「例えばあなたの近くに【A】という大男がいる。そのAという大男は周りと、あなた自身も虐げてくる。しかしそのAという大男は力が強く誰も逆らえず、あなたを助けてくれる人もいない。あなたが途方に暮れていると、あなたの境遇に理解を示し、Aを一緒に倒そうと言う人達が現れる。協力するかい?
もしその誘いにハイ、YESと答えるのならあなたは【テロリストの素質】を持っている。
もしその誘いにNOと答えるのならばそれは【奴隷の素質】である。」
無学による正義欲求仮説概論
Andil.Dimerk
「人間の正義とは理性的によるものではなく、動物的な本能である。」
仮説概論
正義欲求とは「ヒトが持つ正義感などはヒト特有の高度な知性によるものや、特別な人物が持ちうる特殊な感覚ではなく、
全てのヒトに普遍的、本能的に備わっている性質」という考えであり、
あらゆる感情は科学的な分析上、脳内物質の様々な反応によって示されているように、
正義の認知などもまた普遍的に脳内に備わっているシステムの一種ではないかという仮説でもある。
1.ヒトは知識や経験などを脳へより詳細に保持することができ、
それらをまとめた記憶によってより複雑な反応を示す仕組みを持つ。
大きな脳を持つ動物は概ね同様の仕組みを持つが、
ヒトはより複雑な情報を保持できる性質上他の動物と比較して反応も複雑化する傾向を持つ。
2.ヒトは本能系に『正しいと思うことをしたい』という欲求を持ち、
その欲求を満たせない場合その程度に応じて不快感が積み重なっていく。
3.ヒトは『正しいと思うこと』を行う時、達成した時に幸福感を得るようにできている。
この欲求が『正義感』である。欲求の程度や方向性には個体差があるが、概ねこの性質を持つ。
4.ヒトは『間違っていると思うこと』に対して不快感を抱くようにできており、
その対象に嫌悪感を抱き、それを正したいと思うようにできている。
5.ヒトは自分自身が『間違っていると思うこと』になってしまった場合も不快感を抱き、
自分自身に罪悪感を抱き、それを正したいと思うようにできている。
反対に不快感、嫌悪感や罪悪感を抱かない場合、それは『間違っていると思うこと』ではない。
6.『正しいと思うこと』『間違っていると思うこと』は
あくまでもその個体の持つ記憶によって示す反応であり、
客観的な正確性や論理的な合理性を必要としない。
客観性、論理性などによって『正しいと思うこと』『間違っていると思うこと』を決める個体は
知識や経験によってそれを『正しいと思うこと』であると認知しているだけである。
例え客観的論理的に間違っていることであっても、感覚的に間違っていると感じることとは限らないし、
逆に客観的論理的に正しいことであっても、感覚的に間違っていると感じることもある。
またこの反応は周囲の環境によってもたらされる知識経験の追加により変質することもある。
7.前記2〜6の性質が『正義欲求』の性質である。
なおヒトはこれらの性質に対して自覚的とは限らず、そうした感情を「正しい」と表現をするとは限らない。
「悪いこと」を「正しいこと」と思っている場合、「悪いことは必要だ」といった表現をすることもありえる。
ヒトがこうした感情があるということも自覚的とも限らず、
正しいと思っていることに対して「本当に正しいこと」と思い込んでいることもよくある。
こうした欲求があるため例えどれほど他人のために尽くしているとしても、その根源的な部分は『自己満足のため』である。
以下、補説。
8.『正義欲求』は集団の形成、維持、安定させる効果があり、
社会というものを形成するためには不可欠な性質である。
9.『正義欲求』の性質そのものは大きな脳による社会性を持つ動物が普遍的に持っている。
動物が社会性を獲得できたのはこの『正しいことをする』『間違っていることを正す』という性質を獲得したためであり、
ヒトも例外ではないが高度な知性と社会の肥大化によりその性質による問題を抱えている。
10.この『正義欲求』はほぼ全てのヒトが持っているものであり、
例外は脳機能に深刻な欠陥を持つ個体だけある。
例えば「悪人は正義欲求を持っていないのかどうか」といえば【欲求自体は持っている】と言える。
