テキストファイル掲載日:2021/01/07
2025年補足
"説"と表現するのはあまり適切ではないらしい。(科学的ニュアンスが強まるため)
文化的な考えの範囲であれば、"論"で十分だった。
2021/01/07時点のファイルです。※編集途中のファイルです。 長期間投稿できず、今後の投稿予定も経っていないため、暫定的に公開します。 ////2021-01-07:25追加 目次 ※特定の章を確認したいときは「*序(全角数字)」で検索をかけてください。 1 〆「はじめに・私の名前・目的」 挨拶、動機、私の哲学。(エンコードq36) 2 〆「正義欲求説 正義欲の基本的な性質」 普遍的な。いじめなどの動機(q32) 3 〆「正義欲求説 生物としての合理性・有用性」 本能的と言える(q32) 4 〆「正義欲求説 教育の歴史、宗教と正義欲」 教育の歴史(q32) 5 〆「正義欲求説 感覚の学習と教育」 教育(q32) 6 〆「正義欲求説 社会的な正義と善悪の観念」(q32) 7 「正義欲求説 哲学の困難性」 正義欲による意識の変質 8 「正義欲求説 情報の認知」情報の性質と、正義欲 9 「正義欲求説 科学の価値」情報の統一性とその貢献 10「正義欲求説 正義欲の健康への影響」 ストレス 11「正義欲求説 祈りの合理性」オカルトに限らない祈りの効果 12「哲学的な思考の為に 正義欲求説」 正義欲への見方 13「感情と論理」 言論の難しさ 14「正義欲求説 正義欲と感覚、正しい世界という感覚」 15「正義欲求説 正義欲と誰かのため」 他人の為に。 16「正義欲求説 正義欲と保護と淘汰 人間社会の不完全性」 17「正義欲求説 正義欲と思い込み 反応する物体としての知性」 18「正義欲求説 健康への正義欲求、健康に対する正義欲」 19「芸術の価値」 20「正義欲求説 正義欲と無理」 21「正義欲求説の普及の困難性」 22「正義欲求説 正義欲求と崇拝と理想」 23「正義欲求説 正しい努力という虚像、観念」 24「認知上の魔法と呪文」 25「反社会的行動を伴う信仰的な価値観」 26(未) ////////// *序1「はじめに・私の名前・目的」 〆投稿済み こんにちわ、初めまして、フィロ・ディールと言います。 こんな姿ですがいわゆるバ美肉のおっさんです。 これからいろいろと話してみますが、私は正式な専門家ではありません。 なので話半分に、気楽に聞いていただければと思います。 * 一応台本を作ってそれを見ながらしゃべっているのですが、 時おり台本とは違う言い方になってしまっているのは、しかたないですよね。 * まず、私がこうしたことをするにあたって私は何をしたいのか、 私には何ができるのかを考えましたが… 私にできることは楽しいことをすることではなく、 私の考え、私の哲学について話すことだと思いこれを作っています。 話す内容は以前から中の人が話していたことの焼き増しなので 私に詳しい人にはあまり真新しい話ではないでしょうが… そんな人はそういないでしょうね。 * 「哲学」というものがなんなのか、みなさんは考えたことがあるでしょうか。 言葉の大本はフィロソフィー、知恵を愛するという言葉で だいたい「いろいろと考えること」を表した言葉と言えます。 詳しい歴史は分かりませんが、それが時代を進んでいくにつれて 分析や研究によって判明しうる分野が分けられ離されていき、 分析や研究によって判明しやすいものではないが考えることはできるものが 現代社会におけるいわゆる「哲学」の分野として残ったようです。 * 私なりの表現をするなら「哲学とは考えることを考えること」です。 考え方を考える、どう考えればいいかを考えてみること、考え直すこと。 その大前提として覚えておかないといけないことは、 人の認識はあくまでも人それぞれから見た相対的なものという事。 / * 分かりやすい例を上げるなら「コップ半分の水」。 いわゆる心理テストとして使われる、心理状態をはかるものとして有名ですね コップ半分の水に対して「半分ある」と見るか「半分しかない」と見るか 「状態は全く同じであるにも関わらず見え方が異なることがある」のです。 つまり人間は決められた絶対的な基準によって判断するわけではなく、 その人の経験知識感覚から、相対的な基準によって判断してしまうわけです。 そしてコップ半分の水の見え方について、 なぜそう見えるのか、あるいはどう考えた方がいいのか、どう感じるべきか、 そうしたことを考えてみたりすることが哲学の一種なのです。 * ちなみに私は哲学について詳しく勉強したことはありません。 実のところ、どのような哲学が存在するのか?についてよく知りません。 …しかし私の考える哲学とは「考え方を考えること」であり、 私の思う「哲学の本質」とは、ただ知識を持っている事ではないと考えています。 つまり「他の誰かが考えた哲学を、そのままろくに考えずに繰り返す言動」は、 「哲学を語っているが、哲学的ではない」とさえ思います。 しかしかといって「何も学ばず、何も見ず、思いついた考えを語ること」も、 それが哲学的な思考であるかといえば、微妙なところです。 ですから、他者の哲学を見て様々な考え方に触れて、考え方のパターンを増やし 物事をどのように考えてみるかを自ら考えてみることこそ「哲学的」だと思うのです。 例えば私がこうして語っていることに対してこれが「正解か不正解か」と 考えず同意して鵜呑みにしたり、考えず拒絶して否定したりは、哲学的とは言い難い。 その考え方がどのような考え方なのか、 問題があるとするならどのような問題があるのか、 しっかりと考えた上で扱っていく事こそ「哲学的だ」と私は思うのです。 * 哲学に対しては、普段の生活で哲学が役に立つのか?という話はよくあります。 変なことばかり考えて、社会の役に立つのか?とまで言われることもあります。 しかしそれはちょっと違います。 「哲学がないことで困ることは無い」というわけではなく、 「哲学的な思考が無いと、哲学の無さで困っていることに気づけない」のです。 乱暴な言い方をすれば"バカは風邪をひいたことに気づかない"理論です。 考え方を変えるだけで解決する問題でも、 考え方を考えるという発想が無ければ考え方が悪いということに気づきません。 状況が悪い、誰かが悪い、あるいは自分の無力さが悪いなどと考えてしまうことさえ。 けれども「考え方を考えること」が分からないから自分で考え直すことも難しい。 しかし現実そうした状況に追い詰められても哲学的な思考が必須なわけではないのです。 「状況が変化して問題がどうにかなった」りすることもありますし、あるいは 人に相談して「他人の考えに影響されて考え方が修正される」という場合もあります。 他にも、そうした問題を解決せずとも問題を抱えたまま生きていく場合もありますし、 そのまま問題を解決できずに死んでいくという場合もあります。 ただ、かといって「哲学的な思考が無い人は苦しんでもしかたない」とすることが 社会的に正当化されるわけでもないでしょう。 もちろん「哲学的な思考が無い人は庇護されて当然」ということでもありません。 * 現実として、哲学的な思考は誰もができうるものというわけではないのです。 人間の知能を高く評価するなら万人ができていても不思議ではありませんが、 しかし現実として「考え方を考えること」をする人というのは珍しく、 むしろ「変わり者」とさえ見られます。 「考え方を考える」「考え方を変える」というのは、 文字に表すだけ、文字を読むだけなら苦労はしません。 しかし考え方を変えられれば楽だと文字で分かっていたとしても、 感情などが邪魔になって変えられないということも往々にしてあります。 文字でさえよく分かっていない人であれば、なおさら変えようがありません。 そもそも「人間は自分の脳を全て制御できているわけではない」でしょう。 考え方次第という精神論を持ち上げても「物理的にムリだ」ということもありえるのです。 「物理的にムリ」という状態を変えるためには物理的に、 現実的には適切な薬などによって傾向を制御するくらいしかありません。 自分の脳を全てコントロールできるわけではない以上、 いわゆる「心の問題」も当人の努力によってどうにかなるものとも限らないのです。 優れた頭脳を持つ人、そうでもない頭脳の人、哲学的に考えられる人、考えられない人。 それらがまざりあって出来ているのが現代社会。 みんながみんな「利口な選択」をするわけでも、できるわけでもないのです。 */// 記述された、あるいは表現された哲学の説明は「道しるべ」に過ぎません。 数ある哲学書などもどう考えるべきか?の「一例」にすぎません。 もちろんあくまで「私の考える哲学」でしかありませんが。 その哲学において一番重要なのは、自分で考えること。 どれだけ高尚な哲学や多彩な思想を覚えておいたとしても、 それをふまえて自ら考えるということができなければ、哲学的ではないのだと。 ですから私がこうして語っていることもあくまで一例に過ぎません。 偉い人の考えに対して「偉い人の考えだから正しいのだろう」と妄信してしまうのは、 それは哲学的な思考とは言い難い、しいて言えば宗教的な思考です。 * 私の考えが正しいという保証はありませんし、信じてほしいと押し付けたくはありません。 しかしかといって反社会的、非人道的、不道徳な、倫理的に問題のあるようなことを、 特に他者へ不当に損害を与えるような事を認めるわけではありませんし、 少なくとも私としては、また基本的に社会としても認められません。 現代社会において非人道的な思想などは公に認められるものではありません。 そうしたものは社会的に咎められて当然のことだと言えますし、 もっと言うのならば社会的に咎められてしかるべきであるとされています。 私個人はあくまでそうしたものに従う立場であり、従わなければならない立場です。 "ルールを作る側"ではありませんから、「私に従え」とも言えません。 * さてまだまだ話したいことはありますが、今回はこれくらいにしておきましょうか。 ひとまずみなさんに覚えておいてほしい言葉が2つあります。 「ブッダよりネコ」 多くの人にとって必要なのはブッダのような「高尚な考え」ではなく、 考え悩む必要もなく安らぎを与えてくれる存在、例えば猫だという言葉。 こんな動画を見るより、楽しい動画を見ていた方が「健全」なのかもしれません。 もう一つ 「人間はみんな、正しいことをしたいと願っている」 こちらは私の哲学の一角をになっている「正義欲求説」を端的に表した言葉です。 詳細については次回から何回にも渡って話していくつもりです。 * それでは、ご聴講ありがとうございました。 /////////////////////////////////////////////////////////////////////////// *序2「正義欲求説 正義欲の基本的な性質」 〆投稿済み 二度目まして、私の名前はフィロ・ディール。あなたは愛してもいい人類? 第一回を見ていない方は、先にそちらを見ていただけるとありがたいです。 第二回は私の哲学の核心的な要素、「正義欲求説」について話そうと思います。 * 「人間はみんな、正しいことをしたいと願っている」 けれども、人間は全知でもなければ全能でもない。 正しいことをしたいけど、実際にするのは「正しいと思っていること」になる。 だから間違っていることでさえも、正しいと思ってやってしまうことがある。 それは、正義感と呼ばれる感覚が理性などではなく本能的なものであって、 極端な言い方をすれば「人は正しいことをするために理性や知性を必要としない」 人間が秩序を守ろうとするのは「理性があるから」ではなく、そうした本能があるから… …"ではないだろうか?"というのが正義欲求説の概要です。 この考え方の科学的な根拠は、少なくとも私はまだ明確には知りません。 あくまでも私の中で作り上げた「考え方の一つ」です。 ※注>一応その辺りを実証もしくは傍証する脳科学の研究結果の話はあるらしいですが。 * しかし「ほとんど矛盾を起こさず、多くの事象によく当てはまる考え方」だと思います。 …もしこの考え方に「否定的な考え」を持ったとしても 「それはその人が否定的に感じただけでしかない」と断ずることさえできます。 正義欲求説を否定するためには、神や魂、不可視の悪魔みたいな存在と関連性、 それらによる"個体の性質を無視した言動"が起こされていることを前提する必要があり、 そしてそうした状況が当然のように起きている証拠を示せなければ無理と考えます。 もちろん「正しいことをしたいと願っているのに、なぜ間違ったことをするのか?」 と矛盾があるのではと思うかもしれません。 しかし「正しいことをしたい」というのは"そのつもり"、"気持ち"だけであり、 そこから何かしらの行動を起こしてその結果「間違ったことをしてしまう」だけ。 人間は全知全能ではありませんから、 「何が正しいのか」を全て理解しているわけではありませんし また何かをするにしても必ずしも成功できるとは限りません。 あくまで「その人がその時正しいと思ったことをしようとしているだけ」なのです。 *// 正義欲求説は前提に「善悪は個人個人が感覚的に備えるもの」という考え方が必要です。 つまり「善悪の定義は、あくまで人が決めて判断していること」ということであり、 『元々決まっている、あるいは上位の存在が決めているわけではない』という考え。 そして「個人の感覚」はその人が育ち暮らした経験や知識から育まれるものである。 そのため「個人の正義の感覚」が他人の正しさと一緒であるとは限らないのです。 なので「人間はみんな、正しいことをしたいと願っている」というのは 「人間はみんな、自分が正しいと思っていることをしたい」と言いかえられます。 そこに理性、知性、論理性、それこそ現実性さえ必須ではありません。 本能から正しいことをしている気分になりたいだけです。 もちろん論理的な正しさが重要だという感覚を身につける育ち方をしていれば 論理的な間違いに対して嫌悪を抱くような感覚を身につけることもあります。 しかしそのように育たなければ論理的な正しさをあまり重要視しません。 それは世の中を、特にインターネットの有象無象を見ると、もはやそうとしか思えません。 「正しいことをしているのだから間違っているはずがない」とさえ思っていそうなほど。 * この「正しさの感覚」はその人の育ち方にも左右され経験や知識で変わってきます。 また例え他人が「これが正しいこと」と提示しても、それを信用したいかどうかによって、 「それが正しいと思えるかどうか」が変わり、時には「正しくない」と考えることもある。 例えば「犯罪行為は間違っている」と社会的に扱われていたとしても、個人の感覚は別で 時には「この行為は正しいと思う」からと犯罪行為をしてしまう場合もありえます。 それこそ本人も後から考えて間違っていると反省するようなことでも、 その時は正しいと思っていてやってしまうなんてこともありえます。 ちなみに「その人の思う正しさに背くもの」には、人は大なり小なり嫌悪感を感じるもの。 それは自分自身が、自分自身の思う正しさに背いているという場合でも同様で、 一般的にそれは『罪悪感』と呼ばれていて、その「罪悪感」は一般的な感性だと言えます。 その「罪悪感」は例え自分が得をしていても感じてしまうものであり、つまり 「正しさの感覚」は「必ずしも合理的に見て自分へ利益があるものに限定されない」 ということの証左だと考えらえるでしょう。 もっと言えば「正義感は、合理や打算から生じているものではない」 という論理を補強する証拠と言えます。 もちろん合理や打算が正義感に適う場合もありますが、 必ずしも合理や打算が正義感に適うとは限らないのです。 *// さて「正義欲求」がどのように振舞うのかは大体話しました。 「人間はみんな、正しいことをしたいと願っている」わけですが、 その正しいことがなんなのか人々は自分たちで決めているだけであると。 しかし「正義欲求」の問題はそこだけではありません。 「正しいことをしたい」という気持ちをその字面通り『欲望』だと捉えているのです。 睡眠を欲する睡眠欲のように、食事を欲する食欲のように、性行為を欲する性欲のように、 いわゆる正義感が「正しいことをしたいと欲する正義欲である」と見ています。 それはつまり「欲求不満を起こすものである」ということです。 個人差はあれど必ずしもできるときにできるだけできればいいなんてものではなく、 「日常的ないし定期的に、正義欲を満たせるような行為を行えない場合、 人は不快感や不安感を感じるようにできている」と考えられるのです。 とは言え「正しいことをできている感覚」は極めて漠然としたもので個人差が大きいです。 実際とても小さなことから正しさを感じて満たされる人もいるでしょうし、 ハッキリとした正しいことをできていないと満たされない人もいるでしょう。 そうした正しさの感性で左右されますし、正義欲自体の強さにも左右されます。 実際の状態や形態は人それぞれで千差万別と言っていいでしょう。 しかし人は正義欲の満たされない極限状況におかれると、なりふりを構わなくなります。 まるで飢餓状態の食欲のように、時には食べられないものでも口に入れます。 * 特に正義欲求の不満を起こしやすいのは、強い不安や不満を抱えた状態の人。 病気や怪我などの身体的な問題、あるいは人間関係や金銭など社会的な問題など とにかく問題を抱えていると「正しいことをしたい」という衝動に持ちやすくなり、 そのストレスを発散できないと正義を渇望する正義欲の飢餓状態となります。 ただし基本的に正義を欲すること自体は誰でも持っているものと考えます。 * 正義欲が満たされない飢餓状態の人は何をするのか。 答えは簡単「何かしら自分のできる範囲で正しいと思う行為をやる」のです。 しかし、その「正しいと思う行為」が平和的なものであるとは限りません。 建設的でも合理的でもあるとは限らず、社会的倫理的、法律的に正しいとさえ限りません。 そうですね、例えば「何か悪者を見つけて攻撃する」なんて行動をすることもありえます。 とてもとても短絡的に。当然、そこに正当性があるとは限りません。 何か少しでも気にくわないことがあればそれを口実にして、 あるいは口実さえなく、なんとなく「悪者にしていい相手」を悪者にしたてあげます。 「悪いもの」を作りそれを攻撃して「正しいことをしているつもり」になるわけです。 …つまりいわゆる「いじめ」も、そうした理屈で起きる場合があると考えられるわけです。 全てとは言いませんが、身勝手な「正義感」によって「いじめ」は起きうるのだと。 予め「いじめは悪いこと」と言われていようが関係ありません。 むしろ「自分は良いことだと思っている。ならこれは悪いいじめではない」 とさえ思うかもしれません。「いじめられる方が悪い」の論理です。 「正しいことをしたつもり」だと、ただ頭ごなしに叱っても改心させることは無理です。 むしろ良いことをしたつもりなのに理不尽に怒られている、なんて状況は不愉快でしょう。 それこそ「この怒っている人のいう事に従うことは正しくない」とさえ思いかねません。 「過ちであっても、正しいと思えば使命的にやってしまい、欲求を満たそうとする」 こう考えるのが「正義欲求説」なのです。 * いじめられた側は「大きな理由が無くとも悪者にされてしまう」という経験をします。 自信の強い人なら相手が悪者だと感じ反撃さえするでしょうが、 そうでない人はまるで叱られているかのようにやりすごそうとすることもあります。 最悪の場合「自分が悪いのだ」と解釈し、『自分の存在が罪である』かのように感じます。 …そして時には「自分を消すことが正しいことだ」と思い、実行してしまうことさえある。 *// 人間はみんな、正しいことをしたいと願っている。 だからこそ「正しいことはなんなのか」を考えなければいけないと。 だからこそ「哲学」は社会に必要なものだと考えられるわけです。 * そろそろ話を区切ろうと思います。 正義欲求説について、まだまだ語りたいことが残っています。 ただ一つ言っておきたいのですが 私の目標は「私の考えを広めること」自体ではありません。 私の目的は「考える人たちへ、アイディアを提供すること」です。 賛同も否定も「そういう感じ方があるだけ」では 私にとってどちらも大した価値がありません。 もし、もっと考え方を知りたいという人は、またお会いしましょう。 次回は生物の性質から見た正義欲求説をお話しようと思います。 ご聴講ありがとうございました。 /////////////////////////////////////////////////////////////////////// *序3「正義欲求説 生物としての合理性・有用性」〆 私の名前はフィロ・ディール。君は愛してもいい人類? お話の第三回になります。第一回第二回を見ていない方はそちらを先にどうぞ。 第三回目では「正義欲求説」の生物としての考え方をお話します。 ちょっとした補足説明です。私個人の生物に対する哲学も含みます。 ただ記憶だよりで参考文献がハッキリしていないので話半分でどうぞ。 * まず「正義欲求」は何も人類だけが持っているものではないと考えられます。 正義感は人類の叡智だとか人の理性だとか人間の証なんてわけでなく、 本能的な反応の一種である、「遺伝子によって決まっているもの」と考えるわけですから、 大きな頭脳を持った人間に限定されるといった性質ではありません。 社会性を持った動物は人類の他にも色々なものがいます。 群れを作る動物は、まるで群れの秩序を守るように生活し、 時には秩序を乱す存在へ攻撃的な行動を見せることもあります。 それらの動物が「高い知性で論理的かつ合理的に考えた上で社会を作っているのか?」 と言えば、確証はありませんがおそらく違うでしょう。 もし人間以外の多くの動物がそこまで高い知能を持っているとすれば、 人間と暮らすペットはもっと人間のする行動をできているというのが自然でしょう。 例えば文字を読んだり、あるいは書いたりすることもできるのではないでしょうか。 しかし現実として、そこまでできるペットはまずいません。 もしかしたらそんな優れたペットも皆無ではないかもしれませんが、 知性の高さが普遍的に存在していることを証明できなければ、 高い知性によって社会を作るという考えが正しいとは言い難いでしょう。 そもそも、人間も決して全人類が高い知性を持っているとは言い難いのが実情です。 「学力などのテストにおいて、文章を読み論理的に考えられれば解答可能な問題でも 間違った答えをしてしまうような人」は珍しくもなく、能力には個体差があります。 もっと言えば「論理的合理的に考えることのできない人」は意外なほど多くいます。 そんな考える力の弱い人であっても、秩序を守るような行動をとります。 だから「正義感は高い知性から生まれるものではなく、本能である」と考えられるのです。 * 「正義感を本能として有すること」の有用性は、高い知性に頼らず群れを構築し 群れの安定のために必要な行動を感覚で覚えることができる、という点にあります。 * 生命が脳を獲得した、と言うより脳を生成した生命が生き残った理由は 「環境への適応能力」であると考えられます。 活動環境が広いと、さらされる環境は非常に多彩になります。 地上では顕著に時間帯や季節、状況や場所によって存在するものががらりと変わり、 その全ての情報を予め遺伝子に用意して継承させるにはやや無理があります。 以前と同じ場所でも違う環境になる可能性もあるし、新しい場所の情報は用意できない。 そもそも情報が多すぎれば全てを遺伝子情報に詰め込むことが不可能になると考えられる。 脳は「生存している環境の情報を記憶して蓄積し、時に推測することで対応する」という 極めて高い適応能力を発揮することができるわけです。 最低限必要な情報を遺伝子に詰め込み、あとは脳に対応させていると考えられます。 反対に、脳を持たない生命は環境への適応能力がやや劣ると考えられます。 一個体の生存環境が限定されていたり、画一的なシステムで失敗することもあったり。 代わりに大量に群生していたり、シンプルな構造で耐久性があったりしますが。 * そうして脳を得て進化していった生命は多彩な活動ができるようになりました。 脳が大きくなるほど脳の能力も拡大し、遺伝子に頼らない行動ができるようになります。 特に群れを作って生活する生物はより戦略的な生存技術を獲得したと想像できます。 しかし群れを作る生物は、同時にある危険性を抱え込むことになったと思います。 それは「逸脱した行動をとる個体」です。 できることが多くなった事で遺伝する生態から逸脱する行動もとりやすくなってしまい、 群れから離脱すれば生存率は低くなり、群れの中で逸脱した行動をとれば 群れ全体に不利益を与えてしまい、時には群れの崩壊を招く危険さえあります。 そうした個体には、安易に同調せず警戒し、必要なら排除もしなければなりません。 種としての存続に大きく関わる問題です。 そのため恐らく脳が発達していくにつれて、同時にそうした事態を回避する機能、 防衛本能の拡張で「秩序を守ろうとする傾向」も育まれていったのではないかと考えます。 それこそがおそらく「正義感の本能」と呼べるものだと。 「群れの秩序を守ろうとする傾向」があれば、危険に対して適切に対処でき、 また群れの結束力、群れとしての機能もより強固なものになるとも考えられます。 周囲の個体や経験を踏まえた上でより安全で堅実であろう行動を選べるわけです。 そうして群れを作る動物は各々の生態系に合わせた形の社会性を形成し、 繁栄していったのだろうと考えます。 * 「正義感の本能」は進化の過程としても無理のない考え方だと思います。 人以外の動物の、秩序を守るような行動自体はペットでも見られる現象ですし、 「正義感は人間だけが持っているもの」という考え方は誤りだと考えられます。 そう考えれば正義感は理性によるものではなく、 本能によって起きる衝動だろうという事ができるわけです。 つまり、極端に言ってしまえば人間の正義感は動物的な行動の一種です。 下品に言えば、正義感は性欲にも似た欲望の一種なのです。 * 性欲と正義欲はとても似ています。 個体の維持保存のために必要となる食欲や睡眠欲とは異なり、 性欲は個体の維持保存のためではなく種の保存のために必要な欲望です。 性欲が無くとも個体の生存には全く困窮しませんので個体にとって必須ではありません。 しかし性欲が無いと種の保存が円滑にできず困窮する、種族としては必要な欲望なのです。 正義欲にもおおむね同じことが言えます。 秩序を守る傾向は種が安定して生活するために必要なものだと言えますが、 個体単体での生存にはほとんど役に立たない性質です。 正義欲が無くとも個体の生存には直接的な影響は有りません。 正義欲が無くて困るのは秩序を乱されてしまう危険を抱える集団の方です。 まあ正義欲が無いと集団に入れなくなりやすいため個体にも間接的な影響はありますが。 そして、高い知能を獲得し複雑な社会を形成することができた人間は、 社会的な合理性や科学的な正当性と、本能の欲望とのジレンマを抱えています。 * 人間は高い知能を持っていると言ってもその根底は欲望です。 善悪や正誤の判断は正義欲の感覚によって行われており、 論理的に正しいかよりも「感覚的に正しいかどうか」を重視してしまいます。 「論理的に正しいこと」を重視する人も、経験や知識からそう判断する 「論理的に正しいことに対して、感覚的に正しいと感じる」ように育った人です。 そのため例えどれだけ論理的に、科学的に話をしたとしても 「それを信じたい」と思わなければ『よく分からない屁理屈』とさえ感じ、 『でたらめ』『欺瞞(ぎまん)』『嘘』だとさえ感じるのです。 どれだけ懇切丁寧に、論理的に、正しいことを教えたとしても、 その人がそれを受け入れられる感覚を持っていなければ、 その人にとってはまやかしであるとしか感じないのです。 反対に言えば、どれだけおかしな無根拠な話であったとしても、 「それを信じたい」と思えば『正しいこと』と認識してしまうのです。 時にはそれが真実であり、間違いのない真理であるとさえ感じるのです。 人は高い知性によってさまざまなことを解明する能力を得ましたが、 知性の追いついていない人も少なくは無いのです。 そして多くの場合その至らなさに無自覚で、時にはとても困ったことにもなります。 */撮り直し・挿入/ そう考えた場合、高い知性を持った人間は 知性によって合理的に秩序の有用性を気づけるようになりましたが。 感覚的に備わっている秩序を守る機能の不完全性に悩まされるようになったのです。 しかし、人によってはそのことを理解したがりません。 おそらく「正義感は人間だけが持ちうる特別で重要なもの」と思っている人は、 正義感が性欲と大差のない欲望などという言説を信じたくないでしょう。 そうでなくとも、秩序が理性によって保たれていると感じ、 秩序を守ろうとする正義感もまた理性によるものだと感じる人々は、 正義欲による衝動が理性ではなく欲望によるものだとは自覚できません。 時には「正しいと思うことをしているのだから間違っているはずがない」 とまで言ってのけそうな振る舞いをすることさえあります。 人間は、人間社会で「他者の正義感」にとても悩まされ続けているのです。 * ちなみに正義欲の性質は、遺伝子的な要素も関わってくると推定できます。 つまり生来備わっている性質によって正義欲の傾向も左右されるのだろうと。 * さてこの辺りで区切らせていただきます。 ちなみに言っておきますが、私の話は明確な根拠のある話ではありません。 科学的でもなんでもなく私の記憶している範囲、知っている範囲から 想像しながら考え組み立てただけの、厳密には仮説とさえ言いにくいものです。 私がこうして語っているのは「アイディアの提供」のためです。 もしこれが正しいと思うのなら、まず本当に正しいのかを確かめることをオススメします。 私は専門家ではありませんので、それこそ与太話とさえ言えるでしょう。 次回はこの話から発展させた「教育」について話してみたいと思います。 それではご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////////// *序4 「正義欲求説 教育の歴史、宗教と正義欲」〆 私の名前はフィロ・ディール。君は食べてもいいアイス? お話の第四回です。初回から見た方がいいので、見ていない方は初回からどうぞ。 第四回は「正義欲求説」と教育の歴史についてのお話をします。 ぶっちゃけて言うと研究対象としての宗教の話もしますのでご注意ください。 また専門家ではありませんので話半分でどうぞ。 * まず先に言っておきますが、私は概ね無神論者に位置する立場です。 しかし「人間にとって有意な、人類も司る神の実在は証明できないかもしれないが、 神という存在が人間にとって非常に重要なものである」と考えています。 つまり「神はいないかもしれないが、神という存在は必要とされる」という位置。 実際に地獄はないかもしれないけど、地獄という方便は必要とされるみたいな感じです。 * 恐らく人は古来から「個人の正義欲の濫用」に悩まされてきたのではないかと思います。 正しいことをしたいと思っているからといって、誰も彼も好き勝手にして 他者を不快してしまえばそれを鎮圧したい別の正義感が生まれて争いになります。 一般教育の普及している現代社会でさえ「個人的な正義感による迷惑行為」が 珍しくないのですから、古代でも同じような問題があったことでしょう。 「個人の正義感」が反社会的な行動に走らないよう制御するには、 善悪の教育が何よりも重要になります。幼少期の教育も重要ですが幼少期に限りません。 現代的な枠組みで言えば道徳教育であり、あるいは啓蒙も含まれるでしょう。 何かしら「何が正しいか」を決めて、それを教育していくわけです。 それもちゃんと従ってくれるよう教育しなければなりません。 そこで用いられた、社会での原始的な手段こそが「上位の存在」であり、 「上位の存在」を理由とした宗教だと考えられます。「地獄」もその類です。 * 人間は必ずしも論理的な、科学的な説明で納得するわけではありません。 むしろ人によっては神秘的な根拠を持ったものこそ重要視します。 正義感が理性ではないように「信じたいかどうか」は感覚的な問題です。 