散文

ファイル掲載日:2025年12月25日(第一版)
ファイル更新日:2026年01月26日(数値少し修正:100年前後→150年前後)

追加散文『Additional Considerations: English Details』 Andil.Dimerk 前段:散文『The Unfriendliness of English - English is Not-humanity』 ## 前説 ※免責:筆者はいずれの専門家ではないため、     厳密な精確性においては各自の調査確認を必要とする。 ※免責:繰り返すが、詳細な精確性は全く保証しない。     基本として「素人の与太話」として、話半分とすること。 ※この散文は散文『言語について』を編集したあとに思いついたことの整理である。 ※比較のために、かなりの割合が日本語の話になっている。 ※補記:文中の[]の中は、文章において翻訳するべきではない文字列である。 ※補足:漢字は「表語文字」というカテゴライズを取ることもあるが古い分類法で、     現代的な分類では「表語文字」、「語を表す」に分類されている。 ※補足:「表意文字」は文字の分類上、「音を指定しない形式」の文字のみを指す。

目次  # 追加散文『Additional Considerations: English Details』 ※これは散文『The Unfriendliness of English - English is Not-humanity』の後に思いついた、追記的文章のまとめである。ある程度独立した文章としているが、先述の散文を前提としてまとめている、補足的な考察としての散文である。前提知識として、先述の散文を必要とすると想定している。 ※改めて明示しておくが、英語は事実上の国際的共通言語として広く使われている実用性の高い言語であり、その事実についてを否定するところは一切ない。英語は実質的に「人類にとって偉大な言語」であると呼ぶことができるものであり、その事実上の理解を前提として、考察を進めるものである。 ※免責:繰り返しの説明になるが、筆者はいずれの専門化ではなく、厳密な精確性においては各自の調査格品を必要とする。詳細な精確性は全く保証できるものではなく、基本として「素人の与太話」として話半分とすること。筆者は純粋な日本人であるため、その観念が強く影響している可能性も否定しない。 ※補足:[]内の文字列は通常、翻訳不可な領域として設定している。[]内はその言語としての形式や情報を示すための領域であるため、これを編集してしまうと、その文章の説明が成立しない状態となってしまう。翻訳する予定も必要性もないことではあるが、一応の整理としてこの設定をしている。 以前の散文[TUoE-EiNh]はあくまでも「英語の不親切さ」を主題として、言語としての難しさについての考察を整理した文章である。今回の散文は、英語と英語文化の性質についてを主題として考察を進めていく内容となる。独立して書いてる部分も多いが、前回の散文へ任せている部分も多いと想定している。

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目次  ## 独自性:言語の違い 大前提の話として、言語の違いとは「音の違い」や「文字の違い」だけではない。まず原則的に多くの言語において、単語を1対1で入れ替えるだけで翻訳が成立するような「近い言語」ばかりではない。異なる言語体系では、その設計や、構造そのものが異なることも多いと説明するべきである。 「語順の違い」といった表層的な違いだけでもなく、言語の違いには「言葉に関する文化の違い」が生じるものである。つまりその言語を形成した文化が歴史的に、どのような言葉の使い方を積み重ねてきたのかによって、言語体系もまた、大きな違いから小さいな違いまで、異なる様式が形成されると言える。 「翻訳によって対応する近い言葉」であったとしても、それが必ずしも常に同じ意味を保障するものではない。例えば日本語の[みぎ:右]と英語の[Right]は、翻訳的に対応する語であるが、日本語の[みぎ]は主に「方向における右側」を表す語だが、英語の[Right]は「正当な」という意味でもよく使われる。 言語の違いとは、表層的な「使っている言葉の音・文字・語順」などが違うのではなく、より根本的に「言葉の使われ方・言葉たちの意味」が全く異なると説明しなければならない。また言語の違いは「言葉によって表される世界」にも違いを生みだすものであり、強く言えば「世界観が違う」とさえ言える。 言語とは、世界を定義して識別する効果を持つものとさえ言われる。また言語の性質は、その文化にも大きく影響を与えるものであると説明できる。もちろん言語のみによって文化が形成されるわけではないが、言語とは人々の暮らしに大きな影響を及ぼすものであり、社会形成も大きく左右すると考察できる。 文化が言語を形成していき、また言語が文化を支えるという関係性を持つと説明できる。そして、より短期的で具体的な実益においては、使うことのできる言語の文化領域が、個人にとって接触できる世界の範囲を形作るとも言える。英語を知れば、直接、英語の世界から情報を得られるようになる。 しかし、さらに短期的で社会的な事情において、「言語の学習性」という問題も説明しなければならない。つまり、その言語を知ればより多くの情報を得られることができるとしても、その言語を覚えるために時間を必要とする。ラテン語を知れば、多くの古典を原文で読めると言えるが、その労力は大きい。 その学習性の問題は、たとえ母語であっても自動的に万全な学習が保障されるわけではない。言語の学習とは、教育する環境と当人の努力を必要とするものであり、その言語の性質に応じて、言葉の聞き取りや発声、読み書きできるようになるまでの労力は大きく変わってくると説明しなければならない。

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目次  ## 形式性:英語における形式性の強さ 英語は、その言語の性質として「極めて形式性が強い」と評することができる。形式性の緩い言語の話者には想像しにくい所となるが、英語は形式性から外れると「文章が成立していない」という状態が当然のように発生する。内容が間違っているのではなく、文章そのものが不成立であるとされるのである。 その形式性によって、英語は「文章として、正しく構成すること」を原則的に強く求められる。英文ではその言語の構造として、構造に必要となる情報を十分かつ適切に並べるという形式性とその習慣を持つ。これによって、英語は一般的に「いつも十分な情報を揃える言語文化を持つ」と評されやすい。 さらに英語文は文法構造が簡素化されているため、単純な語の配置だけで「シンプルな表現で、一意な文章を構築しやすい」と評される。特に、英語文化では「一意に判断できる文章・言葉にならなければ、文章・言葉の表現として無作法である」と説明できるほど、言葉の明晰さを求める言語といる。 ただしその作法とは、英単語が極めて不安定な語を多く持ち、これを制御するために十分かつ適切な文章を必要とする背景から来ていると説明するべきである。「一意に判断できる言葉でなければ無作法」とされる傾向の本質は、「一定の判断が難しい単語が多いと評せる言語基盤」を持っていることである。 英語の単語は、その使い方によって大きく意味を変質させてしまう語が多く存在し、特に常用され頻出する単語ほど多義性が非常に広い傾向を持つ。英語は、極めて不安定な語を多く、意図を規定した十分かつ適切な文章が構築されていなければ、本当に「何を言っているのか分かりにくい」のである。 しかも英語は、語の属性や状態を語順の位置付けに従って規定する形式であるため、「文章の乱れによって、劇的に語や文章の意味が変質する」という不安定さを持つ。特に、もし言葉の位置がズレると意味が変わってしまうため、語順がズレるような省略も原則的には許されない傾向が形成されている。 さらに英語では「語の形式上、語の属性として入らないはずの位置付けでは意味自体が成立しない」という状況や「語の形式上、対象を必要とする語に対象が存在しないため、言葉の意図が不明瞭になる」という状況が発生しやすい。そのようにして「文章が成立しない」という状態が発生すると説明できる。 もちろん、英語文化でも、非常にパターン化されている定型表現の範囲であれば、意味や意図が自明であるとして省略される例外は存在する。しかし単語の意味が広すぎる場合が多く、類推可能性が広すぎるために、「自明的な要素の補完」ができる領域は定型表現のフレーズに限定されていると考察できる。

目次  ### 形式性:英語における形式性の過酷さ 英語は語順において「主語-動詞-目的語[SVO]」と呼ばれる形式性を文法法則として規定している。例えば[You go to the car.]は「[You]という主体が、[Go to]という動作を、[the car]という対象へ向ける」という意味になる。英語では「主体/動作/対象のいずれであるか」の判別を、語順に依存している。 文章が崩壊する例として、例えば[I car go to.]では「[I]という主体が、[Car]という動作を[Go to]という対象へ向ける」という文章構造となり、日本語で言い表すと[私は、「仮定:目的地への移動と呼ばれる存在対象」に対して、くるまする]という意味不明な状態となるために、「文章が不成立」となる。 語の多義性の例として[Fish]はそのままで「魚」を表すが、「捕獲の釣り」の行動を示す語でもある。例えば[Fish fish fish]という英文は「[Fish]という主体が、[fish]という動作を、[fish]という対象へ向ける」という構造から、「主体の魚が、動作である釣りを、対象の魚へ向ける」という意味になる。 典型的なズレの例として、[I fish in the pond.]は「主体の私が、動作である釣りを、対象の池の中へ向ける」という意味になるが、[fish in the pond]では「池の中の魚という情報を持った存在を表すひとまとまりの短い言葉」が形成され、言葉の状態としても通常の1文ではない状態となる。 このように英語は文章の構成にとても繊細な注意を必要とする言語体系をしているため、意思疎通に致命的な問題が生じてしまいやすいと言える。そのため、英語圏の母語教育では「正しい構成の文章を構築しなければならない」という圧力やストレスが、特別に強い傾向を持つと説明できる。 形式性の強さは「法則に従うことで一意な文章を構成しやすく、またシンプルな文章でありながら誤解可能性を極力減らすことができる」という英語の強みとして語られやすい所だが、その実態は、英語の多義性や不安定さという脆弱性を克服するために、標準的な形式性がとても強く求められていると言える。 なお英語が「シンプルに一意な文章を構築しやすい」と言っても、文章構造が長くなると、文法上は成立していても必ず一意な意味に定まるわけではない。典型例として[I saw the man with a telescope.]という文章は[with]の多義性に対して意味を絞る語が存在しないため、その解釈は一意に定まらない。 その[with (a telescope)]の部分は、語に対する補足説明を追加する表現だが、これは「主体・動作にかかる」という場合と、「隣接語にかかる」という場合が、同じ表記方式によって併存しているため、例文のようにどちらに[with]がかかっても成立してしまう表現では、意味が一意に定まらない状態になる。

目次  ### 形式性:英語における形式性の重要さ 英語の1文を揃える必然性として、例えば[The man fired a -...]の文章は、後に続く語によって極めて広い意味が想定できる。[fired a gun.](銃を発砲した)、[fired a worker.](労働者を解雇した)、[fired a torch.](たいまつに火をつけた)などの意味へと展開が可能であるため、対象の省略はできない。 [fired]はかなり極端な例ではあるが、英語にはやや広い意味へ展開する単語が珍しくない。この傾向は頻出語ほど顕著で、英語では「その単語がどのような立場で使われているのか」を確定させる必要性が強い。しかも構文上「対象Oより前に動作Vが示される」ため、動作の意味は結局、後から確定される。 例えば[I run -...]も、[run to the sotre](店へ徒歩で急いで行く)、[run a project.](プロジェクトを運営している)、[run the software.](ソフトウェアを実行する)など、細かい展開が可能な語彙である。他にも[break]であれば「何かを壊す」だけではなく「活動体制を崩して休む」にも展開する。 英語の熟練の話者にとっては同じ言葉によって統制されているため、感覚的にはほとんどの場合で「同じ範囲の意味」であると認識して、無自覚に使い分けているのだろうと考察できるが、しかしそうした単語を言語的に分析をして詳細な説明をする場合には、非常に広い範囲を網羅していることを説明できる。 英単語は頻出語ほど非常に広い意味を持つ傾向があり、実用においてはその広い意味に対して、条件を付けて限定することで細かい意味を言い表す必要性がある。条件をつけることによって、意味が明確化したものとして扱われているため、表面上「言語的に十分、明瞭な意味が明示されている」と評される。 だが言語体系としては、多くの場合で「文脈に応じて補完または除外の操作を行われる印象の領域」が非常に広い傾向を持つと説明できる。仕組みにおいては「意味が不足するために省略が難しい」と説明されやすいが、実態としては「意味が過剰であるために省略が難しい」と説明するべきである。 言語の普遍的な法則として、常用される単語において多義性が広がりやすいという傾向はよくある現象だと説明するべきである。しかし現代英語は言語的な事情から、特に頻出する単語が限定されている傾向が強く、その限られた頻出語を使いまわし、多くの意味を入れ込んでしまっている体系を持っている。 また現代英語は、古い英語では存在していたとされる細かい制御をできる作法を失っており、語順という「表明されない定義体系」と、単語の組み合わせによって、言葉の細かい制御をしている。英語は「明晰な表現ができる」のではなく「明晰な表現しか作りにくい」ような様式であると説明するべきである。

目次  ### 形式性:英語における形式性の例外 英語文化は、標準的な使い方への矯正が非常に強いと言えるが、人間的な事情として、常に形式性が保たれているわけではなく、英語においてもカジュアルな領域や芸術的な境域においてはその圧力が緩和される。また英語では習慣的に、飛躍的な意味を表す「イディオム」などの表現が多い傾向が見られる。 使える単語が単純化されていたとしても、社会的要請において表現をしたい新しい意味や観念は生まれてしまうものであり、それを言い表すために既存の単語を細かく流用して組み合わせた表現が形成される。使われやすければやがて単語そのものに新しい意味が根付いて、多義性が拡張されることさえもある。 英語文化におけるイディオムの極端な典型例として[Kick the bucket]という表現があり、言葉としては「(主体が-)バケツという物体を蹴る」という言葉だが、意味は「死ぬこと」である。しかもさらに、それを発展させた[Bucket list]という表現が、「死ぬまでにやりたいこと」を表す表現として定着している。 また言語の普遍的な法則性として、日常的な言語運用では省力化のために「省略が可能であれば省略をしてしまう」という状況や傾斜が存在すると説明できるが、これは英語の言語運用においても例外ではない。「省略が難しい傾向」を持つとしても、英語文化でも意味が安定する場合は省略が可能である。 英語でも定型的な表現・よく使われる決まった1フレーズの形として定着している場合、その言葉の組み合わせ意味する領域が明晰であると共有されていることで、その表現において語の欠落があったとしても、言葉の意味の推定が高確率で可能なままであるため、そうした条件において省略することができる。 例えば[I thank you.](私は/感謝している/あなたを)の表現は、フレーズとして常用されたことで[Thank you.]という主体の欠落とそれによる文法構造のズレが発生していても、「その音が意味する概念」は明晰であるため、問題なく伝わる。さらに短縮した[Thanks.]単体でも、その意味を伝えられる。 英語学習において便利な語として学習される[Excuse me.]というフレーズも、英語の文章構造としては不完全な状態で、これはおおよそ[You excuse me.](あなたは/許してほしい/私を)が完全な状態だと説明できる。このように、英語も「意味が安定するなら、語の省略をしてしまう法則を持つ」と説明できる。

目次  ### 形式性:英語における形式性の難しさ 英語は「正しく言葉を使うこと」についての社会的な要請が強く、例外的に意味が安定しているフレーズを除いて、普段の言葉においては「言葉の意味が安定する状態で構築すること」が強く求められやすいと言える。しかし、それは必ずしも実用において言葉の意味の安定を完全とするものではない。 英語は「シンプルに一意な文章を構築しやすい」と説明できるとしても、英語もまた自然に使われている言語の一種である。自然言語の普遍的な事情として、人間がそれぞれの言語感覚によって使う言語であるため、現実的には「言葉の絶対的な一意性を確定させることはできない」と説明しなければならない。 英語においても、言葉の意味や、それによる文章構造の正常性の判断や判別は、感覚性を回避できているものではない。むしろ情報が限られていることによって、その解釈にズレが生じてしまった場合に、その認識を修正するための手掛かりが少ない状態になりがちであると考察することができる。 それは「正しい文を形成しているかどうか」の段階だけの問題ではない。情報の揃った文章を形式的に構築する、という作法はあくまでも社会的な正当性の保障を期待するものであって、実効的に言語的な合理性を保証するものではない。つまり発信側と受信側で認識のズレがあれば当然、意味が破綻する。 しかし英語は「正しい文章を形成する」という圧力が強いことは、むしろ「正しい文章を構築できている」という思い込みを生じさせやすいと考えられる。形式性が強いことによって、文章が意味する領域が無意識に明晰だと感じられやすく、一意な文章を構成できているつもりになりやすいと推察できる。 英語は、強い形式性の性質上1文を構成する負担が重い傾向があるだけでなく、言葉の持つ広い意味を位置関係や言葉の関係を手掛かりに絞りながら確定させていく性質上1文を読み取る負担も大きくなる。補足説明を付け加えることも簡単ではなく、またそれを読み取ることも楽であるとは言い難いと言える。 英語は「シンプルに意味の固い文章を構築しやすい」という法則も、その実態は「シンプルな文章以外が不得意である」という法則性として説明できる。英語では文の持つ情報が多くなるほど、構成することも読み込むことも困難となる。個別に分割しても、関係の接続性が難しくなってしまうと言える。 そうした困難性を回避するためにも「シンプルで明晰な文章」を心がけられやすいと考察することができる。しかし英語は言葉が多義的な一方で、文章の意味する領域は非常に狭く認識されるべきという傾向があると説明でき、結果、シンプルかつ違った意味で判断される危険性は回避されていないと言える。

目次  ### 形式性:精確さの不成立 英語はその体系的な事情と「言葉は明晰でなければならない」という社会的要請から、新しい言葉を受け入れづらい傾向を持つ。しかし自然言語の普遍的な法則に基づいて、使われる言葉は拡張されるもので、英語では日常語が増えづらい分、既存の単語の使われ方や意味が広がる傾向が著しいと説明できる。 英語では使われやすい単語が限定されているため、使われている単語に多くの意味が集積されており、新しい使い方や意味が成立していることも多いと言える。これは、少ない単語でより多くの表現を構築できるという合理性として語ることもできる一方で、その扱いは非常に難しいと説明するべきである。 そうした言語的な事情から、安直に言葉を並べた場合に「意図しない語として成立する」という問題が発生する危険性が他言語に比べて高い傾向を持ちやすいと考察できる。しかも英語は、1文に対して原則的に1意な意味を読み取る言語文化を持つため、意図しない語の意味で解釈されやすいと考えられる。 言語の普遍的な作法として誤解の少ない表現をするためには、様々な言葉の使われ方を把握して、誤解が発生する表現を言い換えて回避する必要性がある。英語では言語体系の傾向から、多くの単語において表現の注意が必要となりやすい上に、解釈の強固さを持ちやすいと言えるため、警戒が特に必要となる。 この問題は会話において特に大きい。特に、英語の実際の会話では言葉の聞きとりにおいて、無意識な補完として印象に基づく推測をしている部分が非常に強く、単語として明確に別物であったとしても、音において近似している場合「既存の表現」として聞きとられてしまう危険性が高いと説明できる。 比較として、日本語は同じ音の言葉などが多く、それによる難しさを説明されやすいが、日本語はそうした難しさについて強く自覚的である。英語は「異なる音のつもり」でも誤解を生じさせる危険性がある一方で、日本語では「明確に同じ音が多い」という自覚があるために誤解の可能性を強く自覚しやすい。 言葉の誤認の可能性は、英語の母語話者ほど注意が必要になると説明できる。母語話者は無意識の類推可能性が広いため異なる表現で認知される危険性はむしろ高まり、また慣れてしまっていることで発音の精度も緩くなりやすい。特に「言っているつもり」である場合、理解されない場合のストレスが大きい。 どの言語であっても、誤認の可能性を自覚している場合には誤認されづらい表現へと転換することが試みられる。しかし英語では、言語表現における制約があるため、言い換えたり、言葉を追加したりすることに手間のかかる場合も多い。日本語では言い換え語が分かりやすく、言葉の追加もしやすい。

目次  ### 形式性:「常識」というバイアス 英語は、言語体系や言語文化において「論理的な整合性を形成することがしやすい」という評価をされることがある。しかし、機能性としてはあくまでも「形式的に、情報を単純に並べやすい」というだけであり、情報を細密に並べていたとしても論理的な「正しさ」が自動的に成立するわけではない。 言語的な論理性とは、言葉自体の精確性も必要とされるが、言葉によって表されている情報同士の関係性によって構築されるものである。また、その情報の構築物に対してどれほどの強靭さを持つのかが、論理的な正しさ・論理的な妥当性において真に問われるものであり、言葉の精確性は論理の本質ではない。 また英語は「単純な情報の整列」には優れているものの、複雑な情報の整理や統合には文章構築とその読解において格段の手間を必要とする。つまり、英語は表層的に単純で明快に整理された論理であったとしても、その本質を理解することについて、特別に容易としているとは言い難いと説明できる。 英語では、特に「直感に反する事象の説明への理解可能性」では、強い困難性を発生させやすいと考察できる。「語彙の置き方」に強い形式性があると、「事象が直感に反している」と認知するのではなく、「説明が文として破綻している、話にならない言葉」のように認知されいやすい危険性を考えられる。 例えば[My bird swims in a river.]という文に対して、英語においては拒絶性が生じると考察できる。それは「内容が非常識な状況である」という感覚から拒絶されるのではなく、「不正確な表現をしている」という評価で拒絶が生じるという推察であり、あるいは整合性のために[Bird]の別の意味を参照する。 極めて単純な「私の鳥は川で泳いでる」という文章さえ、言葉に対する常識的な感覚性への固執と、精確な文章を書かなければならないという文化的圧力によって、理解の拒絶性を高めている可能性を考察できる。表現に寛容であれば「それ本当に鳥?/泳いでるの?」などの感想を持ちやすいと考えられる。 英語では「常識的な単語の使い方」が強く求められ、「非常識な使い方」を強く排斥する圧力が働きやすいと考察できる。もちろん英語文化でも、カジュアルな表現では「拡張的な使い方」をする文化性を持っているが、それは「言葉の常識を拡張する印象的な表現」であり、論理的作業では原則使われない。 そのために英語文化では、非常識な事実の文章は「言葉が非常識な置かれ方をしているから非論理的で、精確に説明を構築する作法に欠けた未熟な文章」のような評価を、強く導いてしまいやすいと考察できる。常識の打破には、信頼のある十分な権威か、不自然さを感じさせにくい論理を必要とする。

目次  #### 形式性:合一不能な事象の合一 例えば[a Wave]という性質と、[a Particle]という性質は、「大きな世界の物理学」においては全く異なる法則性を持つ概念である。これらが合一している状態は「大きな世界においては物理的にありえない」と説明され、そのような常識的な認識が形成され、また長らくそれが物理的な常識ともされてきた。 そのため[*subject* behaves both as a wave and a particle.]という文章・理屈は、「異なる性質の領域を合一しようとする不正確な文法」だと認識されやすく、そのまま「思考の破綻であり成立しない」という解釈が成立していたと推察できる。物理法則として成立しないという解釈が常識とされていた。 実際に「大きな世界の物理学」では、[a Wave]の性質を持つ状態は[a Particle]の性質を持たない、反対に[a Particle]の性質を持つ状態は[a Wave]の性質を持たない、全く異なる領域に見られる現象である。「大きな世界の物理学」においては、ほぼ正しい法則性であり、概ねそのように整理されている。 もしも昔、社会的に信頼の薄い人間が[*subject* behaves both as a wave and a particle.]のような話題を出してしまったら「無知な子供のような人物が言っているだけの非常識な戯言」であるかのように認知される恐れがあったと考えやすく、科学者でさえもその理解と説明に苦心したと考えられる。 現在では[Wave-Particle duality]と呼ばれる事象の存在の実在が科学的に証明されていることで、先ほどの英文が[*Light* behaves both as a wave and a particle.]から「文章として成立し得る」という評価を得ているが、その理屈が認められるには後世の「実証による常識の破壊」を必要とした。 科学的知見に対する整理や検証の難しさは英語のみに存在するものではないが、「英語文化だからといって現実的な正当性を自動的に受容し成立させるようなものではなく、時として現実を拒絶する力を働かせることもある」という実態を示すことができる。普遍的な問題であるが、英語もまた例外ではない。 英語などにおける形式的厳密性とは「常識的な強固さ」を導くとしても、その実態として結局のところ「現実的な正当性」を保障するものではないと考察することができる。「言語の認知において非常識を受け入れがたい」という傾向は、飛躍的な発想を特権的にしか許されないことを意味している。

目次  #### 形式性:知識の不全 形式性が強いほど、言葉に対して明確な正しい使い方が求められる結果、言葉の使い方に強く「常識性」が働きやすい傾向を生みだすと説明できる。これは、高度な知識体系だけに影響を与えるものではなく、むしろ知識的な脆弱さ・不安定さを持つ一般的な範囲において、より困難な問題を生みだしてしまう。 文化的に形式的な正しさを強く要求されるほど、「非常識を受け入れがたい」という傾向を形成してしまう。人間にとっても、正しさの判断とは論理的に実用されているものではなく、感覚的に実行されているものである。その感覚性に基づいて論理性に注意をすることはあっても、判断は感覚に依存する。 人間の個人にとっては、まず、その人が持った常識的な感覚に従うものが正しい状態だと感じる。例えば、英語の文法に対する「正常性」といった感覚さえも、根本的には論理的な判断によって実用されているわけではなく、「言語感覚」という常識への認識に依存して、現実的に実用されていると説明できる。 つまり「正しい文章」という判断にも、論理的ではない感覚的な判断が介在することは回避できない。そのため「その人にとって感覚的に理解できない説明」を受け入れることが非常に難しく、そして、形式性の強い文化ではそれが「正しい言葉を話していない」という認識になってしまう恐れがあると言える。 言語的な形式性が強く求められるほど、正しさを求められる文化から、常識的な認識への執着が生じやすいと想定できる。これは特に一般人も含めて、非日常や非常識への理解力や受容性という部分において、「自分の常識の外側にあるものは受け入れがたい」という障壁を形成してしまいやすいと考察できる。 それも、一般人であっては特に知識の欠如している可能性は高く、しかし正しさを求められてしまう場合には、そうした知識的に不全な状態から物事を判断してしまうことになる。しかも当人にとっては常識に基づいているため、よほど知識活動に慣れている人でなければ、その不全性を自覚しづらいと言える。 もちろん、知識的に浅い人たちが偏った知識に基づいた判断をしてしまう問題そのものは、人類にとって普遍的な問題ではある。しかし形式性の強い文化では「正しい言葉を使えること」の社会的な要請が強く、それは実質的に「正しい認識を持つこと」が求められ、「常識」への執着を導くと説明できる。 人類の普遍的な問題として、人が執着している「間違った常識」を補正することは非常に難しい。知識活動に慣れている人なら常識の更新にも慣れていやすいが、そうした熟達した知識層以外では非常識が拒絶されやすく、矯正は困難になる。そして、形式性の強い文化では、その困難性が強いと考察できる。

目次  #### 形式性:妄信の形成 普遍的な問題であるが、「常識という感覚性」によって生じる問題とは、非常識への拒絶だけではなく「自然に見える情報への妄信」を導きやすい。つまり文章や説明などに対する判断において「話に違和感を感じないのだから、これは論理的に正しいはずだ」という感覚性を生じさせてしまうと考察できる。 英語文化のみの問題ではないが、英語では英語の言語体系が持つ思想によって「精確な情報を正しく並べる必要性があり、判断するための情報が揃っている」という考えを導きやすく、結果「そこに間違いがあれば自明的に認識することができるはずだ」という感覚を支持してしまう言語体系となっている。 しかも英語文化は、形式的な文書ほど表現の変化が狭い。英語文化の形式性はその理想において「誰が見ても一意な情報の文章を形成する」という理念を持って整備されているため、シンプルな構造の文章であれば表面的に読みやすい文章として形成することが容易な言語体系を持っていると説明できる。 つまり英語の言語体系には、シンプルな構造を持った論理は分かりやすいために極端な依存が働きやすく、複雑な構造を持った論理に対しては拒絶性が極端に働きやすくなる、という傾向を推測することができる。しかし現実世界の形とは、必ずしも単純な構造をしていないのが実態だと説明するべきである。 こうした問題は英語が「非常に優秀な言語体系である」という認識においても及ぶと説明できる。つまり表面的なシンプルさ・表層的な単純さによって、見かけ上の理解可能性が高いように整備されている言語であるために、英語という言語体系そのものが優れた言語体系であるかのように、容易に錯覚できる。 しかしその実情として、英語は「世界に存在する情報を単純化することによって、見かけ上の理解可能性を高めている」と説明できる言語体系であり、またその実用においては本質的に単純とは言えない複雑性や煩雑性を持っている。世界的に妥当な言語として機能しているとしても、合理的であるかは疑える。 英語は、名目上、精度を高められる形式性によって現実世界を正しく把握するための機能性を万全に持っているかのように信じられやすいと言える。しかし、英語文化の実態とは「分かりやすくする」というフレームによって、現実性を再現しないことを言語体系において正当化してしまうと説明できる。 もちろん、現代の技術を支えられる程度に妥当な言語であることは事実であり、自然言語において複雑性や煩雑性を持つことは、自然言語の宿命とも表現できる普遍的な傾向である。形式性が低い言語である場合、情報の精度を高めるためには、結局のところ安定のための手間をかける必要性は避けられない。

目次  ### 形式性:言語感覚の非対称性 英語は非常にシンプルにされた文法構造を持つために、「単語の関係性によって、言葉の意味を導く」という様式を持っている。そのため英語は「単語の意味」を把握しなければ、文章の理解を、構造の把握から著しく阻む。つまり、単語が十分な意味を持っていなければ、英語は文章そのものが成立しにくい。 しかし実際に扱われる「言葉の意味」とは、使う人の言語感覚に依存するものと説明しなければならない。また、意思疎通においては相手が理解すると期待できる、「常識的な意味」という概念を信じて、言葉を使う必要性がある。英語は、文章の理解における「常識的な意味」への依存度が高いと考えられる。 もちろん、「言語感覚」に依存していることそのものは言語の普遍的な法則性である。しかし、英語の場合は言葉の内容を補完するための余分な情報が限られていることが多く、単語ごとの意味の影響が重く、意思疎通において、言語感覚のズレが大きい場合に決定的な不和を生じさせる危険性が高いと言える。 さらに言語による意思疎通は、言語の相互的な理解によって成立するものだが、言語の受け取られ方とは、発信側の意図によって成立するものではなく、受信側にとっての意味によって受け取られてしまうものである。しかし、英語は「正しい文章を発信していれば、責任を果たしている」という文化を持つ。 英語では社会的な要請として正しい形式を求められる圧力が強いと説明できる。しかしそれは発信側に「正しいと思える文にすれば正当な情報を発信している」という自負を正当化するが、しかし受信側は「理解できない場合は、即ち発信側の作法が不十分である」という認識も正当化してしまうと考察できる。 特に、受信側にとって言葉の意味が分からない場合には「非常識な表現である」という認識を正当化してしまう。十分な信頼関係や、相手に対する敬意を持っていない場合、たとえ相手が社会的に正当な表現をしていたとしても、受信側にとっては相手の不全性ばかりを認識してしまうことになると考察できる。 もちろん英語文化でも「発信側は正しいことを言っているはずだ」という信頼があれば、受信側にとって言葉の意味の理解が難しい場合であっても、受信側が自らの知識の不全性を認識し、発信側が何を言っているのかについての理解を試みるであろうと考えられる。しかし簡単な条件であるとは言えない。 また言語認識は感覚的なもので、総合的な印象に強く影響を受けるため、たとえ発信側が社会的に見ても妥当で正しい表現をしていたとしても、受信側にとっての印象によって「理解しにくい」と感じられてしまう可能性も増やすと考察できる。それらは無意識の感覚であるため、その自認は当然難しい。

目次  ### 形式性:表現文化の極端さ 「分かる表現をするべきである」という社会的要請の強さは、精密な表現を必要とする分野に限らず、芸術などの文学的表現などにおいても、心理的に極めて強い侵食を及ぼしやすいと説明することができる。その中では、詩的な飛躍的表現方法は、特に「芸術における権威性」の背景に守られる必要性がある。 「共通認識の成立しているフレーズ」であれば、日常的な領域において一般的な活用が広く認められやすいと言えるが、馴染みのない「特殊な言語表現」でその意味の理解も難しい場合、特殊な表現として見られるだけではなく、短絡的に「不誠実で幼稚な文」という認識をされてしまいやすいと考察できる。 英語文化では詩的な表現として、言葉を尽くすことはあっても、それはおおよそ「自然な形式を保った理解可能な文章で最大限の言葉を尽くす」という形を取らなければ、ただの無作法となってしまうと言える。その逸脱が許されるのは、「芸術の権威性」がその正当性を守る範囲に限られると考察できる。 しかし文明において、人間は普遍的に表現を求める傾向を持つ。自分の感じているものや思ったものについて、どのようにすれば伝えられるかを模索する。それも、英語文化では相手が持っていない語では全く意味を成さないため、子細なイメージを共有するために単語の応用を深めていくと考察できる。 表現をするためには無作法であったとしても、あるいは無作法であるからこそ、そのイメージを共有できると考える領域も存在すると考察できる。そうした傾向によってスラングやイディオムのような表現が形成され、より広く認められ共有されていくものが定着して「共通フレーズ」として成立すると言える。 言語文化として基本的な形式性が強いとしても、そのようにして語のイメージは連想的に拡散していくと考察できる。特に英語は「語を並べて言葉の意味を規定する」という習慣を持つため、単語単体での多義性が文化的に許容されているとも言える。しかしそれは文化的な理解が必要になると説明できる。 英単語は特に常用される語ほど単語の詳細性が荒く、そしてその組み合わせによって指定される意味の理解には、英語の「最新の文化」を理解している必要性がある。日常的な実用的には、その時代、あるいはその地域の英語の使い方を理解していなければ、意思疎通が難しくなると説明できる。

目次  ### 形式性:言語の理想と実態 英語文化において英語とは「言語は常に統一された意味を示すものであるべきだ」という理想論によって運用されていると言える。英語は「正しい書き方」という規定が存在し、またその規定に従うことで、万人が同じ解釈を可能とする文章を作ることが可能であり、またそうでなければならないとしている。 しかしどれだけ規定をしていたとしても、実態として「言語とは常に他者の解釈を介するものである」という物理的な法則性と、また自然言語の使われ方とは人々の認識によって使われてるために文化的な性質を持ち、人それぞれが感覚という確定させることのできない物理的な限界を持っていると言える。 言語を読み取るの原則的に他者であり、その他者の解釈によって言語が扱われることとなるという実態がある。意思疎通におけるその物理的な事実を否定することはできない。言語は共通認識に基づいて扱われていると言えるが、個人の認識が必ずしも他人の認識と同一であるという確証は実在しないと評せる。 むしろ人体には個体差がある以上、人々の認知そのものは必ず違いが生じていると説明する方が妥当である。であれば「言語は常に統一された意味を示す」という理念は、理想論である。この問題はたとえ一個人であったとしても、言語記録を「未来の自分という他人」が見た場合においてさえも同様と言える。 言語の哲学的命題として「どれだけ厳格に規定をしようとしたとしても、規定するために用いる表現の規定が必要となり、さらにその規定のための表現の規定が必要となり、さらに…」という無限のループを引き起こす問題がある。そのために言語は「妥当な共通認識」に基づいて使わざるを得ないと言える。 そうした本質を持つ言語が、人間的な感覚や社会的な制度において成立しているのは、「妥当な共通認識という観念を持つことで、意味の一致の確率を高めることによって、人間的な実用において十分な機能を成立させている」と説明できる。この「妥当な共通認識」は、「十分にそれらしい」の意味である。 現実的に言語の運用とは必ず、人々の「言語感覚」という確定しきらない要素に依存してしまう。しかし英語文化が持つような理想論に偏ってしまうと、その事実が軽視されがちになると言える。英文は「当然のように共有される事実に基づいて解釈されるべきだ」という常識を必要とすると考察できる。 それによって英語は、言語感覚の違いの自覚を薄れさせると考察できる。つまり、「言語は常に統一された意味を示すものであるべきだ」という文化は人間的な運用において「正しい説明をしているのだから正しい」などの思い込みを誘導してしまいやすく、実態と乖離する恐れはむしろ大きいとさえ評せる。

目次  #### 形式性:英語文化の落とし穴 現代英語は、近代以降の整備において「可能な限り、安定した言語を形成し、それによって社会の安定を目指すべきである」という社会的要請によって、その形が大きく整備されていると説明できる。そして実際、広大な人類文明の活動を支えられるだけの機能性を持った言語として、成立していると評せる。 しかしその「可能な限り安定した言語」という目標は、人間的に「言語は常に統一された意味を示すものであるべきだ」という意識を強めるとも説明できる。それは言語の運用において、言葉の使い方において「意味が伝わるのだから正しく使えている」という潜在的な思い込みも正当化する思想だと評せる。 本質的に言語とは、安定した状態に確定する情報ではない。これはたとえ自分自身であったとしても、「未来の自分という他者」に対しては、言語感覚の変質によってその理解が歪む可能性がある。だが英語文化はそれを自覚しにくく、「正しく分かる」という観念への妄信が形成されやすいと考察できる。 現実的に「形式的な強固さ」は、理解可能性を高めやすいと説明できるとしても、それは必ずしも「理解の強固さ」を保障するものではない。むしろ、「形式的な強固さへの心理的な依存」の危険性を説明しやすい。感覚的に、「形式的に正しいのだから、伝わるはずだ」という思い込みを強めやすいと言える。 現実として英語は、英語を使う国が形成した勢力圏によって、知識体系を集積する言語として機能している。しかしそれは英語という言語体系がどのような機能性を持っていたのかではなく、英語を使っている社会がその勢力圏を著しく広げたことによって、獲得した優位性であると説明できる。 また現代の英語が持つ知識体系のための機能性も、実用において膨大な情報が集積されることによって、知識体系を維持する言語としての機能性を高めていったと考察することができる。英語が元々として優れて機能的だったのではなく、社会的要請によって現在の環境を形成したと説明されるべきである。 自然言語の宿命として、文化的な活動による言葉の変質そのものを防ぐことはできない。特に、英語は極めて広い範囲で使われているために、地域によって方言や異なる意味を形成してしまうことが自然と発生する事情を抱えている。実態として世界の英語が「統一された英語」であるとは説明できない。 特に、国際的に通用し得る英語も「国際的な英語」という方言性を持つと整理することができる。「学術的な英語」も同様である。英語は事実上の国際共通言語として機能しているものの、結局、英語であったとしても常に「環境に基づく妥当な共通認識」を積極的に理解する必要性があると言える。

目次  ### 形式性:「常識外」を包摂する言語である日本語 対照的に、日本語文化では「言語とは常に他者の解釈を介するものである」という物理的な法則を合意しやすい。もちろん日本文化においても、常識へのバイアスなどの傾向そのものは存在すると言えるが、「言語感覚の違いが存在しうること」に対して、自覚をしやすい言語体系を持つと考察できる。 また英語に比べれば「非常識な知識に対する言語的な靭性」は強いと説明できる。[光は粒であり波でもある]という説明は、日本語の文章構造として一切破綻していない。もし破綻性が存在するとすれば書かれている内容の部分であって、文章そのものは成立しているものとして自然に合意されると言える。 むしろ日本語文化では、なぜ英語文化において「非常識な表現」を体系的に拒絶する傾向が強いと言えるのかを不思議に思うとさえ説明できる。日本語話者にとって「文章が成立していない」という状況が当然のように頻出するという強い形式性を持つ言語体系には、人間的な自然さに違和感を持ちうる。 日本語文化では、不完全な文章であったとしても「文章をどのように解釈できるのか」についての意欲を持つ。もちろん、日本語においても「説明の不十分さ」という観念そのものは存在し、精緻さを求める文章では十分な言葉を尽くして高い形式性を構築できるが、不十分であったとしても、機能する。 日本語は英語に比べれば、言葉の精確性を確保するために必要となる語の数が非常に多いと説明するべきである。しかしそれは、言語的な機能性において日本語が完全に不合理であることを示すものではない。むしろ日本語は必要に応じて「理解可能性を高めなければならない」という社会的要請を自然と持つ。 日本語は、通常は解釈が広い言語であることを理解しやすく、その解釈可能性を適切に制御することが求められる。特に日本語は、特に文法構造の柔軟性と強靭さにおいて、子細な表現を無限につなげることも許される体系として整備されている。詳細性の実現を容易とする機能性を持つと説明できる。 また日本語は文法構造を形成する補助語は、ほぼ「言葉同士の関係性を定義する」という機能性に特化して整備されている。その活用によって、未知の言葉であっても日本語体系の中で自在に運用することができる。あるいは、その言語的な極限の許容性こそが、日本の近代化に強く働いたとも考察しうる。

目次  #### 形式性:日本語における法則の安定性 日本語と英語における顕著な違いとして「安定性」を提示できる。まず日本語は、文章構築において、あらゆる単語に対して汎用的な構造性を付与できる補助語と、動作を表す語に対してその方向性を調整するために変形させる語が高い統一性を持ち、文章構造の法則が非常に整頓された言語と言える。 そのため、日本語では言葉がどのような立場や意図によって使われているのかを、統一性の高い法則性に従って知ることが可能であり、また単語に応じた統一性の高い法則性によって言葉として使うことができると言える。柔軟かつ強靭な構造によって、日本語は非常に多くの言葉を実用しやすいと評せる。 日本語は「文章構造を形成する語」と「語の方向性を規定する語」が「単語」から独立して整理されており、それを自在に活用することができる。英語は「文章構造は語順の規格へ、単語の意味と意図に応じて割り当てる」、「語の方向性は、語ごとの操作方法で規定する」という不自由と煩雑性を説明できる。 文章の構造を形成する法則が、対応するあらゆる単語に対して汎用的に活用できる様式によって整備されていることで、文中に「意味が不明瞭な語」があったとしても文章構造自体は把握することがしやすい形式となっており、これによって日本語は「常識外」さえも包摂できる体系を持っていると評せる。 日本語は、その言語的な柔軟かつ強靭な構造性の副作用として、表現の自由度が高すぎることで読みやすさを確保するためには文章構築を自力で整理する必要があり、また自由度が高すぎるために異なる解釈が成立する文章になる危険性を持ち、精確な意味を表現するための技術が必要となるとも説明できる。 ただし「文章を間違わないように正しく構築する」ということそのものは、あらゆる言語において技術が要求されるものであると説明するべきである。言語の普遍的な法則として、高度な文章を構築するためには、言語への深い理解と、読解・構成する技術が必要になるのは度の言語も同様だと言うべきである。 また、日本語は自由度が高いために解釈範囲が広がりやすく、配慮や注意が必要とされることは事実である。しかし日本語はその構造上、非常に細かいパーツへと細分化が可能であり、実用においては、文章を分解して表現の調整をすることが非常にしやすい言語体系になっていると評することもできる。 語を追加しても構造が崩壊することがないため「不十分な文章を同じ構造のまま拡張して十分な表現になるまで追加する」ということが可能であり、また構造を維持したまま表現を書得やすいため「不自然な部分を最小限の変更によって整合性を整理する」といった編集も可能であると説明できる。

目次  #### 形式性:日本語における文章の拡張性 日本語では、例えば[車が走っている / the car is driving.]という文章に、情報を差し込むだけで[昨日、町で見かけた大きな赤い-車が-今、猛吹雪の中で雪をかき分けながら-走っている-のを見て驚いた]といったような拡張ができる。日本語では、文章が個別に安定しているため、このような編集ができる。 一方で先ほどの和文を英訳すると、[I was surprised to see the large red car that I spotted in town yesterday now plowing through the snow in a fierce blizzard.]という文章になるが、これを構成するには「情報の追加」だけではなく、文章全体の構成や整理をして成立させる必要があると言える。 詳細な文章を構築するためにかかる手間、必要となる労力が異なる。日本語では言葉の独立性が高いため、付属する対象さえ揃っていれば、[今猛吹雪の中で雪をかき分けながら走るのを見て驚かされた大きな赤い車が、昨日、町で走っているのを見た]という構造で形成しても、おおよそ同じ情報が成立する。 英文において、意図的に語順を調整したい場合、[The large red car, which I was surprised to see now plowing through the snow in a fierce blizzard, is the one I spotted running in town yesterday.]のように、文章を分割して再配置するような手段を必要があり、簡単ではないと説明できる。 こうした語順の自由度は無秩序になりやすい構造だとも説明できるが、どの情報を重要としたいかによって自在に文章構成を変えることのしやすい機能性でもあると言える。また、情報を逐次的に追加しながらも話を統合することができることで、会話において、準備が乏しくとも詳しい話がしやすいと言える。 英語でも、どの情報を重要としたいかによって話し方を変えること自体は可能であるが、それを言い表すためにかかる手間は大きく異なると考察できる。また英語では情報を多く並べるためには文章構成から考慮する必要があり、それを会話において即興で作ることは極めて高度な技術を要求すると考察できる。 また日本語は言葉の独立性や安定性が高いため、文章構成が乱れても言葉ごとの意味が崩壊する危険性が小さく、即興の話において不自然な表現になっても、話が成立しやすい。一方で英語は文章構成が言葉を規定するため、英語で詳しく話すという行為に格段の手間や負担がかかると説明できる。 英語の「シンプルに一意な構成をしやすい」と評せる言語体系は、「単純な話に適している」と言える言語体系であり、一般的な範囲の英語とは実質的に「単純化することによって言語を成立させている」とも説明できる。日本語は、煩雑であるとも言われるが、選択肢の多さによって高い表現性を持つと評せる。

目次  #### 形式性:日本語における意思疎通の柔軟性 日本語文化はその豊かすぎる表現性から「相手に伝わらない可能性」という現実的な問題を、理解しやすい文化を持っていると言える。日本語文化において、慣れた話者は「相手が理解しているかどうか」を観察しながら、会話の最中においても必要な補足をしながら会話することを自然としている。 日本語文化では会話において、相手にとって言葉の理解や識別が難しいと判断できる場合に、その意味を補足する習慣が広い。しかも、日本語は接続性を持つ多層的な語彙から言い換え表現が分かりやすい上に、その柔軟かつ強靭な言語体系によって「話の最中に補足できる」という機能性を持っている。 一方で日本語は、言葉の意味が単独でも安定しているため、言葉の予測可能性が非常に高いと言える。日本語は、非常に繊細な表現性を持ち、表現の選択範囲が広いと言えるが、それは「意味が安定している多彩な単語」と「方向性を調整する表現の変形」における柔軟性であり、語の意味は明晰な傾向を持つ。 安定した言葉の意味から話の方向性が相手に伝わりやすく、相手が十分に理解していると判断できる場合には必要以上の語を尽くす必要性が無い。それによって日本語文化では日常的な意思疎通において、他の文化からは言葉が不十分に思える状況でも、十分な意思疎通を可能としていると評される文化を持つ。 特に日本語は繊細な語の使い方に細かい意図が含まれるため、会話における「言語の情報量」は、翻訳的な意味よりも格段に高密度だと考察できる。情報量が多いことで予測可能性が高いという理屈が立つ。そして、日本語はただ省略するだけではなく、必要に応じて言葉を増やして説明することもしやすい。 情報密度の高い言葉、柔軟性と強靭さを持つ構造体系、基礎的な複雑性を持つことで難解さを自覚しやすいことによる理解への努力と説明の必要性への理解など、そのようにして日本語文化では、言葉を柔軟に扱われやすく、総合的に極めて端的で高効率な意思疎通を可能としていると整理できる。 注記しておくが、言語は万能ではなく、人間も全能ではない。人間の普遍的な法則、言語の持つ普遍的な限界性として、言語的な能力の欠如や、意思疎通の不全を引き起こすことは、どの言語であったとしても避けられない。それは日本語に限らず、英語もまた同じである。その問題は特定言語の問題ではない。 英語は表面上の単純性から理解可能性が高く、学習が容易であるかのように説明されやすいが、英語圏における社会的なデータから、実態として学習が容易であるとは説明できない。むしろ日本語は社会的な体制の状況として子供が本を扱う段階が早いと説明でき、基礎的な学習は早いことを示しやすい。

目次  #### 形式性:日本語における言葉の多様性 日本語はその構造的な柔軟性と強靭さによって、非常に多彩な語を実用することができる。また日本語は多層的な語彙体系をしており、日常語の体系、専門語の体系、外来語の体系を区別をしながらも並列的に運用することができる。それにより、説明においても非常に多様な表現を扱うことができる。 特に日本語では「複数の視点による、多彩かつ反復的な説明」をしやすい。単一の事象に対して、多彩な表現を可能とする機能性を持つことによって、情報の範囲を絞って精度を高めることも可能としている。日本語はその表現の広さによる不安定さを問題視されることもあるが、対応策も持つと言える。 また日本語の構造的な安定性によって、日本語文化が言語において「具体性の乏しい概念」の扱いを当然とできることによって、極めて抽象性に強い言語文化を持っているとも説明できる。それは、詳細に説明することが難しい事柄であっても、その概念の存在を言語的に受容することを導くと考察できる。 実態として現実的には、全ての事柄を詳細に具体化できるわけではなく、具体化して成立するとは限らない。抽象性の高さは意思疎通に誤解が生まれやすいとも説明されやすいが、しかし具体性を高めたとしても妥当な共通認識を成立させられるわけではないため、実用的な妥当性はむしろ高いとも評せる。 そもそも、英語もまた「多義的な単語を文章において定義することで実用している」という実態を持つ。英語においても、実質的に抽象性の極めて高いと言える単語が日常において常用されていることを考えれば、むしろ必要に応じて意図を明確化する作法を持つ方が、より現実的な対応であると説明できる。

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目次  ## 社会性:相互理解の前提 言語の普遍的な法則として「言語とは常に他者の解釈を介する」という現実があり、意思疎通とは常に「他者との情報共有によって成立させているものである」と説明できる。特に「何かを説明する」という行為において、これは発信者のみによって行為が完遂させることはありえないと説明するべきである。 「何かを説明する」という行為では、説明をする発信側だけではなく、必ず「説明を受ける受信側」が存在し、その受信側がその説明を理解することができなければ、説明が完遂されているという状態は成立しないと言うべきである。受信側に同じ認識を成立させることが、意思疎通の基本条件だと整理できる。 特に、円滑な意思疎通とは「他者の認識を理解することによって、自らの認識を理解させることを効果的に導ける」と考察できる。他者がどのように認識しているかを考慮して、その上で必要な認識へと導くことによって、意思疎通を合理的かつ効率的に成立させることができると説明することができる。 よって十分な意思疎通とは、実態において「互いの感覚性のすり合わせ」という工程を不可欠とすると説明できる。説明という行為の完遂には、一方的な説明だけではなく、互いに「どのように理解しているのか」を想定することによって、より現実的な妥当性を持った共通認識の成立を実現できると言える。 なお、文書などの言語記録では直接的な相互性を持てない。文書などは一方的な形式であるために、そこにおいて十分な意思疎通を実現することは非常に難しいと説明できる。「一方的な方向性」であることを前提として理解可能性を高めるためには、「多面的な構成」が重要であると考えられる。 文書などの言語記録物においては読む側の水準を想定して整理を行い、説明において認識がブレやすい場所や、認識がブレるべきではない部分を把握して、そこにおける説明を詳しく構成することで「言語記録を通じて言語感覚の確認と感悪のすり合わせを進める」という手段を必要とすると説明できる。 文書などの言語記録物は、原則的に「受信側が持っている知識量や言語感覚を大きく期待した状態」で扱わざるを得ないと説明できる。しかし、その上で読む側の水準を想定し、必要な整理を進めて説明を整備していくこと、一方的・一面的な説明に済ませないことが、非常に大切な作法になると整理できる。 そしてこの相互理解の前提は、詳しい説明の領域だけの話ではない。ごく自然な会話などにおいても「互いの感覚性のすり合わせ」が重要な作法であり、その態度が欠如すると致命的な不和を生じさせる恐れが高まると言える。「相手の理解度に応じてどのように話すか」を選べることが非常に大切だと言える。

目次  ### 社会性:文化的な態度の形成 しかし英語文化では、「1つの説明によって、1つ情報が自明にできるはずである」という理想論によって運用されがちだと考察できる。英語文化では社会的な要請から「正しい文法や正しい意味という外部化されていると信じている情報によって、情報を提供する」と言える文化を持つと考察できる。 英語文化では、究極的には「完璧な説明を作れば、それだけで説明を完遂できる」と認められやすく、社会的に十分とされる説明を理解できない場合、それは社会的な能力の欠如と強く見なされやすいと言える。煩雑な社会を統制するために、その理想を基本的な目標として、言語が扱われていると考察できる。 そうした社会文化は、そもそも英語という言語体系が本質的には脆弱であるために、構造的な強固さを目指した結果、形式性の強さという「社会的な独善性」を強めていったと整理できる。これらは通常、社会的な問題によってこうした形式性を必要としたと考察されやすいが、言語体系の影響も強く疑える。 英語という言語体系の弱さを克服するために、英語社会では「正しい言葉によって、正しい理解をされる」と教育されていき、「正しい表現をすること」を強く求める社会的な要請が一般化していると評せる。それは「正しさが理解されないとしても相手の責任だ」という思慮を正当化する社会性だとも言える。 現実的な問題として、英語の言語体系は認識や構造が崩れてしまうと理解が著しく難しくなるため、社会的に妥当な共通認識を学んで理解し、「正しい形であること」や「正しく読むこと」が非常に強く求められると考察できる。それが文化的に、相互理解の最も合理的な手段だと信じられていると言える。 英語にとっては「強い形式性の社会的な要請」が、言語の理解可能性を確保するために必要とされていることだと説明できる。しかし副作用として、「正しく伝えれば理解されて当然である」という妄信や、「一方的に情報を提示すれば正当な立場を持てる」という感覚を育んでしまいやすいと考察できる。

