予備知識として>無学による正誤の話


小話



   無学による正義欲求論
            Andil.Dimerk

「人間は正しくあろうとする。しかし全知全能ではないから間違える。」




  序 正義欲求とは何か

 【 正義欲求 】とは、読んで時のごとく【 正義を求める欲望 】である。

 人類は本能的に「正しいことをしたい」という欲求を持つ。強弱には個人差があるものの、それは些細な事で 「正しさ」は個人の感覚に依存するもの であり、その方向・思想は千差万別。
 しかしそれらの根本には「正しいことをしたい」という欲望が存在し、正しくないと感じることに対しては、本能的に避けるような判断をする。本能として、間違いを回避しようとするのである。

 しかしこの正義欲求論は性善説ではない。むしろ性悪説に近しいもので、正しい判断を持つことができなければ自分自身をも傷つけてしまう、非常に厄介な本能である、としている。
 そのため教育上では「何が悪いか・何が正しいか」を考えさせることが何よりも重大な点となる。生半可な知識による考えのない正義は、容易に間違いを生み出してしまうからだ。






  一 正義とは何か
          【 法律的・社会的・道徳的に正しいとは限らない 】

 人間が何を正しいと思い、何を間違っているかと思うのか。それは心の納得に依る

 この世界そのものに定まった「正しさ」というものは存在しない。この世界そのものに決まった価値など存在しない。そうした正しさや価値、間違いや悪を決めるのは人間本人である。
 その正しさを決めるときに、人間が重要視することは論理的な正しさよりも【納得できるか】にある。論理的な説明によって納得することは多いが、それによって納得できないことも珍しくなく存在するし、論理的でないものによって納得することも珍しくない。

 もし「世界そのものに決まった価値は無い」を否定したいと思ったなら、それはつまりその論理に納得していないだけである。しかしそれを否定するときは不確定な、感情的な、非論理的な、個人的な要素を持ちだして否定するだろう。それが人間の心である。
 結局「正しさ」とは「 その人の経験・知識・感情・本能などによって形成される個人的な認識 」に過ぎず、それを他人同士で知識共有をしようとしているに過ぎない。

 つまりその正義が【 法律的・社会的・道徳的に正しいとは限らない 】のである。正義とは一つの主義に過ぎず、個人の正義は常識的な正義から外れることも珍しくない。
 それ故に、正しいと思うのなら人としての道をも踏み外せる。それが正義である

 だからこそ「社会的な正義」とは他人の正義と擦り合わせて、望ましい形に変えていかなければならない。視野の狭い正義を堅持することほど、恐ろしいものはない。






  二 罪悪感の根拠
          【 人は間違えていると思いたくない 】

 正義感の対となるものが罪悪感である。

 正義は個人の感覚によるものであるように、その罪悪感は同様に個人の感覚によるものである。つまり【 間違っていると思わないことには罪悪感を持つことはない 】のだ。
 罪悪感が生まれるのは「自分が、自身の正義に反している」と感じる時であり、どれほど法律的・社会的・道徳的に間違っているとされることであっても、それを正しいと確信してしまっているのならば罪悪感は欠片も抱かない。そして法律的・社会的・道徳的に間違っていないことであっても、自身の正義に反していると思う事には罪悪感を感じてしまうのである。
 罪悪感とは、正義の意識から生まれるのだ。

 だからこそ教育において重大なのは「悪いことをしてはいけない」と言うことではない。それでは 「正しいと思う」なら犯罪であってもしてしまう 。悪いと思っていないのだから罪悪感も抱かない。
 するべきは「正しいことは何かを考えさせること」「悪いこととは何かを考えさせること」「そして、それらを他人と一緒に考えること」である。社会的な正しさとは、社会の中で育まれるものであり、一個人の中や集団の中だけで熟成させるものではない。

 元々人間は正義欲求によって「自分が正しいこと」を求める本能を持っている。それゆえに【 人は間違えていると思いたくない 】もので、「自分が正しい」という前提に立ってしまいがちなのである。しかし、それだけでは社会的な正義を持てるわけがない。
 だからより広い相手との知識の共有が不可欠なのである。






  三 正義の行使の条件
          【 人は正義を行使するときに相手を選ぶ 】

 闇雲に正義を行使する人間は、滅多にいない。

 「正義欲求が本当にあるのか?」と思う人もいるだろう。言葉のイメージだけを捉えると、それが全人類に普遍的に存在するのなら世界はもっと平和で豊かなものになるんじゃないかと妄想するかもしれない。
 しかし人間が仮に正しい正義を持っていても、それを行使するには精神的なハードルが存在し本能的な判断によって行使するときもあれば行使しないときもある。