そのため「凄い存在や偉い存在が言ったこと」の話の方が信じやすいことが多いのです。 論理や科学を信じる人は、あくまでそれらに価値、重要性を感じているだけで、 人間であっても、それらを重要だと感じなければ論理や科学も信用しないのが実情です。 ですから上位の存在を前提に人々を教育するというのは非常に合理的な手法と言えます。 それは「本当に上位の存在がいるかどうかとは無関係に」です。 オカルティックなものが実在するかどうかは全く別の問題です。 その性質を意識的にか無意識的にか利用し、 「優れた人々が考えた決まり事を大衆に教え従わせる教育システム」が作られました。 それこそが「宗教」であり、その存在意義であるとも考えられるわけです。 切実な理由として、その昔ルールを決めて広く従わせるためには 上位の存在を根拠として教えなければならなかったのではないかとさえ考えられます。 * 宗教の原始的かつ社会的な存在意義は 「社会を安定させるために人々の考え方を誘導することで治安を守るもの」です。 また宗教が「正しいことは何か」を教えて信じさせることをすれば、 人々はその「決められた正しいこと」によって正義欲求を満たすこともでき、 闇雲に正義欲を振り回すことを抑える効果も多少望めます。 「習慣的な祈り」だとかは典型的な「宗教による正しい行為」でしょう。 祈りは特別他者へ関与することもなく自己完結するため平和的でもあります。 ただし宗教は人を集めやすい分、その性質で問題が起きることもあります。 歴史的にも、宗教を口実とした争いは古代から現代に至るまで起き続けています。 例え社会の安定を目的に作られたとしても「正しさのために争うこと」もよくあり、 あるいは"正しさのために"部外者や異端者とした誰かを迫害することもよくあります。 実情として社会を安定させる、平和的な状態やものばかりではないことも確かです。 "元々指導者の欲望を満たすための人集めの手段として作られた"場合もあり、 ものによっては反社会的な傾向を持っていることさえあります。 しかし社会から宗教に求められるものは「治安維持」だと言えるでしょう。 人間が宗教を信じる行為の大本は"その人の正義欲のため"。 またその正義欲は生物的には集団の秩序を守るために備わっているものと考えられます。 つまり「宗教とは秩序を形成するための一手段」だと言えるわけです。 */撮り直し・差し替え/ そういった考え方をしているため、私は神の存在を方便の一種だと認識しています。 しかし神の存在を蔑ろにすることもまた望ましくないとも考えています。 例えば、特に宗教への信仰が当然としてある地域で暮らしている人にとっては、 宗教の教義こそが倫理や善悪の基準であり、社会の基盤だと見てます。 そうした視点から見た無宗教とは「倫理や善悪の基準を持たない人」とさえ見えます。 極端な見方をすれば「無法者」に近しいのです。 また世界に存在する現象全てを科学的論理的に説明できたとしても、 人々がそれに納得するとは限りませんし、納得できるとも限りません。 少なくない人々が、根拠のある論理ではなく無根拠でも神秘を求めるのが実情です。 …それに「本当に"神が存在しない"と証明すること」も、できるとは限りません。 そうしたことを蔑ろにすると他者との軋轢を生んだり、折り合いをつけられなかったり、 理解できない納得できないとどうしようもなく苦しむことも。それは望ましくありません。 * 人が宗教へと傾倒することのある理由は、正義欲と言う本能に働きかけるからです。 宗教に限らず何かを信奉し尽くす言動をする、依存するような状態の根本は 「正しいことをしたい」という本能からくるものであり、 宗教とはその本能を導くために作られ存在しているのですから。 特に「正しいことをできていない」という不安感、不満感を抱えている人ほど、 「正しさ」を掲示された時、それに強く依存する危険性を抱えていると言えます。 それは"超常的な現象が実在するかどうか"とは関係なく、そうだと考えられるものです。 */727-冒頭ちょっと編集したい/ さて社会が発展するにつれ、社会の基本的なシステムと宗教とが距離を起きます。 それは大きく2つの理由が考えられます。 原始的な宗教は歴史が古く、たいていその教えも古いものです。 社会や時代の変化には対応しにくく、より社会に合わせたルールを決めるには ほとんどの場合宗教の教義とは別の、「立法」といった手段をとる必要があります。 王政なら「宗教の権威を受けて統治をおこなう」といった形で、 民主的な政治では「人々の合意を経て統治をする」といった形で、 時代に合わせた方式でルール作りをしてきたのだと言えます。 さらに社会が豊かになると様々な人々が共存できるようになり、 宗教よりも社会の経済活動を優先するため社会との折り合いをつける必要がありました。 そうした流れなどから一般的な教育機関からも基本として距離を置くようになります。 もちろん"科学による歴史の解明"と"宗教のおとぎ話"との乖離も理由の一つでしょう。 そう言ったことを含めて宗教は社会と折り合いをつけなければならなくなりました。 * しかし宗教と距離を置くことによってある問題が一般的となっていきます。 それは「正しいものは何かをろくに教わらないまま育つ」という問題。 宗教が主だった社会でもその教えを信じられない人も同じような問題を持ちますが、 現代では「そもそも教えられていない」ために"正しいもの"が分からないのです。 見守られている間はあまり表面化しませんが、特に道徳的な教育が不十分である場合 自立を求められる段階になるとどうすればいいか悩みがちになります。 その場に合わせて臨機応変に対応できる、と表現すればいいようにも思えますが、 実際には「その場その場で都合のいいような正しさを見繕う」というものだったり、 あるいは「自分で決めることができず、他人に依存する」という場合もあります。 その状態の問題は、そうした正しさには「望ましい結果を生んだ実績が無い」こと、 つまり「良い考えだという保証がない」、酷いと「悪い結果を生む」ことさえある。 悪いと「よくない方向性の宗教的な団体」へ傾倒してしまう、と言う場合もあります。 正しいことが何かわからない、よく考えたことも無いという人にとって、 「正しいことを明示し、受け入れてもくれる存在」はもはや薬物に匹敵する快楽です。 それは明確な宗教団体へ所属する場合に限らず、よくない方向性の活動に触発され、 よくない方向性の"正しさ"へ尽くすような言動に走ってしまう場合も当然あります。 * 人間はみんな、正しいことをしたいと願っている。 それはみんなのためという建前のもと、自身の欲望を、正義の欲望を満たしたいだけ。 その正しいことを見誤れば、反社会的な行為さえ使命的にやってしまう。 "正しいと思える行為"はとても心地よく、それができないことはとても不愉快なもの。 そのように人間はできているのだと考えられる。 その性質と向き合った手段の"一つ"が、宗教と言う教育装置なのだと言えます。 宗教は例えオカルティックな現象が無いとしても社会的にはとても大きなものなのです。 * 適切に管理された道徳の教育が無く、あるいは何かしらの哲学さえも無い場合、 たいていの場合"その場しのぎの正義"に傾倒してしまいがちです。 臨機応変と言えば聞こえはいいですが、時には法律や道徳さえ無視します。 それこそ「反社会的な環境下では簡単に反社会的にもなる」という性質で、 しかし正しいと思っていると"自分が反社会的だ"という自覚さえ無いこともしばしばです。 それにそうした短絡的な正しさでは、論理性も必須ではありません。 苦しい論理で矛盾を起こす主張をすることさえあります。 酷い場合は周囲を巻き込んで負の状況を作り出し、当人も苦しい状態へと追い込みます。 だからこそ道徳の教育、善悪の教育は大切なのです。 */797-途中ちょっと削りたい/ さて、長くなってしまったのでこの辺りで区切らせていただきます。 次回は正義欲求説と学習に関する話をしたいと思います。 それではご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////// *序5「正義欲求説 感覚の学習と教育」〆投稿済み 私はフィロ・ディール。君は食べてもいい人類? 第五回です。初回から見ていただかないと話が分かりませんので、 興味のある方で見ていない方は初回からどうぞ。 第五回は「正義欲求説」と学習についてのお話です。 前回は宗教を主軸として話しましたが今回はもう少し直接的な話になります。 ちなみにいつも言っていますが私の話は話半分でどうぞ。 * 正義欲求説では食欲でも性欲でも睡眠欲でもない行為に対するほぼ全ての衝動や欲望を、 「正義欲」だと位置付けています。 また注意しておきたい点として正義の感覚はたいてい単純な一元的なものではありません。 その立場や状況に合わせた感覚で、時に平等や公平を求めることはあっても その人が常に平等や公平を重んじるとは限りません。 主張が非論理的だったり矛盾していたり、いわゆるダブルスタンダードとなることも。 なお一度身についた、"成形された"正義の感覚は簡単には変わりません。 態度を変えたとしてもそれは「正義の感覚からその場に合わせた」だけなことが多く 一度形作られた感覚の根本的な部分はそうそう変わるものではありません。 * 正義欲求は子供のころから働いている機能です。 好奇心から周囲を見て、自分の感覚を感じながら様々な状況を覚えていき、 そこから良いことや悪いこともある程度覚えていきます。 周囲の人々を観察し、真似したりすることでコミュニケーションをとろうとします。 扱える情報が多くなってくると推定する幅が広がり、表現もまた広がります。 そうして試していく内に「悪い状況になること」は悪いことだと認識したり、 「良い状況になること」は良いことだと認識したりするようになります。 もちろん自分のことに限らず周囲のこともよく見て、細かく覚えていきます。 人間は他の動物に比べて、幼少から覚えるべきことが非常に複雑です。 家での暮らし方、他の場所での暮らし方、食事の仕方、その他生活の所作、 それぞれのルールを覚える事、また言語を覚えていく事も必要です。 なお子供も感覚を覚えてくると、"自身の感覚"も大事にします。 好奇心を持って自身がかっこいいと思ったもの、かわいいと思ったもの、 すごいと思ったものにはよく反応し、それらを求めたりします。 またルールに対しても従順とは限らず、受け入れがたいものは拒絶します。 大人から見れば身勝手に、わがままに振舞うこともありますが、 子どもにとっては生存に必要だと思うものを守るためで、死活問題くらいの感覚です。 * 育てる側は大きく二つの指導を使い分けながらルールを習得させていきます。 「褒めること」と「叱ること」 褒められることで良いことの傾向を知り、叱られると悪いことの傾向を覚えます。 なお「褒めること」というのは単に言葉で褒めることに限らず、 その行動を称えて報酬を与えることも含みます。 また一つ注意しておきたいですが、 「叱ること」において"感情に任せて怒鳴りつけること"などは望ましくありません。 良くない事である、正しくない事だとハッキリと伝え、"たしなめること"が基本です。 怒鳴りつけて危害を加えると言うのは強烈な印象を与えますが、それでは 同時に「良くないことには喚いて攻撃することが正しい」と教育してしまいます。 我慢ならないことに対して同じように振舞う危険性が高まる、と考えられます。 それも抑える脅威があるうちは顕在化しにくく、抑えが無くなってから噴出することも。 * なお教育は信用、信頼が非常に重要です。それは肉親であっても同じでしょう。 教育の仕方が悪くて子供などが教育する親や大人たちを信用できなくなる、 つまり"この人の言うことは信じる必要が無い"と感じるとその教育に支障が出ます。 普通の人が悪いと思う人間から学ぶことを避けるように、 例え親であろうと"都合の悪い人間だから学ぶ必要が無い"となるわけです。 いわゆる一般的な"不良"と呼ばれる子供は、おそらくその状態にあると考えられます。 そして「正しいことは何かを信用できる人から教わることができなかったから、 自分の感覚頼りに手探りで何が正しいのかを探っている状態」が、 いわゆる不良だろう、と考えられるわけです。 * 「叱ること」だけでなく、「褒めること」は人間にとって非常に重要な要素です。 人間社会での生活環境はとても複雑にできています。 自然の中であればやること、できることは限定されやすく またその多くは生存活動に直結するもので、それが価値観の基準となります。 しかし文明社会の中ではその豊かさに応じてやること、できることが多くなり、 求められるものが単純に生存活動に直結するものばかりではなかったり、 あるいは生存活動につながるが複雑でよく考えなければならないものであったり。 しかも人間社会における「良いこと」について 誰もが自分で一から全て考えられるほど頭が良いわけでもありません。 ですが社会でやらなければならないことは継承しなければ人間社会を維持できません。 そこで人間は「褒めること」によって価値観を教育または共有することで、 人々へ、次世代へも「良いこと」がなんであるのかを示して促し、 文明社会において必要なものなどを継承してきたのだと考えられます。 人間は"好意的に感じられる形"で褒められたり報酬を得ると、 「自分の正当性」を肯定された感覚が得られ、正義欲が満たされます。 そして、"それをさらにしよう"という正義欲の衝動が沸き起こりやすくなります。 正義欲の感覚に適うものを「褒めること」で、他者へ正義欲の感覚を共有し、 世代も跨いで継承させ、時には発展させてきたと考えられるわけです。 */録音区切り/ 正義欲求は個人の欲望ですが「他人に認められること」も重要な要素です。 正義欲求は「主に集団の秩序を守るための本能」で 集団へ貢献する行動傾向を獲得するための性質も持っています。 そのため「他者に認められること」は正義欲にとって非常に大きな出来事で、 人は好意的に感じられる形で認められると本能的に快感、幸福感を得ます。 それが「自分が正しいことをしている」ことを快感に思う正義欲の基本的な性質です。 なのでいわゆる承認欲求は正義欲求の一側面だと言い換えることもできるでしょう。 誰かからの承認によって「自分の正当性」を確認し、欲求を満たすわけです。 また誰からも認めらえない上に自分自身を認めることもできない状態では、 「自分の正当性」に不信感を抱き、不満や不安を持つようになっていると考えられ、 それはまさしく「承認欲求が満たされない状態」と同一なものだと言えるでしょう。 * つまり、いわゆる承認欲求そのものは正義欲の一側面であり、 「社会へ貢献する傾向を生み出すための本能からの欲求」であり、 社会にとって必要なものと言えるような欲求です。 しかし承認を求める行動も「その人の正義の感覚に従った行為」であるため、 いわゆる承認欲求がよくない形で出てしまうこともあります。 実力だけでなく倫理観や思慮に欠けていると、中身が伴わず まるで「承認されること自体が目的」であるかのように振舞ってしまいます。 例えば、短絡的に思いついただけで思慮も思いやりも無い「いいかげんな正しさ」や あるいは反社会的な人に用意された「まやかしの正しさ」を信じたりして振り回し 迷惑な行動や反社会的な行動によって承認を求めようとしてしまうこと。 あるいは「素晴らしい人物であるように見せかけること」が正しいと誤解して、 他人の成果を流用したり嘘をついたりして自身を過剰なほど誇大に見せて 他人を騙す形で承認させようとしてしまう状態もあります。 思慮に乏しいまま、いわゆる承認欲求の衝動に身を任せてしまうと 時には社会を混乱させる言動をしてしまうこともあるのです。 * ちなみに人間の行動全てに「他人から認められること」が不可欠なわけではありません。 「自分自身が自分の正当性を認め信じることができる」という状態では、 他人からの評価はあるなら嬉しい程度のおまけのようなものになります。 とは言えその自信を持つためにはたいてい誰かから認めてもらう事が必要ではありますが、 予め何かから認めてもらうなどした経験から強く自信を持った状態であれば、 他者に認められなくともそれほど強い不満感を持つこともありません。 正しいという確証があれば、自分自身もそれを本心から認めることができますから。 やや特殊な例として上げておくと自己評価が低い場合 「他人から認められること」がストレスになることさえあります。 つまり「これは社会での正当性に欠けているから、社会から認められてはいけない。 認められることこそ間違いだ。その行為は失敗だ。」というように感じてしまうのです。 …私はややその性質を抱えている、という自覚があります。 * 正義欲を「人間はみんな、正しいことをしたいと願っている」と表現していますが、 その本質はいわゆる性善説的なものではなく、 むしろいわゆる性悪説的なものに近しいと言えます。 いわゆる性善説とは、人は生来善い行いをするように生まれてきて 環境から悪い影響を受けると悪行に走ってしまうことがあるといった考え方。 いわゆる性悪説とは、人は生来悪い行い"も"するように生まれてきて、 教育指導することで善い行いも進んでできるようになるというような考え方。 正しいことをしたいと願っているのなら善い行いをするよう生まれてきたのだから 正義欲求説はいわゆる性善説に近しいのではと思ってしまうかもしれません。 しかし正義欲求の根本はあくまでも欲望であり、その性質は「環境への適応」です。 人間は「社会的に正しいことは何か」としっかり教え信じさせるよう教育しなければ、 社会的に正しいことを行えないものであり、つまりいわゆる性悪説に近しいのです。 とは言え「元々正しいことへ目を向ける性質を備えている」という意味では いわゆる性善説に近しいとも言えますので厳密にはどちらでもないものです。 * それではこの辺りで区切らせていただきます。 次回の予定は「社会的な正義」についてのお話をできたらと思います。 ご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////// *序6「正義欲求説 社会的な正義と善悪の観念」〆 私はフィロ・ディール。あなたはアイス? それとも人類? お話の第六回です。第一回から前回までの知識が必要なので見ていない方は一からどうぞ 今回は正義欲求説と「社会的な正義」との話をしようと思います。 宗教や学習の話で少し触れたことの詳細と発展形になります。 いつも通り話半分でどうぞ。 * まず正義欲求説についておさらいをしておきます。 「人間はみんな、正しいことをしたいと願っている」 その本能によって人間も社会を安定させることができていると考えます。 けれども、それは個人の感覚で「正しいと思ったこと」でしかなく 時には正義感から社会を乱してしまうことさえありえます。 また、正しいことは予め決まっているものではありません。 現実世界に絶対的な善悪というものが存在するとは言えず、 人の感じる善悪はあくまでも人が決めて、人が判断していることにすぎません。 ですから皆が最初から、その正しいことを知っているわけでもありません。 人間社会にとって正義感は必要なものですが、 「自分勝手に正義感を振り回されていると困る」というジレンマを抱えています。 そこで人々は様々な手段で「正しいこと」を決めて広く教育することで、 自分勝手な正義感を振り回す人が表れにくいよう誘導してきました。 そこで「社会的に決められた正しいこと」こそ「社会的な正義」と言えるものです。 * 「社会的な正義」は、個人の正義感とは別のものですが、 人々が交流し「個人の正義感」同士で価値観を共有し決めるのが「社会的な正義」です。 個人の正義感から生まれるものですが、社会的には反対で 社会的な正義をもとに、個人の正義感を育ませ合わせるべきであるとされます。 人が決めるものだからと好き勝手に個人の正義感を振り回していいわけではありません。 また個人の正義感と同様に、社会的な正義にも絶対的な基準があるわけではなく 時代、地域、状況によって変化していくその時々の、あくまでも暫定的なものです。 社会においては非常に重要なものとされますがその実態は「みんなの正義感の妥協点」。 また理想として合理性や配慮もあったほうが、より社会を安定させやすいと言えますが、 実際には人々の考え方が偏っていると必ずしも十分な合理や配慮があるとは限りません。 「社会的な正義」の根本的な目的とは、おおむね社会を安定させることであり、 その上で理想的には社会を繁栄させていくことにありますが、 あくまで人々が形成させていくものであるため失敗することもあります。 * 「社会的な正義」とは社会における模範的な正義の感覚を示すものですが、 人々は「正義」という概念に対して理想やあるいは不満を押し付けがちです。 「絶対的に正しく、素晴らしいものでなければならない」という理想を求める人もいれば 「誰かが勝手に決めた迷惑なもの」と不満を感じる人もいます。 もはや「形骸化してしまう無意味なもの」と諦めている人もいるでしょう。 そういった認識の違いもまた社会における不安定な要素として働いています。 もともと不満を感じて否定的である"いわゆる反社会的な人"に限らず、 "理想を求める人"も安易な妥協を認めたがらず社会的な正義を否定することもあります。 しかも実際の所「社会的な正義」が本当に正当なものであるかどうか つまり「本当に正しいものであるかどうか」は証明も保証もできません。 時代が変われば「新しい社会的な正義」が「古い正義」を否定することはよくあります。 かといって個人個人で感覚の異なる人々の正義感を統一することは現実不可能なため 絶対的な正義は存在できません。ですから絶対不変の社会的な正義は作れません。 現実として人々は「社会的な正義」がより社会にとって有効なものであるように、 常に「社会的な正義とはどうあるべきか」を考え続けなければならないのです。 そして個人個人はそんな不安定な正義と自分の正義感とをうまく折り合いを付けながら 社会的には、人々は社会を安定させるために生きていく事が求められるわけです。 *水 創作された物語では「世界を作った者」が明確に存在するため、 正義や悪といったものが明確に存在することが当然としてあります。 「世界の法則を決める存在」が人間的な意思をもって存在しているため、 その世界における善悪が上位の人間的な意思によって予め設定されているわけです。 一応大抵は「社会的な正義」を基本として構築され、 その正義に反する存在を「悪」と定義して扱っています。 しかし現実において、正義欲求説において純然たる「悪」というものは存在しません。 人間はみんな、正しいことをしたいと願っている。 例え「悪いことをしなければいけない」と思ったとしても、 当人は「それがやるべきこと」だと、「正しいこと」のように認識しているだけ。 そもそも「悪」もまた相対的な基準によって決められるものであり、 主に「不都合な相手への蔑称」として悪という表現を使っているだけと言えます。 一般的な悪の定義もおおむね「一般的な社会において不都合なもの」でしかありません。 「悪」と呼ばれるものは常に「何かにとって悪いもの」なので、 つまり相対的でない、絶対的な悪というものは存在しないと考えられるわけです。 * 例えば「お前は悪だ」といった表現も、そうした定義で考えた上で精確に表現するなら 「お前は俺か社会にとって都合の悪い存在だ」と言いかえることができます。 創作などにおいては「悪の組織」というものが出てくることもありますが、 それも詳細に表現するなら「反社会的な傾向や目的をもった組織」です。 そうなると「悪魔」という表現もその意味するところは 「神か人間社会にとって都合の悪い存在」です。 身も蓋もない表現といえばそうですが、現実は「この逆」でもあります。 つまり「お前は俺にとって都合が悪い」から「お前は悪だ」。 「反社会的な組織」なので「悪の集団」。 「都合が悪い存在」だから「悪魔」なのです。 それが本当はなんであるか、実際はどういうものかなどは関係ありません。 人は都合の悪い相手に対して「邪悪」というレッテルを用いるのです。 もっと言えば「都合が良いもの」には、人は特別邪悪であるとも思いません。 社会に対して邪悪であると理解しても、 当人にとって都合がいいのならその人にとっては邪悪ではないのです。 * しかし社会的な正義を決める上で物事を冷静に見ることは非常に重要です。 感情や勢いに流されてしまうと人間の正義感は簡単に非人道的行為さえやってのけます。 話し合いによって社会的な正義を決める場に、自覚無自覚問わず 不合理な個人の正義を押し通そうとする人間は珍しくありません。 特に明快で印象的な「正義」は人々の賛同を集めることもあり、 不合理な正義でさえ社会的な正義へ食い込んでくることもあるのです。 最悪の場合、社会的な正義はその本来の目的、 「社会の安定」とは異なる方向性に走ってしまうこともある。 時にはその正義によって社会が不安定へと導かれてしまうことさえありえます。 だから「社会的な正義」には理想として合理や配慮があるべきだと思うのです。 それが理想でしかないということも理解していますが。 * 社会的な正義の話をしましたので、正義欲求説における生物の話を補足します。 よく考えることができれば、社会的な正義と個人の正義感は別物であることや、 理想的な正義は妄想の正義でしかなく、また絶対的な悪も存在しない、 そう言ったことに思い至ることができるはずだと私は思っています。 しかし現実としてそうではない。多くの人が社会の正義と個人の正義をまぜこぜにし、 時には荒唐無稽な理想の正義を掲げたり、自分に都合の悪いものまで悪と断ずる。 そうしたことも結局は正義感が理性ではなく本能によるものだからです。 動物は出来事に対して一から十まで考えていては判断や行動が遅れます。 天敵となる動物から逃げる際は初動が遅れれば遅れるほど生存率は低下します。 動物が自然環境で生存するためには行動の早さ、即ち判断の速さが必要となります。 人間や動物が「感情」のようなシステムを身につけた最大の理由はおそらく、 状況を大雑把に認識した時点で判断することで、判断や行動を早くするためでしょう。 もちろん脳で詳細に考え計算する能力を備えることが難しいところもあるでしょうが。 その大雑把な認識から判断してしまう性質は、正義感の感覚も同様です。 *カット部分 人間の正義感の感覚は、物事を単純化して反応する傾向を持ちます。 都合の悪い相手を「悪」や「敵」として警戒したり、 都合の良い相手を「仲間」として同調したり、 あるいは凄いと思う相手をあがめて信奉したり、 それらはよく考えることも無く、感覚的に行います。 それらの感覚はかなり強固で、多くの人はその感覚自体へ疑問を持つことはありません。 むしろこうして「正義の感覚とは何か」を考える方が生物としては異様とさえ言えます。 現実として「よく考えれば分かると思う」と思えても、 非言語的な正義感の初動的な感覚を抑えて考えることは人にとっても至難であり、 多くの人々にとってそれらをよく考えるなんてことはあまりに難しいのだと。 この辺りは諦観も含まれていますが、全ての人類が 厳密な理知によって考えられるわけではないのだと理解しています。 * さて長くなってしまったので続きは次回に回そうと思います。 次回はこの「正義欲求説における哲学の困難性」です。 ご聴講ありがとうございました。 /////////////////////////////////////////////////////////////////////*** *序7「正義欲求説 哲学の困難性」 私の名前はフィロ・ディール。あなたは人類? お話の第七回。一から前回までの知識が必要ですので見てない方は一からどうぞ。 今回は「正義欲求説における哲学の困難性」です。 そして、私自身についての話も例としてあげます。 今回も話半分でどうぞ。 * 人間はみんな、正しいことをしたいと願っている。 それは物事を考えようとする際も同様であり、 人はほとんど「自分あるいは自分の感覚が正しいこと」を前提として考えてしまいます。 哲学的なことを考えようとしても同じような傾向があり、慣れない人が考えても 「自分の存在の正当性」を語るばかりになってしまうことがよくあります。 人間は正義欲求により正しいことを感覚的に、無意識的にも求めるため 通常「自分を貶めるような考え方」をしにくいのです。 そのためあたかも「世界の真理」について語っているようであっても、 その中身は「自分がいかに正しいのか」を語っているだけなこともあります。 基本的な感覚が「自分は正しい」と言いがちなわけで、 よほど哲学や、あるいは論理的な思考に長けている人でもなければ それらを分離することは難しいのです。 いわばそれこそが「哲学の困難さ」です。 * 私が正しいという保証はどこにもありません。 私の正しさを保証するような権威、私には高い学歴も優れた経歴もありません。 誰かに私が正しいと太鼓判を押してくれたわけではありません。 //少なくとも原稿を執筆している時点では。 しかし私はだからこそこのような考え方ができるようになったと思っています。 つまり「自分が正しいと主張する必要が無い環境にいた」からこそ、 正しいという感覚がなんであるのかをゆっくり分析することができたのだと。 自分の正しさを主張しなければ、そこに自信を持たなければ、普通辛いものです。 と言うより、私自身辛い時期がありました。 * 私の生い立ちについてはあまり詳しくは話すべきではないと思いますが、 一つ、やや踏み込んだことを言っておくべきだと思うことがあります。 私は義務教育の期間をまっとうしていません。公的には中卒ですが。 ただ私はその頃から哲学について考え続けていました。 私は生来、正義感が非常に強い人間です。ですから"正しいもの"を強く求めていました。 しかし社会から落伍したことにより、自分自身の正当性にまで疑問を持ちます。 合理的に考えるなら「私はいるべきではないのではないか」とさえ考えたものです。 ですが幸い私は恵まれた環境にいて、それを壊すことまで正しいとは思いませんでした。 自分の死を考えられるほど自己を疑い、しかし自分の死そのものも疑い拒絶したのです。 拒絶した直接的な要因は単なる正義欲だと思いますが。 私の哲学はそうした「疑い」に由来するものです。 そうした生い立ちから私は常にと言えるほどではありませんが頻繁に「疑い」を持ち、 自分の考えでさえも疑い、必要なら修正をし続けるということをしてきました。 //この原稿を書いている時も、これでいいのか考えながら適時書き直している。 そして私ができる範囲で疑いに疑い続けて、修正に修正を重ねていくと、 やがて「疑っても私には論理的な否定ができないもの」が出てきます。 それをさらに追及していく事で形成されたものの一つが「正義欲求説」なのです。 * ただ厳密に言うと、私も当初は「自分の正当性」のための論理を積み重ねていました。 それを知らない誰かに「浅い」と言われ、感情に任せて反論したこともあります。 単純に若かった、という面もあるでしょうが 私でも最初から、今の私が言う「哲学」をできていたわけではないのです。 その後強い劣等感に苛まれ、疑いを強く持ち、哲学的に成長していったわけですが。 そこから私を含め「なぜ自身の正当化をしてしまうのか」を分析していき、 様々な物事からも考えた結果「人間は基本、感覚に従って生きている」と見えてきて 「それが本能だから」とすることが最も否定しにくい理屈であると発見したわけです。 * 私がもし「暫定的にでも答えを用意しなければならない立場」であったら、 私は中途半端な考え方を答えとして用意し、もし反論があればそれに対抗し、 自己の正当性を守ろうとしたかもしれません。 そうなれば「人間は自己を正当化させるような論理に傾倒しがち」という論理を 好ましく思わず、正義欲求説についてしっかり考えることもなかったかもしれません。 私はそこまで物分かりの良い人間ではありませんから。 そういう意味では、私は私の生い立ちを経なければ、 今の思考と思想を得ることはできなかっただろうと思っています。 バタフライエフェクトを想定するならそれはもはや確信と言っていいです。 * 私は私自身を肯定する必要が無い環境にあったからこそ、私の哲学はこのように育ったと だから私自身の正当化のためではなく、真理の探求に目を向けることができたと。 なら私以外の人に私と同じような考え方ができるだろうか、それを考えてみれば、 世の中の自己の正当化に必死な人々を見てしまえばそれは難しいと感じます。 世の中には文章の意図を精確に読み取れないくらいの人が珍しくなくいます。 それは「国語テスト」で全員が満点ではなく、差が出てしまうことから分かることです。 物事をただ説明したとしてもそれを理解できるとは限りません。 もっと言えば非論理的な感覚で神秘的な物を信仰する人が当然としているように、 人間は全ての物事を論理的に解釈しているわけではないとも分かります。 「よく考えれば分かること」でも、精神論ではなくもはや「物理的な限界として」、 頭脳がおいつかず理解することができない人はいるだろうとさえ思えてしまうのです。 さらに判断を左右させてしまう「正義欲求」という感覚があるとすれば、 哲学の考えを習得することはあまりにも難しいことなのだと言わざるをえないのです。 あるいは不可能ではないかもしれませんが、決して容易とは言い難いことです。 * ただ、私が専門家などではない、というのもまぎれもない事実です。 哲学者を自由に名乗れるのだとすれば哲学者かもしれませんが、 特別な学校などを出たわけでも誰かに師事したわけでもありません。 話の最初に毎回毎回「話半分で」と言っているのは 私の考えはあくまでも「私が考えているだけのこと」だからであり、 社会的な権威、社会的な正当性を持っていないからです。 また第二回の最後に言っていますが、 私の目的は私の考え方を広めることではなく、 考えている人たちへ、アイディアとして提供すること。 その理由は社会的な正当性が無い点も大きいですが 一番の理由は哲学的な問題で、私の哲学は表面的に再現してもダメだからです。 言った通り私の哲学の根幹は「疑う事」であり、とにかく考え続けることにあります。 考えた事さえもしっかりと見直して同じことを何度も何度も考えていき、 適時書き直したり必要とあらば大きく書き直したり、ダメならボツにさえします。 * お話の初回に言った通り、私が言う「哲学」とは、 様々な哲学書を読んだうえでそれを繰り返すことではなく、 その哲学がどのようなものか考える行為そのものが「哲学」だと考えています。 そういう意味で、哲学者の使命は考えて哲学的な答えを示すことではなく、 自身が考えた哲学的な答えを「人にも考えさせる事」ではないかとも思うのです。 しかしながら人は安易に信じてしまうものです。 論理的に考えずとも分かった気になってしまえるものです。 人間は簡単に「考えているつもり」になってしまうのです。 人に哲学をさせるということはあまりにも難しく、 元々考えることに執着するような哲学的な素質を持った人でもなければ至難です。 そしてその素質を持っている人でさえ、考えることを考えられるとも限りません。 * かと言って、そもそも哲学は生きていくのに不可欠なものとも言えません。 無くても幸せに生きていけることもあるし、あるだけで幸せになるものでもありません。 「持っているだけで幸せになると言われる石」の方がまだ効果的とさえ思います。 ブッダよりネコ。 悩むような高尚な考えより、考えずに愛でることのできる存在の方が 人の精神を安定させやすくより直接的に人を幸せにすることもできます。 * ただ哲学の困難性が事実としても、こう示してしまうのはあまり感触がよくありません。 どうにも「それができる私は凄い」と言っているようにさえ見えてしまうからです。 そう見えてしまう点については、正直私自身があまりいい気分ではありません。 確かに哲学的な思考においてある程度の自負はあります。 これだけ考えて、考えて考え抜いて作り上げた理論ですから自分なりの価値は感じます。 しかし「それが社会的に凄いものであるか」という点については、私は否定的です。 「話半分に」と繰り返している通り、私の考えはあくまで私の考えでしかありません。 私自身が学歴経歴など社会的な権威を特別背負っているわけでもありません。 自分を卑下しすぎるのもどうかとも思いますが、社会的な権威を持たない点は事実です。 ただし社会的な権威が無いからと言って、この論理を一切信用しないという考え方は とてもとても「正義欲求説の通りの、本能に従った言動」です。 それすらも正義欲求説の想定内、あるいは「正義欲求説を証明に使える言動」です。 * それではそろそろ区切らせていただきます。次回は「正義欲求による認知」の話です。 ご聴講ありがとうございました。 /////////////////////////////////////////// *序8 こんにちわ、私はフィロ・ディール。あなたは愛してもいい人類? 第八回です。お話の内容は第一回から前回までの内容が前提なので 見ていない方は第一回から前回までの内容を見た上でご覧ください。 第八回は「正義欲求による認知」についていくつかお話します。 ただいつも言っていますが、私の話は話半分でどうぞ。 * まず前提として人間の認識、人の脳にとって 「論理的な証拠のある情報」も「神秘的で素敵なだけの情報」も、 特別な違いの無い「情報A」と「情報B」でしかないものです。 「A」でも「B」でも信じるかどうかはその人の感覚次第です。 つまりその人がどう育ち、どんな経験や知識で、 どのような正義の感覚を持っているかに左右されます。 例えば「よくわからないAと、なんとなく凄いと思えるB」と判断した場合、 Aは信用ならない情報、Bこそ信用できる情報だと認識することもあります。 人によってはどちらも信用したり、どちらも信用しないということもあるでしょう。 情報の中身とは無関係に「信用できる人が言ったから信じる」というパターンもあります。 そして特に重要な点として、人間にとって致命的な点として、 「論理的な考え方を信じるためには、論理的に考えることもできるだけの頭脳を持ち、 なおかつ論理的な考え方を信じられるような育ち方をしていなければならない」という所。 「情報A」を優先的に信じるためには、「理解できる能力」に加えて 「信じることができること」が必要になるわけです。 理解できる能力があったとしても、理解を示す心構えが無ければ信用できません。 また信じることができることだけで、論理への理解が追いついていないと、 今度は「論理的に見えて非論理的な情報」を信じてしまうこともあります。 あるいは「情報の根拠をしっかり確認すること」が重要だと認識していなければ、 「論理的に作られているが実際は無根拠な情報」を信用してしまうこともあります。 * 例えば私の話は「論理的に見えるかもしれないが実際は無根拠な情報」に分類できます。 この話は科学的な研究結果ではありませんので 安易に信用することはあまり望ましくない情報に分類できるでしょう。 いつも話半分でと言っていますが、実際は半分疑うどころではありません。 もし私のことや、私の考え方を好意的に見ている方がいるとすれば、 「内容のことはよく分からないけど信じられる」という状態にある可能性もあります。 私の言っていることを理解した上で信じる人もいるかもしれませんが。 反対に私のことを信用していない人にとっては、例えお話の全部を聞いても 「おまえのことは信用できないから、その内容も信用できない」という状態になるかも。 ただそもそも私のことを好意的に見ていないなら全部聞くこと自体がないでしょうが。 ただ一つ言っておくと正義欲求説は「理想の話」ではありません。 私から見ただけのという注意は必要ですが「客観的な視点から事実に見えるもの」です。 誰がどう思おうとも「こう見える、こう見ることができる」という事実は変わりません。 それが正しいかは別として。 * ともかく経験からの正義の感覚によって信じる信じないが変わってしまうわけです。 正義欲という本能からくる感覚ですので、もしその判断を変えさせるためには その正義の感覚に合わせた説得が出来なければいけません。 正義の感覚そのものを変化させるためには、 何かとてつもなくインパクトのある印象的な出来事か、 あるいは粘り強い洗脳のような説得でもできなければ難しいものです。 例えば何が問題を起こしたとして、それを咎められて表面上反省をしたとしても、 本能の判断が変わらなければ、同様の問題を起こす可能性が当然として残ります。 * また正義の感覚は理性ではないため、物事を単純化して判断する性質があります。 「敵」と認識すれば警戒し、その言動を懐疑的に見て時には攻撃さえ考える。 「信頼できる相手」と認識すれば、その言動から学習しようとすることもあります。 これらの性質によって認知自体を歪ませてしまうことも起こります。 極端な例では「敵」と思えば「悪い奴だから言っていることは全部間違いだ」とさえ感じ、 「神」と思えば「偉い人だから言う事やる事は全部正しい」とさえ感じることがあります。 それは、例え言っていることの中身が全く同じものであったとしても、です。 その偏りを自覚することは極めて難しく、また修正することも中々難しいです。 例え「論理的に考えることができる」ような人でも起こり、 認識そのものが偏り歪んでしまっている状態から論理を組み立ててしまうことがあります。 酷い場合、因果関係が無いと言える物事同士を結び付けて考えてしまうこともあります。 偏り歪んだ状態の認知から、論理的に見て支離滅裂な言動を起こしてしまうわけです。 ただ生物として言えば、その認知方法は自然界ならとても合理的なものではあります。 一々考えるのではなく考える事を省略して判断できれば、反応や行動が早くなります。 特に危機的な状況では行動が遅れるほど逃げ遅れる危険性が高くなってしまいます。 その性質は持っていてもしかたのないものでもあり、反対に言えば 論理的に「持っていても不思議ではないもの」とも言い換えられます。 人間社会であっても咄嗟の判断が必要となる場合は効果的に働くこともあります。 危ない状態の人を守ったり助けたり、緊急事態では判断速度が明暗を分けます 問題になるのは、人間は極めて複雑な社会の中で多彩な情報を扱わなければならず、 そのせいで認知の偏り方、また偏り歪んだ状態による悪影響が大きすぎるからです。 * 正義の感覚から起こる認知の偏りの修正はかなり難しいものです。 まず自覚すること自体が難しく、自発的に確認し修正することができる人は、 哲学的な思考を持って自分の考え方を推敲、見直すことができる人くらいです。 かといって他人から指摘されても、それを認められるとは限りません。 「認知の偏りを持った当人の、正義の感覚に適うような指導方法」でなければ、 その指摘を受けいれることができず、意固地になってしまうこともあります。 例え「論理的に、認知の偏りを説明して教える」ということをしても 「論理や相手のことを信じられない」という感覚の人である場合、 論理の説得はその人から見て「訳の分からないことを言っている」くらいの認識です。 それに認知の偏りを論理的に自覚できたとしても、 好き嫌いといった感覚の問題が原因だと、根本的には修正しにくいものです。 * しかしながら、この「正義欲による偏り」は社会にとって非常に厄介です。 反社会的な方向性に利用されてしまうと、正義感のせいで社会が不安定になります。 典型例は"適当な「敵」を設定し人々の正義感を煽ること"で非常に効果的な扇動方法です。 人は「敵である」と認識すると相手のほぼ全てを否定するような感覚に偏りやすく、 人々は熱狂的あるいは妄信的、つまり無思慮に正義を叫ぶという状況を引き起こします。 渦中の人々は「正義を行使する」という快感に囚われて中々抜け出せません。 安易に説得しようとしても「正義を否定する者」だと感じ、それさえ敵だと認識します。 それが間違いだと気づく、正しくないと気づくまで持続し、気づかなければずっとです。 「正しいことをしているのだから間違っていない!間違いのはずがない!」 そういう認知によって時に人は反道徳的なこと、犯罪行為でさえやってのけます。 人は「正義感」から「残虐非道な行為」を行うことができます。人間はそういうものです。 正義感に執着してしまうと、そこにはもはやまともな理性も合理性も配慮もありません。 正義欲という本能によって冷静さを失ってしまっているわけですから、 犯罪など極端な行動に出ない場合でも、短絡的な判断や見当違いの判断は多くなります。 時には、後に当人さえ後悔するような言動をとってしまうことさえあります。 しかし失敗に後悔して反省できるのならまだ冷静な方で、 失敗さえも「敵」のせいだと考えてしまうことさえあります。 もし例え多少の違和感を覚えたとしても、正義の感覚に反したくないという不安感、 そうした強迫観念からどうしても止める難しい場合もあります。 * 社会的な正義は、人々が話し合い考えて、暫定的に決定していくものです。 また理想として合理性や配慮があった方がより社会を安定させやすくなります。 社会的な正義とされるものでも話し合いを止め配慮も合理も無く決められたものは、 強引で対立も生みやすく混乱をさせやすいものになってしまったり、 あるいは思慮不足による失敗によって社会へと甚大な負担を強いることもありえます。 特に熱狂的な正義感が人々の扇動に成功してしまうと、 社会の安定を損ないやすくなってしまうと言えるのです。 もちろん冷静な、配慮と合理も考慮した話し合いによる社会的な正義も 必ず失敗しないとは言い切れません。しかし冷静なら失敗にも精確な把握に努められます。 そして同じような失敗への対策も立てやすいでしょう。 冷静でないと、問題を問題として扱わずに放置して後に大きな失敗を招いたり、 大きな失敗に困惑し誰かへと責任を押し付けるだけで失敗の要因を精査できず、 同じような失敗に対する対策さえままならないといったことになりやすいのです。 * なお当然のことですが「単純化」による弊害は、熱狂的な方向性に限りません。典型例は 日常にある「不当な扱いをする差別」もまた単純化された正義感の弊害と言えます。 そもそも人間社会の「差別」とは、前提として「正常な社会」という感覚があって、 その「正常さ」から逸脱するものを「正さなければならない」という正義感にかられ、 指導するくらいのつもりで、冷遇したり攻撃したりしてしまうものとだ考えられます。 差別をしている当人にとってはその感覚や行為は「正しいこと」だと感じており、 時には例え社会から指導されたとしても「本当は正当なもの」だとさえ思います。 しかしその「正常さ」とは脳内で作られた「単純で当人に分かりやすい正しさ」です。 実際の社会はそんな単純なものではなく、社会的な正義というのも複雑なもので、 それを無視する短絡的な考えは反社会的になってしまいやすいとさえ言えるでしょう。 * それでは今回はこの辺りで区切らせていただきます。 次回は「正義欲求説と科学の価値」をお話しするつもりです。 ご聴講ありがとうございました。 /////////////////////////////////////////////////////////////////////// *序9 こんばんわ、私はフィロ・ディール。私は愛してもいい人類? 第九回です。お話の内容は1回から前回までの内容が前提なので、 見ていない方や忘れた方は1回から全て見た上でご覧ください。 第九回は「正義欲求説と科学の価値」をお話します。 ただし私の話はいつも通り、話半分でどうぞ。 * 科学、特に科学的手法の主な目的は二つ。 「検証可能な情報を作り出すこと」そして「検証した情報を共有すること」にあります。 既に科学的な検証もされて、情報が共有されているいるものについては、 実際に実験をしなくとも基本的な情報を知る事ができます。 複雑な情報でも一人一人が最初から検証を重ねていく必要が無いのです。 疑わしい場合は情報通りに実験をすれば、その精確性を確かめることができます。 「本当に実際の実験によって検証された適切な情報なのか」という問題もありますが、 それは社会的な正義と似たような方法によって、社会的な正しさを得ることができます。 つまり「人の立場や思想が入らないくらい多数の人によって検証される」ことで、 それはほぼ間違いないであろうという評価、社会的な正しさも獲得します。 人間社会は「知識の積み重ね」によって社会を発展させてていき、 そうした科学の考え方が浸透してからは情報が爆発的に増え始めます。 それらにより社会の多様性、文明の豊かさは飛躍的に向上し、 また科学技術の進歩は扱える情報を桁違いに増大させていきます。 * 「科学の考え方」の特長とは、基準から情報を共有することで 「誰から見たとしても同じように扱う事ができるようにする」という所です。 当たり前、のようでいて人間にとってそれは決して当たり前ではありません。 コップ半分の水を使った例えが典型的でしょう。 人間の感覚はあくまで個人個人から見た相対的なものでしかなく、 予め基準を用意しておかなければ捉え方を同じにすることはできません。 基準が異なっていれば、同じ情報を共有しても異なる解釈になってしまいます。 解釈が異なっていれば当然扱い方にも違いが出てしまい、互いにズレが生じます。 話も尺度も合わなくなってしまい、何かするにもちぐはぐになって困ります。 代表例は「単位」です。重さ、長さ、時間、あるいはその他多くの単位。 例えば重さの「1グラム」、その重さに違いがあった場合 1000グラム分として購入したのに自分の基準で100グラムしかなかったら足りません。 かといって1万グラム分購入したら自分の基準で10万グラムだったなんて多すぎます。 そこまで極端なことはそうそうないでしょうが明確な基準が使われていないと、 「勝手な基準を使ってものごとを動かす」なんてことが起きてしまいます。 1000グラムの水を持ってこいと言われて用意したのに、 勝手に「これじゃ800グラムだ、あと200出せ」などと言われては困ります。 そこで一定の規格の計量器を用意し、より確実に同じ基準で使われるようにすることで 適正に平等な取引も行えるようにするわけです。 * 様々な単位を用いることができるようになると、情報の共有はさらに進みます。 例えば設計図。科学とは少し離れますが科学の考え方の恩恵をうけた分野でしょう。 「考えた本人以外にも分かるような設計図」が用意できると利用範囲が広がります。 「どのように作るかという設計図」を用意することで、それを他の人へ共有、 提供することで円滑な協力や他者への発注が可能になるのです。 設計図の情報だけ渡すことができれば、一人一人に対して伝える必要も無いわけです。 ただ細かいものは作る人の経験と技術を使って調整していく必要もあるでしょうし、 設計図に残せない微妙なニュアンスは直接伝えなければ伝わらないものですが、 簡単なもの、単純なものであれば多くの人が作ることもできるでしょう。 この仕組みは工業化において桁違いの効果を発揮します。 特に設計図で細かいパーツを規格化し、流用できるようにすることで 細かいものさえより多くの人手を使えるようになり、生産性は桁違いに向上していきます。 そこからさらに科学は進んでいき、電子工学の技術が発達していくと 「コンピュータ」と呼ばれるものが研究、開発、量産され、一般化していきます。 それからなんやかんやの積み重ねがあって、我々のいるインターネットも生まれました。 * 基準の画一化と、それによる情報共有の精確性の向上、その他諸々、 そうした科学の発展によって人間社会の暮らしが多彩になっていったと言えます。 「豊か」と表現するのが適切かもしれませんが、とにかく選択肢は膨大に増えました。 また医療や住居の発展は人々の死亡率を下げたでしょう。 農業や輸送の発展は飢えを減らし、さらに死亡率を下げたでしょう。 現代におけるそれらの基礎は、全て科学技術によって支えられているものだと考えられ、 科学無しに、世界人口70億人は達しえないでしょうし支えることもできないでしょう。 また科学は文化の発展にも寄与し、そのおかげで私たちは様々な娯楽を享受できます。 科学は人々を幸福にしてきたとも言い換えられます。 人々にとって科学は重要で、必要とされる、大切なものなのだと言えるのです。 ここまで時間を割いた最大の理由は 「現代人間社会は科学によって保全・維持されているもので、人類の存続を考えるならば 社会的な正義として、科学を失うようなことはあってはならない」と言いたいためです。 もちろん、これ自体は私の考え方、私の主義主張に過ぎませんが。 * 現代の人間社会には科学が不可欠です。 まず社会の成り立ち、その発端は「群れの生存を確固とするため」だと言えます。 群れを作り、個体ごとに役割分担をして暮らしていくためのシステムが社会であり、 それは本能によって形成されるよう誘導された遺伝子的なものだとさえ考えられます。 人間社会もまた「人間の生存に適した環境を整備、維持していく事」が主な目的であり、 最低限その地域社会の人々が健康に暮らしていけるよう活動することが使命だと言えます。 少なくとも、破滅的な方向性を持つことは人間社会にとって脅威であり敵性だと考えます。 そして科学は人間社会にとって重要な道具です。 現代の人間社会は科学を基礎とした様々な技術によって成立し支えられており、 科学によってとても沢山の人々が暮らすことができているとさえ言えるでしょう。 現代の人間社会から科学が失われるということは人間社会を破滅させることに繋がり、 人間社会の崩壊はすなわち人類の存亡まで関わってくる重大な問題に繋がるでしょう。 科学を放棄するような主義は言ってしまえば、人類の生物としての本質にも背く、 偏った認識をもった正義感による反社会的な思想だとさえ言えるかもしれません。 いえ、社会を害するような思想であるならば反社会的だと言わざるをえません。 その思想は数えきれない人々を危険にさらすからです。 * 理想として、の話になっていしまいますが、 「社会的な正義として科学は社会に資するものだと認められること」が望ましいのです。 望ましいのですが、人々の正義欲とはわがままなもので認める人ばかりではありません。 何度も話してきましたが、人間の正義欲の感覚は個人の経験や知識に左右されます。 科学や論理を正しいと感じる人は、あくまでそう感じるよう育ったからであり、 それらが正しくないと感じるように育ってしまう人もいるのです。 科学がどれだけ人類に貢献してきたとしても、悪いものと感じてしまうことさえあります。 確かに、科学の全てが社会にとって良いものとは限りません。 科学自体はあくまでも道具であり、その使い方によって社会へと害するものともなります。 反社会的な人々が使えば、それは厄介なものになるのも確かです。 しかし人々の社会的な正義の上で、科学は社会の発展と維持にも貢献してきました。 科学の否定は即ち現代社会文明の否定と言っても過言ではないでしょう。 長年にわたって多くの人々が積み上げてきた文明に対する冒とくだとさえ思えます。 * ただ非科学を全て捨てろ、というわけでもありません。 人にとって科学で説明のしにくい神秘の存在はどうしても必要なものとも言えます。 科学者であっても、信仰をもっていると言う人は珍しくないでしょう。 その大きな理由として挙げられる、考えられるのは 「科学的に見て、絶対的な正義が証明されていない」ということ、 また「科学は非論理的に説得することに適さない」ということでしょう。 まず少なくとも現状の科学において 「世界そのものが示す価値」は確認されていないと言えます。 「人類に特別な目的があるのかどうか」を示す証拠も確認されてはいません。 同様に、人類が決めたものでない絶対的な正義も確認されているものとは言えません。 人間の解釈として、正義欲求説のように「人がそう決めた」とすることはできても、 人の解釈でも判断でもない絶対的な価値を科学的に立証することはできていません。 科学で分かるのはあくまで「世界がどういう仕組みなのか」でしかないです。 * 例えば「人は死んだ後どうなるのか」も、人の価値観を抜いて考えてしまうと その状態を見るだけでは「その個体が生物としての活動を停止する」としか分かりません。 あるいは「よく動く性質を持つ物質の集合体が動かなくなるだけ」とさえ言えるでしょう。 しかし「人間が」その感じ方を正しいと思えるのかどうかはまた別です。 特に親しい人が亡くなる、という事象はその人にとって甚大なる損失であり、 事実を事実として並べるだけでは受け入れることは、普通の人には難しいものです。 人間社会では世界中に「死者を弔う」という風習があります。 宗教でも大抵の場合、死後について特別な事象を想定しつつ死者を弔います。 そうやって、人々は人の死と折り合いをつけてきたのだろうと考えられます。 人の精神を安定させるためには、そうした方便もまた必要なのです。 * また科学の考え方とは、人間にとってあくまで選択肢の一つでしかないのも確かです。 信じるかどうかは結局、その人それぞれの正義感に左右されてしまいます。 例えそれが非論理的な空想であったとしても、そう考えられるわけです。 人は時として非科学的で、結果的に人が死ぬような判断さえしてしまうのですから、 社会的な正義として科学が蔑ろにされてしまうことは、人にとって危険でしょうが。 * 長くなってしまいましたので、この辺りで区切らせていただきます。 ご聴講ありがとうございました。 ///////////////////////////////////////////////////////////////// *序10 こんばんは、私はフィロ・ディール。私は愛したい。君は愛してもいい人類? 第十回です。お話の内容は1回から前回までの内容が前提ですので、 見ていない方や忘れた方は1回から全て見た上でどうぞ。 第十回は「正義欲求説と健康」について。 私の話はいつも通り、話半分でどうぞ。 * 正義欲は欲望の一種ですが、精神的なストレスと極めて密接な関係にあります。 正義欲がろくに満たされない状況はかなりストレスの強い状態だと言えますし、 正義欲が満たされている状況はストレスの軽い状態だと言えるでしょう。 むしろ一般的に言われる精神的なストレスそのものが、 正義欲の感覚によって左右されているといっても過言ではないかもしれません。 そして生物は長く強いストレスにさらされていると体調不良を起こしやすくなります。 そのためストレスの強い環境では適度にストレスを解消していくこと、 つまり正義欲を満たしていく事が必要になると言えるでしょう。 もしその正義欲の感覚が、全く環境に適していないという場合 ストレスを解消する方法をどうにか探したり、作り出したりしてしまいます。 その結果、奇行に走ってしまったり破滅的な行動をとってしまったり、 あるいは反社会的な行動をとることもあります。 個人の健康としても、社会の安定としても、何かしらの対策をとって 人の正義欲とうまく付き合っていく必要があるのです。 * 人は大なり小なり、ストレスにさらされながら生きています。 しかし日常に「正義欲を満たすもの」が用意されているとは限りません。 人それぞれ、なにかしらのストレス解消法を用意しておく必要もあるわけです。 そしてそのストレス解消法も反道徳的でなく、また健康的であることが理想的です。 非論理的、あるいは反社会的に他人を攻撃するような反道徳的なものや、 自らの体を壊すようなものによって解消されることは社会的に好ましくないでしょう。 人によっては迷惑行為によってストレス解消をしようとしたり、あるいは 自傷行為や暴飲暴食など、体へ負担をかける行為で解消しようとすることもあります。 ストレスがかかる度に周囲や自身へ負担をかけてしまうわけです。 そうした好ましくない方法以外でのストレス解消法は非常に大切なものだと言えます。 つまり人間にとって、人間社会にとって「真っ当な娯楽」とは非常に重要なのです。 必要なのは人に迷惑をかけるわけでなく、また自傷するわけでもない、普通の娯楽です。 場末の娯楽は社会に貢献しない、生産的でないなどと批難を受けることもありますが、 それが直接的に反道徳的でないのなら、それだけマシな方とさえ言えるかもしれません。 * ストレス解消できるのであれば娯楽は能動的でも、受動的でもかまいません。 何か見たり聞いたりといった芸術鑑賞や観戦など受動的な娯楽にも効果はありますが、 自ら動く、やるという能動的な娯楽にも当然としてそうした効果が期待できます。 もっとも代表的と言えるのは「ゲーム」でしょう。 基本的なゲームとは何かしらの目標、正しいことが用意されてそれをクリアするもので、 そのゲームに好意的であれば、それによって正義欲を充足させることができます。 いわゆる単なるテレビゲームに限らず、その人が楽しめるものならなんでもいいでしょう。 ただし娯楽全般の注意点としてうまくいかないという時はむしろストレスになります。 それは能動的な娯楽はもちろん、受動的な娯楽であっても同様です。 現代ではいろんな娯楽があるので適切な娯楽を見繕いましょう。 もしゲームを含めた娯楽によって正義欲を十分に満たすことができるのならば、 反社会的な迷惑行為に走ったり、あるいは自傷行為に走ったりすることもなく、 平和的に正義欲を解消することができるのです。 もちろん"安易にストレスを貯めてしまう"という人は 娯楽であろうがなかろうがストレスを貯めてしまうでしょうし、 あるいは日常生活に支障が出るレベルで執着してしまうこともよくありませんが…。 * 医学では「生活に支障がありながら、何かを止めることができない状態」を 「依存症」という他者が関与する治療の必要な状態として扱っています。 いわゆる依存症は「やめたいと頭で考えていたとしてもやめられない」ような状態です。 やめたいと考えていなければ、なおさらやめられないと考えられます。 正義欲求説において、依存症は「正義欲の感覚によるもの」と位置付けることができます。 つまり「本能的に正しいと言う感覚が生まれていて、それを求めてしまう」わけです。 それが悪いという感覚を併せ持っていなければ、止める必要性も一切感じませんし、 あるいは「悪い」という感覚を持っていても、本能的に求めてしまうことさえあります。 本能から求めるというのはもはや「食事や睡眠と同じくらい重要なもの」という状態です。 それこそ呼吸とさえ同一といっていいかもしれません。実際にそうでなくとも、 「自身の生存にはそれが不可欠である」というくらいの認識ではないかと考えられます。 例えば、いきなり今後一生睡眠をするな、食事をするな、呼吸をするななどと言われて はいそうですかと受け入れられる人はいないでしょうし、生物的にも無理です。 例えしたくなくてもしてしまうくらいで、依存症の状態はそれに近しいと言えます。 そんな状態になる理屈を正義欲から言えば、正義欲の極度の不満状態に対して 平穏を与え正義欲を満たしてくれるものが与えられれば、それに執着して当然です。 おいしいものを2度食べたいと思わない人は、おいしいものに飢えてない人だけです。 ちなみに医学的、社会的にはただ執着するだけで依存症と判断されるわけではありません。 基本的に「執着することで日常生活に支障が出ているけれどもやめられない状態」で、 日常生活や健康に支障の出ていない分には社会的に見ても問題が無いものと言えますし、 医学的にも「依存症」と認定されません。社会的には「支障があるから障害」なのです。 * ただ実の所「問題を起こす正義への依存行為」は一般的、医学的な依存症に限りません。 「何か特定の正義に執着し、それで周囲へと迷惑をかけてしまう」ことはよくあります。 典型例を上げてしまうのならカルトや特定の商法などなどです。 当人にとっては「それこそが絶対的な正義であり、それをすることが世界のため」 と言いそうなくらいに執着していることもあります。排他的になることも当然あります。 「わるいもの」に対して攻撃を行うといった行動は、ごく一般的な正義欲の行動です。 繰り返し言ってきましたが、その正義欲の感覚は個人の感覚でしかありません。 「人間はみんな、正しいことをしたいと願っている」けれども、 何が正しいのか全部分かっているわけでもありません。間違えることも当然あります。 しかしその間違えたまま行動を起こして問題になってしまうのです。 それはもはや非科学的、非論理的くらいなら可愛いものです。 時には「正しいことのため」に反社会的、反道徳的、犯罪行為さえやってしまいます。 