目次  ### 社会性:説明の文化性 しかし例えば一方的な説明が、説明として本質的に成立するためには、発信側と受信側が互いに「同等かつ同種の言語感覚を持っている」という条件に限定されると言える。「全く同じ辞書や教本を共有している人間同士のような関係性」ではない場合、意味の認識にズレが起きやすく、破綻の危険性が高まる。 つまり発信者にとっては理解可能であったとしても、受信側が認識している意味と全く異なる場合は理解が成立せず、説明は完遂されない。しかも英語は文章が必要最小限の明示でシンプルに構成されている上、単語の多義性が広い傾向を持つため、認識のズレについての補正可能性は非常に厳しいと言える。 当然その認識の不一致の問題は、受信側の知識不足や非常識さによって生じるとは限らない。認識の不一致の問題は、発信側の知識不足や非常識さによっても生じてしまう場合も、当然としてありえる。しかも英語文化は自己正当化を許してしまう文化性を持つために、問題の自覚も難しいと考察できる。 英語文化では、原則的に言語感覚に対して「英語という同じ辞書を使っている」と信じ込んでしまいやすいと考察できる。英語文化では「同じ辞書を持つべきである」という社会的な要請として存在し、また「自分は正しい辞書を持つ」と自負を持てるほど、言語に精通していることが求められると言える。 しかし現実的には言語の普遍的な法則において、自然言語は個人の感覚性に従って使われるもので、個人には個体差があり、物理的な違いや経験的な違いによって、実態として必ず言語感覚に差異があって当然であると説明しなければならない。英語における相互理解とは、同じ教養と深い知性を要求する。 一方で日本語では慣れた話者ほど、自然言語の差異の実態に自覚的になりやすい。日本語では、同じ表現であっても異なる意味を持ちうるという不安定さを形成してしまいやすいが、それこそが自然言語における認識の不安定を自覚しやすい文化となっているとも説明できる。言葉は不安定であると自覚する。 日本語では一方的な説明となってしまう場面においても、必要に応じて説明の程度や方向を工夫することによって、理解可能性を高めることを望める。特に日本語では、非常に多層的な表現性によって「複数の説明によって、1つの情報を明確化していく」という手法をしやすく、実践されやすいと考察できる。 日本語は表現性の広さによって、多角的な説明がしやすい機能性を持っていると評せる。また日本語は多層的な語彙体系が整理されているため、表現の調整や工夫を意識しやすい言語構造を持っている。そうした構造から、相互的な会話であれば、相手の理解に応じた表現の調整をしやすいと説明できる。

目次  #### 社会性:社会の実態 言語的に不安定では社会を安定させることは難しいのではないか、と想像されやすいと言える。しかし実態として、「言語体系として理解可能性を高めている」と評されやすいはずの英語圏に対し、「言語体系として不安定さを認識されやすい」と説明できる日本語社会が著しく不安定であるとは説明できない。 むしろ、日本社会は世界的に見ても安定性が高いと評されやすい社会を形成している。歴史的な文化の経緯などを理由として説明されやすいが、その社会性を日本語を基盤とした社会環境によって維持し続けているという事実は否定されない。一方で英語圏が必ずしも安定しているとも説明しがたいと言える。 社会的な相互理解という部分において、英語文化は「言語的な差異がある場合、致命的な意思疎通の不和を生じやせやすい」と言えるのに対して、日本語文化は「言語的な差異を許容したまま、必要となる意思疎通をしやすい」と考察できる。「言語的な差異」への耐性が、言語において異なると考えられる。 注記しておくが、日本社会は歴史的に見て、言語や文化において均質な地域であると説明することはできない。日本は地域ごとに異なる言語性や文化性を持っている地域であり、むしろ多数の強い方言が現存している。「文化的に安定をしている」という理屈で語られやすいが、それは結果であると考えられる。 日本語は、歴史的に「異なる言語性や文化性との協力を必要としてきた」という社会的な背景があると説明できる。日本文化はその中において「言葉の統制」や「意味の共通化」という表層的な制度ではなく、もっと根本的な「意思疎通の基盤」と言える構造を形成していったと考察することができる。 つまり、表層的な解釈としての「日本文化は、多様な地域性を同じ言語へと統制したことで統一性を成立させた」という機序ではなく、「日本文化は、多様な地域性を同じ体系に準じて成立させることを可能とする言語体系を整備することで、言語の表層的な統一性を実現した」という機序に整理できる。 日本語に対して「互いの共通認識が標準的に近いため、意思疎通の不和が生じにくい」という考察は、実態として局所的な環境や範囲でしか成立しないと言うべきであり、またそれが「環境的な歴史的背景によって成立している」という特殊性として扱うことは、表層的な部分での錯誤的な解釈だと整理できる。 日本語でも、言語における認識のズレは珍しいものではない。日本語において、そのズレが他の言語に比べて特別に少ないとするのならば、それは「歴史的背景」を根拠とするものではなく、より現代的な「日本語の言語体系と、それによる教育体制」によって成立していると考察することが現実的と言える。

目次  #### 社会性:日本の文化基盤の形成 日本語でも、自動的に「社会的に妥当な言語の共通認識」が形成されているとは言えない。現代日本語は標準語の教育をほぼ全地域に普及させることができている評せる一方で、しかし実態として地域に根差している方言性の現存を確認できるため、日本が言語的に標準的な均質性を持つとは説明できない。 日本は、時として理解が困難な例もあるほどの多様な方言性が現存する地域である。日本語文化の歴史的な背景を考えるのであれば、決して均質な言語背景を持った地域であるとは説明できない。本質的には、「やや異なる言語の様式が併存している煩雑性の高い言語文化」と説明するべきである。 現代日本が、安定した社会と評されやすい社会体制を実現している根拠は、「日本語が歴史的に整備をしてきた学習・教育・理解・活用の容易性」と、それを活用する教育体制によって実現される「整備された基礎的な言語の統一性」を基盤としているものだと整理することが、より現実的だと考えられる。 そのようにして現代日本では、多くの人々が一般的に、社会的な情報をより多く得ることのできる社会が形成されている。最も顕著な部分として、本や新聞などのような文書記録を読むと言った行為が一般的に広まっており、また標準語によって、テレビやネットなどから多くの情報を得られる文化基盤を持つ。 つまり、日本社会の基盤は「日本語の持つ機能性」によって、大きく支えられていると説明することができる。日本語の機能性によって社会的な言語基盤の普及と整備を実現し、「表層的に均質性を持つと解釈されやすい文化基盤」は歴史的な安定性でなく、現代の共有性によって形成していると整理できる。 むしろ煩雑性の高い言語文化であるからこそ、理解への態度や言語を扱う文化が特殊化していると整理できる。言語的な不完全性が認識されていることで、言語の不完全性を前提とした社会的な態度が必要とされ、そこから日本文化の特徴とも言われる「察する」という作法を形成しているとも想定できる。 なお、日本文化においても必要に応じて詳細な文書化を行うという作法があり、形式性のある文書文化を持ち、高度な分野でも実用されている。こうした面は日本の技術分野でも日本語が基本として常用され続けていながらも、世界的に高い水準を持っていると説明できる事実から、その実態を説明できる。 また現代日本語は、基本的な言文一致・書き言葉と話し言葉の基本的な体系の同一化を成立させていると説明できる言語のひとつである。日本語でも、高度な分野の文書の読解が難しいことは言語の普遍的な法則に準じて存在するが、日本語は日常の言葉から高度な言語体系への接続性が高いと説明できる。

目次  #### 社会性:英語の文化基盤の構築 英語文化は、「言語」に対する強い信頼と社会的な要請に基づいて、言語文化が形成されていると説明できる。多様な民族をまとめ、統一的な指針に基づいて社会体制を構築するという社会的な要請があり、現代英語の言語体系が整備されていったものであり、歴史的にとても合理的な判断と評せる。 また現代英語は近代的な整備として、自然言語に見られがちな煩雑性が整理され、比較的分かりやすい形への統制を目指したと言える。理念として「社会的に使われている言語を分かりやすい言語へと統一することで、社会体制と社会を安定させられる」という理論上の合理性に基づいた言語だと説明できる。 そのため英語を母語とする地域では、分かりやすいはずの「正しい言葉の使い方」を使えることが、社会一般を含めた常識的な規範性として社会が整備され、「英語を使えることが社会の一員の条件」や「使う英語の質が、その人格や能力を示す」と言われるような社会文化を、特に強めていったと考察できる。 その思想の根源は古く、文化的な源流側にある、欧州の古代から続く言語文化に基づいた思想だと説明できる。欧州の古来の知識層には「整えられた言葉は、知性や理性の象徴である」という理念が見られ、整えられた言葉こそ、より優れた知性であり、優れた理性を示すという思想が形成されていたと言える。 そうしたおおよそ古代から続く欧州の知識層の思想における「歴史的な文化背景」から、「言語的の統一は、相互理解のために最も必要とするものである」という理想が形成され、「整備された言語によって、それを実現することが可能である」という理念に基づいて、文化が形成されていると整理できる。 しかしその「統一された言語による相互理解」という理想論は、言語の普遍的な法則や、自然言語の物理的な法則、また人間の基本的な心理などを軽視したものであるとも説明できる。つまり言語として、本質的にその理想が通用するのは「同等かつ同系統の知識体系に持った相手」に限定されると言える。 また現代英語は言語体系として比較的わかりやすく整備されていると評せる一方で、複数の言語を急進的にそのまま統合した言語体系であるため、致命的に分かりにくい部分が惰性的に現存していると言える。その実態として「基礎教育において書籍を自力で扱えるようになる段階」が、英語圏はやや遅い。 さらに「伝わる言葉を話さなければならない」という社会的な要請の圧力によって、一般的には難しい語や珍しい語の活用が避けられ、日常的に常用される語・頻出語が極めて限定化されやすい傾向が形成され、その結果「頻出語の使いまわしによる多義の積層」が進み、難しさも深めていると考察できる。

目次  #### 社会性:英語の文化的経緯 英語文化は「多数の民族を含む文化的な多様性に対応するために、言語的な統制をして明示的な傾向を強めた」と解釈されやすく、明示的な傾向の根源を「不安定な社会背景」に由来すると考察されやすいが、その本質は社会の不安定さよりも「言語の不安定さ」でシンプルに説明することが可能だと言える。 また、その「言語の不安定さ」の根本的な理由とは、本質的に文化的な背景の不安定さよりも、むしろ「言語が安定する限定的環境に準じて整備されている」と説明できる。つまり「共通認識が安定する文化的な知識層が、仲間内において困らない程度に効率化した様式」を大きな原型としていると考察できる。 特に現代英語が当然としている「語順」に依存するという様式の存在から、「仲間内で効率化された様式」と呼べる性質を説明できる。語順に依存する様式は、言葉の関係性を表現の中では明示していないと説明でき、つまり本質的には「極めて暗示的」な表現を使っていると評されるべき言語体系である。 文化的な分析において、暗示的な表現は「前提認識が共通化している、文化的に安定した環境において見られやすい」と説明されやすい。つまり「極めて暗示的な表現を前提として整備されている英語の言語体系こそ、文化的に安定した環境における作法を基盤としている」と説明することができる。 もちろん現代英語の全てがそのように成立しているわけではなく、特に「実用される単語の総数」が限定されやすいという部分は「語彙の少ない人の多い、知識的に安定していない社会環境」によって形成されている環境であると説明できるが、その要因もまた「仲間内」の傾向が大きく関わっていると言える。 英語は「字と音の不一致」という「口承を含めて教えてもらえなければ、言葉の学習がろくにできない」と言える言語体系を残している。これもまた「不一致があっても、仲間内なら通じるので困らない」と言えるような様式を残し続け、そのまま広まっただけであると状況を整理した考察をできる。 字と音の不一致などの問題から、英語では新しい言葉を覚えることが実態として難しい。「仲間内」であれば教わりやすく、語彙を増やしていくことがしやすいと言えるが、社会一般での学習性では非常に悪いと説明できる。これによって「語彙の少ない人が多い」と言える社会環境を強めていると考察できる。 つまり英語の実態は、「仲間内において困らない言語体系」の一般化を目指したのが現代英語の様式であると整理することで、その不全性を説明しやすくなると言える。広く使いやすい言語を目指しているが、結局、実質的には深い文化的知識や前提の共通認識が無ければ、意思疎通は難しいと説明できる。

目次  ### 社会性:一意性と多義性 英語の形式性は、文章において「単純な形でも一意な意味を形成しやすい」と説明されるが、しかし実態として、「本当に一意な意味を構成するために必要なことは非常に多い」と説明でき、簡単であると評せるものではなく、「表層的な範囲においてシンプルに見せかけているだけである」と説明できる。 例えば[Take]の基本的な意味は「取る・掴む・捉える」の意味を持ち、[Off]の基本的な意味は「対象から離す・対象から外れる」という意味を持つ。では[Take off]によって「掴んだ状態から離す」という意味を持つのかと言えば、一般的な意味ではない上に、多数の異なる語義へと展開する語に変異する。 つまり英語の実用において「一意な意味を形成する」ためには、単語ごとに単語単体の意味に加えて、組み合わせでの意味もおおよそ網羅し、それらとの誤認を避けるために表現の調整をしなければならない。しかし、「英語はシンプル」という見せかけから、その労力は過小評価されがちであると言える。 英語文化に対しては「1つの文章において、十分な情報を揃えるため、おおよそ1つの意味を明晰に伝えられる」という評価も見かけるが、その実態は「語の意味が積層しているために、これを区別できるだけの十分な情報を揃えなければならない」という言語的な事情に基づくものだと説明するべきである。 また実用において、英語を読み解く場面でも、多義性の強い語においてはその意味を注意深く識別しなければならない。英語文化の作法として、多義性へと対処するために「識別できるだけの情報が揃っている」と言える場合は多いと言えるが、読み解く場合には「どの意味であるのか」の判断を要求される。 英語に慣れ親しんでいる話者にとっては、おおよそ「十分に情報を表明しているのだから、言葉の意味は自明的に一意に定まる」と瞬時に判別してしまえるのだろうと考えられるが、実際には、英語であったとしても「文字通り」で理解できるとは限らず、非常に高度な識別をしていると説明するべきである。 英語文化に強い形式性が根付いている背景には、多義性の問題も強く関わると説明できる。つまり、英語は特に頻出語・常用語の意味が積層しており、多義的な傾向を強めているため、どのような意図で使わているのかを識別できるだけの情報量と整備が求められ、それが形式性を強めていると説明できる。 より詳しく言えば、その問題は「発話における識別」も深くかかわる。英語は語の発音や聞きとりにおいて繊細で脆弱さを持っており、より「予測しやすい形」を使わなければ実用できないという事情を持つ。意味においても音においても、不安定さを持つために、形式性を強めなければならないと整理できる。

目次  ### 社会性:言語の成長 人間にとって言語の難しさが生じる部分があることそのものは普遍的な法則性であり、自然な現象であると説明するべきである。特に高度な領域が広がっていく場合、それを扱うための技術を人間に要求する。反対に領域が広がらない言語では、高度な分野を扱うことに段違いの難しさを生じさせると言える。 英語もまた自然言語において普遍的に見られる難しさを回避していないと説明できるものである。言語の中では近代的な整備によって合理化を進めている部分があると十分説明できる一方で、社会における言語の実態を観察すれば、実社会における扱いにおいて難しさは存在していると言うべきである。 なお英語の様式が形式的な文章において優れている、という認識は必ずしも正しい機序を表しているわけではないと言える。言語における「使われている所における機能性」とは、「使われていることによって整備されていく」という関係性を持ち、英語の様式そのものによって導かれているとは限らない。 英語が世界的に高度な知識体系のための言語として機能している理由の根源とは「英語によって整理されている知識文書の多さ」であると説明でき、それは直鉄的に英語の様式によって成立しているものではなく、「英語を使う社会が先進的かつ巨大である」という世界情勢に大きく由来するものだと言える。 さらに詳しく見れば、英語の基盤の上に多くの知識文書が整備されていると説明できる一方で、実情として「英語の日常的な言葉」と「英語の知識領域や学術領域における文語体系」との接続性は、それほど良好であるとは言い難いと説明できる。英語もまた、話し言葉と文語の乖離を回避していないと疑える。 もちろん、英語を多くの人が使えるようになった理由を形式性の高さのおかげだと説明できる。また形式性の高さに加えて、他の先進的な文化を持つ欧州各国の各言語に比べれば比較的シンプルな構造性の言語体系によって、高度な知識体系の受け皿として便利であったという考察をすることもできる。 しかしそれは高度な分野においての利点の話である。英語文化は、その高度な知識体系に近い難解な言語体系を、庶民的な範囲でも常用することを強いられている社会体系であるとも説明できる。強く言い表せば、万全な教育や学習をできない広い人々の、言語的な自立性を保障していないとも表現できる。 つまり現代に至る英語の言語体系としての成長とは、高度な方向性ばかりへ進歩していったと説明できる。特にその思想として「知識体系の言語を授ければ、人々はより知性的で理性的になり、模範的な社会が形成される」とでも考えていたのであろうかと考察できるが、実態は格差を強めているとも評せる。

目次  ### 社会性:分かりやすさへの要請 自然言語の普遍的な法則における難しさによって、英語圏であっても人々の言語は結局、十全な状態であるとは説明できず、現実として、不十分な状態であることは珍しくもなくあると説明できる。また英語における学習性の厳しさによって、その克服が難しいものとなっていると考察できる。 結局のところ実態として、英語であっても言語の不全性という社会的な問題を抱えていると説明しなければならない。また言語の普遍的な法則によって、英語であっても感覚性のズレという現象の問題を持つが、英語文化は形式性を社会的な要請として持つことによって、変質に抵抗をしていると考察できる。 英語文化の社会では、言語的な能力が不十分や不適格である場合、事実上、その社会を構成している一員であるとは認められにくいとも考察できる。言語能力に対して、強い社会的な要請による圧力とストレスが形成されることによって、実質的に、言語的な健全性を維持する力学を形成していると推察できる。 しかしながらそのようにして、英語文化ではより大きく「分かりやすい言葉」への指向や依存が、強く働いていると考察できる。英語は、学術的なものを含め総合的な語彙そのものは非常に膨大であると説明できる一方で、日常を含めた語彙において頻出する語は非常に限定されている傾向を持つと説明される。 英語の語彙にはより詳しい語があることも多いと言える一方で、日常的な実用においては、分からない語は当然使えず、分かりにくいと思う語までも使いづらい。そうした文化的背景から、伝わりやすい「分かりやすい言葉」こそが、社会的な影響において、さらに強く働くようになると考察できる。 英語文化でも、一般的な領域では簡単な言葉を中心的に使い、世界を単純化して言語化しているとも考察することができる。そのようにして、人々の理解までも単純さを求めてしまい、複雑なことへの許容性を狭めてしまっているとも想定できる。高度な知識が、自然と特別化されてしまうとも考えられる。 英語に限らず、母語の範囲でも高度な知識へのアクセスが難しい傾向を持つことそのものは、言語の普遍的な法則として自然な現象だと説明できる。日常的な語彙は単純でも十分であるが、専門的な語彙は厳密性と詳細性を必要とするため、互いの乖離が生じる。これは英語であっても同様だと言える。 だが、英語は分野ごとの語彙の特殊性を強める文化傾向が見られ、英語においてはなおさら「日常的な語と専門的な語」との分断性が強い傾向にあると説明しやすい。英語の体系内でも、異なる言語からの引用によって形成されている語彙領域も珍しくなく、日常的な語との接続性は持ちにくい。

目次  ### 社会性:分かりやすさと論理性の錯誤 英語文化では、その言語の性質と社会的な要請によって、「形式的に正しい文章を構成すること」を原則的に求められる。しかし、言語の扱いとは英語であったとしても、言語の普遍的な法則として、人それぞれの言語感覚に強く依存するものであり、その判断は感覚的な妥当性に基づいて行われると言える。 英語文化では、形式性への社会的な要請によって、社会的な常識として「形式性の高さが、知性の証」という認識が形成されていると説明することができる。しかし、その判断はあくまでも感覚的な妥当性に基づくものであるため、「感覚的な妥当さが、正当性を強く感じさせる」と考察できる。 形式性の高い言語文化における「形式的に正しい文章を構成すること」という社会的要請とその合意は、誤解を回避するために効果的であると説明される一方で、形式に従った「理解しやすく精緻な文章であれば正しいものである」という解釈を強く誘導してしまいやすい危険性も存在していると考察できる。 [Fish are creatures that can migrate through the ocean.][Therefore, whales are fish.]、あるいは[Animals with large brains have intelligence commensurate with their size, which allows them to use language.][Therefore, birds, which have small brains, do not use language.] しかし実態は[Fish are oviparous and whales are viviparous, so they are not one and the same.]、あるいは[Birds communicate through their calls, and it has been confirmed that they use the calls of different bird species to motivate other birds.]であり、これらの反証を必要とする。 英語以外の言語であっても「正しく見える虚偽の文章から事実を誤認する」という現象そのものは珍しくも無いことである。しかし、英語であってもそうした現象を回避することができるわけではないと言える。むしろ、英語はその危険性が著しく高い側にあるとさえ考察することができる。 英語文化は社会的な要請から「形式的に正しい文章でなければ、その説明は認められない」とされているために、その社会的なストレスは一転して「形式的に正しい文章であると読めれば、認められるべきである」という認知を生み出し、回避されていない感覚的な判断で判断が歪むこともあると考察できる。

目次  #### 社会性:思い込みの助長と、論理の崩壊 英語であったとしても「論理の感覚性が、結局のところ感覚的な妥当性に依存する」という問題を回避されていないと評せる。これらは「尤もらしい整然とした理屈」へ墜落しやすい傾向と、本質的に正当な論理さえも「非理性的である」と感じられてしまうと排斥されやすい傾向だと考察できる。 英語文化は、より「社会的に信じられるべき方向性」への信用を強めてしまいやすいと考察することができる。そして「社会的に疑われるべき方向性」が「非理性的である」という感覚性によって「正しさを持たない」という認識によって判別することを正当化してしまいやすいと、疑うことができる。 その最も典型的な悪例が「アメリカにおける禁酒法」である。「理性的な言論によって人間は自立すべきであり、人間は理性によって自制することができ、酒類はそれを阻み、禁酒によって人間と社会はさらに理性的になれる」などの整えられた理屈に準じて整備されたと言えるが、現実には則していなかった。 「アメリカにおける禁酒法」は、実施される前までは反論に対し「非知性的で正当な根拠の乏しい論理である」などと言って排除が可能であったと考察できる。しかし実際の所、当時のアメリカ文化において酒類を止めることは非現実的であり、社会を制御することができず、実証によってその妥当性を失った。 つまり「論理的で精緻な言語体系である」という自負を持ちながらも、その実態は必ずしも現実的であることは保障されず、妥当であることを意味するものではない。科学の話と同様に、文化面においても、たとえ「社会的に正常な論理」であったとしても、事実によって根本的に崩壊することさえある。 「アメリカにおける禁酒法」という実例の怖さとは、「社会的に正当な反論が存在しない場合、それは一時的にでも制度化することを容認してしまう」という点であり、そしてそれは「現実的に妥当な反論があっても、社会的に理想的でなければ反論自体を棄却して一方的に押し付ける」という実証である。 つまり「理想に基づいて理論を整備すれば、現実的な妥当性を欠いたとしても、反論に対して理想を害する非知性的な言論であるなどと位置づけ、正当ではないと格下げして棄却し、一方的な理想論を押し通す」という手順を、「形式的な正しさ」に基づいた社会的に正しい行為として実行した悪例と言える。

目次  #### 社会性:理想との距離感 人類文明として、理想を追い求めることそのものは決して悪いことではないと言うべきである。しかし現実社会において、理想のために現実的な妥当性を欠くことは、現実社会を害することを導いてしまう問題が生じる。特に英語文化は「形式的な正しさ」を、現実性と誤謬しやすい恐れがあると考察できる。 理想とは現実的な方法によってのみ実行を目指されるべきであり、現実的な方法を思索することによって追究されるべきであると言える。だが、英語的な論理においては、そうした「現実的な方法」という抽象性による反論を受容しにくいと考察できる。原則的に実証的な反論を求められてしまうと言える。 現実的に「現実的な弊害についての具体性」を即座に用意することのできる物事ばかりではない。英語的な論理では、そうした「漠然的な不整合」という観念を理解できない。「未知の領域への慎重さ」を考察することが阻まれやすく、「実害が生じてから反省をするばかり」になる恐れが強まると考察できる。 明確な反論を形成しにくい理想論に対して、「実例・実害が生じる前に理想の現実性を疑う」ということが非常に難しくなる。場合によって、理想的な論理に対して疑義を投げかけること自体が、人間性を疑われるような危険性さえもあり、社会的な立場を危うくしてしまう恐れがあると考察できる。 それらは「急進的な思想による発展性を妨げにくい」などといった側面を持つとも言えるかもしれないが、理想の急進的な実践とは「血を流しながら積み上げていく」ような、社会的負荷を強いながら試行錯誤を続けるような様式であり、多くの人がその負担に振り回されることを社会的に正当化してしまう。 「英語の言語体系」も、その「理想的な論理」に基づいて実行・維持されているという考察もできてしまう。英語は難点を抱えながらも、英語の世界観にとっては「世界的に使われている最も優れた言語であり、理想的な言語である」という認識を常識としなければならない、という感覚性も疑えてしまう。 つまり、英語の世界観にとっては「英語は世界中で使われている、社会的に妥当な言語として機能しているのだから、言語運用における問題があったとしてもそれは言語体系による問題ではなく、使用者による問題であり、個人の責任である」という常識が形成されているのではないかと考察できる。 実態として、英語は他言語に比べて社会的な課題があると説明できるようなデータを確認できるが、それを改善することが実現していない。「英語が難しい」という理屈に対して英語そのものが難しいと解釈するのではなく、英語の地位を変えられず、学習者の能力不足へと転嫁してしまいやすいと考察できる。

目次  #### 社会性:問題の普遍性と言語の問題 ただし、こうした社会的な問題そのものは、英語文化のみに存在しているわけではない。本質的には英語特有の問題ではなく、人類文明において珍しくもないところだと説明するべきである。英語の特殊性とは、その「形式的な自明性の自負」という傾向から、それをほう助してしまいやすいと言える点である。 英語という言語体系は「情報を明瞭に並べやすい」と言える強い形式性を持っている。一般的には、その形式性によって「正確に情報を整理しやすい」と説明でき、それによって「論理的な思考に適している」と評価される場合もある。しかし、その機能性の実態はあくまでも「情報を並べやすい」だけである。 外面的な「文章の明瞭さ」と、その中身における「論理の正常性」は必ずしも一致するわけではない。文章の明瞭さとはあくまでも外面における分かりやすさを支えるものでしかなく、その中身の正常性を保障するものではない。論理の正常性は、言語体系ではなく、論理体系によって形成されるものである。 そうした「文章の正常性≒表層的な正常性」と「論理の正常性≒深層的な正常性」とは、相互関係を持っていると説明できるとしても、異なる層に存在するものである。文章の正常性が論理の正常性を支えるとしても保障するものではなく、論理の正常性が文章の正常性を保証するものでもないと言える。 だが英語文化はそれらを強く混同しやすい傾向を持つと考えられる。「文章の形式的な正しさ」を強く求められるというストレスがあることで、「表層的な正常性」ばかりに意識が向けられがちになると考察できる。そうして「表層的な正常性」が「全体の正常性」だと思い込む誤謬を許してしまうと言える。 また一方で、言語感覚はあくまでも、個人の感覚性によって成立するものであるために、人々が「表層的な正常性」さえも必ずしも素直に納得できるとは限らない、と言える所である。たとえ本質的には正しい文章構造をしていたとしても、感覚的な妥当性に欠ければ、その論理は受け入れられない。 つまりどのような文章であったとしても、感覚的な妥当性に欠けている場合は「全体の正常性に欠けている」という認知に陥る場合がある。その現象そのものは英語特有の問題ではないが、英語においては「形式性が強く求められるという解釈の狭さ」がその現象を強く引き出しやすいと説明できる。 ようするに、他言語などへの非形式性に対する軽視や蔑視といった心理を誘導してしまいやすいと考察できる。普遍的に存在する他言語との感覚的な互換性の無さによる、理解の難しさを、構造的欠陥性であると結び付けてしまいやすい傾向を説明できる。特に、抽象的な合理性の理解を拒みやすいと言える。

目次  ##### 社会性:抽象的解釈を許す体系 文明言語として英語とは対照的だと評せる日本語文化では、その形式性の緩さから別種の問題が発生しやすいと説明できる。だが、標準的に求められる具体性が非常に低いことは、現実への理解の靭性を強める側面を持つとも説明できる。日本語文化では、論理的な理解が難しくとも納得するということがある。 日本語文化における、最も重要な抽象性として[穢れ](a culturally and psychologically mediated sense of impurity or defilement.)という感覚性を説明できる。これは「心理的な拒否感のある状態」であり、非論理的な感覚に由来すると言えるが、現実的な実用性も備わっている感覚である。 [穢れ]の観念とは実用として「理屈よりも先に、汚染を発生させうる可能性を認知し、それを回避する感覚性」として働く。これは万能な感覚ではなく、合理的な判断を全てにおいて導けるわけではないが、一般的な衛生観念としてはとても重要な感覚性であり、病原の回避を強く意識づける効果がある。 その感覚性が顕著に表れた実例が、2019年頃から生じた世界的感染症の問題であり、「見えない病原」への対応が世界的に求められた中で、世界中多くの人々がその現実性を理解できずに急速な感染拡大を許してしまう傾向を見せていた中で、日本は比して小さく抑えることができていたと評せる。 また日本文化における感覚を尊重する傾向とは、日常的な秩序の範囲においても有益に働いていると説明できる。日本社会における規範性とは、明示的な論理によって形成されているものではなく、感覚的な妥当性を前提とすることによって、理知的な理解よりも前に互いの心理的な安全や健康を尊重できる。 暗黙の了解を是とすることは理解性を損じるとも評されるが、現実的に人間は社会規範の全てを理知的に覚え論理的に実行するのではなく、文化的な感覚性に従って規範を実行すると説明できるものであり、むしろ日本文化の規範性とは、最も人間的に妥当な規範性を形成しているとも説明することができる。 もっと言えば、そうした日本文化は保守的で変化を恐れる傾向があるとも説明をされるが、基本的な社会規範が明文化されていないことは、即ち状況に応じて臨機応変な対応を求められるが、実践的には時代に応じた臨機応変な対応も自然と容認するものであると言える。適応性はむしろ高いと考えられる。 ちなみに日本文化の[穢れ]に対する所作は、極めて古い時代からその合理性を確認することができる。例えば、特別に尊き立場の御方は古来から人目に触れることすら乏しいこともあったが、それは権威付けだけではなく、当時の医療技術や衛生状況、感染症予防において極めて有効であったと考察できる。

目次  ### 社会性:英語における言語学習の実態 英語は、世界を覆いつくすほどの使用規模によって、言語として極めて恵まれた環境であると言える。それは使用者が多いというだけではなく、世界中の多くの人に使われているということはつまり、多くの人が学習をしているということであり、多くの人が教育や教材を必要とする社会の実在を示している。 つまり現実的に考えれば「教育の合理化」や「学習の効率化」が、世界的な社会規模において追究されているはずであると考えられる。現代文明社会における英語の必要性と、実際に学習されている規模を考慮すれば、合理化や効率化を怠っているはずがなく、可能な限りの整備が行われているはずである。 特に英語を母語とする地域にとってはさらに重大な問題である。人々が言語能力を持つことは、個人にも幸福や自己実現の追及のために重要されるものであり、社会にも安定や秩序のために重要とされるものである。事実上の基本的人権として、十分な言語の基礎教育が人道的に必要であると説明できる。 しかし現実的に、英語を母語とする地域の基礎教育において、例えば「本を自力で読めるようになるまでの基礎的な学習」にかかる期間が、他言語に比べて特別に短い期間によって実現されているとは言い難い。むしろ英語圏の基礎教育では、本を自力で読めるようになるまでが遅い傾向が見られている。 英語はその巨大な社会規模と、英語の社会的な重要性や社会的な要請に基づいて、学習体系の整備などがとてつもない規模で尽力されているはずだと考えられる極めて恵まれた環境だと説明できる状況に対して、その基礎的な学習の効率化が他言語よりも遅く、限界がみられるという実態が存在している。 英語の社会が、言語学習の「教育体制や学習体系」の整備において、他言語よりもはるかに尽力を怠っているという可能性は現実的ではない。尽力されているにもかかわらず、英語の基礎的な学習の効率化に限度が見られるという実態は、「英語自体が難しい」と説明できる十分な実証だと考えられる。 また、英語におけるより細かい部分を観察すると、英語の学習では「発音訓練」が非常に重要になることが理解されている。英語には非常に細かい発音の操作が存在し、基礎教育においては発音の矯正が難しい場合もあるほど、発音においても簡単であるとは言い難い性質を持っていると説明するべきである。 これらの実態を観察すれば、「英語が簡単な言語である」という評価に対して十分な疑義が成立すると言える。他の難しい言語に比べれば比較的、簡単な言語であると説明できる部分を持っていると評価することはできる一方で、本質的に簡単な言語であるとは説明しがたい、明らかな難しさを持つと評せる。

目次  #### 社会性:学習の遅さという重大な問題 英語圏における、教育の実態として存在する「自力で読み書きができるようになるまでが比較的遅い」と言える状況は、言語感覚の発達という面において英語圏は不利な傾向であると評せる。英語圏の基礎教育課程において、母語である英語の基礎的な読み書きの習得にはおよそ2~3年ほどかかるとされる。 文字文章を読めないなど「言語の記録物」から多くの言語を読み取ることができるようになるまでが遅いということは、「感覚的な学習効率が高いとされる幼少の早い段階」において、読み取ることのできる言語の総量を大きく制限してしまいやすいことを意味する。「言語感覚の成長」が著しく制限される。 また文章の読み書きができない状態では、自分自身の言葉を文字で整理することもできない。学習段階として、自力での読み書きをできるようになる時期が遅ければ、「感覚的な学習効率が高いとされる幼少の早い段階」において言葉を使う経験が多く制限され、つまり「言語感覚の成長」が著しく制限される。 英語圏においてその問題を回避できるのは、恵まれた家柄で親身に早期の教育を受けることのできる人に限定される。早期から多くの学習をできる文化的に恵まれた家柄が、極端に社会的な優位性を得られる言語文化であるとさえ考察できる。一般家庭においては言語的な成長が著しく制限されると考察できる。 もちろん英語圏の社会も十分に機能して成立していると説明できる。社会的に普及させている一般的な教育の成果として、多くの人が社会的な活動が可能になる程度の、十分な規模の教育が達成されていると説明できる。そのため読み書きの遅さ自体が、致命的な遅滞であるとは説明できない。 しかし普遍的な人間の成長の法則に基づいて考えるならば、英語圏における一般的な読み書きの遅さが、成長後の能力に全く影響を与えていないと想定することは難しい。例えば、英語の常用される単語が著しく限定されるという傾向も、言語機能の成長の抑制が関わっている可能性もまた想像できる。 これは対照的な日本語文化との比較において、より顕著に説明できる。英語圏の基礎教育課程においては「子供が本を持つ」という状態が一般的には遅い一方で、日本の基礎教育課程では最低限の表音文字の読み書きを半年で済ませることができ「基礎教育1年目から子供が教科書を所有する」体制である。 日本語文化では、日本語そのものが母語としての学習効率が高いと説明できるだけではなく、その性質を活用して早期により多くの言語情報へと触れやすい環境を成立させていることで、言語感覚の成長が促されやすいと考察することができ、そうした部分も言語能力の柔軟性を支えているとも考察できる。

目次  #### 社会性:社会性の形成 言語的な能力の成長は当然として、思考能力や想像力といった部分にまで影響を及ぼすと考えられる。単純な理屈として、情操教育やそうした情報を早くから多く得られる文化の方が、情操の成長も促されやすいと説明できる。自力で読めるようになる言語的な自立は、そこに大きな影響を及ぼすと考えやすい。 日本語文化では基礎的な範囲における自立が非常に早く、特に文化的に豊かな家庭であれば入学よりも前に表音文字を読めるようになる学習も、おおよそ済まされていることさえあると言える。一方で英語文化では実態として、特に文字情報を読めるようになる段階が比較的遅い傾向だと説明できる。 日本人の持つ暗黙の規範性などもまた「早い段階から多くの情報を得られることによって、より身体的に深く規範への感覚性が身につきやすい」という考察をすることもできる。一方で、英語文化では、社会的な情報を多く得られる時期が遅くなるために、暗黙への感覚性が育ちにくいのではないかとも疑える。 つまり、英語文化において「明示されていない情報は、存在していないものとして扱われやすい」という社会的な合意が常識的な対応であるとされやすい点は、一般的な認知能力において、言語学習の遅滞から、多くの情報を受け取って扱えるほどの認知能力の形成も妨げられている可能性を疑うことができる。 暗黙の社会性が深い地域の人々からすれば、特に「明示されている理解しやすい規範性を明示されなければ、規範として認識することができない」という社会性は、「非常に未熟な振舞いである」と認識されると考察できる。「状況を理解する能力の乏しい未熟な人間である」と理解される振舞いだと言える。 注記しておくが、その傾向は非英語圏での振舞いに限られるものではない。英語圏内であったとしても、状況を理解して判断できることは人格的に優れた人間だと評価されると考察できる。他にも「当たり前に望まれている行為を、自律的に実行できること」は、英語圏であったとしても好まれると考えられる。 また英語圏であっても「常識的な判断」と言われるような領域は形成されていると観察できる。よって明示的な社会性について表層的な文化的多様性のみを理由として、基礎的な社会性の比較的未熟さを整理することに疑義を持てる。ようするに、単純に察する力が育ちにくいのではないかという考察ができる。 表層的な文化的多様性も、それは流動性が高く文化的な多様性が世代をまたいで維持され続けているような環境に限って成立する理屈で、地域に根差した新しい世代では世代が進むにつれて基礎的な社会性は共通化が進むはずであると考察できる。それのみを、暗黙への弱さにすることは難しいと考えられる。

目次  ### 社会性:単語の総量と実用量 現代英語では、常用されないものを含む、辞書的な範囲や専門的な領域を網羅して数えられる単語の総数は、著しく多いと説明される。現代英語は、複数の言語のパッチワークによって成立していると説明できる様式を持っており、また形式的には他言語の単語を輸入しやすい様式を持っていると評せる。 しかし「多言語のパッチワーク」という様式と歴史的な変異が複合した事情によって、英語の内部には、古来からの英語だけではない、複数の言語体系の様式が並列的に残存していると説明できる。これは単語の使い方だけではなく、発音体系においても併存しており、「字と音の不一致」の一因と説明できる。 英語は言語のパッチワーク化を進めた歴史的な経緯から、主な欧州言語において「単語の変形」で制御されていた表現の領域を、「語順」や「機能を分離した単語」などの操作で制御する表現の方式へと転換したため、外来語をローマ字表記にするだけで単純に導入しやすい体系を持っていると説明できる。 一方で、英語文化で日常的に使われて頻出する単語の範囲は、限定的な傾向を持つと説明できる。機能的に分離した単語を組み合わせることで細かい表現を成立させる様式を持ちながらも、実態として日常的に使われる基本的な単語の数は、他言語と比較してもそれほど大きな差は無いとされている。 英語の体系として、細かい表現を成立させるために機能的に使われる単語が増えているはずと推察できるが、日常的に使われる単語の総数が特別に多い傾向は示されない。つまり実態として、常用される「自立して意味を表す単語」の数自体は、常用される機能語の分、削減されている傾向を持つと推察できる。 実用する単語の単純化や削減という傾向は、言葉の簡便化や効率化として評価することもできるが、実態として、実用される単語が単純化と削減が進めば「表現の選択範囲」は限定されやすいと言える。しかし文明社会における「日常的な表現への社会的な要請」が縮小するわけではない。 そして英語文化の実態として「使いやすい単語を特に使いまわすことで、日常生活において必要となる表現を用意する」という言葉の様式を持ち、細かい単語の多彩な組み合わせ表現などによって、非常に幅広く多彩な表現が形成されていると言える。その結果、頻出語の多義性や煩雑性が著しいとも評せる。 英語はその性質上、多種類の単語を実用できる言語体系を持っているはずであり、実際的にも非常に多くの単語を持つと説明できる。しかし、実態として「日常においては限定的な語の使いまわしや組み合わせて言い表すことが多い」と言える。例えば英語では[Fired]で「解雇する[Dismissal]」を表せる。

目次  #### 社会性:英語の特殊な事情 英語が、特に口語表現において多くの単語が実用されづらい理由については、「形式性の強さによる心理的な影響」や「話者の責任の強さ」に、さらにこの問題を強く誘導する大きな事情として「字と音の不一致」という言語構造が、「常用語の増やしにくさ」へと致命的に影響していると推察できる。 現代英語は複数の言語のパッチワークによって複数の発音体系が並列的に残存している。さらにやや古くからの文書における安定性を優先した結果、音の変化や違いに対して追従せず単語の文字列が維持されたことで、「知らない英単語は、文字列を見ても伝わる発音を確信できない」という体系が形成された。 そうした事情によって、英語では珍しい語の共有性が格段に難しく、一般的には使いづらくなると推察できる。そこへ英語の文化的な事情も合わさって、よほど印象的に広まらなければ常用語としての定着も難しいと言える。そうした傾向から分かりやすい語で言葉を組み立てる様式を強めていると整理できる。 英語では、「基本として覚えるべき単語の総数」は少ない傾向だと説明できる一方で、「単語ごとの意味の派生」や「慣用句・イディオムの派生」はむしろ多い方であると説明・推察できる。なお英語には「現在1単語として数えられている語」でも、中身が2語で形成されている合成語も非常に多く見られる。 もちろん、自然言語の普遍的な法則として、日常語において珍しい語、使われなくなった語が脱落していくことは自然な現象であり、英語特有の事情ではないと説明するべきである。だが英語文化においては、英語の性質からその傾向が極めて顕著に働く様式と様子が見られると説明することができる。 また英語でも、芸術分野などでは新しい表現が模索されることもあると言える。しかし複雑な表現が好まれているとは言いづらく、例えば大衆向けの楽曲の歌詞では理解可能性を最大化するために、単純な語彙のみによって構成されることが特に多いと見られている。それが英語圏での経済的な戦略になる。 ようするに英語もまた、英語としての難点や事情を抱えていると説明できるわけである。日本語では高度な語彙が難しいなどとも言われるが、高度な語彙が難しくなるのは他の言語でも同様であり、英語ではむしろ専門用語と日常語との乖離が大きくなりやすいために、難儀しやすいとさえ推察できる。 ちなみに英語圏でも、狭い領域で使われるスラングは積極的に発生する。これは限定された領域であれば意思疎通への不安やストレスが軽く、直感的な表現を創出して使っても意識の共有もしやすいからであると説明できる。他言語でもスラングは存在するが、標準的な形式性の強い英語圏でも多く見られる。

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目次  ## 機能性:機能性の区別 論理において「文章構造によって表される情報の表層的な正常性」と「論理構造として形成される理論の深層的な正常性」は別物である。これらは互いに影響し合うような関係性を持つと説明できるが、しかし表層的な正常性が深層的な正常性を保障するものではなく、またその逆も当然として保障されない。 たとえ見かけにおいて整然とした情報が並べられ、読みやすい文章であったとしても、それが本質的に正しいかどうかは、反証に対する強固さによって確かめる必要性があると言える。反対に、本質的に正しいことであっても、それが整然とした文章を自然と導くものではなく、相応の言語技術を必要とする。 また言語体系の性質として、言語の実用における「構造構築と構造理解における人間的な使いやすさ」もまた、純粋に論理的な機能性とは別物であると説明できる。つまり、より多くの人たちにとってその言語体系が扱いやすいかどうか・人間的な感覚性において自然に使いやすいかどうかは、別物と言える。 極端な例えとして、より人為的な設計で整備された極限的に詳細な論理記号によって情報を整理してそれを実用できれば、とても高精度に論理的な明晰さを実現することができるだろうと想定できる。しかし現実的に、人間として、過剰に詳細な言語を運用することは、著しい困難性を伴うと考察できる。 人間の知能は全能ではないため、言語の運用においても自然と限界が生じると説明できる。特に日常的な領域や文化的な領域においては、「自然に使いやすいこと」こそが最も合理的な機能性であると説明でき、過剰な詳細性や、過剰な厳密性を持つことは、自然な感覚では使うことが難しくなると言える。

目次  ### 機能性:英語の精密性と不自由 英語文化は、論理における正常性を最重要とした結果、構造を安定させるために形式の自由度を大きく抑えていると説明できる。英語はその形式的な強さと、単語配置の形式上の単純さなどから「精確性や明晰性が高く、分かりやすい言語」のように説明される。だが、実用には相当の教育を必要とする。 特に英語は形式性を強めた結果、シンプルな文法構造へと着地したことで、正しい形に整えなければ文章が成立しなくなるという「構造的なエラーの発生」が大きな原則として組み込まれていると説明できる。構造的なエラーを回避するための技術が全ての話者に求められる、簡単とは言い難い体系だと言える。 英語の実態とは「言語上の不具合に弱い言語体系」とも表現することができるため「構造的に脆弱である」とも説明できる。使用者は、その脆弱性を克服するために、十分な学習と構造への理解を深めなければならない。初歩的な段階では文をまともに扱うことさえできず、「扱いが難しい」と説明できる。 英語の「分かりやすい言語」と言われる見かけとは、実態として「分かりやすくない状態を原則的に不正な状態であり成立していないとしてしまうこと」によって、成立しているものである。そして、それは自然と形成されるものではなく、使用者に文章を成立させるための努力を強いていると説明できる。 英語は例えるならば、知識層や学者たちの高度な言語運用を基準に、急進的に整備されていった科学的言語体系と呼べるような様式で、高度な分野において十分な機能性を持っていると説明しやすい一方で、日常的な運用における柔軟性は軽視され、人間的な運用においては大きな負荷があると考察できる。 その運用、構築と読解において、高度な言語知識を必要としやすく、その構築や読解を誤れば、結局のところ英語でも容易に誤解は発生する。むしろ、整備された状態から人間的な活用が進み、文化的な領域が積層していることによって、日常的な活用にも、深い文化的な言語知識が必要になると説明できる。

目次  #### 機能性:具体性の不自由 英語は、一般的な単語の意味が多義的な傾向を持つために単語単体でその意味を理解することが困難となることが多い一方、単語の組み合わせや文脈によって言葉の意味は急激に細密化し、狭い意味のみを言い表す表現へと転換する。英語は言葉の運用において、抽象性の活用が難しいと考察できる。 細かい抽象性を活用するためには、高度な表現様式を必要としがちであり、それを日常的な範囲において直感的に使うことは難しく、また実用したとしても相手にとっての理解可能性を著しく落とすと考えられる。そのため単純化して明晰に言及できる、具体的な範囲を基本として扱わなければならない。 しかし、言語の抽象性が乏しく「標準的に言葉の意味する範囲が極めて限定される」ということは、発信側にとっても受信側にとっても、ほんのわずかな間違いが意思疎通を破綻させてしまいやすくなると説明できる。詳細な意思疎通をするためにかかる労力や心理的なストレスが大きいと推察できる。 もちろん実際には、英語文化であっても多少のズレなどを類推的に補完することはあると言えるが、英語の体系は補完が難しい。明らかな間違いであれば認識しやすいが、多少のズレを認識することは難しく、補完にもまた高度な認知と理解を必要とする。間違って補完してしまう恐れも当然としてある。 しかし、他言語の比較として、そもそも日常的な語彙では実のところ厳密性が低くとも、生活していける程度に成立できるものである。むしろ厳密性が高いほど、簡単に使える表現の範囲が限定され、日常的には単純な語彙ばかりになり、その単純な語彙のみでは意思疎通にも不自由させられると考察できる。 つまり瞬間的に表現したい意思があったとしても、形式性が強固な場合はそれを伝えるための構造設計を要求される。もし設計できない場合、その意思は伝えることができない。もし稚拙な設計をしてしまうと意味を誤りやすく、あるいは成立せずに「伝えようとしていない」という社会的合意が働く。 なお英語でも、日常的な範囲において「非形式的な表現」そのものは頻出する。しかしそれらも基本的として表現する意味が非常に限定されるものであると考察できる。むしろ、「意味が明晰である表現」だからこそ、非形式的な表現であっても意味が通じるために使うことができると説明できる。 英語文化では「物事をハッキリ伝える傾向がある」などとも評されるが、実態として「ハッキリしない言葉は存在を成立させていないものとして棄却されている」と考察することができ、「ハッキリ伝えられる言葉のみが残存している」と言い換えて説明することができる。緩やかな人間性を失わせている。

目次  ### 機能性:対照的な言語 一方、日本語文化は省略性や、抽象性の高い部分を多く持つと説明できる。だが、それは語の意味や領域が安定して存在するという前提から省略することを可能としており、また基本的な文章構造が柔軟かつ強靭であるため抽象性の高い語彙を多く許容することができていると、整理して説明することができる。 日本語における最も特長的な構造は、あらゆる語に対して汎用的に単語同士を結びつける補助語である助詞を使うことが許されている点である。単語同士の関係性を定義するための表現が、単語の内容に左右されず使うことができ、また単語の意味を変質させることも無く、汎用的に単語の立場を設定できる。 また日本語における非常に柔軟性の高い構造として、非常に多くの語を同一の法則性の中で言葉の方向性を設定できる応用性がある。日本語では[-なる/-する]などの表現によって汎用的に動詞化させることができ、その他動詞と同じ様式で細かい変形をすることもできるなど、分かりやすい法則性を持つ。 さらに語彙としては高度に整備された漢語体系を使っていることで非常に大量の語彙を使える機能性の層を持っているが、日本語の言語基盤は古くから日常的に使われてきた和語を継承しているため、身体的な妥当性の高い単純で抽象的な語彙の層も広く維持している。そして、語彙層の判別も容易である。 日本語の基盤は、非常に安定性が高い構造をしていることで、言語としての安全性が高いと説明できる。しかも統一的な言語法則の中で、非常に広い表現性が整備されていることで「必要な情報」を効率的に伝えることができると言える。音の体系は単純化されていることで、最低限の水準も非常にやさしい。 日本語はそれらの機能性によって、極めて多くの語彙や表現を包摂することができている。語彙が多いこと、また汎用的な機能語や表現の変形によって、語の拡張性も大きく確保されている。既存語の活用を広げる必然性が弱く、意味を守る要素もあり、言葉の意味が比較的安定していると評せる。 日本語における語の極限的な許容性と、身体性の高さを象徴する表現領域として、オノマトペにおける「擬態語」の広さを上げられる。日本語は、高度な文明言語の中では特に擬態語が多いと説明される傾向を持ち、オノマトペ表現の体系そのものが根付いており、単語として存在する表現も少なくない。 もちろん、日本語の柔軟かつ強靭な言語体系による自由な表現性は、一転して自由過ぎることによる問題を生じさせていると説明できる。英語と比較すれば「解釈にエラーが生じる場合であっても、文章として成立してしまう可能性が著しく高い」という傾向を持ち、精確な扱いには注意が必要であると言える。

目次  #### 機能性:抽象性と言語的合理 日本語では日常語彙の抽象性が英語に比べて高い傾向を持つと説明できる。日常において使われやすい語彙である和語は「古来の話し言葉」の様式から継承されてきた表現領域であり、自然と「日常において困らない程度の水準」になって運用されている。細かい方向性の操作は末尾の変形で整備されている。 日本語の日常語彙のように、抽象性の高い語彙を多く使う状態は、厳密性が低いために情報共有において問題を生じさせやすいと評されやすい。しかし現実的な言語の運用においては、抽象性を持った語彙の運用も十分に合理的な性質があると説明でき、むしろ厳密性の高い語彙ほど危険性が高いと言える。 それは大前提として、そもそも言語感覚には個人差がある。言語感覚は物質的・知識的・経験的な違いによる個体差があり、他人同士が全く同じ言語感覚を持つことは物理的にありえない。もし使用する言葉の意味が抽象的ではなく、表現する範囲が狭く、厳密性が高いほど、ズレが致命的になりやすい。 言葉の抽象性が高ければ、多少の言語感覚の違いがあったとしても、言葉の意味が広ければ、その範囲の内側に収まりやすくなるという機能性が形成される。つまり、言語感覚の違いから意図を逸脱した致命的なズレになってしまう危険性が抑えられるため、むしろ安全な意思疎通をしやすくなると説明できる。 また日本語でも実用においては、漢語の活用や文章構成の工夫によって、言語的な厳密性を確保することは可能である。英語に比べて注意が必要であるとも評せるが、英語の文章構成と同等の注意を払って精密な文章構成をすれば、日本語であっても必要な厳密性を規定した文章を作ることはできると言える。 むしろ英語に比べて、柔軟かつ強靭な文章構造が整備されているため、文章における情報の整理をしやすいと説明できる。日本語では安定性の高い文章構造から、単純に言葉を入れ替えたり、必要な言葉を追加することが許されているため、必要な情報量を文章としてまとめ上げることだけに集中をできる。

