得が、つりあわないなら無理を通すな。

 あれだこれだと心労するより、あらゆるものを受け入れようとする。そして、あれだこれだと時間を無駄するよりも、思慮し行動するべきだ。
 できぬ私に何を望むのか。






  8 終わりの空想

 私は運命を信じない。人にとってあらゆるものは必然ではなく、偶然によってなりたっているのだから。少なくとも人間にとって絶対の未来など分からない。
 完璧な情報と完璧な計算を行うことができるのならば未来は完璧に予測できるかも知れないが、そこに予測したという情報が欠けてしまえば完璧な予測にはならない。予測を知った情報を加えても、さらにその予測を知った情報を加えて予測し直さなければならない。運命という神の手でも存在しない限りそれらは永久に変化し続け、例え神の手があったとしても一切の未来を統一することなどできない。
 それに完璧な情報を得ることも完璧な計算を行うことも人間が行えることではない。だから人にとってあらゆるものは必然ではなく、偶然によって成り立っていると言うのだ。

 空想の物語でもよく言われるように、運命は決まったものではなく自ら切り開くものだ。未来は自身の手で創るものであると、そう考える方が人の心にとっても望ましい。
 人間において何より重大なのは真実や真理などではない。人間にとって重大なのはその心がより納得できるかどうかだ。
 自分は自分や人に動かさせられているのではなく自分自身が動かしているのだから、その自覚を持たなければならない。

 人の心は好ましい相手を助けたがる。好ましい人間になれれば人に助けてもらえることも多くなるだろう。人に助けてもらいたくば人を助けよ、人への情けも巡り巡って自らに渡ることすらあろう。
 こと社会においては人を動かすものこそが強者であり、あらゆる手を尽くして人々の心を動かせば、それは文化の軍隊にもなりえよう。例え人を動かしたくなくとも、人を動かし動かされることは人間社会において避けられぬことなのだから、その理に逆らうことは不毛である。
 心のためにあるのが人間だ。

 夢はいつか叶うという定理はありえないが、いつか叶うと信じる方がより尽くすこともできよう。人にとって不可能は可能なことを尽くした後に分かるのだから、何も尽くさずに何が不可能か。
 とは言っても明らかな無理は無謀だろう。人が生身だけで宇宙やマグマの海を旅できようか。しかし、世界の原理として不可能でないのならば人に不可能なのかは分からない。
 それこそ諦めていいのは無理を知った時と万策を尽くした後だけである。

 現状維持は緩やかな堕落である。少なくとも時を維持することはできないだろう。
 ならば向上を求めなければならない。目標を決めそのために行動を起こさねばならない。可能な限りを尽くさねばならない。少なくとも、するべきことをしなければならない。
 世界を変えてきた人間というものは心の渇きを満たそうと渇望し続けた人間ばかりだ。あらゆるものを省みることなく自らの意思を貫こうとすることは、その意味がどうであれ凄まじいことには変りない。

 心を満たして安らかに死ぬことは望ましいかもしれないが、心を満たされる事無く求め続けて死ぬこともまた人の華と呼べよう。植物のように心乱されることもなく果てるも人、花火のように心を燃やし散らせ果てるも人、ただどちらともなく果てるも人だ。
 だが人は、生物が死を忘れてはならない。少なくともいまだ生き続ける術はなく、もしそれがあろうとも人は生き続ける者を限るだろうし、限りなく生き続けることもできないだろう。
 人には生物としての役割をまっとうする必要が無くとも、生物としての役割があることを忘れてはならない。例えしなくとも、例えできなくとも、その役割があった事を忘れてはならない。未来に生きるものを蔑ろにしてはならない。

 未来を思え。見えずともやがて来る。

 時を止めることなどできない。
 必要な、するべきことを忘れるな。

 今の私のようであってはならない。
 誰しも人として生きなければならない。






  9 Andil.Dimerk

 私も人間ではある。
 人間には人間をやめることなどできない。
 どう足掻いたとしても、人間なのである。

 世界に意味があるかもしれない。
 世界に神がいるかもしれない。
 世界にあの世があるかもしれない。

 世界に私はいないのかもしれない。
 だが私は虚無じゃあない。

 虚無主義だけで人は歩けないさ。
 人はその心のために生きている。
 だから虚無の上にも心が必要だ。

 人が人をやめることなどできない。
 誰も心を蹴り飛ばされたくはない。
 人は心を認めなければならないのだ。
 そして仮定し続けなければならない。

 そうあらゆる人間は自分が可愛い。
 それは身体や精神ばかりではない。
 立場や環境までも可愛い対象になる。
 それらのために人は動いているのだ。
 何より自分の心を納得させるために。