しかも当人は「正しいと思っている」ので英雄的な行動とさえ思っているかもしれません。 それを咎める相手こそ悪であり、撃退しなければいけない敵なのだとさえ思うのです。 そうした「正義行為への依存症」は、社会を見る限りではよく見られます。 しかし社会的には「思想の自由」にも関わるため、自由を是とする社会において それを議論することさえままなりませんし、定義も判定も現実的には不可能です。 言論弾圧、思想の制限などに繋がりうるために「正義行為への依存症」には、 公的かつ包括的な対応をすることはできず、例え問題になっていたとしても、 その問題それぞれに対して個別に対応するしかないのが現代社会における実情です。 * 特に「正しいこと」がなんなのか分からず、またろくに娯楽を楽しむこともできず、 そうした環境で育った人が「正しいこと」を目の前にぶら下げられてしまうと、 その正しいことに飛びつき、執着し、信奉してしまうことさえあります。 そしてそれが「社会的な正義」に反していると、社会的な問題を起こしてしまいます。 ただ問題なのは「正義行為への依存症」そのものではありません。 そもそも人類は生来、大なり小なり「正義行為への依存症」を患っているとも言えますし、 それの行為が社会に貢献するものであるならば推奨さえされるものです。 問題は短絡的な正義、反社会的な正義、犯罪的な正義など、問題のある行為に走ること、 感覚的で非論理的な主張をするようなもの、破滅的な方向性の主張をすること、 それによって他者の利益や尊厳を損なったり他者へ危害や危険を与えてしまうことです。 それに「正義行為への依存症」という考え方は、とても慎重に扱わなければ危険です。 短絡的に使ってしまえば「あなたは頭がおかしいから、あなたの考えはおかしい」 と言うような表現によって議論を拒む使われ方さえされかねない危険な表現で、 簡単に他者を貶めることのできる、安易に使ってはいけない表現です。 * 問題は、問題のある行動を「正義行為」のように誤解して常習してしまうことです。 そしてそれは正義欲が十分満たされない環境で育った、そうした状態にいる人ほど 問題のある安易な正義に飛びついてしまう危険性があると考えられるわけです。 そう言った意味でも娯楽は社会にとってとても重要なものです。 娯楽によって正義欲を充足させることができれば社会への問題行動も減らせます。 もちろん娯楽にのめり込みすぎて問題になることもあるので折り合いは必要ですが、 娯楽の豊かさは社会の安定を生み出すと言えるのです。 ついでに言うと社会的に問題のある正義行為によって正義欲を満たそうとしても、 迷惑を受ける側から妨害をされます。犯罪行為なら法的な処罰を受けてしまいます。 円満に正義欲を満たす事ができず、なおさら不満が溜まってしまうこともあります。 そしてストレスが過剰にたまれば身体にまで影響が出てきます。 しかし娯楽、特に自己完結できる娯楽であれば、他人に妨害される危険は少なく、 ものにもよりますが安全かつ健全に、円満かつ平和的に正義欲を満たすこともできます。 健康も平穏も損なうことなく安定してストレスを解消できるわけです。 * 娯楽に生きる人々の方へ偏った考え方とも言えますが、 正義欲説から考えるのならば娯楽は人間社会に不可欠なものだとさえ言えます。 人は正義欲を満たしていなければならず、それを安全に満たすことができないのなら 危険行為にさえ手を染めてしまい、結果社会を不安定にしてしまう可能性があります。 娯楽は安全に正義欲を満たす、社会の安定にとても重要なものだと言えるのです。 それに正義欲に飢えていなければ正義欲に振り回されることもなく、 健康的で平和的な生活を送ることもできるのです。 * それでは今回はこのへんで。次回の話は「正義欲求説と祈り」の予定です。 ご聴講ありがとうございました。 /////////////////////////////////////////////////////////////////////// *序11 おはようございます、フィロ・ディールです。私は人類。あなたも人類。 第11回です。例によって前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回まで見てきてください。 今回は「正義欲求説と祈り」についてお話します。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * 正義欲求説から見た宗教の話でも、祈りについては触れました。 祈りを正しいと認識できれば「平和的に正しいと思うことができる」というもので、 社会的な安定のため、治安維持のための方便の一種です。 ただ、人は特定の信仰を持っていなくとも祈ることがあります。 多くの人は自分の力ではどうしようもないと感じる時、願うように祈ります。 しかし現実として、祈る行為そのものに実力は存在しないと言えるでしょう。 もしもあるとするならばいわゆるオカルティック、科学的検証の難しい領域です。 もしあるとしても解明できないのであればそれを正確に論ずることは難しいものです。 また祈る行為そのものには祈る以上の意味が存在していなくとも、 祈る行為に対して行われる付随的なものには価値があります。 そのため現実として無価値であるとも言い難いです。 とは言え、そうした細かいことを考えずに人は祈ります。 多くの人々が祈りを「正しい行為」として認識している、とも考えられるでしょう。 実際「最も安全かつ平和的な正義の行為」なのですから。 * 祈る行為の付随的な価値は主に「他者の心証」と「想うことによって生まれるもの」です。 まず祈る行為を好意的に見る人から好ましく思われます。 反対に言えば祈らないことは、それを好ましく思わない人から問題視されます。 そのため社会的な立場を示す行為とも言えます。 オカルトが実存するか否かに関わらず人の心証を左右することは確かなのです。 また祈る行為によって、いわばそれを思い考える事、意識を向けることができます。 祈ることが考えるきっかけとなり、他へ切り替えるまで思いめぐらせることになります。 そこから何か生まれるのだとすれば、それは祈りをきっかけとして生まれたものでしょう。 オカルトが実存するか否かに関わらず、意識を向けるきっかけにもなります。 その他にも祈ることによって精神を集中させたり、他の悪いことから意識を逸らしたり、 あるいは強く思うことで覚悟を持つといったこともできるでしょう。 祈りはオカルトと密接な関係にあり、それを信じない人からすれば無価値にも見えます しかし現実として、オカルトを一切抜きにしてもある程度の作用があると言えます。 * ただ、かといって祈り自体に大きな期待をすることも良いこととは言い難いものです。 全てを運任せにしてしまう、なんてことはもはや現実逃避で、何もかもが起こりえます。 理想は「人事を尽くして天命を待つ」という、できることを尽くしたうえでの運任せです。 信仰を持っていなくとも「超常的なもの任せ」という考え方は実のところよくあります。 「正しいことをしていれば悪いことにはならないはずだ」という考えもほぼそれです。 他人に悪いことをしていると自分にも悪いことが起きる、 他人に良いことをしていると自分にも良いことが起きる、 この関係性はオカルトではなく、「心証」という意味でも正しいと言えますが、 それを「超常的な世界の摂理」として認識してしまっているのです。 「心証」という意味、というのは他人からの干渉は大きく左右されるためです。 周囲にとって良いことをしてきた人はそれだけ人から助けてもらいやすく、 周囲にとって悪いことをしてきた人は助けてもらえないどころか攻撃さえされます。 人は傾向として「そうした行為が正しい」と思うものです。 好きなものには施しを、嫌いなものには罰を与えたがるものです。 しかし「人の心証」以上のことはオカルトです。 そのオカルトを語る際は因果関係が逆転することもしばしばあります。 悪いことがあったのは悪いことをしていたからだろう、 良いことがあったのは良いことをしていたからだろうという考えです。 それが確かであったかとは関係なく「そうだった」と後付けされることさえあります。 * 科学の回でも話していましたが、情報そのものは根拠がなんであっても同列です。 科学的な根拠を持った情報Aも、科学的には不確かでオカルティックな情報Bも、 人にとっては「情報A」と「情報B」でしかありません。 それを信用するかどうかは人の感覚次第であり、 「科学的に確かだから」「神秘的で偉大だから」といっても、 誰でもそれを信じることができるとは限らないのです。 あくまでもそれを信じることが良いことだという風に育ってきたからこそ、 それを信じることができる、というだけなのです。 * ここから少し、さらに怪しい話をしますのでここは聞き流して結構です。 現代日本における一般的な「宗教」への印象は「祈り方」に近いものだと思います。 そもそも日本に根付いている「神道」自体が明確な「教え」を継承させるものではなく また仏教も日本においては神道と混同され長く同列に扱われてきたという歴史があります。 神道そのものは「教えを広めるため」ではなく「神を祀り、祈るため」に存在しています。 地域、村や町の安定と繁栄のために「祭りと祈り」を通じて人々を一堂に集めることで、 人々の集団の意識を揃えるという社会的な役割もあったのではないかと考えられます。 オカルティックな部分についてはその有無についてから差し控えますが。 「人々が集まっていくこと」で世間体によって道徳や善悪の観念が共有されていき、 宗教の教えに頼ることのなく道徳や善悪の観念が根付いていったのではないでしょうか。 そしてそれこそが日本の善悪教育における「教え」として機能しているのだと考えます。 なお神道と混同された仏教は「教えを継承する」という役割も担っているものの、 対外的、一般的な立場では神道とほぼ同じ「祈りと寄合の場の提供」として残っていき、 また新しく参入することとなった外国の宗教も概ね同列に落ち着くことになります。 この「宗教とは祈りの形」という印象は日本のいわゆるサブカルチャーにおいて顕著です。 何かを崇め奉り、詳細な教えがあるわけでもないのに「○○教」と称することがあります、 そこにあるのは「祈り」だけでその教えももはや「祈ることだけ」とさえ言えるでしょう。 人によっては。宗教が重要な人にとっては宗教とは善悪の観念であり、人類の理由です。 しかしそれほど重要でない人にとっては、想い方の一つでしかないのです。 * ちなみに「祈り」は当人にとってもある程度実用的な効果が一応あります。 いわゆる瞑想や精神統一のようなものとして、気持ちを集中する訓練になる他、 祈りという意識に集中することで他の意識を減らし余計な考えごとを抑えます。 「正しいと思う行為」と認識していればそれだけで多少の正義欲を満たせます。 生産的な行為ではありませんが平和的で、他者を害する心配も少ないです。 その他死者へ祈るように何かと折り合いをつける、という時にも祈りは使われます。 考えてもどうしようもないことへ、祈った後に距離を置くための準備で、 祈りに方向性を持たせることで祈る時以外にその方向性へ向かないようにするわけです。 人間は、意外と自分の意識をコントロールすることが難しいものです。 特に執着や欲望を抑えるには、それ以外の強い意識の方法を持っていなければいけません。 その方法の一つとして広まっているのが「祈り」なのです。 * 宗教じみた話ではありますが、適切に祈る行為自体が精神を安定させやすく、 場合によっては充足感を得ることさえできるものであり、人生を豊かにします。 ですがオカルトな面を度外視するなら祈る対象は信じるものなら何でもよく、 適当な何かでも構わないと言えるのです。 しかし多くの人はそのことについてよく考えることをしません。 正義欲に不満や不安をかかえた人々を集めてそそのかすという扇動は常套手段。 祈る行為も「特別な何かに祈ることで恩恵を得られる」と解釈してしまいがちです。 オカルトにおいては祈りによって力を得るという論理は珍しくありませんし、 作品創作のファンタジー世界での物語には祈りを鍵とする設定もよくあります。 多くの人々、社会における一般的な認識において祈りとは特別なものとも言えるでしょう。 だからこそ社会では時に祈りがとても正しい行為として扱われるわけです。 ただそれが健康的かつ他者に害を与えないような方向性であれば健全だと言えますが、 必ずしも健康的なものとは限らず、また他者へ損害を与えるような祈りもまた存在します。 熱狂的な信徒にとってはとてもとても大事なことかもしれませんが、 どんな理由であろうとも他者へ損害を与える行為は、社会的には有害です。 場合によっては"認められない"どころか、それ自体が"許されない"ことさえあります。 * 正義欲求説から言えば人は誰もが正しいことをしたいと願っているものです。 しかしその方向性が必ずしもよいこととは限らないという問題を抱えています。 祈りもまた、その範疇なのです。 * ちなみに、私はこの話においてオカルトの実在性を否定していません。 オカルトを抜きに考えたとしても現実的な影響力が存在すると言っているだけで、 一切のオカルトが実在しえないなどといっているわけではありません。 ただし「存在する」という確証があるわけでもありません。 「分からないけれども、もしかしたら実在しているかもしれない」という立ち位置です。 科学を信奉する人間として信じているかどうかで言えば信じていない方だと言えますが、 しかし「分からないから存在しない」と言ってしまうのはそれもまた非科学的な言説です。 あるいは真実がまじっていて存在が実証、証明されていないだけかもしれないのですから。 * ただよく考えれば得体のしれないものなのに信じてしまうのは人類の生物的な傾向です。 どれだけ「いわゆる頭が良い」、勉学に長けた人であったとしても あやしいオカルティックなものを信じてしまうことは決しておかしなことではありません。 人間の頭脳にとっては「情報A」と「情報B」という区別でしかないのですから、 信じたいと感じてしまったなら、それが作られた嘘であっても信じてしまうのです。 * それではこの辺りにしましょうか。ご聴講ありがとうございました。 ///////////////////////////////////////////////////////////////////////// *序12 こんにちわ、フィロ・ディールです。私は愛せる人類? 第十二回です。例によって前回までの内容が前提となると思いますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「哲学的な思考のために」という話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ * まず正義欲求説の基本的な部分は、決して真新しい発明ではないと思います。 そのような振る舞い、仕組みだと考えるのは私が最初ではないでしょう。 一般的でないのはそれをまとめる偉い人がいなかったり、公に認められてこなかった。 それは言っていた通り「正義」を神聖化し大切なものであるとしてきたために、 「正義は欲望の一種である」という言説は品性下劣な戯言くらいに思われてきた… のではないか、とさえ考えられます。 それが、それこそが「正義欲」の性質なのですから、当然とさえ考えられるのです。 正義欲と言う考え方は、大衆の正義欲によって認められてこなかったのだと。 人類はみんな自分の信じている正義を正しいと思いたいのだと。 哲学ではそうした認識をはぎ取ることによって 人類のより根本的な原理を探ることも試みられてきました。 しかし「正義感は欲望である」という視点は、うまくごまかされてきたのではないかと。 * 哲学は、特に私が考え私の定義する"哲学"という概念においては、 哲学を知識として身につけるだけでは「哲学という知識を覚えただけ」であり、 「哲学的な思考を身につける」ことができるわけではありません。 哲学的な思考においては「どう考えるのか」から考え、時には幾通りも用意し、 最適な、あるいは適切な考え方はなんであるのかを考えることにあり、 哲学の知識はあくまでもそうした考え方のパズルのピースに過ぎません。 いかに哲学というパズルを無理なく成立させるのか、無理にでも成立させるのか、 "それを考える工程こそが哲学の本質であり、根幹であり、要である"のですから。 ですから哲学的な思考を身につけるためには、様々な哲学に触れることが大切です。 少ない知識から行き当たりばったりで適当な考え方を作るのではなく、 "様々な考え方があるのだということを理解した上で考え方を考える"わけです。 哲学的な思考を身につけることができた人々と言うのは おおかた「他者の哲学」に対しても冷静に考えるようで、 信じるか信じないかではなく、それがどのような考え方なのかを考えるのです。 * もし哲学的な思考を身につけたいという人へ私なりのアドバイスをするのなら、 私の習得法は「何度も何度でも見返すこと、何度も何度でも見直すこと」です。 それは様々な文献についてもそうですが、何より「自分の考えを見直すこと」。 自分の考えをひとまず書いて"その時の考え方"を形として残します。 "その時の考え方"を改めて見直してみて「自分がどう感じるのか」を確認し、 不備がないか、考え方に無理はないか、そういったことを何度も見直します。 そうして何度も見直して、見直し続けることで「考え方の修正」に慣れることです。 一番注意してほしいのは 「一度考えた事であっても頭の中に全く同じものが存在するとは限らない」という点。 頭の中身はよほど優れた頭脳を持った人でない限り"無自覚に変化していく"ものです。 同じものを何度も見ても、それを初めと同じように感じるとは限らない。 ですから同じことを何度も考えてみたとして、それを同じように考えるとは限らない。 その変化は経験や知識がほとんど変わらないはずの「書いた直後」でさえ起こります。 経験知識が変わっていく「書いてからしばらく後」ならなおさら変化しやすいです。 そして考え方が分かってしまえば、その答えもまた変わっていくものです。 * そうして自分自身と「考え方を考えること」に向き合いながら、 なおかつ他者の様々な考え方にも触れて「その考え方について考える」のです。 何を考えているのか、どのように考えているのか、なんでそう考えているのか、 注意してほしいのは"哲学的な思考"の役割、目的は答えを求めることではありません。 考え方を考えることで「結果的に答えらしきものが浮かび上がってくる」ことはあります。 哲学的な思考における答えは、それこそあくまでも「副産物」だと考えるべきでしょう。 なぜなら「答えありき」ではとてもとても認識を誤りやすいからです。 正義欲求説で何度も言っている通り、人は「正しくありたい」という衝動を持ち、 人の認識は正義欲によって変質することが当然としてあり、 正義欲からの傾向としてたいていの人は"答えが誤っていること"を嫌います。 「これが正しい」という証明に考え方を組み立ててしまうことが往々にしてあり、 結果"本人が改めて考えてみても恥ずかしい考え方"になってしまうことさえあります。 いえ後から反省することができるのならまだマシです。 反省せず、人によってはかたくなに考え方を変えないことさえあるのですから。 * 私が冒頭でいつも「話半分で」と言っているのは、自分への戒めでもあります。 一応以前言っていた通り、私が社会的な権威などを持っておらず 言説においてその責任をもてるような立場ではないことも理由の一つですが、 「もしかしたら私自身が考え方を変えてしまう可能性さえある」からでもあります。 ハッキリ言って正義欲求説の話は大方「正義欲求説を前提とした考え方」です。 ただそれは私では「いくら考えても否定することが難しい」ために使っているだけです。 特にオカルティックな事象が現実的に遍在、どこにでもあるとされれば、 正義欲求説の根幹が否定されうる可能性は十分考えられますが、 現実として特に私自身ではそれを証明することはできず"変えようがない"のです。 もしも「正義欲求説は間違いである」と認識できるような考え方をすることができれば、 私は自ら正義欲求説を否定するという可能性もあるでしょう。 私がその考え方をひっくりかえすように変えてしまうことだって否定はできません。 …それは単純に、人間の認識なんてそんなものだという話ですが。 * しかし正義欲求説を否定することは非常に難しいのです。 まず正義欲求説は「様々な物事を見て事象の傾向を分析した結果生まれた理論」で、 そのため「あらゆる人物の言動を説明するのに不都合の少ない包括的な理論」です。 /00 まず「人間は全知全能とは言い難い」という事実、 そして人間の傾向から読み取れる「正義感」という性質やそれによる間違いを含む歴史、 つまり「人は正しい事をしたいと思っても正しい事ができるとは限らない」ということ。 人によって「社会的に正しいことをしたり、反社会的なことをしたりする」という個体差、 それは「人は正しい事をしたいと思っても正しい事ができるとは限らない」で説明でき、 また「人は正しいことと思って反社会的なことをすることもある」のも説明できる。 それらによって「"正しいこと"はそれぞれの感性に左右されてしまう」ことが証明でき、 つまり「正義感」は個人的な感性によって左右される、不安定なものだと説明できる。 / またほとんどの人間は「正しい事や間違っている事」という感覚をもっている。 「正義感」だけではなく間違っていることに対する「嫌悪感」や「罪悪感」は 知力に関係なく多くの人に見られる反応で、生物として備えている機能だと考えられる。 こうした「正義感」または「罪悪感」のような反応は人類だけに見られる傾向ではなく、 特に身近で暮らしている動物からはそれらしき反応を観測することができる。 悪いことをしてしまったペットがばつの悪そうにしている姿は観測されている。 そして社会性を持った動物がどのように社会性を維持しているのかを考えた場合、 人類のような知性があるとは考えにくく、しかし正義感罪悪感などの傾向があるとすれば、 そうした傾向によって社会性を維持することができるとも考えることができる。 そうして考えていくと「正義感」や「罪悪感」といった反応は 社会性のある生物全般に備わっている機能ではないかと考えることもでき、 つまりそれらは本能的にもって生まれてくる機能ではないかと仮定することができる。 /00 またさらに言えば人間の行動からは「正しいことへの欲求」と言える言動も観測できる。 正しいことをしているという確信によって心理的に充足する場合が存在し、 またそのために正しいと思うことを執拗に求める状態に陥る場合も見られる。 承認欲求と呼ばれる傾向もまたその「正しいことへの欲求」で説明することができる他、 依存症さえも「正しいことへの欲求」によってその性質を説明することができる。 この「正義の欲求」は人間の行動を説明するのにとても適していると言える。 / ただし正義欲求説の根幹は「価値は人がそれぞれの価値観で決めているものである」こと、 「人はそれぞれの価値観に従い"正しいことをしたい"という傾向を持つ」こと、 この二つの法則に集約され、その他の理論はあくまでも推定できる関連性である。 その「人がそれぞれで決めている」と「人はそれぞれの価値観、個体の性質で動く」の 二つの前提がある限り、正義欲求説を根底から覆すことはできないと言っていい。 なお生物としてといった話はあくまでも仮定であり、もし表層的な関連性が否定されても、 正義欲求説の根幹に当てはまる性質を否定できなければ、正義欲求説自体は否定できない。 そして「人がそれぞれで決めている」「人はその個体の性質で動く」を否定するためには、 オカルティックな、上位の存在が人類を操作しているといった理屈が必要となると考える。 それも、もし何かしらのオカルトが証明されたとしても、そのオカルトの性質が 正義欲求説を覆す法則を持っていないのならオカルトの上でも正義欲求説は成立するのだ。 * 正義欲求説の基本は、あくまでも「事象を客観的に分析して見えてくる傾向の法則」です。 それ自体は「どうあるべきだ」といった理想や理念ではありません。 何を考えたとしても、何をしているとしても、なんであったとしても。 人の言動は「正義欲求説によっても説明することができる」という話でしかありません。 人の愚かさも、人の賢さも、人の下劣さも、人の高潔さも、 それらの混在さえも正義欲から説明できるというだけの話です。 ただ、その性質と誠実に向き合うことでより社会を安定させることができる、 あるいは個人個人の幸福もまた求めることができるとも考えられ、 もちろんその点についてはあくまでも「理想や理念」でしかありません。 * そろそろ区切らせていただきます。ご聴講ありございました。 /////////////////////////////////////////////////////// *序13 こんばんわ、フィロ・ディールです。私は明後日も人類。 第十三回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「感情と論理」の話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * まず私は非常に感情的な人間です。 考えることの重要性を理解していますが、強い感情を発揮することがよくあります。 このように話しているとどこか冷静な人にも見えるかもしれません。 しかし生来の気質は感情を振り回す、感情に振り回されるといったくらいの性格で、 そのせいで「感情とは折り合いをつけないといけない」と理解するに至った人間です。 私はそれにより「感情的な考え方」と「冷静な考え方」があると気づきました。 「考えている」からといって"冷静であるとは限らない"ということ、 理性の無い考え方というものがあると理解し、正義欲求説を思いついたのです。 個人がどれだけ正しいと感じていたとしても、それは個人の感覚でしかない。 社会の為になるとどれだけ思っても、それは個人の感覚でしかない。 本当に社会のためを考えるには冷静で客観的な、論理的な感覚を持たなければいけない。 そう気づいたのです。 * しかし冷静な、客観的な、論理的な考え方というのは証明の難しいものです。 例えば「あらゆる考え方は相対的なものであり、絶対的ではない」という論理さえも、 "その論理も相対的であるということになってしまう"という矛盾を抱えます。 実の所「論理というものの正常性」を論理的に証明することは至難と言えます。 そもそも言語は「感覚的に習得していくもの」で、他者の感覚と異なる場合もあります。 "論理に使われている言語"を説明・定義するには何かしらの表現が必要となってしまい、 さらにその表現の説明に別の表現が、となり「絶対的な定義のできる言語がありません」。 もちろん他者と交流して感覚を共有し、"概ね同じ意味合いを覚えること"はできます。 しかしそれが厳密に全く同じ意味合いであるとは限りませんし、同じ保証はできません。 『たった一人で考えてもそれを正当であると証明することはできない』のです。 自然科学であれば、実験して検証して、それをまとめれば"個人"でも証明できます。 ですが論理は自然科学のように絶対的な基準を定義することはできないことも多く、 現実的、社会的には「社会的な正義」のような手続きによって、扱われています。 つまり「多くの人々が見て、それが妥当な考え方であるか、判断する」という形であり、 「論理の正常性・論理の正当性」は極端に言い表せば「価値」の一種でしかありません。 「正しい考え方」も「間違った考え方」も結局"人間が勝手に決めていること"なのです。 * ただ「正しい考え方」も「間違った考え方」も人が勝手に決めている事と言っても、 無理のない考え方によって「よく考えれば矛盾や無理を抱えている考え方」や 「よく考えても矛盾や無理の起きない考え方」というものは共有することができます。 「客観的かつ論理的な考え方」はその「矛盾や無理の起きない考え」に相当します。 「個人の考え方」であっても注意を払えばある程度取り繕うことができます。 個人でも「自分で矛盾や無理が無いか可能性を想定し、組み立てる」ことができれば、 "個人の考え方"なおかつ"客観的かつ論理的な考え方"もある程度作ることはできます。 しかしながら「非論理的な考え方」が、人間社会に当然としてまかり通ることは 正義欲求説の話で繰り返し話していたとおりです。 人間は、その感情などによって考え方の感覚が左右されてしまいます。 「正しいか間違いかの判断は、感覚的に行われてしまうもの」であり、 「主観的で非論理的な考え方」でさえも"論理的かつ客観的な考え"と思うこともあれば、 時には「客観的かつ論理的な考え方」を"非論理的で主観的な考え"だと思います。 人間の脳にとって「情報A」も「情報B」も大差のないものであり、 感覚的にそれらの価値を決めているに過ぎないという問題があるのです。 その問題が、論理の検証を絶望的に阻みます。 * 論理的に考えて無理のない論理というものはあります。 定義をしっかりと作り、検証を重ね、その上で成立させることはできます。 しかし、絶対的な定義の難しい分野においてそれを証明することはあまりに難しく、 さらには「その証明を人が受け入れるかどうか」という問題までつきまといます。 「感情と論理」が別のものであったとしても無関係ではいられません。 感情に左右されない手順を用いることで論理への影響を抑制することはできても、 どう感じるか、という点において感情の影響は避けられません。 それが正しいかどうかとは無関係に、正しいか間違いかを判断することも多いのです。 理性的な人であれば自らの感覚、感情と論理を分離して考えるように努めますが、 それも完璧とは限らず、感情に左右されてしまうこともしばしばあります。 あるいは人にとって「正常な論理」とは「自らの内」にあるものではなく、 常に「自身の外側」に存在するものと表現できるかもしれません。 「感情と事実は別物」であるように。 心構えを言ってしまえば、それこそ"人以外の存在"だと考えるべきかもしれません。 「人が勝手に、思い通りに考えてしまっては、論理は正常にならない」のですから。 * 例えば、大前提として「予め決められた意味」が存在しない限り、 そしてそれを明確に証明することができない限り、 人の考える意味はあくまでも「人が決めた意味」でしかないと言えます。 もし「その意味は人が決めたわけではない」と考えるには、 客観的に人以外の何かが決めた、あるいは何かによって決められている必要があり、 それを証明するためにはそうしたものの存在を立証することが必要となります。 また例え「仕組み」を明らかにすることができても、意味の有無は別問題です。 虚無的に「ただそう存在しているだけ」では意味も価値もありません。 何かによって決められた目的が無ければ、そこに特別な価値は存在しないのです。 「人間はなんの目的をもって生まれてきたのか」という問いも、 その生命の起源をさかのぼったとしても現状では"そう存在しているだけ"でしかない。 例え人間が何か目的を見つけたとしても、その人がそう決めただけでしかない。 もちろん"仕組みから考慮または推測し目的とする"ことはできます。 生物は生存活動から繁殖していく仕組みを持ち、それを目的と位置付けることはできます。 しかしそれは「偶然その仕組みを獲得しただけ」ならば、予め決められた意味はなく、 「あくまでもそのような仕組みを持っただけ」とも言えるのです。 人間がそれを受け入れられるかどうかとは全くの別問題として、 人間の感じるあらゆる意味も、あらゆる価値も、全ては人が決めているだけなのだと。 * この問題は「意思を持った創造主」が明確にいる創作された世界においては発生しません。 人間が作り出した物語の世界では「作った人の決めた価値、意味、目的」があります。 しかし現実世界においてそうした存在がいるかどうかは、定かではありません。 もっと言えば現実の人々が「それを認めるかどうか」もまた別問題となります。 創作世界では"世界を支配する神の取り決め"に対して反抗する物語も度々見られます。 