目次  ### 機能性:厳密性の運用 日常的な会話では実のところ、言葉の基本的な厳密性を追究する必要性が薄いと言える。詳細な厳密性とは、必要に応じて深めることをすれば実用において十分な意思疎通をできると説明できる。基本的な表現においては、厳密性はそれほど強く求められているわけでもないと整理することができる。 例えば[Up:上]という単語は多くの言語において厳密性が低い、抽象性が高い語の例が多いと考察できる。しかし抽象的な表現として使われていても、実用上の問題は少ない。むしろ、もしも仮定として「[Up:上]という単語が数学的に明確な時しか使えない」と厳密化してしまう方が、困りやすいと言える。 仮定として「[Up:上]は数学的に明確な時しか使えない」とした場合、表現の身体性や直感性が著しく損なわれると考察できる。英単語であれば[Top][Above][Over][Beyond][Head][Raise][Fly][Elevate][Increase]などの代替の単語はあるが、その意味と直感性、あるいは具体性は全く異なると言える。 さらなる仮定として、それらの代替の単語も特定の意味しか持ちえないとした場合、[Up:上]の感覚性を言い表す際の表現の選択に、悩まされる。意味が強く限定されるほど、うっかり異なる単語を選択してしまった場合に意味が通じなくなったり、英語であれば文章そのものが成立しなくなる恐れが生じる。 「形式主義」へと極限的に従った理論の上であれば、「語彙の厳密性を上げることで、より精確な表現が可能になり、情報伝達の実用性を絶対的に向上させる」と説明できるはずである。しかし、詳細化するほど語の選択や意味の判断は人間にとって大変になり、人間的な実用性は損なわれると説明できる。 現実の典型例として、法律文は「原則として、十分に妥当な具体性を持った表現により、必要なだけ詳細に構成されるべきである」という社会的要請を持って制定されるが、それを読み解くためには専門的な知識を不可欠とするため、万人に読むことができるわけではないと言える。分かりにくいのである。 科学論文なども、その必要性に応じて論理的に必要なだけ精緻に構成されており、また共有性はとても高い状態であると説明できる。精確な情報を確実に伝えられるような状態でなければ論文として共有されないために、共有の安定性は非常に高いと言える。しかし、それを万人が理解しやすいとは言えない。

目次  #### 機能性:必要な水準の違い 科学論文などのように、確実に同じ情報として精確な情報の共有を必要とする場面においては、形式性を安定させて誤差を可能な限り限定するという手法が重要な作法になっていると説明できる一方で、日常的な範囲において言語に求められている役割とは大きく別物であると説明しなければならない。 日常的な範囲において言語に求められている役割とは、円滑かつ即時的な意思疎通であり、その難しさから頭を悩ませながら運用する状態であっては効率性が損なわれてしまい、人間的な意思疎通を妨げるとさえ評せる。情報の過剰な具体化は、むしろ直感的な理解を阻害してしまうと説明するべきである。 日常的な範囲では情報の厳格性とは絶対の要件ではなく、日常的な範囲での言語の役割とは、寸分も違わない情報の伝達ではないと言える。日常的な範囲では「意思疎通を成立させるまでの情報量」が基本の条件であり、そして、その上で最小限の言葉で構成されていることが最も効率的な言語の使い方になる。 実態として英語でも、「意思疎通が成立する情報」が形成されているという共通認識がある場合には、語の省略をして端的な言葉として使うことも珍しくはない。語が削減された表現では、英語の言語体系としては明らかに不正な表現もあると言えるが、意味が共有されていれば言葉として成立する。 日本語の表現で「言葉の省略が多い」と言われる現象も、そもそも語の意味や音が安定して伝わりやすいことで、意図の予測可能性や類推可能性が非常に高く、言葉の意味を理解しやすい。また子細な表現にも意味の違いがあり、細かい部分から意図を認識できる。そのため省略しても十分通じやすいと言える。 情報の厳格性は、高度な知識分野においては前提条件となるものであると位置づけられるが、それは万能の汎用性を持った要素ではないと説明するべきである。むしろ情報の厳格性を求めるための過剰な具体化や形式化は、日常的な範囲では瞬発的な伝達や理解を難しくしてしまう、大きなデメリットになる。 日常の範囲では発話の遅れや理解の遅れといった遅滞の方が、より大きな時間と体力の損失になると説明できる。意思疎通の瞬発性を妨げる様式は、日常的な実用において円滑な意思疎通の障害となるとさえ説明できてしまう。他にも過剰な明確化は、人間関係における調整能力も喪失させやすいと言える。

目次  #### 機能性:「完璧な灰色のジレンマ」 意思疎通において「情報の厳密性が低いほど、誤解が増えるであろう」と説明できても、厳密性が高いほど実際に意思疎通を成立させるための条件も厳しくなる。そして、人間的な限界からむしろ誤解を増やしてしまう危険性があり、意思疎通を円滑化するどころか、著しく慎重化させると考察できる。 例えば仮に[Grey Colour/灰色]という語で、もし「最も中庸な灰色のみ[Just Perfect Grey]」を唯一の[Grey/灰色]だと定義した場合、厳密性は極めて高く理論上は最も誤解の少ない語彙になると短絡的に考えてしまうことはできる。だが、現実的な実用において、唯一の色を人間が識別することは困難である。 仮にもしも[Grey/灰色]が唯一「最も中庸な灰色のみ[Just Perfect Grey]」だけを言い表す語となってしまった場合、人間にとってその言葉を使うことは非常に難しくなり、現実的に実用することはできなくなり、比喩表現や比較的表現においてのみ使われることとなるだろうと容易に想定できる。 たとえ多少範囲を広げるとしても「規定の条件を満たしていなければ、その表現は適切ではない」という厳格性で縛り付ける限り、その使用には心理的抵抗が生じてしまうことになると考察できる。極めて専門的な分野でしか使うことのできない、限定的な語彙になり、日常語からは排除されると言える。 例えに使った、色の認識は分かりやすく感覚的で、環境や人に左右されるものであるため、厳密性を持つことが難しいことを理解しやすいと言えるが、そうした厳密性の問題は色だけで発生する話ではないと言える。あらゆる言葉において、過剰な厳密性は、特に日常的な実用性を著しく損なうと説明できる。 言葉は厳密性が高い傾向を持つほど、一般的な共有可能性はむしろ低下し、専門的な領域でしか使えないような言葉となり、特に日常的な実用は困難になる。自然言語の普遍的な法則性として、日常的な実用のできる言葉とは、共有可能な水準の意味の範囲によって使われているものであると説明できる。 人は「常識的に多くの語は唯一の意味を取ることをしている」という思い込みをしやすいと言える。しかし現実として、世界の物理的な法則に基づいて、言語の実態は決して確実に唯一の意味を取ることを実現しない。あくまでも、共通認識だと感じる妥当な意味合いにおいて、意思疎通ができるだけである。 日常において使われる言葉もその実態は、意味を認識できる水準の意味を持ち、しかし使いやすい水準の厳格性によって使われている言葉だと整理できる。厳格性が高く、狭い意味だけを示す言葉は、人間的に使うことが難しく、使われるとしても極めて専門的に、慎重に使われる語となると言える。

目次  ### 機能性:形式主義の誤謬 厳格な形式性を持った言語とは、その理想において「厳密に正しい情報を伝達できる言語体系」だと評されるが、それを「情報伝達が容易である」と拡大解釈することは理想論であって、人間的な現実性が欠如していると言える。言語の詳細性と、実際の使いやすさとは原則的にトレードオフだと説明できる。 現実的には語彙の情報の詳細性が高まるほど、その使用において正しく選ぶことの難度も高まり、人間的にはその負荷が増大していくと言える。特に英語は、その強い形式性で「一意な意味の強固な文章を構築できる」と説明できるが、実態は「一意ではない文章を棄却しやすい制度を持つ」だけである。 特に、本質的に扱いの難しい道具でも熟練の使用者にとっては手足のように自然と使いこなせてしまうものである。言語においても同様であり、本質的には高度な技術を必要とする言語であっても、熟練の使用者にとっては直感的に自然と整理して使ってしまえるために、その負荷を自覚しにくいと言える。 また形式主義の盲点として、言語の運用とは結局、あくまでも人それぞれの感覚に根差しているものであって、そこに絶対の統一性が保障されているわけではない。たとえ「間違いが無く、厳密に一意であり、正しい文章と説明できるもの」でも、それをあらゆる他者が必ずそう評価できるわけではない。 たとえ極限的な労力を支払って、厳密な文章を構築することを実現したとしても、受信側の言語的な理解が不十分である場合には、その文章が棄却させる恐れさえもあると言える。特に、高度な知識教養が保障されないような「一般的な環境」では、言語的な理解が成立できる範囲は著しく狭まると説明できる。 また人間による文書が理解できないことによる棄却は、文書自体の問題ではなく「発信側本体に対する先入観・思い込み」による認知の歪みから発生する危険性もありえる。つまり「形式」と呼ばれているだけの不規則な規範性を根拠として、無責任に理解への努力を許してしまう恐れがあると説明できる。 人間による不全性の問題は、発信側においても「間違いがなく、厳密に一意であり、正しい文章である」と自認している場合には心理的に発信側は完全に正当であると信じることができるため、もし読解の不具合があったとしても、それを受信側の失敗であると解釈することも当然としてあると言える。 英語文化では特に「正しい文章を構築すること」への圧力が高く、文章の共通認識が成立すると強く信じられ、それにより、発信側は十分な表現をしているという自負や、受信側は十分な読解をできる自負が生まれ、責任転嫁を心理的に正当化してしまう傾向が、強く疑われるとも考察できる。

目次  #### 機能性:形式主義の人間的な限界 強固な形式性とは「厳密に正しい情報を伝達できる言語形体」だと評することはできても、これを人間が正しく実用できることそのものを無条件に保障するものではないと説明しなければならない。特に瞬時の意思疎通を必要とする、日常的などの実用的な範囲においては正確性の成立は非常に難しくなる。 細密な性質を持つほどわずかなズレが構築を破綻させやすくなることにより、人間的には構築を失敗する可能性が増えるという問題によって、より広い範囲における実用性として「相互理解を促進させる」と説明することはできない。むしろ、相互理解を無自覚に阻害する恐れがあるとさえ想定できる。 強固な形式主義は、原則的に「正しく使えれば、正しく機能する」という理想に基づいて形成されていると言える。つまり、正しく機能しなかった実用における失敗例を言語体系としての失敗と見なすことを強力に拒絶し、あくまでも正しく使わなかった使用者の技術的な失敗として見なしやすいと考察できる。 その優秀さの評価とは、表層的な「成功例」ばかりを見ている状態である。言語運用において失敗が生じたとしても、失敗例は言語上においては不成立とされやすく、「言語体系としての失敗」とは見なしがたく、原則的に「言語上には存在していない」という位置付けにしてしまっている傾向を強く疑える。 現実的に、人間が一切失敗せずに言語の運用をできるわけではないと言うべきである。強固な形式主義においては、人間の失敗を言語上の残存させていないことで、成立した「優秀な一面」ばかりを見せていると推察できる。つまり「人類が全滅すれば、犯罪はゼロになる」ような、乱暴な論理だと考えられる。 強固な形式性とは十全な共通認識を前提として、なおかつ人間的には丁寧な構築と慎重な理解を不可欠とするものである。機械的なプログラミング言語などは、機械的に統一された処理を行うために強固な形式性を理解して扱うことになるが、それは計算機械の処理の安定性によって成立しているものである。 機械的なプログラミング言語でも、人間側は簡単にミスをしてしまうが、プログラムを処理する計算機械はその命令文へ忠実に従うだけであり、人間側のミスが機械処理のズレを直接的に生み出すと言える。より精確な処理をさせるためには、人間側が、プログラミング言語をより深く理解する必要がある。 しかし人間が日常的に使うような言語、自然言語においてプログラミング言語のような状況は極めて限定的な範囲でしか成立しないと言うべきである。言語の普遍的な法則性、あるいは人間の物理的な性質として、言語感覚の完全なる同一化は存在せず、また言語感覚の近似化にも膨大な学習を不可欠とする。

目次  ### 機能性:抽象性の本質的な役割 自然言語における抽象的な語彙とは「厳密性に不足が生じたとしても、おおよそ不透明性を自認している語彙」と言い換えられる。つまり「社会的な合意において、厳密性が十分ではないことが自明である」という前提が存在すると言える。その実態は、精確性を「保留できる」という様式だと説明できる。 また厳密性が十分ではないことが認識されていれば「必要に応じて詳しい説明を求めてもいい余地」を持つと説明できる。一方で詳細な情報が揃っていなくとも、互いの認識を合わせるために必要となる情報が揃っていれば意思疎通を成立させることができ、言葉としての役割を十分に果たしていると言える。 抽象的な語彙が豊富であれば、言葉を厳密に選び抜いて表現する負荷は軽く、直感的に「そうした方向性の抽象的な意味」を伝えられる範囲が広がると言える。使うための負荷が軽く、しかし意図の伝達効率は高く、特に日常の範囲では効果的な意思疎通をしやすくなるという合理性を説明できる。 また抽象的な語彙を広く許容することは、具体化や言語化の難しい概念を、論理的ではなく感覚的に受容する。社会に存在する概念全てが詳細に具体化できるものではなく、また詳細に具体化されたとしても人々がそれを理解しやすいとも限らず、過剰な具体化は人間的に妥当な範囲から逸脱しやすいと言える。 特に具体性が求められる場合はたいてい「簡潔な明示性」が求められやすく、具体性への依存は、簡潔な説明が不可能な事象に対する理解を損なうと考察できる。例えば「社会的な他者の心理」という観念は、社会的に重要なものだと言える一方で、簡潔な明示性を持って具体化することは困難だと言える。 直接的な証明が困難な事象に対して、その詳細を具体化するためには、非常に多くの要素を組み合わせることによって厳密な説明を構成する必要性があるものの、その具体的な説明を正しく構成することも、正しく読解することも、正しく理解することも簡単ではない問題から、理解可能性は結局、欠如する。 言語の運用においては明晰な具体性を持って表現できるとは限らない概念であっても、現実的に社会的には重要である概念は珍しくない。その概念を社会的に有効な表現として成立させるためには言語がその抽象的な概念を受け入れる必要性があり、抽象的な語彙にはそうした役割もあると説明できる。

目次  #### 機能性:社会規範という抽象 最も典型的な、社会にとって極めて重要な抽象的概念としてあげられるものが「社会規範」という観念である。社会に生きるのであれば、当然として持つべきものであるとされる一方で、その詳細を具体的に説明することも理解することも難しく、一般的には抽象性の高い状態で認識されていると言える。 一般的な共通認識が形成されている概念であるため、社会性のある人々にとっては、もはや「十分に具体的な観念として理解されている」とも感じられていると推察できる。しかし実態として、「社会規範」について抽象的な理解ができない場合、その理解を著しく損なうと考察することができる。 極端な例として「社会において悪い事、例えば犯罪などをしてはいけない」という規範の定義に対して、抽象性を理解できない場合、明確な定義を確認できる「犯罪」のみを言及しているものとして扱われ、犯罪ではない程度の他者の心理的安全を害する行為は除外されている規範として認知されてしまう。 またもし「反社会的な犯罪行為は公的機関からの罰則を受ける」という具体的な実態のみで理解する場合、「罰則のリスクを容認または無視する場合に、それを実行することは妨げられない」という問題が生じる。より極端な場合「罰則を回避すれば、それは容認される」とさえ誤解してしまう危険性がある。 しかし規範の本質とは、おおよそ「良識や良心に準じて、他者の安全や安心を守り、社会秩序の保全を助け、またそれらを乱してしまうことが無いようにトラブルの回避や防止にも努めること」であり「以って、自らと他者の信頼を作って守り、社会においてより安定した生活を望めるもの」などと整理できる。 社会規範の必要性も、おおよそ「他者が感情を持った人間であり、他者の心情をいたずらに損なうことはその反感を過剰に招き、明確な対処あるいは潜在的な対応によって結果、自らの立場・安全・財産を損なう危険性を生じさせる」という問題を極力回避するために、心がけられるべきと説明できる。 ただし、そもそも一般的な人間にとって社会規範とは損得勘定や論理的に実行されるもおではなく、感情的に実行されるものだと言える。正しい気がする・間違っている気がする、良いと思う・悪いと思う、そういった理屈ではない感覚性がその人の理解から指向性を持っているだけのものであると整理できる。 実際における規範性の実行とは通常、独善的な打算ではなく、ほとんどは瞬発的な発想に基づいて行われるものであり、論理ではなく感覚に準じると言える。つまり道徳的観念や倫理観といった社会秩序に対する感覚によって、利他的な行動を含めた、社会一般の基本的な規範性が実行されていると考察できる。

目次  ##### 機能性:社会規範の理解 理想論として、「秩序は知性によってもたらされるものである」という認識あるいは錯誤から、「具体化によって理解可能性を高めることで、規範性を正しく広めることができる」と考えてしまいやすい。しかし人間的な実情として良心や良識とは、極めて感情に近い領域から生じていると説明できる。 社会的な実用性において、具体化は理解可能性を高めるとは限らず、むしろ人間的な理解を損なう場合もある。規範の本質とは「他者を守ることで自分も守られやすくなる」という社会の動きへの理解であり、その過剰な具体化は、社会規範の理解を狭めてしまうこともあると考察できる。 社会規範の最も大きな役割はトラブルの回避や軽減であり、また規範への順守はそうした事態に対して自らを守ることにも繋がると説明できるが、その本質とは「信頼を形成し、それを守ることによって、社会的な立場の安定とそれによる社会的な利益の享受」などを示すこともできる。 しかし人間にとっての道徳への一般的な理解とは、もっと単純な形で「環境や他者を守ることは良いことである」という教育や経験によって、そういった感覚性から環境や他者を守ることが良いことであるという理解と意欲を持って実行されるものであり、非常に抽象的な理解に基づくものと言える。 規範の過剰な具体化とは、その「抽象的で汎用性の高い道徳観」の形成を妨げる危険性さえも考えられる。つまり「明示された内容のみを守ること」がより正しいことであるという思い込みを生じさせる恐れや、「明確に分かることのみが社会的に必要とされるの」といった認識の不全を想定できる。 特に、本質的に求められる規範性とは、より厳格に「規範を守ること」そのものではなく、あくまでもそれによって「他者や社会を守ること」であると整理することができる。規範を守るために規範を守るのではなく、人々を守るための手段として規範があるという理解が求められると考察できる。 規範の過剰な具体化とは、規範性に対して、より分かりやすい観念である「規範を守るために、規範を守る」という短絡的な行動へと強く誘導してしまう危険性を想定できる。人は分かりやすい方が安心しやすく、より積極的に誘導されてしまいやすいと考えられ、その恐れを招いてしまうと考察できる。 もちろん規範の指針が抽象的過ぎると理解可能性が乏しく、学習することもままならなくなってしまうという問題がある。社会規範の理解のために重要なのは、抽象的な観念における具体化とはあくまでも「一例」であって、全てでも答えでもなく、形の1つでしかないと理解することであると整理できる。

目次  ### 機能性:意思疎通の効率性 具体性や形式性に強く依存する言語体系では、人間の認知の実態である不安定性がただ未熟であるかように軽視されてしまいやすく、人間にとっての言語感覚の不完全性による問題の理解を遠ざけてしまうと考察できる。「厳密な情報を伝える機能性」という利点は、あくまでも一面だと説明されるべきである。 つまり「解釈の狭い厳密な言語ほど、誤解を少なくくして意思疎通を効率化できる」という理想論は、言語感覚が厳しく統制された環境において慎重に扱うという限定的な状況では成立しても、実用における汎用的な理解可能性は低下し、現実社会という広い範囲においては成立していないと説明できる。 細かい説明や対応をするための手間を増やし、意思疎通にかかる労力を増大させてしまうと整理できる。もちろん、話者全員が十全な教育と訓練を経て、また流動性や変動制を拒絶する統制を維持し続けて、統一された言語感覚が実現した社会であれば、社会的にも実現しうるかもしれないが、現実性は無い。 現実的な対応策として、自然言語とは、言語の使い方における自然な法則に従った、身体性によって選ばれる厳密性の低い抽象的な語彙を中心的に使い、必要に応じて具体的な語彙を使うことが現実的な意思疎通の効率性を高めやすいと考察することができ、実際においてもそうした傾向を見ることができる。 これは英語文化であっても、その社会的要請が強く存在すると言える。英語であっても、日常的な語彙ほど一意な意味を持つ語は少なく、むしろ使用頻度の高い単語ほど多義的な語が多いと説明できる。それらを身体的な感覚性によって組み合わせた言葉の表現が、文化的に実用されていると言える。 特に、英語文化ではその実態として、単語そのものの意味からは飛躍的な意味を持つ慣用句・イディオムの表現が多く形成されている傾向があると言われる。日常的な表現では、単純な言葉やフレーズを汎用的に使いまわしてしまうことで、言語体系が持つ形式性の負荷を大きく回避していると考察できる。

目次  #### 機能性:実用的な不安定性 日常語などで見られる言葉の不安定さが、社会的な意思疎通を阻害しているかといえば、むしろ社会的な意思疎通の円滑化を一部実現しているとさえ説明できる。そうした言葉も結局は意味の理解が必要にはなるものの、より簡単な表現やフレーズで、必要な意思疎通を実現していると説明することができる。 また、言葉の不完全性や意味の不安定さが許容されることによって、発話における心理的な負荷が緩和されやすくなり、また受信側からも言葉の意味の理解への意欲を引き出す作用が働くとも考察することができる。より直感的な意思疎通をしやすくなり、会話の効率性をさらに高める傾向を導くと考えられる。 つまり、言語の不完全性・意味の不安定さを合意することこそ、言語による相互理解の可能性を高めるためにとても効果的な手段であるとさえ説明できる。不完全性を自認できることにこそ、社会的な合理性がある。そして、その最も代表的な領域こそが、日常的に使われる瞬発的で不完全な語彙と言える。 社会制度において形式性が求められる英語であったとしても、現実的には感覚性の強い運用から解放されているわけではなく、日常的な範囲ではむしろそうした運用を欲しているとさえ説明できる。そのようにして、英語では単語の応用による多義性の積層や、イディオムを多く持ちやすいのだと考察できる。 言語の現実的に妥当な方式とは結局のところ、日常的な言語領域と専門的な言語領域との「複層的な運用」が最も効率的な様式になると理屈を立てることができる。英語もまた、その実態として日常語と専門語は分離的な傾向を持っており、複層的な運用を形成していると説明することができる。 そもそも、特に記録される言語・文語領域は、話し言葉の領域から独立して整備されるものである。つまり、高度な知識体系を活用する言語においては、言文一致をしても「日常において困らない表現法」と「実用において困らない表現法」の複層的な整備が進むことは、自然な現象であると考察できる。

目次  ### 機能性:日本語の自明な多層性 日本語では語彙の多層性が顕著である。「擬態語などの感覚語」「基盤となっている和語・方言含む変形和語」「日本式漢語」「その他外来語」などの多層的な言語構造を形成している。また日本語の文字文化ではそれらの識別がしやすいように整理されており、多くの語彙で層の判別をしやすいと説明できる。 「日常で使いやすい抽象的な語彙」がほとんど和語・感覚語へと集約されており、一部において親しまれている漢語や外来語の表現が使われる様式となっている。また日本語の言語基盤は、和語の表現法によって整備されているため、言語を覚えていくことでその活用を自然と習得していくこととなる。 一方で、より専門的な抽象語彙や、具体的な語彙などは主に漢語など外来語を基盤とした領域で構築され整理されている。なお現代日本語にとって漢字は深く根付いた母語の一部ではあるが、大本は中国大陸で整備された漢字を輸入した文字体系であり、多くの漢語語彙と共に日本式の漢語が活用されている。 日常語と専門語の役割分担が非常に分かりやすく、高度な文明言語の言語体系としては厳密性の高い語彙が整備されながらも、古来から続く抽象性を軸とした感覚性が非常に広く維持されていると説明できる。その言語基盤によって「抽象的な概念」の許容量が非常に深く、多くの語彙が広く実用されている。 また日本語は、より広い範囲での活用を前提としているように見える実用的な整備が行われており、音の単純化をすることによって言葉の学習効率が著しく高い。また現代日本語では表音文字体系も近代的に整備されており、基礎的な言語学習が極めて優しい体系をしている。最低限使える段階が早いと言える。 その基盤の上に言語が形成されているため、言葉がとても覚えやすく・語彙の学習性が非常に高く、より多くの言葉を使うことができて・大量の語彙による多彩な表現を可能としている。発展的な日本語においては学習量が膨大となってしまい、学習上の難しさとなってしまっているほどであると説明できる。

目次  #### 機能性:日本語の歴史的経緯 ほぼあらゆる言語において見られる現象として「日常的な話し言葉」と「文語体系」には少なからずの乖離が生まれる。言語の根源は、自然発生した「話し言葉」だと説明できるが、情報を理知的に整理するために、非自然的に整備された体系が「文語体系」であり、これらの不一致は自然な現象だと言える。 言語体系として統合するためには、そのために「言文一致」の整理が必要になる。高度な文明言語では言語体系の明瞭さを求めるために言文一致の整理が行われ、話し言葉と文語体系の併合が進められていくと考察できる。しかし、その際には多くの場合で「話し言葉の不明瞭さ」が嫌われやすいと言える。 言文一致のためには言語体系を論理的に整備する必要性があり、感覚性に依存しているために論理的な説明の難しい「話し言葉の不明瞭さ」の部分を明瞭に整理することが難しいと考察できる。そのために、既に整頓されていて明晰な傾向の強い文語体系が優勢な状態で整頓されがちであると考察できる。 しかし現代日本語は話し言葉と文語体系が明瞭に地続きという、高度な「言文一致」の整理を実現しながらも、言語基盤そのものは古来の話し言葉の基本構造を整理する形で十分な明確化を進めていき、その基盤の上に文語体系を管理するという「話し言葉が優勢な言語体系」として整備されていると評せる。 日本語文化では歴史的に「既に整備された文字文化の漢字・漢語を別言語圏から輸入する」という形によって、現代に続く実用的な文語体系を整備し始めた。しかし日本での実用では、漢語を元の音で読む方式だけではなく、ただ日本語を当てはめるだけでもなく、「漢文訓読」と呼ばれる方法を用いていた。 「漢文訓読」とは、漢語のみで構成された漢文を、「全文を書き直すことはせず、最小限の補記で、日本の言葉の様式によって発声的に読み下す」という、「外国語の文語体系に対して直接、自国の話し言葉で読む」という言語運用の様式である。漢字圏の中でも、それが高度に体系化された例は稀と言える。 そうして日本語は話し言葉の体系も高度な活用をし続けてきた背景があり、また「話し言葉の文字記録」でも非常に古い歴史を持つ。その過程で「話し言葉を記せる文字体系」も整備され、文語とは別系統で「話し言葉の体系の整頓」が実現し、そして、その話し言葉の記録も広く共有されていった歴史を持つ。 つまり厳密に言えば、日本語の話し言葉は実態として、口承のみで継承されたものではなく、「厳格化は経ずに、元となった口語の性質を強く残したまま整備された特殊な文語」と言える形式で活用されてきた。そうして歴史的に十分な整備が進み、「文明言語の基盤としても活用可能だった」と考察できる。

目次  #### 機能性:整備された話し言葉 日本語は「漢文訓読」で知識体系を司る文語を話し言葉の基盤で活用する文化を形成していたことで、話し言葉の体系自体が、知識体系を受け入れられる形へと整備されていったと推測することができる。つまり「古くから知識体系や書記体系にも、高度な水準で活用されてきた話し言葉」であると考察できる。 またその話し言葉の体系が古くから記録・継承され、それが言語体系の基盤となっている現代日本語の基盤は、話し言葉に近い文体とされる約1000年前に書かれた『枕草子』を、語彙こそやや異なるが、文字が分かれば文法構造が理解しやすいほど、古来からの連続性を持っていると観察できる。 「1000年も前の文章を、現代で実用されている言語の文法構造で読み解く」という行為は、多くの言語において非常に困難であるか、不可能である。言語の自然な法則として、言語体系は時代を経ると使い方が徐々に変質してしまい、記録の乏しい近代以前では致命的にズレることが当然な法則を持つと言える。 また推定ではあるものの「ほぼ話し言葉・口語体系の連続的な記録と継承」ということが1000年も前から連続的に続いている言語が稀である。文語体系はその性格上、整備されるほど話し言葉の体系から離れてしまいやすい。話し言葉の体系を古くから持続的に記録・継承されていること自体が、稀有である。 日本語はその稀な言語であり、さらに話し言葉の体系を話し言葉のまま高度な整備をしていったことで繊細な情報の制御もできるようになり、近代での「言語体系の整備」では、古来の話し言葉の構造性をほぼそのまま継承している形式を発展的に整備し、日本独自の言文一致を実現している。 日本語は、1000年も前の古い文字記録であってもその表現性は非常に繊細であり、その繊細さを実現できるほどの構造性を当時から持っている。特に[は/の/も/に/が]などの「助詞」の存在などは現代とほとんど同一で、現代からの読解の難しさは文字の読みにくさと単語表現の違いだけだと言える。 それらは古くから「話し言葉の表現」におけるの表現性や構造性の整備が行われていたと考察できる機能性であり、当時から既に、話し言葉の構造によって複雑な表現も受け止められる言語体系が形成されていたと説明できる。そしてそれは「話し言葉の体系を拡張してきた」という経緯を強く推定できる。

目次  ##### 機能性:合理性の誤謬 日本語文化は歴史的に見て、話し言葉の体系が強固な立場を持ったまま使われ続けてきたと考察できる。文書記録の豊富さから文語表現も大きく活用されていたと説明するべきであるが、日常的な活用を含む基礎的な領域は話し言葉の体系が基盤となり続けていただろうと推察することができる。 そうした日本語文化に対して、特に話し言葉の体系を基盤として残し続けていることによって不安定な要素が非常に目立ちやすい点をあげつらって、「日本語は文明言語として文明的な整備が不十分で、文明的な合理性が欠如している未熟な言語である」とでも言うかのような評し方も見られる。 しかし、そういった論理は「日本語は、人間的な合理性を喪失できていない」と言っているような意見だと評せる。その「文明的な合理性の整備」を進めた多くの言語は、文明的な合理性に基づいて言語の正統性守るために、不安定さの要因となる人間的な自然さを放棄することを目指したと説明できる。 だが自然言語において人間的な自然さとは、自然言語における普遍的な法則に基づいて、あるいはごく一般的な領域の社会的な要請によって形成されてしまうために、それを完全放棄することは全く実現できていないと説明できる。人間が使う限りは、人間的な合理性に基づいた使われ方をすると整理できる。 日本語はむしろ「人間的な合理性」に基づいた領域についても、体系的な整備を実現しているとさえ説明できる。特に話し言葉の体系に由来する言葉の方向性を調節する変形語は、対応する属性を持ったあらゆる語に対してほぼ統一的に活用することができる高い法則性の整備を実現させていると説明できる。 例えば[-なる/-なった/-なったら/-なりかける/-なろうと/-ならなければ/-ならない/-ならず/-なれば]といった言葉の方向性を調整する変形法則を汎用的に使え、例えば[食べる/食べた/食べたら/食べかける/食べようと/食べなければ/食べない/食べず/食べれば]などのように、基本語の変形として言い表せる。 日本語が、高度な知識体系を持つ言語の中では例外的に広く維持されている象徴的な言語領域が、オノマトペ的な擬態語表現の体系である。その表現体系も、文明的な解釈として「幼稚な言語表現が残存している」と説明してしまうこともできるが、実態は「最も人間性を維持している語」とも評価できる。 日本語は、そうした原始的とも揶揄されうる表現領域さえも一つの「表現体系」として整備することを実現し、それらの言語性を併存させたまま、高度な知識体系を構築することのできる言語的な機能性が形成されている。言語体系としての柔軟性と強靭さという機能性においては、傑出しているとも評しうる。

目次  ##### 機能性:文語という理性の象徴 多くの文化において、世界的に近代以前、特に産業革命や情報革命が生じるよりも前においては、話し言葉の記録は非常に限定的な傾向があり、記録によって継承や共有されることが乏しく、それによって実用される話し言葉は、自然言語の普遍的な法則に従った変質を抑制できない事情があったと整理できる。 また、自然に使われている言葉・言語は、自然と不安定になってしまう普遍的な法則性を持つと言える。そのため、欧州の歴史的な言語運用では顕著と言えるが、そうした崩れていく法則を持った話し言葉・口語体系は、当時の知者たちにとっても知性の保存には極めて不向きだと認識されていたと推察できる。 そのため古来から「知識を記録するための書き言葉」は、話し言葉から距離を置ける形で整備されることが当然であった。字で記録する書き言葉・文語体系を、日常的な言語体系から分離する形で整備していくことで、より効率的に知識の保全と継承をしていったと考察することができる。 記録手段の乏しかった時代だけではなく、日常的な言葉を記録することのできる文字体系が整備される時代になっても、知識の不純物になってしまう日常的な言語体系の混在は嫌われたであろうと考えやすく、そのようにして口語の記録は極めて限定されていったと考察することができる。 これは現代であっても、文書記録では日常的な言葉によって発生している変形が詳細には記録されにくいと言える。口語による変形の追跡は「文書記録における理解可能性」が悪くなるため、現実的「実際の音」ではなく「言葉の意味」に準じて文書に起こされることは珍しくないと説明できる。 この「言葉の意味で文書記録を作る」という傾向は、現代英語だと非常に分かりやすく、元々字と音の不一致の傾向を持っている上に、実際の発音ではさらに変形する傾向が存在するため、「実際の音」ではなく「言葉の意味」で理解され記録されていると説明できる。なお、日本語も漢字において同様である。 さらに言葉の体系は思考の体系を支えるものであり、多くの言語において、知識的な思考の体系と日常的な会話の体系は別物として、大きく区別されていきやすかったと考えられる。現代でも数学の領域に「数理を扱うための文字体系・思考体系」が存在するように、論理体系の言語を区別する合理性がある。 特に「話し言葉の体系を整理して基本の言語体系として広める」ということ自体が、非常に不自然な現象だとさえ言える。話し言葉は自然と変質するため、整理することも制度的に普及させることも難しく、もし様式を統一して広めるのであれば、文語体系の様式で広めることが簡単であると説明できる。

目次  ##### 機能性:文語という理性の象徴という幻想 そうした歴史的な価値観に由来して、形式主義の言語の世界観では「形式的であることは理想的な理性の表れであり、そこに到達することが理性的な人間として不可欠な振舞いであり、形式性こそが成熟である」「よって口語体系は未熟である」と言ってしまいかねない思想へ導かれること考察できる。 その世界観の中で、形式的な標準構造が見えにくい日本語とは、非常に未熟な言語であると錯覚することができる。しかし実態として、日本語は話し言葉において「助詞」という「単語同士の関係性を情報的に操作するためだけの語」を1000年以上前から使い続けてきた、高度な論理的機能を持つ言語である。 歴史的に多くの言語が「論理的思考を、話し言葉では実現できない」としてきたが、日本語は「論理的思考を、話し言葉の体系で実現するための構造を1000年以上前から整備してきた」とも評せる論理性の整備に対する歴史的な連続性はむしろ傑出しており、その構造を自然に内包している言語だと説明できる。 また英語などの形式性の強い言語体系は、分かりやすく文明的な合理性を推し進めた文語的な基盤を強く持っていると説明できるが、その実用では、人間的な自然さによる表現の変化が内在していると言える。むしろ、基本的な構造に人間的な自然さが薄弱であることで、その変化は激しいとも考察できる。 自然に使われている言語は、言語の普遍的な法則に従って、使いやすい形へと傾斜的に変化してしまう。それは特に「自然に使うことが難しい」と感じる部分においては顕著に、使いやすい形への傾斜が働きやすいと考察できる。英語文化における日常語の飛躍性もまた、その理屈によって整理できる。 しかし、論理的な厳密性を追求するための難しさそのものは、形式的な言語体系であっても極端に簡単であるとは言えない。日本語が不得意とするとも説明されやすいが、形式的な言語体系と同程度の注意を払って文章を構成するのであれば、日本語でも論理的な厳密性を確保できると考察できる。 形式的な言語体系は、そもそも「言語体系として難しい」という事情が存在すると推察することができ、その習得そのものにも相当の学習や教育が必要になると考察できる。そして、特に英語のような形式性の強い言語体系では、詳しい文章構成そのものが、高度な言語活動となっていると整理できる。

目次  ##### 機能性:日本語の助詞の機能性 慣れた日本語話者は自然と使ってしまっているが、助詞の機能性は非常に柔軟かつ高度な表現体系である。助詞は「文章における論理構造を定義・形成する」という機能しか持っていない語であり、これらの論理的な制御の理解は本来多くの言語において「非身体的な理論の理解」を必要とすると言える。 助詞は「その前にある言葉と、その後にくる言葉との、論理上の立場関係のみを規定する機能の語」である。その機能性は数学の記号、論理演算子に近いものであり、その機能の語を単体によって理解することもできず、伝えることもできない。これらを厳密に説明には、論理的機能を説明することになる。 語を繋ぐ表現そのものは他の言語においても存在する。英語でも[A is B](AはBである)のようにシンプルな立場関係を示せる表現自体はあるが、例えば日本語の助詞の[は][が][で][も]などの意味を区別して言い表すためには、語彙を増やして論理的構造を形成する、論理的な手段を必要とすると考察できる。 詳細は説明することも難しいため割愛するが、[AはB]という場合はおおよそ説明が提示される表現であり、[AがB]という場合が定義や設定などを示す表現であり、[AでB]という場合で対象範囲への操作や動作を示す表現であり、[AもB]という場合は類例を前提に包括して示す表現といった違いを持つ。 日本語の助詞はかなり難しいとされやすいが、その難しさとは、より純粋な「文章の論理構造の操作」という高度な論理体系的な操作のみをしているために、厳密な説明をするためには論理的な構造の説明が必要となり、その理解には高度な論理思考が求められるためであると説明することができる。 また、その詳細性を説明するならば、[A on the B.]という英文は、日本語の自然な分解であっても[AがBの上にある]という形になり[が][の][に]という3種類の助詞を活用して文章構造の組み立てる。つまり自然な範囲であっても、英語よりも詳細な情報の区別を明示させた、細緻な説明を組むことができる。 さらに日本語では、そのままの文章構造によって詳細性を引き上げることもできる。つまり[移動可能な存在A が 接触可能である対象B の 表面上 に 接触する状態で ある]という細かい説明へと拡張することも可能である。ここまで拡張しても[A][が][B][の][上][に][ある]の基本構造は同一のままである。 英語では[A movable entity (A) is present in contact with the surface of a touchable entity (B).]や、[Entity A, which is capable of movement, exists in a state of contact with the surface of Entity B, which is capable of being touched.]で、どちらも「抽象的な意味」の[on]は消える。

目次  ###### 機能性:英語の前置詞 英語では、単語同士の関係性を決めるために「前置詞」という符号の語を使い分ける。これは[at/in/on/to/for/from/of/with/by/over/under/above/below/about/before/after/between/among/into/through/during/around/against/without/within/across/along/near/behind/beyond]などのような語群である。 英語ではこれらの語によって[A on the B.][A at the B.][A over the B][A near the B.]といった表現をすることができる。ただし原則的に「意味を伴った単語として形成されている」という性質を持つため、意図に合わせて的確な意味と適切な使い方の語を使わなければならないという様式だと説明できる。 またこうした様式の語は多くの場合、単語として強い意味も伴っているため「図示による区別が比較的しやすい」という傾向を持つと考察できる。しかし、実際の使われ方においては非常に文化的な感覚性も強く、さらにそれぞれのニュアンスの印象が強く存在するため「汎用的な表現」は無いと説明される。 もし抽象的な表現として「より包括的で、緩やかな意味において説明をしたい」という場合であっても、いずれかの「強い意味を伴う語」によって整理しなければならない傾向があるとも考察できる。強い意味を伴うために、その解釈でも具体的な意味において解釈することになってしまうと整理できる。 しかも英語の前置詞などはここまで細分化されているものの、言語表現においては種類が足りず、これらの言葉それぞれで使い方によって分岐する多義性を抱えている。さらに基本的な意味を持ってしまっていることで、細かいニュアンスの調整も高度な表現技法を必要とすることになると考察できる。 なお、日本語の「助詞」でも使い方によって意味領域が細かく変化する。その細かい認識には英語と同様に、言語の身体的な感覚性を根付かせて使い分けることになると言える。しかし日本語の「助詞」自体は構造以外の意味は希薄であるため、言葉を追加してニュアンスの調整をしやすいと説明できる。

目次  ###### 機能性:論理構造の身体性 日本語の助詞は論理構造を構築する機能を持ち、それが日常語の領域においても自然と活用されている。大げさに説明すれば「日本語は論理的な文法構造を、身体的に活用できる言語体系を形成している」とさえ説明できる。もちろん、実践的な論理を得意とするためには別途、高度な訓練が必要となる。 言語的な情報の整頓に関する学習や教育が不十分である場合、その構築は当然として乱れてしまう。特に日本語は、言語構造が柔軟かつ強靭であるために、表現的な自由度が高すぎるとも言われるが、そもそも言語における整頓の必要性・重要性の理解は、そのための学習や教育を必要とするものと言える。 言語の表層的な評価に「日本語は論理に不向き」という表現も存在するが、それは逆転的な意味において正しい。それは日本語が論理的機能を持っていないのではなく、その基盤として高度な論理的機能を持って、それがそのまま日常的にも活用されているため認知において侵食されてしまう問題が生じる。 自然言語の普遍的な法則において、特に日常的な範囲ではその使い方がかなり乱れやすいと説明するべきである。そして構造において日常領域から知識領域まで、統一性の高い言語体系を持つために、基本的な構造性がそのまま日常的な範囲でも活用されてしまっていることで、言葉が乱れやすい問題がある。 つまり自然な話し言葉の中に、論理的作法が根付いて広く活用されてしまっているために、自然な使い方において活用の認知がズレてしまいやすかったり、あるいは高度に厳密な説明をするための論理的作法の必要性の理解が難しくなってしまうとも評せる。自然に持っているがための問題が生まれている。 また「文章における単語の立場を明示的に定義することができる」という機能性は、文章を運用する際の油断を生じさせやすいと考察できる。日本語は構築できる文法構造が柔軟かつ強靭すぎるために、たとえ「理解できない語」があっても文章構造とその立場だけは理解できてしまうという問題がある。 たとえ「十分に正しくはない語の扱い方」をしてしまっても、日本語では文章構造が崩壊するような危険性がないために、そのまま不正確な語の使い方をしてしまうことができる。語の不正確性の問題は他の言語においても問題になるが、日本語ではその正誤の判断もやや難しくなってしまうと説明できる。

目次  ###### 機能性:明晰な文章構成の習得 ただし「語の精確性を担保する作法」が不十分な場合に、情報の不正確さが生じてしまうという問題そのものは他の言語においても珍しくなく発生する。特に、英語において「情報の正常性が確保されやすい」ことで論理的に強いとされる性質の本質とは、言語体系として作法を強制しているだけである。 英語は日常的な言語構築を含めて、強く形式性へ従った文章構造を強制される言語体系である。そしてそれは英語が「表現の明瞭さ自明ではない」と言える性質をもっているために、その克服のために「精確な文章構築によって、言葉の明晰性を確保する」という作法を必要としているとも説明できる。 しかしそれは英語が特別に「明晰な文章を構成しやすい」というものを意味するものではなく、英語が特別に「明晰な文章を構築するための訓練が実施されやすい」という社会的な要請の背景を説明するものである。多くの文章が「十分な教育に基づいて構築されている」という社会背景を示していると言える。 日本語であっても、あるいはどの言語であったとしても「英語の自然な文章構築にかかる労力と同程度に、文章構築に対して注意を払えば、英語と同程度に言葉の明晰性を確保することは可能ではないか」とさえ考察することができる。英語は、言葉の不安定さによって、その明晰性を強要されているのである。 日本社会では、最低限以上の読み書き・文字文章を扱える人が著しく多く見られると言える。これは社会的な教育体制によって基礎教育が普及しているだけでなく、最低限の読み書きをできるようになる段階が著しく早く、またその段階から広く「文章を書く」という行為が許されていることを示している。 特に、日本語社会において言語能力の高い人は、学校教育において熱心であるかどうかよりも、日常生活を含めて言語情報へと触れて、それを扱う習慣が存在するかどうかが大きく影響していると考えられる。そのためにその習慣が乏しい人では、言語能力も相応の乏しい傾向があると推察できる。 そして日本語社会では能力の程度に関わらず、「文章を書く行為」が許されている。そのため、一般的な範囲においても日本語の文字記録は極めて膨大に存在すると説明することができ、しかしその内容などは人それぞれの能力相応の技術によって構成されていることで、玉石混淆の様相を見せると言える。

目次  ##### 機能性:注記:情報の正確性と論理性の構築 厳密には切り分けるべき性質として、単純な評価において「情報を精緻に並べることができる性質」と「論理を精巧に組み立てることができる技術」は同一視されがちであるが、これらは同一ではない。情報を精確に伝えられる性質と、情報を的確に制御する技術は、別々の領域であると整理できる。 情報の精緻さとは表層的・外面的な形成であり、論理の精巧さとは深層的・内面的な構造である。互いに支え合う関係を持っているとも言えるが、厳密には別物である。外面の強固さが内面の頑強さを保障するわけではなく、また内面の正常性が外面の明晰性を保障するわけでもないと説明できる。 言語の表層と構造の深層との非同一性とは、言語の性質だけでなく、それらを扱う人間の技能・能力の話も含まれる。どの言語でも誤謬や錯誤は起こりうるものであり、また、精緻な表現を構成できる人間あっても論理が正常であるとは限らず、論理の正常さが自動的に表現の精緻さを成立させるわけではない。 つまり情報が一見して正しく見えているとしても、その論理に間違いがないかどうかは別の問題である。また情報が一見して複雑で難解であったとしても、その論理が間違いであるかどうかは別の問題であり、またその情報構築そのものが稚拙であるかどうかも別の問題であり、必要な複雑さという場合もある。 あるいは[*Light* behaves both as a wave and a particle.]のように、一見、情報が矛盾や間違っているように見えても、実態として本質的に正しい場合さえもありえる。表面的な正常性や分かりやすさ、見かけ上の妥当性というものが、必ずしも本質的な正しさを導くものではないと説明されるべきである。 例えば近代的に高度な知識体系を整備していたはずの欧州地域で、高度な知識層であったはずの医者でさえ、強固な実証が示されるまで、衛生観念の整備が遅々として進まないという時代が見られた。知識体系の明晰化が「認識できない問題の因子を想定できない」という硬直を引き起こしていたと考察できる。 また複雑な論理の理解は、どのような言語であったとしてもその説明は複雑化してしまいやすいものであり、またどのような言語であったとしてもその理解には深い洞察が求められる。それらは、言語の性質も大きく影響すると考えられるが、いずれの言語においても容易なことではないと説明するべきである。

目次  ###### 機能性:実用における機能の法則 言語の実際の運用では、要求される水準は必要に応じた水準で可変し、現実的な妥協が行われる。言語の普遍的な法則として、言語の運用は「実用上問題が無いだけの理解をできる段階で十分」とされる、人間的な妥協点が存在する。これは、どのような言語運用であったとしても、同様の傾向を持つ。 日常的な運用では分かりやすく、過剰に厳密な情報の整理や、高度な論理操作をする必要性自体が稀であり、実用において支障のない最低限を探りながら運用されるものであり、そして、それは言語的な限界を示すものではない。言語の機能性はいつも十全に使われるわけではなく、十分な範囲で活用される。 もし日常的な運用のみを観察するならば、英語は非常に「単純な傾向を持つ言語」と評せる。英語文化では、日常的な範囲では使われる単語が著しく限定されている傾向を持ち、またその表現の構築も非常に分かりやすい単純な構成で済まされることが多いと考察でき、複雑性に拒絶的とさえ推察できる。 それは高度な知識体系における運用であったとしても同様で、常に1から全ての情報をまとめて整理しながら構成をしていくわけではないと考察できる。煩雑な情報量は可読性・分かりやすさを著しく落としてしまうために、必要な範囲を満たしつつ過剰にならない情報量で構成されることが望まれると言える。 また言語の法則性として、言語の細かい機能とは必要に合わせて妥協や拡張をされるものである。言語の論理的な機能性も、その必要に応じて拡張されるものである。つまり「論理的な構成がしやすい」とされやすい言語も、単純に「その運用が多いことによって整備されている」だけであると説明できる。

目次  ###### 機能性:技能の習得と実用 また言語の性質による文化や社会体制の影響があるとしても、「論理的な思考」や「論理的な文章の構築」といった技能は、強く個人の能力に依存するものであると言える。人間は誰もが最初からそうした能力を持っているわけでもなければ、自然と身につけるわけでもないものと説明しなければならない。 それらはその修練や習熟がなければ、獲得・成熟しない技能であると言える。日本語に複雑な操作をできる機能性があるからといって、誰もが自然とその理解や構築を可能とするわけでもない。英語に文章で情報を揃える文化的な傾向があるからと言って、論理的な技能が自然と身につくわけではない。 話し言葉だけを覚えたとしても、文書を読めるようになるとは限らない。文字を覚えた所で文章を正確に読めるようになるわけでもなければ、文書の基礎的な読解を覚えたとしても、複雑な文章をすぐさま読めるようになるとも限らない。言語を学んでも、複雑なことができないことは珍しくないと言える。 この場合、言語は道具や材料に例えることができる。つまり、どれだけ豊かな材料や便利な道具が揃っていたとしても、それによって組み立てられる作品は、制作者の技能や努力によって導かれるものであり、言語という道具や材料は、その構築の技能そのものを保障するわけではないと説明できる。 もちろん道具の精度や材料の豊富さは、作品構築に大きく影響するとも説明できる。言語の性質と論理の構築には、大きな関係があること自体は間違いではない。しかし、単純な道具や材料で高度な作品を作れたり、高度な道具や材料があるのに破綻した作品になると言ったことは、論理においてもあり得る。 実用できる論理的な技能を身につけるためには、その知能的な訓練を必要とする。特に高度な論理構成をできるようになり、またその論理の説明文章を書けるようになるためには、相応に高度な訓練を必要とする。これは人間の普遍的な能力の話であり、これに言語の性質は間接的にしか関わらないと言える。 そして実用する際にも、言語能力の活用には当然として相当の意欲や意識が必要となるものであり、意欲や意識が不十分では粗雑なことしかできないと言える。また、高度な活用には相応に時間や体力と言ったリソースを消耗するもので、慎重に整理すればできることを瞬発的にできるとは限らないと言える。

目次  ###### 機能性:技能や言語の高度化と実用 また言語の影響としては、言語体系が大きく関わるように考えやすいと言えるが、特に論理的な説明を構築する技能の学習や習得においては、参考となる文章の量こそ強く影響を受けるものであると言える。知識体系だけではなく、表現体系としての知識や経験の総量こそが、その技能を支えると整理できる。 より厳密には、関係の本質は逆だと言える。「論理的な言語体系があるからこそ、高度な論理文章が形成される」のではなく、「高度な論理文章が形成され、積み上げられていくことによって、言語の論理的な機能や作法が整備される」という順序で、言語体系が高度な活用をしやすくなると整理できる。 言語の論理的な機能の考察において、言語の表層的な体系そのものは「要因ではなく結果である」と整理することができる。特に「連続性を持った言語体系において積み上げられてきた文書の総量」こそが、言語の機能性の拡張や安定といった部分へと大きく影響を与えるものであると考察することができる。 それは「こうした論理的操作をする場合に、こうした言語的操作が行われる」というパターンが積み上げられ共有されることで、言語の論理的な機能性が拡張されていくわけである。英語においてその機能性が認められているのは、主要因として、その論文の総量に由来すると整理することができる。 英語文化は、イギリスが近世以降その勢力圏を大きく広げていくことで影響力を増やし、さらに産業革命などの近代以降もさらに影響力を拡大させ、英語の影響範囲を極大に広げていった背景を持ち、その後、英語を母語とするアメリカ合衆国が著しい発展を遂げていったという歴史がある。 アメリカ合衆国はその広大な土地によって築かれた社会規模や経済規模の大きさによって、先進的な技術研究をアメリカ・英語圏が牽引したと整理することができる。これにより世界的な規模で知識体系の言語として活用されやすくなり、実際に活用されることで膨大な知識文書が積み上げられたと説明できる。 なお「歴史的な知識の積み重ね」において、欧州圏では古くから続くラテン語の文書が膨大にあったと推定できる。しかしラテン語は古すぎて既に常用されている言語からかけ離れすぎた特殊な言語で、ラテン語を新しく活発に実用することは現実的ではなく、新しい言語体系が優勢となったと考察できる。 そのようにして現代英語は知識文書の共通言語として機能するようになっていったと考察できる。ちなみに一方で、日本語は一地域の言語であるためその規模において英語よりも遥かに小さいと説明できるが、社会的な規模は大きく活発で、実用文書の蓄積量と生産量において十分に膨大な規模だと観察できる。