 正義欲求はあくまでも、自己の本能の一種に過ぎない。そのため一部の例外を除いて、基本的に「生物的な保存・生存のための欲望」でしかない。
 例えば「目の前で赤の他人が危険な目にあっている」としたとき、それを助けようという正義欲求が働くには、【その他人でも身内の一人のように感じる広い縄張り意識】持っていて【危険のレベルが自分が飛び込んでもいいと思える程度】である必要がある。
 もし赤の他人を【自分とは無関係な物体である】と認識している場合、人間とすら認識していないので助けるという意味すら感覚としてわからない。もしくはその危険が到底敵いそうにないものである場合は罪悪感に駆られるかもしれないがその危険を回避するために赤の他人を直接助けようとはしない。一応助けたいという正義感があるが自分ではどうしようもないと感じるとき、助けの呼び方を分かっていれば助けを呼ぶが、助けを呼べない時には多少の危険を顧みないこともあるものの、それができなければ見捨てる。
 そして赤の他人なら見捨てるような人でもそれが絶対に守りたいと思う大切な相手なら危険を顧みずに助けようとするだろうし、赤の他人でも助けるような「正義感の強い人」でもそれが大量殺人鬼な極悪人だとしたら見捨てるだろう。
 もし親の仇のように殺したいほど憎い相手なら助からないよう邪魔するだろう。

 他人を助けることは【助けても自分に問題がない】と思う時、あるいは【助けないと問題がある】と思うときにしか助けない。大小はあれども、正義感とはその程度のものである。

 結局、人は必要な条件が揃わなければ他人を見捨てることができる。正義と言っても根本的には自分自身のためのもので【 人は正義を行使するときに相手を選ぶ 】のだ。



 なお例では積極的に見捨てているが「悪人の命を助ける」ことも正義感によって起こることはある。それは「贖罪は死によってではなく、改心し生き続けてしなければならない」ということを正義としている人なら、悪人の命を助けてでも贖罪させるだろう。それも改心の望みが無ければ、助けるのを躊躇う程度のものだ。

 また例では人を助ける助けないといったものだが「正義の行使」はありとあらゆる場面において存在する。






  四 正義欲を満たすこと・正義の快感
          【 正しいと思うことをすると気持ちいい 】

 人間は正しいことをしたいと思っている。

 いわゆる「承認欲求」は正義欲求の外面的なものである。正しいと認められることによって正義欲求を満たしているのだ。
 しかし承認欲求そのものと異なる点は【 正義欲求は必ずしも他者から認められなければいけないわけではない 】という所。認められることによる充足は大きいが、正義欲求は自分自身が正しいことだと思っていること実現できているならならばそれだけでも良く、他人に認められなくともそれを充足することはできる。

 例えば「人目に着かない場所でゴミ拾いをする」ようなこと。それが良いことだと思っているなら、他人から褒められることがなくても、それをするだけで充足感を得ることができる。
 他人に知られることなく良いことをするのはより良い善行の形として語られることもあり、それをしている人は少なくないのかもしれない。他人に知らせないのだから分からないが。
 もちろん人に知られる範囲で良いことをすること、人を助けるといったことも正義欲求をより満たすことができる行為である。

 そして正義欲求を満たすと、幸福感を得ることができる
  【 正しいと思うことをすると気持ちいい 】
 だから人は正義欲求を持ち、できればそれを行使したいと思っているのである。


 反対に正義欲求に満たされないと人は不安になる
 他者から認められることが少なく、自分の中の正義が定まらず何をすればいいかわからない人は正義欲求が飢餓状態になってしまう。そうなると場合によっては【 消滅的な正義感 】を抱えてしまうようになり、自分の存在や意義を否定しまうようになったりする。さらに元々の正義感が強ければそれがとても強い内的ストレスとなり、自分を更に追い込んでしまうこともある。何かしら正しいと思えること、気持ちいいと思えることを持つことは大切である。
 正義欲求は根源に近い本能なのだから。




 だが正義とは【 法律的・社会的・道徳的に正しいとは限らない 】
 この関連性に寒気がする人もいるだろう。

 例え他人がいくら強く否定していたとしても、当人が正しいと確信しているのならその正義に充足感を感じてしまうのである。それは当人が省みて改心しない限り、それが人生の意味であると確信して貫こうとするのである。
 そして【 人は間違えていると思いたくない 】から、何かしら内面にも響くような外的な大きなショックや強い矯正を受けたりしなければ改心することも望み薄である。特にそんな状態を肯定するような存在がいる場合、矯正を拒絶するため改心は絶望的になる