ただそれは「世界のルールを決めた支配者がいる」という体でしかなく、 実際には「創作者の取り決めた真のルール」があり、それに則って動いているだけですが。 ただきっとそれは現実世界においても同じで、そうした"反逆者"は現れるでしょう。 「例え世界に定まった価値の存在、真の目的が存在していたとしても、 人類全員がその目的を受け入れて従うとは限らない」のです。 それは結局"正当な論理を信じるかどうか"と同じこと。 正当な言説を信じるかどうかさえ結局のところ人それぞれの感覚次第なのですから。 * つまり世界に意味があってもなくても、それに関係なく 「多くの人間は、人によって意味を決めて、理由を決めて、目的を決めている」 とも言えてしまうのです。神がいてもいなくても。 さらにその論理を覆すためには、人間へのさらなる強い干渉の証明が必要となります。 つまり「人以外の存在が、絶対的な命令によって人を操っている」ような状態であるなら、 "人がそれぞれで決めているのではなく操られているだけである"と言えるでしょう。 しかし現実においてそれを証明することは至難でしょう。 大前提として、身体・頭脳の仕組み働きを全て解明することが必要となりますし、 その上で「体の仕組みからは考えられない現象が生じている」という必要があります。 そして"その現象によって人の判断が大きく左右されている"とされなければなりません。 そうした事象がハッキリと存在しない限り、また存在を証明できない限り 「多くの人間は、人によって意味を決めて、理由を決めて、目的を決めている」 という論理を根本的に否定することはできないのです。 とはいえ人類の意識に関してはまだまだ未知数であり、 「本当にそうである」とも言い切れませんが。 * こうした感情を客観的に見た論理は、"感情の話"と根本的に異なります。 人がどう思おうとも、どう感じようとも、それは論理の中身とは全くの別問題で、 少なくとも私個人の視点からは"そう見ることができる"とは言えます。 それが良いことだとか悪いことだとか、そういう感覚的な評価は関係ありません。 「そういうふうに存在しているように見える」という点は否定できないことでしょう。 もちろんこの論理が正当な論理であるかどうかもまた別の問題なので、 感情的に否定する人もいるでしょうし、論理的に否定しようとする人もいるでしょう。 それらもまた安易に、考えずに否定できるようなものではありません。 "人々と物事を考える"というのは実の所とても、とても難しいことなのです。 * それではこの辺りにしましょうか。 ご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////// *序14 どうも、フィロ・ディールです。君は愛してもいい人類? 第十四回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「正義欲求の感覚」の話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * 正義欲求説の基本的な話は、前回までの内容を見てもらうとして。 また応用的な考え方の話となります。 * まず正義欲求が守ろうとするのは「その人が思う正しいもの」です。 それは個人差が大きく、その人の感性によって大きく左右され、 ごくごく正当なものさえも人によっては正しくないと感じることさえあります。 しかしそれは"個人的な感覚"であるものの、本能的に必要と感じるもので、 人によっては"社会にとって正しいもの"と感じてそう考えてしまうこともあります。 つまり「正しい社会」「正しい世界」の感覚がその人の中に存在していて、 それから逸脱するものを、わるいもの、よくないものだと感じるのだというわけです。 人によっては、論理的な正当性なんて必要ありません。 "そう感じているから、それが正しいのだ"と思ってしまうのです。 * もちろん「社会的な正義に反する行為」に対して嫌悪感を示すこと、 時にはそうした社会的な悪に対して、排除を行うことは社会にとって大切です。 しかし現実として「正しい社会」の感覚に反するものというのは 必ずしも「悪い方向へ逸脱している」ものばかりではありません。 つまり「優れた方向へ逸脱している」ものに対しても不快感を感じることがあるのです。 それが羨望、いわゆる"妬み"、"嫉妬心"などと呼ばれる感情である、 と正義欲求説では位置付けることができます。 * 妬みによって、人間は時に「優れているもの」へさえ攻撃的になります。 例えその人が物理的な損失や危害を与えているというわけでないとしても、 "優れているから"という理由で不快感を感じ、それを理由に攻撃します。 競争などにおいて、優位な相手を厄介に思うことはしかたありません。 しかし人は競争などでもなく、干渉しない相手にさえ妬みを抱きます。 おそらく。拙い言い分を取り繕うのだとすれば、 「そんなに優れているのはおかしい。なにか悪いことをしたに違いない。」 もしくは「そんなに優れていてもいいことはない。だから抑えるべきだ。」 と言った感覚なのでしょう。 「優れていること」は"ずるい"。だから"わるいこと"だと。 「正しい社会」の感覚が狭いと"他者の優れている部分を許容できない"という状態で、 なおかつ"悪いと感じたら攻撃して当たり前"という感性を持っていると攻撃をします。 それが"社会にとって良いこと"であるかのようにさえ振舞います。 * 妬みの対象は、社会的な立場や評価がどうであれ、 強く妬んでいる側の感覚は「悪者に相当する存在」です。 極端な感情を抱いている場合はもはや「犯罪的な存在」だとさえ思いこみます。 なぜそう思い込むのか、という理屈は先ほど言った通り。 妬むものも犯罪的なものも、"その人にとって正しい世界から逸脱したもの"だからです。 つまり"日常に存在する丁度いいものではない"からです。 正義欲求の感覚はあくまでも"その個体の感じている秩序を守るため"にあるもので、 その個体の感じている秩序から逸脱したものは基本、不愉快だと感じるのだと。 * それらもまた正義欲求説として初めに言ったことです。 「人間はみんな、正しいことをしたいと願っている」 けれども、それが正しいことだとは限らない、と。 * ただ「優れているから妬む」と言っても、なんでもかんでも妬むわけではないでしょう。 人によっては「優れているから羨む」と思う場合もあります。 優れていても"自分の正しい世界を乱すような存在"でなければ不快に思いません。 "世界を豊かにする存在"だと思えるなら、むしろ歓迎や援助さえします。 言ってしまえば優れているものを「世界を正しくするための存在」だと感じるのなら、 それを守ることは"正しさを守ること"だと感じるものだと考えられるのです。 しかしその感覚は"それらに自身を豊かにしてもらった経験"が無ければ中々覚えません。 極端に言えば「豊かにしてもらった経験」があるからこそ好意的に思うだけ。 そうした経験が無ければ「世界を間違った方向へ導く存在」とさえ認識しうるわけです。 もはやそれは妬み、相手が優れているかどうかに関係ありませんが。 * また正義欲は欲望であり、それを満たすことは大なり小なり快楽を伴います。 他に正しいことが無い場合は特に、妬みの感覚に執着してしまうこともありえます。 正義欲の依存状態は妬みに限りませんが、妬みでも起き得ます。 いつも何かを妬むことによって精神の平静を保とうとしてしまうのです。 しかし妬む対象は大抵優位な相手で、なおかつほとんどは社会的には正当なため あまりに妬む意識が強すぎると、相手を尊重する社会に対してまで敵意を抱き、 酷い場合は反社会的な傾向にさえ発展することもありえます。 偏り過ぎた正義欲は簡単に社会性を失います。 * 妬みからの不当な攻撃を抑えるためには何が必要なのか 広い視野、落ち着いた感覚、教養、論理的な考え方、 それらは誰でも簡単に身につけられるというわけではない。 おそらく。 おそらく、一番重要なのは「正義欲に満たされているかどうか」です。 精確に言えば「他に正義欲を満たせるものに親しんでいるかどうか」です。 正義欲に飢えている状態だからこそ狭量になり適当なものを攻撃してしまうもので、 正義欲に満たされている状態ならば闇雲に敵を見繕って攻撃することはしにくい。 そういう性質だと考えるのが正義欲求説です。 正しさに飢えている人ほど妬みからの攻撃もしてしまいやすいのだと。 * 人を妬まない、あるいは妬みを感じても衝動的な行動、攻撃をしない。 そういう人は概ね"既に満たされている"か、"満たす行動を他に知っている"のです。 相手を攻撃するよりも良いことを知っているのならば、 妬みの感覚による不快感の解消もそちらの方で済ませられます。 正義欲求の不満の、円滑な解決法の代表例として存在するのが"娯楽"です。 しかし「妬み」という観点を含めると娯楽での正義欲の解消は "予め、それを受け入れられる状態である"という条件が必要となると言えます。 そして、しっかりと正義欲を解消できる内容であることも必要です。 その娯楽に慣れておらず、受け入れることが出来なければ娯楽にも不快感を感じ、 中々正義欲を解消できない、という状況に陥ることもままあります。 * なお闇雲に他者を攻撃してしまうことを防ぐために娯楽などが大切と言っても、 そもそも正義の感覚は人それぞれ異なり、その中身や割合も違ってきます。 例え「娯楽に慣れている人」であっても、元々の環境から "悪者を攻撃するという正義行為"にも慣れ親しんでしまっている場合は、 闇雲に他者を攻撃するという人もいないわけではありません。 そうした感性は根深く染みついてしまっていることも多く、簡単には変わりません。 正義感は本能であり、その感覚からくる行動は習性のようなものです。 短期的にはよほど強い出来事がなければそれが変わっていくことはまずありませんし、 長期的にも変えようという働きかけが無ければ、変わっていくことはまずありません。 * ただ人間はその本能、感情とは別に「理性」でも考えることができる場合があります。 誰でも、と言うわけではありませんが意識してできる人もいます。 「感覚そのものはどうしようもない」としても、その感覚とどう向き合うか、 「どう感じたとしても、どう行動するべきか」といったことを意識することはできます。 "どう感じるか"は簡単には変えられませんが、 "どう行動するか"は比較的変えやすいものです。 そのため社会性を保つために重要なのは"どう感じるか"ではなく、 そう感じた上で、「どう考えて、どう行動するか」を意識することです。 不快になること、不機嫌になることは仕方ないとさえ言えるけれども、 それを言い訳に破壊的な行動、破滅的な行動をとってしまうことは 周囲にとっても、本人の立場にとってもあまり望ましくありません。 どう感じるかは他人には実害さえなければもはや勝手にされても困らないことですです。 しかしどう行動するかには大抵大なり小なりの影響があり、その行動には責任が伴います。 誰でもできる、というわけではありませんが自制の意識は大事な意識です。 * それでは今回はこのへんで。 ご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////// *序15 はい、フィロ・ディールです。君は階段を上る? それとも降りる? 第十五回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「正義欲求説と誰のため」という話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * 正義欲求説として語ってきたように、 「人には正しいことをしたいという欲望がある」と考えられます。 この性質は理性によって、打算などによって生み出されるものではなく、 その根本は欲望という衝動的なものとして生まれていると考えられます。 これにより人間は社会を構築し、社会に資する行動も行うようになるのだと。 それは本能であると考えるわけです。 * 正義欲求の性質によって、人間は"何かのためにやる"と言う時に とても力を発揮しやすい傾向を持つと考えられます。 もちろん個人差はありますし"自分のため"でも力を発揮しやすいでしょう。 しかし人に求められる状況、人を助ける状況などでは特に意欲がわきやすく、 その意欲によって特に高い行動力を発揮できることもあります。 そうした性質から特に正義感、他者を助ける心は崇高なものといった扱われ方もしますが、 正義欲求説から考えるとそうした性質は社会性をもつ生物として当然の傾向と言えます。 それらが「欲望」による行動だと考えても不思議ではない。 いえ、よく考えるまでもなくそれが欲望だと位置づけることはできるはずです。 いわゆる三大欲求に限らずとも"承認欲求"といった表現があるように 人間の衝動的な行動を欲求として認識することができます。 しかし多くの人は高尚と捉える正義感を下品とも言える欲望だと捉えることをしません。 多くの人はそれが欲望だと思いたくない、そういう性質もまた正義欲求だと言えます。 * 人は正義欲求によって社会を豊かにするような行動も本能、基本的な性質として行えます。 良いと思うものを尊重し、悪いと思うものを排斥しようとする。 その性質によって人々は社会を安定させ、豊かにしてきたのだと考えられます。 ただし程度には個人差がある他、その方向性も必ずしも社会のためとも限りませんし、 概ねその人の感じている「正しい世界」のために行動するだけです。 そのため必ずしも正義欲求が社会の繁栄へ貢献するとは限らず、 正義欲求からの行動が社会を乱すという場合も当然としてあります。 既存の社会が間違っていると思えば人は時にそれを壊そうとすることさえあります。 一般的に言われる悪意、社会的に対する悪もまた「正しい世界」のための行動だと。 そんな反社会的な衝動と、社会的な行動が同一の欲望だと思いたくないのも分かります。 他者へ迷惑をかける悪意と、他者を思いやる善意が、元は同じものなどとは。 * しかし実際に社会へ貢献するか否かに関わらず、 「正しいと思うこと」に対して人は意欲的になります。 特に「誰かから認められること」であれば、その人はそれを正しいと思いやすくなります。 本当に"みんなのために"なることもそうして促進されていきます。 ただ自分の感覚に、妄信的な自信があるという人は特に、 "自分が正しいと思う事、間違っていると思う事"が 即ち"社会にとって善いこと、悪いこと"と感じることは珍しくなく、 その感覚を振り回し、他者へ強要するということも珍しくはありません。 例えそれが一般的に見て反社会的な言動であったとしても、 「"正しいこと"なのだから認められるはずだし、認められてしかるべき」だと 思うことさえあります。 極端な場合「正しいことなのだから悪いはずがない」とさえ思うでしょう。 それも当人は大真面目に「みんなのためになることだ」と思っている事さえあります。 それが例え、多くの人に迷惑をかけることであったとしても。 それが本当に社会的にも有益な事であるならば広く受け入れられることもありますが、 そうでない場合は社会的に認められにくく、非難を受けることもあります。 そうした状況から一般的な社会が正しくないと感じ、社会を信用できなくなれば、 それこそ反社会的な考えを深めていく悪循環に陥ることもあります。 * これは「じゃあどうすればいいか」「どうするべきか」が主題ではありません。 「そういう性質があると考えられる」という所が主題であり、対処法は二の次です。 もちろん個人個人であればよく考えて"哲学的に豊かになる"ことで それをある程度抑制できる場合もありますが、絶対的な対処法はありません。 あるいは「人間の知性は行動を司るものではなく、本能を補助するものでしかない」と 知性によって管理、制御することが難しいものであると自覚するべきなのかもしれません。 なぜならどう考えたとしても。どれだけ考えたとしても。どれほど考えたとしても。 「人間は感覚的に正しいか、間違いかを判断していしまいがち」だから。 * 正義欲求の性質は、人を助ける時にも発揮されやすいと言えますが、 場合によっては無思慮に助けようとして二次被害を生んでしまうこともあるほど、 打算や計算よりも先に「助ける」という衝動を起こして行動することもあります。 もちろん適切な対処法を理解しているならその対処法を行おうとします。 あるいはそもそも「助ける」という思いこそお節介、迷惑な場合もあります。 当人は助けて当然、助けることは正しいと思っているけれども、 実際には余計なことをしてしまっているという場合もあります。 そんな余計な事でも「正しいことをしているのだから間違いではない」と信じている人は、 余計なことだと咎められても素直に聞き入れることができません。 * とても局所的な話。 「家族のものを勝手に捨てる」という行為は大抵の場合「善意のつもり」です。 当人は「捨てた方が良い、捨てることが正しい」のだから"捨てて当然"だというのです。 捨てる人にとって「無価値どころか害悪に思えるもの」でさえあるのなら、 もはや"捨てないということを考えられない"くらいであると言えますし、 それを防ぐには"捨てた方が厄介かもしれない"くらいの印象を与えなけば防げません。 さらに局所的な話 「家族のものを勝手に売る」という行為に至っては金銭と言う実体のある報酬が伴います。 特に「ものを売って金を作る」ということの成功体験などがある場合、 売る事に対してかなり強い"正しい感覚"を持っている可能性さえありえます。 売る場合は「価値のないものを価値のあるお金に変えた」といった認識な場合も考えられ、 当人にとっては"世界を豊かにする正しい行為"だとさえ思っているかもしれません。 被害者としてはたまったものではありませんが。 * ただそうした、あえて言えば「自己満足」とさえ言える性質をもっているからこそ、 人は利益や有用性を考えずに助ける、保護するといったこともできるのだと言えます。 典型例は用途を持たないタイプのペットでしょう。 そうしたペットを飼うことは、直接的な利益が無いどころか 経済的な点で言えば浪費だとさえ言えるものです。 用途を持った家畜などとはわけが違います。 しかし決して少なくない人々がそれを好ましいことと感じ、 あるいは人によっては欠かせない事とさえ思うこともあります。 感覚的には「人類の利益になるものだ」とさえ感じている場合もあるかもしれません。 それは"何かを世話している・庇護している"という感覚が正義欲を充足させ、 精神的な満足感や安心感を得ることができるのだと言えます。 平和的に「正しいと思うことをできること」は精神の安定にもつながります。 言ってしまえばペットは芸術、娯楽などと同じようなものです。 「人々の生活を豊かにし、社会の安定へ貢献するもの」なのです。 もちろん人によっては「それが偉い」などと感じ、 それを第一にして当然だと傲慢に、浅慮無思慮に振舞うこともありますが。 * 人間の保護を受けて暮らしている動物の代表例は、猫でしょう。 もちろん猫の飼育は、当初食料を食い荒らすネズミを駆除するという実用性をもって 始められたのだと考えられますが、現代においては愛玩動物の代表として扱われます。 特別な仕事を与えられているわけでなく、癒しの存在として大切に扱われているのです。 同等の動物に犬がいますが、犬には特別な役割を与えて扱われることもあります。 犬はより社会性を持った動物で、訓練によって必要な行動を学習できます。 一応ただ飼育されているだけ、という犬も少なくはないでしょう。 それらはその可愛さによって人間を従属させている、とさえ表現できるかもしれません。 それほどまでに人にとって「飼育できる可愛いもの」は大きな存在になりうるのです。 「ブッダよりネコ」なのです。 * …そして、今までの話の繰り返しとなりますが… 「正義の欲望」は、満たされなければ不安になり渇望するようになるものです。 人は正しいことができていないと感じると「正しいことをしたい」と思います。 「正しいことをしたい」のにできない、という状況において人は短絡的になりえます。 例えば「何か適当に悪者を見繕って攻撃する」ことで満たそうとすることもあります。 いじめ、差別、虐待。 相手が人であれば人道的な問題ですし、相手が人であるとも限りません。 ペットなどを悪者だと考えて攻撃してしまうことも十二分にありえます。 身勝手に保護することもあれば、身勝手に攻撃することもある。それが人間です。 その人が思う「秩序」を守るために。 * 今回はここまで。それではご聴講ありがとうございました。 ////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// *序16 どうも、フィロ・ディールです。私は愛してもいい人類? 第十六回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「正義欲と保護と淘汰」の話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。今回はかなりきわどい話ですが。 * まず人間は環境が許す限り多人数での生活が可能な性質の動物であり、 また人間はその数と能力によって環境を整備することで さらに多くの人間が一堂に暮らすことができるようにしてきたと言えます。 他の動物は基本的に環境を変化させる力が無いに等しく、 あくまで環境に合わせた数しか生息することができません。 数が増えすぎると食料が足りず餓死に陥ったり、あるいは それを回避するために同族での縄張り争いによって域内の数を制限したりすることも。 域内の数が制限されず増えすぎてしまうと、主に食料の問題が発生し、最悪の場合 食物を残せず食らいつくし全体が飢餓に陥り、結果絶滅に瀕することもありえます。 なお自らの判断で数を調整する性質をもたない動物でも、 「捕食される」ことで数が調整されてバランスが保たれている場合もあります。 人間の場合は特異な進化によって"環境を変化させる力"を獲得しました。 住居を整備したり、食料を保存したり、あるいは人が手をかけて生産したり、 そうしてより多くの人間が暮らせることでより大きな事業が行えるようになり、 環境の整備がさらに進んでいき、さらに人間が増えていったというわけです。 * そうして人間は社会を形成しより多くの人間が暮らしていけるようになったことで、 さらに多彩な人間が暮らせるようになっていきます。 特に余裕のある社会では危機に瀕した人を"保護"することで生かすこともよくあります。 人間社会では他者の助けが無ければ生きていけない状態でも生かすことができるわけです。 人によっては「他者を助けること」がとても正しいことだと思い、 正義欲によって広く人々を助けることに生きがいを感じる人もいることでしょう。 良い面を見れば、そうした保護によって人々の暮らしの安定させ、 ひいては人間社会を安定させてきたのだと言えるでしょう。 * 悪い面を見れば、短絡的な援助は決して有効とは言い難い点です。 「人を助けることは無条件に、絶対的に正しい」と考えている人には受け入れがたい、 非人道的にさえ見える言説かもしれませんが…。 前置きしておきますが、貧困に苦しむ人々を救うべきではないという話ではありません。 救うのならば相応の覚悟と計画、規模に応じた資金や人材が必要になるという話です。 例えば食料の生産力や調達する経済力に対して人口が増えすぎて 飢餓に陥っている地域に"食料だけ"を無償ないし安価で提供したとしても、 それだけではただの「一時しのぎ」にしかなりません。 もっと言えば、そんな地域で「大切な命を助けることは大事」だと、 "医療"によって人々の生存率まで上げ、さらに人口を減らさないようにしたとします。 そうなると環境とは不釣り合いに人口ばかりが増大していきます。 そうして「環境的に維持可能な規模を遥かに上回る人口」になってしまうと、 その人たちはもはや援助無しでまともに生きていくことはできません。 それらだけではもはや「終わりの無い援助」が必要になるのです。 もしその援助が不十分になってしまえば結局は飢餓に陥る人々が生まれますし、 もし援助が途絶えてしまえば「生存させた人々」の分、飢餓に陥る人は増えます。 そして最悪、その大勢の人が生きようと強引な手段をとってしまうことさえ考えられます。 半端な援助は不適切な延命によって社会へ混乱を招くことさえありえるというわけです。 / そうした最悪の事態が起きにくいようにするためには単なる食料医療の支援だけではなく、 大勢の人を養えるだけの食料を生産できる環境や各種経済力の大規模な整備に、 その整備された環境、経済を維持できるような教育までも広げていき、 それらを地域の「全ての世代・全ての世帯」が獲得するまで長く指導していけなければ、 「援助の完了」という状態にはできません。とてもとても気の長い話です。 …もちろん最初から援助が無い場合は自然の淘汰に従って死んでいきますし、 淘汰に抵抗するだけの力が残っている場合にはその淘汰に抵抗します。 力がある場合はどちらにしても、対応が必要になります。 * 貧しい人々を助けるというのは正義欲の自己満足からも行えることですが、 ただ「良い面」を見るならばそれは非常に重要なことです。 貧しい人も、必ずしも座して死を待つわけではありません。 何が何でも生き延びたいという人は他者を害してでも生き延びようとします。 そうなってしまうと、社会は何かしらの対応に迫られます。 そこで理想的には必要な援助、支援で最低でも死の危機の無い程度に保護し、 生きるために他者を害さなければならない状況を改善することが望ましいでしょう。 実際にはそれほど単純で簡単な話ではありませんが。 * 人間は、例え優れた人間でも全知全能ではありません。 また人間が生きていくためには様々な資源が必要でその資源は有限、 つまり"生存できる人間の数には限りがある"ものです。 さらに言えば"人間が安定して生きていくために必要なもの"は、 生存に最低限必要なものよりも多く大きく、その数はさらに限られます。 しかも思想的理由によってその生活は様々な方式があり一律ではありません。 もちろん環境整備や効率化によって資源などを最大化することで、 全人類を助けることも不可能ではないかもしれません。 しかし、それは現実的ではありません。 人によっては無理をしてでも助けたいと思う人もいれば、 無理をしてまで助けたいとは思わない人もいます。 "自分が頑張って手に入れたものをなぜ分け与えなければならないのか"と。 そうした考え方は個人の思想、信仰、哲学に左右されるものであり、 その全てをコントロールすることは現実的ではありません。 場合によってはそもそも「本当に干渉するべきなのかどうか」という疑問さえあります。 例えそれが"正しいこと"であったとしても、 そう思わない人を説得することは簡単ではないことはいままで話してきた通りですし、 それが"本当に正しいことなのか"は分からない事ですから。 人助けは基本"したい人が"、"できる範囲で"やっていくことしかできないのです。 * 少し話を変えます。 * 淘汰の話において重要なことなのですが、特に安定した社会においては "人間は環境の悪さによって死ぬことはありえても、 致命的なものでさえなければ能力の低さだけで死ぬことはありません"。 ハッキリ言えば「頭が悪くても、頭が悪いだけで死ぬことは無い」のです。 知能の不足によって事故などを起こして死ぬことはあっても、 安定した社会なら「頭の悪い個体でも淘汰されるわけではない」。 もちろん最低限、環境に適応し生きていける程度の能力は必要となりますが、 "環境に合わせた適当な反応だけしかできない個体"も生き残るわけです。 社会にとっては"環境に合わせた反応だけしかできない個体"でも必要となりうる人材です。 社会の維持に必要な仕事・職業でも、高度な能力を必須とするものばかりではなく、 単純だけど適時適当な対応を必要とする労働も少なくありません。 故に、よほど社会から逸脱する個体でもなければ淘汰されることは無く、 また機会があれば子孫を残し、余裕があれば増えていきます。 * それは「例え頭の悪い人間でも社会に溶け込んで暮らすことができる」という話であり、 つまり"社会には、頭の足りない人間も当然のようにいるものである"という話です。 社会を構成する人々、社会を支えている人々も その全員が優れた知性を持っているわけではなく、 そうでない人も含めて人間社会が構築されているということ。 社会では"知性の足りない人間"のことも想定して生きていかなければならないのです。 知性が足りない人間でも、動けるなら人手としては有力であり 社会にとって大事な人材です。反社会的にならない限り社会の財産です。 * 現代社会においては概ね、無教養そのものが罰せられることはなく、 無知であること自体が罪になるわけではありません。 もちろん無知無教養からよくないことをやらかしてしまえば罰せられますが、 人権が尊重されている社会では無知無教養そのものを罰することはできません。 そうした人々とも折り合いをつけながら暮らしていかなければならないのです。 私が不特定多数の知性を信用していないのはそうした理由からです。 * 最後に一応、一応注意しておきたい話として。 "人類を優れているかどうかで選別、取捨するべきか"といった話はしたくありません。 ただしそれは「人間はみんな大切だから」なんて聞こえの良い思想からではなく、 第一に"人類自身が互いを公正かつ正当に取捨できるとは到底思えないから"、 第二に"強引な選別は間違いなく人々の反感を生み社会を不安定にするから"、 つまり「そうやって判断することが現実的とは言えないから」です。 例え"選ばなければならなくなった"としても、 人の判断は「心情」に左右され、冷静に、冷徹に判断できるとは思えませんし。 人類はそうしたややこしいことも抱えながら生きていかなければなりません。 * それではご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序17 どうも、フィロ・ディールです。アップサイドダウン、ダウンサイドアップ。 第十七回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「正義欲と思い込み」の話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * 人間には思い込みから"想定された行動を意識せずしてしまう"ことがあります。 「そうなるだろう」という感覚が強いと本当にそのような反応を示すわけです。 典型例は"プラシーボ効果"や"ノシーボ効果"と呼ばれるもの。 あるいは催眠効果もそれに近しいものでしょう。 極端な例としては"呪いを受けたと聞いたせいで思い込みから体調を崩す" "わるいものがあるという思い込みから体調が崩れる"など 強い思い込みと言うのは肉体の機能を変調させてしまうことさえある厄介なものです。 正常な機能という状態が存在するはずの身体機能にさえ影響を与えることがあり、 まして正しい状態の定まらない"感じること・考えること"への影響は過大なものです。 * "これが正しい"という思い込みは当然、肉体的だけでない問題を生みます。 短絡的に求めた"正しいこと"さえ"絶対的に正しい"と思い込むことさえままあります。 特に優れた扇動者、詐欺師などは人に「正しい行為」をぶら下げて信じさせることで、 "正義感から動く"ように誘導し、他者を思い通りにコントロールします。 人は正しいと信じてしまうと、例えおかしなことでも疑えなくなり、 それが正しいという前提から動くようになってしまいますから。 その問題は他人に動かされる場合に限りません。 特に短絡的な人は現実、事実、真実がどのようなものでも"感覚的な正しさ"を優先し、 「思っている正しさの為に必要となる"事実"がある」と考えたり願ってしまう。 例えば犯人捜しをする際など「状況から犯人を捜す」のではなく、 「犯人が誰であるかを"決めて"から根拠となる状況も"決める"」こともありえます。 例えそれが事実とは異なっていたとしても人々に信じ込ませることができてしまえば、 "社会的にはそれが正しいものである"と扱われてしまいます。 あるいはそうした性質が合わさり"自覚無く風説を流布し扇動する人"もいるでしょう。 