小話


無学による正誤の話


正しい生き方とはなんでしょう?
そこに答えはありません。
あるのは「人としての納得」だけです。
その人が納得すればそれはその人にとって正しいことです。
その人が納得できなければその人にとって間違いなのです。

そして人間はおぞましいほどの数がいます。
果たしてそれら全員を納得させることはできるでしょうか。
「あらゆる人から納得される」ことはできるでしょうか。
人には不可能です。

人の「納得できること」は必ずしも重ならないからです。
そして「多くの人が納得することを納得しない人」もありえます。
それらを全て納得させる、という事は人にできません。

例えば普遍的ともされる「生きることが正しい」と言えど、
生きることが辛い人間はそれを納得できないでしょう。
正しいというのはあくまで視点によるものです。

1+1でさえ、視点を変えれば2になりません。
何かしら明確な定義をつけられなければ、
正誤を定義することはできないのです。

人の心に明確な定義をすることができるでしょうか?
今現在の人間にそれをする能力や術はありません。
理性や感情にさまよい自身すら定義に苦しむのですから。


正しい生き方や間違った生き方というのは、
あくまで個人個人による感想に過ぎないのです。
「誰の目から見ても間違いの無い人間などありえない」のです。

しかし、それらを否定したいのではありません。

ただ思慮を持っているのならば構わないのですが、
考え無しに「正しく生きる」だとか「間違えないように生きる」だとかは
私は間違っているのだと思うのです。

悪と決められたものを裁く社会の仕組みがあり、
生きる道を間違えたと決められたとき迫害されうることを頭に入れ、
そして「悔いの無いように生きる」ことが一個人の人間として
私は間違っていないように思います。


そして、それらを考えるとき区別を忘れてはいけません。
社会という人間たちの中の一人ということと、
一個人としての人間ということを。



■ ■ ■



作家に創作された世界には作者という神がいます。
作者はその世界の善悪などを定めることができ、
あるいは実世界とは正反対の世界を作ることもできます。

ファンタジーなどでは特に分かりやすく善悪が決められています。

しかし実世界にそれらを定める神はいません。
いるのはそれをかたる人間たちくらいなものです。
つまりは現実の世界に決められた善悪など存在しない、と。

ですが、人々はさも当然のように最初からあったかのように、
善悪やら正義やらの存在をさも当たり前のように感じています。
そこには実像すらないにも関わらず。


善悪の定義は左右の定義と同じようなもので、
当然のように感じていますがそれを説明するには例えを必要とします。
あなたは何にも頼らず左右を定義できるでしょうか?

上も下も、前も後ろも、右も左も無いような状態で、
左右を説明することが果たしてできるでしょうか。
つまり例えを使わずに善悪を説明できるでしょうか。

残念ながら無理です。
ですが、人々はそれを当然のように感じています。
なぜでしょうか。


結局そう思い込んでいたいだけなのです。
そして、たいていそれは自分にとって都合の良いものであり、
愚か者は時にそれら都合の良いものを振り回すことすらします。

そこに明確な正義があるわけでもなく。



また社会の民主主義においては議論と多数決を正しいとします。
議論をし多数決をとる方が間違いが起きにくいと考え、
それらを合意し、民主主義というものが使われているのです

それでも議論をせず数や数による権力にものをいわせる事もあり、
民主主義としては間違っている民主主義の暴力が横行するこも。

議論の無い民主主義はただの多数派主義であって、
民主主義の意思とは異なるものではないでしょうか? と
そういった議論を行うことが民主主義の意義です。

しかし、そこで決まるのは社会における正誤であり、
世界の正誤でなければ、個人の正誤とも言えません。
加えて議論や月日を重ねることで正誤が変わる事も当然です。



■ ■ ■



私は頭の良さを大きく3つに分けて考えています。
「記憶や処理の基礎能力」
「構築や発想の応用能力」
「認識や判断の分析能力」
それぞれ密接な関係で切り放すことはできませんが。

いわゆる馬鹿と呼ばれる人は特に「分析能力」が欠けています。
分析することができないため、応用や基礎すらままなりません。
そこにあるのは感情と極めて希薄な理性だけです。

「馬鹿は疑うことすらできない」のです。

否定すると言う意味での疑うことではありません。
肯定するに値するかを判断するための疑いです。

例えばそれを本当によく知っていると思い込み、
「知っている」と言うが実はよく知らない状態。
それは典型的な「認識の甘い」馬鹿です。

それは与えられた情報全てを「存在する」と妄信し、
与えれていない情報など「存在しない」と思う、
そんな極端な状態にもなってしまいかねません。


人間ができることは「疑う」こと、
疑心を持ち本当にそうであるのかを思慮することです。
疑心もなく信じることは妄信にすぎません。

と言っても哲学者のように世界はなぜあるのかや、
なぜ生きるのかなどまで疑う必要はありません。
世界に人間の知ることができる理由なんてないし、
生存はただ生命としての本能なだけですから。