 特に危険なのは正義欲求が満たされていない人が「偏屈な正義」に引きずり込まれてしまうケース。正義欲求が飢餓状態の人間に対して、その境遇に理解を示し正義へと招き入れると意外と洗脳されてしまうもので、特に宗教団体というのはそうした手口を積極的に用いることで信者を増やしている。
 その正義が法律的・社会的・道徳的に反しないようなものであれば問題にならない正義による庇護なのだが、それが法律的・社会的・道徳的に反するようなものであると大問題である。例え悪事に手を染めることになっても、当人にとってはそれをすることが正義欲求を充足させる唯一の手段のように感じているため、それを辞めるということは考えることができない。その正義を否定されることは、自身の人間性自体を否定させるようなことだからだ。
 下手をすれば本当は罪のない人を殺すこともできてしまう。それが正義欲求である。

  【 正しいと思うことをすると気持ちいい 】

 だがそれが【 法律的・社会的・道徳的に正しいとは限らない 】






  五 差別と正義の同一視
          【 差別とは正義感によって生まれるものなのである 】

 人はそれを否定したがるが、事実だ。

 正義と差別は基本的に分離して全く別々の異なるものであるとして扱われるが、現実的には【 差別とは正義感によって生まれるものである 】
 正義を語る上で、絶対に目をそむけてはならないことのはずだが、大抵の人はその点を背けるか、あるいは 正義の名の下に差別行為を蔑視差別する 

 その行為を欠片でも認めることを間違いと思っている以上、世界から「差別」が無くなることはないだろう。差別蔑視もまた差別的だという事に目を背けている以上は。

 まず根本として、ほとんど生物には【 有害な外敵から自分と仲間を守るために、そうであると認識した敵を排除しようとする防衛本能 】がある。それは内面的な免疫能力から外面的な攻撃行動まで、生物がその種を保存するために不可欠であると身に付けてきた能力である。社会性を持った動物においてはその防衛本能の外面的な部分が複雑化し【 有害な外敵 】の範囲が【 脅威になりそうな相手 】などを含め、人間においては【 見ていて不快に感じる相手 】すらも含める。不快に感じるだけで強く敵視することもある。
 その防衛本能は【正義欲求】にも深く関わっており、社会を維持する上で「正しいことをする・間違っていることをしない」という【正義を守ること】は不可欠な要素であり、それを本能的に求めるように「遺伝子にプログラムされている」と、思っている。

 【自分たちの社会を守る】という考えは防衛本能であり、そのために実力を行使するのは【正義感】があるからこそである。正義感が無ければ、社会を守ることはできない。

 もし自分たちに「有害そうな存在」がいた場合、人は可能な範囲で排除しようとする。それは防衛本能なのだが、相手が悪人とは限らずなんの罪もない人間であることもある。排除する相手が「本当に有害である」とは限らないし、その扱いが公平性を持たないとしても「自分たちの社会を守るために」排除する。そして、その実行は全て正義感からである。

 「推定外敵」での差別による排除は「正義感」からするものであり、いわゆる階級的な差別も【優秀な人間が優位にあるのは正しい】であるという「正義感」であり、それらは【社会の維持をするために正しいこと】であるという「正義」を持っているのである。


  【 差別とは正義感によって生まれるものなのである 】


 しかし差別を肯定することは「被差別者の正義の行使」による問題が発生する恐れがある。被差別者が社会的な問題を引き起こしたら、社会的には「やっぱり」という世論になってしまうだろうが、その要因は世論の言う【被差別者の下劣さ】ではなく【 被差別者の正義感 】にも存在する可能性があるのだ。特に正義を覚える機会すらないような扱いであれば正義論からは論外、それだけで問題が起きて当然である。教育は何よりも重大だ。

 差別を否定する理由の【 平等という正義 】は建前であり、本当の理由は【 社会安定という正義のための不満の解消 】である。その正義のために【差別の蔑視差別】が正当性を認められて、社会に根付いているのである。
 それゆえに社会の不安定を起こさない「差別」は放置されるどころか、名目差別を禁止していたとしても社会の安定に役に立つ「差別」は容認されているのである。むしろ人にはそれぞれ違いがあるためそれに合わせた社会的に「必要な区別」が存在する

 必要な区別は分かりやすい所だと、例えば男女の違い
 男女は身体的に能力に差があり基本的に男性側が高い能力を持っていて、男性並みの能力を持った女性は稀有である。そのため男女の区別で言えば、力仕事に従事するのは通常男性であり、仮に【男女平等】と言ってその仕事場の男性を半分に減らしてその分女性を入れたとした場合、余程逞しい女性たちでなければ能力の不足によって明らかに作業効率が落ちるだろう。力仕事で男性がほどんどであるのはただの差別ではなく、身体能力から見た合理的な判断を持った「差別」、社会的に「必要な区別」である。
 そして社会的にも【それが当然である】と問題視されず容認されているわけである。