その当人は「正しいことをしているのだから間違っていない」と 本気でそう思っていることさえありますが。 * そうした性質は人であれば誰でも内包しています。 テストなどで好成績をとれる"優秀な頭脳があるとされる人"であっても、です。 もちろんそうでない人ならなおさらその性質が傾向として現れやすいと考えられます。 そもそも一般的なテストは主に"必要な知識を引き出せるか"を試すものであり、 基本的に"用意された状況の中で適切な対応をできるかどうか"しか試せません。 「あらゆる可能性を含めつつ総合的に調べて考えていく」といった 基本的な知性、哲学的な部分まで試されることはあまりないでしょう。 生活の中で"疑っていくこと"を要求されるのは特殊な職業の人々に限られており、 特に「自分の考えに対する再考、あるいは自己批判」が要求される場面は 一般的な生活をしている中では中々あるものではありません。 例え"テストで好成績をとれる模範的な人"でも 「疑うこと」に慣れていない場合もありえるでしょう。 むしろ「言われたことをあまり疑わず、ひとまず従順に覚えていく」という方が 一般的なテストでは好成績を取りやすいものです。 ゆえに「優秀な頭脳があるとされる人」であったとしても、 専門外であれば哲学的に優れているとは限らず、人格に難があることもありえます。 もちろん「優秀な頭脳があるとされていない人」であればなおさら 考える力が弱いと考えられ、哲学的に優れていることなんて期待できないでしょうが。 * "これが正しい"という思い込みは本能である正義欲とつながっている場合もあり、 その場合それを修正することは非常に難しいです。 単にそれが間違いであると言われても"正義の感覚に反する"ため大抵反感を持ち、 時にはそう言ってきた相手を"正義の敵"だと認知し、一切信じなくなります。 そうした思い込みを修正できるのは概ね、粘り強く「信頼を得ての説得」か、 あるいは「衝撃的な出来事による認識の上書き」くらいしかありません。 長い期間力をかけ続けるか、あるいは短期的に莫大な衝撃を与えるか、 容易に変えられるものではありません。 * そして「思い込みを直すことが難しい」という事はつまり、 "多くの人、ほぼ全人類が何かしらの思い込みを抱えながら生きている"、 と言いかえることもできるでしょう。 しかもそうした思い込みも含めて、情報は人から人へと伝達・継承されていきます。 環境が情報を広め、そして説得の難しいより強固な思い込みも作り出します。 一応思い込みであっても、必ずしも悪影響を及ぼすとも限りません。 特に社会を不安定にするようなものでないのならば 特別対処しなければならないというものではないとさえ考えられているでしょう。 だからこそ思い込みが気づかないほど当たり前に存在するとも言えます。 自ら思い込みを改めようとするのは極めて特異な行為であり、 大抵は問題が起きなければ思い込みがあることに気づくことさえできませんから。 しかし思い込みによって致命的な問題を引き起こしてしまい 大惨事になってから思い込みが発覚するという場合、 罪悪感から逃れるために"思い込みが間違いである"という認識を避け、 結局思い込みを修正することができないといったことも往々にしてあるでしょう。 正義欲はそのようにして間違い、意固地になることがあるわけです。 * 動物は、例え人間であっても基本的には 得られる全ての情報を素早く精確に処理して考え判断する能力を持てるわけではなく しかし自然環境では素早い判断が求められ、できなければ生存競争に負け淘汰されます。 いわゆる感情と呼ばれる性質は限られた時間で判断を下すために身につけた、 身につけざるをえなかった「情報の単純化の機能」だと言えます。 思い込みもまた、情報の単純化によって処理する情報量を限定し、 限られた時間で判断を下せるようにする機能だと言えるでしょう。 それに、そうした短時間での判断は人間社会でも有効なことが多いです。 むしろ研究など専門的な場面以外では論理より感覚が重視されやすく、 "とにかく先んじて動くこと"が有利な立場を得やすいものです。 その場の雰囲気を作り出して動かし、強引にでも誘導できてしまう。 例え思想哲学が希薄であっても対応さえ良ければ"他者を動かすことはできる"し、 他者との関係をうまく乗り切る処世術に長けていれば"それなりの人間に見える"。 「人間関係をうまくやっていける人こそ"正しく"、全てにおいて優れている」と、 そういったような思い込みを身につけてしまうこともありえます。 卓越した処世術があれば、ある程度の能力でもそれらしくやっていけてしまいますから。 * 人は頭脳が大きいためより広く推測によって物事を判断することができますが、 悪い思い込みのように"実態に適さない認識や判断をしてしまう"こともあります。 言っていた通り認識が正義欲の感覚によって歪んでしまうこともしばしばです。 因果の逆転はそういう類の状態です。 「悪いことは起きたのは悪いことをしていたから」 「犯罪に遭ったのは遭うような状態だったから」 もちろん油断によって巻き込まれやすい状況であるということはあっても、 そうしたものを完璧に防ぐというのは全能ではない人間には現実的でありません。 ある程度の対策はできても全ての対策を万全に行うということは至難です。 人は「正しいことをしていれば悪いことにならない」と思い込みやすいもので、 裏返せば「悪いことになるのは悪いことをしていたから」となってしまうわけです。 特に他人事であれば、そう考えることで"自分は関係ない"と思い込むわけです。 しかし現実として「運が悪かった」だけでしかないことも往々にしてあります。 それさえも完璧に防ぐためには非現実的なまでの対策が必要になります。 悪いことにあっても対応できるようできる範囲で対策をしておくことは大切ですが、 できない対策を要求することが正当であるかといえば、あまりにも厳しすぎるでしょう。 * 人がどれだけ頑張って対策を立てたとしても悪い状況になることはありえます。 人間は全知全能ではないですからできることには限りがあります。 そうした「運の悪い」ことまでを責めることは、さすがに不合理でしょう。 ただ人によっては自らの言動によって悪い状況を招いているケースもありえます。 それでも「自分は正しいことをしているのに悪いことになるのはおかしい」と、 自らの言動を省みず自分以外のものを責め立てるという場合もあります。 責められてもしかたないのに「自分は正しいのだから自分は悪くない」と。 * 人は簡単に判断を誤るものです。 よく考えても誤ることもありますし、よく考えなければ当然としてありえます。 そういった誤った判断による思い込みは様々な問題を生みます。 理想的には各々が良く考えたりしながら考えを直していくことがいいのですが、 現実的には悪い思い込みが間違いだと気づき考え直すことは難しいものです。 そもそも何が正しいのかは"人々によって勝手に決められていくもの"ですから、 答えを探すもの・探せるものではなく、妥当性を探る以上のことはできません。 後から間違っていると考え直されることであっても、 その時点において社会的に認められてしまっているのであれば それは"社会的には正しいこと"になってしまうのですから。 * それでは、ご聴講ありがとうございました。 /////////////////////////////////////////////////////////////////////// *序18 どうも、フィロ・ディールです。 第十八回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「健康への正義欲求」の話をします。 * 以前の健康の話では、正義欲求をコントロールすることによる健康の話でしたが、 今回は健康に対する正義欲の話となります。 早めに話すべきことだったと思いますが、いまさらになってしましました。 * まず大前提として正義欲、正義の感覚が満たされているとしても、 病気になってしまったり、怪我を負ってしまったりすることは当然としてありえます。 ただ、これを当然と思わない人もいます。 つまり「正しいことをしていれば、正しくあれば病気や怪我をすることは無い」と そう思い込んでいるような人もいます。しかし現実として物理的な問題は起き得ます。 あるいは病気や怪我があっても「正しいことをするべきだ」と無理をする人もいます。 最悪の場合、感染する病気を患いながら休まず、または休ませず、 その病気を多数の人へとうつし広げてしまうこともあります。 現代日本では特に、心理的にまたは外圧によって休むことができず、 不特定多数へ病気を感染させてしまう、と言った社会的な問題も見られます。 * 「体調が悪くなった人は休養するべきである」という正義の感覚を持っていない場合、 「体調が悪くなるのはおかしいし、悪かろうが働かなければならない」と思い、 そうした状態で無理をして働いたり、そうした状態の人を働かせたりしてしまいます。 苦しい時でも頑張る、というのを一種の美徳としてとらえられている場合もありますが、 場合によっては適切な休養を取れなければ重症化し死へ至る危険のあるものもあり、 無理をすることが決して良い事とは言い難いものです。 特に感染するものの場合それは無理をした当人だけの問題ではありません。 人と接する状況を作ってしまうと、他人へとうつしてしまうことになり、場合によっては 当人より重症化し、障害の残ったりあるいは他の人だけが死ぬなんてこともありえます。 そうしたことへ理解が無い場合、そんなリスクがあると理解できず、 無理をしてしまったり「罰則や解雇などの圧力をかけて無理をさせる人」もいます。 * 病気などは予防と言う点において各自である程度できることはありますが、 残念ながら当人の努力で完璧にあらゆる病気を防ぐということは現実的ではありません。 運が悪ければ、無理をした人からうつされてしまうなんてこともありえます。 もし病気なってしまったら、しかたがないとなってしまったことを受け入れて、 体調が戻るまで、なおかつ感染の問題があるならそれがおさまる時期まで、 しっかりと療養し『病気による損害を最小限に抑える』ことに努めることが理想でしょう。 少なくとも『短期的な損害を減らすために、 長期的な損害を無視する』なんてことは不合理です。 感染の恐れがあるのに無理をする、無理をさせるのは 社会へ被害を拡大させる危険があり、もはや反社会的な行動とさえ言えます。 * しかし人によってはそうした状況の悪さを受け入れられず酷く思い悩んでしまったり、 あるいは他人の場合「それは正しくない状態だ」と無理解に憤慨する場合さえあります。 当人はそれが正しいと思い込んでいると、強権的に"正そうと"してくることさえあります。 それがもはや反社会的かつ非人道的なものであったとしても、 その行為は社会的で人の道として正しいものだと思っている事さえあるわけです。 自他問わず、病気などを受け入れられないという状態はハッキリ言って危険なのです。 * そうした無理解が酷い場合、認識における因果関係が混濁、逆転することさえあります。 つまり現実に則した「病気だから休んでいる」という認識をするのではなく、 反対に「休むような人間だから病気になっている」と言うような曲解です。 「病気だから医者にかかっている」のではなく「医者にかかっているから病気になる」と。 現実的には、病気と医者の因果関係は 先に「体調の不具合が存在し、その不具合へ対応している」わけですので、 「不具合へ対応しているから不具合が存在している」という認識は誤りと言えるでしょう。 もちろん"へりくつ"として「定義されなければ存在していることにならない」と言って、 例え重病が潜んでいてもそれが判明しなければ「無いのと同じ」と思うことはできますが。 それは大抵いつか深刻な症状として表面化し、向き合わざるを得ないことになります。 あるいは死という結果によって、手遅れなことが判明するという場合もありますが。 * また話は大きく変わりますが、無理解による問題という点を言うのなら 認知関係に影響の及ぶ病気、障害もまた難しい問題を抱えます。 当人の努力によってはどうにもならないレベルでの障害、問題は 当人の意識、考えなどにも大きな影響を与えることになります。 * 典型例でいえば、認識や記憶が正常に保てなくなってくるいわゆる"認知症"関係。 周囲にとっても非常に重いものだと言えますが、当人にとっても深刻な問題です。 それは「自分の認識が正しくない」という状況が日常化し、 「自分が正しくない」という感覚を日常的に感じるような状態なわけです。 正義欲求にとってその感覚はとてつもない不安、ストレスとなりえます。 何が正しいのか、基本的な知識さえ喪失してしまうわけですから。 その不安を表に出すことさえままならなかったり、 あるいは暴れるような形によって表にでてしまうこともあったりするでしょう。 * そこまでいかずとも正義の感覚に反する状態に陥る病気、障害は多くあります。 自身の感覚あるいは身体を思い通りに制御できないという状態は酷く苦しいものです。 人によっては「正しいことをしたいのにそれができない」という苦悩を持ち続けます。 しかし大きな障害でもなければ、外見から分かるような症状ばかりではありません。 それは他人から見ても、と同じように自分から見ても自覚しにくい場合があります。 時には「当たり前のことができないのは意思が足りないから」と考えてしまいます。 意思だけではどうにもならないこともあるというのに。 その状態とうまく折り合いをつけることができなければ、 他人からも自分からもうとまれ、苦しみながら暮らしていくこととなってしまいます。 * 現実問題として、脳の異常はその脳自身によって解決できるとは限りません。 一応脳にも多少の修復力や成長力と言われるような性質はあると考えられ、 それによって多少の問題であればどうにか補えるのかもしれませんが、 脳自身がその対応を間違えれば症状や状況を悪化させていくことさえありえます。 そもそも脳は精神論だけでどうにかなるものではありません。 脳は物理的なものであり、物理的な性質や物理的な限界を持っています。 その意識によって多少の制御はできたとしても、全てを制御することは無理と言えます。 特に脳の状態に物理的な問題、物理的な異常があるならば、 それは物理的な干渉、物理的な治療を行わなければ緩和も改善も難しいものです。 例えごまかすことや騙すことができたとしても、 物理的な問題、物理的な限界は精神論ではどうにもなりません。 * ただ現在の医療では脳へ干渉する方法も限られており、現状では対症療法、 状態や症状に合わせて投薬するなどといった程度の方法しか扱われていませんが。 その対処も人の反応から推察して、対処を試していって合うものを探すという状態で、 代表的な対処があってもそれだけで解決するとは限らないのが難しいところです。 そもそも人によってはその正義の感覚から医療へと頼りたがらず、 有効な対応をせずにいる、対応できずにいるということもあるでしょう。 脳の異常は、人の振る舞いという点まで考えればあまりにも対処が難しいものです。 * またもっと範囲を広げて考えると。脳の能力的な限界・物理的な限界の問題 分かりやすく言えば頭脳の限界・知性の限界の問題は、劇的な解決法はまだありません。 そういった性質の障害とは、その性質とうまくむきあっていく、 そういうものだとうまく折り合いをつけていくしかありません。 一応「頭の良くなる方法」は様々な訓練が提案、研究されていますし、 そうした訓練によって実際に能力を伸ばせる場合もありますが、 能力的な問題に限らず意欲的な問題も含め、物理的にできないものはできません。 * 改善しようとしていない人まで改善することは現実的に困難ですし、 改善しようという意識さえ持てない場合は絶望的です。 * 最後に大きな病気、障害ではないちょっと身近な話として。 能力の限界は、生活の不足によって下げられていしまっている場合がありえます。 例えば慢性的な寝不足は脳の機能を低下させますし、 また偏食などによる栄養不足もまた機能を低下させる要因になりえます。 それらを改善することによって多少伸びるケースもあるでしょう。 ちょっとだけであれば生活の見直しで、少し良くなることはありえます。 ただそれも意欲として、意識として誰にでも簡単なことだとは言い難いものですが。 * それではご聴講ありがとうございました。 /////////////////////////////////////////////////////////////////////// *序19 どうも、フィロ・ディールです。 第十九回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「芸術の価値」の話をします。私なりの話として。 いつもとはやや毛色が違うかもしれませんが、いつもどおり話半分でどうぞ。 * まず私の芸術への哲学として 「芸術の価値とは心を動かせるかどうかにある」と考えています。 心を動かせるのであればどんなものであっても芸術としての価値がある。 反対に心を動かさないものは芸術としての価値が低くなると。 「心を動かす」というのは漠然とした表現ですが、 つまりは感情を揺さぶる事であり、あるいは欲望を揺さぶることです。 社会的にはより多くの人の心を動かしたり、あるいは権威ある人の心を動かした芸術が 「価値のある芸術」として扱われ素晴らしいものであるといった評価がされます。 * その考え方では中身の品質、技術などなどは「芸術の手段」でしかありません。 超絶技巧も、時間をかけた作品も、心血のそそがれた作品も、英知の結晶でさえ 『芸術という観点では、手法そのものに価値があるのではない』のだと考え、 あくまでもそれらは「芸術のための一手段」にすぎないのだと考えるわけです、 もちろん技術的に優れた作品は、その優秀さによって心を動かすことはよくあります。 心血のそそがれた作品、あるいは英知の結晶はそれだけで心を動かすことはあります。 しかしどれだけ技術的に優れたものであっても、 それが人の心を動かすような状態でなければ「芸術としての価値」はありません。 反対に言えば技術的に優れていなくとも、 人の心を動かす状態であれば「芸術としての価値」はあるのだと言えます。 * 特に芸術を知り始めた人、あるいは芸術をかじっただけの人はその辺りを誤解します。 「芸術の価値とは一本の塔や大きなピラミッドのようなもので、 技術的に素晴らしいものだけが頂上に存在し、それを目指して当然である」と。 反対に「技術的に素晴らしくないものは芸術として絶対的な下位に位置する」と。 しかもその「技術的に」という点も極めて限定的なことが多く、 ただ単純な高精度や高密度、写実性や現実性ばかりを求めていることも。 そうした技術は作品の価値を評価する上で見えやすく分かりやすいものなので、 「それこそが絶対的な基準だ」と解釈してしまうことは仕方ないことですが、 人間はそれだけに心を動かされるわけではない、と言うのは歴史が示しています。 * ちょっとした美術史の話になりますが、 西洋の美術では表現技術の進歩によっていわゆる写実的な、 視覚的な現実性も重視して作品が作られていた時代もありました。 しかし芸術家などの中にはそうした"正しい表現"に囚われない表現を求める人もいて、 緻密な表現より感覚的な表現に重点を置いた印象主義といったものが生まれたり、 あるいはさらに特殊な表現を試みたキュビズムといったものが生まれたりしています。 その歴史から少なくとも「芸術は唯一の目標を目指すものではない」と言えるでしょう。 もっと言えば、いわゆる写実的な表現の好まれた時代であっても 「何を表現するか」「どのように表現するか」には非常に工夫がなされており、 ただ綺麗に描いていただけではないだろうと考えることはできます。 いわゆる名画と呼ばれるものはただ綺麗に描かれているだけではなく、 "現存させるだけの強い求心力をもって人々に保存させることに成功させている"、 という表現もできてしまうわけですから。 * かと言って「心を動かせればなんでもいい」というのも少し語弊があります。 * 強い哲学を持たずにそうした芸術の実情を知り過ぎた人は、 そうした「目標の存在しない空虚な世界」で迷子になります。 芸術に絶対的な目標は存在しないんだから、適当に作って評価されればいいだけ、と。 私は昔、芸術についてこう表現しました。 / ───芸術というものはよくよく見つめると恐ろしい世界なのである。 そこに決まった答えは存在せず、人々の感覚的な評価という不安定な基準しか存在しない。 言ってしまえば芸術で生きていくということは 五里霧中の真っ暗闇に飛び込むようなことである。 真っ暗闇で何も見えない世界で自分の耳と嗅覚を頼りに進んでいかなければならない。 そこで孤独に耐えながら、つまずいてすべって転んで倒れてぶつかって 血と汗と涙とよだれも鼻水も××も垂れ流しても前へ進み続けなければならない。 進んだ先に足場があるとは限らないし、むしろ谷であるなら堕ちるだけで済むが、 底なし沼であったならわけもわからずもがけばもがくほど沈んで溺れて、 心が折れて一からやり直すまで何もできないことすらありえる。 /(2015/11/24・【見描想】のススメ あとがきより抜粋、一部伏字) 何も見えないから、浅はかな人、芸術に対する強い意思を持てない人は、 "自分が芸術の世界の恐怖にのみこまれていることにさえ気づけない"。 歩くことすらままならず、そもそも歩ける場所であるとすら気づけず、 思い付きの「人の注意をひきつけるいたずらのようなもの」しかできないことさえ。 興味を惹けても一時だけで、「人に残してもらう事」もままならない。 それこそ先ほどのピラミッドのように考えていた方がまだ健全だとさえ言えるでしょう。 * 「芸術」の分野で生きていく人は、そんな世界を歩き続けなければならない。 先ほどの話には続きがあります。 / そんな世界でもあっても、己を信じてその世界にあることの嬉しさを悦びを愉しさを 叫んで走り続けるのが芸術家という人たちなのだ。 自分のも含めて【人の尺度】と全力で向き合う、向き合わなければならない。 それこそが文化の最前線たる、芸術の世界なのだ。 趣味や道楽でやるなら気楽なものだ。 だがそれを生業とするとなったら地獄のほうがまだ温い。 /同 「芸術で生きていく」ということはつまり、芸術でお金を稼ぐということ。 芸術でお金を稼ぐということはつまり、人に芸術を買ってもらうということ。 人に芸術を買ってもらうということはつまり"人が興味を持つ芸術を作る"こと。 そしてそれで生きていくという事は「生涯それをやり続けること」です。 つまり「作品が社会的な評価を得続けること」と言ってもいいでしょう。 答えなんてものはなく、分かりやすい目標もなく、自らの意思で決めなければならず、 しかし漠然とした「人の評価」という目的を満たすためにあり続けなければならない。 よくよく考えればあまりにも恐ろしく、そこで生きていける人々はあまりにも強い。 * 芸術の世界にとって「先人の創り上げた道」は偉大です。 「その道に価値があるのか」を実証してくれているのですから、 芸術を目指す人にとって非常に大きな道しるべとなっています。 技術知識そのものに芸術的な価値があるわけではないと言っても 技術知識は芸術的な価値へも貢献する有用なものです。 おおむねあって困ることはありませんし、無くて困ることの方が多いでしょう。 * あとは余談となります。 * 人類にとっての芸術は、教育と非常に密接な関係をもって扱われてきました。 元々「表現」は教育において非常に重要なものであり、その技術をもった人々は 古来から宗教を含めた有力者から支援を受けて活動していたと考えられます。 特に古い西洋美術は宗教的な背景がかなり大きく、 そうでなくともほとんどは権威的な背景を持っています。 「宗教や権威の正当性を人々へ信じさせるために芸術が使われてきた」と、 言うこともできるでしょう。それ以外の方法があまりなかったとも言えますが。 それらは美術、絵画や彫像、建築などに留まらず、演劇や音楽なども含まれます。 …単にそうした背景が無ければ残ってこなかったとも考えられますが。 / 現代でも「思想を伝播させるため」に芸術が扱われることはよくあります。 いわゆる"勧善懲悪"の典型的な物語も、言ってしまえばそうした教育の一環。 「善いことを行うべきである。悪いものは懲らしめられて当然である。」といった 社会的規範を広く知らしめるという"一般教育"だとも言えるわけです。 もちろん芸術自体が教育を目的としているわけではありませんし、 教育に限らず享楽的な、快楽を目的とした芸術もまたよく親しまれています。 * ちなみにいわゆるスポーツ、特にプロスポーツは芸術的な意味合いを持った存在です。 観戦は「"人々が力を尽くして競い合う"という姿を楽しむ芸術」と言っていいでしょう。 プロスポーツはそれに人々が心を動かされ、その支援によって成立している形態ですから、 作品で心を動かし支援をされて成立する芸術家と同じ系統のものと言えます。 もちろんスポーツには「明確なルールや目標がある」という決定的な違いがありますが、 "人の心を動かせないのであれば無価値に扱われてしまう"という点は芸術と同じです。 プロスポーツもあくまで"人々を惹きつける芸術的な価値によって成立するもの"でしょう。 * それではご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序20 おっけー私はフィロ・ディール。おーらい? 第二十回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「正義欲求と無理」の話をします。いつもどおり話半分でどうぞ。 * 正義欲求からの行動は"正しいと感じるかどうか"に左右されますが、 人は特に正義欲求によって強行的な行動を行える傾向があります。 他者に無理難題を要求したり、自らに無理難題を課すことも。 "正しい事のために"と、無理をしてしまうことがあるわけです。 困難な事、できないこと、無茶なことさえしてしまいます。 しかも当人は「無理をしている」という自覚や実感が無いこともしばしば。 客観的に無理しているという状態を認識することはできても、 実感が薄いためそれを改善することも難しいです。 特に無理を重ねていると身体的物理的に、考える力にも悪影響があり 正常な判断ができず休む判断さえも難しくなってしまいます。 やろうと思ってできないと、当然それを気に病むこともしばしばです。 * 人体は四六時中活動し続けられるようにはできていません。 極端な言い方をすれば人間は「常に無理をしながら起きている」ような状態で、 無理をしすぎないように適時休憩、睡眠などが必要となります。 言ってしまえば「起きていること・動いている事」は"問題の無い状態"ではありません。 "問題の無い状態だから続けてても問題が起きることは無い"というわけではないのです。 起きている場合、起きている時間の分"無理をしている状態"であり、 その無理をしている状態を長く続ければ当然のように問題が起きる。 「起きているのはマイナスである」と言うくらいに考えるべきです。 もちろん起きていなければ社会的な活動ができませんし、 そもそもずっと寝続ける、ずっと動かないでいるというのも体には悪影響があります。 * 少し話がそれますが、人体はある程度は生活環境へ適応するようにできています。 動く必要があるなら筋肉などを増やしてよりよく動けるようになりますが、 筋肉が多いといわゆる基礎代謝で"体を維持するために必要な栄養"が増えます。 そのため動く必要が無い、あまり動かない場合、筋肉などを退化させて抑えることで、 "体を維持するために必要なエネルギー"を削減するように、人体はそうできています。 ずっと寝続ける、ずっと動かないでいると筋肉などが 生存する事にも支障が出るほど退化してしまい、かえって問題となることもあります。 また摂取するエネルギーと消費するエネルギーがアンバランスな場合も 太りすぎる、あるいは痩せすぎるといった問題があります。 ただしその適応能力にも限界があり限界を超える状況では体が壊れていきます。 骨や筋肉も限界手前なら良好な訓練にもなりますが、限界を越えれば怪我になります。 精神的なストレスなども、許容範囲であれば怪我にならず受け止められますが、 許容できない衝撃にはトラウマ、PTSD、精神的な障害となり最悪不治の傷となります。 根性論、精神論でどうにかなるのは"壊れない範囲で"の話。 壊れてしまったら安静治療で治さなければなりません。 * 人間には適度な休養が必要なのですが、"正義の感覚"はそれを簡単に無視してしまいます。 使命的に何かをやっている時、それをすること自体が最重要であるため 休憩を含めたそれ以外のことをないがしろにしてしまうのです。 「何もしていない」ことを良いことだと思えないと休憩を自然にすることが難しく、 特に良くないこととまで思ってしまうと休憩自体を嫌悪する危険さえあります。 それこそ教育として、規律として休憩を義務付けなければ 人間は無理をしてしまいやすいとさえ言えるわけです。 もちろん、そもそもそれほど使命的にやっているわけでなければ ほどほどにして休憩もしながらやるでしょうが。 責任感があると使命的に、無理をしてしまいやすいものです。 あるいは楽しいこともまた休憩を忘れがちになるでしょう。 * 「夜は早く寝るべきだ」として人々は色んなお話を作り、子供へ教育をしてきました。 早く寝ないとこわいものがやってくる、その前に寝ているべきだと。 本来は身体的な問題として適度に寝るべきなのですが、 身体的な問題は自覚にしくく分かりにくいことも多い。 そこで精神的な恐怖によって寝るべきだと教育するわけです。 寝ることへの教育が不十分だと、やや気軽に夜ふかしをしてしまいます。 寝ることよりも大事だと思うことをしてしまい、寝不足になってしまいます。 * あるいは労働関係においては「一週間のサイクル」を扱うようになります。 休む日を決め、働く日を決め、常に働くのではなくしかし休みすぎないように。 時にはそれを法的に、規則として決め、バランスを取るようにしてきました。 働きすぎは能力の低下、効率の低下をさせてしまい、悪化すると休むより酷くなる。 しかしその不合理を自覚して正すことは難しい。 「労働は可能な限り長時間続けた方がいい」と信じていると、休まないことの弊害で 結果不効率な状態に陥ってしまうことがあるのだということを信じたくないのです。 その労働が100%ではなく、無理によって80%、60%、40%、20%となることもあるのに。 そして遅れを取り戻すために無理をして、さらに遅れを生じさせてしまう悪循環さえ。 当人たちはその無理が感覚的に正しいとさえ思っていて止めることができないことも多く、 その状態を当人たちだけで直すのはあまりにも難しい。 だからこそ人類には労働への適切な制限を、規則として設けなければならないわけです。 * ただ無理をしなければ病気や怪我をしないわけではありません。 運が悪ければ、どう対策をとっていても病気や怪我になることはあります。 しかし無理をするほど病気や怪我のリスク、危険性は上がりますし、 無理をしていると病気や怪我になったときの対応も遅れ、悪化させてしまいやすい。 肉体だけでなく特に"十分にできない状態"が続くと精神にも甚大な負担がかかります。 その結果、脳で障害が発生してしまうこともあります。 無理をすることはやらなければならないとしても歓迎できるものではないということ、 無理はせずに物事をこなしていける状態こそ大切であると認識する事は、 無理をしてしまうことによって起きうる問題、損害を回避するためには大事なことです。 そう認識できていなければ、無理をすることにリスクを意識することさえできず、 人間は必要と思ってしまえばいくらでも無理をしてしまうものですから。 * ちなみにデスクワーク、座ったまま動かない仕事などを長時間するというのは、 メンテナンスとしてのトレーニングと言う点で最悪です。 身体への負荷が非常に軽いのに、しかし長時間の労働によって負担はとても重い。 体力を大きく消耗するような状況なのに、肉体的な運動が少ないという状態。 