目次  ###### 機能性:英語の性質による傾向と内情 英語は「強固な精度の文章を構築しやすい」という文化的な性質上、「論理構築に適している」と説明することはできても、実際に英語文の「論理性が高い」かどうかは別の問題である。むしろ、英語の文化的作法によって「限定された情報のみを並べることしかできない」という不自由さを持つと説明できる。 そもそも英語の単語そのものは決して一意で厳格なものばかりであるとは説明できず、そうした不安定な言語基盤の上に、「論理適性が高い」とまで評される言語体系が形成されている。その事実自体が「英語の運用における格段の努力」と「論理文章の膨大な蓄積」を示す痕跡、あるいは実態だと説明できる。 英語は「英語の文法の許す範囲においてのみ、精確な情報伝達が可能である」というだけで、実態として高度な論理操作を得意としているかは別の問題である。特に、英語において扱いにくい論理操作は、英語の作法が拒絶してしまうことで、見かけ上の精確性を形成しているのではないかとさえ疑える。 英語がいかに正しい情報を伝えやすいと説明できたとしても、人間がそれを扱えるかどうかもまた別の問題である。英語の内情とは、正しい情報の伝達が容易であるのではなく、正しい情報を伝達しなければ不適格とされるだけである。またそれによって高度な論理を扱えるかどうかも、個人の能力に依存する。 英語は「英語の文法上において正しく存在できる情報を成立させなければ不適格とされる」という作法を持った言語文化であり、「英語の文法として成立していなければ、文章として不成立であり、その論理も許されない」ため、英語の文法において成立していない情報や論理は拒絶されてしまう傾向を持つ。 特に英語は、精緻な情報を1つずつ丁寧に並べる様式を持つ。これはシンプルな論理構造に適した様式である一方で、多層的な要素を統合する論述を構成することが難しいと考察できる。特に英文は「短い文章を並べて積み上げる形式」でなければならないために、文章の分断が生じて、統合性が薄くなる。 全体の動きを理解しなければならない事象に対しても、パーツごとの動きを追いかけるように記述しなければならず、またその理解もパーツ単位で追いかけるように理解することになってしまいやすく、パーツごとの限定的な条件の理解を深めやすくても、総合的な理解への到達が遅れると考察できる。 文章操作の工夫などによってフォローすることも可能であるとは考えられるものの、基本的な文法構造において不得意とする論理構造が存在すること自体は説明できる。さらに英語の文化的な傾向から、不自然さや理解困難性が文章の棄却の危険性を高めるために、実質的な困難として成立すると考察できる。

目次  ###### 機能性:日本語の性質による傾向と内情 一方で、日本語はその性質上「論理に不向き」と説明されるとしても、「論理性が低い」かどうかは別の問題である。むしろ日本語の柔軟かつ強靭な文法法則による表現能力で、論理展開の自在性が高いと説明することもできる。その理解性が低いという視点は、論理そのものの難しさが混在しがちである。 特に高度な領域において生じる複雑な論理は、根本的な理解可能性が優しいことは珍しい。複雑な論理は、どのような言語で書かれていたとしても、同様に理解可能性は低いと考察できる。高度な論理を正常に成立させて正確に説明すること自体もまた、言語に関係なく難しいことであると言える。 日本語は「情報の一意な提示を得意としない」という傾向を持つと説明することはできるが、これは言語体系自体の機能的な問題ではなく、扱い方の問題であると言える。特に読み方として、日本語は作為的なものを含む「誤読可能性」が極めて広いと説明できるために、情報の厳密性が疑われやすいと言える。 そのために日本語の精緻な記述には、多角的な制御による限定を必要とする。しかし、そうした問題そのものは言語の運用そのものにおいて、決して限定的な問題であるとは説明できない。それこそ形式性の強いと言える英語においても、「作為的な読解による問題」を全て回避できるわけではない。 言葉の不安定性による問題については、むしろ英単語の方が多義的な語が多いと説明でき、それが致命的であることの理由にはなりえない。英語が厳格な作法を共有することによって、その問題を克服し、強固な論理体系として信頼されている実情を見れば、問題は扱い方に集約されると整理できる。 ただし日本語は強靭な構造性を持つために、「概要」の時点での理解可能性は高いと説明できる。そのために一般的な活用では、厳密性を突き詰めなくとも実用において十分な機能性を持ってしまうために、「厳格に一意な情報」の構築を不可欠とされない傾向の文化を持つといった考察は可能である。 それは言語の普遍的な法則として、自然な作法においては「理解可能な段階で十分」とされるために、自然な範囲では過剰な厳密性が必要とされないだけである。日本語は構造的な強靭性と柔軟性によって概要の伝達という点において効率が良い。一方で英語は「理解可能な段階」でも大きな手間を必要とする。 しかし日本語の表現力自体は非常に柔軟かつ高度であると説明でき、運用次第でその厳密性を高めることは可能であると言える。また運用されている語彙の総量も、極めて多いと言える言語であり、また多層的な文字体系によって新しい言葉の構成や受容、共有に運用を容易とする高度な発展性も持っている。

目次  ####### 機能性:日本語の文書という特異点 英語文化が知識の集積的役割を担うことで膨大な文書の蓄積をされていき、より精緻な構成や論理構築を可能とする基盤を作り上げた。言語文化の法則性として文書の積み重ねこそが、言語の機能性を安定と拡張させるために大きく働くものであり、そして日本語もまた大量の文書記録の蓄積を持っている。 広い国々にわたって使われる状況となって多くの情報が集積されていく位置にある英語に及ぶことは難しいとは言えるものの、日本語文化は英語体系を不可欠としない形によって知識情報の集積を可能とする文化を形成することができている。日本語文化では、日本語のみによって高度な知識領域を扱える。 少なくない国々において、高度な知識領域を扱うための手段として英語が一部必要としていたり、あるいは知識領域のほぼ全域にわたって使われていることさえもある。これは英語がそれだけ知識領域として巨大であり、また知識領域で扱うための作法が整備されていることが依存する主な理由と説明できる。 現実的な問題として、英語を読むことができなければ、世界的な知識領域へと参加すること自体が難しいと説明してしまうことができるために、多くの国において知識領域を深めるためには英語の扱いを不可欠としていると言える。一方で、日本語文化では日本語を主軸として知識領域を扱っている。 もちろん英語を扱えなければ、国外の専門的な知識へのアクセスや、国際的な発信という面が制限されるために、英語を扱える方が便利であるとは言える。しかし日本語文化においては原則的に、日本語によって知識領域を整備され、非常に広い領域にわたって日本語の基盤によってそれらを扱うことができる。 特に国際的な発信を必要とする場合でも、日本国内においては通常、日本語を基盤として情報の整理をしていき、必要に応じて英語で編纂する形式であることが多いと考察できる。そのような「国際的な場面や領域においてのみ英語を使う」という社会でありながら、日本は技術的な先進性で世界に伍している。

目次  ####### 機能性:日本社会の実在 日本の国内で使われる言語は、原則的に日本語である。英語やローマ字を扱っている場面も多いが、補助的な領域であることが多く、英語を主軸とする環境は極めて例外的な環境であると説明できる。最も顕著な部分として、日本の書店・本屋では英語を含む他言語の書籍が極めて少ない実態を観察できる。 多くの日本人にとっては、英語は極めて特殊な技能であると説明することができる。それは日本社会における一般的な範囲だけではなく、学術においても英語を必要する場面が限定されているため、「日本語とかけ離れた言語体系と言える英語を、本格的に学ぶことの効率と効果が著しく悪い」とも説明できる。 しかし日本社会が、文明社会として著しく不安定と呼べる状態ではない。技術の運用においてその精度が著しく不安定と呼べる状態でもない。実用的な技術において、その実効性が著しく不安定と呼べる状態でもない。また基礎的な教育の普及率において、国際的に著しく低いとは説明できない。 日本社会はむしろ、世界的に見て高度な社会文明を有していると説明でき、科学技術などの活用において世界的な水準に伍しており、また技術の実用においては様々なものの品質の高い安定性を評価されやすく、そして、それらは原則全国民への教育の普及度によって支えられていると説明することができる。 原則日本語のみを基盤としてその社会を実現していることこそが、日本語の持つ「論理的機能性」を証左するものだと提示できる。もしも仮に、日本語がその機能性において「不十分である」とするならば、活用されている多くの文書が十分に機能しないことなり、その運用に劇的な遅れが起きるはずと言える。 また、もしも仮に日本語がその機能性において不十分であるとするならば、英語の扱いも不十分な日本社会において高度な科学技術の運用や維持に大きな支障や遅延を生じさせているはずであり、また知識の普及にも困難が生じて、情報共有を滞らせているはずであるとさえ考えられるが、現実はそうではない。 あるいは、もしも仮に日本語の機能性が不十分であるという前提で、現実世界との整合性を取るのであれば、世界に日本よりも劇的に高度な文明の実在すると言えない事実から、つまり英語を含む世界にある先進的な言語たちもまた「日本語と大差のない不十分な機能性である」と整理することになると言える。 「日本社会が、技術的な分野において致命的な遅れを生じさせているわけではない」という実情に対して、もしも「日本語の機能性が不十分でありながら、他の優勢言語の方が優れている」とするのであれば、日本以外の地域が著しい怠惰によって日本に足並みを揃えているといった仮定を必要とする。

目次  ####### 機能性:言語の地政学的な観点 実態として英語社会の方が総合的には技術の先進性において優位な傾向があり、それに対して日本語社会は英語を上回るものではない、という観点によって日本語の「不十分さ」をあげつらうこともできるが、社会規模という観点によってそれは言語的ではなく社会的に当然の状況であると整理できる。 英語は母語話者だけで3~4億人といわれ、さらに非母語話者が10億人以上いるとされる「世界規模のネットワークを持った言語」であると言える。さらに経済規模において世界最大であるアメリカの基本言語として使われている上に、その他の先進的な欧州各国でも英語が補助的に使われていると言える。 それに対して日本社会は1地域であり、母語話者は1億人とすこしであり、非母語話者を加えたとしても大して変わらない規模の言語領域である。しかも語族の近い欧州各国とは事情が異なり英語との言語的な距離感が著しく遠く、アメリカ政府機関が公表する「英語話者にとって最も難しい言語」の1つに並ぶ。 つまり日本語社会は英語社会と比して、話者数にしておよそ10分の1以下、経済規模においても言語圏の合計では似たような差がある、「英語圏」から見て、はるかに小さい規模の社会であると説明できる。また社会の実態として言語的な接続性も著しく低く、一般的に、翻訳を必要とすると整理できる。 ようするに「言語の地政学的な論理」として、英語社会は世界的に見て著しく有利であると言える一方で、日本語社会は著しく不利であると説明できる。英語社会が技術的に先進的な立場を持っていることは、その「言語の地政学的な関係性」からの社会規模の優位性によって支えられていると整理できる。 そのため社会規模による優位性から考察するのであれば、社会の力関係として、日本語社会はその規模と英語からの遠さから、英語社会に大してはるかに遅れる傾向が示されたとしても、不思議ではない「言語の地政学的な関係性」を持つと説明できる。むしろ、遅れていないことが不思議であると言える。

目次  ######## 機能性:言語の地政学的な整理 日本語社会が、世界からの情報を国内で整理するためには、言語的に最も遠い英語からの情報を翻訳して整理しなければならない。また国際社会へと情報を発信することにも、言語的に最も遠い英語への翻訳が必要になる。社会構造として、情報的・技術的な遅滞が生じているはずだと考えられる。 しかし実際の日本語社会は、世界的に見て先進的な社会の立場を形成し、維持し続けている。これを整理すると「日本語社会に対して、英語文化圏の地政学的な有利が小さすぎる」という視点さえ持てる。比肩していることを許していること自体が、英語文化圏の「遅さ」を示していると考察できてしまう。 日本の社会規模の不利に対して、英語文化圏は著しく突き放していなければ、英語の有利が著しく小さいという理屈を取る必要性がある。あるいは英語そのものが、言語としての弱さや欠点によって、文化的な停滞や技術的な遅滞を引き起こしている可能性もまた強く疑うこともできると整理できる。 これらの問題は、近代化以降の日本の立場にも同様の視点を持つことができる。産業革命や情報革命が先んじて進んでいたはずの欧米列強に対して、日本は日本語を基盤とした社会整備を進めることを選んだにも関わらず、極東の小国が、200年もしない間に社会を革新・急成長させ、比肩する立場を得ている。 言語的に欧州言語や英語から極めて遠く、またほとんどの分野において欧州言語や英語を使うことが限定的であると言える日本の社会では、特に技術的な社会環境において大きな遅れが生じていたとしても不思議ではなく、社会規模において欧米が常に先んじていることが理論上は当然であるとさえ整理できる。 これらをとても簡潔に整理できてしまう理屈が「言語的な合理性」の観点である。つまり、英語を含む欧米言語が、その実態として劇的に優れているわけではなく、現実的に妥当な範囲において活用されている一方で、日本語が機能的な深い受容性で外の技術も即座に導入し、活用できているという理屈である。

目次  ######## 機能性:日本語社会における英語 文化的な論点や言語の性質を一切度外視して「高度な社会を形成できる日本民族が、母語を事実上の世界的な共通言語となっている英語へと転換していれば、日本においても世界においても文明的な大きな推進力になったのではないか」という妄想もできるが、言語と社会の実態において、それは肯定されない。 そうした妄想も「日本語という英語からかけ離れて独立した言語を持った社会地域が、世界的に見ても高度な社会性や技術を持っていることは、世界との意思疎通や共通化のために他言語への翻訳にかかるコストを考慮すれば、日本や世界にとって著しく不合理で不効率である」という根拠を持つと説明できる。 だが仮定として、社会的なコストや問題を度外視して、日本民族が英語を第一言語として他の英語圏と同様の規模で実用できる社会が実現できたとしても、それこそ英語社会における問題を大きく内在する社会になる。特に日本語の持つ社会的な機能性が失われることは、社会的な安定性を損なうと想定できる。 最も大きな部分として、英語圏では基礎教育において本を自力で読めるようになる段階が比較的遅い傾向があるという実態と、日本語社会では基礎教育において義務教育の開始時点から教科書という書籍を子供自身に所有させて扱わせることができているという点で、英語の絶対的な優位性は明確に否定される。 日本社会では、日本語という古くから総合的に整備され続けている言語が使われることで、そのように早期から簡単な書籍を読むことができるような文化体系を持っていることによっても、社会の風土が形成されていると考察できるため、第一言語を英語に転換することは、それを喪失させると強く想定できる。 またしかし、日本語という言語体系は英語という言語体系に対して、文明言語として機能している以外の、極めて多くの部分において対照的な性質を持つ。発音体系においても単純な日本語と繊細な英語、文法構造においても柔軟かつ強靭な日本語と形式的かつ繊細な英語など、性質や様式がかけ離れている。 英語から見て日本語が著しく難しいと評されるように、日本語社会の人にとっても英語を学ぶことは実態として著しく難しい。そして実際の日本語社会では、知識体系を含め情報を母語で整理し続ける社会体制が実現しているため、国内の活動に限ると「英語を使えるメリット・利点」が著しく限定的である。 日本社会は英語教育が弱いと説明できるが、現実的に日本語社会では「英語を第二言語としてでも、より深く覚えさせるためには、その教育に莫大な費用や時間が必要になる」と説明することができる。それはつまり他の知識教育を著しく削ることを意味し、現実性を欠いた不効率な教育に陥ると整理できる。

目次  ###### 機能性:現実的な妥協点 英語や日本語における不全性を説明することはできても、社会における実態として、実用において十分に機能していると評価できる状態にあるとも説明できる。言語の機能性とは「使われれば整備される」という法則に従うものであり、また実用において十分な機能を持つようになっていくと考察できる。 実用において十分機能していると説明できてしまい、また実際に多く使われている高度な文明言語において、その不全性を問題視したとしても、その上位互換は現実的には存在しえないと説明されるべきであるとさえ言える。実用されている他の言語も、その言語の性質から生じる難しさを持っている。 かといって、いずれかの単一の言語体系へ完全に収束されるべきであるかといえば、それもまた不都合が生じる。文化的な問題や人道的な問題といった事情だけではなく、英語文化が英語で使える形式に偏ってしまう問題を持つように、単一の性質に統合されることは、生物法則的な危険が生じると言える。 生物の法則として、単一の性質を持った生物は単一の環境でしか生存することができない。言語の性質としても、単一の法則に縛られてしまう場合、その単一の法則が許す範囲でしか展開できないという限界が生じてしまうことになる。科学や哲学における発展性が、言語の限界に縛られる危険がある。 言語文化の発展性において、他言語の概念を取り込むことは大きな刺激や発展を生み出し、哲学的・思想的に飛躍的な恩恵を広げる効果を持つ。特に単一言語の話者は認知している言語の世界で完全だとさえ思い込みやすいが、それは一面的な世界の姿である。その視野を広げるために、他言語は必要となる。 そうした観点において、高度な文明を支えられる言語の一つとして英語以外に、それも英語とは全く異なる様式をもった言語である日本語が存在しているという事実は、人類にとって極めて幸運であると評せる。それは知識体系を維持しているという面だけではなく、社会的な面においても重大である。

目次  #### 機能性:逐次性の合理性 なお日本語は「声に出す言葉」や「喋りやすさ」などを主軸として維持、整備されている言語体系であり、「会話における機能性・効率性」がとても高いと考察することができる。特に日本語は強靭な文法構造によって「文章の保留のしやすさ」が格段に柔軟だと説明できる。この機能を英語は持っていない。 日本語の会話では、文章の途中で中断をして詳細な情報の差し込みをした上で再開をしたり、あるいは文章の途中で連続的に異なる表現を並べること、語の言い換えを繰り返して語の精確性を高めるといった作法が可能であり、また文章の遂次性、言葉の繋げやすさによって、情報を順次増やすことがしやすい。 日本語は1文を永続的に続けることも可能な言語構造を持っている。逐次性、言葉を次々と繋げていくことがしやすい体系を持っているため、必要に応じて情報の詳細度を高めることができる。しかも言葉の保留がしやすいことで、相手の反応を確認しながらゆっくり話すこともしやすい。 日本語は日常的な会話であっても、より多くの情報を伝えることがしやすく、また必要に応じて相手の理解の確認もしながら話を調整することもできる構造を持つ。これは日本語が「会話・話し言葉」を主軸として、「会話の成立させやすさ」を最大化するための整備によって形成された機能性だと考察できる。 一方で英語の場合、文法構造が繊細で、少しの不具合で文章が破綻したり不成立となってしまうため、その制限が強く、余計な情報を逐次的に差し込むこと自体、困難な傾向を持つと言える。詳細な情報は最初から入れるつもりで文章構成をするか、新たな1文を追加するといった必要性がある。 話している1文の途中で保留されてしまうと、保留の位置によってはそこまでの文で確定された情報として認知できてしまい、誤解の恐れが生じる。あるいは基本的な構成の1文の真っ最中に余計な語が入り込むと、文法構造が変質したり破綻する恐れもある。1文ごとで言い切る必要性が非常に高い。 つまり英語では、瞬発的な会話で扱える情報の精度や詳細性は、かなり制限されがちではないかと疑える。超人的かつ熟練の話者であれば可能かもしれないが、容易だとは言えない。予め準備をしていれば詳細な話をすることもできると考えられるが、それでは準備を必要としがちであると考察できる。 またもし詳しい話を発信できたとしても、相手側がその意味を読み取れなければ、会話として成立しない状態である。会話における安全性が低い言語構造を持っているために、特に日常的な範囲における会話の多くが、単純な構造の単純な情報を連ねて増やす様式へと傾斜しやすいのではないかと疑えてしまう。

目次  #### 機能性:日本語の多層性とその識別性と接続性 ちなみに日本語では多層的な言語構造を持っており、全体的な語彙は多かったり、文字体系において複層的で複雑な体系をしているために、「見かけ上の難しさ」が明らかであると説明できる。しかし実用において致命的な不便を生じさせる場面はむしろ限定的であり、基本言語として破綻せず成立している。 まず話し言葉の基盤となる「和語」と、知識言語である「漢語」が明瞭に分かれていることによって、日常的あるいは汎用的な領域において共有性の高い和語や簡単な漢字を中心として、十分に機能する意思疎通を可能としている。必要に応じて、専門用語を使った具体的な情報共有もすることができる。 また日本語は「音の単純性」と「表音文字と音の明晰性」によって音を読みやすく、語の記憶効率が非常に高い。学習においては、母語なら幼少から日常会話の音声から言語の基礎を覚えていき、その上で明瞭な「表音文字:仮名文字」を覚えることで、早期に音声の文字化と表音文字の発声が可能となる。 そうした基盤を構築してから、まずは日常的な言葉の「表語文字:漢字」を覚えることで、文字体系における「意味の層」を学習、理解していく。「多層的」ではあるが、和語と漢字には一部に接続性があり、そこから学習する漢字が徐々に広げられていき、発展的な漢字や語彙を覚えていくことができる。 この様式は、体系的に高度な知識体系を接続的かつ段階的に覚えていくことをしやすいだけではなく、高度な体系の「難しい語彙層」を自認しやすく、また漢字の用法から「簡単な言い換え語」もおおよそ直感的に理解しやすい効率性が成立している。説明の柔軟性を実現し、様々な学習を広く助けている。 英語では主な日常語と主な専門用語の語源が異なり、文字体系も表音文字であるためそれらを接続できる文字様式はなく、認知的な接続性がほぼ断絶している。また、英語は使う語を最小限とする単純化で、使いやすさを実現しているつもりであると考えられるが、実際は多義性の難解さを深めている。 また英語の基礎学習では2~3年をかけて、基礎的な単語における音と文字の接続をするための学習を実施しなければならない難しさを持つ。顕著な差として、日本は初等教育1年目から「教科書」を所有して活用するのに対して、英語圏の基礎教育の初期では読むことが困難なため「教科書」が機能しにくい。 社会的な教育体制から「見かけ上は複雑で難解にも見える日本語において、子供が早期に簡単な書籍を読めるようになる」という実態と、「見かけ上は単純で簡単にも見える英語において、子供が書籍を読めるまでに必要な教育の総量が多い」という実態を確認することができるわけである。

目次  #### 機能性:日本語の「難しさ」 言語体系と学習性の整備という面において、日本語は学習を進めやすい言語体系であると説明ができる一方で、日本語文化では母語話者でも「日本語は難しい」という評が、一般的に存在する。だが日本語の難しさは日本語の基礎的な学習性の高さと、機能的な柔軟性と強靭さによる、副作用だと説明できる。 例えば日本語が非常に膨大な語彙を保存し、その実用を可能としている部分は、学習において難しい部分になると説明できるが、それは日本語において単語の共有性・保存性の高さによって文化的な語彙の許容量が非常に深い、長所の副作用である。単語の淘汰圧が弱いという弱点とも説明できる。 しかし日本語はそのように大量の語彙を許容することによって、言語文化的に極めて豊かな表現性を実現している。特に和語の細かい変化や調整によって形成される日本語の子細な表現力を、その他の言語において再現することは極めて難しく、端的に翻訳することのできない表現力を持っていると評せる。 日本語の漢字は、漢字文化では例外的に1地域1時代において複数の読み方を併用してしまっている。他の漢字文化は通常1字1音節の読み方でまとまるもので、別の読みの併用は文字体系としても煩雑だと言える。しかし音と文字を分離することによって、語の意味を定義する機能を抽出して活用している。 その作法によって、日本語は古来の話し言葉に由来する言語体系を広く保存しながらも、漢字による意味の定義を活用することで運用効率を確保しつつ、さらに日常語彙と高度な分野における文字の共有によって、基礎的な日本語の学習を基盤として連続的に高度な知識体系の学習を進めていくことができる。 また日本語では表音文字さえも「全く同じ読みを使いながら互いの簡易表記でもない2系統の文字種」が整備されており、表音文字体系としても単純性を欠いているように説明できる。使われるとしても標準の大文字と簡易表記の小文字程度で、それらは大枠としては同系統として整備されている体系である。 まず表音文字において50種近くに及ぶ「ひらがな/カタカナ」の2系統の文字体系を維持できる要因は、日本語の発音の単純さと明晰性による学習負荷の軽さから説明できる。また2系統の文字体系を保持したことで、特殊な語彙や表現を分別して明晰に識別できるようにするという現代の実用性が成立している。 日本語の熟練の話者は「見かけ上の難しさ」に見られる日本語の持つ機能性によって、極めて効率的な言語活用を実現していると言える。日本語の持つ主な難しさとは「有用あるいは必要とされる機能性による難しさ」であって、不必要な難しさを抱えているわけではないと説明することができる。

目次  ##### 機能性:「難しさ」を克服する意識 日本語文化では、その表現性の広さによって生じてしまう問題に直面してしまうことも多い。そして、日本語の母語話者であっても、その問題を客観視して「日本語は難しい」と自認することも多い。言語における難しさを感じる場面は、他の言語でも珍しくないことではあるが、日本語は非常に自覚的である。 しかしその難しさの自覚によって、熟練の日本語話者ほど、説明の際に相手に応じて表現を変えることを当然とする。また現代日本語の分かりやすい整備が行われ、近代以降は漢字の読みの不安定性を補助するために「フリガナ(ルビ)」を多く活用したり、学習効率化に「常用漢字」を制定したりしている。 つまり日本語では、言語の文化として「やさしい様式」への傾向が非常に深いと説明できる。学習の必要性自体は長大であるが、学習意欲があれば学習効率は高い。例えば日本では「子供向けの学習書籍」の規模も非常に大きく、子供でも理解できるような形での知識普及の文化が広く根差していると評せる。 一方で英語は、客観的にも明白であると言える「不可欠ではない難しさ」を維持し続けていると評せる。特に言語の機能において学習上の障害となってしまっているだけであろうと考察できてしまう「字と音の不一致性」を、文化的な規模によってその改善が非現実的とされ、その状態が保存され続けている。 また英語は一部の語彙において、異なる語源などから統一されていない複数の規則性が併存する様式を持つ。不規則動詞、複数形における例外的な変形、地域の人を示す場合の多様な変形パターンなど、標準的な変形から外れることが多いために、単語ごとに変形や活用を含めて学習する必要性がある。 頻出する単語の極端な多義性などは、英語の運用上の難しさにおける必然によって形成されてしまっているものである。英語は一般的に使われる語彙として、共有の難しさから膨大な単語を許容しづらいため、一部の語彙を極端に使いまわす様式で語彙の確保をしていると説明できるが、難解性も形成している。 英語圏において「平易な英語[plain English]」という形式の整備が公的に進み始めたのは、イギリスでは1950年前後、20世紀後半からであり、あるいはアメリカでは1970年代から盛んになり制度化されたのが1976年頃からである。あるいは英語圏では、その方式を「制度化する必要性があった」と考察できる。 日本語においては、社会的要請として精確かつ分かりやすい表現が基本として努められているためか制度的な整備は常用漢字の整理など基礎的な整理で、特に分かりやすい表現の体系を求められている例は[やさしい日本語]という「外国人向け・日本語が母語ではない人々」を対象とした領域くらいだと言える。

目次  ##### 機能性:「漢字」と「英語」の共通性 表語文字の「漢字」の文字文化とは、音ではなく「意味を記して共有する」という方式を高度に整備・整頓した文字体系である。この使い方は「どのような言語体系や発音体系であっても、同じ文字で同じ意味を記していれば、地域間の言語差が大きくとも意味を安定させることができる」という機能性を持つ。 この文字体系によって、中国大陸はその中身において非常に多くの言語を持ち中心的言語の大きな変遷を経ながらも、公的な文字記録の歴史が長大であると説明できる。厳密には、言語体系としての変異が細かく生じているため完全な接続性を持つわけではないが、古い言語体系が継承され、実用されている。 漢字によって「広域かつ長期での文書の安定性」という観点から「文字記録を強固に安定させる」という手段で大昔から文字体系を整備してきた文字体系が実在すると説明できる。この性質は「現代英語」もまた、表音文字であるにもかかわらず、同じ様式で文字体系を安定化させることが選択されたと言える。 記録の歴史的連続性と広域への普及という事情により、現代英語は、表音文字であるにもかかわらず「発音体系にズレがあっても、同じ文字を使えば同じ意味を成立させる」という文字文化の様式となっている。英語は表音文字でも、文字体系としては事実上、表語文字的な様式で実用されていると評せる。 なお漢字文化でも、一般的には「同じ地域・同じ時代で使われている1つの発音体系・言語体系では、1字に対する発音は通常1種のみが使われる」と言える傾向を持っていると説明できる中で、日本語は例外的に「1つの言語体系の中で、漢字に対する読み方を通常で複数併用する」という様式を持っている。 そのため日本語の漢字体系は「同じ文字に対して多数の読み方を持つことが多い、理不尽に難しい言語」と評することができると説明できる。この難しさには日本人自身も自覚的であり、日本文化ではこれを「明晰な表音文字体系の整備と併用」によって、致命的には困りにくい文字文化を成立させている。 しかし「同じ文字列を共有していても、異なる単語では発音が全く異なることが多い」という現象そのものは「英語」でも同様に見られる。しかも英語は表音文字体系であり、音を表す文字体系でありながら完全には音を表していないという様式で、その言語体系が世界的に使われているのである。 つまり英語という言語が世界的に使われている事実から、日本語の文字体系における、漢字の読み方の多様性もまた、言語体系において致命的ではないと評せる。むしろ日本語は表音文字体系という欠点の補助をすることが可能な文字体系を併用されていることによって、問題に対処できる様式を備えている。

目次  ###### 機能性:日本式の漢字体系 日本語の文字文化は「表語文字体系の漢字」中心の文字体系から「表音文字の仮名文字」を整備したことで、「表語文字体系の漢字」をより純粋に「意味を表す文字体系」として活用することを実現している。日本語の漢字体系は、多彩な発音を許容する様式を持つため「表意文字的」であるとさえ説明できる。 日本語の文字体系では「発音を示す文字」と「意味を示す文字」を分離することで、単純で明晰性の高い表音性を持った表音文字による基礎的な学習の容易性と、その上で様々概念の識別性を高められる表語文字による発展的な学習の段階性と接続性を整備し、高い学習性を確保していると説明できる。 日本式の漢字体系では漢字の読み方の変化が当然のように存在する一方で、音の表記そのものはかなり明晰であり、また言葉の意味においても理解がしやすい様式を成立させている。新しい言葉の発音が容易なことで記憶性も高く、そのようにして日本語は非常に多くの語彙を保持できていると説明できる。 日本語の難点としても説明できる、過剰とも見られるような「語彙の多様性・多重性」とは、言語運用として単純化の失敗によるものではなく、言語体系としての強靭さによって形成されている極大の許容量を意味するものだとも整理できる。気軽に言葉を覚えやすぎて使いやすすぎる、とも言い換えられる。 また日本語は「漢字を意味の層として使う様式」を持つことによって、日本語が元来話し言葉として持っていた語彙との併用を円滑に進行させ、文書体系を整備しながらも元来の話し言葉の体系も強く守られていき、そのようにして現代でも、自然な話し言葉による合理性を維持していると考察できる。 つまり日本語において主な学習性の難しさを形成している部分とは、母語としての高い学習性・広い柔軟性、また身体的な直感性などの、言語としてのやさしさを含む強靭さが、結果的に難点を生んでいると説明できる。母語で無くても最低限は使いやすい。使いこなすことは母語でも青天井の難しさを持つ。

目次  ### 機能性:言文一致の合理性 自然言語の中でも特に日常的に使われる言語では、より直感的な活用が中心となるために、「口語・話し言葉」の体系は歴史的に見ても非常に不安定な傾向が確認されており、記録と教育による継承によって、安定性を望むことはできるものの、直感的な活用による語の変質は避けられないと説明できる。 そのため言語において広く見られる歴史的な傾向として、より形式性の強い「文語体系」によって、より詳細な知識の記録と継承をしたり、あるいは高度な論述のための整備をすることが実用される。そして、その大本は話し言葉の記録も含まれるだろうと考えられるが、自然と分離していく傾向がある。 文語体と話し言葉が異なる体系を持っている様式は、自然な傾向であるとも整理できる。制度的に「言文一致」が推し進められなければ、話し言葉と文語体の接近・統合・再統合をされることは無いと言える。現代においても、話し言葉と文語体が分離している言語文化圏は珍しくはないと説明できる。 しかしその自然な傾向に抵抗する「言文一致」に、合理性が無いというわけではない。最も重要な点は、一般的な領域からの知識体系への接続性を確保することにある。日常の言語体系と知識体系との言語基盤を統一することで言語学習の連続性を整備し、より多くの人が知識体系を学びやすくなると言える。 また言文一致による高度な整備が行われたとしても、その実態はおおよそ「記録されて整理された話し言葉の言語体系」と「より専門的に整備された形式的な言語体系」の複層的な様式を形成していくことになると想定できる。話し言葉の領域は、柔軟性を持たせながらも統制し、安定性も確保する様式である。 英語文化も日本語文化も、実態としては概ねそうした複層的な様式を持っていると説明できる。なお、それらが2系統だけであるとは限らない。口語体系でも、非常に雑な様式から、丁寧な様式、より形式的な体系に近い様式など、多様な傾向があると整理できる。形式的な体系もまた同様に複層的と言える。

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目次  ## 文脈性:言語の文脈依存性 「高文脈文化・低文脈文化」という分類の考察が存在する。これは「日常的な交流における情報の明示と暗示のバランスから、文化的に明示や明確化が多い文化であれば文脈依存性の低い低文脈文化、文化的に暗示や暗黙が多い文化であれば文脈依存性の高い高文脈文化と考えられる」という考察である。 しかし大本の考察は、アメリカ学者の「文化的な傾向の印象をまとめた感想」の類であり、理論として詳細な分析や研究に基づいて整備されているわけではない。これを理論的に考察されている例はあるが、その考察の検証においても実際それほど有効な傾向が示されているわけではないとされている。 特に「言語の観察」においては、その言語体系が持っている「前提の情報」が言語によって異なるため、異なる言語の実態を把握して比較することが極めて難しい。日本は典型的な高文脈の文化だと定義される一方で、日本語の言語体系そのものは非常に安定的かつ強固な基盤を持っていると説明できる。 派生的な分析においては主な英語圏が安直に低文脈文化へと分類されてしまいやすいが、言語の実態は「省略的で暗示の言語法則に従う」「単語そのものは多義的であり明示的な文脈によって定義する必要がある」「慣用句・イディオムも多く、文化的な知識を要求される」という言語体系と言語文化を持つ。 英語が低文脈文化だと自認することは「英語がよく使われていることや、英語の言語体系から回避することのできない細かい作法を、あたかも分かりやすい文化であると自己評価している」ような定義だと考察できる。高文脈な言語の事情から、結果的に作法として低文脈的な傾向を感じさせていると言える。 一方で、日本語文化は確かに省略的であったり婉曲的であったりする。しかし、日本語は「単語の持つ意味や意図が、比較的明晰な傾向を持つ」という前提によって、見当違いの解釈をされる危険性がやや低いことで高文脈的な運用ができると言える。つまり「言語体系の文脈への依存度は低い」と説明できる。 英語文化が言語の扱いにおいて厳格な作法を持っていると言っても、一般的な運用において本質的な「低文脈性」を達成できているかといえば疑わしい。もしも日本語文化を高文脈文化だと位置づけるのであれば、英語文化もまた高文脈文化として位置づけなければ、その分析は著しく見当外れになると言える。 そもそもとして「文化の文脈性」という概念と「言語運用における傾向」は、関連しながらも同一ではない領域である。英語の不安定さなどのように「言語そのものの文脈の依存性」という観念自体は異なる領域の話である。ただし日本語と英語の例から、言語性と言語の作法はむしろ反比例性を考察できる。

目次  ### 文脈性:蛇足:「低文脈的」と見られた言語 「高文脈文化・低文脈文化」の大本の考察において、特に「低文脈的」とされた文化圏とは英語よりも「ドイツ語圏」など他言語であるとされている。派生的には、英語が当然のようにその一員として数えられがちであるものの、典型的な言語として上げられるべきはドイツ語などであると整理できる。 また、あくまでも「文化の文脈性」という概念と「言語運用における傾向」は関連しながらも同一ではない領域であると説明できる。しかし一方で、言語の性質が文化の文脈性へ大きく影響を与えている可能性を考察することは可能ではある。ドイツ語は語の言語の性質としてやや顕著な傾向を確認できる。 言語と文化の関係性は様々な要素の複合的な関係性によって形成されているものであると整理するべきであり、「言語性と言語の作法の反比例性」という考察もあくまで1側面における考察である。これ以外にもドイツ語と日本語の観察からは「子音表現の量と会話における語の量の比例性」を想定できる。

目次  ### 文脈性:英語の文脈依存 英語という言語文化は「単語が文脈に依存して大きく変質する性質を持つ」と説明することができ、またその文章の構造は「暗示の法則性」によって制御されている。英語は、言語表現で省略をしないのではなく、根本的に「言葉にされていない部分が多すぎてそれ以上省略が難しい」と評することができる。 例えば英単語の[book]という単語は、その使い方によって「[a book.]書物」という意味と「[book a -]何かを予約する」という意味に変質する。つまり英単語は「意味を文脈から定義できる程度の文章を構築しなければ、語の意味が定まらない」ために、その克服として詳しい情報を明示すると説明できる。 英語が低文脈的であると言われるほど、明示的な文章を構成するなどと説明される傾向の本質とは、「明示的な文章を構成しなければ、言葉の意味そのものが安定しない」という性質を克服するための習慣でしかなく、英語でも文章構成によっては高文脈な作法を無自覚に要求していることは少なくない。 特に、英語文化は「文化的な慣用句・イディオム」を多く包摂していると説明されやすく、英語では単語の意味だけではなく、文化的な文脈を把握していなければ、理解できない語が多いと評せる傾向がある。英語が「低文脈文化」だと自認していても、英単語そのものは「文脈依存性が低い」とは言い難い。 また「語順に依存する文法構造」という英語の様式自体も、「暗示の法則性」と言える状態であり、その実用には十分な知識を要求している。「文章が成立していない」とされる状態が珍しくもなく、あるいは文章構成の間違いによって意味の変質を引き起こし、致命的な誤解を生じさせる場合さえもある。 そもそも英語の語順に依存する文法構造とは、本質的に「語の関係性を明示しない」という様式である。英語が作法として省略を抑制されている傾向を持つ面も、そもそも英語の体系が歴史的に見ても「既に省略を済ませた形で固定された形」の言語体系で、既に十分省略されている形なのだと説明できる。 なお、言語文化の普遍的な法則として、自然な日常会話の表現領域では省力した表現が求められやすく、省略した表現が結局のところ頻出するようになる。そして当然、その解釈には高度な文脈依存性が存在し、英語の単語では元々の文脈依存性が高いために、その判別は極めて高度な文化的知識が必要になる。

目次  #### 文脈性:使い方による極端な変化 英語における、使い方によって意味・ニュアンスが極端に変化してしまう表現の典型例として説明されるものが[I like dog.][I like dogs.]の違いである。[dog]という単語は、端的には[犬]と訳されやすいが「数えられない情報としての犬」という使い方であるため、ニュアンスが極端に変化する。 [dogs.]では「数えられる情報としての大きな枠組みの犬」であり[I like dogs.][私は犬たちが好き。](I am fond of the canine species.)の意味になるが、[dog.]では「数えられない情報としての犬」であり、また[I like *Animal*]では「*動物*の肉が好き」の構文にすげ変わり、意味の事故が起きる。 この事故は第一に[cat.][a cat.][the cat.][cats.]などの表現の変化が「著しく異なる概念を指す」という様式を持っていることが、その言葉選びにおいて英語へ慣れていない話者は「最も単純な[cat.]でシンプルな概念が伝わる」という誤解から、最も不安定な形を使ってしまう状態が発生すること。 さらに「文化的に根付いた定型表現」から、[I like *Object*.]の口語では、[Object]の形式に応じて直感的に[Like]の意図が変化し、「数えられる対象」や「行動」では直感的に好意だと認知されるが、「数えられない情報」では[I like beef.]など「食べ物としての好み」の定型表現として使われている。 これらの衝突によって[I like cat.]などを定型表現の一種として直感的に「食べ物としての[Cat]が好みである」という意味で受け取ってしまう事故が引き起こされる。もちろん、一般的な食べ物以外であれば、本来使われない表現のはずだという違和感を覚えるが、直感的な認識では食べ物だと感じる。 英語に習熟している場合、この問題は「[Animal./Animals.]の言葉の使い方のミス」のように認識してしまうが、しかし[I like...]のように「最小の言葉から、使われている構成によって異なる広い意味へ自動的に展開する」という様式が実用されていることで、安全性を損なっていると説明することもできる。 英語を習熟するには、そのような「意味の爆発的な飛躍」による事故を回避するために、非常に広く深く「英語の文化的な作法」を理解する必要性がある。この問題は主に非母語話者において発生しやすい問題であろうと言えるが、母語話者も「意味の飛躍的な跳躍」を避けるための習熟は必要となると言える。

目次  ### 文脈性:実用語彙の総数と実用情報の総量 概算のデータとして一般的な活用範囲のおよそ9割~さらに広い範囲を網羅するために必要となる単語数は、日本語においては5000語~1万語以上とも見積もられているのに対して、英語においては3000語~9000語とも見積もられている。概算の数値上ではあるが基本的には「日本語の方が多い」とされやすい。 しかも、日本語は語の変形によって操作している範囲が広いのに対して、英語は語の変形以外では単語の付随によって操作をしているため、表現のために必要とする単語は英語の方が多い。さらに「言葉を繋ぐ語」も、日本語では「助詞」の体系に統合されているのに対して、英語では多数の種類を使い分ける。 つまり言語体系として、日本語は限られた語で広い表現を構築できる体系を持ちながらも多くの語が実用されていると説明できる一方で、英語は子細な表現に語を多く必要になると言えるにもかかわらず実用の単語数は限られているため、英語の「機能語ではない単語」の実用数はさらに限られると考察できる。 そうしたデータから日本語はより多くの語を運用できる柔軟かつ強靭な文法構造を持っていると想定でき、多くの語が実用できる学習性があると考えられ、そしてその多くの語によって、細かい表現が可能であろうと考察できる。実際に日本語の表現力は、他言語へ詳細に書き分ける翻訳が困難な場合が多い。 「英語の方がシンプルで効率的」とも思い込めるが、同等の文明社会において「実社会で必要とされる範囲の表現力の総量」を想像するならば、そこに劇的な違いがあるとは考えづらい。つまり、日本語と比して実用している語の少ない英語は、日本語よりも単語単位の意味の総量が多いと推測できる。 そして実際的にも、英語はその実用において単語の使いまわしが非常に顕著であると言える。使いやすい語ほど多義性が分厚くなっており、語の変形や語の組み合わせによって多彩な意味を使い分ける様式となっている。表面的な数値ではシンプルな見かけをしているが、実用では煩雑性を強めていると評せる。 英語は「覚える単語の総数が少ない」とも言われるものの、実用における「覚える情報の総量」は結局のところ削減されているとは言い難い。英単語は、日常的な頻出語ほど多義的な語が多く、「1単語当たりの覚える総量」は多い傾向があると説明でき、その煩雑性から学習負荷も相当に高いと言える。 一方で日本語は多層的な語彙の体系から「覚える語の総数が多い」と言えるが、実用における「覚える情報の総量」だと極端に多いわけではない。むしろ体系的な整備によって、語の扱いの効率化と安定化がされて、学習負荷は軽減されていると説明できる。その整理によって語彙の総量が維持されている。

目次  #### 文脈性:情報の関係性を示す語の領域 英語では「情報の関係性を示すための補助の単語が多く揃っている」という部分において、機能性の高さとして説明されやすい。しかし、それらの語が細かい役割分担をして大量に存在する状態そのものが、使いやすさを損なう煩雑性を持っていると考察できる。欠点を抱えた合理であると言える。 まず「細かい役割分担がされている」という状態は、補助語の汎用性が限定されていると考察できる。補助語がそれぞれ大きな意味を伴っているため、その使い分けを必要とされる。正しく使い分けるためにも、また正しく読み取るためにも、そうした語彙の把握を必要とされると説明できる。 また補助語が意味を強く持っているために、意味を覚えて使い分けることには補助語を選ぶだけではなく、文章内の他の単語との相性や構成においても注意が必要となる。しかも、役割分担がされていると言っても[- with telescope.]のように、複数の意味に分岐する語彙も存在する難解性を持つ。 小さな論点として、さらに「頻繁かつ汎用的に使われる単語が大量に存在する」ということは、補助語に「文字列や音を大量に占有している」と考察することもできる。単語として専有されているだけではなく、それは「補助語との衝突で、使いにくい音の領域が広がる」という傾向を想定することができる。 機能語との誤認は、別の単語との誤認とは影響力が決定的に異なる。「機能語を用いた表現との混同が発生する表現」は文法の誤認を引き起こしてしまう危険性があり、会話における文の認識を崩壊させてしまうことになる。そのため補助語との衝突は、原則的に回避しなければならないと考察できる。 そういった関係からも「使える単語や表現が削られている」という可能性を示唆することができる。英語では単語の形をシンプルにしているという言語体系の事情から、それを補うための補助語が非常に細かく、多く整備されていると説明できる。それが無自覚に表現の抑制を引き起こしていると想定できる。

目次  ### 文脈性:辞書や語義 日本語と英語の言葉の持つ情報量の違いは、2つの言語の言葉の辞典において、主に使われている「単語の説明における項目の平均数」を注目することで、その概要を比較することができる。特に英単語では「文章によって成立する意味」を例示しなければならないために、「例文」の必要量が必然的に多い。 一方で、日本語辞典では、多数の例文を並べる必要がある語は限定的だと説明でき、特に意味の安定する語であれば「言葉の構成における主な配置や活用」だけで済ませられている。また日本語でも、広く活用されている一部の和語では大量に説明や例文並べる必要があるものの、全体的には抑制的だと言える。 また日常的に使われる言葉は広く応用されやすいために、意味が散乱してしまいやすい。例えば英語では[Bad!]という語をポジティブな意味で使うことが可能である。こうした独立した単語は、単語の意味を安定させる言語の力学が通常「その単語単体の意味」にしか存在しないため、広い活用を許してしまう。 そうした問題は評価の語に限った話ではなく、様々な語の活用においても同様の現象から語の意味が拡張されているのだと説明できる。根本的に、言語体系として頻出する単語の意味を統制することが難しい言語形式になっているのだと説明でき、さらに単語が多義的なってしまっているのだと考察できる。 一方で、日本語でも独立した単語の[ヤバい!]という語をポジティブな意味で使うことはできても、[サイアク!]という語をポジティブな意味で使うことは桁違いに飛躍的な用法となる。[サイアク][最悪](最も悪い)という語で、[悪](悪)という文字のネガティブな意味の認知が接続的に存在しているためである。 日本語は「意味の層」である漢字を上乗せして使い、漢字の意味は多数の語の意味とも接続した状態で存在しているという形式を持っている。異なる語との接続によって「意味を安定させる言語の力学」が働き、漢字の意味を発展的に拡張する使い方は抑制されやすく、語の意味が安定しやすいと考察できる。 もちろん日本語の文化でも、スラングなどによって「飛躍的な語の使い方」は存在する。しかし、漢字などが使われるスラングである場合は「元の語から転じて使われている」という状態が分かりやすく、その用法が広まったとしてもその飛躍的な使い方から更なる飛躍は抑制されやすいと考察できる。

目次  ### 文脈性:語義の拡張と拡散 日本語は「使いまわしやすい語彙層」から「より細密な意味が指定されている語彙層」が複層的に存在しており、日本語でも日常の頻出語では使いまわしによる多義性は見られる一方で、日常語を含め多彩な語彙が使い分けられることで、単語それぞれの意味は限定されやすい表現力を持っていると説明できる。 顕著である[ヤバい]の意味の拡張性は「使いまわしやすい語彙層」の中でもさらに使いまわしやすい例であり、漢字と紐づけられていない語であるため意味の矯正が弱く、意味が広くなりやすいと考察できる。「意味の層」の漢字と接続される語は、漢字によって意味が矯正されるため意味の拡散は抑制される。 一方で英語は、他の語との接続性が高くて語の意味を共有している語群は、日常的な語彙から離れた専門用語などの領域に限定されていると言える。そのため英語は、頻出する多くの単語で日本語の[ヤバい]に近い現象を許しやすいと説明できる上に、英語は日常の常用単語の少なさから使いまわしも多い。 英語は実用において、まるで漢字の熟語のように、様々な単語の組み合わせで表現性を広げる様式が常態化しており、それによって単語ごとの意味も拡張されている。英語は単語の少なさから基礎的な表現性が限られるために、積極的に拡張的な表現を許容していることでイディオムの定着も多いと考察できる。 しかしそうした慣習の結果、英語は多くの語を並べなければ語の意味が定まりにくい様式を強めており、精確な解釈には広い知識を更新しつづける必要があると説明できる。しかも英語において語義の安定する単語ほど出現度の低い慣れない語であるため、むしろ意思疎通に使いづらいという事情を持っている。 日本語では文法構造が柔軟かつ強固であるため、説明において理解不能語が出現しても話の概要は理解しやすく、後からでもその語について教えられれば全体の内容も理解しやすい。また、漢字を共有していることによって、言葉が共通性を持っている場合も多く、連想的に判別することもしやすい。

目次  #### 文脈性:表現の回避や誤解の防止 英語において頻出する単語や表現が極端に使いまわしをされており、単語の意味が積層しているために多義性が見られ、また英語文化ではイディオムやスラングなども多く見られやすいと説明できる。そのため「十分な知識が無ければ、特殊な表現を回避できない」という問題が生じていると考察できる。 つまり文化的な知識が十分では無い状態で、基本的な意味を頼りに言葉を構成した場合に、結果的に「イディオムになる・近づく」「スラングや特殊な言葉になって異なる意味を示唆してしまう」といった状況を引き起こす危険性が、単語が使いまわされてる幅の分だけ広がっていると考察することができる。 特に危険性の高い表現ほど、辞書などでも網羅されにくい傾向があると考察することもでき、これによって不意に好ましくない表現をしてしまう恐れもあると推察できる。そうした問題を回避するためには「予め文化的な知識を網羅して、危険な表現に抵触しないように回避する」という作法が必要になる。 「意味の錯誤」は他の言語においても見られる現象であると説明するべき。だが英語においては基本的な表現が非常にシンプルであるためにこの問題が生じやすいと考えられ、しかも余分な情報が少ない分、表現に対する社会的な手掛かりとなる情報が乏しいため「発言の意図の識別が難しい」と説明できる。 英語文化では言葉がシンプルなため、標準的な意図で発言しているのか、またはスラングとして発言しているのかも把握することが難しい傾向があると考察できる。会話における作法が見られれば、標準的な意図なのか、カジュアルな表現なのかを把握しやすいが、英語文化では限定的であると言える。 文化的な言語体系として、言葉における作法的な表現が分厚い場合、丁寧な表現を心がけていれば、イディオムやスラングなどに接触してしまう場合があっても、丁寧な表現をされている分、短絡的な発言ではないことを理解しやすく、標準的な意図であることを認識しやすくなると整理できる。 例えば日本語は、言語上の作法的な表現が分厚く整備されていると説明することができ、その作法に従った表現をしていれば、もし誤った言葉遣いをしてしまったとしても「社会的な態度としては丁寧な振舞いをしている」と認識されるため、意思疎通における心理的な安全が守られやすいと整理できる。

目次  ### 文脈性:同音や近似音 日本語における「理解のための文脈への依存性」という側面が強い部分として「同音語の多さ」がある。漢字を持った単語自体の意味は安定している一方で、複数の漢字が同じ音を共有していることも多く、それによって「同じ音であるが異なる語」という語彙が非常に多いと説明しなければならない。 そうした単語を活用する場合は、日本語でも区別可能なように配慮をする必要性がある。「文字で示す」「単語を推測可能な状況で使う」「単語が推測可能になる語を付け加える」「単語を説明する」などの様式によって、「同じ音で異なる語」の識別が行われており、文法構造がその手法を助けている。 特に日本語では「言葉の説明や文字としての説明を話の最中に入れたとしても、文章の構造は維持される柔軟性と強靭さがあり、その後からそのまま話を再開し続けることができる」という文法構造を持つ。英語では1文の最中に別の説明をすることが通常許されない様式を持つために、外付けする必要がある。 また日本語は複層的な語彙体系によって、異なる層の語を用いた言い換えや補足もしやすい体系を持っている。典型的な例として[科学][化学]は通常どちらも[かがく:kagaku]と読むが、口語において区別が必要となる場合は[化学][化][化物:bake-mono]の読みへと変えて、[ばけがく:bakegaku]と読む。 一方で、英語でも「同じ音や近似の音」の語は珍しくない。異なる文字列の単語でも、文字列が音を保証しないことで音の変化を許し、またそれによって音が言いやすい形に収束しやすく、同じ音や近い音を持つ語は多いと説明できる。英語では、その識別のためにも、言葉を多く使う必要性があると言える。 つまり英語において「単語の意味が確定するだけの文章を構築する必要性がある」という作法は、文字列における意味だけではなく、会話における単語の識別自体にも、とても重要な作法となっているのだと説明することができる。しかも英語は繊細な音で語を識別するために、文章構成への依存度は高い。 言語の普遍的な発話の扱いとして、人間は全ての音を子細に聞き分けているわけではなく、音の雰囲気から無意識な類推を働かせて聞きとっていると説明できる。特に日常では静かな環境で対面した近い状態で会話できるとは限らず、子細な音を制御しても、その全てを聞き取ることは物理的にできない。 子細な発音を制御する英語は「発音と聞きとり」においても安全性は弱いと説明できる。対照的に、日本語は基本として単純化された発音体系に整備されているため、発音と聞きとりのおける安全性が非常に高く、しかも語を増やす傾向があるため補完可能性も高いと言える。基礎の強固さにも差異が大きい。