 教育において重大なのは「差別は悪いこと」と言うことではない。それだけでは【正しいと思うから正当な区別】であると不当な差別すらも認識してしまいかねない。
 不当な差別根絶において重要なのは【 感情的な蔑視を控えるようにすること 】だ。物事を正しく理解すること、感情的な判断の不当性、差別は正義感から発生すること、その正義感から生まれた差別には決して社会的な正当性があるわけではないこと、知らないものを深く考えずに蔑視することをしてはいけないということ、必要な意識はあまりにも多いが。


 なお「あらゆる差別を蔑視する正義感」というのは、そうした【差別原理】を理解していない人の正義感である。平等が正義と、公平性や合理性の正当性を無視する「非現実的な正義」であり【 不当な要求をする差別 】と大差無い。






  六 正義欲求といじめ
          【 いじめは正義欲求不満によっても生まれる 】


 人はそれに気づかないが、そういう事もあると推測する。

 「いじめ」は大抵「正義」の反対側にあるものとして扱われるわけだが、何度も言っている通り個人の正義感とは【 法律的・社会的・道徳的に正しいとは限らない 】ものであり、未成熟な正義感においてはそれによっていじめが発生する、と考えられる。
 ここまでの話を並べて推論を立てよう。

 まず正義欲求は人間が本能的に持つ欲求で
  「 誰もが正しいことをしたい・正しくありたいと願っている 
 そして
  「 正しいと思うことをしていないと、人は自分の存在に対して不安を抱く 」
  「 正しいと思えることなら、なんでも正しいと思ってしてしまう。 
 しかし、
  「 個人の正義感が法律的・社会的・道徳的に正しいとは限らない 
  「 例えば不当な差別・蔑視も正義感から生まれるものである 
  「 見て不快に感じるだけで、実害が無くとも強く敵視することもある 
  「 人は正義を行使するときに相手を選ぶ 

 こうした性質が悪い方向に向かうと「 普段の生活の中で正義欲求を十分に満たせない人間が、同僚なども含め不快に感じる相手を強く敵視し、それを攻撃することが正当な行為であると感じ、もし相手が自分よりも弱く反撃や悪い影響が考え付かないような相手であった場合、それを実際に攻撃することによって自身の正義欲求を満たそうとする 」のではないか、という推論である。

 砕いて言えば【 弱い人を悪者として攻撃することで正義感を満たしている 】のだ。

 【 正義感からいじめをすることも考えられるのだ 】


 そして、【 正しいと思うことをすると気持ちいい 】
 正義欲求はどんな形であれ、正しいと思うことをすれば満たされてしまうものである。そした非もない人間を攻撃したとしても、それが正しいと感じていれば、それによって幸福感を得られてしまうのである。恐ろしいが、テロリズムの歴史がそれを証明している

 いじめている当人は「正当な行為」であると思っているから、言われなければ・あるいは言われても「悪いこと・いじめではない」と認識しているし、幸福感・優越感を伴う上、それを否定されると人格の否定と感じるため、安易な方法による矯正は期待できないだろう。


 なおこの正義感型のいじめは子供に限らず、大人であっても起きると考えられる。大人の方が人格の固定化が強いため改心は子供よりも更に望み薄である。厄介なことに。


 正義感タイプのいじめの根本的な問題は【 正義感の独善性と未成熟さ 】にある。
 例えば、他者を攻撃してはいけないという社会的にも通用するものを正義としているなら、いじめ率先して行うことは全くとは言わないが少なくはなる。また悪者は攻撃することが正義としていても悪者を本当に危険な相手に限るよう成熟していれば、大して悪くない相手を攻撃することは少なくなる。それ以外にも自分が正しく満たされていると感じる人は、わざわざ弱い相手を攻撃して楽しむということをあまりしない。お調子者で、おふざけに攻撃してしまうこともありえるが。

 他者を攻撃しようとするのは自分自身の正義感からであると認識し、その正義感が正しいものなのかを考えること。それによって社会的な・道徳的な性質を持った正義感が養われれば、不当な差別やいじめといったものを考えない正義感になりえる。
 ただ正直そこまで真っ直ぐ育つ子供というのは、育て親が相当真っ直ぐな人だったという場合に限られるように思える。社会に出ればその影響によって正義感は成熟するかもしれないが、基本的な感覚というのは、幼少の育て親からの影響がほとんどである。

 世界がひっくり返るようなことがなければ、不当な差別や正義感型のいじめといった、正義欲求の暴走を管理することはできないように思える。


 正しい道徳教育こそ重要なものだが、現状のそれが正しくあるかは疑問である。






     「人間は正しくあろうとする。しかし全知全能ではないから間違える。」

とりあえずここまでで一旦〆

 2014/9/21 Andil.Dimerk



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