そのせいで"体力を必要とするのに体力が衰えていく"という酷い状態になりがちです。 無理をしていても体は退化していき、なおさら大きな無理が必要になります。 そうした環境では休憩だけでなく適切な肉体トレーニングも重要と言えるでしょう。 * なお無理をしたこと、適切なメンテナンスを怠ったことによる弊害は 必ずしもすぐに現れるものや、すぐ自覚できるものとは限りません。 自覚のない問題が積み重なり、認識系の負担が大きいと自覚すること自体が難しく、 さらに重大な問題さえも問題を自覚できずに重なっていってしまうこともあります。 「身体機能の衰え」による弊害は年と共に変化していくのですが、 若さから「今は問題を感じないから将来も問題ないだろう」と誤解してしまうことも。 しかしメンテナンスを怠っていれば確実に障害は発生します。 少なくない例で、そうした障害は"無視できない問題"となってようやく自覚します。 * 一応起こってしまい自覚した問題も現代医療でカバーできる範囲であれば ある程度戻すことができたり、補助をしながらも生活することができる場合もあります。 しかしそうでない致命的な問題として表面化してしまうこともしばしばあります。 治療不能な状態となり戻すことができない、あるいは生存さえ危うくなることすらある。 最悪、当人は気づくことさえできずにこの世を去ります。 「彼は無理をするべきではなかった」と、死によって他人が気づかされるのです。 * もちろん「健康のためであれば死んでもいい」なんて言いそうな状態も無理があります。 無理の無い範囲で無理をせず、適切なメンテナンスをする生活を心がけることが、 健やかに、健康的な生活を続けるために必要なことでしょう。 しかしながら人間は、「それが正しい」と思えなければ適切な休憩さえできません。 正義欲にかられると簡単に無理をします。無理をして、悪い状態へと陥ります。 私自身、無理をする性質に困らされている人間です。正義欲の制御は難しいのです。 * なおそうした問題は肉体的とは限らず、精神的に病んでしまうという事もあります。 正しいことができないという正義欲の飢餓状態は非常に苦しいものであり、 もっと言えば「やるべきことができない」という状態は精神的に非常に辛いものです。 そこから精神的に病む、脳の障害を起こしてしまうということもあるわけです。 認知系に障害が及べば自分自身が問題を抱えているという自覚さえ難しくなります。 例え肉体が休憩するべきだという反応を起こしていても人は正義感から無理をします。 無理した結果、失敗してさらに精神的に追い詰められてしまうということもあります。 脳が壊れてしまったらもはや精神論や哲学ではどうにもなりません。医療の出番です。 * 健康としては適切に自分の状態を確認し、肉体的にも精神的にも適切に休憩、 適切にメンテナンスをしながら、適度に労働するべきなのだと言えます。 今回の話はこのへんで。 ご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序21 どうも、フィロ・ディールです。 第二十一回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「正義欲求説の普及の困難性」の話をします。いつもどおり話半分でどうぞ。 * 人間はみんなが正しいことをしたいと願っている。 正義の感覚は欲望であり、理性や知性を必要としない。 それは短絡的、衝動的な行動を引き起こすこともあるのに、 「他者を守る社会的な正義」と「正義の欲望」はほとんど分離して扱われ、 社会に反する正義を悪意と言うラベリングを行って蔑視し 社会的にはそうした衝動を"正義感とは別物"だとされてきた、と言える。 しかし現実として善悪の感性とは人それぞれが持ち合わせているものであり、 その感性から衝動的に発せられる"正義感"は非常に多様な方向性を持っていて、 社会に貢献するものであることもあるが、社会的な正義に適うものとも限らない。 人間は正義感にかられれば人を害することさえいとわない。 正義の感覚として覚えてしまったものは、例え社会的な悪であろうとも使命的に行う。 そうした犯罪や過ちも、人を助けることも人を守ることも、それらのほぼ全てが 「正しいことをしよう」とする気持ちからくるものであり根本は同じだと考えらえる。 / それが今まで語ってきた正義欲求説の大まかな概要です。 そして正義欲求から見た様々な物事についてを語ってきました。 * しかしながら人が信じるものはその人の知識経験によって形成される感覚で左右される。 それがどれだけ科学的論理的に正しいと証明できるものであったとしても、 それを信用したくないと思えばでたらめな虚構であるとさえ思いこめる。 あるいはどれだけ反科学的で、反論理的で、知性も理性も無く、感覚的にだけ感じ取り、 科学的にも論理的にも不確かで反証さえ可能な事であったとしても、真理だと思い込める。 そうした知性や理性に欠けていたとしても、人間は環境に合わせて暮らす事ができる。 思慮をせず、ただただ短絡的な反応ばかりであっても人は人のように生きる事ができる。 無知や無教養によって困窮することや事故を招いてしまうような危険はあっても、 最悪死に向かうようなことはあっても、無知や無教養であること自体で死ぬことは無い。 死ぬ理由、死ぬ出来事さえ運良く避けてしまえれば、 例え無思慮であろうとも、死ぬことは無い。 / そしてそんな人が多数いたとしても、正義欲求という本能があるとすれば、 人間による社会を構築し、維持することができてもなんら不思議ではない。 正義欲求があれば知性に欠ける人間であっても社会で生きていくことができるのだから、 人間社会の多くの人間が、知性に欠けていたとしても何ら不思議でもないのだと。 そう考えられてしまうのです。 * もっと言えば「社会において行われている知識などの試験やテストの結果」は、 万人に高い知性を持っているわけではないということを示している。 学校などにおいて、テストの被験者全員に必要な教育を与えられていたとしても、 テストにおいて差が生じてしまうという事実が人間の知性の個人差を証明している。 社会には考える力のある人もそれほど考える力を持っているわけではない人も、 現代では大きな隔たりも無く集まって人間社会を構築し、一緒に暮らしている。 知性の質や傾向には個人差があります。 教育という観点から言えば、絶望的なまでの個人差があります。 誰もが理解できるわけではなく、理解しているつもりになっているだけなことさえある。 人間は巧妙に適応するため、例え考える力が弱くとも経験知識によって つまり感覚や感性によって「それらしい答え」を作り出して答えとしてしまう。 / 誰もが哲学をすることができるわけではないのだと。 現実はその残酷な、絶望的な、致命的で底の見えない深淵さえ浅いような 怖い事実をつきつけてる。 なぜなら私だって、そうでないという保証は誰もできない。 私に、私が正しいという保証はできません。 * 人間はその好みによって信じたいかどうかを決めてしまう。 感覚に適するものを正しいと思いこみ、適さないものをでたらめだと思い込める。 神がいるのだと本気で信じることのできる人もいれば、 仏がいるのだと本気で信じることのできる人もいれば、 それらはあくまでも人体の作用の一面にすぎないとしか思えない人もいる。 信じたくないものを信じさせることはあまりにも難しく、 また信じたものが間違いでないかどうかを確かめることもまた困難を極める。 / 考え方を考えることを生業とするような哲学者とて例外ではない。 一度見つけてしまった発明を根底から否定しようとしたがる変人でなければ、 哲学の道をそのまま哲学し続けていくことはあまりにも難しい。 また哲学者は、いかにして自らの考え方を他者にもさせるかで苦心する。 その考え方を、いかにして信じさせるかで苦心するのです。 * 単なる技能や知識の教育は比較的簡単だとさえ言える。 それを理解し扱える程度の知性を持った人間であれば、 適切な指導教育によって学習しそれを扱えるようになれる。 生物の反応として、必要な情報を学習して行動に反映することは ごく基本的な性質と言っていいものであり、それは知性というより本能である。 感覚的に覚え、感覚的に行うだけであっても、それらしく知識を扱える。 そこに必ずしも高い知性が必要なわけではない。 頭の中で意図的にこねくり回すような思慮が必要なわけではないのです。 知識の延長に高い知性があったとしても、万人がその知性へと到達するわけではない。 / 人類の万人がこのような話を聞いたところで、万人に聞かせたとしても、 これを理解できるわけでも、信じられるわけでもありません。 私は人に不特定多数の知性をそれほど信用していませんし、現実そうだと見えます。 * 万人が知性的に優れているわけではなく、 様々な知識を扱える人間でさえ、ただ感覚的に反応しているだけかもしれない。 そう考えれば、哲学がいかに難しいものかを改めて感じざるをえない。 知識の教育は分かりやすく、信じやすいよう、配慮して作られることで より多くの人々がそれを扱えるように導かれてきたわけだが、 哲学において、特に哲学の本質的な部分はそれがあまりにも難しい。 人に教えるという点で言えば 実演を合わせた説明が最も効果的であり、そうした映像も非常に有効で、 あるいは図解した映像や画像もまたそれなりの効果を期待できる。 しかし説明のない画像だけではやや難しく適切な説明を合わせる必要がある。 そして図解も画像も無い、文章や言葉のみによる説明は非常に教育的な効果が低い。 感覚的に感じ取ることが難しい文章や言葉では感覚的に覚える人を教育できないのです。 / 哲学が一般的な教養として扱われない何よりの要因はおそらくそこにあります。 哲学は考え方を扱うものであり、その説明は基本的に文章や言葉によって表されている。 教育という面において多くの人へ教えることがとても難しい性質の題材であり、 もっと言えば「考え方を考える」という根本的な点を教えることはさらに難しい。 基礎的な思考力は、出題傾向からも答えられてしまうテストでは測りにくいものであり、 基礎的な思考力を試す事自体、思考力そのものを求めること自体が難しい。 知識として覚えることができたとしても、哲学することができるとは限らない。 もちろん哲学が一般へと普及しない理由は、日常で必要とされない点や かと言って娯楽としても扱いにくい点も大きいです。 単純に楽しいものではありませんから。 * 正義欲求という考え方、正義欲が三大欲求に比する大きな欲望であるという考え方は、 決して私がはじめた考え方ではないと思っています。恐らく遥か昔からありえたと、 哲学の盛んだった環境であれば生まれてもおかしくない視点です。 しかし現代でもそれが当然とされていない、と言うのもまた事実でしょう。 / 正義が欲望であるというのは人々にとってあまり信じたくない、 あるいは「信じがたい」とさえ言える考え方です。 悪行も善行も、それをしている人が信じているのであれば同質の欲望からくるものだと、 人々を虐殺さえするような意識と人々を守り救うような意識とが 同じ欲望からくるものだという考え方は、人によっては受け入れがたいものでしょう。 どうしても信じたくないという人は概要を聞いた時点で聞く耳を持たなくなります。 その時点で決して少なくない、あるいは多くの人が正義欲求説を選択から落とすでしょう。 / またすぐ信じるわけではない否定的でもないという人にもうまく伝わりにくいものです。 考え方、哲学という分野は性質上基本的に文章・論理によって説明しなければならず、 その説明や論理に興味が無ければ、あるいは読解する能力が無ければ内容を知れません。 十分な能力を持った人が興味を持って学ばなければ十分に得られるものではなく、 そこでも少なくない人が正義欲求説を落とす、あるいは精確さを落してしまうでしょう。 説明を聞いたうえで信じたくないと言う人もいることでしょう。 例え肯定する人であっても、人によっては概要から表層的に覚えるだけだったり 知識として保存しておくだけで、その哲学の本質を理解して身につけるとは限りません。 * しかしそれは人間の性質から言って「しかたのないこと」です。 ただもちろん、私が正しいという保証はどこにもありませんし、 社会的な評価は大衆や権威を持った人が信用して初めて得られるもの。難しい話です。 * それではご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序22 どうも、フィロ・ディールです。 第二十二回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「正義欲求と崇拝と理想」の話をします。いつもどおり話半分でどうぞ。 祈りの話の時に合わせて話すべきことでしたが、 書き始めた当時思いつかなかったのでこの順番となってしまっています。 * 人間は崇拝という"祈りかた"によっても正義欲求を充足させ幸福感を得る事ができます。 素晴らしいと感じるものを崇め祈りを捧げることで、それだけでも安心を得るわけです。 ただ強い"崇拝"などにはある要素が付随することがあります。 それは「崇拝する側の一人として相応しい姿であることに努める」という傾向、 「崇拝する人間として、誤った行動をしてしまわないよう自らを戒める」という傾向です。 崇拝する相手に対して、恥じることのないような人間であろうとする。 それは特に直接崇拝する相手へ認めてもらうための行動をするとは限らず、 "あくまでも自らの想像で相手から認められないであろう行為を恥じる"という形で、 それによって"万が一巡り合ってしまっても一片も恥じることが無いようにする"のです。 崇拝の為に、自らの意思によって「正しい姿」を追い求め「正しい姿」であろうと努める。 崇拝ではそうした"自戒を伴う"傾向が生じることがあるのです。 * そうした"自戒を伴う崇拝"には、崇拝対象への非常に深い信頼があります。 相手が理想的な存在であると信頼をし、あるいは理想的であってほしいと思い込む。 そうして「理想的な存在を崇拝することによって、理想が実在すると思い込む」。 そうした「理想は実在させることができる」という思い込みによって、 "正しくあろうとすることが間違ったことではない"と感じることができるようになり、 正しくあろうとすることを「正しい行為である」と"実感できる"ようになるのです。 人間は何かに対して「それが正しい行為である」と思っても、 その感覚に信頼や実感が伴わない場合"それをすることが正しいと思えない"ものです。 知識として正しいと認識していても、感覚的に正しいと思えないと控えてしまいます。 そのため、人は自身の今の状態が知識として間違っていると知っていたとしても、 感覚的に正しいと思えなければ改善する事への意欲も湧かず、 惰性的に自堕落な生活を送ってしまう場合もあります。 時にはさらに悪い状態へと陥ったりしてしまうのです。 理想的な存在への"自戒を伴う崇拝"は、その状態を打破します。 感覚として"正しくあろうとすることが正しい"と感じることができるようになれば、 惰性的な、自堕落なことを戒めて改善しようとすることができるわけです。 それは決して精神的に無理をしている"不満と引き換えの自戒"ではなく、 むしろ精神的に満たされる"幸福と引き換えの自戒"とさえ言える状態です。 「不幸にならないための自戒」ではなく「幸福を得るための自戒」ですから。 * "優れたものを「正しい姿」のように崇拝し信奉することによって その姿を基準として自らも「正しい姿」であれるようを努める" そうした自戒を伴う崇拝では度々このような表現をします。 「かのお方ならばどうするか。かのお方ならば正しい方を選ぶ。」 正しい行為をするための自信や裏付けの方便として扱い、 その「崇拝している理想」を行動の理由とするわけです。 …つまり"そうした理由がなければできない"という人もいるのです。 * ただもちろん自戒を伴わない程度の崇拝もあります。 素晴らしい存在へ祈ることで幸せを得ることを基本とする程度。 よほど強い崇拝でなければ、大抵の場合はその程度で落ち着きます。 その程度でも"崇拝という正義による充足感"は得ることができるので、 崇拝することで幸福感を得ること自体は可能です。 * またそうした崇拝によって行われる行為も、 必ずしも合理的である、社会的であるとは限りません。 場合によっては不合理な、あるいは無理のある行動をとってしまうこともありますし、 あるいは反社会的な行動に走ってしまうということもありえます。 それは崇拝対象によって左右される部分も大なり小なりありますが、 基本的には「行動する人自身の正義の感覚」によるものです。 方便として崇拝対象を理由としていても、 実際にどうするかという点では当人の感覚次第ですから。 崇拝は当人の精神を豊かにするかもしれませんが、 崇拝そのものが社会の安定に貢献するとは限りません。 * 「崇拝するほど心酔する」ために必要となるのは、 感覚的に理想的であると感じられること、 "感覚的に素晴らしいと信じ込めるもの"であることです。 それはたいていの場合"芸術的に優れているもの"であることがほとんどです。 あるいは芸術的を広義に"心を動かしうるもの"全てとするならば、 「崇拝する対象は芸術的なものである」とも言えるでしょう。 つまり見ていて心地が良く、心を揺さぶられ、素晴らしいと感じられるもの。 一般的な芸術の分野が主ですが、芸術に限らずスポーツなども含まれます。 スポーツの極限状況は見る人を感動させますから。 優れた芸術には「無根拠にでも信頼を与える力」があり、 時として人の正義の感覚に大きな影響を与えることもあり、 それこそ「人生を変える」ような影響を受けることもあります。 * なお「崇拝」と仰々しく、宗教的な言い方をしていますが 実際には"崇拝"と認識せずにそうした傾向を発露させていることはよくあります。 「自分以外の何かに対して理想を抱き、それを基準として物事を考えること」 それら全てが"崇拝"の傾向として当てはまります。 表現としては「憧れ」だったり、もっと明確に「目標」だったり、 場合によっては「ファン」、最近では「推し」という表現もあります。 他人以外にも場所や、綺麗な服やアクセサリーを身につけた際に、 身が引き締まるとそれに合わせた振る舞いを心がけることも、 広義としてそうした傾向の一種と言えるでしょう。 * 人間はみんな正しいことをしたいと願っている。 かと言ってみんなが正しいことについてよく考えられるわけでも、 みんなが独りで考えてそれを信じて実行できるというわけではない。 そのため崇拝の性質ではこう表現されることもあります。 「勇気をもらう」あるいは「パワーをもらう」 感覚的に信じることが出来なければ人は実行するのをためらいます。 感覚的に信じるための一要素として崇拝の性質は役に立つわけです。 ただ場合によっては「崇拝すること自体が目的となる」こともしばしばあります。 崇拝自体を正義的な行為だと感じていると、それ自体に快楽を感じるものですから。 * あまり自信のない人、正義欲に満たされない生活をしている人の場合、 「崇拝できる相手」を見つけると精神状態がガラリと変わることもあります。 元々正義欲に満たされていない人は日常の精神的な充足が乏しく、 精神的にはあまり豊かとはいえない状態ですが、 そこに精神的な充足を与えてくれるものが現れれば 精神的に満たされ生活は大きく変化するでしょう。 満たされていない人ほど、そうしたものを見つけた時に熱狂的になりやすいものです。 元々正義欲に満たされているような場合、 精神的にも社会的にも安定している場合は そこまでの変化は起きにくいと考えられます。 結局は"心の空白を埋めるものを見つけて豊かになった"というだけで、 心の空白がそれほどない人は比較的冷静にそれを見つめることができます。 * しかしながら"崇拝の形"は実のところ人それぞれです。 深く崇拝したいものが見つかったとしても、 基本「その人が持っていた正義の感覚や知識に自信がつくだけ」で、 崇拝するものがなんであれ、当人が悪い正義感を持っていると行動も悪くなりがちです。 崇拝によって生活が整うというのも元々整った生活を理想だと思える人だけ。 崇拝する相手などの言動に合わせて多少知識を身につけることはあっても、 根本的に変わるということはほとんど無いとさえ言えます。 と言うより"根本的な部分から適合するからこそ崇拝する"という話で、 根本的な部分から合わない場合は、そもそも崇拝に至りにくいものです。 崇拝もあくまで"くすぶっていた部分がハッキリとする"程度の効果しか期待できません。 もし何かに傾倒して迷惑行為をするような人がいるとしたら、 その迷惑行為の傾向が傾倒したものに原因があるとは限らず、 傾倒しているものを口実のように使っているだけという事もよくあります。 * また強い崇拝も理想とのギャップがあったりするとそれを理由に心変わりしてしまったり、 強い執着も別の何かに興味がうつって飽きてしまったりすることもあります。 人によっては生涯をささげることもありますが、必ずしもそうではありません。 崇拝そのものはあくまでも当人の個人的なものであり、個人差のあるものなのです。 * さてこの辺で区切らせていただきます。それではご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序23 どうも、フィロ・ディールです。 第二十三回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は正義欲求説における「謙虚と傲慢」の話をします。いつもどおり話半分でどうぞ。 * 正義欲の感覚において「立場」というものは意外と重要な要素となります。 動物が群れにおける序列を重んじてそれに反する行動は攻撃的にでも抑えつけるように、 人間もまた正義欲の感覚から"立場"に合わせた行動をする傾向があります。 立場が特に強いと感じている時は「私の感覚で物事を進めるべきだ」と認識し、 「周囲は自分に従うことが最も正しいことだ」というような態度で振舞います。 立場が弱いと感じている時は「自分は控えて他人の考えを優先するべきだ」と認識し、 特に弱いと感じてしまっていると卑屈な状態に陥ります。 その場において自身が最も偉いと感じている時、支配的な、傲慢な行動をします。 自分自身の感覚が正当なルールでありルールに従わないものは悪者だという感覚で、 いわゆる自己中心的、俺ルールを振り回すような状態に陥るわけです。 反対にその場において自身が偉くないと感じている時は行動を慎みます。 ただしそれは「他者を尊重する」という意図、意味合いばかりではなく、 「偉い存在という脅威が存在するために脅威から身を守るために慎む」ということも。 * 何かしらのシステム、社会性を持った群れでは秩序を守るため、たいてい序列を用います。 集団にボスが君臨し、そのボスが優先とされる形になりやすいですわけでが、 そうした性質も正義欲求で説明することができます。 端的に言えば「優れた存在が正義でありその正義に従って暮らすことが正しい」、 というような状態で、優れた存在のために群れがあるというような感じになることも。 また争いによってその「優れた存在」が入れ替わることもあります。 そして人間であっても、そうした傾向や同じような振る舞いを見せることがあります。 * 動物の群れにおけるボスのような状態となった人間は、 「あらゆるルールの基準を決められる」というくらいのつもりでいます。 全てのルールが自分基準で決められると解釈しているため、 社会的な正義を無視することも珍しくありません。 良心や倫理観に欠けていることがあっても、当人は欠けているつもりがありません。 当人には「倫理観が無い」のではなく「何が倫理は私が決める」という状態ですから。 そしてその「ボスの感覚」というのは、本当にボスであるかに限らず、 正当な権利や権威を持っていようがいなかろうがその状態に陥ります。 「その場において最も偉い・最も正しいのは自分だ」と思い込んでいれば、 例え大した人間でないとしても、そのように振舞うことがありえます。 なおボスの感覚に陥っている人もその感覚を自覚しているとは限りません。 「既に決められている事」と思って"俺ルール"を振り回すこともあります。 それこそ"元々決まっているルールなんだから"というくらいのつもりであることも。 身勝手に決めたことさえも時には"元々そうであった"かのように振舞う事さえあります。 しかも、その不条理に無自覚であることも。 * 内弁慶やガキ大将。あるいはスクールカーストなどによる傲慢な振る舞い。 この「ボスの感覚」や序列の感覚などはとても状況に合わせて現れるものです * 権利と人の振る舞いにおいてよく言われる話として 「権利を得た人間は、その本性を現す」みたいな話があります。 あるいは「貧しい立場にあった人でも権利を持てば悪辣な振る舞いをする」という話。 正義欲求説としても人間は、もっと言えば動物は本能として根本的に 「優れた存在はその優秀さによって支配的に振舞うことが正しい」と感じると考えます。 正義欲の「正しい者が正しさを決める」という感覚によって、 「優れた者が正しさを決める」という振る舞いをするのだというわけです。 そしてそれは実際に優れている必要はありません。 「その場において優位にある」という感覚があれば、 実際にそうでなくともそうした振る舞いをする、してしまうのです。 * 短絡的な人がいわゆるマウンティング、 「自分の方が優位に見せかける言動」を取るのはそうした性質が背景にあります。 「ボスの感覚」が支配する、つまり動物的な序列が支配する環境においては、 "相手より優位であるほど、より良い立場を獲得できて、より多く幸福・快感を得られる" という法則、そうした原則によって物事が動くように認識されます。 実際にどうであるかは別として、そうした動物的な序列の感覚から 「相手の方が優位な場合、立場が悪くなり自分の権利が失われる危機感」を感じ、 「自分の方が優位であると主張して自分の立場を得ようとする」わけです。 それこそ自分の方が偉いのだと見せかけなければ不安を感じるため、 人によっては自分を低く見せるような行為も酷く忌避します。 極端な場合、相手がそのようなつもりが一切無くとも、 ただ丁寧に対応されただけで「下に見られている気がする」と感じて そのことに憤慨するというほど過敏に感じる人さえいるようです。 * しかし人によっては大きな権利を持っていたとしても慎ましく振舞い、 安易にマウンティングのような振る舞いもしない「謙虚な人」もいます。 絶対的優位にあったとしても傲慢にならず、 自制のできる高潔な人というのも稀ながらいます。 ただそうした人々の感覚も基本は「序列の感覚」に属しているとも言えます。 違うのは『優位の存在は自分以外に存在する』という感覚を持っている点です。 特に「優位に立ったとしてもルールを支配できるわけではない」と感じているため、 俺ルールで支配することはせず、用意されたルール、倫理を重んじるわけです。 そしてそうした感覚を持っているのは大抵、 そのような教育を受けてきたか、あるいはそうした環境で経験してきたか、 そう育つよう指導、誘導されてきた場合が多いでしょう。 * なお慎ましい人が全て、常に謙虚な人というわけではありません。 単純に、"その時点で自分が何かの下側に属している"と感じている間は慎ましくとも、 環境の変化から自身が上側だと認識して、偉そうに振舞うようになることも。 外面では丁寧に振舞うような人が、家庭内では暴力的なんて場合さえあります。 外では自らがボスではないために慎ましく振る舞い、 しかし自らがボスであれば横暴に振舞うわけです。 横暴に振舞うことを"人の本性"と呼ぶこともありますが、 人はそもそも「ボスにならない状況であれば慎ましく振舞い、 ボスとなった状況では横暴に振舞う傾向があるだけ」で、 そのどちらも人の性質であり、本質だとさえ考えられるわけです。 「尊重すべき上位」がいない状況なら人は身勝手に振舞えると考えられ、 どれほど横暴な人間であっても、判断能力が全くないといった状態でもなければ、 「脅威ともなりうる上位の存在」を認識すればおとなしく振舞いやすいのだと。 常に謙虚な人となるために重要だと考えられるのは 「いかなる状況でも守らなければならない道徳的な感覚あるかどうか」であり、 また、それを守ることが正しいと思える正義の感覚です。 * 現実的に常に謙虚な人となるために必要となるのは 概ね「尊敬する理想」のような存在です。 つまり言いかえれば、前回話した「崇拝」とそれによる「自戒」です。 社会的にも理想的な、自分以外への理想や崇拝を持ち、 絶対的な上位の下にいると自分を位置付けて自らを律する。 そうすることで常に謙虚な人となることができる、と考えられるわけです。 ただし「崇拝する行為そのものが高等である」と感じてしまっていると、 対象を崇拝しない他の人を見下してしまう、という陥ってしまうため、 単に「尊敬する理想」があったとしても常に謙虚な人になれるとは限りません。 理想に近づいたという感覚を持っているとむしろ尊大に、傲慢になることさえ。 「理想的な自分」が偉いのだと思ってしまうわけです。 * 人と状況によっては追い詰められている状態で、 助けようとしてくれる人にさえ憤慨することがあります。 それもまた序列やボスの感覚といった理屈に当てはめられます。 人は追いつめられて"頼れると思うものが何一つなくなってしまう"と、 序列における上位であると感じられるものも無くなってしまい、その結果 「現時点でのボスは自分自身である」ように感じてしまうことがある。 そこから「自分は正しいが周囲が間違っている」という感じ方をしてしまうと、 助けようとしてくれる人にさえ憤慨してしまうのだろう、と考えることもできるわけです。 余裕が無い人は冷静に物事を考えることも、状況を見ることもできない。 それどころか自分自身のことを考えることも見ることも難しい。 * 傲慢はそれをよく思わない人との不和を生みます。 謙虚さは、無駄ないさかいを避けるためにとても有効です。 ただしかといって過度な謙虚もまた、問題を生んでしまいかねませんが。 * それでは今回はこの辺で。ご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序23 どうも、フィロ・ディールです。 第二十三回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「正しい努力という観念」の話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * 以前、第11回「正義欲求説と祈り」で 「正しいことをしていれば悪いことにはならないはずだ」という考え方に言及しました。 人はそう思い込んでしまいやすいのだと。 そしてこの考え方を整理すると 「正しいことをすれば正しい結果が生まれ、悪いことをすれば悪い結果が生まれる」 という考え方になります。 それも一応は厳密に考えれば正しいとも言えるのですが、人は思い込みをするものです。 「正しいと思うことをすれば正しい結果が生まれる」と思ってしまい、 それが本当は間違ったことであっても「正しい結果が生まれる」と信じてしまうのです。 そうしてそれを「正しい結果を生むために正しいことをしなければならない」と考えて、 良くないことまでやってしまうという惨状さえ引き起こします。 例えば古い話、"人身御供"はその典型例とさえ言えるかもしれません。 そこまでいかずともそうした意識から無理をするという場合はよくあるでしょう。 * さらに思い込みが強いと、物事を推測するときに因果を逆転させてしまいます。 つまり「正しい結果が生まれるのは正しいことをしたから」であり、 「悪い結果が生まれるのは悪いことをしたから」と。 こうした「悪いことが起きたのは、悪い生き方をしていたから」と言う認識、 "世界の摂理として、人々にとって物事は公平になるよう万物は振舞う"といった認識は 通称として「公平世界仮説」、あるいは「公平世界誤謬(ごびゅう)」と呼ばれます。 人々は「そういう世界であってほしい」という感覚を持ちやすく、 それが世界の摂理であるかのように感じることはよくあります。 