例えば学校は、簡単な思慮を行わせる為の機関であり、
「社会的に貢献してくれる人を育てる」ところです。
学力は「社会に貢献してくれる期待値」です。

なぜなら学校での学習や勉強は社会から子供への仕事であり、
それをこなすことができると言うことは
社会でもある程度の仕事が期待できる、という論理です。

会社は下手な人材を選びたくありませんが、
一人一人を事細かに調べることはできません。
しかし「優秀で難関な学校」に入っていれば、
「難関な学校に入ることができるくらい」は期待でき、
最低限のことくらいは保証されているような状態なのです。

あなたは重大な頼みを、どこともしれぬ所から来た
誰ともしれぬような相手に任せられますか?
学歴というのはどこからというくらいの保証をしてくれ、
面接ではどんな人物あるのか多少調べることができます。
あなたも重大な頼みで不利な博打はしたくないでしょう。

もちろん良い人材が必ずしも得られるわけではないでしょうが、
酷く悪い人材を得ることは滅多にないようにしたいのです。

頭が良く利口(あるいは処世に長けている)ならば、
学校勉学において可能な限りのことを行うのでしょう。
それを行えないのは頭が悪いと言われてもしかたありません。


また人間社会というものは人間によって構築されていて、
人を動かすことができる人ほど力を持っている世界です。
その力は権力や財力ばかりでなく人脈も同様。
少なくとも人を使い使われることができなければ、
社会で生きていくことはできません。

私は学校や社会というものを疑い、こうした答えを出しました。
社会を否定しようとせず、仕組みを理解しようとしています。
こうしたこともまた「疑う」ということであり、疑うとは
「違う」と言うではなく「なぜ」と問うことなのです。

特に「個人的な感情」をあまり挟み込んではいけません。
学校が嫌いだからといって学校が不要ではないかと考え、
勝手に学校は不要だという結論を出してしまってはいけません。
それは結局「認識の甘い」馬鹿です。ついでに自身にも甘いです。


例えばお金はよこしまなものだと考えた所で、
お金がもたらした経済の流動性を否定したら餓死者が出ます。

人類がここまで多くなったのは役割分担を行いつつ
それ相応の報酬という形として通貨が使われているからであり、
通貨が無く物々交換になったら経済の流動性は著しく低下し、
物流もままならなくなりお店の食べ物がほぼ無くなってしまい、
食料を求めて都市部は特に混乱し、あげく死者も出て
結局通貨となるようなものが必要とされることでしょう。

第一お金そのものは道具であって、それに罪はありません。
包丁で人を傷つけたとしても包丁に罪はありません。
悪用されたり、扱い方を間違えられたら
被害が出てしまうのは道具として当然のことです。


さて、私はこれらを書いているとき
記憶からそれらしい情報を引き出しています。
時には情報からそれっぽく構築することもしています。
それらは色々なものを分析することで生まれました。

「基礎能力」「応用能力」「分析能力」と全て使っています。
これらは訓練や練習しだいで、ほぼ誰でも使うことができます。
まあ脳そのものに何かしらの障害が無ければですが。


「基礎能力」は本当に基本的な能力で
「ものごとを覚える」「ルールに従って考える」など、
例えば足し算引き算掛け算割り算くらいなら基礎です。
「ルールを覚え、それに従って考える」だけですから、
文章を読むといったこともそれに属すると言えるでしょう。
本当に基礎の基礎というわけです。

「応用能力」は与えられた情報などから
例えば「算数の問題を作る」「感想を書く」など
基礎能力から毛の生えたものから、やや高度な
「目的の為の道具を作る」や「詩を創る」なども応用です。
他にも小説など物語を創ることは今まで見聞きしたことを、
応用することによって作っているのです。

「分析能力」は与えられた情報を
「それはどんなものなのか」と認識し分析することで
例えば「算数の文章問題を理解する」という工程などです。
先ほど言っていた疑うということも、情報を分析して
それがどのようなものかと考えることですので、
ないとと何も理解できません。

それぞれがそれぞれを必要としますのであまり偏らず、
どれかが足りなくなることがないことが望ましいです。

まあこれら以外にも思慮分別や処世術も
利口さという頭の良さだと言われたりします。
感情を制御し不要な感情を抑えることも利口なのです。



■ ■ ■



 これらは2008年5月6日ごろに書いた「正誤論」を
  2010年8月29日に書き直したものです。
 17歳から19歳になり、変わったものはありますが、
  その基本はほとんど変わっていません。
 ただちょっと話が長くなった気もします。いけませんね。

 私は疑心を持って生きています。
 一切の感情が無い視点をもって考えることが時々できます。
 それに襲われたような状態になった経験もあります。

 私は理性的に見て「自分は不要である」と考えられます。
 しかし感情的にそれはとても辛いので、
  本当に不要であるかはこのさき生きてみないと、と言いますが
  行動もなにもできない私が生きていてこれ以上のと続きます。
 私が必ずしも私の味方ではないのです。

 しかし、私は特に優れた能力を持っているわけではありません。
 頭はむしろ悪い方だと思っています。
 特に利口でないという意味で。

 2010/8/29 Andil.Dimerk


 「人が正しいと言う時、それは正しくありたいだけである。」



戻る