目次  #### 文脈性:発音における誤解可能性への対応 英語はその発音体系が繊細であるために、会話での意思疎通における安全性が弱いと説明できる一方で、実際の英語の母語話者同士の会話において、聞きとりでの誤解が極端に頻出しやすいわけではないと考えられる。それは実際の聞きとり能力が優れているのではなく、言語体系が可能性を絞るためである。 英語は「強固に形式的な文章構造」が要求されることによって、熟練の話者にはその基本的な表現構成そのものを推測することがしやすく、欠落が生じたとしてもそこにどのような要素があるのかを推測することをしやすい。さらに実用される語が少ないことで、選択肢となる語が少なく、推測範囲も限られる。 例えば[right](正しい/右)と[write](書く/作る)の語は、英語の一般的な発音において全く同じ形に収束しているが、混同されるような場面で使われる可能性が非常に低く、文章の前後の文脈からこれを判別することが可能であるため、同音性が問題となることが少ない。同音をそのように識別をしている。 しかし「識別可能であるから使える」のではなく、実態は「識別可能でなければ使えない」という制限である。つまり表現性を著しく制限している言語体系があり、その上で単純で分かりやすい文章構成が常用される文化によって、結果的に「誤解可能性が限定されている」だけであると考察することができる。 表層的な評価として「英語は体系として分かりやすい」と自認されがちであるが、実態は「分かりにくい英語が自然と淘汰されやすい体系をしている」と考察することができる。この傾向によって複雑な単語はさらに使用頻度が低下し、分かりやすい頻出語がさらに使いまわされているという理屈を説明できる。 しかも、英語は「字と音の不一致によって、文字だけを見ても会話に使える語としては学習できない」という事情から、発音や聞きとりにおいて聞きなれない語が著しく使いにくいと評せる。複雑な語は、発音においても聞きとりにおいても安全性が低いために、一般的には回避されてしまうと考察できる。

目次  ##### 文脈性:発音の安全性の設計 一方で、日本語は単純化されている発音体系によって「基本的な音は認識されやすい」という安心感を共有している。発音や聞きとりにおける、技術的な負荷や心理的な負担が非常に軽いと説明することができ、よほど極端な状況や癖がなければ「言葉そのものを聞き取れない」ということは生じにくい。 また日本語のように単純な発音体系では細かい意味の構築のために多くの音を使用する必要性もあり、聞きとりにおける音の推測可能性が高い。また日本語でも、より優しい文章構成をされていれば、言葉を重ねることで意味を限定し、会話における誤解可能性は著しく抑制することは可能であると言える。 そして、会話では必要に応じて一部の語を「聞き返す・聞き直す」ということをしやすく、それに対して「言い直す」または「言い換える」という対応もしやすい言語体系を持つ。こうした言語的な作法によって、日本語でも一般的な意思疎通における致命的な問題は抑制されていると考察することができる。 なお発音について補足すると、日本語文化では発音の癖や変化を非常に幅広く確認することができる。標準的な発音でも、自然言語の普遍的な傾向として見られる「おおよその識別が可能な音で十分」という傾向から、日本語も「発音しやすい形」のために一つの音に対して異なる発音をしている場合はある。 また日本語でも標準語・標準的な発音体系そのものは存在しているが、発音の癖が強い人もそれほど珍しくはない。しかし、癖が強くともその発音に慣れてしまえば十分に意思疎通できるようになってしまうと説明できる。音の分別が単純であるために、多少崩れていたとしても言葉を識別することがしやすい。 現代の日本語文化は発音の癖や変化に極めて寛容な機能性があり、極端な例にはなるが「よく聞きとらなければ分からない」という極端な癖を持った人でも、ある程度の意思疎通ができてしまう。発音において非常に広い変形が見られながらも、必要な意思疎通を、おおよそ成立させていると説明できる。

目次  ### 文脈性:指示語の詳細性と認知の領域 日本語は日常的な語も体系的で、語の変形や展開が法則的に整備されている。また日常的な語としては[こ/そ/あ/(ど)]と呼ばれる細かい「指示代名詞・対象を示す語」が整備され、実用されている。特に[そ/あ]の区別が実用されていることは、言語基盤・言語感覚に「空間的情報」が根付いていると言える。 [これ/それ/あれ/(どれ)]の4系列と[この][そこ][あっち]([どう])などの対象を示す変形があり、[こ-]系列は「自分側や自分の手元の領域」、[そ-]系列は「相手側や相手の近くの領域」か「話題の対象になっているもの」、[あ-]系列は「互いのどちらの近くでもない、外側の領域」の対象を指定する。 日本語は、「会話の環境を前提としている様式」から会話をする際には明白に共有されていると言える「自分側・相手側・どちらでもない外側」という空間的情報の観念が語に反映されており、そうした感覚性から[こ/そ/あ]体系で端的に対象を明示することができる様式を持つと考察できる。 さらにその対象を示す語の系列に、「[ど-]系列」として[どの][どこ]などの「不定の対象」を示す語も含まれている。そして日本語の文法上、そうした[こ/そ/あ/ど]部分のみのすげ替えた言い換えが許容されていることで、直感的に対象を示すことができる。言語体系において、その領域の識別は明白である。 一方で、英語では指示代名詞として[This/That]の2系列で「自分に近い」「自分から遠い」の語を使い分ける様式となっており、日本語における[それ/あれ]の区別を基礎的な単語において持たない。英語において、[そ/あ]に対応する区別が必要な場合は、語を増やして指示対象を明確化する必要性がある。 また日本語においては「[ど-]系列」で整備されている「不定の対象」を英語で指定したい場合には、通常、語と文法上の制約から文章の構造そのものを疑問文として構築する必要性がある。また疑問文に使われる語も、通常の指定語と接続性が高い語は[Here/There/Where](場所)、[Then/When](時間)に限られる。 ちなみにこの2~3系統に分かれる対象を示す語の法則性自体については、どちらも英語のみ・日本語のみにおいて見られるものではない。また英語においても「語彙として2分割」ではあるものの、より詳細な識別のために表現を調整するということそのものは、実際的に行われていると説明できる。

目次  ### 文脈性:言語法則による自明の省略と補完 自然言語の普遍的な法則として、「言語法則から高確率で自明である要素において、強い推測性が働き、省略が許される」という傾向がある。省略は典型的な「高文脈的な作法」と説明されやすい部分だが、実態として言語法則において「自明である」ことも多く、これを混同することは本質を見誤ると言える。 例えば「英語は、言語法則を強固に整備することによって、語順などから文章の法則性によって関係性を自明とすることで、その意味を推定できるようにすることで細かい語が省略されて消失し、シンプルな言語体系を形成している」と説明できる。これは「言語法則において自明である」と位置づけられる。 また現代的な英語でも、言語法則として「言葉の並びから状態の補完」が自動的に行われる傾向があると説明できる。例えば[I read that book.](私その本読んだよ)は、単語の構成として[自分][読む][それ][本(book)]だが、基本的な意図では[I have read this book before.]の意味が含まれると言える。 しかし例えば[I will read that book.]では、[I will -](私は~する意思があります)意味によって「私はその本を読みます」という意味に転換し、[I read that book.]の基本的な意味に[will]が入った[I will have read this book before.](私は前にこの本を読んだことがあるだろう)とは解釈されない。 日本語における「主語や対象の省略」などもまた、同じ補完現象の法則によって説明することができる。特に日本語は言語の基本法則を支える前提情報に存在する[こ/そ/あ]の観念と、子細な状態表現の存在によって、会話における「自分/相手&話題」が高確率で自明とできるために、省略を可能としやすい。 例えば[I read that book.]は日本語の自然な会話では[その本読んだよ][I/私]は欠落しやすいが、これは[読んだよ:- have read - before.]の語から「動作であることが明確に示されているため、単純な動作の説明なら主体指定が欠落しても通常話者自身が主体だと自明である」という前提があるためである。 注記しておくが、英語においても用法と意味が安定した慣用句・定型表現においては省略が起きる。例えば[See you tomorrow.](直訳:明日あなたを見る)は、その立場関係が明白であるために[I will see you tomorrow.](直訳:私は明日あなたを見たい/意訳:また明日)の[I will]が欠落した表現として使われる。 日本語では、多くの単語の意味が安定していることと、[読んだ/読んでいる/読んでいた/読もうする/読みたい/読まれていた/読まれる]などのように子細な表現変化によって語の状態や意味を強く明示できることで、主体がどこにあるのか・対象がどこにあるのかの類推可能性が高く、自明であれば省略できる。

目次  #### 文脈性:高文脈的な作法に見える省略の正体 日本語の文化では日常的な提案の断り方として[いい][大丈夫]という語が使われる。これを単体としての語義から直訳的に[良い:Good/fine][問題無い:No problem.]とだけ翻訳してしまうと、英語的には接続性が低く飛躍的に婉曲的な表現にも思えてしまうが、語の解釈として十分であるとは言えない。 日本語の会話における言語法則として「軸となる立場が省略されている・明示的に他を示さない・また他の動きを示す語でもない」という状態の言葉では、「自明的に話者にとっての[こちら側]を示した表現である」と補完される。基本「自分のこと・自分の領域のこと」の表明として扱われると説明できる。 つまり、断りにおいて端的に[いい]と表現される場合、その意味には[私の領域はこのままで十分に-良い](My territory is fine as it is.)という言語的な補完が生じている。婉曲な表現ではあるが、「日本語における自然な言語法則による補完の範囲」によって、その意味が自明になる表現だと説明できる。 ちなみに[このままで]という意味までも補完されている理屈は、多くの言語における普遍的な法則として「時間的な要素が明示されていない場合でも、自然と現在・現時点・現状などの意味は自明的に補完されやすい」と説明できるため、その範囲も「言語法則による補完」に含まれると説明できる。 注記として、[いいよ]などは説明した「自分への干渉や支援の不要さを示す遠慮の[いいよ]」だけではなく、状況によって「自分の行動への要請を承諾する肯定の[いいよ]」が、重なって見えるという点についてはややこしい表現であると説明されるべきであり、実際も必要に応じて確認や明確化もされる。 なお、もしもこの「言語法則による自明的な補完」を強い文脈の依存だとして扱ってしまうと、英語の文脈依存性が青天井に高く評価できてしまうため、現実的な解釈ではない。英語は、単語同士の関係性を語順という非明示的な言語法則から自明として補完する、暗示的な言語体系だと説明できる。 十分に前提が共有され、多くの話者たちにとって用法と法則性が明らかで、その法則性に従って一定の意味と用法に収まると整理して説明することができる「暗示」は、もはや「言語法則」の一部だと説明するべきだと言える。文脈依存性があるとしても、それを安直に過大評価するべきではないと言える。 日本語における「省略可能性」も、言語法則による自明的な補完として働いている部分は非常に多く、実際において「詳細な洞察による理解が必要になる表現」が、単語の意味の理解に類推的な知識を広く必要とする一般的な英語に比べて極端に多いと評価することは分析としての妥当性を欠くと考察できる。

目次  #### 文脈性:安定性と不安定性 英語は頻出語ほど単語単体の意味において不安定な傾向を持っており、語の意味を限定することが言語運用において不可欠となっている。そのために明示性の高い作法が必要とされ、明示性の高い言語文化を形成していると考察できる。それは言語の不安定性から、社会的要請が強く働いていると説明できる。 しかしその上でも完璧に明示されているとも言えず、完璧に限定されているとも説明できない場合がある。英語に対する厳密な読解や理解には、語の持つ広義的な印象・コアイメージからの類推や解釈を必要とする。しかも発展的な活用も生じやすく、その理解は「文化的な知識背景」が十分に要求される。 もちろん国際的な場面などのように「標準性の高い理解を必要とする」という場面では、標準性の高い語を中心的に活用し、また可能な限り定まった意味として認識できるような作法が必要となると言える。だがそれは「特殊な場面での作法」であり、それは日本語を含む多くの言語で現れるマナーだと言える。 特殊な場面での作法を標準的な言語の使われ方として定義して、他の一般的な言語と比較してしまうことは、「法律文書と、ノート端のメモ書きとを比較するような非対称で不正確な比較である」と説明できる。特に日常的な運用などにおいて、省略が活用されることは自然な言語の法則だと言える。 日本語の分析をするのならば、多義性を持つ語は存在するものの、語彙が多いことによって語の役割の分散が行われており、多くの語における意味は限定的で安定していると説明できる。また語の表現として、文末の変形による非常に細かい表現の操作が実用されており、その表現力も非常に豊かである。 つまり言語の体系において多くの単語の意味や操作が非常に安定しやすい形式として整備されていると説明できる。それによって文章で欠けたとしても類推ができる「自明な要素」も明確化しやすく、万全な文章における安定性が非常に高いことで、省略的な表現を常用しやすいだけであると説明できる。 日本語でもより形式的で細密な文章を整理すれば、英語と同程度に緻密で厳格な文章を形成するも可能だろうと考察することができる。ただし日本語は表現の幅が広すぎるために、より厳密な表現を形成することもやや難しいと説明することができ、実用において不安定性を持っているという考察もできる。

目次  #### 文脈性:現実社会の実態 こうした関係で都度の説明をしているが、日本がその日本語を中心として技術や学術の分野を扱っている社会でありながら、科学や技術において国際的に致命的な遅滞や崩壊を生じさせているとは説明できず、むしろ世界に比肩している事実が、日本語の持つ十分精確な機能性を傍証していると説明できる。 また社会の水準という側面においても、人々の規範性や一般的な技術における安全性や精密性、社会の安定性といった領域において、世界的に評価されやすいと言える。そうした規範性や技術の安全性や社会の安定性といったものを基盤として支えているものが、その母語の日本語であると説明できる。 もしも日本語がその機能において致命的に不十分であるとするならば、そうした実社会の状況を説明することは極めて困難になるだろうと考察できる。むしろ比較として機能的とされるはずの英語圏が必ずしも日本と同等以上の社会水準を持つとは言い難い実態が、日本語の不全性への反証の一つとなる。 特に「社会的な規範性や社会の安定性」という観点で「人々の意思疎通」は非常に重要となると考察できるはずだが、理想論として「明示的で誤解が少なく意思疎通も安定して効率的」とされるはずの英語の地域において、必ずしも日本よりも高い規範性や安定性を実現しているわけではない実態も存在する。 そういった事情の背景は、むしろ英語における言語の体系的な不効率性の方が、より明示しやすい。最も顕著な部分として、「字と音の不一致性」から文章読解のための基礎教育が2~3年かかるとされ、「子供が本をほぼ自力で読めるようになる学習段階」が英語圏では他の言語と比べてもやや遅いとされる。 英語圏の基礎教育では、早期に文章を読ませることが難しいため書籍の教材を子供が所有する段階は遅いとされる。一方で、日本の基礎教育では義務教育期間の1年目から子供に書籍の教材を多数所有させ、読書に最低限必要な表音文字は初期の半年ほどで学習が済み、自力での簡単な読書もできるようになる。 なお「発展的・高度な領域において難しくなっていく」という事情については、他の言語であっても回避できない問題だと言える。英語であったとしても高度な領域では専門的な語や表現の読解や扱いを求められる。漢字体系も煩雑に見えて、むしろ意味を総合的に管理する機能性があり、効率化の面を持つ。

目次  ### 文脈性:[I love you.]からの翻訳の非対称性 「文脈性」の観念において、母語話者と非母語話者との間で最も大きな認識のズレを引き起こす要素が「翻訳の非対称性」を上げられる。特に意図に応じた自然な言葉への翻訳をする場合、その非対称性は著しく大きくなることがあり、その違いが「文脈性の高さ」であるかのように錯覚されやすいと言える。 例えば[(I) love you.]は、英語の常用表現として[(私は)あなたを愛している]という語彙として扱われている。日本語の自然な表現では[愛してる]へと翻訳されやすく、[I][You]も抜け落ちて、[Love][愛してる]のみによって表現されているのでは?という解釈をしてしまいやすいと考察できる。 しかし日本語の[愛してる][愛:Love][して:do][いる:progressive/stative]という語彙の表現であり、外部定義が無い[してる]は、英語で説明するならば自動的に[I'm]も補完されて[I'm doing -]の意味になるため、[愛してる]の構成語は英語における[I'm][do][-ing][love.]だと説明しなければならない。 さらに、[してる]において対象の明示が無い場合でも、日本語会話における自明な補完として、会話している相手が対象となるために[toward you.]も補完される。つまり[愛してる]の構成情報は[I'm doing loving toward you.]まで広げることで、日本語としての情報量を十分に再現することができる。 むしろ英語の方も[I love you.]のみで[Love][doing]していることが補完されていると説明するべきである。構成語は[I:私]/[Love:愛情]/[You:あなた]のみであって、そこに状態を直接的に示す語は存在しない。例えば日本語で[私、愛情、あなた]は、意味は伝わりうるが極めて欠落的である。 なぜ英語において[doing]な意味が補完されるのかと言えば、英語の文法構造によって「主語-動詞-目的語」が明示されずとも強く自明とするため、[I-Love-You]では[Love:愛情]が自明的に「~している」の表現語だと推定が可能で、そうして(文脈から)状態が補完される状態にあるためだと説明される。 さらに極端な例として[I like you.]でも補完に働くことで通常「(私はあなたが)好きです」という語として扱われるが、語を足した[I'm like you.]という表現では[like:~のように]という語の意味から「(私も)あなたと同じです」という表現語へと変わる。語の意味としては好意の意味の方が例外的である。 英語の母語話者にとっては、そうした切り替えはおおよそ「自明的」であると識別でき、明示された情報によって明確に理解ができるかのように解釈されやすいと説明できるが、しかし語の意味が明示されている状態ではなく、「使い方・表現上の文脈の読み取り方による解釈」だと説明されるべきである。

目次  #### 文脈性:日常語における欠落 ちなみに英語でも慣用句や定型表現として定着している場合、更なる省略が許容される。[I love you.]は非常に強固な定型的表現として共有されているため、[Love You.]だけでその意味を伝えることも可能としている。英語の文法構造を満たしてすらいない、英語として極限的な省略の状態だと説明できる。 それ以外でも[(I will) See you tomorrow.][See you (later)][Thanks/(Thank you.)]などのように、英語でも「明瞭な意味を持った語が使い込まれてパターン化している」と言える状態では自然と、語をさらに省略した省力的な表現へと堕落する。そこに文法構造という言い訳は成立していない。 英語圏への旅行などに向けて覚えるべきとされやすい[Excuse me.]は、典型的なパターン語である。主語が欠落しているだけではなく、現代的な用法では[Excuse]という語の「言い訳」や「許して(ほしい)[(Plase) excuse]」からも離れて、汎用的な呼びかけとして使われている「迂遠な表現語」である。 日本語でも同じ意味として[すみません]というパターン語があり、これは[済む](Done/Finish)、[-iません](No -. / Not -.)で構成される語で、おおよそ詳細な意味は意識されず使われている。しかし日本語として自明な補完をすると「自分側で済む状態ではない」という意味を理解することもできる。 英語文化では「明瞭なパターンとして共有されていなければ実用されにくい」とは説明されるものの、実態として、こうした「状況や語によって自明となっている要素を省略する」という省力的表現が英語においても実用されているという事実がある。形式性を要求される言語であっても、その法則性がある。 つまり「言語法則から高確率で自明である要素において、強い推測性が働き、省略が許される」という傾向は、形式性が強いとされる英語であっても例外ではない、自然言語の普遍的な法則であると説明できる。だが母語話者にとっては「自明な法則」であるためその省略性に無自覚となりやすい。

目次  #### 文脈性:日本語における整合性と欠落 逆説的に、日本語が「主語を省略しがちである」と言われる様式を持っているのは、語の安定性や表現による意図の明晰性が高いことで「主体が自明であると認識しやすいことによって、その省略をしても基本的に問題なく通じると判断されている」からであると説明することができる。 主体が明示されていない場合でも、例えば[読んだ]の表現はそれだけなら自明的に話者自身の過去の動作であり、[読んでいるか]の表現ならそれだけで自明的に会話相手への呼びかけであり、[読まれている]の表現ではそれだけで自明的に領域外の他者のことである、などをおおよそ判別することができる。 日本語では、このように「細かい表現から自明的な補完を可能とする表現」が豊富に存在すると説明できる。そうした表現から自明的な補完が可能な語があえて表現される場合は「あえて記すことで強調する表現」であったり「さらに細かい表現を重ねている表現」などの、表現上の工夫として用いられる。 例えば[私は読んだ]では、表現上「あなたや他の人が読んでいるかは分からないけど、私自身は読んでいる(それを知っている)。」という意味が成立する。[君も読んでいるか]では「君以外に読んでいる人を知っているが、君も読んでいる状態であるか?」という意味になる、端的な表現性を持つ。 日本語では語の表現において「主体を指定する要素」を持つために、例えば[私に読まれている]という表現では、[読まれている]に外部の他者の行動を示す意味があるため、「話題の相手に対して、外側にいるはずの私がそれを読んでいる状態にある、という状態を伝えるように示す」という意味が成立する。 短い言い回しの調整によって非常に深い意味を持った表現ができると説明できるが、日本語にとってこれらはあくまでも「日本語の文章法則に従うことで、自明的に導かれる意味」に収まる。英語がその文法構造によって意味の設定をすることができるように、日本語は子細な表現性を細かい語の関係で示せる。 なお、もちろん日本語文化にも、カジュアルな表現においては文法法則の補完では説明できないほど極端な省略表現も多く見られると言える。英語においても[OK.][Hallo.][Excuse me.][bye.]のような端的な定型表現があるように、日本語でも[りょ][ちわー][あの~][じゃあね~]などの表現がある。 日本語の持つ根本的な言語体系の強靭さや安心感からか、日本語における省略語が最小限とする語のサイズが平均的に小さい。日本人であっても略しすぎていると感じるほど、多くの語を短く言い表すことが根付いている。それを許容する文章構造と、語の推測可能性から意思疎通は成立していると言える。

目次  ##### 文脈性:パターンフレーズの発音短縮 自然言語の普遍的な法則として「状況の文脈を含めて強固に推測可能な言葉である場合、自然な発音は著しく崩壊しやすい」と説明できる。英語であれば口語の[dunno][wanna][aranou]などのように、パターンとして分かりやすいフレーズは自然な発音において崩壊してしまうことは多いと言える。 日本語でも発音の極端な崩壊は確認することができる。典型例が[ありがとうございます]の短縮で、[アザッス][アッス]と表記できる発音が一般的な口語として存在する。他にも[いらっしゃいませ]という挨拶も[らっしゃーせー][しゃっせー]などのような発音をしている場合も珍しくない。 程度や崩壊のパターンは様々であるものの、こうした発音の崩壊とはおおよそ「意図が伝わりやすい状況において、意図を伝えるために最小限の発音を用いる・最小限の意識での発音に陥る」という法則で整理することができる。作為的に短縮されることもあるが、無意識に短縮してしまうことも多い。

目次  ### 文脈性:本当に伝えたい[I Love you.] 自然言語は普遍的な法則として、「最小限の妥当な様式」へと落ち着いてしまう傾向を持つ。特に日常的な範囲の意味では、要求される厳密性や詳細性が低いためにその「最小限」がとても小さくなりやすく、特に「自明な要素は省略する」といった現象が自然と発生する。これは英語であっても例外ではない。 [I love you.]という表現の意味を、英語でより明晰に表現するなら、やや説明的な文章にはなるが[My heart is filled with feelings of love for you right now.]などのような表現をすることは可能である。しかし「自明な要素を省略する」ために、日常では[(I) Love you.]が常用されると説明できる。 [I love you.]という字面に「私の心は今まさにあなたへの愛で満ち満ちている」という意味を明晰に示す語は存在しない。しかし、その言葉と文脈に従ってそうした意図が読み取られ、そのように受け取られるわけである。それも、心理的に極めて重要な語であるはずなのに、その短い語で表現されている。 [I love you.]が使われる場面を想定すれば、心理的にとても重要な語のはずである。意味を間違えてしまったり、意図が欠落してしまうことは、極力避けられるはずだろうとも考えられる。そして「英語は明晰な説明をする傾向がある」と説明されやすいはずであるが、常用されているのは1フレーズである。 [I love you.]の1フレーズによって深い愛情の気持ちが示されることは、その詳細が明晰に示されているからではない。英語がおおよそ「低文脈的で言語的に明晰な意思疎通をとる傾向を持つ」と評されやすいが、英語でも「言葉以上の意味を読み取る文化」が心理的に重要な場面でも見られると説明できる。 [I love you.]という1フレーズの分析でしかないが、英語において似たような語の使い方は決して珍しくないと考察できる。ようするに、英語が「低文脈的な文化を持つ」という分析は、「英語の持つ文化そのものを過小評価している」とも説明できる表層的な分析だと、そのフレーズからも考察ができる。 蛇足として、[I love you.]に対する日本語訳として、面白い表現が語り継がれている。俗説ではある文豪の翻訳例などとも囁かれるが、その点の信ぴょう性は薄いとされる。その翻訳表現は、日本語の[私:I][あなた:You][愛:Love]も無く、日本語の自明的補完も働かない、飛躍的な文学的表現である。 それは非常に高文脈的な文化にも見えるが、あくまでも極めて飛躍的な文学的表現で、印象的なためにイディオムとして共有されてしまっているだけであると説明できる。慣用句や定型表現、イディオムといった事象そのものは英語でも珍しくはなく、むしろ英語こそ飛躍的なイディオムが多く見られる。

目次  ### 文脈性:日本語の助詞の省略可能性 日本語は非常に多くの語を用いて細かい表現の調整が可能な言語であるが、その関係性を明確に判別できる場合は省略が可能である。これは「標準的な日本語から著しく省略する傾向がある」とも説明できるが、「言語法則・文法構造において明白である」と言える場合も多く存在すると説明するべきである。 特に単語同士をつなげる語である[て/に/を/は]などの助詞は、言語法則において自明であれば省略したとしても意味の破綻が起きないために、省略が可能である。しかしその省略性は日本語において突出していると言えるものではなく、むしろ「英語の歴史」においてその傾向の法則性を示すことができる。 古い英語でも単語同士をつなげる語彙表現が細かく存在していたとされる。しかし歴史的な変遷によって細かい表現性が煩雑であるとした省力化のためか大きく省略されていくことでやがて消失し、現代英語では「語順の法則性によって単語同士のつながりを自明とする」という文法規則が形成された。 つまり現代英語とは「大きく省略した後の姿」を基準として整備し、省略した状態が固定化された言語だと説明できる。これは英語の自賛において、形式性が強まることによって不安定な表現性を削減し、それによって普遍的な理解可能性を強めていると説明されるが、実態は「非明示性の形式」である。 日本語における省略の方式もまた、語彙が持つ性質から関係性の補完して類推ができる。[雨風](Rain, Wind.)のように同格の語彙であれば[雨(と)風](Rain nad Wind.)などの同列的な補完を行い、[文法形式](Grammar Form)のように範囲の語彙であれば原則[文法(の)形式](Form of Grammar.)と理解できる。 話し言葉として[私明日病院行く](I'm going to the hospital tomorrow.)などの省略も、語彙の性質から[私(は)/明日(に)/病院(へ)/行く]といった補完が働く。しかも単語の意味が非常に安定しており、その単語の性質に従って補完されるため、仮に[行く病院明日私]としても同様の補完で文章が成立する。 つまり[行く病院へ明日に私は]という補完でも、文章の意図は変化しないと説明できる。そもそも「省略されている助詞」は重要性の低い追加される意味が薄い語であることが多く、省略されたとしても類推する範囲も狭く、結果、文章において自明だと判断できるために省略されていると考察できる。 日本語は単語の意味や使われ方が非常に安定していることもあり、英語における「無秩序に並べられた英単語を文章として整列させる」ような高度な補完ではなく、あくまでも自明である最小限の補完によって文章を成立させる様式であるため、補完における緊張度や負担も母語話者にとっては軽いと言える。

目次  #### 文脈性:英語の語順の逸脱不能性 日本語の会話では[私明日病院行く]という省略的な発話が可能であり、またその語順を[行く病院明日私]としても概要は崩壊することなく維持される。一方で英語においてもしも[I'm/going to/the hospital/tomorrow.]の語が無秩序に並べられてしまう場合、その意味が完全に崩壊してしまうことになる。 英語は語順によって語の立場関係が決定される、日本語で例えるなら語順から助詞含むの補助語が自動的に組み込まれる様式を持つため、無秩序に並べてしまうとその意味が別物になる。例えば[tomorrow the hospital going to I'm]では[明日が病院は私に向かう]のような様子になり、英文では不成立となる。 さらに単語として[tomorrow.][明日]の意味だけではなく、何かの広い将来・未来を意味する言葉で[将来は]に変異する可能性があり、また[hospital][病院]だけではなく[入院する]の用例も存在し、[going to][(これから)~をするつもり]の意味も兼ねているなど、単語自体が一意ではない問題もある。 しかも英語は発音が繊細でその聞き取りでは「文章の構造」も非常に重要な情報となっていると考えられ、その構造が無秩序だと「どのカテゴリから単語を参照すればいいか分からなくなる」と推測でき、語の識別の負荷が著しく高まったり、別の語尾を連想してしまう危険性さえも高まると想定できる。 例えば[The hospital tomorrow going to I'm]という不正確な語順で発話された場合、[The hospital tommorow]まではフレーズ的に類推できるかもしれないが、その後に[going to I'm]などと繋がることは想像できず、マシな意味の[The hospital tommorow go in time.]のような連想の可能性を想定できる。 つまり日本語においてより精確に例えるのであれば、英語で語順を無秩序にされると「日本語における助詞が欠落する」だけではなく「語の一部が削られている状態」だと説明できる。先ほどの乱れた英文の不自然さを、より象徴的に日本語で再現すると[びょういくあすわた]のように例えうる。 また文章が不成立になるのはまだ分かりやすい間違いである。英語の多義的な単語では「位置によって異なる意味で安定する語」もある。例えば[Fish][Fish in the pond.](池の中の"魚")になる意味と、[I fish in the pond.](私は池で"釣り"をする)になる意味が複合しており、位置で意味が変化する。 英語ではこうした「語の位置によって意味が変化する語彙」が他にも多数存在している。そういった事情から、特に「主語の部分が欠落すると語順が変化して文章全体の意味が変質する恐れがある」ため、語順を揃える作法として「主語を省略できない」という制約も広く存在していると説明できる。

目次  #### 文脈性:省力化の普遍性 しかし英語であっても、[Excuse me.]などのように「強固にパターン化されたフレーズにおいては、本来文法において必要とされる部分の省略が許される」と言える傾向を持つ。英語にも、自然に使われている言語で普遍的な省力化の法則に従って「可能であれば省略したい」という圧力は存在すると言える。 だが英語は、歴史的な変遷において大きな省略を既に済ませている言語体系で、「可能であれば省略したい」という傾斜があっても、英語は単語の意味を拘束する要素の弱さによる多義的な不安定さと、語順で意味の範囲を規定する法則性への依存から、それ以上省略する余地が極めて小さいのだと整理できる。 特に、普遍的な言語の法則として「明確な語彙の接続関係であれば、補助語が省かれていたとしても、意味が致命的に欠損することはなく、自然と理解されていく」という現象があることは、むしろ現代英語の法則性によって強く説明することができる。現代英語こそが「省略の体系化」だと説明すべきである。 そうした英語の話者でも、日本語の省略的な表現に対して驚きを見せる場合もあるが、日本語の形式的な表現体系と比較してしまえば、日常的な英語の方がどうやって意味を成立させているのか理解することが困難なほど省力的な言語体系によって運用されていると評することも可能だと言える。 その非対称性は、言語における普遍的な現象として、その言語に対する熟練度の違いや、特に母語として親しんでいるかどうかによって、その言語の運用における予測能力が大きく変わるものであるという観点から、単純に説明できる。つまり言語感覚から予想をできるから、省略性が低いと錯覚するのである。 熟練の話者は、その言語のパターンの知識も多く、また使い方を理解している語彙も多いことで、言葉の法則性から妥当な解釈を円滑に推測することができるようになると考察できる。反対に、その言語に慣れていない人は、パターン知識も語彙の知識も浅いために、法則的な補完性を理解することが難しい。 英語は言語の中でも「通常一通りの情報を明示する低文脈的な作法を持っている」とも説明されやすいが、しかしその裏返しである「文法が破綻していて文章として不成立になる」という判断自体は、十分な知識が無ければ不可能なことであり、それを的確に判断するには深い言語感覚が不可欠だと言える。 英語の「一通りの情報を明示する作法」もまた、高度な省力化であるとも説明できる。つまり英語は単語を単純化し、単語数も限定する省力化を行った結果、多義性が累積してしまい、しかしその全てを逐一類推することは非常に負荷が高いため、文脈を明示する作法を決めて省力化しているのだと整理できる。

目次  #### 文脈性:日本語の補完と省略の技法的歴史背景 日本語文化において「補完への作法」として考察できる歴史は、桁違いに深いところから確認できる。まず日本語の基盤は、記録として確認できる範囲だけでも1000年ほど昔の文書記録において見られる言語体系が、現代の言語体系と近い構造の言語体系を持っていることが確認でき、連続性が長いと評せる。 また日本語の文字文化は、さらに古い時代に中国大陸から輸入した漢文に使われている「漢字」の体系を文書記録のための文字体系として導入し、それを日本式に整理して使っている。その中で、日本語の体系は輸入した漢文の体系への転換はせず、日本に根付いている話し言葉を強固に使い続けていった。 その中で整備された手法の「漢文訓読」では、「外国語である漢語の文章を書き直しはせず、最小限の補記だけで、日本の言葉の体系にして、日本の言葉として読み下す」という方式での読解を実用した。なお漢字圏の中では同様の手法は他にもあったとされるが、日本では非常に細かく整備されていた。 「漢文訓読」はつまり「書かれている文章から語を補完して読む」という様式であり、古来から「文字における完全性を認めず、不完全性を受容する文化」として、日本語文化の非常に重要な文化性を形成したと考察できる。即ち「漢字への異なる読み方の併用」という、極めて特殊な文字文化の形成である。 日本語は、それによって読解にかかる負荷を高めていると説明することはできるが、しかし書き言葉において「意味の層」を形成することは十分に効率が良く、結果的に省力されていると説明できる。特に文字体系における読み方の一意性が不可欠なことではないことは「英語」という実例が示している。 そして、そういった言語の歴史背景から「日本語の中で漢語を受け止める言語体系」が整備されていったと考察でき、日本語の体系の中で多様な語を扱えるような柔軟かつ強靭な構造体系が形成されたと考えられる。またそれによって、単語の意味を理解しやすく、安定させやすくなったことも重要と言える。 日本語の体系によって、それぞれの単語がどのような属性を持つのかも汎用的な言語体系における使い方から学習しやすくなり、語の分類も分かりやすくなり、そのようにして単語の安定性がさらに高まり、そうして使われ方が安定することで語の省略もしやすく、その補完もしやすくなったと考察できる。 さらに日本語では語の形成において、日本語体系へ引用した漢語の方式を自然と継承している。言葉の形成において漢語の熟語に似た形で言葉を並べることでひとまとまりの語として運用できる法則性も広く実用され、例えば[日本の言語における体系][日本語体系]に短縮できる省略体系が根付いている。

目次  ##### 文脈性:文字における異なる発音の併存 日本語は表語文字である漢字の読み方において、他の漢字圏では稀と言える複数の読み方の併用という方式を持ち、「意味の理解性」を優先して、文字の読み方において煩雑性を深めていると説明できる。しかし「同じ文字において異なる音がある」という状態そのものは、世界的には稀な現象ではない。 事実上の世界共通言語として実用されている「英語」は、音を書き表しているはずの表音文字でありながら、「一部に同じ文字列を持っていても、異なる単語ではその部分を異なる音で発音される場合がある」という状態を多く確認できる。特に英語は世界で最も広い地域で使われていると言える言語である。 その点をより詳細に説明をするならば、日本語において読み方を複数保持して使い分けている文字は主に「表語文字」である漢字の範囲であり、日本語で使われている「表音文字」では一部組み合わせ変化や実用上の変質は確認できるものの、強い法則性を持って一種類の発音で読むことができる。 日本語は、文字体系を表音文字の「音の層」と、表語文字による「意味の層」とを分離して整備している。つまり「人の描かれた絵に対して、それを[Person]と呼ぶか、[Man/Woman]と呼ぶか、あるいは[He/She/They]と呼ぶか、[Body]と呼ぶか」といった変化が、文字の形で使われているだけだと説明できる。 つまり日本語は構造的な秩序の中に柔軟性を維持していると説明できる体系である。一方で、英語こそ「表音文字」でありながら、その実態として音を精確に表している文字体系ではない。英語は「世界的に広く使われている言語」でもありながら、発音上は法則の不完全性が強い言語体系を持っている。 人間は多彩な物体の名称を覚え、その名前で呼ぶことができる。より分かりやすい話、「人の名前」は同じ人間の形をしていても、一般的に個人個人がそれぞれの名前を持っている。外見が極めて近似しやすい「一卵性双生児(ふたご)」であっても通常、二人は異なる名前を持って、それぞれの識別をする。 文字という例に限ったとしても、実際のところ英語などで使われているアルファベットもまた2重の音を持つ。つまり[A: ei ][B: bi: ][C: si: ][D: di: ]のようにアルファベットごとの名前の音が存在している上に、単語における文字列の発音では[A:a/o][B:b][C:s/k][D:d]などの音を使う。 日本語の不自然さとして説明されやすい「同じ文字に対して異なる発音体系が併存している」という体系は、無秩序な不自然ではなく「全ての文字の発音をそれぞれ一定に固定しなければならない絶対的な必要性は無い」という現実と、「可変した方が使いやすい」という合理化による秩序だと説明できる。

目次  ##### 文脈性:略語の形成 英語でも、長い名称に対して略称を使うことは珍しくない。[United states of america]は、短縮する場合[U.S.A]と呼ばれる。文脈が十分であれば[America][States]と言った呼び方を使う場合もある。[United]の部分は[United kingdom](連合王国、イギリス)と被るためにこれは使われない。 しかし[America][States]という呼び方もかなり短縮的であると説明でき、意味において「この大陸」や「この国々」と呼んでいるにも等しい短縮表現である。また[U.S.A]は「文字列に変換した上で、単語の先頭部のみを抜き出して言い表す」という、音的に飛躍性の著しい略語であると説明できる。 特に[USA]のような、長い文字列における単語の頭文字などをとる方式は国際的にも一般的であると説明できるが、しかしその略称の体系は「略称としての類推可能性」という意味では、特に発音上、飛躍的な操作による解釈を必要とする場合が多いと言える。慣例的だが、接続性は文字の知識に依存している。 一方で、日本語では文化的に非常に多くの語や名称を短縮する習慣を持っており、そうした部分においても「日本語は略しすぎだ」と評することはできる。日本語の略称でも、英語圏と同様の「単語の先頭部を使う方式」や「一部の単語を使う方式」はある他、中でも「音を抜き出す方式」が非常に多い。 つまり[エアーコントローラー][エアコン][パーソナルコンピューター][パソコン]という形に略してしまう方式である。日本語の名称では、一見単語の先頭部を使う方式で、[東京大学][東大]と略し、[東京藝術大学]では区別のために[藝大]と略す。略称の法則として強烈だと説明することもできる。 しかしその「音を抜き出す方式」は、音を組み合わせる方式のため「独立した単語を形成しやすい」という性質を持ちながら、しかし英語などの単語の頭文字を抜き出す方式とは違って「元の名称に存在する音が残存する」という性質から略称としての連想性が高く、記憶しやすい情報を持つと考察できる。 この「音が継承される略称」の方式は口語との親和性が非常に高いため、これらの略称は口語において極めて使われやすく、日本語では「一般的な名称」として略称が定着することも珍しくない。しかし英語においては言語体系による音の制約からか、この略称体系は滅多に使われないようである。

目次  ### 文脈性:安全な発音体系と不安な発音体系 日本語は言語として、音が単純に整理されている体系を持つ。特に表音文字体系の「仮名文字」では、発音変異の規則はあるものの安定して「文字に対するほぼ一定の読み方が規定されている」と説明できる。「仮名文字」は基本が「1字1音」に定まっており、変形法則も限定的で明瞭性は高いと説明できる。 日本語はその発音体系によって、発音や聞きとりの安全性が非常に高く、音の分かりやすさによる語の共有性もまた非常に高い。さらに文字が発音を明確に示しているため学習性も高く、覚えやすく使いやすいことで、より多くの言葉が広く継承されやすく、単語の許容量が非常に大きいと説明できる。 そうした言葉を広く受けれられる発音体系と、柔軟性と強靭さを持つ文法構造の言語体系によって、日本語文化では新しい言葉を使うことの負荷が極めて軽いと説明できる。日常的な会話において「分からない言葉をそのまま聞き返すこと」がしやすいことも、語の共有のしやすさを支えていると考察できる。 日本語は、その発話上の安全性があることで、日本語文化では高文脈的とも言われる省略的な作法が容認されているとまで考察できる。つまり「音や単語の存在や文章構造の識別における負荷が軽いことで、認知能力が過剰な負荷を受けず、省略的表現を補完する余裕が生まれている」という推測である。 一方で、英語は発音体系において日本語と対照的と表現できるほどの違いを持つ。英語は繊細な音を使い分ける言語体系であり、しかし表音文字体系であるにも関わらず、使われている母音に対して文字種が不十分という事情や、書記体系の固定化という歴史的背景から、文字列だけでは発音を確定できない。 英語は実際の会話における、発音や聞きとりの安全性が低いと説明できる。安全ではないため、語の共有性も限定されやすく、そうした言語背景から新しい語の共有性にも強い抑制傾向がかかっているだろうと考察できる。英語での日常的な頻出語は、非常に限定されやすい傾向があると言われている。 言語の普遍的な法則性からも、英語の会話において話者全員が常に厳密に繊細な音を聞き取っているかは疑わしい。英語の実際の会話において「音を聞き分けているつもり」になることができ、意思疎通が成立している理由は「英語の文章構造のパターンが限られていること」が強く働いていると推察できる。 つまり「繊細な音を厳密に聞き分けることができているわけではなくとも、文章構造が限定的なパターンを取っていることで、言葉を推定する範囲が各構造におけるカテゴリごとで強く限定されやすく、基本的な会話に不便をしない程度には認識可能な範囲に収まりやすい」という理屈を立てることができる。

目次  #### 文脈性:発音の繊細な区別の限界 英語を含む繊細な発音を扱う言語は、「短い発音でより多くの言葉を使い分けることができるようになる合理的な方法」と思い込まれやすいと考察できる。理論上「発音を細分化すれば、その組み合わせによって短い言葉でも寄り多くの種類を形成することができる」という合理性の理屈を立てることができる。 また、繊細な発音で形成した短い言葉でより多くの表現ができるようになれば、会話においても効率的に多くの情報を伝達できるようになるだろうと考えることができる。理論上、あるいは名目上はそのような理想的な合理性への思想などによって、発音の繊細性が受容されているのだろうと考察できる。 しかし実用において、繊細な発音を扱う言語は非常に負荷が高い。まず根本的に、繊細な発音の習得そのものが簡単ではなく、その安定性を保つために深い努力が強いられると言える。また実際の会話の場面では「静寂・近接・明瞭な発声」という理想的な環境とは限らないため、実際の音の不安定性は強まる。 実際の会話では完全に音が伝わるとは限らないため、その不安定性を克服するための工夫が支援と形成されていくと考察できる。例えば単語表現などを工夫して語の識別性を高める手法や、あるいは英語のように文章構成を工夫して話の識別性を高める手法などが、その手法の様式だと推定できる。 繊細な発音を扱う言語と比較して、日本語のように単純な発音を扱う言語は、表層的な評価として「詳しい言葉を形成するためにはより多くの音を重ねなければならないため、音の効率性が低い言語」であるかのように思い込まれやすいと考察できる。しかしその理論は、理論上の話だというべきである。 研究データとして「会話の時間に対する情報量は、全く異なる発音体系の言語同士を比較しても、多くは大差のない範囲へと収まりやすい」という話が見られる。つまり日本語の時間当たりの情報密度と、英語の時間当たりの情報密度も、その他の多くの言語も、結局のところ差は開きにくいと言われている。 これは理論的に整理しやすい話であり「繊細な音を必要とする言語ほど、発音や言葉の構成に注意を必要としやすく、結局、発話速度そのものは高速化しづらくなる」と考察することができ、「単純な音の言語ほど発音の負荷が軽い分、発声速度は高速化して、発話速度自体は遅くなりにくい」と考察できる。 つまり実態として単純な音を使う言語が、その効率性において明確に緩いと説明することはできない。もちろん単純な音の言語も、音の表現が狭いことによって生じやすい難しさを抱えているため、単純に優しいとも言えない。しかし整備された言語であれば、おおよそ近い効率性を実現できると考察できる。

目次  #### 文脈性:聞き分けの文脈依存性 日本語の会話は省略的な傾向が強く、比較的英語は省略が限定的という話や、それは英語が言語体系や発音体系として不安定であるために省略可能性が著しく低いからであろうという考察、一方で日本語は言葉や発音の安全性が高いために省略可能性が高いのだろと考察を整理してきた。 改めて整理しておくが、英語が「十分な語を尽くしている」という作法を持つことは、「語の識別や意味の識別のために必要とされる作法」であると考察できる。つまり英語もまた「文脈依存性を回避していない」と推測できる。英語の文脈依存は、明示する文章的文脈だけではなく、状況的な文脈も含まれる。 英語の会話では「どの言葉を使ったのか」の識別に、潜在的な負荷があると考察できる。言葉として同音や近似する音の言葉は珍しくないために、それらも適切に判別しなければならない。ただし日常会話では、使いやすい語として選抜されている頻出語や定型表現によって識別しやすいだろうとも考えられる。 より精確に整理をするならば、言語の実用において問題の無いレベルの意思疎通が可能でなければならないために、意思疎通が難しい場合であっても、意思疎通が成功する様式が残存していき、意思疎通が失敗する用法は淘汰されていくことによって、語の識別も可能な形態を持つようになると理屈が立つ。 また現代の英語は形式的な言語として非常に整備されていると説明できるものの、その形式性を古くから強固に持っていたわけではないと考察できる。形式的な文書において、より厳しい環境で活用されることでその運用に耐えうる様式が選抜され、その形式性が強固にされていったと推察できる。 しかし英語はそのように形式性を強めることによって、基本的な言葉のパターン化が強固に進んでいった結果、熟練の話者には「感覚的には聞きとれてしまう」という現象を強めやすいと考察できる。「雰囲気から伝わってしまう状況」が発生し、発音の精確性を求める圧力が低減されてしまうと考えられる。 常用されている自然な英語では、発音の潰れ・崩れが珍しくなく発生し、特に頻出する定型表現部分では著しい「非標準的な発音」を確認することができる。[dunno]のように音が極端に欠落しているにも関わらず、使っている熟練の話者にとってはおおよそ「十分に発音しているつもり」のように使われている。 だが現実的な理解として、明らかに標準性を失った発音である場合、状況文脈に依存せずにその言葉を判別することは不可能である。もしも「英語の一般的な様式としてパターン化されているのだから文脈に依存していない」などのような言い訳をされる場合、あらゆる言語の省略の文脈性も強く軽視できる。

目次  #### 文脈性:蛇足:「ドイツ語」の発音 「会話における形式や作法の重要性」と「発音体系」との関連性において、最も顕著な傾向を観察できる例として、低文脈的な文化の典型とされる「ドイツ語圏」を上げられる。ドイツ語では英語よりもさらに、細かい発音表現を実用しているため、それを克服あるいは補完する作法を重要としていると言える。 ドイツ語は「子細な子音表現」が多い傾向を持つと説明でき、これを区別して発音・聞きとりする必要性があるとされる。また「子音の連続」がかなり多い傾向があり、当然それらも正確に発音することが求められると言える。ちなみに文字と発音の統一性は、英語ほど乖離しているわけではない。 子音表現は実用において、非常に弱い音であると言える。実際の会話の場面では「静寂・近接・明瞭な発声」という理想的な環境とは限らないため、弱い音である子音の発声と聞き取りは、安全性が低いと説明するべきである。そのためドイツ語では特に、子音の発音をハッキリさせるといった作法も見られる。 そして、会話における音の安全性の低さ・非理想的な環境における心理的な不安への対応として生じた傾向が、典型的な「低文脈的な文化」への傾斜だと想定できる。つまり発音における心理的な安全性が低く、一連の言葉から類推的な補完をしやすくするために、明示的な傾向が強まったという推察である。 音が繊細であるほど言葉の認識に不安が生じやすくなり、意思疎通に致命的な問題が生じやすいという認識・社会的な合意が働くことで、その克服に「十分に予測できるだけの言葉が並べられていなければ、そもそも会話のための言葉を発していると認知できる状態にならない」と考えやすいという整理である。 これは日本語との対比としても、日本語の発音体系では原則的に子音の繊細な表現・子音の連続などを不可欠としていない、明晰な音を中心として非理想的な環境でも基本的な言葉が伝わりやすい傾向を持つことで、「会話のための言葉」が成立しやすく、単純な言葉での意思疎通がしやすいと整理できる。 もちろん、文化は言語だけではなく様々な要素が複雑に影響しながら形成されているものであり、言語のみが理由となるものであるとは説明できない。しかし、言語の性質は社会的な要請を形成したり、人々の振舞いの土台として機能する物であるために、その影響は確実に存在すると考えるべきである。 なお「発音の繊細さ」による影響の想定は、ただ「細かい発音の操作」だけで考察されるものではない。この考察は「言葉として認識できるか」という実用上の分かりやすさから想定されるものである。例えば「中国語」もやや細かい発音の操作を必要とすると言えるが、1音ごとの存在感は明確だと言える。

目次  ### 文脈性:英語の表層的な単純性 英語は言語体系の傾向として単語の欠落が難しいため、心理的には単語の欠落よりも「聞き分けやすい言葉遣い」へと省力化が働いていると考察できる。実際に英語は常用される語彙が、頻出語へ極端に偏る傾向があると言われ、主要な語彙数としてもかなり限られている傾向があると説明できる。 データとして必要となる語数そのものは極端に少ないわけではないとされるが、英語は他言語において語の変形などで調整されている表現を、単語を組み合わせて制御して表現する様式を持つ。つまり理論上は常用語が増えるはずと考えられるが、常用する語が極端に多いわけでもないと観察できる。 英語の文化は「分かりやすい表現をする」というより、「分かりやすい表現へ極端に偏る」という文化様式を持つと説明することができる。これは会話における理解可能性を確保している一方で、日常的に使われる言葉が示す意味が抽象的に単純化されやすい状態で、意味の領域が非常に広くなると考察できる。 英語はその言語体系に対する社会的な要請において「言葉は明晰でなければならない」という社会的圧力が生じていると説明できるが、単純な言葉が使いまわされることによって分かりやすい表現をしている場合「言葉として表されている意味の領域が明確だが広くなる」という傾向を持つ考察できる。 つまり英語の日常会話では「言葉として分かりやすいが、その詳細が具体的に設定されていない」という状態が発生しやすいと考察できる。それは、表層的な意思疎通においては十分な情報量だと考えられるものの、より詳細な意味を読み取るためには深い洞察、「高文脈な認知」は要求されると考えられる。 最も典型的な例として[(I) love you.]という言葉も、その詳細な意味や程度が必ずしも一意であるとは断言できない。心理的にとても大切であるという意図は同じでも、「自分の命よりも大切であると断言できる」という強さから、「[I Like you]に近いがそれよりは強い」という程度の違いはありえる。 もちろん、より具体的な程度を表現したい場合には、言葉を増やしてより詳しい表明が行われると説明できる。しかし、そうした具体化の文化はあらゆる文化において共通する作法であり、基礎的な表現において具体性が緩いのであれば英語の日常的な表現が詳細に明晰であると説明することはできない。 この表現の単純性に対する具体的な意味の洞察の必要性は、他の頻出語の運用においても発生していると推測できる。母語話者はその推測に慣れていることで瞬間的な判別ができるため「明晰性が高い」と思い込みやすいと説明できるが、実際の運用は英語でも結局、相当に文脈依存性はあると考察できる。

目次  #### 文脈性:定型表現と繊細さの欠落 英語では限られた単語からの表現性の確保のために、細かい語の組み合わせによる慣用句やイディオムを含む「定型表現」を広く持つ。慣れた母語話者はこうした表現によって分かりやすく伝えているつもりになるが、しかし定型表現もイディオムなどでは「定型表現であるかどうか」の判別は必要である。 また定型表現とは、汎用性が高い一方で「詳細性」は欠如しやすい表現方法であると説明できる。言語の運用として広く使いやすいために定型表現として定着するものであり、詳細性が具体的過ぎると汎用性が弱いために使われにくく、あるいは詳細性が欠落して汎用的に使われるものであると整理できる。 母語話者たちにとっては表面上とても整理されていて、分かりやすく明快な傾向を持つかのように思われるが、それは「世界を単純化することで成立させている明快さである」とも考えられる。つまり基本的な表現において、具体的な形の認識を切り落とすことで、成立させている単純さだろうと考察できる。 英語文化は明晰な詳細性で構成されているのではなく、明確に表明できる表現のみが許されるているだけである。英語の明晰性とは、人間が容易に明晰な思考や表現できるよう、詳細に整備されているのではなく、原則的に「明確化できる範囲ばかりを受容している」だけの限定した形式性だと考察できる。 そうした英語文化のような言葉の単純化や明確化の傾向は、表層的な意思疎通の効率性を確保していると説明されやすいが、必ずしも人間性を保障するものではないと説明しなければならない。機械的な合理性においては単純化してしまった方が扱いやすいとは評せるが、それは限定化による合理性である。 英語はその形式性の強さによって、表現において子細な感覚性が、基本的には許されていない。詩的表現や文学的表現であれば非形式的な表現が可能な場合はあるものの、極めて限定的で特殊な場面でしか許されていない。表現において、人間的な子細な感覚性が、極めて制限されやすいと説明できる。 しかし特に人間の心理状態などは「規定された意味と規定された形式の中の規定された表現性」のみによって表現することはできるとは限らず、「言語化できない」ということは珍しくもない。だが英語は人間にとって「言葉を読み取って理解することに精一杯」であり、形式性に依存せざるを得ないと言える。 つまり英語における明晰性の文化とは事実上、人間的な感覚性の繊細な領域を大きく切り落としてしまうことによって成立しているものだと整理することができる。機械的な合理性を説明できても、繊細な部分を表現したり、繊細な部分を読み取るためには極めて高度な文脈的理解が要求されると考察できる。