  番外 子供と大人と心と私

 私は親ではないので子育てのことなど分からない。だが、思うことはある。
 子供の行動というのは納得の根拠を知ろうとしているのではないだろうか。そのために好奇心を持って何かしらに興味を持つのではと。
 大人でも好奇心とは納得を得るためにはどうすればいいのかを探っていくための欲求ではないだろうか。特に子供が何かを欲しがる行為は「試行錯誤」の一部になっているのではないだろうか。
 「試行錯誤」の末、何が望ましいかを納得の方法を覚えるのではないだろうか。それが本当に納得に至る方法であるかそうでないかは別だが。

 誰かが言っていた。過保護な親、特に行動を抑えてしまう親は子を飼い殺すと。それは保護という名目で好奇心の行動すら抑えつけた挙句、行動をしないことが納得の方法と思い込んでしまわせ、親の納得のためだけに子を利用する悪魔の所業とすら言えよう。そして少なくともその納得はいつか破綻する納得である。
 かと言って子の好奇心に無関心な親でも、子が強い好奇心によって踏み込んではいけないところへ踏み込む可能性もあり、それはそれで危険であるとも言えよう。それによる失敗でも行動をしないことが納得の方法と覚えてしまう可能性もある。子の好奇心を発散させることをしない親でもそうなりえるかもしれないが、最低限の制御は必要だと考える。
 ただその制御は言語で考慮できるほど単純でもない。特に現代は好奇心を惹くものがいくらでも溢れ、その裏には危険も溢れているのだから、それこそ「子供を見る」という言い方くらいしか思いつかない。まあ、私の知るところでもないのだが、もし穿った納得の方法を覚えてしまったら厄介極まりないし、それらを完全に制御する方法はどこにもない。

 社会においては利用すること利用されることは当たり前のことだが、納得されるのは相互の理解納得があってこその利用だけであり、相互の理解もなく一方的に利用することは社会においてでも悪と言える。その形は様々ではあるものの、あまり許されるべきではないことだろう。
 こと子供は好奇心によって様々なことを求めるが、その好奇心を利用されることもある。そしてそれが納得の方法に繋がるかは分からないし、そうでないだろうと言われやすい。
 それでもかと言って子供の好奇心を抑制してしまえば、そこに残るのは特に行動しないという納得の方法だけである。子供はいつか子供を辞めなければならないが、それができないなら子供のまま死んでいくだろう。

 心というのが簡単に変えてしまえるものならば世界はもっと平和だろう。心を制御することはそれこそ超人的な精神でもない限り無理な話だ。
 人間は幼少から青年期にかけて納得の方法を「試行錯誤」するわけだが、その答えが穿ったものであったとしても、そう覚えてしまえばそれを修正することは困難である。不可能ではないかも知れないが、それこそ雷が落ちるくらいの衝撃でもない限り変わることは無い。
 例えば罪を犯し続ける人間というのは大抵それが間違っていると分かっても、心がそれを求め罪を犯してしまうのである。いくら間違った方法であろうが、それを納得の方法であると覚えてしまっているのならば、それを求め続けるのである。できる事といえば代替手段を用いて心を騙すくらいだろう。
 ただ納得の方法というのは統一されたものばかりではない。一人で方法が多岐に分かれることもあれば、漠然とした方法しか覚えてない場合もあるだろう。何もしないというのは特に漠然的だ。

 しかしそれがどういった条件で覚えるのかなど詳しいことは分からないし、それが本当なのかも私には分からない。私にできることは考えることだけだ。それが私の持った、納得の方法の一つである。
 ちなみに私はかなり気性の荒い、気難しい性格をしている上、好奇心が強い人間である。それで問題を起こした後自分を制御しようとするあまり、特に何もしないことも納得としてしまう心を持ってしまった。私の親は基本的に放任主義だ。
 あえて言うが、私のあらゆる言動は私自身が原因であり他のあらゆるものは原因となりえない。私という存在は他の誰の責任でもなく、私の責任である。加えて、私は私以外の存在があったからこそこのように存在している。相反しかねない二つの考えだが、分かりやすくいうと私の存在は他者のお陰だけども私の言動は私の責任だという、都合の良い考え方だ。

 言ったとおり私はあくまで先人たちの言葉から考えているに過ぎない。
 また何度も言っているとおり私はダメな人間であって、別に偉くもなんともない。私の話に説得力を感じなくともそれは当然のことだ。というより、そうでなければならないだろう。
 私の考えは根拠のない空想なのだから。






  2010年11月18日 基本書き始め
  2010年11月20日 基本文章完了
 〜少しずつ改訂
  2010年11月24日 番外追加完了
  2010年11月26日 入力

  2010年12月19日 移し



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