11.社会性の為に獲得した『正義欲求』であるが、
個体ごとの正義欲求の方向性はその知識経験によって左右されるものであり、
即ち育った環境、暮らしている環境がその『正義欲求』の方向性を形成する。
12.その為「社会性を持つための教育を受けることができなかった個体」や
「反社会的な傾向を持つ教育を受けた個体」は『正義欲求』の方向性が反社会的になることがある。
13.この性質において『悪意』という意識は存在せず、
他の正義の感覚が他の正義の感覚に対し相容れない、
あるいは反社会的だと定義づけるための表現が『悪意』に過ぎない
ヒトに「純粋な悪意が芽生える」ことはない。対象を示して「○○への悪意」と表現できることはあっても、
その意識そのものは『正義欲求』によるものである。
ヒトは誰しもが「正しいことをしたい」と願っている。
だがその「正しいと思うこと」が、
必ずしも法律的・社会的・道徳的であるとは限らない。
以下、蛇足。
14.『正義欲求』は時に強い攻撃性を示す。
例えば社会を脅かす危険な存在が現れた場合、社会はそれに対処しようとする。
それは『正義欲求』の発露でありその機能があるからこそ社会を維持し続けることができる。
しかし場合によっては社会的な危険性が無い相手に対して
個人的な嫌悪感を抱いて攻撃するケースも珍しくなくある。
とても身近な問題を上げるならば「いじめ」の根源も『正義欲求』である。
間違っているものを攻撃することで正しいことをしているという満足感を得る行為が「いじめ」の形態であり、
それを行っている当人たちにとっては『正しいことをしている』という感覚だ。
例えいじめが間違っていることだと言われたとしても「間違っていないのだからいじめではない」とすら思い込める。
ただし場合によっては敵対的行動としてではなく『いじめのような行為が友好的な行動』だとという刷り込みがされていて、
他者にいじわるやキツい接触をしてくるなんてこともありえる。それでも当人は『正しいことをしている』という感覚であり、
「間違っていないのだからいじめではない」という認知なのである。
あらゆる差別意識も『正義欲求』によって生まれる。
「正しいこと」を守るために「間違っているもの」を徹底的に排斥しようとすることもまた
『正しいことをしている』という感覚であり、同様に「間違っていないのだから差別ではない」とすら思い込める。
もしくは「必要な差別である」とふんぞり返ることだろう。
極まった例を上げるなら【反社会テロ】も『正義欲求』によるものである。
つまり「社会が間違っているのだからそれを壊す行為は正しい」という感覚だ。
そう思い込んでしまったヒトは使命感を持って社会を壊そうとするのである。
復讐心なども『正義欲求』によって生み出されるものであり、
「相手が悪いのだから、自分は何をしても正しい」という感覚に陥っているに過ぎない。
これらが『正義欲求』による問題の一部だ。
『正義欲求』は社会性を持った教育を受けることで社会性を持った正義の感覚を備えてようやく社会の安定に寄与する性質であり、
反社会的な教育あるいは社会性の無い環境に置かれ、社会性の無い正義の感覚を持った個体は社会にとって有害なものとなりえる。
そこにおいて異なるのは『根本的な性質』ではなく『知識経験』であり、
「悪人として生まれることはなく、悪人として育てられてしまうだけ」というわけである。
ではいかなる悪人であろうとも改心することが出来るのかといえば、生物的に難しい。
この『正義の感覚』は決して軽いものではなく、強く刷り込まれた感覚はそう簡単に変えることは出来ない。
特に強い正義の感覚は『それ自体を否定されることに対して強い嫌悪感を示す』ものであり、
自ら変化することを拒絶することも珍しくない。そうなればそれこそ洗脳を施すくらいの再教育でもなければ、変えることはほぼ無理だろう。
差別なども同じである。
15.『正義欲求』の充足は、些細な事でも可能である。
『正義欲求』の意識は自覚的であるとは限らず、『正しいと思うことをする』という認識が無くとも、
何か「良いことをする」「好きなことをする」ことでも十分欲求を満たすことは可能である。