目次  ### 文脈性:日本語の難解性 注記しておくが、これはあくまでも「英語もまた、暗示的なものを含む文脈へ依存する体系で活用されている」という側面の話であり、日本語の実用における表現の自由度によって生じている難しさが存在しないと説明するものではない。「英語と日本語の差が極限的に大きいとは言えない」という考察である。 日本語は言語体系として「言葉の音の認識性」が非常に高いことで、表現の自由さが著しく広い。もちろん同音異義語などの問題はあるものの、どのような言葉であるのかが、素直に伝達されやすい。また日本語文化では、聞き取りが難しい場合においても、「音を再現して聞き返す」ということがしやすい。 音の明晰さによって言葉の運用における心理的な安全性が非常に高く、また純粋な補助語によって文章構造を形成できる高い柔軟性と強靭さを持った文法法則を持っていることで、言語文化において自由な言葉の使い方を許容することができている。日本語も、広く高度な文化的運用が実用されている。 また日本語は「多数の方言が、標準語と併用されながら併存している」という文化環境を持っており、日常的な会話においては、語感の良さなどから他方の方言を用いて話すことも珍しくない。標準的な日本語の学習だけではより広い領域の日本語を扱えるようにはならない、深い文化性を持つ。 特に日本語は標準語の統一的な教育を実現し、ほぼ全国民が標準語の理解に困りにくい社会となっているが、日本という地域が言語において元々統一性が強かったわけではなく、現代でも「標準語の整備と学習が無ければ、別の言語として区別しうるほどの強烈な方言」の実在を確認できる国である。 それは日本列島の沖縄諸島や北海道などにいた地元民族の地元言語の話だけではなく、日本列島の本州から九州まででも地域ごとの方言があり、中でも多彩な人々の往来が多い都市部からは離れた地域の、本州東北地方や九州南部などの強烈な方言は著しく標準性が薄く、他地域の人には理解が困難である。 標準語の整備と教育が普及するまでは相互理解に不便していたほど、著しい方言の痕跡が現存しており、日本は言語的な多様性が深い歴史を持っていると言える。日本語は、そうした極めて地域性が深い環境で整備された言語であり、「別言語の出自を持つ話者の許容性」が機能的に著しく広いと考察できる。 つまり日本語は「異なる言語性を持った人々が共存することを可能とする言語体系」であると説明できる。しかし言語機能として非常に深い許容性を持つ言語構造の柔軟性と強靭さが支える表現力の広さによって、あまりにも多彩な表現が許容されており、それが日本語の難しさにもなっていると説明できる。

目次  #### 文脈性:表現力と翻訳困難性 日本語は極めて広い表現力を持っているために、特に英語ではそれを端的に翻訳することが困難であったり、あるいは制限されるような表現が非常に多い。軽い方言的な表現による印象の違いの翻訳は特に難しく、どうしても表現するとなると英語側の極端な方言的表現を強引に活用しなければならない。 それも日本語の方言とは、発音の癖だけではなく「文章構造は近いことが多いものの、多くの語がかなり別物に変化する」という、言語として理解を困難としやすいと言えるほどの違いを持ちながら、日本語では「言語の変化」ではなく「表現の変化」とされやすく、また多くの方言的表現が親しまれている。 また日本語では「言葉遣いによって表される印象の違い」という領域が単語の意味だけではない言語情報として広く存在し、それを柔軟に活用する文化を持っている。単純な話として、日本語の持つ多彩な一人称[私/俺/僕/自分/うち/我/儂]etc.によって表現される違いを、他言語では端的に表現しづらい。 英語文化でも「カジュアルで雑な口語」「標準的で丁寧な話し言葉」「形式性の強い表現」などの表現傾向の違いは存在するが、日本語文化ではさらに細かい表現方法が存在する。カジュアルな口語だけをとっても軽薄な表現や威圧的な表現、かわいい表現などが言葉の印象の違いによっても表される。 丁寧な表現においても日本語では敬語において丁寧語/尊敬語/謙譲語という表現階層が存在するが、英語の表現力で表現することは難しく、主に分かりやすい表現と迂遠な表現で切り分けることくらいであると説明できる。日本語からの翻訳では、子細な「人物像の表現」が著しく損なわれやすいと言える。 日本語文化ではそうした「言葉の印象」や、それを作り出す「語感」に対する繊細で豊かな感受性が存在すると説明できる。日本語では「語感・発声した時の感触や音声を聞いた時の感触」が、言語において非常に重要な要素となっており、特に芸術的領域、作品における言語表現では著しい表現の幅が現れる。 もちろん「語感」の良さを大切にする文化は多くの言語において存在する。言語は人間が使うものであるため、人間的な感覚性の心地良さが好まれることはおおよそ世界共通だろうと考察できる。しかし中でも日本語は言語構造の柔軟性と強靭さによる自由度から、語感を追究できる言語体系を持っている。 日本語において芸術的領域の言語表現では「言葉の印象」を組み立てることが非常に重要な要素であり、文字表現であれば多系統の文字体系から複層的にその印象を制御することが許されている。その日本語の表現性を他言語で端的に再現することは困難を極め、重要な印象が損なわれる翻訳は多いと言える。

目次  #### 文脈性:印象という情報 「印象の領域を言葉の意味に含めるかどうか」は、一般的な辞書において細かい表現の性質はあまり扱われにくいために、浅学な人ほど「言葉の意味としては存在していない」と誤認しやすいと言える。だがしかし「言葉によって伝わりうる情報」という観点で、印象は重要な言葉の要素の一つだと説明できる。 言語の本質において、言葉は表層的な意味のみを伝えるものではなく、言葉の持つ立場もまた重要な情報になると説明されるべきである。それは日本語に限らず、特にたとえ英語であったとしても、同じ意図や意味を表現していたとしても表現の形によってその社会的印象は変化しうるものである。 人間的な言語の自然な法則性として、言葉には「その言葉が示している要素の意味・辞書的な意味」以外にも、人間が感じ取る「その言葉が使われてる状況・環境・歴史などによって生じる、語としての印象」は回避されない。それもまた「言葉の意味」として機能していると説明するべきである。 例えば英語表現において静かにしてほしい場合、[Shut up!]が最も端的かつ暴力的な表現であり、[Please be quiet.]が一般的な表現であり、さらに丁寧になれば[Would you mind keeping it down a bit?]になったり、格式のある表現では[Silence, Please.][Kindly observe silence.]などの形になる。 表層的な意味において「相手に黙ってもらいたい」という意図を伝えるだけであれば、その意味が十分に共有されている[Shut up.]だけでも全ての場面が網羅されるはずであり、それ以外は余計な語彙だと位置づけることも可能である。しかし実際は[Be quiet][keep in down][silence]などの語を使い分ける。 日本語文化においては、日本語の持つ表現力が非常に広いために、そうした言い回しの違いによって「言葉の印象」をより細緻に構成することを可能としており、そして実際に「言葉の印象」を細かく調整する文化が形成されているだけであると説明できる。その表現の「情報量」の評価は著しく偏りやすい。 つまり、言語に対する解釈として「言葉の持つ印象という観念は、明示されていない」と解釈されやすいと説明できるが、実用的な言語の実態として「言葉の持つ印象は、言葉として明示されている」とも説明できるものであり、それが相手へ伝わるのであれば「その情報を伝達している」と説明できる。 理屈として、印象を繊細に制御して活用されているという実態は、それだけ言葉に持たされている情報量が多いと説明できる。翻訳的な単純化によって表面上「低密度な情報量」のように見える場合でも、言語体系に根付いている意味があれば「より高密度の明示的な意思疎通を実施している」と説明できる。

目次  #### 文脈性:情報量という観点 日本語は歴史的な背景から見ても「会話」の言語体系を基盤としている。つまり言語の原始的な役割である「社会的な意思疎通」が、言語における非常に重要な役割であるとして整備されてきた言語だと説明できる。これは、英語などの体系と比較することによって顕著な違いを整理できる。 現代英語は特に、歴史的な背景から「書記」の言語体系を基盤としていると説明されるべきである。記録のための文字表現・書き言葉を整備してきた言語体系を基盤として、話し言葉側を強く調整したと言える経緯を持ち、その結果、会話で使うためには負荷が大きく、無自覚な不自由があると説明できる。 英語では安定させた書記体系を基盤として話し言葉が整備されている関係上、標準的な話し言葉でも比較的均質な表現が中心的に使われているため、話し言葉の中に「社会的な立場に関する情報」が非常に乏しい。極端な言葉遣いの違いが無い場合、相手の社会的な立場を察することは非常に難しい。 しかし実際の社会的な意思疎通において、「相手の立場を認識すること」は非常に重要な要素であり、これが欠如すると社会的な立場を危うくする恐れさえもあると言える。しかし、英語では極端な言葉の違いが表出していなければ、相手の立場を認識するために「言外の情報への洞察」が要求されると言える。 一方で、日本語文化では「言葉遣い」の違いによって、社会的な立場や認識が示されるという言語体系を持っている。これは「言葉として社会的な立場を言い表している」と説明できる様式であり、実際の社会的な意思疎通においても「相手の立場を認識しやすくなる」という情報として機能していると言える。 日本語は多くの言語比較において「情報密度が低い」という傾向を示されやすいが、その比較対象はおおよそ「表層的な意味の翻訳関係によって示される密度」の違いである。「実際の社会的な意思疎通における情報量」という観点においては、かなり高密度な情報を伝えているだろうと考察することができる。 日本語がこのような様式を形成した背景には、単純に日本語の構造性が柔軟かつ強靭で広い表現を許容しやすい形へと整備されていったという機能面だけではなく、日本が歴史上、人の多い地域ほど立場の違いを含む様々な人々との交流が頻出していたと考えられるという文化的歴史から推測することができる。 つまり日本文化では古くから「立場の違う相手との関係を保つための、より丁寧な言葉遣いを求める社会的な要請が強く存在していた」と推測することができ、そうした背景からより繊細に丁寧な表現を実現できる機能性が整備されて「社会的な立場を示す表現」が広く根付いていったと考察できる。

目次  ##### 文脈性:社会的な情報の役割 辞書的な意味の区別を持たない「社会的な立場を示す」ための言語表現が、実際の社会においてどのように働くのかを説明することは難しい。「その人が自分のことをどのように認識しているか、あるいは他者のことをどのように認識しているか」が表明される点は、心理的な安全性に働くものだと説明できる。 つまり丁寧な表現を活用することで「その人が相手のことを尊重する立場であることを表明する」という社会的な関係性が明示された状態になる。実際的な立場関係や内面的な心理状態を表すものではなくとも、表層的には安心感を与え、警戒心を抑制することを期待できる、社会的な役割があると説明できる。 丁寧な表現を必要としない場合は「相手のことを尊重しすぎない、対等な立場であることを表明する」という社会的な関係性の明示になる。これは親しい間柄においては過剰な配慮が不要な親密さを示すものである。他にも、やや乱暴で強い表現を使えば、相手との敵対的意思を明示することになる。 そうした社会的な立場を示す表現そのものは、日本語文化のみに存在するものではない。英語では表現のバリエーションが極端で、標準的な表現を使う範囲が広く「相手を尊重する表現」が使いづらいとは説明できるが、英語文化であっても社会的な情報を示す表現自体は存在していると説明できる。 日本語では「相手のことを尊重する表現」が複数の体系で整備されているほど、言語の中に社会的な情報量を持たせる言語文化を持っている。日本語ではさらに、社会的な情報を示す表現として多彩な一人称によって「自分の立場を示す表現」が常用されている。日本語では「社会的な立場」を知らせやすい。 なお、この表現性を短絡的に「社会階級」の観念へ求めることはあまり適切ではない。他の多くの地域でも「社会階級」は存在していたはずであるが、しかし「微細な敬語の体系化」は珍しい。特に日本の階級意識の根源とされやすい「儒教」の大元の中国大陸地域でも、日本ほどの敬語体系は無いと評せる。 他の強固な社会階級をあった社会において、敬語などの表現体系が発達しているとは言い難い実態から、日本語の細やかな敬語の体系は表層的な社会階級によって整備されたものと説明することは難しい。階級があった多くの地域でも俗語、標準語、丁寧な形式語などの大きな違いばかりであると考察できる。 日本語の持つ細やかな敬語の機能性とは、「規定された階級の尊重」よりも「立場の表明」という役割が大きいと考察できる。つまり階級が明確ではない一般的な範囲では、階級に従って強制されているものではなく、「どのような認識で会話しているのかを表す表現」であると説明することが妥当と言える。

目次  ##### 文脈性:実社会 日本社会は、一般的には規範性やモラルの高い傾向があると評される。地域や場面、小集団などによって細かい例外は考えられるが、一般的な範囲において多くは礼儀正しく、丁寧に接する傾向があると説明されやすい。つまり、おおよそ日本では、高い社会性が育てられやすい傾向を示唆していると言える。 その社会性を支え、育てている要因の一つとして考えられるものが「社会的な情報を明示しやすい言語体系」だと考察できる。単純化して整理するならば「社会的な情報が明示されることで心理的な安全性が高く、余計な警戒心を必要としないことで、円滑な社会環境を助けている側面」などを考えられる。 これは言語的に「標準的には平等な立場を示す言語体系で、表面的に単純な言語体系によって明解な意思疎通を助ける」と想定されやすい英語文化において、必ずしも高い社会性や標準的に円滑な社会環境が実現しているわけではないと説明しなければならないことを考えれば、必要性の方が論じやすい。 「丁寧な言葉を使っているような印象を与える表現」は、誠実さの印象を与える機能があることで、人間にとって警戒心や心理的な負荷を軽減しやすいと考えやすい。そして、そうした表現が言語的に使いやすく整備されていることは、対話においてその効果を活用しやすい機能性を持つと考えられる。 特に日本語は「主要な単語をほぼ変えなくとも、補助的な語の部分を丁寧な表現のためだけの語へ切り替えることで、最低限の丁寧な表現が成立する」という汎用性の高い「丁寧語」の体系が整備されている。例えば[ぶっ飛ばすぞ]という乱暴な言葉も、[ぶっ飛ばしますよ]とするだけで印象が劇的に軟化する。 一方で、英語は言語上で印象を制御する手段が限定的で、使う単語や言葉そのものの切り替えを必要とする場合が多いと言える。言葉遣いとして言語表現を大きく転換させなければ、丁寧な表現を形成できないと説明できる。さらに英語文化では、特に必要な場面でなければ使われにくいと考察できる。 英語文化では丁寧な表現が「特殊な言葉遣い」として目立つ印象を持つため、過剰な丁寧さを感じさせることで、無礼になる危険性もあると説明できる。そのため、日常的な場面では丁寧な言葉遣いが限定的で、この傾向は敬語という細かい調整を必要としない「合理性」とも説明されがちであると言える。 しかし日本語と比較した場合、そうした英語の文化傾向は言語上から「社会的な情報」を入手する手段が限られることを意味する。相手がどのような立場であるのかの推測を、言外から入手しなければならない状況が増えて、社会生活ではむしろ、特に慣れない他者との心理的な安全性が低いとも考察できる。

目次  ##### 文脈性:婉曲表現の法則 なお日本語文化において目立ちやすい傾向として語られる部分に、迂遠な表現・婉曲的な表現を使いがちであることがあげられやすい。しかし、迂遠な表現・婉曲的な表現が増えるという傾向は、世界的に見ても「作法の一種」として確認できるものであり、そうした傾向として説明することができる。 言語における迂遠な表現・婉曲的な表現とは、直接的で露骨な印象を抑えることによって、言語的な暴力性を低減し、相手との摩擦を最小限とするための技法であると説明できる。場を乱さない・調和を重んじるという点で日本文化の説明として非常に都合がいいと言えるが、この技法自体は世界中で見られる。 婉曲的な表現の技法は、特に「不特定多数との協力的な社会関係を必要とする立場や環境」において、不必要な対立を生み出さない効果を期待できる。身内ばかりではなく、部外者との強調も求められやすい立場である「文明社会の上位階級」では普遍的に「穏当な表現」が模索される傾向があると言える。 欧州の上流階級の文化や、他地域でも上位階級の文化領域では、世界的に見ても婉曲的な表現や穏当な表現が好まれる文化が生まれている例があるとされる。つまり、日本における迂遠な表現の文化とはつまり、世界的には一部において求められる文化が、庶民層にも普及し成立している状態だと考察できる。 歴史的な経緯としては、日本社会は古くから社会における人の密度が高く、多くの人が多数の相手との交流が生じやすい環境が存在し、多くの人が他者と関わる際の「礼儀作法」を必要として、そうした文化環境から、言語における社会的な情報の機能性や、敬語などの作法が発達したと推察できる。 現代においては教育の普及による礼儀作法の一般化や、さらに人々の集まる街・都市部における人口密度の増加によって、言語における「衝突を回避するための作法」もまた自然と一般化していったと整理できる。一般的な衝突や対立が回避されることによって、心理的な安全性が支えられていると説明できる。

目次  ##### 文脈性:身内性と婉曲表現の不調和 なお、高文脈的な文化への典型的な理屈として「文化的な環境が安定して、より近しい相手との交流が安定することによって、直接的ではない表現が機能するようになるために、高文脈化が進行する」などと整理される場合もあるが、この理屈では「婉曲的な表現の作法」が実用される理由を説明できない。 信頼関係が万全と思われる相手に対して、余計な表現が求められる社会的な要請は存在しないと考察できる。そうした相手には生じる傾向は「端的な表現」であり、効率化のために、省略的で短いスラング的な表現は形成されやすいと言える一方で、「婉曲的な表現の作法」が生み出される理屈は弱いと言える。 つまり本質的に「身内であれば、無駄の多い表現は必要とされない」と説明しなければならない。むしろ、作法的な表現は「相手に対して特別な配慮を示している」とも説明できる表現であり、身内でありながら距離感を感じさせてしまことになり、結果「身内に対して無礼になることもある」と説明できる。 極端に近い場合はむしろ、言葉遣いは粗雑になっていくものであると説明しやすい。そのため、婉曲的な表現の作法の文化とは「文化的な安定性・身内性」のみによって成立するものではないと説明するべきである。この文化性は「社会的な規範性や品格の感性」などへ求めることがより簡潔に説明しやすい。 婉曲的な表現の作法とは、社会的に配慮を必要とする相手が多い環境であるほど、効果的となっていく作法であると言える。つまり社会的な規範性や、品格といった要素が重要視される環境において、それを乱さないための手法として形成されるものであり、「高度な社会性」を示すものだと整理できる。 もちろん、単純に文化的な前提が不安定な場合は、それを克服するためにより分かりやすい表現が求められるとは想定しやすい。しかしそれは「言語的な社会性の形成が複雑化していない」とも言い換えることができる。特に社会的な立場の観念が希薄な場面では、それを守る必要性がないとも整理できる。 つまりそれは「社会的な立場の形成の前に、意思疎通を成立させなければならないという状況によって、まず直接的で分かりやすい表現を必要とされる」と整理できる範囲であり、文化的な背景によって成立させるためには「文化的に未成熟である」という状況に限定する必要性があると考えやすい。 しかし社会的にも発展して整備されていると評せる社会でも、直接的で分かりやすい表現が好まれる場合も想定できるものであり、当然として、その傾向の全てを社会性の水準へと単純化するべきではない。特に基本的な不安定性の強い言語においては、分かりやすい表現こそが礼儀になることとも考察できる。

目次  ##### 文脈性:配慮の作法 英語文化では、衝突が生まれる状況において相手への配慮を示すには、著しく多くの言葉を尽くして相手の尊重をしていることを示すと考察できる。しかしそれは「社会的な安全を示すためのお世辞」という作法として説明できる。落選の通知などでは[sugarcoating the rejection]と呼ばれる作法がある。 [Sugarcoating]は直訳すれば「砂糖で包む」という意味であり「言葉を甘くして、心理的な衝撃を和らげる」という表現である。落選などでは、まず応募に感謝し、高評価を示しつつ、責任の分散を図りつつ落としてしまうことを明示し、そして相手へのポジティブな期待を示すという作法が典型例と言える。 英語においてこの作法が必要になる理由とは、そもそもとして「英語に、礼儀を示す情報・礼儀のみを示すための語が少ないため、礼儀を示すために実態が空虚だとしても意味のある文章を構築することで、あくまでも社会的に対立するつもりではないことを表明しておく必要性がある」と説明できる。 一方で日本語文化では、基本的な言葉に「礼儀を示す情報」が体系的に整備されており、それによって社会的な立場が明示することができる。そのため「表面上の対立の回避」のために、その礼儀を示す情報によっておおよそ十分な情報が示せるため、礼儀として必要な文言も短く済みやすいと考察できる。 また言語や文化に関係ない礼儀の普遍的な法則として、過剰に言葉や礼儀を尽くしてしまうことはむしろ[慇懃無礼/Overly polite]となり、反対に失礼となってしまう恐れがある。日本語では元々礼儀の情報を入れやすく、それ以上の礼儀を尽くすことは「白々しい言葉」に陥りやすいと考察することができる。

目次  #### 文脈性:日本の多文化性 一つ誤解されやすいところとして、日本地域は全ての地域において均質な文化や均質な言語を持っていたわけではない。近代以降における教育の普及率や、それによる標準語の普及や文字体系の統一性によって、「外界からの影響の少ない安定した社会の中で、表現を広げていった」と解釈されやすい。 しかし実態としては、「外界からの影響による混乱」が生じなかっただけで、社会的には各地域ごとの多様性の広い文化体系が広がっていたと説明できる。言語的にも地域性は強く、現代であっても強烈な方言では主要な言葉が全く違う地域性も確認されており、古くはその方言性が著しかったと考察できる。 言語の傾向として、現代の主な都市部であっても、都市部ごとの方言性が強く根差していると説明することができる。特にいわゆる標準語として整備された東京地方の方言と、長い歴史を持って古くから日本文化の中心地であったと言える関西地方の方言は、今も明らかに違う言葉遣いを確認することができる。 また限定的ではあるが、現代でも人の往来が乏しい地域では地元の方言が保存されていることも多く、そうした方言では標準語からかけ離れた言葉が使われていることを、現代においても確認できる。まして、標準語の教育普及が広がるより前の時代では、方言性はさらに顕著であったと強く推測できる。 地域に根差している強烈な方言では翻訳しなければ理解が不能な、実質的な別言語と言えるほどの独自性が形成されている場合も実在する。少なくとも「日本という地域が広く言語的に均質で安定していた」と説明することは大きく間違いである。またその暮らしぶりにも、地域文化を確認することができる。 また歴史的には、学術的にも別言語体系と位置づけられる言語地域を日本語へと転換させて、言語的な併合を実施した実績を持つ。この歴史的事実はつまり「日本語が元々広まっていたことで広く安定しているのではなく、安定的に教育を広げる機能性を持っていた」と考察することが妥当だと言える。 日本語の分析において、均質な文化の中でシンプルな形から成熟して複雑化していったとする説明は不十分だと言うべきである。日本の言語的な歴史は、むしろ古くから理解不能なほど異なる言語文化との意思疎通の必要性があった地域であり、その文化環境において活用できる形式が求められたと考えやすい。 つまり言語基盤として、古くから狭い1つの地域の範囲内だけで扱えればよかったわけではなく、言語的なズレがあったとしても意思疎通を可能としやすい様式が求められただろうと考察することができる。その社会背景から、単純な発音体系や、強靭な言語構造が整備されていったと整理することができる。

目次  ##### 文脈性:日本語の「省略可能性の保存性」 日本語の標準的な様式は、非常に省略可能性が高いと説明できる。より正確に言えば、日本語における丁寧な表現では、省略することもできるはずの余分な表現を増やして言葉を形成する様式を持っている。日本語では端的に言い表せる表現でも、より細かく具体的に説明できる機能性が強く維持されている。 日本語の表現として[私明日病院](I, Tomorrow, The Hospital.)という語だけでも、[私は明日、病院に行く予定だ](I'm going to the hospital tomorrow.)の意味を示すことができる。これは省略しても意味を読み取れるという側面だけではなく、標準的には多くの言葉を使う様式を持つとも説明できる。 「助詞を多くの場合で省略できる」という機能性は、「省略可能なはずの助詞を多く差し込む」という作法を標準としているとも説明できる。つまり日本語は「省略可能性が高いにも関わらず、標準的には省略をしない体系を整備して、それを維持している」と説明できる言語体系であると整理できる。 言語には「省略可能であれば省略する」という普遍的な法則を、世界的な言語の傾向として確認できる。特に、省略しても困りにくいような部分ほど省略され続けやすく、そのまま自然消滅することも珍しくない。つまり「とても省略されやすいのに維持され続けている状態」は珍しいと考えられる。 推測として「日本語では、日本地域における言語文化の非均質性・煩雑性によって、日本語の言語機能が整備されていったのだろう」という考察は、そうした「省略可能性が高い部分が消失しないまま、省略可能な部分として維持されている言語体系」という様式の理由と合理性をも説明することができる。 日本語文化は日本地域を広く見渡すと、とても煩雑な言語地域と説明しなければならない。多様な言語性を分断せず、相互理解を成立させるためには、極めて柔軟かつ強固な言語構造を維持しなければならない。そうした言語的な煩雑性を受け入れるために「省略可能な部分」が働いているのだと考察できる。 つまり言語的な事情において、多様な言語性を日本語という基盤へと弾力的に受け止めるために、類推可能性が高くとも、確実に類推可能となるとは限らないために、省略可能な部分を消失させることができないのだろうと考えることもできる。実際、日本語は標準的な理解可能性が高く保たれていると言える。 日本地域において、標準語のほぼ全国的な普及を著しく早く成立させたことや、一部地域においては日本語への転換を実現したこともまた、そうした「分かりやすさを成立させやすい言語体系」に支えられたと考察することができる。日本語は「冗長性」によって、総合的な省力を実現していると説明できる。

目次  ##### 文脈性:日本語の言葉遊び なお、より広い範囲においては、日本語の言葉を使った文化こそが、そうした言葉の多様性を保つ主な要因となってきたと考察できる。日本では、日本の言葉を記録した最古の文書『古事記』から、歴史的な記録の連続性を持って現代にまで続いている、言葉を使う芸術的表現の体系を確認することができる。 日本の「和歌」と呼ばれる表現は、非常に古くから存在してた言葉遊びや、言葉による芸術的表現の形態である。その和歌の表現では音の拍を「5拍/7拍」の形式へと合わせて言葉を繋げていく様式を持っており、文化的に「音の数」を数えて並べることが扱われてきた歴史を持っていると説明できる。 「和歌」の表現においては基本法則として、言葉を規定の拍に収めなければならないため、表現において「省略することが可能であり、省略しないことも可能である」という自由度の高い様式が、とても便利な働きをする。1音2音を入れたり抜いたりできるため、決まった拍へと収めやすいのである。 日本語文化では言葉の表現において非常に繊細な違いを言い表す様式が、はるか昔から存在していたと説明することができ、そしてそれが「話し言葉」を展開した言語様式に基づいて使われ続けてきた。「話し言葉の様式」と「芸術的表現の様式」が、相互的な関係を持って長く続いてきた歴史を持つ。 和歌は「歌」という口承的な文化でありながら、日本語では古くから言葉の音の記録を実施され続けており、特に1100年以上も前から和歌の作品集が編纂され、継承されてきた歴史的連続性を持っている。そうした古い表現様式が継承されてきたことで、言語的な連続性もかなり保存されてきたと言える。 日本語は、1000年ほど前から続く話し言葉の文学的な記録の連続性を含め、そうした古来の話し言葉の記録を実現しながらも、しかし「古い文化を固定的に継承する」だけではなく、「歌」という生きた芸術表現のために新たなる表現も試みられ続け、新しい表現もまた同列に記録し継承してきたと説明できる。 多くの言語において「書き言葉」と「話し言葉」が、元々乖離していることや、時代を経てやがて乖離していくということも多く、情報としての記録的な連続性や保存性が確保されていたとしても、表現における文化的な連続性と発展性をどちらも十分に両立して維持し続けていることは稀であると考察できる。 ちなみに日本国の国歌に制定されている歌の歌詞は、1100年以上も前に記録された歌が大本となって歌い継がれてきた和歌が元となっている。現代の日本国歌の歌詞と当初の記録とはわずかに異なるがおおよそは同じで、それほど古くから歌い継がれ続けてきた、長い歴史を持つ和歌であると説明できる。

目次  ##### 文脈性:「省略されない冗長性」 繰り返しになるが、自然言語における普遍的な法則として「省略可能であれば省略する・省略しても困りにくい部分は省略されやすい」といった傾向があり、必要とされない場合、言語表現においてはやがて消失してしまうこともあると説明できる。自然言語では「省力化」することが普遍的な傾向だと言える。 そのため言語はおおよそ「最小限の妥当な様式へと着地しやすい」と整理できるが、日本語における語彙には、その法則性に反するかのような煩雑さを持つ。特に、日本語の丁寧な表現として存在する「丁寧さを表現するためだけに付け加えられる表現語」は、非常に特殊な表現領域だと説明できる。 日本語においては[-です/-ます]とそこに付随する、[-ございます/-いたします]などの丁寧な語の表現が維持され続けている。英語を含む他言語において、丁寧な表現とは文法の整頓と主要素とする単語の選び方によって表現される場合が多い傾向があると言えるが、日本語では加えて専用の付随語を使う。 敬語や丁寧な言葉遣いの領域は、他言語への翻訳的な意味においても欠落してしまいがちな情報であり、会話における本質的な情報を持たない表現語であり、情報伝達という点において削減したとしても問題が無い領域と言える。そのように説明できるため、その必要性を理解することは難しいと言える。 しかし「礼儀の表明が、社会的な最小限の範囲に含まれている」と定義することで、日本語の丁寧な言葉遣いのためだけに使われている付随語の系統が維持されている理屈も自然と成立する。つまり日本文化では「礼儀を持つ必要性の高い社会環境」が一般的と言えるほど広まっていると整理することができる。 他の高度な社会文化の高い社会性が求められる環境においても、礼儀を示すための表現語が必要とされており、そうした表現法が形成され、維持され続けている。日本文化ではそうした社会性の傾向が一般的と言えるほど広まっているため、言語文化として大きく根付いていることを説明することができる。 日本社会は、人の多い場所であれば顕著に不特定多数との対面を当然とする機会があり、立場の違う人たちが集まることも多く、加えて庶民を含めて広く教育が普及していること、そして言語的な表現力の許容量の深さなどの様々な要因が複合して、作法の文化が非常に広く普及していると考察できる。 丁寧な言葉遣いなどの言葉における「社会的な情報」とは、実社会において、相手の情報や印象の手掛かりとして極めて重要な役割を持つと説明できる。本質的な意味を左右するものではないが、「会話において必然的に存在する人間関係」という部分において、とても合理的な効果のある表現だと説明できる。

目次  ###### 文脈性:社会的情報の明示 日本語の機能性と比して、丁寧語の乏しい他言語では「社会的な情報」を言外から入手しなければならないと説明できる。言語上の社会的な情報が乏しい場合、相手がどのような意図や立場で発言をしているのかを、言葉ではなく「相手の態度を観察すること」によって理解する必要性が強くなると考察できる。 社会的な情報が乏しいほど、実際はより注意深く相手を観察しなければならない。社会的な情報において「高文脈的」な作法を強いられると説明できる。相手の社会的な立場の判断が難しい場合、慣れない相手との関係では標準的な警戒心を高める必要性があると説明でき、心理的負担が存在すると推察できる。 つまり「細かい丁寧な言葉遣いを必要しない言語体系の方が、言葉遣いも単純で簡単になり、分かりやすくなることで省力的であるはず」という推測は、「自然言語の社会における実用」の観点では成立していないと整理できる。円滑な関係性を保つための手段が限られると負担はむしろ増えると説明できる。 日本語文化では、丁寧な言葉遣いなどの社会的な情報を明示するための表現方法を言語体系へと細かく組み込むことによって、会話の中において自然と社会的な立場を示すことができる言語文化が形成されていると言える。言葉から相手の立場が認識できることで、心理的な負担が軽減されていると整理できる。 そして実態として日本社会は高い社会性を持った文化であると評されやすい傾向を形成しており、広範囲においておおよそ円滑な社会環境が成立しやすい文化を持っていると説明することができる。より厳密な運用においては繊細な文化を持つと説明するべきであるが、一般的な心理的な安全性が高いと評せる。 日本語の表現文化では、世界的に上流階級や知識階級において見られやすい婉曲的な表現文化も多く、いわば「一般庶民を含む多くの人が、上流階級に近い立ち振る舞いを教育されていることで活用されている」と表現することができ、その「高貴さ」が社会の円滑さを支えていると評することもできる。 日本語の丁寧語などの文化は、他の言語文化と比較すると翻訳的に欠落しやすい情報であり、実態として本質的な情報を持たないため、まるで無意味な表現とも認識されてしまいやすいと言える。だが、それは意味のための文語的な必然ではなく、「社会文化における必然として形成されている」と説明できる。

目次  ### 文脈性:省略と省力 日本語と対照的な方向性を持つ言語が、英語である。日本語は無駄が多いとも見える長大さを維持することによって、実際的な省力を実現していると説明できるのに対して、英語は無駄な部分を極力省略できるような体系へと整理することによって、言語整理の省力化を目指したと考察することができる。 表面的な数値のデータとして常用される英単語は非常に限定することを実現しており、また細かい変形法則を大きく単純化していることで、単語の文字列や発音を可能な限り単純な形や分かりやすい様式で構成されるように整備され、大部分において語の使い方の単純化が目指されていると説明できる。 英語の最大の特徴として、言葉の立場関係を語順によって制御する様式に整理してしまうことで、言葉に対して立場関係を規定するための様式を大きく省略してしまうことを実現している。言葉を付随させずとも、言葉が配置されている場所によって、どのような立場の語であるのかを識別できるようにした。 そうした強い形式性によって、より単純な言葉の使い方であっても、広い意味を形成しやすい様式を実現し、表面的な理想において「明解な法則性に従い、統制された明解な言葉を並べることによって、誰でも明解な文章を構成することができる」という言語体系が構築されていったと説明することはできる。 しかし英語の実態は、母語話者であっても理解するための深い努力が要求されると説明できる。構成される単語は削減されている一方で、言葉の組み合わせ方によって非常に多彩な意味が表現されるために、単語単体の意味だけを覚えても不十分で、実用される表現への理解を深める必要性は大差無く存在する。 また文章構造そのものが語の意味を規定するために、言葉の意味を文章構造とセットで把握する必要性がしばしば生じる。これは文章構成をする際にも、言葉の意味がブレてしまわないように、正しく伝えるための注意しながら言葉を構成する必要性があると説明できる。英語は「不成立」という状況も広い。 英語は特に日常的な言語運用について、その実態として、省力化ができているかは疑わしいと説明しなければならない。英語において最も省力化を実現できている部分があるとすれば、それは「分かっている文字列を書く時の作業量」であると考えられる。ただしそれは、分かっている範囲に限定される。 英語は発音から精確な文字列を確実に記すことはできず、文字列から精確な発音を確実に発声することもできない、字と音の不一致という事情を抱えていることで、その点においても実際的な省力化を実現できていない。英語も結局は、言語理解のための深い努力によって成立している言語であると説明できる。

目次  ### 文脈性:言語文化としての文脈依存性 「高文脈文化・低文脈文化」という観念への整理しておくと、一般論において「文化的な均質性を持った、歴史的な文化背景によって文脈性は高くなる」「異文化の流入が多い文化地域においては文脈性は低くなりやすい」という理屈を持ち出されがちであるが、言語的な理解においては遠回り過ぎると言える。 また大本の言説への検証研究が進められても、文化的な傾向として言説の正しさの確証は形成されず、実証的には強く不確実と示されている。一方で、言語の傾向とその使われ方を観察すると「言語の暗示性・明示性の傾向」は、もっと単純に「言葉としての伝わりやすさ」が大きく関わると強く推定しやすい。 単純な理屈として「特に口語において、言葉が伝わりやすいという心理的な安全性があれば、必要となる言葉の総量も削減されやすい。反対に、言葉が伝わりにくい・言葉として伝わりにくい・情報伝達の条件が厳しい場合には、言葉を明晰に伝える必要があるため言葉の明示性を強めやすい」と整理できる。 「言葉の伝わりやすさ」は大きく「社会における言語的かつ教育的な一般性」と「言語体系そのものの構造的・性質的な性質」によって変化すると整理できる。確かに「一般性」に強く注目すると「標準的な言語教育が普及した環境」つまり「社会的に安定した地域」が、言葉の伝わりやすさを上げると言える。 しかし「言語体系の性質」はもっと直接的な影響を及ぼす。例えば英語は「単語の多義性などから、十分な1文を構成しなければ言葉の意味が成立しない・定まらない場合が多く、省略すると言葉として伝わらなくなる問題があり、標準的な省略性が著しく制限されて、明示性が目立つ」と考察できる。 だが実際の英語文化では「言葉として十分に伝わるのであれば、省略的でも良い」という言語的な傾斜も存在しており、省略によって標準的な英文としての意味の復元は困難・不可能とも言えるようなフレーズが、文化的に共有されることで一般的に広く実用されているという傾向も実態として見られる。 注記しておくが、これらはあくまでも代表的かつ典型的な言語の概要のみを分析したことによって考察することのできる傾向を生みだす要因の一種についての理屈である。この理論が本当に普遍的であるのかの確証を得るためには、その他の言語にどの性質と傾向が観察されるのかの分析・研究を必要とする。

目次  #### 文脈性:発音の分かりやすさ 英語文化はそもそも、派生的な言説では代表的な低文脈寄りの言語文化として説明されやすいが、大本の言説において典型的として説明されたわけではない。大本の言説で典型的な低文脈型とされた言語例は「ドイツ語文化」であり、ドイツ語の性質では「聞き取りに不安が生じる」という傾向を説明できる。 ドイツ語は特に「子音表現」が繊細で多く、「子音の連続」も多く使われている。ドイツ語では子音を強調する傾向はあるが、物理的に子音自体が発声を強くしづらい傾向がある。他にも繊細な発音要素があり、総合的に「聞き取りに不安が生じる」と言える傾向から、明示性を強める傾向を想定しやすい。 人体は、音の詳細を完全に認識できていない状態でも、音の連続性や話の文脈性から「言葉を聞き取ること」ができるため、明示性が強いほど発音の聞き取りが不十分でも認識しやすくなると言える。言葉を増やすことで、発音と聞きとりの不安定さを、実用において克服していると考察することができる。 英語においても標準的には細かい音を聞きとる必要性があるため、「高い形式性から想定される言葉を限定する様式」によって聞きとりの補助をしていると考察できる。また発音や聞きとりが難しい文化では、基礎的な言葉の教育においても、その標準性や形式性を強める傾向が強めやすいと想定できる。 反対に、大本の言説で典型的な高文脈文化とされた日本語では、それらから最も対極的な言語の傾向を持つと説明できる。まず語彙体系や言葉の操作の広さから「言葉の意味が比較的安定して狭く、細かい表現から十分な意図を理解しやすい」という、言葉として伝わりやすい言語体系を持っていると言える。 言語体系が法則的で安定した形式を持っているため、省略された単純な言葉に対しても言語法則において最も単純な意味が示されていることを理解しやすい。さらに発音体系が非常に単純化されており、特に子音のみの発音を不可欠としていないなど、発音と聞きとりの不安が非常に低いと整理できる。 こうした言語体系から、日本語は「省略したとしても、標準的な範囲において意味が伝わりやすい」という傾向が形成されやすいと考察することができる。一応、日本社会が日本語教育の普及も進み、文化的知識の普及率・共通性が高いことも一因と言えるが、それもまた言語体系に支えられていると言える。 注記として、その他の言語についての分析は不十分であるが、この観点において重要なのは「発音の繊細さ」という点は要因であって、重要となるのは「言葉の認識のしやすさ」である。中国語のように、発音の細かい操作が必要な言語でも、言葉の認識自体はしやすい傾向を持つと整理できる。

目次  #### 文脈性:婉曲的表現と社会性 また高文脈的であると説明されいやすい「婉曲的な表現文化」という要素については、言語的な傾向よりも「社会的な安定性」が影響を及ぼしやすいと想定できるものの、実用において婉曲的な表現が使われる場面を詳細に考えるならば、大きく「スラング」と「礼儀作法」の2分類を必要とすると考察できる。 「スラング・狭い共通認識に基づく直感的で端的な意思疎通のための表現」が発生する場面は、身内という社会的な安定性・局所性によって成立するものであり、確かにこれは文化的な安定性によって出現しやすいと整理できるが、これが表出する状況とは「極めて小さい環境」に限定されると考察できる。 それは自然言語の普遍的な法則として省力化の傾向が見られるものであり、特定の文化体系を共有できる日常に根差した小規模な集団の範囲であれば、どのような言語であっても「端的な表現」の傾向自体は出現すると考えやすい。つまり、小さい範囲なら言語体系に関係なくスラングは生まれると言える。 「言葉の礼儀作法・社会的な関係性を想定した人間的に低負荷となる円滑な意思疎通のための表現」が発生する場面とは、一転して、親しい仲間以外において社会的な関係性を保全するために成立するものであると説明でき、これは文化の安定性より、人々の社会性に大きく起因すると考察できる。 表層的には社会文化の安定によって迂遠な表現が頻出するようになるという理屈を考えやすいが、礼儀作法の実用には社会性を要求される状況と、その作法を学ベる環境が必要である。つまり安定した文化圏でも、不特定な相手に対する社会性の経験が浅い場合には、作法の形成は弱まると推察できる。 世界的な傾向としても、礼儀作法としての婉曲的な表現は、特に社会的な地位の高い・上流階級的な作法として見られやすいと言える。これは、社会的な立ち立場からより広い範囲の相手との交流が必要となる環境があり、また礼儀を学ぶ機会も得やすいことによって形成されていると整理できる。 特に、社会的な立場が大きい環境では「対立を不用意に引き起こして、敵対者を作ってしまうと致命的な問題を引き起こす恐れがある」という事情があると説明できる。礼儀作法は文化的な安定によって形成されると見えるが、むしろ相手との関係性が不安定な状況において重要となるものであると整理できる。

目次  ##### 文脈性:「高貴さの一般化」 礼儀作法としての婉曲的な表現法とは「敵対的な意思として受け取られる危険性を回避するための処世術」であると説明できる。そして、そうした処世術とは社会制度や社会体制が安定し活発化すると、上流階級に限定されるものではなくなり、庶民においても人間関係の調整と無関係ではなくなると言える。 社会が発展するほど人の流動性が高くなりやすいと想定でき、庶民を含めてより多くの人が不特定な相手との意思疎通をしなければならない社会になる。またその中において教育体制なども整備されることで、基礎的な教養として礼儀作法もまた教育されていきやすく、一般化していくと説明できる。 もちろん、不特定な相手との意思疎通でも、必要となる意図を伝えなければならないために、「意図の明晰さ」も重要となる。会話における「対立の回避」と「意図の明瞭さ」は緊張関係を持つと考察することができる。そして、この緊張関係もまた、言語的な性質が大きく関わると考察するべきである。 言語的な性質から表現の変形は限定されてしまう場合もある。表現の形式性が著しく固いと表現を変化させて調整する余地も限定され、礼儀作法のための社会的な調整も難しいと想定できる。これにより社会規模や教育において高度に発展した社会であっても、明晰さを保つ場合もあると整理できる。 社会一般において礼儀作法による婉曲的な表現法が見られやすい社会環境はいわば「高貴さの一般化」とも表現することもできる。しかし言語的な事情から表現の変形が難しい場合もあり、そうした環境では明晰さもまた「実直さ」という観点を礼儀とする言語文化もあると肯定的に整理することができる。 このように整理することよって、「言語の使い方に関する文化的な傾向」という言語的な性質が極めて大きく関わるはずの領域を、言語的な性質を度外視した「社会文化的な背景」のみによって考察することは、世界を著しく単純化してその本質を見誤った分析に陥ってしまいやすいと評することができる。

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目次  ## 普遍性:普遍的問題の区別 なお、言語が関わる細かい社会的な問題などは、言語の問題と同一視しやすいが、必ずしも特定言語の問題と言えるわけではない。そうした問題は、本質的には言語のみに由来するものではなかったり、言語として普遍的な問題であったり、人間的な限界に由来する問題であったりすると考察できる。 基本的な語彙が単純であっても、社会において必要とされる表現の総量はその社会文化の詳細さに応じて高まるものであり、詳細な語彙や表現が増えていくことは避けられない。社会的な要請によって言語は詳細化・複雑化してしまうものであり、言語において難しい部分が生じてしまうことは必然だと言える。 特に高度な文明ほど、その社会的な要請によって、言葉の長大化や文字の複雑化、意味の多重化などは進んでしまうものだと言える。言語文明は、詳細な観念や複雑な概念に対して、うまく整理して、社会的に活用できるようにしなければならない。これはあらゆる言語においても、同様の課題を持つと言える。 また特に高度な言論における言語の使い方・高度な知識分野における論理的な文書などが、難しくなってしまうこともまた、自然な現象であると説明するべきである。しかし一方で、日常的な会話などに使われる言語の使い方では、慎重さよりも瞬発性が求められるものであり、使いやすさも同時に求められる。 人類文明は旧来、知識をまとめるための言語と日常で使うための言語を区別して扱ってしまうことで、相反する社会的な要請の衝突を回避していたが、感覚的な連続性を確保することによって知識の普及や整備を効率化するために、言文一致による統合が進められた言語も多く、そのジレンマを抱えている。 言文一致は、少なからずジレンマを抱えることになるが、しかし統一的な言語体系を整備することによって、言語性の共通化から教育の効率化や安定化を進ませやすく、それによって知識の普及も進ませやすくなり、より効果的に社会活動を活性化させるという社会的な要請に基づいて整備されたと考察できる。 言語の問題には、自然言語の普遍的な法則によって、どの言語においても避けられない問題があり、人類は言語に対して、少なからずのジレンマを抱えながら活用していかなければならないのだと説明できる。またジレンマを抱えたとしても、自然言語は実用において十分使える形で落ち着くのである。 言語において特有の、不合理性・不効率性を抱えていても、実用において使えてしまう限りはそのまま使われてしまいやすいものでもある。特に言語とは「社会的な合意に基づく共通認識によって実用される」と説明できるものであり、合意が無ければ改善することもできないこともまた、言語の法則と言える。

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目次  ## 蛇足:日本の歴史 現代日本の世界に伍する豊かさを観察して、日本列島が恵まれた地域であると考察することはあまり適切であるとは言えない。また現代日本の社会の驚異的な安定性を観察して、日本という地域が古くから社会的に安定した発展を続けてきた地域であると考察することも、あまり適切であるとは言えない。 日本が基礎言語を統一して、著しい教育普及率を実現し、また高度な文明社会を形成し、技術分野においても活用することのできる知識体系を、日本語によって形成しているという事実は、日本という地域が歴史的に不便も無く、温室のような平和な環境で育っていったようなことを意味しない。 そもそも人類の文化を観察するのであれば、社会の高度な発展とは「克服」によって導かれたものであると説明しなければならない。近世においては当時、高度な社会を持つ国家が「雪を伴う厳しい冬季」のある環境で、都市と雪の組み合わせが高度な文明の象徴として見られたことさえもあると観察できる。 実態として、人類文明の近代化は赤道から大きく離れながら集団で生活可能と言える範囲から急速に進んでいき、世界を大きく変えてしまった一方で、平和で食って暮らしていくことに困らない地域では社会や国家が形成されても文明技術の水準は停滞しやすく、自力での発展には限度があったと説明しやすい。 日本地域もまた、その実態は非常に過酷な自然環境を持つ地域だと説明するべきである。自然環境の長所として「自然が豊富」「水資源が豊富」という部分においては確かに豊かだと評せるが、しかし「整備せずに使える土地が狭い」また「洪水などの水害も多い」という難点を持ち、干ばつも度々ある。 日本は古来から土地の開墾や整備を進め、また治水整備を行い、人の住むことのできる地域を人の力によって整備してきた。農耕においても、決して元々豊かであった環境であるとは説明できず、大規模な墾田や土壌改良、農作物の探究を進めてきた。歴史的には甚大な飢饉さえも度々経験している。 補足しておくならば、現代で世界中の多くの人が定住している都市の中で、最も積雪量の多い都市の上位には日本の地方都市が並んでいる。また現代では珍しいが、日本の大都市圏においても稀に雪が見られるほど、日本の主な地域は冬の寒さへの対策・冬の備えを必要とする地域であると説明できる。 つまり日本は生きていくことが可能であるとしても、何の対策や備えも無いままに生きていけるほど優しい自然環境ではないことを示せる。さらに夏場には十分温かいことによって疫病の問題も大きく併存しており、日本地域は「協力した社会を形成しなければ、存続することが難しい」とさえ説明できる。

目次  ### 蛇足:歴史:日本の歴史的な不安定さと社会性 日本地域は極東の島国であり、外界からの侵入が難しい分「外界からの影響が少なかったことで、安定した社会を形成することができた」と説明されるが、歴史的に何の驚異も無かったわけではない。特に「元寇・蒙古襲来」では、当時世界最大規模の大艦隊による侵攻があったとされる。 「元寇」は大きく2度に渡って行われた計画的かつ大規模侵攻であり、1度目の侵攻が失敗したことで、さらに大規模な戦力を動員した2度目の侵攻が実施されたが、日本地域は武力によってこれを撃退した。その勝利には侵攻の不慣れも多かったとも推察できるが、強固な軍事力を持っていたと説明できる。 また日本地域内に限っても、比較的平穏な社会環境が広域で長く持続した時代は近世、江戸時代くらいであり、その地域統一までには戦乱の絶えない不安定な地域であったと説明しやすい。だが日本地域は生きていくために社会を必要としたため、武士には高い社会性が求められたと考察できる。 日本の中世と言える戦国時代では非常に広い地域において戦乱が長く続いていたと説明できるが、一方で当時の指導者・支配層であった武将たちには「戦闘を継続的に実行できる武力」と「武力を維持できるだけの社会」を形成できる実務能力が不可欠であり、また「味方を作る力」がその命運を左右した。 戦乱の中でこそ日本地域の社会性はむしろ極まっていったとも考えられ「文化的で社会的な対人的技能によって最も多くの味方を作り、最大規模の陣営を形成してみせた武将」が天下統一を大きく導き、戦国を生き抜いてきた武士たちはその社会性で平和の時代へと貢献することとなったと考察できる。 日本語文化はそうした歴史の中で「意思疎通をするために不可欠な共通言語」という性格を強めていたとも考察できる。日本は歴史的に、文書での交流も非常に活発であり、戦国の時代や前後の時代においても、意思疎通のための言葉を使えることが武士が生き残るために重要な技能であったと整理できる。 またこれは高度な知識層同士だけの話ではなく、地域社会との交流においても、意思疎通は死活問題となったと考察できる。武将にとっては領地運営ができなければ領地を守ることすらままならないという問題があり、また場合によっては見知らぬ土地を任されることさえもあったと整理できる。

目次  ### 蛇足:歴史:日本の言語の歴史的な経緯 日本では現代でも多くの方言が確認できるように、言語的には多様な地域であったと説明することができ、古来から日本語の体系とその文書体系とはただ「知識や情報をまとめるための言語体系」だけではなく、「日本地域おけるリンガ・フランカ(共通言語)」としても重要だったと考察することができる。 現代に続く日本語の体系は、旧来の支配層や知識層によって整理されたものが文化的かつ実務的な技能として広く共有されたことを始まりとして、それを武士や知識層が学び、また多くの環境で実用し続けられることで整備も進み、武士を含む知識層によって広い地域へと普及していったと説明できる。 日本の武士とは武力だけでなく、人徳や技能を含む総合的な実力が必要な立場であり、日本語の体系はそれを実務的にも知識的にも支えたと言える。江戸時代が進むと、そうして広がっていた知識層によって教育施設が整備され、制度化されるよりも前から庶民を学ぶことがしやすくなったと整理できる。 日本語の言語体系とは、そのような歴史的経緯によって記録と連続性を持って使われ続け、より高度に整備されていったと考察することができる。そして、近代化において関東江戸地域の一方言を「標準語」の基盤として定めて整備を実施し、標準語の教育を広め、言語的な統一性を高めていったと整理できる。 日本語が、話し言葉を基盤とした言文一致を実施したことは、そういった歴史的背景の強さからも考察することができる。日本地域にとって言語の目的とは「意思疎通をすること」であって、高度な知識体系としてではなく・情報を固定化する記録でもなく、生きた言葉であることを目指したと推察できる。 よって日本語の基盤は、温室で守られて育ってきた言語でもなければ、理性的な計画だけで整備された言語でもないとも表現できる。日本語とは「実用によって最適化を進めて続けてきた言語体系」だと評価できる。基礎範囲の著しい学習性の高さと、しかし高度な発展性を併存せることを実現している。 また意思疎通だけではなく、高度な知識体系においても活用してきた日本語文化は、近代化に際しても外来の知識体系を「母語の体系によって整理する」という事業を迅速に実行することを可能とした。現代に続く翻訳文化は、日本語がいかに「実用に耐えうるよう形成されてきたか」を物語ると評せる。 なお日本語は幸いにも、歴史的に2系統の表音文字体系を形成・維持していたことで、現代的な整備において「標準的な表現はひらがな文字」「特殊な表現はカタカナ文字」という使い分けができ、外来語を直感的に識別できる状態で受容できる体系さえも形成している。この点は歴史的な幸運だったと言える。