宗教では因果応報と言ったり、あるいは神罰といった表現をされることもあり 古くから超常的な摂理として語られてきました。 言ってきたように脳にとってあらゆる情報は「情報A」や「情報B」でしかなく、 それを正しいと思うかどうかはそれを信じたいかどうかに左右されてしまうため、 科学の発展した現代であってもそれを信じる人も珍しくありません。 * しかし厳密な、科学的な因果関係の存在しない「偶然としか言えないこと」は、 "偶然"以上の理由は無いとも言えます。 悪いことをすれば他人の心証は悪くなりそれだけ様々なものを損ないやすく、 良いことをすれば他人の心証は良くなりそれだけ様々なものを得やすくなりますが、 それは"心証"という因果関係によるものです。 あるいは「よく考えもせずに物事を行う」のならばそれはそれだけ失敗をしやすく、 「よく考えて物事を進める」のならばそれだけ失敗を回避しやすいものですが、 それは漠然とした感覚からの公平世界仮説ではなく、当然の論理です。 * 人の意識や作為の及ばない、知りえない領域から影響、 そうした"偶然"は科学的には「偶然としか言えないこと」です。 その偶然がどう作用するか自体は人にはどうしようもない"純粋な運"です。 "純粋な運"は超常的な現象以外で、干渉することはできません。 しかし運そのものではなく、「偶然を減らすこと」自体は可能です。 認識すること、そして考えることによって「意識や作為の及ばない領域」は減らせます。 よく考えることで"運に頼らなければならない領域を減らす"ことはできるのです。 そのため「よく考えて物事を進める」なら運に頼りすぎず悪い状況を回避しやすく、 「考えずに物事をする」と運に頼ってしまい状況の悪化を回避しにくくなります。 対策をとっていれば状況の悪化も避けられます。 * なお人間として"運が良い・運が悪い"という思い込みはどうしても付きまといます。 これまで言ってきた通り、脳にとって情報とは「情報A」「情報B」程度の違いで、 それを信じたいかどうかによって信じるかどうかが左右されるものであり、 例え無根拠でも信じることもあれば、根拠があっても信じないこともありえます。 そしてその運の良し悪しという思い込みは、大なり小なり気分を左右するものです。 気分、精神状態が左右されれば行動の傾向や質にも影響するでしょう。 "運の良い悪い"と言う感覚が全くの無意味というわけでもありません。 …ただ世の中には「運が良い人」としか形容できないような方もいます。 とても多くの状況で"偶然"が都合よく作用するような人はいます。 そうした方を見ると超常的な、「運の良さ」と呼びたい性質を持っているのでは …と考えたくなりますし、超常的な性質を信じたくなるのもしかたないとさえ言えます。 科学的に存在すると証明できなくとも、信じてしまうことはできますのですから。 * しかしながら、科学的合理的な思考だけでなくそうした超常的な感覚を含めて、 「正しい努力という観念」は人にとってとても難しい問題です。 思い込みからの「正しい努力をしていれば成功する」という解釈、 あるいは「それで必ず成功できる」という誤解、 そこから「成功できないとしたら努力が足りないから」という認識。 その浅慮からくる強い妄信は『物理的に不可能』なことを考慮できない時もあります。 人は正しいことをしたいと願っていても、 正しいと思っている行為が不合理不条理不効率であることは珍しくありません。 結果、「努力をしたつもりでも思い通りにならないこと」が往々にしてあるのです。 ですがそのくらい強い思い込みから努力することは 「必ずしも純粋に"悪い"わけではない」という点がこの問題をややこしくします。 よく分かっていなくとも、行動することで得られる結果はある程度あるものです。 ただ続けるだけでも相応の結果は得られる場合もあり、良い結果となることもあります。 行動を初めてから興味を強くして、より理解を深めていくという場合もありますし、 そもそも「間違えないために行動しない」では結局何もできません。 そうした関係から「合理的でなくても成功してしまう例」も出てしまい、 そうした成功体験から『不合理な努力を推進、推奨する』ことまであります。 なまじ成功しているだけに「適切な方法」と捉えられてしまいやすいわけです。 超常的なことをそう捉えてしまうことも当然としてあります。 * 人がより前向きな行動をとるために、 「正しい努力」という観念はある程度必要なものとは言えます。 前向きな行動を取れなければ物事の発展が難しくなり、大きな成果が見込めません。 今は不可能と思えるようなことでも研究すれば可能になることもあります。 新しいことへチャレンジすることはとても大切なことだとは言えます。 しかし現実として実際に"合理的な努力"は簡単に明確化できるとは限りません。 やっていても不合理な努力を自覚できるとは限りませんし、 人から不合理だと言われてもそれを見直せるとも限りません。 また人がどれだけ努力をしたとしても分からないことは運任せとなってしまいますし、 物理的に不可能なことはどうやったって不可能です。 ですが、そのことを理解できるとも限りません。 よく考えもせずに可能だと思ってしまうこともよくありますし、 また例え物理的に可能になりうるとしてもそれを現実的に考えていけるかは別。 現実的に、計画して研究してと段取りをすれば可能だとしても、 漠然とやるだけでは無理、あるいは途方もない時間が必要になることもよくあります。 よく考えてやれば難しいことでも負担も少なく、苦労を軽減することもできますが、 人は「正しい努力」という妄執によって"余計な苦労"をしてしまうこともあるのです。 そして場合によってはその"余計な苦労"を人に強いることさえあります。 * 信じてがむしゃらにやることで道が開けることもあるにはありますが、 ただ無思慮では不確定要素、未確認の要素が多くトラブルを起こしやすくなります。 またよく考えられていない状態では状況を冷静にコントロールすることも難しく、 トラブルが起きてしまったときに十分な対応ができずに事態の収拾も難しくなります。 あるいは状況がわからず事態を悪化させてしまうことも。 そして何より『その失敗に対して、適切な反省をすることができない』すらあります。 それは大抵"当人は正しいと思っている"ために間違いだと認めたがらないのです。 よく考えていれば論理的に失敗を分析し反省や対策もできますが、 そうでなければ失敗の理由を強引に決めつけて考え方を改めることは至難です。 酷い場合、対策らしい対策をとることも難しく同様の失敗を繰り返し、 最悪、より大きな失敗に至ってしまうことさえ。 むしろ分かりやすい小さい失敗を起こした方が"幸運"とさえ言えるかもしれません。 失敗によって反省するチャンスがあるわけですから考えを改める可能性もあります。 必ずしも"分かりやすい失敗"があって、そこから最悪の結果に至るとは限りません。 最初に直面することになる問題が、最悪の失敗である可能性もありえるのですから。 物事を想定して動ける人はその最悪の失敗を警戒しながら予防する事もできますが、 想定することなく動いてしまう人は失敗の予防をできません。 * なお「不可能なこと」や「現時点では不可能なこと」は往々にしてあります。 よく考えて"合理的な努力"を積み重ねたとしても、困難なことはよくあります。 それこそ、結果が生まれなかったのは単に努力が足りなかったからとは限りません。 どれだけ頑張っても無理なものは無理です。それはしかたないことです。 とはいえ「本当に無理なのか」を証明するにはやらなければ分かりませんが。 また完全無欠、完璧な計画でなければ100%絶対の成功はありえません。 人類がどれだけ綿密かつ柔軟な計画を立てても「運悪く」失敗することはあります。 失敗は「可能な限りの努力を怠ったこと」を証明するものではないのです。 * それでは今回はこの辺で。ご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序24 どうも、フィロ・ディールです。 第二十四回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「認知上の魔法と呪文」の話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * いままで「脳にとって情報Aと情報B程度の違いしかない」と何度も言ってきました。 「情報がなんであるか」よりも「情報を信じられるかどうか」を重要視してしまうと。 人間の理性があっても、物事を単純化して感覚的に扱ってしまうわけです。 世の中は便利なもので、複雑な仕組みがあっても単純に使えるよう整備されていて、 扱うために仕組みを理解している必要が無いことも多いです。 また人間は常に論理的な言動をとるとは限らず、 感覚的な反応、直観的な言動をとってしまうことも珍しくありません。 もちろんそれは決して悪いこととは限らず、 物事を単純化することで思考の時間を短縮して判断を早くしたり、 余計な手間を減らすことでより注力すべきところへ手間をかけることができるなど 生物として合理的な側面も少なからずあります。 しかし物事を単純化してしまうと、必要なことが抜け落ちることもよくあります。 「論理的に必要なこと、必要な根拠がないまま物事を扱う」こともあります。 そうした論理的な根拠がなく、仕組みを理解していないまま扱う行為を 私は「魔法のような感覚」と喩(たと)えています。 また特にそうした感覚から出る、非論理的な言葉を「呪文のよう」と表現しています。 * ここでいう魔法とは「いわゆるファンタジーのいわゆる魔法」のことです。 呪文を唱えたりして超常現象を起こす、科学的根拠のない手法。 通常の自然の法則、物理現象を経ずに何かしらの結果をもたらす神秘の奇跡。 そうした「現実的な中身を理解できないこと」が魔法のような感覚であり、 魔法の様な認識とは、おぼろげな「理由」と「結果」ばかりしか認識できていない状態。 当然、その理由が論理的なもの、現実的なものとは限りません。 そして「魔法のような感覚」とは、 実際の現実的な事象に対してもそのような感覚で認知している状態のことです。 例えば「Youtubeを色んな動画が見れる所」としてだけ認知している状態。 実際は色んな人が動画の投稿や配信してそれを閲覧できるウェブサイトであり、 他にも様々な要素が複雑に存在しているところですが、 それについて詳しい所はわかっていない人も少なくありません。 * 人は喋る時、たいていの場合感覚的に喋るものです。 多くの場合感覚的に「こう言うのが良いかな」という思いつきで喋るもので、 そのためその思いつきが非論理的なことも珍しくはありません。 もちろん思いつきが全くの的外れとも限りません。 直感的なものが本質に近い場合もありますし、 直感的な違和感が根本的な問題点を察知していることもたまにあります。 ただ基本的に「こう言うのが良いかな」という意識から出されるもので、 たいてい思い通り、あるいは想定内の反応を期待しています。 そのため状況がその人にとって好転しない場合、不快感やいら立ちを覚えがちです。 好転したと感じる範囲は人それぞれではありますが、 人と場合によっては思い通りにならないと混乱したり、怒ってわめくことも。 話すことは人と人との信頼関係を作り、社会を円滑に回すために必要なことですが 時にはそれが人や社会を不安定にすることもあるわけです。 重要なのは、それらはあくまでも同一の性質から生み出されているとだろうという事。 例え侮辱や差別も、正義欲求として生まれてくるのと同じように。 * しっかりと考えることができる、考える意識のある人は 思いつきで話しつつも、適時修正することも「良い」と思いやすく、 結果として論理的な方向性へと到達できます。 しかし考える意識、論理的な意識が無い人にとって言葉は呪文に等しいものです。 中身がどうであるか、論理的にどうであるか、根拠がどうであるかは関係なく、 「この呪文によってそういう結果が得られる」という感覚で使うことがあるのです。 また物事についても「この魔法によってそういう結果が得られる」という感覚です。 「こういう結果が得られるだろう」という期待から、強引な呪文を唱えることさえ。 いわゆる「いちゃもん」と呼ばれる言動は、その典型例と言えるでしょう。 極端な場合「嘘」さえもついてしまうこともあります。 当人にとって「より良い状況を作り出せる呪文」と思えば、嘘であろうがつくのです。 嘘であると見抜かれた場合に状況が悪くなるとしても、「呪文」を信じて唱えるのです。 もっと身近な呪文を上げるなら「仮病」や「親類の不幸」でしょう。 実際にどうであるかは関係なく『こう言えば、状況を回避できる』という「呪文」です。 また場合によっては、その「嘘」に対してほとんど無自覚な人もいます。 「わるいこと」と認識することなく、鳴き声のように嘘を発することさえありえます。 * なおこの「呪文」は必ずしも明確な虚偽、欺瞞であるとはかぎりません。 例え誠意があったとしても「感覚的に、こう言うのが良いだろう」として、 論理的に間違ったことを言ってしまうことはありえます。 分かりやすい例で言えば、いわゆる「精神論」の類は善意の呪文の典型例でしょう。 気持ちでどうにかなる場合はあっても、気持ちではどうにもならないことに対しても 「気持ちという魔法があれば問題は解決するはずだ」と呪文を唱えてしまう例です。 悪質な場合、非科学的なものをあたかも科学的であるかのような呪文を添えて唱えます。 想像や妄想から「これはわるいものだ」「これはよいものだ」と解釈し、 科学的な根拠もないのに【科学的な】という魔法の呪文を添え、他者を扇動するのです。 それは当人、あるいは当事者は大真面目に「正しいことをしている」というつもりです。 しかし実態は非現実的で非科学的な、正当性の無い言動であることもあり、 それこそ無意味どころか、想像に反して害を与えることさえあります。 「わるい魔法を遠ざけて、よい魔法を使うことで健やかに暮らせる」 みたいな妄執を持ってしまうことは現実としてありえるのです。 * ただ現実として、そのような「印象による選択」が全て"悪い"わけではありません。 文化的に「現実的に良い方法が良い魔法のように言い伝えられてきた」という場合や、 「悪い方法が悪い魔法のように言い伝えられてきた」という場合もあります。 社会ではそれらも含めて、「情報Aと情報B」のように混在しているのです。 人間社会でも、頭の良くない人は多いため 社会ではそうした人達でも扱えるように取り扱いを分かりやすくしたものが多く、 例え魔法のような認知しかできなくとも、生活において不便するとは限りません。 「分かりやすくすること」は情報共有の時間を効率化するためにとても重要視され、 またビジネスなどとしてもより多くの人が扱えるものの方が市場を広くしやすく、 そのため一般の生活において物事の詳細を考える必要性が無いことも多いのです。 そうした面や「哲学の困難性」の問題も含め、 情報Aと情報Bの精査を行えない人は珍しくありません。 * こうした「魔法と呪文」という観点について、ものすごく極端な例をあげてしまうなら 「法律という言葉の魔法」が強力かつ厄介なものでしょう。 法律などは基本"社会秩序の維持のためのシステム"であり、 現代社会においては概ね"社会的な合議に基づくルール"です。 また現代的な法律は原則的にその法律の運用に従って粛々と使われるものであり、 特に「個人が身勝手に解釈してそれを当然として運用すること」は無法な振る舞いです。 しかし人によっては法律を「その人が思う秩序を守るための魔法」と認知していたり、 酷い場合は「他者を威圧強迫できる魔法」みたいに認知していることさえあります。 それこそ法律には無いような身勝手なルールを持ち出すことも。 極端ではあるものの分かりやすい例として挙げるのなら、 「犯罪の被害者はその被害に応じた賠償によりお金を得られる」といった情報から、 "意図的に被害者となれば、それでお金が得られる"と解釈してしまうこともあるのです。 ルールを左右できるような立場の人でなおかつそれが可能な環境であれば 身勝手なルールまでもまかり通ってしまうこともあるにはありますが、 そうでない人や場所ではただただ不当な振る舞いでしかありません。 法律はその法律の範囲内において、規定あるいは慣例通りの運用が行われるものであり、 その人が何を思っていようとも法律を逸脱した行為や不適切に行使する行為は ルールの理念から言えば「社会的法的に認められるべきではない」と言えるでしょう。 * どのように認識していようとも現実世界はその法則に従って動くものであり、 「人間の思い込みによる理屈」はその人の妄想の世界の法則でしかありません。 人間社会もまた人間社会の法則によって動いていくものであり、 一個人がどのように考えていたとしてもそれは一人の考えでしかありません。 魔法のような感覚で物事が思い通りに動くこともありますが、そうでないことも多い。 理屈や根拠のない感覚であれば、むしろ思い通りにならない方が当然と言えます。 しかしその魔法のような感覚、思い込みを解消することも決して容易とは限りません。 元々「脳にとって情報Aと情報B程度の違いしかない」わけですから、 本当に科学的論理的なものを信じるためにはその感覚を身につけなければ難しく、 その感覚を身に付けられるかどうかは、環境や経験に左右されてしまいます。 もっと言えば科学とは研究、確認や精査を行いそれを基準とするものであり、 つまり「自分の感覚を最重要としない」、感覚を蔑ろにするとさえ言えるものであり、 特に脳細胞が安定し、新しい感覚を身に着けることが難しくなる大人になってから そうした感覚を新しく身に着けることは、至難と考えられます。 * それでは今回はこの辺で。ご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序25 どうも、フィロ・ディールです。 第二十五回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「反社会的行動を伴う信仰的な価値観」の話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * 宗教について教育、神秘性や認知、正義欲求の話をより深めるならば、 「社会を乱すような価値観を持った宗教」についても触れなければなりません。 正義欲求説から言えば、それらも結局は他の宗教と大差なく、 「それが正しいと思い込んでいるに過ぎない」の一言でも済みます。 信仰の自由から言えば「あらゆる信仰はその行為が犯罪行為でなければ問題ない」ものの、 しかし「社会にとってマイナスになる方向性を持っている」と社会的な問題になります。 * 極局所的な一例を仮定するならば「生贄」などが分かりやすいでしょう。 大昔では人の力の及ばない物事に対して「神へ生贄を捧げる」という儀式がありました。 現代で言えば非科学的・非論理的で人命という高すぎる代償を払う価値を問われるため、 まずありえないことではありますが、そうした信仰を持つことも不思議でありません。 「行動をすれば、その行動に見合った見返りがあるはずだ」という信仰が増長すれば 「大きなものを代償として支払うことで、大きなものを恩恵として得ることができる」 という認知に陥ることがありえます。これは合理的な話ではなく"魔法の認知"で、です。 これはこれまで話してきた話の一側面、 「正しい行いをすれば、正しい結果が得られる」という思い込みの一種に過ぎません。 基本的にはごくありふれた「努力をすれば、結果が得られる」という信仰の一側面です。 * 「生贄」の信仰が増長すると「人の命を捧げれば恩恵を得られる信仰」が形成されます。 これは当然ですが、"自分の命を捧げる"とは限りません。むしろそれは例外でしょう。 つまり「他者の命を捧げることによって超常的な加護を得られる」という形になります。 社会一般で言えば、当然人命を軽んじる行為は犯罪的とされるものです。 社会的には通常認められることのない犯罪行為であるため目立つことはありませんし、 もしそれが明らかになれば社会的な制裁を受けることになり、損失も大きくなります。 また科学的に言えば「人が死んだところで、その人物の活動が失われるだけ」です。 超常的なものがなければ生贄も、人身御供も"祈り"の一種でしかありません。 それこそ短期的に、安心感や何かしらの快感を得ることができる程度でしょう。 しかし「大きな代償によって、大きな恩恵を得られる」と短絡的な信仰と、 「人命を大きなもの」としながら「人権を軽んじること」が組み合わさってしまえば、 そういった価値観が形成されてしまうことは、そう不思議なことではないのです。 それこそ実在していても、別に不思議でもなんでもありません。 人であっても"そういった価値観を醸成されていけば、そういう価値観になる"のです。 * またそこまで極端なものでなくとも、「反社会的な行為」は 精神的に未成熟な人にとって「常人には"できない"特別なこと」と思い込むことがありえ 「それができれば他の人よりも優秀な存在である」と感じることはありえます。 犯罪的行為でも『他人よりも優れていることの証明になる』と思い込むわけです。 罪悪感や恐怖心を"克服"して「他人よりも多くのことができる」という心理状態。 そして「犯罪をすることが正しいという信仰」から"正しいと思うことをする"わけです。 ただ"人にできないことをする"のもそれが反社会的でさえなければ真っ当なことです。 犯罪行為は犯罪行為。問題は「常人なら当然"やらない"こと」をやってしまうこと。 基本的に犯罪はなんら高尚な行為でも何でもなく、ただただ愚劣な行為です。 社会的に非難され許容されるべきではないからこそ犯罪という扱いをされているわけで、 それを行えば当然社会に敵対する行為として扱われ、社会的に制裁を受けるものです。 * もし「反社会的行為に対する信仰」が現代に存在するのであるとすれば、 それは巧妙に、あるいは狡猾に、うまく隠蔽しながら行われていることでしょう。 そして「社会の目から逃れる」という困難性が加わることによって、 その信仰、思い込みはより強いものになるでしょう。 「平凡な人類とは一線を画す、抜け出した優れた人類だ」と思い込むことでしょう。 存在するとは思いたくありませんが、もしあるとすればそうした形態になるでしょう。 社会的に問題にならないような環境を整えることによって秘密裏に行い、 さらに例え多少漏れても「荒唐無稽でありえない」というカバーストーリーで覆い隠す。 反社会的行為に限らず秘密を重んじる宗教はありますし、 反社会的行為となればそうなることも当然の流れだと考えられます。 * 信条、信仰の自由として、社会的に問題のある行為へ至らなければ、 どのような信仰、信条、思想を持っていたとしても自由なことかもしれません。 特に内心の自由を尊重する場所において、想像思慮の範囲である限りは許容されます。 例え過激で、口にすることさえ憚られるような嗜好を持っていたとしても、 それが社会的な損失を与えないのであれば、社会的には問題が無いとも言えます。 フィクション、ファンタジー、空想の中であればいくらでも許容されることでしょう。 創作、想像において反社会的な行動をえがいたとしても、 表現の自由を尊重する場所においては表現上のものである限り許容されます。 しかし現実ではそうはいきません。 それぞれの人は、同一のものが存在せず、ほぼあらゆる影響は不可逆なものであり、 また各自の思考が存在し、それぞれに意図があり、その中には正義の欲求も抱えている。 社会一般では人の保護されるべき基本的な権利、基本的人権が尊重されている。 それに背けば社会から、あるいは他者からの反発を招くのも当然であり、 社会に反する行為であれば、それは"社会的な正当性"によって処罰されうる。 * 人によっては社会一般、民衆を衆愚とし、愚劣なものであると考え、 優れた人間がそれらを制することは正当な行為だという感覚を持ち、 その中で「反社会的な行為は"本来"正当なものだ」という思想を抱いてしまい、 結果、独善的な正義を振り回すこともあります。 おそらく他者を尊重しない、不特定多数を尊重しないような環境で育った人は その環境に合わせ重んじて、そうなってしまいやすい傾向にあることでしょう。 しかし「他者の信条に反すれば反発が生まれる」という当然のことを理解していれば、 それを考慮に入れて、折り合いをつけながら生きていけるかもしれません。 それを理解できていないと、安直に反社会的な行為をしてしまいます。 * また反社会的な行動は、特別な能力や才能をほとんど必要としません。 事業の才能、スポーツの才能、芸術の才能、社会的に認められる能力、 それらが無くとも「配慮の欠如」あるいは「想像の欠如」があればできてしまいます。 あるいは言い繕えば「挑戦的な行為」とも言えるかもしれませんが、 それはそれほど建設的でもなく、社会的に迷惑となることがほとんどです。 ハッキリ言ってしまえば、"いわゆる良心の欠如"を証明しているだけであり、 それは「ばかげている行動」さえも「高尚な行為」のように扱ってしまう状態です。 つまり人々から称賛される"何か"、建設的な"何か"を持たず、 「自分の生き方への自信や安心の無い人間が、その不安と無力さを紛らわせるために "常人ならやらない"反社会的な行動で埋め合わせている。」 と表現してもいいくらいでしょう。 * 何度も言ってきたことですが、「人はみんな"自分は正しいのだ"と思いたい」。 しかし、その感覚、方法は人それぞれ、何を正しいと思うかは人それぞれです。 そのため、かならずしも社会的、法律的、道徳的に正しいとは限らない。 だから「常人とは違うんだ」と、反社会的な行動をとることもありえるのです。 そして繰り返しになりますが、社会的な正義とは個人の正義そのものではありません。 人々が交流し「個人の正義感」同士で価値観を共有し決めるのが「社会的な正義」です。 つまり「社会的な正義とは、人々の合意によって暫定的に決められていくもの」です。 一個人、あるいは特定集団が「これは正しい」と主張していたとしても、 それが人々に、社会的に認められることが無ければそれは社会的な正義とはなりません。 特に「他者を害する行為」が社会的に認められるには"相当の事情"が必要であり、 反社会的な行動はよほどのことが無い限り社会的に認められるものではありません。 * 生物的な仕組みとして、反社会的な行動の信仰を持ってしまうことは当然ありえます。 しかしそれを実行してしまうと"社会的な反発を招く"こともまた当然なことです。 犯罪行為に至る心理自体は理解できますが、 しかし社会的に肯定してよいものではありません。 社会を害する行為が批難されることは当然。 反対に、社会に資する行為は称賛されやすいものです。 社会的に言えば使命的な行動は"社会へ資する行為"であることが理想的でしょう。 * 最後に一つ。どうしても破壊的行動への衝動があるのならば なにかしら平和的な解消法を試みることが望ましいと言えます。 そうした欲望を持ってしまうこと自体はしかたのないこととさえ言えます。 欲望を消滅させることは難しく、"代替手段"はどうしても必要になりがちです。 最も分かりやすいもので言えばゲーム、フィクションで解決するのです。 特にゲームのルールの中であれば模範的な解消法とさえ言えるでしょう。 * それでは今回はこの辺で。ご聴講ありがとうございました。 //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序26 どうも、フィロ・ディールです。 第二十六回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「」の話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * //////////////////////////////////////////////////////////////////// *序26 どうも、フィロ・ディールです。 第二十六回です。いつもどおり前回までの内容が前提となりますので、 見ていない方、忘れた方は初回から前回までを見てきてください。 今回は「」の話をします。 いつもどおり話半分でどうぞ。 * /////////////////////////////////////////////////// /////////////////////////////////////////////////// *はじめに旧(新は下) これから始まる音声についての注意事項です。 この音声は私の考えを記録したものです。 あくまでも"私の考え"であり、社会的な正当性を担保できるものではありません。 社会においては、社会的に非難されるべきものは非難されるべきであり、 また社会的に守られるべきものは守られるべきであると考え、 しかし私がそれら一切についてを保証するものではありません。 この音声はその時点での私の考えを記録し、音声化したものですが、 この音声はありとあらゆる主義主張、思想哲学について その一切を積極的に肯定するものではありません。 その一切を積極的に容認するものではありません。 その一切を積極的に擁護するものではありません。 この音声の主目的は創作活動や学術研究へのアイディアの提供であり、 直接的に何かしらの主義主張思想哲学を強いるためのものではありません。 ありとあらゆる人へ、私の考えをその言動の根拠とされたとしても、 私がそれを認可するものではありません。 またこの音声記録はあくまで記録時点での考えであり、 今現在同じ考えを持っていることを保証するものでもありません。 * 私は私自身の考えに基づき、不特定多数の人の知性を信用していません。 人間の知性は極めて大きな個人差があり全てを信用することはできません。 故に、私は人によって「私の話を理解しない人間」「私の話を曲解する人間」 あるいは「私の話から妄想を膨らませる人間」などなどを恐れています。 つまり杞憂のように"私の話を聞いておかしな行動をとる人間"を恐れています。 それが杞憂であることを願っていますし、杞憂で済めばそれでいいですが、 私はそこまで不特定多数の知性を信用できません。 それではご聴講ください。 /////////////////////////////////////////////////// 新 *はじめに これから始まる音声についての注意事項です。 この音声は台本の編集時点での私の考えを記録したものです。 今現在同じ考えを持っていることを保障するものではありません。 またあくまでも"私の考え"であり、社会的な正当性を担保できるものではありません。 社会においては社会的な評価が重要であると考え、 しかし私がその社会的な評価を保証するものではありません。 この記録の主目的は創作活動や学術研究へのアイディアの提供であり、 これらはありとあらゆる主義主張思想哲学について、 それら一切を積極的に肯定、容認、擁護するものではありません。 何かしらの主義主張思想哲学を強いるためのものではありません。 これらを言動の根拠とされたとしても、それを認可するものではありません。 * 私は私自身の考えに基づき、不特定多数の人の知性を信用していません。 杞憂で済めばいいのですが"おかしなことをやらかす人間"を恐れています。 そのためこのような前置きをしておくことにしました。 それではご聴講ください。 ///////////////////////////////////////////////// 2 *はじめに これから始まる音声についての注意事項です。 細かい注意事項に関しては、はじめの動画の冒頭に書かれています。 内容も以前の動画からの続きであるため、 先に前の動画からご聴講いただきますようお願いします。 それではご聴講ください。 ///////////////////////////////////////////////// 3から *はじめに これから始まる音声についての注意事項です。 細かい注意事項に関しては、はじめの動画(#1)の冒頭に書かれています。 内容も以前の動画からの続きであるため、 先に最初の動画からご聴講いただきますようお願いします。 それではご聴講ください。