例えば娯楽のゲームにおいて「楽しむこと」が出来るのであれば「ルール上の勝利」は必須ではないし、
あるいは「楽しむことが出来ない」のであれば例え「ルール上の勝利」をしてもあまり満たされない。
ほんの些細なことにも正しさを見いだせるのであれば、何もしてなくとも満たされることすらある。
反対にそうした些細な楽しみも無いヒトは『正義欲求』においてとても貧困な状態にある。
恒常的な不快感を抱え込み、そうした不満から些細な事柄でも強い正義感を振り回す傾向が出る。
あるいは「他者を攻撃することでしか充足できない」ような状態になってしまうと
日常的に他者を平然と攻撃するようなヒトになる。
「何が正しいのか」ということをまともに考えることもしておらず哲学的にとても幼稚で、
自分の正義欲にだけ忠実で「自分が正しい」のだと1人で勝手に気持ちよくなっているような惨状だ。
『正しいと思うことをするのは気持ちがいい』ものであり、
その方向性によっては極めて反社会的で残念なヒトになってしまうこともあるのだ。
そこまでいかずともそうした快感から、博打に溺れたり、色欲に溺れたり、
破滅的な方向性を持ってしまう事もある。例え論理的に間違っていると解釈していても、
感覚的に間違っていると思えない、嫌悪感を抱かないのであれば中々抜け出すことはできない。
『気持ちいいことが正しいこと』だと思い込み、独善的な正義の感覚を備えることも珍しくはない。
その延長線として「自分の楽しみを邪魔する奴には何をしても良い」と言わんばかりに攻撃性を示すヒトもある。
その他、正しいこと、間違っていることに対して矛盾やジレンマを抱くケースも珍しくない。
だがそうした性質の根底はほぼ普遍的な『正義欲求』という概念で説明することができる。
ヒトは誰しもが「正しいことをしたい」と願っている。
だがその「正しいと思うこと」が、
必ずしも法律的・社会的・道徳的であるとは限らない。
16.『正義欲求』は性善説を保証するものではなく、性悪説に近しいものである。
『性善説』とはおよそ「ヒトの本性は善い行いをするものであり、それを逸することで悪に落ちる」という説、
『性悪説』とはおよそ「ヒトの本性は悪に親しく、正しく律することで善い行いをするようにできる」という説。
『正義欲求』の起源自体は性善説に近しいが、ヒト社会における現実的な状態は性悪説に近しい。
「ヒトはより正しく社会性を教育して育てなければ簡単に社会性を逸し反社会的な行動を取りうる」と考えるためだ。
ヒトがより安定した社会を構成するためには広く『社会性を持った教育』を全ての子供へと行き届かせることが不可欠であり、
それを十分に与えることができなければヒトは簡単に歪んだ内面性を抱え込んでしまうものである。
その『社会性を持った教育』とは単なる「厳しいしつけ」や、まして「暴力に訴えるような反社会的な教育」ではない。
内面的にそれが正しい方向性だという信用を踏まえての哲学性の教育が必要であり、信用も道徳もなければ不十分である。
例えば「周囲が幼児に対して好意的にいじわるな行為をする」という場合、
その子はそのことを鮮明に覚えていたりしなくとも根源的な、本能的な部分において
「好意的な表現とはいじわるな行為をすること」と刷り込みが起きうる。
結果として「他者に対して強引な面のあるヒト」になってしまう。
あるいは「幼少からきつく叱られ続けてやることなすことをキツく制限され続ける」という場合、
その子は本能的に「相手を否定することが正しい」みたいな覚え方をしてしまうこともあり得る。
そうした子が大人になった時「他者を否定すること」になんら疑問も躊躇もない攻撃性をもったヒトになる。
ただそのどちらにも共通するのは「自分が正しいことをしていると本能的に認知している」ということ。
本能的なレベルにおいて、「それが正しい」と刷り込みされてしまっているのである。
『幼少の頃に受けた経験によって歪んだ』という表現ができるので、単純な『性悪説』とも言いがたいわけだが、
当人たちがなんら悪気がなくともそうした「悪気なくヒトを圧する」性格を受け継いでしまい、