目次  ### 蛇足:歴史:日本の強さの歴史 日本は歴史的に外界からの接触が少なかったと説明しやすいものの、古くから接触が無かったわけではない。当時の世界において宣教師による文化的接触からの社会的支配という構図は珍しくなく、江戸時代以前からその危険性は生じていた。だが、それを拒絶することができるほどの社会を形成していた。 「外界からの関与を拒絶すること」は、ドアを閉めればよいという話ではない。社会的な統制が不十分であっては利益に基づく関係性の形成を許してしまうことになり、社会的な武力が不十分であっては武力によって関係性を迫られることを許してしまう。社会的な強靭さが無ければ、拒絶自体ができない。 江戸時代の「いわゆる鎖国」という閉鎖的政策は、日本社会が外界との交流を管理・統制できるほどの社会が形成されていたことを意味する。また日本社会は外国との交易や情報的な交流そのものは限定しながらも継続しており、特に学術分野においては[蘭学]などと呼ばれる知識体系を母語へ吸収していた。 また日本は戦乱の無い江戸時代であっても、社会的な要請に伴う整備や発展を続けており、教育が制度化されるよりも前から庶民までもが教育を得やすい社会が形成されている。そうした社会背景から先進的な社会環境へ適応するための基盤が作られていき、「明治維新」からの転換を実現したと整理できる。 その明治維新においても「黒船来航」という明確な軍事力を背景とした接触に対して、社会的な対応を実施することで日本社会という秩序を堅持することがができた事実は、日本社会がその時点において既に強靭な社会を持っていたことを示している。結果、日本は「植民地」になったことが無いのである。 「明治維新」という社会革命も、欧州における一般的な革命のような社会の混乱を伴う大改革ではない。日本社会にとっては「ほぼ同じ社会基盤で、上に存在する支配システムが転換した」という動きとして説明できる。また近代化に伴う社会改革もまた、庶民教育の基盤もあって極めて迅速に進んでいった。 日本という社会文化は「やさしい世界・やさしい環境によって大事に育てられ、欧米に手を引かれて先進的な国家にしてもらった、わけではない」と説明しなければならない。日本地域は地形の難しさや気候の過酷さだけではなく、地震や火山活動、津波といった多くの自然災害も受ける過酷な地域である。 また社会環境においても決して単純な一枚岩だったわけではなく、各地に有力者や実力者が飛び散って存在し、それぞれが武力を持って戦乱の長く続いていたような歴史を持つ。日本が現代の豊かさを形成しているのは「日本人が豊かになるために尽力をし続けているから」であると説明しなければならない。

目次  ### 蛇足:歴史:文化の形 「武士」は、西洋における「騎士」に近しい立場のようにも思い込まれやすいが、その実態は全く別ものと呼ぶべきである。「騎士」は原則的に経済的な背景を持ちつつも、支配階級からその立場を許され、そこに仕えるという文化様式である。日本では「騎士王」という表現もあるが、一般的な語ではない。 西洋の「騎士」とは武力を司る階級であり、これを「使う」のはさらに上位の階級の役割である。一方で、日本における「武士」は、実質的には「支配階級を兼任する武力階層」と説明するべきである。社会制度として地域の最上位層に君臨できる立場であり、社会的な立場としては西洋の地方貴族に近しい。 特に武士の中でも上位階層の主な役割は、実態として「地域の運営」を担う・任される立場である。日本にもいわゆる貴族階級は存在したが、しかし現実的に各地域を統治・運営・守護するためには直接的な武力が必要であったために、武士たちが各地域を統治する社会様式となっていったと考察できる。 しかし「武力による統治体制」とだけ説明してしまうと、弾圧による庶民の困窮が強まりやすいように連想してしまいやすいと考えられる。だが日本地域は、単純な搾取的構図のみによる維持が難しい、極めて過酷な自然環境の地域であり、持続的な支配には地域を維持するための尽力を不可欠とした。 だが武力を維持できなければ、単なる周辺からの侵略だけではなく、治安維持などならず者や盗賊などへの対処も難しくなり、収益を損なってさらに力は衰えてしまう。武力を維持できるだけの地域社会がなければ、自らの立場も危うくなるという現実的な問題から、地域の整備が重要であったと整理できる。 また武力を維持するためには、武力を浪費しないことも重要であり、これは他地域との連携や同盟などの社会性が極めて重要に働いたと考察できる。そうした地域背景によって、戦乱の世が長く続く時代にあっても、武士たちの社会性や、そのための文化性が生存条件となり、洗練されていったと考察できる。 実態として広く大きな戦乱があった時期と説明される「戦国時代」も、おおよそ150年前後の期間に収まっている。その中でより優れた求心力を持って、より広い「文化的な協力関係」を形成し、おおよそ必要最小限の武力衝突によって決着をつけた武将が、天下統一を導いたと説明することができる。 つまり対比的に説明してしまうならば「純粋に戦うことが主な役割であり、それが目的になる西洋騎士」と「究極的には戦わないことが目的であり、それが役割になる武士」という違いを表現することができる。後世の印象においても、騎士とは「武力の象徴」であり、武士とは「文化の象徴」として語られる。

目次  ### 蛇足:歴史:言語の文化の歴史 言語の文化の歴史的背景もまた日本と、欧州などのその他知識体系を持つ主な言語圏では決定的に異なる。欧州の歴史における文書言語とは、権力や地位と強く結びついたものであり、「言語に従い・言語によって従わせる」といえる文化様式が形成され、社会的な正当性の象徴であったと説明できる。 欧州の言語史において最も象徴的な存在が「ラテン語」であり、古来から多くの知識がラテン語によって編纂されていたが、中世ではその正当性や正常性を守るため上位階級のみに共有される正統なる言語体系となっていた。知識的な分断を示せる歴史を持つほどに、言語は象徴的な存在であったと言える。 一方で、日本語の文書文化とは、知識体系と合わせて輸入された漢字が実用言語として整備されていったが、その上流階級で使われていた様式もそのまま上流階級の外にも共有され、それが武士階級へも広まり「日本地域の共通言語」として活用され、武士階級を含む知識層が各地へと広がっていった。 文書文化の成り立ちとして、漢字の体系が輸入したもので仏教などの知識体系も含まれており、それを閉鎖的な統制することも現実的ではなかった事情もあるが、「知識体系の独占による正当性という印象論だけでは統治できない」という現実的な事情によって、文書言語が活用されたと考察できる。 日本文化にとって文書文化とは、その技能によって威張るための権威や象徴などではなく、より現実的な実務能力の一種として活用され続てきたと説明することができる。それは同じ言語体系が広く実用される環境を形成しなければ、日本地域という過酷な環境において社会を運営・維持することが困難であるという現実的な事情があり、上からも下からも求められて広まったと整理できる。 主な欧州言語の文化が、基礎的な部分から「教育を十分に受けた知識層において実用することができれば良い」と言えるような傾向を持つ体系を持ち、また文書上の正当性や正常性を強く求められる文化を形成していることについても、欧州の「文語こそが知性の象徴である」とした歴史背景から考察できる。 一方で日本における言語の文化が、基礎的な部分において非常に覚えやすいように整備されつつ、また意味の理解を導く文字体系もまた併用して実用し続け、より広い人々が学びやすく使いやすいと説明できる体系を持って、早期から現代に続く高い普及率を成立させたこともまた、歴史背景から考察できる。

目次  ### 蛇足:情報:言語と基礎教育 そうした歴史的背景から見れば、「深い教育を前提とした形式性」を基盤とする英語文化において、社会的な尽力があってもなお言語的な基礎教育の効率化に限界が見られ、その実態として教育の不全が生じやすいと説明できる傾向を示すことの理由と、反対に日本文化の教育普及の違いを理解できる。 英語も「十分な教育環境を得られる人間にとっては不便が少ない」と考察できるが、実態として英語の持つ根本的な難しさを克服するための教育や学習が無ければ、実用することが非常に重い困難性が伴うと説明しやすい。しかし文明社会とは普遍的に「母語を十分に使えること」を前提としている。 現代日本語は特に「自力で学び始めることのできる段階」が、とても早いと評せる。学習・学力の程度による格差は日本語であっても存在すると説明するべきであるが、基礎教育制度では1年目から学習用の書籍を所有させ、活用して教育が進められる。教育の早い家庭ではその前から本を読む習慣を持てる。 「社会環境として教育環境が著しく整っている」と説明することもできるが、その実態として「教育に対する行政の支出」という単位では国際的な比較において低い水準である。ただし、教育費の支出においては国際的な比較において高い水準を示しており、「家庭による尽力」が根付いているとも整理できる。 日本語学習環境が恵まれているのだとすれば、それは「学習環境を整備するべきである」という社会的要請が存在し、それを人々が尽力することによって実現しているからであると説明するべきである。そしてそれは歴史上の言語的な尽力を含めた、日本語文化への積み重ねの上に成立しているものだと言える。 そもそも、日本の教育環境を成立させることのできる社会を実現したこともまた、日本社会の歴史的な連続性を持つ尽力によって成立しているものと言うべきである。日本という地域は、自然環境でも社会環境でも、なんの問題も無く、なんの不便も無く、緩やかで平和な地域であったわけではないのである。 過去に存在した多くの文明が必ずしも高度に発達できたわけでもなく、また現代にまで連続性を持って存続してるわけでもない。高度な文明的社会を形成していたとしても、消滅することさえも見られる。特に「問題に対する靭性」は、問題に対する経験と知識の積み重ねによって培われるものである。

目次  ### 蛇足:歴史:経験と知識の蓄積 日本国では古来から名目上は天皇が君主であり、公家・貴族階級が存在しながら、武力を中心とした武家政権による統治を容認している。また一方で、貴族階級もまた決して容易ならざる立場であることは理解され、武家政権による実質的な統治者たちも天皇の勢力を尊重し、その関係性を維持してきた。 武力と権威を統一的に持った総合的な支配者が自明に非現実的だったと考察できる理由もまた、「日本という地域の過酷さ」を上げられる。過酷な地形環境に加え、ただ頭ごなしの統治をしようとしても人々が暮らしている自然環境そのものは決して支配者の思惑通りになるはずもなく、統治の安定も望めない。 日本において高度な交通網が整備される近代・現代より前では、「各地域の社会が自立的な力を持って、その地域環境を理解し、自力によって整備し、管理していく体制を作らなければ、社会を安定させることができない」と説明できる地域だったのである。無理な統治をすれば、地域は荒れ果ててしまう。 そうした問題は各地域を理解していれば現実的な判断になると説明できるものであり、また貴族階級にとっても歴史的に試みながらも破綻した事例であり、それも歴史的な知識として継承されていたと推察できる。「統治者の苦難」を理解しているからこそ、役割分担という体制を維持し続けたと考えられる。 江戸幕府を成立させた徳川家もまた、支配者としての悦楽だけを享受できるような立場ではなく、いつ不安定になってしまうかも分からない社会環境を成立させ続けるために、「統治システムの安定的な運営と存続のための対策」へと尽力し続けていたと考察できる。その尽力が、長い泰平の世を保たせた。 江戸幕府を成立させた徳川たちの最も優れた業績とは、現実的な問題と、おそらく歴史的な知識に基づいた「安定した統治のための幕府体制の整備」と「徳川家という象徴を維持するシステムの整備」をあげられる。それらが「国を守る」の行政システムとして、家康の死後も200年以上稼働し続けたのである。 そして「徳川家」の役割である「国を守ること」という名目は約250年間正しく継承され続け、江戸幕府の終焉においても、その抵抗は名目上の最小限に収まり、新しい統治体制への迅速な移譲を成立させたとさえ説明できる。また自立性の高い社会であったからこそ、近代的な社会化も迅速に実現したと言える。 その歴史的な積み重ねによって作られていた、近代国家になるために十分な社会基盤を持った日本は、海外から最新の知識体系や技術体系を迅速に導入し、国内においてそれを安定的かつ発展的に運用することまでも実現し、欧米と「対立することができる」ほどの先進的国家へと急速に発展していった。

目次  ### 蛇足:歴史:日本語の共有 日本語の体系は、決して平和でも平坦でもない歴史的な社会の流れのなかで使われ続けて、実用においてその日本社会を支えられるほどの様式を持った言語体系であると説明できる。また、日本社会の言語観にも「記録だけではなく活きた意思疎通にも使われる道具」という文化様式が強く根付いたと言える。 より細かくは様々な要素の複合性を説明することもできる。既に整備されていた漢字体系の輸入と話し言葉の体系の堅持、文字体系の独自の整備と話し言葉の文書記録の歴史とその共有による連続性、また和歌という言葉を用いた芸術体系の共有と歴史的連続性と発展性など、日本語は柔軟に使われていった。 日本人の言語観においては「言語的な意思疎通は必ずしも成立しないこと」が理解されやすい。文化的な多様性や知識的な多様性が分かりやすく、しかしそれらを強固に統一することは非現実的であることを理解している。むしろ、主な欧州言語に見られる「正統な文書」という権威性を理解しがたい。 日本は歴史的に、文字体系だけでも様々な様式の記録体系が併存しており、また言語様式においては著しい方言性も見られる、言語的な多様性が著しいとさえ評せる環境であった。しかしその上で、環境の過酷さによる「意思疎通をしなければならない」という社会的要請によって、言語の共有も求められた。 日本地域は、ただ生きていくことさえも簡単ではない。険しい山岳ばかりでろくな平地は無く、緩やかな土地は主に湿地帯で水害が多く、火山活動・地震・津波の破滅的な災害もあり、また気候にも大嵐から極寒まで、しかし温暖さもあり疫病も避けられない。生き抜くために協力が重要であったと言える。 過酷な環境を克服するためにも武士などの統治者たちは常に、地元の人々との意思疎通を不可欠とした。庶民の言葉が分からなければ必要な情報が分からない、庶民が言葉を分かってくれなければ必要な情報を伝えられない。言語的な理解と共有が、社会的な生存戦略として、必然的に求められたと言える。 教育が制度化されるよりも前から庶民が教育を求めるようにして教育施設が普及していったこともまた、日本の環境を克服するための努力の一部であったと考察できる。庶民文化には必ずしも生存に直結するとは限らない享楽的な文化も多かったと言えるが、知識が暮らしに繋がることは理解されていた。 人々が文字を扱えるようになることで、文書の出版文化も拡大していくこととなる。なお当時日本の主流は木版印刷だったが、世界的に見て、書籍を庶民が親しむ「本の一般化」の時期では、実のところ活版印刷が先に実用されていた欧州圏と大差のない時期だったと説明することさえもできる。

目次  #### 蛇足:情報:欧州における「一般化の遅さ」 日本における出版文化の拡大と、欧州における一般的な出版文化の拡大は、ほぼ同じと言えるほど近しい時期である。しかし日本は当時でも、木版印刷という1枚ずつの手彫りで出版をしていた一方で、欧州では先んじて活版印刷という革命的な印刷技術が普及していたとという技術の違いを説明できる。 しかし中世の欧州においては「一般的な地方庶民には文書を読む文化が無い・読む必要が無い」と言える地域環境であった。主な文字の文書は、知識層を含む上位階級の専有物として管理されており、多くの庶民も本を必要としないつつましやかな暮らしをしていた。またそもそも、言語的な隔絶も見られた。 欧州地域では中世において、文書言語を支配層が専有するなどの様々な社会事情と、開墾すれば比較的安定して持続的な暮らしがしやすい環境的な事情などによって、庶民の生活には文字文化は必要とされず、言語的な共有も緩く、活版印刷による出版の拡大が進んでも庶民に届くまでは長い時間を必要とした。 活版印刷による出版の拡大から、宗教革命といった社会の転換が生まれて社会環境も変化していき、知識を持つ庶民的な人々によって知識を広く共有する傾向が形成され、緩やかに本を読む文化が広がったと整理できる。そして欧州の庶民向けの出版市場の拡大は、おおよそ日本の江戸時代ごろである。 そして欧州において、本格的に「多くの庶民が読書をするようになった」と言える時代になるのはおおよそ、産業革命の時代が訪れ、国家的に庶民への教育の必要性に迫られ、庶民教育の制度化が進むことによって、多くの庶民が文字を読めるようになり、読書に親しめるようになっていったと整理できる。 なお木版印刷は技術としては比較的古いものの、その出版コストが著しく安かったわけではなく、むしろ職人が版木をページごとに掘る必要があり、事業としてかかる継続的なコストは高いと説明できる。活版印刷は、印刷機械は格段に高価なものの、印刷に作業にかかるコストは格段に抑えられたと言える。 日本において手間のかかる木版印刷でありながら多彩な出版文化が発展したことは、それだけ大規模な社会であった傍証として示せる。教育が制度化されるよりも前に、版木を彫れる多くの職人、内容を書く多彩な人・本をまとめる人、それらを経済的に支えられる読書文化と流通体制があったと説明できる。 実証として見ることの難しい、過去の社会における文字文化の普及率に対して、「木版印刷による多彩な出版事業が継続的に運営できるほど、社会的な需要が存在していたこと」を推察することができ、現存する本の種類に限ってもその多彩さを確認できることから、高い普及率を強く推定することができる。

目次  ### 蛇足:情報:日本の出版文化・言語文化 日本の出版・読書の文化は現代にも続いている。現代の概要として2022年頃のデータにおいて、世界の出版市場は当時の日本円換算においておよそ18.4兆円ほどとされており、その中で日本の出版市場規模は1.6兆円ほどの規模とされる。つまり、世界の出版市場に対しておおよそ8~9%ほどを占めると読める。 なお世界人口は推定において約80億人の内日本人は1.2億人程度のわずか1.5%ほどの比率であり、あるいは名目GDPでは2022年頃に100兆ドルを超えたとされる中で4兆ドルの4%の経済規模である。あくまでも目安としての整理であるものの、日本の出版市場の規模は社会に比して格段に大きいと考察できる。 より詳しく見ると日本では「安価な書籍」という領域が非常に広く、安い価格帯における一般的な本の値段は欧米に対しておよそ半分ほどの価格と見られている。やや高い本においてはその差は縮まるが、本そのものが高価なことで市場規模を膨らませているわけではなく、むしろ安い方であると説明できる。 またインターネット利用において、ネット上の人に対する日本語話者の率は2020年のデータで2.6%(上位8番目辺り)ほどとされる一方、主要なウェブサイトの数で換算された日本語率は2025年のデータで5.1%(上位4番目)に及ぶとされ、利用者率に比してページ数が著しく多い傾向を示すデータが見られる。 そのデータにおいて「話者率に対する主要なウェブサイトの数」の比率において、日本と同様にウェブサイト数が著しく多い例は「英語」だけであり、これは英語が事実上の国際共通語であることによって、英語以外の多くの地域からも英語のウェブサイトが用意されやすいことに由来すると考察できる。 その他の利用数の多い言語ではそうしたが見られず、言語によってはむしろウェブサイト数の方が著しく少ない傾向を持つ。一方で日本語は、非日本語圏からは国際的なサービスを除けば日本語向けのウェブサイトが用意されることはないと想定でき、その総数は日本語話者が形成したと考察できる。 こうしたデータ傾向は、日本文化・日本語文化における「文字を使った生産力」と「文字・文書に触れる量」が著しく高いことを示すものだと考察できる。そのコンテンツの内容本体が必ずしも文章であるとは限らないが、概要として言語を用いた活動が著しく多い傾向であるという推察をすることはできる。 これはつまり、日本文化では「文字を積極的に実用する」という習慣を持つ人が、他よりも多い傾向を持つと考察することができる。日本語の体系は、多種類の文字を複合的に用いるため、「読み書きの負荷が大きいのではないか」と想像されがちであるが、実用ではむしろ活発な傾向があると説明できる。

目次  #### 蛇足:情報:新聞の生産性 日本の言語文化の特徴は「新聞の活発さ」にも見ることができる。現代においてはおそらく世界的にもデジタル化・インターネットの普及によって紙媒体の新聞紙は著しい縮小傾向を示しているが、2010年頃の新聞の発行部数で日本を上回る地域は、日本の10倍以上の人口を擁するインド・中国だけとされる。 特に、欧米ではその社会規模に比した多さの傾向は見られず、アメリカと日本では近い傾向であるものの、近代新聞の始まりとも言われる欧州地域での発行部数の記録は日米よりも大きく少ない傾向が見られる。つまり、欧米の実態において新聞に親しむ人の割合が著しく多いとは説明できない。 多くの読者を必要とする新聞という形態は人口密集地において有効な媒体であると考察しやすく、欧米においてもその活動は都市部が中心的であると推察できる。日本では「人の住める場所」が限られることによって、多くの地域で家屋の密集した生活が見られることも大きな要因としては説明できる。 しかし新聞の活発さを成立させるためには「生産速度」も当然として必要な条件になると言える。つまり言語的な情報を含む、情報の伝達、情報の整理、紙面の製作などが十分に効率化され、高速化されていなければ、新聞を日常的に生産することが難しく、大量の発行を実現することができない。 日本語の言語体系は新聞の編集において、見出しでは表語文字の運用によって端的な表現を形成しやすく、また本文では構造的な安定性により部分ごとの編集が許されやすい様式を持ち、実際の編集効率はかなり高いと説明できる。歴史的に「印刷」の工程には苦労をしてきたが、現代では問題とならない。 日本語は「漢字」という表語文字体系を併用することによって文字情報の圧縮を実用できていること。また現代日本語の言語体系が、即時性の強い話し言葉を基盤として整備されていることで直感的な構築を許す柔軟かつ強靭な構造性を持ち、それが文章編集においても非常に編集をしやすい体系となっている。 もちろんその文字体系によって多数の文字種を使うことから、活版印刷との相性が著しく悪いという問題があった。それは多種の表語文字だけではなく、表音文字においてもアルファベット言語に比べれば数が多い傾向がある。現代ではデジタル化で苦労は格段に減ったが、その前は甚大な課題を抱えていた。 日本語は文字体系の事情から欧州では革命的な飛躍をもたらした活版印刷の効率性が抑制されてしまうといった印刷技術における制約があり、旧来の木版印刷の方が使いやすいという技術的な事情がありながらも、近代化が進む中で新聞の産業は成立・拡大していき、技術発展と共に現代まで続いている。

目次  ### 蛇足:同化:自然環境 自然環境の話として、日本文化の表面上の安定性について、大陸の端にある島国という立地であるという点と、それによって「大規模な他民族の流入による混乱が少なかった」という事実から、それが「幸運だっただけ」とも考察されやすいが、日本列島周辺はそれを許さない自然環境の地であったと言える。 まず遺伝子的な研究から、本州など中央側の日本人は概ね「早期に住んでいた初期の民族と、後から渡来してきた民族の混血」であると理解されている。特に初期の民族からの遺伝子の割合は小さく、古代には民族の流入が大きくあったと言える。古代の発展自体も、渡来人の影響が大きいと解釈されている。 だが日本列島とその近隣は、民族的な大集団を形成すること自体が難しいと説明できるほど過酷な自然環境の傾向であると説明でき、大規模な集団の襲来自体が少なく、日本の近隣に大集団が形成される時代には日本社会も十分に発達した社会を形成し、歴史上でも社会を脅かすような軍事侵攻を阻止している。 最も近い大陸の半島部分もまた豊かな土地とは説明しがたい環境で、大陸側からの影響も大きいものの強い社会が作り難い地域だったと言える。日本側は「地域社会を迅速に整備して、文化的な危機を回避・対抗することが可能な強い社会を先んじて形成した」と整理でき、それは日本の尽力の結果だと言える。 自然環境の厳しさは、日本地域内においても同様の問題がある。だが、もしもただ穏やかで豊かな土地であったならばその環境に甘んじて社会的な整備も遅滞して、地球上に見られる多くの島国と似た安穏とした社会を形成し、大国からの侵略に抵抗できる社会を持つことは難しかったであろうと想像しやすい。 あるいは日本列島の大きさであれば、複数の社会文化が独立して形成され、文化的に大きな対立が成立して、分断されていた可能性も想定できる。日本は本州から九州まで1400kmほどの長さがあり、この規模の島国で王朝が早期に単一となったという事実が、日本列島の過酷さを傍証しているとも説明できる。 実際、歴史的に見て独立した集団は多数存在していたものの、征伐と統治によって「日本」の一部へと取り込んでいる。本州でも東北地方では武力を持てる独立性の高い民族が生まれていた記録も確認できるが、そうした地域もまた征服している。日本という地域は、実力で統一されているのである。 社会的な意味においても「恵まれた自然環境の温かい環境で、温かい民族同士で仲良くしながら国を広げていった」と言える歴史ではなく、「過酷な環境下によって団結を不可欠とされ、無用な争いをしなくなるまで実力によって統治を進めたことで争いをおさめた、準戦闘民族」のようにも整理できる。

目次  #### 蛇足:同化:日本文化 日本という地域はむしろ「生存競争」を避けられない地域であり、環境的な不安定さによって、武力を背景とした統治を成立させなければ、容易に人々の奪い合い・争いを許す土地であるとさえ説明できる。安定した暮らしをするためには争いを防げるだけの力を持ち、また環境開発をし続ける必要があった。 特に文明化が進む以前の初期の古い武士たちの暴力性は、もはや蛮族にも等しい戦闘民族であったようにも語られてしまう。しかしただの蛮族では安寧や発展からは程遠く、文化的な教養を持つことで地域に安定した社会基盤を形成でき、それによって武力を保てる武士たちが主に生き残ったと考察できる。 つまり現代において見られる「日本人らしさ」とは、「日本という地域において生き残るために必要とされた性質」であると説明できる。歴史的にも小規模な他民族の流入もしばしば見られるが、もしも日本という地域へ他民族が入ってきたとしても、「やがて日本人化した」であろうと想像しやすい。 日本人は恵まれた地域に暮らした民族ではなく、生き抜いた民族が日本人になったのである。「日本地域は幸運にも安定した地域だった」と過度に単純化した整理をするべきではなく、「大陸から極東の過酷な環境を克服した民族が日本を形成した」と整理でき、生き残るために日本を形成したのだと評せる。 なお、ただしこれは血統的な話ではなく「文化的な様式」としての「日本」である。強固な社会を作るための文化様式が、人々を日本人化させると考える。特に日本語を基盤とする社会性の文化によって培われ、人を介して継承される社会的な意識や知識・教養への興味と努力こそが、現代の文化の中核となる。 特に現代で重要なのは「多彩な情報との接触」とその習慣と言える。中でも幼少期において多くの情報へ触れられる習慣、理想的には基礎学習が早い日本語によって多様な情報を自力で学習していけることや、童話などの多様な「お話」へ触れることによる社会性の内在化などが、日本的文化の基盤になる。 近代以降に至っては、異なる国として社会文化が存在していた地域を日本へと編入させる際に、言語も含めた制度的な日本人化を実施し、そして達成している。文化的な違いは小さくないと言えるものの、そもそも中心側であっても日本の文化とは多様であるために文化の一種として収まっているとも言える。

目次  ### 蛇足:情報:日本語の効率性 言語の話題に立ち戻るが、日本地域において日本語が使われていることは、文化的な継承という惰性ではなく、実用における効率が非常に良いからであると説明できる。日本の長い言語の歴史の中で、多面的な実用において整備され続けてきた体系であり、学習性と発展性を両立させている言語だと評せる。 極限的に最低限度の日本語を扱うためのハードルは著しく低く、また母語であれば表音文字の基礎的な学習性が著しく高く、しかし初期において単純なだけではなく、表語文字による高度な発展性へと接続して効率性や詳細性も高めることができる、多層的な機能性を持った言語体系として整備されている。 また現代においては活発な知識活動によって、日本語の文書量などは孤立した1地域の言語体系でありながらも著しく多い。日本語のみによって、様々な娯楽から教養まで、幅広く享受することができる。特に、日本語によって多くの知識情報を学ぶことができるという、非常に贅沢な言語環境を持っている。 言語体系として意思疎通や情報整理での使い勝手が良いだけではなく、非常に幅広い分野の学習においても日本語を使ってかなりの範囲を学習していくことが可能となっていることも多いと言える。そういった文化環境・社会環境を含めて、日本語とは「実用における効率が非常に良い」のである。 より特殊な情報や専門的な情報、極めて先進的な情報を得るためには、英語など他言語を学ばなければならないという問題はあるが、日本語が母語ならば、基礎的な知識においてまず日本語での情報を集めて概要を理解し、その上で他言語の情報と照合をしながら調べていく手法も可能としているほどである。 他言語においては、活発な出版文化が形成されていなければ、学術分野などの母語による資料が存在しないことも珍しくはないと言える。小さい国では基本教育の中で英語教育に大きな時間を割いて、高度な学術領域を原則英語で扱ってしまうといった社会もあると言われている。日本ではその必要性が薄い。 学術分野のために英語が不可欠な国・地域と比して、日本では大学などへ進んでいても英語には弱い傾向があるとも説明されやすいが、現実的な事情として日本語の効率性が高すぎるために、英語教育に膨大な時間を割くことが事実上かなり不効率で、実態として「必要とする人が使えれば十分」なのである。 現実的に、日本語社会はそうした教育体制・学習体系であっても、十分に高度な技術体系が実用され、導入や開発の体制を恒常的に維持することができている。特に重要な技術情報については外国の最新情報も早期に日本語によって整理される体制があり、極端な遅延をせずに整備し続けている。

目次  ### 蛇足:同化:「翻訳」の文化 他言語を翻訳して扱う文化も非常に長い歴史を持ち、古来から多くの情報を日本語の体系へと導入していった。日本語における文字文化の大本である漢文さえも、漢文訓読によって日本語の体系への翻訳的な整理もしながら使い続け、日本語のための表音文字の整備を進め、日本語の一部へと整理していった。 後の時代では欧州からやってきた学術文書も翻訳して知識体系を整備していたり、近代化に際しても大規模な知識整備を日本語の体系の中で実施して、必要な知識を日本語の体系によって実用することを実現している。日本語文化は古来から「翻訳」によって情報を吸収し続けてきた歴史を持つと説明できる。 また「翻訳」の必要性とは、日本地域の内側でも当然として生じてきた歴史を持ち、現代においても生じている。標準語を普及させた現代でも多くの方言が確認されており、教育の普及以前においては更に大きな違いがあったと強く推測でき、日本語文化ではそれらを「翻訳」する必要性が存在している。 言語の普遍的な法則として、異なる地域において口語が異なることは世界中で見られる現象であるが、これは日本地域であっても当然として同じだと説明するべきである。そのため異なる地域の相手と交流には相手の言葉を理解するという作業を必要として、都市部は特にそれを当然としていたと推察できる。 日本語文化はそれらを「日本語」という同一基盤の上で実施し続けてきた。また実のところ、現代の日常においても翻訳的作業は頻出する。「相手の言っていることに対して、異なる表現で確認する」という作法や、文書での「漢字表現への変換・漢字表現からの変換」といった言語的な操作が見られる。 日本語は非常に多層的で多彩な表現を持つため、日本語文化では「言葉を言い換える」という事実上の翻訳作業がかなり積極的に、日常的な作法として必要とされ、習慣として身についている整理できる。あまりに日本語へ翻訳してしまうため、外国語の言語体系の身体化がやや不得意だとも疑える。 しかし、その「翻訳の身体性」こそが、日本語文化における外国語の翻訳文化の大きさも支えているとも考察できる。日本語文化では理解できるなら「自然と日本語へ転換してしまえる」ほどに日本語の表現力が深く、必要に応じて新たな表現も形成することができ、カタカナ語で済ませることもできる。 そして、その多様な表現の共有を支えている大きな基盤が、単純な発音体系と明晰な表音体系であると整理できる。外国語も単純なカタカナ語にしてしまうという問題としても語られやすいが、カタカナ語という「日本語化」は、元の発音様式に関係なく即座に広域で実用できるようになる様式だとも評せる。

目次  #### 蛇足:情報:言葉の共有力 現代の日本語文化における外国語を「直感的に日本語的な体系で翻訳・解釈する」「語彙を日本語の言語体系の中に落とし込んで扱ってしまう」といった言語習慣・言語事情は、「日本語が柔軟かつ強靭な構造を持ち、その機能性が強く、日本語自体が豊かすぎるために生じている」と説明するべき所である。 特に単純な発音体系と明晰な表音体系に意味を示す表語体系という言語構造は「言葉を共有する」という機能性において、著しく高い効率を持つと説明できる。特に「言葉の覚えやすさ・使いやすさ」が非常に優れており、自然と多くの言葉が覚えられやすく、実用されやすい様式を持つと考察できる。 また基礎的な言語構造においても、文章構造を構築する様式が広く整頓されていることで、統一性と汎用性が非常に高く、同じ体系の中にあらゆる言葉を極限的に受け入れて使うことができる。未知の言葉が表れても、文章構造における使い方からその言葉の方向性を予測することもしやすく、理解を早める。 そして、その実用における基礎的なハードルが低い言語体系によって、文書を含めた言語的な活動が非常に活発であり、言語による表現文化から多彩な言葉が広く使われることで、言葉がさらに広く長く共有されるという循環した文化を深められ、日本語の著しく広い表現性が形成されていると整理できる。 その様式と表現文化によって膨大な言語情報が日本語体系の中で保持され続け、非常に多くの言葉や表現が実用され続ける言語文化を持ち、その言語情報の豊かさによって、異なる言語に対しても知っている日本語の概念や様式へと自然に翻訳しやすく、多くの語を「日本語化してしまう」とも整理できる。 また、たとえ「翻訳の難しい単語」が存在した場合であっても、これを直感的にカタカナ語としてしまうことによって日本語の語彙として扱える様式へと落とし込んで、それをそのまま日本語として使いまわすこともできるようにしてしまう。日本語の体系は、あらゆる表現を導入できてしまえると言える。

目次  ### 蛇足:歴史:英語と日本語の背景 「他言語を積極的に吸収して成長してきた」という部分においては英語文化とも非常に似ているが、英語は他言語を急速に吸収していく過程で、汎用性を高めるための言語の単純化が強まってしまい「元々の言語体系を崩すような形」で言語の整備が実施されているという点において、日本語とは大きく異なる。 英語は急激な社会変化による急激な言語の変革で、言語体系として強靭な体系の構築を目指すことができず「最低限の使える様式を持つ」という事情に引きずられる形で整備されてしまっていると考察できる。しかも文書文化によって「文字列も発音も、元の言葉に準ずる」という様式を固定化させてしまった。 また欧州文化では最も整備されていた言語体系であるラテン語を「高度な学術言語」として強く堅持し続けるために、知識層のみが使うものとして占有し続けていたという背景がある。つまり「言語側をより広く共有できる形によって整備する」という歴史的な経験が乏しかったとさえ、考察できる。 一方で日本語の歴史的経緯を、欧州文化で例えるならば「ラテン語に当たる言語体系を、知識層が現地語で再整備した上で、さらにそれを広く共有する形で実用していき、広域において活用しやすい体系を洗練させ、それを基礎言語とした」とも表現できるような、「言語の実用に基づく統一」が進んだ。 日本語の基礎的な様式は、上流文化が言語体系や外来の文字体系を整備していき、整備された言語様式を文書も伴って外へと広めていき、多くの立場において実用されていった。欧州におけるラテン語とは異なり、特に輸入された漢字の体系が独占的な扱いはされず、広く理解されることが目指された。 文字体系やその歴史背景も全く別物であるという事情も大きいと説明するべきであるが、「言語の共通化の歴史」という点において、欧米では主に近世から近代以降であると説明することができ、言語の連続性から考察するのであれば、日本ではさらに前から整備され続けてきた言語を使っていると説明できる。 そういった観点においても、日本語文化が、なぜ1地域の孤立した言語でありながらも知識体系を整備できる様式を確保しつつ、しかし共有性の高さをもって幅広い人々が実用することができ、そして現代においては言語的な情報の生産力が世界的に見ても著しい規模であることの背景を理解できる。 一方で、同様の視点によって、英語の言語体系が世界中で使われ、事実上の国際的な共通言語として機能し、知識体系の言語として膨大な情報が集積され、極限的に実用されているが、しかし「広く使えること」ばかりを優先した結果、字や音などの基礎的な問題などが残り続けている背景もまた理解できる。

目次  ### 蛇足:情報:字と音の関係性と学習への影響 英語における「字と音の不一致」による問題は、「音と字と介した伝言ゲーム」を著しく難しくすると整理できる。英語の文字体系は、発音と文字表記の接続性が素直ではないために、「音を聞いて文字を確定させること」ができず、音のみを頼りに文字で記したとしても不完全性が著しいと推察できる。 つまり、例えば[aranou]という発音をそのまま文字へ転写した表記を見せられても、そうした変形例を知らない場合、その文字情報から言葉を復元するためには想定できる膨大な発音パターンの組み合わせから推定する必要があり、おおよそ「使われた状況」を想定し、言葉を限定して推測すると推察できる。 これは自然と聞いた知らない言葉などに対して、それを文字情報から調べるということも著しく難しいことを意味する。英語では、聞いた音から調べる場合、おおよその文字列を推定して調べていくことになるが、特殊な文字列が使われている単語になると対象の語を見つけることが格段に難しいと考察できる。 一方で日本語では、字と音がほぼ明晰な関係を持ち、またよほど定型文として使い込まれている挨拶などのフレーズでもなければ発音の極端な崩壊をすることも珍しく、「聞いた発音をそのまま文字へ転写した表記」を見せられても理解がしやすく、多少の音のズレがあっても補完することもしやすいと言える。 日本語では特に、発音が十分に聞き取れているならば、高確率でそのまま正確な表音文字で書き記すことができるため、「聞いた言葉を文字情報として調べる」ということが円滑にしやすい。字と音の明晰性、特に「音から音の字を高確率で予測しやすい」という様式は、学習の効率に大きく高めると言える。 こうした傾向は、例えば「文字資料の文章を見ながら、音声を聞いて学習する」という段階において、「読まれている場所の認識性」にも著しく影響すると説明できる。特に子供向けの初期教育では、日本語では読まれている文章の文字も追いかけさせやすい一方で、英語では追従が非常に難しいと推察できる。 英語の基礎学習では「文章に対しては、明晰に1単語ずつ発声しながら、文章のどの部分かも1語ずつ明示して追いかけさせる」という方式で学習を進める段階が長引きやすいと推察できる。一方で、日本語はそれをすぐに飛び越えて、早くから「子供に自力で読ませて指導する学習法」が実施されている。 特に日本語の基礎教育では、表音文字が最低限自力で読めるようになった段階から「子供に一人で音読させる指導法」が実施させる。なお表音文字の学習は一般的に、基礎教育の初期おおよそ半年で達成されるもので、教育と学習の早い児童なら制度教育よりも前に準備を済ませていることもある。

目次  #### 蛇足:情報:文字への親しみ 日本の基礎学習では文字の読解が早いこともあり、非常に早期の段階から、文字の筆記を1字ずつ執拗なまでに繰り返して覚えさせる。文字種が多く、崩れすぎると当人すら後で読めなくなる問題もあるため、基礎的な学習では「綺麗な文字を参考として標準的な文字を書かせる」という指導が実施される。 必ずしも全員が綺麗な文字を書けるわけではないが、必要最低限は字を書ける人は多いと考察できる。また非常に早期から文字を書くことに慣れさせる教育課程となっており、身体的な感覚における学習性が高い若い時期に多くの経験を積ませるため、文字に対する感覚性が育まれやすいとも推察できる。 アルファベットは原則的に線・パーツの位置によって大きく区別される様式を持つため、繊細な表記自体が必要とされにくい。また現代の英語文化では、そもそも綺麗な筆記という教育自体が縮小傾向にあるともされ、熱心な家庭や子供でもなければ綺麗な筆記への訓練や特訓は限定的と推察できる。 一方で日本語は、表音文字の中でもカタカナでは「線の微妙な角度」を頼りに識別する必要性があるため、書き方の指導を不可欠としやすい。また漢字体系へ入ると、非常に細かい領域に大量の線を描画しなければならないため、細かい線を筆記できる能力を目標として鍛える必要があるという事情もある。 この辺りの与太話として、アルファベットでも「標準的な筆記」の形の安定性が、日本人ではやや整っていると語られることもある。個人差も大きいものの、日本人は文字に「標準的な筆記法」という観念を教育されているため、「形を作れれば十分」という現代の英語文化に比べて整いやすいと想像できる。 なお学習の実態として「機械的なタイピングより、文字を手書きする学習の方が、定着率が高まりやすい」という研究の報告も見られる。理屈としては、手を細かく使うことによる身体的な動きや、文字を書くことによる身体的な刺激が大きい分、頭脳が活性化しやすいのだろうと考察されている。 つまり日本語の教育課程において、早期に文字を覚えられることと、徹底的な反復練習によって文字の感覚を定着させることや、また早期にそれらを活用してノートを使わせる学習を進ませることは、身体的な合理性においても、かなり効率的な学習様式として成立していると想定することができる。 ちなみに実態として日本人でも「書かれている漢字は読めるが、自力で思い出して書くことは難しい場合」も珍しくないが、漢字の実用では最低限「読める」だけでも必要な機能は満たされていると言える。特に日本語は漢字の書き方は忘れても、表音文字が使えるため、実用上の問題は最小限で済む。

目次  #### 蛇足:情報:学習の効率性と文化への影響 文字様式を分析していくことで論理的に、また実際の運用状況や社会を分析することで実態としても、英語と日本語では基礎的な学習の効率性が著しく異なると説明できてしまう。特に早期の学習効率は、扱える情報が差が生じやすく、基礎的な能力の身体的な定着などに大きく影響してしまうと想定できる。 もちろん英語でも、恵まれた環境と素養があれば、高効率な学習を進めていくこともできると説明するべきだが、それには親身な教師役や多くの情報を得られる高度な学習環境という外的要素に、学習することへの強い興味などを必要とするものであり、極めて限定的にしか成立しないとも説明できる。 言語体系の事情によって英語は「ほぼ自立した学習」をできる段階までに必要な学習量が大きく、これを早期に成立させるには、子供に興味を持たせて・子供自身が興味を持って、非常に早い段階から親身な教育を開始し、急速な言語学習を進行させる必要があり、一般的な教育として成立させることは難しい。 一方で日本語は「ほぼ自立した学習」をできる段階までに必要な学習量が、おおよそやさしい体系として整備されていることで、学習の大部分を「子供の自主性・子供の自律性」へ任せてしまうことができる。早期から自力で扱える情報量が多くなり、基礎的な能力の身体的な定着が広がりやすいと考察できる。 幼少における知識的な能力の訓練とは、ただ学問に対して強くなるだけではないと言うべきである。より多くの情報を扱えることは、世界や社会に対する理解度や解像度を高めやすくなるとも考察できる。つまり、日本人の社会性は日本語とそれに基づく教育の習慣もかなり影響していると推察できる。 英語文化では「子供が言葉を十分に理解できるようになるまで、だいたい時間がかかるのだから、早い教育は効果が薄いだろう」という表層的な合理性に基づいて、一般的な水準として制度的な教育に依存してしまいやすいのではないかとも想定できる。使いにくさが早期教育の有効性を見えづらくしている。 英語文化では幼児へ言葉を教えようとしても、「英語において十分な言語能力」を獲得するまでは非常に長く、言語が定着するまでも遅い。英語は特に形式従わなければ支離滅裂な言葉を形成してしまう体系であり、文字も長期的な教育を必要とするため、一般には難しいほど根気強く教え続ける必要がある。 最も大きな例として、英語文化でも「子供に対する本の読み聞かせ」は早期教育としての効果が見られるという研究に基づいて奨励がされているが、つまり「奨励する必要性がある」ような文化体系となっている。一方で日本文化では、それより前から読み聞かせが一般的な文化として定着していたと言える。

目次  #### 蛇足:情報:「顔」を識別すること 客観的な評価として漢字文化に対しては「漢字は学習にかかる負荷が高い」と説明しやすいところであるが、おそらくは非漢字圏から感じられているよりも、親しんでいる人たちにとって学習済みの漢字を読むことへの負荷は非常に低い。この関係は「人の顔の識別能力」に例えると分かりやすく説明できる。 一般的な技能として、社会に暮らしていく中で、他人の顔から相手が誰であるのかを識別する能力は自然と身についていく。それも人体として「パーツの位置関係はおおよそ同じ」であるにもかかわらず細かい違いを無意識に認識し、そしてその相手が誰であるのかを直感的に判断することができる。 それは多くの人の顔を見慣れていることで、些細な違いを認識できるようになり、個人を識別できるようになっていくと整理でき、また「見慣れない人種に対しては、個人を識別することが格段に難しくなる」という点も同時に説明できる。文字の識別もまた、「人の顔の識別」とおおよそ同じと言える。 また文字と顔の比喩の例えは「明晰に判別することはできるが、その形を自力で表現することはできない」という問題もまた明解に説明できる。慣れ親しんだ人の顔は瞬時に判別できるが、その顔を記憶から描けと言われて、精確に描くことは極めて困難であることは明らかだが、判別に困るわけではない。 さらに実態として「アルファベット言語の文字列」の認知・識別も、事実上「人の顔の識別」に近い現象によって実行されているものであると説明できる。特に英語においては表音文字でありながら音から文字を復元できないことも多く、難しい単語では「読めるけど書けない」という状況は当然ある。 なお人間にとって文字を読む際の「文字列の認知が非常にファジー・あいまいな処理である」という現象について、「単語の中身に入れ替わりが生じても自然と読めてしまう」という有名な実証実験が知られている。また実証実験ではないが「草書体・筆記体が実用できる」という点も同様の現象で整理できる。 人間は論理的な整理よりも感覚的で、柔軟かつ効率的に運用していると説明できるわけである。もちろん、漢字体系は覚えるための学習の負荷と筆記における負荷が高いという実態もあると説明できるが、日本語では回避手段に表音文字があり、また現代ではデジタル技術での補助によって効率化もされている。 ちなみに、英語でも字と音の不一致の事情から「言葉・音は分かるが、文字列は分からない」という筆記での問題はあり、その回避手段には共有性の低い不確定な表音筆記を使うことになる。しかも、日本語では表音文字の回避が明らかに「暫定的」であると理解されるが、英語では注記が必要となる。

目次  ### 蛇足:社会:「英語が常用されない文明国」と観光 日本社会においては「英語は特殊技能である」という位置づけであり、社会一般における英語への理解度について「世界的に見て先進的な文明国でありながら、英語を使える一般人が著しく少ない」と説明できる。日本の制度教育でも、英語教育は多少あるものの、実用にはほど遠い様式となっていると評せる。 日本語社会は、国内での活動で英語を不可欠とする場面はかなり狭い領域に限定されていると説明することができ、英語を学習することの「利点」や「労力に対して、生じる恩恵の効率」という点において著しく小さいと説明することができるため、特に制度教育において英語は重要性が著しく低いと言える。 日本語社会では、まず社会一般において英語を必要とする場面がほぼ存在しないと言える。また知識領域においても、その大部分を母語によって学習・運用することができ、英語を必要とする場面は極めて先進的な領域や、特殊な領域に限定される。文明社会でも、日本社会は母語のみを基盤とした社会である。 多くの先進的な文明国では「教育を受けていれば英語の学習はしているはず」と言える。世界における一般的な観念として、文明社会の人間なら事実上の国際共通語である英語を当然として使えるようにねるべきものという常識が根付いているとさえ考察できる。英語が「便利」ではなく「必需」とされやすい。 特に世界中の国々を観光する場合、特に先進的な地域であれば「英語が最低限通じる」ということは少なくないと考察できる。多くの人々が行きかう地域であれば、英語が通じて当然であろうとさえ「錯覚」してしまいやすいとも推察できる。だが、日本は例外的に、人の多い地域であろうと英語は通じにくい。 日本において、英語とはあくまでも「外側の言語」であり、配慮として英語の案内を用意されていることはあるが、日本社会にとっては必須とされていないものだと説明できる。日本社会にとって、英語は公用語ではなく、英語圏にとってのラテン語に例えることもできるような、「異質な言語」だと言える。 そもそも英語は事実上の国際共通語であっても、自然な共通語でもなければ国際的な制度上のものでもなく、あくまでも「各国・各地域の社会的な事情・社会的な要請に基づいて、特定の地域にのみ普及している言語」でしかないと説明できる。特に、日本からすれば外国語の一つでしかないと言える。 特に、本来、旅行先の言語を使えない人間が、旅行先の現地民との意思疎通が困難になることは当然であり、現地民が知らない言葉を当然のように使うことは、それが「事実上の国際共通語」という看板を持つ言語であったとしても、ただ無作法で非常に理不尽な振舞いであると整理することができる。

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目次  ## あとがき 思いついた話題を逐次的に追加して整理していったら、元の散文とほぼ同規模の文章量へと膨れ上がってしまった。文化的な領域にまで話を広げると、話題の射程が広大になりすぎてしまう。しかし、言語と文化は密接に関連していると言えるものであるために、必然的に広がってしまったと考える。 なお改めて書いておくが、内容については冒頭で説明している通り、筆者はいずれの専門化ではないため厳密な精確性については各自の調査確認を必要とする。また散文として、全体の統合的な整理しないまま部分ごとに編集していったため、文章内においても情報が散逸してしまっている。 しかし、言語や文化の理解のためには「多角的な観点から様々な要素同士の関係性」を、逐一広く見渡す必要性があると考えられる。例えば現代の日本人が、一般的な規範性が高い社会を形成していることを、古来から安定した社会であったなどと単純化した表層的な理解のみでは、明らかに不十分である。 特に「どのような文化を持っているのか」についてを、現代における文化の状況のみを手掛かりとして、単純な理屈によって由来や機序を整理してしまうことは、分析を粗雑にし、理解を遠ざけしまう。あらゆる文化はその文化が形成されるまでの歴史を持ち、理解するための分析は古来から考えるべきである。 そのためには「歴史学」という表層的な記録の整理だけでは不十分であり、しかし「考古学」という局所的な洞察だけでも不十分である。それに加えて「言語学」から「社会学」や「認知科学」「教育学」などにも及んでいく領域であり、これらを統合的して考えることは「学問的視点」では至難とも思える。 私は学術的活動などではなく、あくまでも「どのように考えることができるのか」という視点によって、これらの情報を整理して書きまとめている。日本語がいかに実用されているのかと、英語の難しさを強く論じてしまっていることについて、母語が日本語であるという影響も大きいだろうとは自覚している。 しかしながら、細かい様式の違いや、それを形成した歴史的な実用の積み重ねといった情報を見渡せば、英語が難しいという実態を否定することはむしろ人類にとって不誠実であると、改めて強く考えられるという考察に至ることになる。また、その比較対象として、対照的な文明言語の日本語が適していた。

目次  ### 日本語のむずかしさ 日本語では、日本語話者さえも自然と「日本語は難しい」という感想を持つが、その自認とは日本語文化が「言語というもの自体が、難しさを含むものである」という実態を自覚しやすいことも多いと言える。一方で英語は不合理な難しさも抱えながら、世界的に使われていることでそれを容認し続けている。 日本語文化は非常に深い身体性を持って活用されているため、身体的な感覚を必要としがちであるとも説明しやすいが、感覚的な修練が必要となることはどの言語であっても同じであると言うべきである。もちろん日本語が「擬態語」という感覚的表現が、体系的に整備されている点は特長的ではある。 日本語の難しさとは「使うことが難しい」のではない。深い学習には「覚えることが広がりすぎる」ために、母語話者ですら「一生勉強」とすら言える規模を持つとも言い表せるが、最低限の意思疎通における要求水準や要求精度はむしろ非常に低い。一方で、英語は基礎的な領域でも実態として難解さを持つ。 そもそも、言語において「高度に学ばず使える領域」は限られるものである。社会文明を支えられる言語となれば、高度な領域が拡大していくことも当然のことであり、これは言語の世界を拡大させなければ高度な文明を支えられなくなるとも言い換えられる。文明において言語を学ぶ必要性は、回避されない。 日本語の特殊性と言える「日本語は難しいと自認されやすい」という現象は、極めて日常的な範囲にまで「高度な言語領域・高度な知識体系の片鱗が降りてきて、その頂上が見えない」と表現できる。しかし日常的な分は「必要とされて使われているもの」であり、容易でないとしても合理的な運用だと言える。 また日本社会では日本の教育・文化の環境下で育つことができれば、順当に日本語の感覚性は育てられていき、必要とされる日本語の感覚性を身につけられる環境を用意していると考察できる。実態として、そうした言語体系であっても、日本社会は十分に高い安定性と安全性を形成できていると言える。 むしろ「日本語は難しいと自認されやすい」と言えるほど、高度な領域への高い接続性と汎用的な実用性を成立させている言語体系を持つことそのものが、学習文化の重要性を一般にまで広く自覚させることを導き、教育の重要性が自然と理解されやすく、日本社会を効果的に前進させているとさえ考察できる。 特に、高度な知識領域へ挑戦しやすく・学習へ繋げやすい体系を持っていると言える一方で、しかし一般的な生活の範囲において求められる水準が極端に高度化されているわけでもない。むしろ一般向けでは過剰な高度化は避けて表現する文化が形成されており、日常で困ることは抑制されている。

目次  ### 日本式社会の実在 この話題において重大なのは「言語的な独立性を保った国家が先進的かつ安定した社会文明を形成している」という事実であり、「非英語・非欧州言語の地域において、しかも英語・欧州言語とは大きく異なる言語様式によって、現代文明の知識体系の実用を十分に実現している」という社会の実在である。 もちろん日本国内でも英語は実用されているし、英語文明の力を導入しており、英語を基盤とするシステムなどの活用も行っているため、英語のそのものの必要性が無いわけはない。しかし、日本国内の活動では、英語は「手段の一つ」や「道具の一つ」であり、「数多のアルファベット語の一種」でしかない。 特に、世界人類の知識体系はその実態として「英語への依存」を強めており、実態として「英語または主要欧州言語をできないことは、世界的な知識体系を扱うことが困難になる」という事実が存在する。日本の高度分野においても、先進的な情報や機材の多くが英語などであるため、回避できるわけではない。 そして多くの地域において、英語ができるのならば母語へ翻訳する必要性や必然性が著しく限定され、あるいは母語へ翻訳できるかどうかさえも怪しいことが珍しくもない。しかし日本国内においては、知識体系を原則的に日本語で再構成し、日本語の領域への取り込みを当然のように実施する知識文化を持つ。 日本語文化にとって他言語の知識体系は「知識の輸入相手」であり、英語さえも「知識体系を扱うための言語体系」とはしていない。特に言語的な社会規模が小さい国では顕著な傾向として、「高度な知識体系では、英語を重要な基盤として扱う」という教育方針を持つ国もあるが、日本語は例外の一つである。 日本語社会は「人類文明にとって偉大なる言語である英語に依存もせず・従属もせず、文化的に母語を基盤としたまま高度な知識体系を構築でき、高度な技術も実用できる文明社会を形成している」と説明することができ、そうした高度かつ安定した社会文明が世界に実在していることが、重大な事実である。

目次  #### 「リソース」という問題 日本の言語的な独立性を保つという言語文化は、「英語などの情報をわざわざ翻訳する手間をかけている」という不効率性を語られやすい。つまり「英語を使えるようにすれば、翻訳する手間を著しく削減できて、国際的に効率的な交流をしやすくなるはず」と考えられるが、それは局所的な理想論である。 「一般的に英語を使えるようにする」という教育とはつまり、「制度教育で、基礎的な学習性が母語話者であったとしても教育制度において最低限の読み書きだけでも2~3年程度を必要とする英語という難しい言語を、さらに長大な時間をかけて高度に学習させる」という、極大のリソースを費やす理屈である。 しかし時間は有限である。基礎教育に使うことのできる期間は限られており、その中で取捨選択をして制度教育は整理されている。「英語を使いこなせるようにする」という目標を基本とする場合、その他の教育に使われていた多くの時間を削減して、教育課程を甚大なほど圧迫せざるをえないことになる。 先進的な分野の研究環境において「他の国の科学者は、基本的に自力で英語を使うことができる」という考察をされることもあるが、それは「科学者になる前に、英語や最低でも主要な文明言語を使いこなせる人間でなければ、科学者になれる可能性自体が閉ざされやすい」という問題の裏返しでしかない。 特に現代であっては、どれだけ優秀な人材であったり熱心な人材であったとしても、「英語が致命的に苦手である」という場合、多くの国においてそもそも科学者になる道が閉ざされると説明するべきである。許容される社会は、先進的な知識体系を母語で整理している、主要な文明言語を使う地域のみである。 どれだけ論理的思考や数理への強さ、あるいは尋常ならざる精神力や根気強さを持った探究心といった、学術分野において有効に働きうる能力を持った人材であったとしても、制度上あるいは事実上、英語を不可欠としている環境の場合「英語が苦手」なだけで、学者になることが非常に難しくなると言える。 知識体系において母語以外の英語へ依存している地域では、学者となるために「研究分野そのものではない知識体系に対して、数年単位に及ぶ学習と深い習得」という大きな寄り道を強要されることになり、もしその学習につまづいたり・くじけてしまったならば、素質に関わらず除外されやすいと説明できる。 そして日本語社会は「先進的な知識体系を母語で整理している主要な文明言語を使う地域」の一つである。日本において、英語が苦手な科学者がいるという実態は、英語が苦手であったとしても研究が可能な「高度な知識体系を母語によって扱うことのできる文明社会であることの証」のようにさえ表現できる。

目次  #### 英語は必要になっても前提ではない 日本の基礎教育では、母語・英語など語学に過大な時間を取る必要が無く、その分、広い範囲の教育学習が実施される。一般的な国語・算数・理科・社会だけではなく、生活・家庭科・技術、音楽・図画工作・美術、保健・体育、外国語、そして道徳など幅広い指導要領が規定され、実施されている。 日本における学校教育とは「スペシャリストの選抜」ではなく、「基礎的な教養の底上げ」と「可能性の模索」としての役割が大きい。制度の設計として、スペシャリストは「一般的な教育課程」において望むものではなく・望まずに出現するものであり、一般的な水準の向上を重視していると整理できる。 もちろん、日本社会であっても先進的な環境・国際的な環境を含む分野などでは、英語の実用は避けられないものであり「必要に応じて学ぶ必要性」そのものは存在する。しかし必要になる前に要求される英語技能は小さく、「後から学ぶ」ということが許されるため、技能習得に極大の猶予が得られる。 また、日本の進学は特に「総合的な学力」を要求し、それによって資質を見定める形式によって運用されている。そのため「特定の分野にのみ特化している」という場合は日本においても道が制限されやすい傾向はあると説明するべきである。総合的な「学問への適性」によって人材の選抜を実施している。 ただし、特に高度な分野ほど根気強い努力を要求されるものであり、また学術・科学においては知識的な視野の広さも重要となる。不得意の広さによって制限されてしまうとも言えるものの、「知識活動への総合的な耐性」は少なからず必要となるものであり、その資質を無視することも不合理になる。 翻訳作業も、広い教育の中から現れる広い人材によって、幅広く実施されているとも言える。国際的な場面における工程では翻訳という手間や作業を必要とするものの、専門分野と位置付けることによって、国内で広範囲における情報入手のコストや分野へ参加するためのハードルを格段に押し下げている。 つまり教育基盤を背景とした、知識基盤の整っている日本語文化においては、むしろ「日本語にしてしまう方が高効率になる」と説明できる。また母語を成熟させることによって、わざわざ「常用していない外国語」という不安定さを抱えるより、言語的な安定性や安全性もはるかに高くなると整理できる。 注記として、外国語は基礎的な学習のみで高度に扱えようになるわけではなく、高度な運用は相応に難しくなる。常用して親しんでいなければ、言語的な不自由は克服できない。当然、高度な分野ほど言語運用も難しくなり、不慣れな言語を基盤とすることは理解不全の危険性を著しく上げると言える。

目次  ### 英語は最良でもなければ最善でもない 現代の人類文明にとって、英語が機械技術的にも中核的な言語として使われているため、人類は英語から離脱することは事実上不可能だと説明できるが、しかしそれは「慣習に基づく実態」であり、物理的な法則でもなければ、論理的な必然でもなく、未来における立場を確定させるものでもないと言える。 仮想的な思考実験として、十分な論理的機能のある言語が、より先進的な社会文明を発達させ、「古来の技術体系もその言語によって整理され、さらに先端技術がその言語を中心として編纂され続ける」という事態が継続した場合、現代英語の持つ技術面のアドバンテージを失うという可能性は、否定されない。 その限定的な実証として、小規模な社会において実践されている先進的文明社会の一例が、日本である。世界規模で使われており、事実上の国際共通語となっているが、日本国内においては「外側に多数存在する外国語の一つ」でしかなく、英語ができることに専門性の強みはあっても「技能者」でしかない。 また、現代において英語へと知識が集まる理由は、英語圏が制度的に他言語を英語化しているのではなく、そのほとんどは「他言語地域が自発的に、積極的に知識の英語化を進めているから」という状況であると考察できる。勝手に知識が英語へと集まる、言語の地政学的な中心を確保しているからである。 もしも万が一、英語圏が著しい停滞を引き起こす事態になり、英語がその先進的な地位から落伍した場合には「過去の遺産」として埋没していくことになると予想できる。しかも、「高度な知識体系を英語体系へ落とし込む」という技能者が十分に育たなければ、英語は追従さえもままならなくなる恐れもある。 その仮想的な問題の重大性とは「英語圏の先進的な国々が総じて、英語の先進性を維持できなくなった場合、追従してきた英語圏も停滞する」という巻き添えを引き起こす点である。現実的にそうした事態が発生する可能性は限りなく低く、極めて遠い未来にしかないと言えるが、理論上そうした関係性である。 技術的な領域においては全く現実的な問題ではなく、過剰に憂慮する必要性はないと説明されるところであるが、文明的な先進性が明白である領域は、技術分野に限られるとも整理できる。それ以外においても、実用において致命的な不便ではない様式を持っていると言えるが、万能性を保障するものではない。 最も無自覚に生じる致命的な問題を論うならば、哲学的な思考体系は言語の文化的な整備の度合に強く依存するものであり、高度な知識体系を英語に依存し、哲学的な知識も英語によってのみ扱ってしまうならば「英語が苦手とする領域」が欠落し、そして欠落を認識することも著しく困難になる恐れを語れる。

目次  #### 言語の不完全性 注記しておくが、もちろん日本語が万能と言えるわけではなく、世界にとって最も妥当な言語であるとも説明しない。特に日本語は「幼少の環境から学習が始まり、家庭環境から制度的な領域まで、持続的な教育・学習による習熟を前提としている」ため、要求される文化水準・社会水準は非常に高度である。 日本の教育環境であっても、当人の資質や興味だけなく、家庭の文化資本などによっても培われる能力は大きく左右される。日本の公教育では「幅広い教育内容によって人間性を育み、社会的な能力を鍛えること」を実施する方針で、下側の格差を抑える制度思想を持っていると言えるが、個人の不全は生じる。 普遍的な理屈として、高度な文明社会が成立し持続するには社会の構成員が尽力し続ける必要があると言える。日本語社会が成立し持続していることもまた、日本社会が尽力し続けることによって成立しているものであって、積極的かつ自律的な「教育文化・学習文化」によって支えられているものである。 しかし自然言語の普遍的な法則において、その言語社会の尽力が停滞した場合、その地位を自然と失っていく。その問題は「世界の言語史」においても見られた事象であり、当時において巨大な文明の知識言語が存在しながら、中心性を失ったり、歴史的連続性を現代へと持続させることを失敗した言語もある。 英語においては歴史上の言語とは異なり、極めて巨大な規模によって使われていることで、利便性のために「自然と多くの人々が学んで使う」という臨界点を通過しているとも評価できるため、その地位は極めて強固であると説明できるが、それが英語そのものの万能性を示すものでもない。 言語とは世界に元から存在してたものようなものではなく、人間がその営みによって形成していき、共有し発展させてきた「文明的な道具の一種」である。浅学な人にとって言語は世界の始まりから存在していたようにも思い込んでしまうことも珍しくないと言えるが、言語とは「社会で作られたもの」である。 しかしかといって、それも一般に使われている自然言語とは、人工的に理想的な形式を前提として形成されたものではない。人類がその営みにおいて発生した言語を、長い歴史でその時代その地域で使いやすいように使われて、整備あるいは摩耗させてきた結果の「妥当な様式」が、現代で使われる言語である。 言語は「広く使われることによって、広く使えるものとなる」という事情があり、人々にとっては「使える範囲において使う」という実用に基づく妥当さへと傾斜していくものであり、それは「論理的な効率性」ではなく「経験則による効率性」であり、しかしそれによって、言語は不合理をも抱えるのである。

目次  ### 日本文化の哲学基盤 現代の日本文化に根付いている根本的な思想・感覚として、「自分ひとり、あるいは1家族だけが生き残ったとしても、日本地域という環境では必ず生活が破綻する」という自然環境に対する畏怖が、無意識的に存在すると説明できる。それほど日本地域の環境の過酷さを身体的に理解しやすい環境である。 日本の主要な地域では、対策なしに冬を越すことは不可能である。冬場には必ず暖房が必要であり、古来であれば食料の備えをしなければ当然として死に至る環境である。しかしかといって夏も過酷であり、現代では特に冷房なしでは夏を越すことすらままならない。生活の計画無しには簡単に死ぬ地域である。 日本文化には「この世界は人類にとって、社会を安定させるように努めなければ、生きていくことが許されない」という感覚性が、文化的な基盤に深く根付いていると説明できる。実際に、日本文化は、社会性の教育を重要視し、また知識教育も「制度化される前から庶民が望んで普及した」歴史を持つ。 現代で典型的な欧州文化における「道徳・規範」とは、「宗教的な教えによって与えられる知性」だと説明しやすい。しかし日本文化における「道徳・規範」とは、社会に当たり前に存在するものであり、個人にも存在しているべきとされているものであり、喪失することは「社会を失う」と説明できる。 宗教性の強い文化圏では「知性のある神様の代理・高潔な指導者が決めた規範を守ることで社会は保たれる」という感性を持つことは珍しくもないと言える。しかし日本では心理的な拠り所はあっても、規範とは「社会全体が個人へと規範を継承し、協力して社会を守っていく」という感性を持ちやすい。 宗教性の強い文化においても「社会のための自己犠牲」は実行されれば高潔な行為である見られやすいと考えられるものの、直情的な判断ではない領域で実行できる人間は極めて敬虔な人に限られやすいと考察できる。しかし、日本では「社会のための自己犠牲」の状況が、珍しくもないと観察できる。 「自己犠牲」というと大げさであるが、つまり「我慢・譲歩・遠慮・配慮」などによって不利益を甘受することが、一般的な領域において珍しくもないということである。なお「直感的な判断」、例えば人助けのための危険な行動などであれば、おおよそ人類の普遍的な行動として確認できるものである。 日本の「自己犠牲」の詳細な実態とは、厳密には高度な規範性や高潔な道徳性などと言うよりも「社会が安全で効率的に回るのであれば、それは妥当な状態であり、そのための行動や判断が実施されるべきである」という社会的な感性だと考察できる。そして、それが時として強烈な自己犠牲も生じさせる。

目次  #### 人間の世界 主要な欧州文化などでは「人の命」特に「自分の命」という概念に対する心理が大きく異なると言える。現代の日本文化においても、命は尊いものであり大切にされるべきものであるとされるが、しかし社会的な実態・現実として「その命は社会によって育てられ・生かされている」という感性を持ちやすい。 欧州文化の世界観では基本として「命とは神によって個人へ委ねられているものであり、神によって与えられている命は、元々は神のものであり、神に委ねられている命を大切にするべきであり、それを無目的に軽んじることは神への冒涜にも等しい」という文化的な価値観を持ちやすいと説明されやすい。 しかし日本において人の命とは、現代的な道徳観においては個人の専有物であるものの、文化的な世界観に根付いている感性とは「社会の共有物でもある」とも言い表せる。実態として「命を粗末にすること」について、日本で最も一般的な視点では「生きている人が悲しむから」と現実的に言い表される。 現代の日本社会では、特に「個人に対する社会の補助」は非常に膨大であると説明しやすい。まず生まれる前の「親が生きてきて出産をしてもらうこと」から既に、社会の支援・援助・互助が生じており、生まれてから育つ間も社会の互助や、育てば公教育などの社会制度の恩恵を受けて、社会へと慣れていく。 人間はその誰もが「誰の助けも受けずに生きてきたわけではない」という合意が、自然と意識されやすい社会環境を持つ。もちろん、外れ値などはどの文化でも生じるものであり日本も例外ではないが。「社会のために生きろ」という観念は冷たいとも考えられるが「社会の互助を忘却させない」とも言える。 他にも日本文化は「人類の努力」を、おおよそ神仏の御業とはしない。人類文明は、人間の責任の下、人間が尽力することによって発展させてきたものであり、また人間が尽力することによって継続されるものである。これらは人の持ち物であり、「神秘の力」は人間が持てない領域に存在するものだとする。 日本文化にとって神仏の領分とはおおよそ「人の力・自分の力では本当にどうにもならない領域」を任せるものであり、しかしそれは「人間の力でどうにもならないものを短期的には受け入れても、この世の事象なら長期的には克服する努力をするべきである」という様式を導いてきたものであると説明できる。 特に現代日本人の多くは無宗教を自認しており、特に「宗教的な教義に対する帰依」をしている例は特殊な人であるとさえされる。宗教的な文化の世界観では、規範性の放棄にさえ見られやすいが、その実態は「人間の責任や義務」という観念を直視することに、宗教の思想基盤を必要としていないだけである。

目次  #### 文化の箱舟 そうした日本文化における基礎的な思想哲学を過去から現代に至るまで運んできたのは「昔話・童話」であると説明できる。記録だけではなく口承によっても広く多くの童話が古くから継承され続け、それを幼少において読み聞かせされることで、文化的な感覚性の基盤を作り、支えてきたと言える。 特に現代に残る童話の多くでは、社会的な教訓を持つものが多い。『鶴の恩返し』や『笠地蔵』などに代表される「何かを助けると、助けてもらえる」という互助の話、『かちかち山』『さるかに合戦』などに代表される「他者を害すると、それだけ多人数から社会的な報復を受ける」という規範の話である。 こうした童話は、類型が各地へ散らばるように確認されており、特定の話が記録のみによって一律にもたらされていたわけではなく、口承によって広まっていったと説明できる。現代では出版文化により、子供向けの絵本として多くの童話が扱われている。それによって、地域社会は規範教育を実施してきた。 規範性や社会性の教育において、宗教的な教義だけではなく、それよりも身近な世界の昔話の形として、多くの童話が情操教育に使われてきたと説明できる。昔話の中には当然として、宗教的な影響も確認することはできるが、話の根幹とする例は限られ、主に舞台設定として共有されていると整理できる。 現代では外国の童話も多く見られ、日本でも人気の外国の童話は、普遍的に重要な教訓を持つものも多いと説明できる。『三匹の子ブタ』は建築と互助、『オオカミ少年』は嘘の禁忌性、『アリとキリギリス』は備えの重要性。協力をする『おおきなカブ』などは教育でも使われる。他の系統も当然見られるが。 さらに時代が進み、また子供も大きくなっていくと、現代的な子供向けコンテンツがその役割を引き継いでいく。日本では子供向けの物語を創作する文化が事業的に成立しており、時代に合わせた更新をしながら教育的な性格を持ちつつ、当然、子供が興味を持って楽しめる形によって物語を広めている。 その現代的な子供向けの物語にも、昔話から続く文化的な精神性は根付いており、社会において大切なことを示したり、あるいは知識・教養を広める大きなインフラとなっていると説明できる。こうした文化によって、現代では多くの日本人が「社会に対する哲学的な自律性」を備えていくと考察できる。 多くの日本人が無宗教であることを自認しながらも、日本社会が一般的な範囲における広い安定や安全を実現しているのは、民族や時代の奇跡による産物などではない。日本文化がその過酷な環境に対して、技術的にも文化的にも、歴史的に積み重ね続けてきた尽力の結果、日本社会が成立していると言える。

目次  ##### 蛇足:代表的な昔話 蛇足として、日本では江戸時代にごろから童話の文書記録・書籍の出版も進んでいく中で「五大昔話」と呼ばれる枠組みが見られるようになっていったとされる。細かくは入れ替わることもあるとのことだが、基本的には『桃太郎』『さるかに合戦』『舌切り雀』『花咲か爺』『かちかち山』の5本とされる。 『桃太郎』は、分かりやすい勧善懲悪の物語であり「主人公が仲間を集めながら協力して巨悪を倒す」という流れである。日本人であれば避けて通ることはないと言える童話である。主人公は「食べ物を求められ、分け与える」という形によって、仲間を増やしており、緩やかに互助性も表現されている。 『猿蟹合戦』はより直接的に「いじわるを戒める」という物語であり、「悪いことをしていたら報復を受ける」という流れである。昔話ではよくあることだが、古い記録ではかなり苛烈な内容であった場合もあり、時代によって、その時代の倫理観に応じた、徐々に穏当な流れに収まっている。 『舌切り雀』は主に「強欲はろくなことにならない」という物語であり、慈悲深く誠実で謙虚なお爺さんにはうれしいことが、無慈悲で強欲なお婆さんは大変な目に遭うという流れである。近代以降の翻案では簡単にされがちだが「心配から大変苦労して、雀を見つけて謝る」という誠実さに報いる話でもある。 『花咲か爺』もまた「強欲はろくなことにならない」という物語であり、やさしい老夫婦にはうれしいことが、いじわる老夫婦には嬉しくないことが、連続性を持って生じるという流れである。類型の童話も確認されているが、話としての印象深さ・象徴性によって花咲か爺の形が広く定着したと言える。 『かちかち山』も「悪行を戒める」という物語であり、典型的な「悪いことをしたら報復を受ける」という流れである。なお、この昔話も古い記録ではかなり苛烈な内容であった場合もあり、現代的な翻案では和解によって終幕することもある。しかし、その印象深さによって語りづかれていると言える。 代表的な昔話にはこの他にも、「たとえ権力や財力があっても、人の心は思い通りのならない」とも説明できる『かぐや姫』、「極端な享楽に惚けていたら時間はすぐに経ち過ぎる」とも説明できる『浦島太郎』、「恵まれない体躯でも勇気と知恵で立身出世できる」とする『一寸法師』などがある。 またこうした物語の精神性が継承され、人々の規範性や倫理の感覚を形成していくことで、後世の物語・現代の創作においても非常に大きな影響を及ぼしていると考察できる。宗教的な地域では宗教の教えや物語によって規範性を広めているが、日本では「人が語り継ぐもの」で規範性を広めている。

目次  #### 言語の重要性 そして、現代の文明的な日本社会を広く成立させている基盤の一つこそが、「日本語という言語体系」であると上げられる。日本文化では多くの子供が早期から読み聞かせなどなどから多くの言葉と文字を学習でき、制度教育の1年目頃には、多くの児童が子供向けの本をおおよそ読めるようになると言える。 日本語は「明晰な表音文字」を基礎として、直感的に識別しやすい文字体系も整備していることで、その基礎の学習が著しく早い。アルファベットの組み合わせ型の表音文字では識別に分析が必要であるため習得がやや遅れやすいと説明でき、英語に至っては表音文字なのに字と音の接続性が悪く、格段に遅い。 日本の子どもは、文章を読めるようになる段階が早いことで、自主的に本を読み始められる段階が早く、より多くの社会的な情報を受け取れるようになっていく。重要なのはそれが一部の高度な家庭のみに生じていることではなく、一般的な家庭の例として、小さい子供が文章を読めるようになるのである。 他の多くの国において、例え先進的な国であっても「子供が本を所有して自主的に読む」という行動をすることは、一般的にはそれほど早くはなりにくく、例外として高度な家庭なら親身な教育によって早く読めるようになる場合はあると整理できる。日本語文化では、外国の例外が一般層にまで広がっている。 その社会的な実証として、日本の制度教育では「基礎教育1年目から児童に教科書という教育書籍を多数所有させ、児童自身に自主的に管理させて、読ませながら教育を進める」という方式が、一般的に存在する。一方で、英語圏の基礎教育では一般的に、児童へ本を早期に所有させることは珍しいとされる。 実際の学力状況は結局のところ、資質や家庭内の文化にも大きく左右されるものの、文化の基礎的な部分における強固な基盤の実在を説明することができる。「言語の地政学的な関係性」において、事実上の国際共通語である「英語」を必要としない文化を持ち、しかし必要しない難点も存在するとは言える。 「言語の地政学的な関係性」として、世界の中心的存在であらゆる情報が自然と集積される「英語」という強大な言語に対し、一方で日本語は言語体系としても文化としても最も遠い位置だと言える。つまり日本語は「言語の地政学的な関係性」で、世界に対して極端な不利を背負っていると説明できる。 日本語社会は、その独自の言語体系による「言語の地政学的な関係性」における大きな不利を持ちながらも、実態として、その独自の言語体系を基盤としたまま、世界の先進的な国々に伍する立場に到達し、存在感を持った代表的な国家の一つとなり、またその立場を長年に渡って守っていると説明できる。

目次  ### 日本教育の様式 日本語文化では教育において基礎的な読み書きが著しく早く、言語学習に費やされる時間が減ることで多彩な教科・ジャンルの教育を可能としている他、「自主的な学習」も当然やりやすい。そのため、日本の学校教育とは一般的にも「学校でしかできないことを提供する」という役割が大きいと考察できる。 例えば日本の義務教育は、原則的に「同じ地域の子どもたちを集める」という様式であり、特に人の多い地域であれば、多様な家庭の子供たちが一同に集まり、地域社会の縮図として社会性を学ばせる効果があると説明できる。特徴的な地域では、偏った子供が集まるとは言えるが、一般的にはその幅は広い。 典型的な所として、日本の一般的な小学校・中学校では「貧富に関係なく、同じ教室で学ぶ」と説明できる。日本でも極端な地域差による分断、早期の上位層向け学校への分離、あるいは社会的な事情によって、民族や宗教での分離といった傾向も皆無ではないが、一般的には他国よりも限定的と考察できる。 日本の学校教育では、その理念として「学問を学ばせる」ということはあくまでも「方法であって、主目的ではない」とも説明できる。日本の『教育基本法』における教育の目的とは、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備え~(略)」とされている。 もちろん、日本でも一般的な家庭において「学校における成功とは、学力を上げることで高度な学校へ進学することや、もしくはスポーツなど特定分野において結果を出すこと」などを強い目標としてる例はあるが、日本教育の基礎的な理念とは「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成である。 つまり学校教育では「社会的に文化的な生活を安定的かつ持続的に営むことのできる人間」として育てば、たとえ最終的な学力に不全があっても、教育として十分な役割を果たしていることになる。あるいは反対に、優れた知性や能力を持った人材が育つとしても、社会を知らない人間では不十分となる。 日本社会における規範性や社会性は、そうした社会的な理念に基づく学校教育によっても支えられているものであると説明できる。実態としては、完全ではなく様々な人がいることも現実として確認することもできるが、制度としては、可能な限り多くの人間が社会的な生活を送るための支援を行っている。

目次  #### 部活動 日本における特長的な教育文化として、課外の「部活動」を上げられることがある。これは学校が、特定の文化的活動へ参加する「環境を提供すること」で成立している制度である。これは中学校から本格化をし始め、より専門的な社会集団に属する教育を課外で実施し、社会性を高めさせる効果を考察できる。 受験を必要とする高校への進学では、子供によっては「特定の部活動が活発な高校へ進学する」ということも珍しくなく、その専門性をさらに高めていくことも多い。特長的な私立高校であれば部活動の方が中心となり、学業の比率を抑えてまで専念させることもある。ただし社会性ではむしろ厳しく見られる。 特に日本では多くの部活動において「広域の大会」が存在し、高度な部活動をしている学校であればそれを目標として指導が実施される。それも「外部の人々と接触する」そして「社会からの注目を受ける」という社会的な立場であるため、相応の高度な社会性を持たせることがその安全において重要となる。 部活動を継続するため・特に大会へ出場するためには、実力よりも前に、社会的に認められる立場を維持していなければならない。もし社会的な立場を揺るがされる事態が起きた場合、それが個人の問題でも部活動そのものに深刻な影響を及ぼすため、指導者は特に、社会性・規範性を重んじなければならない。 部活動では「部活上の技能とは、集団・社会においてのみ有用とされるものである」ということを自覚させなければならないとも説明できる。集団では特に、ただ能力を持っているだけでは不十分で「能力を持った上で、信頼されて、役割を任されることで初めて、技能を使える環境が与えられる」と言える。 そうした中では、個人の問題が集団の責任へと連対されてしまうこともある。一個人の問題を集団へ責任の連帯に論理的な整合性が不十分という論理もあるが、特に社会や自然環境などでは個人の逸脱が大きな崩壊に繋がる危険もありえるもので、「問題の矮小化」は恐れられなければならないとも整理できる。 集団における個人の逸脱した問題は「集団が個人の問題を防止する機能を持っていないこと」を示してしまっていることも事実だと言える。責任を個人のみに押し付けることは表面的には論理的であると言えるが、だが「教育機関」ではなおさら「集団の機能不全」も十分に疑われなければならないと言える。 また特に、高校における部活動とは「目標と同時に、期限が決められた活動」である。哲学的に、その環境において最も求められるものとは「自らに後悔しないこと」であると考察できる。目標を達成することは容易ではなく、また多くは挫折をする。その中で「活動そのもの」に打ち込む精神性が磨かれる。

目次  ### 現実的な合理性 日本社会の根幹は「実社会に準ずる現実的な合理主義」という観点によって説明できる。単なる合理主義では、人間性を喪失させるばかりの思想となってしまうが、日本社会は「社会とは人々が協力し合うことによって成立している」という現実的な前提に基づいて、人間性も重要な判断の基幹としている。 例えば欧米的な世界観では「言語化された理知によって社会は理性的に統制されるものである」という思想文化が強いと説明できるが、それは「言語化できない領域を重視することが困難である」という実情があり、現実的な実効性においても理想的な社会への統制が実現しているとは言い難い、理想論である。 さらに古くから続く文化領域となれば「明文化された規範」が膨大化しており、これを実用することさえも十全にできているとは言い難い。特に明文化された規範の内部において、十分に想定されている事態があっても、それにたどり着き、理解するまでが遠くすぎて、実効力を持たない部分も珍しくない。 日本の社会性は度々「暗黙に依存し不明瞭である」とも言われやすく、また欧米的な世界観にとって「規範が十分に言語化されていないという状態は、理性的な文明としての整備が不十分な状態であるはず」という解釈をされやすく、無宗教の自認を含め、日本の文明性は疑われてきたと説明できる。 しかし日本の社会性とは「幼少期から社会的な経験を積み重ね、現代では特に社会的な情報を童話など様々な物語も通じて継承し、規範や道徳性を内在化していく文化」という文化体系なだけであり、「規範の明文化の必要性が減らされている」という実情によって、明文化が最小限で済んできたと言える。 「暗黙の規範性」は、欧米的な世界観においては信じられない脆弱な物にも思い込まれやすいが、その実態は「多くを人々が自分で判断する」という社会であり、それによって安定して安全な社会が成立しているのであれば、つまり「人々が自力で必要な規範性を判断できる社会である」と説明すべきである。 暗黙な規範性は「変化に弱い」とさえ考察されるが、実態として「人々が自力で判断できる社会」ならば脆弱であるはずも無く、むしろ細かく明文化されている方が「過去の規範性は過去の環境に合わせた規範性であり、その変革に著しい手間や困難を生じさせやすい」と見る方が、実態として確認しやすい。 日本における社会の安定感として、「日本社会の近代化」が最も大きな実証と言える。日本の歴史の中でも非常に大きく急速な社会変化であったにもかかわらず、従来の規範との衝突による問題は社会を揺るがすものにはならず、特に社会基盤は強く維持されたまま、しかし迅速に近代化へと適応していった。

目次  #### 本質的な適応 日本における「変革の難しさ」とは「流行と権力を背景とした統制の困難性」である。日本文化において庶民は従順性が高いとも説明されがちであるが、日本人が受け入れるのは「社会的な妥当性において納得されるもの」で、妥当性を欠いている場合には、有名無実となることもありえると言える。 また日本文化の保守的な傾向も「生きている人々にとって変革が決して安全ではない」という点を理解されているため、社会的に十分な安全性を持って実行されることが望まれることで、急進的な傾向が抑制されていると説明できる。日本は社会が崩壊したら死ぬ地域であるために安全性は極めて重要視される。 そして「社会的な妥当性を持って納得されるもの」や、また「人々の安全性において重要となるもの」には、むしろ積極的な傾向を示すとも説明できる。日本文化は変化に弱いはずだという妄想は、「状況の変化に対する靭性」では自然災害における被災者の規範性や、感染症対策の高度さによって否定できる。 日本文化からすれば「理想主義に走り極大の負担を社会へと与えながら強行的に前進する」ような様式を当然としている社会こそ、若々しい危険で乱暴な統治であると認識できる。もっと言えば、近年の例において「感染症対策の統制」が不全を引き起こした例を見ると、そちらの文明性を疑えてしまう。 そうした若々しい統治を持続している地域とは、そのような社会体制であっても致命的な崩壊を引き起こさずに存続できる、大きな失敗さえも前提とすることが特別に許されている、非常に恵まれた地域であるとさえ整理できる。その地域において成立するとしても、他の地域において成立するとは限らない。 もちろん、日本社会の全てが理想的に回っているわけではなく、単純に硬直しているだけといった状態も存在したり、短慮が横行する部分もあると言うべきだが、そうした逸脱そのものは外を見ても珍しくはないと言うべきである。現実的な問題として、その全てが理想的に存在することはありえない。 完全に理想的であるとは説明しないものの、しかし、おおよそ「安定を持続させた社会を実現している」という実情を説明できることによって、「十分に妥当な社会である」と評価することができる。また妥当性が疑われる部分では慎重に必要な修正や変革をしていき、その妥当性を現代に合わせている。

目次  #### 日本の技術 現代の日本社会において、様々なものが高い安全基準を前提として、頑強に設計されている。建築基準は著しく高度な水準であり、過剰な資材を使って環境負荷の高い設計をしているとも説明できるが、高度な水準によって「災害の被害」の極限的な抑制を実現し、復興などにおける負荷を軽減している。 またトラブルが発生した場合、その被害とは必ずしもその局所的な領域に収まるとは限らない。特に「建物の倒壊」は、建物という物体のみの被害に留まるわけではなく、建物の中に存在する命やあらゆる財産も被害を受けるため、建物を再建しても戻せないものまでも含まれる甚大な被害を及ぼす。 また建築においては、その持続性を著しく重要としてきた。宗教的な範囲になるが、日本国の宗教領域において、一部の宗教施設では「遷宮」という「建て替え」を概ね20年・約1世代ごとに実施することで「技術の実用による継承」を成立させ、現代においても新たに建設するための「技能」が守られている。 現実的な問題として、無形の技術は実用によって継承されなければ、人の寿命と共に喪失していく。日本の古来の建築では非常に古い建築物も珍しくはないが、全ての建物を当時のまま残し続けることはむしろ技術を断絶させ、倒壊した際の再建が困難になり、永久的かつ本質的に喪失してしまうと説明できる。 では日本社会は抑制された凡庸な技術しか実用されないのかと言えば、例えば鉄道技術においてはその高度な技術研究によって、「新幹線」という高速鉄道では過酷な自然環境のある日本列島においてほぼ常時かつ安定した運行・営業を世界に先駆けて実現させ、培われた鉄道技術は世界へも輸出されている。 移動手段では自動車においても日本の会社が世界的な存在感を見せている。自動車も日本国内における、おおよそ高温多湿から厳しい冬季もあるという過酷な自然環境に対して、物を運ぶことは当然として「命を繋ぐ手段」としても動き続けなければならないという必要に応じた、高い安定性を持つと評せる。 先進性では例えば「QRコード」はバーコードの二次元化で格段に膨大なデータ量を埋め込めるようにしつつ、しかも「瞬時に読み込む[Quick Response]」機能性を持つ。クォーツ式の小型時計の市販も日本が先行・牽引した。しかもこの2つは特許的に公開され、世界中で使われ、社会を変革させた。 それ以外にも現代に至る多くの先進的技術において、日本からの足跡を確認することができる。巨大な市場になる場合では外国企業との共同開発によって実施されている場合もあるが、日本国内での研究から生まれているものも幅広く確認できる。日本社会が、いかに技術開発へ貪欲な姿勢も持つのかを示せる。

目次  ### ジャポニズム 日本に対する世界的な注目度という点では、技術よりも文化的な産物、特にサブカルチャーの方が目立ちやすいとも説明できる。「極東の1地域で、特別に世界へ向けて設計してきたわけではない、独自の娯楽文化」が、古くは「ジャポニスム」、現代でも新しいジャポニズムとして、広がりを確認できる。 古くは和服・着物などの美術性や、あるいは浮世絵などの芸術性が、当時の西洋文化にとって真新しく見られた歴史を確認できる。ジャポニズムの主な特徴とは、多くの場合「地元で楽しまれ、親しまれていること」がおおよそ前提条件となっているものであり、それが他地域にも響くことがあった様子である。 「日本を分析する上でのジャポニスム・ジャポニズム」という現象は、日本地域が容易に生活できるわけではないはずの地域において、社会文明を発展させていくことで、深い余裕・余暇もまた生じていき、その余ったエネルギーが娯楽文化などへも集まることで、高い競争率を成立させた所を上げられる。 特に娯楽産業における競争とは、非常にシビアなものであり「人の心を引き付けられるだけの魅力と宣伝が無ければ、人々は無慈悲に離れていく」と言える過酷な競争分野である。楽しい文化は人々の生活を豊かにする一方で、生存に不可欠ではなく、切り捨てられやすい。それだけの魅力を必要とする。 日本の娯楽産業・サブカルチャーは、豊かな文明社会に基づく巨大な競争関係と、膨大な創作物の上に成立している。現代では多くのアニメ・マンガ・ゲームなど、あるいは楽曲が輸出されているが、輸出先で成功している例とはおおよそ「日本国内においても既に一定以上に成功している」という例が多い。 また日本のサブカルチャーは著しい自由さ、ジャンルの幅広さを持つ。国内のサブカルチャー作品の全てが、幅広い層へ向けて作られているわけではなく、むしろ「好きな人に好かれる」という方向性を極める傾向が多いと説明しやすい。特に、国内向けでありながら、その文化性はむしろ多彩であると言える。 特にミュージックの世界では顕著であり、欧米などにおいて音楽とはジャンルごとに「民族的なテリトリー」の印象が根深いものであり、それを逸脱することは「イレギュラー」であり、偏見に基づく困難がある。一方で日本において、ジャンルと民族の印象は極めて希薄であり、誰もが好きな作曲をする。 さらに日本の物語創作において、日本以外を舞台とする世界観の作品はとても多いと説明できる。場合によっては「他国の文化や歴史を調べ上げ、それを元として物語に載せて知識を広める」というような創作にも、有名作品が見られる。むしろ「知らない文化」に対して興味を持たせる領域が広く確認できる。

目次  #### 文化の自由 日本文化において、難色を示されやすい領域とは「社会規範に対する逸脱」であり、最も忌避される要素とは「社会の安全や安心を害すること」である。根本的には「日本文化から逸脱する」という要素が問題視されるのは、古い文化保護を目的とする分野・領域における保全の観点に限定されると言える。 日本文化は、外から来る多様な文化に対しても「物理的な安全や心理的な安全を害さない範囲」においては、むしろ強く興味を持ちやすいとさえ説明でき、それが効率的で合理的であると理解すれば、受け入れ、順応することができる。例えば日本の衣服は、自然と実用性の高い洋服が中心となっていった。 他にも日本人はお祭り好きで、日本人の多くは無宗教を自認するが年末年始は神社などへ参拝したり、様々な祭りが根付いている一方で、バレンタインデーをチョコレートのお祭りとして受容し、あるいはクリスマスを年末直前の楽しいイベントとして過ごし、最近はハロウィンなども広まっている。 都市部から離れた日々の変化の乏しい地域では変化そのものが心理的な安全を損ないがちであるためか受容度は乏しい傾向があるとも説明できるが、都市部においては人も多く様々な交流も盛んになるため社会的な安全性が保たれる限りは多くの文化が受容されやすい。人を不安にさせない限り、容認される。 日本人の多くにとって、外国人に対する心理的な動きもおおよそ、その法則性を持つ。特に「見慣れないこと」などによる「予測不能性」によって警戒心を上げることもあるが、不安にさせないよう他者への配慮や礼儀を心がけていれば、むしろ、やや油断してしまいやすいかもしれないとさえ考察できる。 そしてこの文化的な法則性とは、必ずしも「日本のユニークさ」であると説明するべきではない。こうした傾向とは「人類として社会文明が豊かになり、心理的な安全性が確保される社会があり、アイデンティティを特定文化の文脈のみに依存しない環境」であれば、おそらくは広く生じうると考察できる。 特に「社会的な合理性に応じて判断する」という感性そのものは、あらゆる人類文明が持っていると考察できるものである。人々が安心して暮らせる環境があり、社会的な安全は前提として、自らの感性に基づいて好きなものを自由に楽しむことが許される社会であれば、同様の傾向が生じうると考えられる。 ただし日本文化においては、厳しい自然環境に由来する宗教的な文化の統制の困難性から、人々の心理的な自立性の高いの文化が形成されたと説明できる特異な環境条件は非常に大きいとも考察できる。それでいて文化的な規範性は高く、高度な社会文明を形成するまでに至る、絶妙な環境であったとも言える。

目次  #### 食文化 なお、特に現代の日本文化では多くの「他文化の受容」を確認することもできるが、日本における受容では多くの場合、日本文化の感性によって日本式にジャパナイズされている。しかし他文化の受容が古くからあることや、特に文字体系の関係から「日本ではないこと」を非常に理解しやすい。 例えば「ラーメン」や「カレー」は、日本の国民食とも呼べるほど一般的に親しまれており、しかし日本式に幅広いアレンジをされながら受容されているものの、よほど浅学の人でなければ、これらが日本発祥であるとは考えられていない。勉強することで「日本の独自性が強いこと」を発見するほどである。 また現代の食文化においては、厳しい自然環境の日本でありながらも食えればいいという水準で満足することはなく、十分に「おいしいこと」を一般的な感性として求める、非常に繊細な食文化を持つと説明できる。伝統的な食文化も親しまれつつも保守的なだけでなく、純粋に優れた食文化を求め続ける。 世界の広い食文化の中では、食べられるかどうかではない以上の正統性の観念が存在することも珍しくない。それは食事のマナーといった話だけではなく、フランスパンはナイフで切ってはいけない、スパゲッティを折ってはいけない、トマトソースには缶詰を使わないなどといった、ちょっとした執着である。 食文化が他地域へ渡った場合、渡った先の地域で親しみやすい形へと変化してしまう例は日本以外においても見られるものである。しかし日本人の感性では「正統性」という観点はやや薄く、おおよそ「十分においしいのなら正解である・おいしくないなら好ましくない」という考え方をしやすいと考察できる。 文明社会として安定して豊かであるため、一般的に「おいしいものを求める」という習慣が成立している。特に人の集まる地域では当然のように様々な種類の飲食店があったり、ファミリーレストランとして多様なジャンルがあったり、コンビニでは販売できる範囲でおいしいものが多彩に揃っている。 また日本文化では「バランスの良い食事」という食育・食習慣への教育文化などの影響からか、「日常的に同じものを食べ続けること」に意識的あるいは無意識的な抵抗感を感じている場合さえも見られる。特定の物へ執着している場合や、反対に食事へ頓着が無い場合以外は、多様なものを食べる習慣を持つ。 日本の食文化では「変化を当然とする食習慣」から、自然と食べ物を選ぶ・食べ物を比べる状況も広く成立している。選択肢が広げられやすいということは、食料品の販売や飲食店の営業で「選ばれるための努力」が要求され、飲食店や企業の努力が深められ、おいしいものが多くなったと整理できる。

目次  #### アニメ・マンガ・ゲームの文化的自由度 「新しいジャポニズム」において、特に目立つジャンルはアニメ・マンガ・ゲームなどに属する創作コンテンツだと考えられる。だが重要な前提として、多くは外国展開が副次的なものであり、しかし、これらが外国で認められていることは経済的圧力や政治的制度によって押し付けたわけでもない。 作品や商業規模によって外国を想定する例もゼロではないが、多くの場合は「国内において、好きな人を楽しませればよい・好きな人が楽しめばよい」という非常にローカル性の強いコンテンツだと考察できる。特にマンガ作品・原作は、ほぼ個人の作家によって作られるために、ローカル性は顕著と言える。 しかしそのローカル性の強いコンテンツが、輸出品として、半ば「求められる形」によって海外へと受用されているのである。大国が自国文化を押し付けるような様式ではなく、魅力的なコンテンツ産業として周知・宣伝し、外国へ渡っていく形から、外国においても人気となる作品が出ているのである。 日本は古くから物語が大切な娯楽となっている文化圏であり、日本の創作文化では「こうあるべきだ」という文化に基づく模範性よりも、「こうだったらいいな/面白いな」という新奇性や娯楽性が強い文化を持ち、しかし、それが「人類にとって普遍的な感性」を刺激する要素を持つ場合があるとも考察できる。 日本では文化的な「常識性・模範性」という観念は大切にされる一方で、創作の舞台なら必要に応じて守ることもあれば必要に応じて破ることも多い。例えば常識的には「子供は守られるべき」ともされやすい一方で、日本の創作では子供向けも多いため「子供たちの戦う物語」も非常に多く確認できる。 他にも例えば「性別」の扱いも創作上においては合理性を持つ限り自由であり、特に創作文化が活発になる20世紀後半(1950年~)から特殊化していく例が増えている。これは旧来の規範性への現代的な抵抗の思想に限らず、ただの嗜好を含む「心理的な合理性に基づく可変部分」も多いと考察できる。 もちろんイデオロギー的な傾向はあるだろうと考察できる一方で、イデオロギーばかりが意識されているわけではなく、より純粋な「面白さ」こそが親しまれていると言える。2000年前後以降にもなると「性別の曖昧化」のような様式までも増えていると考察できるほど、観念上の自由度が高いと考察できる。 そのようにして「作法」や「規範」といったルールを参考にしつつも縛られ過ぎず、「面白さ」という作品としての魅力の本質がより高い純度で追及されていることで、「人類として、とても普遍的な魅力」さえも形成されやすく、日本国内だけではない人気が一部において生じているのだろうと考察できる。

目次  ##### 人材の進路 日本文化では娯楽産業、創作コンテンツが活発であるが、かなりの人材が消費的とも言える娯楽産業へ集まってしまっているとも説明できる。日本のマンガ・アニメの世界において後世に多大な影響を与えた「手塚治虫」は経歴として大卒であり、医師免許を持つ「医者」でもあったということは有名である。 日本の漫画家は、その経歴として大卒という例も多いと説明できる。それも、いわゆる芸術系・美術系などの大学ではない一般的な大学、中には特別に格の高い東京大学の出身者や、あるいは難関の私立大学出身も、数えられるほど確認できる。当然だが、作品自体にそうした肩書そのものは意味を持たない。 もちろん大学へ行けるほど基礎的な知力や体力に社交性、また十分な教養と、勉強をできる集中力といった根本的な人間性そのものは、作品制作においても重要なものであり、特に不特定多数の人々とも接していく「人生経験」の厚みにおいて、豊かな人間は良い作品を目指しやすいとも考察はできる。 またもちろん、豊かな才能と知性と貪欲さを持った作家であれば、もっと早期に作家業へ専念することも否定されないが、しかし「学業のできない素質の人間が、一般向けの娯楽を追究することは難しい」と言える現実的な問題から、実際に著名となる例は非常に限定的であると説明しやすい。 現実的な事情として、一般的に優秀側と説明できる傾向を持った人が多く活躍しているという実態から、汎用性の高い能力を持つ優秀な人材が多数、消費的とも言える娯楽産業へ集まっていると考察することができる。つまり、優秀な人たちの競争的な環境によって、娯楽の追及や高度化が進んでいると言える。 なお日本の創作コンテンツでは、そうした分厚い背景を持った人々によって作られていることも、そのジャンルの幅広さの基盤となっており、広い範囲の作家が興味のあるものを追究し、それが創作という形で広められることによって、消費するだけではない社会効果を生みだすことも起きるのだと整理できる。 他の多くの国においては、学校において選択した学部の専門とする業界へ、素直に就職する傾向があると言われやすく、特に高い学歴を持つ場合の進路・職業は固定されやすいと説明されやすい。しかし、日本においては学部から外れた進路を取り、そして著名になる人も珍しくないとさえ言える。 もちろん日本でも一貫性を持った進路に従って学業に励み、目的の職業へと就くことも珍しくはないが、「勉強した後に、改めて考えた上で職業を選ぶ」ということをしやすいと考察できる。また典型例として漫画家を例に挙げたが、それ以外の様々な創作コンテンツにおいても多彩な人材を見ることができる。

目次  ###### 幅広さ 他にも例えば、日本のゲーム作品において大きな存在であると説明できる『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』にはその初期から印象的な音楽、メインテーマを聞くことができる。驚くべきは、これらの代表的なテーマ曲の作曲者の2名は、その出自として「音楽系以外の大学出身者」である。 両名とも幼少から音楽に親しんできた経歴を持つものの、進学した大学は芸術系の大学ではなく、片方は音楽大学へ進学できず東京大学へ進学して(音楽活動にかまけて留年をしながらも)一応卒業をしている他、もう片方も大学ではあるが学科は「英文学科」という所から、音楽の道へ進んだ経歴を持つ。 もちろん一貫した音楽系の経歴を持つ作曲家も多くいると言えるが、経歴として音楽系以外の大学などへ入っているような人も多い。特に日本では著名な作曲家でも、幼少期から音楽に親しんでいるエピソードがあっても、学業・進学においては音楽との関係の薄い経歴を持つ作曲家も確認することができる。 あるいはもう少しメインカルチャーに近い、「文学などの作家」においても、おおよそ典型的な文学系の学科の経歴を持つ作家が一番多いと説明できるが、それ以外にも法律系の学科を通っている作家がそこそこ確認できる他、中には文系どころか理系の経歴を持つ作家も確認することができる。 特に文学の領域では、日本の出版業界がより多くの才能を発掘するための門戸を開いており、新人賞・文学賞などの名目によって有望な作家や優秀な作家を宣伝するマーケティング戦略など、新しい作品・新しい作家を売り出す仕組みも形成され、多くの人材を収集していると説明することもできる。 よりサブカルチャーに近い、軽い小説やアマチュアの音楽家などの領域まで見渡せば、その経歴・出自はさらに多彩になっていくと考察できる。日本文化において、創作コンテンツを制作するという行為は趣味においても広く見られるものであり、インターネットの時代ではそこから著名となる例も見られる。 こうした現象について「日本文化は粗雑な大衆向けに傾倒しがちで、芸術分野において高度な領域の実力者を生み出しにくい」とも考察されがちだが、そもそも芸術分野で傑出した人間が大量発生する地域は存在しないと言うべきであり、また大衆文化に対して古典的な高度さを要求することも的外れと言える。 一般的に目につく大量の作品が、大衆向けとしてマーケティングされていることが当然のことであり、大衆向けに最適化されているものであることは当然の現象である。また現代における古典的な高度さを持つ芸術家とは、一般的な市場の舞台に上がらないことも多く、「目にしない」というのも当然である。

目次  ##### 知識の器 日本の創作コンテンツでは「特定分野の知識や教養を題材として、これを広めるために創作コンテンツとして楽しめる形にする」という教育的な文化が機能しているとも考察できる。これは純粋な子供向けの教育本という領域だけではなく、高度な知識分野を題材に活用した創作作品という様式が多く見られる。 特定分野への影響という点では、例えば現実的に実施されている競技分野の作品が流行すると、競技としての知名度が上がり参加者が増加、活発になる社会現象もしばしば発生している。あるいは特定の地域や時代の題材とした作品が著名となることで、興味を持ち研究する人が増えるなどの影響も考察できる。 日本においてスポーツを題材としたマンガなどは、創作コンテンツの中でも特に親しまれている一大ジャンルであり、その領域は著しく広いと説明できる。特筆するべきは、物語を構築できるほどの特定分野の教養と興味を持ちつつ、その上でそれを創作で表現する技術を兼ね備えてる人間が多い点である。 人類文明において、消費的な娯楽産業とは、社会における余分な嗜好品であり「時間の無駄」のようにすら見られることも珍しくはない。これは日本においてもそのように解釈されることは珍しくもない。しかし、追究された創作コンテンツの文化とは「社会を前進させる力を生みだす効果」を持つと言える。 非常に活発で高度化した創作コンテンツの文化を持つ日本では、コンテンツが知識の器となり、多くの人々が様々な分野の情報や基礎的な知識についてを「知る機会」が非常に多いと説明できる。多くの知識に触れやすいことで、人々がより様々なことへ興味を持ちやすい社会が形成されていると考察できる。 それも、そうした社会的な情報の流通や文化的な振興といった現象の活発さが、多くの場合「行政ではない領域から生じている」と説明できる。主に一般人・一般企業が、娯楽という領域における「面白さを競い合う」という条件で創作することによって人々の興味を導き、情報を広めていると考察できる。

目次  #### 日本語の基盤 そして日本文化・日本社会を支えている基盤こそ、日本語であると考察できる。多くの人々が書籍を読むことができるという社会の教育の実態もまた、学習性が整備され効率的な教育を可能としている日本語によって大きく支えられていると説明するべきであり、日本語の基盤が日本文化を支えていると言える。 日本の制度教育では「母語・公用語の言語科目にかける時間」が、特に欧米に比べて短い傾向にあると説明できる。英語圏の英語教育でも言語の性質から教育時間は大きい傾向があり、欧州の非英語圏などでは英語を使わせるための教育も実施されやすく、言語に非常に長い時間が費やされていると言える。 しかし日本では子供が簡単な本を自力でおおよそ読める段階が非常に早く、そうした傾向も「子供向けの書籍」の市場規模を大きく支えていると説明できる。さらに日本では母語教育が効率的な分、言語以外の広範囲な科目の教育を実施することができて、多くの子供へ広い教養を持たせやすいとも整理できる。 日本の文化が豊かであることは、表層的な「日本の社会が高度な文明を持つ」というだけで説明できるものではない。「日本社会が、いかにして高度な文明を持ったのか」という部分を注目するべきであり、そしてそれを短絡的に「頑張ったから」などと単純化するべきでもないと説明できる。 いわゆる「勤勉さ」などもまた、表層的な結果側に存在するものであり、それを理由としてしまうことは、どのようにして形成されているのかを見落とすと言える。日本という地域は、その過酷な自然環境から人々が互助しなければ生きていくことが難しいという前提から、日本文化が形成されたと考察できる。 日本の自然環境で生き続けるための「協力関係の不可欠性」を理解することで、その文化体系の中で「意思疎通への最適化」という社会的な要請によって、日本語の基盤が形成され、洗練され、整理されていったと推察できる。そうして、日本語の「基礎における優しい学習性」を成立させていると考察できる。



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