それを律するには『性悪説』のように後から自覚的にかつ使命的に、無理矢理にでも矯正しなければ善い道には行けないのだ。
ただ子供でも「親や大人の正義を信用できない」という事は往々にしてあり、反発して『自分で正義とは何かを模索していく』ケースもある。
いわゆる「不良」と呼ばれるような子供は正しくそれに当たり、反対に言えば「親や大人を信用しているのであれば不良的な行動を取る必要がない」。
「不良的な行動」を行うのは『自分の感性において正しいと感じることをしている』わけだが、
そこに反社会性を持つことが多いのはまず社会性への理解が足りない点と、
何よりも社会性を教えるべき大人たちが信用できず間違っているものだと感じてしまっているためだと考えられる。
いわゆる「不良」と呼ばれる個体が自然と社会へと戻り溶け込んでいくことは多いと言われるのは、
『自分自身の感覚に従って社会的な善悪の観念を身につけることができた』からである。
それを身につける事ができれば社会復帰することはそう難しくない。
ちなみに単純にドロップアウトしただけのヒト、「ひきこもり」と呼ばれる個体などが社会へ復帰することにはまず
『社会的な善悪の観念の上書き』が必要であると言える。普通の社会的な正義の感覚を持っているなら、ひきこもる理由がまず無い。
ひきこもる状態に陥る主な内因は「自分が外の社会に出ることは不適切である」というような感覚を抱え込み、
反対に言えば「出ないことが正しい行為であり、出ることは間違いである」という状態に陥っているものである。
何かしらそうした偏屈な正義感を抱え込んでいるためであり、例えそこから無理やり引きずりだしたとしても、
その感覚を変えることができなければ強い不快感、あるいは不満感を抱え込み、良くない行動を起こしかねない。
ただそうした正義感を抱え込む外的要因は特定することは難しいほど、社会には反社会的な正義感が溢れている。
例え反社会的な正義感を持っている人間であっても、犯罪にさえされなければ「そうでない人間」として扱われている。
現代社会においては残念ながら細かい反社会的行為については大抵非常に曖昧な扱われ方をされてしまうものであり、
やっている当人たちは「正しいこと」だと信じて疑わないのなら例え咎められたとしても、咎める相手の方を「悪」だと認知する。
いじめやら細かい問題などなどもそうである。
17.宗教は原始的な『正義の感覚の教育手段』である。
ヒトの『正義欲求』は論理性などではなく感性によって動くものである。
ゆえに「なんとなくその方がいい」という感覚も『正義欲求』への働きかけとして機能しうる。
その原始的な手法が『上位の存在』、神さまなり仏さまなりご先祖さまなり、そうしたモノを裏付けとした教育である。
そうして道徳や規範の観念を広く教育する手段として、そうしたモノを主とした宗教が形成されたとも言える。
現代社会においては『相互的な合意による規則』として法律などが運用されており、
それ自体が正義の根拠として扱われているが、それでもなお遵守するヒトばかりではない。
ましてそうした保証の存在しない時代においてはより悲惨なものであったのだろうと想像するに難くなく、
感覚的であろうが守るべきものを示すことができる宗教は重要な役割を果たしていたものと考えられる。
宗教の目的とは「より望ましい正義の感覚を持つこと」とも言い換えられるだろうし、
現代においても『正義の感覚』を教育する手段として宗教的なものはよく用いられる。
「正しいことをしたいと願う迷える子羊たちをかどわかしていいように動かす」なんてこともあるくらいに、
ヒトにとって「正しいことをしたい」という『正義欲求』は小さくないものなのである。
18.寛容さは正義の感覚と、それに対する自信によって生まれる。
些細なことに対しても悪いものだと動物的に噛み付くタイプのヒトと言うのは概ね
「正義感は振り回してもよい、という感覚」や「守るために振り回さなければならない、という感覚」を持ち、
過剰な反応を示している状態にある。「そうしなければ自分を守れない」という感覚の環境に育ったのかもしれない。
反対によほどのことがなければ攻撃性を示すことはなく、落ち着いた態度をとれるヒト<と言うのは概ね、
「そもそも些末なことは正義の感覚にも引っかからない、という感覚」や「動物的な感情に身を任せてはいけない、という感覚」を持ち、
元々鈍かったり、一々怒っても不毛であるといった感じである。
なお仏教の一種などでは意図的に、自覚的に攻撃性を抑える訓練を行うものもあり、
こうした欲望のコントロールを自身で行うことが不可能というわけではない。
ただそれにはそうした事への意欲、それを正しいと思う感覚がなければ身につけようとすることはまず無い。
18.性欲は正義の感覚へ侵食することがある。
性欲やそれに関連する本能、恋愛感情などは正義の感覚を塗り替えうる強さがある。
そうした感情から反社会的な行為に走ってしまうことははるか古来から現代に至るまで、列挙に暇がない。
単なる性犯罪に限らず浮気に不倫などの不純と扱われる行為にストーカー。
特に社会性に欠けた正義感を持つ個体では恋愛感情によって使命的に反社会的行為に手を染めることがある。
反社会性を自覚しながら止めることができなかったり、
あるいは反社会性の自覚すら無く正しいことだとすら言ってのけることもある。
他の本能や快感などなども同様の性質を持ちうるが、性欲関係が強い欲望であるためそうした問題が起こりやすい。
ただなぜそうした性欲関係や恋愛関係の感覚が正義の感覚を侵食してしまうのか、
といえばヒトがいわゆる動物の一種だからである。
生物が種を安定して保存するためにはある程度の繁殖が必要である。
そしてその繁殖活動は偶発的に起きるのを待ったりするのではなく「本能的に種を残すように動く」ようにプログラムされていなければ、
安定的な繁殖、種の安定的な保存ができず遠からず滅んでしまう。
だからこそ高度な知性を持ちうるヒトという種族であっても、種の本能として『性欲・恋愛』に対してはなるべく優先されていなければならず、
時には強い理性を持った固体であっても性欲に流されてしまう、ということは十分にありうる。
固体によって『性欲・恋愛』の強さには程度があり、またそれに抑圧的な正義の感覚を持っていれば安易に流れてしまうわけではないのだが、
性欲の快感、性行為の誘惑は非常に強力でそうした抑圧的な感覚と対等以上にせめぎ合い、塗り替えてしまいうるものなのである。
もちろんこれが社会的に妥当な恋愛であれば社会的にも良い状態ではある。
だがしかしどちらかのあるいは両方の『正義の感覚』に社会性が欠けている場合は、
その過程において反社会性の発露をためらわないなど、とても危うい関係になってしまいうるのだ。
19.「社会的な正義」とは、ヒト同士の相互的な合意によって形成されるものである。
極端な例を言うのであれば、仮に『上位の存在』、神のような存在が反社会的な行為、
例えば非人道的な殺人やら性行為の強要などを『正しい』と定義したとしても、
ヒトがそれを認めなければ「ヒト社会にとって正しいことにはなりえない」。
どれだけ偉い立場のヒトが物事を決めたとしても、それを認める他のヒトが居なければそれが運用されることはない。
反対に言えば、それを認める他のヒトが大勢いれば例え間違っていたとしても、「社会的には正しいこと」として扱われうる。
「社会的な正義の感覚」とはそうした事を許容できることであり、寛容で柔軟な感覚のことである。
「自分は絶対的に正しい」という感覚はそれが社会的な正義に適っていても少なからず独善的なものであり、危険性を孕んでいる。
正義の感覚とはヒトそれぞれの持つ相対的な認識であると理解し、
自身の正義の感覚にも客観的な見方をできることが、「社会的な正義」のためには望ましい。
独善的な正義の恐ろしさについては歴史が証明している。
極悪な独裁であろうが凶悪な暴君であろうがその根底に存在するものは「正しい」という感覚、『正義欲求』であり、
その『正義欲求』は大なり小なり誰しもが持っていて、社会をより良い方向へと導くものと全く同じものなのだと。
2016/5/24 Andil.Dimerk
2016/05/31 Andil.Dimerk
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